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核兵器廃絶

2025年7月 9日 (水)

「ヒロシマ平和絵画展」

旧日銀広島支店で13日までの日程で「ヒロシマ平和絵画展」が開催されています。

知人の藤登弘郎さんから案内のはがきが届いていましたので、昨日観に行ってきました。

最初の掲示された「ごあいさつ」には、次のように書かれています。

「被爆80年を機に、本展の趣旨に賛同する広島在住のプロとアマチュアの作家が“ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催します。本展覧会を通して平和と核廃絶の思いを共有し、さらに創作活動を高めあい“ヒロシマの心”を未来に繋げていきたいと思います。」

会場に入ると今年89歳になられた藤登さんが元気な姿で受付をされていました。少しだけあいさつを交わして、すぐに作品を見ます。

会場には、画家15人の作品23点が並んでいます。

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最初の展示は、陸軍被服支廠の半開きになった鉄の扉が題材となっています。題材として一番多いのは、原爆ドームです。

藤登さんは、3枚の水彩画を出展されています。3枚とも原爆ドームが題材となっています。タイトルは「ユネスコ世界遺産原爆ドーム」です。

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説明文には「1996年、原爆ドームが核兵器の脅威を物語る証人、平和のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録された。核兵器廃絶を世界に訴える広島の声が国際社会に届いたものと考えている。原爆ドームは無言であるが、生き証人としていつまでも立ちつづけていくよう願っている。」

もう一人の知人、西村不可止さんは、「平和・希望」のタイトルで、紅いカンナの花を描いた作品を出展しています。

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説明文には次のように書かれています。

「被爆40日後には咲いていたという真っ赤なカンナ。焦土に咲くこの花を見て、被爆者は復興に向けてどんなに希望を見いだせただろう。」

野尻純三さんの「核兵器禁止条約」をテーマにした2点の作品には、興味を引かれました。一点のタイトルは「被爆電車 核兵器禁止条約締結行」です。よく見ると、原爆ドームの横を走る電車のヘッドに表示された行き先は「核兵器禁止条約」となっていますし、ボディには「日本」という文字も描かれています。

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日本政府に「すぐに核兵器禁止条約に締結せよ」との思いが込められています。

この展覧会は、5年ぶりの開催です。

絵を通して平和を考えるのも、平和創造の一つの道だと思います。

暑い日が続いていますが、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 6日 (日)

「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」」成功裏に終了

広島県原爆被害者団体協議会(以下「県被団協」)と原水爆禁止広島県協議会(以下「県原水禁」)が共催し県内4カ所で開催した「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」は、昨日の三原会場を最後に、成功裏に終了しました。

県被団協と県原水禁の2団体は、これまでもつよいきずなで行動を共にしてきましたが、私が知る限りでは、共催して集会を開催したのは、これが初めてだと思います。

広島市での集会ではなく、各地域で開催することで、その地域の被爆者の皆さんとの連携を強化しようという目的も達成することが出来ました。

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最後の三原会場

 各地の被団協、そして地区労センターなどの積極的な取り組みによって、会場いっぱいとなる参加者を得ることが出来ました。特に、各会場とも地元の被団協から予想を上回る参加があったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

被爆者の証言は、福山会場は平逸男さん、三次会場は岡本忠さん、廿日市会場は畑口實さん、昨日の三原会場は中岡穂子(ひでこ)さんに、それぞれの被爆体験(親の体験も含め)を語っていただきました。

平逸男さんの証言については、623日付中国新聞「ヒロシマドキュメント被爆80年」で「継承に危機感 証言紡ぐ」と題して取上げられました。

中岡穂子さんは、一週間前に96歳になられたばかりですが、80年前を思い起こし、明瞭の証言をしていただきました。証言の最後に繰り返し「戦争がなければ核兵器が使われることはない、戦争をさせてはならない」と訴えられたことが強く印象に残りました。

一つとして同じ話のない被爆体験は、参加者一人一人の胸に残ったと思います。みなさんありがとうございました。

高校生平和大使の活動報告は、福山と廿日市会場が甲斐なつきさん、三次会場が沖本晃朔さん、三原会場が佃和佳奈さんが行なってくれました。「微力だけど無力じゃない!」を合い言葉に、この一年間繰り広げた活動、一万人署名活動やジュネーブの国連欧州本部訪問を中心にした活動内容とともに、その活動を通じて得た思いや学んだことが報告されました。

集会の最後は、各会場とも私が「被爆80年 原水禁運動の歴史と私たちの課題」と題して、第1回原水禁世界大会以降の運動の歴史を振り返りながら核兵器をめぐる情勢に触れ、「核兵器廃絶運動の強化」や「世界のヒバクシャとの連帯」の運動課題について問題提起しました。

特に強調したことは、「国の戦争責任を問い続けること」「原爆投下責任を明確にすること」が大切なことを改めて確認し、第1回原水禁世界大会の宣言で約束した「原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことが出来ます」を実現させるため「被爆80年を機にヒロシマから声をあげよう」と呼びかけました。

この集会成功の力を、非核平和行進、そして8月4日~5日に開催される「被爆80周年原水爆禁止世界大会広島大会」に結びつけたいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 4日 (金)

被爆者清水弘士さんの訃報

被爆者清水弘士さんが、一昨日午前10時頃亡くなられました。

私は、昨日午前11時頃、遺体が安置された本願寺広島別院の西隣にあるびはーら葬儀社に行き、お別れをしてきました。読経による葬儀は行われず、親族や身近な人たちが集まり、それぞれが清水さんとの思い出を語りながらのお別れでした。

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広テレの映像から

1942年6月生まれの清水さんは、3歳の時爆心地から1.6kmの吉島町の自宅でお母さんとともに被爆。倒壊した家の下敷きになりましたが、お母さんの必死の努力によって、生きのびることが出来たそうです。お父さんは被爆の影響で10月8日に亡くなられました。

そんな家族環境ですから、清水さんは、特に被爆者の「空白の10年」について究明し語り継ぐことを課題としてこられました。

また、同じ被爆者である切明千枝子さんの被爆体験をまとめる活動を続けてこられ、冊子「切明千枝子 ヒロシマに生き抜いて」3冊の発行に尽力されました。

清水さんが県被団協の役員になられて以来、特に親しくしてきました。

昨年の原水禁大会では、直前になって無理にお願いをして分科会での被爆証言を行っていただきました。ありがとうございました。

二月ほど前、紙屋町方面でばったり出会ったのが、お会いした最後になりました。その時は、お元気な姿だったのですが、パートナーの話によると、その後急速に体調を崩され、帰らぬ人となられてしまいました。

清水さんは、今年10月に開かれる「世界核被害者フォーラム」で、証言を行うことになっていましたが、それもかなわぬこととなりました。

被爆80年、訴え続けてきた核兵器の廃絶の実現を見ることなく、また大切な被爆者のお一人とのお別れになりました。

思いを引き継ぎ、がんばらなければと誓ったお別れでした。

いのちとうとし

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2025年7月 3日 (木)

第44回反核平和の火リレーがスタート

1982年に始まって今年で44回目となる「反核平和の火リレー」の出発式が、昨日午前7時55分から平和公園・原爆慰霊碑前で行われました。

出発式は、「反核平和の火リレー」の主催者である広島県青年女性平和友好祭実行委員会の笠松丈人事務局長の司会で始まり、献花、原爆犠牲者への黙祷、そして坂井心哉自治労県本部青年部長の手で「平和の灯」からの採火が行なわれ、原爆慰霊碑前で待つ実行委員長で第1奏者の辻大輝さんの持つトートに点火されました。

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その後、激励のあいさつ。広島県原爆被害者団体協議会からは熊田哲治事務局長、広島県平和運動センターからは高橋克浩議長、広島県原水禁は私が、あいさつを行い、社民党広島県本部福山権二事務局長、新社会党広島県本部三木郁子委員長が紹介されました。

さらに、松井一實広島市長からのメッセージが紹介されました。

激励のあいさつが終わると、いよいよ反核平和の火リレーの出発です。

第一走者の一人、辻大輝実行委員長が、「広島の青年女性が『語り継ごう、走り継ごう、ヒロシマのこころを』のスローガンをもとに、被爆体験や反核平和運動の継承者として、被爆の実相、ヒロシマのこころを大切に、県内を走り継ぎます」と決意を表明。

そして、80年前の原爆投下時間と同じ8時15分に、坂井心哉自治労県本部青年部長など6名のランナーとともに、参加者の大きな拍手に見送られて原爆慰霊碑前をスタートしました。

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今年は、今月22日までの土日祝日を除く14日間、県内23全市町548区間602.2キロを走り継ぐことになっています。通過する各自治体では、「被爆者援護法を国会補償法に改正させる」ことや「日本政府に核兵器禁止条約を批准させる」ことなどを求めての働きを強めることを求める要請を行うことにしています。

昨年は、豪雨被害などにより区間を451に、距離を484.3キロに短縮せざるを得ませんでしたが、今年は、ぜひ完走してほしいと思います。

また連日30度を超える暑さが続いていますので、体調に気をつけた走り継ぎ、22日の夕刻に無事到着式が迎えられるよう祈っています。

出発式が終わり、帰途につくとき資料館の地球平和監視時計を見ると、広島への原爆投下からに日数は「29185」になっていました。

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「平和の灯」は、核兵器が廃絶されたとき消されることになっていますが、その日を迎えたとき、この日数は何日になっているだろうかと、と思いつつ平和公園を後にしました。

いのちとうとし

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2025年6月28日 (土)

原水爆被爆80年を考える集い

原水禁国民会議は、今日(28日)午後1時30分から東京の日本教育会館で「原水爆被爆80年を考える集い」を開催します。

「核と人類は共存できない」という揺るがない信念のもとに続けた運動の歴史に学びながら、「被爆80年」という節目にあたり、原水禁国民会議として何をするのかを検討するため、原水禁国民会議の役員だけでなく中村桂⼦さん(⻑崎⼤学核兵器廃絶研究センター(RECNA)准教授)や畠⼭澄⼦さん(ピースボート共同代表)の協力を得て、「原水禁被爆80年企画検討実行委員会」を設置し、協議を重ねてきました。

そして今回そのまとめとして、核廃絶に向かっての課題やとりくみの現状をテーマとしたブックレット「核と人類は共存できない あの日から80年、私たちがつなぐ平和の祈り」を作成しました。

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表紙のデザインは、原水禁国民会議染裕之共同議長です。このデザインに込めた染さんの思いは

①平和をイメージするカラー「青」を使用する。

②手書き風の丸い図形を使用する。

  丸い図形が与えるイメージは、

  ・始点も終点も無いことから「永遠」、「無限」を意味する

  ・曲線によって「優しさ」、「柔らかさ」を意味する

  ・中心からの距離が同じことで「調和」、「包容」を意味する

です。手に取って、デザイナーの思いを感じながら、読んでほしいと思います。

このパンフレットの完成を機に、その目的を広く共有する場としてシンポジウム「原水爆被爆80年を考える集い」を開催することになりました。

集いは、若い人からのアピールの後、原水禁国民会議川野浩一共同議長の「被爆80年を迎えて」の話、続いてそれぞれの執筆者がテーマごとにその内容を紹介します。私も「被爆の実相と全てのヒバクシャの救済」をテーマに話すことになっています。

秋葉忠利顧問からは、企画検討実行委員会で協議してきた「核兵器廃絶に向けた2035/2045ビジョン」が提起されることになっています。

その他に次のテーマで編集されています。

「核のタブーで考える、世界の現状と私たちの課題」中村桂子

「原水禁運動と脱原発」藤本泰成

「被爆者のおもいを受け継ぐ未来へ」畠山澄子

原水禁国民会議は、この集いをスタートに「被爆80年からその先へ 核なき未来をつくるカンパ」を呼びかけることにしています。

全国から集まった仲間とともに、集会を成功させ、7月、8月に福島、広島、長崎で開催する被爆80周年原水禁世界大会に引き継いでいきたいと思います。

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2025年6月26日 (木)

イラン・イスラエルの停戦合意

いつまでこの状態が続くのはまったく予断を許しませんが、イランとイスラエルの戦闘行動の停戦合意が昨日実現しました。

早期の停戦を求めてきた広島市民の一人として、この合意を歓迎したいと思います。言うまでもないことですが、戦闘が続く限り市民の犠牲が強いられるのですから。

「核開発阻止」との理由による13日未明のイスラエルによるイランへの大規模な軍事攻撃開始。核関連施設、軍施設など100カ所以上を空爆し、その結果イラン市民の400人を超える犠牲者が出ています。

イスラエルによる軍事攻撃に反撃するイランのミサイル攻撃によって、イスラエル市民の犠牲も出ています。

軍事による攻撃は、常に市民が犠牲となることをこの軍事行動でも明らかなにました。

そして、違法で無謀なイスラエルの軍事攻撃を止めるのではなく、強力に支援するためアメリカが、22日(日本時間)には、国際条約を無視してイランの重要な核施設3カ所への攻撃を行いました。

このアメリカの攻撃に対し、イスラエルのガザへの侵攻以来、原爆ドーム前で抗議と即時の停戦を求めて活動をつつけている「広島パレスチナともしび連帯」の呼びかけで、22日と23日の二日間緊急アクションが呼びかけられました。

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私もこの呼びかけに応えて、23日のみでしたが参加をし、アピールを行いました。

思い出すのは、2003年のアメリカによるイラクへの軍事侵攻です。その大きな理由が、「イラクの大量破壊兵器の保有」だったことです。しかし、実際にはイラクには、大量破壊兵器は存在しませんでした。しかし、アメリカ軍を中心とする有志連合による戦闘、占領政策の結果、アメリカ軍が撤退する2011年12月末までに、英国に本拠を置くNGO「イラク・ボディー・カウント(IBC)」によれば犠牲者は16万人を超え、そのうちの79%はイラク民間人で12万7980人に達したとしています。

しかし、誤った情報によって軍事侵略を介し、多数の市民を殺害したアメリカの責任は、今も問われないままです。

今年3月、CIAFBIを含む米国情報機関が参加して、ギャバード国家情報長官が発表した「年次脅威評価」で、「イランは核兵器を製造していないと引き続き評価している。最高指導者ハメネイ師は03年に停止した核兵器計画(の再開)を承認していない」と明示したにもかかわらずの、今回の軍事行動です。

今回のアメリカの軍事攻撃は、国際法に違反するだけでなく、イランに「核兵器開発の口実」を与える結果にもなる暴挙だと言えます。軍事力によって問題は解決できません。

相互の信頼を少しでも取り戻すことが出来る道は、この停戦合意を双方が誠実に履行し、他国の積極的な関与によって、話し合いの場を持つことだと思います。

日本政府に求められるのは、そうした役割を果たすことではないでしょうか。

いのちとうとし

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2025年6月21日 (土)

核も戦争もない世界へー被爆80年のヒロシマから訴えるー

広島県原水禁と広島県被団協が共催して県内4カ所で開催する「核も戦争もない世界へー被爆80年のヒロシマから訴えるー」のスタートとなる福山会場での集会が、今日午前10時から神辺文化会館で開催されます。

その他3会場の予定は次の通りです。

三次会場 6月27日18時から十日市きんさいセンター

廿日市会場 6月29日14時から山崎本社みんなのあいプラザ

三原会場 7月5日10時から三原中央公民館

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集会の内容は、各会場共通で「被爆者の訴え、高校生平和大使の報告、被爆80年の課題の提起」です。

被爆者の訴えは、県被団協の協力を得て、地元の被爆者との今後の連携を強めたいという思いを持ち、地元からの登壇をお願いしています。

各会場には、広島県被団協の好意によりノーベル平和賞受賞の賞状とメダルが展示されます。

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今日の神辺会場の集会次第は次のようになっています。

福山地区労働センターの藤井麟太郎さんの司会で開会し、地区代表橋本修一福山地区労働センター議長のあいさつの後、被爆者の訴えです。

この会場での被爆者の訴えは、福山市原爆被害者友の会副会長平逸雄さんです。

高校生平和大使の報告は、昨年から今年にかけ大活躍した第27代高校生平和大使甲斐なつき(広島市立基町高校)です。

被爆80年への提起は、私が行うことになっています。

最後に吉田貴志尾道地区労議長が、閉会のあいさつを行い、集会は終了する予定です。

これまで、ほとんどといってよいほど原水禁や平和集会は、広島市で開催されてきました。今回は、被爆80年の節目、県内4カ所で開催することで、地元の被爆者の皆さんとの連携を強化するとともに若い人たちに出来るだけ多く参加してもらい、想いを共有し今後行われる平和行進、原水禁世界大会などヘの理解を深めてほしいとの思いを持って開催することにしています。

一人でも多くの参加を呼びかけます。

いのちとうとし

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2025年6月19日 (木)

ウラン鉱夫の肺癌リスクは、4倍に増加

一昨日午後2時半から広島県医師会館で、放射線影響研究所(以下「放影研」)設立五〇周年の祈念式典が開催されました。

原水禁にも招待がありましたので、代表して私が参加しました。

祈念式典は、神谷研二理事長のあいさつで始まり、来賓のあいさつが続き、最後に湯崎英彦広島県知事、松井一實広島市長などのビデオメッセージが流され終了しました。

休憩を挟んで、二人の記念講演がありました。

最初は、箕牧智之広島県被団協理事長が、「原爆被害と私に人生」と題して自らの被爆体験や被爆後の苦しい生活、昨年のノーベル平和賞受賞などの核廃絶のための活動について報告。箕牧さんの話しを聞きながら、同じ放影研の祈念式典でお元気だった坪井直先生が、被爆体験を語られた事を思い出しました。後で調べると2017年に行われた「ABCC―放影研設立70周年記念行事」でのことでした。

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記念品を手にするお二人 箕牧さんの左がジョナサン・サメットさん

二人目の講演者は、放影研の評議員でアメリカコロラド公衆衛生大学院教授、前大学院長のジョナサン・サメットさんです。演題は「被爆80年/放影研設立50周年『悲劇から希望へ』」です。

講演が始まる前は、「放影研の業績の話し」だろうぐらいに思っていたのですが、話しの冒頭のパワーポイントに「ニューメキシコ州のウラン鉱夫の肺ガンリスクは4倍に増加」の文字がでてきました。このパワーポイントを示しながらナバホ族の名前も出しながら「鉱夫への公正な補償が必要だ」と話が進みます。さらに「放射能が有害なことは、1945年以前から知られていた」とレントゲン、キューリー夫人などの話につながります。

まさか、ウラン鉱夫の被曝問題から話しが始まるとは思ってもいませんでしたので、真剣に聞かなければという気になりました。

その後、放影研の研究テーマの話しが続きます。特に、妊婦への影響、そして遺伝的影響についての話しです。「被爆二世の集団では、生存率の低下はない」との話しもでてきますが、撮影が禁じられ私のメモだけが頼りですので、間違いがあってはなりませんので、その詳細をここで紹介することは出来ません。

ただ最後の部分は、再び私の関心を呼びました。現在の世界の核兵器の保有数、さらに世界の原発の数などを図示しながら「米ソ冷戦の時代、小学校?では、空襲警報が鳴ったら机の下に隠れるように」と教えられたこと、原子力発電に関しても「廃棄物の確定的議論は出ていない」と厳しく指摘しました。そして「広島・長崎の生存者である被爆者の証言は、この文脈の中で唯一無二のものです」「核の無い社会 それが私の望みです」と話されました。一番最後は、広島平和公園の原爆慰霊碑が登場し、原爆慰霊碑をバックに大きな文字で「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」が書かれたパワーポイントが写されジョナサン・サメットさんの講演は終了しました。

アメリカの学者から、こんな話しを直接聞いたのは初めてのことです。

講演会後開かれた懇親会でジョナサン・サメットさんに話すことが出来ましたので、「ウラン鉱夫の話しから始まったことに感心しました」と思いを伝えると、「一応アメリカ政府も補償法を作ったのですが、それも肺ガンに限定されていましたし、2年前に打ち切りになりました。」との返答。もう少し詳しく聞きたい話しですが、日本語の翻訳された論文はない用です。いつかそのうちの一つでも読んでみたいなと思います。

放影研の祈念式典のことをこのブログで紹介する予定ではなかったのですが、ジョナサン・サメットさんのことを紹介しなければと思い、記述することにしました。

いのちとうとし

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2025年6月18日 (水)

遺骨が帰ってきました。

昨日の午前中、いつものように平和公園を散歩していると、供養塔の横に軽トラックが止まっているのが目に入りました。

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供養塔整備のため別の場所で保管されていた原爆犠牲者の遺骨が、帰ってきたようです。

近づいてみると、トラックの荷台に積まれた大きな木箱に白い布をかけて、ひと箱ずつ作業員の手で丁寧に納骨堂に納めています。

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作業中の作業員に少し話しを聞きました。

箱の重さは色々あるようですが、重たいものでは30キロぐらいとのことです。納められた遺骨は、たまに大腿骨かなとわかる骨もあるようですが、ほとんどは粉々になっているそうです。

そうしたことがわかるのは、お骨を納めている箱が、湿気などで朽ちて新しい箱に入れ替えることがあるからわかるそうです。

箱には、「氏名不詳」と書かれています。

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「似島」と書かれた箱が目につきました。似島で発掘されて、この供養塔に納骨された遺骨です。「似島」の文字の下に小さく「30.7」と書かれています。似島千人塚に埋葬されていた遺骨は、昭和30年(1955年)8月4日にこの供養塔に納骨されていますので、その時書かれたものと思われます。この箱の横には、「原爆死没者遺骨 氏名不詳 似島」と書かれて白い紙がはってあります。

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次々と遺骨箱が納骨堂に納められます。

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「これで終わりですか」と尋ねると、「後2往復ぐらいしなければなりません」との答えです。「納骨堂には約7万体の遺骨がある」と言われていますが、その量を想像することは出来なかったのですが、やはりすごく多い量になるのだなという感想を持ちました。

立ち会っておられた市の職員に聞くと、「箱の大きさにすこし違いがありますが、今回改めてその数を確認しようと思っています」ということでした。

私がみた木箱は、氏名不詳の遺骨が納められていますが、名前のわかっている813柱の遺骨は、それぞれ骨壺に収められています。

「骨壺が納められる様子を」と思ったのですが、骨壺は、段ボール箱に入れて保管されていたようですので、段ボール箱のまま納骨堂に納め、中で取り出すことになるようです。

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今回は、供養塔内部の床だけでなく、お骨を並べる棚の修理、雨漏りを防ぐための修理、納骨室入り口の壁の塗り替えなどの修理、修繕が行われるとのことです。

また、周囲にある生垣も、隙間が出来ているところに新しく植栽するなどの作業も行われています。

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上の写真では、右側の柱の左2本が新しく植栽された木です。

被爆80年の8・6を前にしたある日の平和公園の様子です。

いのちとうとし

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2025年6月16日 (月)

第28代高校生平和大使結団式

28代高校生平和大使の結団式が、15日午前10時から広島市の自治労会館で開催されました。今年選ばれて高校生平和大使は、全国18都道府県24名です。

結団式は、第27代高校生平和大使沖本晃朔(おきもとこうさくAICJ高等学校3年)の司会で進行しました。

最初に高校生平和大使派遣委員会代表があいさつ、続いて来賓のあいさつ。来賓は連合広島大野真人会長など5名。

あいさつの後、高校生平和大使派遣委員会共同代表小早川健さんから、平和大使一人一人に任命証が手渡されました。

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任命証受領で晴れて正式に高校生平和大使に任命された高校生一人ひとりが、決意を表明しました。

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一人持ち時間は1分。例年のことですが、「なぜ自分が高校生平和大使に応募したのか、被爆者の体験、被爆の実相をどう継承するのか、戦争も核もない時代を築くために自分はどんな取り組みをするのか」などを力強く訴えます。

自分が高校生だった時には、まったく平和活動などやってこなかったことを思い出しながら、「なんと立派な決意表明をするのだろう」と感心しながら一人ひとりの決意を聞きました。

最後の決意表明は、長崎県で選ばれた長崎日本大学高等学校2年生の芮(いぇ)序知(そじ)さんです。自らが学んできたこと、「焼き場に建つ少年」の写真を示しながら、ローマ教皇フランシスコ法王が語った「このような写真は千の言葉よりも多くを語る」という言葉を紹介し、最後の全員を代表する形で「戦争は知らないが、平和は知っている。過去は変えられないが、未来は作ることができる。平和への架け橋としての役割を果たしたい。1万に署名メンバーとともに戦争も核兵器のない世界を実現させるために全力を挙げて頑張ります」と決意を表明しました。

ここで結団式は終了し、全員での記念写真。

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高校生平和大使の活動は、1998年長崎の二人の高校生が、米国・ニューヨークの国連本部へと派遣されたのがスタートです。現在のようにスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪れるようになったのは、2000年の第3代からです。

28代高校生平和大使は、1万に署名活動の仲間とともに集めた署名を持って、今年は、831日から国連欧州本部を訪れることになっています。

2001年から国連欧州本部に届けた署名数は、272万筆を超えています。

「ビリョクだけどムリョクじゃない」を合言葉に活動を続ける高校生平和大使と1万人署名活動の仲間の活動は、私たちを勇気づけてくれます。

昨日から広島に集まり、被爆者の体験を聞くなどの研修や資料館見学、碑めぐりなどのフィールドワーク(雨天だったのですが実行したとのことです)などで広島の被爆の実相を学んだ高校生平和大使たちのこれから一年間の活動に期待したいと思います。

いのちとうとし

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