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学校

2022年9月 6日 (火)

ヒロシマとベトナム(その36-2) 少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-2

少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-2

お金だけでなく、暖かい気持ちを貰って感謝

2019年に奨学生の故郷(少数民族村)を訪ね、保護者の方々と交流しました。暮らしの状況と①奨学金についての思い、②奨学金の使途、③子どもさんの将来の夢についてお聞きしました。

下の写真は、ケアンチン省ダックロン県ホックギン村での奨学生と保護者との交流風景です。

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◇1年生 ホー・ヴァン・ミン(Ho Van Minh)君の母(42 歳)、ヴァンキュウ族

①農業で年収1万5千円ほど。家は貧しいがHVPFのおかげで高校に行かすことができた。お金だけでなく、暖かい気持ちを貰って感謝している。②本や服を買い、残りは家のために使う。③息子の夢は軍人になり国境を守ること。軍隊に行けば政府が助けてくれる。

◇1年生 ホー・ティ・カン(Ho Thi Canh)さんの父(67 歳)、ヴァンキュウ族

村のオフィスで働いていた、月220万ドン(11,000 円)の年金で生活している。①とてもうれしいが家から遠く心配。②本や服など学校に入るため必要な物を買い、残りは娘が管理する。③娘の将来の夢は、学校の先生になること。

◇1年生 ヴォ・ティ・アン・チュエン(Vo ThiAn Thuyen)さんの母(59 歳)、キン族

①とても嬉しく感謝している。②勉強に必要な本や洋服を買い、残りは家のために使う。③娘の夢は聞いていない。

◇1年生 ホー・ティ・ヌック(Ho Thi Nhuc)さんの母(40歳)、ヴァンキュウ族

林業(造林業)の他たくさんの仕事をして月収300万ドン(15,000 円)。「主席さんの前だから余り詳しく喋るとマズイ」と言いながら話す表情は屈託なく明るい。①娘の将来が開けて、とてもうれしい。②学校の先生になりたいと言っている。③学用品や洋服を買う。

1年生 ホー・ティ・マイ・ゴク(Ho thi My Ngoc)さんの親戚の女性(31 歳)、ヴァンキュウ族

学校の教師、月収600万ドン(3万円)。少数民族村の教師のなり手が少なく、他の地域の教師よりも賃金が高いとのこと。①ゴクの父親は亡くなり、母は行方が分からない(複雑な事情を抱えている様子)。とても優しく良い子。②他の人と一緒で学用品や服を買う。③英語が得意で、将来は英語の先生になりたいと言っている。

3年生 ホー・ティ・クゥ(Ho Thi Khura)さんの義理の叔母(33 歳)、ヴァンキュウ族

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入学当初のクゥさん

幼稚園の先生、月収3万円。①クゥの両親は離婚、母は再婚し父はドンハ(クアンチ省の省都)にいる。夫がクゥの母の兄弟で自分たちが見てきた。HVPFのおかげで高校に行け、とても感謝している。②学用品やクゥの身の回りの物に使った。③英語が得意、クアンチ省の中で3番の成績。大学で英語を学び、将来は英語を生かしたガイドになりたいと言っている。

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奨学金授与式で将来の夢を語る3年生になったクゥさん(2019年11月)

奨学支援の申し込み、問合せはこちらに願いします。akatatu@d4.dion.ne.jp

(2022年9月6日、あかたつ)

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2022年9月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その36-1) 少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-1

少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-1

「第14期サポーター」募集中、ご理解とご協力をお願いします

7月、8月と「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」から離れましたが、再び戻ります。

現在、この9月入学の「第14期奨学生」20名のサポーターを募集しています。現時点17名の登録で85%の達成率ですが、昨年(13期)、一昨年(12期)と一桁台の応募にとどまり、その回復分を含め40名を目標としていますので現時点の達成率は42.5%です。

下表をご覧下さい。第13期奨学生までの260名を235名のサポーターが支援してくださいました。支援金額は年間18,000円で3カ年年、54,000円です。支援してくださっている61%が年金生活の方々、働いている世代が32%、企業や事業所・団体などが7%です。
下の表は、2009年から2021年までのクアンチ省少数民族寄宿高等学校への奨学支援「サポーター」登録の推移です。

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自らの体験を通した暖かい支援  ~悪化する暮らしと円安が支援の足かせ~

自ら戦争と戦後の苦しい暮らしを体験された方、ベトナム戦争当時に青春時代を過ごした団塊世代の方、子育てを終え同世代の子どもを持つ比較的若い方など支援して下さる方は異口同音、「暮らしは楽でないけど、少しでも役に立てたら」、「何よりも平和が大切、しっかり勉強して世界の架け橋になって」と支援金とともに熱いエールを子どもたちに送ってくださっています。

コロナ禍が始まった2020年のサポーター登録は8名、昨年は9名と定数20名を大きく割り込みました。20数年の賃上げ抑制と乏しい年金の一方、増加を続ける社会保障費。加えてコロナ禍による一層の収入減と将来不安の高まりが影響していると思います。

そして今、一斉に値上げラッシュが始まりました。

さらに、とどまることを知らない円安が奨学支援に追い打ちをかけています。昨年9月は1㌦≒110.94円でしたが9月3日時点140.14円です。30円の円安で昨年よりも21万6,000円も多く奨学支援金が必要です。

昨年、一昨年は現地での「奨学金授与式」が開催できず、クアンチ省とWebでつないだ「オンライン授与式」でしたが、今年は11月中旬ベトナムを訪れる予定です。それまでの2ヶ月間、1学年から3学年までの60名の奨学金が確保できるように取り組み進めています。

是非、趣旨にご理解いただき、一人でも多くの皆さんのご協力をお願い致します。連絡先は、明日掲載します。

(2022年9月5日、あかたつ)

【編集者】「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」は、今日明日の2回に分けて掲載します。

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2022年8月17日 (水)

新作が並ぶ「原爆の絵画展」に行ってきました。

広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、15年前から毎年、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに取り組んでいる「原爆の絵」の展覧会が、今月7日~19日までの会期で広島国際会議場地下2階ダリアで開催されています。

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今年の展覧会には、今年完成した16点の新作(うち11点は、今年7月に完成)を含む57点の作品が展示されています。

作品のスタートは、新作の「原爆の炸裂の瞬間」を描いた作品です。

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その他にも、新作が並んでします。

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左の作品のタイトルは「金庫の中で死んでいた」です。8月6日の夕方大須賀町の様子で、キャプションには、「金庫の中に入いれば助かると思ったのか。人間が炭のようになって死んでいた」と書かれています。右の作品のタイトルは「ひっくり返った貨車からコメがザーザーと流れ落ちていた」です。これも大須賀町での様子です。いずれも証言者は、早志百合子さんです。作者は、左の作品が平田真弓さん、右の作品が益田彩可さんです。お一人の証言から、二つの作品が生まれました。

切明千枝子さんの証言をもとにした新作が続きます。「お母ちゃんを探して」です。

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「つまずいたのは炭化した幼児だった」です。

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「原爆の絵」の展示方法について、7月19日のブログ「原爆の絵」原画展に行っていました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「描かれた場所ごとに展示するのも一つの方法ではないか」と書きましたが、今回の作品は、時間の経過ごとにまとめて形で展示されていました。

「原爆の炸裂の瞬間」からスタートします。「原爆の炸裂の瞬間」を描いた作品は、1点だけです。次は「原爆投下直後」を描いた作品7点。さらに「避難途中に見た原爆被害」33点と続きます。避難途中で見た原爆被害の様子が強く印象に残っているのでしょう、作品も一番多くなっています。その後「原爆投下翌日の光景」3点、「原爆投下から数日後」10点、「戦後の生活と広島の復興」3点が、順番に並んでいます。

ですから今年は、最初に紹介した作品のように所々に「順路⇒」の表示があります。

これまでに182点の絵が描かれていますが、今回展示されている作品は57点ですので、被爆体験証言者全員の証言を描いた作品が展示されているわけではありません。そのためでしょうか、これまで協力された被爆体験証言者32人全員の名前を紹介するポスター一枚も展示されていました。

毎年この展覧会を見に行っていますが、いつも見に来てよかったと思わせてくれる作品の数々です。

最終日の19日まであと三日、毎日午前10時から午後5時まで入場することができますので、ぜひ一度会場を訪れ、高校生の力作を見てほしいと思います。

いのちとうとし

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2022年8月13日 (土)

「レクイエム碑(いしぶみ)」コンサート

少し前になりますが、先月31日に県民文化センターで開催された県立観音高校音楽部OB合唱団の第19回祈念コンサート(混声合唱)「レクエム碑(いしぶみ)」に行ってきました。

ここ2年間、コロナの感染拡大で中止されていましたが、コロナ対策の準備や工夫を重ねて、この日を迎えたようです。会場は、ほぼ満席の状態でした。

県立観音高校音楽部OB合唱団は、2001年に発足し、その翌年から、観音高校の前身である旧制広島二中1年生の被爆悲劇を綴った‟レクイエム「碑」“祈念コンサートが始まり、今回で19回を迎えました。

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私が、最初にこの祈念コンサートを聞きに行ったのは、2019年です。この合唱団を指揮されている益田遙先生から誘いを受けたことがきっかけでした。益田先生は、昭和39年度(1964年度)から昭和50年度(1975年度)まで、同校音楽部の顧問をされており、このOB合唱団のメンバーもその時、指導を受けた合唱部員で構成されています。

コンサートは、二部構成で、「混声合唱のためのレクイエム『碑』」は、第2部です。

「混声合唱のためのレクイエム『碑』」は、広島に投下された原爆により全滅した広島二中の一年生の、被爆の瞬間から全滅までの惨状を、生徒たちの学校生活の様子を交え、全9章「序章、点呼、爆発、川の中で、時間割、まさちゃんのお母さんよ、船の中で、全滅、終章」で構成されています。

作詞者である薄田純一郎さん(同校の20回卒業生・昭和16年入学)は、県立広島第二中学校創立50周年(1972年)に発行された「記念誌」に寄せた手記で、「碑」が作られた経緯を次のように書いています。少し長いのですが、該当する部分を引用します。

「本川土手で全滅した一年生の様子は、機会をえて昭和44年(1969年)に勤めている広島テレビ放送で、テレビ番組として放送することができた。母校だからというのではなく、それはあの惨状を目撃した生き残りの人々が誰しも思う、広島の怒りを語りたい衝動を、一年生の行動なり言動を通して表現したかったのである。プロデューサーとして制作にあたり、全国放送のネットにものって芸術祭優秀賞もうけた。

この『碑』は、その後に児童生徒向きの本に書きあげてポプラ社から出版され、また当時二年生であった広島メンネルコールの山本定男氏の依頼で、先輩の森脇憲三氏の作曲になる男性合唱のためのレクイエム『いしぶみ』にもなった。

最近、東京、大阪大学合唱団であいついでこの合唱曲がとりあげられた。作詞者としてまねかれ、いまの若い世代が広島二中の一年生の運命をどう受け止めているかに接することができた。それは怒りであった。広島二中の一年生に象徴される広島の悲劇を痛恨としかいいようのない気持ちで感じていたのであった。生き残ったものの務めを幾分なりとも果たしたような気がするである。

聞けば、あの土手の慰霊碑は在校生によって、いつも清掃されているそうである。戦後すぐ、木の墓標が建ったことを知るものとしては心うれしいことである。青春が、学業が唯一の思い出となる時代に、こうした記憶を持つことはつらいが、それはまた青春の大切さをひしひしと胸にせまってくるものである。新しい時代には新しい力が必要である。そんな思いをこめて合唱曲『いしぶみ』の最後をこう結んだ。

子らの声聞く人あれば

広島の心が聞こえる

広島を思う人あれば

広島は永遠にあり」

男性混声合唱曲としてスタートしたこの曲が、混声合唱版として初演されたのは、1975年7月のことのようです。

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コンサートが終わると、本川土手に建つ広島二中の慰霊碑に頭をたれて、帰宅しました。

いのちとうとし

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2022年7月19日 (火)

「原爆の絵」原画展に行っていました

廿日市市役所敷地内にある「はつかいち美術ギャラリー」で、7月14日から8月14日までの会期で「第26回平和美術展『原爆の絵』原画展が開催されています。

「『原爆の絵』原画展」が開催されていることは、ギャラリーたむらに貼られたポスターで知っていました。16日に行われた「坂本千尋さんを偲ぶ会」に参列した後、近くまで来ましたので廿日市美術ギャラリーを訪れました。

はつかいち美術ギャラリーは、開館以来毎年8月を中心に、美術作品を通して平和について考える「平和美術展」を開催していますが、26回目となる今年は、2007年から広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒と被爆体験者が共同して制作している「原爆の絵」の原画を展示しています。

基町高校の「原爆の絵」は、今年新たに11点が加わり、全部で182点が制作されていますが、今回の展覧会には、基町高校の担当の先生と協議し、今年作成されたものを除いたもののうち約100点が展示されています。

私も何度か、平和公園内の国際会議場で開催された「『原爆の絵』原画展」を見に行っていますが、100点もの作品が一堂に展示された展覧会は、初めてのことです。

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会場は撮影禁止でしたので、その様子を画像で紹介することはできませんが、本格的に美術ギャラリーならではの展示となっています。

展示方法は、被爆体験者ごとに展示されています。その中で、気になった2点があります。1点は、2013年度に作成された「私が見た被爆直後の被爆者(福島川河川敷)」で被爆体験証言者は、井口健さんです。もう1点は、並べて展示された「力尽きた人々」で被爆体験証言者は、私もよく知っている朴南珠さんです。「力尽きた人々」は、2016年度に作成された作品ですが、当時の様子を記したキャプションをよく読むと、この絵も福島川の河川敷の様子を描いたものだということがわかりました。井口健さんの証言を描いた絵も朴南無珠さんの証言を描いた絵も、今回の展示では、いずれも1枚だけですので、たまたま隣あったものと思われますが、同じ場所を違う人の証言で描かれた絵を比較してみることができる展示となっています。

被爆体験証言者ごとに並べるのもよい方法だと思いますが、描かれた場所ごとに、例えば広島駅を描いたものを並べて展示するとまた別の見方ができるのではないかと感じました。

そんなことが気になり、全て見終わった後、学芸員の方にそんな感想を伝えました。

その時、学芸員から教えられた情報があります。会場に入ってすぐ目にするのは、並べて展示された「被爆前の産業奨励館」(現在の原爆ドーム)と「被爆後の原爆ドーム」の絵です。この2枚の作品を見た時、被爆体験者の証言をもとに画かれた「原爆の絵」の中になぜ「被爆前」の絵があるのかなと、ちょっと疑問を感じていましたが、学芸員の解説でその理由が分かりました。

「被爆前の産業奨励館」の作者福本弥生さんは、現在この制作を指導されている先生でした。実は、この作品以外にもう一点高校生以外が描いた作品があります。元資料館長原田浩さんの証言をもとにして描かれた「炎上する車両を切り離す職員たち」です。製作者は橋本一貫となっています。橋本さんは、基町高校で「原爆の絵」制作が始まった時、指導されていた先生だそうです。24日の午前11時からと31日の午後2時からの2回、同会場で橋本一貫先生と制作者OBによるギャラリートーク(作品解説)が実施されます。

ところで毎年8月に国際会議場の地下2Fダリアで開催される展示会は、今年も8月7日から19日までの会期で開催されます。ここには、今年完成した11点を含む約60点が展示されることになっています。ぜひ新作を見ることができるこの展示会にも行かなければと思っています。

いのちとうとし

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2022年7月 5日 (火)

ヒロシマとベトナム(その33) 少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2

-貧しい少数民族村はベトナム戦争の激戦地-

ベトナムは54の民族が暮らす多民族国家です。いわゆる一般的に「ベトナム人」と呼ばれているキン族(ベト族)が86.2%と圧倒、53の少数民族が13.8%です。主な少数民族ではタイ―族、タイ族、ムオン族、クメール族、ホア族、ヌン属、モン族の7民族がほぼ10%、残る46の民族が約4%です。

私たちが奨学支援しているクアンチ省にはヴァンキュウ族、パコ族、タオイ族、コトゥ族、ブル族、ホア族などが、ラオスとの国境に沿って延びるチュオンソン山脈に暮らしています。耕地は少なく、焼き畑農業と山あいの急斜面に植えられたパルプ材を主とした林業で得る収入は年間に数万円程度。学校の教材や学用品も乏しく村の診療所にはベッドと血圧計のほか医療器具も見当たりません。

下の写真は2009年10月、初めてパコ族の村を訪ねたときのものです。もの凄いスコールが赤土の斜面を叩き、高床式住居の下を泥水が走る中をやっとの思いで辿り着いた小学校です。好奇心と戸惑いが入り交じった子どもたちの笑顔に迎えられた教室にはドアも窓もありません。

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クランチ省パコ族の小学校 2009年10月

下の図はJICAが2012年に作成したベトナムの「地域別貧困率」を表した地図です。ちょうどパコ族の村を訪ね、奨学支援を始めた2009年の状況を示したものです。貧困率が最も低い濃い緑から、最も貧困率の高い濃い赤まで色分けしてあります。地図上の①北部国境の山岳地域ラオカイ省やディエンビエン省と、地図の真ん中辺り②に濃い赤色の地域があります。ここが「ベトナムで最も貧しい省の一つ」と言われるクアンチ省です。クアンチ省の南(地図上の③)、“ベトちゃんドクちゃん”が生まれた中部高原地域コントウム省なども貧困率が高い地域です。

ちなみに、コントウム省は1961年8月10日、米軍がベトナムで最初に枯葉剤を散布したところです。

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JIKA作成2009年当時の地域別貧困率

こうして見ると、貧困率の高い地域は少数民族が暮らしていること、そしてベトナム戦争が激しく戦われた所だということがよく分かると思います。ディエンビエン省ではなくディエンビエンフーと言えば、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。1954年にフランス植民地支配を破った有名なディエンビエンフーの戦いの地です。

そしてクアンチ省は旧南北ベトナム国境線が敷かれ、1968年に米軍を敗退させた「ケサンの戦い」、ベトナム戦争の帰趨を制した1972年の「クアンチ古城の攻防」が戦われた地です。中部高原地域もソンミ事件が起きたクアンガイ省などもベトナム戦争激戦地です。

ベトナム戦争の激戦地だった地域に暮らす少数民族を苦しめている不発弾や地雷などによる被害、2009年から10数年経た今日の少数民族の暮らしなど、もう少し「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ」を続けます。

(2022年7月5日、あかたつ)

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2021年12月29日 (水)

2021年の年末に思う

あっという間に年末です。年々1年経つのが早くなります。思い出すのが大学の講義でのある先生の「人生はレコードのようだ」ということば。つまり、人生の初め頃は針がレコードの外側をぐるりぐるりと回るので1周(1年)が長い、人生が進むにつれてレコードの内側に入っていくのでどんどん1周が短くなると。確かに最近は友だちと話をしていても、「つい、この前」が20年前、30年前のことだったりします。そんな、自分にとっては「つい、この前」だけど結構前の、初任校での話です。

初任校で1年生を担任してたとき、平和学習の中で、ある子が「その頃の子どもは、今のわたしたちみたいに、先生から戦争はいけないよって教えてもらわなかったん?」と言いました。私は「その頃は、戦争に行ってお国のために戦えと教えてたんよ」と話しながら、ぞくっとしました。そうしないと罰せられる世の中であっても、自分は本当に戦争反対と言えるのか?「昔」の話と思っていたことが今の自分に地続きであることに気づき、身が震えたのです。弾に当たって死ぬのも怖いけれど、個が大きな力に押しつぶされ絡めとられることが本当に怖いと思いました。

4校目に勤務していたとき、平和集会の最後のあいさつで校長が「平和のためにはルールを守ることが大切」と言いました。そうですか?当時のルールは「敵を殺せ」「お国のために死んでこい」と教えることでした。だからこそ、決められたことに思考停止で従うのでは無く、真実を見抜くこと、声に出すこと、声を出せない時代をつくらないことが、平和を築く上で必要なのです。

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30年前の、私に問うた子どもの顔と自分の身震いを、ずっと忘れずにいたいと思っています。

 

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2021年11月27日 (土)

「衆院選大敗」に中学校教員として思うこと

「自民党大勝」……10月末の衆院選の結果は予想外のものとなってしまった。

緊急事態宣言下、多くの国民の反対を押し切ってのオリ・パラの強行開催。開催を機に新型コロナウイルスの感染爆発を招き、入院できず死亡する自宅療養者が相次ぐ医療崩壊を招いた。内閣支持率は菅内閣発足後最低の数字に落ち込み、8月末に行われた横浜市長選では、菅前首相が全面支持した候補が落選し、立憲民主党が推薦した候補が大勝。9月初め、このまま衆院選を迎えれば、与党・自民党の大敗は確実視されていた。

ところが、その後の自民党総裁選一色の報道により風が変わったのか、衆院選後間もなくの新聞報道等には、「自民党単独で過半数の議席確保の見込み」との文字が躍った。「ウソだろ~。新型コロナウイルス感染拡大で苦しんだこの1年半や、安倍・菅政権の9年間に政府・自民党がやってきたことをみんな忘れたのか」、そう思わずにはおれなかった。

結局、自民党が議席を減らしたとはいえ絶対安定多数を維持し、さらに、改憲に前向きな日本維新の会等を含めれば改憲勢力の2/3を上回る議席を確保した。「モリ・カケ・桜」等の問題に見られる政治の私物化や、政治の信用を失墜させるウソ・隠蔽・改ざん等のオンパレードに「政治とカネ」の問題、憲法を無視して臨時国会を開催していないこと、コロナ対策における失政の数々等、自公政権にNOを突きつける材料は枚挙にいとまがない。「国民はすぐに忘れる」……いつか自民党議員が言ったこの言葉を思い出した。

さらに、ショッキングだったのは、「無党派層で自民党に投票した有権者が一番多かった年代は20代・30代」との報道だ。愕然とした。コロナ禍で、多くの人々が日々の生活と政治が密接に繋がっていると実感したはずなのに、なぜそんなことになるのか。

ふと、自分の若かりし頃を思い返してみた。その報道はまんざら他人事ではないと感じた。というのも、私は職に就くまで社会のあり様や矛盾に疑問を持つことなく、「『偉い人』たちは自分たち(国民)を守ってくれている」的に「平和」に生きていた。批判的に社会を見るとか、実相に迫るとかまったく思ってもみなかった。その報道内容について自分自身の被教育体験や生育歴を下敷きに考えた時、学校教育のありようが大いに関わっているのではないかと思えてならない。

本来、学校は、市民社会の中で様々な人たちと共に生き、憲法の理念を実現するために、平和や人権を尊重する、一人ひとりが大切にされる社会を築く力を身につけていくための場だが、現実にはそうはなり得てはいない。多くの学校では、権利を教えずに義務を教える。また、個より集団を重んじる学校文化を基盤に、子ども一人ひとりの実態や思いを考慮することよりも、事細かにルールや約束事が決められ(校則のみならず無言掃除に無言給食、授業中の座る姿勢や挙手の際の手の挙げ方、個人用ロッカーの整理の仕方等)、いろいろな場面で「同調圧力」によってその「枠」に入ることが強要されている。部活動においても、「縦社会」の中で自分の思いを封印することを学ぶ。本来であれば、自分たちで決める民主主義の実践の場である児童会・生徒会活動も、教職員集団の「下請け」機関との感は否めない。その日々の積み重ねの結果、子どもたちは目の前の現実に疑問を持つどころか、ルールに従うことを良しとし、「思考停止」状態の中で何も言おうとしなくなる。

多くの若者がこのような学校生活を経て有権者になるのだから、体制に疑問を持つはずもなく、現状を「従順に」容認する結果、「自民党支持」を選んだとしても何ら不思議ではないのかもしれない。

まずは、教育現場に民主主義をとり戻すことから始めよう。主権者である国民が、権力者に全てを委ね、何も考えなくなってしまったら国民主権は成り立たなくなり、民主主義は実現しない。学校教育の責務は、賢明な主権者を育てることであるので、学校教育の場に、教職員や子どもたちが自分で考え、判断し、行動できる土壌をつくり直していくことが全ての出発点のように思う。また、そのことと併せて、民主主義のしくみはもちろん、主権者として判断し権利を行使することを見据え、人権教育や平和教育を通して現実の社会の問題について子どもたちと考えを深める機会をつくっていく必要がある。

「選挙に行っても何も変わらない」との若者の声を聞くたびに、教員として責任を痛感する。「憲法を守るのは権力側。権力側がきちんと憲法を守っているかをチェックし、守られていな時は『退場』してもらう。そして、憲法を守る政権を選ぶのが選挙の目的である。国民が権力側によってコントロールされるのではなく、選挙等の機会を通じて、国民が権力側をコントロールしていかなければならない。自分の頭で考える主権者の育成は学校の責務である」……10月に参加した楾大樹さん(弁護士)の憲法学習会でそう学んだ。

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≪楾大樹さん著書の挿絵より≫

ライオンは「国家権力」を、檻は「憲法」を表している。ライオンを檻の中に入れて、いつも監視しなければならない。

 

広教組憲法学習会「檻の中のライオン 檻を壊すライオン」2021.10.23

https://youtu.be/zJ0MWMpU8F8

学校教育の場において、このことが確実に子どもたちに理解されていけば、選挙をめぐる風景も変わっていくのだろう。また、そのことが憲法第12条で謳われている「憲法が国民に保障する自由及び権利は、不断の努力によって保持しなければならない」 につながっていくことにもなるはずだ。

政治の主人公は政治家ではなく、主権者である私たちなのだ。「自分で考え選択し、今や未来を自分自身で変えていくことができる」……子どもがそう希望を持てるよう、学校教育でできることにとりくんでいこう。今しっかり小さな種をまくことが、やがて真の民主主義の大きな花を咲かせることにつながると信じて。

<未来のそら>

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2021年11月 3日 (水)

天満小学校のプラタナスの歴史

先月25日に行った「古本まつり」で、気になりながらも購入しなかった本があったことを、29日のブログで紹介しましたが、その本は広島市立天満小学校の「創立百周年記念誌 てんま」でした。

その場でパラパラとページをめくると、昨年5月29日のブログ「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」-天満小学校の原爆の絵第6号碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介したプラタナスが、「なぜ学校のシンボルとなったのか」などが詳しく記載されていました。

最初に目にしたのが次の文章です。

「プラタナス(PTAの新聞)の創刊号に、名づけ親の神崎竹千代さんはこう書いています。『私は学校に出入りするたびにいつも思う。戦前も常に子どもとともに明けくれ、夏にはいこいの日陰をあたえ、いく度か6年生を送り、1年生をむかえたプラタナスのことを。原爆により焼け出されてから私は、あのなつかしいプラタナスはもうだめだと思ったが、校舎の仮建築が終わり、本建築も一部出来上がり、昔の天満校に一歩一歩近づきつつある時、あのはだかになったプラタナスも自らの力で復活し、今は青々として子どもの作文に仲間入りし、画題となり、遊び場に日かげをつくって常に学校と共にある姿こそ今回出発したPTAのよきシンボルであり天満校と共にある唯一のものであろう。(以下略)』」

原爆資料館の「情報資料室」に、学校の「○○年誌」が収蔵されていることを思い出し、貴にはなったのですが、購入せずに後日情報資料室を訪れることにしました。

やはり情報資料室には、この本が収蔵されていました。

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ここからは、この版に記載されている天満小学校のプラタナスの歴史をたどります。

このプラタナスが天満小学校の校庭に植えたのは、昨年5月のブログにも書きましたが、1931年(昭和6年)度の卒業生です。「細くて子どもの背丈ぐらいしかない」10本余りの木が植えられました。

2年後の学校の見取り図では、左下の民家の上の方にプラタナスが描かれています。

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その後1942年(昭和17年)に、南西隅の民家が立ち退き、敷地が広がり、プラタナスは、運動場の真ん中に取り残されることになります。その様子が1945年(昭和20年)の見取り図に画かれています。

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そして1945年8月6日、爆心地から1.2キロ離れていた天満小学校(当時は、国民学校)も校舎は全壊し、完全に消失したのですが、4-5本のプラタナスが焼け残ったのです。戦後の校舎建築でも焼け残ったプラタナスを大切に扱って設計されたことが、1955年(昭和30年)頃の見取り図からは読み取れます。

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こうした学校の変遷を見ると、いつもプラタナスが大切にされてきたことが分かります。

最後に1974年に発刊された「創立百周年記念誌 てんま」の「あとがき」の一部を紹介します。

「本校の象徴ともいえるプラタナスは、今は葉を落とした細い枝を、何本も空に向かって伸ばし、冬の日差しを少しでも吸いとろうとするかのようです。

わたしたちは、今までこのプラタナスについて何一つ知りませんでした。そればかりかプラタナスがあること自体、ごくあたりまえのことと気にもとめなかったのです。百年の歴史は多くのものをつみあげてくれたと同時に、逆に多くのものを無関心に彼方に追いやってしまいました。(以下略)」

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「平和と愛(友情)のシンボル」となって元気な姿を見せている天満小学校の3本のプラタナスの長い歴史を知ることができました。

「古本まつり」会場を最終日(31日)に再び訪れたのですが、この「創立百周年記念誌 てんま」は、棚から消えていました。

いのちとうとし

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2021年10月 6日 (水)

「いじめ」に対応する「第三者機関」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

「いじめ」に対応する「第三者機関」

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

  ずいぶん長いシリーズになってしまいましたが、小山田圭吾事件が契機となって、遅まきながら私も「いじめ」についての俄か勉強を始めました。マスコミの報道はもちろん、何冊かの本や論文を読みながら、学んだ内容を整理してこのブログで報告してきたのですが、心許ない右往左往にお付き合い下さり、有難う御座いました。

  俄か勉強をする前から、北欧の「いじめ」対策に一日の長があるらしいことには気付いていましたが、勉強するにつれて「集団的自立」や「教師集団」を強調する考え方こそこの問題の本質を突いているのではないかと感じて、我が国における研究と実践にも注目しました。さらに、コールバーグの発達段階説という枠組みからも刺激を受けて、「第三者機関」の必要性についての提案をする準備ができました。

《フィンランドの「KiVa」プログラム》

  そのために、この2か月弱の間に学んだことを改めて最初から整理するうちに、最初の北欧に戻ることになりました。フィンランドの「KiVa」というプログラムが、その全てを包摂する実践的な内容を持ち、かつ実証実験においてその効果が証明されている優れたものであることに気付いたからです。さらに、ヨーロッパの数か国、そしてニュージーランド等では、国単位でこのプログラムを採用し、効果を挙げているという報告もショッキングでした。

  しかし、我が国ではウイキペディアに「KiVa」の項目はありませんでした。解説している論文やマスコミ報道も少なく、その中で北川裕子氏他による「学校におけるいじめ対策教育―フィンランドのKiVa に注目して―」(不安障害研究,5(1), 31–38, 2013) が手短に「KiVa」を分り易く紹介しています。PDF版は、ダウンロードできます。

  また東京都議会議員の風間ゆたか氏は、御自分のブログで「KiVa」の考え方を元にして世田谷区が2018年度にいじめ防止プログラムを導入したことを紹介しています。

  となると、今回から「KiVa」の紹介をするのが理に適っているのですが、もう少し勉強が必要です。まずはこのシリーズのそもそもの目的に戻って、「いじめ」の被害者を守るための「第三者機関」についての提案をしておきたいと考えています。

  そのために、9月21日の第五回で紹介した、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) で提案されている「特別クラス会」と、毎年最初の時間に先生が子どもたちに提案する「六つの合意」を枠組みとして使います。それは、「KiVa」の考え方にも沿っていますので、方向性としては問題ありません。大きな違いは、これからの提案は「いじめ」そのものの防止という大きな観点ではなく、「いじめ」が起きた時にどう対応するのかに焦点を絞って考えていることです。

  何度もお読み頂くことになりますが、大切なリストですので、再度「六つの合意項目」を掲げます。

六つの合意項目 (『いじめ』141ページ)

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

  これまで大きく報道されてきた「いじめ」事件は、被害者が自殺する、あるいは殺されるといった最悪の事態が生じてからのものが多いのですが、事後的にその真実を究明するための、我が子を失った親による大変困難な努力が目立ちます。これらの事件では、被害者は必ず何らかの訴えをしているのですが、それを学校側が受け止められなかったことから悲惨な結果につながっています。

  となると、上記の合意の②「トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する」を実現するために、誰が主役になれば良いのかが問われなくてはなりません。ほとんどの場合、先生や親にも「いじめ」を受けている事実が十分に伝わらなかったことを考えると、被害者本人が自ら「いじめ」を「公開の場」に持ち出すことは至難の業なのではないでしょうか。

  さらに、六つの合意の内、③と④、そして⑤まで入れても良いと思いますが、それらはトラブルを公にした場合の「仕返し」対策です。「チクる」という言葉が実態を良く表現していますが、被害者が「いじめ」を受けていることを誰かに話すこと自体の難しさの中でも「仕返し」をされるだけではなく、「いじめ」が一層酷くなるのが通例であることを示しています。

《被害者の側に立つ「駆け込み部屋」》

  これら、二つの点に焦点を合わせての「第三者機関」が必要です。それをどのようなものにすべきなのかを記述する前に、学校を巡る大切な条件を整えておくべきだと思います。

  最大の条件は、「いじめ」についてどのような対応を行うにしても、先生方への負担が増す結果になってはいけないということです。今までにないことをしなくてはならないのですから、そのために必要な時間に相当する分のこれまでの仕事を減らさなくてはなりません。もっと大掛かりな改革ができるのなら、学校制度そのものの見直しをして、子どもたちが学校そのものの運営により主体的に関与できるシステムを創ることも考えるべきだと思います。

  しかし、それほど大掛かりではなくても、これまでの学校教育で決定的に欠けてきた「少人数学級」を実現することくらいはして貰わなくてはなりません。これが「いじめ」問題解決のためには大きな力になることも御理解頂けると思います。それも、中途半端な「35人」学級ではなく、「20人」学級にすることです。子どもたち一人ひとりとの意味ある関わりが先生の側の犠牲的な献身によって実現されるのではなく、余裕のある創造的環境の中で継続されるためには、これが前提条件です。

  その上で、学年の最初には先生と生徒との間での「六項目合意」を結ぶという順序です。また、被害者が被害を比較的容易に訴えられる仕組みとして、子どもたちによる「いじめパトロール」を組織します。数人のグループで、休み時間や放課後に「いじめられてはいませんか?」という問い掛けをして、「いじめ」を受けている子どもからの発信があれば、子ども同士の問題として「特別クラス会」を開いて議題にする役割も果します。さらに、「第三者機関」への報告はオプションとしてできることにしておきましょう。

  その「第三者機関」の名前も付けておきましょう。イメージとしては、江戸時代の駆け込み寺のように、被害者が加害者から隔離され、駆け込んでからは身の安全が保障されるという機能が大切ですので、「駆け込み部屋」にしておきましょう。「Hot Line」という側面もありますのでそれでも良いのですが、電話だけというイメージが強くなりますので、「駆け込み部屋」にしてみました。

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  「駆け込み部屋」は各学校に一室を持ち、担当の専門職とスタッフが常駐します。官僚組織としての学校には所属せず、例えば民間の公益財団法人のような立場で学校や子どもたちと関わります。先生方、子どもたちとの信頼関係の存在することが大前提になりますので、そのためにどのような位置付けにするのかは、法的な枠組みの整備も含めて、これからの課題としておきます。

  仮にある子どもが「いじめ」に遭ったとして、「いじめパトロール」にも言えない場合、「駆け込み部屋」に物理的に駆け込むか、SNSなどを通して被害を受けていることを発信し、それを受け取るのが「駆け込み部屋」の第一の役割です。

  「駆け込み部屋」は「第三者機関」ではあるのですが、とは言っても、徹底的に被害者の立場に立ちます。「仕返し」の可能性がありますし、それ以前にその時点で続いている「いじめ」から被害者を守らなくてはなりません。被害者が加害者と顔を合わせなくて済むように一時的、あるいはそれ以上の期間被害者を保護することが第二の役割です。場合によっては転校等の対応も視野に入れる必要があります。

  そして、先生方にこの「いじめ」についての調査を迅速に行うよう要請し、調査に立ち会い、調査の補助を行えるようにします。その際、保護者との連絡等を学校が行うのか「駆け込み部屋」が行うのかについては、今後の課題としておきましょう。

  さらに、この「いじめ」が犯罪としての要件を満たしている場合には、学校と連携して、警察の関与を求めます。

  日夜、学校現場で努力を続けられている皆さんには「机上の空論」としか見えないのでないかと思いが強いのですが、それなりのイメージは伝わったでしょうか。とにかく子どもたちが元気で安心して通える学校を実現するためには、私たち大人が当事者意識を持って関わらなくては何事も始まらないという点だけでも共有できたとしたら有り難い限りです。

 [21/10/6 イライザ]

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