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官僚

2023年1月18日 (水)

黒木秀尚著「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」

15日のブログ「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会」17周年記念講演会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した講演会が開催された同時刻に弁護士会館ではもう一つ大切な学習会が開催されていました。それは、「『医療を受ける権利の基本法』 制定を目指して」と題した広島弁護士会主催の公開学習会です。

講師は、府中市上下町にある黒木整形外科院長で地域医療を守る会顧問の黒木秀尚さんです。黒木先生と知り合ったのは、上下町を中心とした地域住民が2008年(平成20年)に府中北市民病院を縮小・統廃合問題が起こった時に協議・学習を通じて唯一の病院を守るために作られた「地域医療を守る会」の活動に私も何度か参加したことが契機でした。黒木先生の学習会にも参加したかったのですが、基地問題講演会には、講師として金子豊貴男さんが遠く神奈川から来られるということで、17周年記念講演会を優先することにしました。

黒木先生には、会えないと思っていましたが、ほぼ同時刻に両方の集いが終了したこともあり、偶然にも弁護士会階の1階で出会い、あいさつすることができました。

その時にいただいたのが「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」です。

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2008年以降の「地域医療を守る会」の草の根住民運動の全ての記録が綴られたA4判467ページの大部です。黒木先生がまとめられ、自費出版されたものです。

この本の「はじめに」で次のように指摘されています。

「新型コロナウイルス感染症や地球温暖化・異常気象による大災害、そして南海トラフなどの大地震の発生が予想される中、あなたの住んでいるまちで多くの地域住民が頼りにしている地域の公立病院(自治体病院)が、統廃合されて肝心な時に機能不全に陥っていたらどうでしょうか。『命を守る病院』公立病院が、突然、救急車で1時間以上もかかる遠くの病院に行政主導で再編統廃合され、機能も規模も地域の実情に合わない高齢者慢性期医療に特化した『命を終える病院』に縮小・リストラされたり、診療所になったところもあります。こうした事態が、全国特に平成の大合併後に各地で発生しています。」

政治主導で強行されている公立病院の再編統廃合に対し、どうしたら自分たちの命と健康を守ることができるのか、その解決の糸口を知ってほしいとの思いで13年間続けられた上下の地域住民を中心にした地域医療を守るための草の根住民運動の体験が、この運動を支え続けてこられた黒木先生の手によって10年以上の時間をかけてまとめられたのが、この本です。

そして「おわりに」でこう厳しく指摘されています。「日本の医療は、政治に従属させられ、コロナ禍で判明したように高齢者や、基礎疾患を持つ弱者が死に追いやられる『命の効率化』が発生しています。日本には患者の医療を受ける権利と医療従事者の権利を擁護する『医療基本法』の法制化が必要です。そして、これは医学の問題ではなく、医療制度、医療体制の問題、すなわち政治の問題です。猶予はありません。一刻も早く今の経済第一主義の新自由主義体制を改め、人の命、社会保障を第一とする政治に転換しなければなりません。」

私たちの運動の課題も提起されています。

「新自由主義が医療を壊す!」帯に書かれた言葉が、鋭く突き刺さります。

いのちとうとし

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2021年11月11日 (木)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

  前回は、憲法99条の「義務」が、文字通り法的義務以外の何物でもあり得ないし、あってはならない点を確認しました。

  今回は、その義務を明示的に負わされている天皇と憲法遵守義務との関係をもう少し詳しく見て行きましょう。最重要なのは、天皇の「憲法遵守義務」は、内閣・国会・裁判所等の公務員の「憲法遵種義務」とは独立した形での「義務」であるという点です。その根拠は、①内閣・国会・裁判所の正当性の根拠は「相対的多数」にあるのに対して、②天皇の地位の根拠は絶対性を持つ「国民の総意」であり、③「絶対的多数」が「相対的多数」の判断に縛られる必要はない、という三段論法にあります。

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  これを、99条の三つの系として表しておきましょう。

1  内閣が憲法違反を犯すとき、天皇はその内閣の助言に従わなくても良い。またその判断は内閣の承認を必要としない。

2  内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯しているとき、3条あるいは7条の規定があっても、天皇または摂政は、内閣の意に反して、憲法を尊重し擁護する義務を負う。

3  内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯していないときであっても、天皇または摂政が、内閣の助言と承認とは独立して憲法を遵守することは妨げられない。

  ここでは分り易く「内閣が憲法違反を犯すとき」あるいは「内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯しているとき」と記述していますが、これはあくまでも「国民の総意」が判断するという前提があります。現実の存在としての天皇が判断する立場にはないからです。

  つまり、天皇は「国民の総意」によってその地位を与えられているのですが、それは、「天皇」 = 「国民の総意」だという意味ではないのですから。事実、現実の憲法では、天皇は国政に関しての権能を持ちません (第4条)。より具体的には、天皇が「内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯している」という判断を行う「権能」は与えられていないのです。

  その「権能」がないのですから、この三つの系の内、現実の世界で効力のあるのは、系3だけだという結論になります。つまり、内閣・国会・裁判所という三権のどこかあるいは全てが憲法を遵守していても遵守していなくても、そのこととは独立して天皇そして摂政は憲法を遵守しなくてはならないのです。

  前述したように、仮に三権が違憲行為をしたとして、その事実認定を天皇が自ら行うという権限は与えられていません。仮にその認定が何らかの手段で行われたとしても、違反に対抗する形での「遵守」の具体的な内容の決定の方法が憲法上には規定されていないことから、実はこの系3が重要になります。その点を説明しましょう。

  仮に国会や内閣、裁判所等の公務員が憲法違反を犯したとしましょう。「憲法違反」であると天皇が認めるに当って、どのような基準で、さらにどのような手続きでその認定を行うのかは憲法内には規定がありません。それ以前の問題として、このような判断を天皇が行えるという「権能」は与えられていないのです。

  仮に、その認定が行えたとして、では「憲法違反」を目の前にして、天皇が何らかの警告を出すのか、不快感を表すのか、「制裁」を下すのか等の可能性を考えた場合、国政についての「権能」はないのですから、「制裁」はできませんし、「警告」も難しいでしょう。せめて「不快感」くらいですが、ではそれはどう表したら良いのでしょうか。もうそこで壁に突き当ってしまいます。

  これらの問題を解決できる唯一の存在は「国民の総意」なのですが、それは憲法内では実体があっても現実の社会の中の存在ではありません。

  しかし幸いなことに、「国民の総意」を文書として明確に表現しており、さらに憲法の遵守についてもきちんとした方針を示しているものがあります。憲法自体が正にそれなのです。従って、天皇が憲法そのものを読むだけではなく、憲法の理想を確認しその「ありのまま」の姿を描写し、憲法を遵守することの意味を表現することは許されていると考えられます。

  これこそ、この章でいくつかの疑問として提示してきた具体的な行動レベルについての未解決な手順についての解決策なのです。

  まず大切なのは、これは、内閣、その他の公務員が憲法違反を犯していても犯していなくてもできるということです。憲法遵守という目的から考えると、日常的なレベルでの「教育的」な意味の大きさも大切です。系2と系3に大きな意味があるのは、内閣等の行為が違憲であるかどうかの判断はしなくても、天皇が憲法遵守義務を履行できることを保障している点なのです。

  今回も長くなってしまいました。次回に続きます。

 [21/11/11 イライザ]

 

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2021年11月 6日 (土)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

  まず、今回の選挙についてはまだまだ言いたいことがたくさん残っています。しかも、「いのちとうとし」さんが書かれているように、今回の選挙結果は様々な要素が絡み合っていますので、一言で何が起きたのかを言い表すのは不可能です。それでも何が起きているのかを知らなければ、これから何をすべきかについて考えることもできませんので、正確なデータをお持ちの方が鋭い分析をして下さることを期待しています。例えば、誰がどのような理由で誰に投票したのかが、大局的に分るようなデータが欲しいのですが、マスコミの関係者そして専門の学者の皆さんなら手に入るはずです。

  今回の選挙の特徴ではありませんが、政治そのものが劣化してきていることには、ほとんどの皆さんが気付いているだけではなく危機感を持っている、あるいは憤っていると言って良いような気がします。その理由の一つは、社会全体を把握する際に私たちの使う物差しが、いつの間にか曲がってしまっていて、そのことに気付かない人がどんどん増えているからなのではないかと思っています。別の言い方をすると、例えば善と悪との境界線とか、人間としてしてはいけないことと良いことの境界線、その他、様々な種類の境界線がぼやけてしまっているのではないでしょうか。にもかかわらず、それに気付かない人が増えていると言っても良いのかもしれません。

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《『数学書として憲法を読む』》

  この点については、またの機会に続けることにして、今回は、一年ぶりの対面講演の内容とそれを整理したものについて、第2回目です。

  前回のこのブログでは、「国民の総意」が「数学書として憲法を読む」という立場からは、憲法内では「実体」のあることを説明しました。しかし、「(国民の一人ひとりの意見を聞いた結果としての)全ての国民の一致した意思」という意味では、「国民の総意」は存在しません。するかも知れませんが、どのようなテーマであろうとも、全ての国民が同じ意見を持つことなど考えられないからです。

  しかしながら、抽象的かつ現実世界では実体のない「国民の総意」によって定義され存在している天皇は、現実の世界に生きている一人の人間です。その天皇が、「日本国民」であることは、前回「証明」しました。その天皇が公的にどのような義務を負い、どのような権利を享受できるのかについても憲法が規定しています。つまり、抽象的概念である「国民の総意」が現実世界に大きな影響を与えているのです。その関係をどう捉えるべきなのかを考える、というのが、講演の一つの目玉になったのです。

 

《天皇の権限と義務》

  ここで、この点についての憲法の規定をお浚いしておきましょう。どの条文でどの様なことが規定されているのかのリストです。

  • 3条--国事には、内閣の助言と承認が必要で、内閣が責任を負う。
  • 4条--国政に関する権能は持たない。
  • 6条--最高裁長官と総理大臣を任命する。
  • 7条--10項目の国事行為のリスト
  • 8条--皇室の財産管理は国会決議が必要。
  • 99条--唯一「明示的」に与えられているのは、「憲法遵守義務」

  この中で注目したいのは、例えば10項目の国事行為は、明示的には「義務」だとは書いてはいないのですが、職務規定ですので、普通の意味では「義務」だということになります。そんな中で、唯一、「明示的」に「義務」であると指定されている「憲法遵守」義務が特別な存在であることは言を俟ちません。

 

《憲法遵守義務は「義務」ではない?

  にもかかわらず、憲法についての通説・定説・裁判所の確定判決では、「憲法遵守義務」は「義務」ではないのです。それは、99条の解釈についての確定した判決があるからです。それを見て頂きたいのですが、まずは99条をお浚いしておきましょう。

憲法99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ 

  1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているが、これは、道義的な要請であり」と法的義務ではないことを明確に示しています。

  また、1981年7月7日には東京高等裁判所が控訴審の判決のなかで99条については「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」という解釈が示されています。その根拠として示されているのは次のような理屈です。「国家の公権力を行使する者が憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであつて」(高裁判決)

  こんな理屈が通るなら、「憲法遵守義務」の代りに「納税の義務」、「国家の公権力を行使する者」の代りに「国民」を使えば、30条の「納税の義務」は倫理的な性格のものになり、私たちは税金を納める必要がなくなってしまいます。

  「憲法遵守義務」が法的義務でなくてはならない理由として、以下の理由を挙げておけば十分でしょう

  • ルールを決めておいて、最後にそれは「道徳的要請」だとか「宣明」だとか宣言して、法的義務ではないことにすれば、それはルール、今の場合は憲法の存在や意味そのものを否定である。
  • 憲法の存在や意味そのものを否定
  • 裁判官は、99条によって「憲法遵守義務」を課せられている。その裁判官が、「自分が課せられているのは、法的義務ではない」と判断するのは、被告が判決を書くことと同じではないか。
  • 憲法中、天皇に対して明示的に「義務」を課している唯一の条文を無力にすることは、戦前への回帰につながる可能性があるから
  • 「国民の総意」によって、天皇に対して唯一の「明示的義務」として課されている99条を、「総意」には満たない存在が変えることはできない。
  • 憲法中に「義務」という言葉が使われている条項は4つある。その内の、二つ、教育を受けさせる義務(26条)と納税の義務(30条)は「義務」で、残りの二つ、勤労の義務(27条)と憲法遵守の義務(99条)が「義務」ではないのは、「義務」という同じ言葉を正反対の意味に使うことになり許されないはずであり、解釈が恣意的であることを意味する。

  以上、「憲法遵守義務」は「法的義務」以外の解釈はあり得ません。長くなりましたので、続きは次回に。

 [21/11/06 イライザ]

 

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2021年10月21日 (木)

最高裁裁判官の国民審査には全員[×]を ――[×××××××××××]――

最高裁裁判官の国民審査には全員[×]を

――[×××××××××××]――

前回は、異例ずくめの総選挙と同時に行われる最高裁判所の裁判官の国民審査 (以下、「国民審査」と略す) についての問題提起をしました。まず、対象となる裁判官の氏名を知るにも努力が必要であること、それだけではなく、一人一人の裁判官がどのような仕事をしてきたのかを、素人である、同時に主権者である私たちが容易に理解できるような情報提供さえしていない最高裁判所の怠慢さについて問題提起をしました。

それだけでも、国民審査で全員に「×」印を付けるのに十分な理由だと思いますが、18日と19日に報道された「最高裁判例集に119か所誤り」という中国新聞の記事を読むに至って、未来永劫 (にならないことを祈りつつ書いていますが) 国民審査で「×」を付け続けることで、最高裁判所の猛省を促さなくてはならないと決意を新たにしました。

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2021年10月19日付中国新聞の「誤りリスト」

1948年から1997年に言い渡された大法廷での判決12件の中で誤りのあった個所は119にも及びます。大法廷は最高裁判所の中でも重要な案件を扱いますので、その中の12件という国政上最大級に重要な問題の中からこれほどの数の誤りがあったということは、1947年から2020年までの間の8,000件以上の反例の中にはもっと多くの誤りがあることも意味しています。

かなりの数の誤りが、誤字脱字や句読点の誤りだそうですが、中には、判決の意味が正反対になってしまうものもありました。中国新聞の報道では、次のような重大な過ちなのです。

「国家が教育に介入することの違憲性が問われた76年の「旭川学力テスト事件」判決では「教育が『不当な支配』でゆがめられてはならない」との法解釈をした文章の中で「そのような支配と認められる鍵の、その主体のいかんは問うところではない」の部分が「そのような支配と認められない限り」と、逆の意味に捉えられかねない誤記をしていた。」

その他にも、重要な欠落もあります。再度中国新聞からです。

「死刑を合憲とした48年の判決は、公共の福祉に反する場合、生命に対する国民の権利も制限されるとの憲法解釈を示した文章の中から「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから、もし」という表現が欠落していた。」

最高裁判所の責任で選択され、編集・発行され市販もされている「判例集」に、これほど多くの誤りがあること自体、主権者たる国民に対しての侮辱です。例えば、偉い人たちだけが集まる会合で三権の長として最高裁判所の長官が挨拶する場合、こんな誤りが生ずることはあり得ないです。

このように「上下関係」には最大限の配慮をするだけでなく、「身内」には甘い官僚の判断基準が厳然と存在することに、私たち主権者が強く抗議することも必要です。併せて指摘しておくと、8月6日の菅総理大臣の「読み飛ばし」も「ヒロシマ」そして国民への侮辱であり、「人を馬鹿にするのも好い加減にしろ」と強く抗議すべきことだったのです。

国民審査で全員に「×」を付けるべき理由は、この二つだけではありません。もう二つだけ挙げておきましょう。一つは、「判例集」でも取り上げられ、重大な誤りが見付かった、1948年の「死刑合憲」判決です。

拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (法政大学出版局刊、2019年) では、三つの異なった視点から、この判決が間違っていること、そして憲法は積極的に死刑を禁止していることを「証明」しました。詳しくは拙著に譲りますが、誰が読んでも簡単明瞭に分る理屈で死刑が禁止されているにもかかわらず、最高裁判所は70年以上にわたって死刑が合憲であるとの主張をし続けてきたのです。また、必要条件と十分条件を敢えて混同することで、論理を超えた屁理屈で死刑を合憲だと言い張ってきたのです。これほど本質的な瑕疵に70年以上口を閉ざしてきた最高裁の全裁判官が罷免されてもおかしくない重大な過誤です。

『数学書として憲法を読む』からもう一つ挙げておきましょう。このブログをお読みの皆さんの耳にはタコができているかもしれませんが、憲法99条の解釈です。初めての方もいらっしゃるかもしれませんので、念のため、『法学セミナー』2020年9月号の62ページから69ページに掲載された拙稿「憲法を文字通り、素直に読んでみませんか」から引用しておきます。

まず条文を掲げる。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)

つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。

最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。

さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。

「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。

それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。

加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。

詳細な議論は、是非『数学書として憲法を読む』をお読み下さい。そうすれば、憲法の遵守義務を規定している99条が「法的義務」ではないことを認めている高等裁判所の確定判決をそのままにして、憲法の存在自体が否定されてしまっている事態に手を束ねている最高裁判所に存在価値があるのかを問い、同時にそんな事態を許してきた裁判官たちを罷免することは当然だという主張の根拠がお分り頂けます。

 それは同時に、国民審査で「全員に「×」を付けよう」という呼び掛けの正当性も示しているはずです。

以上が私の考え方ですが、参考になるサイトがいくつかありますので、そちらも御覧下さい。

一つは、日本民主法律家協会が、国民審査の対象となる裁判官についてのこれまでの仕事振りをまとめたものです。短くかつ分り易いので参考にして下さい。軍学共同反対連絡会の小寺隆幸氏に教えて頂きました。

もう一つは、その連絡会のメンバーの一人田中一郎氏のブログです。こちらも参考になりますし、鬱憤が晴れるかもしれません。

 [21/10/21 イライザ]

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2021年10月 2日 (土)

のり付着はなかった菅首相のあいさつ文

8月6日の平和記念式典での菅首相のあいさつ文読み飛ばしの問題は、8月16日のこのブログ「読み飛ばしは避けられた ――総理一人の問題ではない―― : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」でイライザさんが、その問題点を詳しく指摘されていますが、今日は、8月6日の夕方からマスコミを通じて流れた「読み飛ばしは、挨拶文が糊がついて剥がれなかったから」という報道の問題点について報告します。

もともとこのニュースを聞いた時から「挨拶文を用意した事務方がそんなミスをするはずがない」「事前に一度は目を通しているはずだから、絶対にそんなことはない」と思っていましたが、それ以上の追及をするつもりはありませんでした。

ところが、元市職員だったHさんは、怒りが収まらず「どうもおかし、現物を広島市が保管しているはずだから調べてみよう」と数人の名前で広島市に対し「挨拶文」の開示請求をしました。

数日後広島市から、この請求に対し「現物を開示します」との回答があり、広島市公文書館で、現物を見ることになりました。

読み飛ばされた部分です。

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私たちの目の前に出された「挨拶文」は、スムーズに開きます。複数の人間で、手に取り何度も見たのですが、該当する部分に糊付けがはがされたと思われる痕跡は全くありません。綺麗な状態です。

挨拶文は、A4サイズの和紙のような薄紙を横に7枚並べて作られていますので、継ぎ目は、6カ所あります。もし私につなぎ合わせる作業を任されたら、前か後ろの紙の一部に糊付けをし、重ね合わせて継いだはずです。しかし、目の前にある挨拶文は、表にはつなぎの痕跡は全くなく、裏打ちのように裏側に同材質の幅約2センチの紙を貼ってつなげてありました。もちろん紙の両脇や下側にのりがはみ出したような痕跡は見当たりません。素人目ですが、非常に丁寧な仕事がされているなと思いました。

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こんな丁寧の仕事をする人ですから、仮にのりがはみ出したとしても、それを放置したままで、折りたたんであいさつ文を作ることなど絶対にありえませんし、作業後にはきちんと開くことを何度も確認したはずです。

さらに首相官邸のホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0806hiroshima.html)で、平和記念式典の菅首相のあいさつの様子が、最初から最後まで全て映像で見ることが出来ますので、何度も繰り返し見て確認しました。先頭から2分20秒のところです。読み飛ばしの該当部分が、首相の右手に移った後、よく見ていると明らかに開いているのが見て取れます。ひっついている様子は全くうかがえません。

ここでも、菅首相のあいさつ文読み飛ばしが、「のり付け」が原因でないことははっきり確認できました。

ところが、その日の夕方には、「原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたため」「完全な事務方のミス」との報道が流れました。菅首相の読み飛ばしの原因が、このあいさつ文を作った人の作業にあったというのです。これだけ丁寧な仕事をした人は、この報道をどんな思いで、聞き、読まれただろうかと、同情の気持ちが湧きます。

問題は、なぜこのデマ情報が、マスコミを通じて、まことしやかに流れたのかということです。あいさつ文を見た時、担当の広島市の職員に、当日の状況を確認しました。

菅首相は、あいさつが終わるとあいさつ文を包み紙とともに、縁台上に残して自席に戻ります。これは、ホームページの映像でも確認できます。その後式典が終了するまで、縁台上に残ったままです。式典がすべて終了した後市の職員が、演台上にあった首相のあいさつ文も他の資料などと一緒に段ボール箱に入れ、市役所に持ち帰ったそうです。今年は、翌7日が土曜日、さらに8日は山の日、9日は振替休日と休みが続きましたので、持ち帰った段ボール箱を整理し始めたのは、火曜日の10日です。この間一度も手を触れることはなかったということですから、のり付けがあったなど確認することも全くなかったのです。

さらに、式典終了後、あいさつ文の現物について「のりが付着していて剥がれない」状態だったかどうかについて、政府による現物確認はもちろん、確認のための問い合わせの電話も全くなかったそうです。

明らかに政府の誰かによる意図的に流された情報です。情報操作といってよいでしょう。このデマ情報が流れた一番の責任は、政府にありますから、その責任が厳しく問われます。と同時に、「ちょっと考えればおかしいな」ということが容易に想像できるこの情報をうのみにして流したマスコミの責任も同じように問われなければならないと思います。

私も当初は、読み飛ばしのことだけを問題だと思っていましたが、「のり付け」問題の経緯を調べていくうちに、もっと重要な問題があることを知ることになりました。

それは、だれがどう考えてもおかしいと疑問を感ずる情報「のりが付いていたため、読み飛ばしが生じた」という「政府の説明」を何の疑いもなく、もちろん検証もせずにそのまま流してしまったマスコミの姿勢です。

マスコミ報道の現状を改めて思い知らされることになりました。

いのちとうとし

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2021年9月 3日 (金)

奇妙な広島市の回答―文化財審議会非公開について 「市民の市政参画の推進に関する要綱」の原点に戻れ

先月の12,13,14日と3日間連続して取り上げた「広島市の情報公開の現状の問題」のつづきです。

その後、広島市情報公開条例によって、広島市文化財審議会の「サッカースタジアム建設予定調査」に関わる情報公開請求を行った結果、私が求めていた情報が、ようやく開示されました。

確かに情報公開請求によって、情報提供を受けることはできたのですが、どうしても疑問が残るのは、広島市の「文化財審議会は、非公開で開催した審議会の議事録等の公開は差し控えさせていただいています。」(8月3日)という回答です。

この回答に対し、8月19日に再質問のメールを送りました。その内容は「市民の市政参画の推進に関する要綱」の「第3節 審議会等への市民参画 (審議会等の適正な運営)」を明示して、改めて広島市の見解をただしたものです。

8月31日に回答がありました。「会議の非公開、議事録などの公開差し控えが『要綱に沿ったものでなかった』」ことを認めています。その理由を「要綱の内容を当課が十分に理解していなかったこと及び人事異動に伴う事務手続の引継ぎが十分に行われていなかったことに起因する」としています。その上で「要綱の内容を職員に周知徹底するとともに、広島市文化財審議会に係る事務手続の見直しを行い、審議会及び議事録の適切な公開に努める」とし、「過去に開催した審議会の情報につきましても、要綱に沿った上で、開催記録等を作成し公開できるよう順次事務手続を進める」というものです。

回答は、「これまで要綱を遵守していなかった」ことを認めていますが、その理由を見ると「文化財担当課が十分理解していなかった」としています。しかし「文化財担当だけの問題」で終わってよいのか、「人事異動で事務手続の引継ぎが十分でなかった」とは何を意味しているのかという疑問が湧きます。

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松井一實広島市長(広島市ホームページより転載)

そもそも広島市は、「市民の市政参画の推進に関する要綱」の第1条でその目的を「この要綱は、市民の市民による市民のための市政の実現を目指す本市にとって、市民の知識 又は経験を市政に生かすことが重要であることにかんがみ、市民が市政に参画するための基本的な事項を定めることにより、市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図ること」としています。この素晴らしい「要綱」は、全ての市職員が遵守すべきものです。

情報開示された資料によれば、2回開かれた「広島市文化財審議会」には、毎回8名の市職員が参加しています。一回は、市民局長も参加していますし、他の回には文化財担当課と共に文化のまちづくり担当課からも2名参加しています。もちろん2回とも、文化スポーツ部長の参加があります。

問題は、8月31日の回答に言う「担当課である文化財担当課」だけでなく、局長も部長も更に他課からの参加者もいながら、誰一人からも「非公開は問題がある」という指摘がなされていないことです。

「市民の市政参画の推進に関する要綱」には、審議会の開催だけでなく「市民の市民による市民のための市政の実現を目指す」ために「市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図る」ための市政のあり方が、こんなことまで思うほどきめ細かく定められています。

今回の問題は、広島市文化財審議会が全部非公開で開催していたことから出発しましたが、「誰一人指摘しなかった」ことからも明らかなように、単に「文化財担当課」担当者だけの問題ではないといえます。

ここには、松井市政の「市民の声を受け止める」姿勢の弱さが浮き彫りになったと思わざるを得ません。これを機会に松井市長が先頭にたって、全職員に「市政参画の推進に関する要綱」を改めて徹底させ、広島市政が、要綱に盛り込まれた「市民との向き合い方」の原点に戻ることが必要です。

そして文化財担当課は、私への解答だけでなく、広島市文化財審議会のホームページにきちんとした謝罪と見解を掲載すべきです。

いのちとうとし

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2021年9月 1日 (水)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

前2回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。さらに、我が国でも「いじめ」についての認識が変りつつあることを踏まえて、次のステップとして何ができるのかを考え始めました。

ここでお断りした上で強調したいのは、「全ての『いじめ』が犯罪である」という主張をしているのではないということです。逆に強調したいのは、「いじめ」という名称が付けられることによって、犯罪行為が見逃されてはならないという点なのです。

《文科省の「いじめ観」》

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文科省もその点には気付いているようです。(文科省による「いじめの定義」から。以下「定義」と略します。)

いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度 (2013年度・筆者注) から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

これより7年前には文科大臣から、次のような「お願い」が出されています。

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

成十八年 (2006年・筆者注) 十一月十七日

文部科学大臣 伊吹 文明

二、三注釈を付けておくと、一つには、私の探し方に問題があるのかもしれませんが、ネット検索ではこれより新しい文科省の見解は見付かりませんでした。また、前回御紹介したコメントの中で、尾木直樹さんは2006年度に定義が変更されたとことを指摘しています。その後、いじめ防止対策推進法ができた際、2013年度に再度変更された定義が、上記のものなのです。そして伊吹大臣からのお願いは、定義の変更前のものです。古い「いじめ」の定義に沿っての「お願い」であることにも注意して下さい。

しかし、ここで取り上げた文科省の「いじめ観」には、「いじめ」を考える上で決して忘れてはならない必須の教訓がはっきり示されています。それは、被害者が二の次、三の次になっているという点です。

仮に、「自分が死ななくては、この苦しみから逃れられない」とまで感じている子どもが、文科大臣の「お願い」を読み始めたとして、最初に出てくる言葉が「いじめている」側の子どもたちへのメッセージだったら、その先を読む気にはならないでしょう。

そして、いじめの定義についての文科省の注釈では、「死という選択」は、漢字に埋もれた長い文章の中に申し訳程度に触れられていて、被害者本人の苦しみには何の言及もないのです。

《被害者の「発信」を受け止められる第三者機関》

問題の本筋に戻って、犯罪に相当する「いじめ」にあっている子どもがいたとして、その子が「自分はいじめにあっている」という発信を誰に何処でどの様にするのかは、最重要課題です。そして仮に何らかの形で発信をしたとして、その発信を、誰が何処でどの様に受け止めるのかというシステムを創ることもそれと不離一体の重要課題です。

「定義」では、被害者の発信には触れられていませんし、ほぼ自動的に「学校」がその発信を受け止める存在であることが仮定されています。さらに、警察への通報も学校からですし、「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」(平成29 年3月文部科学省)を見ても、被害者や保護者への配慮という言葉はあるものの、被害者に寄り添う姿勢があるとは読めません。

しかし、それを文科省の責任だと糾弾し非難するだけでは解決策にはなりません。学校そのものの本質を再度、見直すことが必要です。前回引用した、旭川市の中学校教頭の言葉が参考になります。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo!ニュースJapan 8月21日から引用)です。

彼の言葉は、「官僚組織としての中学校」を守ることを最優先した結果のように読み取れるのですが、同時に、犯罪を摘発し罰するという視点からだけ捉えた場合に、学校という存在が基本的矛盾を内蔵していることも明確に示しています。学校は教育機関ですから、被害者だけでなく加害者も指導・教育することが使命なのです。最初から被害者の立場に立って犯罪を立件し、それを受けて裁判所が罪を裁くことになるという一連の手続きを始める立場にはないのです。

それなら、被害にあう可能性を持つ全ての子どもたちに「110番ベル」のようなものを渡して、何かあればすぐ警察に通報するというシステムを作ったラどうでしょうか。しかし、このようなシステムが機能するようには到底思えません。一つには、子どもたちとの信頼関係があるかどうかが成否のカギになりますが、その可能性は学校と警察の双方が「革命的」に変化しない限り無理でしょう。現状のままでこのようなシステムを導入すれば、それは学校が「教育」を放棄することにつながるかもしれません。そもそも教育を否定するシステムで子どもを守るという構想そのものに無理があります。

となると、ちょっと荒唐無稽の部類に入ってしまうかもしれませんが、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないでしょうか。

「机上の空論」にしないために、外国での例も参考にしながら次回、考えられたらと思います。

 

[21/9/1 イライザ]

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2021年8月16日 (月)

読み飛ばしは避けられた ――総理一人の問題ではない――

読み飛ばしは避けられた

――総理一人の問題ではない――

前回は、今2021年8月6日の広島市平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)において、総理大臣挨拶が読み違いと読み飛ばしをしたことを取り上げました。[式典の名称についての説明をしておくと、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が正式名称ですが、その前の「広島市平和記念式典」は、その双方を合わせた形のいわば略式の名称です]

読み違いは、冒頭で、「広島市」を「ひろまし」と、「原爆」を「げんばつ(もしくはげんぱつ)」の二つです。

次に、飛ばした部分は前回も引用しましたが、以下、下線を引いてあるところです。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」と世界に発信しました。我(わ)が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。

 近年の国際的な安全保障環境は厳しく核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

(注――下線部は、首相が読み飛ばした部分)、

実際に、式典会場での言葉は、次のようになりました。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

明らかに意味が通じません。官邸の説明では、総理が読んだ蛇腹は複数枚を糊付けしてあって、その糊が固まってページを開けなかったとのことです。

前回は、外国特派員協会での記者会見で述べた感想を報告しましたが、今回は、どうすれば、読み飛ばしを避けることができたのかを考えてみたいと思います。

 《「大切さ」をどう示すか》

まず、自分が読み上げる挨拶が重要なものであれば、原則として、それは自分で書くべきでしょう。挨拶ではありませんが、ラブレターを他人に書いて貰うのは例外中の例外でしょう。シラノ・ド・ベルジュラックの代筆が功を奏したのは、そこにシラノの思いが込められていたからです。

しかし、総理大臣は多忙です。重要な挨拶ばかりと言っても良いスケジュールの中で、それぞれの分野を担当する官僚や秘書たちが代筆するのも仕方がない、いや、職務を全うするためには必要なことなのかもしれません。

その前提で、総理と代筆者 (代筆だけではなく、読み易い用紙にプリントし総理に最終コピーを渡す等の挨拶関連の仕事全てをする人または人々をこう呼びます。さらに、総理とこれらの人々を略して「総理たち」と呼びます) それぞれに何ができたのかという「十分条件」を挙げてみましょう。その際、ポイントになるのは、自分たちの価値判断の中で「大切だ」と考えられることを、どのような形にしているのかです。

広島の平和記念式典での挨拶が総理たちに重要だったのは、蛇腹を選んだことが示しています。他の場合と同じく、A4の用紙にプリントしても、読むことに支障はないからです。それほど重要だったのですから、総理個人としては事前に一度は原稿を読んでおくべきだったのです。一応は目で追うくらいはしたのかもしれませんが、内容を理解して読むという最低限の努力までは行かなかったのかもしれません。

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少し客観的になって、超多忙な総理大臣という立場を考慮してみましょう。代筆者たちが総理に蛇腹を渡したのが式典の直前だったと仮定すると、「事前に一度読む」という余裕さえなかった可能性が出てきます。

ごく当たり前の挨拶の場合と比較すると分り易いと思いますが、挨拶をA4の紙にプリントアウトしたとすると、渡す側は、最低限、何枚渡すのかを確認します。これができなければ官僚として完全にアウトですから、総理の側の仕事には就いていないはずです。それを渡された側では、内ポケットに入れるために、三つか四つに折らなくてはなりません。その時に、2枚か3枚であっても、ざっと全体に目を通すことはできます。

さて、蛇腹を多当紙に包んで渡す場合、「ごく当たり前」ではないのですから、念には念を入れて、「事前に」多当紙の包みから中の蛇腹を取り出して、始めから終わりまで、物理的に問題がないのかをチェックして当然です。今回はそれもせずに、つまりプリントアウトした時点から何もせずに、挨拶分を書いた書類を総理に渡したことになります。

さらに、長崎では総理がトイレに行く時間を取るために、式典に2分遅刻したとのことですが、それと合わせて考えると、「代筆者たち」そして側で総理の時間管理を任されていた官僚たちの大失態、いや、怠慢としか考えられません。

まず代筆者たちの誰かが自ら、挨拶のプリントアウトされた蛇腹を読み直した上で、「総理、これは大切な挨拶ですから、一度は目を通して下さい」と言えば、避けられた読み飛ばしだということなのです。そして、「大切な挨拶だから、朝食を摂りながらでも一度目を通そう」ともしなかったのが総理大臣なのです。

これが可能だったのは、代筆者たちと総理大臣との間に、揺るがすこともできない厚い信頼感があったからとしか考えられません。それは、毎年同じ内容で繰り返される、広島・長崎での式典で「読む」挨拶は、今年も毎年と同じ内容であり事前の準備など必要ない、という共通理解です。

しかしながらダメ押しは、自分で読みながら、その意味を理解していなかった総理大臣です。字面を追うことはできても、その意味まで考えずにただの「読む機械」としての役割しか果せなかった政治家としての責任、総理大臣の役割はそれで良いと黙認してきた官僚たち、そしてそれを許してきた日本の政治全体が問われています。

あれほど悲惨な犠牲を払った人間に対する心からの慰霊の気持とは無縁な政治、そして核兵器廃絶という被爆者や日本全国の圧倒的多数の市民たちの願いを裏切る政治が問題なのです。

[21/8/16 イライザ]

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2021年8月14日 (土)

情報公開に後ろ向き?な広島市-つづき

8月4日にメールで問い合わせた「広島市の情報公開」について、812日に広島市企画総務局法務課から、回答がありました。

正確を期すため、質問とメールでの回答をそのまま記載します。

① 基本的に公開が原則と承知していますが、その通りでしょうか。

【回答】御指摘のとおり、審議会等の会議は、原則公開としています。

② もし、原則公開となっているのであれば、もちろん議題によって、個人情報に関わる案件があった場合に、非公開となることはあると承知しています。

ただ、その場合であったとしても、「原則公開」ですから、その事案についての審議のみが非公開となるべきであった、他の事案の審議については、公開とされるべきだと思いますが、広島市としての考え方は、どうなっているのでしょうか。

もし、「複数の議題がある」場合であっても、個人上の部分のみに「非公開」は、限定すべきだということを書いた文書は存在しないのでしょうか。あれば、それを公開してください。

【回答】市民の市政参画に関する要綱第15条第4項において、「会議を非公開とする場合においても、議題ごとに公開又は非公開の区分ができるときは、公開とすることができる議題に係る会議の部分について、公開に努めるものとする。」と規定しています。

 なお、この要綱は本市ホームページにおいて公開していますので、市民意見公募手続の概要 - 広島市公式ホームページ (hiroshima.lg.jp)で御確認ください。

③ これまでの審議会においても、かなりの回数が、全体が非公開となっていますが、たとえ非公開だったとしても、個人情報がかかわっておら、公開されても差し支えない部分についての情報は、公開されるべきだと考えますが、どうお考えですか。について

【回答】全部非公開とした会議においても、その議事録等については、不開示情報を除き市民の閲覧に供するよう努めることとしています。

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④ 広島市のホームページには、これまでの「審議会などの開催状況」が掲載されていますが、現在ホームページ上に掲載されている開催状況は、昨年の6月分以降となっています。1年余りでは、短すぎるように思いますが、この公開について、「何時から何時までのもの」と何か決まったものがあるのでしょうか。

⑤ 以上の上に、私の要望としては、「少なくとも2年間分ぐらいは掲示される」べきだと思いますが、変更することは、出来ないのでしょうか。

 【回答】当課で管理しているホームページにおける、過去の審議会等の会議の開催状況に係る掲載については、その期間を定めたものはなく、まるまる2年間分というわけではありませんが、今年度分及び前年度分を掲載することとして更新しています。

 なお、それ以前の会議の開催状況等については、各審議会等のホームページで御確認いただくか、各審議会等の担当課へお問い合わせください。

 

この広島市の回答を読むと、私が持った疑問のかなりの部分が解消されますが、問題はそれがどう実行されているかです。

①の回答では、公開原則が確認されています。

②の回答では、明快に「非公開にする時も議題毎に区分し、公開に努める」ということですが、昨日指摘したように実際にはそうなっていないのが現状です。

指定された「市民意見の公募手続きの概要」のページを検索すると、「目的」としてこう書かれています。

「市の改革や条例の意思決定過程において、市民の意見を聴き、その意見を考慮して計画や条例の策定などを行うことにより、市民の市政参加の推進を図り、もって市民主体の市政の実現を図ることを目的としています。」

立派な目的です。ですが、今度の「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査」を巡る市民意見に対する一連の広島市の対応は、とてもこの目的に沿ったものとは言えません。

③の会議録の公開の回答は、「市民の市政参画の推進に関する要綱」の第17条(議事録等の作成、公表等)4項で、きちんと「市長は、全部非公開とした会議の議事録等について、不開示情報を除き、前条第1項各号に掲げる方法に準じ、市民の閲覧に供するよう努めるものとする。」と決められています。

ここでも「でも広島市の対応は?」といわざるを得ません。私の「情報公開請求」にはどう対応するのでしょうか。

④は、私の見間違いで、昨年4月から掲載されていました。

もう一つ、質問にはなかったのですが、私が「広島市文化財審議会」のホームページに開催予定も開催状況も掲載されないことを指摘したところ、総務局法務課が、担当課である文化財担当課に対し、「文化財審議会」のホームページ、開催予定、開催状況を掲載するよう修正を求めたようです。

今度の指摘を契機に、広島市の情報公開の現状を精査し、意見公募だけでなく「市民の市政参加の推進を図り、もって市民主体の市政の実現を図る」広島市政を取り戻してほしいと強く思います。

いのちとうとし

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2021年8月13日 (金)

情報公開に後ろ向き?な広島市

昨日報告した「広島市文化財審議会」の審議状況を調べていて、疑問が湧いてきました。昨日も指摘したように「非公開」で開催される審議会などがあまりにも多いということです。直近の今年7月には49回開催されていますが、そのうち全部公開は、10回、一部公開は、1回です。他の38回は非公開で開催されています。「非公開」の中には、「介護認定審査会」や「原子爆弾被爆者健康管理手当等支給要件認定審査会」など、明らかに個人情報に関わるものも多くあります。しかし2日に開催された「令和3年度広島市経済観光局指定管理者指定審議会」では、「(1)選定要領について(2)公募施設の応募要領について(3)非公募施設の選定要領について(4)非公募施設の評価票について」が議題として挙がられていますが、非公開で行われています。その理由は「事務事業執行情報に該当するため」となっています。詳細が分かりませんので、何とも言いようがありませんが「(1)選定要領について(2)公募施設の応募要領について」などは、公開されてもよいのではないかと思えます。一部公開されているのは、19日に開催された「広島市感染症対策協議会」ですが、当日は二つの議題があり、公開されたのは「(1)最近の感染症情報について」で、非公開は「(2)令和36月分の解析評価について」です。非公開の理由は「個人情報に該当するため」となっています。

この事例では可否は別にして、議題によって、公開、非公開を決めて運用していることが分かります。担当課である企画総務局法務課に「公開が原則ですから、議題毎に公開、非公開されるべきではないですか」と訊ねると、「その通りです。議題毎に精査し、やむを得ない場合は部分的に非公開で行うことが原則です」との答えでした。

改めて、2020年11月以降(それ以前は、議題毎に分別されていない)の開催状況を調べると、議題で公開、非公開が区別された会議は、「広島市感染症対策協議会」以外に1回だけ見つけることができました。本年3月30日に開催された「第2回サッカースタジアム整備等事業者選定審議会」です。当日の議題は三つです。その内「(1)参加資格保有者によるプレゼンテーション」のみが公開され、他の二つ「(2)参加資格保有者との質疑応答(3)改善された技術提案書及び提案時参考見積書の審議」は、非公開です。非公開の理由は「法人情報に該当するため」となっていますが、プレゼンテーションを公開しながら、その質疑応答が公開されなかったのは、ちょっと不思議です。

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広島市は、法務課が言うように「可能な限り公開しよう」という姿勢が弱く、「できるだけ公開しない」で進めているように受け止めるのは私だけでしょうか。

そこで昨年7月14日に開催された文化財審議会の公開状況を再確認します。「傍聴の可否」は「×」になっていますので、非公開です。議題は二つ「(1)令和2年度における広島市の文化財保護の取組について(2)文化財保護に係る報告事項等について」ですが、2020年10月以前の開催ですので、「議題毎の『公開、非公開』も『非公開の理由』も書かれていませんので理由は不明です。しかし、文化財振興課の説明によれば「個人情報の保護に配慮する必要がある」ということですが、本当に二つの議題全てに「保護すべき個人情報があったのか」は分かりません。そうだとしても「(1)令和2年度における広島市の文化財保護の取組について」のように大ぐくりの議題設定ではなく、例えば「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査について」など、もう少し細かく議題設定すれば、一部公開は可能だったはずです。

「広島市文化財審議会の公開に関する取扱い要綱」には「会議の公開」として「第2条 審議会の会議は、これを公開する。ただし、次に掲げる議題について審議を行う場合は非公開とする。」と公開の原則を定めています

さらに会議録についても「事務局は、作成した会議要旨を、事務局窓口及び広島市公文書館の所定の場所に備え置き、これを作成した日から同日の属する年度の翌年度331日まで閲覧に供するものとする。」と定めています。

しかし、「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査」が審議された文化財審議会は、全て非公開で行われているため、「会議録」を閲覧することはできません。

これでは「公開の原則はどうなっているのか」と疑問を持たざるを得ません。

いのちとうとし

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