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被爆者

2024年2月27日 (火)

広島県立広島第一高等女学校の門柱

今日は、平和大通りの「広島第一県女原爆犠牲者追憶の碑」のモニュメントの一つとして立つ門柱の話しです。

広島第一県女の同窓会「皆実友朋会」のアーカイブの報告書のことが知りたくて県立皆実高等学校の一角にある同窓会事務所を訪ねました。譲っていただいた「アーカイブ報告書」については日を改めて報告しますが、この時「この学校には、第一県女時代被爆したものは移設されていませんか」と尋ねたところ、「正門を入って右側にある学校庭園『憩の森』に3本門柱が立っていますよ」と教えていただきました。

同窓会事務所からの帰り「憩の森」で門柱を探すと、公園の入り口と思われるところ2本建っています。

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右側の1本は、ずいぶん短くなっています。そして少し離れたところに1本建っています。

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「皆実友朋アーカイブス」には、この門柱を「コケシ型石柱碑」と紹介した後「百十余年もの歴史ある3本の県女の門柱は、1本に最上部の欠落、1本に下部の欠損が、残る1本に表面の斑状剥離があるものの・・・」と書かれています。

第一県女にあった4本の門柱のうち、一番被害が少なかった門柱が「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」のモニュメントとして移設されたことがわかります。広島皆実高校からの帰り道「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」を訪れました。

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上の写真、よく見ると門柱の左下に小さな石碑があります。

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この石碑には、次のように書かれています。「この位置は、旧広島第一縣女の正門付近に当たり、この石柱は原爆当時の門柱4本の一つである」

何度も読んだはずですが、「後の3本の行方を気にしたことがなかったな」と思いました。

ところで広島皆実高校の「憩の森」に建つ門柱には、第一県女時代の4本の柱が立つ写真とともに「門柱の歴史」を刻んだ銅板が設置されています。

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そこのは、この門柱の「百十余年もの歴史」といわれる歴史が書かれています。

「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」には、この歴史は紹介されていませんので、全文を紹介します。


門柱の歴史

1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる

1902(明治35)年4月 本校の前身である広島県立高等女学校が広島市下中町(現百米道路の白神社東方付近)に開校され、その門柱として引き継がれる。

1941(昭和16)年 改称された広島県立広島第一高等女学校に引き継がれる。

1945(昭和20)年86日 原爆投下により一瞬にして校舎や施設を失い門柱も被爆、生徒教師297名の犠牲者を出す

1946(昭和21)年 広島県立第一高等女学校が出汐町に移る

1948(昭和23)年 学制改革によって,広島県広島友朋高等学校となった本校に引き継がれる

1949(昭和24)年 再編成によって、広島県広島皆実高等学校となった本校に引き継がれる

1955(昭和30)年 旧広島県立広島第一高等女学校跡(現百米道路の白神神社東方付近)に「追憶の碑」が建立され、4本のうち1本が移設される

1968(昭和43)年 改称された広島県立広島皆実高等学校に引き継がれる

1991(平成3)年1016

贈創立90周年記念

皆実友朋会

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2024年2月26日 (月)

見学の早期再開が望まれる中国軍管区司令部跡旧防空作戦室

一昨日のブログ「被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書」で、市内6つの被爆建物が、国史跡に指定されたことを紹介しました。

6つの被爆建物のうち、5つの建物は現在見学が可能ですが、中国軍管区司令部跡旧防空作戦室のみ、外からは見ることができますが、内部の見学はできません。

広島原爆遺跡調査報告書によれば、「1993年から平和学習を目的とした場合に限って内部への立ち入りが許可し、2011年度から2016年度は、中央公園の指定管理者である(公財)広島市みどり生きもの協会が、同協会のホームページで見学について紹介し、同協会で受付を行なった上で内部の見学を認めてきた。(年度別見学者数は概ね8,000人~11,000人)。・・・しかし、2017年4月より、施設の老朽化によるコンクリートの剥離等が進行しておし、今後、降雨による施設への浸水によりさらなる剥離の危険性が増すことが予測されるため、施設内部への立ち入りを禁止している。」と、2017年より見学が不可能となったことが記されています。

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この記述を読んで気づいたのは、年度別の見学者数の多さです。他の被爆建物(希望すれば自由に見学できる)と違って、(公財)広島市みどり生きもの協会で受付の手続きを経なければ内部見学が不可能であるにもかかわらず、年間に1万人前後、一日平均30人ぐらいの人たちの見学希望があったということです。

被爆直後「広島が新型爆弾にやられて全滅状態です」との第一報が、動員された比治山高等女学校の女子勤労隊員2名によって発せられた場所を見学したいという希望者が多いことを表しています。

確かに危険性のある建物内部の見学を現状では許可することは難しいと思いますが、国史跡指定を機に、修理補修をして見学を再開してほしいと思い、市役所に行ってきました。

最初にこの調査報告書を作成して文化振興課を訪ねたのですが、「施設の管理などは、緑政課が行なっていますので、そちらに聞いていただけませんか」との答えでしたので、次に緑政課を訪ねました。

「修復は、これまでもを検討してきたのですが、財政的なこともあり、具体的にはなっていません。」とのことでしたので「今回国の史跡に指定されたので、修理補修のための財政負担について国が二分の一補助することになるので、ぜひ保存・活用の推進ためにも早急に対策を講じて見学できるようにして欲しいのですが」と要望したところ「まだ史跡指定されたばかりですので、きちんとした回答はできませんが、今後あらためて修復などの対策について検討することになると思います」とのことでした。

早急に修復計画を策定し、見学が再開できるよう今後も働きかけを強めたいと思います。

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2024年2月24日 (土)

被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書

先日、予約していた本を受け取りに中区図書館に行ったとき、あれっと思う本が目に入りました。

昨年9月に広島市が発行した「広島原爆遺跡調査報告書」です。すぐに手に取り、パラパラと中をめくってみました。写真や図面が多数配された興味深い内容です。貸し出しが可能のようですので、予約した本と一緒に借りることにしました。

この報告書は、2020年度と2021年度に実施した「広島原爆遺跡調査業務」に基づき編集されたものです。

「第1章広島原爆遺跡とその調査」では、「原爆遺跡とは」として「広島原爆遺跡は、広島に投下された原子爆弾を受けた建造物や被爆樹木等で現存するもの、又はその一部や被爆した遺物が、ほぼ被爆時と同じ位置に残されているものあと、本報告書において定義する。」とし、「2023年度3月31日現在広島市が登録しているものは次の通りである。〇被爆建物:86件(棟数ではない)、うち非木造30件、木造56件 〇被爆橋梁:6橋:京橋(京橋川)栄橋(同)比治山橋(同),猿猴橋(猿候川),荒神橋(同),観光橋(八幡川)〇被爆樹木:160本」と記されています。

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その後に被爆建物のリストが,掲載されています。

調査の目的として「広島原爆遺跡の概要を把握・確認し,その中から具体の物件を抽出し、それらが有する歴史上及び学術上の価値を明らかにして、文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」としており、今回の調査対象(被爆建物)の条件を「爆心地から2キロ以内、被爆の痕跡が顕著。被爆当時の姿を比較的良好に残している。被爆当時の位置に残っている。公開等による活用の可能性が高い。調査に所有者の同意が得られる。」とし、「・平和記念公園レストハウス(広島市所有)・旧日本銀行広島支店(日本銀行所有:広島市へ無償貸与)・本川小学校平和資料館(広島市所有)・袋町小学校平和資料館(広島市所有)・中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)(財務省所有:管理団体広島市)・多門院鐘楼(多門院所有)」の6つの調査が行なわれています。

調査報告では、建物ごとに「①建物の概要②歴史③被害の状況④被爆前後の利用状況⑤現況及び被爆痕跡などの調査」の5項目にわたって報告され,最後に「小括」として「確認できた事項について特徴や価値の面を中心に要点を整理」してそれぞれ数点にわたって評価が記されています。

特に興味を持つのは、今は見学ができない「中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)」です。

小括では次のように述べています。

「●被爆直後に被害を発信した場所である建物(略)●現存する防空作戦室跡として希少な建物(略)●軍事拠点中枢部に残る軍関係の建物―史跡広島城趾の史跡指定地内に位置し、大本営跡等とともに,明治以降の広島城跡における軍関係の役割・機能やその変遷を伝える数少ない遺構であり、軍都広島や戦時下の防衛体制をうかがい知ることのできる建物である。」

調査対象物としてはただ一つの木造建造物多門院の小括では、「爆心地から最も近くに位置する木造の被爆建物」とし「被爆当日、火災は多門院等にも押し寄せていたが、呉海軍鎮守府の救援隊によって食い止められた。全壊全焼地域は、多門院の西側で止まることとなった。」と記されています。この部分は、初めて知る事実です。

この報告書の最後は、「広島原爆遺跡の保存・活用に向けた課題」として「広島原爆遺跡をより多くの人々に知ってもらい、関心を高めることは、広島原爆遺跡への理解を広げ、その保存・活用の推進力につながるものと考えられる。」と結んでいます。

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 NHK広島2月21日夕方ニュース

とここまで書いたところで、この6つの被爆建物が国史跡に指定されたニュースが入ってきました。

この報告書を手にしたとき「なぜこの6つだろう」と思ったのですが、このニュースを聞いて納得です。ここで紹介したように確かに調査目的には「文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」と明記されています。

この調査は、国史跡指定のためだったかも知れませんが、内容のあるよい調査報告ですので、できるだけ多くの人に読んでほしいと思いますし、被爆建物めぐりの際に活用したいと思います。

できれば、他の原爆遺跡も調査してほしいものです。

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2024年2月22日 (木)

被爆者桑原千代子さんの死

「桑原千代子さんの通夜が今夜午後6時から、葬儀は明日午前10時からです」と教えてもらい、19日の葬儀に参列しました。

被爆者桑原千代子さんは、2月16日92才の天寿を全うし生涯を閉じられました。

式場には、生前の写真が何枚か飾られていましたが、私の目を引いたのは、被爆73周年原水爆禁止成果大会広島大会の開会総会で,被爆体験を語る桑原さんの写真と新聞の切り抜きでした。

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私もよく知っている次女の琴さんの話では、「これが母の最後の被爆証言になりましたので、大切にしていました」とのことでした。

1945年、当時第三国民学校(現在の翠町中学校)高等科2年生だった桑原さんは、8月5日まで学徒動員で、専売局(現在の日本たばこ)のたばこ工場(現在の「ゆめタウン広島」)で働いていましたが、たまたま原爆が投下された8月6日と7日は、雑魚場町での建物疎開に参加することになり、当時13才、爆心地からは800メートルで被爆しました。

原水禁世界大会での桑原さんの被爆証言の様子は、ブログ「ヒロシマの心を世界に」https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/1-c1b9.htmlに記載されています。桑原さんは、大会での証言を次の言葉で締めくくっています。「どんなことがあっても戦争や核はあってはならない。多くの犠牲の上にある今の平和を大切にしたい。そのため、証言活動を続けていく」「平和は自分の手でつかみ取り、作り上げるもの。自分ができる平和への努力をやって下さい」

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13才で被爆した桑原さん。9月になると櫛で梳かすたびに髪が抜け、堅田に斑点が浮かび、歯を磨くと出血し、高熱が出て3ヶ月間の入院生活。1950年専売局にで働くことになったのが、学徒動員で働いたことのある広島たばこ工場だったのに、不思議な縁を感じます。

ここで、労働運動に参加することになったのが、その後の桑原さんに大きな影響を与えることになります。それは、桑原知巳さんとの出会い,そして結婚です。

私が、桑原千代子さんと出会ったのも桑原知巳さんを通じてですが、明るい人だったことが今も強く印象に残っています。50年ほど前のことですが、その後もずっと交流を持ってきました。

持病の糖尿病が悪化したばこ工場を早期に退職した桑原さんは、夫である桑原知巳さんの励ましもあり、被爆証言者としての活動を始めます。

私にとっての桑原さんとの思い出の一つに、一緒に参加した1987年にニューヨークで開催された第1回核被害者世界大会があります。桑原さんは、この大会参加後の感想を次のように述べています。「婦人の参加者も多かったこの大会で、言葉の弊害を乗り越え、子どもを持つ母親として、なにものにも汚されない地球を、平和で豊かな社会を子どもたちに残していくために、共にがんばっていくことを誓い合うことができたのは、何よりもうれしいことでした。」

一生懸命に証言活動を続けてきた桑原さんへの家族の思いが、葬儀で配布された「追憶のしおり」には、次のように書かれています。

「原爆に遭った母が祈り続けた平和な世界。それまで触れることのなかった自身の辛い体験を,二人の娘を出産後、『子どもたちの未来を守らなければならない』との強い思いが芽生えた母は、やがて戦争の語り部となりました。以来、母は修学旅行や平和学習などで広島を訪れる皆さんに当時の様子を伝え続けたのです。」さらにこうも綴られています。「父と共働きだった母ですが、持病で退職した後は、療養に努めつつ、平和運動に力を尽くす日々。家族でヨーロッパを訪ねた折、チップの折り鶴を添えて渡した母に感激したホテルのスタッフが、お礼にと花束をプレゼントしてくれたことがありました。振り返れば、長く病を抱えながらも明るく笑顔を絶やさず、平和を目指して歩みを進めてがんばった母・・・今はただ、安らかにと祈るばかりです。」

この文章の最初には「母が撒いた平和の種をこれからも大切に育てていきます」とタイトルが付けられています。

また大切な被爆証言者がいなくなったと寂寥感を覚える桑原千代子さんの死でしたが、桑原さんの思いは、二人の娘さんにしっかりとつながっているのを感ずることのできたお見送りでした。

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2024年2月17日 (土)

県被団協被爆二世三世の会,広島県に要請書提出

広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の二世三世の会は、昨日広島県庁内の会議室で、広島県湯崎英彦知事に対し「被爆二世・三世対策の充実を求める要請書」を提出しました。

要請は次の5項目です。

①全国の自治体における被爆二世対策を調査し、広島県として自治体独自の被爆二世対策を講ずること。

②被爆二世・三世の健康実態調査を実施するよう国に働きかけること。

③現行の検診内容を被爆者の検診項目に準じた内容にしていただきたい。

④多発性骨髄腫の検査項目以外のガン検診の実施について引き続き国への要望を強化すること。

⑤被爆二世健康診断を通年実施するとともに、被爆三世を対象に加えることを国に働きかけること。

二世三世の会共同代表の一人田口正行さんが,読み上げた関野被爆者支援課長に手渡した後、関野課長から県の回答がありました。

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その回答の内容は、ほぼ同じ趣旨だったように思いますので、ここでは①に対する回答を紹介します。

「県としても課題としては認識しているが、2世対策は国が全国一律に実施すべきと認識している。みなさんの要望については、八者協(筆者注:広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会で、構成は広島県、長崎県、広島市及び長崎市の知事・市長及び議会議長)で毎年要望しています。」

私は、1990年代から何度も,被爆二世団体の対県、対市交渉に参加していますが、また同じ回答を聞くのかと、という思いで県の回答を聞きました。国に対して、八者協で要望するだけでは何の前進もないことは、これまでで明らかになっていることです。被爆県として、何かできることはないのかと検討する姿勢が全くないことにがっかりするばかりです。

もし国を動かそうというのであれば、まず県独自の被爆二世対策を実施することが絶対に必要です。私は、そういう姿勢の県には求めたいと思いますが、今回の交渉ではこの論議は深めることはできませんでした。

多くの時間は、被爆二世健診の受診者をどう拡大していくかの論議に集中しました。自治体ごとの受診者数を明らかにすること、県だけでなく各自治体の広報紙に周知のための掲載(すでにかなりの自治体で実施されているようだが)を行なうよう求めること、被爆者に送られる健診通知に二世健診のことを付け加え周知を図ることなどなどで,県も前向きに検討することを約束しました。なお、広島市を除く県内の昨年の被爆二世健診の実績は、受診者2,271人、うち254人が精密検査を受けています。この受診者数は、微減とのことでした。

約1時間あまりの意見交換の最後に、二世三世の会の共同代表の一人遊川和良さんが、「1979年から検診が始まっているが、その結果の評価がなされないままにきている。こうしたことをきちんとやってほしいが、やってもらえていない。今後どういう方針で行なおうとするのか検討してほしい。そうした中から、遺伝的影響を解明する方向に踏み出してほしい」とあいさつし、交渉は終わりました。

遊川さんが指摘するように、県として独自に何ができるのか,もっと前向きな対応をすべきだという強い思いを持った交渉への傍聴参加でした。

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2024年2月 9日 (金)

映画「寡婦たちの村」

カナダのウラン採掘による先住民族の被曝を扱った映画「寡婦たちの村」の上映会&トークが、4日の午後2時から広島市民交流プラザで行なわれました。

カナダのウラン鉱山は、早くから採掘が行なわれ、第2次世界大戦中のアメリカの原爆開発に寄与したとされ、広島、長崎に投下された原爆の原料の一部になったとも言われています。

この映画は、先住民族サーツ・デネとカナダ北西準州のウラン鉱山の歴史に光を当てたドキュメンタリー映画で、1999年に上映されましたが、長く広島で知られることがありませんでした。最近、アメリカやカナダにおける原爆・核エネルギーをめぐる言説あるいは文化表象を研究対象している広島大学松永京子准教授によってその存在が明らかになりました。

当時は、日本語字幕はなかったようですが、松永さんの努力によって、日本語字幕版が完成し、昨年12月10日にピーター・ブロー監督を広島に招き、初めての上映会が行なわれ、その後大阪大学でも上映されました。今度の上映会が3度目ということになりました。

私の記憶にはないのですが、サーツ・デネの代表団8人が、1998年8月に広島を訪れ、広島の被爆者や渡日治療中に在韓被爆者との交流や平和記念式展への参加を行なっています。ピーター・ブロー監督もこの訪日に同行し、その時の様子も含めて作成された映画が、「寡婦たちの村」です。

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今回の上映会は、この映画を日本に紹介した松永京子さんや、当時広島での受け入れに協力した韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部、第九条の会ヒロシマなどの主催で開催されました。

映画の上映の前のトークでは、サーツ・デネの代表団が広島を訪れたときの様子が、それぞれの団体の代表から紹介されました。

トークのメインは、松永京子さんの「『寡婦たちの村』の背景とその後をめぐって」の報告です。その一部を紹介します。

ウランが採掘されたポートラジウムは、カナダのノーストウエスト準州のグレートベア湖の東岸にあり、北米最大のウラン産地で1942年から1960年にウラン採掘が行なわれ、アメリカに輸出されています。

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ノースウエスト準州とグレートベア湖(赤い矢印)

サーツ・デネ人の住む村デネリは、グレートベア湖の西岸にあり、ウランなどの鉱石をこの湖の東岸から西岸に運搬する作業に30人以上がかかわっていたようです。当時の村の住人は、約600人。もちろん、その危険性が知らされることはありません。その結果、1970年代から1998年までに少なくとも14名ががんで死亡しています。運搬中にこぼれた鉱石や湖に投棄された鉱滓、残土による汚染、さらに鉱石の袋などが先住民族の住宅のテントなどに使用したため汚染は広がったのです。

それらの事実をデネ人が「公式」に知ったのは、1980年代半ばです。

ピーター・ブロー監督は、1985年にデネの人と出会い、1997年からデネリに入り、1998年の広島訪問にも同行したのです。

ずっと無視し続けてきたカナダ政府が、「寡婦たちの村」の上映をきっかけとして、ようやくポートラジウムのウラン採掘による環境と人体への影響調査を実施し、2005年8月に100ページにわたる最終報告を出しました。しかし「特定の個人の死や病気が,放射線被曝によるものかどうかを確実に知ることは可能でない」と,その因果関係をほぼ否定する内容でした。

こうしたカナダの先住民の核被害の実態は、私にとって初めて聞く話でした。先住民が核サイクル社会の犠牲者になり、その被害が無視されていることを改めて認識させられる映画上映&トークの集いでした。

同時にサーツ・デネの人々は、運搬と鉱滓の投棄などによる核被害者ですが、鉱山の採掘現場で働いていた人たちはどういう人たちで、その後どうなっているのか、調べてみたいと思います。

そして、核兵器禁止条約でこの人々がきちんと救済の対象となるようにするのも私たちの課題だということも突きつけられることになりました。

いのちとうとし

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2024年2月 4日 (日)

2024年全国被爆二世団体連絡協議会総会

隔年で開催されている全国被爆二世団体連絡協議会(以下「全国被爆二世協」)の2024年総会が、3日,4日の二日間、広島の自治労会館で開催されました。2年前はオンラインでの総会でしたので、久しぶりの対面の総会となりました。

初日の3日は、午後1時から始まりました。

開会のあいさつに立った崎山昇全国被爆二世協会長は、運動の現状と今後の課題について次のように述べました。

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「今私たちの運動にとって大変重要な時期を迎えています。第5の被爆者として被爆者援護法の適用を求めてきましたが、未だ実現していません。被爆70周年の年に新たな方針を決めました。その一つは、国際社会に訴えることですが、国連人権委員会、核兵器禁止条約第1回締約国会議、NOT再検討会議などに参加し取り組んできました。裁判を通じて被爆者援護法の適用を実現させることは、2017年2月の集団訴訟提訴以来すでに7年が経過しました。2022年そして2023年に長崎地裁・広島地裁において出された判決は到底納得できるものではありません。影響を否定できなかったことは大きな足がかりですので、福岡・広島両高裁では、正面から向きあった公正な判決を求めます。裁判を通じて、被爆二世問題を政治課題として押し上げることができました。こうした面を前進させるため、今後も全力で取り組みたいと思っています」

続いて来賓のあいさつが行われ、私も原水禁国民会議、広島県原水禁を代表してあいさつを行いました。

その後、平野克博事務局長から,この2年間の活動報告、今後の運動方針が提起され、全体の拍手で確認されました。

提起された運動方針の柱は次の通りです。

1、再びヒバクシャをつくらせないため、核廃絶と世界の平和を求める活動への積極的な取り組みを進めます。

2,国家補償と被爆二世・三世への適用を明記した被爆者援護法の改正をめざします。また、被爆二世健康診断の法制化、充実に向けて取り組みます。

以下8つのテーマがありますが、省略します。

総会の最後に、「被爆地ヒロシマ選出の岸田文雄内閣総理大臣・自由民主党総裁への要請」が採択されました。要望の要旨は次の通りです。

「1、核兵器禁止条約に日本政府として署名・批准すること。2、戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済を図るという被爆者援護法の立法趣旨の立場に立って、広島の黒い雨被爆者や長崎の『被爆体験者』など高齢化し原爆による特殊な被害に苦しむ被爆者や,原爆放射線の遺伝的影響を否定できない被爆二世を広く救済すること。3、国策ですすめた福島第一原子力発電所で重大事故を起こした責任を果たすこと。①トリチウムを含む放射能汚染水の海洋放出を直ちに中止し、責任を持って陸上で保管すること②全ての福島原発事故被害者に国の責任による『健康手帳』など『被爆者援護法』に準じた新たな法整備を行うこと③原発推進エネルギー政策を転換し脱原発を推進すること」

総会に引き続き、被爆二世裁判弁護団長の在間秀和弁護士の「“被爆二世に対する援護”諦めない闘いを」と題した記念講演が行われ第1日目が終了しました。

二日目となる今日は、午前9時から「今後の取り組みの提起」を受けての意見交換・各地の取り組み報告が行われます。

いのちとうとし

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2024年2月 3日 (土)

2004年広島県原爆被害者団体協議会新春代表者会議

広島県原爆被害者団体協議会(以下「広島県被団協」)は、2月2日の午前10時から平和ビルで「2004年新春代表者会議」を開催しました。

全員で黙祷の後、箕牧智之理事長が開会のあいさつ。

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箕牧理事長は、「元日の能登半島沖地震、羽田での航空機事故、今年はどんな年になるだろうかとの思いが強くなっています。被爆79周年を迎え、被爆者は高齢化し,集まるのも難しくなっています。先日、この会議にもよく参加していただいた三原の中林さんが亡くなられたという訃報が届きました。

昨年11月に開催された第2回締約国会議に参加し、若い人、教会、大学、高校で被爆証言をし、核兵器廃絶を訴えてきました。この会議で、これまで2000回を超えた核実験による被害者に対し、救済基金をつくることが決まりました。先日厚労大臣との交渉に参加しました。原爆症認定が厳しすぎることを訴えると共に、黒い雨では、なぜ長崎は適用されないのかと問いましたが、明確な回答はありませんでした。改めて被爆者は闘って行かなければならないと決意しました。コロナの拡大が言われていますが、コロナに感染しないようにしながら核兵器廃絶と世界平和を訴えていきましょう。」とあいさつ。

続いての来賓のあいさつは、連合広島、県生協連、そして県原水禁代表の私があいさつを行いました。

ここで来賓は退場となりましたが、席を移して会場に残りました。というのは、今年初めてのことですが、地域活動報告として坂町原爆被害者友の会の報告が予定されていたからです。

報告者は、会長で被爆二世の池田節夫さんです。池田さんは若いときに一緒に運動してきた仲間です。

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池田さんの話しの要約です。

2017年、前身である坂町原爆被害者の会が、高齢化などの理由で解散したとき、坪井理事長に「坂町の平和の火が消えるのは、さみしいの」と言われて,当時の会長の刎本会長とも話し合ったのですが存続することはできませんでした。その時、刎本さんから「原爆の碑を守って下さい」と言われました。坂町には、坂町原爆追悼碑、小屋浦原爆慰霊碑、横浜原爆慰霊碑、翔洋高校(旧女子商)原爆の碑の4つの碑があります。2018年8月6日に第1回坂町原爆被害者追悼慰霊式を坂、小屋浦の二カ所で実施し、同じ年の9月29日に坂町原爆被害者友の会を結成しました。その時、坪井理事長から次のように書かれたお手紙をいただきました。「本来、人は善なるものと思う。その人たちがみんな集まって,平和団体をつくり、進む姿は美しい。どうか今後、みなで力を合わせてがんばって下さい。」

2019年6月29日に第1回被爆者相談会を参加者35名で実施。2022年3月27・28日に、坂町民センター、小屋浦集会所で県被団協主催で,黒い雨説明会を実施したところ60名の参加がありました。

その後私のところに問い合わせがあり、家に来ていただいたり、被爆者宅を訪問したりして、手帳交付申請手続きのお手伝いをしています。坂町の被爆者健康手帳の取得状況は、2年間で219人が申請し、認定され取得した人は169人ですが、そのうち黒い雨の被爆者は、162人です。

機関誌「あさがお」は23号まで発行し、現在坂町原爆被害者友の会の会員は、104名になりました。手帳交付人数と連動はしていませんが、これからも少しずつ前に進んでいきたいと思います。

池田さんの報告はこれで終わったのですが、地道に活動を続けている報告に感心しながら話を聞きました。その後、司会者の熊田哲治事務局次長からから、黒い雨の手帳取得には安芸太田町でも被爆二世を中心に相談に乗っているとの報告もありました。

いよいよ、被爆二世が県被団協を担っていく時期になったのだなと言うことを実感させられる池田さんの報告でした。

いのちとうとし

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2024年1月26日 (金)

明日は「ネバダ・デー」です。

「ネバダ・デー」とは:

1951年1月27日、アメリカ・ネバダ核実験場で初めて核実験が行われました。それから 33周年にあたる 1984年1月27日、米国・ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネット・ゴードン代表)の呼びかけで、全米各地で反核集会が開催されました。イギリス・カナダ・マーシャル諸島などへも広がり、広島県原水禁もこの日、核実験全面禁止を求める国際連帯行動として、原爆慰霊碑前で座り込みを行いました。その後、この日が「ネバダ・デー国際共同行動日」となり広島では毎年、座り込み行動を続けています。(*昨年の1.27ネバダ・デー ヒロシマからのアピールより一部抜粋)

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ネバダ核実験場での核実験

みなさま、お昼のニュースや新聞でご覧になったことはないでしょうか?

「核兵器廃絶」や「核兵器開発・核実験全面禁止」「もう戦争はいやだ!」という思いをお持ちの方、来てみてください!

毎年、この日、この場所に集まっている人たちは、特別な人たちではありません。みなさんと、同じように「核兵器廃絶」や「核兵器開発・核実験全面禁止」「もう戦争はいやだ!」という思いを表している人たちです。

残念ながら、核兵器もなくならないし、戦争も続いている、今ですが、ひとりひとりの思いを形にしたり、行動することで、

「決して、今の状況がいいとは思っていませんからね。」

「核兵器は絶対に許しませんからね。」

ということを、示し続けることになると思います。一番怖いのは、このような思いを表現することがなくなることだと思います。行動するなら、今です!

今年のネバダデー座り込みは、明日1月27()12151245原爆ドーム前です。

YH

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2024年1月22日 (月)

ICAN新事務局長メリッサ・パークさん来広記念講演会

昨年9月にICANの新事務局長に就任したメリッサ・パークさんの広島訪問を記念した講演会が、20日午前10時から平和記念資料館地下メモリアルホールで開催されました。

就任当初から「被爆地広島・長崎を訪問したい」を望んでいたと言われるメリッサ・パークさんですが、昨年11月27日から12月1日にかけて開催された「核兵器禁止条約第2回締約国会議」への準備、参加のため、核兵器禁止条約発効3周年目を迎えるこの時期ようやく実現しました。

被爆地訪問を強く望んでいたことは、基調講演が約1時間20分(通訳を含めてですが)に及んだことからも推察されます。

その基調講演の中から私なりに印象に残ったことをここでは紹介したいと思います。

資料館を見学して、「キノコ雲の下でいのちを失った25万人の人には、それぞれ一人ひとりに名前があった。そこには家族がいた。親しい人々がいたことを忘れてはならない」というサーロー節子さんの言葉を思い出した。「資料館は、全ての人間に対して戦争の惨禍を思い出させる場所。また人間が同じ人間にこんな行為ができることを示している。」同時に「核のない世界が可能であることも示している。心を開き、目を開けば可能である。」

さらに、被爆者の話を聞いて「若い人たちが、被爆者の体験を継承することが、過去の過ちを繰り返さないことになる」

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強調されたのは、被爆の実相が原点だと言うことです。

次にICANが、核兵器禁止条約にかかわるきっかけとなったのが、2006年に秋葉市長が「私たちは連帯すべきだ」と言われたこと、そして「2007年のウィーンの会議でも秋葉さんの話を聞いたこと」だったと秋葉さんとの出会いが強調して紹介されました。

さらに、2002年ガザでのイベントで「広島、長崎の犠牲者に対して、ガザの子どもがたちが、紙で作った船にキャンドルを灯して流した」ことを紹介しながら「世界ではほとんど核兵器の教育がされていない.核兵器に関する教育が必要だ」と強調しました。

ガザへのイスラエルの軍事侵攻が続き子どもたちのいのちが無残にも奪われている今、ガザの子どもたちの平和への思いを強調されたことが強く印象に残ります。

話しはいよいよ本題に入ります。「核兵器禁止条約は、世界に変化を起こすきっかけを作った。人道、環境に対する意識を持ち出した」とし、「核による抑止という虚構を捨てなければならない。核抑止の考え方は、核軍縮、核廃絶を阻害するものだ」としました。

そしてG7サミットについて「核のリスクを理解せず、期待を裏切るもの。被爆者の願い、若い人々の言葉を無視してしまった」と厳しく批判しました。

次は日本政府への期待・要望です。「日本は、核兵器禁止条約に署名する最初の国であったほしいと願っていた。しかし・・・・。今からでも遅くない」と、日本政府への署名・批准を求めました。さらに「岸田さんは、条約は出口だと言うが、私は入り口だと思っている」と話すと共に「日本政府が署名・批准していなくても条約の第6条の専門家会議に参加したり、信託基金に協力することを願っている」ことを強調しました。

この点については、私も同感です。

最後に日本政府に対して「日本がリーダーシップをとるためには、核の傘の考えを捨てるべきだ。自国のことのみならず、道義的な立場に立って働くべきだ」とし、「核兵器の非人道性を訴えることが重要だ」と強調しました。

核被害の実相に原点をおき、核抑止論を厳しく批判する姿勢を感ずることができた基調講演だったと思います。

この後、被爆者や高校生などとのパネルディスカッションがありましたが、時間の都合で私は会場を後にしました。

最後にどうしても触れておきたいことがあります。

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ステージ上には、上の写真のように「核兵器禁止条約に参加を」と書かれた横断幕がありました。メリッサ・パークさんの来訪を機に、「日本政府に核兵器禁止条約に参加させる」という強い思いが込められています。しかし、開会あいさつを行った松井一實広島市長のあいさつの中には「核兵器禁止条約」という言葉が全く出てきませんでした。「なぜ!」と強い違和感を持ったのは、私だけでしょうか。あいさつが終わると会場を後にした松井市長こそ、メリッサ・パークさんの話を聞く必要があったと思います。

いのちとうとし

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