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核兵器廃絶

2022年10月 7日 (金)

原爆犠牲者の月命日の法要-その1

平和公園の原爆供養塔には、身元が分からないか、判明しても引き取り手のない遺骨約7万体が、納められています。

その原爆供養塔の前で、毎月6日に犠牲者の月命日の供養が行われていますが、私も昨日初めて参加しました。

以前から、新聞報道などでこの月命日の供養は知っていましたが、実際に自分も参加しようと思うきっかけとなったのは、今年8月6日にTSS(テレビ新広島)で放送された「ヒロシマ祈りの場の1年」を見たことです。この番組は、「祈りの場」としての平和公園で毎日行われている市民の様々な祈りの様子を昨年8月から今年7月までの一年間を通して取材して作られた番組です。

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テレビ新広島ホームページより

 この番組を見ながら、思い出しことがあります。この番組を制作した前田典郎ディレクターには、今年の元日が平和公園の原爆慰霊碑を訪れた時、そこで会い、新年のあいさつをしたのです。その時には、「新年早々から取材で大変だな」ぐらいにしか思っていなかってのですが、いまにして思えば、この番組を制作するための取材中だったのです。

番組の中心は、毎日夜明けとともに公園内にある原爆供養塔にやってきて、供養塔周辺の落ち葉を丁寧にかき集め献花台を清掃しておられる渡辺和子さんの姿や、毎月6日に月命日の供養のための読経を続けておられる呉市の白蓮寺住職の吉川信晴さんの姿でした。

昨日、ようやくこの月命日の供養に参加することができました。前夜に前田ディレクターに電話をかけ「いつ頃から始まりますか」と訊ねたところ「吉川住職は、8時ころには平和公園に来ておられます。始まるのは、はっきりと決まってはいないのですが、8時半前後ですね」と教えていただきましたので、遅れないようにと8時を目途に家をだました。

家を出ると、少しだけパラパラの小雨が落ちてきましたので「本格的な雨にならなければよいが」と心配しましたが、平和公園に着くと間もなく雨は上がりました。

供養塔に行くと三人の人が、清掃されている姿が目に入りました。

供養塔の周りの溝の掃除をされているのが、渡辺和子さんでした。

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供養塔の北側で熱心に落ち葉を集めておられる二人に「どこから来られたのですか」と声をかけました。

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びっくりする答えが返ってきました。「福岡から来ました」「えっ」聞き返しました。聞き違いではありません。「福岡」に間違いありませんでした。続けて「福岡で放送された『ヒロシマ祈りの場の1年』を見たのがきっかけで。どうしてもとの思いできました。」とのことです。番組を見て私と同じ思いをもった人がおられたのです。しかも福岡から。

福岡のお二人と話していると、前田ディレクターの姿が見えました。福岡のお二人の話をした後、前田ディレクターが「住職が近くで待っておられるのであいさつに行きます」とのことですので、同行させてもらいました。

吉川住職とお会いするのはもちろん初めてでしたが、少しだけ話を聞かせていただきました。「今朝は、6時45分に家を出かけ、呉市体育館前から高速バスに乗り、本通前で降りて、歩いてここまで来ました。今日は少し早く着きましたので、ここでゆっくりしていました。」その後、介護度5度の奥さんの介護のことに話が続きます。食事つくりから大変な毎日のようですが「もうすぐ86歳になりますが、介護のしながら、学ぶことが多いですよ。」と淡々と話されます。後で改めて聞いたのですが、私と干支は同じ、ネズミ年生まれ、ちょうど一回り違いです。私たち夫婦もそんな時期を間もなく迎えるけれど、そんなふうに生きられるかなと思いながら、話を聞いていると、すぐに30分くらいの時間が経ちました。「じゃー、供養を始めましょうかね」と読経が行われる供養塔の北側に一緒に移動しました。

前置きが長くなってしましました。今日の報告はここで終わりです。この後の様子は、9日に紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月 3日 (月)

爆心直下の町―細工町・猿楽町

広島原爆資料館の1階で、9月16日から「広島平和記念資料館令和四年度第一回企画展 爆心直下の町―細工町・猿楽町」が始まりました。

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会場に置かれているパンフレットの「はじめに」には、次のように書かれています。

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「通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明版。現在も島内科医院として続く島病院の地上600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町、猿楽町と呼ばれた町にありました。

この企画展では、爆心直下の2つの町に焦点をあてて、被爆前の町の様相、原爆による破壊、再建に向けた歩みを当時の写真や遺品、住民の方の証言を交えて展示します。人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。」

この「はじめに」のとおり、展示は「被爆前の街並み」「変わり果てた光景」「再建の歩み」の順で、写真や遺品が展示されています。

「変わり果てた光景」で展示されている写真は、「見たことがある」と思える写真が並んでいますが、私が一番興味を持ったのは、「被爆前の街並み」のコーナーに展示された、電車通りに面して立っていた護国神社の大鳥居が写った2枚の写真です。

なぜ興味を持ったのかは、大鳥居の写真がいずれも鳥居の裏側(北側)から写されているからです。以前このブログ旧廣島護国神社被爆鳥居―その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「大鳥居の裏側にも額があったが、留め金しか残っていない」ことを紹介しましたが、裏側(北面)の額が写った写真を紹介することはできませんでした。

ところが今回の展示で、その裏側(北面)の額が写った写真が2枚も展示されていたのです。

1枚は、「広島護国神社での防空演習」とタイトルがついています。この写真は、パンフレットにも掲載されています。

もう1枚には、ズバリ「神社の大鳥居」のタイトルが付けられ、キャプションに「神社側から南に撮影したものです。」と書かれています。裏側の額がはっきりと写っています。これで、間違いなく裏側(北面)にも額があったことが確認できました。

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よく見ると原爆によっても落ちることのなかった表側(南面)の額も小さくですが確認することができます。

残念ですが、裏側(北面)の額は、原爆によって落下した後、どうなったのかは、不明のままです。

この他にも興味ある写真が何枚も展示されていますので、別の機会に紹介したいと思います。

「細工町、猿楽町のことを書いた本があったな」と思い出し、田邊雅章さんの「原爆が消した廣島」を引っ張り出して、先日紹介した森冨茂雄さんの「絵と証言 消えた町 記憶をたどり」ととともにもう一度読み直してみようと思っています。

この企画展は、来年の2月13日まで開催されていますので、ぜひ行って見てください。何か新しい発見があるはずです。パンフレットも貴重に資料です。

いのちとうとし

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2022年9月27日 (火)

被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催

広島県原水禁は、昨日午後6時から自治労会館で被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催しました。その前段として、午後5時から県原水禁常任理事会を開催しました。

いずれの会議も、8月4日から6日に開催された被爆74周年原水禁世界大会広島大会の総括案が協議されました。

秋葉忠利代表委員のあいさつの後、高橋事務局長からは、中央実行委員会が提示している「被爆77周年原水禁世界大会総括(案)」が提起されました。

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以下に昨日の会議に提案された総括案のうち、広島大会に関する部分を抜粋して紹介します。

【大会参加】

福島大会400人(74大会650人)、広島大会開会総会1200人(74大会1900人)、長崎大会開会総会800人(74大会1800人)、国際シンポジウム40人(74大会60人)となりました。3年ぶりに従前までの規模での開催をめざすとしながらも、7月8月の全国的な新型コロナウイルス感染状況は、第7波とも言われる感染者増により、大会参加に戸惑いが生じたことも事実です。また宿泊については、感染症に配慮する観点から、シングルユースを基本とした案内を旅行社が行っていることにより、現地に行きたくても宿泊の確保が難しい状況となりました。そして、3年ぶりの人数制限のない大会となったことから、各都道府県、中央産別ともに事務局が初めての経験となったところも多く、参加体制確立に向けた戸惑いも聞かれました。

また、オンライン配信と対面開催とのハイブリッド型を模索してきました。オンライン配信については、準備と費用、人員が相当必要であること、通信環境を一律に整えることが困難なこと、今大会で「再び原水禁運動の熱を感じる」ためにはオンラインでは十分ではないことから、福島大会と広島での国際シンポジウムのみ実施し、その他開会総会や分科会についてはアーカイブでの配信としました。まずは、対面での開催が3年ぶりに実施できたことにより、原水禁運動は確実に歩みを進めていることを参加されたみなさんと確認することができました。

【子ども、若者の取り組みについて】

これまで広島で開催してきた「メッセージfromヒロシマ」は被爆の実相を次世代へ継承するうえで重要な取り組みでした。その価値は普遍でありながらも、現状では安心して子どもたちを多数集める状況にはないことから、今大会では開催を見送り、次年度以降の開催をめざすこととしました。

【参加拡大に向けて】

大会運営の基本ルールである「反核・非核で一致する」すべての人々に開かれたものとし、さまざまな立場の人たちが共同できる場としていくためにも、新規参加者および一般参加者の増加を見通した大会運営を心掛けていく必要があります。これまでの大会同様、7割以上の参加者が初参加となったように、今大会を原水禁運動の入口と捉え、広範な市民運動として発展させていくうえでも、大会内容の工夫については模索し続けていく必要があります。

以上のような提案を受け、意見交換を行いました。

主に分科会の進め方の問題点、核兵器禁止条約と核拡散防止条約の関係をどう考えるのか、岸田首相のNPT再検討会議でのあいさつの問題点、来年のG7等に対し、広島としての明確な態度を示す必要がることなどの意見が出されました。

広島大会は、3年ぶりの対面方式による大会開催となりましたが、県原水禁常任理事、そして各労働組合の協力によって、無事大会を成功させることができたと思います。また危惧されたコロナ感染も可能な限りの感染対策を行い、無事大会を終えることができました。

広島県実行委員会は、昨日の会議をもって解散することを決めましたが、今後10月いっぱいに総括に関わる意見をまとめ、12月に予定されている中央実行委員会の最終的な大会総括に向けて広島の意見が反映するよう努力することを確認しました。

いのちとうとし

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2022年9月18日 (日)

住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その2

一昨日のつづきです。

早速住吉神社の社務所を訪れました。最初は、ドアホーン越しの話でしたが、すぐに宮司さんが社務所に出てこられ、私の問いに丁寧に答えていただきました。

答えは「被爆当時のことを知る者はいなくなったのですが、私が聞いている話では、被爆後残った樹木は、松2本、クスノキ、エノキの計4本です。平成8年から9年にかけて神社を改築しました(金子注:実際の再建は1991《平成8年》)。その時被爆松2本は、移植したのですが、クスノキとエノキは、伐採しました。」ということです。さらに「昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱と凱旋碑は、境内からは撤去し別の場所に保管しています。」とのことでした。

この答えを聞いて私が、「こちらには、被爆後の神社の様子が写った写真は保管されていませんか」と訊ねたところ、「こちらには、そんな類の写真は一枚もありません。ただ、広島市が発行した印刷物で、被爆松2本が写った写真と見たことがあります。住吉橋の東橋詰南側では、被爆直後遺体が焼却されたそうですが、その南側から北に向かって(金子注:住吉神社の方向)写した写真だったように覚えていますが?」と教えていただきました。「本の名前は覚えておられませんか」と問うたのですが「どんな本だったか覚えていませんね」との答えでしたが、貴重な情報を得ることができました。お礼を言って、住吉神社を後にしました。

「市が発行した印刷物」との答えを頼りに、すぐにわが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪れました。

「市が発行した印刷物に住吉神社の被爆後の写真があると聞いたのですが、何かご存知ないですか?」あまりにも漠然とした問いかけでしたが、すぐに返事が返ってきました。

「1996年に発行した『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る―未来への記録』にひょっとすると何かあるかもしれません」

調べると「吉島・舟入・観音地区―建物・橋・樹木」の項に、「マツ・住吉神社」とタイトルの付いた下の写真がありました。

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キャプションには、「住吉橋から本川沿いにマツが並ぶ(1955年頃)」と書かれています。よく見ると、間違いなく川沿いに2本の松が映っています。神社本殿の後ろには、ケヤキかエノキかはっきりしませんが、大きな木が映っています。

写真の右上に移っている斜めの鉄骨は住吉橋の一部だと思われます。住吉橋は、1945年の原爆と水害によって流出し、1951年にコンクリート橋に建て替えられたのですが、その年のルース台風によって再び流失しています。その後新たの工法が検討され、わが国で初めてとなる鋼ローゼ橋が採用され、1954年3月に現在の橋が完成しました。

被爆で倒壊・焼失した住吉神社の再建は、1952年ですので、この写真は再建後すぐの貴重な写真と言えます。

写真では、川沿い2本の松は、かなり間隔をあけて植えられていますので、被爆樹木で間違いないと言えます。もし、松が1952年の再建時に植えられたのであれば、もっと本数が多く並木のようになっていたはずです。

住吉神社の被爆松が何本かを知るため、被爆直後の写真も探しをしました。広島原爆資料館(広島平和記念資料館)の平和データベースで関連する一枚を見つけることができました。

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米国戦略爆撃調査団が、1945年11月に住吉橋の西詰から東方を写したもの(所蔵は米国国立文書館)で、広島平和記念資料館から提供を受けました。

松が1本残っているように見えますが、神社の敷地全体が映っていませんので、これだけでは判断することができませんでした。ただよく見ると、対岸の左側に写る電柱のすぐ左に、7月のブログで紹介した「住吉橋記念燈」が写っていますので、記念燈が、間違いなく被爆したものであることがわかります。

今度の調査で「住吉神社の被爆樹木は松2本でした」という結論に達しましたが、なぜ1971年に発刊された広島原爆戦災誌に「ただ1本、川べりの松が現在まで残っている。」と記録されたのかという疑問は、解明することができませんでした。

いのちとうとし

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2022年9月 9日 (金)

長崎朝鮮人原爆犠牲者追悼式への「追悼の挨拶」

長崎市の爆心地公園の一角に「追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者」碑があります。この碑の詳細は、別の機会に紹介したいと思いますが、碑は1979年8月9日に建立されました。

以後毎年、8月9日の午前7時30分から追悼早朝集会が開催されています。その追悼式には、ここ数年(私の記憶では3年前から)、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮原爆被害者協会から「追悼の挨拶」が送られてきています。

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今年の「追悼の挨拶」がようやく入手できました。原文は、ハングル文字ですが、朝鮮総連のみなさんが日本語に訳された全文を、ちょうど一月遅れになりましたが、紹介します。


朝鮮人原子爆弾被害犠牲者追悼会実行委員会貴中

 人類史に二度と起こってはならない原子爆弾の惨禍が深く刻まれたこの日、日本の地で倒れた数万人の朝鮮人犠牲者たちの魂を慰労し、追悼の挨拶を送ります。

国を奪われ、恨み大き異国生活、徴用生活に悔しい思いをしていた我が朝鮮同胞たちが、理不尽にも原子爆弾の洗礼に無残に犠牲となった日から77年の歳月が流れました。

10年もたてば江山も変わると言いますが、その江山が7回も変わってもなお、血肉の懐に戻れぬまま、異国の空を彷徨っている同胞たちの魂を思うと、祖国の人民たちも心の痛みを堪えることができません。

日帝の銃剣により日本の地に連れていかれたせいで、他人の頭に落ちた火の玉をかぶり、悔しく焼け死んでいった我が同胞たち、火炎の中で消えゆく解放の希望、帰郷の船道を必死に探しながら目も閉じることができず息絶えていった我が同胞たちでした。

さらに心苦しいのは、苦しみながら生き残った朝鮮人原子爆弾被害者たちですらも、日本当局の民族排他主義、反共和国敵視政策により、当然受けられるはずの医療上の幇助と支援を満足にもらえず、2重3重の精神肉体的苦痛を受けていることです。

原子爆弾が落ちた直後にも、朝鮮人と日本人を分け隔て、被害者治療において民族差別を行った日本は、我が共和国を敵対視して祖国に渡ってきた我が原子爆弾犠牲者たちを全面無視、全面排斥する破廉恥な態度をとっています。

まさにこのような日本であるから、世界的な大流行伝染病が取り巻くこの動乱の時期に、小さな医療支援からすらも朝鮮学生を排除する非人間的な行動を恥ずかしげもなく行っているのです。

しかし、罪は犯した者のもとへと行き、悪行には、懲罰がつきものです。

日本がどのような汚い手段を使って、朝鮮人原子爆弾被害者問題を含む過去に犯した反人倫的犯罪の清算を回避しようとしても、このような大きな罪悪に対する責任から絶対に逃れることはできないでしょう。

我が国と我が民族を40余年間も独占し、840万余名の無辜な朝鮮青壮年たちを強制連行し100万余名を虐殺し、20万余名の朝鮮女性たちを性奴隷として連れて行ったばかりか、数万名の朝鮮人たちに原子爆弾被害まで負わせたその罪悪の代価を必ずや支払うことになるでしょう。

われわれは、民族の多大な苦痛と犠牲の歴史を永遠に記憶し、苦しみながら倒れた全ての犠牲者と被害者たち、遺族たちの恨みを必ずや晴らすことでしょう。

積もりに積もった怨恨に眠れずにいるであろう異国の地の全ての朝鮮人原子爆弾被害犠牲者たちの魂が、血肉の情と愛を込めて送る祖国の人民たちの慰労の中で少しの間だけでも安息を得てくれることを心から願います。

朝鮮原子爆弾被害者協会

チュチェ111(2022)年8月9日


 

残念ですが、広島には「朝鮮人」の文字が入った慰霊碑はありません。いつか、広島にも「朝鮮人」の文字が入った慰霊碑が建立されることを願っていますし、私もできる努力をしたいと思っています。

いのちとうとし

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2022年9月 7日 (水)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその4

ところで、「核と人類は共存できない」ということばが、原水禁世界大会の中で森瀧先生のことばとして使われたことはないのかと「原水禁世界大会報告集」を調べてみました。残念ながら大会報告集で手元にある(図書館も所蔵していない)のは、「被爆31周年」の次は「被爆41周年」以降のものしかありませんので、その範囲で調べました。その結果、1986年8月9日に開かれた「被爆41周年原水禁世界大会」の森瀧先生の「閉会あいさつ」の中に次の文章があるのを見つけました。

「『本大会』を通じて核と人類は共存できないという共通認識を確認することができました。共存できないということは核が人類を否定するか人類が核を否定するかいずれかであるということであります。私たちは、核を絶対に否定することによって生き残らなければなりません。私たちは核絶対否定の道によって人類の生存を確保することに深い自信をいだくようになりました。」

「核と人類は共存できない」のことばにまつわる調査で、いまのところ以上のようなことを知ることができました。

確かに被爆30周年原水爆禁止世界大会の基調報告では、「核と人間は共存できない」と「人間」ということばで訴えられています。残念ですが、なぜ森瀧先生が、この基調報告の中で「人類」ではなく「人間」ということばを使われたのかを今となっては知るすべはありません。

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しかしはっきりしたことは、森瀧先生自身が、「被爆30周年原水爆禁止世界大会の基調報告」を後に引用される際、「人間」となっていた部分を「人類」ということばに書き替えられたということです。

今回調べて(といっても充分なものではありませんが)いえることは、全体の森滝先生の思想として「人類」という考え方が、その中心にあったといってもよいと思います。

今回は「核と人類は共存できない」という理念について検証しましたが、森瀧先生がよく言われていたのが「人類は生きねばならぬ」ということばです。「核絶対否定」と共によく色紙などにも揮毫された言葉です。ここでも「人類」となっています。

このことからも森瀧先生の念頭には、「人類」という考え方があったのではないでしょうか。ですから森瀧先生の晩年身近にいたものの一人として、私はやはり森瀧先生の意思は「核と人類は共存できない」であり、いまはこの言葉で伝えるべきだと結論付けたいと思います。

ところで、今回調べていて奇妙なことに気がつきました。

今回紹介した「核絶対否定への歩み」(社会新報連載記事)から引用した部分のすぐ前にはこう書かれた一行があります。「しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのです。」ここでは「人間」ということばが使われています。豊永先生に「人間ではないか」と指摘された広島大学の先生は、この部分を言われていることが、後でわかりました。

ところが、このシリーズの第1回で紹介した「被爆30周年原水禁世界大会の基調演説」では、この一行は「所詮核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人類の生存を否定するものである、と断ぜざるを得ないのです。」と「人類」ということばになっています。なぜだろうと、気になるのですが、これも今では解明することができません。

今回は、豊永さんからの質問で「『核と人類は共存できない』か『核と人間は共存できない』か」について書くことになり、改めて勉強することができました。

今度は「核と人類は共存できない」「核絶対否定」に至る道を改めて考察してみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月 3日 (土)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその3

この書籍「核絶対否定の歩み」は、残念ながら森瀧先生が亡くなられた(1994年1月25日没)後の1994年3月に発刊されています。しかし、この本の出版計画は、森瀧先生ご存命中に進んでいましたので、この本の編集の中心となった下畠準三さんが、森滝先生の生前中に何度もご自宅に足を運び、先生と一緒「何を掲載するか」を含め、検討し作業を進められ、生前にほぼ完成していたものです。ですから、当然森瀧先生の了解を得て編集発刊されたものです。

残念ながら下畠さんは、今年5月に永眠されましたので、いまでは直接その詳細を確認することはできません

この「核絶対否定の歩み」の編集者ともいえる下畠さんは、全電通広島被爆者連絡協議会が1970年から1983年までの間に第10集まで発行した原爆体験記「原子雲の下に生きつづけて」の編集責任者でもありました。

この「原子雲の下に生きつづけて」には、森瀧先生が書かれた題字が使われ、5集までの全てには、先生の「巻頭言」ともいえる文章が寄せられていますので、森瀧先生と下畠さんは、深いつながりがあったことがわかります。

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そのことは、「原子雲の下に生きつづけて」の第4集に、森瀧先生と下畠さんの対談が収録されていることからも理解できます。

その対談の中で、下畠さんの「それは先生の哲学的思索の結論ですから、短い時間に変わっていくというものではないと思いますし、まして、根本的命題、先生の体系、原理というものでしょうから・・・」との問いに森瀧先生は「人類は生きねばならん、これが今の私の至上命令ですよ、倫理学の、平和の倫理の・・・」「それから原水禁運動そのものも、ひらきなおって大きく言えば、人類の生命というもの・・・」と答えられています。

さらに対談の最後の部分では、「私の戦後の発想法の人類という概念がものすごく実在化して、この、人類の運命などと昔いったら、大きなことをいうなってことになって抽象的になったのですが、いまはそうではないでしょう。原爆だけでもそうだったのが、今や世界的な公害になって来ますと、まさに人類の運命を考えざるを得ないようになってきた。人類は生きつづけなければならんという命題をたててみたりしますとね、」

そのことは1976年に日本評論社から発刊された「森瀧市郎反核30年」の前書きに次のように記されていることからもわかります。

「また、広島大学在職中に学生たちに乞われるままに書いたものや、広島の諸誌・諸新聞に寄せた折々の感想・提言などの中に『人類は生きねばならぬ』という私の根本命題にそった訴えのいくつかを加えた。私は、被爆後30年間殆ど宿命的に辿った歩みが、核絶対否定の志念(原文のまま)と行動であったことを核時代の世界人類に訴えたいという願いをいだきつつこの書を世におくる。」

もう一つ紹介しておきたいのは、同じ「森瀧市郎反核30年」の書名ともなった「反核30年」と題した文(全電通新聞=全電通労働組合機関紙=に1973年10月から1975年8月まで70回のわたる連載)の「核時代の道徳的義務」の項で次のように記されていることです。

「第4回大会(1958年)の宣言に『道徳的義務の分科会』の討議の要旨を盛ろうとして、私にその部分の起草を求めた。それは極めて簡潔でなければならなかった。曰く、『全人類が生死を共にしなければならない原子力時代に於いては自滅を防ぎ共存を促進することは人類の至上かつ普遍的な義務である。この義務は生命への深い畏敬と人類共同体の保存への願望に根がしている』と。」

「人類」という考え方は、森瀧先生にとっては至上のことだったと推察できます。

いのちとうとし

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2022年9月 2日 (金)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその2

私が所蔵している「原水禁世界大会報告集」の中には、「被爆30周年原水禁大会」の報告決定集がありませんので、広島市立図書館のホームページで蔵書検索をしてみました。中央図書館が、所蔵していることがわかりましたので、すぐに中央図書館に行き、調べました。

そこには間違いなく「核と人類は共存できない」に収録されているとおり「核と人間は共存できない」と「人間」ということばになっています。

しかし、前後の文章では、全て「人類」ということばが使われていますので、なぜここで「人間」ということばが使われているのか、もう少し調べてみることにしました。

その1で引用した文章の中に「先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは」と書かれていますので、同じ「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」に収録されている「国際会議」での森滝先生の「日本側代表基調演説」を読むことにしました。

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「国際会議の基調演説」には、次のように書かれています。

「私は以上の概観の上に立って、この核の時代30年を総括して『核分裂エネルギーを利用する限り人類は未来を失うだろう』というテーゼを提起したいと思います。

と申しますことは、人類は核と共存することはできない故に、核分裂の利用の全てを否定する核絶対否定の理念をいよいよ高くかかげ、人類の生きのびる道を切り開いてゆかなくてはならないということであります。」(強調はいのちとうとし)

ここには、「核と人類は共存できない」ということばではありませんが「人類は核と共存できない」と、人類ということばが使われています。

ところで、「被爆30周年原水禁世界大会基調演説」の問題の部分を、後に森滝先生自身が引用し紹介された文章があります。それは「核絶対否定への歩み」と題して、日本社会党機関紙「社会新報」1979年6月15日から7月24日まで連載された原稿です。

この連載記事は、重要な文章だということで、1994年3月に原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)が、発刊した「核絶対否定の歩み」に収録され、それを底本にして原水禁国民会議が2015年に発刊した「核と人類は共存できない」にも収録されています。

「生存のために」のサブタイトルがついた項があります。

そこには「大会基調演説の草案を精魂こめて書いた。その演説の後半は、いわば『核絶対否定』の宣言であった。」と記した後、「いわく」のことばの後「演説文」が長文で引用されています。

「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」で

「結局、核と人間は共存できないのであります。

共存できないということは人間が核を否定するか、核が人間を否定するかより外ないのであります。われわれはあくまで核を否定して生きのびなければなりません。」となっている部分が次のように修正されています。

「結局、核と人類は共存できないのであります。

共存できないということは、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかないのであります。われわれは、あくまで核を否定して生きのびなければなりません。」

ここでは、「被爆30周年原水禁大会報告決定集」で「人間」となっていたものが、全て「人類」ということばに置き換えられています。

いのちとうとし

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2022年9月 1日 (木)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその1

先日、豊永恵三郎さんから「森瀧先生が言われたのは『核と人類は共存できない』ではなく、『核と人間は共存できない』だと広島大学の先生から指摘を受けました。私は『核と人類は共存できない』と思っているのですが、金子さんはどう思われますか」と問い合わせる電話がありました。

その時は、私も、豊永さんと同じように当然「核と人類は共存できない」だと思っていましたので、そのことを伝えるとともに、「私なりに調べてみます」とお答えし、電話を切りました。

広大の先生は「『人間』と書かれたものを見た」と言われているということ(この時点ではどこに書かれているのかは不明)でしたので、私も気になったので、関係する文献を調べてみることにしました。その結果をこれから4回に分けて紹介します。

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最初に調べたのは、森瀧先生が最初にこの言葉を提起された被爆30周年原水禁世界大会の基調演説です。この基調演説は、原水禁国民会議が2015年に発刊した「核と人類は共存できない」に収録されていますので、すぐ見つけることができました。

同書の55頁に次のように書かれています。少し長めですが、前後を含めて引用します。

「私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定しつづけてきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。所詮核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人類の生存を否定するものであると断ぜざるを得ないのであります。結局、核と人間は共存できないのであります。

共存できないということは人間が核を否定するか、核が人間を否定するかより外ないのであります。われわれはあくまで核を否定して生きのびなければなりません。

 核兵器を絶対否定してきた私たちは平和利用をも否定せざるを得ない核時代に突入しているのであります。『核兵器絶対否定』を叫んできた私たちは今やきっぱりと『核絶対否定』の立場に立たざるを得ないのであります。『平和利用』ということばにまどわされて『核絶対否定』をためらっていたら、やがて核に否定されるでありましょう。先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは『核分裂エネルギーを利用する限り人類に未来を失うであろう』ということでありました。くりかえし申し上げます。『核分裂エネルギー使用する限り人類は未来を失うであろう』と。

 人類は未来を失ってはなりません。未来の偉大な可能性を確保しなければなりません。私は被爆30周年のこの大会で世界に訴えます。

 人類は生きねばなりません。そのためには『核絶対否定』道しか残されていないのであります。

 ご清聴感謝します。」

確かに、この文章の中では「核と人間は共存できない」となっています。気をつけて読んでいなかったなと反省しました。

「本当にそうなのか、誤植ではないか」と疑問が湧きましたので、そのもととなっている「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」を調べることにしました。

いのちとうとし

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2022年8月30日 (火)

「核の平和利用」を認めた結果が?

7年ぶりに開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、前回(2015年)に続き、再び最終文書を採択できずに、26日閉幕しました。

その問題点については、イライザさんが昨日の「ヒロシマの心を世界に」NPT再検討会議で最終文書不採択: ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で詳しく書かれていますので、ぜひそれを読んで下さい。

私は、少し違う視点から、この問題を考えてみたいと思います。

28日付の中国新聞1面には「NTP会議再び決裂」の見出しが大きく横書きされ、縦書きの一行目の見出しは黒い地紋に白抜きで「露、ウクライナ原発記述に反発」と書かれ、ロシアが反対したため、最終文書が採択できなかったことを強調しています。

確かにロシア一国が反対したため、最終文書が採択できなかったことは、間違いのない事実ですので、その限りにおいてロシアが避難されるのは当然のことだと思います。

ただ私が着目するのは、最終的に合意ができなかったといわれる「ウクライナ南部ザポロジエ原発の管理をウクライナに戻すことを促す」項目(28日中国新聞3面)です。

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ザポロゼエ原発

私がここで指摘したいのは、ロシアのウクライナ軍事侵略によって明らかになったことは、もちろん原発の管理の問題もありますが、戦争(軍事攻撃)の中で、原発がいかに脆弱で危険なものかということです。ザポロジエ原発だけでなく、チェルノヴリ原発で起きる軍事行動のニュースが伝わるたびに、私は原発事故というか破壊の危機に直面し、その惨事が起こらないことを願いました。

以前から指摘されてきたことですが、核拡散防止条約の問題点の一つとして、非核兵器保有国に核兵器の保有を求めない代償として核の平和利用(原発)を認めていることが挙げられています。

皮肉なことに、核拡散防止条約で認めている原発が、今回のNPT再検討会議での最終文書採択の足かせとなったのです。

ロシアのウクライナへの軍事侵略によって「核兵器使用の危険性」に現実のものとして向き合うことになったのですが、同時にこの軍事侵略は、原発がいかに危険なものであるかも明らかにしたはずです。

現に、ザポロジエ原発は、いまも砲撃にさらされ、大惨事の瀬戸際にあることが、連日報道されています。ザポロジエ市は、甲状腺の被曝を抑える安定ヨウ素剤の配布を始めたと報道されています。

最終文書案の全文を見ていませんので憶測でしか言うことはできませんが、こうした「原発の危険性」については、全く触れられていないと想像できます。ザポロジエ原発をどこが管理するかも重要なことかもしれませんが、それ以上に原発の危険性こそ、論議されるべき課題であったはずです。

しかし、核の平和利用は、残念ながら核兵器禁止条約でも認められているのですから、それを望むのは無理なことかもしれません。

だからこそ私たちは、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を強く訴えなければならないのです。それが私たちの役割だと改めて決意しています。

いのちとうとし

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