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被爆者

2024年9月 9日 (月)

第28回高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

9月7日、庄原市高野町にある高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が、午前10時30分から実施されました。

コロナ感染拡大の影響で中止を余儀なくされた年があるため、碑前祭名は「第28回」となっていますが、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1995年に建立されていますので、今年は30年目の碑前祭です。

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今年の碑前祭は、節目となる30年目ということで、高校生平和ゼミ、朝鮮学校からの参加者も多く、これまで私が参加した「碑前祭」では一番多い約70名が参加し実施されました。

まずたくさんのお供えが準備されました。

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碑前祭は、地元高暮の草谷末広さんの司会で始まりました。

続いて、ふるさと村高暮館長後藤信房さん、広島県朝鮮人被爆者協議会理事長韓政美(ハン・ジョンミ)さん、高校生平和ゼミナール世話人大亀信行さんがあいさつ。大亀さんはあいさつの中で、この碑が建立されるまでの歩みを紹介し、最後に「李実根先生は亡くなられましたが、過去のつながらないいまはない、そしてこのいまから未来は開けると話しておられました」と李実根さんとのエピソードを紹介しました。

続いて朝鮮側の参加者によるチェサ(朝鮮式祭祀)が行なわれました。

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朝鮮歌舞団ファンヨンシルさんの追悼舞です。

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次に高校生平和ゼミ、朝鮮高級学校生代表による若者の誓い。

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例年は参加者一人一人が献花するのですが、今年は参加者が多かったため代表による献花が行なわれました。

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最後に参加者全員で「アリラン」と「故郷」を合唱し、碑前祭は終了しました。

この地を初めて訪れる高校生が多いため、ダムの堰堤に足を運び、ダム建設のため強制連行され強制労働を強いられた人たち、故郷に帰ることも無くこの地で命を奪われた朝鮮人のことを想像しながら散策しました。

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高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭を終えた参加者は、ふるさと村高暮に移動し、1989年に広島テレビで放映された「ダムに消えた叫び・朝鮮人強制労働の記録」を制作した記者カメラマンの田森孝仁さんの話を聞きながら鑑賞し、当時のことを学びました。

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その後、恒例となっている地元の皆さん、朝鮮女性同盟の皆さんに準備していただいた焼き肉、むすびを食べながらの交流会が行なわれました。

この碑前祭を通じて、日朝友好、そして平和な社会実現のため何が出来るかを考えるきっかけになればと思います。

いのちとうとし

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2024年9月 4日 (水)

中国新聞の二つの記事―その2

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

このシリーズは、8月5日から「戦火が絶えない。核兵器使用の恐れすら高まる。惨禍を繰り返さぬために、広島の被爆を克明に刻んだ記録「ヒロシマ ドキュメント」を世界の人類が共有すべきだ。来年の被爆80年に向け、被害者の記憶や思いとともに伝えたい。」(85日のリードより)との思いで、毎日続いている記事です。私も今日はどんな内容かと興味を持って読んでいます。

9月2日は、「韓国・朝鮮人に被爆証明」のタイトルで、韓国人被爆者郭貴訓さんのことが紹介されています。

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郭貴訓さんは、私には忘れることの出来ない人です。旧知の水川恭輔記者の記事ですので、水川記者にも、すぐに下記のようなメールを送りました。

「ちょっとだけ珍しい写真がありました。

2001年の郭裁判の大阪地裁での勝訴判決を受けの記者会見の様子を映して写真です。

そのすぐ前に、国会で『在外被爆者に援護法適用を実現させる会』を発足させ、私が事務局長になりました。

裁判の数日前、大阪の市場さんから『今度の裁判は負けそうです。支援者ががっかりすると思いますので、『議員懇としてがんばる』と金子さんぜひ傍聴に来て話して欲しいのですが』と電話が入り、ちょっと重たい気分で大阪に途中下車したことを思い出します。当日は、金曜日でしたので、広島には帰る予定にしていました。

と言うことです。

いつか、この話しましたかね。忙しいところ、つまらぬメールで申し訳ありません。

まー読者の反応ということで許して下さい。」

下の写真が添付した写真です。

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メールには、「記者会見」と書きましたが、間違っていました。同じ日に開催された「報告集会」の写真です。メールでは紹介していませんが、写真の右から二人目が郭貴訓さんです。左端が私です。私の隣には、韓国から判決を聞くため郭さんとともに大阪に来られた被爆者の金分順さんの姿があります。金分順さんも忘れられない被爆者の一人です。右端が弁護団長の永嶋靖久弁護士です。後ろに掲げられている「勝訴」の文字が、輝いているように見えます。

この日が、その後に続く在外被爆者裁判勝訴への道のスタートでした。郭貴訓裁判は、2002年12月5日の大阪高裁での歴史的勝訴判決で決着することになりました。私の国会活動の中でも一番思い出に残る活動の一つです。

私が送ったメールを読んだ水川記者からすぐに返信がありました。

「ご無沙汰しております。

記事を読んで頂き、ありがとうございます。

ご関心をもっていただき、大変ありがたいです。

また、大変貴重な歴史的な写真ですね。

初めてみせていただきました。「負けそう」と内々にきかれていた話は、今回初めて教えていただいたと思います。

そうだったんですね。いかに、難しい道を切り開かれたか、を感じます。」

水川記者には、これからの「ヒロシマ ドキュメント1945年」には、よい記事を書いて欲しいと期待しています。

いのちとうとし

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2024年9月 3日 (火)

中国新聞の二つの記事―その1

昨日の中国新聞の二つの記事、興味深く読みました。

一つは、9面の「平和コーナー」に掲載された「私の道しるべーヒロシマの先人たち」です。このブログの執筆者の一人でもある木原省治さんが、広島県原水禁の事務局長、代表委員を長く務めた宮崎安男さんについて語ったものを森田裕美記者がまとめたものです。

木原さんらしい宮崎さんへの思いが伝わってきます。

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この記事を読んで、森田記者に下記のメールを送りました。

「新聞を手にして、すぐに『平和面』を開きました。森田さんのまとめ、さすがと思いながら読ませていただきました。

木原さんの宮崎さんへの思いも伝わりますが、ずいぶんと森田さんの感想が入っているなと思ったのは、私の思い過ごしでしょうか。

被爆者では無いけれど、被爆者以上に被爆者や広島を思い、同時に黒子に徹して活動した希有な人だと思います。

あの労働組合嫌いの伊藤サカエさんが、何かあると『宮チャン、宮チャン』と頼りにしていたことも思い出されます。

平和会館では最後にいろいろありましたが、宮崎さんは最後までその姿勢を貫きました。誰にでも出来ることではありません。

そして、何よりも若い人たちに大きな影響を与えた人です。反核・平和運動だけで無く労働運動の中でも。私もその一人ですが。

資料も大切にした人です。広島県被団協の資料を宇吹さんに整理をお願いしたのも宮崎さんだったはずです。整理が終わった後、原医研に『取りに行ってくれ』と頼んだのも宮崎さんでしたから。

そうそう、『平和会館物語』の小冊子を作ったのも宮崎さんです。中国からのカンパのことなど、貴重に資料が掲載されています。もしこの小冊子が無ければ、『平和会館の成り立ち』も忘れられてしまうことになったと思います。

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森滝市郎先生のお別れ会(94.2.5)の翌々日平和会館で

光生まれだったことが紙面でも紹介されていますが、よく話していたことは、終戦間際になった814日の光大空襲のことでした。宮崎さんにとっての戦争の一番の印象だったと思います。

私も宮崎さんとの思い出は、つきません。90年代の終わりから、2000年代にかけて、よく口論になったものです。その時、いつも言われたのが『誰がこの運動を引き継ぐのだ。君しかいないだろう』。期待をかけていただいたのですが、それに充分答えているだろうかと自問自答しながら、少しでも宮崎さんの思いを引き継ぎたいと思っています。

宮崎さんの死は、あまりにも突然でした。この年は、忘れることが出来ません。7月の参議院選挙に比例区候補として立候補を決意し、その日は、米子の国労の会議であいさつするため移動中の伯備線の車中に電話が入りました。『宮崎さんが亡くなった』との第一声です。先日、元気な姿を見たばかりですから、この宮崎さんが宮崎安男さんだとは、とても思えませんので、『宮崎さんってあの宮崎さんか』と何度も確認したことが忘れられません。翌日は、東京での予定がありましたので、米子から東京に飛行機で移動する予定でしたが、米子でのあいさつを終えると急きょ広島に引き返しました。そして、もう自宅は出られたということで、五日市玉泉院に行き、お別れをし、東京に移動しました。ですから、通夜にも葬儀にも参列できませんでした。

スミマセン。長いメールになってしまいました。ついつい思い出すことが多かったものですから。

こうして、宮崎さんの足跡を伝えていただき本当にありがとうございました。感謝、感謝です。

その思いを込めて、このメールを送らせていただきました。」

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

この記事の筆者水川恭輔記者にもメールを送ったのですが、それは明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年8月26日 (月)

観音橋の今

先日のブログで紹介した観音橋のことをもう少し詳しく知りたいと思い、広島平和記念資料館情報資料室を訪れ「天満川」の本を借りてきました。

特に気になったのは、観音橋西詰の埋め立てによって被爆した部分の橋脚、欄干がどうなったのかです。関連する何枚かの写真を見つけることが出来ました。

最初の気になったのは、昭和42年(1967)5月に新観音橋西詰から西に向かって写された下の写真です。

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キャプションには、次のように書かれています。

「新観音橋西詰は埋立て、近景左の埋立て地には観音橋の欄干が残る」

中央左側に立つ男性に向かって右側が国道2号線が通る新観音橋です。さらによく見ると確かに男性に向かって左側に、欄干と思われるものが、はっきりと写っています。

次の写真は、昭和41年(1966)12月に写された観音橋西詰の写真です。

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次のようなキャプションが書かれています。

「観音橋は車両通行禁止。歩行者・自転車用に格下げ。昭和37年に開通した新観音橋は、海田から己斐まで全通した2号線バイパス橋となる。」橋の入り口に通行止めの4本の柱が写っています。

次に続く文章が重要です。

「観音橋下流、天満川右岸を30m程埋立てる。欄干が埋立て地に残る。」

この写真では、何処までが埋立て地か分かりませんが、確かに観音橋の両方の欄干が残っているのが分かります。ちょっと不思議な気がします。

問題はその後どうなったかです。「天満川」の同じページに上の写真と並んで掲載されているのが下の写真です。

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平成元年(1989)3月に観音橋の通りと国道2号線が合流する地点から観音橋方面の東方向に向かって写された写真です。左側に移る横断歩道からそれが分かります。

左側の、置かれているゴミ、そしてその向こうに止められている車沿って、用を失った欄干が伸びています。

被爆した観音橋の欄干は、埋立てられた後もずっと残されていたのです。

観音橋が撤去されてしまった今、この欄干がどうなっているのか気になりますので、現地に行ってみることにしました。

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平成元年(1989)の写真とほぼ同じ位置から写した写真です。よく見ると電柱の左側に新観音橋の歩道を自転車で通る人の姿が小さく写っています。

残念ながら観音橋の欄干を目にすることは出来ませんでしたが、元欄干があったと思われる位置にはコンクリートブロックが並べられ、少し高くなっている歩道との間には、いろいろな植物が植えられ、きれいに手入れされていました。

右側のビルとの間は、観音橋のあった方向に向かって道路が、そのまま残っていました。

ただ、天満川河岸は、高潮対策のためでしょうか高くなっており、フェンスで入れないようになっていますので、道路は行き止まりとなっています。ですから、この向こうに観音橋があったことを想像するのは、難しい風景となっています。

当時の道路面はそのまま残っていましたので、充分に当時を偲ぶことは出来ましたが、他に何か当時を想定させるものは無いかと周辺を散策してみました。

そこで思いがけない人との出会いが、いろいろなお話を聞くことが出来ました。

その内容は、明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年8月24日 (土)

在ブラジル被爆者森田隆さんの訃報とMOVIE「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」

「我々ブラジル在住の被爆者が連絡して活動を始めてから、早くも40年が過ぎていきました。当時年長では無かった私も百歳を超えました。そして、何よりも我々が願望した幾つかの成果を達成することが出来たと思います。(中略)

1984年協会を設立し、数え切れない多くの協力者に支えられ、励まされながら運動を続けてくることが出来ました。奇しも皆さまが我々の活動の支援のために会を結成されたのは、2002年3月2日、私の78歳の誕生日でした。そして当時、在外被爆者の運動も一番難しい、待ったなしの時期でした。(中略)

我々の会も、2020年 念願の現地医療機関で治療の実現を達成できました後、そして、世界でのコロナウイル感染危機の際、ブラジルの規則に基づいた正規の会としては終了しました。

その後は、元役員達の協力と尽力の元、出来る範囲内で残り少なくなった同胞達のお手伝いをしております。また、ブラジル社会の若人への平和活動は、私も命有る限り参加したと願っておりますが、現状の世界情勢を考えますと只々心が痛みます。

いつの日か、この世の戦闘の無い平和が実現出来ることを祈り、私たちの皆さまへのお礼のメッセージとさせていただきます。

2024年7月 ブラジル・サンパウロより

森田隆」

このメッセージは、現地時間8月12日午後5時55分、逝去された在ブラジル被爆者森田隆さんから、7月28日に「在ブラジル・在アメリカ被爆者を支援する会」の活動に区切りを付けようと関係者が集まり開催された懇談会に届いたメッセージです。

この懇談会で、百歳の誕生日を、そして5月4日にブラジルを訪問した岸田首相と面談し、自伝の本を手渡すと共に「核廃絶」を強く訴えた森田さんの元気な様子を話し合ったばかりでしたので、森田さんの訃報を伝える14日の中国新聞を只々驚きと悲しみで読むしかありませんでした。

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岸田首相との面談前の左から盆小原さん、森田さん、渡辺さん

その後、中国新聞紙面では、かつてブロジルを訪問し森田さんとずっと親交が続いていた森田裕美さんが何度か思い出の記事を書かれていますので、読まれた方も多いと思います。

この森田さんの訃報が届いた同じ時期に計画されたのが「MOVIE&TALK 岡村淳の世界」でした。

森田裕美さんの記事で「森田隆さんの活動を紹介した映像も上映される」と書かれていましたので、18日に観に行ってきました。

森田さんたち在ブラジル、在南米被爆者を紹介する映画は、1955年にテレビ放映するために製作された「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」で、30分の映像でした。

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この映画の主役の森田隆さんと制作者の岡本淳さんは、町内のお付き合いという関係にあったそうですので、30分の短い映像でしたが、ずいぶんと掘り下げた内容の作品でした。

そして何よりも、私たちが出合う前、苦悩しながら懸命に在ブラジル、在南米の被爆者のために奔走されている森田隆さんの姿を見ることのでき、見に来てよかったと思う映画鑑賞でした。

岡本さんの話の中で、被爆者森田さんとの出会いを書いた本「忘れられない日本人移民」が紹介されましたので、帰宅後すぐにAmazonで購入しました。

その本には、私の知らない森田さんの姿が紹介されていましたので、懐かしく読み進みました。

いのちとうとし

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2024年8月19日 (月)

この橋の名前は?―つづき

次は、二つ目の疑問「写真に写った橋は、いつ作られいつ撤去されたのか」の解明です。

最初に問い合わせたのは、国土交通省の広島国道事務所です。電話で問い合わせた結果、「平成18年(2006年)に撤去された」ことが分かりました。

国道2号線にかかる新観音橋が完成した時(昭和37年・1962)、撤去されたのかと思っていましたが、ずいぶん後まで残っていたようです。ところがこの時、いつ修復されたのを聞き忘れましたので、調べることにしました。

この疑問を調べるため、伊藤さんの写真をプリントアウトし、わが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪ねました。

「この橋、観音橋についてもう少し詳しく知りたいのですが、何か資料はないですか」とお願いすると、書棚から2冊の本を持ち出してくれました。

そのうちの1冊は、19891月に広島市企画調査局文化課が編集し広島都市生活研究会が発行した「河岸の戦後史5 天満川」が、いろいろな情報を得ることが出来ました。

戦後修復された観音橋について次のように書かれています。

「昭和26年(1951)の全面修復では、西側約50m残っていた被爆橋に継ぎ足した。その後被爆部分は埋め立てられて、2本の橋脚が消えた。埋め立て地は河岸緑地にすべきであったが、河岸には高いビルが建ち並んだ。」

この文章で、修復時期が昭和26年(1951)だったことが分かりました。これで私の疑問は、解決したのですが、新しい事実が見つかりました。

やはり、昨日のブログで少し触れましたが、昭和20年(1945)10月の洪水では、全部流失したのではなく、「西詰(昨日のブログでは間違って『東詰』としていた)に約50mの橋脚が残っていた」ことです。

改めて、伊藤さんの写真を見ると、それらしき橋脚を見ることができます。

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 右端の方に立っている照明灯のようなものから右側の部分が被爆橋脚です。

「河岸の戦後史5 天満川」に掲載された写真でさらに貴重な事実を知りました。

昭和42年(1967)5月に写された写真で、「西側は橋脚2本分埋め立てられて橋が短くなっている」と説明文がついています。

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次の一枚には、昭和47年(1972)8月に写されたもので、「埋め立て地は河岸公園にならず、ビルが林立する」と説明文が付いています。

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この写真で注目すべきは、橋脚の上に伊藤さんの写真にも写っている照明灯?と同じものが写っています。

さらによく見ると、その橋脚を挟んだ右側と左側の橋の下の構造が違っているのが分かります。左側(新設されて部分)は、路面の下にコンクリートの板上のものが付けられていることです。観音橋全体が見える伊藤さんの写真でも、照明灯から東側は同じような構造になっています。

こうして比べてみると、右側が、昭和20年(1945)10月の洪水で残った被爆橋脚の一部ということになります。

ところで、最初に「河岸の戦後史5 天満川」の「観音橋」の説明読み込んだ時には、かってに分かったつもりになっていたのですが、「残された部分が50m」という記述に納得がいでした。しかし、15年ぐらい後に埋め立て工事が行なわれたため、伊藤さんの写真のように短くなったことが分かり、ようやく納得できました。

現在の天満川のこの位置の川幅は、約85mしかありませんので、余計に50mという数字が、あり得ない数字のように思えたのです。しかしよく読むと、その後に「初めの長さ126m、巾5.5m」だったことが記述されています。当時より約40mも川幅が狭くなっていますので、残された被爆橋脚部分が、短くなっているのも理解できます。

「河岸の戦後史5 天満川」には、次のように書かれていることを紹介し、今日のブログを終わります。

「観音橋は、国道2号線となり路線バスが通り、トラックも大型化して、観音橋は大動脈渋滞のネックになる。昭和37年6月、上流に新観音橋が開通して、国道2号線も移った。残された観音橋は、歩行者・自転車用になった。洪水のたびに橋脚は沈み、路面はウェーブして、災害に痛めつけられた跡を残す橋」

この痛み付けられた跡が、原爆の被害によるものと誤解される要因になっていたのでしょう。

いのちとうとし

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2024年8月18日 (日)

この橋の名前は?

7月初めに「在朝被爆者と平壌の人びと」の写真展を行なった伊藤孝司さんから、先月の終わりに写真を添付した次のようなメールが、届きました。

「広島から戻り、復刊『原爆棄民』の作業に取り組んでいます。来年6月刊行予定です。

お願いがあります。その作業の中で、被爆で歪んだ橋として本に収録しているにもかかわらず、名称が分からない橋があります。

広島市の『被爆橋梁リスト』やWikipediaなどを見ても分かりませんでした。この写真の橋をご存知ないでしょうか。撮影したのは19838月です。

無理をしない範囲で分かるようでしたらお教えください。よろしくお願い致します。」

添付された写真です。「原爆棄民」の141ページに掲載されている写真です。

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原水禁大会が終わり、少し落ち着いた14日に調査を始めました。私も、すぐには分かりませんので、誰かに聞くしか無いと思い、最初の思い浮かんだのは、広島平和記念資料館です。知り合いの学芸員にメールで問い合わせることにしました。

メールを送った後、自分でもなんとか調べることは出来ないかとこの写真に何か手がかりになるような情報は無いのかと改めて写真を見直しました。

小さな写真で、はっきりとは確認できないのですが、橋の向こうの建物の屋上に看板のようなものが写っています。拡大すると、看板には、「森原金物店」という文字を読み取ることが出来ます。

1983年に写された写真ですので、「今もこの場所に森原金物店があるのでは?」と思い、ネットで「森原金物店」を検索してみました。「有限会社森原金物店」がヒットし、住所は、「広島市中区舟入本町11-20」となっています。

現在地を地図検索しても、間違いありません。写真に写っている「森原金物店」です。

この位置が確定されましたので、橋の架かっている川は、天満川だということが分かりました。

すぐに改めて、この情報と共に「観音橋ではないでしょうか?」と広島平和記念資料館の学芸員に送りました。

すると間もなく学芸員からの返信が届きました。

「お問い合わせいただいた写真について、右端には切れていますが、舟入病院も写っています。観音橋で良いと思います。」

私は気づかなかったのですが、右端に写っている建物は、舟入病院だったのです。さすがです。

これで、伊藤さんの問い合わせの橋が「観音橋」であることが、はっきりしました。西詰めから東側に向かって写された写真です。

しかし、橋の名前は確定したのですが、いくつか疑問がわきます。

一つは、伊藤さんも指摘されているように「被爆で歪んだ橋」のように見えるのに、「なぜ被爆橋梁リスト」にないのかです。

もう一つは、「観音橋」は現存していませんが、写真に写った橋は、いつ作られいつ撤去されたのかです。

最初の疑問「被爆橋梁ではない」ことの証明です。手がかりは、広島平和記念資料館が、1996年に発刊した「被爆50周年 未来への記録 ヒロシマの被爆建物は語る」の「10 吉島・舟入・観音地区」の217ページに「住吉橋」など他の被爆橋梁と共に掲載された「観音橋」の写真です。

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この写真は、東詰から西に向かって写したものですので、伊藤さんの写真とは反対方向からの写真ですが、キャプションには、次のように書かれています。「9月の枕崎台風で半分落橋し、10月の洪水で完全に流出した。(1945年11月頃)」

被爆した観音橋は、その年の10月には、流出して橋桁はなくなったのです。そうすると伊藤さんが写した観音橋は、戦後に新しく架橋されたものということになりますので、被爆橋梁リストには、掲載されていないのです。

伊藤さんは、当時、誰かに「橋の歪み具合」から、被爆した橋梁と説明を受け、本に被爆橋梁として掲載されたと思われます。

ただ、この写真をよく見ると、キャプションには、「11月の洪水で完全に流出」と書かれていますが、東詰めに残った橋脚の向こうに少しだけ橋桁のようなものが残っているように見えます。

この部分がどうなったのか気になりますが、もう一つの疑問(いつ作られいつ撤去されたのか)を調べる中で、判明しましたので、次回報告します。

いのちとうとし

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2024年8月17日 (土)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

毎年、この時期に開催される「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」が、10日から28日までの会期で、今年も広島国際会議場地下2階サクラで開催されています。昨日、今年も行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、2007年から、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者と共に取り組んできた「原爆の絵」は、これまでに207点の絵が描かれています。

今回は、そのうちの57枚が展示されています。ずっと会場を回って、不思議に思ったことが一つあります。上のチラシには、「今年7月に完成した16点」と書かれているのですが、会場で「新作(今年完成)」とキャプションが付けられた作品は、19点ありました。会場には、関係者の姿がありませんでしたので、残念ながらその疑問を問うことは出来ませんでした。

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いずれにしても力作が並んでいます。私が注目したのは、3点の新作です。

うち二つは、「黒い雨」が題材となっています。並べて展示されています。

2021年の黒い雨裁判の影響でしょうか、今年初めて取上げられた素材のように思います。

額のガラスに上の照明が反射しますので、少し上から写しました。

右側は、己斐の防空壕から見えた中心部に降る黒い雨を描いています。

左側は、「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射能物質を含んだ危険な雨とは知らずー」のタイトルがついた、爆心地から北西19キロ離れた安佐郡小河内村(現 広島市安佐北区小河内地区)に降った黒い雨を描いています。

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もう一枚は、「逃げるときに見た頭のない赤ちゃん」とタイトルが付けられた田邊美羽さんの作品です。

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 当時女学校1年、12歳だった証言者大橋和子さんが、学徒動員の建物疎開作業中に被爆した後、爆心地から1.5kmの平塚町を逃げる際に目撃した「瓦礫の中、前を歩いている女の人は頭の無い子どもをおんぶして他の人たちと列をつくり歩いていた」親子を描いた作品です。

この親子の姿が忘れられない大橋さんの証言もすごいと思いますが、「おんぶされた頭のない子ども」の姿を描いた田邊さんの思いはどんなことを感じながらの作品製作だったろうかと思わずには見ることができませんでした。

絵の下に付けられた説明文の生徒のコメントには、次のように書かれています。

「最初、大橋さんの話を伺った際に、原爆の爆風で子供の頭が吹き飛んでいて首から上がなくなかったという状況に驚きました。爆風で数十メートル人が飛ばされたり、ガラスが割れたりしたことは知っていたけれど、まさか骨と筋肉と皮で繋がっている首ですら切り飛ばしてしまうほどの爆風の威力を知り、恐ろしく感じました。製作にあたって、火傷や皮膚の垂れ下がり具合、そして子供の骨を描くことが難しかったです。この絵を見て、原爆の恐ろしさ、子供の命を一瞬にして奪う残酷さを感じて欲しいです。」

大橋さんのコメントです。

「逃げる途中の一番心に残っている残酷な惨状は、79年経った今でも決して忘れることはありません。田邊さんには最初に直接お会いした後、LINEのやりとりで、ここまで再現して下さり、驚きました。言葉で表せないほど、心より感謝しています。」

改めて、高校生が描いたヒロシマ原爆の絵が持つ力を実感しながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2024年8月16日 (金)

国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」

ここ数年8月15日は、広島文学資料保存の会・広島花幻忌の会・四國五郎の会が主催する集会に参加してきました。この集いは、2002年の8月15日に原爆ドーム前の原民喜詩碑の前で「原爆・反戦詩を朗読する市民の集い」として開催され他たのが最初で、今年で23回目です。

今年も、午後1時半から合人社ウェディひとまちプラザで開催された「第45回サントリー地域文化賞記念 国際シンポジウムー原爆文学の今を考える」に参加しました。

オープニングは、金秀光さんのアコーディオン「アリラン」の追悼演奏。その後全員で黙祷詩、集いは始まりました。

プログラムは、1部、2部構成です。

1部は、例年のように詩の朗読です。大田洋子、原民喜、栗原貞子、四國五郎、峠三吉の作品が、大田洋子ゆかりの進徳女子高校生4人、元NHKサナウンサーの杉浦圭子さん、有志の皆さんによって、朗読されました。

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2部は、広島文学資料保全の会代表の土屋時子さんの司会で、4人のパネリストによる国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」です。

土屋さんは、なぜ「原爆文学の今を考えるシンポか」を次のように話しました。

「サントリー地域文化賞は、『広島の作家の文学資料を調査・収集し、広島の文学の価値を高め、散逸の危機にあった資料を文化的遺産として守り、その意義を国内外に伝える継続的な取り組み』が評価されて受賞しました。このシンポジウムでは、『広島の文学、とりわけ原爆文学の力を検証して、広く発信し未来へと繋いでいくためにどんな取り組みが必要か』を論議していきます。」

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パネラーは次の4人です。

大田洋子と晩年同居し、大田洋子の評伝『草饐』の著者でノンフィクション作家江刺昭子さんは「今こそ太田文学の拡散を」と訴えられました。

「チンチン電車と女学生」「原爆供養塔」「暁の宇品」などの著者でノンフィクション作家の堀川惠子さんは「空白の10年といわれた時期、言葉の力を信じて闘った文学者がいた。彼らは命をかけて『ヒロシマに向き合った』。今、文学の力を再考しなければならない」と訴えました。

3人目の、岩波新書「原民喜 死と愛と孤独の肖像」の著者で、ノンフィクション作家の梯久美子さんは「ウクライナ、そしてパレスチナと虐殺の悪夢に世界が震撼する今こそ、文学に何が出来るか、原爆文学の意味と価値は何処にあるのかを問い直すべときだ」と指摘。

最後にアメリカのアン・シェリフさん。アン・シェリフさんは、1995年にアメリカで発表され、2010年に日本で翻訳された「グランド・ゼロを書く、日本文学と原爆」を紹介しながら、アメリカで原爆文学がどう考えられているかを紹介しました。

それぞれの発言のあと、相互の意見交換で梯さんが次のように述べられてことが印象的でした。「被爆者がいなくなる時代と言われているが、文学を経由すればヒロシマに近づけるのではないか」

これだけのメンバーが揃うシンポジウムは、貴重な機会でしたが、私の能力では、ここまでしか紹介できません。

広島文学資料保全の会が、近いうちにホームページ広島文学資料保全の会 - 広島文学資料保全の会 (jimdofree.com)にYouTubeで紹介されるようですので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

いのちとうとし

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2024年8月14日 (水)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会主催者あいさつーつづき

昨日のつづきです。


私は、6月20日に中国を訪問し、中国人民平和軍縮協会の安秘書長と会談をしました。その会談で、中国の「核兵器の先制不使用」宣言をさらに継続することを求め、合意しました。

核兵器保有国が、「核兵器禁止条約」に背を向けている今、

核攻撃をされない限り核兵器を使わないと約束する核兵器先制不使用宣言は、核兵器の使用、威嚇による脅威を低下させ、核軍縮を前進させることの出来る具体的な約束の一つです。

すべての核保有国が、核兵器の先制不使用宣言することを強く求めます。

中国代表団は、長崎大会に参加することになっていますので、長崎大会で論議を深めたいと思います。

私たちが、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を明確にしたのは、1975年の被爆30周年原水禁世界大会です。

「核と人類は共存できない」

この言葉は、福島第一原発事故以降多くの人が口にするようになりました。

そのこと自体を否定するものではありませんが、「核と人類は共存できない」という言葉には、もっと深い意味が込められています。

先に述べた「核兵器禁止条約」の前文には、核兵器の使用によるヒバクシャと核実験被害者の苦痛に留意すると明記され、第6条、7条には、被害者の救済が盛り込まれました。

核被害者を救済する初めての国際条約です。

しかし、この条約で救済の対象とされているのは、核実験被害者に限定されています。

「核と人類は共存できない」という基本理念を提起された森滝市郎先生は、その理念を確立する最後の一押しとなったことを次のように述べておられます。

「一番忘れられないことは、オーストラリアの先住民アボリジニの娘さんの鋭い訴えであった。『ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにして、ウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである』」

核実験被害者が救済されるのは当然のことです。

しかし、力の象徴と言える核社会では、核実験被害者だけが核被害者ではありません。

核社会は、ウラン採掘からはじまるすべての段階で、常に弱い立場の人たちを犠牲にし、多くの核被害者を生み出しています。

「核と人類は共存できない」という理念には、すべての核被害者を救済し、再びヒバクシャを作らないという強い思いが、込められています。

私たちは、この大会にアメリカ・ニューメキシコ州の先住民ナバホの、

ウラン採掘による核被害者を招待しました。

ウラン採掘からはじまる核社会の中でヒバクシャとなった人たちの被害の実相と向き合い、「核と人類は共存できない」に込められた理念を共有して欲しいと思います。

すでに27日の福島大会で論議されていますが、最後に原発問題に触れたいと思います。

13年前の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故は、多くの被曝者をつくり、今なお故郷に帰ることの出来ない人々を作りました。

私は、今年5月福島を訪れ、現地視察を行ないました。福島原発事故は終わっていません。

しかし、政府は、被害者を切り捨て、再び安全神話を強調し、原発に依存する社会づくりを強行しています。

原発事故被害者を救済するのは、政府と電力会社の責務です。

原発に絶対の安全はありません。

再び原発事故被害者を作らせないためは、脱原発の道しかないのです。さらなる脱原発運動の強化が求められています。

それは私たちの責務です。

大変厳しい暑さの中での広島大会となりましたが、体調に充分留意して。大会成功のため、皆さんのご協力をお願いし、主催者を代表してのあいさつと致します。

ありがとうございました。


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私があいさつで触れたように、長崎大会開会総会に参加し海外代表としてあいさつした中国人民平和軍縮協会安秘書長は、中国が進める「核先制不使用」政策について、7月に行なわれたNPT再検討会議第2回準備会議で「核先制不使用」についての決議を提出したことなど詳しく紹介してくれました。あいさつは、【被爆79周年原水爆禁止世界大会・長崎大会】開会行事 (youtube.com)の23分11秒くらいから視聴することが出来ます。

いのちとうとし

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