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学校

2024年9月14日 (土)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その2

「廣島原爆誌」

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125ページには、「2,職員の被害状況」〔死亡者数〕として、数の一覧表が掲載されています。

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この表は、右から職員、挺身隊員、学徒の順にそれぞれ在局者、非在局者ごとに死亡者数、生存者数が集約されています。

ここでは、学徒、つまり進徳高等女学校の生徒について見ていきます。

まず気づくのは、170名の生徒の内、被爆当時当時電話局にいた生徒は、134人だったということです。残りの36名は、交代制で働いていたためだと思いますが、自宅にいたようで、全員生存となっています。

ここで不思議なのは、引率の2名の教職員については、触れられていないことです。広島原爆戦災史第3巻のP.241には、電話局の項に「家屋疎開や応召などで要員が減少し、挺身隊の24人、進徳高等女学校の生徒170人〔引率教師2人〕の派遣を得て業務を運行していた」とここでは、( )書きですが、引率教師が2人いたことが記載されています。なぜ「廣島原爆誌」には、引率教師2枚が記載されなかったのか、疑問が残ります。

「職員の被害状況」に戻ります。

これによると、電話局にいた生徒134名は、76名が死亡し、58名が生存したとなっています。

やはり、爆心地から近距離だった電話局で働いていた生徒の中に、多くの犠牲が出ていることがわかります。

この「廣島原爆誌」には、次のページから「死亡者名とその死亡状況」が、12ページにわたって、犠牲者一人一人「名前、年齢、官職、罹災場所、死亡月日、死亡場所、死亡状況」の順で掲載されています。

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進徳高等女学校の学徒動員者の死亡者も、一人一人について4ページにわたって掲載されています。電話局の職員でもない学徒もよくここまで調べたものだと思うほど詳細に記載されています。

ただ、掲載されている名前を何度も数えたのですが、76名の死亡者の内、67名しか記載されていません。調査しきれなかったのでしょうか。その67名の最初に、76名には含まれていないと思われる引率の教員2名の名前があります。野口友子先生と脇田千代子先生です。野口先生は「8月6日即死」、脇田先生は「8月31日不詳」となっています。いずれも21歳の若さです。生徒の死亡場所には、「豊田郡南生口村」や「双三郡十日市町」など遠方の地名も幾つか目につきます。「南生口村」で亡くなった中黒敏子さん(15歳)の死亡日は8月31日、「双三郡十日市町」(現三次市十日市町)で亡くなった横山幸江さん(16歳)の死亡日は9月1日となっています。二人は、なんとか自宅に帰り着いて亡くなったことが想像できます。

電話局での死亡者76名中氏名がわかっているのは67名など、調べれば調べるほど疑問が出てきますが、その疑問を解決する道は、残念ながらいまはありません。

進徳高等女学校の生徒たちが被爆した広島電話局の建物は、今は建て替えられていますが、私が、労働組合の役員をしていた時代には、現役として使われており、その一角に組合事務所があったため、何度も足を運んだ強い思い出のある場所です。

電話局の被災状況については、かなり詳しいことがわかりましたが、実は調べている内にもう一つ気になることが出てきました。

それは、「貯金局」への動員ですが、長くなりそうですので、次回16日につづきを書きたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月13日 (金)

進徳高等女学校の原爆犠牲者

昨日のブログで、「資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。」と書きましたが、もう少し詳しい様子が知りたいと思い、いつものように広島原爆戦災史第4巻を開きました。

進徳高等女学校の「被爆の惨状」として次のように記載されています。

(一)校舎の被害状況-全壊全焼

当校は、爆心地から南南東約1.4キロメートル離れたところにあり、原子爆弾炸裂により、全校舎が壊滅し、約一時間半後には、隣接の民家と同様に大火災となり焼失した。

(二)人的被害について

即死者   教職員 10人 生徒約398人

重軽傷者  教職員  8人 生徒362人

行方不明者 不明

6日の朝、登校中であった二年生は、疎開場所や作業に関する割り当て、注意事項などを聞いてから、作業場へ出発する予定であった。原子爆弾炸裂時には、ちょうど生徒たちが校庭に集合しつつあった時で、強烈な熱戦と爆風によって、全身を火傷した者、吹き飛ばされた者、倒壊校舎の下敷きになって死んだ者、あるいは、救いを求める声などで、一瞬、阿鼻叫喚の地獄と化した。当時の責任教官は10人であったが、8人が即死し、2人は重症のまま動けず、生徒たちを救出したり、避難の指示を与えたりすることなど、まったくできなかった。

この絶望的な惨状の中から、自力により、数人の者が、かろうじて脱出できたのである。

まず南竹屋町にあった学校の位置を確認したいと思います。安芸書房が復刊した「昭和14年の広島市地図」にその名前が見えます。

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見え難いのですが、広島文理科大学大理学部のすぐ北東部で、左横にたどると市役所があります。

当時の校舎の写真です。(進徳学園90年史より)

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ここに書かれた状況は、学校で起きた惨状だけが記載されています(また余談ですが、昨日紹介した黒川万千代編「原爆の碑 広島のこころ」には、「犠牲者の大部分が2年生で、鶴見町で疎開作業中だった」と違う被災場所が書かれています)ので、例えば、人的被害の「即死者 教職員10人」とこの文章中の8人とには差があります。

なぜ差があるのだろうかと思いながら、少し前のページを見ると、「学徒動員状況」の記載があります。

それによれば、この朝学校に集合し、建物疎開作業に従事する予定だった人数は、教職員10人、二年生339人で、作業場所は、鶴見町となっています。

その他に、「電話局 下中町 教職員2人、三年生170人、貯金局 千田町 教職員3人、三年生175人」など合計8カ所に学徒動員されていたことがわかりますが、残念ながらこの動員先での被爆状況は、記載がありません。

例えば、電話局は、現在の袋町袋町ビルですから、爆心地からは0.54kmの近さ(なぜか広島原爆戦災史では、約1.0キロとなっている)にあります。この近距離ですので、当然ここでも犠牲者が出たはずです。

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となると、広島原爆戦災史の職域の被爆状況をまとめた第3巻を調べる必要があります。

「第6項」として「広島逓信局関係各機関」があり、「被害一覧」の「広島中央電話局」の人的被害状況として、「死亡216人 負傷者243人」と記されていますが、職員や学徒動員者の内訳はありません。

ただ、施設ごとに記された「被爆の状況」の「電話局」の文中に「進徳高等女学校の生徒170人(引率教師2人)の派遣を得て業務を運行していた」との記述がありますので、ここで生徒が被爆し、犠牲者が出たことは間違いありません。電話局の人的被害は「死者216人、負傷者243人」ですから、当然進徳高等女学校の生徒のいのちも奪われたことになります。

と書きながら、そういえばと思いだした資料があります。

被爆後10年となる昭和30年(1955年)に中国通信局(私がかつて働いたことのある職場)が、被爆前後の「電気通信事業の状態」をまとめ発行した「廣島原爆誌」です。

その「序」には、「また中央電話局や電信局の犠牲者の中に、けなげな挺身隊やいたいけな動員学徒が多く含まれていることは我々の胸を打つものがある」との一文が記されています。この資料をたどってみたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月12日 (木)

進徳高等女学校(現進徳女子高校)の原爆慰霊碑

「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」で出合ったことがきっかけで、進徳女子高校にある進徳高等女学校原爆慰霊碑を訪れました。

女子高校ですので(どの学校でもそうですが)、事前にお願いの電話を入れました。

「なぜ?」ということですので、「原爆慰霊碑をめぐっているので、ぜひそちらの学校の慰霊碑も訪れたいと思いまして」とお願いすると、対応していただいた事務局長の原田さんから「明日の午前10時半頃なら大丈夫です」との了解をいただき、10日の午前10時半に国道2号線沿いにある進徳女子高等学校を訪れました。

学校に到着すると、いつも閉められている正門の内側で原田さんが待っておられました。

「大変申し訳ないのですが、電話でお話をした後、急に用事が出来、少しの時間しか対応できなくなりました。」とのことですので、すぐに慰霊碑に案内していただきました。

正門を入るとすぐのところに、進徳女子高等学校の前身である「進徳高等女学校」の「職員生徒慰霊碑」が建っています。

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上の写真の右端にわずかですが、正門が写っています。後ろには、講堂が建っています。

事前に読んだ1980年代に発行された慰霊碑を紹介する本「原爆の碑 広島の心」(黒川万千代編)には、「車の多い国道二号線沿いとわからないくらい静かな内庭に、花しょうぶの紫が美しい池に面して建つ、自然石の碑」と紹介されています。碑のまわりには池はなく、様子はずいぶん違っていますが、きれいに整備されています。

原田さんに「いつか、場所を移されたのでしょうかね」とお聞きしたところ「私がこの学校に来たには、2年前ですので、詳しいことがわかりません」とのことでした。経緯を知ることは出来ませんでしたが、学校の整備の段階で移設されたと思われます。

慰霊碑の正面には、仏教系の学校だからでしょうか「波羅蜜多」の文字が刻まれています。

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「波羅蜜多」(はらみった)とは、広辞苑によれば「現実界(生死輪廻)の彼岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈」となっています。

資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。

影になって少し見え難いのですが、碑の裏面には「昭和三四年八月建立 進徳学園」の文字が刻まれています。

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進徳高等女学校は、被爆時爆心地から1.4km広島市南竹屋町にありましたが、1946年5月10日に現在地にあった旧陸軍暁部隊用地と兵舎の転用が許可され、修築移転しています。

少し余談になります。旧陸軍暁部隊用地と書きましたが、この場所には、暁部隊の内通信隊がありました。だからだと想像するのですが、進徳女子高校と国道2号線を挟んだ北側には、旧電電公社の敷地が広がっています。私の職場、中国通信局ダータ部(現NTTデータ中国支社)のビルもそこに建っています。

話を元に戻します。碑の裏面の下側に、碑に刻み込まれたように四角な金属の板を見ることができます。

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原田さんの説明によれば「この中に死没者名簿が納められている」そうです。説明を受けなければ、見逃しそうです。

碑建立後、毎年8月6日に追悼式が行なわれていたようですが、暑さのこともあり、最近は10月20日に実施されているようです。理由は聞きませんでしたが、今年は9月20日に実施されるそうです。

原田さんの予定もあり、ここで慰霊碑の見学は終わり、お礼を言って別れましたが、気になるのは進徳高等女学校の被爆の実相です。

帰宅後、「広島原爆戦災史第4巻」を開き、調べることにしました。そこでちょっとした疑問に出合いましたので、その報告は明日にします。

いのちとうとし

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2024年9月 9日 (月)

第28回高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

9月7日、庄原市高野町にある高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が、午前10時30分から実施されました。

コロナ感染拡大の影響で中止を余儀なくされた年があるため、碑前祭名は「第28回」となっていますが、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1995年に建立されていますので、今年は30年目の碑前祭です。

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今年の碑前祭は、節目となる30年目ということで、高校生平和ゼミ、朝鮮学校からの参加者も多く、これまで私が参加した「碑前祭」では一番多い約70名が参加し実施されました。

まずたくさんのお供えが準備されました。

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碑前祭は、地元高暮の草谷末広さんの司会で始まりました。

続いて、ふるさと村高暮館長後藤信房さん、広島県朝鮮人被爆者協議会理事長韓政美(ハン・ジョンミ)さん、高校生平和ゼミナール世話人大亀信行さんがあいさつ。大亀さんはあいさつの中で、この碑が建立されるまでの歩みを紹介し、最後に「李実根先生は亡くなられましたが、過去のつながらないいまはない、そしてこのいまから未来は開けると話しておられました」と李実根さんとのエピソードを紹介しました。

続いて朝鮮側の参加者によるチェサ(朝鮮式祭祀)が行なわれました。

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朝鮮歌舞団ファンヨンシルさんの追悼舞です。

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次に高校生平和ゼミ、朝鮮高級学校生代表による若者の誓い。

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例年は参加者一人一人が献花するのですが、今年は参加者が多かったため代表による献花が行なわれました。

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最後に参加者全員で「アリラン」と「故郷」を合唱し、碑前祭は終了しました。

この地を初めて訪れる高校生が多いため、ダムの堰堤に足を運び、ダム建設のため強制連行され強制労働を強いられた人たち、故郷に帰ることも無くこの地で命を奪われた朝鮮人のことを想像しながら散策しました。

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高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭を終えた参加者は、ふるさと村高暮に移動し、1989年に広島テレビで放映された「ダムに消えた叫び・朝鮮人強制労働の記録」を制作した記者カメラマンの田森孝仁さんの話を聞きながら鑑賞し、当時のことを学びました。

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その後、恒例となっている地元の皆さん、朝鮮女性同盟の皆さんに準備していただいた焼き肉、むすびを食べながらの交流会が行なわれました。

この碑前祭を通じて、日朝友好、そして平和な社会実現のため何が出来るかを考えるきっかけになればと思います。

いのちとうとし

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2024年8月17日 (土)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

毎年、この時期に開催される「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」が、10日から28日までの会期で、今年も広島国際会議場地下2階サクラで開催されています。昨日、今年も行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、2007年から、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者と共に取り組んできた「原爆の絵」は、これまでに207点の絵が描かれています。

今回は、そのうちの57枚が展示されています。ずっと会場を回って、不思議に思ったことが一つあります。上のチラシには、「今年7月に完成した16点」と書かれているのですが、会場で「新作(今年完成)」とキャプションが付けられた作品は、19点ありました。会場には、関係者の姿がありませんでしたので、残念ながらその疑問を問うことは出来ませんでした。

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いずれにしても力作が並んでいます。私が注目したのは、3点の新作です。

うち二つは、「黒い雨」が題材となっています。並べて展示されています。

2021年の黒い雨裁判の影響でしょうか、今年初めて取上げられた素材のように思います。

額のガラスに上の照明が反射しますので、少し上から写しました。

右側は、己斐の防空壕から見えた中心部に降る黒い雨を描いています。

左側は、「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射能物質を含んだ危険な雨とは知らずー」のタイトルがついた、爆心地から北西19キロ離れた安佐郡小河内村(現 広島市安佐北区小河内地区)に降った黒い雨を描いています。

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もう一枚は、「逃げるときに見た頭のない赤ちゃん」とタイトルが付けられた田邊美羽さんの作品です。

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 当時女学校1年、12歳だった証言者大橋和子さんが、学徒動員の建物疎開作業中に被爆した後、爆心地から1.5kmの平塚町を逃げる際に目撃した「瓦礫の中、前を歩いている女の人は頭の無い子どもをおんぶして他の人たちと列をつくり歩いていた」親子を描いた作品です。

この親子の姿が忘れられない大橋さんの証言もすごいと思いますが、「おんぶされた頭のない子ども」の姿を描いた田邊さんの思いはどんなことを感じながらの作品製作だったろうかと思わずには見ることができませんでした。

絵の下に付けられた説明文の生徒のコメントには、次のように書かれています。

「最初、大橋さんの話を伺った際に、原爆の爆風で子供の頭が吹き飛んでいて首から上がなくなかったという状況に驚きました。爆風で数十メートル人が飛ばされたり、ガラスが割れたりしたことは知っていたけれど、まさか骨と筋肉と皮で繋がっている首ですら切り飛ばしてしまうほどの爆風の威力を知り、恐ろしく感じました。製作にあたって、火傷や皮膚の垂れ下がり具合、そして子供の骨を描くことが難しかったです。この絵を見て、原爆の恐ろしさ、子供の命を一瞬にして奪う残酷さを感じて欲しいです。」

大橋さんのコメントです。

「逃げる途中の一番心に残っている残酷な惨状は、79年経った今でも決して忘れることはありません。田邊さんには最初に直接お会いした後、LINEのやりとりで、ここまで再現して下さり、驚きました。言葉で表せないほど、心より感謝しています。」

改めて、高校生が描いたヒロシマ原爆の絵が持つ力を実感しながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2024年7月 6日 (土)

「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会

昨日の中国新聞の記事を読み,「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会の会場となっている広島大学霞キャンパスの「広大医学部資料館」に行ってきました。

すぐに足を運んだのは、二つほど興味がわいたからです。一つは、なぜ初代学長の足跡をたどる展示会が,千田キャンパスではなく「広大医学部資料館」何だろうかということです。もう一つは、森戸さんが、社会党から立候補し衆議院議員となられた当時の写真はないだろうかということです。

両方ともすぐに解決しました。

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1950年から1960年代に霞キャンパスの広大病院の前で撮られて写真です。左端が森戸辰男さんです。森戸さんは、在任中の1953年に広大に医学部を設置し、その後霞キャンパスに移転させています。さらに、当時被爆者の放射能による健康被害を研究していたのが、ABCC(のちの放影研)だったことから、日本人の手で放射能による健康被害を研究すべきだと広大医学部に1961年に原爆被爆能医学研究所の設置を実現させたのも森戸辰男さんでした。広大医学部は、そんな縁のある場所ですから、この資料館での展示会の開催になったと思われます。

上の写真、もう一つの興味は、右後方に今は全て解体された旧陸軍の兵器廠の建物が写っていることです。

社会党衆議院議員時代の写真も何枚かありましたが、興味を引かれたのは次の一枚です。

 

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展示室の蛍光灯が写り込み見にくいのですが、トラックの上で街頭演説をする森戸辰男さんです。タスキが見えませんので、選挙演説ではないようです。

1946年に衆議院議員に初当選して以来3回当選を果たし、片山内閣と芦田内閣で文部大臣などを歴任されましたが、1950年に議員を辞職し、広島大学の初代学長に就任されました。

昨日の新聞でも紹介されていますが、森戸辰男さんは、日本国憲法の制定に深く関わり,特に「全ての国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について,社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という憲法第25条の生存権に関する条文を追加することを強く訴えました。

私が、森戸辰男の名前で思い出すのは、「森戸稲村論争」と呼ばれる社会党の路線をめぐる論争の一方の旗頭であったことです。この展示会では、「森戸稲村論争」の言葉はありませんが、森戸さんが、のちに民社党をつくる人たちの立場を代表する右派の論客だったことには触れられています。

その他にも,このブログでも一度紹介した((被爆復興のために贈られた広大の供木の今: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)から3回)ことのある外国の大学から贈られてきた樹木の植樹風景や書物の受け取り風景などの写真もありました。

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最後に目を引いたのは、提示物の最後にあった「広島大学史紀要 1 号」(1999年3月31日刊)に納められた「講演森戸辰男氏と広島大学 西村博」を印刷した一冊です。

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この冊子は、1998年に広島大学で行なわれた森戸さんの元秘書をされていた西村博さんの講演を文字化したものですが、いろいろと興味深い内容が記載されています。

中でも私が興味を持ったのは、森戸さんが衆議院議員を辞職するときに行なった演説です。森戸さんは、日本国憲法制定時の首相であった幣原喜重郎さんの計らいで特別に演説する機会を与えられたようです。その一節を紹介します。

「最後に、平和にとって広島は特別の意義を持っております。広島は日本一の軍都でありましたが、昨年皆さんのお力によりまして,代表的な平和都市となりました。世界的に見ましても原子力時代の世界の平和運動は、今日、ノーモアヒロシマズ,もはや広島の惨劇を繰り返すなということをスローガンとしています。かような意味で、日本において代表的な,そして今や世界的に見ても重要なこの平和都市は、それにふさわしい平和主義に立つ立派な大学を持つべきであります。かような大学をつくりたいというのが、年来平和主義とユネスコと世界連邦の運動に強い関心と努力を払ってきた私のささやかな念願でございます。」

平和主義に徹した立派な大学をつくりたいという強い思いが,衆議院議員の辞職につながり、そのことが衆議院本会議で語られたことに強い興味を持ちました。このことを知っただけでもこの展示会に来た甲斐がありました。

そして広島大学には、その精神をきちんと受け継いで欲しいと強く思いながら、会場をあとにしました。

いのちとうとし

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2024年6月13日 (木)

教科書採択に市民の声を!

 今年の7~8月にかけて、各自治体の教育委員会会議において、来年度から使用される中学校教科用図書の採択が行われます。その前に各地で展示会が開催されています。

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2024

各地の展示会日程

4年前の採択時、私は近所の中学校に見に行きました。社会科や道徳はもちろんのこと、家庭科も教科書によって「家族」の描かれ方が違い、興味深かったです。市民の皆さん、ぜひ実際に教科書を手にとり、さまざまな観点から見比べてみてください。そして、子どもたちが「人権・平和・環境・共生」を学べる教科書が選定されるよう、意見を書いてください。

意見箱の設置がなく、意見収集をしていない会場もあります。そのような会場では教育委員会に意見箱の設置を求め、併せて教科書についての意見をメール、手紙、FAX等で送ることができます。

よりのぶ

【編集者】各地の展示会の日程(上の図表)は、クリックすると拡大してみることが出来ます。して拡大して見て下さい。

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2024年5月 9日 (木)

人間らしく働きたい!

2024年419日、中教審「質の高い教師の確保」特別部会(第12回)が開催され、「審議のまとめ(素案)」が提示されました。

その内容は、「教職調整額4%を10%以上に」「主任教諭の創設」「学級担任手当」等、昨年5月の自民党特命委員会の提言をほぼなぞったものであり、私たちの望む形から大きくかけ離れたものでした。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/445f6971b0a28e3b8f13f8f7c332d28fcade6e6c

「給特法※」の枠組みを残したままである限り、教育職員の時間外労働は「勤務」とは見なされず、労務管理をされることなく「定額働かせ放題」が放置されてしまいます。

私たちは、単なる給与の増額を求めているのではなく、「公立学校の教育職員を一般の労働ルールの枠外に置くのはやめて労基法を適用し、長時間労働を解消すること」が必要です。

また、「主任教諭の創設」や「学級担任手当」は、職場の分断を招きます。これまで教育現場は、教職員全員が役割を分担し、ともに子どもに関わり、お互いの共通認識と協力・協同によって支えられてきました。私は、一部の者の処遇と権限を高め、業務を集中させること、更なる階層化に反対です。

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子どもはお国の赤子や経済発展のための人材ではなく、一人ひとりが「権利の主体」です。子どもたちが尊厳をもち、共に幸せに生きていくためにこそ、教育はあります。

この間ずっと、教職員は「労働者」である自覚を奪われ、忙殺される中で疲れ切り、一つひとつに引っかかることなく、トップダウンに従い、物言わぬようにされてきました。

物言わぬ教職員は、物言わぬ子どもたちを育てます。これは本当に怖いことだと思っています。

教育は諸刃の剣です。教職員がどう働くのか、どう学ぶのか、どう仲間とつながるのか、どう主権者として生きるのかが、そのまま子どもたちにつながります。だからこそ、教育は、教職員は、不当な支配を受けることなく、自由でなければなりません。

給特法=公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法

残業代(時間外勤務手当及び休日給)を支給せず、勤務時間内外を問わず包括的に評価して教職調整額残業代の代わりとして教職調整額を支給するという仕組み

よりのぶ

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2024年3月 4日 (月)

自己表現とは

広島県の公立高校入試で「自己表現」が導入され、2年目となりました。

広島県教育委員会のホームページによると、【自己表現は、「広島県の15歳の生徒に身に付けさせたい力」である「自己を認識し、自分の人生を選択し、表現することができる力」がどのくらい身に付いているかをみるため】に【個人ごとの面談形式で実施】し、【自分自身のこと(得意なことやこれまで取り組んできたことなど)や高等学校に入学した後の目標などについて、自分で選んだ言葉や方法で表現する】。【5分以内】で行い、【検査官は、受検者が自己表現した内容に対する補足的な質問を行う。時間は、受検者が質問に回答する時間を含め3分以内とする。】とあります。

新たな試験科目「自己表現」導入に伴い二日間で行っていた学科試験の日程も、一日で5教科すべてを実施するという非常に過密ものとなりました。

「自己表現」導入1年目だった昨年、わが子の入試と重なりました。

ごく一部の県立学校で先行していたインターネット出願が、全校になったのも昨年からです。学校では、事前に出願のテスト作業を各家庭で行わせ、できたかどうかチェックもされました。子どもたちには、試験時間に慣れるために模試を1日で行う。「自己表現」の原稿を作成する。パソコンで表現内容を作成してスケッチブックにまとめる。クラスで発表しあう。先生が検査官となり自己表現を確認する等々の指導もされたようです。いろいろな対策に多くの時間を充てることとなり、先生方には非常に負担だったのではないかと思いました。

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家では、学校から「1年目なので、どうなるのか詳しくはわからない」という声と一緒に配布された資料から「新しい入試制度WEB説明会」を視聴したり、「自己表現」で何をどの順番で伝えるかを一緒に考えました。部活動の実績もアピールできる特技もないと訴えるので、最初は「高校に入学したら何がしたいか」と、ひねり出して編み上げて取って付けたような原稿で「自己表現」をする方向でした。ほぼ原稿はできていましたが、やはり唯一好きなことについてアピールしたいと、その原稿は使用しませんでした。

いざ試験を迎え、一日目の学科試験が終了すると「非常に疲れた」と訴えながらも「白い布が欲しい」と言い出しました。意図をたずねると、「シャツに「I LOVE 〇〇」と書いた布を貼っておき、最後に見せてアピールしたい」と言います。二日目終了後、結果を尋ねるまでもなく、制服のシャツに直接布を重ねて書いたのだと一目でわかる黒い油性ペンの裏抜けがありました。

わがことが終わり一息つくと、いろいろ気になりました。

日本語が得意でない外国籍の保護者や生徒もいるのに出願の手引書は日本語版しかなかったこと。人前で発言ができない子や、ことばに不安のある子はどうしたんだろうか。受験生から聞こえてきた「自己表現の間、検査官の先生が終始無反応でつらかった」という声。「自己表現」は、指導の面でも採点の面でも中学校、高等学校、両方に非常に負担をかける試験制度だと思いました。

「自己を表現する力」は高校へ入学した後につけていけばよい力だと思います。ただ良かったと思うことは、子どもと話をする機会が持てたことです。ただそれも、それぞれの家庭状況や子どもの個性などでさまざまなのだろうなとも思います。

はたや

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2024年2月28日 (水)

「広島県立広島第一高等女学校の門柱」余話

昨日、「広島県立広島第一高等女学校の門柱」の歴史を書きながら、気になることがありました。

「門柱の歴史」の一行目に書かれていた「1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」に書かれた「広島英語学校」です。

ネットで検索する「寺田芳德『広島英語学校と宇和島』」がヒットしました。そこには、「広島英語学校」創立の歴史が次のように書かれています。

「広島英語学校は初め広島外国語学校と称し,明治7(1874)329日設置,同年 6.15日開校された。前節で述べたとおり,明治65月設置の東京,大阪,長崎外国語学校につゞいて愛知,新潟,宮城とともに設立された全国7つの外国語学校の一つであった。」さらに「文部省は明治10(1877)214,広島英語学校を愛知・長崎・新潟・宮城の各校とともに廃止して、これを広島県に委譲するに至るわけである。」 と創立の経緯が記されています。他の4県で廃止されたのに、なぜ広島だけ残ったのか?と思いますが、「当時の校長の識見と手腕が大きかった」ことが、この論文の別のところに書かれています。

ここに記された明治10年が、「門柱の歴史」に記載されていた「1977(明治10)年」に符合しますが、少し疑問に思うのは、「門柱の歴史」では、「1月」となっているのですが、「広島英語学校と宇和島」では、「214日」となっており、この関係はどうなのかは不明です。

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広島第一高等女学校の4本の門柱(「皆実友朋会アーカイブズ」より)

次に気になったのは、「門柱の歴史」の「その後広島県中学校(現国泰寺高校)」という記述です。そこで国泰寺高校のホームページを検索したところ、「学校沿革史」を見つけることができました。ここでかなりの謎が解けました。

71874) 6 官立広島外国語学校として大手町1丁目に開校。生徒120名募集、修業年限6

       12 広島英語学校と改称

101877) 2 官立広島英語学校を広島県に移管。広島県中学校と称す。これを本校の創立とする。

       7 下中町の新校舎に移る。

      11 校舎落成。

121879) 9 広島県中学校と改称。

241891) 3 本校校舎現在地(当時国泰寺村)に落成移転。

ただ、国泰寺高校の沿革史をよく見ると、「門柱の歴史」の「1877(明治10)年1月」に疑問が出てきます。広島英語学校が、下中町の新校舎に移ったのは、「1877(明治10)年7月」さらに校舎が落成したのは、同年10月となっていますから、門柱が建てられたのは、7月以降となるのではないかと思います。そして、校舎の移転とともに1891(明243月には、現在の国泰寺高校の敷地に門柱も移転したと想像できます。

こうして調べると、さらに疑問が広がります。それは「広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」の歴史です。広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから、広島師範学校の門柱として引き継がれ、広島県立高等女学校に移設されることはあり得ないはずです。

そして最大の疑問は、「広島県中学校(現国泰寺高校)」の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。国泰寺高校の沿革史では、前年の1901(明治34)年6月に学校の名前が「広島県立広島中学校」が改称されてはいますが、「校舎が改修された」などの特別の記述はありません。

やはり不思議な気がします。

古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。

いのちとうとし

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