「広島ブログ」

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学校

2025年7月 7日 (月)

ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ

昨日、午後1時から広島国際会議場で、在日朝鮮青年商工会主催の「부흥(プフン)-チャレンジ! ヒロキョレ」をテーマとした「ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ」が開催されました。ちなみに「부흥(プフン)」とは「復興」という意味です。

広島での開催は、24年ぶりということで、地元広島青年商工会を中心に、現地実行委員会が結成され、一年間かけて先輩の話しを聞き、碑めぐりをし、研究会を実施し、演舞や歌、劇の稽古を繰り返しながら準備が進められ、その成果が披露されました。

地元はもとより全国の青商会のメンバーが参加し、会場一般となり盛り上がった集会となりました。

日朝友好広島県民の会も出来るだけ多く参加しようと申し合わせ、取り組みを進めてきました。

集会の第1部は「復興<広島同胞社会-受け継ぐ歴史と・切り開く未来->で、被爆80年、そして民族解放80年の歴史を振り返る内容です。

最初は、在日朝鮮人にとって被爆80年は何を意味するのか、なぜ多くの朝鮮人が被爆しなければならなかったのか、被爆者の体験をもとに、舞踊、歌、映像で表現します。

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民族解放の歴史は、1955年5月25日に結成された在日朝鮮人総連合会、それに呼応して広島県本部も結成されました。しかし、民族教育への着手は、それよりも早い1946年から。その後の強制解散命令による朝鮮学校の閉鎖。しかし、それを乗り越えて続けられた民族教育の歴史が回想されました。そしてそれは、同時に差別との闘いでもあったのです。

その困難な道を乗り越えてきた在日朝鮮人の人たちの歩みを改めて知ることが出来ました。それは同時、この集会開催に向けて取り組んだ若い人たちが、先人の歴史を知ることにつながる活動となったことが報告されました。

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第2部は、「富興<民族教育100年に向けて>と題して、広島・中国四国民族教育100年に向け手、朝鮮学園の子どもたちのステージとパネルディスカッションが行なわれました。

来年創立80周年を迎える朝鮮学園が置かれている状況、特に入園する子どもの減少などの問題点を率直に語りながら、民族教育、そして在日朝鮮人のよりどころとしての朝鮮学園を100周年に向けてどう改善するのか、が討論されました。

第1部から、共通することですが、在日朝鮮人の人たちにとって朝鮮学園、民族教育がいかに大切なものか、そしてみんなの力で存在し続けさせなければならないとの思いが、強くつよく伝わってきました。

フィナーレは、活力ある新時代!と題し、「オール広島」で、歌、踊り、楽器演奏、太鼓演奏、集団演舞で活力あるパフォーマンスが繰り広げられました。

熱い思いが伝わる「ウリ民族フォーラム」でした。

いのちとうとし

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2025年6月16日 (月)

第28代高校生平和大使結団式

28代高校生平和大使の結団式が、15日午前10時から広島市の自治労会館で開催されました。今年選ばれて高校生平和大使は、全国18都道府県24名です。

結団式は、第27代高校生平和大使沖本晃朔(おきもとこうさくAICJ高等学校3年)の司会で進行しました。

最初に高校生平和大使派遣委員会代表があいさつ、続いて来賓のあいさつ。来賓は連合広島大野真人会長など5名。

あいさつの後、高校生平和大使派遣委員会共同代表小早川健さんから、平和大使一人一人に任命証が手渡されました。

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任命証受領で晴れて正式に高校生平和大使に任命された高校生一人ひとりが、決意を表明しました。

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一人持ち時間は1分。例年のことですが、「なぜ自分が高校生平和大使に応募したのか、被爆者の体験、被爆の実相をどう継承するのか、戦争も核もない時代を築くために自分はどんな取り組みをするのか」などを力強く訴えます。

自分が高校生だった時には、まったく平和活動などやってこなかったことを思い出しながら、「なんと立派な決意表明をするのだろう」と感心しながら一人ひとりの決意を聞きました。

最後の決意表明は、長崎県で選ばれた長崎日本大学高等学校2年生の芮(いぇ)序知(そじ)さんです。自らが学んできたこと、「焼き場に建つ少年」の写真を示しながら、ローマ教皇フランシスコ法王が語った「このような写真は千の言葉よりも多くを語る」という言葉を紹介し、最後の全員を代表する形で「戦争は知らないが、平和は知っている。過去は変えられないが、未来は作ることができる。平和への架け橋としての役割を果たしたい。1万に署名メンバーとともに戦争も核兵器のない世界を実現させるために全力を挙げて頑張ります」と決意を表明しました。

ここで結団式は終了し、全員での記念写真。

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高校生平和大使の活動は、1998年長崎の二人の高校生が、米国・ニューヨークの国連本部へと派遣されたのがスタートです。現在のようにスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪れるようになったのは、2000年の第3代からです。

28代高校生平和大使は、1万に署名活動の仲間とともに集めた署名を持って、今年は、831日から国連欧州本部を訪れることになっています。

2001年から国連欧州本部に届けた署名数は、272万筆を超えています。

「ビリョクだけどムリョクじゃない」を合言葉に活動を続ける高校生平和大使と1万人署名活動の仲間の活動は、私たちを勇気づけてくれます。

昨日から広島に集まり、被爆者の体験を聞くなどの研修や資料館見学、碑めぐりなどのフィールドワーク(雨天だったのですが実行したとのことです)などで広島の被爆の実相を学んだ高校生平和大使たちのこれから一年間の活動に期待したいと思います。

いのちとうとし

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2025年6月 6日 (金)

ヒロシマとベトナム(その70-2) ―「昭和100年」と父― その2-2

命より重い「御真影」と「教育に関する勅語」

「御真影」と「教育に関する勅語」は神聖なものとされ、その取り扱いは「校内に奉置場を設け、もし守護に不安のある学校は、役場など取り締まりのゆきとどくところに奉安し、保管する」と指示され、先に紹介した奉安殿が各学校に建てられます。

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その「御真影」と「教育勅語」は子どもたちへの影響だけでなく、様々な事件を起こしています。2017年にお茶の水女子大学で「教育史学会シンポジウム」が開催され、大阪府立大学教授・小股憲明(おまたのりあき)さんが「教育勅語・御真影をめぐる不敬事件と学校儀式」を報告し、85の事例を紹介されています。その幾つかを列記します。

欠礼・薄礼

・「御真影」に対する「拝礼を欠いた」(欠礼)として咎められる。(同種の事件多数)

・「十分な拝礼を行わなかった」(薄礼)として、校長や教員が解雇・譴責(けんせき)処分・退職。

服装

・「御真影」奉戴式で教員が首にハンカチを巻いていて不敬と咎められる。

・新年始業式の「教育勅語」奉読の際、学校理事が袴を未着用で奉読、不敬行為と咎められ辞任。

誤読・改定読・語法批判

・卒業証書授与式で「教育勅語」を誤読した校長が左遷。

・「教育勅語」奉読の際、誤って戊申詔書を渡された校長が、部下の過誤を庇うためにそのまま暗唱で奉読したが、途中で行き詰まる。校長と教導が進退伺い謹慎。

式次第・取り扱い・保管

・紀元節式場で号令役の体操教員が御真影拝礼の号令をかけ忘れて式を進行したため混乱、咎められる。

・御真影安置所の雀を追うため安置所に侵入した尋常高等小学校の生徒、不敬を理由に登校停止処分。

・教育勅語奉読の際、最敬礼すべきかどうかを巡って校長と教員が議論。マスコミで、議論すること自体が不敬と批判され、校長が依願免官。

火災・天災による焼失

・教室火災により「教育勅語謄本」も焼失、小使が解雇。(同種の事件多数)

・学校火災による「教育勅語謄本」焼失、宿直教員減俸、校長譴責。(同種の事件多数)

・学校校舎全焼により「御真影」「教育勅語謄本」焼失、校長と宿直職員免職。(同種の事件多数)

・三陸大海嘯(だいかいしょう)の際、校長が「御真影」「教育勅語謄本」の流失を防ぐため逃げ遅れて殉職。

殉職

・1896年(明治29年)6月の三陸大海嘯、尋常高等小学校長が津波襲来に際し家族を非難させた後、御真影を紐で体に結びつけて非難しようとするところを津波に呑まれ死亡。翌日、体に結びつけた「御真影」とともに遺体で発見。「御真影」殉職第1号。

・仙台市県立第一中学校校舎火災の際、書記が取り出そうとして逃げ遅れて殉職。

・「教育勅語謄本」盗難のため減俸処分を受けた校長が、5名の子女を道連れに服毒心中。

・校舎火災にあたって、校長が御真影を取り出そうと猛火の中に飛び込んで焼死。

・関東大震災での殉職者41名(神奈川県27、東京府13、千葉県1)。うち東京13名中の8名までが、「御真影を守護」「御真影奉遷のため奮闘中」の殉職。

 

広島市の「教育勅語」問題に思う

職員研修で「教育勅語」の引用を続ける広島市の松井一実市長は、「爾(なんじ)臣民(しんみん)父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ、友ニ夫婦相和シ」と博愛や修学、公益を説く一節を引用し、他の文でも「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、また、後輩につなぐことが重要」と、温故知新の精神で語ったとのことです。

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた碑文を前に、毎年「平和宣言」を発するヒロシマの市長として、到底考えられない見識です。唖然とし言葉もありません。

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先に紹介した小股憲明さんの「教育勅語・御真影をめぐる不敬事件と学校儀式」冒頭部分は、「ヒロシマの心」と重なるとても大切な一節だと思います。少し長いですが紹介します。

アンダーラインは筆者(あかたつ)が付けました。

詔書(しょうしょ)勅語(ちょくご)(勅書、勅旨、勅諭とも)、両者を総称して詔勅とは法律・命令とは別に天皇の意思を公的に表明したもの。詔書は国家的重大事について、勅語はそれ以外について。教育勅語は、明治天皇が君主の意志として、国民(臣民(しんみん))に道徳を教え諭したもの。その内容は明治憲法の下での近代的国民に求められる諸徳を掲げたものだが、国民主権の原理に立つ日本国憲法と相容れず、今日の学校で憲法・教育基本法に抵触しない形で「教材」として用いることは、「勅語」という性格からしてあり得ない。また、今日の道徳教育は、すでに死んだ明治憲法下の亡霊を生き返らせなくとも、十分に可能である。親孝行、兄弟夫婦仲良く、友達は信じ合いなどの徳目も、教育勅語の専売特許ではない。」

 次号では国民の戦意高揚と「軍国少年」「軍国少女」を作り出すために用いられた当時のプロパガンダをもとに父の少年時代から予科練志願までの深層を辿ってみたいと思います。

(2025年6月6日、あかたつ)

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2025年6月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その70-1) ―「昭和100年」と父― その2-1

御真影(ごしんえい)教育勅語(きょういくちょくご)

父が生まれた1928年(昭和3年)は、昭和天皇が即位した年です。11月10日の「即位の大礼」に先立つ10月1日、16,338組の「御真影」が宮内省から文部省へ、文部省から各県へ、各県から全小中学校へと下付されました。「御真影」の下付は、明治維新後間もない1872年(明治5年)頃から、徳川将軍家に替わり新たな権力となった天皇を民衆に知らしめるために、天皇の肖像画や写真を官庁や鎮台、軍艦などに下付したことに始まります。

1886年(明治19年)に近代国家建設のため、国家に忠誠を尽くす国民を作り出し、天皇に対する忠誠心の喚起と児童・生徒に国家意識を啓発する一つの手段として学校への「御真影」の下付が広がります。1890年(明治23年)には教育の基本理念と国民実践の徳目を示す「教育に関する勅語」が公布されます。

各学校では、勅語奉戴式(ちょくごほうたいしき)・奉読式(ほうどくしき)をおこない、以後、学校儀式など折りあるごとに奉読され、修身教科書にも巻頭に掲載されて訓育の徹底が図られます。加えて、子どもたちは『少年倶楽部』や『少女倶楽部』など他の戦争プロパガンダ媒体によっても、「軍国少年」「軍国少女」に化していきます。(次号以降で取り上げます)

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1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治34年)の日露戦争の勝利で朝鮮半島や南満州の権益を手にします。1895年(明治39年)には南満州鉄道と周辺炭鉱などの権益防護を目的に、後に悪名を馳せる関東軍の前進である関東都督府陸軍部(かんとうととくふりくぐんぶ)を設置。列強の中国分割に加わり、「義和団の乱」など清国の混乱やその後の中華民国の内紛に乗じながら駐留軍を増強させます。そして、次第に中国大陸全土への帝国主義的な野望を露わにし、1928年(昭和3年)の張作霖(ちょうさくりん)爆殺、1931年(昭和6年)の柳条湖(りゅうじょうこ)事件、1937年(昭和12年)の盧溝橋(ろこうきょう)事件と関東軍の謀略は続き、ついに日中全面戦争に突入します。

こうして「御真影」と「教育に関する勅語」は明治から昭和にかけ、日本軍国主義(ファシズム国家体制)を完成させるうえで大きな役割を果たします。

「あんぱん」と重なる父の少年時代

「御真影」は火災などからの保護を目的に建てられた奉安殿(ほうあんでん)に収められ、教職員と子どもたちは登下校時には服装を正し最敬礼(さいけいれい)。たとえ遊びの最中でも奉安殿の前を通るときは立ち止まって奉拝(ほうはい)しなければなりません。四大節(よんだいせつ)をはじめ学校行事には「御真影」を最敬礼で奉拝し、「教育に関する勅語」の奉読(ほうどく)が課せられます。

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1900年(明治33年)8月発布の文部省令第21号「小学校令施行規則」には、次のように書かれています。

今田美桜が演じるNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公・のぶが、君主に忠義を尽くし、国を愛する模範的な人物という」「愛国の鏡」として女子師範学校を卒業し母校に赴任します。そこに映し出される昭和初期から満州事変、太平洋戦争へと突き進む時代の学校と子どもたちを見て、子ども時代の父に思いを馳せます。

「すすんで予科練を志願したのではない・・・」と、当時の思いを告げる父ですが、恐らく、多くの子どもたちがそうであったように、父もまた無垢(むく)な「軍国少年」でもあったのだろうと想像します。

と同時に〔やなせたかし〕の妻となる〔のぶ〕の当時の深層心理に思いを馳せ、何ともやるせない面持ちになるのは私一人ではないと思います。

(2025年6月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた原稿が長めですいたので、今日明日の2回に分けて掲載します。

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2025年5月25日 (日)

「さすが広島だ」と思われたい

5月、新学期がスタートして1か月が過ぎ、平和公園にも修学旅行生が戻ってきました。そして碑めぐりガイドの用事も、次々と入ってきています。

新学期最初の修学旅行生は滋賀県近江八幡市の中学生でした。久しぶりだったので改めて資料をチェックしましたが、やっぱり最初の言葉は、「よう来たね。みんなが来るのを待っていたよ」と笑顔で話すことにしました。

今年は大阪万博開催の関係で、広島は少ないのかなとも思っていましたが、今のところそんな感じは無さそうです。まあー大阪と広島は近いから、広島に来て、そして京都や大阪に寄るというコースで、両方行くというのもありでしょうね。

平和公園を訪れる人、昨年は外国人4割、修学旅行生4割、日本人2割と思っていましたが、今年は外国人5割、修学旅行生3割、残りの2割ぐらいが日本人一般観光客という感じでしょうか。日本人の大人にとって広島の魅力が少なくなったのでしょうか少し寂しくはなります。

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最近の修学旅行生は、ぼくも宿泊したことのないような。高級ホテルや宿に泊まるようです。大部屋に10人以上が泊まって『マクラ投げ』という定番は、昭和の物語りですね。宿泊料金も高額になり、さぞかし保護者の負担も多くなると思えば、広島での時間を有意義で、且つ楽しく過ごしてもらいたいと思うと碑めぐりガイドも頑張らねばという気持ちが強まります。

そのためか社会見学という形で、日帰りの形で平和公園を訪れる学校が増えているようにも思います。特に岡山県の中学校は熱心で、その傾向は、この10年以上から続いていますね。逆に、広島県内の学校は少ないですね。広島に住んでいると、平和公園は「新鮮味」がないのかも知れませんが、文部科学省からの「是正指導」という話しも聞いたことがありますが、そういう現場にいた経験が無いので何とも言えません。

碑めぐりガイドは、広島に住んでいる大人にも行うことがあるのですが、大人から「広島に長い間住んでいるけど、初めて知った」という人が多いのには驚きでもあります。

修学旅行生らが広島に来るにあたって学校で作った千羽鶴、その量は1年間で約1千万羽、重さは約10トンという話しを聞いたことがあります。その千羽鶴は再生紙になって市内にある公立の小・中学校の卒業証書の用紙になっていると話すと、「さすが広島だ」という感じでうなずき、関心した表情を見せてくれます。

その時には、改めて広島からの発信メッセージの大切さを感じます。決して大それたことでなくても、「さすが広島だ」という気持ちを修学旅行生たちに伝わったと受け止めた時、ジーンと思うのは毎回のことです。

ノーベル平和賞の受賞で頂いた賞金、全国の小中学校に中沢啓治さんの「はだしのゲン」を贈呈するというのは如何でしょうか。「さすが広島だ」という声が返ってくると思うのですが。

木原省治

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2025年3月 2日 (日)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その5

何か手がかりはないかと、さらに「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」のページをくくってみました。遺族や同窓生、同期生の多数の手記がならんでいますが、数が多すぎで全部をきちんと読むことはできません。一渡り手記に目を通し終わると、その次に「資料編」のタイトルがついてページが始まります。「資料編」には、「当時の残されている学校の記録など」のサブタイトルがついています。

「資料編」の最初に「追悼碑の一年生」のタイトルで、犠牲者の名前と、死亡日、死亡場所と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館ヘの遺影登録の有無が書かれた名簿があります。

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クラスごとに編集されていますので、まず「幸子」の名前のある6人を探し各人の「死亡場所」を調べます。その中に「己斐国民学校」となっている「幸子さん」が一人だけいました。一人だけですので、この人が、栗原貞子の隣家の「幸子さん」にほぼ間違いないと思われます。

2組の「土屋幸子」さんです。死亡日は、8月6日となっています。どうして死亡日が分かったのかは、後で紹介する資料ではっきりします。

次に調べたのは、「なぜ己斐国民学校に逃れていったのか」です。手がかりとなる記述があります。有朋45期宍戸和子さんが「第一縣女の被爆状況」に建物疎開作業の場所となった「土橋・小網町付近の被爆状況」として「一年生の引率責任者であった地理・歴史を担当の佐々木先生は原爆の炸裂により、全身負傷、両腕に大火傷を負ったが『僕は駄目だから皆さんは己斐の方に逃げなさい』と最後の指示を行い、生徒を救出するために負傷の身を翻してもうもうと煙る中に走り込んで『己斐に逃げる!己斐に逃げろ!』と叫びながら火炎の中に消えたのです。」と書いておられます。

これで、避難場所として己斐が指示され、土橋から西方面に向かい、己斐国民学校に何とかたどり着いたのです。己斐国民学校は、多くの被爆者が避難し、命がつきた場所です。

次に「己斐国民学校」の様子と死亡日が特定できる資料を紹介します。今度は、資料のもう一冊「広島第一県女の学徒勤労動員」です。

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その中の「Ⅲ-Ⅶ学校報国隊土橋建物疎開班」に記載された教員の坪井守麿さんの証言です。

「・・・夜中(*いのちとうとし注、「6日の夜」)己斐小学校に火傷した多数の第一県女の生徒がいると聞き、数名の職員とかけつけてみると、己斐小学校の暗い講堂の中には、建物疎開で動員中被爆した一年生らしい生徒で一杯になっている。全身火傷で皮膚が赤くやけ、男とも女とも見分けのつかない状態になってうづくまっていた。『第一県女の生徒はいいないか』との声にあちこちから『ハイ第一県女の生徒です』とはっきりした答えがかえってきた。約30人の生徒がいた。・・・翌日再度いった時は、全員がすでに死亡していた。」

「幸子さん」は、坪井先生の呼びかけに応えることができたのだろうかとつい思ってしまいますが、その答えを見つけることはできません。

「広島第一県女の学徒勤労動員」は、建物疎開への動員だけでなく全ての勤労動員の様子が、よくこれほど詳しく調べたなと思う内容で記されており、ほんとうに貴重な資料だということを紹介しておきます。

私が、栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」のモデルだと思っている土屋幸子さんの遺影が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているようですので、一度見に行きたいと思います。

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」は、今度こそ終わりです。

いのちとうとし

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2025年2月27日 (木)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その4

栗原貞子さんの体験記を紹介した昨日で「原爆で死んだ幸子さん」については、終わりにしようと思ったのですが、幸子さんの年齢が、高等女学校「一年生」だったのか「三年生」だったのかがどうしても気になりますので、もう少し調べることにしました。

手がかりは、「その2」で紹介した「作者附記 86日原子爆弾の惨状ありて隣家第一県女一年生かえり来まさず、9日ようやくにして死体は己斐国民学校にありときく、即ち叔父君、母君、私の三人で、午後4時より(中略)、私はこのときの情景を、後に『原爆で死んだ幸子さん』の詩に書いた。」です。

ポイントは、「第一県女」と書かれていることです。第一県女の原爆被災については、このブログでも書いたことがありますので、手元に2冊の資料があります。一冊は、廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期追悼の会が2007年7月27日に発行した「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」です。もう一冊は、と皆実有朋会(縣立第一高等女学校を継承した県立皆実高校の同窓会)が、平成29年(2017年)10月28日に発行した「広島第一県女の学徒勤労動員」です。

廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期は、学徒動員で土橋付近の建物疎開に動員され、多くが命を奪われた第一県女の一年生の同級生です。

ですので、この2冊のうち、特に「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」を中心に調べることにします。

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この本の「発刊に当たって」は、次のように文言で始まっています。

「昭和二十年八月六日、広島市に投下された原子爆弾により、廣島縣立廣島第一高等女学校では、多くの先生、生徒の方々が犠牲になられました。建物疎開作業に動員された一年生は、全員が被爆死でした。生き残ったのは、別の場所にいた一クラスとあの日欠席していた数人でした。」

その「発刊に当たって」の前のページに「在職在学中原爆による死没者名簿」があり、廣島縣立廣島第一高等女学校で原爆の犠牲となった教職員、生徒全員の名前が書かれています。まずその死没者名簿を調べてみました。栗原貞子さんの詩にある「三年生」の犠牲者は、わずかに5人の名前しかありません。その中に「幸子」の名前を持つ犠牲者はいません。

次に、土橋付近で建物疎開に動員され多くの犠牲者を出した一年生の名簿を調べることにします。一年生は、223名全員が犠牲になっており、「幸子」の名前を持つ生徒は、6人います。一年生の犠牲者の中に「幸子さん」がいたことははっきりしました。これで「幸子さん」の学年問題は、「栗原貞子全詩編」に書かれた「作者附記」の「隣家第一県女一年生」と言うことが正しいことがほぼ確認できました。これで、「幸子さん」は、ほんとうは何年生だったのかという疑問は、解決しました。

しかし、当初の疑問は解決したのですが、「幸子さん」が6人いることが分かると、栗原さんの詩に出てくる「幸子さん」は、そのうち誰だろうという新たな疑問が出てきました。その結論をどうしても知りたくて、もう少し調べることにしました。

調べると、名字を確認できる重要な資料があり、この人が、栗原貞子さんの隣家の「幸子さん」ではないかというところにたどり着くことができました。

その結果は次回報告します。

いのちとうとし

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2025年2月 2日 (日)

紙屋町シャレオ古本まつり

第34回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、紙屋町シャレオ中央広場で、1月25日から今日2月2日までの会期で開催されています。

今回は岡山、山口、福岡の店舗を含め10店舗が出店しています。時々郷土史や原爆関係の珍しい本が棚に並ぶことのある岩書房の出店がないと言うことを事前に聞いて残念に思っていましたが、いつも通り初日のオープン時に行ってきました。

オープンしてすぐに訪れる人の姿が増えてきました。

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いつもより多い気がします。数日後、とりまとめ役であるアカデミイ書店を訪れたとき、「古本まつり、売れゆきはどうですか」と尋ねると「来場者も多く、それなりの売り上げがあります」とのこと。どういうジャンルの本を探しているのはわかりませんが、意外と、というとちょっと変ですが、若い女性の姿が目に付きます。上の写真もよく見ると真ん中奥の方に若い女性の姿が何人か映っています。

最近自宅の本を少なくするための整理をしていますので、以前のように安いから珍しいからといって買い込むことはできません。各店の郷土史、原爆関係の本が置かれている棚だけを見て回ります。私もこれまでにかなりの本を入手していますので、「これは」という本はなかなか見つかりません。

今回は、購入本なしで帰ろうかなと思いながら、最初の頃に見た棚をもう一度見ると、ちょっと興味をそそられる本の表紙が目に入りました。

「昭和二十年十一月 終戰教育事務處理提要 第一輯 文部大臣官房文書課」

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少し茶けた本で、パラフィンの袋に入っています。出展者は、アカデミイ書店です。会計のところに顔見知りの店員の姿がありましたので、お願いして袋から出してもらいました。終戦直後に発行された本で紙質はよくありませんが、保存がよかったのでしょうきれいな状態です。

表紙を開くと終戦の詔書が、旧漢字で書かれています。興味深いのは、日付が「昭和二十年八月十四日」となっていることです。

それはとりあえず置いて、次のページに「凡例」として次のように書かれています。旧漢字とカタカナで書かれているのですが、読みづらいので新漢字とひらがなで記載します。

「本輯は、昭和二十年八月十五日終戰に伴い連合国軍側より日本帝国政府に対し発せられたる教育関係の指令覚書等を収録せり。

本輯は終戰に伴い本省関係の閣議決定、次官会議決定(報告、了解事項を含む)及び諸通牒類を収録し事務担当者の便に供せんとするものなり。

本書は付録として終戰に伴い制定並びに廃止せられたる法令をも便宜収録することと競り」

これで、この本がどんな目的で発行されたのかがわかります。

「第一章「ポツダム」宣言並びに指令」の最初には、「ポツダム」共同宣言が収録され、付録として「カイロ」宣言も記載され、次に「連合国軍側よりの指令」と続きますが、もっとも古い日付は、昭20・10・11です。

第二章からは、閣議決定や次官会議決定が記載されています。興味深いのは、終戰日といわれる昭20・8・15に「聖旨奉戴方に関する件」と題した訓令が出されていることです。さらに翌日の昭20・8・16には文部次官、厚生次官のなで「動員解除に関する件」が出され、工場に出動していた学徒の動員を解除し、帰校させることが指示されています。私が、以前、呉海軍工廠に動員された島根県、鳥取県に終戦後いち早く帰郷したことをこのブログで紹介しましたが、それを書いたときは、なぜすぐに動員が解除されたかまでは調べることができませんでしたが。これで理解ができました。

さらに後ろの方の「第四章終戰に伴う諸調査」に最初に出てくるのが「原子爆弾災害調査研究に関する件」です。興味深い内容です。この日付は、昭20・9・15です。

ここまで見て、やはり購入することにしました。定価は、1500円です。

この値段が高いか安いかは、これからこの本をどう活用するかに架かっていますが、少なくとも今回を逃すと、再び目にすることはないと思われる本です。

戦後、どのように教育改革が行われたのかを知ることのできる書物の一つのように思える興味深い本であることは間違いありません。じっくりと読みたいと思っています。

こうした本との出会いがあるので、どうしても出かけてしまう「古本まつり」です。

いのちとうとし

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2025年1月21日 (火)

第51回在日朝鮮学生美術展

今日(21日)から24日までの会期で「第51回在日朝鮮学生美術展」が、旧日銀広島支店で開催されます。

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在日朝鮮学生美術展実行委員会が主催し、全国を巡回して開催される展覧会です。昨年9月4日の神戸展をスタートに,広島展までに8会場で実施され、この後山陰展など3会場での開催が予定されています。

毎年朝鮮学園の生徒達による作品が、並びます。今年は50周年という節目の年でもあります。

昨日、午前10時から作品の展示作業が行われ、日朝友好県民の会からも応援の呼びかけがあり、私も午前中だけですが、参加しました。

作業は、大きな木箱に収められた作品を運び込み、箱から出す作業から始まりました。

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額装された作品だけではありません。紙に描かれた作品は、何枚かをつなぎ合わせて一組にする作業もあります。

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つなぎ合わせた作品は、二階の回廊から吊り下げることになります。

大きな作品は、何枚かに分割されていますので、裏側に板切れを取り付け、完成させます。

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沢山の作品が届いていますので、展示作業には時間がかかります。

私が協力できたのは、正午過ぎまででしたので、取り付けが完了し、全作品が並んだ会場風景をお伝えすることができませんが、梱包から出てきた作品は、本当に力作揃いでした。

今日改めて展示が完了した会場を訪れる予定です。

朝鮮学園にまなぶ子どもたちの感性豊かな作品に触れ,朝鮮学園への理解を深めて欲しいと強く感じますので、ぜひ一人でも多く会場に足を運んでいただけると嬉しいなと思います。

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2024年12月29日 (日)

修道中学校職員生徒慰霊碑

日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースに接して以降、何人もの被爆者の皆さんのことを思い出しました。

その一人が近藤幸四郎さんです。近藤さんは、1974年の広島被爆者団体連絡会議発足に尽力し、その後亡くなる2002年まで、事務局長を努められました。私が接した多くの被爆者の中で、もっとも身近で,もっとも多くのことを教えていただいたのが近藤幸四郎さんでした。写真は、2001年12月6日の写真で、近藤さんのお気に入りの一枚で,小澤こうさんの写真集「2002ひろしま」の巻頭に掲載されています。

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1945年4月修道中学入学した近藤さんも、連日「学徒動員」にかり出されていました。8月1日から10日間の予定で、広島市役所裏の雑魚場町で建物疎開に従事していた近藤さんですが、作業効率が低下した生徒の姿を見かねた担任の先生が5日の作業終了後「疲れているから明日はゆっくり休め」と言い渡され、原爆が投下された8月6日は、自宅近くの御幸橋で友人と遊ぶことになり、命を奪われることから免れました。

前々から訪ねようと思いながら実現していなかった近藤さんが修学していた修道中学(現在の修道高校)の「修道中学校職員生徒慰霊碑」をこの機会に訪ねようと,学校が冬休みになった27日に中区南千田西町にある修道高校に行ってきました。

学校に着くと、許可を得なければと事務所を訪ねました。応対していただいた事務員さんから、予想もしなかった返事が返ってきました。

「今、修道学園創設300周年事業として本館建て替えなどの工事をしているため、わたしたちも慰霊碑に近づくことができないのです。」

そして、示されたのが「修道学園同窓会会報第90号」でした。

そこには、本館建て替え工事のための「慰霊碑」を移設させた時の写真やきれいに整備された広場の完成予想図が、掲載されています。

慰霊碑の移設は、4月19日から6月26日までに執り行われたようです。

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完成後の広場の中心に慰霊碑が建っています。

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「来年10月には、整備が終了しますので、あらためてきていただけませんか」とのこと。

残念ですが、今回は慰霊碑への参拝はあきらめるしかありません。

あきらめて事務所から外に出ると、向かい側に工事用の資材の間に慰霊碑の上部が見えます。作業の邪魔にならないよう遠くから写真を撮りました。

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蔵のような建物の左側に慰霊碑が写っています。

今回この碑を訪れようと思ったのは、近藤さんのことを思い出したことの他にもう一つ理由があります。

11月に開催された紙屋町シャレオ古本まつりで「修道学園史」を購入していたからです。「修道学園史」には、「動員・原爆」の項があり,約40ページにわたって詳細に記述がありますので、この本を手に訪れたいと思っていたからです。

「修道中学校職員生徒慰霊碑」めぐりは、学校整備が終わった来年10月頃に改めて行いたいと思います。

「修道学園史」に書かれた被爆の被害の実相はその時に紹介したいと思います。

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