最高裁裁判官の国民審査には全員[×]を
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前回は、異例ずくめの総選挙と同時に行われる最高裁判所の裁判官の国民審査 (以下、「国民審査」と略す) についての問題提起をしました。まず、対象となる裁判官の氏名を知るにも努力が必要であること、それだけではなく、一人一人の裁判官がどのような仕事をしてきたのかを、素人である、同時に主権者である私たちが容易に理解できるような情報提供さえしていない最高裁判所の怠慢さについて問題提起をしました。
それだけでも、国民審査で全員に「×」印を付けるのに十分な理由だと思いますが、18日と19日に報道された「最高裁判例集に119か所誤り」という中国新聞の記事を読むに至って、未来永劫 (にならないことを祈りつつ書いていますが) 国民審査で「×」を付け続けることで、最高裁判所の猛省を促さなくてはならないと決意を新たにしました。
2021年10月19日付中国新聞の「誤りリスト」
1948年から1997年に言い渡された大法廷での判決12件の中で誤りのあった個所は119にも及びます。大法廷は最高裁判所の中でも重要な案件を扱いますので、その中の12件という国政上最大級に重要な問題の中からこれほどの数の誤りがあったということは、1947年から2020年までの間の8,000件以上の反例の中にはもっと多くの誤りがあることも意味しています。
かなりの数の誤りが、誤字脱字や句読点の誤りだそうですが、中には、判決の意味が正反対になってしまうものもありました。中国新聞の報道では、次のような重大な過ちなのです。
「国家が教育に介入することの違憲性が問われた76年の「旭川学力テスト事件」判決では「教育が『不当な支配』でゆがめられてはならない」との法解釈をした文章の中で「そのような支配と認められる鍵の、その主体のいかんは問うところではない」の部分が「そのような支配と認められない限り」と、逆の意味に捉えられかねない誤記をしていた。」
その他にも、重要な欠落もあります。再度中国新聞からです。
「死刑を合憲とした48年の判決は、公共の福祉に反する場合、生命に対する国民の権利も制限されるとの憲法解釈を示した文章の中から「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから、もし」という表現が欠落していた。」
最高裁判所の責任で選択され、編集・発行され市販もされている「判例集」に、これほど多くの誤りがあること自体、主権者たる国民に対しての侮辱です。例えば、偉い人たちだけが集まる会合で三権の長として最高裁判所の長官が挨拶する場合、こんな誤りが生ずることはあり得ないです。
このように「上下関係」には最大限の配慮をするだけでなく、「身内」には甘い官僚の判断基準が厳然と存在することに、私たち主権者が強く抗議することも必要です。併せて指摘しておくと、8月6日の菅総理大臣の「読み飛ばし」も「ヒロシマ」そして国民への侮辱であり、「人を馬鹿にするのも好い加減にしろ」と強く抗議すべきことだったのです。
国民審査で全員に「×」を付けるべき理由は、この二つだけではありません。もう二つだけ挙げておきましょう。一つは、「判例集」でも取り上げられ、重大な誤りが見付かった、1948年の「死刑合憲」判決です。
拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (法政大学出版局刊、2019年) では、三つの異なった視点から、この判決が間違っていること、そして憲法は積極的に死刑を禁止していることを「証明」しました。詳しくは拙著に譲りますが、誰が読んでも簡単明瞭に分る理屈で死刑が禁止されているにもかかわらず、最高裁判所は70年以上にわたって死刑が合憲であるとの主張をし続けてきたのです。また、必要条件と十分条件を敢えて混同することで、論理を超えた屁理屈で死刑を合憲だと言い張ってきたのです。これほど本質的な瑕疵に70年以上口を閉ざしてきた最高裁の全裁判官が罷免されてもおかしくない重大な過誤です。
『数学書として憲法を読む』からもう一つ挙げておきましょう。このブログをお読みの皆さんの耳にはタコができているかもしれませんが、憲法99条の解釈です。初めての方もいらっしゃるかもしれませんので、念のため、『法学セミナー』2020年9月号の62ページから69ページに掲載された拙稿「憲法を文字通り、素直に読んでみませんか」から引用しておきます。
まず条文を掲げる。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)
つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。
最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。
さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。
「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。
それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。
加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。
詳細な議論は、是非『数学書として憲法を読む』をお読み下さい。そうすれば、憲法の遵守義務を規定している99条が「法的義務」ではないことを認めている高等裁判所の確定判決をそのままにして、憲法の存在自体が否定されてしまっている事態に手を束ねている最高裁判所に存在価値があるのかを問い、同時にそんな事態を許してきた裁判官たちを罷免することは当然だという主張の根拠がお分り頂けます。
それは同時に、国民審査で「全員に「×」を付けよう」という呼び掛けの正当性も示しているはずです。
以上が私の考え方ですが、参考になるサイトがいくつかありますので、そちらも御覧下さい。
一つは、日本民主法律家協会が、国民審査の対象となる裁判官についてのこれまでの仕事振りをまとめたものです。短くかつ分り易いので参考にして下さい。軍学共同反対連絡会の小寺隆幸氏に教えて頂きました。
もう一つは、その連絡会のメンバーの一人田中一郎氏のブログです。こちらも参考になりますし、鬱憤が晴れるかもしれません。
[21/10/21 イライザ]
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