労働組合の被爆者組織について教えて下さい。
昨年秋、東京の大学生Tさんから「下畠順三さんの話を聞いた時、職域の被爆者組織の話を聞いたのですが、そのことを詳しく教えていただけませんか」と要望があり一度計画したのですが、当日台風の襲来で急きょ東京に帰郷することになりのびのびになり、昨日ようやく実現しました。
10時に平和公園内のレストハウスで会い、私の書棚にある資料を基に作ったレジュメとコピーをもとに以下のような話をしました。
職域の被爆者組織は、全部で10団体ありますが、今回取上げたのは、1966年6月に結成された「国労原爆被爆者対策協議会」と、1968年10月に結成された「全電通広島被爆者組合員連絡協議会」(略称「全電通広島被爆協」)と1969年3月に600名の被爆教職員によって結成された「広島県原爆被爆教職員の会」の三つです。
労働組合は、原水禁運動の発足の初期からその運動に積極的に参加してきたのですが、「イベント動員型」に終わっていたことの反省から、日常的な労働運動の課題の一つとして労働組合内に作られたのが,職域の被爆者組織です。
「国労原爆被爆者対策協議会」を取上げたのは、労働運動史上初めての被爆者組織として結成されたからです。
1965年の定期全国大会で被爆者問題の特別決議がされ、「被爆の後障害で仕事に出られない職員(特に貧血症で苦しむ)が何人かいることを見過ごしにできない」と発足し、その後実態調査を行い「被爆者に対する待遇改善の申入れ」を行ったことから、活動が開始しました。
全電通広島被爆協は、私に原水禁運動、被爆者運動とは何かを教えていただいた近藤幸四郎さんが中心となって結成した組織です。全電通被爆協の結成では忘れられないことがあります。
当時全電通には、「夏期手当の差別問題」がありました。その差別によって異常に手当が低い人がおり、当局に問うと「上司にも黙ってよく休んでいる」との答え。近藤さんが、本人に会い事情を質すと「原爆に遭い、肉親を失い、彼女自身、肝臓の機能障害や無力症候群で広島原爆病院に入退院を繰り返していた。被爆者であることが職場に知られたら首になる」と考えていたことが分かりました。「最も身近な職場のことを置き去りにしてきた。この女性のような悩みを持っている被爆者はまだ他にもいるのでは無いか」と準備会を結成し、被爆者調査を実施し、組織結成へと繋がったのです。
1969年3月に結成された「広島県原爆被爆教師の会」の中心であった石田明さんは、当時のことを書籍「被爆教師」で次のように書いています。
「われわれは、全国の教師とともに,勤務評定に反対し、一斉学力テストに反対し、安保条約に反対して行動してきたし、原水爆禁止運動にも参加してきた。しかし、その一方で、教師の最も重要な課題である教育内容の取り組みでは、力が抜けていたのではないだろうか。その最大のものが平和教育だと思う。だから、おとなが原水爆禁止運動を進めている片方で、ヒロシマに無関心な子どもたちが育っていたのだと思う」「行動を起こすのがおそすぎたくらいだ。ばらばらに生きている被爆教師が早急に一堂に知恵と力を出し合おう」
当然「広島県原爆被爆教師の会」も他の労働組合被爆者組織と同じように労働条件の改善も目的に掲げていますが、この組織特有の目的「被爆体験をもとにその使命を自覚し、原爆を中心とした平和教育の確立をめざす」と言う目的を規約の第2条に掲げているのが特徴です。
今回のTさんへのレクチャーは、労働組合被爆者組織について、学び直すよい機会になりました。日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースの中には登場しない被爆者組織ですが、原水禁国民会議の運動にとっては重要な役割を果たしたのが、労働組合被爆者組織であったことを忘れてはならないと思います。
もう少し理解を深めたいとTさんは、その後、コピーし手渡した資料の原本を見るため、原爆資料館の情報資料室に足を運びました。
いのちとうとし
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