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被爆者

2023年9月29日 (金)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?―その3

ヒロシマ委員会に寄せられた募金は、約600万円集まりました。市民以外からの募金も多く集まりました。

「広島県医師会在米原爆被爆者健診事業30周年記念誌」には、次のような事例が紹介されています。

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「原爆病院入院中の被爆者久保ツチヨさんから300万円、毎日出版文学賞、大宅壮一賞を受賞した袖井林二郎さんは、「私たちは敵だったのか」の印税70万、ノンフィクション作家の上坂冬子さんは、1冊1,100円のサイン入り自著「奄美の原爆乙女」を300冊寄贈しています。上坂さんが支援するきっかけとなったのは、1987年の夏取材のため米国西海岸の在米被爆者を訪ね、後障害の治療が困難な現実を目の当たりにしたこと」だったようです。

多くの人々の感銘を与え、支援の広がりとなったことがわかります。

ヒロシマ委員会の「里帰りの治療」運動は、県医師会に引き継がれ、一応の終止符を打ちますが、集まった600万円の基金のうち、約半分の300万円が渡航費に充てられました。残った約300万円がどのように使われたのかを紹介し、「『在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会』を知っていますか?」を終わりたいと思います。

1988年4月15日付中国新聞にはこう書かれています。「ヒロシマ委員会は、近く在米被爆者の生活実態調査に乗り出す。25日に広島入りする米国原爆被爆者協会倉本寛司会長と調査方法などを打ち合わせる。(中略)調査のための通信費などは当面約100万円を用意し、被爆者協会に寄託する。」さらに「調査は倉本会長が米国に帰って、被爆者協会名で実施する。同協会がつかんでいる対象者700人余にアンケート方式で回答してもらいまとめる。」

ここでは、100万円という数字が出ているだけですが、残余の約300万円は、米国原爆被爆者協会に実態調査のための費用や在米被爆者の老後の不安を援助するための「ヒロシマ基金」として寄託されたようです。

倉本寛司さんは自著「在米五十年 私とアメリカの被爆者」(1999年刊)の中で、「又、在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会を設立した石田明先生は里帰り治療招待を実現していただきました。そしてその里帰り資金に三百万円を寄付して頂いた久保田さんに感謝します。後にこの資金を元にして『ヒロシマ基金』を設立、困窮している被爆者の救済を実施しています。」と記述されています。ここには、実態調査のことは書かれていませんが、4月15日の中国新聞記事と連動する内容だということがわかります。同書に付けられた年表には、「1988年8月 『在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会』からの寄付を元にして被爆者協会から独立した『ヒロシマ基金』設立。」と記されています。

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ここまで調べて思い出すのが、今年8月17日に訪れた広島県医師会館の「在ブラジル原爆被爆者協会資料特別展」に展示されていた「在米被爆者調査書」です。この調査書本体の表紙には、「1989年8月」と書かれていますが、「解説文」では、「北米での被爆者調査は、本資料の表記によれば、1988年7月に、当時の北米の被爆者団体・米国被爆者協会(会長 倉本寛司)によって実施された。その表書きには『1000人の被爆者がこの広いアメリカにばらばらに住んでいますので、互いの連絡・通信・交友は大変です。』と書かれている」と紹介しています。

広島県医師会を訪れたときには、まったく気づいていなかったのですが、この「在米被爆者調査」こそ、ヒロシマ委員会から贈られた「ヒロシマ基金」が、活用されたことは間違いありません。

そしてこの在米被爆者調査が、在ブラジル被爆者調査に活かされたことを思うと、在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会が果たした役割をもう一度検証し直すことが必要に思われます。

いのちとうとし

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2023年9月28日 (木)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?―その2

ヒロシマ委員会の当初の計画よりも縮小しましたが、その第1陣としてアメリカ・シアトル在住の在米被爆者の美容師山田勝江さん(当時62歳:以下に記載する年齢はいずれも当時の年齢)が、8月3日に「再び故郷の地が踏めた」と32年ぶりに広島入り。山田さんは、広島市原爆対策部を訪れ被爆者健康手帳を取得。6日には、平和祈念式典に出席し、8日に広大病院に入院しました。爆心地から約3キロの自宅で被爆した山田さんは、昭和26年に渡米後、「体のだるさ、めまい、皮膚の荒れなど」に悩まされ続けたていましたが、約1ヶ月間の治療を受けることになりました。

第2陣は、同じ月の29日に8年ぶりに広島に帰ってきたアメリカ・ワシントン州カークランド在住の会社員中野昭さん(52歳)で、広島到着後すぐに広島市役所を訪れ、被爆者健康手帳の交付を受けます。山田さんは、翌30日に約1ヶ月間の治療を受けるため、山田さんと同じ広大病院に入院しています。

ヒロシマ委員会が実施したこの年の帰国治療事業は2名、翌年は3名と続き、1988年に県医師会に引き継ぐまで継続され、1988年7月17日に帰国の途についたハワイ・ホノルル在住の主婦石元恵美子さん(56歳)を最後に、合計16人の帰国治療が実現しました(中国新聞1988年7月18日付記事)。

しかし、援助や治療対策をさらに強化するのは、募金だけでは困難となり、ヒロシマ委員会石田明会長と県医師会の杉本純雄会長との話し合いによって、1988年2月に県医師会が肩代わりしてこの事業を取り組むことに合意しました。

ここでなぜ県医師会の肩代わりすることになったのかを少し考えてみたいと思います。

県医師会は、放射線影響研究所と伴に、厚生省の事業として1977年から始まった北米在住の「被爆者健康診断事業」に従事し、隔年で医師団を派遣していました。在南米被爆者健康診断事業が始まるのは、1985年からです。

この被爆者健康診断事業は、健診は実施したものの、「治療や診療を受けたい」という希望があっても、米国の医療法上で治療行為を行うことができず、検診を受けた被爆者の中には「広島の専門病院で治療や診察を受けたい」という強い希望がありました。しかし、「被爆者健康診断事業」がスタートした時期の県医師会は、「十分にそれは意識していましたが、財政面などから実行は他者に任せざるを得なかった」のです(広島県医師会「広島県医師会在米原爆被爆者健診事業30周年記念誌」より)。

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倉本寛司著「在米五十年 私とアメリカの被爆者」より

また、帰国治療の対象者の人選は、米国被爆者協会の倉本寛司会長に一任されていましたが、県医師会などのよる在米被爆者健診の結果が強く考慮されたことも新聞記事から読み取ることができます。

こうしたことが、1988年に県医師会が、ヒロシマ委員会の事業を引き継ぐことになった背景にあったのではないかと推察できます。

どうしても記しておきたいことは、広島県、広島市の対応です。1983年に被爆者4団体の代表が石田明会長と伴に県、市に対し「渡航費などの資金援助をして欲しい」と要望したところ、県は「在米被爆者の医療が重要であることは認めるが、県が渡航費を援助することは難しい」、市は「申し出の趣旨は十分わかるが、市は在米被爆者について、健診団派遣事業を充実させたい」と応えていることです。そこには、在外に住む被爆者への思いを全く感ずることができません。当時長崎市は、年に二人ずつ市費で帰国治療を受け入れていましたから、広島県・市の対応の冷たさが際立ちます。

ヒロシマ委員会の資金作りには、県内だけでなく、大きな広がりがありましたが、その紹介とまとめは、明日にします。

いのちとうとし

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2023年9月27日 (水)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の名前を聞いて、「あーあのことか」と思い浮かべることのできる人は、何人おられるでしょうか。

広島県原水禁運動の歴史を書いた「原水爆禁止運動50年の歩み」(広島県原水禁2004年発刊)の中にも登場しない組織の名前です。

最近、二つの出来事がきっかけとなって、この組織の活動について調べてみました。

きっかけの一つは、「在ブラジル被爆者」の歴史を研究する高校生平和大使OGの新しい論文が発表されたことです。もう一つは、広島県原水禁運動の代表委員を務めたことのある片山春子さんが今年3月に逝去され、広島市原爆被害者の会から「片山春子さんを偲ぶ」という原稿の依頼を受け、「そういえば、片山さんが県労婦人部の部長だったことカンパ活動を取り組んでいたな」ということを思い出したことです。

手元には資料が何もないところからの出発でしたので、まず頼りにしたのは新聞記事です。

中国新聞の記者にお願いをし、当時の新聞記事を入手することができました。その記事に「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会の事務局は広島平和教育研究所に置いた」とありましたので、広島平和教育研究所に「何か資料は残っていないか」と問い合わせたのですが、「残念ながら資料は保存されていません」とのことでした。結局、中国新聞の記事を頼りに調べていくしかありませんので、中国新聞の記事を元に、「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の活動をおってみたいと思います。

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」(以下「ヒロシマ委員会」)は、「原爆に後遺症に苦しむ海外の被爆者(金子注:対象は在米被爆者のみ)を支援し、広島での治療を実現させよう」と1982年12月27日に当時県原爆被爆教職員の会の会長だった石田明さんら7人の呼びかけによって発足しました。

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そのきっかけとなったのは、同じ年の6月に開催された「第2回国連軍縮特別総会」に参加するためアメリカを訪れた石田明さんたち代表団が、在米被爆者と会った際、米国被爆者協会の倉本寛司会長から「広島原爆病院で治療を受けるための渡航費援助」などの強い要請を受けたことです。

帰国した石田さんたちは、被爆者団体や労働組合などに協力を呼びかけ、ヒロシマ委員会を発足させたのです。

設立趣意書などは、当時の資料が保存されていませんので、正確なことを知ることはできませんが、主な活動は次のようにものでした。

①年間3-4人を招いて広島で専門医の治療を実施する②在米被爆者の記録映画「SURVIVORS(生き残り)」の普及③広島、長崎両市が製作した原爆映画「ヒロシマ・ナガサキー核戦争のもたらすもの」の英語版寄贈することです。

一番の目的である在米被爆者の渡日治療を実現させるためには一人約50万がかかるため、年間300-400万の募金を目標に活動が始ったことを記事は紹介しています。こう紹介したあとに新聞記事は、次のように記述しています。「すでに県労婦人部が8月からカンパ活動を進めている。」

カンパ活動を先進的に担った県労婦人部の当時の部長が片山春子さんだったのです。当時片山さんが、県労婦人部以外のいろいろな人にカンパを呼びかけていたことを思い出します。

翌年1983年5月13日の中国新聞記事は、それまでに100万円のカンパが集まったので、とりあえず在米被爆者2人の里帰り治療に充て、7月末頃に受け入れることになったことを報じています。

今日の報告は、ここまでです。その後のヒロシマ委員会の活動状況については、明日紹介します。

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2023年9月26日 (火)

森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?―森滝日記より

5月4日のブログ森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」について、私なりの検証を試みました。その結論として「4月6日には、吉川さんなど4人に加わって県被団協の抗議大会に集まった人たちと一緒に座りこまれた」と記しました。

森滝先生の日記ではどう書かれているのか、ずっと気になっていましたので、先日加納加世子さんの森滝家訪問に同席した機会に、日記を見させていただきました。

昭和32年(1957年)の日記を探しました。

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1957年(昭和32年)4月20日の日記

4月6日の日記には、簡潔に次のように書かれています。

「四月六日() 慰霊碑前で『祈りと抗議の座り込み』及び午後、原爆被害者大会.激励の挨拶。(七時十五分に録音ニュース)

後に「座り込み10年の『前史』と理念」では「この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを囲んで『祈りと抗議の座りこみ』をおこない,その場で被団協の抗議大会を開いた。」と記述された「被団協の抗議大会」については、なぜか日記には全く記されていません。

しかし、日記に「祈りと抗議の座り込み」と、はっきりと記述されていますので、私が得た「座込みを続けていた吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎たち4人と一緒に座り込みをされた」という「一応の結論」が間違いでなかったことを、森滝先生の日記から確認することができました。

5月4日のブログで紹介した「4月20日の原水爆実験抗議広島市民大会」については、日記には、この市民大会のすべての日程、発言者が記述されています。

日記は「四月二十日() 雨さかんに降る」で始まります。気象台の記録「31.1mm」を裏付ける記述で、強い雨が降っていたことが、この1行からも理解できます。

以下「水爆実験阻止広島市民大会を決行。原爆資料館下で。」、その後に「開会 黙祷 大会会長挨拶」と当日のプログラムが記載され、きちんと発言者の名前が書かれています。当日の森滝先生の役割は、次第の6番目の「アピール」です。当日二つのアピールが行われています。最初は、「祈りと路抗議の座り込み団代表」です。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎の4人の名前が書かれていますので、4人全員のアピールがあったことがわかります。次が、「世界への質問」と題した森滝先生のアピールです。日記の「市民大会の次第」に続いて次のように書かれています。

「世界への質問」(今朝ひらめいたことば)

「今日 私は二十数万の原爆犠牲者の眠るこの慰霊碑の前で、一個の倫理学者として 全世界に向かって 一つの質問を厳粛に提出します。

今日 世界で最も強い國というのは 最も大きな罪悪を犯さなければならない口であろうか。」(原文のママ) 今にも生きる問いかけのような気がします。

そして「雨中乍ら集まったもの約千名。」と記述されて、この日四月二十日()の日記は、終わっています。

森滝先生の日記を見ることで、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」の結論を得ることができました。

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2023年9月18日 (月)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その3

あと二つのコーナーが残っています。

「戦後資料」で、最初に目を引いたのは「被爆死した油谷重工業株式会社関係者に関する各種資料」です。

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左隅には、「過去帳」と書かれた大きな木箱書があります。油谷重工業株式会社は、現在はコベルコ建機株式会社と社名が変わり、安佐南区沼田町大字伴に移転していますが、被爆時は安佐郡祇園町にありました。私が選挙に立候補していたときには、組合に応援をしていただいていましたので、何度も訪れていましたが、油谷重工は、爆心地から5キロ以上も離れていましたので、当時は原爆被害のことなど全く頭に浮かびませんでした。

「その油谷重工がなぜ?」という思いで展示ケースを見たのですが、キャプションを読んで納得です。「職域義勇隊として広島市内天神町の建物疎開作業のため人員を送っていました。同隊には20戸の建物の取り壊しが割り当てられており、1945年(昭和20年)8月5日までに19戸の作業が完了し、8月6日は最後の1戸の解体のため161人が出動していましたが、被爆により全員が亡くなりました。これらは、亡くなった職員と動員された生徒たちの過去帳や履歴書、名簿などです。」

広島市原爆戦災史によれば、油谷重工は、軍需品を生産していたようですが、そんな会社にも職域動員があったことに驚かされます。天神町は、現在の平和公園付近ですので、同戦災史には、出動者161人中、即死は128人、行方不明33人と記録されています。もし8月5日までに、全戸20戸の解体が終わっておればと思わずにはいられません。

企画展の展示品に戻ります。このコーナー「戦後資料」の展示の多くは被爆後に撮られた写真です。気になった写真が2枚あります。

1枚は「大手町国民学校の焼け跡から北北西を見る」とタイトルが付いています。

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大手町国民学校の焼け跡には、現在はドコモのビルが建っています。そこから北北西を見て最も近い位置が、わが家が住みマンションということになります。

大手町国民学校のこともこのブログに書いたことがありますが、その時には、写真を探すのに苦労をしました。この写真から学校の面影を見つけることは難しいのですが、気になる一枚です。撮影時期は、1946年頃となっています。

2枚目は、前にも同じような写真を見たことがある「国泰寺の大クスノキ」の写真です。

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この写真も1946年頃の撮られたものですが、右奥に現存する被爆建物日銀広島支店がはっきりと写っています。

最後が「原爆の絵」のコーナーです。沢山の興味深い絵が展示されていましたが、その最後で意外な絵を見ることになりました。

原水禁がいつもお世話になっている切明千枝子さんが、91歳の時に描かれた絵で、「8月6日の夜空。空が二つに分かれていた。」のタイトルが付けられています。

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「広島市立長束中学校校長角雄二寄贈」となっていますので、切明さんが、近所の長束中学校で被爆証言をされたときに学校に寄贈されたものと思われます。

「作者の言葉から」として次の文章が書かれています。

「被爆して家が崩れてしまい、外で寝た時の空の思い出です。広島の空が、くっきりと二つに分かれていて、北西の方は血の色のように真っ赤に、空が焼けていました。

南東の方は、一面の星空で、数限りない流れ星が流れていました。

流れ星は、死んでいった人たちの魂がもしかしたら天に昇っているのではないかと思い、涙を流しながら眺めた記憶があります。」

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」の私の紹介は終わりですが、この企画展は、来年の2月27日まで開催されます。

それぞれにまた新しい発見があるかも知れません。一度足を運んでみてはどうでしょうか。

いのちとうとし

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2023年9月17日 (日)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その2

「戦前の広島」の次は、「戦時生活から原爆投下へ」のコーナーです。

当然のことかも知れませんが、このコーナーに最も多くの資料が展示されています。

「戦闘機献納のための募金活動で集まった資金と広島実践高等女学校の生徒たち」や「広島招魂社前で撮影された陸軍部隊の集合写真」などの写真は、戦時体制に懸命に協力する国民の姿を見ることができます。

会場入り口の大きな看板(昨日の1枚目の写真)の裏側に、広島市立中学校2年生の檜垣浩さん(当時15歳)が、爆心地から900メートルの小網町の建物疎開作業現場で被爆したときに身につけていたズボン(左側ケース)と父の職場まで歩いてたどり着いたとき父親の兵市さんが着せたワイシャツ(右側ケース)が、展示されています。

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こんなにズタズタに損傷したズボンが、78年間も大切に保管されていたことに、家族の強い思いを感じます。

右側ケースには、檜垣浩さんの写真が付けられています。

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何歳の時撮った写真かは書かれていませんが、この写真があることでどういう子どもが着ていたのかがわかりますので、より実感を持ってみることができます。この写真はもう少し大きめでもよいような気がします。

他にもランドセルやガラス破片が残る桐タンス、焼けたくぎ、変形したガラス瓶など遺品や被爆物が多く展示されています。その中の一つに「竹製の物差し」があります。

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寄贈者の名前が「森川高明」と書かれていますので、びっくりしました。物差しは、母親のアキコさんが持っていたもののようですが、寄贈者の森川高明さんは、平和公園の遺構保存を一緒に取り組んだ被爆者だからです。現在は体調が思わしくなく、なかなかお会いすることができないのですが、意外な出会いとなりました。

「戦時生活から原爆投下へ」コーナーで特に印象的だったのは、手紙類の多さです。その中でも、目を引きつけられたのは福間喬介さんが寄贈された「疎開先から届いて父母からの手紙」とタイトルの付いた手紙類です。

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少し黄色がかっている手紙はお母さんから、お父さんからの手紙は毛筆で書かれています。キャプションには「光道学校5年生だった福間喬介(当時10歳)は、1945年(昭和20年)4月12日から9月12日まで、山県郡都谷村の仙徳寺に学童疎開していました。疎開期間中、父の一郎さんと母の久子さんは喬介さんに宛て手紙や小包を送りました。父母や兄弟は全員無事で、喬介さんは9月に家族と再会しました。」

展示された多くの手紙類の中で、特に目を引きつけられたというか気になったのは、「光道学校」の文字です。ずいぶん前にこのブログで、「光道学校」のことを取上げたのですが、こんな形で学校名を見たのは初めてだったからです。疎開先の「山県郡都谷村」は、現在の山県郡北広島町豊平と思われます。

もう一つは、この手紙類は、すべて学童疎開先に送られたものだということです。当時子どもたちからの返信はできなかったのでしょうか。それはよくわからないのですが、もし返信できたとしても、届けられた先は、市内だったはず(「父母や兄弟は全員無事」という表現から想像すると)ですから、当然焼失してしまったと想像できます。こんなことを思いながら、二つの展示ケースを見ていました。

これらの品々が、ほんとうに大切に保存されていたのだなとの思いながら歩を進めました。

後は、「戦後資料」と「原爆の絵」のコーナーですが、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2023年9月16日 (土)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」

広島平和記念資料館の今年度第1回の企画展となる「新着資料展」が、9月14日から東館1階企画展示室で始まりましたので、昨日行ってきました。

これまでは、新着資料の展示は、地下1階の特別展示室で行われていましたが、現在この部屋は、被爆体験伝承講話が行われるようになったため、今年から1階企画展示室で行われるようになったようです。会場が、資料館を見終わった出口の場所だからだと思いますが、以前の地下1階での「新着資料展」よりも、ずいぶん沢山の入場者があるように感じました。もちろん、資料館を訪れる人が総体として増えているということが主要な要因だと思いますが。

また、広島平和記念資料館の企画展となったことで、以前にはなかった充実した内容のパンフレットが作成され、自由に入手できるようになっています。貴重な資料であると同時に、見る者にとっても、より充実した「新着資料展」になったと言えます。

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会場入り口の「はじめに」(パンフレットにも同文を掲載)にはこう書かれています。

「広島平和記念資料館には、現在でも被爆者やその遺族の方々などから、大切にしてきた遺品をはじめとする被爆資料、自らの体験を描いた絵、当時の状況を撮影した写真等の資料が寄せられつづけています。

この展示会では、令和3年度(2021年度)に寄贈された744点の資料から、150点を紹介します。」

この企画展を見る前、「被爆から75年以上経っているが、一年間にどれぐらいの遺品や資料などが寄贈されるのか」が気になっていましたが、この文書によって、その疑問は解明しました。

いまだに744点もの資料が寄贈されているということです。これが多いのか少ないのか、それ以前の寄贈数の資料がありませんので、比較することはできないのですが、私の感想は「今もそんなに寄せられているのか」という思いです。

展示品は、「戦前の広島」、「戦時生活から原爆投下へ」、「戦後資料」、「原爆の絵」の4つに分類され展示されています。

「戦前の広島」のコーナーは、当然とことですが、写真や絵はがきですが、中でも目を引かれたのは、河原町に住んでいた三田嘉一さんが1940年(昭和15年)頃に、自宅周辺で撮影された5枚の写真です。

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当時の市民の生活の様子が映っています。こうした日常生活を営んでいる市民の頭上に原爆が投下されたのだということを想起できる写真だと思いました。

爆心地となった島病院の被爆前の写真も何枚かありました。「島病院の中庭にあった猿小屋の前で」という写真は、以前にも見た記憶があるのですが、玄関前から撮った写真を見たの初めてです。

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この写真のキャプションには、次のように書かれています。

「原子爆弾は、広島市の中心部にあった細工町の島病院上空600メートルで炸裂しました。島病院は、1933年(昭和8年)8月31日に広島郵便局電話課の建物を改築して開院しました。レンガ造り2階建て、正面玄関両側の円い柱と円形の窓が特徴的な建物で診察室や手術室、病室などの部屋がある大規模な病院でした。」

このキャプションに注目したのは「広島郵便局電話課」という言葉です。すぐ向かい側に広島郵便局がありましたので、電話課だけが別棟で、しかも堅牢な建物だったことがわかります。この時期に、電話課は、広島市下中町(現在の広島市中区袋町)に3階建ての広島中央電話局として移転し、ここで被爆することになります。この広島中央電話局の建物も非常に堅固に作られた建物だということを、私が労働運動を始めた頃(1970年代)の全電通広島支部が、この被爆した広島中央電話局の建物の中にありましたので、何度も聞いた記憶があります。

この写真を見ながら、そんなことを思い出しました。

まだまだ、企画展の最初部分を見ただけですが、長くなりました。明日につづけたいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月14日 (木)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その3

チラシには、講演会の講師の森滝先生の紹介があります。

「先生は、広島こどもを守る会会長、こどもを守る会中国協議会長、原水爆禁止世界大会広島事務局長、原水爆禁止全国協議会事務局長、世界連邦アジア会議広島大会事務局長等の要職についておられ、平和運動には懸命の努力をつづけていられる方です。

森滝先生は、自身原爆の被害をうけられており、その体験をもととして救済事業に力をつくし、現在数十人の原爆孤児の世話をしていられます。」

経歴の最初に「広島こどもを守る会会長」が書かれ、後段でも「原爆孤児の世話」が記載されていますので、このことが「世界児童憲章」の策定を求める加納莞蕾さんと森滝先生を結びつける大きな力となっていることがわかります。

さらに「一昨年には、松江市で開かれた山陰平和大会にまた安来市で開かれた世界連邦の講演に来られ、この地方とも縁故のある方であります。この先生からお話を聞き、また先生を中心にディスカッションを行ったり今後の歩み方を協議したいと思います。」と書かれています。

これを読むと、森滝先生が、「原水爆禁止」の署名活動が行われた1954年からさまざまな場所に足を運ばれていたこともわかります。

さらにチラシに書かれた日程を見ると非常に中身の濃い布部村行きだったことがわかります。

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11月3日 講演会・座談会 講演と討議(べんとう持参のこと)

      午前10:00より午後4:00 布部中学校

      講師 森滝教授

      午後7:00より午後10:00 役場二階

      宗教と文化・教育についての座談会

11月4日 研究会 布部中学校

      午前10:00より午後2:00

      村をたてるにはどうすればよいか総合研究

森滝先生は、日記を読む限りでは、4日の「村づくり懇談会」への参加は午前中で終え、昼食を加納町長足立議長とともにした後、布部を出発された(そうしないと富田城趾の山や清水寺を訪ねて夕方に鳥取県の大山寺に着くことはむずかしい)と思われますが、それにしてもすごいスケジュールです。

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中央が森滝先生、その右が加納莞蕾さん、左が足立議長

チラシにはこうも書かれています。「このたび、この宣言を記念し、また、さあこれから手をとりあって村づくりにたちあがるのだというスタートとするために文化の日を以て『講演会と討論研究の会』と『映画の夕』を催します。」

この大切な行事に森滝先生をメインで招待した加納莞蕾さん、これほど厳しい日程であるにもかかわらず布部村を訪れられた森滝先生。お二人の間に強い信頼関係が築かれていたことを、このチラシから知ることができます。

チラシの「『映画の夕』この映画会は有料ですが、収益金のうちで必要経費を差し引き、純益金は原・水爆被害者救済義金、社会福祉のための基金にあて、気の毒な人たちにわづかながらもつくしたいと考えております。この収支報告は必ず行います。」という文章からも伺うことができます。

純益金がいくらあったのかは知ることができませんが、料金は『大人40円児童10円』となっています。

このチラシは、「平和をどうして作るのか」が、多くの字数を使って書かれていますので、全文を知らせたいとの思いが出てきますが、あまりにも長文ですので、残念ながら全文を紹介することができませんが、自らが鉄筆をもって書かれたと思われる加納莞蕾の強い思いが、伝わってくる文章です。

当時の布部村は、3,250人の住民が住む村だったようですが、加納莞蕾さんの熱い思いと理想が村民にどのように理解されたのか、興味が膨らみます。

加納加世子さんが持参された資料の中には「布部村平和五宣言」ごとに「なぜこの宣言をするのか」が詳細に書かれたものもあります。「原・水爆禁止宣言」の解説は、特に全文を紹介したい内容ですが、「森滝市郎先生と加納莞蕾」のシリーズもずいぶん長くなってしまいましたので、また別の機会に譲ることとし、今回はこれで終わりとします。

いのちとうとし

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2023年9月13日 (水)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その2

ガリ版印刷の内容豊富なチラシですが、日記に記載されていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」が映画の題名だということがわかります。

チラシによれば、11月2日の夜は、午後8時から『映画の夕』が開催され、そこで4本の映画が上映されています。「生きていてよかった」と「中国の曲芸」は、そのうちの2本です。

チラシに書かれた映画紹介は、大変興味深いものですので、原文のまま掲載します。

中国のサーカス 初めて公開された中国映画!健康で明るい中国のサーカス!大人も子供も面白く見られる映画。北京映画製作所作品」

生きていてよかった 公開以来全国民の感動をまき起こした。原爆被害者の実相を描く長編記録映画。原爆娘の悲痛な叫び。第一部 死ぬことは苦しい 第二部 生きることも苦しい 第三部 でも生きていてよかった 製作・原水爆禁止日本協議会 作品・日本ドキュメント・フィルム社 徳川夢声氏評―心の底から感動した。私にできることならこの映画を持って説明役をつとめながら世界中の人達にこの悲劇を訴えて歩きたい。」

黄金のりんご チェコスロバキア国立映画製作所作品 楽しい××マンガ映画!一つのりんごをめぐってかもしだす可愛い動物たちの物語」

月の輪古墳 古墳の発掘・それは失われた私たちの歴史の発掘であり、光と希望の発掘であった。村中の人たちが、一つにかたまって協力する素晴らしい記録映画」

4本のこの映画には、主催者の強い思いがこもっているように感じます。

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「生きていてよかった」は、1956年7月6日に公開されたばかりの映画です。小さな文字で読めないと思いますが、チラシの本文で次のように紹介されています。

「原爆被害の記録を綴ったもので、ー死ぬことは苦しいー生きることも苦しいーでも生きていてよかった.と、被害の傷手を受けながらも雄々しくも強く生き世界の人々にうったえるほんとうに清らかに強い人間性のすがたをあらわしたものです。この映画から正しい認識と人間性を読み取っていただきたく、みなさんの知性にうったえたいと思います。」

この映画の紹介に「徳川夢声氏評」が記載されていますが、評の内容はもちろん素晴らしいものですが、あえて徳川夢声氏評が使用されたのは、徳川夢声さんが島根県の益田市生まれだからではないかと勝手に想像しています。

「中国のサーカス」と「黄金のりんご」は、外国映画です。この時期、村の映画祭で外国映画が上映されることは珍しいことではないかと思います。しかも2本とも戦後新しく誕生した社会主義の国で製作された映画です。当時、布施村は「平和五宣言」だけでなく「世界連邦平和村宣言」も行っていたようです(チラシに記載)ので、4本の映画のうち2本も外国映画が、上映されたと思われます。「黄金のりんご」は、マンガ映画ですので、子どもたちも楽しめるようにとの思いが感じとられます。

「月の輪古墳」が選ばれた理由と思われることが、チラシの最初に書かれています。「平和な民主的な国・村をつくるには一人一人の文化××が高められ、すべての人々が、まごころから心を合わせ、よく結合してよい社会よい村を作ろうと努力する強い向上心から生まれるのでありまして、明日を信じて希望をもつことが大切であります。」

チラシの下部に記載された日程には「11月4日 研修会 午前10:00より午後2:00 村をたてるにはどうすればよいか総合研究」とあります。森滝先生の日記に「村つくり懇話会」と記載されているものですが、加納莞蕾さんが、「新しい村づくり」に力を入れておられたことが、想像できます。

今回は、「映画の夕」について、考察したのですが、チラシには森滝先生の布施村訪問についてさらに興味深いことが書かれています。明日さらに続けて考察したいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月 7日 (木)

指揮者山下一史さんは被爆二世

昨日のブログを読んでいただいた広島県被団協事務局長の前田耕一郎さんから次のようなメールが届きました。

「おはようございます。

本日のブログで取り上げている指揮者の山下一史さん。お母上は山下博子さんという被爆者です。

博子さんは抜け落ちた頭髪を原爆資料館に寄贈し、それはかつての展示で「放射線」のコーナーに長く展示されていました。

博子さん自宅に伺ってお目にかかったことがあります。非常に品の良いお方でした。その手記が資料館にもあり、一緒に被爆した弟さんは身を寄せていた先で血を吐いて亡くなったこと、一史さんの出産に際し、非常に苦労したことなどが記されています。博子さんが被爆した場所は手記の記述から、本逕寺の被爆したタブノキの辺りと推察しています。

ブログを拝見して思い出したことを記しました。

一史さんが博子さんの手記を学校などで使ってと広島市長に届けたことが中国新聞にも載っています。」

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山下博子さんから寄贈された広島平和祈念資料館のリニューアル後の新しい図録には収録されていませんが、以前の図録には収録されています。

昨日(9月5日)の中国新聞に「被爆した母の手記450冊、指揮者山下さん寄贈 広島市に活用願う」という新聞記事は読んでいたのですが、「今回はコンサートのことだけに」と、書かずにいました。

前田さんからのメールを読んで、改めて調べてみると山下一史さんは、今年5月4日から中国新聞の「緑地帯」に「広島に生まれた指揮者」を書かれています。

そこには、お母さんのことが何度も登場します。

第1回では「あの父と母のもとに生まれていなければ、広島で育った14年間がなければ、きっと僕は指揮者になっていなかったのではないかと思う」と書き、第2回では、お母さんの被爆について「そんな2人をあの原子爆弾が襲ったのだった。母は18歳、祐策は6歳だった。当時自宅は大手町にあり、爆心からわずか800メートルの距離で2人は被爆した。母は足を中心に37カ所もの傷を負い生死の境をさまよったが、祐策は奇跡的にほぼ無傷であったという。被爆から1週間後、2人の髪の毛は同時にすべて抜け落ちてしまう。祐策はそれを境に急激に体調を悪化させて3日後に亡くなった。その後4カ月を経て母は徐々に回復していったが、健康な状態からは程遠く、髪もまだ生えてこなかった。被爆後のことを母が僕に語ることはなく、僕の出生時の話と共に主に祖母(母の母)から聞かされた。後に母が手記を出すまで詳しいことは何一つ母の口から僕に語られることはなかった。」と書かれています。

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第7回では、前田さんの文書にある出産についても記述されています。「結婚から15年を経た昭和36(1961)年、母は懐妊した。母の体調は依然として不安定で、2カ月に入ってから出血を起こし入院したところ、医師から出産は難しいと告げられる。しかし母は、夫に父になってほしいという強い思いから文字通り必死に6か月間耐えてくれた。そうしてこの世に生を受けたのがこの僕である。1400グラム足らずの未熟児だった。

 大げさではなく、命を懸けて僕を産む決心をしてくれた母には感謝しかない。あの病弱な母のどこからその力が出たのか。『母は強し』というが、われわれは産んでくれた母という存在にもっと感謝しなければならないと思う。」

締めくくりとなる第8回では、「昨年の83日、東京混声合唱団の広島公演を指揮した。この日のプログラムの中心は、林光先生の「原爆小景」(原民喜の詩による)だった。

 東京混声合唱団は、1980年から毎年8月にこの曲を歌い継いでいる。僕が初めて指揮したのは20188月。その公演に寄せた文章の中で、初めて母が被爆者であったことを公に語った。そしてそれをなぜ封印していたかも。

 毎年8月が近づくとさまざまな媒体から取材が殺到し、幼い僕の目には、精神的にも体力的にも弱っている母親をまるで寄ってたかっていじめているように映って、そんな僕の様子を見た母が取材をお断りすることもあったようだ。

 しかし母の死後、母がテレビの取材に答えて『私が死んでも私の髪の毛は残る(母の抜け落ちた毛髪は原爆資料館に収蔵されている)。それが原爆の悲惨さを語ってくれる。しかしこの髪の毛がなくなってしまったら』と語っているのを見て、僕の中に新しい思いが芽生えた。

 文章は次のような言葉で締めくくられている。『私は音楽家です。言葉で発信するのではなく音楽に思いを乗せていくことができる。それが命をかけて産んでくれた母の思いに応えることになると』」。

長い引用になってしまいましたが、山下さんのことをもっと知っていたら、コンサートの音色も違って聞こえたのでは、との思いになっています。

いのちとうとし

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