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#平和推進

2023年10月 1日 (日)

今日は、中華人民共和国の74回目の建国記念日です。

中国では日中戦争後、1946年6月から蒋介石が指導する国民党軍と中国共産党の人民解放軍の間で内乱が勃発しましたが、1949年に人民解放軍が勝利し、74年前の今日10月1日、「中華人民共和国」の建国が宣言されました。

中国では、10月1日は、この中華人民共和国の樹立を記念し、国慶節とよばれ、法定休日となっています。今年の国慶節の連休は、9月29日から10月6日までの8日間となり、マスコミでも報道されているようにこの連休を利用して、日本を訪れる観光客が、増大しています。

在日中国大使館は、建国74周年と日中平和友好条約締結45周年を記念し、9月28日に東京で祝賀のレセプションを開催しました。

今年は、初めて原水禁国民会議にも招待状が届きましたので、谷事務局長と二人で参加しました。私は、20年ぶりの参加となりました。

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あいさつする呉江浩駐日中国大使

私が、この祝賀レセプションにわざわざ広島から出かけていって参加しようと思ったのは、もちろん招待があったことからですが、大きな理由は二つあります。

一つは、夏の原水禁世界大会に周力中国人民平和軍縮協会副会長を団長とする6名の代表団が参加し、交流を深めることができましたので、今後も中国人民平和軍縮協会との関係を強化したいとの思いがあったからです。

二つは、日中間の関係が厳しい状況にあるときにこそ、交流を重視する思いを伝えたかったことです。

4年ぶりに開催された建国記念のレセプションの参加者は、1500人だったと言われています。この人数が多いか少ないかはわかりませんが、日中関係が今のままではいけないと思っている人が多くいることを感じました。

建国を祝賀するとともに、今年のレセプションは、「日中平和友好条約締結45周年」の冠があることを重視する必要があると思います。

日中両国は、平和条約の締結に先立つ1972年9月29日に、「日中共同声明」を発表し、平和友好関係を築くことを確認しました。

そのような歴史を経て結ばれたのが「日中平和友好条約」です。同条約では、

第1条 

1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的平和友好関係を発展させるものとする。

2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

としています。

日中関係が厳しいと言われる今、この日中平和友好条約に盛られた精神に立ち返ることこそ、両国の平和にとって、ひいては東アジアの平和にとって重要なことではないでしょうか。そのことは、レセプションの挨拶に立った日本側来賓から口々に指摘されたことです。

そのことを改めて痛感した祝賀レセプションでした。

いのちとうとし

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2023年9月26日 (火)

森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?―森滝日記より

5月4日のブログ森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」について、私なりの検証を試みました。その結論として「4月6日には、吉川さんなど4人に加わって県被団協の抗議大会に集まった人たちと一緒に座りこまれた」と記しました。

森滝先生の日記ではどう書かれているのか、ずっと気になっていましたので、先日加納加世子さんの森滝家訪問に同席した機会に、日記を見させていただきました。

昭和32年(1957年)の日記を探しました。

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1957年(昭和32年)4月20日の日記

4月6日の日記には、簡潔に次のように書かれています。

「四月六日() 慰霊碑前で『祈りと抗議の座り込み』及び午後、原爆被害者大会.激励の挨拶。(七時十五分に録音ニュース)

後に「座り込み10年の『前史』と理念」では「この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを囲んで『祈りと抗議の座りこみ』をおこない,その場で被団協の抗議大会を開いた。」と記述された「被団協の抗議大会」については、なぜか日記には全く記されていません。

しかし、日記に「祈りと抗議の座り込み」と、はっきりと記述されていますので、私が得た「座込みを続けていた吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎たち4人と一緒に座り込みをされた」という「一応の結論」が間違いでなかったことを、森滝先生の日記から確認することができました。

5月4日のブログで紹介した「4月20日の原水爆実験抗議広島市民大会」については、日記には、この市民大会のすべての日程、発言者が記述されています。

日記は「四月二十日() 雨さかんに降る」で始まります。気象台の記録「31.1mm」を裏付ける記述で、強い雨が降っていたことが、この1行からも理解できます。

以下「水爆実験阻止広島市民大会を決行。原爆資料館下で。」、その後に「開会 黙祷 大会会長挨拶」と当日のプログラムが記載され、きちんと発言者の名前が書かれています。当日の森滝先生の役割は、次第の6番目の「アピール」です。当日二つのアピールが行われています。最初は、「祈りと路抗議の座り込み団代表」です。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎の4人の名前が書かれていますので、4人全員のアピールがあったことがわかります。次が、「世界への質問」と題した森滝先生のアピールです。日記の「市民大会の次第」に続いて次のように書かれています。

「世界への質問」(今朝ひらめいたことば)

「今日 私は二十数万の原爆犠牲者の眠るこの慰霊碑の前で、一個の倫理学者として 全世界に向かって 一つの質問を厳粛に提出します。

今日 世界で最も強い國というのは 最も大きな罪悪を犯さなければならない口であろうか。」(原文のママ) 今にも生きる問いかけのような気がします。

そして「雨中乍ら集まったもの約千名。」と記述されて、この日四月二十日()の日記は、終わっています。

森滝先生の日記を見ることで、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」の結論を得ることができました。

いのちとうとし

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2023年9月24日 (日)

府中地区の9月の「19日行動」

「安保法制に反対する府中市民の会」は19日、9月から冬時間となり30分早めて午後3時から上下Aコープ前で9人の参加、午後4時30分から府中天満屋店前で10人が参加し、リレートークとスタンディングをそれぞれ30分間行いました。参加者は今日が8年目ということもあって安保法制の廃止に向けて決意も新たに訴えました。

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リレートークの一部を紹介します。

Aさん 安倍内閣が2017年、臨時国会の開催要求に約3カ月応じなかったのは憲法違反だとして、野党の国会議員が国に損害賠償を求めた裁判で、最高裁は9月12日に原告側の訴えを認めませんでした。憲法53条は衆参いずれかの4分の1以上の議員が要求すれば、内閣は臨時国会を開かねばならないと定めてあります。

判決は「国会の開催を要求がされた場合、内閣が開催を決定をする義務を負う」とした上で「個々の国会議員の権利を保障したものではない」と言っています。

野党議員は2017年6月22日、森友学園や加計学園を巡る疑惑追及のため、臨時国会の開催を要求した訳です。請求議員数は衆参とも必要な人数を超えていました。安倍内閣が国会を開催したのは98日後で、それも臨時国会冒頭で衆院を解散しました。安倍首相は臨時国会で森友学園や加計学園問題を追及されたくなかったからです。あまりにも身勝手な理由で許されるべきものではありません。

「数の支配」が生じやすい国会で、53条は少数派の意見を尊重する重要な規定です。最高裁は「憲法の番人」として、「これは違憲である。」と判決で安倍首相にお灸をすえるべきです。時の権力者に負けて、最高裁が憲法を判断しないのであれば存在価値はありません。今の政治は民主主義を否定して戦争への道を暴走しています。そして裁判所も加担しています。国民みんなで戦争反対の声をあげていきましょう。

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Bさん 劣化ウラン弾の使用は放射能に汚染され放射能まみれのウクライナにすることです。アメリカ軍は自分たちの戦争には使いません。アメリカ軍の兵士が放射能に汚染されるからです。それなのにアメリカは劣化ウラン弾をウクライナに提供しています。私たちがロシアとウクライナの戦争に反対するのは日本が巻き込まれるのではなく加担することになるからです。

Cさん 武器やお金で戦争を止めることはできません。話し合い外交努力です。日本政府はロシアのプーチン大統領に会って話し合いの努力をすべきです。今、日本政府がやっているのは経済封鎖で輸出入ができなくなっています。ロシアにそんな影響はないと思います。それより日本政府はアメリカ政府に気を使い、EUに気を使い軍備増強となっています。また日本の中では軍事産業だけが儲かっているように感じられます。

日本の企業体質もジャニーズ問題が今頃になって取り上げられる。またビッグモーターの不正問題、企業の独裁体制に誰もが意見を出せない。そこで働く人たちは何も言えない。こんな企業がまだまだあるのです。人権教育がいかに遅れているか一人ひとりの意見や問題が相談できる場所が少なくなっていると思います。労働組合にも責任があると思います。一人ひとりの意見は小さくても労働組合で取り組み、要求すれば大きな声になると思います。一人で悩んでいる人に相談できる所を作るよう国や市の行政に要求していきましょう。

最後に司会者が、「天満屋に買い物においでの皆さん、いつも車の中から手を振っていただく皆さん、ありがとうございます。安保法がなくなるまで頑張りますので引き続きのご支援をお願いいたします。今日もありがとうございました。」と呼びかけて9月の「19日行動」を終了しました。

小川敏男

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2023年9月22日 (金)

三原地区 9月の「19日行動」

9月19日は、8年前に国会において集団的自衛権の行使などを認めた「安全保障関連法(戦争法)」が、多くの反対世論を押し切って強行採決された日です。私たちは、民主主義を否定された9・19を忘れることなく、毎月19日に戦争法廃止と憲法改悪阻止を訴えています。今日の定例「19日行動」は、21人が参加して街頭行動を実施しました。政平智春市議ら6人の弁士は、「市民のみなさん、8年前の9月19日を忘れないようにしましょう。私たちは、毎月駅前に立って戦争法反対、軍備拡大反対を叫び続けています。まだまだ粘り強くこの行動を続けていきます。ご支援をお願いします」と訴えました。

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 街頭行動の冒頭、2015年9月に戦争法の強行採決阻止国会前座り込み行動に参加された「戦争をさせない三原市民行動」共同代表の齋尾和望さんから8年間の私たちのたたかいについてアピールを行いました。また、寺田元子市議は、「9月には歴史的に大きな出来事が起きた月でした。9月1日、関東大震災が起きて100年が経過。大地震・火災で10万人が亡くなる大惨事があった。歴史の中で隠された事実、朝鮮人の人たちが虐殺された。私たちは侵略戦争の歴史、真実を見抜いていくこと、歴史の中から学び取って、二度とその道を繰り返さないということを行動とともに学びながら歩んでいかなければならない」と訴えました。それを受けて司会者(藤本)から、8月に京都宇治市の「ウトロ平和祈念館」、奈良県御所市「水平社博物館」を視察研修した報告を行いました。

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ウトロは日本社会から「置き去りにされた朝鮮人の街」。「2021年8月地区内での放火事件・ヘイトクライム」。「在日朝鮮人の人たちの経てきた過酷な差別の歴史」。そして、部落差別撤廃に立ち上がった原点=人の世に熱あれ、人間に光あれ=「全国水平社創立101年、(広島県水平社創立100年)、部落解放運動の闘いの歴史」。両館とも人権と平和、人間の尊厳を守る砦として次世代に歴史を継承する役割を果たしています。

街頭行動のまとめとして高木武子さんは、「戦争法が成立してから私たちの生活はどう変わったのでしょうか。暮らしやすくなりましたか。子どもはのびのびと教育を受け、人を大事にする。そういう世の中にする教育が行われてきましたか。今年の夏は、テレビでこれだけ戦争の問題、原爆の問題が訴えられた年はなかったように思います。この7年間、自民党の考え方はまさに戦争が普通にできる道を歩んできています。ロシア・ウクライナ戦争、武器を供与するとかなんで戦争を長引かそうとするのか。このままいくと本当にロシアが核を使用するかもわからない。もし核を使うことがあれば広島の問題だけではすまされません。私たちは今日の日を大きな節目にして、また来月からもがんばって行きたいと思います。私たちは戦争をさせない。普通に戦争ができる国づくりを行っている今の政府に対して、NO!を突きつけましょう」と訴えて街頭行動を終了しました。

藤本講治

【編集者】今日、三原地区・府中地区の「19日行動」を一緒に紹介する予定でしたが、編集の都合で、府中地区の行動は、24日に紹介します。

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2023年9月21日 (木)

広島「19日行動」

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、戦争法強行可決から8年となる9月19日午後5時半から1時間、広島市の本通り電停そばで「19日行動」の街頭宣伝を行いました。

ここ数年、憲法の改悪を許さない行動を強めるということで、毎月3日に行動を行ってきましたが、戦争法が強行可決をされた9月は、市民の皆さんにあの日を思い起こして欲しいとの思いで、「19日行動」を実施することにしました。

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この行動には、立憲野党の参加を求め、アピールをお願いし、次の皆さんに参加をしていただきました。

鷹廣 純 (たかひろ じゅん)  立憲民主党広島県連副幹事長 広島県議会議員

大平喜信(おおひら よしのぶ)  日本共産党広島県委員会副委員長 元衆院議員

山内正晃(やまうち まさあき) 社民党広島県連副代表 広島市議会議員

三木郁子(みき いくこ)    新社会党広島県本部委員長

それぞれの立場からの力強いアピールがありました。

総がかり行動実行委員会からは、弁護士で世話人の依田有樹恵さん、世話人の利元克己さん、そして私の3人がアピールを行いました。

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安倍政権による「戦争法」の成立は、その後の日本の安全保障政策を大きく転換させました。そのスタートは、小泉政権による戦闘地域への自衛隊派兵を強行した「イラク特措法」から

だったことを思い起こす必要があると思います。

それからの20年、まさに憲法無視の戦争政策が、どんどんと進んでいます。

同時に進行したのが、国会を軽視して、政府の「閣議決定」のみによって、安全保障政策の変更が強行されていることも、重大な問題です。昨年末の岸田首相による「安保関連3文書の改悪」もその流れの中で進んだといわざるをえません。まさに議会制民主主義そのものが危機を迎えているとも言えます。

軍備の増強だけが声高に叫ばれ、最も大切な外交による話し合いの姿勢が全く後退している今の政治を問題にしなければ、さらに戦争政策が強行されることは間違いありません。軍備の取り分け敵基地攻撃能力の強化のみなら、なし崩し的な武器輸出の緩和などを許すことになります。

今「中国敵視、北朝鮮脅威」論の前に、異論がどんどん抑え込まれていく風潮が広がっていることを危惧します。「汚染水海洋放出問題」で、「汚染水」という言葉を使えばバッシングを受ける風潮にもよく現れています。

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国民の多くが無批判になり、むしろ積極的に戦争に協力していった戦前のような風潮が広がっているように思うのは私だけでしょうか。

「おかしいことはおかしい」と声を上げ続けることで、その声に応えてくれる市民を一人でも多く作っていることが私たちの役割だと思っています。

そんなことを思いながら、最後の弁士として私もマイクを握りました。

今月の参加者は、50名でした。

いのちとうとし

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2023年9月20日 (水)

ベトナムの歴史(その28)

ベトナム戦争はいつ始まった

よく、「ベトナム戦争はいつ始まったのですか」という質問を受けます。

1964年8月の「トンキン湾事件(注1)」に端を発したアメリカ軍の北爆(注2)か、その北爆が恒常化した65年2月、もしくは20万人のアメリカ地上軍がダナンに上陸した3月など諸説ありますが、一般的には北爆の本格化と地上軍が投入された1965年を「ベトナム戦争が始まった年」とされることが多いようです。

しかし、私は常々〔もっと早くに始まっていた〕と思っていました。

前号までにアメリカはベトナムの人々が抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦っていた1950年から軍事顧問団と大量の軍事物資を送りフランス軍を支援していたこと、1954年5月のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗退したこと、翌55年7月に「南北統一の国民投票を実施」などが盛り込まれた「ジュネーブ協定」が結ばれたこと、同じ55年10月にアメリカの後ろ盾でベトナム共和国(南ベトナム、ゴ・ジン・ジェム政権)が作られたこと、ジュネーブ協定を無視したアメリカとベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間で南北統一めぐる争が始まったことなどについて触れました。

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1973年にピュリツア賞を受賞した「戦争の恐怖」。1972年にベトナム人写真家ニック・ウト(本名フィン・コン・ウト)撮影

前にも書きました(ベトナムの歴史(その23)抗仏闘争-3の7)が、第二次世界大戦後に戦われた第一次インドシナ戦争は、再びインドシナでの植民地支配を狙ったフランスと、それに抗し民族独立を目指すベトナム人民との戦いでした。同時に戦後、東ヨーロッパやアフリカ、アジアで勃興する民族独立の気運と社会主義化が進む中で、その伸長を抑え込もうとする西側陣営による防共戦争という性格を持っていました。

いわゆる、戦後冷戦構造のもとで戦われた象徴的な戦争が第一次インドシナ戦争だったのです。だから、アメリカはフランスに13億㌦という莫大な軍事援助をしたのです。にもかかわらずフランスは敗退してしまった。慌てたアメリカはフランスがディエンビエンフーの戦いで敗れた直後の1954年9月、自らが主導しイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンの8カ国と対共産圏包囲網の一環として東南アジア条約機構(SEATO)を結成します。「宣戦布告なき戦争」と言われているベトナム戦争は、この時点に始まったとの説もあります。

しかし、私はアメリカのベトナム人民に対する戦争行為が始まったのは、それ以前、大量の軍事物資とともに軍事顧問団を送った1950年5月だと思っています。

「宣戦布告なき戦争」

下の表をご覧ください。これは私が会長を務める一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会:HVPFが、毎年「エージェントオレンジDay(810日の枯葉剤被害者の日)に取り組んでいる、今なお続く深刻な枯葉剤被害「パネル展」で掲示した年表の一部です。

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表中の横線3本は、下から一般的に言われている「ベトナム戦争が始まった年」(1965年)、真ん中が敗退したフランス軍に替わって米軍が直接ベトナムに干渉し始めた年」(1955年)、そして一番上は私が「ベトナム戦争が始まった年」と考えている1950年です。

 1950年とする理由はアメリカが明確な意思と意図をもってベトナムへの干渉を宣言したのがこの年だからです。トルーマン大統領が承認した「インドシナに関する米国のポジション(The Position of the U.S. with Respect to Indochina)」と題した国家安全保障会議の文書(NSC64)には、次の様に書かれています。「仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)は、共産主義者の手に落ちるのを座視してはならない重要な地域であり、米国はこの地域への共産主義の攻勢を阻止するための支援策を提供する」と。

この文章に基づく支援先はフランスなのか、フランスがホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国(北ベトナム)に対抗するために、ベトナム最後の皇帝バオ・ダイを担ぎ出し建てたベトナム国なのかは明らかにしていません。

「宣戦布告なき戦争」と呼ばれている所以は、戦線布告という明確な区切りがなく、アジアの小国に連続して襲いかかった帝国主義国とその同盟者による侵略戦争であり、ベトナムの人々にとってはフランスに続くアメリカとの連続した抗仏戦争・抗米救国戦争だったことにあります。

その意味で私はベトナム戦争を捉え・語るとき、広くはフランスの植民地支配が始まった1858年からサイゴンが解放された1975年までを俯瞰することが大切だと思っています。狭く捉えても、戦後のフランス再支配のための第一次インドシナ戦争から連続して捉えることが不可欠だと思っています。

もちろん、歴史学者でも軍事専門家でもない私の勝手な思い込みです。

読者の皆さんはいかがでしょうか。

次号では1961810日から19711031日まで10年間続いた米軍による枯葉剤(エージェントオレンジ)散布について触れたいと思います。

(2023年9月20日、あかたつ)

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2023年9月18日 (月)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その3

あと二つのコーナーが残っています。

「戦後資料」で、最初に目を引いたのは「被爆死した油谷重工業株式会社関係者に関する各種資料」です。

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左隅には、「過去帳」と書かれた大きな木箱書があります。油谷重工業株式会社は、現在はコベルコ建機株式会社と社名が変わり、安佐南区沼田町大字伴に移転していますが、被爆時は安佐郡祇園町にありました。私が選挙に立候補していたときには、組合に応援をしていただいていましたので、何度も訪れていましたが、油谷重工は、爆心地から5キロ以上も離れていましたので、当時は原爆被害のことなど全く頭に浮かびませんでした。

「その油谷重工がなぜ?」という思いで展示ケースを見たのですが、キャプションを読んで納得です。「職域義勇隊として広島市内天神町の建物疎開作業のため人員を送っていました。同隊には20戸の建物の取り壊しが割り当てられており、1945年(昭和20年)8月5日までに19戸の作業が完了し、8月6日は最後の1戸の解体のため161人が出動していましたが、被爆により全員が亡くなりました。これらは、亡くなった職員と動員された生徒たちの過去帳や履歴書、名簿などです。」

広島市原爆戦災史によれば、油谷重工は、軍需品を生産していたようですが、そんな会社にも職域動員があったことに驚かされます。天神町は、現在の平和公園付近ですので、同戦災史には、出動者161人中、即死は128人、行方不明33人と記録されています。もし8月5日までに、全戸20戸の解体が終わっておればと思わずにはいられません。

企画展の展示品に戻ります。このコーナー「戦後資料」の展示の多くは被爆後に撮られた写真です。気になった写真が2枚あります。

1枚は「大手町国民学校の焼け跡から北北西を見る」とタイトルが付いています。

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大手町国民学校の焼け跡には、現在はドコモのビルが建っています。そこから北北西を見て最も近い位置が、わが家が住みマンションということになります。

大手町国民学校のこともこのブログに書いたことがありますが、その時には、写真を探すのに苦労をしました。この写真から学校の面影を見つけることは難しいのですが、気になる一枚です。撮影時期は、1946年頃となっています。

2枚目は、前にも同じような写真を見たことがある「国泰寺の大クスノキ」の写真です。

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この写真も1946年頃の撮られたものですが、右奥に現存する被爆建物日銀広島支店がはっきりと写っています。

最後が「原爆の絵」のコーナーです。沢山の興味深い絵が展示されていましたが、その最後で意外な絵を見ることになりました。

原水禁がいつもお世話になっている切明千枝子さんが、91歳の時に描かれた絵で、「8月6日の夜空。空が二つに分かれていた。」のタイトルが付けられています。

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「広島市立長束中学校校長角雄二寄贈」となっていますので、切明さんが、近所の長束中学校で被爆証言をされたときに学校に寄贈されたものと思われます。

「作者の言葉から」として次の文章が書かれています。

「被爆して家が崩れてしまい、外で寝た時の空の思い出です。広島の空が、くっきりと二つに分かれていて、北西の方は血の色のように真っ赤に、空が焼けていました。

南東の方は、一面の星空で、数限りない流れ星が流れていました。

流れ星は、死んでいった人たちの魂がもしかしたら天に昇っているのではないかと思い、涙を流しながら眺めた記憶があります。」

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」の私の紹介は終わりですが、この企画展は、来年の2月27日まで開催されます。

それぞれにまた新しい発見があるかも知れません。一度足を運んでみてはどうでしょうか。

いのちとうとし

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2023年9月17日 (日)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その2

「戦前の広島」の次は、「戦時生活から原爆投下へ」のコーナーです。

当然のことかも知れませんが、このコーナーに最も多くの資料が展示されています。

「戦闘機献納のための募金活動で集まった資金と広島実践高等女学校の生徒たち」や「広島招魂社前で撮影された陸軍部隊の集合写真」などの写真は、戦時体制に懸命に協力する国民の姿を見ることができます。

会場入り口の大きな看板(昨日の1枚目の写真)の裏側に、広島市立中学校2年生の檜垣浩さん(当時15歳)が、爆心地から900メートルの小網町の建物疎開作業現場で被爆したときに身につけていたズボン(左側ケース)と父の職場まで歩いてたどり着いたとき父親の兵市さんが着せたワイシャツ(右側ケース)が、展示されています。

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こんなにズタズタに損傷したズボンが、78年間も大切に保管されていたことに、家族の強い思いを感じます。

右側ケースには、檜垣浩さんの写真が付けられています。

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何歳の時撮った写真かは書かれていませんが、この写真があることでどういう子どもが着ていたのかがわかりますので、より実感を持ってみることができます。この写真はもう少し大きめでもよいような気がします。

他にもランドセルやガラス破片が残る桐タンス、焼けたくぎ、変形したガラス瓶など遺品や被爆物が多く展示されています。その中の一つに「竹製の物差し」があります。

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寄贈者の名前が「森川高明」と書かれていますので、びっくりしました。物差しは、母親のアキコさんが持っていたもののようですが、寄贈者の森川高明さんは、平和公園の遺構保存を一緒に取り組んだ被爆者だからです。現在は体調が思わしくなく、なかなかお会いすることができないのですが、意外な出会いとなりました。

「戦時生活から原爆投下へ」コーナーで特に印象的だったのは、手紙類の多さです。その中でも、目を引きつけられたのは福間喬介さんが寄贈された「疎開先から届いて父母からの手紙」とタイトルの付いた手紙類です。

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少し黄色がかっている手紙はお母さんから、お父さんからの手紙は毛筆で書かれています。キャプションには「光道学校5年生だった福間喬介(当時10歳)は、1945年(昭和20年)4月12日から9月12日まで、山県郡都谷村の仙徳寺に学童疎開していました。疎開期間中、父の一郎さんと母の久子さんは喬介さんに宛て手紙や小包を送りました。父母や兄弟は全員無事で、喬介さんは9月に家族と再会しました。」

展示された多くの手紙類の中で、特に目を引きつけられたというか気になったのは、「光道学校」の文字です。ずいぶん前にこのブログで、「光道学校」のことを取上げたのですが、こんな形で学校名を見たのは初めてだったからです。疎開先の「山県郡都谷村」は、現在の山県郡北広島町豊平と思われます。

もう一つは、この手紙類は、すべて学童疎開先に送られたものだということです。当時子どもたちからの返信はできなかったのでしょうか。それはよくわからないのですが、もし返信できたとしても、届けられた先は、市内だったはず(「父母や兄弟は全員無事」という表現から想像すると)ですから、当然焼失してしまったと想像できます。こんなことを思いながら、二つの展示ケースを見ていました。

これらの品々が、ほんとうに大切に保存されていたのだなとの思いながら歩を進めました。

後は、「戦後資料」と「原爆の絵」のコーナーですが、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2023年9月16日 (土)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」

広島平和記念資料館の今年度第1回の企画展となる「新着資料展」が、9月14日から東館1階企画展示室で始まりましたので、昨日行ってきました。

これまでは、新着資料の展示は、地下1階の特別展示室で行われていましたが、現在この部屋は、被爆体験伝承講話が行われるようになったため、今年から1階企画展示室で行われるようになったようです。会場が、資料館を見終わった出口の場所だからだと思いますが、以前の地下1階での「新着資料展」よりも、ずいぶん沢山の入場者があるように感じました。もちろん、資料館を訪れる人が総体として増えているということが主要な要因だと思いますが。

また、広島平和記念資料館の企画展となったことで、以前にはなかった充実した内容のパンフレットが作成され、自由に入手できるようになっています。貴重な資料であると同時に、見る者にとっても、より充実した「新着資料展」になったと言えます。

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会場入り口の「はじめに」(パンフレットにも同文を掲載)にはこう書かれています。

「広島平和記念資料館には、現在でも被爆者やその遺族の方々などから、大切にしてきた遺品をはじめとする被爆資料、自らの体験を描いた絵、当時の状況を撮影した写真等の資料が寄せられつづけています。

この展示会では、令和3年度(2021年度)に寄贈された744点の資料から、150点を紹介します。」

この企画展を見る前、「被爆から75年以上経っているが、一年間にどれぐらいの遺品や資料などが寄贈されるのか」が気になっていましたが、この文書によって、その疑問は解明しました。

いまだに744点もの資料が寄贈されているということです。これが多いのか少ないのか、それ以前の寄贈数の資料がありませんので、比較することはできないのですが、私の感想は「今もそんなに寄せられているのか」という思いです。

展示品は、「戦前の広島」、「戦時生活から原爆投下へ」、「戦後資料」、「原爆の絵」の4つに分類され展示されています。

「戦前の広島」のコーナーは、当然とことですが、写真や絵はがきですが、中でも目を引かれたのは、河原町に住んでいた三田嘉一さんが1940年(昭和15年)頃に、自宅周辺で撮影された5枚の写真です。

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当時の市民の生活の様子が映っています。こうした日常生活を営んでいる市民の頭上に原爆が投下されたのだということを想起できる写真だと思いました。

爆心地となった島病院の被爆前の写真も何枚かありました。「島病院の中庭にあった猿小屋の前で」という写真は、以前にも見た記憶があるのですが、玄関前から撮った写真を見たの初めてです。

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この写真のキャプションには、次のように書かれています。

「原子爆弾は、広島市の中心部にあった細工町の島病院上空600メートルで炸裂しました。島病院は、1933年(昭和8年)8月31日に広島郵便局電話課の建物を改築して開院しました。レンガ造り2階建て、正面玄関両側の円い柱と円形の窓が特徴的な建物で診察室や手術室、病室などの部屋がある大規模な病院でした。」

このキャプションに注目したのは「広島郵便局電話課」という言葉です。すぐ向かい側に広島郵便局がありましたので、電話課だけが別棟で、しかも堅牢な建物だったことがわかります。この時期に、電話課は、広島市下中町(現在の広島市中区袋町)に3階建ての広島中央電話局として移転し、ここで被爆することになります。この広島中央電話局の建物も非常に堅固に作られた建物だということを、私が労働運動を始めた頃(1970年代)の全電通広島支部が、この被爆した広島中央電話局の建物の中にありましたので、何度も聞いた記憶があります。

この写真を見ながら、そんなことを思い出しました。

まだまだ、企画展の最初部分を見ただけですが、長くなりました。明日につづけたいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月14日 (木)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その3

チラシには、講演会の講師の森滝先生の紹介があります。

「先生は、広島こどもを守る会会長、こどもを守る会中国協議会長、原水爆禁止世界大会広島事務局長、原水爆禁止全国協議会事務局長、世界連邦アジア会議広島大会事務局長等の要職についておられ、平和運動には懸命の努力をつづけていられる方です。

森滝先生は、自身原爆の被害をうけられており、その体験をもととして救済事業に力をつくし、現在数十人の原爆孤児の世話をしていられます。」

経歴の最初に「広島こどもを守る会会長」が書かれ、後段でも「原爆孤児の世話」が記載されていますので、このことが「世界児童憲章」の策定を求める加納莞蕾さんと森滝先生を結びつける大きな力となっていることがわかります。

さらに「一昨年には、松江市で開かれた山陰平和大会にまた安来市で開かれた世界連邦の講演に来られ、この地方とも縁故のある方であります。この先生からお話を聞き、また先生を中心にディスカッションを行ったり今後の歩み方を協議したいと思います。」と書かれています。

これを読むと、森滝先生が、「原水爆禁止」の署名活動が行われた1954年からさまざまな場所に足を運ばれていたこともわかります。

さらにチラシに書かれた日程を見ると非常に中身の濃い布部村行きだったことがわかります。

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11月3日 講演会・座談会 講演と討議(べんとう持参のこと)

      午前10:00より午後4:00 布部中学校

      講師 森滝教授

      午後7:00より午後10:00 役場二階

      宗教と文化・教育についての座談会

11月4日 研究会 布部中学校

      午前10:00より午後2:00

      村をたてるにはどうすればよいか総合研究

森滝先生は、日記を読む限りでは、4日の「村づくり懇談会」への参加は午前中で終え、昼食を加納町長足立議長とともにした後、布部を出発された(そうしないと富田城趾の山や清水寺を訪ねて夕方に鳥取県の大山寺に着くことはむずかしい)と思われますが、それにしてもすごいスケジュールです。

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中央が森滝先生、その右が加納莞蕾さん、左が足立議長

チラシにはこうも書かれています。「このたび、この宣言を記念し、また、さあこれから手をとりあって村づくりにたちあがるのだというスタートとするために文化の日を以て『講演会と討論研究の会』と『映画の夕』を催します。」

この大切な行事に森滝先生をメインで招待した加納莞蕾さん、これほど厳しい日程であるにもかかわらず布部村を訪れられた森滝先生。お二人の間に強い信頼関係が築かれていたことを、このチラシから知ることができます。

チラシの「『映画の夕』この映画会は有料ですが、収益金のうちで必要経費を差し引き、純益金は原・水爆被害者救済義金、社会福祉のための基金にあて、気の毒な人たちにわづかながらもつくしたいと考えております。この収支報告は必ず行います。」という文章からも伺うことができます。

純益金がいくらあったのかは知ることができませんが、料金は『大人40円児童10円』となっています。

このチラシは、「平和をどうして作るのか」が、多くの字数を使って書かれていますので、全文を知らせたいとの思いが出てきますが、あまりにも長文ですので、残念ながら全文を紹介することができませんが、自らが鉄筆をもって書かれたと思われる加納莞蕾の強い思いが、伝わってくる文章です。

当時の布部村は、3,250人の住民が住む村だったようですが、加納莞蕾さんの熱い思いと理想が村民にどのように理解されたのか、興味が膨らみます。

加納加世子さんが持参された資料の中には「布部村平和五宣言」ごとに「なぜこの宣言をするのか」が詳細に書かれたものもあります。「原・水爆禁止宣言」の解説は、特に全文を紹介したい内容ですが、「森滝市郎先生と加納莞蕾」のシリーズもずいぶん長くなってしまいましたので、また別の機会に譲ることとし、今回はこれで終わりとします。

いのちとうとし

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