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核兵器廃絶

2024年6月20日 (木)

ベトナムの歴史(その30-7) ― 原爆投下と枯葉剤 ―

20世紀を象徴する戦争被害

原爆(核兵器)と枯葉剤(化学兵器)は無差別大量殺戮と、その後長年にわたり放射能とダイオキシンによる健康破壊、その結果による死をもたらす究極の殺人兵器です。しかも、その被害は世代を超えて続き、使用はもとより製造・保有・威嚇が禁じられる非人道兵器です。

「20世紀は戦争の世紀だった」と言われますが、原爆と枯葉剤は20世紀を象徴する戦争犯罪(戦争犯罪被害)であり、いかなる「理由」があろうとも、二度と再び使わせてはならないものです。しかし、21世紀に入り四半世紀経た今も、戦争は絶えず、むしろ拡大の懸念すらあります。核の恫喝は繰り返され、その危機は一段と高まり、枯葉剤を含む化学兵器も使われ(疑われ)ています。

間もなくヒロシマ、ベトナムが迎える「あの日」

ヒロシマとナガサキは間もなく79回目の「あの日」を迎え、ベトナムは63回目の「あの日」を迎えます。ベトナムの「あの日」とは、枯葉剤がベトナム中部高原のコントウム省に初めて実験的に散布された1961年8月10日です。同年11月30日、ケネディ米大統領は正式に「ランチハンド作戦(枯葉剤作戦)」を承認し、1971年10月30日までの10年間、反復的にベトナムの人々の頭上と国土(主に南ベトナム)にまきました。

“ベトちゃんドクちゃん”が、「あの日」から20年後の1981年2月25日、コントウム省に生まれました。

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トリニティー実験  出典:ウィキペディア1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験

原爆投下に続き、枯葉剤作戦が準備されていた

日本にも枯葉剤作戦が準備されていたことをご存知ですか? ちょうど4年前、2020年7月5日付けの「ヒロシマとベトナム(その14)」被爆75周年-ヒロシマとベトナム戦争-を考える〔Ⅰ〕に紹介しましたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

アメリカは第二次世界大戦末期、2つのプロジェクトチームによる対日作戦の準備を進めました。一つはマンハッタン計画に基づき「リトルボーイ」を広島に投下したポール・ティベッツ大佐、「ファットマン」を長崎に投下したチャールス・スウィーニー少佐を機長とする原爆投下作戦です。

もう一つが、化学兵器作戦です。サリンやボツリヌス菌爆弾、炭疽菌爆弾などが候補に挙げられ、全爆撃作戦の20%を毒ガス爆弾の投下とし、毒ガス爆弾6万発以上を常に前線に供給できるような体制を整える計画です。

その中の一つが枯葉剤作戦です。大変な食糧危機に陥っていた日本の主要な農産物である米やサツマイモを枯らす細菌兵器の開発が進められ、B-29が実際に日本の耕作地にまきました。しかし、米やサツマイモは細菌に対して抵抗力が強く成功しなかったため、ベトナム戦争で2,4,5-T などとともに枯葉剤として用いられた2,4-ジクロロフェノキシ酢酸という枯葉剤の散布が計画されました。

B-29で編成された第1010爆撃隊が、約1,645㌧の2,4-ジクロロフェノキシを、1945年9月までに日本の水稲作付面積の10%を破壊するという計画は、その後1946年4月までの延長とともに水田の約30%を破壊する計画に拡大修正されました。そして、グアム島に集結したB-29を改造した枯葉剤散布機が待機しているなか、8月6日と9日の究極の戦争犯罪が強行されたのです。

下の地図をご覧ください。焼夷弾で焼き尽くされた東京、名古屋大阪をはじめ主要都市はもちろん地方都市への空襲に続き、広島・長崎への原爆投下。そして枯葉剤作戦です。その対象とされた地域は、赤丸の東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯でした。地図が示すように、日本列島のほぼ南半分にあたります。

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枯葉剤作戦は日本の無条件降伏により実行に移されることはありませんでしたが、原爆に続き枯葉剤攻撃まで計画されていた歴史的事実を消し去ることはできません。

2024年6月20日(あかたつ)

【編集者】「ベトナムの歴史(その30-7)― 原爆投下と枯葉剤 ―」は、2回にわけましたので、つづきを明日掲載します。

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2024年6月18日 (火)

第27代高校生平和大使結団式

一昨日16日の午前10時から中区のアステールプラザで第27代高校生平和大使の結団式がありました。

今年初めて茨城県での選出があり今年の高校生平和大使は、広島県、長崎県など18都道府県(昨年は17都道府県)に広がり、各地の選考で選ばれた高校2年生3年生の23名(昨年は、22名)が選ばれています。毎年のように今年も女子高生が多いのですが、今年は4名の男子高校生が選ばれました。また被爆3世は、長崎県の二人、被爆4世は、広島県から二人選出されています。

前日の15日に広島に集まった高校生平和大使は、広島に学ぶことからスタートです。

広島県原爆被害者団体副理事長で元資料館館長の原田浩さんの「広島の実相を学ぶ・被爆者の思いを聞く」、谷雅志原水禁国民会議事務局長の「NPT体制と核兵器禁止条約」の二つの講演を受けた後、平和公園に移動し、慰霊碑への献花、平和記念資料館の見学、碑めぐりなどが行なわれました。今年は、同行しませんでしたので、その様子を紹介することが出来ません。

結団式は、第26代高校生平和大使の五閑さくらさんの司会でスタートしました。

最初に高校生平和大使派遣実行委員会の小早川健共同代表が、過去の高校生平和大使の活動後の感想文を紹介しながら、期待する思いを込めてあいさつ。

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その後、連合広島、自治労広島県本部、平和運動センター、広島県原水禁、高校生平和大使を支援する会の豊永恵三郎さんが、来賓のあいさつ。私も広島県原水禁を代表し手、昨日のブログの内容を紹介しながらあいさつしました。

続いて、小早川共同代表から、一人ひとりに「核兵器廃絶と平和な世界を目指す高校生平和大使に任命します」という任命書が手渡されました。

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任命証を受ける広島県高校生平和大使の甲斐なつきさん

続いて、一人一人の決意表明です。

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広島県高校生平和大使の佃和佳奈さん

毎年感ずるのですが、とにかく立派な決意の表明です。

「それまで平和や核兵器のことに無関心でしたが、被爆ピアノの傷を見たとき、これは許せないと思うようになりました」

「高校一年から署名活動に関わってきた。そこで学んだことは、平和は人と人の繋がりでつくることが出来ると言うことです」

「未来の平和は、私たちの手で必ず作ります」etc

最後に長崎県高校生平和大使の津田凜さんが「被爆者の方の声を聞き、署名活動などの活動を通じて、核兵器も戦争もない平和な世界をつくるためにがんばります」と締めくくって全員の決意の表明は終わりました。

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その後全員での写真撮影をして、結団式は終了しました。

新しく任命された高校生平和大使は、それぞれの地域で「一万人署名活動」を取り組み、集めた署名簿を持って、8月18日から23日までの日程で、スイス・ジュネーブの欧州国連本部・軍縮代表部などを訪問することになっています。

今年も大いに活躍してくれると期待しています。

いのちとうとし

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2024年6月17日 (月)

学徒動員―さとうさんの疑問に答えて

昨日のブログ「広島平和記念資料館企画展『友達の記憶』」に、さとうさんから次のようなコメントが入りました。

「中一中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年の置き換えたのですか そういう断りがないのであれば 資料としての信憑性を疑います 出展中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年に置き換えたのですか そういう断りがないのであれば資料としての信憑性を疑います 他の事柄も疑ってしまいます」

さとうさんの疑問は、その通りですので、その疑問に今日はお答えしようと思います。といっても、私が新たな資料を提供するわけではありません。

言い訳になりますが、実は、「中一中二の少年少女」と書いたのは、関千枝子著「ヒロシマの少年少女」を参考にしたからです。関さんは、当時県立第二高等女学校の2年生で、当日建物疎開の動員に行く予定でしたが、病気だったため建物疎開作業を休み、爆心から南に3.1キロの自宅で被爆し、死を免れました。そのことにこだわり、「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ旧友たち」を著わすと共に、学徒動員で失われた中等学校の生徒の悲劇の問題を追及してきた人です。

そんな人の著書でしたので、断り書きも無くその一部を引用してしまいました。

さとうさんのコメントを見て、改めて関さんの「ヒロシマの少年少女」を開くと、「当時建物疎開に出動していた学校(平和記念資料館2004年調べ)」の一覧表が掲載されていました。

そこで思い出したのが、この時期確か平和記念資料館が「動員学徒」の企画展を行ない発行したパンフレットがあったことです。平成16年(2004年)に発行されたものが、すぐに見つかりました。

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以下パンフレットの中から、必要な資料を紹介します。

まず、動員学徒原爆犠牲者を出した学校の一覧です。

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建物疎開作業だけでなく軍需工場への動員も含まれています。国民学校、中学校、女学校、工業師範学校御、文理科大など多様な学校名が並んでいます。

同じパンフレットに当時の学校制度でも掲載されています。国民学校を卒業すると複雑な学校制度になっています。

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確かにさとうさんの指摘のように、中一、中二だけではとても表現できません。

次は、動員学徒のうち最も犠牲が大きかった建物疎開作業を行なっていた学校です。

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建物疎開作業が行なわれていた場所の地図です。

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この写真には次のような説明文が付いています。

「1945年(昭和20年)7月の広島市の空撮に,8月6日当日の建物疎開作業を行なっていた場所を示しています。はっきりと防火帯が形成されてきた現在の平和大通り付近では、国民学校高等科や中等学校1・2年生を中心とする40校が出動し、作業にあたっていました。」

とここまで書いて気になりましたので、「8月6日に建物疎開作業を行なっていた学校」の一覧表で、現在の平和大通り付近と思われる作業場所ごとの学校数を数えてみました。すると何度も数え直したのですが、県庁付近(天神町、材木町、中島新町、水主町)11校、土橋付近(堺町,西新町、小網町)11校、鶴見橋付近(鶴見町、昭和町)12校で、合計34校にしかなりませんでした。

一つの学校で複数箇所(例えば、崇徳中学は県庁付近、土橋付近、八丁堀付近、楠木町の4カ所)という学校もありますが、40校というのは、建物疎開を行なっていた学校の数でした。数字はなかなか難解です。

このパンフレットによれば、1945年8月6日に動員された学徒は、約26,000人で、このうち約7,200人が原子爆弾で亡くなったと記しています。うち5カ所の建物疎開作業にでていた生徒は、悲惨を極め、約8,200人が動員され、約5,900人が亡くなったと記しています。

広島平和記念資料館が調べた数字ですので、一応正しいと思い「さとうさん」の疑問に答えたいと思い紹介しました。

しかし、関さんは、「ヒロシマの少年少女たち」の中で、この数字に対しても疑問を呈していることを紹介して,さとうさんのコメントの一応の答えとしたいと思います。

いのちとうとし

【編集者】全ての図表や写真は、クリックして拡大して見て下さい。

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2024年6月16日 (日)

広島平和記念資料館企画展「ともだちの記憶」

広島平和記念資料館東館1階で3月1日から開催されている企画展「ともだちの記憶」に行ってきました。

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1945年8月。広島市では全市をあげて建物疎開が行なわれており、その中心である100メートルの防火帯(現在の平和大通り)鶴見橋西詰から土橋までに約5000人が、それ以外の作業地を加えると8000人以上の中一、中二の少年少女が働き、そのうち約6000人が原爆によっていのちを奪われました。

企画展の「はじめに」には次のように書かれています。

「ヒロシマを生き残った中学生には、死んだ友達に対する後ろめたさのようなものがあります。街を歩いているとき、愛する人と手をつないでいるとき、子や孫の成長を目にしたとき、親の老いを感じたとき、ふっとあの日のことがよみがえってくるからです。

今回のきかく展では、遺品や絵・証言により、少年少女の生死を分けた状況や、生き残った生徒の苦しみや負い目、そして友を思い、鎮魂の願いを込めて残した記憶を紹介します。(以下略)」

展示は、3部の構成になっています。

第1部「ともだちとの日々」は、「少女たちの日記/8月6日の朝」で構成され、「少女たちの日記」では、広島第一県女の同じ1年4組だった石崎睦子さんと梅北トミ子さんのかけがえのない日々を綴った日記が展示されています。

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友達と過ごすかけがえのない日々を綴った4月6日から8月5日までの日記が,紹介されています。

第2部は、「生死をわけて」です。

切明千枝子さんの絵が引き延ばして展示されています。

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「空が二つに分かれて」とタイトルの付いたキャプションには、切明さんの言葉が次のように書かれています。

「8月6日の夜は忘れられやしません。空がくっきり分かれていて不思議でした。西の空は真っ赤で、東の空は星空でした。たくさんの流れ星を見ながら、先生やお友達のたましいもあるのではないかと思い、涙を流しました。」

この絵は、この展示会のチラシ、会場で配布されるパンフレットの表紙にも使われています。

この第2部「生死をわけて」は、「友達と一緒に亡くなる/消えた友達/友達を亡くす/友達に助けられる/友達を助ける/友達の逃げる/友達を助けることが出来なかった」で構成されています。

「友達を亡くす」には、元資料館館長だった高橋昭博さんと山本達也さんのことが記されています。

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高橋昭博さんが描いた絵とともに「『泣くな!』『しっかりしろ』といって山本君を叱り、励ました」という手記が書かれています。山本達也さんは、なんとか家に帰りつきましたが、9月16日に亡くなりました。

第3部は「生き残って」は、「友達の安否/手作りの慰霊碑/広島初の追悼文集/癒えない傷/負い目の日々/消息を追って」で構成されています。キャプションに生き残った人たちの思いが書かれています。

「かろうじて生き残った中学生たちも、心と体に深い傷を負いました。学校に戻れず退学したこと、原爆病に倒れたこと、中でも一番つらかったのは、友達のお父さんお母さんに会うことでした。昨日まで、机を並べて勉強し、作業に励んだ友達との別れは、彼らの心に深い根を下ろし、何十年経っても忘れることは出来ませんでした。」

私が特に注目したのは、「広島初の追悼文集」です。

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「広島初の追悼文集」は、1946年に県立広島第一中学校と県立第一高等女学校の生徒39人が、犠牲となった一中の35学級の生徒のために手記を寄せて発行されたものです。

上の写真の一番右側が「泉 第一集 みたまの前に捧ぐる」です。こんなに早く発行されたのには、ちょっと驚きました。その他に2冊並んでしますが、この2冊は、ずっと後(2集は2012年、3集は2015年)に、浜田平太郎さんが、著/編集されたものです。

浜田さんのことが気になりましたので、少し調べてみました。

浜田平太郎さんは、当時県立広島一中の3年生でしたが、肺の病気を患い、復学したばかりで,8月6日は高熱で建物疎開の作業をやすみ、爆心地から5kmの古田の自宅にいて助かったそうですが、生き残った負い目から、あの日の記憶をしまって生きてきたそうです。第一県女の1年生だった妹の孝子さんは、小網町で建物疎開作業中に被爆し、避難していた己斐小学校で探しに来た兄の平太郎さんに見つけられ自宅に帰ることが出来たのですが、翌7日の午前5時に亡くなりました。(中国新聞2013年1月28日記事より)

毎日多くの修学旅行生が、平和公園を訪れ、広島平和記念資料館に入館しています。最後の展示となるこの企画展「ともだちの記憶」もじっくりと見て欲しいと展示です。しかし残念なことですが、時間の制約があるのでしょう、通り過ぎる子どもが多く、見ている子どもたちがいても、駆け足のような気がします。

9月10日まで続きますので、ぜひ行ってみてほしい企画です。

いのちとうとし

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2024年6月11日 (火)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会と高校生平和大使

広島県原水禁は、6日の午後6時から自治労会館で「被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会」を開催しました。

結成総会は、秋葉忠利県原水禁代表委員のあいさつの後、5月26日に45人の応募者から選ばれた今年の高校生平和大使3人から決意表明を受けました。

3人は、甲斐なつきさん(広島市立基町高校),佃和佳奈さん(福山暁の星女子高校)、沖本晃朔さん(AICJ高校)で、いずれも高校2年生です。

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あいさつするのが甲斐さん、左に佃さん、沖本さん

「被爆者の思いを世界に伝えたい」「平和な世界を待つだけでなく,声を上げ続ける」甲斐さんと沖本さんは、被爆4世です。

毎年のことですが、力のこもった決意表明には、参加者から大きな拍手が送られました。

この1年間の活躍を期待したいと思います。

高校生平和大使のあいさつが終わると原水禁世界大会結成総会の協議に入りました。

結成総会には、毎年中央から代表が参加し、情勢報告を行なっていますが、今年は,4月の原水禁国民会議総会で新しく共同議長に選ばれた染裕之原水禁世界大会共同実行委員長に参加していただきました。

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染さんは、自治労東京都本部執行委員長などを務めた自らの経歴を紹介しながら、まず原水禁運動を取り巻く情勢(核抑止論の問題点、核兵器禁止条約(TPNW)、核拡散防止条約(NPT)など核軍縮/廃絶の国際的動き、高校生平和大使の活動、連合などと連携して取り組む課題、経過など)を報告されました。その上で、新しい戦前と言われる,岸田内閣が進める大軍拡路線について、2012年安倍政権誕生以来の軍拡の流れを紹介し、特に今年4月の岸田訪米によった「アメリカが進める軍事戦略に日本が全面的に応ずる危険性」が強まったこと強調し、私たちの運動の役割が重くなっていることが提起されました。

その後、広島県実行委員会の大瀬事務局長から、大会日程,広島県実行委員会の取り組みについて、提起しました。

日程など主な確認事項は次の通りです。

被爆79周年原水爆禁止非核/平和行進

東部コース 7月27日~8月3日

北部コース 7月30日~8月2日

西部コース 8月1日~8月3日

*厳しい暑さの中での行進となるので、従来の時間にこだわることなく各地区で工夫して取り組む。

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会

8月4日

開会総会 午後5時から午後6時30分 県立体育館

   午後3時40分から平和公園から県立体育館への折り鶴平和行進を実施。

8月5日

分科会 午前9時30分から12時30分

 テーマ:平和と核軍縮(2分科会),脱原発、ヒバクシャ(ヒバクシャと被爆二世)、ヒバクシャ(世界のヒバクシャ),見てきて学ぼうの6分科会

フィールドワーク 大久野島バスツアー、西松安野中国人強制連行・被爆の歴史ツアー

ひろば 午後2時から午後4時半 子どもの広場など5つ

8月6日

国際会議 午前9時から10時半 広島県民文化センター

まとめ集会 午前10時30分から11時 広島県民文化センター

今年は、国際会議に出来るだけ多く参加してもらうと言うことで、まとめ集会前に同じ会場で開催することになりました。

これらの提起を受け、全体の日程を確認し、大会を地元として成功させるため、今年も会場係など運営にあたって各労働組合各地区労の協力を得ることが確認され,実行委員会は終了しました。

大会の詳細は、後日紹介したいと思います。

なお、大会実行委員会結成総会に先立って開催された県原水禁常任理事会では、5月に行なった「福島原発視察」の報告と広島市が8月6日の「平和祈念式典」にロシアとベラルーシに対し招待状を送っていない問題について「全ての国に招待状を送るよう」申入れることを確認しました。

いのちとうとし

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2024年6月 6日 (木)

2024年度広島県被団協総会ー熊田哲治新事務局長を選出

「福島原発視察報告その5」を掲載する予定でしたが、3日に参加した広島県原爆被害者団体協議会総会について、報告したいことが出来ましたので、掲載予定を変更することにしました。

広島県原爆被害者団体協議会(箕牧智之理事長)は、3日の午前10時30分から平和ビルで2024年度総会を開催しました。私も広島県原水禁の代表として参加し、来賓のあいさつをさせていただきました。

箕牧理事長は開会あいさつで次のように述べました。

「原爆投下から79年,健康不安の中で暮らしてきました。戦争反対・核兵器反対を訴えてきましたが、いまも世界では戦争が絶えません。ガザの食を求める子どもたちの姿を見ると涙を禁じ得ません。今まで以上に声を上げていきましょう」

箕牧理事長の思いは、総会議案書では、「基本の考え」として議案書冒頭に提起されました。その最後の部分を紹介します。

「本当に長い間私たちは、訴え続けてきました。来年で被爆から80年。よくぞこれまで頑張ってきたものと思います。私たちは命あるかぎり『核兵器はいけん,無くさにゃあ

』と声を上げ続けていく覚悟ですが被爆者の願い、そして県被団協の運動を,徐々に二世や私たちの思いを継いで活動する人たちに託していくことも考えなければなりません。」

この「基本の考え」に示されたように、今総会では新たに被爆二世の熊田哲治さんが、事務局長に選任されました。被爆二世が事務局長に就任するのは、被団協結成以来初めてのことです。熊田さんは、広島県原水禁の常任理事でもあります。

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就任のあいさつをする熊田新事務局長

他にも多くの被爆二世が役員に選出されましたし、質疑の多くも被爆二世に関するものでした。被爆二世が県被団協の運動を継承しになっていく時代に入ったと感じました。

熊田新事務局長の誕生に伴い、2016年から8年間にわたって事務局長を務めてこられた前田耕一郎さんが、体調の問題もあり被団協役員を退任されました。非被爆者である前田さんにとって事務局長としての任務には様々な苦労があったと思います。心からご苦労様でしたと申し上げたいと思います。

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議案を提案する前田前事務局長

今年の総会で特に強く印象に残ったのは、植田雅軌副理事長(呉原爆被害者友の会)の閉会あいさつでした。「会議終了の予定の時間が過ぎているが、どうしても話させてください」といって次のように訴えかけられました。

「被団協の基本的な目的は、核兵器を世界からなくすこと、被爆者の援護であったはず。原爆投下の原因は、戦争。戦争がなければ広島の原爆はなかった。そのたった一発の原爆で悲惨なことになった。

昨年のサミット。資料館をちょっと見ただけ。きちんと全体を見て欲しかった。被爆者の話もただ一人の話しを聞いただけ。腹が立った。原子雲の下で何が起きたか見て欲しかった。そしてその後、原爆の苦しみを受け続けた人がいることを。いま核兵器を使えば、遙かに大きな被害がでる。戦争をしないための話し合いをなぜしないのか。アメリカは助けてはくれない。アメリカにきちんと話して欲しい。」

いつお会いしてもにこやかにあいさつをしていただく植田さんの怒りの訴えが、本当に心に響きました。改めて、広島県被団協の運動の歴史を思い、その思いを引き継がなければと決意をした広島県被団協総会でした。

いのちとうとし

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2024年5月21日 (火)

アメリカ臨界前核実験に抗議する慰霊碑前座り込み

核兵器廃絶広島連絡会議(連合広島、広島県原水禁、広島県被団協など11団体)は、昨日(5月20日)の午後0時15分から30分間平和公園慰霊碑前で、アメリカが14日にネバダ核実験場で行なった臨界前核実験に抗議する座り込みを行ないました。

座り込み開始に当たって連合広島の大野会長があいさつを行ないました。「バイデン政権下での3回目の核実験。バイデン大統領が、昨年5月に資料館を見学し、被爆者の話を聞いた後、芳名録に『世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日向けて,ともに進んでいきましょう。』と記帳したのは一体なんだったのか。絶対に容認できない。強い思いで座り込みを行ないましょう」。

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5月とは言えない暑さの中ですが、30分間の無言の座り込みが続きます。座り込みを終了する直前、広島県被団協の箕牧智之理事長が、被爆者の思いを訴えました。

「今の気持ちは、煮え湯を飲まされるような感じです。私の頭が割れるほど興奮して腹立たしい思いがしています。岸田首相は、アメリカに対して苦言を申入れるべきです。G7サミットからちょうど一年、プリンスホテル、平和公園、宮島での行動はただのセレモニーだったのかと問いたいです。しかも今後もたびたび実験を続けるとの発言。世界のリーダーであるべきアメリカがその態度では、他の保有国も静観しないでしょう。核兵器は絶対に使ってはいけない最高の狂気です。世界の政治家は何故理解を示さないのでしょうか。日本政府も米国に対して忠告できないものですか。今日は、怒りを持って訴える座り込みになったと思います。」

箕牧さんの訴えの後、参加者全員で慰霊碑に向かって1分間の黙祷をし、最後に核兵器廃絶広島連絡会議として、アメリカ大使館に抗議文を贈ることを確認し、抗議の座り込みを終えました。参加者は、59名でした。

府中でも抗議の座り込み

夕方、府中の小川敏男さんから、「府中市でも市役所前で12か時ら12時30分までの30分間,15人の参加で抗議の座り込みを行なった」ことが写真と共のメールで送られてきました。

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ところで、私は、座り込みの前日の19日に、資料館の地球平和監視時計が、リセットされたかなと見に行きました。着いたのは、11時半頃だったのですが、まだリセットされず、2021年9月16日にアメリカが行なった臨界前核実験以降の日数「976」の表示のままでした。

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外から写したのですが、監視時計のすぐそばに知り合いの資料館職員の姿がありましたので、「いつリセットするのですか」と聞いたところ,「今日の正午に石田館長が行ないます」とのことです。少し時間がありましたが、せっかくだからリセットを見ようと、周囲を散歩した後改めて資料館を訪れました。

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今年4月に新しい館長に就任した石田館長によって「最後の核実験からの日数」は、「0005」(514日からの通算日数)にリセットされました。

皮肉なことですが、この日5月19日は、広島でサミットが開幕してちょうど一年ということで、「首脳等が記帳した芳名録や首脳会議で実際に使用された円卓・椅子などを展示」する「G7広島サミット記念館」の開館セレモニーが、この「地球平和監視時計」のリセットとほぼ同じ時刻に行なわれました。もちろんバイデン大統領の芳名録も展示されています。

湯崎知事や松井市長には、この皮肉をどう感ずるのか尋ねてみたい思いでした。

いのちとうとし

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2024年5月11日 (土)

在ブラジル被爆者と岸田首相の面談

去る5月4日に行なわれた在ブラジル被爆者と岸田首相の面談の様子について、在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんからメールが届きました。本人の了解を得ましたので、そのまま全文を掲載します。


この4日の岸田首相サンパウロ訪問での我々被爆者との面会については、各新聞社が掲載記事を出していますので様子はご存知の事と存じます。

只、この件が決まるまでは、中々はっきりとした日程・時間が変わりまして最後まで落ち着きませんでした。

一度は、キャンセルと言う事までありましたが、岸田首相の思いと考えますが、どうにか短い時間での面会が出来ることが決まり安堵しました。

こちら秋とは言え連日の真夏日でした。

私は、息子が車で会場まで送ってくれましたが、会場に入る為に道一杯に並んで大勢の人達がいるので離れた所で車を降りて会場に行きました。

私達招待者は、別入口より責任者が誘導して下さり入りました。

一般の人は、セキュリチーチェックが行われていました。

会場は大勢の人と熱気であふれ日伯の国旗を持ち、岸田首相の到着されると、両国旗を振りながら声を出してお迎えし、しばし平和ムードがあふれていました。

歓迎セレモニーが終わるまで私達(森田隆氏、盆子原国彦氏、渡辺淳子、斎藤綏子さんの招待4人)は、特別設置スペースで待っていました。

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左から盆子原さん、森田さん、渡辺さん

 当日は、被爆者4名、と広島県人会4人ずつの招待者で、最初に我々4人の被爆者が先に面会いたしました。私達の面会が終わってから、広島県人会の招待4人が入りました。

そのルームには、赤白の幕が内部に張られて前中央に岸田首相様の椅子が有り右横に私達4人の椅子と左横に椅子が同じくありました。

岸田首相が入ってこられまして私達は立ち上がりまして挨拶致しました。そのまま、皆座らずに首相が話され始めて(面会時間は2分と綏子さんには領事館よりと言われていたそうですが、私は只短いと言う事しか知りませんでした)。結局、5分くらいの時間だったそうです。

首相のお話は、まず、我々が今まで被爆者として、ブラジルでの平和活動を続けて来られた事を自分は聞いて存じていますと言われ、我々への労いのお言葉を頂きました。

次に、森田さんが自分のポルトガル語の自伝本を渡され、綏子さんがその内容の説明をされました。

次に渡辺が、在ブラジル被爆者協会30周年記念として出版しましたと言う事をお話して、「南米在住ヒバクシャ魂の叫び」の本をお渡ししましたら、ぱらぱらとめくってくださって、「日本語ですね、これなら読めるから後で読ませて頂きますと仰いました。

次に、盆子原さんから、お願いが有りますと問いかけて、「核兵器禁止条約への加入をお願い致します」と言うと、首相は、「まずは、核保有国を条約に入れる努力をする必要があるので努力しています」等のお話をされました。

そして、首相より、森田さんもう一度と言われ、握手されました。

そして、これからも健康に気をつけてお暮しくださいと言うようなお話をされたと思います。

その後、私は、首相にお体には気をつけて下さい、そしてもう一度お目にかかりたいと思いますと言いましたら微笑んで頂きました。

その後皆がそれぞれ同じような事を言われたように思います。

それで我々4人は外に出ました。

入れ替わりに、広島県人会4人が入室しました。

ルーム前に総合写真を撮るための椅子がそろえてありました。

中央に岸田首相の名前が有り、向かって右側我々被爆者4人が座り、左側に広島県人会4人が座り記念撮影がされました。

それで終わりました。

以上が岸田首相面会時の流れです。

総合写真は、先ほど領事館へ問い合わせましたら、連絡が来たらお知らせしますとの返事が来ましたので、

写真が届きましたら又、ご連絡いたします。

只、面会前、特別スペースに入る前に私達3人が撮った写真が有りますのでお送り致しますのでご覧頂ければと思います。

会場となった建物は、名称「ブラジル日本福祉協会」と言い、我々は普通「文協」と言って親しんでいます。

1955年に創立されました。移民資料館、大講堂、など色々な活動の場が設けられています。


【編集者】文中の「斎藤綏子さん」は、森田隆さんの娘さんで、掲載した写真は斉藤さんが写されたと思われます。

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2024年4月27日 (土)

ユーカリの木はいつ日本に来た

先日、2021年11月17日のブログ緑の伝言プロジェクト「被爆樹木めぐり」余話: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com) に「ある岡山県人」さんから次のようなコメントが入りました。

「すでにご承知のことかもしれませんが、井伏鱒二の「鶏肋集」(昭和11)という自伝のなかに、鱒二の祖父が広島に遊学して故郷の村にユーカリの苗を持ち帰ったという話が出ています。鱒二はそれを80年前のことと書いているので、それが本当なら江戸時代のことです。もしかして広島には江戸時代からユーカリがあったのかも。」

広島城跡の被爆ユーカリの由来について書かれたものではありませんが、「広島には江戸時代からユーカリがあったの?」と、ちょっと興味がわきましたので、調べてみることにしました。

ずいぶん前のブログへのコメントですので、このコメントは公開し,お礼のコメントはメールで返信しました。

「貴重は情報提供です。

私は、井伏鱒二の『鶏肋集』を読んだことがありませんので、なんとも言えないのですが、この広島城のユーカリに関しては、次のような情報もあります。

『オーストラリア原産のユーカリが、日本に入ってきたのは明治時代。葉の形が特異なことなら全国各地で珍重され、記念樹的な存在だったらしい。広島城跡に植栽された理由は定かではないが、旧日本軍の大本営が置かれていたことに何か関係しているのかも知れない。』(雑誌Grande40号「黒焦げからよみがえり,容姿を変えて生き続けるユーカリ」文:舟木正明)

この記事によれば、ユーカリが日本に入ってきたのは明治時代と言うことになりますので、『江戸時代』というのはどうでしょうか。もう少し他の文献を調べてみる必要がありますね。」

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このメールに対し、

「貴ブログの本題とは関係ないようなコメントにお返事いただきおそれいります。

少し前に広島へ行って偶然に被爆ユーカリを目にし、最近井伏などのことを調べていて

偶然に『鶏肋集』の記述を見て、その関係で貴ブログにも偶然気づき…というわけです。ご参考までに『鶏肋集』の画像を添付します。」

添付された「鶏肋集」には次のように書かれています。

「会葬の後、はじめて私は親戚の人に教えられたが、祖父は十五歳のとき江戸に出て修業するつもりで出奔したそうである。すぐに追手が差向けられ、岡山の親戚に立ち寄ったところ、捕まった。それで後になって長崎や廣島で、何の勉強をしたのかしらないが何か学問を修業してきた。その記念に廣島から持って帰ったユーカリの樹の苗は、八十年後の今日、一本は窪田さん宅跡に生え一本は仁吉という人の宅跡に生えている。」

「鶏肋集」は、昭和11年(1936年)に初出の本です。井伏が書いている「八十年後」を逆算した80年前は、嘉永3年(1850年)ということになりますので、「ある岡山県人」さんが指摘された「江戸時代にユーカリが広島に育っていた」ということになります。

しかし、平凡社の「世界百科事典」には「ユーカリが日本に輸入されたのは明治10年ごろで、津田仙が植えたものが東京付近に広がった」と記されていますし、昭和30年代(論文にはきちんとした年数が書かれていない)に発表された「明治時代における外国樹種の導入について」(肥後芳尚)では、「明治7年 墺国博覧会からの帰途,仏国マルセーユ港よりユーカリの種子を持来たりて、これを繁殖した」と記されています。(墺国は、オーストリア)いずれも雑誌Grande40号で舟木正明さんが書いておられる「オーストラリア原産のユーカリが、日本に入ってきたのは明治時代」を証明するものばかりで、井伏が言う「江戸時代にユーカリが廣島に育っていた」ことを証明するものを見つけることはできませんでした。

ユーカリは成長の早い木だと言われていますので、井伏は、大きく育ったユーカリの木を見て、ずいぶん前に植えられたと思ったのでしょうか。

いのちとうとし

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2024年4月12日 (金)

「イペの花の下の被爆者」在ブラジル原爆被爆者協会資料展―その2

7日のブログ(「イペの花の下の被爆者」在ブラジル原爆被爆者協会資料展: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)のつづきです。

資料展の中で最も重要な資料は、1988年秋に在ブラジル被爆者協会が、南米各地に散らばる被爆者に届けた「在南米被爆者調査」の調査結果報告です。

当時、ブラジル、ボリビア、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーの南米5国の被爆者188名に対し協力を求めて調査用紙が送付されました。

この調査用紙には、「この調査書は、被爆者の支援のための大事な資料とする」と記した後、在ブラジル被爆者協会の理事長だった森田隆さんは、以下のように記しています。

「日本では今、大国となり世界各国ヘの借款、難民救済、その他に多額の援助をしておりますが、海外に居住する被爆者は、国内の被爆者とも差別され医療手当もありません。

現在南米諸国は最悪の経済事情下に有り、日本から巡回医師団が派遣され、要治療の被爆者が居ても、日本に帰国治療することは勿論,移住国内での医療費にも事欠くような状態です。」

広島の在南米被爆者への健診事業が開始されたのは1985年から(北米は、1977年に健診事業が開始された)ですが、この健診事業では、被爆者の医療への不安を解消することはできないということを森田さんの言葉は示しているといえます。

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この調査用紙で私が興味を持ったのは、調査項目です。全部で35の設問がありますが、次のように9つのカテゴリーに分類されています。

①基本情報

②被爆当時の健康被害

③被爆当時の体験と家族の被害

④その後健康と生活への影響

⑤家族への被害(昭和21年以降の死没者)

⑥現在の健康と生活の状況

⑦被爆者としての苦しみと生き方

⑧核兵器廃絶と援護法制定

⑨被爆者・被爆二世のこと、海外移住

特に私が注目したのは「⑧核兵器廃絶と援護法制定」の項目です。ここには次のような文章が付け加えられています。「日本は戦後、国策である国民の海外移住を再開し、多くの人々を南米に送り出しました。広島、長崎での被爆者には、被爆の日から健康に多くの問題がありましたが、移住した被爆者のほとんどは、役所で被爆者であるかどうか確認されないまま、移住を許可されました。」

援護の対象から置き去りにされた海外移住被爆者の無念の思いが伝わります。「核兵器廃絶」の問題を問いかけられていることに1980年代の核廃絶世論の高まりが反映されたものではと感ずるのは私だけでしょうか。

以下に若干の調査概要を紹介します。

1989年3月までに返送された回答は139名で、約75%の回答率です。被爆地は、広島62%、長崎38%。被爆者健康手帳の所持しているのは32%です。当然のことですが、何らかの被爆者手当を受給している人は0です。「どれも受けていない」と回答した131人の内、受けていない事情で一番多いのは、「手当のことを知らなかった 43」「申請が認められなかった 30」の二つです。当時の在外被爆者(特に在南米被爆者)に対する援護の状況がよく分かります。

この手当の問題が、在外被爆者にも認められるようになるまでには、この時から14年の時間を要することになります。

この資料展を見ながら、長い間放置された在外被爆者への援護の実態に対し改めて責任を感ずることになりました。

この資料展は、5月17日まで開催されていますので、会場で資料と向き合い、在外被爆者が置かれていた実態に目を向けて欲しいと思います。

いのちとうとし

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