「広島ブログ」

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学校

2024年3月 4日 (月)

自己表現とは

広島県の公立高校入試で「自己表現」が導入され、2年目となりました。

広島県教育委員会のホームページによると、【自己表現は、「広島県の15歳の生徒に身に付けさせたい力」である「自己を認識し、自分の人生を選択し、表現することができる力」がどのくらい身に付いているかをみるため】に【個人ごとの面談形式で実施】し、【自分自身のこと(得意なことやこれまで取り組んできたことなど)や高等学校に入学した後の目標などについて、自分で選んだ言葉や方法で表現する】。【5分以内】で行い、【検査官は、受検者が自己表現した内容に対する補足的な質問を行う。時間は、受検者が質問に回答する時間を含め3分以内とする。】とあります。

新たな試験科目「自己表現」導入に伴い二日間で行っていた学科試験の日程も、一日で5教科すべてを実施するという非常に過密ものとなりました。

「自己表現」導入1年目だった昨年、わが子の入試と重なりました。

ごく一部の県立学校で先行していたインターネット出願が、全校になったのも昨年からです。学校では、事前に出願のテスト作業を各家庭で行わせ、できたかどうかチェックもされました。子どもたちには、試験時間に慣れるために模試を1日で行う。「自己表現」の原稿を作成する。パソコンで表現内容を作成してスケッチブックにまとめる。クラスで発表しあう。先生が検査官となり自己表現を確認する等々の指導もされたようです。いろいろな対策に多くの時間を充てることとなり、先生方には非常に負担だったのではないかと思いました。

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家では、学校から「1年目なので、どうなるのか詳しくはわからない」という声と一緒に配布された資料から「新しい入試制度WEB説明会」を視聴したり、「自己表現」で何をどの順番で伝えるかを一緒に考えました。部活動の実績もアピールできる特技もないと訴えるので、最初は「高校に入学したら何がしたいか」と、ひねり出して編み上げて取って付けたような原稿で「自己表現」をする方向でした。ほぼ原稿はできていましたが、やはり唯一好きなことについてアピールしたいと、その原稿は使用しませんでした。

いざ試験を迎え、一日目の学科試験が終了すると「非常に疲れた」と訴えながらも「白い布が欲しい」と言い出しました。意図をたずねると、「シャツに「I LOVE 〇〇」と書いた布を貼っておき、最後に見せてアピールしたい」と言います。二日目終了後、結果を尋ねるまでもなく、制服のシャツに直接布を重ねて書いたのだと一目でわかる黒い油性ペンの裏抜けがありました。

わがことが終わり一息つくと、いろいろ気になりました。

日本語が得意でない外国籍の保護者や生徒もいるのに出願の手引書は日本語版しかなかったこと。人前で発言ができない子や、ことばに不安のある子はどうしたんだろうか。受験生から聞こえてきた「自己表現の間、検査官の先生が終始無反応でつらかった」という声。「自己表現」は、指導の面でも採点の面でも中学校、高等学校、両方に非常に負担をかける試験制度だと思いました。

「自己を表現する力」は高校へ入学した後につけていけばよい力だと思います。ただ良かったと思うことは、子どもと話をする機会が持てたことです。ただそれも、それぞれの家庭状況や子どもの個性などでさまざまなのだろうなとも思います。

はたや

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2024年2月28日 (水)

「広島県立広島第一高等女学校の門柱」余話

昨日、「広島県立広島第一高等女学校の門柱」の歴史を書きながら、気になることがありました。

「門柱の歴史」の一行目に書かれていた「1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」に書かれた「広島英語学校」です。

ネットで検索する「寺田芳德『広島英語学校と宇和島』」がヒットしました。そこには、「広島英語学校」創立の歴史が次のように書かれています。

「広島英語学校は初め広島外国語学校と称し,明治7(1874)329日設置,同年 6.15日開校された。前節で述べたとおり,明治65月設置の東京,大阪,長崎外国語学校につゞいて愛知,新潟,宮城とともに設立された全国7つの外国語学校の一つであった。」さらに「文部省は明治10(1877)214,広島英語学校を愛知・長崎・新潟・宮城の各校とともに廃止して、これを広島県に委譲するに至るわけである。」 と創立の経緯が記されています。他の4県で廃止されたのに、なぜ広島だけ残ったのか?と思いますが、「当時の校長の識見と手腕が大きかった」ことが、この論文の別のところに書かれています。

ここに記された明治10年が、「門柱の歴史」に記載されていた「1977(明治10)年」に符合しますが、少し疑問に思うのは、「門柱の歴史」では、「1月」となっているのですが、「広島英語学校と宇和島」では、「214日」となっており、この関係はどうなのかは不明です。

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広島第一高等女学校の4本の門柱(「皆実友朋会アーカイブズ」より)

次に気になったのは、「門柱の歴史」の「その後広島県中学校(現国泰寺高校)」という記述です。そこで国泰寺高校のホームページを検索したところ、「学校沿革史」を見つけることができました。ここでかなりの謎が解けました。

71874) 6 官立広島外国語学校として大手町1丁目に開校。生徒120名募集、修業年限6

       12 広島英語学校と改称

101877) 2 官立広島英語学校を広島県に移管。広島県中学校と称す。これを本校の創立とする。

       7 下中町の新校舎に移る。

      11 校舎落成。

121879) 9 広島県中学校と改称。

241891) 3 本校校舎現在地(当時国泰寺村)に落成移転。

ただ、国泰寺高校の沿革史をよく見ると、「門柱の歴史」の「1877(明治10)年1月」に疑問が出てきます。広島英語学校が、下中町の新校舎に移ったのは、「1877(明治10)年7月」さらに校舎が落成したのは、同年10月となっていますから、門柱が建てられたのは、7月以降となるのではないかと思います。そして、校舎の移転とともに1891(明243月には、現在の国泰寺高校の敷地に門柱も移転したと想像できます。

こうして調べると、さらに疑問が広がります。それは「広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」の歴史です。広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから、広島師範学校の門柱として引き継がれ、広島県立高等女学校に移設されることはあり得ないはずです。

そして最大の疑問は、「広島県中学校(現国泰寺高校)」の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。国泰寺高校の沿革史では、前年の1901(明治34)年6月に学校の名前が「広島県立広島中学校」が改称されてはいますが、「校舎が改修された」などの特別の記述はありません。

やはり不思議な気がします。

古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。

いのちとうとし

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2023年12月29日 (金)

高校生が描いた「原爆の絵画展」にまた行ってきました。

平和公園内にある広島国際会議場の地下2階サクラで、来年の1月9日までの日程で、広島基町高校の生徒が描いた『聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』』が開催されています。

この「原爆の絵画展」に行くのは、8月に続いて今年2度目になりますので、「また」と表題を付けました。今回どうしてもと思ったのは、23日に原爆の絵制作生徒による「ギャラリートーク」が開催されたからです。以前にも「ギャラリートーク」は行われたようですが、まだ一度も参加したことがありませんでしたので、今回はぜひにとの思いで参加しました。

これまでにも何度か「原爆の絵画展」を観に行っていますが、生徒の話を直接聞くのは、今回が初めてです。今回のトークでは、3人の生徒の発表がありましたが、ちょっと遅れての参加になりましたので、すでに二人の生徒の話しは終わっており、最後の一人のトークを何とか聞くことができました。

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木村光希さんはこう語ります。「原爆の絵を通して、広島に住む高校生として、平和について向き合う機会を得られてよかった。少しでも多くの若い世代の人や県外に住んでいる人たちの目にとまればよいと思う。なぜ戦争が起きるのかを考える。自分が伝えるには何ができるか、自分には戦争体験がないが、自分が伝えることができるのは?今平和があることがどんなに大切なことかを伝えたい」。

その後残された15分あまりの時間、参加者の質問に答えるかたちでのトークが行われました。

「被爆者の話を聞けば聞くほど、より原爆のことに関心を持つようになり、いろいろ知ろうと努力し、知るようになった。別の場所に行っても広島のことを表現したいと思うようになった。絵を描いたことは、生涯の大切なものになった。」

「広島のことは知っているつもりだったが、被爆者の話を聞いて、これまで全く知らなかったということがわかった。そして平和への関心がより深くなった。絵を描いたことで、平和になるためには、知ることが大切だということを学んだ」などなど。

少し遅れての参加になりましたが、ギャラリートークに参加することができ、初めて制作者の思いを聞くよい機会になりました。

今回の絵の展示には、以前と違う展示方法がとられています。被爆者10人の証言をもとにした絵が展示されていますが、今回は、被爆体験証言者ごとにまとめ、さらに被爆時、直後、避難など時系列の順に展示されています。

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上の写真は、小倉桂子さんの証言を基にして描かれた作品です。右から左に時間が流れ、写真には6枚の作品しか写っていませんが、計7枚が展示されています。他の証言者の絵も同じような並びになっています。

今年8月に亡くなられた中西巌さんの証言をもとに描いた絵2点も展示されています。

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今回展示されている作品は、今年7月に完成した9点を含む約60点です。会場は、今日から1月3日まで休館ですが、1月9日まで開催されています。

いのちとうとし

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2023年12月16日 (土)

日朝友好広島県民の会2023年度総会

日朝友好広島県民の会は、12月13日午後6時から広島留学生会館で2023年度総会を開催しました。

佐藤奈保子事務局次長の司会で始まった総会は、最初に代表委員の足立修一弁護士が、開会あいさつ。足立代表委員は、「今年も日朝関係は依然として厳しい状況が続いている。それは、強制連行など被害者の問題を置き去りにして、日米韓の軍事的関係を優先していることによる。そのことによって、『軍事的緊張が高まっている』という報道が続いている。私たちは、地道な取り組みを続けてきた。『幼保無償化』では、広島市の支援が決定し、前進した。ただ、高校無償化問題は、今後どうするか考えなければならない。そのとっかかりとして、来年秋に高校無償化問題に関わった全国の弁護団が、広島で朝鮮問題を取り組むためのフォーラムを開催することにしている。そうしたことを通じて、朝鮮高校への差別を止めさせ、日朝友好運動を進めていきたい」と述べました。

続いて大瀬敬昭事務局長が、2022年の活動報告、決算報告、2023年度の活動方針、予算案などを提案し、全体の拍手で確認しました。

提案された活動方針の内、「取り組みの柱」は以下のとおりです。


取り組みの柱

①日朝国交正常化の実現をめざし、朝鮮民主主義人民共和国に対する全ての制裁措置を直ちに解除し、対話再開のための道を開くよう、全国の運動に結集し日本政府に対する働きかけを強化します。

②朝鮮学園への「高校無償化」の適用、補助金の再開、物価高騰対策補助金適用対象を勝ち取るため、支援行動への参加、情宣活動・署名運動等を通じて、政府・文科省、広島県・広島市に対する取り組みを強化します。

③広島朝鮮初中高級学校における民族教育諸活動を財政面から支援できるよう、「民族教育連帯基金」(別称「広島朝鮮学園支援県民基金」)の協力呼びかけ、チャリティーコンサートなどのカンパ行動に引き続き取り組みます。

④在日朝鮮人に対するあらゆる差別・偏見を許さず、在日朝鮮人の民主的民族諸権利を擁護するための取り組みを継続・強化します。

ここで総会は終了し、その後、11月6日に行われた「金剛山歌劇団チャリティコンサート」で集まった支援金1,247,000円の目録が、高橋克浩代表委員から朝鮮学園の朴志晙(パク・チジュン)校長に贈呈されました。

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今年の総会の記念講演は、幼保無償化を求める朝鮮幼稚園保護者連絡会の宋恵淑さんによる「朝鮮学校の子どもたちもまんなかに!-無償化実現に向けた闘いの成果と今後の課題」でした。

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宋さんは、「幼保無償化は、制度設計の段階から朝鮮幼稚園が除外されていたが、法律制定時に付けられた付帯決議をテコにしながら、様々な運動を行い、日本の国庫から初めて朝鮮学園にも支給されるようになった」闘いの歴史を紹介。つづいて「日本政府は、国連人権委員会などから、在日朝鮮人、朝鮮学園への差別に対し、繰り返し是正勧告が出されているにもかかわらず、無視し続けている」経緯を紹介。さらに昨年成立し、今年4月から施行されている「こども基本法」を紹介する「こども家庭庁」のパンフレットなどで使われている「こどもまんなか」の意味を紹介し、全ての子どもが差別されるべきでないことを強調されました。最後に「まとめ」として次のことが提起されました。

「・高校無償化をもとめる決して屈しない・諦めない・負けを知らない闘いが、民族教育の権利保障の歴史に国庫補助実現という貴重な前進をもたらした。

・日本が締約国となっている国際人権諸条約の観点からも、朝鮮学校差別はすぐに是正されるべき。

・新たに施行された国の包括的なこどもの権利に関わる法を強力なツールとし、朝鮮学校に差別的な国の学校教育関連施策を再検討させるべき。

・地域における朝鮮学校のこどもたちへのあたたかい支援、応援、つながりが、日本社会の差別と偏見を打ち砕き、朝鮮学校の子どもたちを勇気づけるカギとなる。」

宋さんの話しは、今後の私たちの運動への示唆となるものでした。

朝鮮大学生を中心にして続いている文科省前の金曜日行動は、15日で500回目を迎えたそうです。「継続は力」を強く感じます。

いのちとうとし

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2023年11月 2日 (木)

はだしのゲン

この春、広島市教委は「平和教育プログラム」を改訂し、今年度の「ひろしま平和ノート」から「はだしのゲン」等を削除しました。有識者会議において、「漫画の一部では被爆の実相に迫りにくい」、「浪曲の場面は児童の実態に合わない」、「鯉を盗む描写は誤解を与える恐れがある」等の課題が出されたため見直すことにした、とのことですが、その議事録を確認しても、議論の末に削除すべきとの結論に至った様子はありません。

広教組広島支区は、このことが明らかになってすぐに組合員の声を集めるとともに、より広く現場の声を集約するため、広島市立小学校(141校)の全校長宛に手紙を送付し、実際に2022年度に「はだしのゲン」を教材として使った3学年の担任に渡してもらう形でアンケートを行い、42校85件の回答を得ました。

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「はだしのゲンを平和教材として使ってみてよかったか?」という設問に対し、7割が「よかった」と回答し、「よくなかった」は1人のみ。どこに教材を変える必要があるのでしょうか。

一方、気になったのは「どちらでもない」の多さ(3割)です。「今後もはだしのゲンを教材として使いたいと思うか?」に対する回答となると、「どちらでもない」は更に増えて5割となります。どうして「どちらでもない」なのでしょう。もしかしたらこれは、「どちらでもいい」、「どうでもいい」なのではないでしょうか。

広島市教委は改訂の趣旨を、「先生たちに負担なく教えやすいものに」とも言いました。でも、人権・平和を学ぶ教育が、そんなインスタントのようなものでいいの?と思います。業務削減すべきは、そこではないでしょう。

学校現場は多忙を極めています。教職員も、言われたとおりにやる方が楽です。しかし、自分で考え行動することを怠ると、教育は権力に都合がよいものに変質するのです。

5月、市民生活に多大な制約を及ぼし、広島G7サミットが開催されました。街には警察官があふれ、あちこちにバリケードが設置され、異様な光景でした。「広島ビジョン」は、広島の名のもとに、核兵器禁止条約に背を向け、「核抑止論」を肯定するものでした。平和記念公園とパールハーバー国立記念公園との姉妹協定、原爆投下責任の議論の「棚上げ」発言等と一本の線でつながり、広島市がすすめる平和行政そのものの変質を疑わざるを得ません。「平和教育プログラム」改訂もその線上にあるのでしょう。

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私は、久しぶりに「はだしのゲン」を読み返し、戦争や原爆の恐ろしさ、愚かさ、個の尊厳を踏みにじる大きな力への怒り、被害と加害、その中でも信念を曲げず、声をあげ、人としてのぬくもりを決して奪われないゲンたちの姿に圧倒されました。この「真理」が不都合な人たちがいるのです。

何を使って何を子どもたちに伝えたいのかに立ち返り、平和教育を「自主編成」していく大切さ、点から線へ面へとひろげていく必要性を感じています。

よりのぶ

【編集者】今月から、広教組の皆さんから原稿を送っていただくことになりました。今日はその第一号です。

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2023年8月11日 (金)

今年も「原爆の絵画展」に行きました。

86日から24日まで広島国際会議場地下2階ダリアで、「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」が、開催されています。

今年もこの「原爆の絵画展」に行ってきました。

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原爆被害の実相を後世に伝えていくとともに、被爆体験を継承していくため、基町高校の生徒たちが、被爆体験を聴き、想像を絶する光景をどう描くが思い悩みながらも、資料を集め、証言者と何度も打合せを行い、約一年かけて描き上げたのが「原爆の絵」です。

7月3日に完成披露された今年の作品は、9点です。会場には、9点全てが展示されています。

全ての作品を紹介したいのですが、ここでは新作のうち最初に展示されていた作品を紹介します。

タイトルは「赤子を抱き、腕から血を噴き出しながら『助けてー』と叫んでいる母親」です。被爆体験証言者は山瀬淳子さん、制作者は木村光希さんです。

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作品一枚一枚に、説明文や生徒、被爆体験証言者のコメントが書かれてパネルが展示されています。

この絵には、次のような説明が付いています。

描いた場面の説明「原爆投下後間もなく、隣のおばさんが幼児を抱き抱え、山瀬さんの家の前のバス道路で『助けてェー、助けてェー』と叫んでいて、左手から血を噴き出していました。近所の人は、パニック状態で、誰も助ける余裕がなかった。」

生徒のコメント「『助けて』と叫ぶ表情、血が噴き出している、赤ちゃんを抱きかかえているという三つの大切な要素を1つ1つ、どうやって表現するかということに苦労しました。人物が主役になる絵だったので、出来るだけリアルに描くことを意識しました。原爆の絵を通して、広島に住む高校生として、山瀬さんのお話を絵で表現し、平和について向き合う機会を得られて良かったです。少しでも多くの若い世代の人や広島県外に住んでいる人の目にとまれば良いなと思います。」

被爆体験証言者のコメント「顔合わせの時には、言葉ではなかなか伝えにくい場面、状況の映像をどうにか言葉で伝えるつもりでした。その絵の制作途中では、絵を見ながら意見を交わしたり、メールで画像を送ってもらって確認しました。絵がほぼ完成の段階で訂正を求めたりもしました。大変申し訳なく思っております。お陰様で被爆の悲惨さが伝わる良い絵に仕上げていただきました。ご苦労様でした。有り難うございました。感謝。」

制作者と被爆体験証言者、二人が葛藤しながら作品を仕上げたことが伝わってきます。

全ての作品に同じような説明文が付けられていますので、一つ一つ読んでいくとかなりの時間がかかりますので、今回は、新作9点を中心に読み進んでいきました。

ただ、この説明文は作者、被爆体験証言者の思いが知ることが出来、絵をより理解することが出来ますので、少しでも多く読んで欲しいなと思います。

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これまでに完成した作品は、191点。作成に協力した被爆体験証言者は、31人です。

今回展示された作品は、約50点です。(数え忘れましたので、約としました。)

最近は、この絵が被爆証言を話すとき、当時の状況をより理解してもらうために使われているようです。

今月24日まで開催されていますので、ぜひ見に行ってください。

いのちとうとし

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2023年6月27日 (火)

広島大学供木運動―広島大学創立70周年記念写真集

先月の27日から4回にわたって「復興のために贈られた広大の供木」の現在について紹介しましたが、昨日別の資料を探しているとき、供木が植栽された当時の様子を知る資料を見つけることができました。以前から気になっていた資料を見つけることができたというのが正し言い方かも知れませんが。

その資料は、広島大学が2020年2月に発刊した「創立70周年記念写真集 広島大学の70年」と題した26ページの写真集です。

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この写真集は、広島大学75年史編纂事業に一環として発刊されたものです。

その中で「7 自由で平和な一つの大学」とタイトルが付いた見開き2ページ(p.15,16)の右側1ページ全てを使って、当時の供木運動の様子が写真で掲載されています。

・理学部付属植物園で試験栽培された樹木・苗木を植樹する森戸学長・植樹直後のフェニックスや世界各地に送られた森戸辰男学長の「樹木の提供依頼書状」など、7枚の写真で構成されています。

興味深く見たのは、正門とともに写っているフェニックスの写真です。森戸学長が、「原爆焼け野原から復興するシンボルとして、灰の中からよみがえる不死鳥(フェニックス)と同じ名前をもつ樹木を選んだ」と記載されています。

このフェニックススは、ブログでも紹介したように、当時植えられた同じ場所に、今も元気な姿で大きく育っています。

当時の様子を知ることのできる貴重な写真ですので紹介したいのですが、写真の無断使用が禁じられていますので、残念ですがここでは紹介できません。

またこの写真集には、広島大学の前身である広島文理科大学、広島高等師範学校に在学していて被爆した東南アジア出身の「南方特別留学生」が納まる写真や当時の原爆被災に関する資料も掲載されています。中国からの留学生については触れられていないのが残念ですが。

この原爆被災に関するページには、被爆後の広島文理科大学付近の写真も掲載されており、それを見ると、正門の一が現在よりも北側に位置していたことがはっきりとわかります。

この写真集は、広島大学文書館のホームページ(大学史関連刊行物 | 広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)でPDF版を見ることができますので、興味がある方はぜひ検索してみてください。

いのちとうとし

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2023年6月 9日 (金)

広大の供木はなぜ残った?

先月の27日から3回にわたって「被爆復興のために贈られた広大の供木」(被爆復興のために贈られた広大の供木の今: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))を紹介しました。その最後に「市役所を訪ね、この説明板設置に至る経緯を調べてみたいと思います。」と書きました。その後、公園を管理する広島市に「当時の資料が何かありませんかないか」と問い合わせていましたが、「これではないかと思う資料が見つかりました」との連絡が入り、昨日担当課を訪れました。

その資料の名前は「東千田公園基本設計報告書」(以下「報告書」)です。

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この報告書は、1997年(平成9年)に、広島大学跡地を主会場として開催された「第14回都市緑化ひろしまフェア」に向けて、広島大学跡地を「東千田公園」として整備するために作られた基本設計報告書です。

この報告書の中で,公園整備にあたっては「既存樹木の価値を再確認し、できる限り現状の位置での活用を前提とした」とし,特に「広大の供木」について「『世界の人びとからの好意の結集』である献木を保全・活用し、『緑・いのち』のテーマと連動させて計画し、特徴あるフェア会場とする」とし、会場の中心的役割を与えています。

そのため、報告書の末尾には、1995年(平成7年)に実施された「広島大学跡地既存樹木調査」の結果が詳細に記載されています。

その調査は、「フェニックス等の寄贈植物の移植について」の著書がある広島大学理学部教授の豊田源太郎さんへのヒアリング、現地立ち会い、資料の提供を受けて、全部で1063本を調査し、そのうち22種、162本が「供木」であることが確認したようです。

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報告書には、その一番の根拠資料となったのは,広島大学が1995年に作成した「広島大学本部跡地植栽樹木調査と図面一覧表」だったことが記されています。

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上図には、小さくて見え難いのですが、供木が、種類ごとに色分けして表示されています。

この広島大学の調査書が、なぜ広島市の調査と同じ年になっているのかは不明ですが、「東千田公園」の整備計画で「戦前に建てられた旧理学部1号館と既存樹木を残して、既存施設を撤去する」と、かつての広大の痕跡が大きく変化することになったので、広島大学としても現況を調査しようということになったと想像されます。

いずれにしても、この場所が「都市緑化フェア」の主会場として使われるようになったことが、「供木の記録」を残す大きなきっかけとなり、大切に保存されることになったことは間違いないと思われます。

ただ、供木は、広大本部跡地全体に植えられましたので、現在の旧理学部一号館前の広場以外に植えられていた供木は、残念ながら現在は存在しません。

それ他にも,例えば先日4本と紹介したオリーブの木は、寄贈を受けたのは11本で,ほぼ同じ場所に植えられたのですが、公園整備の中で一部が公園区画に入らなかったため、内7本しか残されず、その後枯れたりしてさらに4本に減ったということになります。

さらに今回わかったことですが、先月28日のブログで供木として紹介した「ソテツ」は、「広島大学本部跡地植栽樹木調査と図面一覧表」のリストには掲載されていませんでしたので、訂正する必要があります。

今回「報告書」を調べていたわかったことは、世界から贈られて供木が、ただ「残っている」というのではなく「供木」として大切に扱われ、現存しているということです。

ほっと安心する気持ちがわいてきました。

いのちとうとし

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2023年5月29日 (月)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その3

フェニックス北側の花壇には、ホルドノキ4本があります。

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この木の説明板は、木に取り付けられていました。

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説明板には「寄贈/(米国)南イリノイ大学」と書かれています。

フェニックスの奥に進むとメタセコイアの並木が,旧理学部一号館に向かった左右に28本並んでいます。

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樹高はわかりませんが、大きく育っています。

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説明板には、「寄付金によりカリフォルニア大学から移入された個体を母樹とした苗木を京都大学から移入」と書かれています。

このメタセコイアの右側にキンモクセイが植わっています。嘉陽さんの説明では、イギリスのマックローリンさんから贈られたもののようです。個人からも寄贈があったことがわかります。

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説明板は付いていませんし、左右にタイサンボクが大きく繁っていますので、「森戸道路」からは気をつけないと気づかないかもしれません。逆光になりますので、南側に回って写真を撮りました。

キンモクセイの開花時期は、9月中旬から10月下旬ですので、その時期には花の香りが一面に漂いますので見つけるのも簡単だと思います。

少し旧理学部一号館方向の進むと左側、タワーマンションの近くにサンゴジュが2本あります。

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この木も、説明板はありませんが、この木は、イギリスのエジンバラ大学から贈られたものです。

この木から「森戸道路」を挟んで反対の南側に移動するとシマトネリコの説明板が目に付きます。

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この説明板には「寄贈 アルゼンチン ペロン大統領エビータ夫人 記録にはアメリカトネリコとして記載されている」と書かれていますので、大学以外からも贈られたことがわかります。

嘉陽さんから最初の届いた資料では、「看板付近のエリアにシマトネリコの樹木が見当たらないので今回カウントしていない。」と書かれていましたが、改めて昨日この場所に行って見ると、説明板の南側にシマトネリコと思われる木を数本見つけました。

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よく見ると、木の幹がかなり細く見えますので、供木樹木そのものかどうかは不明です。

このシマトネリコの東側にトイレがありますが、その手前南側にスイスのジュネーブ大学から贈られたオリーブの木4本があります。よく探したのですが、説明板は見当たりません。

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4本といっても、わたしたちがよく見るオリーブの木のように高く伸びていません。丸い生垣状ですので、この木が供木樹木だとはとても思えません。

嘉陽さんから「少し枝をかき分けて根元を見てください」と言われましたので、根元を見てみると,根元付近に大きな幹の切り株を見ることができます。

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今のオリーブの木は、贈られて木の切り株から生えたひこばえが育ったもののようです。

このオリーブの木のすぐ近く、トイレの東側には、西ドイツ・マールブルグ大学から贈られた3本のタイサンボクが元気に育っています。

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丁度白く大きな花(手のひら大)を咲かせていました。

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これで、嘉陽さんの「森戸緑化運動樹木」リストに掲載された樹木を見終えました。

最後の嘉陽さんから「私が作ったリストは、この公園内にある『公園の説明板』を元にして作ったのです」」といわれ、公園の真ん中ほどにある説明板を見に行きました。

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この説明板には、公園の概要とともに右端に「献木とキャンバス緑化』とのタイトルで,現存する献木と当時木を贈った大学名が書かれています。

この説明板は、内容からいって公園を管理する広島市が作ったものと思われます。そうであるとすると、広島市は、この情報をどうして得たのだろうかと疑問がわいてきました。

というのも、この旧広島大学跡地には、説明板の「献木」リストには載っていないが、樹木の大きさからそうではないかと思われる木がまだ多数在るからです。

市役所を訪ね、この説明板設置に至る経緯を調べてみたいと思います。

今回、広島大学の供木樹木を訪ねてみた、改めて広島の復興は、多くの人たちの支援によって成し遂げられたということを学ぶことができました。

いのちとうとし

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2023年5月28日 (日)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その2

当日約束した午前10時半に広島大学東千田キャンパスの広島大学平和センターに行くと嘉陽礼文さんが、入り口で待っておられましたので、すぐに樹木散策をはじめました。

最初に、東千田キャンパス入り口北側(広島大学平和センターの建物の西側)のソテツを見ます。

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このソテツには他の樹木にあるような説明板はありませんが、嘉陽さんの説明では、「2010年頃に理学部の出口教授より『最低でも60年以上の樹齢』と診断されているので、間違いない」とのことでした。このソテツは、台湾大学から送られたものです。

この後、東千田キャンパスにある「広島大学原爆死没者追悼之碑」の周辺も散策しましたが、ここにははっきりと供木樹木と確認できるものはありませんでしたので、東千田キャンパス地域の供木樹木の紹介は終わりです。

いったん電車通りに出て、北側に移動し旧理学部一号館がある東千田公園(旧広島大学キャンパス跡)に移動しました。

最初の目に入ったのは、正門(旧広島大学の正門)の手前にすくっと立つ大きな6本のフェニックスです。

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このフェニックスは、アメリカ・ウエスリアン大学から送られてものです。

よく見ると、右列奥の一番生の高い木の上部には、宿り木が生えていました。フェニックスの宿り木は珍しい気がしましたので、写真を撮りました。

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この木には、説明板があります。

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「寄贈 米国ウェスレイアン大学(寄付金)」と書かれていますので、このフェニックスは、苗木が贈られてきたのではなく、贈られた寄付金によって苗木が購入されたことになります。

さらに説明板には「初代森戸学長がフェニックスス(不死鳥)の意を込めて植栽(1957~1958年)し、学章のデザインとした」と刻まれていますので、当時の緑化運動の中でも重要な樹木であったことがわかります。

ちょっと横道にそれますが、正門の位置のことです。

昨日紹介した石田雅春さんの論文には、「広島大学原爆被災史『生死の火』」から引用した被爆前と1975年(昭和50年)の東千田キャンパスの地図が掲載されています。

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上の図が、被爆前、下図が昭和50年当時の建物の配置図で、両方とも中央上部に黒く塗りつぶされているのが、現在も被爆建物として残っている旧理学部一号館です。

注目して欲しいのは、正門の位置です。被爆前は、旧理学部一号館の正面より向かって左側に位置していますが、昭和50年の地図では、旧理学部一号館の真正面に正門が移設されています。

石田さんは、「戦前は正面から文理科大学本館(旧理学部一号館)を直接望むことはできなかった。ところが戦後は、旧理学部一号館の真正面に正門が移設され、旧理学部一号館を大学の貌(かお)としてキャンパスの整備が進められたのであった。のちにこの正門から旧理学部一号館に至る経路は『森戸道路』と呼ばれるようになり、広島大学を象徴する景観として親しまれるようになった。」と、この論文の中で書いています。

この文章を読めば、このフェニックスが旧広島大学の象徴だったという説明文が、より理解できると思い、あえて横道にそれました。

さらに、先に石田さん経由で贈られてきた嘉陽さんの樹木リストに「植樹された森戸緑化運動樹木」とのタイトルが付けられていた意味もこれでより理解できます。

写真には写っていませんが、左右のフェニックスの真ん中をまっすぐ進んだ先に旧理学部一号館の正面玄関があります。

「被爆復興のために贈られた広大の供木の今」は、今回で終わる予定でしたが、少し長くなりましたので、つづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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