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官僚

2024年4月18日 (木)

「世界情勢の変化」で何故「憲法尊重擁護義務」?―その3

もう一つの疑問は、「やはり」と言うことです。

私は、2021年11月29日のブログ(広島市「職員の服務に関する宣誓書」-その3: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)と12月3日のブログ(広島市「職員の服務に関する宣誓書」-その4: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で、「職員の服務の宣誓に関する条例」の問題を取上げ、最後に次のように指摘しました。

「昭和54年(1979年)の条例改正で、『職員の服務の宣誓に関する条例』で『別記様式による』として定められていた宣誓書が、『任命権者が定める様式の』と改正され、『宣誓書』を条例の別記として明示することが廃止されたのです。

この条例改正があったため、昭和58年(1983年)の宣誓書の改正では、議会の議決など公的な手続きは行わずに、宣誓書から『憲法尊重擁護義務』の宣誓部分を削除されたことがはっきりしました。

つまり私が、指摘した『市長の裁量によって自由に宣誓書の内容を変えることができることになる』という危惧が、実際に実行されていたのです。

条令の条文からいえば、『市長の裁量のみによって宣誓書をあらためた』ことは、条例違反はしていないといえますが、問題は繰り返すようですが『市長の裁量のみ』で自由に改正できる条例で良いのかということです。」

今回の修正で、はからずもこの指摘が現実のものとなりました。

人事課との話し合いで次の点を質しました。「今回の修正内容は、市役所内のどのような会議で協議され、決定されたのですか」。答えはびっくりです。「内部での協議です」「情報公開請求をすれば、その資料を出してもらえますか」「情報公開請求されても、特別に会議録をつくっていませんので、出せる資料はないのですが」

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広島市ホームページより

ちょっとびっくりする回答です。今回も昭和58年(1983年)の宣誓書の改正と同じように議会の手続きなどは行なわずに、宣誓書が改正されたのです。指摘したとおり「市長の裁量のみ」で、協議内容も明らかにできない状況で修正されたことになります。

しかし、だったとしても,先にも指摘しましたが、現在の「「職員の服務の宣誓に関する条例」では、このような改正の手続きは、条例違反と言うことにはなりません。

しかし、経過も明示できないような協議によって、重要な「職員の服務宣誓書」の改正が行なわれていいはずがありません。

今回の「服務宣誓書」の改正の要因は、広島市が説明する「世界情勢の変化」が主要ではなく、松井市長による「新入職員研修での憲法違反の『教育勅語』引用」問題が契機となったことは、この間の経緯を見れば明らかです。

今回は、良い方向での修正といえますが、今後「市長の裁量のみ」を認める現在の条例では、市長の考え方によって改悪されることも,可能だと言うことを重ねて指摘したいと思います。

どのような理由で「昭和54年(1979年)の条例改正」が行なわれたのは、関係する資料が存在しませんので不明ですが、人事課に対し、「この際、この条例の問題点を見直し、他自治体と同じように条例の中に『宣誓書』が明示される条例に改正する必要があるのではないか。是非検討して欲しい」と要望して、話し合いを終わりました。

これを契機に、ぜひ検討を深めて欲しいと思います。

いのちとうとし

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2023年12月27日 (水)

広島県被団協が「教育勅語」問題で広島市長に抗議

このブログでも2度にわたって広島市長が、広島市職員研修において「教育勅語」を引用した問題にいてついて取上げてきました。この問題については、様々な団体が広島市に申し入れを行っていますが、広島県原爆被害者団体協議会も一昨日、箕牧智之理事長と前田耕一郎事務局長、熊田哲治事務局次長の三人が市役所を訪れ、広島市長に対し「抗議文」を提出し、引用を取りやめるよう求めました。これに対し、対応した鍋沢研修所長は、「市長にしっかり伝えます」と回答しました。

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以下にその全文を掲載します。


広島県原爆被害者団体協議会理事長

 箕牧智之 

「教育勅語」の一部を研修資料に使用していることについて(抗議とお願い)

市長におかれましては市民のために日夜尽力されていることに敬意を表します。

市長が広島市職員研修の資料において、「教育勅語」の一部を引用していることが報道されました。市長は教育勅語について「使い方を誤ったが、中身の部分については評価できる。」として来年度以降も使用を続けるとの考えを示されたとのことです。

私たちは、核兵器はいけない、核兵器は戦争の中で使われたものであるから戦争もいけないと考えています。これは戦争、原爆を経験した者として骨身にしみた思いです。市長も広島の市長としてそのことは十分にお分かりと思います。

市長はなぜことさらに戦前の教育勅語を持ち出されるのですか。市長が一部であれ、戦前の教育理念の根本であった教育勅語を持ち出されることは、市長が戦争へと進んだあの時代の教育を評価しておられるものと感じ、恐れを抱きます。市長もご存じのことと思いますが教育勅語については日本国憲法の精神と相容れないものとして衆議院、参議院それぞれにおいて排除あるいは失効の決議がなされています 。

核兵器に反対し平和を愛する広島市の市長としては戦争へと突き進んだあの時代の教育理念を評価することなどあってはなりません。市長のお考えが教育勅語のある部分と通じるものがあろうと教育勅語を持ち出して紹介することはお止めいただきたいと思います。

私たちは戦争、原爆を招来したあの時代の教育理念が持ち出され、評価されることに反対し抗議します。どうか、平和都市広島の市長として研修資料への教育勅語の引用をお止めください。私たちは市長と共に核兵器のない平和な世界への道を築き歩んでいきたいと思っています。どうかよろしくお願い申し上げます。


以上が広島県被団協の抗議文の全文ですが、ここで付言しておきたいとことがあります。

1948年(昭和23年)6月19日の衆議院本会議において、各派共同提案である「教育勅語等排除に関する決議案」を提案した松本淳造議員は、その提案理由の中で次のように述べています。

「部分的には眞理性を認めるのであります。それを教育勅語のわくから切り離して考えるときには眞理性を認めるのでありますけれども、勅語というわくの中にあります以上は、その勅語そのものがもつところの根本原理を、われわれとしては現在認めることができないという観点をもつものであります。それが憲法第九十八條にも副わないゆえんでありまするので、この際この條規に反する点を認めまして、われわれはこの教育勅語を廃止する必要があると考えざるを得ないわけであります。」

この趣旨弁明を受けた上で、衆議院が全会一致で「教育勅語等排除に関する決議案」が採択したことを改めて強調しておきたいと思います。

余談ですが、松本淳造議員は、1946年4月の衆議院議員選挙で、島根県選挙区に社会党公認で立候補し当選しています。島根の出身者とは意外でした。

いのちとうとし

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2023年12月26日 (火)

広島市長の認識を問う

広島市の新規採用職員研修において、松井市長が「心の持ち方」などとして戦前・戦中の「教育勅語」の一部を研修資料に引用していたことが報道されました。しかも、松井市長就任の翌年である2012年から今年に至るまで毎年、研修資料に引用されているということです。まさか、「国際平和文化都市」を標榜している広島市で、職員に対してこのような研修が行われているとは、思いもよらず、驚きと失望を禁じ得ません。

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引用されているのは「爾臣民 兄弟に 友に 博愛 衆に及ぼし 学を修め 業を習い 知能を啓発し 進んで公益を広め 世務を開き」の部分で、英訳とともに掲載されているようです。

12月11日、松井市長は、新聞記者の取材に対し、「教育勅語を再評価すべきとは考えていない」と断ったうえで、「その中に評価してもよい部分があったという事実は知っておくべき」と述べたと報じられており、同月19日の定例会見においても、「民主主義を取り込もうとしている内容だから評価できるのではないかと、(研修の中で)説明している」と見解を述べています。

しかし、「教育勅語」は、天皇を主権者とする大日本国憲法下で、「臣民に対して発せられた天皇陛下のお言葉」であり、そのすべては「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」に帰結するものです。その教えが、アジア太平洋戦争において、どれだけの若者に犠牲を強いたことでしょうか。その反省のうえに日本国憲法が定められ、国会において「教育勅語」が排除・失効が決議されたのです。

松井市長の言葉からは、明治以降、敗戦までの間、「教育勅語」にもとづく教育によって、多大な犠牲を払った歴史的事実や、「教育勅語」が国会で排除及び失効が決議されたことに対する「重み」が、まったく感じられません。一部であれ「評価してもよい部分」を「教育勅語」から引用することそのものが、日本国憲法の理念や国会決議に反する行為です。

松井市長においては、そのことを真摯受け止めて発言を撤回し、国際平和文化都市の市長として、真に世界の恒久平和につながる発信をしていただきたいと願います。

広教組 森﨑賢司

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2023年1月18日 (水)

黒木秀尚著「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」

15日のブログ「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会」17周年記念講演会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した講演会が開催された同時刻に弁護士会館ではもう一つ大切な学習会が開催されていました。それは、「『医療を受ける権利の基本法』 制定を目指して」と題した広島弁護士会主催の公開学習会です。

講師は、府中市上下町にある黒木整形外科院長で地域医療を守る会顧問の黒木秀尚さんです。黒木先生と知り合ったのは、上下町を中心とした地域住民が2008年(平成20年)に府中北市民病院を縮小・統廃合問題が起こった時に協議・学習を通じて唯一の病院を守るために作られた「地域医療を守る会」の活動に私も何度か参加したことが契機でした。黒木先生の学習会にも参加したかったのですが、基地問題講演会には、講師として金子豊貴男さんが遠く神奈川から来られるということで、17周年記念講演会を優先することにしました。

黒木先生には、会えないと思っていましたが、ほぼ同時刻に両方の集いが終了したこともあり、偶然にも弁護士会階の1階で出会い、あいさつすることができました。

その時にいただいたのが「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」です。

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2008年以降の「地域医療を守る会」の草の根住民運動の全ての記録が綴られたA4判467ページの大部です。黒木先生がまとめられ、自費出版されたものです。

この本の「はじめに」で次のように指摘されています。

「新型コロナウイルス感染症や地球温暖化・異常気象による大災害、そして南海トラフなどの大地震の発生が予想される中、あなたの住んでいるまちで多くの地域住民が頼りにしている地域の公立病院(自治体病院)が、統廃合されて肝心な時に機能不全に陥っていたらどうでしょうか。『命を守る病院』公立病院が、突然、救急車で1時間以上もかかる遠くの病院に行政主導で再編統廃合され、機能も規模も地域の実情に合わない高齢者慢性期医療に特化した『命を終える病院』に縮小・リストラされたり、診療所になったところもあります。こうした事態が、全国特に平成の大合併後に各地で発生しています。」

政治主導で強行されている公立病院の再編統廃合に対し、どうしたら自分たちの命と健康を守ることができるのか、その解決の糸口を知ってほしいとの思いで13年間続けられた上下の地域住民を中心にした地域医療を守るための草の根住民運動の体験が、この運動を支え続けてこられた黒木先生の手によって10年以上の時間をかけてまとめられたのが、この本です。

そして「おわりに」でこう厳しく指摘されています。「日本の医療は、政治に従属させられ、コロナ禍で判明したように高齢者や、基礎疾患を持つ弱者が死に追いやられる『命の効率化』が発生しています。日本には患者の医療を受ける権利と医療従事者の権利を擁護する『医療基本法』の法制化が必要です。そして、これは医学の問題ではなく、医療制度、医療体制の問題、すなわち政治の問題です。猶予はありません。一刻も早く今の経済第一主義の新自由主義体制を改め、人の命、社会保障を第一とする政治に転換しなければなりません。」

私たちの運動の課題も提起されています。

「新自由主義が医療を壊す!」帯に書かれた言葉が、鋭く突き刺さります。

いのちとうとし

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2021年11月11日 (木)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

  前回は、憲法99条の「義務」が、文字通り法的義務以外の何物でもあり得ないし、あってはならない点を確認しました。

  今回は、その義務を明示的に負わされている天皇と憲法遵守義務との関係をもう少し詳しく見て行きましょう。最重要なのは、天皇の「憲法遵守義務」は、内閣・国会・裁判所等の公務員の「憲法遵種義務」とは独立した形での「義務」であるという点です。その根拠は、①内閣・国会・裁判所の正当性の根拠は「相対的多数」にあるのに対して、②天皇の地位の根拠は絶対性を持つ「国民の総意」であり、③「絶対的多数」が「相対的多数」の判断に縛られる必要はない、という三段論法にあります。

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  これを、99条の三つの系として表しておきましょう。

1  内閣が憲法違反を犯すとき、天皇はその内閣の助言に従わなくても良い。またその判断は内閣の承認を必要としない。

2  内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯しているとき、3条あるいは7条の規定があっても、天皇または摂政は、内閣の意に反して、憲法を尊重し擁護する義務を負う。

3  内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯していないときであっても、天皇または摂政が、内閣の助言と承認とは独立して憲法を遵守することは妨げられない。

  ここでは分り易く「内閣が憲法違反を犯すとき」あるいは「内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯しているとき」と記述していますが、これはあくまでも「国民の総意」が判断するという前提があります。現実の存在としての天皇が判断する立場にはないからです。

  つまり、天皇は「国民の総意」によってその地位を与えられているのですが、それは、「天皇」 = 「国民の総意」だという意味ではないのですから。事実、現実の憲法では、天皇は国政に関しての権能を持ちません (第4条)。より具体的には、天皇が「内閣、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、重大な憲法違反を犯している」という判断を行う「権能」は与えられていないのです。

  その「権能」がないのですから、この三つの系の内、現実の世界で効力のあるのは、系3だけだという結論になります。つまり、内閣・国会・裁判所という三権のどこかあるいは全てが憲法を遵守していても遵守していなくても、そのこととは独立して天皇そして摂政は憲法を遵守しなくてはならないのです。

  前述したように、仮に三権が違憲行為をしたとして、その事実認定を天皇が自ら行うという権限は与えられていません。仮にその認定が何らかの手段で行われたとしても、違反に対抗する形での「遵守」の具体的な内容の決定の方法が憲法上には規定されていないことから、実はこの系3が重要になります。その点を説明しましょう。

  仮に国会や内閣、裁判所等の公務員が憲法違反を犯したとしましょう。「憲法違反」であると天皇が認めるに当って、どのような基準で、さらにどのような手続きでその認定を行うのかは憲法内には規定がありません。それ以前の問題として、このような判断を天皇が行えるという「権能」は与えられていないのです。

  仮に、その認定が行えたとして、では「憲法違反」を目の前にして、天皇が何らかの警告を出すのか、不快感を表すのか、「制裁」を下すのか等の可能性を考えた場合、国政についての「権能」はないのですから、「制裁」はできませんし、「警告」も難しいでしょう。せめて「不快感」くらいですが、ではそれはどう表したら良いのでしょうか。もうそこで壁に突き当ってしまいます。

  これらの問題を解決できる唯一の存在は「国民の総意」なのですが、それは憲法内では実体があっても現実の社会の中の存在ではありません。

  しかし幸いなことに、「国民の総意」を文書として明確に表現しており、さらに憲法の遵守についてもきちんとした方針を示しているものがあります。憲法自体が正にそれなのです。従って、天皇が憲法そのものを読むだけではなく、憲法の理想を確認しその「ありのまま」の姿を描写し、憲法を遵守することの意味を表現することは許されていると考えられます。

  これこそ、この章でいくつかの疑問として提示してきた具体的な行動レベルについての未解決な手順についての解決策なのです。

  まず大切なのは、これは、内閣、その他の公務員が憲法違反を犯していても犯していなくてもできるということです。憲法遵守という目的から考えると、日常的なレベルでの「教育的」な意味の大きさも大切です。系2と系3に大きな意味があるのは、内閣等の行為が違憲であるかどうかの判断はしなくても、天皇が憲法遵守義務を履行できることを保障している点なのです。

  今回も長くなってしまいました。次回に続きます。

 [21/11/11 イライザ]

 

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2021年11月 6日 (土)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その3――

  まず、今回の選挙についてはまだまだ言いたいことがたくさん残っています。しかも、「いのちとうとし」さんが書かれているように、今回の選挙結果は様々な要素が絡み合っていますので、一言で何が起きたのかを言い表すのは不可能です。それでも何が起きているのかを知らなければ、これから何をすべきかについて考えることもできませんので、正確なデータをお持ちの方が鋭い分析をして下さることを期待しています。例えば、誰がどのような理由で誰に投票したのかが、大局的に分るようなデータが欲しいのですが、マスコミの関係者そして専門の学者の皆さんなら手に入るはずです。

  今回の選挙の特徴ではありませんが、政治そのものが劣化してきていることには、ほとんどの皆さんが気付いているだけではなく危機感を持っている、あるいは憤っていると言って良いような気がします。その理由の一つは、社会全体を把握する際に私たちの使う物差しが、いつの間にか曲がってしまっていて、そのことに気付かない人がどんどん増えているからなのではないかと思っています。別の言い方をすると、例えば善と悪との境界線とか、人間としてしてはいけないことと良いことの境界線、その他、様々な種類の境界線がぼやけてしまっているのではないでしょうか。にもかかわらず、それに気付かない人が増えていると言っても良いのかもしれません。

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《『数学書として憲法を読む』》

  この点については、またの機会に続けることにして、今回は、一年ぶりの対面講演の内容とそれを整理したものについて、第2回目です。

  前回のこのブログでは、「国民の総意」が「数学書として憲法を読む」という立場からは、憲法内では「実体」のあることを説明しました。しかし、「(国民の一人ひとりの意見を聞いた結果としての)全ての国民の一致した意思」という意味では、「国民の総意」は存在しません。するかも知れませんが、どのようなテーマであろうとも、全ての国民が同じ意見を持つことなど考えられないからです。

  しかしながら、抽象的かつ現実世界では実体のない「国民の総意」によって定義され存在している天皇は、現実の世界に生きている一人の人間です。その天皇が、「日本国民」であることは、前回「証明」しました。その天皇が公的にどのような義務を負い、どのような権利を享受できるのかについても憲法が規定しています。つまり、抽象的概念である「国民の総意」が現実世界に大きな影響を与えているのです。その関係をどう捉えるべきなのかを考える、というのが、講演の一つの目玉になったのです。

 

《天皇の権限と義務》

  ここで、この点についての憲法の規定をお浚いしておきましょう。どの条文でどの様なことが規定されているのかのリストです。

  • 3条--国事には、内閣の助言と承認が必要で、内閣が責任を負う。
  • 4条--国政に関する権能は持たない。
  • 6条--最高裁長官と総理大臣を任命する。
  • 7条--10項目の国事行為のリスト
  • 8条--皇室の財産管理は国会決議が必要。
  • 99条--唯一「明示的」に与えられているのは、「憲法遵守義務」

  この中で注目したいのは、例えば10項目の国事行為は、明示的には「義務」だとは書いてはいないのですが、職務規定ですので、普通の意味では「義務」だということになります。そんな中で、唯一、「明示的」に「義務」であると指定されている「憲法遵守」義務が特別な存在であることは言を俟ちません。

 

《憲法遵守義務は「義務」ではない?

  にもかかわらず、憲法についての通説・定説・裁判所の確定判決では、「憲法遵守義務」は「義務」ではないのです。それは、99条の解釈についての確定した判決があるからです。それを見て頂きたいのですが、まずは99条をお浚いしておきましょう。

憲法99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ 

  1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているが、これは、道義的な要請であり」と法的義務ではないことを明確に示しています。

  また、1981年7月7日には東京高等裁判所が控訴審の判決のなかで99条については「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」という解釈が示されています。その根拠として示されているのは次のような理屈です。「国家の公権力を行使する者が憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであつて」(高裁判決)

  こんな理屈が通るなら、「憲法遵守義務」の代りに「納税の義務」、「国家の公権力を行使する者」の代りに「国民」を使えば、30条の「納税の義務」は倫理的な性格のものになり、私たちは税金を納める必要がなくなってしまいます。

  「憲法遵守義務」が法的義務でなくてはならない理由として、以下の理由を挙げておけば十分でしょう

  • ルールを決めておいて、最後にそれは「道徳的要請」だとか「宣明」だとか宣言して、法的義務ではないことにすれば、それはルール、今の場合は憲法の存在や意味そのものを否定である。
  • 憲法の存在や意味そのものを否定
  • 裁判官は、99条によって「憲法遵守義務」を課せられている。その裁判官が、「自分が課せられているのは、法的義務ではない」と判断するのは、被告が判決を書くことと同じではないか。
  • 憲法中、天皇に対して明示的に「義務」を課している唯一の条文を無力にすることは、戦前への回帰につながる可能性があるから
  • 「国民の総意」によって、天皇に対して唯一の「明示的義務」として課されている99条を、「総意」には満たない存在が変えることはできない。
  • 憲法中に「義務」という言葉が使われている条項は4つある。その内の、二つ、教育を受けさせる義務(26条)と納税の義務(30条)は「義務」で、残りの二つ、勤労の義務(27条)と憲法遵守の義務(99条)が「義務」ではないのは、「義務」という同じ言葉を正反対の意味に使うことになり許されないはずであり、解釈が恣意的であることを意味する。

  以上、「憲法遵守義務」は「法的義務」以外の解釈はあり得ません。長くなりましたので、続きは次回に。

 [21/11/06 イライザ]

 

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2021年10月21日 (木)

最高裁裁判官の国民審査には全員[×]を ――[×××××××××××]――

最高裁裁判官の国民審査には全員[×]を

――[×××××××××××]――

前回は、異例ずくめの総選挙と同時に行われる最高裁判所の裁判官の国民審査 (以下、「国民審査」と略す) についての問題提起をしました。まず、対象となる裁判官の氏名を知るにも努力が必要であること、それだけではなく、一人一人の裁判官がどのような仕事をしてきたのかを、素人である、同時に主権者である私たちが容易に理解できるような情報提供さえしていない最高裁判所の怠慢さについて問題提起をしました。

それだけでも、国民審査で全員に「×」印を付けるのに十分な理由だと思いますが、18日と19日に報道された「最高裁判例集に119か所誤り」という中国新聞の記事を読むに至って、未来永劫 (にならないことを祈りつつ書いていますが) 国民審査で「×」を付け続けることで、最高裁判所の猛省を促さなくてはならないと決意を新たにしました。

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2021年10月19日付中国新聞の「誤りリスト」

1948年から1997年に言い渡された大法廷での判決12件の中で誤りのあった個所は119にも及びます。大法廷は最高裁判所の中でも重要な案件を扱いますので、その中の12件という国政上最大級に重要な問題の中からこれほどの数の誤りがあったということは、1947年から2020年までの間の8,000件以上の反例の中にはもっと多くの誤りがあることも意味しています。

かなりの数の誤りが、誤字脱字や句読点の誤りだそうですが、中には、判決の意味が正反対になってしまうものもありました。中国新聞の報道では、次のような重大な過ちなのです。

「国家が教育に介入することの違憲性が問われた76年の「旭川学力テスト事件」判決では「教育が『不当な支配』でゆがめられてはならない」との法解釈をした文章の中で「そのような支配と認められる鍵の、その主体のいかんは問うところではない」の部分が「そのような支配と認められない限り」と、逆の意味に捉えられかねない誤記をしていた。」

その他にも、重要な欠落もあります。再度中国新聞からです。

「死刑を合憲とした48年の判決は、公共の福祉に反する場合、生命に対する国民の権利も制限されるとの憲法解釈を示した文章の中から「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから、もし」という表現が欠落していた。」

最高裁判所の責任で選択され、編集・発行され市販もされている「判例集」に、これほど多くの誤りがあること自体、主権者たる国民に対しての侮辱です。例えば、偉い人たちだけが集まる会合で三権の長として最高裁判所の長官が挨拶する場合、こんな誤りが生ずることはあり得ないです。

このように「上下関係」には最大限の配慮をするだけでなく、「身内」には甘い官僚の判断基準が厳然と存在することに、私たち主権者が強く抗議することも必要です。併せて指摘しておくと、8月6日の菅総理大臣の「読み飛ばし」も「ヒロシマ」そして国民への侮辱であり、「人を馬鹿にするのも好い加減にしろ」と強く抗議すべきことだったのです。

国民審査で全員に「×」を付けるべき理由は、この二つだけではありません。もう二つだけ挙げておきましょう。一つは、「判例集」でも取り上げられ、重大な誤りが見付かった、1948年の「死刑合憲」判決です。

拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (法政大学出版局刊、2019年) では、三つの異なった視点から、この判決が間違っていること、そして憲法は積極的に死刑を禁止していることを「証明」しました。詳しくは拙著に譲りますが、誰が読んでも簡単明瞭に分る理屈で死刑が禁止されているにもかかわらず、最高裁判所は70年以上にわたって死刑が合憲であるとの主張をし続けてきたのです。また、必要条件と十分条件を敢えて混同することで、論理を超えた屁理屈で死刑を合憲だと言い張ってきたのです。これほど本質的な瑕疵に70年以上口を閉ざしてきた最高裁の全裁判官が罷免されてもおかしくない重大な過誤です。

『数学書として憲法を読む』からもう一つ挙げておきましょう。このブログをお読みの皆さんの耳にはタコができているかもしれませんが、憲法99条の解釈です。初めての方もいらっしゃるかもしれませんので、念のため、『法学セミナー』2020年9月号の62ページから69ページに掲載された拙稿「憲法を文字通り、素直に読んでみませんか」から引用しておきます。

まず条文を掲げる。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)

つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。

最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。

さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。

「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。

それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。

加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。

詳細な議論は、是非『数学書として憲法を読む』をお読み下さい。そうすれば、憲法の遵守義務を規定している99条が「法的義務」ではないことを認めている高等裁判所の確定判決をそのままにして、憲法の存在自体が否定されてしまっている事態に手を束ねている最高裁判所に存在価値があるのかを問い、同時にそんな事態を許してきた裁判官たちを罷免することは当然だという主張の根拠がお分り頂けます。

 それは同時に、国民審査で「全員に「×」を付けよう」という呼び掛けの正当性も示しているはずです。

以上が私の考え方ですが、参考になるサイトがいくつかありますので、そちらも御覧下さい。

一つは、日本民主法律家協会が、国民審査の対象となる裁判官についてのこれまでの仕事振りをまとめたものです。短くかつ分り易いので参考にして下さい。軍学共同反対連絡会の小寺隆幸氏に教えて頂きました。

もう一つは、その連絡会のメンバーの一人田中一郎氏のブログです。こちらも参考になりますし、鬱憤が晴れるかもしれません。

 [21/10/21 イライザ]

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2021年10月 2日 (土)

のり付着はなかった菅首相のあいさつ文

8月6日の平和記念式典での菅首相のあいさつ文読み飛ばしの問題は、8月16日のこのブログ「読み飛ばしは避けられた ――総理一人の問題ではない―― : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」でイライザさんが、その問題点を詳しく指摘されていますが、今日は、8月6日の夕方からマスコミを通じて流れた「読み飛ばしは、挨拶文が糊がついて剥がれなかったから」という報道の問題点について報告します。

もともとこのニュースを聞いた時から「挨拶文を用意した事務方がそんなミスをするはずがない」「事前に一度は目を通しているはずだから、絶対にそんなことはない」と思っていましたが、それ以上の追及をするつもりはありませんでした。

ところが、元市職員だったHさんは、怒りが収まらず「どうもおかし、現物を広島市が保管しているはずだから調べてみよう」と数人の名前で広島市に対し「挨拶文」の開示請求をしました。

数日後広島市から、この請求に対し「現物を開示します」との回答があり、広島市公文書館で、現物を見ることになりました。

読み飛ばされた部分です。

20210922_160951

私たちの目の前に出された「挨拶文」は、スムーズに開きます。複数の人間で、手に取り何度も見たのですが、該当する部分に糊付けがはがされたと思われる痕跡は全くありません。綺麗な状態です。

挨拶文は、A4サイズの和紙のような薄紙を横に7枚並べて作られていますので、継ぎ目は、6カ所あります。もし私につなぎ合わせる作業を任されたら、前か後ろの紙の一部に糊付けをし、重ね合わせて継いだはずです。しかし、目の前にある挨拶文は、表にはつなぎの痕跡は全くなく、裏打ちのように裏側に同材質の幅約2センチの紙を貼ってつなげてありました。もちろん紙の両脇や下側にのりがはみ出したような痕跡は見当たりません。素人目ですが、非常に丁寧な仕事がされているなと思いました。

20210922_162514

こんな丁寧の仕事をする人ですから、仮にのりがはみ出したとしても、それを放置したままで、折りたたんであいさつ文を作ることなど絶対にありえませんし、作業後にはきちんと開くことを何度も確認したはずです。

さらに首相官邸のホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0806hiroshima.html)で、平和記念式典の菅首相のあいさつの様子が、最初から最後まで全て映像で見ることが出来ますので、何度も繰り返し見て確認しました。先頭から2分20秒のところです。読み飛ばしの該当部分が、首相の右手に移った後、よく見ていると明らかに開いているのが見て取れます。ひっついている様子は全くうかがえません。

ここでも、菅首相のあいさつ文読み飛ばしが、「のり付け」が原因でないことははっきり確認できました。

ところが、その日の夕方には、「原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたため」「完全な事務方のミス」との報道が流れました。菅首相の読み飛ばしの原因が、このあいさつ文を作った人の作業にあったというのです。これだけ丁寧な仕事をした人は、この報道をどんな思いで、聞き、読まれただろうかと、同情の気持ちが湧きます。

問題は、なぜこのデマ情報が、マスコミを通じて、まことしやかに流れたのかということです。あいさつ文を見た時、担当の広島市の職員に、当日の状況を確認しました。

菅首相は、あいさつが終わるとあいさつ文を包み紙とともに、縁台上に残して自席に戻ります。これは、ホームページの映像でも確認できます。その後式典が終了するまで、縁台上に残ったままです。式典がすべて終了した後市の職員が、演台上にあった首相のあいさつ文も他の資料などと一緒に段ボール箱に入れ、市役所に持ち帰ったそうです。今年は、翌7日が土曜日、さらに8日は山の日、9日は振替休日と休みが続きましたので、持ち帰った段ボール箱を整理し始めたのは、火曜日の10日です。この間一度も手を触れることはなかったということですから、のり付けがあったなど確認することも全くなかったのです。

さらに、式典終了後、あいさつ文の現物について「のりが付着していて剥がれない」状態だったかどうかについて、政府による現物確認はもちろん、確認のための問い合わせの電話も全くなかったそうです。

明らかに政府の誰かによる意図的に流された情報です。情報操作といってよいでしょう。このデマ情報が流れた一番の責任は、政府にありますから、その責任が厳しく問われます。と同時に、「ちょっと考えればおかしいな」ということが容易に想像できるこの情報をうのみにして流したマスコミの責任も同じように問われなければならないと思います。

私も当初は、読み飛ばしのことだけを問題だと思っていましたが、「のり付け」問題の経緯を調べていくうちに、もっと重要な問題があることを知ることになりました。

それは、だれがどう考えてもおかしいと疑問を感ずる情報「のりが付いていたため、読み飛ばしが生じた」という「政府の説明」を何の疑いもなく、もちろん検証もせずにそのまま流してしまったマスコミの姿勢です。

マスコミ報道の現状を改めて思い知らされることになりました。

いのちとうとし

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2021年9月 3日 (金)

奇妙な広島市の回答―文化財審議会非公開について 「市民の市政参画の推進に関する要綱」の原点に戻れ

先月の12,13,14日と3日間連続して取り上げた「広島市の情報公開の現状の問題」のつづきです。

その後、広島市情報公開条例によって、広島市文化財審議会の「サッカースタジアム建設予定調査」に関わる情報公開請求を行った結果、私が求めていた情報が、ようやく開示されました。

確かに情報公開請求によって、情報提供を受けることはできたのですが、どうしても疑問が残るのは、広島市の「文化財審議会は、非公開で開催した審議会の議事録等の公開は差し控えさせていただいています。」(8月3日)という回答です。

この回答に対し、8月19日に再質問のメールを送りました。その内容は「市民の市政参画の推進に関する要綱」の「第3節 審議会等への市民参画 (審議会等の適正な運営)」を明示して、改めて広島市の見解をただしたものです。

8月31日に回答がありました。「会議の非公開、議事録などの公開差し控えが『要綱に沿ったものでなかった』」ことを認めています。その理由を「要綱の内容を当課が十分に理解していなかったこと及び人事異動に伴う事務手続の引継ぎが十分に行われていなかったことに起因する」としています。その上で「要綱の内容を職員に周知徹底するとともに、広島市文化財審議会に係る事務手続の見直しを行い、審議会及び議事録の適切な公開に努める」とし、「過去に開催した審議会の情報につきましても、要綱に沿った上で、開催記録等を作成し公開できるよう順次事務手続を進める」というものです。

回答は、「これまで要綱を遵守していなかった」ことを認めていますが、その理由を見ると「文化財担当課が十分理解していなかった」としています。しかし「文化財担当だけの問題」で終わってよいのか、「人事異動で事務手続の引継ぎが十分でなかった」とは何を意味しているのかという疑問が湧きます。

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松井一實広島市長(広島市ホームページより転載)

そもそも広島市は、「市民の市政参画の推進に関する要綱」の第1条でその目的を「この要綱は、市民の市民による市民のための市政の実現を目指す本市にとって、市民の知識 又は経験を市政に生かすことが重要であることにかんがみ、市民が市政に参画するための基本的な事項を定めることにより、市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図ること」としています。この素晴らしい「要綱」は、全ての市職員が遵守すべきものです。

情報開示された資料によれば、2回開かれた「広島市文化財審議会」には、毎回8名の市職員が参加しています。一回は、市民局長も参加していますし、他の回には文化財担当課と共に文化のまちづくり担当課からも2名参加しています。もちろん2回とも、文化スポーツ部長の参加があります。

問題は、8月31日の回答に言う「担当課である文化財担当課」だけでなく、局長も部長も更に他課からの参加者もいながら、誰一人からも「非公開は問題がある」という指摘がなされていないことです。

「市民の市政参画の推進に関する要綱」には、審議会の開催だけでなく「市民の市民による市民のための市政の実現を目指す」ために「市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図る」ための市政のあり方が、こんなことまで思うほどきめ細かく定められています。

今回の問題は、広島市文化財審議会が全部非公開で開催していたことから出発しましたが、「誰一人指摘しなかった」ことからも明らかなように、単に「文化財担当課」担当者だけの問題ではないといえます。

ここには、松井市政の「市民の声を受け止める」姿勢の弱さが浮き彫りになったと思わざるを得ません。これを機会に松井市長が先頭にたって、全職員に「市政参画の推進に関する要綱」を改めて徹底させ、広島市政が、要綱に盛り込まれた「市民との向き合い方」の原点に戻ることが必要です。

そして文化財担当課は、私への解答だけでなく、広島市文化財審議会のホームページにきちんとした謝罪と見解を掲載すべきです。

いのちとうとし

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2021年9月 1日 (水)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

前2回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。さらに、我が国でも「いじめ」についての認識が変りつつあることを踏まえて、次のステップとして何ができるのかを考え始めました。

ここでお断りした上で強調したいのは、「全ての『いじめ』が犯罪である」という主張をしているのではないということです。逆に強調したいのは、「いじめ」という名称が付けられることによって、犯罪行為が見逃されてはならないという点なのです。

《文科省の「いじめ観」》

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文科省もその点には気付いているようです。(文科省による「いじめの定義」から。以下「定義」と略します。)

いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度 (2013年度・筆者注) から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

これより7年前には文科大臣から、次のような「お願い」が出されています。

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

成十八年 (2006年・筆者注) 十一月十七日

文部科学大臣 伊吹 文明

二、三注釈を付けておくと、一つには、私の探し方に問題があるのかもしれませんが、ネット検索ではこれより新しい文科省の見解は見付かりませんでした。また、前回御紹介したコメントの中で、尾木直樹さんは2006年度に定義が変更されたとことを指摘しています。その後、いじめ防止対策推進法ができた際、2013年度に再度変更された定義が、上記のものなのです。そして伊吹大臣からのお願いは、定義の変更前のものです。古い「いじめ」の定義に沿っての「お願い」であることにも注意して下さい。

しかし、ここで取り上げた文科省の「いじめ観」には、「いじめ」を考える上で決して忘れてはならない必須の教訓がはっきり示されています。それは、被害者が二の次、三の次になっているという点です。

仮に、「自分が死ななくては、この苦しみから逃れられない」とまで感じている子どもが、文科大臣の「お願い」を読み始めたとして、最初に出てくる言葉が「いじめている」側の子どもたちへのメッセージだったら、その先を読む気にはならないでしょう。

そして、いじめの定義についての文科省の注釈では、「死という選択」は、漢字に埋もれた長い文章の中に申し訳程度に触れられていて、被害者本人の苦しみには何の言及もないのです。

《被害者の「発信」を受け止められる第三者機関》

問題の本筋に戻って、犯罪に相当する「いじめ」にあっている子どもがいたとして、その子が「自分はいじめにあっている」という発信を誰に何処でどの様にするのかは、最重要課題です。そして仮に何らかの形で発信をしたとして、その発信を、誰が何処でどの様に受け止めるのかというシステムを創ることもそれと不離一体の重要課題です。

「定義」では、被害者の発信には触れられていませんし、ほぼ自動的に「学校」がその発信を受け止める存在であることが仮定されています。さらに、警察への通報も学校からですし、「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」(平成29 年3月文部科学省)を見ても、被害者や保護者への配慮という言葉はあるものの、被害者に寄り添う姿勢があるとは読めません。

しかし、それを文科省の責任だと糾弾し非難するだけでは解決策にはなりません。学校そのものの本質を再度、見直すことが必要です。前回引用した、旭川市の中学校教頭の言葉が参考になります。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo!ニュースJapan 8月21日から引用)です。

彼の言葉は、「官僚組織としての中学校」を守ることを最優先した結果のように読み取れるのですが、同時に、犯罪を摘発し罰するという視点からだけ捉えた場合に、学校という存在が基本的矛盾を内蔵していることも明確に示しています。学校は教育機関ですから、被害者だけでなく加害者も指導・教育することが使命なのです。最初から被害者の立場に立って犯罪を立件し、それを受けて裁判所が罪を裁くことになるという一連の手続きを始める立場にはないのです。

それなら、被害にあう可能性を持つ全ての子どもたちに「110番ベル」のようなものを渡して、何かあればすぐ警察に通報するというシステムを作ったラどうでしょうか。しかし、このようなシステムが機能するようには到底思えません。一つには、子どもたちとの信頼関係があるかどうかが成否のカギになりますが、その可能性は学校と警察の双方が「革命的」に変化しない限り無理でしょう。現状のままでこのようなシステムを導入すれば、それは学校が「教育」を放棄することにつながるかもしれません。そもそも教育を否定するシステムで子どもを守るという構想そのものに無理があります。

となると、ちょっと荒唐無稽の部類に入ってしまうかもしれませんが、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないでしょうか。

「机上の空論」にしないために、外国での例も参考にしながら次回、考えられたらと思います。

 

[21/9/1 イライザ]

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