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学校

2023年8月11日 (金)

今年も「原爆の絵画展」に行きました。

86日から24日まで広島国際会議場地下2階ダリアで、「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」が、開催されています。

今年もこの「原爆の絵画展」に行ってきました。

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原爆被害の実相を後世に伝えていくとともに、被爆体験を継承していくため、基町高校の生徒たちが、被爆体験を聴き、想像を絶する光景をどう描くが思い悩みながらも、資料を集め、証言者と何度も打合せを行い、約一年かけて描き上げたのが「原爆の絵」です。

7月3日に完成披露された今年の作品は、9点です。会場には、9点全てが展示されています。

全ての作品を紹介したいのですが、ここでは新作のうち最初に展示されていた作品を紹介します。

タイトルは「赤子を抱き、腕から血を噴き出しながら『助けてー』と叫んでいる母親」です。被爆体験証言者は山瀬淳子さん、制作者は木村光希さんです。

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作品一枚一枚に、説明文や生徒、被爆体験証言者のコメントが書かれてパネルが展示されています。

この絵には、次のような説明が付いています。

描いた場面の説明「原爆投下後間もなく、隣のおばさんが幼児を抱き抱え、山瀬さんの家の前のバス道路で『助けてェー、助けてェー』と叫んでいて、左手から血を噴き出していました。近所の人は、パニック状態で、誰も助ける余裕がなかった。」

生徒のコメント「『助けて』と叫ぶ表情、血が噴き出している、赤ちゃんを抱きかかえているという三つの大切な要素を1つ1つ、どうやって表現するかということに苦労しました。人物が主役になる絵だったので、出来るだけリアルに描くことを意識しました。原爆の絵を通して、広島に住む高校生として、山瀬さんのお話を絵で表現し、平和について向き合う機会を得られて良かったです。少しでも多くの若い世代の人や広島県外に住んでいる人の目にとまれば良いなと思います。」

被爆体験証言者のコメント「顔合わせの時には、言葉ではなかなか伝えにくい場面、状況の映像をどうにか言葉で伝えるつもりでした。その絵の制作途中では、絵を見ながら意見を交わしたり、メールで画像を送ってもらって確認しました。絵がほぼ完成の段階で訂正を求めたりもしました。大変申し訳なく思っております。お陰様で被爆の悲惨さが伝わる良い絵に仕上げていただきました。ご苦労様でした。有り難うございました。感謝。」

制作者と被爆体験証言者、二人が葛藤しながら作品を仕上げたことが伝わってきます。

全ての作品に同じような説明文が付けられていますので、一つ一つ読んでいくとかなりの時間がかかりますので、今回は、新作9点を中心に読み進んでいきました。

ただ、この説明文は作者、被爆体験証言者の思いが知ることが出来、絵をより理解することが出来ますので、少しでも多く読んで欲しいなと思います。

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これまでに完成した作品は、191点。作成に協力した被爆体験証言者は、31人です。

今回展示された作品は、約50点です。(数え忘れましたので、約としました。)

最近は、この絵が被爆証言を話すとき、当時の状況をより理解してもらうために使われているようです。

今月24日まで開催されていますので、ぜひ見に行ってください。

いのちとうとし

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2023年6月27日 (火)

広島大学供木運動―広島大学創立70周年記念写真集

先月の27日から4回にわたって「復興のために贈られた広大の供木」の現在について紹介しましたが、昨日別の資料を探しているとき、供木が植栽された当時の様子を知る資料を見つけることができました。以前から気になっていた資料を見つけることができたというのが正し言い方かも知れませんが。

その資料は、広島大学が2020年2月に発刊した「創立70周年記念写真集 広島大学の70年」と題した26ページの写真集です。

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この写真集は、広島大学75年史編纂事業に一環として発刊されたものです。

その中で「7 自由で平和な一つの大学」とタイトルが付いた見開き2ページ(p.15,16)の右側1ページ全てを使って、当時の供木運動の様子が写真で掲載されています。

・理学部付属植物園で試験栽培された樹木・苗木を植樹する森戸学長・植樹直後のフェニックスや世界各地に送られた森戸辰男学長の「樹木の提供依頼書状」など、7枚の写真で構成されています。

興味深く見たのは、正門とともに写っているフェニックスの写真です。森戸学長が、「原爆焼け野原から復興するシンボルとして、灰の中からよみがえる不死鳥(フェニックス)と同じ名前をもつ樹木を選んだ」と記載されています。

このフェニックススは、ブログでも紹介したように、当時植えられた同じ場所に、今も元気な姿で大きく育っています。

当時の様子を知ることのできる貴重な写真ですので紹介したいのですが、写真の無断使用が禁じられていますので、残念ですがここでは紹介できません。

またこの写真集には、広島大学の前身である広島文理科大学、広島高等師範学校に在学していて被爆した東南アジア出身の「南方特別留学生」が納まる写真や当時の原爆被災に関する資料も掲載されています。中国からの留学生については触れられていないのが残念ですが。

この原爆被災に関するページには、被爆後の広島文理科大学付近の写真も掲載されており、それを見ると、正門の一が現在よりも北側に位置していたことがはっきりとわかります。

この写真集は、広島大学文書館のホームページ(大学史関連刊行物 | 広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)でPDF版を見ることができますので、興味がある方はぜひ検索してみてください。

いのちとうとし

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2023年6月 9日 (金)

広大の供木はなぜ残った?

先月の27日から3回にわたって「被爆復興のために贈られた広大の供木」(被爆復興のために贈られた広大の供木の今: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))を紹介しました。その最後に「市役所を訪ね、この説明板設置に至る経緯を調べてみたいと思います。」と書きました。その後、公園を管理する広島市に「当時の資料が何かありませんかないか」と問い合わせていましたが、「これではないかと思う資料が見つかりました」との連絡が入り、昨日担当課を訪れました。

その資料の名前は「東千田公園基本設計報告書」(以下「報告書」)です。

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この報告書は、1997年(平成9年)に、広島大学跡地を主会場として開催された「第14回都市緑化ひろしまフェア」に向けて、広島大学跡地を「東千田公園」として整備するために作られた基本設計報告書です。

この報告書の中で,公園整備にあたっては「既存樹木の価値を再確認し、できる限り現状の位置での活用を前提とした」とし,特に「広大の供木」について「『世界の人びとからの好意の結集』である献木を保全・活用し、『緑・いのち』のテーマと連動させて計画し、特徴あるフェア会場とする」とし、会場の中心的役割を与えています。

そのため、報告書の末尾には、1995年(平成7年)に実施された「広島大学跡地既存樹木調査」の結果が詳細に記載されています。

その調査は、「フェニックス等の寄贈植物の移植について」の著書がある広島大学理学部教授の豊田源太郎さんへのヒアリング、現地立ち会い、資料の提供を受けて、全部で1063本を調査し、そのうち22種、162本が「供木」であることが確認したようです。

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報告書には、その一番の根拠資料となったのは,広島大学が1995年に作成した「広島大学本部跡地植栽樹木調査と図面一覧表」だったことが記されています。

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上図には、小さくて見え難いのですが、供木が、種類ごとに色分けして表示されています。

この広島大学の調査書が、なぜ広島市の調査と同じ年になっているのかは不明ですが、「東千田公園」の整備計画で「戦前に建てられた旧理学部1号館と既存樹木を残して、既存施設を撤去する」と、かつての広大の痕跡が大きく変化することになったので、広島大学としても現況を調査しようということになったと想像されます。

いずれにしても、この場所が「都市緑化フェア」の主会場として使われるようになったことが、「供木の記録」を残す大きなきっかけとなり、大切に保存されることになったことは間違いないと思われます。

ただ、供木は、広大本部跡地全体に植えられましたので、現在の旧理学部一号館前の広場以外に植えられていた供木は、残念ながら現在は存在しません。

それ他にも,例えば先日4本と紹介したオリーブの木は、寄贈を受けたのは11本で,ほぼ同じ場所に植えられたのですが、公園整備の中で一部が公園区画に入らなかったため、内7本しか残されず、その後枯れたりしてさらに4本に減ったということになります。

さらに今回わかったことですが、先月28日のブログで供木として紹介した「ソテツ」は、「広島大学本部跡地植栽樹木調査と図面一覧表」のリストには掲載されていませんでしたので、訂正する必要があります。

今回「報告書」を調べていたわかったことは、世界から贈られて供木が、ただ「残っている」というのではなく「供木」として大切に扱われ、現存しているということです。

ほっと安心する気持ちがわいてきました。

いのちとうとし

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2023年5月29日 (月)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その3

フェニックス北側の花壇には、ホルドノキ4本があります。

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この木の説明板は、木に取り付けられていました。

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説明板には「寄贈/(米国)南イリノイ大学」と書かれています。

フェニックスの奥に進むとメタセコイアの並木が,旧理学部一号館に向かった左右に28本並んでいます。

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樹高はわかりませんが、大きく育っています。

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説明板には、「寄付金によりカリフォルニア大学から移入された個体を母樹とした苗木を京都大学から移入」と書かれています。

このメタセコイアの右側にキンモクセイが植わっています。嘉陽さんの説明では、イギリスのマックローリンさんから贈られたもののようです。個人からも寄贈があったことがわかります。

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説明板は付いていませんし、左右にタイサンボクが大きく繁っていますので、「森戸道路」からは気をつけないと気づかないかもしれません。逆光になりますので、南側に回って写真を撮りました。

キンモクセイの開花時期は、9月中旬から10月下旬ですので、その時期には花の香りが一面に漂いますので見つけるのも簡単だと思います。

少し旧理学部一号館方向の進むと左側、タワーマンションの近くにサンゴジュが2本あります。

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この木も、説明板はありませんが、この木は、イギリスのエジンバラ大学から贈られたものです。

この木から「森戸道路」を挟んで反対の南側に移動するとシマトネリコの説明板が目に付きます。

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この説明板には「寄贈 アルゼンチン ペロン大統領エビータ夫人 記録にはアメリカトネリコとして記載されている」と書かれていますので、大学以外からも贈られたことがわかります。

嘉陽さんから最初の届いた資料では、「看板付近のエリアにシマトネリコの樹木が見当たらないので今回カウントしていない。」と書かれていましたが、改めて昨日この場所に行って見ると、説明板の南側にシマトネリコと思われる木を数本見つけました。

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よく見ると、木の幹がかなり細く見えますので、供木樹木そのものかどうかは不明です。

このシマトネリコの東側にトイレがありますが、その手前南側にスイスのジュネーブ大学から贈られたオリーブの木4本があります。よく探したのですが、説明板は見当たりません。

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4本といっても、わたしたちがよく見るオリーブの木のように高く伸びていません。丸い生垣状ですので、この木が供木樹木だとはとても思えません。

嘉陽さんから「少し枝をかき分けて根元を見てください」と言われましたので、根元を見てみると,根元付近に大きな幹の切り株を見ることができます。

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今のオリーブの木は、贈られて木の切り株から生えたひこばえが育ったもののようです。

このオリーブの木のすぐ近く、トイレの東側には、西ドイツ・マールブルグ大学から贈られた3本のタイサンボクが元気に育っています。

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丁度白く大きな花(手のひら大)を咲かせていました。

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これで、嘉陽さんの「森戸緑化運動樹木」リストに掲載された樹木を見終えました。

最後の嘉陽さんから「私が作ったリストは、この公園内にある『公園の説明板』を元にして作ったのです」」といわれ、公園の真ん中ほどにある説明板を見に行きました。

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この説明板には、公園の概要とともに右端に「献木とキャンバス緑化』とのタイトルで,現存する献木と当時木を贈った大学名が書かれています。

この説明板は、内容からいって公園を管理する広島市が作ったものと思われます。そうであるとすると、広島市は、この情報をどうして得たのだろうかと疑問がわいてきました。

というのも、この旧広島大学跡地には、説明板の「献木」リストには載っていないが、樹木の大きさからそうではないかと思われる木がまだ多数在るからです。

市役所を訪ね、この説明板設置に至る経緯を調べてみたいと思います。

今回、広島大学の供木樹木を訪ねてみた、改めて広島の復興は、多くの人たちの支援によって成し遂げられたということを学ぶことができました。

いのちとうとし

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2023年5月28日 (日)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その2

当日約束した午前10時半に広島大学東千田キャンパスの広島大学平和センターに行くと嘉陽礼文さんが、入り口で待っておられましたので、すぐに樹木散策をはじめました。

最初に、東千田キャンパス入り口北側(広島大学平和センターの建物の西側)のソテツを見ます。

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このソテツには他の樹木にあるような説明板はありませんが、嘉陽さんの説明では、「2010年頃に理学部の出口教授より『最低でも60年以上の樹齢』と診断されているので、間違いない」とのことでした。このソテツは、台湾大学から送られたものです。

この後、東千田キャンパスにある「広島大学原爆死没者追悼之碑」の周辺も散策しましたが、ここにははっきりと供木樹木と確認できるものはありませんでしたので、東千田キャンパス地域の供木樹木の紹介は終わりです。

いったん電車通りに出て、北側に移動し旧理学部一号館がある東千田公園(旧広島大学キャンパス跡)に移動しました。

最初の目に入ったのは、正門(旧広島大学の正門)の手前にすくっと立つ大きな6本のフェニックスです。

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このフェニックスは、アメリカ・ウエスリアン大学から送られてものです。

よく見ると、右列奥の一番生の高い木の上部には、宿り木が生えていました。フェニックスの宿り木は珍しい気がしましたので、写真を撮りました。

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この木には、説明板があります。

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「寄贈 米国ウェスレイアン大学(寄付金)」と書かれていますので、このフェニックスは、苗木が贈られてきたのではなく、贈られた寄付金によって苗木が購入されたことになります。

さらに説明板には「初代森戸学長がフェニックスス(不死鳥)の意を込めて植栽(1957~1958年)し、学章のデザインとした」と刻まれていますので、当時の緑化運動の中でも重要な樹木であったことがわかります。

ちょっと横道にそれますが、正門の位置のことです。

昨日紹介した石田雅春さんの論文には、「広島大学原爆被災史『生死の火』」から引用した被爆前と1975年(昭和50年)の東千田キャンパスの地図が掲載されています。

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上の図が、被爆前、下図が昭和50年当時の建物の配置図で、両方とも中央上部に黒く塗りつぶされているのが、現在も被爆建物として残っている旧理学部一号館です。

注目して欲しいのは、正門の位置です。被爆前は、旧理学部一号館の正面より向かって左側に位置していますが、昭和50年の地図では、旧理学部一号館の真正面に正門が移設されています。

石田さんは、「戦前は正面から文理科大学本館(旧理学部一号館)を直接望むことはできなかった。ところが戦後は、旧理学部一号館の真正面に正門が移設され、旧理学部一号館を大学の貌(かお)としてキャンパスの整備が進められたのであった。のちにこの正門から旧理学部一号館に至る経路は『森戸道路』と呼ばれるようになり、広島大学を象徴する景観として親しまれるようになった。」と、この論文の中で書いています。

この文章を読めば、このフェニックスが旧広島大学の象徴だったという説明文が、より理解できると思い、あえて横道にそれました。

さらに、先に石田さん経由で贈られてきた嘉陽さんの樹木リストに「植樹された森戸緑化運動樹木」とのタイトルが付けられていた意味もこれでより理解できます。

写真には写っていませんが、左右のフェニックスの真ん中をまっすぐ進んだ先に旧理学部一号館の正面玄関があります。

「被爆復興のために贈られた広大の供木の今」は、今回で終わる予定でしたが、少し長くなりましたので、つづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年5月27日 (土)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今

広島市の戦後復興期、平和公園や平和大通りの緑化のために全国、県内各地から多くの樹木の苗木が贈られたことは「供木運動」として知られています。

旧広島大学千田キャンパスには、世界から届けられた供木が、今も元気に育っています。

1949年(昭和24年)5月に学制改革によって誕生した新制広島大学で初代学長に就任した森戸辰男さんが、1951年1月に世界各地の大学や研究機関に書簡を送り、広島大学の再建・復興への協力を依頼しました。

その要請の中で森戸辰男学長は、「この新しい大学を平和都市の精神的・文化的中心にふさわしい平和の大学に建設していくために、誠意努力しています」とし、具体的には二つの協力要請をしました。その一つは「平和問題研究所を設置するために必要な関連の書籍」で、もう一つが「原爆被災によって荒廃した大学構内の緑化に必要な植物の種子・苗木の寄贈」でした。

この呼びかけに応じて世界各地から2,096冊(昭和29年7月まで)の書籍と苗木261本・種子934袋寄付金37万円が寄せられました。

届いた苗木と種子は、旧理学部第一号館を中心として、キャンパスの緑化と整備が進められました。

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と書いたのですが、この情報は「芸備地方史研究」(広島大学内芸備地方史研究会発行)272号(2010年発行)に記載された「広島大学旧理学部一号館のあゆみ」からの引用です。

この「広島大学旧理学部一号館のあゆみ」の筆者は、今月1日のブログ森滝市郎先生の自筆資料など広島大学に寄贈: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した広島大学文書館の石田雅春さんです。

10年以上前の文章ですが、届いた苗木などが、今どうなっているのか知りたくなり、石田さんに問い合わせました。問い合わせた翌日に次のようなメールが返ってきました。

「お問い合わせありがとうございました。お尋ねの件について、大学の平和センターで研究員をしている嘉陽礼文氏がもっとも詳しいので、嘉陽氏が調べられた成果を提供してもらいました。いただいたデータを添付ファイルでお送りしますので、よろしくお願いします。」

添付されたファイルは、現存する樹木のリスト、手書きの地図、樹木の写真です。そして連絡先も書かれています。

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早速嘉陽さんに電話を入れました。あらかじめ石田さんから「金子から連絡がある」旨伝えていただいていましたので、話はすぐに通じ、改めて現場を一緒に回ることを約束していただき、電話を切りました。

そして数日後の今月の24日に、嘉陽さんと一緒に現地を回り、現存するリストにある50本を見てきましたが、その様子は明日報告します。

いのちとうとし

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2023年3月11日 (土)

平和教育の構築を!

23年28日の市教育委員会議において、広島市教育委員会が「平和教育プログラム」を改訂することが報告され、「ひろしま平和ノート」小学校3年生教材からの「はだしのゲン」削除が明らかになりました。市教委は、「漫画の一部を教材としているため、被爆の実相に迫りにくい」「浪曲は、児童の実態に合わない。鯉を盗む描写は、誤解を与える恐れがあり、補足説明が必要となるため、被爆の実相に迫りにくい」等と課題をあげています。

80年近く昔が舞台であり、現在の子どもたちにとって時代背景がわかりにくい部分があって当然です。しかし、その壁を越えて子どもたちの心に迫る普遍的な力が「はだしのゲン」にはあります。実際、現場の教職員は補足資料など工夫しながら授業をし、子どもたちはゲンを通して戦争や原爆の実相に触れ、中沢啓治さんが作品に込めた二度と戦争や原爆を繰り返させてはならないという強い思いや怒りを受け止めてきました。

市教委が「平和教育プログラム」の検証を行った有識者会議においても、議論の末に削除すべきとの結論に至った様子はなく、このたびの市教委の説明は到底納得いくものではありません。通常の授業のどの教材であっても、子どもの実態や地域の実態をふまえて授業づくりをするのは当たり前です。ましてや、人権や平和を学ぶことが教育の最上位目的であることを踏まえると、まさにこれは私たちの『本務』であり、業務削減すべきは全くそこではありません。

「はだしのゲン」については、2012年に学校図書館での閲覧制限を設けた松江市を始め、他の自治体や広島市にも、一部の人々からの圧力がかけられてきました。その状況を踏まえると、十分な理由もなく削除を決め「こういう大きなことになるとは思わなかった」という市教委の認識は疑わざるを得ません。

加えて、今回の改訂では中学校3年生教材から「第五福竜丸」を削除することもわかりました。広島市が核兵器禁止条約の締結を求めるのであれば、当然、核実験による被害や核軍拡競争の実相、核廃絶に向けたとりくみを学ぶ教材として欠かすことができないものであるはずです。

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2014年度版 ヒロシマ平和カレンダー(広島平和教育研究所)

3月6日、広島県教職員組合(広島市教組と連名)、広島平和教育研究所、一般社団法人広島教育会館は、広島市教委に対し、教材としての評価を明らかにすること、削除に至った経緯を明らかにすること、削除を撤回し平和教材として活用すること等を求め、申入れを行いました。

現行の「平和教育プログラム」も、加害の歴史を学ぶものになっていない等の課題があります。今回改めて行政のつくる平和教育の限界も感じました。だからこそ、問われているのは私たち自身です。行政に平和教育の推進を求めるとともに、日本国憲法・子どもの権利条約の理念の実現をめざし、私たちの実践の積み重ねによって、ヒロシマの平和教育を構築していく必要性をひしひしと感じています。

【情報提供】

■現行の「ひろしま平和ノート」と改訂に係る会議の議事録(315日までDL可)

https://87.gigafile.nu/0315-cb735bb80fab0260f0f5f679df78e9f5

■オンライン署名:ヒロシマの心『はだしのゲン』を「平和ノート」から削除しないで!

https://chng.it/gjG5dNPn

広教組 頼信直枝

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2023年2月23日 (木)

広島市の平和ノート「はだしのゲン問題」で広島県被団協箕牧理事長が申し入れ

広島市が作成する「ヒロシマ平和ノート」が次年度の改訂で「はだしのゲン」が削除される問題について、広島県被団協の箕牧智之理事長と前田耕一郎事務局長が、広島市教育委員会を訪れ、下記の内容の申し入れを行いました。私も箕牧理事長にお願いし、同行しました。

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(前文省略)

1 まずお伺いします。

・「はだしのゲン」を「平和教育ノート」から削除するに当たって、これほどの反応がある重いものであることを想定されなかったのでしょうか。

広島市は、中沢さんの作品・活動を評価して名誉市民とし、また、一連の中沢作品の原画の寄贈を受けて、貴重なものとして平和記念資料館で管理していると我々は認識しています。

その中沢さんの作品の扱いについてより慎重な判断があってしかるべきではなかったかと思いますがいかがでしょうか。

(2) 新聞報道によって経緯を見ると次のとおりです。

識者や学校長たち13人の会議でプログラム全体の内容を検証。うちゲンの場面(1)(2)について「児童の生活実態に合わない」「誤解を与える恐れがある」との意見が出た。作中の別場面を引用する案も出たが、「漫画の一部を取り上げるだけでは、被爆の実態に迫りにくい」として、場面(3)も載せず、(被爆者の体験談に)差し替えることにした。」217日中国新聞。( )部分と下線は被団協で挿入)

別場面の引用をせず差し替えることにしたとの結論に至る過程で、どれほどの検討がなされたのでしょう。会議録や決裁過程を示して議論の経緯と内容を教えてください。私たちは「はだしのゲン」には様々なエピソードがあり、切り口を変えることによって「はだしのゲン」を残す対応ができたのではないかと考えています。削除せず今回予定の体験記を加える方法もあったのではないかとも思います。どうでしょうか。

2 次に、外すことについての市側の対応についてです。

先にも触れたとおり広島市は中沢さんから作品原画の寄贈を受けて管理しており、広島市は事前に遺族の了解を得て原画を無償で利用できるようになっていると承知しています。

平和教育ノートに原画を使用するに当たって、広島市は遺族に了解を得たのでしょうが、使わなくなることについて報告したのでしょうか。

削除を決めたのであれば遺族に経緯の説明と感謝の意を込めて連絡するべきだったのではないでしょうか。それが無償で掲載を承諾している遺族への礼儀だと思いますがいかがでしょうか。

3 もうひとつ重要なことがあります。

ご承知のとおり原爆の使用がもたらす結果は酷いものです。多くの人が一時に死に、傷つき、後々まで苦しみます。そして、戦争も多くの酷い死をもたらします。

私たちはその酷さを子どもたちにしっかり認識して欲しいと思っています。そのことによって原爆・戦争はいけないとの考えを身につけることができると考えるからです

その点において私たちは「はだしのゲン」の果たしている役割を高く評価しています。

広島の子供たちには私たち原爆で被害を受けた者たちが肌身で感じた悲惨さ、酷さを知った上で「平和」を口にし、訴えて欲しいと思っています。

教育は本当に大切なものです。かつて我が国は、国民を、そして子供たちを戦争に協力させ渦中に巻き込んでいきました。その反省から現在の憲法があり、それに基づいた教育があります。過ちを繰り返さないため、「平和」についての根本を子供たちに理解させるよう力を尽くして頂きたい。それを心から願っています。

核、力による支配の脅威が大きくなっている今、広島の平和教育の重要性はますます高まっていると感じています。このことに心を致しながら教育を進められるよう強く念じ、申し入れます。


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これに対し、広島市は「子どもたちにわかりやすい内容にしたいと思いで改正を検討したものであり、『はだしのゲン』を意図的に削除したものではない。高校生が使う『平和ノート』には、中沢啓治さんのことがそのまま残っている。今回の改正では、この部分だけでなく,他にもかなりの修正を行った」などの説明がありました。しかし、十分に納得のできる内容とはいえません。

また「これほどの問題になるとは思わなかった」との認識を示しましたが、これは「はだしのゲン」に対する認識の低さを示したものといえます。さらに「はだしのゲン」の著者中沢啓治さんの遺族に、未だ全く説明していないことも明らかになりました。頭をひねる広島市の対応といわざるを得ません。

広島市は、「この問題を審議した会議の議事録は、情報公開請求があれば公開する」としています。本来なら情報公開請求をしなくても,自らが情報を公開すべきだと思いますが、会議の内容を吟味する必要があると感じました。

いのちとうとし

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2022年12月16日 (金)

日朝友好広島県民の会2022年度総会の開催

日朝友好広島県民の会の2022年度総会が、14日午後6時から広島留学生会館で開催されました。

総会は、佐藤奈保子事務局次長の司会で始まり、最初に足立修一代表委員が開会のあいさつ。続いて議事に入り、大瀬敬昭事務局長が、2021年度活動報告、会計決算を提案、森脇浩二会計監査が、会計監査報告を提案しました。

報告された主な活動は、「コロナ禍で活動は制限されたものの①署名活動や支援活動を続けてきた成果として本年3月に広島市議会で「幼保無償化」が可決されたこと②11月7日に行われた「金剛山歌劇団2022年アンサンブル公演」をチャリティーコンサートして取り組み、広告料・チケットを合わせて1,392,000円を朝鮮学園支援として送ることができた」ことでした。

拍手・承認の後、大瀬事務局長から2022年度活動方針、予算案が提案されました。

取り組みの柱として「①日朝国交正常化の実現を目指し、全国の仲間とともに日本政府への働き掛けを強化する②朝鮮学園への「高校無償化」の適用、補助金の再開、物価高騰対策補助金適用対象を勝ち取るため、政府、広島県、広島市に対する取り組みを強化する③広島朝鮮初中高級学校における民族教育諸活動を財政面から支援するためのチャリティーコンサートなどのカンパ活動を引き続き取り組む④在日朝鮮人に対するあらゆる差別・偏見を許さず、在日朝鮮人の民主的民族的諸権利を擁護するための取組を継続・強化する」ことを確認しました。

役員改選では、代表委員に佐古正明代表委員の後任として高橋克浩さんが選出されました。

全ての提案が、参加者全員の拍手で確認されました。

最後に閉会あいさつを高橋新代表委員が行い、総会は終了しました。

総会の後、足立修一代表委員から、チャリティーコンサートの益金が、朝鮮学園に贈呈されました。

今年の記念講演は、「高校無償化裁判と今後の課題および取り組み」と題して朝鮮学校を支援する全国事務局代表長谷川和夫さんの講演でした。

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長谷川さん話しは、自らの経歴に触れながら「なぜ朝鮮学園に関わるようになったのか」から始まりました。特に印象に残ったことは、「現地の持つ力が大切だと思い、朝鮮学園の授業参観を地域ぐるみで実施した。そこに参加した小学校のPTA会長、保守といえる人ですが、参観後『地域の子どもは地域で守る』と発言し、その後、地域の見守り隊が組織され、続いている。地域の原点に戻る。そして地域から変えていかないと何も変わらない」という話でした。運動体だけでなく、地域をどれだけ巻き込んで朝鮮学園の存在、そしてそこで行われている授業などの様子を知ってもらうのか、これからの私たちの課題が提起された気がします。

この他にも長谷川さんは、毎年原水禁大会に参加していること、3月には杉並の子どもたちヒロシマ派遣団を連れて広島を訪れていることなど、私にとって別の意味で大事な活動の報告もありました。

厳しい情勢にありますが、この総会を契機にさらに日朝友好運動、とりわけ朝鮮学園支援運動を強化しなければならないと決意した総会でした。

いのちとうとし

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2022年11月16日 (水)

今年3度目の「原爆の絵画展」に行きました。

広島国際会議場で開催されていた「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」に行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに取り組んでいる「原爆の絵」の展覧会についてこのブログで、すでに今年2回(「原爆の絵」原画展に行っていました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com、新作が並ぶ「原爆の絵画展」に行ってきました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))紹介しています。

3度目になりますので、どうしようかと迷っていたのですが、1枚だけみたい絵がありましたので、最終日の13日に行ってきました。今日はその1枚について、紹介したいと思います。

その作品は、「おびただしい遺体(8月7日早朝、住吉橋東詰め)」とタイトルが付けられた、この作品です。

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被爆体験証言者は、飯田國彦さん、製作者は、高校3年生(当時)のサンガー梨里さんで、2021年度完成の新作です。

広島テレビのドキュメンタリー番組(番組名は失念して紹介できないのですが)で、飯田さんの被ばく体験と、この二人の共同による作品制作の苦労の様子の一部が紹介された場面が印象に残っていました。描かれた場所が「住吉橋東詰め」だったことも関心をもって一つです。この橋のことも、「住吉神社の被爆」のことを紹介したこのブログで触れていたからです。

この絵画展では、作品ごとに「タイトル、描いた場面の説明、生徒のコメント、被爆体験証言者のコメント」が書いたキャプションが横に貼られていますので、この作品への思いを知ることができます。

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番組の中で、この作品の制作風景とともに「足の踏み場のない程の遺体が横たわっていた」という証言をどう描くのかで苦労したこと、それに対し飯田さんが「私が伝えたいこと、足の踏み場もない程の遺体の様子が良く表現されていますよ」とサンガーさんに伝えている姿が、紹介されていました。

この写真では、見えにくいのですが、会場では、遺体がびっしりと描かれた様子をじっくり見ることができました。サンガー梨里さんは、制作の苦労を次のように書いています。

「今回の絵は、飯田さんだけでなく、この風景を見た飯田さんの叔母様の想いも背負って描きました。数え切れないほどの人を描くのに大変苦労しました。飯田さんをはじめとして、先生方や同じ教室で制作していた仲間、原爆資料館のスタッフの方にも助けてもらい、描き続けることができました。飯田さんと2年にわたり、2枚の原爆の絵の制作を経て、私の平和に対する向き合い方が変わり、自分にできることをより積極的に考えるようになりました。(略)この2年間に原爆の絵を制作して学んだことは一生忘れないと思います。」

テレビの番組でも紹介されていましたが、飯田國彦さんは、3歳の時に被爆、この場所には、叔母の山本弘子さんに抱っこされてたどり着いたそうですから、飯田さんが直接目にした体験ではないかもしれませんが、どうしても語っておかなければならないという強い思いを感ずることができます。

そしてそれを受け止め、懸命にその時の様子を描こうとする高校生たちの苦労の様子を改めて実感した今回の「原爆の絵画展」でした。

いのちとうとし

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