「広島ブログ」

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#平和推進

2023年2月 3日 (金)

「ミャンマー犠牲者追悼・平和への祈り 集い」つづき

仏教、キリスト教での追悼の後、広島に住むミャンマー人からメッセージがありました。

最初のアピールは、広島市立大学学生のアウンチーミインさんです。

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「今もミャンマーでは、クーデターに負けず、諦めずがんばっている。関心を持って集会に参加していただきありがとうございます。多くの皆さんにクーデターの事実を知ってほしいのです。殺された人以外にも住む家が壊された人も多くいます。私の親戚を含めてです。命を失った人、財産を失った人。そのことを知ってほしいと思います。できる範囲ではなく、できる範囲を超えてがんばりたいと思っています。住むところもない、食べるものもない人を救うためにカンパをお願いします。ミャンマーに、日本に、世界が平和であるように祈ります。」

アウンサンは、先日の写真展の会場でいろいろと話を聞かせていただきました。

つづいて牧師のトゥン・カン・クップさんのメッセージがありました。

トゥンさんは、安佐南区の八木にある教会の牧師さんで、キリスト教関係のお祈りにも参加されていました。

最後に小武さんから今後の行動提起があり、「ミャンマー犠牲者追悼・平和への祈り 集い」は、30分ほどで終了しました。

その後、小武さんの提起を受け、場所を本通電停前に移動し、「1の日」行動が行われました。今回が、22回目の行動となりました。

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私もマイクを握り「マスコミがほとんどミャンマーのことを報道しなくなりましたが、ミャンマーで今起きていることを忘れないようにしよう。もし私たちが忘れてしまえば、それだけ軍部の行動を認めることになります。そして支援を続けましょう」と呼びかけました。

30分あまり、それぞれの参加者がマイクを握り、思いを訴え,この日の行動は終了しました。

今回の「集い」開催の中心的役割を担っているのが、三次の小武正教さんです。小武さんは、2008年に起きた民主化運動で、国民が平和に暮らせるためにと運動の先頭に立つミャンマーの僧侶から助けを求めるメールを受け取ったことを契機に、「同じ仏教徒として、何かせずにはいられなかった。多くの人が虐げられていることを知り、自分にできることを」と子どもたちの教育活動を支援するため「メラウーキャンプ教育支援の会」を立ち上げ、今も支援活動を続けておられます。メラウーは難民キャンプ地で、ミャンマーと国境を接するタイの山岳地帯にあります。

一昨日の中国新聞によれば「メラウーキャンプ教育支援の会」は、この活動が評価され、ヒロシマ創造基金から「国際交流奨励賞」が贈られることになりました。

小武さんは、一昨年の軍事クーデター後の3月23日に原爆ドーム前で「Save Myanmar ミャンマーを救え」との思いで、犠牲者を追悼する集会(私も参加しました)を行って以降、毎月1日に三次から広島に来て仲間と一緒に「Save Myanmarの行動」として、街頭行動を続けておられます。

ミャンマーを決して忘れず、私たちに何ができるか改めて考える一日になりました。

いのちとうとし

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2023年2月 2日 (木)

「ミャンマー犠牲者追悼・平和への祈り 集い」

ミャンマー国軍が、軍事クーデターによって実権を握ってからちょうど2年となる21日、「ミャンマー市民の訴えを聞く会」が主催する「ミャンマー犠牲者追悼・平和への祈り 集い」が、約30人が参加し原爆ドーム前で開催されました。

この集いを企画した「ミャンマー市民の訴えを聞く会」は、先月「「ミャンマー(ビルマ)の今を知る写真展―ミャンマーを忘れないで」を開催しています。

私もこの呼びかけに応えて参加しました。

午後3時からの「集い」は、ミャンマー出身の広島市立大生ナインさんの司会でスタートしました。

最初に主催者を代表して「ミャンマー市民の訴えを聞く会」の小武正教さんが、「ミャンマーの軍事政権の犠牲者を追悼し、市民が平等で民主的に暮らせるように声を上げましょう」とあいさつ。

まず仏教式の追悼が行われました。

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経文が唱えられた後、小武さんによる「表白」(ひょうびゃく)がありました。「表白」とは、法要の目的を述べることのようです。今のミャンマーの状況がよくわかりますので、小武さんの「表白」を引用します。

「本日は、2021年2月1日、ミャンマー軍が起こしたクーデターから今日で丸2年となります。この間、不条理にも軍によって命を奪われたミャンマー市民の人たちは毎日増え続けています。『政治犯支援協会』によれば1月31日時点で2,940人。またこれ以外にもミャンマー軍の爆撃、攻撃によって7,000人を超す市民や少数民族の人たちの命が奪われています。また13,763人を超える多くの人たちが、不当に逮捕され、今も抑留されています。

私たちは、ミャンマーが一日も早く真に平和で自由な社会となることを願いながら、毎月『1の日』行動として街頭アピール・募金を続けて来ました。しかし、クーデター後の日本政府やミャンマーに進出した日本企業の対応は、ミャンマー市民の願いに沿ったものではありません。私たちは『信頼』こそが人と人を結ぶ原点であると考えます。この度の軍のクーデターはとても悲しい出来事でありますが、この中で日本に住む私たちとミャンマーの人たちは新たな出会い・語り・学び、平和への行動を共にすることが始まりました。

ミャンマーが一日も早く真に平和で自由な社会となることを願い、この広島の地で,日本に住む者の責任があることを心に刻み、おのおのがこれから活動していくことを心に誓う。」

この後「仏説無量寿経」が唱えられ,仏教式の追悼が終わりました。

続いてキリスト教式れいはいがおこなわれました。

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ミャンマーは、国民のほぼ8割以上が仏教徒、約1割ちょっとがキリスト教徒ということですから、この二つの宗教による追悼が行われました。

この後、広島に住む二人のミャンマー人からメッセージがありましたが、この続きは明日に紹介します。

いのちとうとし

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2023年1月30日 (月)

府中地区・1.27ネバダデー行動

朝起きて見ると私の家でも庭に少し雪がありました。

朝から小雨がやみません。

座り込みをどうしようかと相談した結果、座り込みの場所は濡れているため府中市役所の玄関のひさしの下で20分間のスタンディングに変更となりました。

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参加者は水田、土井市議会議員、府中市職労、社民党のみなさんでした。

終わりに広島県原水禁の常任理事である水田豊市議会議員から「ロシアが核兵器を使うと言っていることからも、唯一の被爆国として戦争終息の調停に回るべき日本は反対に

『台湾有事』などと言って敵基地攻撃など憲法違反の先制攻撃を閣議で決めています。

いまこそ戦争反対の声を上げなければなりません。

その抗議のため中止にせずスタンディングに変えさてもらった。

これからも今まで以上の怒りの抗議を行っていきましょう。」

と挨拶がありました。

小川敏男

【編集者】府中地区でも毎年、「1.27ネバダデー行動」が実施されています。小川さんからの報告が27日に届いていましたが、了解を得て今日掲載します。広島は幸いにして雨が降りませんでしたが、府中では雨の中での行動となったようです。

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2023年1月29日 (日)

「原水爆禁止広島県協議会第92回総会」開催

広島県原水禁は、27日午後6時から自治労会館で「原水爆禁止広島県協議会第92回総会」を開催しました。県原水禁の総会は、毎年この日(1月27日)に開催することにしています。

総会は、高橋克浩代表委員の開会あいさつの後、議長に丸山さん(広教組書記次長)を選出し、スタートしました。続いて、私が3人の代表委員を代表してあいさつ。特に、岸田首相が「核兵器のない世界の実現」と言いながら、安保3文書の改悪による軍事強化の姿勢、核兵器禁止条約締約国会議への不参加、NPT再検討会議に参加しながら「核兵器禁止条約に全く触れなかった」こと、福島原発事故は依然収束していないにもかかわらず原発政策を大転換させたことなど、広島の背を向けた政策をとり続けていることを厳しく批判し、「抑止力論を基にした軍備の増強の行きつくところは核兵器保有に進む危険性がある」と指摘しました。

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福島原発1号機の現在(高橋代表委員の報告資料から)

本部からは、谷事務局長が参加し、あいさつがありました。

その後議事に入り、2022年度活動報告、決算報告、2023年度活動方針、2023年度予算案が、大瀬事務局長から提案され満場一致の拍手で承認されました。運動方針では、特に「①情報発信の強化②運動継承のための原水禁学校の開催③福島の現地の実情を知り、運動を学ぶための「第3回福島現地交流団」の派遣」などを今年度の重点課題として取り組むことになりました。

役員改選では、代表委員に秋葉忠利、金子哲夫、高橋克浩(アイウエオ順)の3名、事務局長に大瀬敬昭、常任理事26名を選出しました。

総会の議事終了後、下記の「G7サミット広島開催にあたっての 広島選出の岸田文雄総理大臣への申し入れ」(秋葉代表委員が原案を作成)が提案され、承認されました。


今年5月に開催されるG7サミットは、貴職の働き掛けによって広島で開催される運びになりました。広島選出の総理大臣としてG7サミットを、「ヒロシマ」に込められた被爆者や市民の思い・祈りならびにこれまでの歴史を踏まえて、「ヒロシマ」の意味を世界に広める場にしたいという貴職の強力な意思表示だと受け止めています。

その貴職の思いと、主権者としての私たち市民レベルでの「ヒロシマ」理解に齟齬なきことを期するため、改めて「ヒロシマ」の意味を確認し、「全体の奉仕者」(憲法15)のトップとしての貴職と共有すべくここに申し入れを行います。

⓪ 「ヒロシマ」の意味は、被爆の実相を我がこととして理解し、被爆者のメッセージを謙虚かつ真摯に受け止め、核兵器のない平和な世界を実現することにある。仮初にも、その「ヒロシマ」の意味を蔑ろにしたり、力による支配正当化のための免罪符として利用したりするようなことがあってはならない

① 例えば、長崎以降は核兵器が使われなかった事実は大切だが、それは、『ヒロシマ』の著者、ジョン・ハーシーが1985年に述べたように、被爆者が自らの体験を証言し世界に訴え続けてきたからである。つまり被爆者が「核抑止力」を持つ。それを認めずに、核兵器の所有や使用の脅しが核兵器使用を思い留めさせているという「核抑止論」を容認する口実に使うことは決して許されない。

② 今こそ、被爆者亡き後の世界で核兵器を使わせないために何をすべきなのかを議論するときである。そのためには法的手段である核兵器禁止条約に頼る以外の道はない。

③ その第一歩は、核保有国が「核の先制使用はしない」と宣言することである。核保有三か国の首脳が同時に広島後に集うという歴史的な意味はこの宣言以外にはあり得ない。同時に喫緊の世界的課題の一つ、プーチン大統領の核使用の脅しに対する他の核保有国の説得を効果あらしめるためにはこの前提が必要不可欠である。

④ 今年没後100年を迎える初の広島出身総理大臣だった加藤友三郎は、ワシントンで軍縮条約をまとめる中心的な役割を果した。当時の軍部を抑えて我が国の軍拡路線を軍縮路線に大転換させ、日米敵対から協調の方向を打ち出しただけでなく、会議には参加していなかった中国やソ連との関係も改善し、世界全体の未来を明るくした。同じく広島出身の総理大臣として、貴職もその故事に倣って、今こそ我が国が日本の軍縮のみならず、G7には参加していない国々も含めた世界の軍縮と協調のためのリーダーシップを発揮する機会として今回のサミットを意義あらしめるべきである。就中、ウクライナ戦争を一日も早く終らせるため、「ヒロシマ」の力と権威に依拠した和平工作を始めるべきである。

以上、「ヒロシマ」の意味を再確認し、G7サミットを「ヒロシマ」の意思実現のための新たな出発点とするため、貴職が断固たる決意の下、世界のリーダーとしての力を余すところなく発揮されんことを期待しています。 


この申し入れ書をどう届けるのかは、事務局を中心に協議し決定することにしました。

その後高橋代表委員による「福島原発見学の報告」学習会が、行われました。

いのちとうとし

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2023年1月28日 (土)

1.27ネバダ・デー座込み行動

1951年1月27日、アメリカは、ネバダで初めての核実験を行いました。ネバダでは、今もアメリカによる核実験が行われています。

1984年、ネバダ核実験場の閉鎖と核被害者の救済を求めて行動していた風下核被害者住民で組織された「シティズンズ・コール」(ジャネットゴードン代表)は、世界の反核運動団体に「ネバダ・デー国際共同行動」を呼びかけました。

その呼びかけに応えて、日本でも共同行動が開始され、広島ではその年の1月27日の昼休みに広島県原水禁が呼びかけて原爆慰霊碑前で座り込み行動を実施しました。

以来、コロナ禍の昨年を除き毎年1月27日を「ネバダ・デー国際共同行動の日」として、慰霊碑前座込み行動を実施しています。

アメリカが新型起爆装置などの核兵器開発のために行っている臨界前核実験は、ネバダ核実験場を使って実施されています。核実験場を閉鎖させることは、新たな核開発をストップさせる大きな意味を持っています。

寒波の襲来した今年も27日の午後0時15分から30分間、慰霊碑前座り込み行動を実施しました。

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最初に私が呼びかけ団体を代表してこの座込みの意義などについてあいさつをし、続いて県被団協箕牧智之理事長があいさつし座込みはスタートしました。

最後に自治労の村主公夫(すぐりきみお)さんが、下記のアピールを読み上げ提案し、全体の拍手で確認し、座込みを終えました。このアピール文は、首相官邸、アメリカ大使館、ロシア大使館に送付します。


「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

 今日1月27日は、1984年、米国の市民団体の呼びかけで始まった核実験場閉鎖・核実験禁止を求めるネバダ・デー国際共同行動日です。

昨年2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まり、今なお終戦・停戦に至らず間もなく1年となります。この間には、プーチン大統領による核兵器の使用・威嚇発言があり、原発や核施設への攻撃も行われました。つい先日もメドベージェフ前大統領が「通常戦争での核保有国の敗北は、核戦争の引き金になり得る」と威嚇するなど、核兵器使用への危機、原発攻撃による放射能被害の可能性が続いています。

一方で、核兵器の廃絶を求めて2017年に国連で採択された「核兵器禁止条約」は、署名国・批准国とも増加し、本年1月9日時点で署名92か国・地域、批准68か国・地域へと拡大を続けています。国際世論が大きく核廃絶へと動き始めていることは確かです。

しかし、当事者である核保有国、そしてアメリカと軍事同盟を結んでいる国やNATO諸国が条約に背を向けています。とりわけ日本は、唯一の戦争被爆国でありながら署名も批准もせず、昨年6月に行われた締約国会議にも、オブザーバー参加すら拒否し、国際社会の中でも大きな批判を浴びています。

この中で5月に開催されるG7広島サミットでは、核兵器の不使用あるいは廃絶への道筋・決意が示されなければなりません。

私たちは改めて、日本政府が被爆地ヒロシマの思いを受け止め、「核兵器禁止条約」に署名・批准に動き、G7広島サミットの議長国として、核兵器の廃絶へリーダーシップを発揮することを強く求めます。そして被爆地ヒロシマの市民として、「核と人類は共存できない」という先達の言葉を心に刻み、全世界に訴えます。

◆ネバダを始めすべての核実験場を閉鎖させよう!

◆核保有国と「核の傘」の下にある国々は、直ちに核兵器禁止条約に参加し、核兵器開発・核実験全面禁止を実現しよう!

◆ロシアによる、核の使用・威嚇は絶対に許さない!

◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

◆原発の再稼働、新増設に反対し、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

 ◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ウォー!

2023年1月27日

「1・27ネバダ・デー」市民行動一同


寒い中でしたが53名の参加がありました。

いのちとうとし

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2023年1月26日 (木)

ミャンマー(ビルマ)の今を知る写真展―ミャンマーを忘れないで

ミャンマーを支援する会主催の「ミャンマー(ビルマ)の今を知る写真展―ミャンマーを忘れないで」が、30日午後9時までの日程で、袋町の「まちづくり市民交流プラザ エントランス展示スペース」(南棟1階)で開催されています。

私も写真展が開始された24日の午後3時ころに、NHKが取材している会場を訪れました。

2021年2月1日のミャンマー軍による軍事クーデターから間もなく2年がたちます。ミャンマーでは、軍事クーデターに抗議し、民主化を求める市民は民主主義を取り戻そうと不服従の抵抗を続けています。しかし、ミャンマー国内では、その方向とはま反対の事態が続いています。軍による市民への暴行・不当逮捕はやりたい放題、そして今や内戦状況になっています。

今回の写真展は、いま起きている軍による弾圧の現実と、命がけで戦っているミャンマー市民の様子を広く知ってもらいたいとの思いで企画されたものです。

会場には、「①これまでの経過②現在起きていること③ビルマ難民キャンプ教育支援④軍事クーデターが起きるまでのミャンマー」などの様子がわかる約120枚の写真などが展示されています。

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NHKの取材を終えたアウン・チーミィンさん(広島市立大学留学生)が、私にもいろいろと説明をしてくれました。

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上の写真は、アウンさんの生まれ故郷・マグウェ地方で昨年末に軍によって集落が破壊された様子を写した写真です。上段の2枚は、アウンさんのいとこの家が壊された写真です。この写真では見にくいのですが、左側が攻撃されるまでのいとこの家、右側は軍によって破壊され、瓦礫の山となった家があった場所です。ここに掲示されている6枚は、いとこから送られてきたものですが、この集落だけでも30軒の家が破壊されたそうです。

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「PDF(国民防衛隊)」とタイトルの付けられたこれらの写真には、非暴力の抵抗運動を続けていた市民が、国民防衛隊を組織し、抵抗している様子が映っています。この写真は、PDFに参加しているアウンさんの友人から送られてきたものです。

8枚ある写真の真ん中にミャンマーの地図が描かれた一枚がありますので、それを拡大しました。

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アウンさんによれば、この地図は軍によって燃やされた家の数を地域ごとに示したものです。数字は、ミャンマー語で表示されているのでわかりにくいのですが、アウンさんの解説によれば、ミャンマーの地図の左側一番上の「サクイン」という地域が燃やされた家が一番多く27,496の数字が書かれています。アウンサンの生まれ故郷「マグウェ」は、「サクイン」の南側に隣接していますが、7,818の数字が書かれています。

地図で白くなっている部分のうち、真ん中は首都のネービードーで、左下は、旧首都のヤンゴン周辺です。ミャンマーは、135ともいわれる民族がすんでいますので、少数民族が住む地域での破壊が続いていることが想像できます。

今では、マスコミもほとんど取り上げることのないミャンマーでいま起きている事実を知り、私たちに何ができるかを考えさせてくれる写真展です。ぜひ多くの人に訪れてほしいと思います。

いのちとうとし

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2023年1月25日 (水)

忘れてはならないテニアン島

平和公園やその周辺の碑めぐり案内をする時、必ず行くところに爆心地跡があります。島病院のところです。

太平洋マリアナ諸島の中に在るテニアン島、太平洋戦争末期の米軍基地として原子爆弾リトルボーイを搭載したB29エノラゲイ号が出撃したところと説明をする場所です。僕の頭の中でのテニアンの歴史は、エノラゲイ号が出撃した1945年8月6日の早朝からでした。

吉永直登(よしなが なおと)さんの著書「テニアン-太平洋から日本を見つめ続ける島」を読みました。これを読んで、自らの無知をとっても恥ずかしく思うとともに、テニアンの歴史の悲しさに打ちのめされた気持ちになりました。

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マリアナ諸島に人が定住生活を始めたのは、遺跡調査などで今から3500年前頃だそうです。テニアンは日本の委任統治下にあって、日本人が住みついたのは明治時代頃だと言われてます。最初は移民県であった沖縄の人たちが多かったのようです。

昭和初期、沖縄からテニアンに隣りの島サイパンへの直行船便が開設され、1週間程度で行けたそうです。しかし便数も少なく、多くの人は本土経由のルートを使いました。テニアン元在住者の思い出によると、テニアンへの行き方を次のように書いています。

「奄美諸島を経由して鹿児島まで船で2泊3日、鹿児島で旅館に2泊ぐらいした後、鹿児島から福岡県門司市まで汽車で向かった。船の出発待ちで3泊した後、門司港から船に乗り、神戸経由で横浜に着いた。横浜で2,3泊し、サイパンに向け出港した」という工程を書いているのです。直行船便の倍以上の日時を使って行ってるのです。

これだけの行程を使いながらテニアンに着いた人たち、そこで従事した仕事はサトウキビの栽培だったそうです。しかし最初の頃の移民者の仕事は、広大なジャングルの開墾、整備作業という重労働から始まったのです。

やがて1929(昭和4)年以降、テニアンの海岸通りには学校や公共機関を建ち始めたのです。これらの建物が建ち並ぶ通りは、その後「スズラン通り」と名付けられ、菓子屋、時計屋、自転車屋、床屋、歯医者…などが建ち並んだのです。

終戦の2年前の1943年には人口が6101人に膨らんだとされています。もちろん沖縄の人だけでなく、「本土側」からの人も加わり、熱帯の島に突然現れた「日本の地方小都市」に発展したと書かれています。

そして1941年12月から始まった太平洋戦争、平和だったテニアンが戦争開始から約2年後過ぎから、米軍の総攻撃を受けたのです。その時の様子について元海軍兵士だった人は次のように書いています。

「ジャングルに飛び込んで私は目をみはった。おびただしい死骸が打ちすてられたようにころがり、腐って、ハエとウジが群がりついている。かなたの木陰に、こなたの岩陰にと、うつろな目をした女が腰かけ、老人がうずくまり、子どもが寄りかかっている」と。多くの人が岬から海に飛び込むなどして、自らが死を選んだのです。

1944年8月1日、テニアンは米軍に占領され島には星条旗が掲げられ、それから急ピッチで基地として様変わりの道を歩むことになったのです。それにしても、逆算すれば戦争そのものが終了する1年以上前にテニアンの日本人の歴史は終えたのですが、日本政府はそれを知っているのでしょうが、まさに「見て見ぬふり」で、本土側では「頑張ってる 頑張ってる」の嘘宣伝を繰り返しているようで、そのことがどうしても許せないのです。

そして米本土から極秘裏に原子爆弾が輸送され、ヒロシマ・ナガサキとなったのです。

「あの戦争さえなければ」

「貧しかったが、楽しかった」

テニアンの「はじめに」に書かれている言葉です。

今やテニアンは、サイパンやグアムと並び日本から容易に行ける観光リゾート地となっていますが、忘れてはならない悲劇の歴史でもありますね。

吉永直登さん著「テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島(出版社 あけび書房」、是非とも読んでいただきたいと思います。

木原省治

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2023年1月23日 (月)

核兵器禁止条約発効2周年キャンドルメッセージ

核兵器禁止条約が発効して2周年となる昨日(22日)原爆ドームまで、HANWA(核兵器廃絶を求めるヒロシマの会)の呼びかけでキャンドルアピールが行われました。

午後4時半から、1500個のキャンドルが、呼びかけに応じた参加者によって、ガムテープによって描かれた文字上に並べられました。

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その後点灯作業が行われ、午後5時50分には、全てのロウソクに明かりがともり、「PEACE FOR UKRAINE ! NO NUKE WAR ! 2023」の文字が浮かび上がりました。

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灯ったキャンドルを前にして、最初に森滝春子顧問が、今回のキャンドルサービスの意義について訴え、続いて足立修一代表が、下記の「核兵器禁止条約発効2年にあたっての声明」を読み上げられました。


本日(2023年1月22日)は、核兵器禁止条約(TPNW)が発効して2年となる。現在、92か国が署名し、68か国が批准している。

 2022年2月、ロシアがウクライナに侵略し、核兵器を使用する旨の威嚇を行うなど、現在、核戦争の危機に直面している状況にある。しかし、広島の被爆者と市民は、決して核兵器を使用してはならないこと、核戦争に勝者はなく、地球の破滅をもたらす結末となること、今も続く戦火により多くの無辜の人々が殺されていることを一刻も早く終わらせ、停戦・終戦することを訴える。

 77年前、広島市はアメリカ軍の核兵器の爆撃により壊滅させられた。日本人だけではなく植民地支配していた朝鮮半島・台湾出身者、強制連行された中国人、アメリカ人捕虜や、国策により東南アジア諸国や中国から日本に留学した人たちも無差別に被爆させられ、また、死亡させられた。また、原爆の爆裂による直接の威力(熱線・爆風・初期放射線)だけでなく、残留放射線による被爆は爆撃後広島市内に入った人にも及び、放射性降下物による被爆は爆心地から30キロを超える地域にまでも及んだ。戦争が終わった後、広島での死亡者は1945年末までで約14万人と推定され、現在に至るまで白血病やガンにより多くの被爆者が死亡させられてきている。また、3日後に爆撃された長崎市も同様な原爆の爆撃を受け、同様の状態になっている。

 昨年6月、核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開催され、ウィーン宣言が採択された。核兵器禁止条約の普遍化と核被害者の援護などが課題となっている。本年11月に開催される第2回締約国会議で、議論が深まることを期待したい。

 昨年8月、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開催されたが、最終文書の採択に至らなかった。同条約6条の核軍縮義務を履行し完結する(=核兵器を廃絶する)ことは、2000年、2010年の最終文書で確認されているにもかかわらず、一歩も前進しなかったことは極めて残念な事態である。核兵器保有国がNPTを補完するTPNWの署名・批准に背を向ける態度を取ることは許されない。

 私たちは、核兵器保有国が安全保障を理由に核兵器の廃絶を先延ばしすることに抗し、日本政府に核兵器禁止条約へ速やかに署名・批准することを求めるとともに、核の廃絶を求める世界中の核被害者とつながって核なき世界をめざしていきたい。


昨年は、コロナ過ということもあり、昼間の時間にごく少人数での横断幕を掲げてのアピールとなりましたが、今年は人数を少なくしたものの核兵器禁止条約発効の年2021年と同様に、キャンドルによって「ウクライナに平和を 核戦争を許すな︕」のメッセージを発信しました。参加者は、約50人でした。

いのちとうとし

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2023年1月22日 (日)

ベトナムの歴史(その20) 抗仏闘争-3の5

ベトナム人餓死の一方、進駐日本軍には大量の米

下表は2019年94日の「ヒロシマとベトナム」(その4)で紹介しましたが、1941年度から1944年度までにベトナムから三井物産を通して日本に送られた米の量の統計です。

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その4)の一節を以下、再掲します。

――日本からの「要求目標量」と輸送権を独占した三井物産の「買付実績量」、そして『日本に送られた量』を表しています。注目すべきは1944年度です。凶作で「買取実績」は目標の55%余りですが、制海権も制空権もなく輸送自体ができない状況のもと、日本に送られた量はその7.7%に過ぎません。すなわち、凶作で飢饉に苦しむベトナム人から「強制的に買い取った」米の92%余りは残っています。現地軍のための調達米は含まれていませんので、飢饉で餓死しているベトナムの人々の前には実に大量の米があったということです。なぜ?米を配給(返す)しなかったのか!問うだけ、むなしいのかも知れません。それが侵略であり、戦争なのだと思います。――

軍事物資生産のための転作の強要

第二は、日本の軍事的需要のために綿やジュート、落花生、ヒマ、胡麻など繊維性・油性植物の栽培を強制し、米や雑穀など食糧生産を減らしたことです。綿は主に兵隊の衣類だと思います。ジュート、ご存知ですか? 私たちが子どもの頃「どんごろす」と呼んだ麻袋や麻縄に使用される繊維で、アオイ科ツナソ属の植物です。

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(「ジュート~地球に優しい素材」JUNKADO(株)Blogより

落花生と胡麻は植物油の原料ですが、ヒマ(蓖麻)は東アフリカ原産のトウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ属で温帯地域では一年草、熱帯地方では多年草の植物です。毒性を持つ種子を絞ると、私たちも知っている下痢止めのヒマシ油(蓖麻子)になります。

ヒマ(蓖麻)に関する資料(下の写真)を見つけました。

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「平和のいしずえ2006」に展示された戦時中のポスター、「荒鷲のために 蓖麻を栽培しよう」というものです。「蓖麻がなければ飛べません」と書かれていたのでヒマについて調べると、「優れた性状と潤滑性から初期の航空機用エンジンの潤滑油としても使用されていたが、航空機エンジンの高出力化と熱と酸化への安定性の不足から第二次世界大戦の頃には鉱油系が主力となった。」(ウィキペディア)とありました。

特攻を志願した予科練兵だった父から「敗戦直前、鳥取県内の松根油採取場を巡回していた」と聞いたことを思い起こしました。様々な思いが湧きますがまたの機会にします。

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(テーマ展「平和のいしずえ2006」より)

いずれにしても、これらの軍事物資を生産するために必要な植物の栽培をベトナムの農民に強いたのです。「南のウクライナ」と呼ばれていた東南アジアの中でも肥沃な穀倉地帯を持つベトナムは米をはじめ穀物類を生産していましたが、日本軍進駐によって一変します。進駐前には5000㌶しかなかった綿やジュート、落花生、ヒマ、胡麻などの栽培面積は、1944年には4万5000㌶まで拡大します。

こうした転作の強制によって非常時に大きな役割を果たす穀物類の生産は大幅に減少した結果、甚大な飢饉被害が生じたのです。

ベトナム南部から北部への米輸送の減少

第三はベトナム南部から北部への米輸送の減少です。通常でも食糧生産の低い北部地域には肥沃な南部メコンデルタ地帯から北部地域に米が送られていました。しかし、日本軍の南方進出の拠点と化したベトナムに対するアメリカ軍の爆撃は激しくなったことと、日本の軍事的需要を満たすために日仏とも米の買付を最優先したため、南部から北部に向けた民生用の米の輸送が激減しました。

これら第一から第三の要因の結果、19451月頃から餓死者が出始め、その被害規模は短期間に深刻化し、200万人にも及ぶ餓死者を出すという大惨事に至ったのです。

「日仏共同支配」という支配形態をとっていたとは言え、その主たる責任は日本にあります。

数度にわたり日本軍の仏印進駐とそれがもたらした「200万人餓死」という未曾有の惨禍を見てきました。あらためて、「西欧列強からのアジア解放」という日本が掲げた大義名分が、実は「皇国ノ必要トスル重要物資ハ可及的ニ大東亜圏内ニテ確保シ、・・・皇国必須ノ重要物資ヲ優先的ニ皇国ニ輸出ヲナサシムル・・・・」という、アジア諸国を侵略・支配し、略奪を欲しいままにする帝国主義的な本質を隠蔽する以外何物でもなかったことを強く感じました。

次号では日本軍の仏印進駐期におけるベトナム解放(抗仏・抗日)闘争を見て行きたいと思います。

(2023年1月21日、あかたつ)

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2023年1月21日 (土)

府中地区の1月の「19日行動」 リレートークとスタンディング

今年最初の府中地区の「19日行動」は、上下地区は午後3時からAコープ前で6名の参加、府中地区は午後430分から府中天満屋店前で8名が参加し実施しました。参加者はなかなか増えませんが神石高原町から新たな方が参加してくれました。

リレートークでの発言で新しい参加者のAさんは

「私の祖父は上下町から出征した。43歳で陸軍に徴兵され、広島市で甲神(こうじん=甲奴と神石でこうじん)部隊の一員として建物疎開を行っていた。建物疎開とは兵隊が建物の柱を切って学生などがロープでひっぱって倒す作業らしい。練兵場で被爆し、三次まで帰って死亡した。死体は馬洗川の河川敷で焼かれ骨も返ってこなかった。」と切々と話されました。

Bさんは、

「タレントのタモリさんが、黒柳徹子さんの徹子の部屋で、『今年はどうなりますか』と聞かれ、『新しい戦前になるんじゃないでしょうか』と答えていた。そうならないため、みんなが声を出さなくてはいけない」と訴えました。

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Cさんは、

「中国新聞は1月3日と4日に広島出身で初の内閣総理大臣であった加藤友三郎を取り上げました。見出しは『加藤友三郎没後100年』、『軍拡より協調(外交) 今こそ光を』でした。新聞では、加藤友三郎総理大臣は、第1次世界大戦の後、難しい世界の情勢から『どこの国とも仲良くする協調外交を掲げ、軍事費を削減した』とあります。」と紹介しながら、さらに『歳出の半分を占めた軍事費を削って民生や教育、産業振興に振り向けた結果。設立が難航していた旧制広島高校の実現も。加藤友三郎総理大臣のおかげと広島で称賛されてきた』とあります。同じ新聞で広島出身の総理大臣の岸田首相が『協調外交より軍拡』を進めていると批判していることがわかります。

ロシアのウクライナ侵略からも戦争を止める方向を国民みんなが求めています。それなのに岸田首相は、『敵基地攻撃』や『武器輸出の解禁』『防衛費をGDP2%に増額する』と決めています。

岸田首相には同じ広島出身の総理大臣加藤友三郎を見習って、『どこの国とも仲良くする協調外交』と、軍事費を削減して国民の生活が豊かになることに予算は使うことを求めます。岸田首相は広島県民の平和を求める声に耳を傾けてほしい」と訴えました。

最後にまとめが行われ、一人ひとり感想を出し合って、今年もあきらめずに粘り強く取り組む決意を固めました。また2月5日(日)午後1時30分から尾道市立中央図書館で行われる「祝島島民の会裁判応援集会の取り組み」への参加要請もありました。

小川敏男

【編集者】小川さんから、今年も府中の活動報告が届きましたので、あかたつさんの「ベトナムの歴史 坑仏闘争3―5」は、明日に変更して掲載します。

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