「広島ブログ」

2022年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

いじめ

2021年10月 6日 (水)

「いじめ」に対応する「第三者機関」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

「いじめ」に対応する「第三者機関」

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

  ずいぶん長いシリーズになってしまいましたが、小山田圭吾事件が契機となって、遅まきながら私も「いじめ」についての俄か勉強を始めました。マスコミの報道はもちろん、何冊かの本や論文を読みながら、学んだ内容を整理してこのブログで報告してきたのですが、心許ない右往左往にお付き合い下さり、有難う御座いました。

  俄か勉強をする前から、北欧の「いじめ」対策に一日の長があるらしいことには気付いていましたが、勉強するにつれて「集団的自立」や「教師集団」を強調する考え方こそこの問題の本質を突いているのではないかと感じて、我が国における研究と実践にも注目しました。さらに、コールバーグの発達段階説という枠組みからも刺激を受けて、「第三者機関」の必要性についての提案をする準備ができました。

《フィンランドの「KiVa」プログラム》

  そのために、この2か月弱の間に学んだことを改めて最初から整理するうちに、最初の北欧に戻ることになりました。フィンランドの「KiVa」というプログラムが、その全てを包摂する実践的な内容を持ち、かつ実証実験においてその効果が証明されている優れたものであることに気付いたからです。さらに、ヨーロッパの数か国、そしてニュージーランド等では、国単位でこのプログラムを採用し、効果を挙げているという報告もショッキングでした。

  しかし、我が国ではウイキペディアに「KiVa」の項目はありませんでした。解説している論文やマスコミ報道も少なく、その中で北川裕子氏他による「学校におけるいじめ対策教育―フィンランドのKiVa に注目して―」(不安障害研究,5(1), 31–38, 2013) が手短に「KiVa」を分り易く紹介しています。PDF版は、ダウンロードできます。

  また東京都議会議員の風間ゆたか氏は、御自分のブログで「KiVa」の考え方を元にして世田谷区が2018年度にいじめ防止プログラムを導入したことを紹介しています。

  となると、今回から「KiVa」の紹介をするのが理に適っているのですが、もう少し勉強が必要です。まずはこのシリーズのそもそもの目的に戻って、「いじめ」の被害者を守るための「第三者機関」についての提案をしておきたいと考えています。

  そのために、9月21日の第五回で紹介した、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) で提案されている「特別クラス会」と、毎年最初の時間に先生が子どもたちに提案する「六つの合意」を枠組みとして使います。それは、「KiVa」の考え方にも沿っていますので、方向性としては問題ありません。大きな違いは、これからの提案は「いじめ」そのものの防止という大きな観点ではなく、「いじめ」が起きた時にどう対応するのかに焦点を絞って考えていることです。

  何度もお読み頂くことになりますが、大切なリストですので、再度「六つの合意項目」を掲げます。

六つの合意項目 (『いじめ』141ページ)

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

  これまで大きく報道されてきた「いじめ」事件は、被害者が自殺する、あるいは殺されるといった最悪の事態が生じてからのものが多いのですが、事後的にその真実を究明するための、我が子を失った親による大変困難な努力が目立ちます。これらの事件では、被害者は必ず何らかの訴えをしているのですが、それを学校側が受け止められなかったことから悲惨な結果につながっています。

  となると、上記の合意の②「トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する」を実現するために、誰が主役になれば良いのかが問われなくてはなりません。ほとんどの場合、先生や親にも「いじめ」を受けている事実が十分に伝わらなかったことを考えると、被害者本人が自ら「いじめ」を「公開の場」に持ち出すことは至難の業なのではないでしょうか。

  さらに、六つの合意の内、③と④、そして⑤まで入れても良いと思いますが、それらはトラブルを公にした場合の「仕返し」対策です。「チクる」という言葉が実態を良く表現していますが、被害者が「いじめ」を受けていることを誰かに話すこと自体の難しさの中でも「仕返し」をされるだけではなく、「いじめ」が一層酷くなるのが通例であることを示しています。

《被害者の側に立つ「駆け込み部屋」》

  これら、二つの点に焦点を合わせての「第三者機関」が必要です。それをどのようなものにすべきなのかを記述する前に、学校を巡る大切な条件を整えておくべきだと思います。

  最大の条件は、「いじめ」についてどのような対応を行うにしても、先生方への負担が増す結果になってはいけないということです。今までにないことをしなくてはならないのですから、そのために必要な時間に相当する分のこれまでの仕事を減らさなくてはなりません。もっと大掛かりな改革ができるのなら、学校制度そのものの見直しをして、子どもたちが学校そのものの運営により主体的に関与できるシステムを創ることも考えるべきだと思います。

  しかし、それほど大掛かりではなくても、これまでの学校教育で決定的に欠けてきた「少人数学級」を実現することくらいはして貰わなくてはなりません。これが「いじめ」問題解決のためには大きな力になることも御理解頂けると思います。それも、中途半端な「35人」学級ではなく、「20人」学級にすることです。子どもたち一人ひとりとの意味ある関わりが先生の側の犠牲的な献身によって実現されるのではなく、余裕のある創造的環境の中で継続されるためには、これが前提条件です。

  その上で、学年の最初には先生と生徒との間での「六項目合意」を結ぶという順序です。また、被害者が被害を比較的容易に訴えられる仕組みとして、子どもたちによる「いじめパトロール」を組織します。数人のグループで、休み時間や放課後に「いじめられてはいませんか?」という問い掛けをして、「いじめ」を受けている子どもからの発信があれば、子ども同士の問題として「特別クラス会」を開いて議題にする役割も果します。さらに、「第三者機関」への報告はオプションとしてできることにしておきましょう。

  その「第三者機関」の名前も付けておきましょう。イメージとしては、江戸時代の駆け込み寺のように、被害者が加害者から隔離され、駆け込んでからは身の安全が保障されるという機能が大切ですので、「駆け込み部屋」にしておきましょう。「Hot Line」という側面もありますのでそれでも良いのですが、電話だけというイメージが強くなりますので、「駆け込み部屋」にしてみました。

038

  「駆け込み部屋」は各学校に一室を持ち、担当の専門職とスタッフが常駐します。官僚組織としての学校には所属せず、例えば民間の公益財団法人のような立場で学校や子どもたちと関わります。先生方、子どもたちとの信頼関係の存在することが大前提になりますので、そのためにどのような位置付けにするのかは、法的な枠組みの整備も含めて、これからの課題としておきます。

  仮にある子どもが「いじめ」に遭ったとして、「いじめパトロール」にも言えない場合、「駆け込み部屋」に物理的に駆け込むか、SNSなどを通して被害を受けていることを発信し、それを受け取るのが「駆け込み部屋」の第一の役割です。

  「駆け込み部屋」は「第三者機関」ではあるのですが、とは言っても、徹底的に被害者の立場に立ちます。「仕返し」の可能性がありますし、それ以前にその時点で続いている「いじめ」から被害者を守らなくてはなりません。被害者が加害者と顔を合わせなくて済むように一時的、あるいはそれ以上の期間被害者を保護することが第二の役割です。場合によっては転校等の対応も視野に入れる必要があります。

  そして、先生方にこの「いじめ」についての調査を迅速に行うよう要請し、調査に立ち会い、調査の補助を行えるようにします。その際、保護者との連絡等を学校が行うのか「駆け込み部屋」が行うのかについては、今後の課題としておきましょう。

  さらに、この「いじめ」が犯罪としての要件を満たしている場合には、学校と連携して、警察の関与を求めます。

  日夜、学校現場で努力を続けられている皆さんには「机上の空論」としか見えないのでないかと思いが強いのですが、それなりのイメージは伝わったでしょうか。とにかく子どもたちが元気で安心して通える学校を実現するためには、私たち大人が当事者意識を持って関わらなくては何事も始まらないという点だけでも共有できたとしたら有り難い限りです。

 [21/10/6 イライザ]

[お願い]
この文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

2021年10月 1日 (金)

2021年9月17日に公表された、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (8)――

2021年9月17日に公表された、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (8)――

 

  今回は、「いじめ」の被害者を守るための「第三者機関」についての提案をする積りでしたが、その前に考えておくべきことが起きました。

  ウイキペディアによると、「2021年9月17日、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明 (以下「説明」と略します) がCorneliusのHP、及び本人のInstagramに掲載された」そうですので、できればその全文をお読み下さい。

046

  元々このシリーズの発端になった、1994年発行の『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』 (以下『ロック』と略します) と、翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』 (以下、『クイック』と略します) に掲載されたインタビュー記事については、第一回で取り上げました。

  その際、三つの問題点を指摘しました。一つは、小山田が学校行った「いじめ」そのものです。二つ目は、それを12年も経ってから「武勇伝」として公にしていることです。そして三つめは、被害者からの年賀状を公開し、被害者ならびに被害者の母親を嘲っていることです。

  今回の「説明」では、一つ目は『ロック』に掲載された「いじめ」のいくつかについては自分では手を下していない、つまり実体がなかったという言い訳をしています。その上で、だから二つ目も二次被害を与えたかもしれないが、自分が話した内容よりはセンセーショナルに書かれてしまっているという趣旨の説明になっています。三つ目については言及がありません。

  私も当初、二つ目の問題については、「二次被害」という側面を強調しました。でも今回の「説明」を読んでの違和感はそれだけでは表現できません。「一次」的な面に着目する必要があるからです。

  一つには、学生時代に酷い「いじめ」をした、それも相手が特定できる個人を対象にしたものであることを、全国的に流通している雑誌で公開すること自体が酷い「いじめ」であるという点です。被害者の視点からは「二次被害」ではなく、「一次被害」として捉えるべきだという点です。

  次に、物理的に相手に排泄物を食べさせたり、マットレス巻きにしたり、ひもで縛って自慰行為をさせたりということを仮にしていないにしても、「そういう行為を誰々にした」と公の場で自慢すること自体が「いじめ」なのです。それも「一次被害」ですす。

  この点について、伝わりにくい感じもしますので、極端な例を挙げることでその酷さを強調しておきましょう。「説明」の中では、次のような意図で、実際はしていない「いじめ」にもかかわらずそれが自分の行為であることにしてしまったと述べています。「露悪的なキャラクターを演じることで世間からの見られ方を変えようとしていました。過剰で自虐的なリップサービスを必要以上に行うこと」にした、というのです。

  つまり、「二次被害」を与えてしまった「動機」があり、その点は理解して欲しいということなのだと思います。その気持は分りますが、動機としてイタリックで表記した部分は、極めて自己中心的です。それも問題なのですが、自己中心的な動機があったことで、被害者が受けた心の傷や人間としての尊厳の無視などが許されるはずもなく、全く別次元で考えなくてはならないことなのです。

  その点を明確にするために「思考実験」をしてみたいと思います。前提として、ある人Aが、自分に対する世間の見方を変えるために過剰で自虐的なリップサービスを必要以上にしたい、という「自己中心的」な目的があったとします。そして「思考実験」として、「自己中心的」な目的達成のために、次のような「嘘」を全国的な雑誌の中で公開したとしましょう。

「自分は、自分の家族 (あるいは親しい友人に) に、排せつ物を食べさせ、マットレス巻きにし、自慰行為を強制した」

  仮に、こんな言葉が雑誌に乗り多くの人の目に触れたとしたら、当該家族あるいは友人は、まずAが何故そんな「嘘」をつかなくてはならないのか、それを公刊されている雑誌に何故載せなくてはならないのかを不思議に思うでしょう。Aに精神鑑定を受けさせても不思議ではありませんし、「勘当」とか「親子の縁を切る」、永遠に「絶交」する等の結果になったとしても仕方のない行為だと考えられます。

  このことだけからも明らかなように、「嘘」であっても、家族や友人に対して自分がこの種類の「いじめ」をしたと広言することはあり得ないのです。ですから、小山田事件の実際の被害者を「友人」だと規定している「説明」の文章とは大きな矛盾があることになります。そして、仮に被害者が抗議をしたとしてもそれがAにとってはどうでも良いというくらいの弱い立場にある人間を標的にしていることもハッキリしてきます。

  さらに問題なのは、仮に、このような行為に実体がない、つまり嘘をAが出任せに言っていたとしても、これが単に「いじめ」に止まらず、Aの家族あるいは友人に対しての許しがたい、人間の尊厳を無視している侮辱であり、言葉による暴力、人権侵害であることは一目瞭然なのではないでしょうか。あなたの親しい友人から、あなたがこのような被害を受けていたという「嘘」を、雑誌でもネットでも良いですが、広められたとしたらどう感じるのかを想像してみて下さい。

  言うまでもないことですが、ネットを介しての「いじめ」の多くは、これと同種類の「言葉」による「いじめ」ですし、多くの場合この種の「いじめ」には実体のないことも良く知られています。

  繰り返しますが、「説明」の中ではこの新たな「人権侵害」、「人間性の否定」は、単なる「二次被害」というレベルで捉えられています。「二次」ではなく新たな「一次」レベルの「いじめ」、それも人権侵害、人間としての尊厳を侵す深刻な行為であるという認識のないことが問題です。

  オリンピックで重要な役割を任されるような、知名度もあり広い交友関係もある人なのですから、周囲にこのような本質的な点について、きちんと説明し諭してあげられる人はいるはずです。もう一度、自分の行為についての自覚をした上での反省ができるように、その内の何方かが骨を折って下さらないものかと祈っています。

 [21/10/1 イライザ]

 

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

2021年9月26日 (日)

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

前回は、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) がどのように「いじめ」を把握しているのか、そしてその理解を元にした対策はどんなものなのかを概観しました。

「いじめ」の対策として村瀬が『いじめ』の中で薦めているのは、普通の「クラス会」とは別に「特別クラス会 (広場) 」を設けていじめの問題を話し合うことです。普通のクラス会が、「授業の場」あるいは「教育の場」に位置付けられているのに対して、「特別クラス会」は「法の場」として位置付けられます。それは、「先生のルール」と「子どもの自由なルール」という公開された場で共有されているルールの場に、「掟 = 子ども法」という地下に潜ったルールを持ち出して話し合いをするということです。

この「特別クラス会」を機能させるために、4月の新しい学年が始まる最初の日に、先生は生徒との間で「六つの合意」を取り交わします。念のために、「六つの合意」を再掲します。

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

このような合意が守られれば、「いじめ」そのものを防げるであろうことは分ります。同時にいくつかの疑問も生じます。

例えば、「いじめ」は、一つのクラスの中に限定されているものではありません。例えば部活などの場で「いじめ」のあることは良く知られています。その場合はどうすれば良いのでしょうか。あるいは、前の年から続く「いじめ」があり、組替えで別のクラスになった「仲間」が、新学年になってもその行為を続けるというケースはどうでしょうか。

『いじめ』は、基本的な教科書であり、このような応用問題については別の著作や研究・実践があるのかもしれませんが、「クラス」より広範囲の場、例えば全校での取り組みも必要になってくるのではないでしょうか。

また「いじめ」は世界のどこでも起きているのですから、外国での経験や研究も参考になるはずです。その際に、「いじめ」を考える枠組みの一つとして、ロレンス・コールバーグの道徳的発達理論が役に立つと思えるのですが、村瀬の『いじめ』では、コールバーグへの言及が一切ありません。9歳から10歳頃に、子どもの中に「法」という意識が芽生えることを基本として「いじめ」の問題を扱っているのですから、コールバーグ理論の中の、中間的段階に現れる正義や法についての志向の変化・発達との関連を考えるのは自然なように思えるのですがどうでしょうか。

心理学や教育学を勉強した方には常識だと思いますが、ここで、コールバーグ理論の発達段階を日本語と英語のウイキペディアを元に簡単に示しておきましょう。各段階の下のイタリックの言葉は、その段階での道徳的思考の典型を示しています。

800pxkohlberg_model_of_moral_development

http://www.afirstlook.com/docs/diffvoice.pdf

 

1.慣習以前のレベル

第一段階=罰と服従への志向

「警察に捕まらないならば、それはOKだ」

罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あるものとなり、罰せられるか褒められるかという行為の結果のみが、その行為の善悪を決定する。

第二段階=道具主義的相対主義への志向

「気持ちが良ければ、やって良いんだ」

正しい行為は、自分自身の、また場合によっては自己と他者相互の欲求や利益を満たすものとして捉えられる。具体的な物・行為の交換に際して、「公正」であることが問題とされはするが、それは単に物理的な相互の有用性という点から考えられてのことである。

2.慣習的レベル

第三段階=対人的同調あるいは「よい子」への志向

「私のためだから、そうして欲しい」

善い行為とは、他者を喜ばせたり助けたりするものであって、他者に善いと認められる行為である。多数意見や「自然なふつうの」行為について紋切り型のイメージに従うことが多い。行為はしばしばその動機によって判断され、初めて「善意」が重要となる。

第四段階=「法と秩序」の維持への志向

「義務を果せ」

正しい行為とは、社会的権威や定められた規則を尊重しそれに従うこと、すでにある社会秩序を秩序そのもののために維持することである。

3.脱慣習的レベル

第五段階=社会契約的遵法への志向

「思慮深い人たちみんなの考えだ」

ここでは、規則は、固定的なものでも権威によって押し付けられるものでもなく、そもそも自分たちのためにある、変更可能なものとして理解される。正しいことは、社会にはさまざまな価値観や見解が存在することを認めたうえで、社会契約的合意にしたがって行為するということである。

第六段階=普遍的な倫理的原理への志向

「みんながそれと同じことをしたらどうなる?

正しい行為とは、「良心」にのっとった行為である。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することができる。

ここで「慣習的」という言葉は、「世間で受け入れられている善悪の判断」という意味です。多くの人は十代でこのレベルに達します。村瀬は『いじめ』の中で、9歳か10歳頃に子どもたちは「法の人」としての目覚めを経験することを指摘していますが、それは第1レベルの第二段階から第2レベルの第三そして第四段階への発達だと考えられます。

そして、『いじめ』の中の中心的解決方法として提案されている「特別クラス会」は、子どもたちを第3レベルの第五段階における判断をするような環境を創ることだと考えて良いでしょう。それも自分たちの手で「社会契約」をつくるという積極的な意味を持つことになるのです。

そして、コールバーグの理論を活用することで、「いじめ」の問題にどう取り組むのかという研究や実践も世界的に、そして我が国でも行われてきています。ネット上で探しただけでも、星野真由美による「いじめ問題への道徳的発達理論によるアプローチの方法について」(教育科学研究 第15号 1996年7月、17-27)や、その中でも触れられているコールバーグの提唱した「ジャスト・コミュニティ」の実践を取り上げている「ジャスト・コミュニティを目指す全校(学年)道徳という指導法」(田沼茂紀道徳教育研究室 2006年2006年12月24日号)が見付かります。

「ジャスト・コミュニティ」は、これまでこのブログで取り上げてきた、「集団的自立」や「特別クラス会(広場)」と共通した考え方ですので、これらの異なる理論や実践が相互に補い合い適用範囲を広げるなどすることで、さらに効果的な「いじめ」対策が可能になるのではないかと思います。

私は、コールバーグの発達段階理論を見詰めながら、第三者機関についての要件をより具体的に考えられるようになりました。その結果は次回に。

 [21/9/26 イライザ]

 

 [お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ