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学校

2024年12月29日 (日)

修道中学校職員生徒慰霊碑

日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースに接して以降、何人もの被爆者の皆さんのことを思い出しました。

その一人が近藤幸四郎さんです。近藤さんは、1974年の広島被爆者団体連絡会議発足に尽力し、その後亡くなる2002年まで、事務局長を努められました。私が接した多くの被爆者の中で、もっとも身近で,もっとも多くのことを教えていただいたのが近藤幸四郎さんでした。写真は、2001年12月6日の写真で、近藤さんのお気に入りの一枚で,小澤こうさんの写真集「2002ひろしま」の巻頭に掲載されています。

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1945年4月修道中学入学した近藤さんも、連日「学徒動員」にかり出されていました。8月1日から10日間の予定で、広島市役所裏の雑魚場町で建物疎開に従事していた近藤さんですが、作業効率が低下した生徒の姿を見かねた担任の先生が5日の作業終了後「疲れているから明日はゆっくり休め」と言い渡され、原爆が投下された8月6日は、自宅近くの御幸橋で友人と遊ぶことになり、命を奪われることから免れました。

前々から訪ねようと思いながら実現していなかった近藤さんが修学していた修道中学(現在の修道高校)の「修道中学校職員生徒慰霊碑」をこの機会に訪ねようと,学校が冬休みになった27日に中区南千田西町にある修道高校に行ってきました。

学校に着くと、許可を得なければと事務所を訪ねました。応対していただいた事務員さんから、予想もしなかった返事が返ってきました。

「今、修道学園創設300周年事業として本館建て替えなどの工事をしているため、わたしたちも慰霊碑に近づくことができないのです。」

そして、示されたのが「修道学園同窓会会報第90号」でした。

そこには、本館建て替え工事のための「慰霊碑」を移設させた時の写真やきれいに整備された広場の完成予想図が、掲載されています。

慰霊碑の移設は、4月19日から6月26日までに執り行われたようです。

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完成後の広場の中心に慰霊碑が建っています。

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「来年10月には、整備が終了しますので、あらためてきていただけませんか」とのこと。

残念ですが、今回は慰霊碑への参拝はあきらめるしかありません。

あきらめて事務所から外に出ると、向かい側に工事用の資材の間に慰霊碑の上部が見えます。作業の邪魔にならないよう遠くから写真を撮りました。

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蔵のような建物の左側に慰霊碑が写っています。

今回この碑を訪れようと思ったのは、近藤さんのことを思い出したことの他にもう一つ理由があります。

11月に開催された紙屋町シャレオ古本まつりで「修道学園史」を購入していたからです。「修道学園史」には、「動員・原爆」の項があり,約40ページにわたって詳細に記述がありますので、この本を手に訪れたいと思っていたからです。

「修道中学校職員生徒慰霊碑」めぐりは、学校整備が終わった来年10月頃に改めて行いたいと思います。

「修道学園史」に書かれた被爆の被害の実相はその時に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2024年12月19日 (木)

日朝友好広島県民の会2024年度総会

日朝友好広島県民の会は、2024年度総会を18日午後6時から広島留学生会館で開催しました。

総会は、森崎賢司幹事(広教組)の司会で始まり、高橋克浩共同代表が、この一年科の取り組みへの協力に感謝した後「朝鮮学園を支援する人たちの活動を描いた映画『声よ集まれ』が間もなく完成します。この映画の上映活動を通じて,朝鮮学園への支援を強化したい」と開会あいさつを行なった後、大瀬敬昭事務局長事務局長が活動報告、次年度活動方針を提案しました。

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活動報告は、「3月13日に行なった廿日市市への朝鮮学校の生徒も「宮島訪問税」免除の対象とするよう要請7月3日から7日までの5日間旧日銀広島支店で開催した「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』広島展」11月に開催された「金剛山歌劇団広島公演」を広島朝鮮初中高級学校支援のためのチャリティーコンサートとして 位置づけ取り組んできたこと無償化裁判を闘った全国の弁護士が集まって11月9日に広島で開催された「朝鮮学校を支援する全国弁護士フォーラム 2024IN 広島」を成功させるための協力」について報告されました。

次年度方針としては、「日朝国交正常化の実現をめざし、朝鮮民主主義人民共和国に対する全ての制裁措置を直ちに解除し、対話再開のための道を開くよう、全国の運動に結集し日本政府に対する働きかけを強化します。朝鮮学園への「高校無償化」の適用、補助金の再開、物価高騰対策補助金適用対象を勝ち取るため、支援行動への参加、情宣活動・署名運動等を通じて、政府・文科省、広島県・広島市に対する取り組みを強化します。広島朝鮮初中高級学校における民族教育諸活動を財政面から支援できるよう、「民族教育連帯基 金」(別称「広島朝鮮学園支援県民基金」)の協力呼びかけ、チャリティーコンサートなどのカンパ行動に引き続き取り組みます。在日朝鮮人に対するあらゆる差別・偏見を許さず、在日朝鮮人の民主的民族諸権利を擁護するための取り組みを継続・強化します。」とする活動方針が提案され、全体の拍手で承認されました。また、12月広島県議会で採択された宿泊税も非徴収の対象から朝鮮学園が除外されている問題についての取り組みを具体的に進めることも確認されました。

その後、会計報告、予算さらに足立修一(弁護士)、高橋克浩(広島県平和運動センター)の共同代表をはじめ、役員体制提案され承認され,総会は終了しました。

総会終了後、11月12日に開催された「金剛山歌劇団広島公演チャリティー」で集まったカンパ金124万6千円の目録が、高橋克浩代表委員から広島朝鮮学園朴志晙(パク・チジュン)校長に贈呈されました。

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総会終了後は、例年その時のテーマに沿った講演を行なってきましたが、今年は少し趣向を変え、数年前から福岡朝鮮歌舞団と共に活動を続けている広島朝鮮歌舞団の活動を支援する意味も込めた両歌舞団による公演が行なわれました。

福岡から駆付けた3名と広島の1名、計4名による歌、踊り、仮面舞踊が演じられました。

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イムジン河、アリランと赤とんぼの歌、さらにこの公演のメインである仮面舞踊朝鮮の昔話「三年峠」が、コミカルに演じられ、会場から大きな拍手が起きました。そして、最後は出演者の指導の下、朝鮮舞踊の一部の振り付けを参加者全員が演じて、公演は終了しました。

今後、日朝連帯活動の中で,広島・福岡朝鮮歌舞団の公演をやりたいとの声も会場から上がっていました。

いのちとうとし

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2024年12月16日 (月)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

広島国際会議場地下2階サクラで開催されている「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」に行ってきました。

広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒が、2007年から毎年、被爆体験証言者とともに原爆被害の実相を後世に伝えるために取り組んできた作品は、207点となっているそうです。

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今年夏にも開催され、その時も見に来ていますが、日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースの中で、箕牧智之さんのインタビューの時に何度か基町高校生が描いた画が写っていましたので、もう一度見てみたいとの思いもあって、会場を訪れました。

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今回の展示は、今年完成した作品とこれまでに制作された作品の中から,逝去された証言者の絵が展示されていましたので、残念ながら箕牧さんの証言をもとにした絵は展示されていませんでした。

しかし、全部で42枚展示された「原爆の絵」は、いずれも当時の状況を再現しようという思いが伝わる作品でした。

会場を入ると最初に、今年完成した作品が並んでいます。

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新作の一枚に「黒い雨」を題材とした作品もありました。

タイトルは「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射性物質を含んだ危険な雨とも知らずに」です。

ここにその作品を紹介しようと思って写真を撮ったのですが、額のガラスに私の姿があまりにもはっきりと映り込んでしまいましたので,紹介を断念します。

亡くなった被爆者の中には、李鐘根さん、松原美代子さん、兒玉光男さん,中西巌さん、岡田恵美子さん。・・・何人も私のよく知った人の名前がありました。

絵画に添付された「描いた場面の説明」「生徒のコメント」そして「被爆体験者のコメント」じっくりと読むことによってより描かれた情景に思いをはせることができます。

高校生のよって描かれた「原爆の絵」は、これまでの被爆者の証言活動の大きな力になったと思いますが、これからも被爆の実相を伝えるための役割を果たし続けてくれるに違いありません。

すでに12月中旬になっていますが、会場を出ると寒空の中でしたが、今日も修学力生の姿がありました。同じ高校生、時間があれば「原爆の絵画展の会場にも行ってほしいと強く思いました。

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会期は、24日(最終日のみ16時、それ以外は17時まで開場)までです。一人でも多く開場に足を運んで欲しい絵画展です。

いのちとうとし

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2024年10月 1日 (火)

就職差別の撤廃を!

就職差別は、「同和対策審議会答申(1965年)」において「これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である」と指摘されているように、すべての子どもたちの進路を保障する上で重大な課題です。201612月、「部落差別解消推進法」が施行されました。部落差別を解消するための施策を早急に具体化していくことが国や地方自治体に求められています。

1973年、差別的な項目を除外した「全国高等学校統一応募用紙」が制定されたことは、部落解放運動と同和教育のとりくみによる大きな成果です。しかし、いまだ、身元調査をはじめ、不適切な応募用紙の書式や面接での質問等、課題はあとを絶ちません。20234月の連合「就職差別に関する調査」の結果からも、今なお差別につながるおそれのある事象が少なくないことや、面接官が聞いてはいけない質問についての認識も深まっていないことが、改めて明らかになっています。

部落解放広島県共闘会議は毎年、広島労働局長、県知事、県教育長宛に要請書を提出し、すべての人に就職の機会均等を保障するため、就職差別撤廃に向けたとりくみ強化を求めるとりくみを行っています。今年は710日に行いました。

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労働局への要請の中で、2023年度、高卒の求人に係る違反事象(不適切質問等)が県内で7件あり、その全てが県外の高校生からの提起であることがわかりました。高校生が、何が差別かを知らなければ、課題提起ができません。広島の企業を受験するのは県内の高校生が圧倒的に多いはずであり、県内の学校で就職差別に係る学習や不適切な実態を把握するとりくみ、その前提となる教職員研修がなされていないことが要因と考えられ、教育行政の責任は大きいと言えます。

広島県にも「不適切な採用選考」に対する公的なしくみ自体はありますが、実際には受験報告書等を用いて就職差別に係る課題を把握するとりくみが行われていません。

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受験報告書により、面接での質問内容や提出物における不適切な実態を確認することが必要です。(↓は厚労省のものに広教組注釈)

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今後も、この課題を多くの方に知ってもらい、就職の機会均等を求め、とりくみをすすめたいと思います。

よりのぶ

参考資料

厚労省「公正な採用選考特設サイト」

https://kouseisaiyou.mhlw.go.jp/

連合「就職差別に関する調査」

https://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20230531.pdf

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2024年9月16日 (月)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その3

ところで、「広島原爆戦災史第4巻」の記載で、もう一つ気になることがありました。

それは、動員先の一つ「貯金局」です。所在地は千田町、教職員は3人、生徒は3年生175人と書かれています。これを見たときは、「あー千田町にあった貯金局か」と思ったのですが、ネットで情報を探していると、1998年8月1日付け中国新聞に掲載された「被爆体験記 残された教師の誓い」とタイトルのついた東岸(ひがし)初江さん(当時74歳)の記事がヒットしました。この東岸さんの体験記には、次のような記述があります。

「女専(広島女子大)を卒業して進徳高女(進徳女子高)に勤めましたのは、昭和十八年です」。「戦時下の新人教師は、国の学徒動員令により一九四五(昭和二十)年春から十四、十五歳の生徒たちを引率して、広島市中区の福屋百貨店七階の広島貯金支局に出た。爆心からわずか〇・七キロ。」

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被爆後の福屋百貨店 左側の建物が旧福屋と思われる

広島原爆戦災史では、動員先は、千田町の「貯金局」となっていますが、東岸さんの体験記では、「福屋百貨店七階の広島貯金支局」で被爆したと記されています。中国新聞の記事中には、東岸さんは、「被爆後間もなく書き留めたメモをもとに被爆5年後に体験記を書いた」と紹介されていますので、この記述には間違いがないと思われます。

「福屋百貨店に貯金局があった」という話しは、以前聞いたことがありましたので、この記事に疑問は感じませんでした。

今度は、広島原爆戦災史第3巻を開き、貯金局のことを調べました。被害一覧の「広島貯金支局」は、所在地が市内千田町となっているだけで、福屋百貨店の名前はありません。

しかし、「被害惨状」の中には、「貯金支局分室の被害」として次のように書かれています。「一方、八丁堀の福屋百貨店にあった分室は、向かいの旧福屋建物内にあった消防署保管のガソリンが真っ先に着火して・・・・七階にいた分室の振替貯金課の職員は、大部分脱出することができたが、逃げ遅れて二人の学徒は火と煙に包まれて焼死し、・・・。この避難の途中においても職員の多数が死んでいったが、この中には女子動員学徒20人が含まれていた。」

この記述には、進徳高等女学校の名前は書かれていませんが、女子動員学徒が、同校の生徒だったことは間違いありません。逃げ遅れた二人を含めた20人の犠牲なのか、避難途中だけで20人なのか判然としませんが、20人が犠牲になったことは間違いないようです。

電話局にしても福屋百貨店にしても鉄筋コンクリート造りの建物だったことが、少しでも犠牲者を少なくすることに役立ったのではと想像しています。

この他にも関係する資料はないかと探して見つかったのが、平成10年(1998年)に発刊された「進徳学園90年史」です。

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この中には、何人かの被爆体験記が掲載されていますが、その中に福屋百貨店の貯金支局分室に学徒動員され被爆した沢田スミ子さん(旧姓沖本)の「悪夢の中をさまよいて」という手記があります。

犠牲者数などについては触れられていませんが、進徳高等女学校の学徒動員先の貯金局が、福屋百貨店にあった分室だったことが間違いないこと確認できました。

最後に参照した「進徳学園90年史」の次の内容を紹介して、「進徳高等女学校の原爆犠牲者」を終わりにします。

その一つは、同校の原爆犠牲者数についてです。同書の57から58ページにかけて次のように記載されています。

「この原爆投下により、被災死亡者は、職員10名、生徒405名計415名、重軽傷者は職員8名、生徒382名の甚大な被害を受けた。(注)原爆死亡者数415名は、平成6年10月に開催された原爆50回忌追悼法要に因んで再調査した結果の被災者数で20年3月に卒業した女子挺身隊の犠牲者と思われる数名が含まれている。当初公式に発表されていた職員11名、生徒374名を上回っているが、その後行方不明者などの死亡が確認されるなどで、その数が増加してきた。」

もう一つは、慰霊碑の移転についてです。同書の196ページに、学校の整備に伴って、昭和38年(1963年)、昭和63年(1988年)の2度移転が行なわれ、現在地にいたったことが記されています。12日に紹介した「原爆の碑ひろしまのこころ」の初版は、1976年(昭和51年)8月1日(12日の原稿では、1980年代発行としていましたが、それは再発行された日付でした)ですので、最初に建立された碑の様子が紹介されていたということになります。

「進徳高女慰霊碑」訪問記から始まったこの連載は、これで終了ですが、今回も原爆被害の実相を知ることの難しさを学ばされました。

いのちとうとし

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2024年9月14日 (土)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その2

「廣島原爆誌」

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125ページには、「2,職員の被害状況」〔死亡者数〕として、数の一覧表が掲載されています。

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この表は、右から職員、挺身隊員、学徒の順にそれぞれ在局者、非在局者ごとに死亡者数、生存者数が集約されています。

ここでは、学徒、つまり進徳高等女学校の生徒について見ていきます。

まず気づくのは、170名の生徒の内、被爆当時当時電話局にいた生徒は、134人だったということです。残りの36名は、交代制で働いていたためだと思いますが、自宅にいたようで、全員生存となっています。

ここで不思議なのは、引率の2名の教職員については、触れられていないことです。広島原爆戦災史第3巻のP.241には、電話局の項に「家屋疎開や応召などで要員が減少し、挺身隊の24人、進徳高等女学校の生徒170人〔引率教師2人〕の派遣を得て業務を運行していた」とここでは、( )書きですが、引率教師が2人いたことが記載されています。なぜ「廣島原爆誌」には、引率教師2枚が記載されなかったのか、疑問が残ります。

「職員の被害状況」に戻ります。

これによると、電話局にいた生徒134名は、76名が死亡し、58名が生存したとなっています。

やはり、爆心地から近距離だった電話局で働いていた生徒の中に、多くの犠牲が出ていることがわかります。

この「廣島原爆誌」には、次のページから「死亡者名とその死亡状況」が、12ページにわたって、犠牲者一人一人「名前、年齢、官職、罹災場所、死亡月日、死亡場所、死亡状況」の順で掲載されています。

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進徳高等女学校の学徒動員者の死亡者も、一人一人について4ページにわたって掲載されています。電話局の職員でもない学徒もよくここまで調べたものだと思うほど詳細に記載されています。

ただ、掲載されている名前を何度も数えたのですが、76名の死亡者の内、67名しか記載されていません。調査しきれなかったのでしょうか。その67名の最初に、76名には含まれていないと思われる引率の教員2名の名前があります。野口友子先生と脇田千代子先生です。野口先生は「8月6日即死」、脇田先生は「8月31日不詳」となっています。いずれも21歳の若さです。生徒の死亡場所には、「豊田郡南生口村」や「双三郡十日市町」など遠方の地名も幾つか目につきます。「南生口村」で亡くなった中黒敏子さん(15歳)の死亡日は8月31日、「双三郡十日市町」(現三次市十日市町)で亡くなった横山幸江さん(16歳)の死亡日は9月1日となっています。二人は、なんとか自宅に帰り着いて亡くなったことが想像できます。

電話局での死亡者76名中氏名がわかっているのは67名など、調べれば調べるほど疑問が出てきますが、その疑問を解決する道は、残念ながらいまはありません。

進徳高等女学校の生徒たちが被爆した広島電話局の建物は、今は建て替えられていますが、私が、労働組合の役員をしていた時代には、現役として使われており、その一角に組合事務所があったため、何度も足を運んだ強い思い出のある場所です。

電話局の被災状況については、かなり詳しいことがわかりましたが、実は調べている内にもう一つ気になることが出てきました。

それは、「貯金局」への動員ですが、長くなりそうですので、次回16日につづきを書きたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月13日 (金)

進徳高等女学校の原爆犠牲者

昨日のブログで、「資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。」と書きましたが、もう少し詳しい様子が知りたいと思い、いつものように広島原爆戦災史第4巻を開きました。

進徳高等女学校の「被爆の惨状」として次のように記載されています。

(一)校舎の被害状況-全壊全焼

当校は、爆心地から南南東約1.4キロメートル離れたところにあり、原子爆弾炸裂により、全校舎が壊滅し、約一時間半後には、隣接の民家と同様に大火災となり焼失した。

(二)人的被害について

即死者   教職員 10人 生徒約398人

重軽傷者  教職員  8人 生徒362人

行方不明者 不明

6日の朝、登校中であった二年生は、疎開場所や作業に関する割り当て、注意事項などを聞いてから、作業場へ出発する予定であった。原子爆弾炸裂時には、ちょうど生徒たちが校庭に集合しつつあった時で、強烈な熱戦と爆風によって、全身を火傷した者、吹き飛ばされた者、倒壊校舎の下敷きになって死んだ者、あるいは、救いを求める声などで、一瞬、阿鼻叫喚の地獄と化した。当時の責任教官は10人であったが、8人が即死し、2人は重症のまま動けず、生徒たちを救出したり、避難の指示を与えたりすることなど、まったくできなかった。

この絶望的な惨状の中から、自力により、数人の者が、かろうじて脱出できたのである。

まず南竹屋町にあった学校の位置を確認したいと思います。安芸書房が復刊した「昭和14年の広島市地図」にその名前が見えます。

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見え難いのですが、広島文理科大学大理学部のすぐ北東部で、左横にたどると市役所があります。

当時の校舎の写真です。(進徳学園90年史より)

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ここに書かれた状況は、学校で起きた惨状だけが記載されています(また余談ですが、昨日紹介した黒川万千代編「原爆の碑 広島のこころ」には、「犠牲者の大部分が2年生で、鶴見町で疎開作業中だった」と違う被災場所が書かれています)ので、例えば、人的被害の「即死者 教職員10人」とこの文章中の8人とには差があります。

なぜ差があるのだろうかと思いながら、少し前のページを見ると、「学徒動員状況」の記載があります。

それによれば、この朝学校に集合し、建物疎開作業に従事する予定だった人数は、教職員10人、二年生339人で、作業場所は、鶴見町となっています。

その他に、「電話局 下中町 教職員2人、三年生170人、貯金局 千田町 教職員3人、三年生175人」など合計8カ所に学徒動員されていたことがわかりますが、残念ながらこの動員先での被爆状況は、記載がありません。

例えば、電話局は、現在の袋町袋町ビルですから、爆心地からは0.54kmの近さ(なぜか広島原爆戦災史では、約1.0キロとなっている)にあります。この近距離ですので、当然ここでも犠牲者が出たはずです。

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となると、広島原爆戦災史の職域の被爆状況をまとめた第3巻を調べる必要があります。

「第6項」として「広島逓信局関係各機関」があり、「被害一覧」の「広島中央電話局」の人的被害状況として、「死亡216人 負傷者243人」と記されていますが、職員や学徒動員者の内訳はありません。

ただ、施設ごとに記された「被爆の状況」の「電話局」の文中に「進徳高等女学校の生徒170人(引率教師2人)の派遣を得て業務を運行していた」との記述がありますので、ここで生徒が被爆し、犠牲者が出たことは間違いありません。電話局の人的被害は「死者216人、負傷者243人」ですから、当然進徳高等女学校の生徒のいのちも奪われたことになります。

と書きながら、そういえばと思いだした資料があります。

被爆後10年となる昭和30年(1955年)に中国通信局(私がかつて働いたことのある職場)が、被爆前後の「電気通信事業の状態」をまとめ発行した「廣島原爆誌」です。

その「序」には、「また中央電話局や電信局の犠牲者の中に、けなげな挺身隊やいたいけな動員学徒が多く含まれていることは我々の胸を打つものがある」との一文が記されています。この資料をたどってみたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月12日 (木)

進徳高等女学校(現進徳女子高校)の原爆慰霊碑

「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」で出合ったことがきっかけで、進徳女子高校にある進徳高等女学校原爆慰霊碑を訪れました。

女子高校ですので(どの学校でもそうですが)、事前にお願いの電話を入れました。

「なぜ?」ということですので、「原爆慰霊碑をめぐっているので、ぜひそちらの学校の慰霊碑も訪れたいと思いまして」とお願いすると、対応していただいた事務局長の原田さんから「明日の午前10時半頃なら大丈夫です」との了解をいただき、10日の午前10時半に国道2号線沿いにある進徳女子高等学校を訪れました。

学校に到着すると、いつも閉められている正門の内側で原田さんが待っておられました。

「大変申し訳ないのですが、電話でお話をした後、急に用事が出来、少しの時間しか対応できなくなりました。」とのことですので、すぐに慰霊碑に案内していただきました。

正門を入るとすぐのところに、進徳女子高等学校の前身である「進徳高等女学校」の「職員生徒慰霊碑」が建っています。

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上の写真の右端にわずかですが、正門が写っています。後ろには、講堂が建っています。

事前に読んだ1980年代に発行された慰霊碑を紹介する本「原爆の碑 広島の心」(黒川万千代編)には、「車の多い国道二号線沿いとわからないくらい静かな内庭に、花しょうぶの紫が美しい池に面して建つ、自然石の碑」と紹介されています。碑のまわりには池はなく、様子はずいぶん違っていますが、きれいに整備されています。

原田さんに「いつか、場所を移されたのでしょうかね」とお聞きしたところ「私がこの学校に来たには、2年前ですので、詳しいことがわかりません」とのことでした。経緯を知ることは出来ませんでしたが、学校の整備の段階で移設されたと思われます。

慰霊碑の正面には、仏教系の学校だからでしょうか「波羅蜜多」の文字が刻まれています。

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「波羅蜜多」(はらみった)とは、広辞苑によれば「現実界(生死輪廻)の彼岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈」となっています。

資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。

影になって少し見え難いのですが、碑の裏面には「昭和三四年八月建立 進徳学園」の文字が刻まれています。

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進徳高等女学校は、被爆時爆心地から1.4km広島市南竹屋町にありましたが、1946年5月10日に現在地にあった旧陸軍暁部隊用地と兵舎の転用が許可され、修築移転しています。

少し余談になります。旧陸軍暁部隊用地と書きましたが、この場所には、暁部隊の内通信隊がありました。だからだと想像するのですが、進徳女子高校と国道2号線を挟んだ北側には、旧電電公社の敷地が広がっています。私の職場、中国通信局ダータ部(現NTTデータ中国支社)のビルもそこに建っています。

話を元に戻します。碑の裏面の下側に、碑に刻み込まれたように四角な金属の板を見ることができます。

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原田さんの説明によれば「この中に死没者名簿が納められている」そうです。説明を受けなければ、見逃しそうです。

碑建立後、毎年8月6日に追悼式が行なわれていたようですが、暑さのこともあり、最近は10月20日に実施されているようです。理由は聞きませんでしたが、今年は9月20日に実施されるそうです。

原田さんの予定もあり、ここで慰霊碑の見学は終わり、お礼を言って別れましたが、気になるのは進徳高等女学校の被爆の実相です。

帰宅後、「広島原爆戦災史第4巻」を開き、調べることにしました。そこでちょっとした疑問に出合いましたので、その報告は明日にします。

いのちとうとし

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2024年9月 9日 (月)

第28回高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

9月7日、庄原市高野町にある高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が、午前10時30分から実施されました。

コロナ感染拡大の影響で中止を余儀なくされた年があるため、碑前祭名は「第28回」となっていますが、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1995年に建立されていますので、今年は30年目の碑前祭です。

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今年の碑前祭は、節目となる30年目ということで、高校生平和ゼミ、朝鮮学校からの参加者も多く、これまで私が参加した「碑前祭」では一番多い約70名が参加し実施されました。

まずたくさんのお供えが準備されました。

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碑前祭は、地元高暮の草谷末広さんの司会で始まりました。

続いて、ふるさと村高暮館長後藤信房さん、広島県朝鮮人被爆者協議会理事長韓政美(ハン・ジョンミ)さん、高校生平和ゼミナール世話人大亀信行さんがあいさつ。大亀さんはあいさつの中で、この碑が建立されるまでの歩みを紹介し、最後に「李実根先生は亡くなられましたが、過去のつながらないいまはない、そしてこのいまから未来は開けると話しておられました」と李実根さんとのエピソードを紹介しました。

続いて朝鮮側の参加者によるチェサ(朝鮮式祭祀)が行なわれました。

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朝鮮歌舞団ファンヨンシルさんの追悼舞です。

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次に高校生平和ゼミ、朝鮮高級学校生代表による若者の誓い。

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例年は参加者一人一人が献花するのですが、今年は参加者が多かったため代表による献花が行なわれました。

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最後に参加者全員で「アリラン」と「故郷」を合唱し、碑前祭は終了しました。

この地を初めて訪れる高校生が多いため、ダムの堰堤に足を運び、ダム建設のため強制連行され強制労働を強いられた人たち、故郷に帰ることも無くこの地で命を奪われた朝鮮人のことを想像しながら散策しました。

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高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭を終えた参加者は、ふるさと村高暮に移動し、1989年に広島テレビで放映された「ダムに消えた叫び・朝鮮人強制労働の記録」を制作した記者カメラマンの田森孝仁さんの話を聞きながら鑑賞し、当時のことを学びました。

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その後、恒例となっている地元の皆さん、朝鮮女性同盟の皆さんに準備していただいた焼き肉、むすびを食べながらの交流会が行なわれました。

この碑前祭を通じて、日朝友好、そして平和な社会実現のため何が出来るかを考えるきっかけになればと思います。

いのちとうとし

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2024年8月17日 (土)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

毎年、この時期に開催される「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」が、10日から28日までの会期で、今年も広島国際会議場地下2階サクラで開催されています。昨日、今年も行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、2007年から、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者と共に取り組んできた「原爆の絵」は、これまでに207点の絵が描かれています。

今回は、そのうちの57枚が展示されています。ずっと会場を回って、不思議に思ったことが一つあります。上のチラシには、「今年7月に完成した16点」と書かれているのですが、会場で「新作(今年完成)」とキャプションが付けられた作品は、19点ありました。会場には、関係者の姿がありませんでしたので、残念ながらその疑問を問うことは出来ませんでした。

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いずれにしても力作が並んでいます。私が注目したのは、3点の新作です。

うち二つは、「黒い雨」が題材となっています。並べて展示されています。

2021年の黒い雨裁判の影響でしょうか、今年初めて取上げられた素材のように思います。

額のガラスに上の照明が反射しますので、少し上から写しました。

右側は、己斐の防空壕から見えた中心部に降る黒い雨を描いています。

左側は、「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射能物質を含んだ危険な雨とは知らずー」のタイトルがついた、爆心地から北西19キロ離れた安佐郡小河内村(現 広島市安佐北区小河内地区)に降った黒い雨を描いています。

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もう一枚は、「逃げるときに見た頭のない赤ちゃん」とタイトルが付けられた田邊美羽さんの作品です。

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 当時女学校1年、12歳だった証言者大橋和子さんが、学徒動員の建物疎開作業中に被爆した後、爆心地から1.5kmの平塚町を逃げる際に目撃した「瓦礫の中、前を歩いている女の人は頭の無い子どもをおんぶして他の人たちと列をつくり歩いていた」親子を描いた作品です。

この親子の姿が忘れられない大橋さんの証言もすごいと思いますが、「おんぶされた頭のない子ども」の姿を描いた田邊さんの思いはどんなことを感じながらの作品製作だったろうかと思わずには見ることができませんでした。

絵の下に付けられた説明文の生徒のコメントには、次のように書かれています。

「最初、大橋さんの話を伺った際に、原爆の爆風で子供の頭が吹き飛んでいて首から上がなくなかったという状況に驚きました。爆風で数十メートル人が飛ばされたり、ガラスが割れたりしたことは知っていたけれど、まさか骨と筋肉と皮で繋がっている首ですら切り飛ばしてしまうほどの爆風の威力を知り、恐ろしく感じました。製作にあたって、火傷や皮膚の垂れ下がり具合、そして子供の骨を描くことが難しかったです。この絵を見て、原爆の恐ろしさ、子供の命を一瞬にして奪う残酷さを感じて欲しいです。」

大橋さんのコメントです。

「逃げる途中の一番心に残っている残酷な惨状は、79年経った今でも決して忘れることはありません。田邊さんには最初に直接お会いした後、LINEのやりとりで、ここまで再現して下さり、驚きました。言葉で表せないほど、心より感謝しています。」

改めて、高校生が描いたヒロシマ原爆の絵が持つ力を実感しながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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