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2022年5月11日 (水)

憲法98条「最高法規」を読み直す ――『数学書として憲法を読む』の補足です――

憲法98条「最高法規」を読み直す

――『数学書として憲法を読む』の補足です――

 

三年前、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』という変った名前の本を法政大学出版局から上梓しました。時間的にも限りがあり、憲法全ての条文を詳細に検証することはできませんでしたので、その後も条文毎に少しずつ読み直す作業を続けています。

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今回から、98条の「最高法規」についての「発見」を報告しておきましょう。

まず、お浚いです。『数学書として憲法を読む』では、憲法をあたかも数学の公理のように考えた上で、そこからどのような結論が論理的に帰結されるのかを考えたのですが、その読み方そのものについて、九つのルールを設定しました。語呂の良さも考えて、「九大律」と呼びました。再度、掲げておきましょう。

[正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。

②[素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。これがすべての出発点である。どこで何が定義、あるいは規定されているのか、定義・規定の内容はもちろんだが、その順序に意味のある場合にはそれも尊重する。

③[一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。

④[公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。

⑤[論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。

⑥[無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。

⑦[矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、出来るだけ無理のないしかも説得力のある、もちろん「論理的」で憲法の趣旨が生きるような解釈を探し、出来れば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。

⑧[自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていないことには依存しない。立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。さらに書かれていることにはすべて意味があると仮定する。

⑨[常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

 

そして本文中で特に強調したのが、99条の憲法遵守義務でした。紙数には限りがあるのですから当然なのですが、書きたいこと、伝えたいことの全てを一冊の書物に詰め込むことはかなり難しい仕事です。その結果、98条の重要性については十分に書き切れなかったことを反省しています。遅まきながら、憲法を「最高法規」として認めている98条を読み直してみましょう。まず条文です。

 

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 

結論部分をまとめておくと、この9つの「律」のうちの半分くらいは、98条からの論理的帰結なのです。まさにこの条文の奥深さなのですが、その出発点は、「改竄禁止律」と名付けたルールです。それは九大律の依って立つ土台といった感じのルールなのですが、説明のためには、かなりのスペースが必要ですので、次回に回します。

 [2022/5/11 イライザ]

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2022年1月11日 (火)

核廃絶運動のこれから (3) ―――Wish Listを作ってみよう!―――

核廃絶運動のこれから (3)

―――Wish Listを作ってみよう!―――

 

被団協の未来を考えることから、平和運動・核廃絶運動が転換期にあり、こうした運動の支え手・推進リーダーだった労働組合の未来も必ずしも明るくはない、という現状を確認しました。

それではどうすれば良いのかを考えたいのですが、私が一人で考えると、高齢化のせいもありかなり狭い範囲で答を探すことになってしまいそうです。それでもこれまでの経験値もありますので、全く無意味だということにはならないのですが、もっと多くの皆さんのお知恵を拝借することで、希望に満ちた展望を描けるかもしれません。

そのために、これからの平和運動や労働組合運動、その他、政治を変革する運動がどうなれば良いのかを、具体的な比喩として考えてみて下さい。「こんな平和運動になれば良いな」とか「こんな労働組合なら、私も参加したい」というような前向きの気持になれる運動の姿を、描いて見て下さい。それを合わせて、新年の「Wish List」、「願い事のリスト」あるいは「夢のリスト」として今後を考える上での出発点にできればと思います。

 この試みは、停滞気味ではあるけれどもわたくしたちの社会が民主的で活力に満ち、健全であり続けるためには必要不可欠な市民運動や労働組合運動が新たなエネルギーを得るために行いますので、一種の「思考実験」です。そこから、現在の運動の担い手の皆さんが創造的なヒントを引き出して下さることを期待しています。

 創造性の元になるのは、しばしば意外な組み合わせです。ユーモアの源もそんなところにあるのですが、荒唐無稽な比喩で、平和運動の理想的な一面を表現することで新たな材料が見付かるかもしれません。

 と、抽象的な御託を並べているだけではイメージが湧かないかもしれません。比喩の力の豊かさのヒントになるかどうかまでは自信がありませんが、一つ実例を挙げて、どのような思考実験を目指しているのか、説明しておきましょう。

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《レストラン・マリオと平和運動》

広島の皆さんなら、「マリオ」と聞いて、ゲームのマリオだけではなく、イタリアンの名店の方のマリオが頭に浮かぶはずです。最初の喫茶店が開店してからもう半世紀も続いている上級のイタリア料理店ですが、先日、久し振りに多くのお客さんで賑わっているマリオで食事をして、このレストラン・チェーンが広島にあることで、私自身の生活がいかに豊かになっていたのかを痛感しました。

 そこで、「牽強付会」になりますが、「マリオのような平和運動」という比喩で何が表現できるのかを考えてみました。

 マリオの強みは、イタリアンの高級路線を提示しながら、トップ層の人たちだけの独占にならないような料理とサービスを提供し続けてきたことです。極端なことを言えば、この40年間、マリオの料理とサービスは完璧だったと言っても良いくらいです。

 レストランと平和運動とは、全く性質の違う存在です。それを敢て同一視することで、今までは見えなかった平和運動の姿が浮かび上がるかもしれません。そのために発するべき問の例としては、次のようなものが考えられます。

 平和運動では食事やサービスの代りに何を提供しているのでしょうか。「お客さん」は誰を指すのでしょうか。そのお客さんは、お金の代りに何を平和運動にもたらすのでしょうか。レストランの人気が高まり、多くの支店を開くことは何に相当するのでしょうか。メインの料理だけでなく、デザート専門の店が人気を呼ぶことは、平和運動にすれば何に当るのでしょうか。

 平和運動の目的は、例えば核兵器の廃絶ですから、社会を動かさなくてはなりません。レストランという存在は直接、社会を動かすという役割を担っていませんが、それは、レストランにおいては何に置き換えられるのでしょうか。

 こうして、想像力は膨らんで行くのですが、これをお読みの皆さんにも御自分にとって身近な何かと平和運動とを比較して、平和運動の未来を創るための何らかの閃きを感じて頂ければと願っています。これから一月くらいを掛けて、じっくり考えてみたらどうかと思うのですが、如何でしょうか。

 [2022111日 イライザ]

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2022年1月 6日 (木)

核廃絶運動のこれから (2) ―――転換期を迎えているのではないか?―――

核廃絶運動のこれから (2)

―――転換期を迎えているのではないか?―――

 

前回は、被団協の未来を考えてみました。これまで被団協が果してきた掛け替えのない役割は、これからも誰かがどのような方法になろうと継続して果す存在が必要であることを説明しました。同時に、被爆者の集まりである被団協は、今後会員数が減る組織であることを視野に入れなくてはならないと現実的な対策はできないことも指摘しました。

 となると、一つの可能性は、核廃絶運動や平和運動の一部としての被団協としての今後を考えることなのですが、昨年のお正月には「新たな決意で核のない世界を目指そう」と題して、6回のシリーズでこれからの運動の一つの可能性を示しました。再度お読み頂ければ幸いです。一回目のURLは、ここをクリックして下さい。

そこでもう一つの問題を考えざるを得ないのです。それは、核廃絶運動そのものが解決しなくてはならない大きな課題のあることです。この点については、このブログで2019年の7月から10月にかけて、8回のシリーズとして取り上げました。中でも、2019821日にアップした5回目では、核廃絶運動の直面する課題を整理しておきました。

ここに、要点だけを再掲します。

 

     (A)日本の平和運動は、国際的運動だった。 

別の言い方をすると、日本政府を説得し政府の方針を変えさせるという種類の運動ではなかった、と言って良いでしょう。

 

     (B)国際的な貢献にしても、日本の運動が自ら目標を掲げて世界の同志に呼び掛けた結果として国際的な目標の達成につながったのではなかった。

ここで注意が必要です。「だから日本の平和運動は駄目なのだ」といった、評価の問題に摩り替えないで下さい。そんなことは言っていません。国際的な市民運動の全体像を見ると、それぞれの地域や歴史等の複雑な要素が絡み合って、役割分担が決ります。日本の役割分担には、このような目標設定や、計画立案が入っていなかったという事実を虚心坦懐に見詰めることが自分たちの力を知る上で大切だという点に留意して頂きたいのです。

 

 (C)原発についての考え方の違いが、運動も野党も分裂させている。

もう56年前 (注 2019年の記事ですので注意して下さい。) になってしまいましたが、当時の原水禁運動が分裂した原因の一つがこの点でした。そのしこりは、今でも続いていますし、参議院選挙でも明らかになったことの一つは、野党共闘の障害の一つがこの点なのです。

 

2019年の問題提起ではこの後、原点に戻ることの大切さと、そこを出発点にした「王道」を歩むという筋道を描いたのですが、今回は現実がもっと厳しいという指摘を挿入します。

 それは、核廃絶運動・平和運動の中で、リーダー的役割を果してきた労働組合の組織率が下降傾向であることです。厚生労働省による次のグラフを見て頂ければ一目瞭然です。

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厚労省ホームページから

国際的な成果から考えてみると、世界的に圧倒的多数の国々、市民社会、医師や弁護士等の専門家、その他多くの良識ある市民や団体が力を合わせることで、核兵器禁止条約は成立しました。その次の段階として核保有国や各依存国に批准をさせるという大きな仕事が残っています。

 日本に限って考えると、日本政府に批准させる責任は私たち日本国民にあります。そのために、我が国の核廃絶運動・平和運動が新たな力を結集して事に当たらなくなくてはならないのですが、被団協のメンバー減少に象徴されるように、運動の牽引役をすべき組織の力には陰りが見えています。

 一つには、労働組合の組織率に代表される運動の衰退です。敢えて「衰退」という言葉を使うことで危機感を表現しているのですが、今までのような力が発揮できない場面が増えているのではないでしょうか。その労働組合の組織率はかつては、35%もの組織率だったにもかかわらず近年では、20%を切っています。

 同時に世界に打って出ることを得意としてきた平和運動が、日本政府を直接動かし、核禁条約を批准させるという、国内政治そのものに関わる仕事を始めるとなると、運動そのものの方向転換も必要になりますので、時間が掛かるかもしれません。

 お正月早々、マイナス思考に陥ってしまって残念だとお考えの方も多いかも知れません。しかし、ジャンプをするためには一度膝を曲げなくてはならないように、新たなエネルギーを得るためには、何歩か下がったところからの客観的かつ冷静な現状分析から始めることが必要です。それが、夢を見続けるのか、現実を変える行動を計画するのかの違いだと思います。

 ではどうすれば良いのか? ぜひ、皆さんに考えて頂きたいのです。

 [202216日 イライザ]

 

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2021年12月26日 (日)

坪井直さんの遺志を継ぐために ―――広島・長崎講座のすすめ―――

坪井直さんの遺志を継ぐために

―――広島・長崎講座のすすめ―――

 

いのちとうとしさんが、24日の本ブログで報告されているように、被爆者運動のリーダーとして長年にわたって頑張ってこられた故坪井直さんのお別れの会が22日に開催されました。

 いのちとうとしさんが報告の最後に書かれている言葉、「改めて遺志を受け継ぎたいと決意した坪井先生とのお別れ会でした。」は、参加者の多くが感じていたことなのではないでしょうか。

 次に、「遺志を受け継ぐ」ために何をすれば良いのかを考えてみましょう。いろいろな考え方がありますが、もう少し具体的に、三つの目標として整理しておきましょう。

 ① 被爆の実相を伝え続ける。

 ② 被爆者のメッセージを伝え続ける。

 ③ 核兵器の廃絶を実現する。

 この三つを合わせて、「被爆体験を伝える」とまとめる場合もありますが、多くの人がこちらを選んでいるようです。被爆者の場合には、御自分の被爆体験を話し、自らの体験から湧き出てきた核兵器廃絶への強い決意と、そのための活動などを大切なメッセージとして伝えることになります。

 被爆者の話を直接聞く側は大きなインパクト共にメッセージを受け取るのですが、被爆者の高齢化とともに、話のできる被爆者の数は毎年減ってきています。かつては、音声だけを録音して残しておく努力がされましたし、ビデオの時代には、自らの被爆体験を話す被爆者のビデオが貴重な遺産として保管されています。

 最近では、被爆体験継承者事業として、被爆者ではない人たちが、被爆者の体験を直接被爆者から聞いた上で、さらに様々な学習を積み重ね、「伝承者」として被爆体験を伝える役割を果しています。現在では100人以上の人たちが伝承者として日常的な活動を続けています。とても大切な事業であり、より多くの皆さんに参加して貰いたいと願っています。

その他にも、小説や詩、絵画や音楽、写真や映画等様々な芸術的手段を用いて被爆体験を後世に残す努力が続けられてきました。こうした努力の結果、被爆体験と被爆者のメッセージが感動とともに受け止められ核兵器廃絶への意思を生んできました。また核廃絶を実現するための多くの具体的な努力が積み重ねられてきた結果、核兵器禁止条約が成立しました。

 もう一点大切なのは、広島・長崎以降、核兵器が使われてこなかったのは、被爆者の力だということです。1999年の平和宣言でも述べましたが、被爆者はこのように、核兵器の使用を阻止する「抑止力」を持っているのです。

 坪井さんの遺志、多くの被爆者の遺志を実現するためには、これまでの努力を継続することは勿論ですが、それだけで十分なのでしょうか。坪井さんというリーダー亡き後の今、私たちは、やがては被爆者亡き後の世界においてどのような努力をすべきなのかを考える必要があるのではないでしょうか。

 「被爆者亡き後の世界」は長く続きます。(核兵器が人類を滅ぼさないという前提ですが――) 何世紀か何十世紀という長期にわたって、被爆体験を語り継ぐということはどんなことを指しているのでしょうか。人類史を振り返って、そんなことが行われてきた実例を参考にして、提案をしておきます。

 《広島・長崎講座のすすめ》

芸術的手段を使って被爆体験を伝えたり、ビデオや伝承者の力で被爆体験を未来に残したりするのは、「アナログ」的な努力です。それに加えて、「ディジタル」的な努力による伝承も取り入れるべきなのではないでしょうか。その候補の一つが、世界の大学で「広島・長崎講座」を開設することです。

 このような講座の内容としては、(1)被爆の実相と、「他の誰にもこんな思いをさせてはならない」という被爆者のメッセージの意味を学術的に整理・体系化して、(2)普遍性のある学問として、世界の大学で若い世代に伝える、ということが大切です。

 このような内容の大学レベルの努力が大切なのは、(A)被爆体験の「ディジタル化」によって、劣化しない伝達ができることと、(B)ホロコーストと同じレベルの理解が進むことを挙げておきましょう。

 ここで「ディジタル化」で表しているのは、ダビングで劣化しない、つまり、ユークリッド幾何学のように、世代を超えて同じ内容が伝わることです。ディジタル化の他に、例えば理論化、形式化、論理化、学問化、専門化、モデル化、数値化、思想化、科学化といった言葉でも良いのですが、何世紀という時を超えて伝えるためには、その準備が必要なのです。

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次に、「ホロコーストと同じレベル」の意味を説明しておきましょう。現在の世界で、「安全保障のために、我が国はナチス並みの強制収容所が必要だ」という国はありません。しかし、「安全保障のために、我が国は広島・長崎より強力な核兵器が必要」と言っている国は、核を保有している9か国もあるのです。これは、世界的に広島と長崎の体験が十分に理解されていない、一つの結果だとも考えられます。つまり、被爆の実相、被爆者のメッセージが、知的にも情緒的にもホロコーストと同じレベルで共有さていないからなのです。

 このような講座を開設している大学は、国内で50を超えていますし、海外でも20以上あります。今後も、より多くの大学に参加して貰い、質的にもホロコースト学を凌駕するレベルにまで成長して欲しいものです。

 [20211226日 イライザ]

 

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2021年12月21日 (火)

「最高法規」の意味 (4) ----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

「最高法規」の意味 (4)

----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

 

憲法が「最高の法規」であることを規定している98条を改めて読むことが、このミニシリーズの目的ですが。そのための準備を2回行い、前回はいくつかの「定理」を導きました。

それらの「定理」のお浚いをする前に、再度98条を読んでおきましょう。

 

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 

《「最高法規」から導かれる「定理」》

意外だったのは、「数学書として憲法を読む」上で採用したいくつかの大切なルールが、98条を出発点として、証明できることでした。「証明」は前回のブログを読んで頂くことにして、内容をリストしておきましょう。

 

[正文定理 (九大律の①正文律)] 「憲法」として読む対象は、1946113日に公布され、194753日に施行された(日本語の)日本国憲法である。

 

[自己完結定理(九大律の8番目である自己完結律)] 憲法を読むに当り、(普通の言葉を使えば)その解釈のために、他の法律や文書を根拠にしてはいけない。

  

[改竄禁止定理(憲法に関しての改竄禁止律)] 憲法を読むに当り、その字句を改竄することは禁止されている。また、字句は変えずに、字句の意味を変えることは禁止されている。さらに、字句から論理的に導かれる結論も字句同様に、改竄されてはならない。

 

[系1 (九大律の③一意律)] 憲法内に現れる同一の字句は、同じ意味を持つ。

 

[系2 (九大律の②素読律)] 憲法を読むに当って、一つ一つの字句は素直に字義通り読

 

これまでは問題がなかったのですが、今回は、98条と96条の間には大きな矛盾があることを取り上げます。

 

 [改憲不可定理] 憲法を改正することは許されない。

 

[証明] 改竄禁止定理の証明と同じ。つまり、改憲後の憲法を「憲法ダッシュ」と呼ぶと、それは元の憲法に反する内容が盛り込まれていることになり、効力を持たない。Q.E.D.

 ちょっと困った状況なのですが、96条には改憲の手続きが規定されていますので、憲法では改憲が想定されています。にもかかわらず、改憲は禁止されているという矛盾が生じたのですから、矛盾解消のための何らかの「解釈」が必要になります。

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三省堂『大辞林』から

 

《矛盾は存在しない》

その解釈の深さを示している好例になるのですが、96条が答を与えてくれています。それは次の96条の第2項です。

 

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 

「証明」の中で、「憲法ダッシュ」と呼んだ文書は、「憲法と一体をなすものとして」扱うという説明が付いているのですから、別の文書や法律として元の憲法に反するかどうかの判定をしなくても良いということなのです。Q.E.D.

実は、96条の「憲法と一体をなすものとして」という一節が何故そこに加えられているのか長い間謎だったのですが、これで氷解しました。98条と96条を合わせて読むことで現れる意味の深さに、改めて脱帽しています。

制定当時、国会で上記の矛盾についての議論が行われたのかどうかについて未調査ですが、憲法の草案 (日本語の草案です。念のため) を作成した人は、この矛盾に気付いていて、その矛盾を解消するために第2項で「憲法と一体を成すもの」という見方を示したのだとしか考えられません。となると、「正文定理」、「改竄禁止定理」の「系1」と「系2」と合わせて、一つの定理として再掲するに足る十分な理由になります。

しかも、この定理は、先に述べたように98条を根拠としての定理でもありますので、別のルートからの独立した証明があることになります。

 

[正文律・論理律・素読律・一意律の定理] 九大律の内、①の「正文律」、②の「素読律」、③の「一意律」、そして⑤の論理律は、96条第2項から導かれる憲法の読み方である。

 

 [証明] 既に指摘したように、962項には、「論理的意図」があるとしか読めないのである。つまり、98条の「最高法規」が、論理的には改憲を禁止しているという結論に至ることを理解した上で、改憲を可能にするという意図を持って書き込まれたとしか考えられない。この前提なくして96条の2項を読むと、その意味を理解できないことがその証拠である。それほどの論理的注意深さで書かれている憲法を読み正確に理解するためには、徹底的に論理性を重んじて良くなくてはならない。そのためには、「素読律」で強調した素直な読み方をしなくてはならない上に、「一意律」で示した「改竄禁止律」も守らなくてはならない。対象が日本語の憲法であることは前述のように当然であり、98条からの帰結でもある。Q.E.D.

 

以上、憲法が「最高法規」であるという規定から出発すると、それは憲法の読み方の基本を示していることにもなりました。このような結論に至るとは、ほとんどの皆さんは想定もしていなかったのではないかと思います。これほど深い結果に到達することになったのですから、もう一つ付け加えておくと、98条は「数学書として憲法を読む」必然性を示していると言っても良いのではないでしょうか。

 [20211221日 イライザ]

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2021年12月16日 (木)

「最高法規」の意味 (3) ----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

「最高法規」の意味 (3)

----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

 

前々回と前回は、一昨年に上梓した『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』で採用した九つのルール、「九大律」をお浚いして、その読み方で98条を読む積りであることを確認しました。さらにそれをもう少し丁寧かつ詳しく説明した「改竄禁止律」を導入しました。

 いよいよ98条を読む準備が完了しましたので、本題に入りましょう。その前に、再度98条です。

 

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守する

ことを必要とする。

 

《「最高法規」から導かれる「定理」》

憲法98条について見逃し易いのは、「最高法規」としての縛りが掛かる対象は、「法律、命令、詔勅」だけではなく、「国務に関するその他の行為の全部又は一部」も含まれるという点です。森友・加計・桜等に関わる多くの問題、特に安部夫妻を守るための文書の改竄が実は憲法違反だという認識も重要です。

 ただし、ここでは憲法とその読み方に的を絞りましょう。98条から導かれる結論を「定理」と呼んだ上で、その証明も付けておきます。

 

 [正文定理 (九大律の①正文律)] 「憲法」として読む対象は、1946113日に公布され、194753日に施行された(日本語の)日本国憲法である。

 [証明] 日本語の憲法が対象であることはわざわざ断るまでもないのだが、問題は、憲法解釈に当って、英文で書かれた憲法が憲法解釈を左右するといった主張が行われてきたことだ。念のため98条を根拠として日本語が正文である理由を述べておく。仮に、憲法の英文訳を「憲法」として読むことにすると、英文と日本語の二つの「憲法」が存在することになる。しかし、日本語の方が「最高法規」であり、それとは違う内容を持つもう一つの憲法があるとすると、それは、元の憲法に反するものになり、効力は持たないからだ。Q.E.D.

 一つ注意しておくべきなのは、日本語の憲法と英語訳の憲法とは違う存在だという点です。片方が日本語、そしてもう一つは英語ですので、この二つが違うものであることに異論はないでしょう。さらに「反する」の広義の意味は、「異なる」なのです。(新潮国語辞典、集英社国語辞典等)

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 [自己完結定理(九大律の8番目である自己完結律)] 憲法を読むに当り、(普通の言葉を使えば)その解釈のために、他の法律や文書を根拠にしてはいけない。

 [証明] 98条の規定している「最高法規」とは、我が国を縛っている法体系の中で、憲法による縛りが他の縛りより優先されることを意味する。その解釈に、仮に文書Aという根拠を持ち出すと、その文書Aの力が憲法より優先されるという事実を認めなくてはならない。となると、それは憲法が「最高法規」であるという98条に反する。Q.E.D.

 

 [改竄禁止定理(憲法に関しての改竄禁止律)] 憲法を読むに当り、その字句を改竄することは禁止されている。また、字句は変えずに、字句の意味を変えることは禁止されている。さらに、字句から論理的に導かれる結論も字句同様に、改竄されてはならない。

 [証明] 憲法内の字句が改竄されたとしよう。すると、憲法そのものと、憲法の一部が違う、「憲法ダッシュ」という二つの文書が存在することになる。「一部が違う」ということは、「憲法ダッシュ」が元々の憲法に「反する」存在であることを意味する。従って、「憲法ダッシュ」は効力を持たない。Q.E.D.

[系1 (九大律の③一意律)] 憲法内に現れる同一の字句は、同じ意味を持つ。

[系2 (九大律の②素読律)] 憲法を読むに当って、一つ一つの字句は素直に字義通り読まなくてはならない。

[証明] これまでの説明で十分だと思いますので、省略します。

これまでは問題がなかったのですが、次回は、98条と96条の間には大きな矛盾があることを取り上げます。それまでに皆さんにもどんな矛盾なのか考えて頂ければと思います。

  

[20211216日 イライザ]

 

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2021年12月11日 (土)

「最高法規」の意味 (2) ----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

「最高法規」の意味 (2)

----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

 

前回は、一昨年に上梓した『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』で採用した九つのルール、「九大律」をお浚いして、その読み方で98条を読む積りであることを確認しました。

 98条を再度、掲げておきます。

 98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 この条文の奥深さを伝えなくてはならないと考えた理由の一つに、「改竄禁止律」と名付けたルールがあります。九大律の依って立つ土台といった感じのルールなのですが、雑誌『現代の理論』2022年冬号でこのルールを取り上げました。そこでは大人しく「置換禁止律」という名称を選んだのですが、安倍政権・菅政権での権力者たちの傲岸不遜振りを忘れないためにも、今回は何が起きたのかを正確に想起させる「改竄禁止律」と呼ぶことにします。

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《改竄禁止律》

「文字通りに」文書を読む上で、最低限守らなくてはならない規則を、誰であっても反対できないであろう基礎的なところから始めて箇条書きにして整理しておきます。

  • 数学では、何を読むのかという対象を定めることが重要です。憲法で言えば、ここで対象にしているのは、日本国憲法です。それは、国会の議を経て、1946113日に公布、194753日に施行された、我が国の最高法規を指します。物理的には、どの六法全書にも記されている、日本語によって書かれた文書です。
  • 憲法を「論理的に読む」上ではもちろん、どのような文書を読む上でも「素直に読む」のであればどうしても譲れないのは、条文中の個々の文字や句をそのまま読むことです。数学の等式で考えると分り易いので、一つの例を示します。[1+1=2]という式の中で、[1]を勝手に[3]と変えて読んではいけないのです。そんなことをすれば、等式は成り立たなくなってしまいます。当り前のことですので、これはどなたにも認めて貰えるはずです。つまり、憲法中の特定の字句は憲法という存在の必要不可欠な構成要素であり、それを物理的に変更することは許されないのです。たとえば、「国民」という字句を「臣民」という字句に訂正することは当然、許されないのです。これを、「改竄禁止律」と呼びます。
  • 次に取り上げるのは、字句そのものは変えずに、その意味を変える読み方です。字句の意味を変えるということは、「論理的」には、その字句を変えることと同じだからです。たとえば11条で使われている「永久の権利」の「永久」の意味を、「長期にわたって」という意味なのだ、と変えてしまうことは許されないのです。それでは書かれている言葉とは意味が違ってしまうからです。
  • 加えて、字句の意味から論理的に導かれる結論も同じように変更は許されません。結論はそのまま受け入れなくてはならないのです。つまり、論理的帰結を勝手に変更することも「改竄」と見做すのです。その理由も数式で説明しておきましょう。②の等式[1+1 = 2]の両辺に、[3]を足しましょう。すると等式は[3+1+1 = 3+2]になります。これもそのまま受け入れなくてはならないのです。

大切なのは、これらの「改竄」を許すことは、憲法を「尊重する」という99条の規定に反しているという事実ですし、かつ憲法が「最高法規」であるという98条にも反します。証明は次回に回しますが、皆さんも考えてみて下さい。

 [20211211日 イライザ]

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2021年12月 6日 (月)

「最高法規」の意味 (1) ----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

「最高法規」の意味 (1)

----憲法の持つ深みと矛盾が共存しています---

 

一昨年に上梓した『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』では、九つのルールを決めて、そのルールに従って憲法を読んでみました。語呂の良さを優先してこれらのルールを「九大律」と呼びました。改めて、9つのルールを掲げておきましょう。

  • [正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。
  • [素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。これがすべての出発点である。どこで何が定義、あるいは規定されているのか、定義・規定の内容はもちろんだが、その順序に意味のある場合にはそれも尊重する。
  • [一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。
  • [公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。
  • [論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。
  • [無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。
  • [矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、出来るだけ無理のないしかも説得力のある、もちろん「論理的」で憲法の趣旨が生きるような解釈を探し、出来れば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。
  • [自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていないことには依存しない。立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。さらに書かれていることにはすべて意味があると仮定する。
  • [常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

 そして本文中で特に強調したのが、99条の憲法遵守義務でした。紙数には限りがあるのですから当然なのですが、書きたいこと、伝えたいことの全てを一冊の書物に詰め込むことはかなり難しい仕事です。その結果、98条の重要性については十分に書き切れなかったことを反省しています。遅まきながら、憲法を「最高法規」として認めている98条を読み直してみましょう。まず条文です。

 

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 

この条文の奥深さを伝えなくてはならないと考えた理由の一つに、「改竄禁止律」と名付けたルールがあるのですが、それは九大律の依って立つ土台といった感じのルールです。説明のためには、かなりのスペースが必要ですので、次回に回します。

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[2021126日 イライザ]

 

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2021年12月 2日 (木)

音楽が好きになる理由は何でしょうか? ----音楽のセンスの良さ?楽器が弾けるから?音楽理論の理解?それとも?---

音楽が好きになる理由は何でしょうか?

----音楽のセンスの良さ?楽器が弾けるから?音楽理論の理解?それとも?---

 

音楽の好きな人は多いようです。その証拠にテレビのドラマだけではなく、ニュース番組でも音楽がないと、何となく白けてしまいます。アニメの音楽はそれだけでベストセラーになったりしています。

 

 では何故、音楽が好きになるのかということを考えて見ましょう。音楽通を自認している人なら、「自分には音楽のセンスがあるから」ということを自然に感じているでしょうし、それが理由だと思っていても不思議ではありません。あるいは、楽器の弾ける人は、楽器を通しての音楽との関係が深いことを日常的に感じているでしょうから、それが理由だと考えるかもしれません。あるいは音楽理論に精通している人なら、理論的な理解の深さが自分の音楽理解の基礎になっていると考えるかもしれません。

 

「好きになる」を「心に響く」と言い換えると、音楽が心に響くためには何が必要なのか、という問と「音楽が好きになる理由は何か」という問とは、ほぼ同じ意味を持つのではないかと思います。それについて、大阪学院大学の谷口高士教授は次のような説明をしています。

 

 音楽を 「心に響かせる」ためには何が必要なのか。楽曲が持つ感情成分や作品の 完成度(それを実現させる作曲や演奏の表現力)はもちろんだが,受け止める人にとって大切なのはそれを見極める力,作品の内包する意味を理解する力である。それはすなわち音楽の認知的枠組みの洗練であり,また,新たなものを受け入れていく柔軟さである。これらは必ずしも音楽の専門教育で身に付くことではなく,日常生活の中で触れる様々な刺激に対して敏感であること,多くの曲に深く接することが必要だろう。そのためには,音楽の受容の在り方を左右する鑑賞態度も重要である。また,感情体験や出来事の記憶と音楽との結びつきによって,音楽は独立して存在するものではなく,人生と深く関わるものとなる。従って,音楽を聴いたり演奏したりする行為やそのための準備そのものを楽しむこともまた,この結びつきを深める 。

 

専門的かつ深遠な真理のような気がしますが、でも子どもの頃からの経験に照らすと、ラジオで良く流れていた歌が好きだったとか、車で両親の好きだった曲を何度も聞いたというようなことがきっかけなのかもしれません。

 

 実はその通りだということを、音楽好きの息子が教えてくれました。つまり、何度も何度も同じ曲を聞いていれば、その曲が好きになる、という因果関係は多くの実験によって確認されているというのです。何かに接触する回数が多くなるとその「何か」に好意を抱くようになる、という因果関係を「単純接触効果」というのだそうです。

 

 この研究結果は1960年代後半にザイアンス(Zajonc, R.B.)によって示され、その後も研究が続いているとのことです。

 

 その「何か」は音楽に止まらず、味や図形、写真や漢字等々、ほぼ全てのものが対象になるとのことです。

 

 最近ではあまり見られなくなったのかも知れませんが、職場を毎日のように訪れる「おばちゃん」のようなイメージの人が職場の皆と仲良くなって、次々と生命保険の契約を取って行くという話が良くありました。これなど、単純接触効果の典型例なのかもしれません。

Train_interior_of_toyama_chiho_railway_1  

白戸家のお父さんをイメージにしたフリーWi-Fiのサイン

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Train_interior_of_Toyama_Chiho_Railway_10030_series_05.jpg

naosuke ii, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

 

コマーシャルでは、ソフトバンクの「白戸家」のお父さんの姿に最初は違和感を持っていても、いつの間にか定番として受け入れてしまっていること等ももう一つの例かも知れません。

  [2021年12月2日 イライザ]

 

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2021年11月21日 (日)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その5――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その5――

前回は、仮に天皇が憲法違反を犯したと仮定しての「思考実験」をしました。天皇の憲法違反は「国民の総意」に反することは御理解頂けると思いますし、それは「国民の総意」の否定でもあります。となると、論理的結論として、「国民の総意」にのみ根拠のある天皇という地位を否定することにもなりますので、天皇位に止まることはできません。

つまり、憲法遵守という義務は天皇という存在そのものと一体不可分の関係にあります。しかし、仮に天皇が憲法違反を犯したとしても、それを誰がどのような手段で認定し天皇という地位を剥奪するのかという、現実社会での行動のレベルに移して考えると、「国民の総意」が存在しないのですから、実行することは不可能です。あるいは、「超憲法的な」議論を持ち出さないと話が進まなくなってしまいます。

また、ポジティブな面、つまり天皇が「公務員」とは独立した形で憲法遵守を行おうとしても、具体的な行動としてはかなり限られることも既に考察しました。

しかし、「国民の総意」を全く別の視点から見直すことで、新たな展望が見えてきます。

 《「総意」に近付く「不断の努力」》

憲法制定時に「国民の総意」に実体のあったことは、時の天皇の宣告が保証していますし、明示的には第1条において天皇の存在の根拠になっていること、そして計測不可能であるその絶対的な重みについてはこれまで注目してきました。本章では、天皇がその絶対性を否定する可能性を考察したのですが、具体的にそのようなことが起きる可能性は低く、天皇と「国民の総意」という関係を考えるのであれば、より現実的な状況に注目すべきなのではないかと思います。それは、これまでも度々強調してきたような天皇による憲法遵守の言動を「国民の総意」という視点から捉え直すことです。

仮に天皇ではなく、大統領のような地位であれば、その根拠になるのは「国民の総意」ではなく、「過半数の国民の意思」とでもいった表現になると思います。選挙で選ばれた大統領の場合、マスコミも注目し本人も常に念頭に置いているのは、当選した時の支持率と比較して現在はどのくらいの人が支持しているのか、そして次の選挙ではどのくらいの支持が得られるのかということです。

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リンカーン大統領

Public Domain

「国民の総意」の場合にはこのような数値化ができません。しかし、憲法制定時点には100パーセントの人が象徴としての天皇の存在を認めたという想定はできます。でも、現時点で仮に国民投票が行われたとしても、それと同じ割合で象徴天皇制が認められているとは考えられません。では、「国民の総意」という表現は今の時点で現実的な意味を全く持たないのでしょうか。一つの可能性として「国民の総意」を、象徴天皇制を支える「理想形」として設定すること、つまり究極の目標といったような位置付けをすることが考えられます。

そのような、重い目標を設定するのは押し付けがましいのですが、憲法についての天皇・皇后の言動から判断すると、このような「理想」に近付くために、つまり、より多くの国民に象徴天皇の存在意義を認めて貰えるよう、天皇が意図的に努力をしているのかもしれないとさえ考えられるからです。

仮にそのような憶測が少しでも現実を反映しているとして、天皇がこのような努力をすること、あるいはそれに呼応して国民の側からもその努力を助けることは憲法に依っても他の権威によっても排除はされていません。それどころか、憲法第12条では、自由と権利については「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と義務付けられています。このシリーズでも確認したように、天皇が国民としての自覚を持ち、12条の「不断の努力」を自らにも課していると考えることは可能です。それは、「総意」の近似値である国民の考え方や感じ方を重く受け止めて、「総意」に近付くための「不断の努力」を続けていることになるのではないでしょうか。

《天皇の「公務」とは》

マスコミが良く使う言葉の中で、分った気になってはいてもいざその内容を手短には言い表せないものの一つに「公務」があります。公務員の場合には問題がないのですが、天皇の場合には、国事行為がその中に入ります。でもその他の天皇の仕事の内、何が「公務」なのかについては、宮内庁ではそれなりの決りがあるのでしょうが、私なりに納得のできた解釈は、ここに掲げた「理想」に近付く努力です。それを「公務」だと考えると、憲法とのつながり、そして主権者との関係で、ストンと胸に落ち着いたような気がしています。

その結果として、測定可能な「総意」が存在するとまでは永遠に言明できなくても、このように真摯な天皇の努力を認めその意味を考えると、主権者たる国民はこうした天皇の姿勢を歓迎しなくてはならないことになるのではないでしょうか。

最後にもう一度強調しておきたいのは、国民一人一人と直接対話を重ね、一人一人の人生に一人の人間として謙虚にそして真摯に関わろうとする努力を続けている天皇・皇后の姿です。それを憲法に人間的な実質を与えるべく懸命な努力、つまり「不断の努力」を「国民」として続けているのだと受け止めてもあながち的外れではないと思えるのですが――。

最後に付言しておきたいのは、「不断の努力」を義務付けられ、期待されているのは国民と天皇に限られているのではない点です。99条で憲法遵守義務を課せられている、大臣・国会議員・裁判官その他の「公務員」も、「不断の努力」をしなくてはならないのです。

そして、天皇が「国民の総意」という現実の社会には存在しない、しかし理想としては意味のある目標に向かって努力するのと並行して、公務員は憲法15条に規定されている「全体の奉仕者」という、現実には存在しない、しかし理想としては意味のある目標に向かって努力するという規定は、車の両輪として、憲法の美しささえ表現している規定だと考えて良いのでしないでしょうか。

以上、「国民の総意」という憲法なのかでは実体があっても、現実社会には存在しない概念をどう捉えれば、憲法の理念を現実の社会で実現する上での具体的指標になるのかを見てきました。久し振りの対面形式の講演で、力が入り過ぎた感はありますが、私の伝えたい事柄は曲りなりにも伝わったのではないかと自負しています。

 [21/11/21 イライザ]

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