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#平和推進

2022年10月 7日 (金)

原爆犠牲者の月命日の法要-その1

平和公園の原爆供養塔には、身元が分からないか、判明しても引き取り手のない遺骨約7万体が、納められています。

その原爆供養塔の前で、毎月6日に犠牲者の月命日の供養が行われていますが、私も昨日初めて参加しました。

以前から、新聞報道などでこの月命日の供養は知っていましたが、実際に自分も参加しようと思うきっかけとなったのは、今年8月6日にTSS(テレビ新広島)で放送された「ヒロシマ祈りの場の1年」を見たことです。この番組は、「祈りの場」としての平和公園で毎日行われている市民の様々な祈りの様子を昨年8月から今年7月までの一年間を通して取材して作られた番組です。

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テレビ新広島ホームページより

 この番組を見ながら、思い出しことがあります。この番組を制作した前田典郎ディレクターには、今年の元日が平和公園の原爆慰霊碑を訪れた時、そこで会い、新年のあいさつをしたのです。その時には、「新年早々から取材で大変だな」ぐらいにしか思っていなかってのですが、いまにして思えば、この番組を制作するための取材中だったのです。

番組の中心は、毎日夜明けとともに公園内にある原爆供養塔にやってきて、供養塔周辺の落ち葉を丁寧にかき集め献花台を清掃しておられる渡辺和子さんの姿や、毎月6日に月命日の供養のための読経を続けておられる呉市の白蓮寺住職の吉川信晴さんの姿でした。

昨日、ようやくこの月命日の供養に参加することができました。前夜に前田ディレクターに電話をかけ「いつ頃から始まりますか」と訊ねたところ「吉川住職は、8時ころには平和公園に来ておられます。始まるのは、はっきりと決まってはいないのですが、8時半前後ですね」と教えていただきましたので、遅れないようにと8時を目途に家をだました。

家を出ると、少しだけパラパラの小雨が落ちてきましたので「本格的な雨にならなければよいが」と心配しましたが、平和公園に着くと間もなく雨は上がりました。

供養塔に行くと三人の人が、清掃されている姿が目に入りました。

供養塔の周りの溝の掃除をされているのが、渡辺和子さんでした。

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供養塔の北側で熱心に落ち葉を集めておられる二人に「どこから来られたのですか」と声をかけました。

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びっくりする答えが返ってきました。「福岡から来ました」「えっ」聞き返しました。聞き違いではありません。「福岡」に間違いありませんでした。続けて「福岡で放送された『ヒロシマ祈りの場の1年』を見たのがきっかけで。どうしてもとの思いできました。」とのことです。番組を見て私と同じ思いをもった人がおられたのです。しかも福岡から。

福岡のお二人と話していると、前田ディレクターの姿が見えました。福岡のお二人の話をした後、前田ディレクターが「住職が近くで待っておられるのであいさつに行きます」とのことですので、同行させてもらいました。

吉川住職とお会いするのはもちろん初めてでしたが、少しだけ話を聞かせていただきました。「今朝は、6時45分に家を出かけ、呉市体育館前から高速バスに乗り、本通前で降りて、歩いてここまで来ました。今日は少し早く着きましたので、ここでゆっくりしていました。」その後、介護度5度の奥さんの介護のことに話が続きます。食事つくりから大変な毎日のようですが「もうすぐ86歳になりますが、介護のしながら、学ぶことが多いですよ。」と淡々と話されます。後で改めて聞いたのですが、私と干支は同じ、ネズミ年生まれ、ちょうど一回り違いです。私たち夫婦もそんな時期を間もなく迎えるけれど、そんなふうに生きられるかなと思いながら、話を聞いていると、すぐに30分くらいの時間が経ちました。「じゃー、供養を始めましょうかね」と読経が行われる供養塔の北側に一緒に移動しました。

前置きが長くなってしましました。今日の報告はここで終わりです。この後の様子は、9日に紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月 3日 (月)

爆心直下の町―細工町・猿楽町

広島原爆資料館の1階で、9月16日から「広島平和記念資料館令和四年度第一回企画展 爆心直下の町―細工町・猿楽町」が始まりました。

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会場に置かれているパンフレットの「はじめに」には、次のように書かれています。

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「通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明版。現在も島内科医院として続く島病院の地上600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町、猿楽町と呼ばれた町にありました。

この企画展では、爆心直下の2つの町に焦点をあてて、被爆前の町の様相、原爆による破壊、再建に向けた歩みを当時の写真や遺品、住民の方の証言を交えて展示します。人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。」

この「はじめに」のとおり、展示は「被爆前の街並み」「変わり果てた光景」「再建の歩み」の順で、写真や遺品が展示されています。

「変わり果てた光景」で展示されている写真は、「見たことがある」と思える写真が並んでいますが、私が一番興味を持ったのは、「被爆前の街並み」のコーナーに展示された、電車通りに面して立っていた護国神社の大鳥居が写った2枚の写真です。

なぜ興味を持ったのかは、大鳥居の写真がいずれも鳥居の裏側(北側)から写されているからです。以前このブログ旧廣島護国神社被爆鳥居―その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「大鳥居の裏側にも額があったが、留め金しか残っていない」ことを紹介しましたが、裏側(北面)の額が写った写真を紹介することはできませんでした。

ところが今回の展示で、その裏側(北面)の額が写った写真が2枚も展示されていたのです。

1枚は、「広島護国神社での防空演習」とタイトルがついています。この写真は、パンフレットにも掲載されています。

もう1枚には、ズバリ「神社の大鳥居」のタイトルが付けられ、キャプションに「神社側から南に撮影したものです。」と書かれています。裏側の額がはっきりと写っています。これで、間違いなく裏側(北面)にも額があったことが確認できました。

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よく見ると原爆によっても落ちることのなかった表側(南面)の額も小さくですが確認することができます。

残念ですが、裏側(北面)の額は、原爆によって落下した後、どうなったのかは、不明のままです。

この他にも興味ある写真が何枚も展示されていますので、別の機会に紹介したいと思います。

「細工町、猿楽町のことを書いた本があったな」と思い出し、田邊雅章さんの「原爆が消した廣島」を引っ張り出して、先日紹介した森冨茂雄さんの「絵と証言 消えた町 記憶をたどり」ととともにもう一度読み直してみようと思っています。

この企画展は、来年の2月13日まで開催されていますので、ぜひ行って見てください。何か新しい発見があるはずです。パンフレットも貴重に資料です。

いのちとうとし

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2022年10月 1日 (土)

不思議な石碑

平和公園には、世界各地、国内各地から贈られた樹木が茂っています。

これらの樹木には、これまでに何度かこのブログでも紹介しましたが、QRコードのついた「説明版」が付けられ、その由来が分かるようになっています。

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最近平和公園を散策していて気付いたのですが、この「説明版」とは別に、寄贈者が置いたと思われる石碑がいくつかあります。

ところが、原爆資料館と国立追悼祈念館の間の緑地帯で、石碑はあるのですが、それに該当すると思われる樹木が見つからないものがあることに気づきました。

その一つが、国立追悼祈念館のすぐ南側にある昭和36年(1961年)に西ドイツ教授団から贈られた「オーシュナラ」の石碑です。

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石碑の後方には、該当する木がありません。裏側に廻ってみましたが、それらしき樹木の痕跡も見つけることができません。

この石碑の少し南側には、昭和50年(1975年)に長崎市から送られて「ナンキンハゼ、アジサイ」の石碑があります。

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この石碑の後ろにも、それらしき樹木が見当たりませんが、すぐ左後ろに緑色のコーン3本で、保護されているような様子が見えますので、後ろに廻ってみました。

このコーンで囲われた部分の地表に、樹木の切り株の根元部分が残っており、そこに小さな緑のものが目に付きます。

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近づいてよく見ると、切り株と思われる部分の写真の手前に、複数の発芽が見えます。株の様子からナンキンハゼの切り株だと想像できます。

実は、この石碑は一週間ほど前に気づき、一度写真を撮ったことがあります。

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この時の写真には、石碑の左側には、コーンは映っていません。後ろに廻って切り株らしきものが残っていることは確認したのですが、この切り株が該当するのかどうかは判別できませんでした。もちろん芽が出ていることは全く気がつきませんでした。

この10日間の間に、ひこばえと思われる芽が出たことに誰かが気付き、広島市がコーンを置いて保護することになったと思われます。

この二つの石碑に刻まれた3本の樹木は、枯れたり折れたりしたものと思われます。

平和公園に供木として植えられた樹木は、植樹後は広島市に寄贈され、広島市が管理することになっています。

これらの樹木が、いつ枯れたのか、その後の対処はどうしようとされているのか、樹木が元気だったころの写真はないのかなど、詳しい情報を知りたいと思い広島市の担当課である公園維持課に問い合わせたところ、「全てをお答えするのには、少し時間がかかるので持ってほしい」との返事がありました。

このすぐ近くにある「峠三吉の碑」の後ろ側にあるバラの木も、その棚の大きさに比べ、新しく植えられたと思われるやや小さめの1本しか残っていません。これも気になりましたので、このことも一緒に問い合わせています。

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これまでの問い合わせに対しては、担当者には丁寧に対応していただき、いくつかの情報を得ていますが、誤解を与えることがあってはいけませんので、きちんとした情報は、広島市からの回答を待って紹介したいと思います。

この日の散策で、意外なものを見つけました。

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曼珠沙華の花です。後ろに写っている建物はレストハウスです。こんな場所で曼珠沙華を見つけたのは初めてのことですので、写真を1枚撮りました。

いのちとうとし

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2022年9月29日 (木)

安倍元首相の国葬と「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」

広島市まちづくり市民交流プラザ南棟1階ロビーで「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」が開催されています。

安倍元首相の国葬が行われた昨日、会場を訪れました。

展示されている写真は、主催者のZENKO(平和と民主主義をめざす全国交換会)広島が、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センターと沖縄ドローンプロゼクトの奥間政則さんなどから提供を受けたものです。

南西端の沖縄の与論島から続く沖縄南西諸島、そして奄美諸島の馬毛島に至る島々で進むミサイル要塞化、軍備増強の実態を知ることができる写真展です。

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中国の海洋進出を口実に日米韓、オーストラリ、インド、英仏などによる中国封じ込めの最前進基地として九州南方から台湾北方にかけて約1,200kmに連なる島嶼群に、日米によるミサイル要塞化が進められている実態を知ることができます。

馬毛島、与那国島、宮古島などなど個別の軍事基地建設の問題、そして住民の反対運動などについては、いくつかの講演会などを通じて知っているつもりでしたが、全ての島々で進む軍事基地化の事実を一体のものとして明らかにしているこの写真展が示す事実は、私の想像をはるかに超えるものです。

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それぞれの島の軍事要塞化の実態は、どれだけ国民に知らされているのでしょうか。

先の大戦で、国内唯一の戦場となった沖縄が、再び本土の砦としての役割が押し付けられようとしています。そそれは、いったい誰が推進してきたのか?平和憲法を踏みにじり、軍備増強・戦争をする国づくりを進めてきたのは、安倍元総理です。それは、アメリカの戦争に日本を巻き込む道に他なりません。この写真展は、安倍元首相が国葬にふさわしくない政治家であったことを如実に示しています。

「安倍元総理の国葬」は、安倍元総理が進めてきた軍事大国化への政策にお墨付きを与えることにつながるのではないでしょうか。なぜ、私たちが「安倍元総理の国葬」に反対したのか、反対しなければならなかったのか、国葬が終わったとしても、そのことは言い続けなければなりません。

この写真展は、明日(30日)まで開催されています。ぜひ今沖縄南西諸島で起きている事実を知るためにも会場を訪れてほしいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月27日 (火)

被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催

広島県原水禁は、昨日午後6時から自治労会館で被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催しました。その前段として、午後5時から県原水禁常任理事会を開催しました。

いずれの会議も、8月4日から6日に開催された被爆74周年原水禁世界大会広島大会の総括案が協議されました。

秋葉忠利代表委員のあいさつの後、高橋事務局長からは、中央実行委員会が提示している「被爆77周年原水禁世界大会総括(案)」が提起されました。

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以下に昨日の会議に提案された総括案のうち、広島大会に関する部分を抜粋して紹介します。

【大会参加】

福島大会400人(74大会650人)、広島大会開会総会1200人(74大会1900人)、長崎大会開会総会800人(74大会1800人)、国際シンポジウム40人(74大会60人)となりました。3年ぶりに従前までの規模での開催をめざすとしながらも、7月8月の全国的な新型コロナウイルス感染状況は、第7波とも言われる感染者増により、大会参加に戸惑いが生じたことも事実です。また宿泊については、感染症に配慮する観点から、シングルユースを基本とした案内を旅行社が行っていることにより、現地に行きたくても宿泊の確保が難しい状況となりました。そして、3年ぶりの人数制限のない大会となったことから、各都道府県、中央産別ともに事務局が初めての経験となったところも多く、参加体制確立に向けた戸惑いも聞かれました。

また、オンライン配信と対面開催とのハイブリッド型を模索してきました。オンライン配信については、準備と費用、人員が相当必要であること、通信環境を一律に整えることが困難なこと、今大会で「再び原水禁運動の熱を感じる」ためにはオンラインでは十分ではないことから、福島大会と広島での国際シンポジウムのみ実施し、その他開会総会や分科会についてはアーカイブでの配信としました。まずは、対面での開催が3年ぶりに実施できたことにより、原水禁運動は確実に歩みを進めていることを参加されたみなさんと確認することができました。

【子ども、若者の取り組みについて】

これまで広島で開催してきた「メッセージfromヒロシマ」は被爆の実相を次世代へ継承するうえで重要な取り組みでした。その価値は普遍でありながらも、現状では安心して子どもたちを多数集める状況にはないことから、今大会では開催を見送り、次年度以降の開催をめざすこととしました。

【参加拡大に向けて】

大会運営の基本ルールである「反核・非核で一致する」すべての人々に開かれたものとし、さまざまな立場の人たちが共同できる場としていくためにも、新規参加者および一般参加者の増加を見通した大会運営を心掛けていく必要があります。これまでの大会同様、7割以上の参加者が初参加となったように、今大会を原水禁運動の入口と捉え、広範な市民運動として発展させていくうえでも、大会内容の工夫については模索し続けていく必要があります。

以上のような提案を受け、意見交換を行いました。

主に分科会の進め方の問題点、核兵器禁止条約と核拡散防止条約の関係をどう考えるのか、岸田首相のNPT再検討会議でのあいさつの問題点、来年のG7等に対し、広島としての明確な態度を示す必要がることなどの意見が出されました。

広島大会は、3年ぶりの対面方式による大会開催となりましたが、県原水禁常任理事、そして各労働組合の協力によって、無事大会を成功させることができたと思います。また危惧されたコロナ感染も可能な限りの感染対策を行い、無事大会を終えることができました。

広島県実行委員会は、昨日の会議をもって解散することを決めましたが、今後10月いっぱいに総括に関わる意見をまとめ、12月に予定されている中央実行委員会の最終的な大会総括に向けて広島の意見が反映するよう努力することを確認しました。

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2022年9月24日 (土)

「岸田首相は安倍国葬をやめよ!9・23広島デモ」

全国各地で9月27日に予定されている「安倍国葬」の中止を求める様々な行動が展開されています。東京では、9月19日に「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会/さようなら原発・1000万人市民アクション実行委員会」が共催し、代々木公園で「安倍元首相国葬反対!改憲発議と大軍拡やめろ!さようなら戦争さようなら原発919大集会」が開催され、雨にもかかわらず13,000人が結集し、デモで訴え、多くの共感を呼んだと報告されています。

昨日、広島でも5人(秋葉忠利 (前広島市長)、石川幸枝 (保育者九条の会)、小武正教(念仏者九条の会)、岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク)、山田延廣(広島県市民連合代表))の呼びかけで、「岸田首相は安倍国葬をやめよ!9・23広島デモ」が行われました。台風のため19日の街頭アピール行動が中止となった「戦争させない、9条壊すなヒロシマ総がかり行動実行委員会」も急きょ、このデモ行動を協力して取り組むことを決めました。

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午後1時原爆ドーム前に集まった参加者によって集会が開催され、呼びかけ人の小武さん、岡原さん、山田さんが、それぞれの立場からあいさつ、その後立憲民主党、共産党、社民党の各代表が、連帯をあいさつを行いました。新社会党も予定していましたが、到着が遅れたため、紹介だけになりました。

集会が少し伸びたため、出発予定時間の午後1時半を少し過ぎましたが、デモがスタートしました。

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デモ行進は、呼びかけ人が持つ「安倍元首相の「国葬」中止を求めます」の横断幕を先頭に進みました。その他にも「「岸田首相は安倍国葬をやめよ!」の横断幕も準備されています。  さらに、参加者がそれぞれに準備したプラカードが、掲げられています。

行進参加者は、「安倍『国葬』に反対しよう」「安倍『国葬』を中止せよ」「『国葬』は憲法違反だ」などのシュプレヒコールをしながら、道行く人に訴えました。

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デモコースは、電車通りに出た後、紙屋町交差点を右折し電車通りを南進し、本通電停前を左折して本通を東進、パルコ前を左折し電車通りに出た後右折し八丁堀交差点を左折して岸田文雄事務所前まで行進し、「岸田首相は、安倍国葬を止めろ」などのシュプレヒコールを行って流れ解散となりました。

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参加者は、主催者の発表では300人でしたが、デモの責任者は「数えたら400人委て驚いた」と言っていました。400人と言ってもおかしくない参加者数だったと思います。

いのちとうとし

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2022年9月18日 (日)

住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その2

一昨日のつづきです。

早速住吉神社の社務所を訪れました。最初は、ドアホーン越しの話でしたが、すぐに宮司さんが社務所に出てこられ、私の問いに丁寧に答えていただきました。

答えは「被爆当時のことを知る者はいなくなったのですが、私が聞いている話では、被爆後残った樹木は、松2本、クスノキ、エノキの計4本です。平成8年から9年にかけて神社を改築しました(金子注:実際の再建は1991《平成8年》)。その時被爆松2本は、移植したのですが、クスノキとエノキは、伐採しました。」ということです。さらに「昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱と凱旋碑は、境内からは撤去し別の場所に保管しています。」とのことでした。

この答えを聞いて私が、「こちらには、被爆後の神社の様子が写った写真は保管されていませんか」と訊ねたところ、「こちらには、そんな類の写真は一枚もありません。ただ、広島市が発行した印刷物で、被爆松2本が写った写真と見たことがあります。住吉橋の東橋詰南側では、被爆直後遺体が焼却されたそうですが、その南側から北に向かって(金子注:住吉神社の方向)写した写真だったように覚えていますが?」と教えていただきました。「本の名前は覚えておられませんか」と問うたのですが「どんな本だったか覚えていませんね」との答えでしたが、貴重な情報を得ることができました。お礼を言って、住吉神社を後にしました。

「市が発行した印刷物」との答えを頼りに、すぐにわが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪れました。

「市が発行した印刷物に住吉神社の被爆後の写真があると聞いたのですが、何かご存知ないですか?」あまりにも漠然とした問いかけでしたが、すぐに返事が返ってきました。

「1996年に発行した『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る―未来への記録』にひょっとすると何かあるかもしれません」

調べると「吉島・舟入・観音地区―建物・橋・樹木」の項に、「マツ・住吉神社」とタイトルの付いた下の写真がありました。

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キャプションには、「住吉橋から本川沿いにマツが並ぶ(1955年頃)」と書かれています。よく見ると、間違いなく川沿いに2本の松が映っています。神社本殿の後ろには、ケヤキかエノキかはっきりしませんが、大きな木が映っています。

写真の右上に移っている斜めの鉄骨は住吉橋の一部だと思われます。住吉橋は、1945年の原爆と水害によって流出し、1951年にコンクリート橋に建て替えられたのですが、その年のルース台風によって再び流失しています。その後新たの工法が検討され、わが国で初めてとなる鋼ローゼ橋が採用され、1954年3月に現在の橋が完成しました。

被爆で倒壊・焼失した住吉神社の再建は、1952年ですので、この写真は再建後すぐの貴重な写真と言えます。

写真では、川沿い2本の松は、かなり間隔をあけて植えられていますので、被爆樹木で間違いないと言えます。もし、松が1952年の再建時に植えられたのであれば、もっと本数が多く並木のようになっていたはずです。

住吉神社の被爆松が何本かを知るため、被爆直後の写真も探しをしました。広島原爆資料館(広島平和記念資料館)の平和データベースで関連する一枚を見つけることができました。

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米国戦略爆撃調査団が、1945年11月に住吉橋の西詰から東方を写したもの(所蔵は米国国立文書館)で、広島平和記念資料館から提供を受けました。

松が1本残っているように見えますが、神社の敷地全体が映っていませんので、これだけでは判断することができませんでした。ただよく見ると、対岸の左側に写る電柱のすぐ左に、7月のブログで紹介した「住吉橋記念燈」が写っていますので、記念燈が、間違いなく被爆したものであることがわかります。

今度の調査で「住吉神社の被爆樹木は松2本でした」という結論に達しましたが、なぜ1971年に発刊された広島原爆戦災誌に「ただ1本、川べりの松が現在まで残っている。」と記録されたのかという疑問は、解明することができませんでした。

いのちとうとし

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2022年9月16日 (金)

住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その1

中区住吉町5-10にある住吉神社の被爆樹木について7月18日のブログ住吉神社の由来と被爆―つづき: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で次のように書きました。

「ここで疑問が一つ浮かびます。14日のブログで「広島原爆戦災誌」には、「境内に茂っていた老松もほとんど枯れ死したが、ただ1本、川べりの松が現在まで残っている」と書かれていることを紹介し「覚えておいてください」と書いておきました。「広島原爆戦災誌」は、昭和46年(1971年)11月6日に発行されていますが、「ただ1本」残っていたはずの被爆したクロマツが、なぜ2本になって被爆樹木リストに登録されているのかです。

難しいと思いますが、この経緯が何かわかることがあるのか、広島市の担当課に訊ねてみたいと思います。」

広島市に問い合わせると、すぐに回答が返ってきましたが、その結果の紹介が遅くなってしまいました。

広島市からの回答は次のとおりでした。

「お問い合わせいただいた住吉神社の被爆樹木本数は、原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック写真集や中区地域振興課が実施した寺院アンケートを参考に指定されているようです。」

まさか、根拠の一つに「原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック」があげられるとは思いもかけませんでした。

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と言うのは、「原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック」は、1993年に「ヒロシマの今から過去を見る会」が発行したもので、この本のほとんどは、戸村良人さんが書かれてものです。戸村さんは古い友人で、戸村さんのガイドで何度か原爆遺跡などを訪ねたことがありますし、私も何度かこの本を手に、原爆遺跡巡りをした経験があります。

今は、この本そのものは絶版となっていると思いますので、入手することは難しいと思います。ただその後新しい情報に更新されたものが、作業中、ヒロシマの今から過去を見て回る会 (lolipop.jp)で見ることができます。ただしこのホームページは、2014年が最終更新となっているようですので、最新の情報ということにはなっていませんが、いまでも被爆遺構や碑めぐりなどに十分活用できる内容となっています。現在戸村さんは、岩国米軍基地のウオッチャーの活動をされており、「原爆遺跡軍都広島」のフィールドワークは、実施されていませんので、今後更新されることはないと思います。

私が、戸村さんにホームページに記載されている住吉神社の被爆樹木のことを聞くために電話をした時も、岩国基地の米軍機の飛行をウオッチャーされている最中でした。

「ヒロシマの今から過去を見て回る会」のホームページには、住吉神社の被爆樹木について次のように書かれています。

「爆心地から千三百メートル。神社社務所は原爆で焼失。しかし、1993年訪れた時は、松2本、クスノキ、エノキ1本づつは、残っていました。石造りの灯籠等も被爆遺跡でした。大きい松は国道2号線のそばにあり、注意すれば国道を走りながらでも見えます。小さい松には、昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱が添えられていましたが、国道2号線からも見えるマツを除いて数年後の住吉神社の改築の際、全て撤去されています。松というのは、どれが被爆樹か本を読んだだけでは判りにくい樹で、宅和先生は行って見たけれどどれがそうかわからずへたりこまれ、変わりに下の凱旋碑を見つけたといいます。筆者は宮司さんに運良く尋ねることが出来たので判ったが、戦争経験の無い、こんな調査する駆出しの頃の経験浅い、戦後生まれの身には下の凱旋碑には気づきませんでした。松は2本、黄色いプレートがついているので判ります。」

そして、戸村さんが当時(2012年9月15日)撮影した被爆松の写真2枚が添付されています。

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この写真は、ちょうど20年前に写したことになりますが、今年7月に私が写し、7月18日のブログで掲載した写真の松とほぼ同じような景色を見せています。

戸村さんの文章を確認した後、改めて住吉神社を訪ねてみました。

その結果は、次回に掲載します。

いのちとうとし

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2022年9月14日 (水)

「戦争法強行7年!ヒロシマ総がかり9・19行動」に参加しよう

2015年9月19日安倍政権は、憲法違反の「戦争法」(安保法制)を強行成立させました。

あれからちょうど7年目となる9月19日、「戦争をさせない、9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、午後1時30分から「ヒロシマ総がかり原爆ドーム前集会」を開催します。

閣議決定のみで「違憲」の「集団的自衛権行使」を容認を決定し、「憲法9条改悪」、「戦争への道」につながる危機を作り出したのが安倍政権でした。

この戦争法が成立して以降、日本の安全保障政策は大きく転換してしまいました。その一つが、日米軍事演習の拡大のみならず、オートスラリ後、そしてイギリスとかつては、絶対に行われなかった多国間の軍事演習が当たり前のことのように実施されるようになりました。多国間の軍事的協力関係が強まれば強まるほど、戦争に巻き込まれる危険性は高まりす。

それをおしとどめるのは、主権者である市民運動の力です。

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岸田総理は、圧倒的多くの国民が中止を求めているにもかかわらず、憲法を無視し、日本の再び戦争への道へと進ませようとした安倍元首相の「国葬」を強行しようとしています。

「戦争法強行7年!ヒロシマ総がかり9・19行動」は、戦争法である「安全保障法制」の廃止を求め、憲法9条の改悪を許さないという広島の声を結集するとともに「安倍元首相の国葬中止」を求める広島市民の声を意思表示する集会でもあります。

市民が主役の政治を実現させるためにも、この集会に一人でも多く参加していただくことが大切です。

19日午後1時半、原爆ドーム前に結集しましよう。

いのちとうとし

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2022年9月13日 (火)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の説明文

平和公園内にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の地下2階の「平和祈念・死没者追悼空間」へと進むスロープに設置された6枚の説明文について一昨年11月17日国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)から4回にわたって連載をしました。

4回目の最後に「ですから、現在の追悼祈念館では、この6枚の説明文の扱いがおろそかになっていることにずっと問題意識を持っていたのです。そこで先日、追悼祈念館を訪れ、私の手元にある資料を示し『この6枚の銘文(説明文)をホームページやリーフレットできちんと紹介してほしい』と要望しました。対応していただいた館長は、私たちも、大切な文章だということは理解しています。ただこの施設は、国からの委託を受け広島市が運営していますので、私たちが『こうします』と言うことができません。厚労省に『要望があったこと』をきちんと伝えます」との返事でした。良い方向に進むことを願っています。」と書いて、このシリーズを終了しました。

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あまりせっつくのはという思いがあったため、つい時間が経ってしまいましたが、先日やっと国立追悼平和祈念館を訪れてその結果を聞いてきました。

まず厚生労働省の答えです。「議論が再燃する事態は避けたいが、対応は館長に一任する」との事だってようです。

一任を受け、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館として、色々な角度から検討し、少し時間がかかりましたが、次のような対処をとっていただくことになりました。

「①パンフレットについて

 今年度末に予定している企画展示コーナーの模様替え以降になりますが、追悼空間スロープの説明文に『原爆投下に至る経緯が6枚のパネルに記載されています』の一文を加えたものに差し替えます

②ホームページについて

 フロアマップhttps://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/floormap/index.htmlの③追悼空間スロープの説明文に『原爆投下に至る経緯が6枚のパネルに記載されています』の一文を加え、『6枚のパネル』にリンクボタンを設置し、パネルの銘文が読めるように改定します。」

パンフレット、ホームページとも「説明文」それ自体は掲載されませんが、追悼空間スロープに説明版があることが明示され、しかもホームページでは、リンクがはられることになりましたので、大きな前進です。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館久保館長の決断に感謝したいと思います。

その思いを伝えた上で、次のことを要望し、この問題に区切りをつけることにしました。

「リーフレット、ホームページの更新をしていただくとともに、館の職員が、この説明版が作られることになった経緯を理解できるように、適宜の研修を行っていただきたい。

特に、

①、特に問題となる6枚目の『誤った国策』は、閣議決定を経て1995(平成7)年8月15日に出された村山首相の『戦後50周年の終戦記念日にあたって』の談話で使われている言葉である。

②、さらにこの説明文は、広島の被爆者団体の意向を受け、厚労省が設けた「開設準備検討会(座長森亘)」で最終的に合意され、厚労省として設置したものであり、広島の被爆者の思いが込められた説明文である。

付け加えれば、被爆者団体の声が尊重されたのは、『原爆死没者慰霊等施設のできるだけ早い設置を図るとともに、被爆者および死没者の遺族の共感が得られる施設となるよう努める』と被爆者援護法成立時の付帯決議の7項に明記されている。

ことを周知していただきたい。」

久保館長からは、同意の意思を示していただきました。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館してちょうど20周年の今年、広島の被爆者のみなさんの努力を少しだけですが伝えるための役割を果たすことができたと思っています。

いのちとうとし

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