「いじめ」ではなく「犯罪」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――
「いじめ」ではなく「犯罪」
――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――
前回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。小学生から高校生にかけての学生時代に「障害者をいじめていた」ことが第一の犯罪です。15年ほど経ってから、『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』と翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』に掲載されたインタビューで、いわば「武勇伝」として自慢していたことは第二の犯罪です。
さらに、『クイック・ジャパン(95年vol.3)』では、被害者と彼の母親が小山田に出した年賀状を15年も保管した上で嘲笑していることを、第三の犯罪であると考えました。
今回問題にしたいのは、「犯罪」はそれだけに止まっていないという点です。小山田インタビューは、多くの人の目に触れる雑誌が企画し掲載したという事実抜きに語ってはいけない事柄です。『ROCKIN’ON JAPAN』の当時のインタビュアーは山崎洋一郎で、現在は同誌の編集長です。(謝罪文を公式サイトで発表しています。)
今回は、もう一つの掲載誌『クイック・ジャパン』で、「いじめ紀行」というシリーズを企画し、取材していた村上清の言動について考えたいと思います。この「いじめ紀行」の全文はネットで読めますので、(例えば、「のり部屋」というサイトがあります。)
ここで、最大級の言葉で弾劾したいのは、村上清は、「いじめはエンターテインメント」だと考え、小山田のインタビュー記事を企画し掲載したことです。その前提の下、小山田の犯罪の対象になった被害者のうち二人の母親に連絡を取り、特に、これまで注目してきた被害者と彼の母親と、有無を言わせず面会したことです。さらに、二人の母親からは、面会を断られているのもかかわらず、村上とのやり取りを (本人たちの許可がないまま、としか読めないのですが) 『クイック・ジャパン』に掲載していることです。このことも「のり部屋」に掲載されています。
「いじめ」を「エンターテインメント」だと考える人に人権意識があるかどうか問うこと自体愚問ですが、人を馬鹿にするのも好い加減にしろ、くらいは言っておきましょう。
この出版元の太田出版は、一応謝罪文を出していますが、1995年の記事の復刻版を2012年に出していることも合わせて考慮する必要もありそうです。
《いじめについての認識》
以下、裾野も含めての小山田事件から何を学び取れるのかということなのですが、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」に立ち戻ることを提案します。特に「いじめ」の被害者の人権を、私たち全てが再度見つめ直す必要があるのではないかと思います。
確かに、「いじめ」については、社会的な認識が変ってきてはいます。例えば、NHKのインタビュー記事の中で、尾木直樹さんは次のように説明しています。
これまでの昭和の定義で言えば、いじめは▽自分より立場の弱い子を、▽長期間継続的にいじめて、▽相手が苦痛を感じているもの、しかもそれは▽学校が認定したものという4つも条件が付いていたんです。
昭和の定義では、いじめっ子が主語でいじめをして、学校が調べたら本当にあったという時に認定していた。それは自殺して亡くなってもそういう認定がされてきたんです。
ところが2006年に新しい定義になって、これはおかしいというので相当運動にもなって、いじめられている当該児童生徒が主語になって、被害者が「僕はいじめを受けた」「つらいよ」と言えば認定しましょうということになったんです。
ゆっくりですが、変化は起きているのです。その一つが15年前に起きた、被害者の立場から「いじめ」を捉えるという大きな「逆転」です。
それでも、社会全体として「被害者」を尊重しているのかを問われれば、「否」と言わざるを得ないのではないでしょうか。例えば、旭川市でいじめが原因で自殺した中学3年生について、同校の教頭の言葉、「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo?ニュースJapan 8月21日から引用) の意味は、被害者と加害者の命を天秤に懸け、被害者の命を切り捨てているということなのです。
《子どもの声が届くために》
スペースが足りなくなってきましたので、詳細は別の機会に回すことにしますが、どうすれば良いのかについて、一番大切だと思われる点を挙げておきたいと思います。それは、制度的に法律的にまた社会全体の価値観として、被害者の発信力が弱いという事実です。被害者を非難したり批判をしているのではなく、「いじめ」という被害にあう子どもたちがその被害を訴えても、その声が届かないという結果にしかならないような法律や制度、そして社会全体の考え方が問題だという意味です。
かつては、セクハラやDVの被害、ストーカーの被害や煽り運転の被害等は、法律的・制度的に犯罪の被害とは認められていませんでした。しかし、まず法律が作られ、その法律に従って、被害者の存在が認められ、被害を受けた人は、刑事的な犯罪の告発ができるようになりました。直接警察に訴えることが可能になったのです。
しかし、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができたとはいえ、被害にあった子どもが直接警察、あるいはそれに代る力を持つ公的機関にいじめ被害を訴えるという形の法律ではありません。
いじめ問題の難しさの一つは、いじめが限られた範囲の子どもたちの間で起こり、それがそのグループの外に認知される可能性が低いことです。そして、被害にあった子どもが先生や学校に訴えても、被害そのものを認めて貰うことが難しいという事例も多く報告されてきました。
そんな環境だからこそ、「いじめ防止対策推進法」が被害者の子どもの声を大きく強くし、その声が社会に届き、その結果として子どもを守る役割を果さなくてはならなかったはずなのですが、旭川の例が示すように被害を受けた子供の声は届いていなかったのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。皆さんと一緒に考えられればと思いますが、「子どもの権利条約」に謳われている子どもの権利を確認し、子どもたちの力を中心に据えて新たな学校制度を創るという方向が一つの可能性ではないでしょうか。
[21/8/26 イライザ]
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