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自然災害

2024年8月30日 (金)

台風の影響、難しい判断

針路が定まらず、影響の大きさも定かで無い台風ですが、間違いないのは、今日から、明日にかけて広島が一番影響を受けることになるということです。

とにかく、被害が出ないようにと祈るばかりです。

30日、31日にかけ、私が話しをする行事が二つほどありました。

一つは、今日30日の午前中2時間半をかけて、韓国の大邱から広島を訪れる「大邱の『いのち、平和機構団』の平和ツアー」一行に、日本の平和運動について、話す行事です。

事前に「核兵器と原爆被害者の関連運動、護憲運動について、軍基地関連運動について、パレスチナ平和のための活動」について、たくさんの質問が届いていましたので、なんとか準備をしていた。

台風の影響で無事来日されるか心配していたのですが、昨日の午後「無事到着したので、予定通り実施するのでよろしく」との連絡が入りましたので、予定通り実施することになりました。

二つは、31日の午前中、東京の大学生に「なかなか資料が見つからないので、教えて下さい」と頼まれて「広島における労働組合運動での被爆者支援の取り組み」について話すことになっていました。若い人から「こんな話しを聞かせて欲しい」との要望は、いままで受けたことがありませんので少しだけ力を入れて準備しました。

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1966年6月18日に結成された「国労原爆被爆者対策協議会」の歴史や1968年10月に結成された「全電通広島被爆者連絡協議会」の発足の経緯や翌年3月26日に600名の被爆教職員によって結成された「広島県原爆被爆教職員の会」の発足の経緯などを手持ちの資料を引っ張り出し、改めて振り返るよい機会になりました。瀬戸高行さんや近藤幸四郎さん、石田明さんのことを思い出しながら。

こちらは、何とか29日中に東京に帰る切符が手配できたということで中止になりました。しかし、ニュースによれば東海道新幹線が、夕方には運休になったようなので、どうなったか心配です。10月に再び広島を訪れるということで、それまで延期することになりました。

31日の韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部が主催する「李鍾根さんのおもいを引き継ぐ会」は、貴重な機会と楽しみにしていましたので残念です。いつ開催するかは未定です。

31日の夕方に予定されていた「ヒロキョレフェスタ2024」も中止になりました。昨年楽しい時間を過ごしましたので、残念です。

台風には勝てませんから、仕方ありません。今日の午前中はがんばって、後はゆっくりと資料の整理をしたいと思います。

いのちとうとし

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2024年8月29日 (木)

これ何?

今日から明日にかけて広島県に最も接近すると言われる猛烈な台風10号による被害が心配です。わが家でも防災対策として、雨が降る前の昨日昼過ぎに、ベランダに並んでいた20鉢あまりの植木鉢すべてを家の中に入れました。

そんなわずかな防災対策ですが、しながら思い出したことがあります。

先日「南海トラフ地震情報」が発表された後、少し不思議なというか「そうなんだ」という景色を見ました。

88日の日向灘地震の発生を受け、気象庁は同日の1915分に一週間後の815日までの「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表しました。これを受け政府は「出来るだけ安全な防災行動」「日ごろかの地震の備え」などの特別の注意を呼びかけました。

その注意情報が出ている最中の8月12日、散歩に出かけようと中国電力本社前を通ると、正面玄関が封鎖されているのに気がつきました。

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12日は休日だったからでしょう、高さ1m位のフェンス出入り口が閉鎖されています。

横を見るとそちらにも続いています。玄関に向かって汀です。

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玄関に向かって左側です。

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全てを見て廻ったわけではありませんが、かなりの長さでフェンスが出来ていました。

「そうか、南海トラフ地震臨時情報が出されたので、高潮による浸水被害対策をされたのだな」と想像しながら、この場を後にしました。

翌日は、休暇が終わったからでしょう正面玄関前のフェンスは、無くなっていましたが、他のフェンスはそのままでした。

このブログを書くため、中国電力に電話を入れた話を聞きました。

Q「今回のフェンスは、南海トラフ地震臨時情報の注意措置がでたので対策をとられたのですか?」

A「そうです。連休、盆休みにも入りますので、予備的措置としてフェンスを付けました」

Q「正面玄関前は、休暇が終わったため13日から取り除かれたと思いますが、全部のフェンスが取り除かれたのは、注意情報が解除された8月15日の午後5時以降ということですかね」

A「その通りです」

Q「この装置はいつ作られたのですか」

A「数年前に設置しました」

Q「今回初めて作動されたのですか」

A「そうです。これまでにテストは何度かしましたが、本格的にフェンスを作動させたのは初めてです。手動で全て行なうようになっています」

高潮による浸水被害対策の一つとして、設置され、今回初めて本格的に使用されたようです。

周辺のどのビルでも、見ることができませんでしたので、「これ何?」との思いで眺めましたが、どこまで南海トラフ地震の対策をとればよいのか、考えさせられた景色でした。

いのちとうとし

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2024年8月19日 (月)

この橋の名前は?―つづき

次は、二つ目の疑問「写真に写った橋は、いつ作られいつ撤去されたのか」の解明です。

最初に問い合わせたのは、国土交通省の広島国道事務所です。電話で問い合わせた結果、「平成18年(2006年)に撤去された」ことが分かりました。

国道2号線にかかる新観音橋が完成した時(昭和37年・1962)、撤去されたのかと思っていましたが、ずいぶん後まで残っていたようです。ところがこの時、いつ修復されたのを聞き忘れましたので、調べることにしました。

この疑問を調べるため、伊藤さんの写真をプリントアウトし、わが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪ねました。

「この橋、観音橋についてもう少し詳しく知りたいのですが、何か資料はないですか」とお願いすると、書棚から2冊の本を持ち出してくれました。

そのうちの1冊は、19891月に広島市企画調査局文化課が編集し広島都市生活研究会が発行した「河岸の戦後史5 天満川」が、いろいろな情報を得ることが出来ました。

戦後修復された観音橋について次のように書かれています。

「昭和26年(1951)の全面修復では、西側約50m残っていた被爆橋に継ぎ足した。その後被爆部分は埋め立てられて、2本の橋脚が消えた。埋め立て地は河岸緑地にすべきであったが、河岸には高いビルが建ち並んだ。」

この文章で、修復時期が昭和26年(1951)だったことが分かりました。これで私の疑問は、解決したのですが、新しい事実が見つかりました。

やはり、昨日のブログで少し触れましたが、昭和20年(1945)10月の洪水では、全部流失したのではなく、「西詰(昨日のブログでは間違って『東詰』としていた)に約50mの橋脚が残っていた」ことです。

改めて、伊藤さんの写真を見ると、それらしき橋脚を見ることができます。

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 右端の方に立っている照明灯のようなものから右側の部分が被爆橋脚です。

「河岸の戦後史5 天満川」に掲載された写真でさらに貴重な事実を知りました。

昭和42年(1967)5月に写された写真で、「西側は橋脚2本分埋め立てられて橋が短くなっている」と説明文がついています。

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次の一枚には、昭和47年(1972)8月に写されたもので、「埋め立て地は河岸公園にならず、ビルが林立する」と説明文が付いています。

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この写真で注目すべきは、橋脚の上に伊藤さんの写真にも写っている照明灯?と同じものが写っています。

さらによく見ると、その橋脚を挟んだ右側と左側の橋の下の構造が違っているのが分かります。左側(新設されて部分)は、路面の下にコンクリートの板上のものが付けられていることです。観音橋全体が見える伊藤さんの写真でも、照明灯から東側は同じような構造になっています。

こうして比べてみると、右側が、昭和20年(1945)10月の洪水で残った被爆橋脚の一部ということになります。

ところで、最初に「河岸の戦後史5 天満川」の「観音橋」の説明読み込んだ時には、かってに分かったつもりになっていたのですが、「残された部分が50m」という記述に納得がいでした。しかし、15年ぐらい後に埋め立て工事が行なわれたため、伊藤さんの写真のように短くなったことが分かり、ようやく納得できました。

現在の天満川のこの位置の川幅は、約85mしかありませんので、余計に50mという数字が、あり得ない数字のように思えたのです。しかしよく読むと、その後に「初めの長さ126m、巾5.5m」だったことが記述されています。当時より約40mも川幅が狭くなっていますので、残された被爆橋脚部分が、短くなっているのも理解できます。

「河岸の戦後史5 天満川」には、次のように書かれていることを紹介し、今日のブログを終わります。

「観音橋は、国道2号線となり路線バスが通り、トラックも大型化して、観音橋は大動脈渋滞のネックになる。昭和37年6月、上流に新観音橋が開通して、国道2号線も移った。残された観音橋は、歩行者・自転車用になった。洪水のたびに橋脚は沈み、路面はウェーブして、災害に痛めつけられた跡を残す橋」

この痛み付けられた跡が、原爆の被害によるものと誤解される要因になっていたのでしょう。

いのちとうとし

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2024年6月27日 (木)

どうする倒木対策

雨続きで、久しぶりとなった月曜日の散歩コースは、前日に倒木した現場も見たいと思い平和大通りを鶴見橋方面に向かうことにしました。

現地は、平和大通りの鶴見橋西詰付近の南側緑地帯です。車道を挟んだ西側のブロックの被爆者の森には、今年3月に植え替えが行なわれた沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)があります。

午前11時過ぎに現地に着いたときには、業者による撤去作業が行なわれており、何台かマスコミのカメラも取材に訪れていました。

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倒れた樹は、アメリカサイカチです。市の職員の姿がありましたので、いろいろと話を聞きながら、少し作業を見ました。

今回の倒木は、風によるものではなく、大木だったためだろうと思われるのですが、雨が葉にたまり、その重さに耐えきれずに倒れたようです。

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この樹は、記憶に残っている樹です。上の写真で、倒木した木の根元の左側にロープが恋され支柱に支えられたヒコバエの姿が見えると思います。

以前、植え替えが行なわれた被爆者の森の北海道のライラックの苗木が小さいため、保護用の柵を作って欲しいと要望したことがあります。その時、私が例として示したのが、このアメリカサイカチのヒコバエの保護用に設けられた柵だったのです。

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当時親木には関心がなかったのですが、まさかこの樹が倒木していたとは、ちょっと驚きでした。

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樹木の上部の撤去が終わり、根元部分の撤去に作業が移ります。よく見て欲しいのですが、親木を支える支柱の一部が残っています。市の職員の話では、この樹は,支柱が設けられていたのです。

別の角度から見ると、根元が少し腐っているのが分かりますが、昨年の点検では、支柱もあることなどから伐採対象から除かれていたのです。

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裁断された樹の上部は、処分されるようですが、この根元部分は保管して、他の樹木の倒木対策のため、樹木医に検証してもらうことになっています。

昨年の倒木により平和大通りの樹木点検が行なわれとき、やや危険な樹木が580本(と聞いたのですが、560本かも知れません)確認されたようですが、支柱などの対策がとられている樹木は、伐採を見送ったようです。

もし危険だからと全部伐採するとしたら、費用の問題、そして平和大通りの景観の問題をどうするか、難しい問題があったようです。

たまたま今回は、人的被害がなかったのですが、今後どのような対策が必要なのかは、樹木医による倒木の原因究明を待って今後の対処方針を検討することになるようです。

平和大通りの樹木は、1957年、58年の協木運動やその後国内外から寄せられた樹も多くあります。危険除去と景観保護だけでなく、そうした人たちの思いも受け止て、しっかりとした対処方針を検討して欲しいと思います。

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平和大通りの樹木の多くには、近くの竹屋小学校の子どもたちが付けた手作りの表札が付けられ、樹木の名前を教えてくれています。この樹に付けられていたカラーで描かれた表札が、そのままの姿で残っていました。この子どもたちの樹木を大切にしたいという思いも受けとめてほしいものです。

いのちとうとし

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2024年3月20日 (水)

ベトナムの歴史(その30-4) ― 日本の中の枯葉剤・Ⅱ ―

撤去を求める庄原市

前号で紹介しましたが、1971年に林野庁は猛毒ダイオキシンを含んだ枯葉剤(2,45-T)を全国15道府県の国有林46カ所に埋設処分しました。広島県内では庄原市が該当し、総領町に「一カ所の埋設量は300kg以内」と指示された「通達」に反する374kgが埋められたとされています。

2年前の庄原市議会では、「(埋設場所は)2つの谷が登った山頂付近にあり、記録的な豪雨や地震などで流れ出る危険もあり撤去すべきだ」、「ロープ2本と針金が張られているが、杭は腐りグラつき囲いの役割を果たしていない」、「直ちに撤去できないならフェンス設置など(国に)要望すべき」など、枯葉剤(2,45-T)流出による人体や環境への影響、ずさんな管理を指摘し撤去を求める質疑が出され、市当局もこうした状況を踏まえ「適切な管理と、最終的な解決となる撤去を求めてゆく」と答弁しています。

能登半島地震に続き、全国的に頻発する地震や毎年のように発生する「数十年に一度の豪雨」を考えると、待ったなしの対策が求められると思います。

埋設地のモデル調査

2021年に国(林野庁)は枯葉剤(2,45-T)を掘削処理することを前提に、「周囲に飛散させずに掘削処理」する方法についての調査を岐阜県下呂市落合国有林、高知県四万十町焼木水谷国有林、佐賀県吉野ヶ里町熊九瀬谷国有林、熊本県宇土市尾坂国有林をモデル地区として実施しました。

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(四万十四万十町焼木水谷国有林の埋設現場)

翌2022年には「除草剤等を地上のコンクリート槽内で保管しており、掘削対象範囲の確定が必要ない」という四万十町を除く3地区で詳細調査が行われ、2023年3月にその報告書が出されています。それによると埋設場所および掘削範囲の特定、農薬成分(2,45-T)を確認ができた佐賀県吉野ヶ里町と熊本県宇土市に埋められている枯葉剤は「高温によりダイオキシン類を分解・無害化する高温焼却」することになりました。

下呂市では「付近に埋設したことを示す看板は設置され」ていたが、場所を特定できず、「追加調査を実施して農薬の埋設箇所を特定し、掘削除去へ向けて対応を検討することが望ましい」と報告されています。

 動き始めた枯葉剤(245-T)の掘削処理

2023年4月14日、「毒性の強いダイオキシンを含んだ除草剤が吉野ヶ里町の国有林に埋められている問題で、林野庁は、安全に処理する方法が確認されたとして、早ければ今年度中に撤去作業を開始する方針を明らかにしました。」と佐賀新聞が報じました。しかし、9月27日には「ダイオキシン含有、吉野ヶ里の山中に埋設 除草剤処理、入札不落」と報道され、撤去作業は2024年度に持ち越しになっています。

「宇土市では、埋設されているこの除草剤2,000キログラムあまりを撤去する業者を決める入札がことし9月に行われましたが、不調となり、延期になっていました。こうしたなか、九州森林管理局によりますと、27日、再度の入札が行われて業者が決まり、今年度中にも撤去作業が始まる見通しとなったということです。」(2023年12月28日『NHK NEWS WEB』)

人里離れた山中とはいえ猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤が埋められてから半世紀、ようやく撤去に向けた動きが始まりましたが僅か2カ所です。掘削撤去に向けた準備のための調査は岐阜県下呂市を含む43カ所(93.5%)が今からです。

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(熊本県芦北町:枯葉剤埋設地から約1km地点の豪雨災害による崩落現場)

「通達」通りに埋設されていたとしても鉄筋コンクリートの耐用年数47年を迎えています。しかも、防護コンクリートは「薬剤(2,45-T)の10倍程度の土壌とコンクリートと水を混和して埋設」されており、純粋なコンクリートではありませんので劣化は早く、調査の過程で新たな困難や思わぬ事態が生じる可能性も否定できません。頻発する豪雨災害や地震がいつ埋設地を襲うかも分かりません。

いずれにしても、小出し調査による遅々とした撤去ではなく、火急速やかなる対応とその情報を強く求めます。

誰も責任を取らない政治

ベトナム戦争で日本は米軍の後方支援基地としてだけでなく出撃基地として加担し、日本で製造した枯葉剤がベトナムでまかれ、ベトナム戦争終結とともに明らかになった枯葉剤被害を隠すかのように国有林に埋めました。しかも、危険極まりない毒物を埋設するために作成した稚拙な規制(通達)すら守らないずさんなものです。その埋設場所が特定できる正確な記録もなく、撤去処理のためのモデル調査では下呂市の埋設場所は特定できませんでした。・・・・この責任は一体誰にあるのでしょうか。

50年の時を経て問われている「日本の中の枯葉剤」は、“誰も責任を取らない政治を正さなければ、同じ過ちを繰り返してしまう”と警鐘を鳴らしています。

2024年3月20日(あかたつ)

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2024年2月 1日 (木)

「まさか」に備えて…

人生には「上り坂」「下り坂」「まさか」の3つの「さか」があるとよく言われます。その「まさか」な出来事が、いわゆるお正月気分を吹き飛ばすことになりました。

「能登半島地震」が発生して、1か月が経とうとしています。この度の震災で犠牲となられたみなさんに哀悼の意を表するとともに、避難生活を余儀なくされているみなさんに心からお見舞い申し上げます。

災害への備えを考えるとき、よく自らとりくむ「自助」、地域で、みんなで協力してとりくむ「共助」、行政、公的機関がとりくむ「公助」の3つがあげられます。

「自助」について、行政のホームページをみると、「3日分の水や食料を確保しましょう」などと書かれています。私自身、家族の人数分の防災リュックを購入しているだけで、十分な備えができているとはいえない状況です。

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「共助」について、私が住む市では自主防災組織がつくられており、防災訓練がほぼ毎年実施され、多くのみなさんが参加されています。

また、自宅の近くに市からの備蓄品の保管場所があります。ここはメインの防災倉庫ではないので、水、レトルトご飯、アルミシート、寝袋等しか保管されていません。これだけでは近隣のみなさんが避難されても不十分と言わざるを得ません。

「自助」「共助」でカバーできない部分を担うのが「公助」ということになります。行政の最大の責務は、市民の生命・財産・安心安全をまもることです。一方で、「公助の限界」ということも指摘されています。特に、今回の「能登半島地震」のように、災害の規模が大きくなると、迅速に支援することが難しくなると言われています。

「公助」を担う行政、公的機関には、日常的に「自助」「共助」を促すための施策が求められているのではないでしょうか。また、いつどこで災害が起こってもおかしくない日本では、防衛よりも防災・減災が求められていると思います。自衛隊を災害救助に特化した組織に再編することを願ってやみません。

(まるちゃん)

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2023年11月 7日 (火)

柳田邦男さんの企画展「空白の天気図」特別講演

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で開催されている企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」(4月4日のブログ「「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介)の監修者であり「空白の天気図」の著者でもあるノンフィクション作家の柳田邦男さんの3回目となる講演会が、昨日午前10時から広島平和記念資料館メモリアルホールで開催されました。

柳田さんの講演をぜひ聴きたいと、過去の2回(314日と89日)応募しましたが、抽選に漏れ参加できませんでした。しかし、最後の講演会となる今回は、300人の会場に400人を超える応募があったようですが、抽選に当たり参加することができました。

柳田さんの講演のタイトルは「死の灰、黒い雨、二次災害―解明された被害拡大のメカニズム-」です。

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講演は、「空白の天気図」の元原稿が見つかったことから始まりました。「信州大学の図書館から、この夏『柳田さんの特別コーナー』を作りたいとの話があり、わが家の蔵書や資料、原稿などを搬出している時に、もう手元にはないと思っていた50年前の『空白の天気図』の原稿が出てきました。出版元である新潮社が、400字詰め原稿用紙で700枚ある生原稿に表紙を付け製本した状態でプレゼントしてくれていました。ペンで書いています。」というエピソードの紹介から始まりました。「今回持参し、会場入り口に展示しています。追悼祈念館の企画展開会中は、会場に展示することになっています。」

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「空白の天気図」の生原稿

その後、「空白の天気図」のねらいが紹介されます。「70年代、2重災害によって原爆の被害から生き延びた被爆者が、枕崎台風によって亡くなっていった。しかし、それはほとんど報道されていなかった。また、黒い雨の被爆者は援護されていない状況にあった。」「原爆によって気象台の機能がなくなって通信手段が途絶していた。襲来した台風についても、当日の広島気象台の天気図には、輪郭が書かれているだけ。」「水害の被害が伝えられていなかった」。そんな中で「①原爆と台風 複合災害の象徴的なものー枕崎台風の見直し」「②社会災害 戦争の中で起きる複合災害がいかに大変なものか」「③原点に返って考える 放射能被害の実相を見つめ直す 複合災害の実態も」を考えながら、「空白の天気図」を書かなければならないと思ったということでした。

この後、黒い雨のメカニズム、「空白の天気図」を読んで黒い雨の調査を行った宇田さん足跡を知り「黒い雨」の再調査を行った気象研究者増田善信さん、そのことによって黒い雨地域の拡大が証明され、その後の「黒い雨裁判」に活かされたことなどが科学的に、そして詳細に紹介されました。

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増田資料を手にする柳田さん

 特に増田善信さんの黒い雨地域の再調査は、「宇田雨域の原点である広島地方気象台における『観測精神』の実践、『現地調査』による記録」の考え方を引き継ぎ、「宇田氏の原資料の発掘、さまざまな手記類の調査、全国の体験者からの通報、現地住民の聞き取り」による調査の紹介は、原爆被害への向き合い方を教えていただける内容でした。

複合災害の危険性についての話もありましたが、ここでは省略します。

最後に「一人ひとりの人間が、複合災害に巻き込まれると本当に大変なことになる。一人ひとりが、それに巻き込まれたらどんなことになるか、調査し、記録することが大切だ」ということを強調されて講演は終わりました。

「空白の天気図」を読み直し、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」(来年2月29日まで開催)にもう一度出かけたいと思わされる講演会でした。

いのちとうとし

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2023年9月19日 (火)

「ワタシのミライ」スタンディングアクション@広島

ニューヨークの国連本部で、9月24日に開催される国連の「気候サミット」を成功させようと、全国各地で、呼応する行動が展開されています。

広島でも、昨日午後2時から1時間、紙屋町電停前で、気候変動の取り組む市民と連帯し県原水禁や平和フォーラムも参加し、「『ワタシのミライ』スタンディングアクション@広島」のアクションが実施されました。

これは、東京で同じ日に代々木公園で、再エネ100%と公正な社会をめざすプロジェクト「ワタシのミライ」と気候危機の解決を求める若者の団体「Fridays For Future Tokyo(FFF Tokyo)、原水禁や平和フォーラムが中心になった活動する「さよなら原発1000万人アクション(さようなら原発)」が、初めて共同して実施した大規模なアクション行動に連帯して取り組まれた行動です。

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「再エネ100%と公正な社会を目指して」のスローガンを掲げて今回の行動への呼びかけのチラシには「世界でたくさんの人々が、気候危機に対して声をあげています。あなたもムーブメントに参加しませんか」と書かれ、「ワタシのミライ」について、こう書かれています。

「夏休みに子どもたちが外で遊べている/みどりが身近で、美しい四季を楽しめる/地球のめぐみを分け合い、循環させている/子どもを持つという選択を安心してできる/みんなの意見が反映されて、誰もが安心して暮らせる/1日の終わりに、明日を楽しみにできる/それがワタシの望むミライ/

それなのに今、/熱波、干ばつ、洪水、海面上昇、/生物多様性の危機、放射能汚染や大気汚染/弱者へのしわ寄せ・・・/

気候危機はもう現実なのに、/すでに多くのいのちが奪われ、/この先もっと苦しむ人が増えるのに、/なぜ化石燃料の延命、不確実な新技術?/

原発事故はまだ終わっていないのに、/コストも高く、この先数万年も負の遺産を残し続けるのに、/なぜ再稼働、運転延長、新増設、汚染水放出?/

このままではワタシのミライはありません。/でも、今なら間に合います。/化石燃料にも原発にも依存せず、/再エネ100%で安心して暮らせるミライへ、/世界の仲間と一緒に、一歩踏み出しませんか。/」

今年の夏の異常な暑さ、数年に一度の、観測史上初めての降水量、それに伴う全国各地での水害。この異常気象は、日本だけでなく世界の各地で起こっています。

「このままで地球はどうなるのだろう?」と考えている人は、多くいますが、さてどうするのか?何とかしたい、私は何をすればよいの?と思っている人たちに呼びかけたのが、今回の「『ワタシのミライ』スタンディングアクション@広島」でした。

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2018年、スウェーデンの15歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが、1人で気候変動に対するストライキを始め、徐々に賛同者が増えていきました。私たちも、このアピールを通じて一人でも多くの人が気候危機に関心を持ち、何らかの行動してくれればと思いながら私もマイクを握りました。

アクション行動には、手作りのプラカードを持参するなど30名の参加があり、6名がマイクを握りスピーチを行いました。

いのちとうとし

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2022年6月27日 (月)

県道71号線昨年の大雨土砂災害現場を再び訪れて

「昨年の水害で崩落した道路などでむき出しとなった土砂が流れ出し農作業にも影響が出ているので、見に来ませんか」と誘われて、昨年9月14日の恵下廃棄物処分場建設と大雨土砂災害: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の現場に行ってきました。

現場と言っても、道路などが崩落し、土がむき出しになっている場所は、ようやく今月から重機が入って作業が始まったようですので、直接見ることはできませんでしたが、友人が撮った写真から今だ、ほとんど手が付かず、雨の度に真砂土が流れ出ていることがわかります。

昨年私が撮った崩落現場の写真です。

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 今月友人が撮って写真です。

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真ん中が大きくえぐられ、水の通り道となっているのがわかります。何の措置もされていませんから、雨が降るたびに大量の土砂が下流に流れているようです。

下流では、その砂が、川底にたまっています。ここからは現場を見ました。

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 これでも川底をさらって土砂を何度か取り除いたそうですが、凹凸のあった川底は、土砂で埋まり平になっています。

その少し上流の堰から、用水路に水を引いていますが、堰もほとんど土砂で埋まっていますので、少し上流から導水管を設け、何とか水が確保されています。

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黒い導水管の左側に用水路の取り入れ口があります。

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田んぼに水を引くための用水路の底にも土砂がたまっています。手前には、土砂がありませんが、白っぽくなっているところからは、土砂が底にたまっています。田んぼに土砂が流れ込まないように何度か、川底をさらったそうですが、しばらくするとこのように土砂がたまるそうです。

崩落現場では、大量の土砂が手つかずのままで何の対策も打てていませんから、しばらくこの状態が続くと思われます。土砂が用水路にたまっているだけでなく、田んぼにまで流れ込むようになると稲そのもののできにも大きな影響を与えることになると思います。

全体として、今回の崩落の原因を究明し対策を建てることが重要ですが、急がれるのはむき出しになり、雨が降るたび、雨だけでなく自然に地中から湧いて出る水に押し流され、下流へ流れる土砂対策が急がれることを実感しました。住民のみなさんからすでに要望書も出ているようですから、住民の声をよく聞き、対処してほしいものです。

恵下廃棄物処分場建設の影響があったのではないかと言われている昨年の山崩れですので、廃棄物運搬方法の抜本的な見直しなどが求められているように思います。

いのちとうとし

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2021年11月25日 (木)

災害と公衆電話

災害が発生した時に重要な通信手段となる公衆電話、知っている人は多いと思いますが、普通の電話や携帯電話が使えなくなった時、優先的に接続できる手段として重要な物なのです。だから決められた範囲(たぶん500メートル)に1台は設置しなければならないとされています。

 先日、NTTの工事業者から「佐伯区役所前」電停横の公衆電話を撤去したいという連絡がありました。私に直接あったのではなく、その公衆電話近くに住んでいる方からの連絡で分かったのです。撤去したい理由は、この公衆電話の利用が少なく採算が取れないからということです。携帯電話の普及で、公衆電話の使用が少ないというのはよーく分かります。僕自身も公衆電話を利用するのは1年に1~2回でしょうか。使う理由?、それは相手側にこちらの電話番号を知らせたくない時、さりとて「非通知」にするというのも変だし、「公衆電話」と表示される方が良心的かなと思う気持ちからです。

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 今年も大雨による災害が発生しました。被災地の方が語るのは「こんなことは初めてだ!」という言葉です。7月1日~3日にかけて熱海市伊豆山地区での大雨による土砂災害、総雨量が400ミリを超えたということでした。こういう災害が日本だけでなく、世界中で発生していることがとても心配です。

 私の住んでいる広島市佐伯区内でも、1999年6月に大雨が降り死亡者も出るという大きな被害が発生しました。先日町内会の会合で、この時の記録の約1時間の映像を観る機会がありました。大雨はただ単に降った量だけでなく、その地域の地形やどういう降り方をしたかなどによって、被害の状況も変わるとのことですが、熱海市の時の雨量よりも佐伯区の方が相当に少なかったとのことでした。でも私も記憶に残っているような被害でした。

 私の住んでいるところには八幡川というのが流れていますが、その上流に魚切(うおきり)ダムというのがあります。町内会の会合である人が「魚切ダムに熱海市のような雨が降ったら、八幡川が氾濫してここら辺りは水浸しになる」と話しておられました。

 広島市内中心に通勤通学する人の多い住宅街ですが、リアルに大雨被害を考えることはありません。

木原省治

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