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核兵器廃絶

2024年9月 3日 (火)

中国新聞の二つの記事―その1

昨日の中国新聞の二つの記事、興味深く読みました。

一つは、9面の「平和コーナー」に掲載された「私の道しるべーヒロシマの先人たち」です。このブログの執筆者の一人でもある木原省治さんが、広島県原水禁の事務局長、代表委員を長く務めた宮崎安男さんについて語ったものを森田裕美記者がまとめたものです。

木原さんらしい宮崎さんへの思いが伝わってきます。

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この記事を読んで、森田記者に下記のメールを送りました。

「新聞を手にして、すぐに『平和面』を開きました。森田さんのまとめ、さすがと思いながら読ませていただきました。

木原さんの宮崎さんへの思いも伝わりますが、ずいぶんと森田さんの感想が入っているなと思ったのは、私の思い過ごしでしょうか。

被爆者では無いけれど、被爆者以上に被爆者や広島を思い、同時に黒子に徹して活動した希有な人だと思います。

あの労働組合嫌いの伊藤サカエさんが、何かあると『宮チャン、宮チャン』と頼りにしていたことも思い出されます。

平和会館では最後にいろいろありましたが、宮崎さんは最後までその姿勢を貫きました。誰にでも出来ることではありません。

そして、何よりも若い人たちに大きな影響を与えた人です。反核・平和運動だけで無く労働運動の中でも。私もその一人ですが。

資料も大切にした人です。広島県被団協の資料を宇吹さんに整理をお願いしたのも宮崎さんだったはずです。整理が終わった後、原医研に『取りに行ってくれ』と頼んだのも宮崎さんでしたから。

そうそう、『平和会館物語』の小冊子を作ったのも宮崎さんです。中国からのカンパのことなど、貴重に資料が掲載されています。もしこの小冊子が無ければ、『平和会館の成り立ち』も忘れられてしまうことになったと思います。

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森滝市郎先生のお別れ会(94.2.5)の翌々日平和会館で

光生まれだったことが紙面でも紹介されていますが、よく話していたことは、終戦間際になった814日の光大空襲のことでした。宮崎さんにとっての戦争の一番の印象だったと思います。

私も宮崎さんとの思い出は、つきません。90年代の終わりから、2000年代にかけて、よく口論になったものです。その時、いつも言われたのが『誰がこの運動を引き継ぐのだ。君しかいないだろう』。期待をかけていただいたのですが、それに充分答えているだろうかと自問自答しながら、少しでも宮崎さんの思いを引き継ぎたいと思っています。

宮崎さんの死は、あまりにも突然でした。この年は、忘れることが出来ません。7月の参議院選挙に比例区候補として立候補を決意し、その日は、米子の国労の会議であいさつするため移動中の伯備線の車中に電話が入りました。『宮崎さんが亡くなった』との第一声です。先日、元気な姿を見たばかりですから、この宮崎さんが宮崎安男さんだとは、とても思えませんので、『宮崎さんってあの宮崎さんか』と何度も確認したことが忘れられません。翌日は、東京での予定がありましたので、米子から東京に飛行機で移動する予定でしたが、米子でのあいさつを終えると急きょ広島に引き返しました。そして、もう自宅は出られたということで、五日市玉泉院に行き、お別れをし、東京に移動しました。ですから、通夜にも葬儀にも参列できませんでした。

スミマセン。長いメールになってしまいました。ついつい思い出すことが多かったものですから。

こうして、宮崎さんの足跡を伝えていただき本当にありがとうございました。感謝、感謝です。

その思いを込めて、このメールを送らせていただきました。」

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

この記事の筆者水川恭輔記者にもメールを送ったのですが、それは明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年8月16日 (金)

国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」

ここ数年8月15日は、広島文学資料保存の会・広島花幻忌の会・四國五郎の会が主催する集会に参加してきました。この集いは、2002年の8月15日に原爆ドーム前の原民喜詩碑の前で「原爆・反戦詩を朗読する市民の集い」として開催され他たのが最初で、今年で23回目です。

今年も、午後1時半から合人社ウェディひとまちプラザで開催された「第45回サントリー地域文化賞記念 国際シンポジウムー原爆文学の今を考える」に参加しました。

オープニングは、金秀光さんのアコーディオン「アリラン」の追悼演奏。その後全員で黙祷詩、集いは始まりました。

プログラムは、1部、2部構成です。

1部は、例年のように詩の朗読です。大田洋子、原民喜、栗原貞子、四國五郎、峠三吉の作品が、大田洋子ゆかりの進徳女子高校生4人、元NHKサナウンサーの杉浦圭子さん、有志の皆さんによって、朗読されました。

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2部は、広島文学資料保全の会代表の土屋時子さんの司会で、4人のパネリストによる国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」です。

土屋さんは、なぜ「原爆文学の今を考えるシンポか」を次のように話しました。

「サントリー地域文化賞は、『広島の作家の文学資料を調査・収集し、広島の文学の価値を高め、散逸の危機にあった資料を文化的遺産として守り、その意義を国内外に伝える継続的な取り組み』が評価されて受賞しました。このシンポジウムでは、『広島の文学、とりわけ原爆文学の力を検証して、広く発信し未来へと繋いでいくためにどんな取り組みが必要か』を論議していきます。」

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パネラーは次の4人です。

大田洋子と晩年同居し、大田洋子の評伝『草饐』の著者でノンフィクション作家江刺昭子さんは「今こそ太田文学の拡散を」と訴えられました。

「チンチン電車と女学生」「原爆供養塔」「暁の宇品」などの著者でノンフィクション作家の堀川惠子さんは「空白の10年といわれた時期、言葉の力を信じて闘った文学者がいた。彼らは命をかけて『ヒロシマに向き合った』。今、文学の力を再考しなければならない」と訴えました。

3人目の、岩波新書「原民喜 死と愛と孤独の肖像」の著者で、ノンフィクション作家の梯久美子さんは「ウクライナ、そしてパレスチナと虐殺の悪夢に世界が震撼する今こそ、文学に何が出来るか、原爆文学の意味と価値は何処にあるのかを問い直すべときだ」と指摘。

最後にアメリカのアン・シェリフさん。アン・シェリフさんは、1995年にアメリカで発表され、2010年に日本で翻訳された「グランド・ゼロを書く、日本文学と原爆」を紹介しながら、アメリカで原爆文学がどう考えられているかを紹介しました。

それぞれの発言のあと、相互の意見交換で梯さんが次のように述べられてことが印象的でした。「被爆者がいなくなる時代と言われているが、文学を経由すればヒロシマに近づけるのではないか」

これだけのメンバーが揃うシンポジウムは、貴重な機会でしたが、私の能力では、ここまでしか紹介できません。

広島文学資料保全の会が、近いうちにホームページ広島文学資料保全の会 - 広島文学資料保全の会 (jimdofree.com)にYouTubeで紹介されるようですので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

いのちとうとし

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2024年8月14日 (水)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会主催者あいさつーつづき

昨日のつづきです。


私は、6月20日に中国を訪問し、中国人民平和軍縮協会の安秘書長と会談をしました。その会談で、中国の「核兵器の先制不使用」宣言をさらに継続することを求め、合意しました。

核兵器保有国が、「核兵器禁止条約」に背を向けている今、

核攻撃をされない限り核兵器を使わないと約束する核兵器先制不使用宣言は、核兵器の使用、威嚇による脅威を低下させ、核軍縮を前進させることの出来る具体的な約束の一つです。

すべての核保有国が、核兵器の先制不使用宣言することを強く求めます。

中国代表団は、長崎大会に参加することになっていますので、長崎大会で論議を深めたいと思います。

私たちが、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を明確にしたのは、1975年の被爆30周年原水禁世界大会です。

「核と人類は共存できない」

この言葉は、福島第一原発事故以降多くの人が口にするようになりました。

そのこと自体を否定するものではありませんが、「核と人類は共存できない」という言葉には、もっと深い意味が込められています。

先に述べた「核兵器禁止条約」の前文には、核兵器の使用によるヒバクシャと核実験被害者の苦痛に留意すると明記され、第6条、7条には、被害者の救済が盛り込まれました。

核被害者を救済する初めての国際条約です。

しかし、この条約で救済の対象とされているのは、核実験被害者に限定されています。

「核と人類は共存できない」という基本理念を提起された森滝市郎先生は、その理念を確立する最後の一押しとなったことを次のように述べておられます。

「一番忘れられないことは、オーストラリアの先住民アボリジニの娘さんの鋭い訴えであった。『ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにして、ウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである』」

核実験被害者が救済されるのは当然のことです。

しかし、力の象徴と言える核社会では、核実験被害者だけが核被害者ではありません。

核社会は、ウラン採掘からはじまるすべての段階で、常に弱い立場の人たちを犠牲にし、多くの核被害者を生み出しています。

「核と人類は共存できない」という理念には、すべての核被害者を救済し、再びヒバクシャを作らないという強い思いが、込められています。

私たちは、この大会にアメリカ・ニューメキシコ州の先住民ナバホの、

ウラン採掘による核被害者を招待しました。

ウラン採掘からはじまる核社会の中でヒバクシャとなった人たちの被害の実相と向き合い、「核と人類は共存できない」に込められた理念を共有して欲しいと思います。

すでに27日の福島大会で論議されていますが、最後に原発問題に触れたいと思います。

13年前の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故は、多くの被曝者をつくり、今なお故郷に帰ることの出来ない人々を作りました。

私は、今年5月福島を訪れ、現地視察を行ないました。福島原発事故は終わっていません。

しかし、政府は、被害者を切り捨て、再び安全神話を強調し、原発に依存する社会づくりを強行しています。

原発事故被害者を救済するのは、政府と電力会社の責務です。

原発に絶対の安全はありません。

再び原発事故被害者を作らせないためは、脱原発の道しかないのです。さらなる脱原発運動の強化が求められています。

それは私たちの責務です。

大変厳しい暑さの中での広島大会となりましたが、体調に充分留意して。大会成功のため、皆さんのご協力をお願いし、主催者を代表してのあいさつと致します。

ありがとうございました。


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私があいさつで触れたように、長崎大会開会総会に参加し海外代表としてあいさつした中国人民平和軍縮協会安秘書長は、中国が進める「核先制不使用」政策について、7月に行なわれたNPT再検討会議第2回準備会議で「核先制不使用」についての決議を提出したことなど詳しく紹介してくれました。あいさつは、【被爆79周年原水爆禁止世界大会・長崎大会】開会行事 (youtube.com)の23分11秒くらいから視聴することが出来ます。

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2024年8月13日 (火)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会主催者あいさつ

今年の原水禁大会広島大会開会総会でも主催者あいさつを行ないました。

私の主催者あいさつは、【被爆79周年原水爆禁止世界大会・広島大会】 開会総会 (youtube.com)の2分48秒から視聴出来ますが、そのあいさつを今日、明日の2回にわけて掲載します。

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被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会の開会にあたり、主催者を代表してごあいさつを申し上げます。

大変お忙しい中、ご来賓として出席をいただきました広島市村上慎一郎市民局長に大会参加者を代表してお礼申し上げます。

また連日厳しい暑さが続く中、遠く海外からそして全国各地から参加いただいた皆さん大変ご苦労様です。

今核をめぐる状況は、核兵器保有国の政治家たちが、核兵器の使用や威嚇を公言し、かつてない核兵器の使用が危惧される厳しい情勢です。

この危機を作り出しているのは、ロシアのウクライナへの軍事侵攻であり、

イスラエルによるガザへの非人道的なゼノサイドとも言える軍事攻撃に他なりません。

私が、広島の被爆者から学んだことは、「ヒロシマの心」ということです。

「ヒロシマの心」とは、核兵器に反対するだけでなく、いのちの尊厳を奪い、核兵器使用につながる戦争を許さないということです。

核兵器使用の危惧を取り除く道は、すべての軍事行動を停止させることです。

さらに強調したいことは、この軍事行動によって多くの子どもたちのいのちが奪われていることです。

本大会のスローガンは、「核も戦争もない平和な21世紀に」です。

この軍事行動に強く抗議するとともに、戦闘行動を中止し、直ちに戦争終結のための協議を開始することを求めます。

ジュネーブでNPT再検討会議第2回準備委員会が開催されている最中の7月28日に、

日本政府は、アメリカ政府との間で、「拡大抑止」と称して、軍事同盟の強化を謳い、さらに核抑止力を強化するという合意文書を交わしました。

岸田首相は、「核兵器のない世界は、私のライフワークだ」と繰り返し述べていますが、今回の日米合意は、岸田首相の言葉がいかに欺瞞で矛盾したものかを明らかにしました。

これは、「他の誰にもこんなおもいをさせてはならない」と思い出したくない被爆体験を証言し、核兵器の廃絶を訴え続けてきた被爆者の思いを踏みにじるものです。

核抑止によって、核の脅威から逃れることは出来ません。

核抑止をいうかぎり、核兵器なき世界の実現などあり得ません。

日本政府は、核兵器禁止条約を批准しない理由として「核兵器保有国と非保有国との橋渡しの役割を担う」と説明しますが、抑止力という核兵器の役割を肯定する国が、橋渡しの役割を果たすことは出来るはずはないのです。

現在、核兵器禁止条約の署名国は93カ国、批准国は70カ国です。

戦争被爆国である日本政府がやるべきことは、核抑止を強化することではなく、一日も早く核兵器禁止条約を署名批准することです。

1955年8月に、ここ広島で開催された第1回原水爆禁止世界大会に参加した人々は、初めて被爆者の訴えを聞き、被爆者の救済を約束するとともに、「原水爆が禁止されてこそ真に被爆者を救うことができます」と誓いました。

核兵器廃絶は、被爆者に対する原水禁運動の約束です。

厚生労働省は、この一年間で8、974人の被爆者健康手帳所持者が亡くなり、手帳所持者は、今年3月末時点で10万6825人となり、平均年齢も85.58歳になったことを公表しました。

被爆者に残された時間はわずかです。

被爆80周年の節目となる来年に向け、日本政府に「核兵器禁止条約」に署名批准させるための運動を強化することを呼びかけます。(つづく)


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2024年8月11日 (日)

被爆79周年原水爆禁止世界大会

1日から昨日まで10日間の長い休みをとっていましたが、今日から再開します。

被爆79周年原水爆禁止世界大会は、7月27日の福島大会、8月4日から6日までの広島大会、7日から9日までの長崎大会と会場を移しながら開催され、さまざまな成果を収め無事終了しました。

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被爆79周年原水禁世界大会広島大会開会総会

今年の大会は、すべての会場でビデオ撮影を行ない、YouTubeにアップしていますので、「被爆79周年原水禁世界大会YouTube」をキーに、視聴していただければ、大会の様子が知ることが出来ますので、ぜひ見て欲しいと思います。

私も広島大会の開会総会での主催者あいさつ、5日の第6分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」、6日のまとめ集会での主催者あいさつで登場します。

今日は、被爆79周年原水爆禁止世界大会長崎大会閉会総会で採択された「大会アピール」の全文を掲載します。


被爆79周年原水爆禁止世界大会 大会アピール

歴史的な最高気温の話題が繰り返される暑さの中、私たちは728日の福島大会から、8456日の広島大会、789日の長崎大会と、原水爆禁止世界大会を開催してきました。 

世界では戦争による惨禍が収まらず、命の尊厳が軽視される状況が続いています。ロシアによる核兵器使用の威嚇発言や核兵器の配備・訓練といった動き、アメリカの議員による戦争終結のためには原爆使用を肯定的にとらえるといった発言など、核兵器をめぐる状況も大変厳しいものがあります。ヒロシマ・ナガサキの原爆投下以降、これまで戦争による核兵器使用を許さない大きな力を生み出してきた源は、被爆者の体験と運動です。振り返ることもつらい、凄惨な体験を言葉にして伝えることで、核兵器の非人道性を明らかにし、核兵器廃絶を世界の人々の共通の目標としてきました。これまで着実に高めてきた「核兵器を二度と使ってはならない」とするハードルを下げるために、安定しない国際情勢を持ち出すことを、私たちは決して認めません。むしろ現在の不安定な国際情勢を作り出している原因の一つは、これまでの核抑止への依存にあります。日本政府は728日に開かれた日米安全保障協議委員会で、「核の傘」を含むアメリカの拡大抑止の連携強化を確認するなど、いまだ核抑止を積極的に捉えています。そこからの脱却なくして核廃絶の実現は描けません。

被爆79年から80年がせまる今、これまで核のない世界を希求してきた被爆者と私たちの願いは、いまだ実現していません。被爆者の切なる願いは、「こんな凄惨な体験は、私たちで最後にしてほしい」というものです。それは、核廃絶の実現に向けた具体的な歩みを進めることにあります。日本政府は、被爆者の訴えに真摯に耳を傾け、核廃絶に向け、国際社会で積極的な役割を果たすべきです。

私たちは今この時まで、核廃絶が実現していない現実を直視し、原水禁運動の継承をはかりながら、今後も粘り強くとりくみを強化していきます。核兵器禁止条約が発効されましたが、日本政府は署名に前向きな姿勢さえ示していません。戦争被爆国の日本が、この条約に批准することは、核のない世界の実現に向けた必要な一歩となります。私たちは日本政府に今すぐ署名・批准することを、改めて強く求めます。原水禁運動は被爆の実相を原点とし、核廃絶とヒバクシャ援護・連帯を両輪として、「核と人類は共存できない」という揺るぎない考えのもと、この世界大会を一つの契機としながら、各地域で核廃絶をめざす運動として積み重ねてきました。そのうえで、未来を思い描く将来像と合わせ、さらなる議論を深めながらとりくんでいきます。

核の軍事利用からも、核の商業利用からも、「ヒバクシャ」が生み出されてきました。本大会では、アメリカ・ニューメキシコ州に暮らすナバホの、ウラン採掘・精錬による被害とその後の住民運動について学び、連帯を深めました。長崎においては「被爆体験者」とされ、79年経った今も被爆者と認められない差別的状況が、解決に至っていません。「被爆体験者」は被爆者です。日本のみならず世界のヒバクシャをめぐる課題について、世代を超えた二世三世がその問題の解決に向けて、運動にとりくんでいます。

福島第一原発事故から13年が経過しましたが、避難を強いられた住民は、いまだ元の生活に戻ることはできていません。そういった状況にもかかわらず、日本政府は原発事故被害者への支援を打ち切り、再び原発推進政策に舵を切りました。私たちは日本政府が原発事故の責任を認めず、再び原発を推進することを許しません。

被爆79周年原水爆禁止世界大会を通して、私たちは現状の課題認識を共有し、各地域での原水禁運動につなげていくことを確認しました。これからも、運動の原点を確認し、核も戦争もない世界を実現させるため、さらなる原水禁運動を継承・発展させていくことを決意し、本大会のアピールとします。

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被爆79周年原水爆禁止世界大会 参加者一同


被爆80周年の来年に向け、原水禁国民会議としてどんな目標を持って取り組むのか、大きな課題が突きつけられた大会となりました。

いのちとうとし

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2024年7月30日 (火)

沼田鈴子遺品展「沼田鈴子と被爆アオギリのねがい」

「被爆アオギリのねがいを広める会」が、広島市まちづくり市民交流プラザ南棟1階で8月4日まで開催している「沼田鈴子遺品展『沼田鈴子と被爆アオギリのねがい』」に、初日の昨日、行ってきました。

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自らが被爆した逓信局から、1973年に現在の平和公園に移植された被爆アオギリのそばで被爆証言を続けた沼田鈴子さんは、2011年7月12日87歳の生涯を閉じました。沼田さんの死とともに多くの遺品(1万点以上とも言われる)が残され、いろいろと紆余曲折はありましたが、被爆アオギリのねがいを広める会のみなさん手でその遺品の整理が行なわれていました。ようやくその整理が終わったということで、その一部が今回展示されることになったのです。

撮影禁止ですので、ここで紹介することが出来ませんが、会場には、自筆の原稿や活動を記録した手帳、写真などが展示され、沼田さんの活動を偲ぶことが出来ます。

中でもびっしりと書き込まれた手帳の予定表は、元気に証言活動をされていた沼田さんをよく知っていますので予想はしていたのですが、それでもびっくりするほど隙間なく書き込まれていました。1日に3回、4回という日が何日もあります。

資料整理を行なった被爆アオギリのねがいを広める会のメンバーによれば「修学旅行への証言活動は、多いときは16校あった。朝2校、昼3校、それから夜1校。証言している人は、年間1万人を超えている」そうです。

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沼田さんは、広島を訪れる人たちへの証言だけでなく、国内はもとより何度も海外に足を運び証言活動を続けてこられました。その海外での交流を通じて、アジアの侵略拠点だった戦前の広島についてもきちんと向き合って来た人だったことは忘れてはならないことです。

いつも笑顔を絶やすことがなかった沼田さんの元気だった頃の姿を懐かしく思い出しながら、資料や写真の数々を見て回りました。

展示されている資料は、残された遺品のごく一部ですが、被爆証言を「平和の一粒の種まき」といい、「戦争を加害と被害からとらえ戦争を知らない世代に伝えたい」という沼田さんの思いをもう一度思い起こすことが出来る展示会です。

厳しい暑さが続いていますが、ぜひ一度足を運んで欲しい展示会です。

 

1日から10日までブログを休みます。

自治労、広教組、高教組、私鉄広電から一人ずつ事務局員を派遣していただき、昨日から原水禁世界大会の現地実行委員会事務局を開設しました。すでに27日に東部コースの平和行進も広島入りをし、連日大会準備、本番と日程が続きます。さらに、7日からは久しぶりに長崎大会に参加することにしています。

原水禁大会関連で報告したいことはたくさんあるのですが、厳しい暑さが続きますので、大会日程を優先させるため、今年は明日の遊川さんの「7月のブルーベリー農園4」を掲載したあと、8月1日から10日までブログを休みにし11日から再開することにしました。

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2024年7月29日 (月)

「2024せこへい美術館」に行きました。

旧日銀広島支店で、8月1日まで開催されている「せこへい美術館」ー世界の子どもたちのための美術展―に行ってきました。

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展示されている作品のメインは、「BODY MAPPING」(ボディマッピング)です。この作品は、畳一帖大の紙に人間の体の輪郭を型取って、これまでの体験してきた出来事、身体で感じる痛みや喜び、大切の思いや将来の希望などを身体図にマッピングしていくアートで、毎年新しい人を対象に描かれています。

これまでの「せこへい美術館」では、被爆者を対象にして作品が作られてきました。

今年は、被爆者だけでなくベトナムやタイなど外国人実習生数人セクシュアルマイノリティの人のボディマッピンブもあり、それらの作品が大きな折り鶴にかけられて展示されています。

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よく見ていると、被爆者の一枚に、思いがけない名前を見つけました。朝鮮人被爆者協議会会長の金鎮湖です。

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 この作品を作るために、高校生が2回程、本人と会い、話を聞きながらマップにその言葉を書いていくのです。日ごろから金さんが言っていることが書かれています。

このボディマッピングの後ろの壁面には、大きな幕が掛けられています。

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 どこかで見たことのある幕です。この幕は、この美術展の前に開催されていた「キース・ヘリンゴ特別展」の会場で、参加者が自由にメッセージを書くことが出来た幕です。

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私もその時「いのちとうとし」のメッセージを書きました。

会場を案内してくれた知人の話によると「キース・ヘリンゴ特別展」は、この美術展の関連企画として開催されたそうです。

「せこへい美術館」ー世界の子どもたちのための美術展―では、毎年のことですが、世界の子どもたちが描いた絵も展示されています。その中にはウクライナの子どもたちの絵もあります。

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ウクライナの子どもたちの絵は、愕然とする思いで見るしかありません。戦場の絵が何枚も並んでいます。涙を流す女性を描いた絵も何枚かありました。

どんな思いで描いたのか、言葉に詰まります。

こうした絵も含めて、会場に入っただけで、いろいろと考えさせられる展覧会です。

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2024年7月28日 (日)

2024年版原爆被爆者対策概要

毎年この時期に発行される広島市の「原爆被爆者対策概要」を一昨日入手しました。

すでに厚生労働省が、7月1日に被爆者健康手帳の取得者数などをマスコミ発表をしていますので、全体の数字は知っていますが、2024年3月末現在の都道府県別(広島市、長崎市は別掲)の人数はこの概要によって詳しく知ることが出来ます。全国の手帳所持者数は、106,825人で、前年から6,824人減っています。

ところで今年気になったのは、手帳所持者数が、100人未満の県の数です。被爆者が高齢化し、3月末現在では、平均年齢が85.58歳で、前年比+0.57歳っていますので当然のことだともいえますが。16県にもなっています。その16県は、青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、群馬県、新潟県、富山県、福井県、山梨県、長野県、徳島県、高知県、沖縄県で、東北地方や北陸地方に集中しています。

最も少ないのは、山形県で、6人と一桁になっています。岩手県13人、秋田県12人ですので、もうすぐ被爆者がいない県が出来ることになります。

被爆者組織の解散がいわれて久しくなっていますが、この人数を考えるとやむを得ないことともいえます。

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初めて気づいたことですが、原爆被爆者対策概要には、8月6日に行なわれる「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の推移が一覧表になり、その中に「主たる参列者等」の欄があります。そこを見ると歴代首相の参列状況が分かります。

首相が最初に参列したのは、佐藤栄作首相で1971年(昭和46年)のことです。次の参列は、三木武夫首相で5年後の1976年(昭和51年)です。次は、1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相です。中曽根は、1985年、1987年の3回参列しています。

中曽根首相のあとも首相の参列がありますが、8月6日当時首相の地位にいながら参列しなかった首相が2人います。一人は、1988年の竹下登首相でもう一人は1992年と1993年に首相だった旧広島3区選出の宮沢喜一首相です。1993年は、7月の総選挙で自民党が大敗し、8月9日に退任していますので、仕方のないことですが、広島出身でありながら1992年の式典になぜ参列しなかったのか、今振り返ると不思議な気がします。

今のように、毎年首相が出席するようになった最初は、1994年(平成6年)の村山富市首相からで、翌年も村山首相が参列し、以降歴代の首相が毎年参列しています。

村山政権の1994年12月に成立した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の「第5章 平和を祈念するための事業」の第41条は次のようになっています。「国は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う。」

この条文に基づき建設されたのが、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」ですが、首相が「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参列するのも、この条文に基づくものでしょうか。

憲法違反の集団的自衛権容認を閣議決定した安倍首相や日米同盟の強化をいい、核抑止力論を支持する岸田首相には、8月6日の式典に参加して欲しくないと思うのですが、彼らが出席するが、この条文に基づいているとしたら、どう対処すべきかを考えさせられます。

そんなことを考えながら「2024年版原爆被爆者対策概要」のページをめくっています。

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2024年7月26日 (金)

開館時間を延長します。

先週の金曜日午後5時少し前に、広島市平和推進課から電話がありましたが、その時気づかなかったので、週明けの月曜日電話を入れました。

「電話に出れず申し訳ありませんでした。どういう用件でしょうか」

「先日要望のありました『被爆遺構展示館』の開館時間を81日から資料館の開館時間と会わせて1時間延長することにしましたので、連絡させていただきました。」

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 先日というのは、5月19日のことです。この日、アメリカが臨界前核実験を行なったという報道があり、平和記念資料館1階ロビーにある平和監視時計がリセットされるのを見に行きました。その時のことは、ブログアメリカ臨界前核実験に抗議する慰霊碑前座り込み: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に書きましが、同じ日に平和記念資料館北側に「G7サミット記念館」もオープンしました。

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  横に付けられた表示板には、「G7サミット記念館の開館時間は、7:30から19:00です。」と書かれていました。そばにいた市職員に聞くと「開館時間は、隣の平和記念資料館の開館時間に合わせました。」と教えてくれました。

「開館時間を合わせたのだな」と思いながら、「G7サミット記念館」の北側にある「被爆遺構展示館」を訪れると、そこには開館時間のスタートは、午前8時30分のママになっていました。

エッと思いました。並んで建つ他の2館が、開館時間を合わせているのだから、「被爆遺構展示館」も開館時間を早め一人でも多くの人に参観してもらえばよいのにと思い、すぐに担当課に電話を入れました。

ところが、返ってきたのは、「今のところ、開館時間を変更するつもりはありません。管理してもらう人の手配のこともありますので」とつれない返事でした。一応「私も『被爆遺構展示館』の建設には、少し関わったものの一人として、出来るだけ多くの人に入場してもらいたいと思うのですが、その思いは皆さんも同じだと思います。ぜひ検討していただきたいのですが」と要望して電話を切りました。電話を切ったあと、「やっぱり建設時の担当者が変わると熱意も薄れるのかな」と思ったことも思い出します。

その時はあまりよい返答はありませんでしたので期待していなかったのですが、今回ようやく開館時間を早めることになったようです。

22日の電話のつづきです。

「最近、入場者はどうなっていますか」との私の問いに「最近入館者が増えています。資料館からの流れで遺構展示館を訪れる人が増えています。特に外国人の姿が。それと、園路(被爆時の天神町筋)を新しく整備したことも、入館者が増える要因になっています。」

資料館からの流れで、入館者が増えていることも、今回開館時間を資料館の開館時間に合わて早めることにつながったようです。

些細なことのようですが、入館者を増やすための努力は今後も続けて欲しいと思います。

 ところで「核抑止力を容認したG7サミットの記念館など必要ない」と思っていましたが、最近この建物の影響でしょう、被爆アオギリが影響を受けたということが報道されています。

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私も見てきたのですが、東側の1本は、青々とした葉を茂らせ元気な姿を見せているのに、「G7サミット記念館」に近い被爆アオギリの葉は、誰の目にも分かるように黄色く変色しています。一応の措置は取りとのことですが、大切な被爆アオギリにこれ以上の影響が出ないよう最大限の措置を執ってほしいものです。

改めて、なぜあそこに「G7サミット記念館」を建てたのか、問われることになると思います。

いのちとうとし

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2024年7月24日 (水)

第43回反核平和の火リレー到着式

7月3日に平和公園原爆慰霊碑前を出発した「第43回反核平和の火リレー」が、昨日無事原爆慰霊碑前に帰ってきました。

最終区間の、広島文化交流会館(旧厚生年金会館)前から慰霊碑までの約450メートルは、新田康博広島県青年女性平和友好祭実行委員長を先頭に10人のランナーが、県内484.3キロを走り継いだトートを手に走り継ぎ、午後6時に原爆慰霊碑前に到着しました。

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すぐに到着式が始まりました。

新田実行委員長のあいさつです。

「多くの皆さんに支えられて14日間無事に走り継ぐことが出来ました。心から感謝申し上げます。走り継いだランナーは、451区間、484.3キロ、828人のランナーが走り継ぎました。天気に恵まれ、今年は、全区間走ることが出来ました。昨年雨で走れなかった区間では、3人4人と多くのランナーが一緒に走ってくれました。

被爆者が高齢化する中で、被爆の実態を伝えることが難しくなっています。また、過去の歴史を学ぶ機会も少なくなっています。しかし、リレーを走ることを通じていろいろ学ぶことが出来たと思います。暑い中でリレーを走ることだけでも、当時の数千度と言われる原爆投下時そのものの熱を感ずることは出来ませんが、被爆者の皆さんの体験を追体験できたと思います。

私たちは、今後も被爆者の皆さんに寄り添い、一日でも早く核兵器廃絶を実現できるよう、これからもがんばりたいと思います。」

そのご来賓のあいさつがあり、新田実行委員長の手によって、走り継がれてきた「平和の火」が消灯されました。

最後に、全員で「原爆を許すまじ」を合唱し、今年の反核平和の火リレーが終わりました。

今年の到着式には、ちょうど会議を終えた、県内各地の多くの自治労の皆さんに参加していただきました。自治労の皆さんは、各地の反核平和の火リレーを担っていただいた人たちですので、こうした人たちと参加していただいて到着式が出来たことは、本当によかったと思います。

1982年以来続く「反核平和の火リレー」は、被爆者と若い人たちをつなぐ運動として、そして「継続は力」を体現する運動として、継承されていくと思います。

原水禁もこの成果を8月4日からはじまる被爆79周年原水禁世界大会広島大会に引きついて行きたいと思っています。

いのちとうとし

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