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#平和推進

2025年7月22日 (火)

三原の7月「19日行動」

7月19日(土)1730分から三原駅前において定例「19日行動」を実施しました。街頭には20人が立って、「戦争させない!」、「市民が変える 選挙で変える!」「核兵器禁止条約 世界の希望!」などのプラカードを掲げてスタンデングと6人の弁士がマイクからアピールを行いました。

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▲「間もなく敗戦80年です。なぜ終戦記念日なんですか。敗戦なんです。敗戦記念日ではない。敗戦の日なんです。日本は戦争に負けたのではない。戦争が終わったんだ。だから戦争の責任を取ろうとしない姿勢が日本政府にありありと見えてきたのがこの80年であります。国民はそういう言いかえにごまかされている」と指摘しました。

▲今月筆者は司会の番でなかったのでプラカードを持って立っていたら、スピーチを聞いていた通りがかりの市民の方が「これ選挙なんですか?」「広島でやっている核兵器の問題なんですか?」と尋ねられました。「私たちは平和憲法を守るために三原で活動している市民運動団体なんです。政府が進める戦争する国づくりに反対し、戦争放棄を定めた憲法9条の改悪阻止を求めて毎月19日に街頭でアピール行動を行っているんです。なぜ19日かというと安倍政権の時、10年前の919日、戦争につながる安全保障関連法が国会で強行採決された日なんです」。「私たちは唯一の戦争被爆国として核も戦争もない社会を求めて街頭で訴えています」など市民の方と10分くらい話しました。

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▲街頭行動のまとめに立ったM町の岡崎さんは、「今、日本で起きている大きな問題は全て憲法違反だと思う。憲法違反だと裁判所から提訴されて規則違反だと言われたことは一切ない。どういうことなんでしょうか。こういうことを権力側は垂れ流しにして国民をだまし続けている。憲法違反の憲法改正の手続きを問うとなると大変なことになる。国民投票の過半数の賛成がなければ憲法は変えられません。しかし中身はどんどん変えていくんです。憲法違反を垂れ流ししながら、そういう社会に今なっていることを私たちは見抜かなければならない」。「憲法に謳われている『憲法擁護義務』、政治に携わる者(政治家)は、このことをしっかり肝に銘じて仕事をしなければならない。したがって、私たち主権者が私たちの身の回りを見ておかしいことはおかしいと言い続けてしっかりやっていかなければならない」。「政治を変えるのは私たち主権者です。私たちの一票で政治が変わります。政治を見るとき、どんな社会をめざすのか、そのためにどんな国の形にするのか、今のような政治が続けば、差別と分断いのちと暮らし、人権が破壊される社会ではないでしょうか。なんとしても憲法を暮らしに活かす。日本の行先を決める『日本国憲法』をみなさん守り抜きましょう。それができる主権者(国民)になりましょう」。と訴えて街頭行動を終了しました。 

藤本講治

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2025年7月20日 (日)

ベトナムの歴史(その41) ― ベトナム Now Ⅴ -カンボジア侵攻-

ポル・ポト政権崩壊・内戦10年

1975年4月17日、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュと元国王のシアヌーク派が組んだカンプチア民族統一戦線が親米軍事政権ロン・ノル政権を倒します。翌76年にはクメール・ルージュ(ポル・ポト派)がシアヌーク派を押さえ、実権を握り民主カンプチア政府を作ります。そのポル・ポト政権が国民の4人に一人といわれる170~200万人を虐殺したことは幾度も触れました。

1978年12月、ベトナム軍がポル・ポトの粛正から逃れベトナムに亡命していたヘン・サムリンなど元クメール・ルージュの親ベトナム派を支援しカンボジアに侵攻。翌1979年1月、ベトナムに支援されたヘン・サムリンはポル・ポト政権を倒し、カンプチア人民共和国を成立させます。そして、2月17日にはポル・ポトを支援していた中国が「懲罰」と称して、ベトナム領内に大規模な越境攻撃し、中越戦争が起こります。

中越戦争は中国軍の撤退により一ヶ月で終結しますが、政権を追われたクメール・ルージュト(ポル・ポト派)とシアヌーク派(王党派)、ソン・サン派(共和派)という三派連合とヘン・サムリン政権との内戦が10年間続きます。この10年間は「カンボジア問題」として扱われますが、ベトナムとカンボジアの問題としてだけでなく、国連の果たす役割を含め国際政治が問われたのだと思います。

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国際政治に翻弄された「カンボジア問題」

下の図は、親ベトナム政権のヘン・サムリン政権と亡命政権の「民主カンプチア三派連合政府」の対立構図です。自国民やベトナム系住民を大量虐殺したポル・ポト政権を倒し、カンボジアの人々を「死の恐怖から解放」したヘン・サムリン政権ではなく、ポル・ポト派を含む三派連合をアセアン諸国やアメリカ、国連、そして日本が支持したのです。理解できないのは私一人ではないと思います。

ここにも冷戦が深まるなかで、それぞれの国益(経済的・軍事的)と思惑を持った国際的な対立を反映した構造が見て取れます。

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そのことを、初鹿野直美さんは「カンボジア:内戦とその後の国づくりの歩み」の中で、次のように述べています。「国連の代表権は三派連合にあり、西側諸国は虐殺を行ったポル・ポト派を含む三派連合側を支持することにジレンマを抱えつつ、ベトナムが背後に控える人民革命党政権を支持することができず、ちぐはぐな状態で4派が併存することとなった。」と。

国連安保理や国連総会など国際政治の場では、ベトナムの軍事侵攻を非難し、ヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡国家であるとして認めないとの姿勢に終始します。日本政府もそうした流れの中で、「ベトナムの軍事介入による傀儡政権を、日本政府として政治的に認めるわけには行かない」と、ポル・ポト政権を承認してきたそれまでの立場を維持したのです。

無責任な国際政治や日本の追随外交が、ポル・ポト政権崩壊後の10年に及ぶ内戦で、カンボジアの人々を苦しめたことを忘れてはならないと思います。

国際世論が解決の扉を開き、デタントが道をつくった

こうした「カンボジア問題」に変化の兆しが出始めたのが、1980年代半ばからです。その一つが、ポル・ポト政権時代にカンボジアで繰り広げられた悲惨な大虐殺を描いた映画『キリング・フィールド』が公開されて、ポル・ポト派に反対する国際世論が大きく高まってきたことです。それは国連や国際政治に影響を及ぼし、ポル・ポト派を除き復興の主務者であるヘン・サムリン政権をはじめカンボジアの人々による枠組みづくりが進められました。

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もう一つはゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(経済・社会の再構築)路線と新思考外交(対話と協調)、グラスノチス(情報公開)を推進し、米ソの緊張緩和(デタント)が進み、1989年12月の「マルタ会談」で冷戦終焉へと大きく動いたことです。合わせて80年代半ばからの中ソ和解の動きも上げられます。

こうした中で、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の設置・派遣が準備され、1991年10月、「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定(パリ和平協定)」が締結されました。

国益に執着した自国ファーストで絡まった迷路を照らし、解決への扉を開いたのは、何よりもカンボジアの人々の悲惨な体験と復興への姿です。そして一人ひとりの心をつないだ国際世論によるところが大きいと思います。

2025720日(あかたつ)

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2025年7月19日 (土)

二つの「ヒロシマアピールズ」ポスター展

「ヒロシマの心」を、言葉を超えて広く内外に訴える事業として、1983年にスタートした「ヒロシマ・アピールズ」ポスターの展示会が現在2カ所で開催されています。

「ヒロシマ・アピールズ」ポスターは、日本グラフィックデザイナー協会〈JAGDA〉を代表するデザイナーが、毎年1枚、ボランレィアでポスターを制作しているものです。

今年は、北川一成さんがデザインした「PEACE」です。

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制作のコメントは次のように書かれています。

「戦後80年。
平和の願いをこめて白の空間に墨の五文字、
PEACE」の言葉を描きました。
両面表のポスターに成っています。
クレジットが鏡文字の白い「空」間は、くう、そら、
あく、あける、から、むなしい、すく、うつろ、
の言葉を表しています。」

最初の訪れた中国新聞ビル1階の会場は、1983年からの全作品が展示されています。

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第1回作品は、当時JAGDA会長だった故・亀倉雄策氏が制作した「燃え落ちる蝶」で、後に「第6回ラハティ国際ポスタービエンナーレ展」で最高賞を受賞しました。

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この作品は見覚えがあります。

この会場の作品には、全て作者の製作意図が記述されています。

ゆっくりと見終えて、もう一つの会場である旧日銀広島支店に行きました。こちらは建物の入り口に大きな懸垂幕がでています。

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入り口を入ったロビーの左側に中国新聞本社と同じように歴代の「ヒロシマアピールズ」ポスターが展示されていますが、ここはパスをし、その奥にある一般事務室のスペースに行きました。

こちらは、二つのコーナーというか展示区分があります。

手前は、ヒロシマ、長崎、沖縄で活躍するJAGDA会員の作品25点が展示されています。

入り口の懸垂幕の原画となる作品が最初に展示されています。

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広島の会員西村和明さんの作品ですが、タイトルは書かれていません。

沖縄会員の作品が3枚ほどありましたが、その一枚です。

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作者は、佐治俊克さんです。

奥の方のコーナーの最初にはこんな看板がありました。

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このコーナーには、「広島平和ポスター学生コンペティション」選出作品15点が並んでいます。いずれも広島のデザイン学校や大学などでデザインを学んでいる生徒の作品で、「コンペティション」で選ばれた優秀な作品が展示されています。

最初に展示されているのは、グランプリを取った信重心美さんの作品です。

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「平和は、知ることから始まる。」の文字と新聞でつくられたハトとでデザインされています。信重さんは、比治山大学短期大学部専攻科美術専攻の生徒です。

いずれの作品にもタイトルが付いていませんから、見る人の想像力が試されるような感じを受けました。

この旧日銀広島支店の展示会は、毎年行われているようですが、私が見に来たのは初めてです。

中国新聞本社ビル1階で開催されている「ヒロシマ・アピールズ ポスター展」の開催期間は、土日祝を除いて25日までです。

旧日銀広島支店で開催されている「ヒロシマ平和ポスター展 2025」は、24日までの開催となっています。

「平和」について様々な表現方法がありますが、会場を訪れ作品と向き合えば、グラフィックデザインの持つ力を感ずることが出来ると思います。

いのちとうとし

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2025年7月17日 (木)

原水禁大会で朝鮮人・中国人被爆者支援がテーマとなったのはいつからか?―その2

翌年の被爆28周年原水爆禁止世界大会(1973年)になるとさらに具体的になります。

大会基調では、「三、国際的運動の課題 (四)国際的被爆者救援とその実態調査」で次のように提起しています。

「広島、長崎の原爆投下によって直接被害を受けた国民は、日本人、朝鮮人および若干の中国人であった。日本の被爆者はある程度その実態がわかっており、貧しいながらも一定の医療施策もなされている。だが、かつて旧軍国主義時代に日本によって強制連行され、働かされていた朝鮮人被爆者は、戦後二十八年を経てもいまなお殆ど実態を知られていない。われわれ原水禁運動の責任において、その実態を調査し、救援の活動を開始しなくてはならない」と。

ここでいう「若干の中国人」とは、被爆当時広島高等師範、広島文理大に留学した学生たちのことです。この時点では、強制連行によって日本に連れてこられた中国人に被爆者がいたことは、まだ知られていませんでした。強制連行による中国人被爆者が顕在化するのは、1990年代に入ってからです。

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さらに大会基調では、「四、国内運動における運動課題(三)被爆者救援と援護法制定運動」の項の4番目に「朝鮮人被爆者に対する日本政府の責任を追求し、また被爆者の実態調査と救援の活動を強化する。この上に立って日本政府の責任による朝鮮人被爆者の救援と医療活動を要求する。同時に、入管令の制限をとり払い朝鮮人被爆者を差別なく扱うことを要求する」とする具体的な課題を提起しています。

そして大会スローガンの中でも2項目目に「朝鮮人・中国人被爆者に対する日本政府の責任を追求し、被爆者を救援しよう!」と明記されています。

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当時の分科会会場は、小・中学校の体育館だった

こうした大会基調を受けた分科会討論の様子を次のように報告しています。

「被爆者問題第一分科会」報告では、執行部からの問題提起の4番目に「4朝鮮人を主とする外国人被爆者の問題は、国家の戦争責任の問題であるとともに、日本国民の責任問題だととらえるべきである。本国にある二万人を超えるといわれる朝鮮人被爆者に対しては、二十八年間放置されている」と提起されたことが記述されています。

「被爆者問題第二分科会」報告では「6 外国人被爆者問題とABCC問題は別途決議する」と記述され、その後の「決議」では、「一 本会場で韓国人被爆者より切実な訴えがあった。我々は日本政府の戦争責任の問題としてこの問題を理解した。本部がこの問題を本会議の課題として取上げられ具体的な教護活動を即時展開するようお願いいたします。」としています。この報告を読むと、韓国人被爆者がこの大会に参加し、この分科会で訴えたことがわかります。この第二分科会報告では、発言者の名前は記述さていませんが、「被爆者問題第三分科会」報告には「私たちは、今日、韓国在住被爆者の代表徐錫佑さんから韓国在住被爆者の実態を知ることが出来た。韓国在住被爆者の願いにもこたえて私たちは、こうした国民的力をつくりだすために、本世界大会に参加したすべてのものが、次の具体的な運動に取り組むことを確認した。」と記述され、ここでは在韓被爆者の名前が明らかにされています。

この分科会報告を読む限り、複数の在韓被爆者がこの大会に参加したことがわかります。

その結果、長崎大会の最終日に出された「被爆者救援と援護法制定の決議」では、「かつて旧日本軍国主義者によって、日本に強制的に連行され原爆にあった朝鮮人・中国人被爆者にも大きな関心を払わなくてはならない。原爆被害の実態は今なお解明されておらず、それに対する日本政府の責任も果たされていない。われわれは韓国在住被爆者の実態を解明するとともに、日本政府の責任を追及し、朝鮮人被爆者の健康な生活を取り戻さなくてはならない。」と決議しています。

大会報告決定集には、他の分科会でも在韓被爆者問題が議論されたことが報告されています。

こうした時期、在韓被爆者を支援しようと1971年12月に「韓国の原爆被害者を支援する市民の会」が発足し、その後の在外被爆者支援運動に大きな役割を果たし続け、いまも活動を続けていることを紹介し、このテーマでの報告を終わります。

いのちとうとし

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2025年7月14日 (月)

沼田鈴子さんの話2題

白島の逓信局から平和公園に移植された被爆アオギリのそばで、1983年から被爆証言活動を続けてきた沼田鈴子さんの活動を振り返る二つの企画がありました。

その一つ、ヒロシマを語る会と9条ヒロシマの会が主催する「沼田鈴子さんを語る会」で、12日(土曜日)午後1時から、ひと・まちプラザで開催されました。

最初に ANT-Hiroshima(アントヒロシマ)が、2007年5月24日に平和公園のアオギリ前で沼田鈴子さんに取材し作成した30分ほどの映像が上映されました。

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「一粒の平和の種を蒔くようにして沼田さんはその体験を語ります」との字幕が最初に写されますが、沼田さんは「お話しすることが一つの平和の種だと思って」と語りはじめます。

生前の沼田さんを思い出しながら、映像を見ました。

その後、親交のあった4人が、それぞれの立場から思い出を語りました。

最初の発言者は、教員時代の教え子で、沼田さんに証言活動の後押しをされた篠田恵さんです。安田高校2年生のとき初めて出合ったときからの篠田さんならではの話しです。

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次は、9条ヒロシマの会の藤井純子さん。藤井さんは、憲法を大切にした沼田さんを紹介。三木豊さんは、沼田さんとの長い付き合いの中で「障害者」として向き合ってくれ、「今日は、右腕の不自由な自分のために沼田さんが袖口を補正してくれた上着を着てきた」というエピソードを紹介。

ヒロシマを語る会の豊永恵三郎さんは、「1984年に15人の会員でヒロシマを語る会を作ったとき、体験を語ったことのある人は、わずか一人。その一人が沼田さんだった」ことを紹介し、「沼田さんは、軍国主義教育だけしか受けていなかったが、自分が受けた戦後の民主主義教育の話しをすると『砂に水が入るように』熱心に聞いていた」ことなどを懐かしく紹介されました。

私にも沢山の沼田さんと思い出がありますので、それを懐かしく振り返りながら聞く4人の話しでした。

「語る会」が終わった後、多くの参加者が、同じひと・まちプラザの南棟1階で開催されているもう一つの企画「沼田鈴子展『沼田鈴子と海外の人たち』」に足を運びました。

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この展覧会は、「被爆アオギリのねがいを広める会」が主催するもので、昨年沼田鈴子遺品展「沼田鈴子と被爆アオギリのねがい」: 新・ヒロシマの心を世界にに続く開催です。

今回はタイトルのごとく、沼田さんの海外での証言活動、外国人との交流を中心にまとめられています。

また、びっしりと証言活動の日程が書き込まれた沼田さんの手帳も展示されています。

会場入り口に下の写真のような表示がありました。

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沼田さんの写真の下に小さな字で「七月十二日 今日は沼田鈴子さんの命日です」と書かれた紙が付いています。私は忘れていたのですが、この日12日は、14年前の2011年に永眠された沼田鈴子さんの命日だったのです。

この展覧会は、明日15日(最終日は、15時00分まで)まで開催されています。

いのちとうとし

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2025年7月13日 (日)

走り継ぐ「反核平和の火リレー」

7月2日に平和公園・原爆慰霊碑前を出発した「第44回反核平和の火リレー」は、厳しい暑さの中、各地区実行委員会によって走り継がれています。

府中の小川敏男さんから、その様子が写真とともに届きましたので、今日はそれを紹介します。


7月9日(水)に福山市から府中市に入ってきた反核平和の火リレー、10日(木)は府中市役所前で、朝810分からセレモニーが行われ、小野申人市長から激励の挨拶があり、ランナーからは「今年だけでなく来年の第45回を目指して走ります」と決意を述べられました。

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右写真の真ん中が小野申人府中市長

リレーは府中市上下支所を経て、神石高原町を目指して走り継がれました。

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府中市役所を出発する反核平和の火リレー

なお、第44回反核平和の火リレーは72日に広島市の平和公園を出発し、県内23全市町約600キロを約1,000人のランナーで走り継がれ、722日に再び平和公園に到着します。

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府中市役所は区間188で上下支所は224、神石高原町は248となっています。


小川さんの別のメールによれば、県実行委員会の車が故障したため、急きょ小川さん所有の街宣車が使用されたようです。上の写真、坂道をランナーが懸命に走っていますが、その後ろに写っているのが小川さんの街宣車です。

今日、13日は日曜日ですので、平和の火リレーは休みです。

例年、この時期集中豪雨などによって、中断を余儀なくされることがありますが、22日には無事に平和公園に到着してほしいとつよく願っています。

編集者

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2025年7月 9日 (水)

「ヒロシマ平和絵画展」

旧日銀広島支店で13日までの日程で「ヒロシマ平和絵画展」が開催されています。

知人の藤登弘郎さんから案内のはがきが届いていましたので、昨日観に行ってきました。

最初の掲示された「ごあいさつ」には、次のように書かれています。

「被爆80年を機に、本展の趣旨に賛同する広島在住のプロとアマチュアの作家が“ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催します。本展覧会を通して平和と核廃絶の思いを共有し、さらに創作活動を高めあい“ヒロシマの心”を未来に繋げていきたいと思います。」

会場に入ると今年89歳になられた藤登さんが元気な姿で受付をされていました。少しだけあいさつを交わして、すぐに作品を見ます。

会場には、画家15人の作品23点が並んでいます。

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最初の展示は、陸軍被服支廠の半開きになった鉄の扉が題材となっています。題材として一番多いのは、原爆ドームです。

藤登さんは、3枚の水彩画を出展されています。3枚とも原爆ドームが題材となっています。タイトルは「ユネスコ世界遺産原爆ドーム」です。

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説明文には「1996年、原爆ドームが核兵器の脅威を物語る証人、平和のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録された。核兵器廃絶を世界に訴える広島の声が国際社会に届いたものと考えている。原爆ドームは無言であるが、生き証人としていつまでも立ちつづけていくよう願っている。」

もう一人の知人、西村不可止さんは、「平和・希望」のタイトルで、紅いカンナの花を描いた作品を出展しています。

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説明文には次のように書かれています。

「被爆40日後には咲いていたという真っ赤なカンナ。焦土に咲くこの花を見て、被爆者は復興に向けてどんなに希望を見いだせただろう。」

野尻純三さんの「核兵器禁止条約」をテーマにした2点の作品には、興味を引かれました。一点のタイトルは「被爆電車 核兵器禁止条約締結行」です。よく見ると、原爆ドームの横を走る電車のヘッドに表示された行き先は「核兵器禁止条約」となっていますし、ボディには「日本」という文字も描かれています。

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日本政府に「すぐに核兵器禁止条約に締結せよ」との思いが込められています。

この展覧会は、5年ぶりの開催です。

絵を通して平和を考えるのも、平和創造の一つの道だと思います。

暑い日が続いていますが、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 6日 (日)

「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」」成功裏に終了

広島県原爆被害者団体協議会(以下「県被団協」)と原水爆禁止広島県協議会(以下「県原水禁」)が共催し県内4カ所で開催した「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」は、昨日の三原会場を最後に、成功裏に終了しました。

県被団協と県原水禁の2団体は、これまでもつよいきずなで行動を共にしてきましたが、私が知る限りでは、共催して集会を開催したのは、これが初めてだと思います。

広島市での集会ではなく、各地域で開催することで、その地域の被爆者の皆さんとの連携を強化しようという目的も達成することが出来ました。

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最後の三原会場

 各地の被団協、そして地区労センターなどの積極的な取り組みによって、会場いっぱいとなる参加者を得ることが出来ました。特に、各会場とも地元の被団協から予想を上回る参加があったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

被爆者の証言は、福山会場は平逸男さん、三次会場は岡本忠さん、廿日市会場は畑口實さん、昨日の三原会場は中岡穂子(ひでこ)さんに、それぞれの被爆体験(親の体験も含め)を語っていただきました。

平逸男さんの証言については、623日付中国新聞「ヒロシマドキュメント被爆80年」で「継承に危機感 証言紡ぐ」と題して取上げられました。

中岡穂子さんは、一週間前に96歳になられたばかりですが、80年前を思い起こし、明瞭の証言をしていただきました。証言の最後に繰り返し「戦争がなければ核兵器が使われることはない、戦争をさせてはならない」と訴えられたことが強く印象に残りました。

一つとして同じ話のない被爆体験は、参加者一人一人の胸に残ったと思います。みなさんありがとうございました。

高校生平和大使の活動報告は、福山と廿日市会場が甲斐なつきさん、三次会場が沖本晃朔さん、三原会場が佃和佳奈さんが行なってくれました。「微力だけど無力じゃない!」を合い言葉に、この一年間繰り広げた活動、一万人署名活動やジュネーブの国連欧州本部訪問を中心にした活動内容とともに、その活動を通じて得た思いや学んだことが報告されました。

集会の最後は、各会場とも私が「被爆80年 原水禁運動の歴史と私たちの課題」と題して、第1回原水禁世界大会以降の運動の歴史を振り返りながら核兵器をめぐる情勢に触れ、「核兵器廃絶運動の強化」や「世界のヒバクシャとの連帯」の運動課題について問題提起しました。

特に強調したことは、「国の戦争責任を問い続けること」「原爆投下責任を明確にすること」が大切なことを改めて確認し、第1回原水禁世界大会の宣言で約束した「原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことが出来ます」を実現させるため「被爆80年を機にヒロシマから声をあげよう」と呼びかけました。

この集会成功の力を、非核平和行進、そして8月4日~5日に開催される「被爆80周年原水爆禁止世界大会広島大会」に結びつけたいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その71) ―「昭和100年」と父― その3

6月26日付けの『読売新聞』に「『戦時版よみうり』全容確認」の見出しとともに、「『のらくろ』幻の連載も」という記事が掲載されていました。『戦時よみうり』は、本土防衛と戦争継続に必要不可欠とする領土・地点である「絶対防衛圏」が破綻し、本土決戦の準備が始まった1944年3月から翌年3月までの間、戦意高揚を担い総動員体制下で働く勤労者向けに発行された全4頁タブロイド判の新聞です。

人気の少年誌『少年倶楽部』(講談社)に「のらくろ」の連載が始まったのは、関東軍が中国軍の仕業に見せかけ満州で巨大な勢力を持つ軍閥・張作霖を爆殺し、満州での日本の勢力拡大を狙って起こした1928(昭和3)年の張作霖爆殺から3年後、満州事変の引き金となった柳条湖事件(これまた関東軍による謀略)が起きた1931(昭和6)年です。

天涯孤独の野良犬(のらくろ(・・・・))が軍隊に入り、ヘマを繰り返しながらも手柄を立てて出世します。1941(昭和16)年10月号で大尉に出世した「のらくろ」は除隊し、大陸の鉱山掘りの仕事に就くところで連載が終わります。10年に及ぶ連載で「のらくろ」ブームが起き、『少年倶楽部』は「昭和11年には75万部に達し、日本最大の児童雑誌になる」(日本近代文学大事典)に至ったそうです。

ズッコケな「のらくろ」の軍隊生活も、盧溝橋事件による全面的な日中戦争に入る1937年頃から「現実の戦争がトレース」され、「戦意高揚漫画とレッテルされても仕方ない」(映画プロデューサー、西村崇)漫画として、他の戦意高揚プロパガンダととともに「軍国少年」「軍国少女」を作り出す役割を果たしました。

かつて少年たちの人気を博した「のらくろ」が復活したのは、1944(昭和19)年という一段と厳しくなった戦局のもとで創刊された『戦時よみうり』の4コマ漫画でした。

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出典:読売新聞 2025年6月26日

上左の4コマは『戦時よみうり』の創刊号に掲載された1回目、上中は最終回前、上右は最終回の「のらくろ」です。1回目の文字は鮮明でなく、読み辛いかもしれませんので紹介します。除隊後に「死に物狂いで満州の自分の山もすっかり掘りつくし」、「久しぶりに帰って見る故郷の風物は決戦に張切ってゐる」、「ことに産業戦士の血のにじむ努力」、「今こそ のらくろの真価を見てもらふ時が來た、ヨウシ ヤルゾッ」

そして、1年後、「貯蓄戦線」の「社会見学」帰りを待ち受けていた「召集令状」で「のらくろ」の掲載は終わっています。

『少年倶楽部』に「のらくろ」が連載されたのは父が3歳から13歳までの10年間です。おそらく父も読んでいると思いますが、近々父の施設に行く予定があるので聞いてみたいと思います。『戦時よみうり』が発行されたのは予科練を志願する16歳でしたが、これは手にすることはなかったと思います。

戦意高揚と「軍国少年」「軍国少女」を作り出すためのポスター(出典:「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争)

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「みんなが受けたんじゃけぇ」と予科練を「志願」し、飛行訓練もままならない戦況下で、「特攻に志願するもの一歩前」の号令に、自ら「百死零生」の特攻攻撃を「志願」した父。月1回の通院で会うと、「一つ上の者はようけぇ死んだ。97になって生き残っとる。不思議なことじゃ・・・」と繰り返す。

次号から、その特攻攻撃についてみてゆきたいと思います。

(2025年7月5日、あかたつ)

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2025年7月 4日 (金)

被爆者清水弘士さんの訃報

被爆者清水弘士さんが、一昨日午前10時頃亡くなられました。

私は、昨日午前11時頃、遺体が安置された本願寺広島別院の西隣にあるびはーら葬儀社に行き、お別れをしてきました。読経による葬儀は行われず、親族や身近な人たちが集まり、それぞれが清水さんとの思い出を語りながらのお別れでした。

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広テレの映像から

1942年6月生まれの清水さんは、3歳の時爆心地から1.6kmの吉島町の自宅でお母さんとともに被爆。倒壊した家の下敷きになりましたが、お母さんの必死の努力によって、生きのびることが出来たそうです。お父さんは被爆の影響で10月8日に亡くなられました。

そんな家族環境ですから、清水さんは、特に被爆者の「空白の10年」について究明し語り継ぐことを課題としてこられました。

また、同じ被爆者である切明千枝子さんの被爆体験をまとめる活動を続けてこられ、冊子「切明千枝子 ヒロシマに生き抜いて」3冊の発行に尽力されました。

清水さんが県被団協の役員になられて以来、特に親しくしてきました。

昨年の原水禁大会では、直前になって無理にお願いをして分科会での被爆証言を行っていただきました。ありがとうございました。

二月ほど前、紙屋町方面でばったり出会ったのが、お会いした最後になりました。その時は、お元気な姿だったのですが、パートナーの話によると、その後急速に体調を崩され、帰らぬ人となられてしまいました。

清水さんは、今年10月に開かれる「世界核被害者フォーラム」で、証言を行うことになっていましたが、それもかなわぬこととなりました。

被爆80年、訴え続けてきた核兵器の廃絶の実現を見ることなく、また大切な被爆者のお一人とのお別れになりました。

思いを引き継ぎ、がんばらなければと誓ったお別れでした。

いのちとうとし

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