「広島ブログ」

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#平和推進

2025年1月24日 (金)

「核兵器禁止条約」発効4周年キャンドルメッセージ

「核兵器禁止条約」が発効してから4周年目となる22日夕方、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)が呼びかけて、1500本のキャンドルで核廃絶を世界に訴えるキャンドルメッセージが行われました。

今年は、10月に開催される「核被害者フォーラム」のプレ企画としての意味を持っていますので、描かれる文字は「核と人類は共存できない」の英語文「NUCLEAR  &  HUMANITY  CANT’T  COEXIST !」です。

午後4時半から、田室さんが準備した作業用道具をもとに準備が始まりました。

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予定通り午後5時半には、キャンドクルで形取られた文字が完成しました。

キャンドルを入れたガラス瓶が壊れないように気をつけながら点火です。

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全てのキャンドルが点灯するときれいな文字が浮かび上がります。NHK広島局が中継し、さらに全国ニュースで放映しましたので、全国に届いたと思います。世界にもYouTubeを通して発信されました。

完成した文字を前に、今年初めての参加ですが、三線による演奏が行われました。

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三線の演奏が終わると参加者全員で記念撮影します。

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続いてアピール行動です。最初の主催者代表の森滝春子さんが、趣旨を説明。

・核がある限りヒバクシャは増え続け、核戦争の危機をもたらす!核時代に終焉を!

・中東・東欧の戦火拡大の危機を止めよう!民衆の命の灯を消させない!

・日本政府は、核兵器禁止条約に早急に参加せよ!

続いて、参加者からのメッセージです。今年は両被団協から熊田哲治事務局長、佐久間邦彦理事長、ガザ救済を訴えている「広島パレスチナともしび連帯共同体」の田浪亜央江さん、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の石口俊一さんがアピールしました。

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アピールする広島県被団協熊田事務局長

最後に、以下の内容の声明文が読み上げられ全体の拍手で確認しました。

*人類の英知で発効した核兵器禁止条約が4年目の記念日を迎えた。

3月には第3回締約国会議を迎えるが、核被害者の対象拡大など多くの課題がある。

*今日の状況は、ウクライナ戦争は3年経てなお泥沼化し、イスラエル・ネタニヤ政権はパレスチナ自治区・ガザへのジェノサイド攻撃に加え、レバノン、イラン、シリアなど中東に戦火を拡げ、領土拡大の野望をあらにしている。その間、毎日子どもや女性をはじめとする多くの無辜の民の命が奪われ傷つけられている。

*ロシアもイスラエルも核を持ち、使用の威嚇をしており、今や人類を核戦争の危機にさらしている。中東の戦火拡大をはじめとする世界戦争の火種を消し止めなくて はならない。

*現実化する世界核戦争の危機にあって、2024ノーベル平和賞は日本被団協に光を当てた。未曽有の非人間的極致の無差別大量虐殺の汚点を人類の歴史に刻んだアメリカの原爆投下による辛酸を舐めながらも、生き残ったヒバクシャは無念の死者たちを背負って立ち向かい闘ってきた。ノーベル平和賞は、築き上げてきた核のタブーが根幹から揺さぶられている現況に楔を打ち込もうと世界に呼びかけるものであった。

*私たちは、終わりを見せない世界の核被害者の苦しみと拡大に立ち向かうため、2025年10月に「核の無い未来を!世界核被害者フォーラム」をヒロシマの地で開催するにあたり、核権力と戦う世界の民衆に連帯を呼び掛ける。

午後6時半に、参加者全員が「核兵器廃絶への決意」を新たにし、キャンドルメッセージによるアピール行動は、終了しました。

いのちとうとし

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2025年1月22日 (水)

安保法制に反対する府中市民の会の1月の「19日行動」

今年もよろしくお願いいたします。さて、今日はいつもとは違い府中から初めて、上下で終りました。午後3時から府中天満屋店前、参加者11人、午後4時30分から上下Aコープ前、9人でした。

いつものようにリレートークとスタンディングを行いました。府中天満屋店前では阪神淡路大震災を経験されたAさんから、ぜひ話をさせてほしとマイクを持って次のように話されました。

Aさん  「30年前に神戸の灘区で震災に合い現在府中市に住んでいますが、その時の経験は筆舌に尽くしがたいことです。昨年1月1日に起きた能登半島地震、227人の方が亡くなられました。災害関連死者数は235人と直接死者数を上回り、東日本大震災以降最大の462人の死者数となっています。関連死者数が多いのは避難場所でのトイレなどの設備が悪い結果だそうです。阪神淡路大震災から30年、東日本大震災から14年、震災の教訓がまったく生かされていません。残念というより怒りで腹が立ってしょうがありません。地震に備えて避難することになる全国すべての体育館、公民館、集会所に男女別々の洋式の水洗トイレを国の予算でつくるべきです。1月13日にも宮崎県日向灘で地震が起きました。南海トラフともそろそろだと言われています。ばかげた中国との戦争準備のために国のお金を使うより、まぢかの地震に備えて国のお金を使うべきだと思います。

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Bさん  「フジテレビが前代未聞の窮地に立たされています。2023年6月に中居正広が起こした女性トラブルにフジテレビの社員が関与していたと、昨年12月に「週刊文春」に報じられたフジテレビ。これに対して港社長が17日に記者会見を行いました。なんと参加できたのは、「ラジオ・テレビ記者会」加盟社とNHKと東京のテレビ局の記者という身内のみ。さらに、放送局の会見でありながら、動画撮影も禁じるという閉鎖的な形式で行われたのです。翌日の18日、明治安田生命、日本生命、トヨタ自動車、NTT東日本がフジテレビのスポンサーから撤退すると発表しました。トヨタ自動車など日本の大企業がなぜフジテレビから撤退を決めたのかフジテレビ自身がわかっていないのだと思います。自分の会社の女性アナンサーをスポンサーや芸能人との酒を飲む場に連れ出し接待させる。それも職務命令として行ったことはセクハラであり、恫喝のパワハラです。こうした企業体質は許されるべきものではありません。そして、他のテレビ局も週刊誌が報道する以前に知っておきながら一切報道しませんでした。こうしたマスコミの姿勢こそが戦争準備を進めている自民党に何も言えない姿勢と相通じるものがあると思います。マスコミの使命は権力監視です。今回の中居正広問題のマスコミ対応に私たちは抗議していかなくてはなりません。」

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Cさん  「24日から国会がはじまります。この国会では新年度の予算が決められます。大事なことはこの予算でどんな国をつくろうとしているかです。作家、帚木蓬生さんの「花散る里の病棟」という本の中で、アメリカ人の医師が「アメリカでは、成人の2割強が医療保険に入っていない。去年の統計でも保険がないため1年に4万5000人が死亡したと算出された。日本は国民全部が、国が管理する保険に入っているんだろう?」と日本人医師に質問し、「原則として3割しか支払わなくてもいい。費用のかかる治療には、高額療養費制度や特定疾病療養制度があって、個人負担の上限が決められている。」と答えます。さらにアメリカ人医師は「キューバという国は貧乏な国だと軽蔑されているが、医療費は全国民無料だ。キューバの最大の輸出産業は医療。医者や看護師が南米の各国に出向いていき、給料の大半を母国に送っている。国民一人残らず医療の恩恵を受けられる。それも進んだ医療を。貧乏だけどそんな国と、アメリカとどちらが未来の国だと思う。」と言います。日本の国民皆保険制度をアメリカの医者からうらやましいと言われています。しかし新年度予算では高額医療費の上限が引き上げられ個人の負担が増えようとしています。戦争のできる国を目指して防衛費を増やすより、キューバのような誰でもが進んだ医療を受けられ、医療費は無料な国を日本は目指すべきです。そうした将来像を描くべきです。だからこそ戦争法と言われている安保法制に反対していきましょう。」

今日は代表の石岡真由海さんがインフルエンザのため参加できず、1月23日の「祝島島民の会」の裁判を応援するバスツアーと、1月27日のネバダデーの案内もありませんでした。この会も代表の石岡真由海さんがいないとまったくしまらない。今年は前途多難だぁ。

                              小川敏男

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2025年1月19日 (日)

「戦争ホウキと折り鶴」-旧日本銀行広島支店

旧日本銀行広島支店の前に掲示された「催しの開催案内」に「17日から19日 戦争ホウキと折り鶴」と書かれていましたので、17日の午後会場を訪れました。

以前私に「戦争ホウキ」を手渡してくれた山口誠治さんがやっているのだろうと会場に入ると山口さんの姿は見えませんでしたが、入り口右側にある第一応接室に旧知で現在は北海道に住んでいる墨アート作家の月下美紀さんの姿が見えました。

先ずは展示会場となっている一般事務室に足を運びました。入って右側に写真パネルが展示されています。

この写真は、アメリカ軍の従軍カメラマンとして戦後すぐに占領軍の一員として最初佐世保に上陸し,その後広島、長崎などを訪れたジョー・オダネルが写したものです。そういえば、「催し開催案内」には、サブタイトルとして「ジョ-・オダネル写真展示」と書いてありました。展示されている写真は、有名な「焼き場に立つ少年」など、25枚が展示されています。

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貴重な写真ですので、これを見るだけでも会場を訪れる価値があると思います。

この写真パネルの左側フロアーに月下さんの作品が、展示されています。

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白く見えるのは、紙に描かれています。手前から右にかけて黄土色の四角な作品が並んでいます。この作品には、短い足のようなものが付いており、手で回すことができるようになっています。後で月下さんに教えていただいたのですが、「禅ではないけれど、自分で自由に動かしながら、その流れの中から何かを感じて欲しいとの思いで作った作品」とのことでした。

一般事務室の展示を見終えて、第一応接室に行くと,外に出ていた山口誠治さんが帰っていました。

山口さんが座っている前には、私がもらったのと同じような袋詰めされ完成した「戦争ホウキ」があります。同じ箱の中には、袋詰めを待つホウキが沢山並んでいます。

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このホウキは、月下さんがかつて住んでいたことのある沖縄の知人が,作って送ってくれたそうです。その他にもホウキの原材料となるような植物が送られてきているようです。

私がこの部屋に入った時、月下さんが,少し前に来館した人からいただいたという折り鶴とそれを入れる箱を使ったモニュメントを作ろうと作業をしていました。

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この折り鶴と箱、折った時きちんと絵柄が出るように計算してデザインされたもののようです。

私が訪れたのは、初日17日の午後1時過ぎで,作業の途中でしたが、私が帰った後、そんなに時間をおかずに完成したと思いますので、今は完成して展示されていると思います。どんな形に作られているか楽しみですので、もう一度訪れようと思っています。

なお会期は3日間という短い会期ですので、今日19日午後5時までで終わります。

いのちとうとし

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2025年1月18日 (土)

「労働組合が建設した慰霊碑」余話

広島市の「原爆関係の慰霊碑などの概要」には、南区には、似島にある「似島慰霊碑」を含め25基の慰霊碑が掲載されています。何回も見直すのですが、その中に私が「原爆慰霊碑」だと思っていた碑の名前がありません。

その碑は、御幸橋の東詰東北角にある「猫田記念館体育館」の東側に建っています。

「猫田記念館体育館」のある一角を除いて、北側には現在はゆめタウン広島が建っていますが、ここには以前たばこ工場がありました。たばこ工場には、全専売という労働組合があり、ここにも「全専売被爆協」(後に名称を「全たばこ被爆協」に変更)という職域被爆者組織がありました。

ですので、この地の一角に建つこの碑も当然、原爆慰霊碑だと思っていたのですが、広島市の「原爆関係の慰霊碑などの概要」には、この碑が掲載されていないのです。

この碑のことが、なぜ掲載されていないのかに気になりましたので、現地に行って碑を見てきました。

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碑の後ろに建つのが「猫田記念体育館」

自然石で作られた碑には、「祈 平和 人類の平和のために」と刻まれているだけで、「被爆者」とか「慰霊」「追悼」などの文字は刻まれていません。被爆との関連を思わせる文字は,最下段に刻まれた「被爆三十六周年八月」だけです。裏側も見たのですが、何の文字も刻まれていません。「慰霊碑」とは私の勝手な思い込みだったようです。

帰宅後、「全たばこ被爆協」の一員で、私の選挙でも大変お世話になった先輩に電話で問い合わせました。

「あの碑は、『平和の碑』として建立したものだよ。『慰霊碑』と名前がついていないのは、幸いにしてといってよいのだが、たばこの工場では、原爆によった命のなくした人が、一名もいなかったので」との返答です。

さらに「誰が作ったのですか」と問うと「被爆協と労働組合がカンパを集め、たばこ工場の敷地内に建てるので、会社の協力も得て建立したよ」と教えていただきました。

この答えで、「この碑が、広島市の『原爆関係の慰霊碑などの概要』になぜ掲載されていないのか」という私の疑問も解決しました。

そして、原爆にかかわる「慰霊碑」ではないのですが、全たばこ被爆協の皆さんの強い思いによってこの「平和の碑」が建立されたことがわかりました。

この碑の前では、全専売組合員によって核実験抗議の座り込みが行われていましたので、忘れられない碑です。

ところで、「広島市の『原爆関係の慰霊碑などの概要』」を見ていたもう一つ気づいたことがあります。

登録された207基の碑の中で、一つだけ原水禁組織が建立した碑があったことです。建立者については、これまであまり深く考えていませんでした。しかし、今回のこと(労働組合による建立)があり、初めて気づくことになりました。

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森滝先生の米寿を祝うために発刊した「いのちとうとし」より

その碑は、佐伯区五日市にある光禅寺の参道に建つ「五日市町原爆死没者慰霊碑」で、被爆20周年の1965年5月23日に原水爆禁止五日市協議会が、町民の浄財を集めて建立しています。当時は、広島市に合併するはるか前ですので、五日市町は、独立した自治体でしたので、原水爆禁止五日市協議会が、原水禁の地域組織が作られ活動を展開していました。

この碑の碑文は、森滝市郎先生が揮毫されていますので、この碑については、別の機会に紹介したいと思います。

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2025年1月17日 (金)

労働組合が建設した慰霊碑

先日のTさんへの「職域被爆者組織の結成」について話す時、以前このブログで紹介した「国鉄原爆死没者慰霊碑」についても触れることにしました。その理由は、言うまでもないことですが、この碑が労働組合とその被爆者組織によって作られた碑だからです。建立に至る経緯などは、すでに紹介しましたので、ここでは省略します。

ところで、Tさんに話すための資料を作りながら、「唯一の労働組合が作った原爆慰霊碑」と書きそうになって「待てよ、まだ他にも労働組合が作った碑があったな」と思いだし、調べることにしました。

個別の資料を調べることはできませんので、広島市が作成している「原爆関係の慰霊碑などの概要」(原爆関係の慰霊碑等の概要 - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市)を検索しました。

ここには、市内にある原爆関連の慰霊碑等207基の個別の概要(名称、建立年月日、場所、碑文、建立者、建立経緯など)が、区ごとにまとめられ掲載されています。

職域関係の碑が多数ある中で、私が確認した労働組合によって建立された慰霊碑は、見逃しがあるかも知れませんが、「国鉄原爆死没者慰霊碑」以外に3基あります。

平和公園内にはある碑は一つだけです。「全損保労働組合被爆20周年記念碑」(通称「全損保の碑」)で、平和記念資料館東館北側にあります。

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この碑は、その名のとおり被爆20周年の1965年8月6日に全日本損害保険労働組合によって建立されました。私の記憶では、建立時は、原爆資料館の南側の緑地帯にあったように思います。この碑は、1989年7月に右翼によって台座だけを残し石碑部分だけが持ち去られ、広島刑務所脇にあった空き地に放置されるという事件がありました。理由は碑文の「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」です。労働組合が建立した碑の碑文ですが、右翼にとっては、天皇制や資本主義を否定するものだったようです。

次に紹介するのは、平和公園内ではありませんが、元安橋右岸の東南の河岸に1988年8月5日に建立された「原爆犠牲建設労働者・職人之碑」です。

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この碑は、大工さんなど建設労働者・職人で作られている全国建設労働組合総連合会・広島建設労働組合によって建立されました。この碑の建立については、思い出すことがあります。広島建設労働組合の役員から「平和公園内に建設したいので協力して欲しい」と当時の社会党の議員団に協力要請があり、広島市と何度か協議しました。しかし、広島市は「平和公園内には新しい碑の建立は認められない」と,希望する平和公園内への建設は認められませんでした。結局、平和公園にできるだけ近い場所と言うことで現在の場所が指定され,今の建立場所が決まりました。

最後の三つ目は、広島市文化交流会館北西の本川河岸緑地に建つ「原爆犠牲新聞労働者の碑」です。この碑は、1985年8月5日に中国新聞労働組合が建立し、碑面には「不戦」の文字が刻まれていますので、「不戦の碑」とも言われています。以前にこの碑については、このブログで紹介していますので、今日はこれだけで終わります。

これで私が把握する労働組合が建立した碑の紹介は終わりですが、これを調べていて気になったことが出てきましたが、それについては明日報告します。

いのちとうとし

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2025年1月16日 (木)

三原地区の1月の「19日行動」

新しい年がスタートしました。2025年のキーワードは、「被爆・戦後80年」。平和で安心して暮らせる社会に…と願って、地域で粘り強く戦争をさせない運動を取り組んでいきます。

「戦争をさせない三原市民行動」年明け1回目の駅前行動は、1月11日(土)、午後1時30分から15名が参加して、平和といのちと人権を守ろう!と道行く市民に訴えました。

街頭行動の始めに、市民行動共同代表の森光さん(地区労働センター議長・広教組)がオスロでの日本被団協ノーベル平和賞受賞に触れながら、「政府や教委などによって学校現場から平和教育や平和教材などが追いやられてきた。今、少しずつだが心ある人たちの努力によって押し返す動きが出来てきている。高校生平和大使など若い人たちの『平和は自分たちで創っていくもの』という取り組みが大きな勇気を与えてくれている。私たちも頑張りたい」とあいさつを行いました。その後、4人の方がリレートークを行いました。

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政平市議は、「庶民が生活苦にあえぐ中で、軍事費だけが突出して増加する事態は許されない。平和とは、戦争が無いだけということではなく、全ての人の生活や人権が守られていることだ」。

寺田市議は、「ミサイル増備などを含めた8,400億円の補正予算が国会通過した。軍事費は累積で9兆円にもなろうとしている。一部野党も賛成に廻った。与党が過半数割れしている中で、もっと別な考え方は出来ないのか?市民の監視と行動が必要だ」とそれぞれ、現在の国会状況に対する危惧を訴えられました。

M町の岡崎さんからは「戦後、そして被爆80年という大きな節目の年だと思う。『憲法が現状にそぐわない』というレトリックで改憲を叫び、それが(なかなか)出来ないということで憲法解釈の変更や運用を捻じ曲げることが当たり前のように行われている。韓国大統領の非常事態宣言などを引用して、『こうした事態が起こるから日本でも非常事態法が必要だ?』などと、訳の分からない言動を平気で垂れ流す今の政治は恐ろしい。国家の武装を捨てても立派に周辺国と仲良くやっているコスタリカのように世界からも尊敬されている国もある。改めて平和憲法を持つ日本が、原点に立ち返る時期だ」と熱く訴えられた。

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H町の冨中さんは、「昨年を振り返ると、『政治とカネ』の問題で与党の自民・公明が過半数割れした。こうした中で成立した政治改革三法は、アドバルーンだけで中身はこれから…という中途半端なもの。これからも政治のあり様を国民が厳しくチェックしていかないと、皆が怒りを忘れたころに、再び安倍内閣のような一強政治をやりたいと云う石破首相の思惑が諸々の言動から読み取れる。通常国会のやり取り如何では7月衆参同日選挙も日程に上るかもしれない。粘り強く、そして大胆に声を上げ行動する1年にしよう」と結ばれ、1月の「19日行動」を終了しました。

藤本講治

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2025年1月13日 (月)

2025新春討論会

毎年正月明けのこの時期に開催されてきた市民運動グループの新春討論会が、今年も12日の午後1時から、有志の呼びかけで開催されました。

毎年、その時々の政治情勢や運動課題などについて、何人かから問題的を受け、討論する形式で開催されてきました。私が、最初にこの新春討論会に参加したのは、2001年頃だったと記憶しています。その後、毎年というわけではありませんが、ほとんど毎回、正月明けの一つの行事として日程に入れ参加してきました。

今年は、少し趣向を変えて最初に、講師からの問題提起を受けることになりました。問題提起者は、「NPO法人ピースデボ」代表の湯浅一郎さんです。湯浅さんは、1975年から2009年まで旧通産省・中国工業技術試験所(呉市)に勤務しながら、芸南火電、松枯れ農薬空中散布、海洋開発など多くの公害反対運動に参画し、1989年には、ピースリンク広島・呉・岩国を結成し、その中心として活動してきました。

ピースデポの仕事で、上京されて以来、ゆっくりと話を聞く機会がなかったのですが,今回「資本主義の現在。21世紀、人類はどこへ向かうのか?」のタイトルで、「生物多様性」と「共通の安全保障」の二つのテーマで、それぞれ問題提起をいただき、討論を深めました。

余談ですが、湯浅さんがピースデポの専従として東京に行くことになった時、湯浅さんを支援する気持ちで、ピースデポの正会員に入会(年会費12000円)し、今も継続しています。

今回の参加者の中心は、戦争させない・9条壊すな!ヒロシマそうがかり行動実行委員会のメンバーですが、同実行委員会では、これまで環境問題についての論議を深めてきませんでしたので、この機会にこの問題への理解を深めようと今回このテーマが選ばれました。

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第1テーマの「生物多様性」では、「太陽系の一角に自分が生きている。過去の中に現在があり、現在の先に未来がある。自分は時間が経つとよくなると思っていたが、今は時間が経つと悪くなっていく。生物多様性の低下に対する危機感をもたなければならない。」と前置きし、瀬戸内海、辺野古、祝島の問題を例にしながら、政府の進める生物多様性国家戦略の問題点を提起し「閣議決定した第6次生物多様性国家戦略の推進を法的拘束力がないことを理由にこれまで通りの施策を強行するなら、未来への国家による犯罪が続くことになる。これを止め、変革を推進するのは市民の力しかない」と締めくくりました。

第2のテーマ「共通の安全保障」では、「日本は、憲法9条に依拠した外交政策を創り出す責務があるし、与野党逆転の中でチャンスはある。市民は、日米軍事一体化や日米韓をはじめとした多国間共同演習の日常化に反対していくことが重要だ」とし「軍事力が平和を担保するとの常識から、軍事力によらない安全保障体制の構築、脱軍備への道を拓くことが必須であり、状況を変えるのは民衆の意思と行動だ!」と締めくくり二つの講演が終わりました。

その後、参加者の意見交換が行われました。

午後5時までの討論が終わると、持ち込んだ食べ物飲み物での恒例の新年会です。毎年のことですが、一番盛り上がるのは、この時間です。みんな言いたいことが山ほどありますので、あちらで、こちらで議論の花が咲き,今年一年の運動の強化を誓い合いました。

いのちとうとし

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2025年1月12日 (日)

広島刑務所の土塀

吉島稲生神社の被爆樹木を見た後、すぐ北側にある広島刑務所所まで、足を伸ばしました。

広島刑務所の西側(本川右岸沿い)の道路沿いに、広島刑務所の土塀のモニュメントがあります。大きな塊ですので、左奥にある説明文を読まなければ、土塀の一部とは気づかないと思います。

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左奥の現在の塀に貼ってある説明板が写っています。

そこには、この土塀のモニュメントについて、次のように書かれています。

「広島刑務所の土塀(明治19年~平成30年) 広島刑務所の土塀は、明治19年、前身の広島監獄所の時代に、愛知県出身の左官服部長七氏により、土や砂を独自の配合で固めた『人工石』工法で建造されました。土塀は、今日に至るまで幾多の自然災害に耐え、さらに昭和20年8月6日,広島に投下された原子爆弾の熱線や爆風により、広島刑務所の建物は全壊しましたが、倒壊することなく耐え抜き、以降も広島刑務所の最後の砦として建ち続けてきました。広島刑務所の改築に伴い、この外塀がコンクリートの塀に変わっていく中で、地元住民の多くの声を背景に、保存が決定しました。」

この土塀のモニュメントは、頑丈さを誇示しているだけでなく、被爆石としての役割も持っているのです。

後ろに取り付けられた説明板には、写真も掲載されています。

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この写真の説明文は次のように記載されています。

「原爆の熱性によって影が残った塀。この入射角が空中の爆発点の、算出基礎となった」

写真をよく見ると、奥側の塀に、斜めの影がはっきりと写っています。空中の爆発点を確定させるため、この塀だけでなく他の多数の構造物に残った影から算出されたのですが、倒壊を免れたこの刑務所の塀の影も重要な算出基礎になったようです。

ところで吉島刑務所で思い出すのは、やはりこの刑務所内の独房で被爆した11人の強制連行された中国人被爆者のことです。

下の写真は、1993年5月に最初の強制連行された中国人被爆者として来広した張文彬さんが、この吉島刑務所を訪れ、広島刑務所の外壁を見上げている写真です。(広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会のホームページより)

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張文彬さんは、私にとって忘れられない中国人被爆者の一人です。張さんの真摯な姿が、その後の中国人被爆者招待の大きな力になったと私は思っています。

11月に来広され、私が平和公園を案内した中国人被爆者于瑞雪さんの遺族お二人も、私と別れた後、川原洋子さんの案内で、ここを訪れています。

そんなことを思い出しながら、広島刑務所の土塀のモニュメントを見て帰宅の途につきました。

いのちとうとし

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2025年1月10日 (金)

被爆80年、改めて国家補償を考える

が担当する2025年初めてのブログとなりました。どうぞよろしくお願いします。

被団協のノーベル平和賞で、「国家補償」ということが、クローズアップされています。原爆投下から80年を迎えた中で、国家補償をどうすれば形にすることになるのかということを考えていました。

「国家補償」とは、過去の補償、現在の保障、未来の保証の「三つのほしょう」という考え方だと思っています。特にこれから未来に亘って、核による被害者を作らないという「未来の保証」を国に求め、世界に訴えることだと考えています。

原爆二法と言われた「医療等に関する法律(医療法)」と、「特別措置に関する法律(特別措置法)」が、一本化され1994年12月に「援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されました。

この被爆者援護法が制定された翌95年に、大蔵省(現・財務省)令によって額面10万円の国債金が、亡くなった被爆者の家族に配られました。私もこの国債金を受け取りましたが、配布に対しては強い疑問を感じていました。しかし当時の政権が野党政権であったことなどもあり、被爆者団体はこの省令を受け入れ、その時から「国家補償による被爆者援護法」の制定運動は、急激に活動が低下していったと思っています。

そして2002年8月には、国の気持ちを現わす「国立広島原爆死没者追悼平和記念館(追悼記念館)」が平和公園内に建設されました。被爆者団体のリーダー的な役割を担っておられた人に、「これらの施策で過去の補償としてよいのでしょうか」と電話をしました。その人は「今しかチャンスはないのだよ」と、強い口調で語られたのを覚えています。

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日本被団協がこの国債を受け入れた時点で、内容は猛烈なる不十分ですが「過去の補償」問題は終わったとされても、ある意味仕方ないと思っています。国家補償を求めることは大切だと思いますが、それを再びお金で求めることに違和感を思うのです。

被団協の事務所に対し「まだお金を欲しいと要求しているのか」という、嫌がらせ的な電話が掛かってくるとも聞きました。

国の責任を明らかにする真の国家補償を明確にするには、現在の被爆者援護法の前文に、1956年の日本被団協の結成大会での、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはならない」との宣言を基にした文章を、明示することも国家補償の精神を組み入れることの一つの手段ではないかとも考えています。

米国の核実験被ばく者やウラン採掘に従事した人たちへの援護法として、被ばく者補償法(RECA)がありました。この法律は、昨年6月に失効されましたが、その考え方について合衆国議会は「(前略)国家安全保障の犠牲になったことを認める。議会は政府に代わって、これらの人々とその労苦に耐えた家族に対しおわびを表明する」と書いていました。この被ばく者補償法が完全なものだとは思いませんが、参考にする価値は在りだと思っています。

米国の核被害者団体では、RECAが失効したことに強い反対運動が起こるとともに、被団協が平和賞を受賞したことに、強い連帯のメッセージも寄せられています。

被爆80年の今年、ノーベル平和賞を実効性のあるものにするには、世界の多くの被ばく者たちとの連帯が必要なのではと思っています。その根底の考え方が「国家補償」の精神だと思う年明けとなりました。

今年1月の鹿砦社(ろくさいしゃ)カレンダーにあった言葉、「今日も笑顔で一歩前へ」で過ごしたいと思います。

木原省治

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2025年1月 7日 (火)

吉島稲生神社の被爆樹木

先月、修道学園の慰霊碑を見ることができなかったので、その後吉島稲生神社まで足を伸ばしました。吉島稲生神社は、吉島線のバス通りから西側に少しはいったところにあります。爆心地からは、2,160mの距離です。

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10年以上前には、この吉島稲生神社の近くのお店に何度も買い物に来たことがあったのですが、その時には、被爆樹木のことに強い関心が無かったため、気にすることもありませんでした。最近テレビ番組で、吉島稲生神社の被爆樹木が紹介されたことがあり、いつか見に行こうと思っていましたので、ちょうどよい機会だと訪れることにしました。

こじんまりとした境内ですが、5本の被爆樹木があります。

最大の被爆樹木は、拝殿と本殿の間に植わるクスノキです。

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この木は、高さは20.5m、幹回り3mという巨木で、「広島市指定保存樹」となっています。

本殿右横には、エノキが植わっています。

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この木も「広島市指定保存樹」で、高さは14.5m、幹回り2.1mの巨樹です。

鳥居の横には、ツバキが植わっています。

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花が咲いていてもよい時期だと思ったのですが、まだつぼみの状態でした。

広島市の被爆樹木リストには、この他にクロマツは2本登録されています。

そのうち写真に収めたのは、1本だけです。

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最初に被爆樹木は5本と紹介しましたが、急きょ訪れることになったため、5本ということを知らずに現地を訪れましたので、4本を確認しただけでした。帰宅後、広島市の被爆樹木リストを確認して初めて5本ということがわかりました。私が写すことのできなかったクロマツの写真が、広島市の被爆樹木リストに掲載されています。

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言い分けになりますが、この写真をよく見ると他の樹木覆われた感じですので、誰かに尋ねないと見つけることができないように思えます。近いうちもう一度、訪ねて確認しようと思います。

ところで、広島市の被爆樹木リストから、樹木の写真を検索すると次のような紹介文が目に入ります。

「被爆当時、吉島稲生神社の社務所はこれら境内の樹木に守られたため、倒壊を免れ、ここで被爆によって焼け出された人々の治療が行われました。」

この文章を読みながら、私が現地を訪れた時、不思議な思いで本殿の石垣の側面に貼り付けられた看板をみたことを思い出します。

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そこには次のように書かれています。

「原爆に耐えた吉島稲生神社 当本殿は、昭和2年2月に改築建立された。昭和20年8月6日の強い爆風で本殿の銅板屋根が浮き上がり南側の用水路に落下した。間もなく町民の手で,本殿の欠落した垂木を補い屋根を元通りに戻した。屋根のあまり丁寧でない細工を見ると当時の困難が偲ばれる。」

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よくよく本殿を見たのですが、私の目には、どの垂木か判然としませんでした。

吉島稲生神社の境内には、被爆の歴史を示すものがたくさん保存されていることがわかりました。

広島原爆戦災史第4巻には、16の神社の被爆状況が掲載されていますが、その中には吉島稲生神社は入っていませんので、これ以上被爆当時の様子を知ることはできません。

いのちとうとし

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