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被爆者

2023年1月14日 (土)

広島ガスの60年史と100年史

1月9日の「広島ガス100年史」と原爆被害: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「広島ガス100年史」(以下「100年史」)に記載された原爆被害について書きました。

その中で引用した広島工場の従業員の体験記は、もともと「広島ガス60年史」(以下「60年史」)に掲載されていたものですので、「60年史」では、原爆被害がどのように記載されているのか気になりましたので、広島市立図書館から借りてきました。

2冊を比較すると、大きなタイトルは「原子爆弾と終戦」(「60年史」)、「広島の壊滅」(「100年史」)と違いますが、原爆被害に関する記述は、文量としてはほぼ同じです。ただ細かく読んでいくといくつかの違いが見つかります。

その一つが、爆心地からの距離です。「60年史」では、「本社は約350m、広島工場は約2,000m」となっていますが、「100年史」では、「本社は約250m、広島工場は約2,200m」と記載されています。広島原爆戦災誌は、「100年史」と同じ距離になっています。「60年史」は、広島原爆戦災誌と同じく1971年10月に発行されていますので、広島原爆戦災誌と同じ距離が使われてもおかしくなかったと思われますが、なぜこの違いが出来たのか不思議です。

二つ目は、これは大きな違いだと思いますが、「60年史」には、原爆で犠牲となった69名全員の氏名が50音順で記載されています。

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「60年史」の1ページ

うちはっきりと女性とわかる名前は19名です。女性の犠牲者があったことがわかるのも名簿があるからです。「100年史」には、本文中で役員3名の名前が記載されているのみで、他の犠牲者の氏名は掲載されていません。

三つ目は、本文が始まる前に掲載されているグラビアの部分です。「60年史」は、当時の広島ガスに関する写真のみですが、「100年史」では、「広島ガスの100年」とタイトルが付けられ、被爆写真を含め戦前の写真が見開き2ページにわたった掲載されています。

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「100年史」の戦前の写真の1ページ

100年という節目を大切にした編集となっています。

もう一つ気付くのは、「100年史」には、当時の社長が書かれた「社史刊行にあたって」の文章があることです。深山英樹社長は、その中で原爆被害について次のように書かれています。「振り返りみますと、当社の最大の試練は1945年8月の原子爆弾投下により、製造・供給設備はもとより、当時の山口吾一社長をはじめ人的資源に大打撃を受け、これらを一瞬にして失ったことであります。原爆により広島は廃墟と化し、当時は『今後75年間、草木も生えぬ』と噂されたものでありますが、当時の先輩諸氏は、再興に向け一致団結、それこそ泥まみれになりながら日夜業務に精励されました。」

原爆被害がどれほど大きかったのか、この社史からも読み取ることができます。

たまたま目にし、購入した「広島ガス100年史」でしたが、「原爆被害の実相」を別の視点から学ぶことができました。「原爆被害がどのように扱われているか」他社の社史も調べてみたい気になっています。

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2023年1月11日 (水)

木本誠二著「原子爆弾空襲の體験」

「原子爆弾空襲の體験」は、1945年8月6日に所用で郷里広島に立ち寄った牛田町の生家で、軽い病気のため臥床のまま被爆した東京帝国大学医学部の医師木本誠二さん体験記です。

この冊子のことを中国新聞記事で知り、発行関係者に連絡を取ったところ、大切な1冊が送られてきました。

この小冊子(A5版で28ページ、内体験記は、16ページ)は、昨年8月6日に発行されたものです。

表紙には、次のようなサブタイトルが付けられています。《ヒロシマで被爆した ある医師の手記 GHQが発禁 七七年を経て いま甦る》

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体験記は、最初に自分自身の8月6日の被爆の体験状況が書かれています。その後に「空襲状況」「爆圧による破壊程度」「焼夷力」「人體損傷」の小見出しごとに、その詳細な状況が記されています。ここではその詳細の記述はしませんが、活字化進められた工藤一喜さんが「木本先生の原稿は、広島での原爆投下により未曽有の被害を受けた直後の体験談であり、原爆で被災されながら科学的な鋭い視点から、当時全く想定外であった原子爆弾の可能性を確信され、発生した事実を極めて冷静に伝えておられる。」と指摘されているように医学者ならではの貴重な体験記といえます。

気になるのは表紙に記された「GHQ」の文字と「七七年を経て」です。そのことをこの冊子の後段に付された注意書きで読み解くことができます。もともとこの体験記は「ある雑誌社の切なる依頼に応じて」書かれたものだったのですが、木本さんが後になって「私は自分の原爆体験を戦後まもなく雑誌に書いたが、GHQによって差し止められた」と書かれているように、GHQによって発行が禁止され、結果として75年間封印され、存在する知られることがなかったのです。

その体験記が活字化されるようになったのは、1945年広島、長崎の原爆調査を行った金井清さんの資料を広島原爆資料館に寄贈(2018年11月)するための調査を行っている時にこの体験記が発見されたからです。発見された体験記は、筆写されたもののようですが、筆写された時期が、1945年15・16日と特定されているため、それ以前の被爆から1から2か月前後に書かれた貴重なものであることがわかっているようです。

木本誠二さんの原稿を大切にするため、旧漢字もそのまま使われていますが、難漢字にルビが振られ、原本の邪魔にならないようにと気を使いながらも事実に関する注も付され、理解が深まるようにとの丁寧な編集となっています。

私がお願いのメールを送った工藤さんからのその後のメールによれば、この小冊子の入手希望者が多く増刷されたそうです。

この貴重な被爆体験記の復刊に努力された工藤さんたちも希望されているように「広く末永く読み継がれる」ことを望みます。

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2023年1月 9日 (月)

「広島ガス100年史」と原爆被害

昨年末、妻の実家がある山口に帰省した時、いつも行くブックオフ山口店にのぞきました。ブックオフの各店には、100から200円のコーナーがありますが、その棚で珍しい一冊を見つけました。「広島ガス100年史」です。発行日は2010年3月となっていますが、広島ガスが、100周年を迎えたのは、前年2009年10月30日です。

「原爆被害が記載されているか」気になりましたので、すぐ目次を確認しました。「広島の壊滅」の項に「原爆投下と広島瓦斯の犠牲」と書かれていますので、本文は読まずに、とりあえず購入しました。110円の定価がついていましたが、私にとって定価以上の貴重な資料です。余談ですが、年が明けて広島の古本屋で見つけた「広島ガス60年史」には、6000円の定価がついていました。

広島ガスの原爆被害については、広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、広島原爆戦災誌からの引用を紹介していますが、「広島ガス100年史」を読んでいると、その被害の実相が違うことに気づきました。

原爆の犠牲者数は、69人で同じなのですが、勤労動員で建物疎開作業中に亡くなった犠牲者の人数が、原爆戦災誌では、34人になっていますが、「広島ガス100年史」では、30人と記載されています。さらに「100年史」では、原爆戦災誌にはなかった「爆心地から約2,200mの距離にあった広島工場では、従業員1人が即死した」ことが、記載されています。また本社に出勤していた社員数も原爆戦災誌では、約35人となっていますが、「100年史」では、「出勤していた社員30人は、本社の倒壊とともに全員が死亡した」と記載されています。

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被爆前の広島瓦斯本社

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原爆で破壊された本社社屋

 どちらが正しいのか調べてみたいと思いますが、これが原爆被害の実相なのかなとも感じています。

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原爆で焼きついたガスホルダーの階段の影

 原爆資料館では別の写真が掲示されていますが、原爆の熱線の強さを示すものとして私たちがよく目にする写真です。「ガスタンクの表面が、熱線を受けて塗料のコールタールが焼け、階段で熱線がさえぎられて部分だけが、元のまま黒く残った」(広島平和機縁資料館総合図録より)。資料館の写真では「階段」ではなく「ハンドル」の影となっていますが、この写真は広島瓦斯広島工場に残った影を写したものです。

「広島ガス100年史」には、8月5日に当直していた従業員の証言が掲載されていますので、その一部を引用します。

「午前8時すぎ、私は工場を出て帰途についた。300メートルばかり歩いて専売局の前にさしかかったとき、とつじょ、焼けつくような閃光にみまわれ、とっさに道路の中央の電車軌道の上にとびだして身を伏せた。その瞬間、ごう然たる爆音とともに強い衝撃と熱風を全身に感じ、自分のすぐそばに爆弾が落ちたものと思いこんで周囲をみまわしたところ、そのとき、すでに両側の家々は瓦もガラスも飛び散って廃屋同然となり、なかには倒壊したものもみられた。私は急いで工場にひきかえしたが、ここも同様、建物の瓦やガラスがみじんに吹き飛んでいた。そして、2基のガスホルダーは、天井が裂け、頂骨が折れこみ、ガスが燃える間もなく瞬時に発散したらしく沈下してしまい、強烈な閃光のため、ホルダーの階段の影が不気味に濃く焼きついた側壁だけが残っていた。そのときになって、私は右顔面に激痛を覚えたが、出勤してきたばかりの従業員は、軽重の差こそあれ、全員、熱傷を負い、ガラスの破片などで外傷をうけており、とりあえず重傷者を安全な場所の移道としたとき・・・」(原文のまま)

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原爆で焼失した広島工場

ここではガスホルダーと記載されていますが、ガスタンクのことだと思えますが、「階段の影」が強く印象に残ったことがよくわかります。

今日使用した写真は、上記の体験記とともに「広島ガス100年史」に掲載されている写真です。

「広島ガス100年史」、思いがけない出会いで、貴重な資料を入手することができ、新たな被爆の実相を知ることになりました。

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2023年1月 3日 (火)

在韓被爆者郭貴勲さんの訃報

元日の朝、メールを開くと大阪の市場淳子さん(「韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長」)からメールが届いていました。

「新年のご挨拶をすべきところですが、悲しいお知らせをしなければならなくなりました。

今朝、郭貴勲さんのご長男から『20221231日午後1158分、郭貴勲さんが入院先の療養病院で亡くなられた』との知らせがありました。

昨日の午後3時半に郭さんのお子さんたちが、療養病院に面会に行かれ、郭さんはお子さんたちを認知されて手を振られたそうですが、その8時間後に息を引き取られたそうです。 」

享年98歳でした。いつかはこの日が来ると思ってはいましたが、実際にその日を迎えると本当に悲しく寂しい思いになりました。

郭貴勲さんとの出会いは、郭さんが「在外被爆者にも援護法適用を」と訴えて争った大阪地裁の裁判闘争の時からです。

大阪高裁判決後、政府が上告を断念し、在外被爆者への援護法適用が実現した時のことを、私は、当時のホームページに次のように記載しています。

「12月18日、坂口厚生労働大臣が記者会見し、『在外被爆者郭貴勲さんの大阪高裁判決の上告を断念する』と発表した。ついに『在外被爆者に対し被爆者援護法の適用』が実現した。

このニュースを議員会館の私の部屋で郭さんと一緒に聞いた時、心のそこから『本当によかった』という思いでいっぱいになった。

昨年4月に『在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会』を立ち上げ、事務局長を努めることになって以来多くの在外被爆者の皆さんとお会いした。

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その度に、熱い思いで、そして大きな期待を寄せて話される被爆者の皆さんの声を聞きながら、なかなか前進しないことに何度も『申し訳ない』と心の中で思いつづけてきた。昨年10月に韓国を訪問したときほど、重い気持ちになったことはない。  

ようやくそうした在外被爆者の皆さんに答えることができた。しかし、これですべての在外被爆者問題が解決したわけではない。『被爆者手帳を持っていない被爆者は』などなど課題が山積している。今回の上告断念を期に、裁判でも示された『被爆者はどこにいても被爆者』を本当の意味で実現させるため、さらにがんばる。」

郭貴勲裁判で、大阪高裁での勝訴判決で日本政府に上告を断念させ、その後の在外被爆者への被爆者援護法適用への道を開くことになったことは、私の短い国会活動の中でも、最も印象に残っていることの一つです。

「被爆者はどこにいても被爆者」

この郭さんの訴えが、在ブラジル、在米被爆者等の在外被爆者を結び、お互いの連帯と共闘の輪を作りました。

国会の議席を失った後も郭さんには、広島に来られるたびに声をかけていただきましたし、特に夏の原水禁世界大会では、毎回海外ゲストとして参加され被爆者の救援を訴えつづけていただきました。

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私は、郭さんとお会いするたびに、会話を楽しみにし、元気な姿に励まされたものです。

郭貴勲さんとの最後の対話は、2017年の「被爆72周年原水爆禁止世界大会長崎大会」です。この年もいつものように夕食をともにしながら語り合ったことが思い出されます。

どうか安らかにお眠りください。

郭貴勲さんのご冥福を心からお祈りします。

いのちとうとし

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2023年1月 2日 (月)

外国人の姿が目立つ平和公園

一夜明けた元日の昼過ぎ、再び平和公園を訪れました。二つの目的がありました。

一つは、当然のことですが、原爆慰霊碑に参拝し平和公園の様子を見ることです。

原爆慰霊碑前には、予想以上に多くの人の姿がありました。

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特に気が付いたのは、ここだけでなく平和公園全域で、外国人の訪問者が多かったことです。半数とは言いませんが、三人に一人ぐらいの割合で外国人の姿を目にしました。この場に立って願うことは、誰もが核兵器の廃絶と平和への願いだと思います。今年が、そう願う人たちにとって、大きな変革の年となったと言えるような年にしたいものです。

資料館の入り口には入館待つ人の列が外まで延びていました。

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館内をじっくりと見て広島の実相を少しでも深く実感してほしいと思います。

資料館南口横にある地球平和監視時計の上段「広島への原爆投下からの日数」は「28272」日、下段の「最後の核実験からの日数」は「472」となっています。

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下段の日数が、さらに伸び続けるよう声を上げていきたいと思います。

資料館を訪れる人たちの列を見ましたので、北隣の被爆遺構展示館には、どれだけの人が訪れているのか気になりましたので、そこにも足を運びました。私が入った時には、一人だけ訪問者がいました。午前中に82人の入館者があったようです。資料館を訪れた人にここまで足を運んでもらうのには、もう一工夫が必要のようです。

二つ目の目的は、12月29日の中国新聞記事で紹介された中国からの留学生の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和記念館地下2階の遺影コーナーで見ることです。

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中国新聞の記事によれば、今回遺影が登録された中国人留学生の名前は張秀映さんです。広島で被爆した中国からの留学生は12人でしたが、うち6人が原爆死しています。張さんは原爆死した一人です。6人の生存者で現在も健在な被爆者は王大文さんただお一人です。留学生12人中11人がすでに亡くなっておられることになりますが、中国人留学生の遺影が登録されたのは張さんが初めてです。

この遺影は、1月1日から見ることができるということでしたので、登録日のこの日に訪れたいと思い遺影コーナーで検索しました。

追悼空間スロープの壁面に掲げられた「原爆投下に至る経緯や被害の概要」の6枚のパネルの3枚目には、中国人留学生が犠牲になったことが記されていますので、遺影が登録されたことは本当によかったと思います。

その後も平和公園内を散策し、帰宅しました。

いのちとうとし

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2023年1月 1日 (日)

新しい年を平和公園原爆供養塔前で迎えました。

新年あけましておめでとうございます。

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被爆画家田谷行平さんの絵馬

みなさんは、新年をどこで迎えられましたか。多くの方が自宅だと思いますが、私は今年初めて、平和公園の原爆供養塔まで迎えました。

昨年10月に、毎月6日に原爆供養塔まで行われている原爆犠牲者の月命日の供養に初めて参加したことはこのブログでも紹介しましたが、その時から年越しは、この場所でと思っていました。

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除夜の鐘が遠く近く四方から聞こえる原爆供養塔の前に立ったのは、私一人でした。

原爆の最大の犠牲者は、一瞬のうちに命を奪われた人たちです。しかし多くが、自らの名前を証明することもできず、肉親のもとに帰ることもできなかった遺骨のうち約7万体が、原爆供養塔に眠っていることは、決して忘れてはならないことだと思います。

私は、その思いを新たにするためにこの場所で新年を迎えることにしました。

昨年末の読んだ「憲法9条と幣原喜重郎―日本国憲法の原点の解明」(笠原十九司著)は、日本国憲法の平和主義第9条がなぜ生まれたのかが、様々な資料に基づいて書かれています。その中に収録された対談の中で、「軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするというわけなのですか」との問いに対し幣原喜重郎(憲法改正原案をまとめて首相)が次のように答えています。

「確かに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の情勢は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短期間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰塵に帰してしまうことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。」

私はこのくだりを読み、改めて「広島、長崎への原爆投下の犠牲になった人たち」への私たちの誓いが憲法9条だということを確認しました。

被爆78周年を迎える今年、これまで確かに核兵器の使用は押しとどめてきましたが、ロシアのウクライナ侵略によって核兵器の脅威を身近のこととして実感させられているのが今の世界情勢です。幣原喜重郎のことばが重みを増しています。

2023年を戦争も核兵器もない世界にすることを誓う場所として、原爆供養塔ほどふさわしい場所はないと思い、2023年の新年を迎える場所としてこの場所を選んだのです。

原爆供養塔前から自宅に帰り、その決意がゆるぎないものとなるように今年も努力をしたいとの思いを込めてこのブログを書いています。

明るくなったらもう一度、平和公園を訪れる予定です。

いのちとうとし

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2022年12月14日 (水)

本願寺広島別院の被爆

今日は寺町の本願寺広島別院の話です。

1945年8月6日の原子爆弾投下によって、本願寺広島別院も堂宇の全てが焼失しました。現在の本堂が完成したのは、19年後の1964年10月です。現在も、広く門信徒の信仰の中心道場として、その役割を担っています。

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今月3日のブログ中国配電職員弔魂塔: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、中国配電職員忠魂棟を紹介しましたが、本願寺広島別院の境内には、その他にも原爆に関連するものがいくつかあります。

最初に広島原爆戦災誌に書かれた本願寺広島別院の被災の状況を引用します。

「爆心地から1.1キロ。8月6日は例日のとおり午前6時に勤行を行い、7時過ぎの警報解除後は輪番室において用談中、被爆した。本堂及び他の建物も全壊に近い被害であった。

原子爆弾の炸裂下、まず放射熱線により中庭の樹木が燃えはじめたので、職員が棒ぞうきんに水を浸して消火しようとしたが、ぞうきんの方が燃えだし、こちらを消せば他が燃えはじめるという状況で、ついに本堂に延焼し、次々に燃え移っていった。火の粉を避けようと、ふとんをとりに室内に入ってみると、爆風で天井は吹き飛ばされており、そこにふとんが舞い上がって、ひっかかっていた。

火勢は急激に高まり、各自無我夢中で近くの本川に逃げるのが精一杯であった。夕方になってようやく自然鎮火したが、槇籐輪番と職員1人、雇員の老爺1人及び参詣者2人計5人が即死し、10人が負傷した。」(原文のまま)

この項の最後に「なお、境内には現在、被爆しながらも奇跡的に枯れなかった蘇鉄樹が残っており、また納骨所石碑が一部かけたまま立っている。」と書かれています。この広島原爆戦災誌は、1971年に発刊されていますので、本堂の再建が終わった後の境内の様子を記述したものだということになります。

まず広島原爆戦災誌に書かれた蘇鉄樹を紹介します。

被爆ソテツは、本堂に向かって左側にある鐘撞堂の奥にあります。

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このソテツは、被爆当時、1609年に建てられた本堂の前にありましたが、本堂の全焼に耐えてよく生き残ったものです。本堂再建時に現在の場所に移植されました。

次は、納骨所石碑です。現在は、本堂の東隣にありますが、被爆時どこにあったのかは、まだ調べることができていません。

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中央に「還浄」と刻まれた大きな石塔があり、前の左右に「夜燈」と書かれた石塔があります。還浄とは、死んだ人が浄土にかえったという意味のようです。

大きく欠けているのが目につきます。

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「夜燈」には、「昭和六年六月」と刻まれていますから、間違いなく被爆した石塔だということがわかります。

さらによく見ると、三つの石塔全てですが、欠けているだけでなく大きな亀裂が入っています。倒壊した時に、ばらばらになったと思われます。

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本願寺広島別院は、爆心地から1.1キロの距離にありましたが、爆風のすさまじさを表しています。

とここまでは、広島原爆戦災誌に書かれていた「被爆の痕跡を伝えるもの」ですが、実は境内には、あまり紹介されている書き物に出会ったことがない歴史を伝えるものがあります。

17日のブログで紹介します。

いのちとうとし

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2022年12月13日 (火)

被爆二世訴訟で長崎地裁、「原告らの請求棄却」の不当判決

昨日午前10時、長崎地裁において「国が被爆二世に対し援護法に基づく施策を実施していないことは不法だ」とし、損害賠償を求めている被爆二世訴訟に対する初めての判決の言い渡しがありました。

判決は、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当なものですが、原告・弁護団は下記の声明を発表しました。その中で特に「『放射線被害の遺伝的影響』についてはその可能性を認めたと理解できる」と評価し、国に対し「改めて、速やかに被爆二世、そして被爆三世等に対し、被爆者援護法上の援護の措置を執ること」を求めました。

来年2月5日に判決が出される広島では、午後6時半から開催された長崎の報告集会をオンラインで結び、足立弁護士、中敷弁護士によって行われた判決に対する評価などを共有しました。

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【被爆二世訴訟・長崎地裁判決に対する声明】

         原告団長 崎山 昇

弁護団長 弁護士 在間 秀和

2017年2月提訴以来、5年10か月の審理を経て、本日長崎地裁は、原告らの請求を棄却するとの判決を示した。結論において、私たちの求めた被爆二世に対する賠償を否定したことは、到底納得し得るものではなく、強く抗議する。

原爆による放射線の被害は、19458月に広島・長崎の人たちが人類史上初めて経験したものであり、極めて多数の人たちが、瞬時に、そして耐えがたい苦痛の末に命を失い、また被爆による深刻な健康被害に苛まれてきた。日本政府は、被爆者の切実な訴えを受けて、ようやく1957年に原爆医療法を制定し、以降現在の被爆者援護法によって被爆者援護の政策を続けてきた。

原爆放射線が人間に遺伝的影響を与えるかについては、すでに1950年代から指摘されてきたことであり、現在に至るまで、多くの研究者がその影響を否定できないことを動物実験等科学的根拠をもって明らかにしてきた。現実に多くの被爆二世が、何らかの形で原爆放射線の影響を受けていることは否定できず、多くの二世が様々なガン等の疾病に苦しみ、またほとんどの被爆二世が健康に不安を覚える日々を過ごしてきた。本件裁判においても、原告の人たちはその現実を裁判所に切々と訴えた。

これに対する国の対応は、「放射線被害があるという科学的根拠は示されていない」という主張を一貫して続け、原告らの訴えに全く耳を貸そうともしない不当極まりないものであった。

この度長崎地裁は、放射線被害の遺伝的影響の可能性を認め、被爆二世である原告らの主張の正当性を認める判断を示した、と理解することができる。この点における裁判所の判断は、当然のことといえるものの、それ以上に政府・厚労省の基本的対応の問題に言及していないことは決定的に不十分と言わねばならない。

 被爆者援護法1条3号は、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」を被爆者として援護の対象とし、今回の判決においても、原爆放射線により健康被害が生ずる可能性がある事情の下に置かれていた者をいうと解されるとしている。そうであるならば、当然被爆二世に対しても同様に被爆者援護法による援護がなされるべきである。そして、そのための立法措置を怠ってきた国の責任は明らかである。にもかかわらず、今回の判決は極めて不十分と言わざるを得ない。

 しかし判決は、「放射線被害の遺伝的影響」についてはその可能性を認めたと理解できる。国はこれまで一貫して「遺伝的影響の科学的根拠はない」と主張し、被爆二世に対する援護法上の措置を拒否してきたが、この対応が基本的に誤りであることが判決において指摘されたと受け止めるべきである。そして、国は、被爆二世に対する援護についてこれまでの態度を根本的に改めるべきである。私たちは国に対し、改めて、速やかに被爆二世、そして被爆三世等に対し、被爆者援護法上の援護の措置を執ることを求める。


この判決を受け、控訴するかどうかは、14日に弁護団、原告団の会議を行い、その論議を経て判断することになっています。

いのちとうとし

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2022年12月 9日 (金)

原爆ドーム世界遺産登録26周年記念集会

1996年12月7日に「原爆ドーム」がユネスコ世界遺産に登録されて26年経った一昨日(12月7日)午後6時から、核兵器廃絶広島平和連絡会議が主催する「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」が、原爆ドーム前で開催されました。

集会は、連合広島の大野真人会長の主催者あいさつでスタート。大野会長は、特にロシア・プーチン大統領の「核使用を認める」との発言に触れながら、核兵器使用の脅威が拡大していることを指摘し、日本政府が核兵器禁止条約を一日も早く書名・批准して核兵器廃絶の先頭に立つべきだと訴えました。

続いて広島県被団協、広島県原水禁、KAKKIN広島、連合広島の代表が、花輪を献花し、原爆犠牲者への慰霊と、核兵器廃絶運動への決意を誓いました。私も県原水禁を代表してこの献花に参加しました。

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続いて、核兵器廃絶広島平和連絡会議の構成組織(平和運動センターや県労被爆連など)の各団体代表が、献水を行い、その後参加者全員で黙とうです。

連合広島女性委員会亀井美砂子委員長が、集会アピールを提案し全員の拍手で確認されました。アピールの一部を紹介します。

「(略)この『原爆ドーム』のユネスコ世界遺産登録に向けて、多くの市民や県民が一体となって4年の歳月をかけて署名活動などの運動を取り組んだ。その熱い情熱の結集である164万を超える請願署名が政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることになった。

私たちヒロシマが求めてきたものは、『原爆ドーム』の建築物としての文化的価値の評価ではなく、『原爆ドーム』に刻まれた被爆者の慟哭と被爆の実相を世界の人々へ伝え、核兵器の使用を決して許してはならないという警鐘を鳴らし続けることである。(略)

世界はまさに現実的な核の脅威に直面している。このような状況の中で日本政府は、核軍縮を呼びかける一方、唯一の戦争被爆国でありながら、核兵器禁止条約には否定的で、米国の『核の傘』にとより、『核共有』の議論まで起きている。

こうした状況だからこそ、ヒロシマの果たす役割は重い。(略)

私たちは、77年前の惨劇を目の当たりにし、今もなお『核兵器廃絶と世界の恒久平和実現』を無言で訴え続ける『原爆ドーム』とともに、思いを共有する多くの人との連帯の輪をさらに広げ行動することをここに誓う。」

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閉会の挨拶は、広島県被団協箕牧智之理事長。箕牧さんは「広島に住む私たちは、原爆ドームは、見るたびに戦争の愚かさ、平和の大切さを学ばせてくれます。核兵器禁止条約が発効してから692日になります。原爆ドームが無言で語り続けてくれている課題を皆さん考えていこうではありませんか」と呼びかけました。

その後参加者全員が献花をして、26周年を迎えた「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」は終了しました。

今年の参加者は、71名でした。

いのちとうとし

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2022年12月 3日 (土)

中国配電職員弔魂塔

現在の中国電力が建つ広島市小町にあった事業所が、中国配電株式会社です。原爆資料館を出るとその足で、この中国配電株式会社の慰霊碑が建つ、寺町の本願寺広島別院を訪れました。

本願寺別院の東南角(正門入って右)、親鸞聖人の像の南側に立派な「中国配電職員忠魂碑」が建っています。

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正面には「忠魂碑」と刻まれているだけで、「中国配電職員」の文字はありません。背面の文字は夕方だったこともあり、読みにくくきちんと読み取ることができませんでした。

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広島市の「原爆関係の慰霊碑等の概要」によれば次のような碑文が刻まれているようです。

「昭和20年8月6日ノ戦災ニ因リ本社社員ノ前後非命ニ斃レシ者278名是レ皆国会再造ノ犠牲本社進展ノ礎石ト謂フ可シ慈ニ3周年二当リ僚旧均シク哀シミヲ新ニシ感ヲ増ス仍テ此ノ塔ヲ建テテ聊々追弔ノ情ヲ 表ハシ亦以テ永ク其ノ幽魂ヲ慰メント欲ス。昭和23年8月6日 中国配電株式会社取締役社長 島田 兵蔵撰並書」

この文を読んで二つのことに気づきます。

一つは、被爆後3周年という早い時期に建立されたことです。中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑が建立されたのは、中国電力発足後の被爆後8年目ですから、この碑の建立はずいぶんと早かったことになります。二つは、占領軍支配下にあったためと思われますが「原爆」や「被爆」という文字が全く使われていないことです。

中国配電株式会社の原爆による犠牲は、11月2日のブログで「中国発送電株式会社中国支店の犠牲者」として紹介した本店の犠牲者163人、電業局、支店、被爆当時出張で広島にいて犠牲となった社員を合わせるとこの碑に刻まれているとおり278人となります。11月2日にも書きましたが、この犠牲者の中には、学徒動員され作業中だった第三国民学校の教師1名学徒9名の犠牲者は含まれていません。

本願寺広島別院に建つこの碑の前に立って「なぜこの碑は、ここに建っているのだろう?」と疑問が頭に浮かびました。

というのは、この境内には、親鸞聖人の像や鐘楼、納骨堂など本願寺広島別院ゆかりのものはたくさんあるのですが、私が気付いた限りで本願寺広島別院と直接かかわりのないものは、この中国配電職員弔魂塔しか見つけることができなかったからです。

気になったものですから境内を散策した後、事務所を訪ねて「民間の慰霊碑などは、この碑一つのように思えますが、どうしてこの碑がここに建立されたのか経緯をご存知ですか?」と聞いてみました。「確かに、言われる通りこの碑だけですが、なぜ中国配電職員弔魂塔がここに建立されることになったかは経緯を記したものがお寺に残っていませんので、はっきりしたことがわかりません」との答えでしたので、真相は不明のままです。

中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑のことを調べている時から気になっていたことですが「毎年慰霊祭はどんな形で行われているのだろうか」ということでしたので、このことも本願寺広島別院の方に聞きました。「毎年中国電力の方によって慰霊祭が行われていますが、8月6日ではありません。8月6日より少し前に会社の役員数名がここに来られて、まず本堂で読経をした後、忠魂碑前で慰霊をされます。そしてその後に私たちも同行して大手町にある中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑に移動して、そこでも慰霊の行事が行われます。」と教えていただきました。

忙しい中で丁寧に対応していただきました。

事務所では、この他にも被爆した納骨堂のことや被爆樹木ソテツのことなどいろいろなお話を聞かせていただきましたが、それは別の機会に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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