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被爆者

2024年6月21日 (金)

ベトナムの歴史(その30-7)つづき ― 原爆投下と枯葉剤 ―

継戦能力もなく瀕死の日本になぜ?

以前も紹介しましたが、中村梧郎さんは著書「戦場の枯葉剤ベトナム・アメリカ・韓国」(岩波書店)で次のように述べられています。「そもそも枯葉剤は、第2次世界大戦の終戦間際に日本に散布する予定で準備されていたものだった。アメリカ現代史の権威、スタンフォード大 学B. J.バーンスタイン教授によれば、1945年5月に米陸軍に提出された計画は、東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯にチオシアン酸アンモニウムをB-29から投下し、穀物を全滅させようとする内容だった。(中略)対日枯葉作戦の詳細な計画の報告書が米陸軍航空隊副司令官エイカー中将に届いたのは、長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日のことであった。このときにはもう日本の降伏が時間の問題だったために作戦は実行されることはなかった。日本はかろうじて散布を免れたのであった。」 と。

原爆投下に続き、枯葉剤が計画通りまかれていたら・・・・と思うと背筋が凍ります。

60回もの空襲を受けた東京は105千人を超す犠牲者を出した東京をはじめ、主要な都市や軍需工場は空襲で焼き尽くされ、あらゆる物資の欠乏に喘ぎ、もはや継戦能力はなく、すでに前年の夏頃には終戦工作に入っていました。原爆投下5ヶ月前、310日の東京大空襲では下町を狙った焼夷弾で、一夜にして95千人以上もの尊い命が奪われました。

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大空襲で焼け野原となった東京

日本の敗戦は時間の問題という中で、なぜアメリカは原爆投下し、枯葉剤散布を計画し実行したのか。「戦争を早く終結させ、アメリカ兵の犠牲を少なくしたかった」、「ソ連の対日参戦を前に、原爆で戦後世界の主導権を握るため」と言われています。

その“いずれも”だと思いますが、その主要な意図は後者にあったと思います。

男、女、子供で構成される戦力を破壊、石器時代に戻す

原爆投下の前、『タイム誌』1945年6月号に掲載された次の記事は、アメリカの姿勢と戦争の本質を如実に物語っています。「日本が行っている総力戦は、さきのナチス・ドイツやいかなる近代的軍事大国のそれよりはるかに総力的である。総力戦では敵を全面的敗北に追い込まなければならない。ということは、あらゆる日本の資源、日本人の男、女、子供で構成される戦力が破壊されなければならないということである。」

非戦闘員である「男、女、子ども」までも「破壊されなければならない」というアメリカイズム、この姿勢がそのままベトナム戦争で貫かれ、日本に向けられていた枯葉剤とノウハウがベトナムで使われたのです。『タイム誌』に代表されるアメリカイズムは、米軍が北爆を開始したときの米空軍参謀長カーチス・ルメイ大将が、「ベトナムを石器時代に戻してやる」と放った言葉とも重なります。

20世紀を象徴する戦争犯罪に使用された二つの害毒、放射線物質と枯葉剤は、実は日本に向けられていたのです。そして、その害毒は21世紀に入り四半世紀経た今なお、人類の大きな脅威として存在し続けています。

記憶にとどめ、教訓としなければならない 8月の「あの日」を前に

ウクライナで、ガザで、アフガニスタンで、シリアやイエメンで、ミャンマーで・・・・、今この瞬間も戦争と紛争が続き、罪なき多くの尊い命が奪われています。その表裏にロシアやアメリカなどの姿や影があり、日本は同盟国アメリカとの軍事的密着度を深め一体化しつつあります。

8月6日、89日、810日、815日という記憶にとどめ、教訓としなければならない「日(Day)」を前に、2大害毒による攻撃対象国になるに至った日本の歴史を問い、「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを噛み締め、「捨てた筈の武器をほんとうに捨て」、「わたしたちの汚れた手をきよめねば」と心に刻んでいます。

昨年11月から7回続けてきた枯葉剤シリーズ(ベトナム戦争と枯葉剤被害、日本の中の枯葉剤)は、今号で終えたいと思います。「ベトナムの歴史」シリーズ、次号からの構想はまだ固まっていませんが、「ベトナムNow」シリーズとして、今のベトナムを紹介したいと思います。

どんなことに触れたいか、ご意見やご希望などお寄せいただければ幸いです。

感想などもお待ちしています。

2024年6月21日(あかたつ)

【編集者】中国人民平和軍縮協会と交流するため訪中していますので、ブログを1,2日休みます。

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2024年6月20日 (木)

ベトナムの歴史(その30-7) ― 原爆投下と枯葉剤 ―

20世紀を象徴する戦争被害

原爆(核兵器)と枯葉剤(化学兵器)は無差別大量殺戮と、その後長年にわたり放射能とダイオキシンによる健康破壊、その結果による死をもたらす究極の殺人兵器です。しかも、その被害は世代を超えて続き、使用はもとより製造・保有・威嚇が禁じられる非人道兵器です。

「20世紀は戦争の世紀だった」と言われますが、原爆と枯葉剤は20世紀を象徴する戦争犯罪(戦争犯罪被害)であり、いかなる「理由」があろうとも、二度と再び使わせてはならないものです。しかし、21世紀に入り四半世紀経た今も、戦争は絶えず、むしろ拡大の懸念すらあります。核の恫喝は繰り返され、その危機は一段と高まり、枯葉剤を含む化学兵器も使われ(疑われ)ています。

間もなくヒロシマ、ベトナムが迎える「あの日」

ヒロシマとナガサキは間もなく79回目の「あの日」を迎え、ベトナムは63回目の「あの日」を迎えます。ベトナムの「あの日」とは、枯葉剤がベトナム中部高原のコントウム省に初めて実験的に散布された1961年8月10日です。同年11月30日、ケネディ米大統領は正式に「ランチハンド作戦(枯葉剤作戦)」を承認し、1971年10月30日までの10年間、反復的にベトナムの人々の頭上と国土(主に南ベトナム)にまきました。

“ベトちゃんドクちゃん”が、「あの日」から20年後の1981年2月25日、コントウム省に生まれました。

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トリニティー実験  出典:ウィキペディア1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験

原爆投下に続き、枯葉剤作戦が準備されていた

日本にも枯葉剤作戦が準備されていたことをご存知ですか? ちょうど4年前、2020年7月5日付けの「ヒロシマとベトナム(その14)」被爆75周年-ヒロシマとベトナム戦争-を考える〔Ⅰ〕に紹介しましたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

アメリカは第二次世界大戦末期、2つのプロジェクトチームによる対日作戦の準備を進めました。一つはマンハッタン計画に基づき「リトルボーイ」を広島に投下したポール・ティベッツ大佐、「ファットマン」を長崎に投下したチャールス・スウィーニー少佐を機長とする原爆投下作戦です。

もう一つが、化学兵器作戦です。サリンやボツリヌス菌爆弾、炭疽菌爆弾などが候補に挙げられ、全爆撃作戦の20%を毒ガス爆弾の投下とし、毒ガス爆弾6万発以上を常に前線に供給できるような体制を整える計画です。

その中の一つが枯葉剤作戦です。大変な食糧危機に陥っていた日本の主要な農産物である米やサツマイモを枯らす細菌兵器の開発が進められ、B-29が実際に日本の耕作地にまきました。しかし、米やサツマイモは細菌に対して抵抗力が強く成功しなかったため、ベトナム戦争で2,4,5-T などとともに枯葉剤として用いられた2,4-ジクロロフェノキシ酢酸という枯葉剤の散布が計画されました。

B-29で編成された第1010爆撃隊が、約1,645㌧の2,4-ジクロロフェノキシを、1945年9月までに日本の水稲作付面積の10%を破壊するという計画は、その後1946年4月までの延長とともに水田の約30%を破壊する計画に拡大修正されました。そして、グアム島に集結したB-29を改造した枯葉剤散布機が待機しているなか、8月6日と9日の究極の戦争犯罪が強行されたのです。

下の地図をご覧ください。焼夷弾で焼き尽くされた東京、名古屋大阪をはじめ主要都市はもちろん地方都市への空襲に続き、広島・長崎への原爆投下。そして枯葉剤作戦です。その対象とされた地域は、赤丸の東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯でした。地図が示すように、日本列島のほぼ南半分にあたります。

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枯葉剤作戦は日本の無条件降伏により実行に移されることはありませんでしたが、原爆に続き枯葉剤攻撃まで計画されていた歴史的事実を消し去ることはできません。

2024年6月20日(あかたつ)

【編集者】「ベトナムの歴史(その30-7)― 原爆投下と枯葉剤 ―」は、2回にわけましたので、つづきを明日掲載します。

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2024年6月19日 (水)

伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」記者会見

写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」広島県実行委員会(日朝友好広島県民の会、広島県原水禁で構成)は昨日、7月3日から旧日銀広島支店で開催する「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」の記者会見を行ないました。会見には、マスコミ6社の参加がありました。

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記者会見の主な内容は次の通りです。

目的:写真を通じて、今なお被爆者援護法の枠外に置かれている在朝被爆者の存在を知ってもらうと共に、近くて遠い国と言われる朝鮮民主主義人民共和国の人びとの生活を広く広島市民の知ってもらう

開催場所:旧日銀広島支店

開催日時:7月3日(水)から7月7日(日) 10時~17時

展示内容:在朝被爆者:15枚

朝鮮・韓国人被爆者:63枚(風景を含む)

うち被爆者写真は、43枚。内訳は、韓国在住被爆者28人、在日で広島在住9人、長崎在住8人

     朝鮮の人びとの多様な姿:103枚

ギャラリートーク:各日13時・15時 会場内で作者による写真解説

入場料:無料

伊藤孝司さんは、アジア太平洋地域においてさまざまなテーマで約200回の取材を重ねていますが、そのうち最も多いのは韓国(大韓民国)訪問の47回で、次は朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の43回の訪問です。この両国では,特に広島・長崎での被爆者の取材に力を入れてこられました。

朝鮮民主主義人民共和国には、1992年に初めて訪問し,最後の訪問となった2019年まで、在朝被爆者や朝鮮の人びとの写真を撮り続け、朝鮮民主主義人民共和国の姿を日本国内の人びとに伝えてこられました。

原水禁が派遣した「在朝被爆者問題訪朝団』とも何度も行動を共にし、2009年には、広島と平壌で暮らす被爆者親子を取上げた映画「ヒロシマ・ピョンヤンー捨てられた被爆者」を作成しています。

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この映画は、今度の写真展会場でも上映する予定になっています。

私も訪朝時何度か伊藤さんと一緒に行動したことがあります。

会期中には、ぜひ多くの人たちに会場に足を運んでいただき、マスコミでは報じられない朝鮮民主主義人民共和国の姿を見て欲しいと思います。

私が、2018年に訪朝して報告を受けた「在朝被爆者の実態」を紹介して以来、在朝被爆者の実態は報道されていません。

これを機会に、国交がないため事実上置き去りにされたままの「在朝被爆者」の問題を考えていただく機械になればと強く願っています。

この写真展を広島で開催する意義はそこにあると思っています。

一人でも多くの皆さんに見て欲しい写真展です。

いのちとうとし

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2024年6月18日 (火)

第27代高校生平和大使結団式

一昨日16日の午前10時から中区のアステールプラザで第27代高校生平和大使の結団式がありました。

今年初めて茨城県での選出があり今年の高校生平和大使は、広島県、長崎県など18都道府県(昨年は17都道府県)に広がり、各地の選考で選ばれた高校2年生3年生の23名(昨年は、22名)が選ばれています。毎年のように今年も女子高生が多いのですが、今年は4名の男子高校生が選ばれました。また被爆3世は、長崎県の二人、被爆4世は、広島県から二人選出されています。

前日の15日に広島に集まった高校生平和大使は、広島に学ぶことからスタートです。

広島県原爆被害者団体副理事長で元資料館館長の原田浩さんの「広島の実相を学ぶ・被爆者の思いを聞く」、谷雅志原水禁国民会議事務局長の「NPT体制と核兵器禁止条約」の二つの講演を受けた後、平和公園に移動し、慰霊碑への献花、平和記念資料館の見学、碑めぐりなどが行なわれました。今年は、同行しませんでしたので、その様子を紹介することが出来ません。

結団式は、第26代高校生平和大使の五閑さくらさんの司会でスタートしました。

最初に高校生平和大使派遣実行委員会の小早川健共同代表が、過去の高校生平和大使の活動後の感想文を紹介しながら、期待する思いを込めてあいさつ。

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その後、連合広島、自治労広島県本部、平和運動センター、広島県原水禁、高校生平和大使を支援する会の豊永恵三郎さんが、来賓のあいさつ。私も広島県原水禁を代表し手、昨日のブログの内容を紹介しながらあいさつしました。

続いて、小早川共同代表から、一人ひとりに「核兵器廃絶と平和な世界を目指す高校生平和大使に任命します」という任命書が手渡されました。

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任命証を受ける広島県高校生平和大使の甲斐なつきさん

続いて、一人一人の決意表明です。

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広島県高校生平和大使の佃和佳奈さん

毎年感ずるのですが、とにかく立派な決意の表明です。

「それまで平和や核兵器のことに無関心でしたが、被爆ピアノの傷を見たとき、これは許せないと思うようになりました」

「高校一年から署名活動に関わってきた。そこで学んだことは、平和は人と人の繋がりでつくることが出来ると言うことです」

「未来の平和は、私たちの手で必ず作ります」etc

最後に長崎県高校生平和大使の津田凜さんが「被爆者の方の声を聞き、署名活動などの活動を通じて、核兵器も戦争もない平和な世界をつくるためにがんばります」と締めくくって全員の決意の表明は終わりました。

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その後全員での写真撮影をして、結団式は終了しました。

新しく任命された高校生平和大使は、それぞれの地域で「一万人署名活動」を取り組み、集めた署名簿を持って、8月18日から23日までの日程で、スイス・ジュネーブの欧州国連本部・軍縮代表部などを訪問することになっています。

今年も大いに活躍してくれると期待しています。

いのちとうとし

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2024年6月17日 (月)

学徒動員―さとうさんの疑問に答えて

昨日のブログ「広島平和記念資料館企画展『友達の記憶』」に、さとうさんから次のようなコメントが入りました。

「中一中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年の置き換えたのですか そういう断りがないのであれば 資料としての信憑性を疑います 出展中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年に置き換えたのですか そういう断りがないのであれば資料としての信憑性を疑います 他の事柄も疑ってしまいます」

さとうさんの疑問は、その通りですので、その疑問に今日はお答えしようと思います。といっても、私が新たな資料を提供するわけではありません。

言い訳になりますが、実は、「中一中二の少年少女」と書いたのは、関千枝子著「ヒロシマの少年少女」を参考にしたからです。関さんは、当時県立第二高等女学校の2年生で、当日建物疎開の動員に行く予定でしたが、病気だったため建物疎開作業を休み、爆心から南に3.1キロの自宅で被爆し、死を免れました。そのことにこだわり、「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ旧友たち」を著わすと共に、学徒動員で失われた中等学校の生徒の悲劇の問題を追及してきた人です。

そんな人の著書でしたので、断り書きも無くその一部を引用してしまいました。

さとうさんのコメントを見て、改めて関さんの「ヒロシマの少年少女」を開くと、「当時建物疎開に出動していた学校(平和記念資料館2004年調べ)」の一覧表が掲載されていました。

そこで思い出したのが、この時期確か平和記念資料館が「動員学徒」の企画展を行ない発行したパンフレットがあったことです。平成16年(2004年)に発行されたものが、すぐに見つかりました。

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以下パンフレットの中から、必要な資料を紹介します。

まず、動員学徒原爆犠牲者を出した学校の一覧です。

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建物疎開作業だけでなく軍需工場への動員も含まれています。国民学校、中学校、女学校、工業師範学校御、文理科大など多様な学校名が並んでいます。

同じパンフレットに当時の学校制度でも掲載されています。国民学校を卒業すると複雑な学校制度になっています。

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確かにさとうさんの指摘のように、中一、中二だけではとても表現できません。

次は、動員学徒のうち最も犠牲が大きかった建物疎開作業を行なっていた学校です。

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建物疎開作業が行なわれていた場所の地図です。

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この写真には次のような説明文が付いています。

「1945年(昭和20年)7月の広島市の空撮に,8月6日当日の建物疎開作業を行なっていた場所を示しています。はっきりと防火帯が形成されてきた現在の平和大通り付近では、国民学校高等科や中等学校1・2年生を中心とする40校が出動し、作業にあたっていました。」

とここまで書いて気になりましたので、「8月6日に建物疎開作業を行なっていた学校」の一覧表で、現在の平和大通り付近と思われる作業場所ごとの学校数を数えてみました。すると何度も数え直したのですが、県庁付近(天神町、材木町、中島新町、水主町)11校、土橋付近(堺町,西新町、小網町)11校、鶴見橋付近(鶴見町、昭和町)12校で、合計34校にしかなりませんでした。

一つの学校で複数箇所(例えば、崇徳中学は県庁付近、土橋付近、八丁堀付近、楠木町の4カ所)という学校もありますが、40校というのは、建物疎開を行なっていた学校の数でした。数字はなかなか難解です。

このパンフレットによれば、1945年8月6日に動員された学徒は、約26,000人で、このうち約7,200人が原子爆弾で亡くなったと記しています。うち5カ所の建物疎開作業にでていた生徒は、悲惨を極め、約8,200人が動員され、約5,900人が亡くなったと記しています。

広島平和記念資料館が調べた数字ですので、一応正しいと思い「さとうさん」の疑問に答えたいと思い紹介しました。

しかし、関さんは、「ヒロシマの少年少女たち」の中で、この数字に対しても疑問を呈していることを紹介して,さとうさんのコメントの一応の答えとしたいと思います。

いのちとうとし

【編集者】全ての図表や写真は、クリックして拡大して見て下さい。

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2024年6月16日 (日)

広島平和記念資料館企画展「ともだちの記憶」

広島平和記念資料館東館1階で3月1日から開催されている企画展「ともだちの記憶」に行ってきました。

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1945年8月。広島市では全市をあげて建物疎開が行なわれており、その中心である100メートルの防火帯(現在の平和大通り)鶴見橋西詰から土橋までに約5000人が、それ以外の作業地を加えると8000人以上の中一、中二の少年少女が働き、そのうち約6000人が原爆によっていのちを奪われました。

企画展の「はじめに」には次のように書かれています。

「ヒロシマを生き残った中学生には、死んだ友達に対する後ろめたさのようなものがあります。街を歩いているとき、愛する人と手をつないでいるとき、子や孫の成長を目にしたとき、親の老いを感じたとき、ふっとあの日のことがよみがえってくるからです。

今回のきかく展では、遺品や絵・証言により、少年少女の生死を分けた状況や、生き残った生徒の苦しみや負い目、そして友を思い、鎮魂の願いを込めて残した記憶を紹介します。(以下略)」

展示は、3部の構成になっています。

第1部「ともだちとの日々」は、「少女たちの日記/8月6日の朝」で構成され、「少女たちの日記」では、広島第一県女の同じ1年4組だった石崎睦子さんと梅北トミ子さんのかけがえのない日々を綴った日記が展示されています。

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友達と過ごすかけがえのない日々を綴った4月6日から8月5日までの日記が,紹介されています。

第2部は、「生死をわけて」です。

切明千枝子さんの絵が引き延ばして展示されています。

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「空が二つに分かれて」とタイトルの付いたキャプションには、切明さんの言葉が次のように書かれています。

「8月6日の夜は忘れられやしません。空がくっきり分かれていて不思議でした。西の空は真っ赤で、東の空は星空でした。たくさんの流れ星を見ながら、先生やお友達のたましいもあるのではないかと思い、涙を流しました。」

この絵は、この展示会のチラシ、会場で配布されるパンフレットの表紙にも使われています。

この第2部「生死をわけて」は、「友達と一緒に亡くなる/消えた友達/友達を亡くす/友達に助けられる/友達を助ける/友達の逃げる/友達を助けることが出来なかった」で構成されています。

「友達を亡くす」には、元資料館館長だった高橋昭博さんと山本達也さんのことが記されています。

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高橋昭博さんが描いた絵とともに「『泣くな!』『しっかりしろ』といって山本君を叱り、励ました」という手記が書かれています。山本達也さんは、なんとか家に帰りつきましたが、9月16日に亡くなりました。

第3部は「生き残って」は、「友達の安否/手作りの慰霊碑/広島初の追悼文集/癒えない傷/負い目の日々/消息を追って」で構成されています。キャプションに生き残った人たちの思いが書かれています。

「かろうじて生き残った中学生たちも、心と体に深い傷を負いました。学校に戻れず退学したこと、原爆病に倒れたこと、中でも一番つらかったのは、友達のお父さんお母さんに会うことでした。昨日まで、机を並べて勉強し、作業に励んだ友達との別れは、彼らの心に深い根を下ろし、何十年経っても忘れることは出来ませんでした。」

私が特に注目したのは、「広島初の追悼文集」です。

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「広島初の追悼文集」は、1946年に県立広島第一中学校と県立第一高等女学校の生徒39人が、犠牲となった一中の35学級の生徒のために手記を寄せて発行されたものです。

上の写真の一番右側が「泉 第一集 みたまの前に捧ぐる」です。こんなに早く発行されたのには、ちょっと驚きました。その他に2冊並んでしますが、この2冊は、ずっと後(2集は2012年、3集は2015年)に、浜田平太郎さんが、著/編集されたものです。

浜田さんのことが気になりましたので、少し調べてみました。

浜田平太郎さんは、当時県立広島一中の3年生でしたが、肺の病気を患い、復学したばかりで,8月6日は高熱で建物疎開の作業をやすみ、爆心地から5kmの古田の自宅にいて助かったそうですが、生き残った負い目から、あの日の記憶をしまって生きてきたそうです。第一県女の1年生だった妹の孝子さんは、小網町で建物疎開作業中に被爆し、避難していた己斐小学校で探しに来た兄の平太郎さんに見つけられ自宅に帰ることが出来たのですが、翌7日の午前5時に亡くなりました。(中国新聞2013年1月28日記事より)

毎日多くの修学旅行生が、平和公園を訪れ、広島平和記念資料館に入館しています。最後の展示となるこの企画展「ともだちの記憶」もじっくりと見て欲しいと展示です。しかし残念なことですが、時間の制約があるのでしょう、通り過ぎる子どもが多く、見ている子どもたちがいても、駆け足のような気がします。

9月10日まで続きますので、ぜひ行ってみてほしい企画です。

いのちとうとし

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2024年6月14日 (金)

「基町写真展2024」に行きました。

広島市中区役所と広島市立大学が実施主体となって活動する「基町プロジェクト」が企画する「基町写真展2024」に行ってきました。

「基町プロジェクト」の活動がはじまってから10目を迎えた「写真展」は、2015年より基町地区内外の方々から提供された写真をもとに毎年8月に「基町、昔の写真展」としてスタートしました。2020年からは、この年オープンした「基町資料室」の企画展「基町写真展」としてはじまりました。(以上は、「基町プロジェクト」ホームページから)

10年目となる今年の「基町写真展」は、基町住宅内の5カ所に会場が設けられ、これまでに提供された約5000枚の写真の中から選ばれた、約110点が展示されています。

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最初に訪れたのは、市営基町アパート17号棟1階の「旧大橋商店」に設けられた「1号」と表示された展示会場です。

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今年開場したピースウイング広島(サッカースタジアム)の道を挟んですぐ北側にある建物です。

ここには、基町高層アパートと共に生まれた基町小学校の始まりから学校行事の様子を見ることができます。

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左側の壁面に「子どもたちから大人まで一緒に基町を練り歩いた『おみこし』」(1967年)の写真が大きく引き延ばして展示され、真ん中に学校の歩みを伝える写真が並んでいます。

もらった地図を手に、第2会場から順に会場をめぐっていきます。

第2会場は、基町プロジェクト事務所の隣の部屋で、戦後復興の状況を写した写真が展示されています。今も元気な姿を見せている「被爆楠」の1970年代の写真や広島城のエピソードを伝える写真があります。

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第3会場は、いつもこの『基町写真展』会場となっている場所で、私が初めてこの写真展を訪れた時にメイン会場になっていた場所です。基町高層アパートの建設から完成までの様子が「基町住宅の模型」と共に展示されています。

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第4会場は、「基町プロジェクト」が常設している「基町資料室」で、これまでの「展示会」で展示された写真や提供された写真が、資料として整理されています。

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手前に写っているのが、これまでの「写真展」で展示し写真を冊子にまとめた資料です。その冊子をめくっていると、思いがけない写真を見つけました。

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「馬蹄」碑が写った写真です。写真と撮った人は、犬をメインに写したと思われますが、私にとっては、犬の後ろにある碑が気になります。今はファミリープールのすぐ西側にある「馬蹄」碑ですが、背景に川が写っています。以前には、川土手に立っていたことが分かります。その後の河岸の整備によって現在地に移されたと思われます。

第5会場は、少し離れていたちょっと分かり難いのですが,基町中央集会所1階の大きなショーウインドウを利用して設けられています。ここには、ヒロシマピースウイングが建設された中央公園の1970年(公園以前)。1983年(公園整備)、2018年(周囲の樹木も大きくなった中央公園)、そしてサッカースタジアム完成した2024年の歴史をたどる4枚の写真が大きく引き延ばされて掲示されています。

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この写真を見ていると、かつて相生通と言われた元安川河岸に住んでいたという夫婦連れが来られました。一番古い1970年の写真を見ながら、「この辺に住んでいた」と懐かしそうに私にも話して下さいました。自分史をたどるために訪れる人も多いのでしょう。

「基町写真展」では、こういう出会いを毎回体験します。

私が、「基町写真展」に毎回訪れるのも,広島に来た時,最初に働いていた中国通信局(現在のリーガロイヤルホテル)ビルの北側にあった基町市営住宅とその周囲の道路沿いに連なっていた喫茶店、食堂、一杯飲み屋さんが写った写真を見たいという思いからです。

展示されている中には、1970年代の住宅地図があり、その地図上では確認できるのですが、今回も写真を見つけることは出来ませんでした。今後に期待し、これからも見に来たいと思っています。

「基町写真展2024」は、6月30日までの木、金、土、日曜日の12時から17時まで開場されています。

いのちとうとし

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2024年6月11日 (火)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会と高校生平和大使

広島県原水禁は、6日の午後6時から自治労会館で「被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会」を開催しました。

結成総会は、秋葉忠利県原水禁代表委員のあいさつの後、5月26日に45人の応募者から選ばれた今年の高校生平和大使3人から決意表明を受けました。

3人は、甲斐なつきさん(広島市立基町高校),佃和佳奈さん(福山暁の星女子高校)、沖本晃朔さん(AICJ高校)で、いずれも高校2年生です。

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あいさつするのが甲斐さん、左に佃さん、沖本さん

「被爆者の思いを世界に伝えたい」「平和な世界を待つだけでなく,声を上げ続ける」甲斐さんと沖本さんは、被爆4世です。

毎年のことですが、力のこもった決意表明には、参加者から大きな拍手が送られました。

この1年間の活躍を期待したいと思います。

高校生平和大使のあいさつが終わると原水禁世界大会結成総会の協議に入りました。

結成総会には、毎年中央から代表が参加し、情勢報告を行なっていますが、今年は,4月の原水禁国民会議総会で新しく共同議長に選ばれた染裕之原水禁世界大会共同実行委員長に参加していただきました。

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染さんは、自治労東京都本部執行委員長などを務めた自らの経歴を紹介しながら、まず原水禁運動を取り巻く情勢(核抑止論の問題点、核兵器禁止条約(TPNW)、核拡散防止条約(NPT)など核軍縮/廃絶の国際的動き、高校生平和大使の活動、連合などと連携して取り組む課題、経過など)を報告されました。その上で、新しい戦前と言われる,岸田内閣が進める大軍拡路線について、2012年安倍政権誕生以来の軍拡の流れを紹介し、特に今年4月の岸田訪米によった「アメリカが進める軍事戦略に日本が全面的に応ずる危険性」が強まったこと強調し、私たちの運動の役割が重くなっていることが提起されました。

その後、広島県実行委員会の大瀬事務局長から、大会日程,広島県実行委員会の取り組みについて、提起しました。

日程など主な確認事項は次の通りです。

被爆79周年原水爆禁止非核/平和行進

東部コース 7月27日~8月3日

北部コース 7月30日~8月2日

西部コース 8月1日~8月3日

*厳しい暑さの中での行進となるので、従来の時間にこだわることなく各地区で工夫して取り組む。

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会

8月4日

開会総会 午後5時から午後6時30分 県立体育館

   午後3時40分から平和公園から県立体育館への折り鶴平和行進を実施。

8月5日

分科会 午前9時30分から12時30分

 テーマ:平和と核軍縮(2分科会),脱原発、ヒバクシャ(ヒバクシャと被爆二世)、ヒバクシャ(世界のヒバクシャ),見てきて学ぼうの6分科会

フィールドワーク 大久野島バスツアー、西松安野中国人強制連行・被爆の歴史ツアー

ひろば 午後2時から午後4時半 子どもの広場など5つ

8月6日

国際会議 午前9時から10時半 広島県民文化センター

まとめ集会 午前10時30分から11時 広島県民文化センター

今年は、国際会議に出来るだけ多く参加してもらうと言うことで、まとめ集会前に同じ会場で開催することになりました。

これらの提起を受け、全体の日程を確認し、大会を地元として成功させるため、今年も会場係など運営にあたって各労働組合各地区労の協力を得ることが確認され,実行委員会は終了しました。

大会の詳細は、後日紹介したいと思います。

なお、大会実行委員会結成総会に先立って開催された県原水禁常任理事会では、5月に行なった「福島原発視察」の報告と広島市が8月6日の「平和祈念式典」にロシアとベラルーシに対し招待状を送っていない問題について「全ての国に招待状を送るよう」申入れることを確認しました。

いのちとうとし

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2024年6月 7日 (金)

福島原発視察報告その5

視察2日目の最後は、地元の皆さんとの交流です。

最初に、浪江町議会議員で「福島原発事故被害から健康と暮らしを守る会」会長の紺野則夫さんの話しを聞きました。紺野さんは現在,全ての福島原発事故被害者に対し国による「健康手帳」交付を求める運動の中心的役割を果たしておられます。2017年の福島視察でも当時の馬場町長に同行し、福島市での開会行事でいろいろと報告をしていただきました。

紺野さんの話しは、13年前の原発事故当時の浪江町の避難状況からはじまりました。

浪江町の健康保健課長だった紺野さんが、浪江町にある支所で勤務中に、東日本大震災が発生。翌日の3月12日政府から東電福島第一原発事故による「避難指示」がだされ,対策本部を設置して対応したこと、その避難指示によって浪江町中心部から30km離れた同じ町内の津島地区に5~6時間かけて住民がやって来た。

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東京新聞2023年3月18日より

のちに明らかになるのですが、原発の爆発事故によって発生した放射性物質が集まる放射性プルーム(放射性雲)は、東京電力福島第一原発から北西の方向に流れたため、津島地区は最も汚染が酷い地域になってしまいます。

馬場町長は、「ここも危ない」とさらに避難を決断。「どこに行くか」と探して見つけたのが、二本松市の東和地区。3月15日に津島にいた1万1千人が移動。一番の問題は医療問題で、東和には「地元の人しか診察できない」小さな診療所しかなかった。3月17日、18日に診療所を立ち上げ,医師は何とか確保できたが、看護師がいない。6月に発注したホーボディカウンターが届いたのが翌年の5月頃。自分の体は、800ベクレルの被曝。馬場町長は、原発事故被害者の健康管理、健康保障への責任は本来国が果たすべきだが、国がやらないのなら、として被爆者健康手帳と同じものをつくろうと町独自の「放射 線健康管理手帳」 (健康手帳)をつくり全町民に配布した。その後、広島県被団協の坪井理事長と話した時、坪井さんから「10年、20年の健康をきちんと調べる。原発と原爆はどこが違うのか。広島と福島が違うのは、爆風と熱だけだ」と「健康手帳」への支援を送っていただいたこと。当時広島市長だった秋葉さんには「日本政府が何もやっていないことを国際社会に訴えるべき。6万人の命が守れなくて1億人が守れるのか」と示唆をいただいたことを思い出す。

役場を退職後、「何をやるべきか」と考え、町議に立候補した。医療費の無料化を継続させなければと思っている。当時3千人の子どもたちがいたが、この子たちが健康に暮らせるなら何でもやるというのが私のスタンス。

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「差別よりもいのちが大事」と言った馬場町長の意思を引き継ぎ、「検診体制の確立を含め医療費無料化の制度を構築することが国の責務」と「健康手帳」の法制化求めている。

紺野さんの「健康手帳法制化」に取り組む強い思いを感ずることの出来たお話でした。

二人目は、私たちの「福島原発視察」の日程作成に協力をいただいた福島県平和フォーラムの引地力男事務局長の話しです。

引地さんの話しは、「ALPS処理水の海洋放出」の問題です。いま福島では、「汚染水」呼称が問題視され、3月の県議会では「汚染水」との表現を教育現場で認めない自民党の意見書が採択され、また「汚染水」と発言したひとが強いパッシングを受ける実態が報告されました。こうした現状の中で福島県平和フォーラムも「ALPS処理水」と表現していることが、紹介されました。もちろん、福島県平和フォーラムも発生するのが「汚染水」であるとしていますが、言葉狩りとも思える状況が広がる中で苦悩しながら運動を展開せざるを得ない実態が報告されました。

このことについては、様々な意見があると思いますが、ここでは福島の現状の紹介だけにとどめておきます。

当初予定していた漁業事業者の話を聞くことが出来ませんでしたが、現地の声を聞くことの大切さをこの交流でも学びました。

これで、ようやく二日目の日程の報告が終わりました。

次回は、翌朝出発前に散策した7年ぶりに見た浪江町の街の様子と、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」見学の様子を報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 6日 (木)

2024年度広島県被団協総会ー熊田哲治新事務局長を選出

「福島原発視察報告その5」を掲載する予定でしたが、3日に参加した広島県原爆被害者団体協議会総会について、報告したいことが出来ましたので、掲載予定を変更することにしました。

広島県原爆被害者団体協議会(箕牧智之理事長)は、3日の午前10時30分から平和ビルで2024年度総会を開催しました。私も広島県原水禁の代表として参加し、来賓のあいさつをさせていただきました。

箕牧理事長は開会あいさつで次のように述べました。

「原爆投下から79年,健康不安の中で暮らしてきました。戦争反対・核兵器反対を訴えてきましたが、いまも世界では戦争が絶えません。ガザの食を求める子どもたちの姿を見ると涙を禁じ得ません。今まで以上に声を上げていきましょう」

箕牧理事長の思いは、総会議案書では、「基本の考え」として議案書冒頭に提起されました。その最後の部分を紹介します。

「本当に長い間私たちは、訴え続けてきました。来年で被爆から80年。よくぞこれまで頑張ってきたものと思います。私たちは命あるかぎり『核兵器はいけん,無くさにゃあ

』と声を上げ続けていく覚悟ですが被爆者の願い、そして県被団協の運動を,徐々に二世や私たちの思いを継いで活動する人たちに託していくことも考えなければなりません。」

この「基本の考え」に示されたように、今総会では新たに被爆二世の熊田哲治さんが、事務局長に選任されました。被爆二世が事務局長に就任するのは、被団協結成以来初めてのことです。熊田さんは、広島県原水禁の常任理事でもあります。

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就任のあいさつをする熊田新事務局長

他にも多くの被爆二世が役員に選出されましたし、質疑の多くも被爆二世に関するものでした。被爆二世が県被団協の運動を継承しになっていく時代に入ったと感じました。

熊田新事務局長の誕生に伴い、2016年から8年間にわたって事務局長を務めてこられた前田耕一郎さんが、体調の問題もあり被団協役員を退任されました。非被爆者である前田さんにとって事務局長としての任務には様々な苦労があったと思います。心からご苦労様でしたと申し上げたいと思います。

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議案を提案する前田前事務局長

今年の総会で特に強く印象に残ったのは、植田雅軌副理事長(呉原爆被害者友の会)の閉会あいさつでした。「会議終了の予定の時間が過ぎているが、どうしても話させてください」といって次のように訴えかけられました。

「被団協の基本的な目的は、核兵器を世界からなくすこと、被爆者の援護であったはず。原爆投下の原因は、戦争。戦争がなければ広島の原爆はなかった。そのたった一発の原爆で悲惨なことになった。

昨年のサミット。資料館をちょっと見ただけ。きちんと全体を見て欲しかった。被爆者の話もただ一人の話しを聞いただけ。腹が立った。原子雲の下で何が起きたか見て欲しかった。そしてその後、原爆の苦しみを受け続けた人がいることを。いま核兵器を使えば、遙かに大きな被害がでる。戦争をしないための話し合いをなぜしないのか。アメリカは助けてはくれない。アメリカにきちんと話して欲しい。」

いつお会いしてもにこやかにあいさつをしていただく植田さんの怒りの訴えが、本当に心に響きました。改めて、広島県被団協の運動の歴史を思い、その思いを引き継がなければと決意をした広島県被団協総会でした。

いのちとうとし

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