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核兵器廃絶

2023年9月26日 (火)

森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?―森滝日記より

5月4日のブログ森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」について、私なりの検証を試みました。その結論として「4月6日には、吉川さんなど4人に加わって県被団協の抗議大会に集まった人たちと一緒に座りこまれた」と記しました。

森滝先生の日記ではどう書かれているのか、ずっと気になっていましたので、先日加納加世子さんの森滝家訪問に同席した機会に、日記を見させていただきました。

昭和32年(1957年)の日記を探しました。

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1957年(昭和32年)4月20日の日記

4月6日の日記には、簡潔に次のように書かれています。

「四月六日() 慰霊碑前で『祈りと抗議の座り込み』及び午後、原爆被害者大会.激励の挨拶。(七時十五分に録音ニュース)

後に「座り込み10年の『前史』と理念」では「この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを囲んで『祈りと抗議の座りこみ』をおこない,その場で被団協の抗議大会を開いた。」と記述された「被団協の抗議大会」については、なぜか日記には全く記されていません。

しかし、日記に「祈りと抗議の座り込み」と、はっきりと記述されていますので、私が得た「座込みを続けていた吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎たち4人と一緒に座り込みをされた」という「一応の結論」が間違いでなかったことを、森滝先生の日記から確認することができました。

5月4日のブログで紹介した「4月20日の原水爆実験抗議広島市民大会」については、日記には、この市民大会のすべての日程、発言者が記述されています。

日記は「四月二十日() 雨さかんに降る」で始まります。気象台の記録「31.1mm」を裏付ける記述で、強い雨が降っていたことが、この1行からも理解できます。

以下「水爆実験阻止広島市民大会を決行。原爆資料館下で。」、その後に「開会 黙祷 大会会長挨拶」と当日のプログラムが記載され、きちんと発言者の名前が書かれています。当日の森滝先生の役割は、次第の6番目の「アピール」です。当日二つのアピールが行われています。最初は、「祈りと路抗議の座り込み団代表」です。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎の4人の名前が書かれていますので、4人全員のアピールがあったことがわかります。次が、「世界への質問」と題した森滝先生のアピールです。日記の「市民大会の次第」に続いて次のように書かれています。

「世界への質問」(今朝ひらめいたことば)

「今日 私は二十数万の原爆犠牲者の眠るこの慰霊碑の前で、一個の倫理学者として 全世界に向かって 一つの質問を厳粛に提出します。

今日 世界で最も強い國というのは 最も大きな罪悪を犯さなければならない口であろうか。」(原文のママ) 今にも生きる問いかけのような気がします。

そして「雨中乍ら集まったもの約千名。」と記述されて、この日四月二十日()の日記は、終わっています。

森滝先生の日記を見ることで、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」の結論を得ることができました。

いのちとうとし

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2023年9月18日 (月)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その3

あと二つのコーナーが残っています。

「戦後資料」で、最初に目を引いたのは「被爆死した油谷重工業株式会社関係者に関する各種資料」です。

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左隅には、「過去帳」と書かれた大きな木箱書があります。油谷重工業株式会社は、現在はコベルコ建機株式会社と社名が変わり、安佐南区沼田町大字伴に移転していますが、被爆時は安佐郡祇園町にありました。私が選挙に立候補していたときには、組合に応援をしていただいていましたので、何度も訪れていましたが、油谷重工は、爆心地から5キロ以上も離れていましたので、当時は原爆被害のことなど全く頭に浮かびませんでした。

「その油谷重工がなぜ?」という思いで展示ケースを見たのですが、キャプションを読んで納得です。「職域義勇隊として広島市内天神町の建物疎開作業のため人員を送っていました。同隊には20戸の建物の取り壊しが割り当てられており、1945年(昭和20年)8月5日までに19戸の作業が完了し、8月6日は最後の1戸の解体のため161人が出動していましたが、被爆により全員が亡くなりました。これらは、亡くなった職員と動員された生徒たちの過去帳や履歴書、名簿などです。」

広島市原爆戦災史によれば、油谷重工は、軍需品を生産していたようですが、そんな会社にも職域動員があったことに驚かされます。天神町は、現在の平和公園付近ですので、同戦災史には、出動者161人中、即死は128人、行方不明33人と記録されています。もし8月5日までに、全戸20戸の解体が終わっておればと思わずにはいられません。

企画展の展示品に戻ります。このコーナー「戦後資料」の展示の多くは被爆後に撮られた写真です。気になった写真が2枚あります。

1枚は「大手町国民学校の焼け跡から北北西を見る」とタイトルが付いています。

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大手町国民学校の焼け跡には、現在はドコモのビルが建っています。そこから北北西を見て最も近い位置が、わが家が住みマンションということになります。

大手町国民学校のこともこのブログに書いたことがありますが、その時には、写真を探すのに苦労をしました。この写真から学校の面影を見つけることは難しいのですが、気になる一枚です。撮影時期は、1946年頃となっています。

2枚目は、前にも同じような写真を見たことがある「国泰寺の大クスノキ」の写真です。

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この写真も1946年頃の撮られたものですが、右奥に現存する被爆建物日銀広島支店がはっきりと写っています。

最後が「原爆の絵」のコーナーです。沢山の興味深い絵が展示されていましたが、その最後で意外な絵を見ることになりました。

原水禁がいつもお世話になっている切明千枝子さんが、91歳の時に描かれた絵で、「8月6日の夜空。空が二つに分かれていた。」のタイトルが付けられています。

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「広島市立長束中学校校長角雄二寄贈」となっていますので、切明さんが、近所の長束中学校で被爆証言をされたときに学校に寄贈されたものと思われます。

「作者の言葉から」として次の文章が書かれています。

「被爆して家が崩れてしまい、外で寝た時の空の思い出です。広島の空が、くっきりと二つに分かれていて、北西の方は血の色のように真っ赤に、空が焼けていました。

南東の方は、一面の星空で、数限りない流れ星が流れていました。

流れ星は、死んでいった人たちの魂がもしかしたら天に昇っているのではないかと思い、涙を流しながら眺めた記憶があります。」

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」の私の紹介は終わりですが、この企画展は、来年の2月27日まで開催されます。

それぞれにまた新しい発見があるかも知れません。一度足を運んでみてはどうでしょうか。

いのちとうとし

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2023年9月17日 (日)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その2

「戦前の広島」の次は、「戦時生活から原爆投下へ」のコーナーです。

当然のことかも知れませんが、このコーナーに最も多くの資料が展示されています。

「戦闘機献納のための募金活動で集まった資金と広島実践高等女学校の生徒たち」や「広島招魂社前で撮影された陸軍部隊の集合写真」などの写真は、戦時体制に懸命に協力する国民の姿を見ることができます。

会場入り口の大きな看板(昨日の1枚目の写真)の裏側に、広島市立中学校2年生の檜垣浩さん(当時15歳)が、爆心地から900メートルの小網町の建物疎開作業現場で被爆したときに身につけていたズボン(左側ケース)と父の職場まで歩いてたどり着いたとき父親の兵市さんが着せたワイシャツ(右側ケース)が、展示されています。

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こんなにズタズタに損傷したズボンが、78年間も大切に保管されていたことに、家族の強い思いを感じます。

右側ケースには、檜垣浩さんの写真が付けられています。

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何歳の時撮った写真かは書かれていませんが、この写真があることでどういう子どもが着ていたのかがわかりますので、より実感を持ってみることができます。この写真はもう少し大きめでもよいような気がします。

他にもランドセルやガラス破片が残る桐タンス、焼けたくぎ、変形したガラス瓶など遺品や被爆物が多く展示されています。その中の一つに「竹製の物差し」があります。

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寄贈者の名前が「森川高明」と書かれていますので、びっくりしました。物差しは、母親のアキコさんが持っていたもののようですが、寄贈者の森川高明さんは、平和公園の遺構保存を一緒に取り組んだ被爆者だからです。現在は体調が思わしくなく、なかなかお会いすることができないのですが、意外な出会いとなりました。

「戦時生活から原爆投下へ」コーナーで特に印象的だったのは、手紙類の多さです。その中でも、目を引きつけられたのは福間喬介さんが寄贈された「疎開先から届いて父母からの手紙」とタイトルの付いた手紙類です。

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少し黄色がかっている手紙はお母さんから、お父さんからの手紙は毛筆で書かれています。キャプションには「光道学校5年生だった福間喬介(当時10歳)は、1945年(昭和20年)4月12日から9月12日まで、山県郡都谷村の仙徳寺に学童疎開していました。疎開期間中、父の一郎さんと母の久子さんは喬介さんに宛て手紙や小包を送りました。父母や兄弟は全員無事で、喬介さんは9月に家族と再会しました。」

展示された多くの手紙類の中で、特に目を引きつけられたというか気になったのは、「光道学校」の文字です。ずいぶん前にこのブログで、「光道学校」のことを取上げたのですが、こんな形で学校名を見たのは初めてだったからです。疎開先の「山県郡都谷村」は、現在の山県郡北広島町豊平と思われます。

もう一つは、この手紙類は、すべて学童疎開先に送られたものだということです。当時子どもたちからの返信はできなかったのでしょうか。それはよくわからないのですが、もし返信できたとしても、届けられた先は、市内だったはず(「父母や兄弟は全員無事」という表現から想像すると)ですから、当然焼失してしまったと想像できます。こんなことを思いながら、二つの展示ケースを見ていました。

これらの品々が、ほんとうに大切に保存されていたのだなとの思いながら歩を進めました。

後は、「戦後資料」と「原爆の絵」のコーナーですが、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2023年9月16日 (土)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」

広島平和記念資料館の今年度第1回の企画展となる「新着資料展」が、9月14日から東館1階企画展示室で始まりましたので、昨日行ってきました。

これまでは、新着資料の展示は、地下1階の特別展示室で行われていましたが、現在この部屋は、被爆体験伝承講話が行われるようになったため、今年から1階企画展示室で行われるようになったようです。会場が、資料館を見終わった出口の場所だからだと思いますが、以前の地下1階での「新着資料展」よりも、ずいぶん沢山の入場者があるように感じました。もちろん、資料館を訪れる人が総体として増えているということが主要な要因だと思いますが。

また、広島平和記念資料館の企画展となったことで、以前にはなかった充実した内容のパンフレットが作成され、自由に入手できるようになっています。貴重な資料であると同時に、見る者にとっても、より充実した「新着資料展」になったと言えます。

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会場入り口の「はじめに」(パンフレットにも同文を掲載)にはこう書かれています。

「広島平和記念資料館には、現在でも被爆者やその遺族の方々などから、大切にしてきた遺品をはじめとする被爆資料、自らの体験を描いた絵、当時の状況を撮影した写真等の資料が寄せられつづけています。

この展示会では、令和3年度(2021年度)に寄贈された744点の資料から、150点を紹介します。」

この企画展を見る前、「被爆から75年以上経っているが、一年間にどれぐらいの遺品や資料などが寄贈されるのか」が気になっていましたが、この文書によって、その疑問は解明しました。

いまだに744点もの資料が寄贈されているということです。これが多いのか少ないのか、それ以前の寄贈数の資料がありませんので、比較することはできないのですが、私の感想は「今もそんなに寄せられているのか」という思いです。

展示品は、「戦前の広島」、「戦時生活から原爆投下へ」、「戦後資料」、「原爆の絵」の4つに分類され展示されています。

「戦前の広島」のコーナーは、当然とことですが、写真や絵はがきですが、中でも目を引かれたのは、河原町に住んでいた三田嘉一さんが1940年(昭和15年)頃に、自宅周辺で撮影された5枚の写真です。

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当時の市民の生活の様子が映っています。こうした日常生活を営んでいる市民の頭上に原爆が投下されたのだということを想起できる写真だと思いました。

爆心地となった島病院の被爆前の写真も何枚かありました。「島病院の中庭にあった猿小屋の前で」という写真は、以前にも見た記憶があるのですが、玄関前から撮った写真を見たの初めてです。

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この写真のキャプションには、次のように書かれています。

「原子爆弾は、広島市の中心部にあった細工町の島病院上空600メートルで炸裂しました。島病院は、1933年(昭和8年)8月31日に広島郵便局電話課の建物を改築して開院しました。レンガ造り2階建て、正面玄関両側の円い柱と円形の窓が特徴的な建物で診察室や手術室、病室などの部屋がある大規模な病院でした。」

このキャプションに注目したのは「広島郵便局電話課」という言葉です。すぐ向かい側に広島郵便局がありましたので、電話課だけが別棟で、しかも堅牢な建物だったことがわかります。この時期に、電話課は、広島市下中町(現在の広島市中区袋町)に3階建ての広島中央電話局として移転し、ここで被爆することになります。この広島中央電話局の建物も非常に堅固に作られた建物だということを、私が労働運動を始めた頃(1970年代)の全電通広島支部が、この被爆した広島中央電話局の建物の中にありましたので、何度も聞いた記憶があります。

この写真を見ながら、そんなことを思い出しました。

まだまだ、企画展の最初部分を見ただけですが、長くなりました。明日につづけたいと思います。

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2023年9月12日 (火)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編

93日の「森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき」の最後に、次のように書きました。「後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です」と。

8日の午後、森滝家で「森滝春子さんと加納加世子さん夫妻」の対面が実現しました。「再会」と書きましたが、私の勘違いで、今回が初めての出会いでした。

春子さんは森滝先生の思いを、加納加世子さんは加納莞蕾さんの思いをそれぞれ受け継いで活動する二人の出会い(加納加世子さんの表現)です。

翌日に加納加世子さんから届いてメールには次のように書かれていました。

「父莞蕾の考えていたこと、その行動の確かめができました。尊敬する森滝先生とも信頼関係を確かに持っていたことを知り、うれしい限りでした。春子さんのお体のことも心配でご無理があっては・・・と、思っていましたのになんとも長い時間お邪魔をしてしまいました。たくさんのお話ができ、当時の確かめもでき、よかったです。」

私も同席させていただいたのですが、本当に貴重な時間でした。

私は、二人が会われる予定時刻の少し前に森滝家を訪れました。それは、1956年11月3日の布部村訪問のことが、森滝先生の日記にどう書かれているか確かめたかったからです。

きちんと書かれています。布部村訪問に関わる部分の日記の写しです。

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11月1日(木) 布部行き支度。

2日(金) 安子とともに島根県布部村へ。中国山脈越えのところ紅葉美し。三成駅下車。氏出迎え。バス。そろばん、砂鉄。布部村市場に夕方つく。歓迎茶話会。夜「生きていてよかった」「中国の曲芸」

3日(土) 安子は松江へ。布部村平和五宣言宣言式。午後記念講演。夜座談会。村の有志と懇談晩さん。

4日(日) 午前役場階上で「村つくり懇談会」昼食には、加納氏及び足立議長と。村を辞し、大山に向ふ。富田城趾の山。清水寺。夕方、大山寺部落、山の家に泊まる。

   5日(月) 安子と大山頂上(1715米)にのぼる。壮大な紅葉。夕方米子市で安子と夕食。レストラン白菊で。夜ちどりにのる。

日記によれば、布部村の滞在は、3日間ですが、毎日精力的に活動されたことがうかがえます。

加納加世子さんが、森滝家に到着され春子さんとのあいさつが終わったところで、「布部村への訪問、森滝先生の日記にきちんと書かれていますよ」と日記をお見せしました。

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森滝日記を前にして

その時の思いを加納加世子さんは「最初森瀧市郎先生のあの日記にであえたことは、感激でした。」とメールに記されていました。

この日記を見るなり、加納加世子さんが、たくさんの沢山の資料の中から少し茶色くなったガリ版刷りのチラシを取り出されました。そのチラシには、「文化の日に村民に贈る布部村平和宣言記念の講演討議と映画の夕べ」とタイトルが付けられ、この3日間の意義と11月2日から4日にかけての日程が記されています。森滝先生の日記には、このチラシに書かれた日程通りの行動が記されていますので、加納さんが感激されるのも納得です。

森滝先生の日記に書かれていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」の意味もこのチラシを見れば、よく理解できるので紹介したいのですが、少し長くなりますので、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2023年9月 3日 (日)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき

2回にわたって「森滝市郎先生と加納莞蕾さんの出会い」について考察してきましたが、今日が最後です。

昨日、森滝先生と加納莞蕾さんの最初の出会いは、「1955年の原水爆禁止世界大会だった」と思われることを検証してきました。

今日は、加納莞蕾さんの原水爆禁止世界大会への参加が、その後の活動にどんな形で引き継がれたのかを考えます。

8月29日の「安来加納美術館と加納莞蕾(かんらい): 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で、「布部村平和五宣言」について触れ、その内容を後日紹介することを約束しましたが、ようやくその順番が回ってきました。

「布部村平和五宣言」は、次の五項目です。

  • 自治宣言
  • 国際親善宣言
  • 世界連邦平和宣言
  • 原・水爆禁止宣言
  • 世界児童宣言制定促進宣言

4を除く各宣言は、加納莞蕾さんが続けた「フィリピンの戦犯釈放」運動の延長線上にあり、特に「5,世界児童宣言制定促進宣言」には、平和のモラルを確立するために子どもの権利を確立することが大切だという強い思いが込められています。

私が注目するのは、「4,原・水爆禁止宣言」です。この「布部村平和五宣言」は、1956年に制定され、その年の11月3日に「平和宣言式」が行われ、その式に森滝先生が参加されたことを紹介しました。

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そこで紹介した写真を拡大してよく見ると「宣言」は、1956年8月3日に布部村議会が決議したとあります。8月6日を意識して決議がされたと思うのは私の考えすぎでしょうか。4項目目に「原・水爆禁止宣言」があることを考えれば、86日の前のこの日を選んで決議されたと考えても不思議はないと思います。もう一つ考えられるのは、ちょうど3ヶ月後に当たる11月3日の「憲法公布の日」に「平和宣言式」を行いたいという思いがあったのではということです。

いずれにしても、この「布部村平和五宣言」に「原・水爆禁止宣言」が入れられたのは、加納莞蕾さんが1955年の「原水爆禁止世界大会」に参加されたことと深いつながりがあったことは、間違いないでしょう。

安来加納美術館に掲示された「布部村平和五宣言」の説明文には、「平和宣言式に、周りの多くの自治体からの祝詞、また全国的に子どもを守ろうとする団体、原水爆禁止協議会からの祝詞も来ています。」と書かれていますので、その代表として森滝先生が「平和宣言式」に招かれたようです。

ここにも森滝先生と加納莞蕾さんの強いつながりを感じますが、加納加世子さんからは、更にそれを証明する貴重な資料を見せていただきました。

アフリカのガーナから届いた森滝先生からの手紙です。宛名は、「加納辰夫様村民一同様」となっています。

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 手紙の冒頭に次のように書かれています。「出発前には、わざわざ歓送会に御出くださり、心からの激励を賜り誠にありがとうございました。」

そして最後のところで「昨日で会議がすんだので、いよいよこれからランバレネにシュヴァイツァー博士を訪れていきます。」と書かれ、日付は「六月二九日朝」と記載されています。

この手紙は、1962年ガーナのアクラで開催された「爆弾のない世界」会議に出席された森滝先生が、全ての会議が終わり、いよいよシュヴァイツァー博士を訪ねる旅に出かけられる朝に書かれた手紙です。

この手紙からさらに二人の繋がりの深さを知ることができます。ガーナへの出発前の歓送会に加納莞蕾さんが、島根の布部村から遠い道のりをいとわず、参加されたことです。当時の交通事情を考えると、島根から広島に出てくるには相当の時間がかかったと思われます。そしてそのことに対し、他に何通の手紙を書かれたかわかりませんが、森滝先生が、遠いガーナの地から加納莞蕾さんと村民の皆さんにお礼の手紙を書かれたことです。最初の出会い(私が考える)から7年後のことですから、この間にも深い交流が重ねられたことが想像できます。

「四國五郎展」を見るために訪れた安来加納美術館でしたが、加納加世子さんと出会うことができ、そしてそのご厚意で森滝先生の新たな足跡を知ることができました。

感謝です。

後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です。

ずいぶんと長くなった安来加納美術館訪問記もようやく終わりを迎えました。

いのちとうとし

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2023年9月 2日 (土)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづき

森滝先生と加納莞蕾さんの出会いのつづきです。

「加納辰夫 広島へのメッセージ」の冒頭には、次のように書かれています。

「昭和30.8.6~8 広島市で開かれた原・水爆禁止世界大会に於いて、私はこの問題をアピールした。」

この問題とは、「世界児童憲章」のことですが、これについては後でもう少し詳しく紹介しますが、ここで重要なことは「原・水爆禁止世界大会に於いて、アピールした」との記述です。

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ご承知のように森滝先生は、この「原・水爆禁止世界大会」では、地元広島の事務局長として大会の準備に追われ、大会成功の重要な役割を担われました。当然のことですが、大会運営にも深く関わられたことは、間違いありません。

ですから、加納莞蕾さんが、大会でアピール(どの場で行われたかは定かではないが)をしようと思われれば、事務局長であった森滝先生が、その判断に関わられたと考えても不思議はありません。

加納莞蕾さんが一参加者として「原・水爆禁止世界大会」に参加されたのであれば、この大会の場で森滝先生と加納莞蕾さんの出会いがあったかどうかは、はっきりしないのですが、どの場であれ、加納莞蕾さんは大会でアピールされたのですから、「どんな内容のアピールか」などを、森滝先生を含めた事務局で検討され、その時加納莞蕾さんを知ることになったと考えるのは当然のことです。

これらのことから、私は、森滝先生と加納莞蕾さんが、1955年の「原・水爆禁止世界大会」で会われたと結論づけました。森滝先生の日記は、8月4日以降空白となっています(中国新聞社編「ヒロシマ四十年森滝日記の証言」より)ので、日記から確認することはできませんが。

次に、アピールされた「加納辰夫 広島へのメッセージ」を理解するため、その一部を資料からの引用し紹介します。

「原水爆禁止のためのいかなるとりきめも、申し合わせも、或は法律も、世界のヒューマニティに支えられなければ何らの効力もない。過去に於いていかなる国際協定も一片の反古と化して戦争防止に何の力もなかったことを省みれば自ずから明らかである。平和は次の時代に期待すべく、それは児童に期待せねばならぬ。児童憲章の任務はここにある。(中略)されば、児童憲章が真に権威をもつには“過去の厳しい反省と懺悔”そして“世界性の獲得と基礎付け”がなければならず、それはまた“戦争否定“の理念をもたねばならない。これらの反省と自覚を促す動機となるものこそ最も具体的な“比島赦免のモラル“でなくてはならない。そして“児童は最も尊重せられた”実証たる、愛児の名において赦した真意が世界の知性に訴えられ、児童憲章が真に時代を作る平和憲章となることを要求する。かかる理由において原水爆禁止、さらに根源的なる戦争防止と否定のために世界児童憲章の速やかに制定せられることを求めている。」

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日本人戦犯を赦免したエルピディオ・キリノ元大統領(妻や子どもを日本軍によって殺された)と会見する加納莞蕾

この文章の中から、加納莞蕾さんの思想、「児童憲章」と原水禁運動の関わりを学ぶことができると思います。この考え方に、原爆孤児を守るための精神養子運動「広島子どもを守る会」の会長を務めていた森滝先生が強い共感を持たれたことも想像でします。

そして1956年の森滝先生の布部村訪問と布部村未亡人会による「子どもを守る会への義援金」集めにつながったのだと言えます。

後もう一つだけ触れておきたいことがありますので、「森滝市郎先生と加納莞蕾」の「つづきのつづきのつづき」を書きたいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月 1日 (金)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづき

森滝市郎先生と加納莞蕾さん(今回から本文中は「さん」付けにします)のお二人は、何時どこで知り合われたかです。

当時、二人が住んでおられた場所は、広島市と島根県能義郡布部村とずいぶん離れた場所ですので、早くから交流があったとは思えません。間違いなく出会いがあったと思われるのは、1955年8月6日に広島市で開催された原水爆禁止世界大会の会場です。それは、一昨日紹介したアルバムの同じベージの一番下に貼られている写真が説明してくれます。

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写真下の説明文には、「Aug.5.1955 原水禁世界大会広島大会に出発。前田貞明君と 松江駅にて。」と書かれています。2枚同じ松江駅前の写真が貼られていますので、どちらの写真が、前田貞明さんと写ったものかは不明(多分左側の写真と思える)ですが、2枚の写真の左側に写っている人物は同じですので、この方が加納莞蕾さんだということがわかります。

注目して欲しいのは、人物の後ろの垂れ幕です。垂れ幕の全体は写っていませんが、「水爆禁止   界大會 島根代表」の文字が書かれているのがわかります。アルバムの説明文だけでなくこの写真からもはっきりと、1955年8月6日に開催された原水禁世界大会に参加するため、8月5日に松江駅を出発するときに撮られたことがわかります。

ただ、気になるのは「説明文」にある「原水禁世界大会広島大会」という表現です。

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上の写真は、1955年に開催された「原水禁世界大会」の写真です。よく見ていただければわかるように、会場に掲げられた看板には「原水爆禁止世界大会」と書かれているだけです。確かにこの大会は広島で開催されましたが、「とにかく大会を開催しよう」との呼びかけで開催が決まった経緯がありますので、後にこの大会の名称に付けられることになった「第一回」という文言はもちろん「広島大会」という名称も使われていません。

このアルバムは、貼り付けられている順番が、必ずしも年代順ではないことから考えると、後になって写真が整理され、説明文も書かれたため、『広島大会』との記載が加わったと思われます。

少し横道にそれましたが、森滝先生が布部村を訪れたれた写真と加納莞蕾さんが1955年の原水禁世界大会に参加するため松江駅を出発する時撮られた写真が、同じページに貼られていることから、二人の最初の出合いが、原水禁世界大会の場だったと想像して間違いないと思います。

「確かに加納莞蕾さんが、1955年の原水禁世界大会に参加されたことはわかるが、あの大会には、5千人を超える参加者があったと言われているのに、この写真だけを根拠に、二人の出会いがあったと結論づけるのには不十分ではないですか」という疑問がわきます。

その通りです。ところが加納加世子さんは、「二人の出会いがあった」と考えることのできるもう一つの貴重な資料を見せてくださったのです。

その資料、といっても加納莞蕾さん手書きのものではありません。パソコンで打ち替え、A4の紙に印刷されたものです。

タイトルは「加納辰夫 広島へのメッセージ」で、その下に「(昭和30年(1955年)8月6日 第1回原水爆禁止世界大会(広島)における「世界児童憲章」の提案より)と付記されています。

この文章を読むと、間違いなく二人の出会いが原水禁世界大会の場であったことが、はっきりします。それとともに前回紹介した「布部村の未亡人会(原文のまま)から送られた『原爆孤児救援義金』」が、なぜ布部村で集められたのかも理解することができます。

ここまでで、またまた長くなってしまいましたので「加納辰夫 広島へのメッセージ」の紹介は次回にします。

いのちとうとし

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2023年8月19日 (土)

広島中央図書館企画展「いしぶみは語る」―その2

昨日のつづきで、「広島市内の碑③」からです。

「広島市内の碑③」は、地域の慰霊碑やその他さまざまな慰霊碑が紹介されています。

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取り上げられているのは、福島地区町民慰霊碑や広島県防空機動隊員慰霊碑など8つの碑です。今まで一度も訪れたことのない碑が最も多いのがこのコーナーです。初めて名前を目にする書籍も多くあります。何度か訪れようと思いながら実現していない「戸坂供養塔」もあります。少し涼しくなったら行ってみようと思います。

「広島市内の碑④」は、その他さまざまな慰霊碑のコーナーです。

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このコーナーは「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」「原爆供養塔」など7つの碑が紹介されています。全て何度も訪れたことのある碑です。よく知られた碑だからでしょう関連する書籍も多様です。中国新聞記事も多数採用されています。

「広島市内の碑⑤」は、平和記念碑です。

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「嵐の中の母子像」「平和の鐘」「原爆の子の像」など、全て平和公園内にあるもので、なじみの碑ばかりです。やはりという感じですが、「原爆の子の像」に関する資料が多く展示されているのが、特徴的です。

同じような写真ばかりが並んでしまいましたが、これで「広島市内の碑」五つのコーナーめぐりは終わりです。

全国の原爆慰霊碑・平和記念碑も一部ですが紹介されています。

目を引くのは、「広大生による全国の原爆碑の調査」に関する展示です。昨日掲載した1枚目の写真(会場正面)の下側に展示されています。

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展示されている昨年5月16日付けの中国新聞記事から引用します。

「全国の原爆に関連した碑の分布や特徴を昨年春から調べている広島大学教育学部の社会系コース2年生の4人が、36都道府県に計544基あることを確認した。『建立背景は、地域と時期によりさまざま。どれも関係者の思いがこもっている』」

この調査の結果、最も古い碑は「戸坂供養塔 1945年」だとし「爆心地から約5キロ北にある市営墓地内に建っています。被爆直後、中心部から避難してきた多くの被災者は、戸坂国民学校(現戸坂小学校)に設置された臨時の陸軍病院に収容されました。地区で死亡した約600人を火葬した後、慰霊する目的で建立されました。」と解説が書かれています。

この文章を読んで、この碑を訪れてみなければという思いをさらに強くしました。

同じパネルに長崎で最も古い碑、長崎市長崎工業高校内に建つ「弔魂碑」についても紹介されています。

全国原爆碑リストも展示されていますので、一見の価値があります。

その他「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」に関する資料も多数(各コーナーで最も多い資料)展示されています。

これで「広島中央図書館企画展『いしぶみは語る』」見学の報告は終わりです。

このコーナーに隣接して(常設と思われる)「ヒロシマ文学碑」に関する展示スペースがあります。一昨日のブログ「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」で紹介した「広島文学資料室」に納められた資料の一部が展示されていると思われます。

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もう少し多くの資料が常設展示できるコーナーになればと思いながら帰宅しました。

いのちとうとし

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2023年8月18日 (金)

広島中央図書館企画展「いしぶみは語る」

「基町写真展2023」を見た帰り道、市立中央図書館2階展示ホールで開催されている「企画展 いしぶみは語る」を見に行きました。

中央図書館は、毎年8月6日を中心に被爆の実相や広島の復興を伝えるとともに、平和の尊さを共有するために、被爆体験継承事業として企画展を開催しています。

今年の企画展は、「碑(いしぶみ)」に焦点を当てて、戦後数多く建立された原爆慰霊碑や平和記念碑について、写真パネルや図書館の所蔵資料を紹介しています。会期は、9月24日までです。

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展示は、「被爆の実相」「広島市内の原爆慰霊碑・平和記念碑」「碑めぐり」「広島市内の碑」①~⑤「全国の原爆慰霊碑・平和記念碑」「広大生による全国の原爆碑の調査」「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」のテーマで分類されています。

全てのコーナーごとに、「写真パネル」とともに図書館の企画らしく関連する図書館所蔵の図書が展示されているのが特徴的です。

会場に入って、右手の壁面に大きく展示されているのが「被爆の実相」コーナーです。

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平和記念資料館提供の写真パネル8枚とともに「広島原爆戦災史」全巻や体験記、被爆写真集など12冊の書籍が展示されています。

「広島市内の原爆慰霊碑・平和記念碑」のコーナーは、西尾隆昌編「広島のいしぶみはみつめる第」第1集、第2集など6冊の書籍が、「碑めぐり」のコーナーには、広島教育ジャーナル編宅和純著「ひろしま碑めぐり」などのガイドブックやピースマップなど8点が展示されています。ケースは別々ですが並んでいます。

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会場中央には、五つに分類された「市内の碑」コーナーが設けられています。

「広島市内の碑①」は、学校(学徒)関係の慰霊碑が紹介されています。

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六つの碑とそれに関連する書籍や市民が描いた原爆の絵(画像パネル)が展示されています。どれも一度は訪れたことのある碑です。書籍もなじみのものが並んでいます。

わが家の近くにある「大手町小学校・国民学校跡地記念碑」がとりあげられているのには、ちょっと驚きました。碑めぐりでも余り訪れることのない碑です。この碑の解説は、藤岡久之さんが描いた「大手町国民学校校庭。朝礼中に被爆し、焼死した生徒たち」の画像パネルです。

「広島市内の碑②」は、職場関係の慰霊碑です。

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「広島市医師会原爆殉職碑」や「広島銀行役職員物故者慰霊碑」など7つの碑と関連する書籍が展示されています。その中には、このブログでも取り上げた「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」や「日本発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑」もあります。

次は、「広島市の碑③」ですが、ここまでで少し長くなりましたので、残りの紹介は、明日にします。

いのちとうとし

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