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被爆者

2025年1月14日 (火)

労働組合の被爆者組織について教えて下さい。

昨年秋、東京の大学生Tさんから「下畠順三さんの話を聞いた時、職域の被爆者組織の話を聞いたのですが、そのことを詳しく教えていただけませんか」と要望があり一度計画したのですが、当日台風の襲来で急きょ東京に帰郷することになりのびのびになり、昨日ようやく実現しました。

10時に平和公園内のレストハウスで会い、私の書棚にある資料を基に作ったレジュメとコピーをもとに以下のような話をしました。

職域の被爆者組織は、全部で10団体ありますが、今回取上げたのは、1966年6月に結成された「国労原爆被爆者対策協議会」と、1968年10月に結成された「全電通広島被爆者組合員連絡協議会」(略称「全電通広島被爆協」)と1969年3月に600名の被爆教職員によって結成された「広島県原爆被爆教職員の会」の三つです。

労働組合は、原水禁運動の発足の初期からその運動に積極的に参加してきたのですが、「イベント動員型」に終わっていたことの反省から、日常的な労働運動の課題の一つとして労働組合内に作られたのが,職域の被爆者組織です。

「国労原爆被爆者対策協議会」を取上げたのは、労働運動史上初めての被爆者組織として結成されたからです。

1965年の定期全国大会で被爆者問題の特別決議がされ、「被爆の後障害で仕事に出られない職員(特に貧血症で苦しむ)が何人かいることを見過ごしにできない」と発足し、その後実態調査を行い「被爆者に対する待遇改善の申入れ」を行ったことから、活動が開始しました。

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全電通広島被爆協は、私に原水禁運動、被爆者運動とは何かを教えていただいた近藤幸四郎さんが中心となって結成した組織です。全電通被爆協の結成では忘れられないことがあります。

当時全電通には、「夏期手当の差別問題」がありました。その差別によって異常に手当が低い人がおり、当局に問うと「上司にも黙ってよく休んでいる」との答え。近藤さんが、本人に会い事情を質すと「原爆に遭い、肉親を失い、彼女自身、肝臓の機能障害や無力症候群で広島原爆病院に入退院を繰り返していた。被爆者であることが職場に知られたら首になる」と考えていたことが分かりました。「最も身近な職場のことを置き去りにしてきた。この女性のような悩みを持っている被爆者はまだ他にもいるのでは無いか」と準備会を結成し、被爆者調査を実施し、組織結成へと繋がったのです。

1969年3月に結成された「広島県原爆被爆教師の会」の中心であった石田明さんは、当時のことを書籍「被爆教師」で次のように書いています。

「われわれは、全国の教師とともに,勤務評定に反対し、一斉学力テストに反対し、安保条約に反対して行動してきたし、原水爆禁止運動にも参加してきた。しかし、その一方で、教師の最も重要な課題である教育内容の取り組みでは、力が抜けていたのではないだろうか。その最大のものが平和教育だと思う。だから、おとなが原水爆禁止運動を進めている片方で、ヒロシマに無関心な子どもたちが育っていたのだと思う」「行動を起こすのがおそすぎたくらいだ。ばらばらに生きている被爆教師が早急に一堂に知恵と力を出し合おう」

当然「広島県原爆被爆教師の会」も他の労働組合被爆者組織と同じように労働条件の改善も目的に掲げていますが、この組織特有の目的「被爆体験をもとにその使命を自覚し、原爆を中心とした平和教育の確立をめざす」と言う目的を規約の第2条に掲げているのが特徴です。

今回のTさんへのレクチャーは、労働組合被爆者組織について、学び直すよい機会になりました。日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースの中には登場しない被爆者組織ですが、原水禁国民会議の運動にとっては重要な役割を果たしたのが、労働組合被爆者組織であったことを忘れてはならないと思います。

もう少し理解を深めたいとTさんは、その後、コピーし手渡した資料の原本を見るため、原爆資料館の情報資料室に足を運びました。

いのちとうとし

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2025年1月12日 (日)

広島刑務所の土塀

吉島稲生神社の被爆樹木を見た後、すぐ北側にある広島刑務所所まで、足を伸ばしました。

広島刑務所の西側(本川右岸沿い)の道路沿いに、広島刑務所の土塀のモニュメントがあります。大きな塊ですので、左奥にある説明文を読まなければ、土塀の一部とは気づかないと思います。

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左奥の現在の塀に貼ってある説明板が写っています。

そこには、この土塀のモニュメントについて、次のように書かれています。

「広島刑務所の土塀(明治19年~平成30年) 広島刑務所の土塀は、明治19年、前身の広島監獄所の時代に、愛知県出身の左官服部長七氏により、土や砂を独自の配合で固めた『人工石』工法で建造されました。土塀は、今日に至るまで幾多の自然災害に耐え、さらに昭和20年8月6日,広島に投下された原子爆弾の熱線や爆風により、広島刑務所の建物は全壊しましたが、倒壊することなく耐え抜き、以降も広島刑務所の最後の砦として建ち続けてきました。広島刑務所の改築に伴い、この外塀がコンクリートの塀に変わっていく中で、地元住民の多くの声を背景に、保存が決定しました。」

この土塀のモニュメントは、頑丈さを誇示しているだけでなく、被爆石としての役割も持っているのです。

後ろに取り付けられた説明板には、写真も掲載されています。

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この写真の説明文は次のように記載されています。

「原爆の熱性によって影が残った塀。この入射角が空中の爆発点の、算出基礎となった」

写真をよく見ると、奥側の塀に、斜めの影がはっきりと写っています。空中の爆発点を確定させるため、この塀だけでなく他の多数の構造物に残った影から算出されたのですが、倒壊を免れたこの刑務所の塀の影も重要な算出基礎になったようです。

ところで吉島刑務所で思い出すのは、やはりこの刑務所内の独房で被爆した11人の強制連行された中国人被爆者のことです。

下の写真は、1993年5月に最初の強制連行された中国人被爆者として来広した張文彬さんが、この吉島刑務所を訪れ、広島刑務所の外壁を見上げている写真です。(広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会のホームページより)

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張文彬さんは、私にとって忘れられない中国人被爆者の一人です。張さんの真摯な姿が、その後の中国人被爆者招待の大きな力になったと私は思っています。

11月に来広され、私が平和公園を案内した中国人被爆者于瑞雪さんの遺族お二人も、私と別れた後、川原洋子さんの案内で、ここを訪れています。

そんなことを思い出しながら、広島刑務所の土塀のモニュメントを見て帰宅の途につきました。

いのちとうとし

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2025年1月11日 (土)

2025年最初の広島県原水禁常任理事会

広島県原水禁は、9日今年最初の常任理事会を開催しました。

主要な協議事項は、27日に開催する「広島県原水禁第94回総会」に提案する議案の協議でしたが、幾つかのテーマで理事の間で意見交換が行われました。

その一つが、昨年12月のオスロでの日本被団協のノーベル平和賞受賞式での田中熙巳代表委員によるスピーチで強調された「国家補償の被爆者援護法」をめぐっての議論です。

昨日の木原さんのこのブログ「被爆80年、改めて国家補償を考える」で、この問題が提起されていますが、原水禁常任理事会でもこの問題の口火を切っていただいたのは、木原さんです。論議の中心は、「国家補償とは何を言うのか」です。

この論議を聞きながら、幾つかの論点を整理しながら、論議を進めなければならないと感じました。

一つは、1994年12月に成立した「被爆者援護法」に対する当時の評価がどうであったのか。「被爆者援護法」が成立して、すでに30年以上が経過していますので、その当時のことを知る人が、県原水禁の役員でも少なくなっています。当時何を求め、何が不十分だったのかを、整理する必要があると感じました。

二つは、田中さんが言われる「国家補償」の中身は、何かです。当時もっともいわれていたことは、「原爆で命を失った死没者への国家による謝罪と補償」ですが、今後「具体的の要求としては、何を求めるべきか」をはっきりさせる必要があるように思います。

その中では、被爆者援護法に盛り込まれた「特別葬祭給付金」のまやかしも明らかにしなければならないと私は考えています。

三つは、国家補償の性格を持つ「被爆者援護法」ということが、在外被爆者裁判や原爆症認定訴訟、黒雨訴訟の判決でいわれていますが、そのこととの関連をどう考えるか,です。

いずれにしても、「被爆者援護法を国家補償法」にという主張は、原水禁も運動の柱にしていましたので、県原水禁として、これを機会に県原水禁として改めて学習会などを開催し、この問題への理解を深める必要があることを確認しました。

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昨年の総会

その他に総会へ提出する議案協議する(意見がある場合は、一週間後までに提出する)とともに当面する県原水禁の日程として次のことを確認しました。

ネバダ・デー座り込み 1月27日午後0時15分から 原爆慰霊碑前

第94回総会 1月27日午後6時から 自治労会館

今年の総会では、最初に「ノーベル平和賞授賞式報告会」を行い、ノーベル平和賞授賞式に参加した広島県被団協理事長(日本被団協代表委員)箕牧智之さん、第27代高校生平和大使甲斐なつきさんの現地活動報告を受けた後、「受賞の意義」についての講演を行うことにしています。

その他に、1月26日に広島被爆者7団体などを主催する「被爆80年・日本被団協ノーベル平和賞受賞記念エベント」への参加、10月5日、6日に開催される「核のない未来を 世界核被害者フォーラム」への協力などを確認し,常任理事会を終了しました。

いのちとうとし

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2025年1月10日 (金)

被爆80年、改めて国家補償を考える

が担当する2025年初めてのブログとなりました。どうぞよろしくお願いします。

被団協のノーベル平和賞で、「国家補償」ということが、クローズアップされています。原爆投下から80年を迎えた中で、国家補償をどうすれば形にすることになるのかということを考えていました。

「国家補償」とは、過去の補償、現在の保障、未来の保証の「三つのほしょう」という考え方だと思っています。特にこれから未来に亘って、核による被害者を作らないという「未来の保証」を国に求め、世界に訴えることだと考えています。

原爆二法と言われた「医療等に関する法律(医療法)」と、「特別措置に関する法律(特別措置法)」が、一本化され1994年12月に「援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されました。

この被爆者援護法が制定された翌95年に、大蔵省(現・財務省)令によって額面10万円の国債金が、亡くなった被爆者の家族に配られました。私もこの国債金を受け取りましたが、配布に対しては強い疑問を感じていました。しかし当時の政権が野党政権であったことなどもあり、被爆者団体はこの省令を受け入れ、その時から「国家補償による被爆者援護法」の制定運動は、急激に活動が低下していったと思っています。

そして2002年8月には、国の気持ちを現わす「国立広島原爆死没者追悼平和記念館(追悼記念館)」が平和公園内に建設されました。被爆者団体のリーダー的な役割を担っておられた人に、「これらの施策で過去の補償としてよいのでしょうか」と電話をしました。その人は「今しかチャンスはないのだよ」と、強い口調で語られたのを覚えています。

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日本被団協がこの国債を受け入れた時点で、内容は猛烈なる不十分ですが「過去の補償」問題は終わったとされても、ある意味仕方ないと思っています。国家補償を求めることは大切だと思いますが、それを再びお金で求めることに違和感を思うのです。

被団協の事務所に対し「まだお金を欲しいと要求しているのか」という、嫌がらせ的な電話が掛かってくるとも聞きました。

国の責任を明らかにする真の国家補償を明確にするには、現在の被爆者援護法の前文に、1956年の日本被団協の結成大会での、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはならない」との宣言を基にした文章を、明示することも国家補償の精神を組み入れることの一つの手段ではないかとも考えています。

米国の核実験被ばく者やウラン採掘に従事した人たちへの援護法として、被ばく者補償法(RECA)がありました。この法律は、昨年6月に失効されましたが、その考え方について合衆国議会は「(前略)国家安全保障の犠牲になったことを認める。議会は政府に代わって、これらの人々とその労苦に耐えた家族に対しおわびを表明する」と書いていました。この被ばく者補償法が完全なものだとは思いませんが、参考にする価値は在りだと思っています。

米国の核被害者団体では、RECAが失効したことに強い反対運動が起こるとともに、被団協が平和賞を受賞したことに、強い連帯のメッセージも寄せられています。

被爆80年の今年、ノーベル平和賞を実効性のあるものにするには、世界の多くの被ばく者たちとの連帯が必要なのではと思っています。その根底の考え方が「国家補償」の精神だと思う年明けとなりました。

今年1月の鹿砦社(ろくさいしゃ)カレンダーにあった言葉、「今日も笑顔で一歩前へ」で過ごしたいと思います。

木原省治

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2025年1月 9日 (木)

「核のない未来を!世界核被害者フォーラム」の記者会見に同席しました

「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(HANWA)とニューヨークで反核運動を行っている「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の2団体が主催し、被爆80周年の今年10月5日、6日の二日間広島で開催される「広島・長崎被爆80周年 核のない未来を!世界核被害者フォーラム」の概要を説明する記者会見が、7日の午後広島市政記者クラブで行われました。

今回の記者会見は、主催団体の一つである「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の共同創始者井上まりさんが、昨年末から帰国されたこの機会に開催することになったものです。

当初は、井上さんとHANWAの共同代表の一人森滝春子さんが、出席し会見を行うことになっていたのですが、体調が悪くなった森滝さんからHANWAの世話人の一人である私(HANWAには、個人として参加)に代理で参加するよう要請があり、急きょ参加することになりました。

午後1時からの会見は、HANWAの藤元康之事務局長が概要を説明、その後井上さんから「世界核被害者フォーラム」への思いが発表されました。

私も「森滝先生が、被爆30周年の原水禁世界大会で『核と人類は共存できない』という原水禁運動の理念を最初に発表されてから今年で50年。今この時期に全ての核被害者の問題を広島から発信することは非常に意味がある」こと哉「核兵器禁止条約で触れられていないウラン採掘など多くの核被害者の実態を明らかにし、救済への道を開きたい」など「世界核被害者フォーラム」の意義について発言しました。

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左が井上まりさん

開催まで9ヶ月あまりあること時期での記者会見でしたが、予想を超えるマスコミの参加があり、関心の高さを伺うことができました。

記者会見で発表した主な概要は次の通りです。

開催目的:世界の核被害者がヒロシマに集い、過酷な実態を世界に訴え、早期救済を目指します。さらに、核兵器廃絶、核と人類は共存できないことを自らの体験を通して訴えます。

ウラン採掘に始まり、核兵器や核燃料製造、核実験、劣化ウラン兵器、原発といったあらゆる場面で今も核被害者が生まれています。

米国による広島、長崎への原爆投下から80年、世界で核戦争の危機が高まっている今、私たちは核被害者とともに、核戦争は絶対に起こさせないという市民世論をまき起こし、世界の指導者に戦争反対、核兵器廃絶を強く要求します。

参加予定の核被害者:広島・長崎、ウラン採掘・精錬、核実験、原発事故、原発被曝労働、核廃棄物処理、劣化ウラン兵器などの核被害者で、海外から10名、国内から20名程度を予定。この他にZOOMやビデオメッセージによる参加もあります。

10年前の2015年にも広島で開催された「世界核被害者フォーラム」は実行委員会方式で開催されましたが、今回は上記2団体の主催で開催されます。

原水禁国民会議には、主催団体の一つである「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の井上さんから、昨年末呼びかけ団体としての協力要請がありました。井上まりさんには、谷事務局長や原水禁の代表が、NPT再検討会議や核兵器禁止条約締約国会議に参加した時、支援を受け、共同行動を行っていますので、呼びかけ団体になることを了解しています。呼びかけ団体としての協力要請は、日本被団協、原水協にも行われています。

今後も、「世界核被害者フォーラム」の準備状況については、このブログで紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2025年1月 7日 (火)

吉島稲生神社の被爆樹木

先月、修道学園の慰霊碑を見ることができなかったので、その後吉島稲生神社まで足を伸ばしました。吉島稲生神社は、吉島線のバス通りから西側に少しはいったところにあります。爆心地からは、2,160mの距離です。

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10年以上前には、この吉島稲生神社の近くのお店に何度も買い物に来たことがあったのですが、その時には、被爆樹木のことに強い関心が無かったため、気にすることもありませんでした。最近テレビ番組で、吉島稲生神社の被爆樹木が紹介されたことがあり、いつか見に行こうと思っていましたので、ちょうどよい機会だと訪れることにしました。

こじんまりとした境内ですが、5本の被爆樹木があります。

最大の被爆樹木は、拝殿と本殿の間に植わるクスノキです。

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この木は、高さは20.5m、幹回り3mという巨木で、「広島市指定保存樹」となっています。

本殿右横には、エノキが植わっています。

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この木も「広島市指定保存樹」で、高さは14.5m、幹回り2.1mの巨樹です。

鳥居の横には、ツバキが植わっています。

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花が咲いていてもよい時期だと思ったのですが、まだつぼみの状態でした。

広島市の被爆樹木リストには、この他にクロマツは2本登録されています。

そのうち写真に収めたのは、1本だけです。

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最初に被爆樹木は5本と紹介しましたが、急きょ訪れることになったため、5本ということを知らずに現地を訪れましたので、4本を確認しただけでした。帰宅後、広島市の被爆樹木リストを確認して初めて5本ということがわかりました。私が写すことのできなかったクロマツの写真が、広島市の被爆樹木リストに掲載されています。

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言い分けになりますが、この写真をよく見ると他の樹木覆われた感じですので、誰かに尋ねないと見つけることができないように思えます。近いうちもう一度、訪ねて確認しようと思います。

ところで、広島市の被爆樹木リストから、樹木の写真を検索すると次のような紹介文が目に入ります。

「被爆当時、吉島稲生神社の社務所はこれら境内の樹木に守られたため、倒壊を免れ、ここで被爆によって焼け出された人々の治療が行われました。」

この文章を読みながら、私が現地を訪れた時、不思議な思いで本殿の石垣の側面に貼り付けられた看板をみたことを思い出します。

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そこには次のように書かれています。

「原爆に耐えた吉島稲生神社 当本殿は、昭和2年2月に改築建立された。昭和20年8月6日の強い爆風で本殿の銅板屋根が浮き上がり南側の用水路に落下した。間もなく町民の手で,本殿の欠落した垂木を補い屋根を元通りに戻した。屋根のあまり丁寧でない細工を見ると当時の困難が偲ばれる。」

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よくよく本殿を見たのですが、私の目には、どの垂木か判然としませんでした。

吉島稲生神社の境内には、被爆の歴史を示すものがたくさん保存されていることがわかりました。

広島原爆戦災史第4巻には、16の神社の被爆状況が掲載されていますが、その中には吉島稲生神社は入っていませんので、これ以上被爆当時の様子を知ることはできません。

いのちとうとし

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2025年1月 6日 (月)

森滝日記

元日の中国新聞の1面トップ記事は、森滝先生の日記に関する記事でした。ちょっとびっくりの内容です。なぜ?トップ記事になったことはもちろんですが、先生が亡くなられて(1994年1月25日)から数年経った頃だったと思いますが、ある時、森滝春子さんから「あの日記が、見当たらないのです」と聞いていたからです。その後も何度も自宅を訪れたのですが、「見つかった」という話を聞いていませんでした。

どこにしまわれていたかは不明ですが、貴重な日記が見つかって本当によかったと思います。

8月6日から9月9日までの日記「さいやく記」,そして被爆前日の8月5日の日記を記述中に被爆にあい、インクが飛び散った跡、自らの右目に刺さったガラス片と同じようなガラス片が突き刺さった痕跡を残した被爆前まで記述された大学ノートの日記です。

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中国新聞2025年1月1日より

森滝先生の生前中に、自宅で何度も見させていただいた記憶がよみがえります。

森滝先生の自宅にあった資料は、現在広島大学公文書館に寄託され整理が進んでいますが、先生の日記だけは、春子さんの強い思いがあり、自宅に残すことになりました。日記類は、森滝家にとっても思い入れの深い大切なものです。

この日記は、1985年に発行された「ヒロシマ40年 森滝日記の証言」に世に知られることになりました。この本は、「さいやく記」の引用から始まります。かなり詳しく引用されていますので、これを読むだけでも、被爆直後の生々しい様子を知ることができます。

ところで、「さいやく記」の最後の記述となる9月9日は、森滝先生が、吉舎町(現三次市)敷地にあった星田眼科病院に入院された日です。

1988年に森滝先生と一緒に郷里君田を訪れた時、星田眼科病院まで足を伸ばしたことも思い出します。

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中国新聞の記事では、「さいやく記」が大きく取上げられていますが、私が強く印象に残っているのは、ガラス片が刺さった跡の残る大学ノートの日記帳です。

この二つの日記が、出てきということですので、近いうちに見せていただくため、森滝家を訪れようと思います。

被爆80周年の節目の年の元日にこの記事が掲載されたことに驚くと共に、もう一度原点に返ることの大切さを教えられた思いです。

いのちとうとし

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2025年1月 2日 (木)

2025年元日の平和公園

快晴に恵まれた今年の元日も平和公園に行ってきました。原爆資料館南側の駐輪場に自転車を止めて、慰霊碑を目指します。

最初に目に入るのは、原爆資料館1階南側にある地球平和監視時計です。

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広島への原爆投下からの日数を示す数字は、29003日になっています。被爆80周年という長さをこの数字は示しています。この日数は、被爆者にこれだけの長い間、苦痛を与え続けていることも示しています。

下側の最後の核実験からの日数は、232日です。アメリカが昨年5月14日に行った臨界前核実験からの日数です。

原爆資料館に入る人の姿が,途切れなく続いています。

原爆資料館本館下まで行くと、元日の午前9時45分頃ですが、多くの人が原爆慰霊碑を訪れているのが目に入ります。

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外国人観光客の姿が多いのが、目につきます。

原爆慰霊碑前では、毎年元日に花を献花する市民グループの人たちが、献花された花を撤去しています。

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この花は、この人たちが参拝者のために献花用にと手渡した花たちですが、「多すぎるので一部撤去して欲しい」との警備員からの指示で、撤去しているとのことでした。

この献花は、20年前の被爆60周年の年から始まったそうですが、一端献花した花をすぐに撤去するようにというのが、最近の広島市の指示だということでした。

今年初めて気がついたのですが、よく見るとお花の他に、鏡餅が供えられています。

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数年前から、お花と共に鏡餅を供えているということですが、置きっぱなしにするとカラスが食べに来るということで、この鏡餅もすぐに撤去されました。

このグループは、その後原爆供養塔と韓国人原爆犠牲者慰霊碑の二カ所に献花と鏡餅のお供えをするということでした。

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その二カ所に同行した後、私は、その後原爆ドームを訪れました。

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快晴に恵まれましたので、きれいな写真を撮ることができました。

その後一端帰宅し,改めてパートナーと散歩に出ました。

原爆慰霊碑前で写真家の長谷川潤さんから「午後1時半から原爆ドーム前で、午後3時半から原爆供養塔前で,被爆ピアノの演奏会が行われます」と教えていただきましたので、時間を合わせて午後1時半前に原爆ドームに行きました。

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原爆ドーム前の演奏だけ聴いて、移動しました。

2025年、被爆80周年は、快晴で、穏やかに一日で迎えることができました。

いのちとうとし

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2025年1月 1日 (水)

2025年 新しい年を迎えて

新年明けましておめでとうございます。

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今年も届いた田谷行平さんの絵馬

今年は、広島・長崎に原爆が投下されてから80周年を迎えます。

昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞で、被爆80周年の節目というだけでなく、核問題が世界から注目される年になります。

先人の運動の歴史をきちんと学び、今私たちにできることは何か、何をしなければならないか、しっかりとした目標を作ることが大切です。

原水禁国民会議としても昨年末以来、80周年ビジョンを作るための話し合いを続けています。核兵器廃絶に向けてどのような道筋をつけるのか、しっかりとした目標を定めたいと思います。

私自身も、この一年をどのように生きていくのか、問い続けています。果たさなければならない課題は、多くありますが、その中で私には、どうしても果たさなければならない大切な課題があります。

在朝被爆者の問題です。被爆者援護法が国外に住む被爆者にも適用されるようになって20年余りが過ぎましたが、今なお放置されたまま,何の援護も受けることができていないのが在朝被爆者です。

1992年に初めて訪朝して以来、何度も朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、多くの被爆者と面談し、お話を聞いてきました。特に、最後となっている2018年の訪朝では、朝鮮被爆者協会からその実態調査の結果を聞いてきました。それからでもすでに6年以上が経過しました。

日本被団協のノーベル平和賞受賞で被爆者が大きな注目を浴びましたが、その中で在朝被爆者問題が取上げられることはありませんでした。だからこそ、余計にこの問題が頭に浮かびます。

在朝被爆者問題は、待ったなしの課題です。そして忘れてはならない課題です。

一人でも多くの被爆者が生存されている内になんとしても、この問題の解決の道筋をつけなければなりません。それは私に課せられた課題でもあります。

被爆80周年、被害の実相を改めて思い起こさなければなりません。しかし、被爆80周年は、日本の侵略戦争終結80周年でもあります。そのことも同時に思い起こしていくことが今年の課題です。被害の前に加害の歴史があることを忘れてはなりません。

そんなことを思いながら、新年を迎えました。

今年も少しでもこうした問題に向き合うことのできるブログにしていきたいと思いますので、本年もよろしくお願いします。

いのちとうとし

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2024年12月29日 (日)

修道中学校職員生徒慰霊碑

日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースに接して以降、何人もの被爆者の皆さんのことを思い出しました。

その一人が近藤幸四郎さんです。近藤さんは、1974年の広島被爆者団体連絡会議発足に尽力し、その後亡くなる2002年まで、事務局長を努められました。私が接した多くの被爆者の中で、もっとも身近で,もっとも多くのことを教えていただいたのが近藤幸四郎さんでした。写真は、2001年12月6日の写真で、近藤さんのお気に入りの一枚で,小澤こうさんの写真集「2002ひろしま」の巻頭に掲載されています。

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1945年4月修道中学入学した近藤さんも、連日「学徒動員」にかり出されていました。8月1日から10日間の予定で、広島市役所裏の雑魚場町で建物疎開に従事していた近藤さんですが、作業効率が低下した生徒の姿を見かねた担任の先生が5日の作業終了後「疲れているから明日はゆっくり休め」と言い渡され、原爆が投下された8月6日は、自宅近くの御幸橋で友人と遊ぶことになり、命を奪われることから免れました。

前々から訪ねようと思いながら実現していなかった近藤さんが修学していた修道中学(現在の修道高校)の「修道中学校職員生徒慰霊碑」をこの機会に訪ねようと,学校が冬休みになった27日に中区南千田西町にある修道高校に行ってきました。

学校に着くと、許可を得なければと事務所を訪ねました。応対していただいた事務員さんから、予想もしなかった返事が返ってきました。

「今、修道学園創設300周年事業として本館建て替えなどの工事をしているため、わたしたちも慰霊碑に近づくことができないのです。」

そして、示されたのが「修道学園同窓会会報第90号」でした。

そこには、本館建て替え工事のための「慰霊碑」を移設させた時の写真やきれいに整備された広場の完成予想図が、掲載されています。

慰霊碑の移設は、4月19日から6月26日までに執り行われたようです。

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完成後の広場の中心に慰霊碑が建っています。

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「来年10月には、整備が終了しますので、あらためてきていただけませんか」とのこと。

残念ですが、今回は慰霊碑への参拝はあきらめるしかありません。

あきらめて事務所から外に出ると、向かい側に工事用の資材の間に慰霊碑の上部が見えます。作業の邪魔にならないよう遠くから写真を撮りました。

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蔵のような建物の左側に慰霊碑が写っています。

今回この碑を訪れようと思ったのは、近藤さんのことを思い出したことの他にもう一つ理由があります。

11月に開催された紙屋町シャレオ古本まつりで「修道学園史」を購入していたからです。「修道学園史」には、「動員・原爆」の項があり,約40ページにわたって詳細に記述がありますので、この本を手に訪れたいと思っていたからです。

「修道中学校職員生徒慰霊碑」めぐりは、学校整備が終わった来年10月頃に改めて行いたいと思います。

「修道学園史」に書かれた被爆の被害の実相はその時に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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