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経済・政治・国際

2024年6月20日 (木)

ベトナムの歴史(その30-7) ― 原爆投下と枯葉剤 ―

20世紀を象徴する戦争被害

原爆(核兵器)と枯葉剤(化学兵器)は無差別大量殺戮と、その後長年にわたり放射能とダイオキシンによる健康破壊、その結果による死をもたらす究極の殺人兵器です。しかも、その被害は世代を超えて続き、使用はもとより製造・保有・威嚇が禁じられる非人道兵器です。

「20世紀は戦争の世紀だった」と言われますが、原爆と枯葉剤は20世紀を象徴する戦争犯罪(戦争犯罪被害)であり、いかなる「理由」があろうとも、二度と再び使わせてはならないものです。しかし、21世紀に入り四半世紀経た今も、戦争は絶えず、むしろ拡大の懸念すらあります。核の恫喝は繰り返され、その危機は一段と高まり、枯葉剤を含む化学兵器も使われ(疑われ)ています。

間もなくヒロシマ、ベトナムが迎える「あの日」

ヒロシマとナガサキは間もなく79回目の「あの日」を迎え、ベトナムは63回目の「あの日」を迎えます。ベトナムの「あの日」とは、枯葉剤がベトナム中部高原のコントウム省に初めて実験的に散布された1961年8月10日です。同年11月30日、ケネディ米大統領は正式に「ランチハンド作戦(枯葉剤作戦)」を承認し、1971年10月30日までの10年間、反復的にベトナムの人々の頭上と国土(主に南ベトナム)にまきました。

“ベトちゃんドクちゃん”が、「あの日」から20年後の1981年2月25日、コントウム省に生まれました。

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トリニティー実験  出典:ウィキペディア1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験

原爆投下に続き、枯葉剤作戦が準備されていた

日本にも枯葉剤作戦が準備されていたことをご存知ですか? ちょうど4年前、2020年7月5日付けの「ヒロシマとベトナム(その14)」被爆75周年-ヒロシマとベトナム戦争-を考える〔Ⅰ〕に紹介しましたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

アメリカは第二次世界大戦末期、2つのプロジェクトチームによる対日作戦の準備を進めました。一つはマンハッタン計画に基づき「リトルボーイ」を広島に投下したポール・ティベッツ大佐、「ファットマン」を長崎に投下したチャールス・スウィーニー少佐を機長とする原爆投下作戦です。

もう一つが、化学兵器作戦です。サリンやボツリヌス菌爆弾、炭疽菌爆弾などが候補に挙げられ、全爆撃作戦の20%を毒ガス爆弾の投下とし、毒ガス爆弾6万発以上を常に前線に供給できるような体制を整える計画です。

その中の一つが枯葉剤作戦です。大変な食糧危機に陥っていた日本の主要な農産物である米やサツマイモを枯らす細菌兵器の開発が進められ、B-29が実際に日本の耕作地にまきました。しかし、米やサツマイモは細菌に対して抵抗力が強く成功しなかったため、ベトナム戦争で2,4,5-T などとともに枯葉剤として用いられた2,4-ジクロロフェノキシ酢酸という枯葉剤の散布が計画されました。

B-29で編成された第1010爆撃隊が、約1,645㌧の2,4-ジクロロフェノキシを、1945年9月までに日本の水稲作付面積の10%を破壊するという計画は、その後1946年4月までの延長とともに水田の約30%を破壊する計画に拡大修正されました。そして、グアム島に集結したB-29を改造した枯葉剤散布機が待機しているなか、8月6日と9日の究極の戦争犯罪が強行されたのです。

下の地図をご覧ください。焼夷弾で焼き尽くされた東京、名古屋大阪をはじめ主要都市はもちろん地方都市への空襲に続き、広島・長崎への原爆投下。そして枯葉剤作戦です。その対象とされた地域は、赤丸の東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯でした。地図が示すように、日本列島のほぼ南半分にあたります。

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枯葉剤作戦は日本の無条件降伏により実行に移されることはありませんでしたが、原爆に続き枯葉剤攻撃まで計画されていた歴史的事実を消し去ることはできません。

2024年6月20日(あかたつ)

【編集者】「ベトナムの歴史(その30-7)― 原爆投下と枯葉剤 ―」は、2回にわけましたので、つづきを明日掲載します。

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2024年6月18日 (火)

第27代高校生平和大使結団式

一昨日16日の午前10時から中区のアステールプラザで第27代高校生平和大使の結団式がありました。

今年初めて茨城県での選出があり今年の高校生平和大使は、広島県、長崎県など18都道府県(昨年は17都道府県)に広がり、各地の選考で選ばれた高校2年生3年生の23名(昨年は、22名)が選ばれています。毎年のように今年も女子高生が多いのですが、今年は4名の男子高校生が選ばれました。また被爆3世は、長崎県の二人、被爆4世は、広島県から二人選出されています。

前日の15日に広島に集まった高校生平和大使は、広島に学ぶことからスタートです。

広島県原爆被害者団体副理事長で元資料館館長の原田浩さんの「広島の実相を学ぶ・被爆者の思いを聞く」、谷雅志原水禁国民会議事務局長の「NPT体制と核兵器禁止条約」の二つの講演を受けた後、平和公園に移動し、慰霊碑への献花、平和記念資料館の見学、碑めぐりなどが行なわれました。今年は、同行しませんでしたので、その様子を紹介することが出来ません。

結団式は、第26代高校生平和大使の五閑さくらさんの司会でスタートしました。

最初に高校生平和大使派遣実行委員会の小早川健共同代表が、過去の高校生平和大使の活動後の感想文を紹介しながら、期待する思いを込めてあいさつ。

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その後、連合広島、自治労広島県本部、平和運動センター、広島県原水禁、高校生平和大使を支援する会の豊永恵三郎さんが、来賓のあいさつ。私も広島県原水禁を代表し手、昨日のブログの内容を紹介しながらあいさつしました。

続いて、小早川共同代表から、一人ひとりに「核兵器廃絶と平和な世界を目指す高校生平和大使に任命します」という任命書が手渡されました。

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任命証を受ける広島県高校生平和大使の甲斐なつきさん

続いて、一人一人の決意表明です。

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広島県高校生平和大使の佃和佳奈さん

毎年感ずるのですが、とにかく立派な決意の表明です。

「それまで平和や核兵器のことに無関心でしたが、被爆ピアノの傷を見たとき、これは許せないと思うようになりました」

「高校一年から署名活動に関わってきた。そこで学んだことは、平和は人と人の繋がりでつくることが出来ると言うことです」

「未来の平和は、私たちの手で必ず作ります」etc

最後に長崎県高校生平和大使の津田凜さんが「被爆者の方の声を聞き、署名活動などの活動を通じて、核兵器も戦争もない平和な世界をつくるためにがんばります」と締めくくって全員の決意の表明は終わりました。

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その後全員での写真撮影をして、結団式は終了しました。

新しく任命された高校生平和大使は、それぞれの地域で「一万人署名活動」を取り組み、集めた署名簿を持って、8月18日から23日までの日程で、スイス・ジュネーブの欧州国連本部・軍縮代表部などを訪問することになっています。

今年も大いに活躍してくれると期待しています。

いのちとうとし

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2024年6月10日 (月)

能登地震から5か月

能登地震から5か月、反原発新聞を発行している「反原発運動全国連絡会」の総会が6月1日~2日、福井県高岡市で開催され、総会に合わせて行われた能登地震の被災地や志賀原発の視察などの企画に参加してきました。

地元で志賀原発に反対する活動をしている、志賀町町会議員の堂下健一さんや、「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」団長の北野進さんらに案内してもらい、改めて地震の怖さと、その中で志賀原発に反対する人たちのパワーを感じることができました。堂下さんは、現在も避難所生活をしているのです。

6月2日朝、高岡市から能登半島を北上するとブルーシートで覆われた家が多くなり、全壊した家を見かけました。道路はいたるところで亀裂や横ずれし、クラックと言われるひび割れした家もありました。

通行が可能になった道路もありますが、道の繋ぎ目に段差があるところが多く、その上を通るとバスのタイヤを通してガタン、ガタンという音と振動が身体に響いてきます。

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最初に訪ねたのは、高岡駅前からバスで約1時間半の場所に在る志賀原発団結小屋でした。能登半島で計画された珠洲原発建設計画は、28年におよぶ反対運動によって2003年12月、建設を断念させました。その話しを「赤住団結小屋」の藤岡彰浩さんから説明をしてもらいました。そして団結小屋も前で、参加者みんなで紙製の風船を空に揚げ、珠洲原発計画を断念させた先人たちの信念の強さを感じ取り、志賀原発の再稼働をさせない決意を新たにしました。

次に訪れたのは志賀町の領家(りょうけ)漁港、ここでは富来川南岸断層を視察しました。富来川南岸断層は志賀原発の北約9km付近にあります。北陸電力は当初この断層を活断層と認めてこなかったものです。

原発周辺の施設は、部屋の中の気圧を外気の圧力よりも高くして、外から放射能が入るのを防ぐために、陽圧(ようあつ)装置を付けた部屋を作っています。

志賀町にある富来小学校では、柱や天井が損壊し陽圧化装置が機能しなくなり、1月30日に学校は閉鎖されました。現在、児童たちは富来中学校に通っているそうです。校舎の建物は基礎部分が浮き上がり、窓越しからみた教室は乱雑にたくさんの段ボール箱が置いてありました。

この場所からバスで約30分、輪島市門前町鹿磯(かいそ)漁港でした。港の堤防は5メートル以上隆起し、海底に埋まっていた堤防の基礎部分との色がはっきりを区分けできる状態には、この地震の強さに身震いしました。堤防の下部分には多くの貝類がついていて、堤防隆起によって、命を失った貝類に思いを馳せていました。

そしてバスは金沢市に近い内灘町へ。かつて埋め立てられたこの町の液状化被害の状態は壮絶でした。家屋の基礎部分が液状化で浮き上がり、多くの家屋は住めないために、家の玄関には「危険」、「住居不可」などの貼り紙が貼られていました。液状化した家を実際に見たのは初めてでした。

6月2日の夜、帰広しました。そしたら翌3日の早朝に珠洲市で最大震度5強の地震が発生したとのニュース、この度の視察旅行で案内して下さった方や、町で見かけた人たちのことを考えながら、重い気持ちになっていました。

木原省治

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2024年6月 9日 (日)

福島原発視察報告その6

福島原発視察報告の最終回です。

ホテルで朝食をとった後、出発まで少し時間がありましたので、街の様子を知りたくてJR常磐線浪江駅前まで散歩をしました。

最初に訪れたのは、浪江町役場横の「まちなみまるしぇ」です。ここは2017年の視察で訪れた町内で初めて出来た商業施設でした。

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 左が2017年6月、右が今年

真ん中に置かれたテーブル・椅子の色は変っていますが、同じように配置され、奥の「まちなみまるしぇ」の看板や右側に「リラクア」の看板もそのまま両方とも写っています。少し早い時間でしたので、人影は見えませんが、今も町民の暮らしを支えているのが分かります

震災以前は、この町のメインストリートだった道路を進みます。2017年には、地震で壊れ,放射能汚染した家々がそのまま放置され人影はありませんでした。

今は、古い家は全て撤去され,ほとんどが空き地です。「売地」「売り物件」の看板が目立ちます。

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新しく建てられた建物は、マンショを兼ねた公共的な建物、建設業関連の看板が目だちます。

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浪江駅前に着くと、駅前のオブジェやバス停はそのままですが、配達前の新聞が山積みになっていた新聞配達所を始め家々が立ち並んでいた2017年の風景が一変し、空き地に草が伸び,寂しい風景になっていました。いつ、もっと活気のある街が戻るのか、想像できません。

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 復興の現状を知るため、浪江町のホームページに記された住民の推移を見てみたいと思います。

2011年3月11日、震災以前の人口は、21,542人(7671世帯)でした。

本年4月末現在の人口は、14,947人(6645世帯)です。しかし、浪江町に住んでいる人は、2,227人(1395世帯)です。うち震災前の町民は1430人ですので、震災前に住んでいた人のわずか6.6%しか町に帰っていないことになります。もちろん詳細を見れば、もっと複雑だと思いますし、町は復興に全力で取り組んでおられるのですが、これが13年以上経った原発事故被災地の実態です。

また浪江町は、原発事故前の住民の避難状況も毎月末ごとに掲載しています。それによれば、19,154人の内、福島県内に13,236人(うち浪江町在住1430人)居住し、県外(外国が12人)は和歌山県鳥取県を除く全ての都道府県に居住し、広島県には7人が居住されています。

毎月全員に連絡し、確認するのは大変な作業だと思います。

30分あまりの散歩を終え、ホテルに帰ると再びバスに乗り最後の見学場所、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」に移動しました。

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「東日本大震災/原子力災害伝承館」は、津波による被害を受けた場所に立っています。東電第一原子力発電所から北に約1kmの位置ですから、この地の住民も当然避難を余儀なくされ、避難指示が解除されたのは、2020年3月4日です。

受付を終えると最初に,語り部講話を聞きます。講師は、元高校教師の青木淑子さんです。

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「崩壊と創世の狭間で」と題した講演は、原発事故のその後を語る報告でした。その中で私が印象に残った言葉のいくつかを紹介します。

「双葉町は11年ぶりに避難が解除されたが、復興しているのはこの情報館の周辺だけ。原発事故は、人災。放射の被害による流言飛語は、全て個人にかかる。これからの課題は、50年後ではあるが、原発のなくなった町をどう計画するのか。13年間で、関連死した人は400人余り、大丈夫と言われた人も帰ることが出来ない。福島の複合災害は、終わっていない。これを語るのが私たち語り部の仕事。原子力災害は、絶対にあってはならない。2度と福島のようなおもいをさせてはならない。」

約45分の講演でしたが、原発事故への強い憤りを感じました。

その後館内を見学。広島の平和公園内にある「国立原爆死没者追悼祈念館」の館内を思わせるスロープの空間。

 

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双葉町にかけられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板の写った写真も展示されています。

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屋上にデッキからは、海岸に向かって整備が進められる「福島県復興祈念公園」の様子が見えます。一部震災当時のままの姿が残るようです。

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たくさんの展示物がありましたが、伝承館見学の時間は、講話を聞く時間を含めて1時間半しかありませんでしたので、充分に館内を見学することは出来ませんでした。

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館をでた後、視察で初めての集合写真撮り、解散場所の福島駅に移動し,12時に無事視察は終了しました。参加者の皆さんご苦労様でした。

福島第一原発報告を終えるにあたった一言。

「東京電力は、廃炉作業と言いますが、本当にこの名称で良いのだろうか?通常運転を終えて進める廃炉作業とは違うのだから、『原発事故処理作業』と名称を変えるべきでは」

一番に思ったことです。

いのちとうとし

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2024年6月 7日 (金)

福島原発視察報告その5

視察2日目の最後は、地元の皆さんとの交流です。

最初に、浪江町議会議員で「福島原発事故被害から健康と暮らしを守る会」会長の紺野則夫さんの話しを聞きました。紺野さんは現在,全ての福島原発事故被害者に対し国による「健康手帳」交付を求める運動の中心的役割を果たしておられます。2017年の福島視察でも当時の馬場町長に同行し、福島市での開会行事でいろいろと報告をしていただきました。

紺野さんの話しは、13年前の原発事故当時の浪江町の避難状況からはじまりました。

浪江町の健康保健課長だった紺野さんが、浪江町にある支所で勤務中に、東日本大震災が発生。翌日の3月12日政府から東電福島第一原発事故による「避難指示」がだされ,対策本部を設置して対応したこと、その避難指示によって浪江町中心部から30km離れた同じ町内の津島地区に5~6時間かけて住民がやって来た。

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東京新聞2023年3月18日より

のちに明らかになるのですが、原発の爆発事故によって発生した放射性物質が集まる放射性プルーム(放射性雲)は、東京電力福島第一原発から北西の方向に流れたため、津島地区は最も汚染が酷い地域になってしまいます。

馬場町長は、「ここも危ない」とさらに避難を決断。「どこに行くか」と探して見つけたのが、二本松市の東和地区。3月15日に津島にいた1万1千人が移動。一番の問題は医療問題で、東和には「地元の人しか診察できない」小さな診療所しかなかった。3月17日、18日に診療所を立ち上げ,医師は何とか確保できたが、看護師がいない。6月に発注したホーボディカウンターが届いたのが翌年の5月頃。自分の体は、800ベクレルの被曝。馬場町長は、原発事故被害者の健康管理、健康保障への責任は本来国が果たすべきだが、国がやらないのなら、として被爆者健康手帳と同じものをつくろうと町独自の「放射 線健康管理手帳」 (健康手帳)をつくり全町民に配布した。その後、広島県被団協の坪井理事長と話した時、坪井さんから「10年、20年の健康をきちんと調べる。原発と原爆はどこが違うのか。広島と福島が違うのは、爆風と熱だけだ」と「健康手帳」への支援を送っていただいたこと。当時広島市長だった秋葉さんには「日本政府が何もやっていないことを国際社会に訴えるべき。6万人の命が守れなくて1億人が守れるのか」と示唆をいただいたことを思い出す。

役場を退職後、「何をやるべきか」と考え、町議に立候補した。医療費の無料化を継続させなければと思っている。当時3千人の子どもたちがいたが、この子たちが健康に暮らせるなら何でもやるというのが私のスタンス。

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「差別よりもいのちが大事」と言った馬場町長の意思を引き継ぎ、「検診体制の確立を含め医療費無料化の制度を構築することが国の責務」と「健康手帳」の法制化求めている。

紺野さんの「健康手帳法制化」に取り組む強い思いを感ずることの出来たお話でした。

二人目は、私たちの「福島原発視察」の日程作成に協力をいただいた福島県平和フォーラムの引地力男事務局長の話しです。

引地さんの話しは、「ALPS処理水の海洋放出」の問題です。いま福島では、「汚染水」呼称が問題視され、3月の県議会では「汚染水」との表現を教育現場で認めない自民党の意見書が採択され、また「汚染水」と発言したひとが強いパッシングを受ける実態が報告されました。こうした現状の中で福島県平和フォーラムも「ALPS処理水」と表現していることが、紹介されました。もちろん、福島県平和フォーラムも発生するのが「汚染水」であるとしていますが、言葉狩りとも思える状況が広がる中で苦悩しながら運動を展開せざるを得ない実態が報告されました。

このことについては、様々な意見があると思いますが、ここでは福島の現状の紹介だけにとどめておきます。

当初予定していた漁業事業者の話を聞くことが出来ませんでしたが、現地の声を聞くことの大切さをこの交流でも学びました。

これで、ようやく二日目の日程の報告が終わりました。

次回は、翌朝出発前に散策した7年ぶりに見た浪江町の街の様子と、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」見学の様子を報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その59) ~南シナ海をめぐる動向-3~

最近、南シナ海で最も対立が深まっているのがフィリピンと中国です。下の地図は各国が主権を主張する境界線です。フィリピンと中国の境界線が近接しているのはパラセル諸島(西沙諸島)東のスカボロー礁(黄岩礁)と、スプラトリー諸島(南沙諸島)ですが、(その57)で報告したようにスプラトリー諸島(南沙諸島)で中国海警局とフィリピン漁船や沿岸警備隊との「衝突」が頻発しています。

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スプラトリー諸島(南沙諸島) 争いの構図

第二次世界大戦直後の1946年、フィリピンは「スプラトリー諸島(南沙諸島)を自国の国防範囲に含める」と発表し、中国は1953年、中国は地図に見る境界線を「9段線」(注1)を引き、自国領と主張を始めます。

1956年、フィリピン出身の民間人がスプラトリー諸島(南沙諸島)北部海域の島に上陸したのを契機に、フィリピン政府はこの島を「自由の島」を意味する「カラヤン島」と名付け、自国領と宣言しました。これに対し、台湾(中華民国)は、南沙諸島最大の島である中国名「太平島」(英名イトゥアバ島、ベトナム名ダオ・バオ・ビン島、フィリピン名リガオ島)に軍隊を駐留させ、南ベトナム(注2)はスプラトリー島に国旗を掲揚して抗議します。こうしてスプラトリー諸島(南沙諸島)海域の領有権をめぐり、中国・フィリピン・ベトナム・台湾の4カ国で争いが始まります。

それまで比較的穏やかに推移していた争いが、厳しく熾烈になり始めたのが国連極東アジア経済委員会(ECFAE)の調査の結果、1970年代に石油や天然ガス埋蔵の可能性が取り沙汰されて以降です。ちなみに米エネルギー情報局のまとめでは、南シナ海全体の石油埋蔵量は110億バレル、天然ガスは190兆立方フィートとされています。

こうした中、1971年にマレーシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部の領有権を主張し始め、80年代には岩礁の占拠を始めます。1984年にイギリスから独立したブルネイ(注3)も、1988年の「ブルネイ大陸棚図」をもって領有権を主張し、先の4カ国に加え、現在6カ国が争う構図が作られたのです。

アメリカ軍の「対中国戦略」拠点 フィリピン

その大きな要因は前にも述べましたが石油や天然ガスなどの海底資源をめぐる権益争いにありますが、同時に対立を深める米中関係があります。

1899年、アメリカはスペインとの戦争に勝ちフィリピンの植民地支配を引き継ぎます。フィリピンは独立を宣言し1899から4年にわたって抗米独立戦争(注4)を戦いますが敗れ、アメリカの植民地になります。

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出典:ウィキペディア   ゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画

フィリピン人を銃殺する米兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」とあります。

アメリカの植民地時代~独立後を含めフィリピンは120年にわたり、アメリカの軍事戦略上の要地とされてきました。中国の経済発展を背景に軍事力の近代化と海洋進出が強まる中で、南シナ海、とりわけスプラトリー諸島(南沙諸島)における米軍のプレゼンスが強まってきます。

1991年に撤去された米海軍スービック基地とクラーク空軍基地が2015年に再開され、その後も「台湾有事への備え」を含め、フィリピンでの新基地建設が進められ現在では9つの基地が置かれています。こうした動きが、南シナ海の緊張を高めているもう一つの要因です。

こうした中で顕著なのが日本の動きで、日米豪比による軍事的な連携が進められています。昨年、「同志国」の軍に装備品を提供する枠組みである「政府安全保障能力強化支援(OSA)」を初めて適用し、フィリピンに沿岸監視レーダーや艦船を提供したのに続き、今年4月には護衛艦「あけぼの」が参加して日米豪比による共同訓練を実施しました。5月2日にはハワイで4カ国の防衛相会談が行われ、引き続きフィリピン軍に対する能力構築支援とあらゆるレベルでの連携強化が合意されました。

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出典:護衛艦隊ニュース

手前からオーストラリア海軍のフリゲート艦、フィリピン海軍のフリゲート艦、日本の護衛艦「あけぼの」、アメリカ海軍の沿岸海域戦闘艦

2014年の武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を廃止し、武器輸出を実質的に解禁する「防衛装備移転三原則」を強行成立して10年、日本は南シナ海という「ホットな海域」で武器を携えて同盟国(や同志国)の軍隊と行動を共にするところまで来ています。間もなく「被爆79周年」(8月6日)、「戦後79周年」(8月15日)を迎えます。南シナ海をめぐる動向に日本が深く、危うく関わっている事態を直視しなければと思います。

次号ではフィリピンが提訴した南シナ海仲裁裁判所の裁定を取り上げます。

(注1)9段線

1953年から中華人民共和国(中国)が南シナ海全域の権利を主張する上で境界線として地図上に破線を引いたもので、1947年に中華民国(台湾)が南京で制定したものが原形。もともとはトンキン湾にも二本の線が引かれて「十一段線」と呼ばれていたが、中国が当時良好だった北ベトナムとの近隣関係に配慮し、現在の九段戦に改めたの。

(注2)南ベトナム

1945年、フランスからの独立とベトナム民主共和国建国。1954年、ベトナム独立同盟会(ベトミン)とフランスとの戦いに勝利(ディエンビエンフーの戦い)。「ジュネーブ協定」により北緯17度線で南北に分断。その後、1975年のベトナム戦争勝利、翌年の南北統一までの21年間、ベトナムは南北ベトナムに分断されていた。南ベトナムは当初フランスの傀儡政権であったが、1954年以降はアメリカに変わる。

文中にある1956年当時の南ベトナムは初代大統領のゴ・ジン・ジェム政権。

(注3)ブルネイ

ブルネイ・ダルサラーム国、立憲君主制。面積5765平方キロメートル(三重県とほぼ同じ)、人口44万715人(2021年)、首都バンダルスリブガワン。石油や天然ガスなどの資源が豊富。イスラム国でイギリスの保護国、イギリスの自治領を経て1984年に完全独立。1941年に日本軍が侵攻、1945年の敗戦まで日本が統治。

(注4)抗米独立戦争(米比戦争)

独立を宣言したフィリピンが戦った1899~1902年の戦争。フィリピンが敗れアメリカの植民地支配が確定。アメリカ帝国主義のアジア進出の一環として起きた戦争。列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、間もなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つ。

1901年9月28日、サマール島で「バランギガの虐殺」が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。米軍人アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じ、少なくとも10万人が殺されたと推定されている。

文中のゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画には、その様子が描かれている。

(2024年6月5日、あかたつ)

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2024年6月 4日 (火)

福島原発視察報告その4

東京電力福島第一原子力発電所の事故現場の視察が終わると、バスに再乗車して東京電力廃炉資料館に戻り、用意された弁当で昼食を摂りました。昼食後、事故当時の様子や廃炉作業の様子を紹介するパネルやマルチメディアを駆使した展示物を見学した後、最初の会議室に戻りました。

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全ての見学が終わった後、案内をしていただいた福島第一廃炉推進カンパニー廃炉CC施設CG課長齋藤賢治さんと副所長(名前を聞かなかった)から、感想を求められましたので、私は次のように意見を述べました。

「懸命の事故処理を行なわれている皆さんに敬意を表します。その上での意見です。最初の説明で、ようやく今年10月には2グラムのデブリが取り出せるのではないかという説明を受けましたが、この取り出しにも13年という大変な時間がかかっています。その2グラムを分析し,『本格的な取り出し方法を確立することになっています』との話しでしたので、今後どのような方法で本格的にデブリを取り出せるようになるのかは、まだまだ不明だと思います。その上、堆積しているデブリの量は推計880トンと言われているのですから、全てのデブリを取り出すのには、今後何年かかるか分からないはずです。にもかかわらず、廃炉作業ロードマップでは廃炉作業の終了は、当初の『30年後から40年後』という計画が変更されていません。当然見直されるべきだと思いますが、なぜ見直しがされないのでしょうか?いま政府が進めようとしている原発推進政策を進めるために、廃炉作業ロードマップの見直しがされていないのではないかと疑わざるを得ません」と指摘したのに対し「確かにこれまでの作業は予定より延びていますが、最終目標がないと作業従事者のモチベーションを持ち続けることが出来ません。作業員のモチベーションを維持するためにも最終目標を定めておくことが必要なことです。」との答えが返ってきました。

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その後もう少しやりとりをしましたが、「ロードマップの最終を見直す」との答えは返ってきませんでした。デブリの最初のわずかな量の取り出しだけでも予定された以上の期間がかかっていますし、本格的な取り出し作業はいつはじまるかも定かではありません。今回の事故現場の視察で改めてそのことを実感しました。

最後に副所長から「皆さんの意見は必ず上層部に伝えます」との発言があり、予定の時間も来ましたので、そこで全ての東京電力第一原発の廃炉作業視察の全日程を終了しました。

私たちがチャーターしたバスに乗り込み、被災者の皆さんの声を聞くため浪江町に移動しました。

浪江町は、第1回、第2回とも訪れた町です。その後どのように様子が変っているのか、現場をぜひ見たいと思い持ちながら、現地の皆さんとの交流の場は、宿泊場所のホテル二葉の杜に午後5時過ぎに着きました。

ここでは、浪江町議会議員の紺野則夫さんと福島県平和フォーラム事務局長の引地力男さんのお二人から話を聞きました。当初の予定では、汚染水海洋放出問題で反対運動を取り組んでおられる漁業者の小野春雄さんの話を聞くことになっていたのですが、小野さんが急に入院されたため、漁業者の話を聞くことが出来なくなったのが残念でした。

福島原発視察報告は、3回ぐらい(今日)で終えるつもりでしたが、ここまででずいぶん長くなったしましましたので、あと2回ぐらい続けたいと思いますので、紺野さん、引地さんの話しは、明後日紹介します。

いのちとうとし

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2024年6月 3日 (月)

福島原発視察報告その3

二日目は、原発事故を起こした東京電力福島第一原発の現地視察です。

ここで、町の位置関係を確認するため、地元の新聞「福島民報」が作成した汚染区域の現状を召す地図を付けます。

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ホテル富岡やこれから向かう東京電力廃炉資料館は、富岡町にあります。富岡町と楢葉町との町境を挟んで東京電力福島第二原発が立地しています。JR富岡駅前付近からも南側に見えるということでしたが、残念ながら現地では目視することが出来ませんでした。

ホテルを午前8時40分に出発し、向かったのは東京電力廃炉資料館です。

ホテルからバスで数分の近くですので、すぐにつきましたので、開館時間の午前9時までバスで待機です。

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間もなく東京電力の案内の社員の姿が見え、館内に案内されました。案内された会議室で、東京電力福島第一原発の現地立ち入りのための身分証明書の確認や廃炉作業状況の説明、現地立ち入りに当たっての注意事項などのレクチャーがありました。

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 1~4号機の現状と共に、汚染水対策は、特に詳しく説明がありました。

現地立ち入りに当たっての注意事項で強調されたのは、持ち込み物の件です。事前の登録したICレコーダー、筆記具と小さなメモ帳以外は、持ち込みが出来ないとのことで、当然、カメラ、スマホは持参できません。

10時になり、東京電力が用意したバスに乗車して東京電力福島第一原子力発電所の事故現場に向かいます。

そんなに遠い距離ではありませんので、15分ほどで入り口に到着します。ここで先に提出した身分証明書と確認され、さらに金属探知機による持ち物検査が行なわれ、そして各自に線量計が手渡され再びバスに乗り、実際の見学がはじまります。ちなみに視察を終えた後の私の線量計は、γ線量0.02グレイ(Gy)を示していました。案内者は、盛んに「この線量は歯医者で受けるレントゲン検査の量と同じです」と言っていたことが印象的でした。

当日の視察のルートです。

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小さくて見え難いと思われますが、地図の真ん中海寄りの事故起こした1号機の西側に設置されたデッキ①と左側の6号機7号機近くのデッキ⑥が降車できた場所で、後は全て車中からの説明です。スマホがありませんので、写真を写すことが出来ず、メモもほとんどとれませんでしたので、残念ながら詳細を報告することが出来ません。

最初の降車した1号機横のデッキでは、20.5μ㏜/hを表示していました。現在1号機2号機では、使用済み核燃料の取り出しのための作業が進んでいました。

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2号機に取り付けられる使用済み核燃料取り出しのための建屋

1号機、2号機とも耐震性があると東京電力は説明しますが、放射能の線量が高く、なかなか近づけなかったため、事故後13年にしてなお、危険な使用済み核燃料が取り出せていません。飛散防止が必要なほど1号機の壊れた建屋上部にたまった汚染物の線量が高いため飛散防止が行なわれたりしましたので、取り出し作業が遅れる要因になっています。事故を起こした原発の廃炉作業がいかに大変なのかを示しているといえます。

移動中に目に入るのは、原発事故で発生した汚染物が様々な場所に置かれている風景です。汚染水の貯蔵タンクだけではありません。高線量放射性汚泥(スリラー)を納めた高性能容器(HIC)もバスが通るすぐそばに野積みされたままです。その他、大量の汚染物質をどこにどう、どれだけの期間保管しなければならないのか、これから解決しなければならない課題です。

2番目に降車した場所では、「汚染水をどれだけ薄めて海洋放出しているか」の説明に終始しました。ここでも「安全」を強調する東京電力の姿がありました。

ところで、毎日この現場で働いている作業員は、4500名前後だそうですが、視察中にも色の違うヘルメットをかぶり作業をしている姿が目に付きました。1号機2号機周辺で作業する人たちは、防護服を着けていますが、他の場所では除染が進んだというのでしょう、防護服なしの労働者の姿も多く目にしました。全ての作業が安全に進んでいるかの説明でしたが、初日の福島平和フォーラムの角田さんの話しでは、「10人を超える労働者が労災に認定されている」と言うことですから、労災認定されなくても多くの労働者が被曝していると思わなければなりません。

約1時間半あまりで予定のコースを一周し、被曝線量を測ったのち、再び移動バスに乗り、東京電力廃炉資料館に帰ってきました。ちょど12時でしたので、作業員が休憩室に移動する時間と重なりました。

つづきは明日報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 2日 (日)

福島原発視察報告その2

福島市での開会行事を終え、宿泊地の富岡町にバスで移動しました。7年前にはなかった福島市から常磐高速道をつなぐ自動車道が開通しており、途中休憩を入れて、約2時間あまりで富岡町に到着しました。

高速道路を走行中、気になった景色が二つあります。一つは、太陽光発電のパネルです。

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車中からの写真なので、見にくいのですが、バックミラーの向こう側に太陽光パネルが敷き詰められています。移動中何カ所も目にしました。角田さんの話しでは、「県内各地で太陽光発電パネルが、設置されている」と言うことでしたが、まさにその通りでした。

二つは、高速道路に設置された放射能測定値を表す表示板です。

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地名表示がありませんが、浪江町を通過している時だったと思います。「0.4μ㏈/h」を示していました。他の地域よりやや高かったように思います。高速道路上の「放射能数値」の表示は、各自治体に一カ所設置されている感覚で受け止めました。

1日目の宿泊は、常磐線JR富岡駅前にある富岡ホテルです。予定通り午後6時過ぎに到着し、午後6時半から近くの串揚げ居酒屋「串誠」で参加者交流会を行ないました。

確か2011年の秋にこの場所を訪れた記憶がありますが、その時の光景を思い出しました。富岡駅前は、海岸線に近かったこともあり、津波で壊滅状態になりました。

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現在は、駅舎も新築され、きれいになっていますが、駅前にはわずかな建物しか建っていません。

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その少ない建物で現在営業中なのが、ホテル富岡と串揚げ居酒屋「串誠」です。

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左の写真の手前右側に串揚げ居酒屋「串誠」があります。「串誠」で夕食交流会が終わった後、店主の渡辺さんに少し話を聞きました。

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いろいろと話を聞かせていただいた渡辺さん

 「町民の手で街を再建しようと思い、このお店とホテルを一緒に建てることにしました。」ホテルのホームページには次のように書かれています。「富岡町民8 名が集まり、震災を経験した富岡町が変わっていく姿を全国の皆様に見に来ていただけるように、また町の希望を次世代につなげていけるようにという想いを込めて立ち上げた。」

町外資本が多い中で、町内資本のみで事業を興したまれなケースの一つです。

お話を聞いた渡辺さんは、震災前は富岡駅前でスーパーマーケットを営んでおられたそうです。もちろん、震災でお店は全滅です。「町には、2000人ぐらい住むようになったと思いますが、以前住んでいて帰ってきた町民は、半数の1000人ぐらいですかね。いろいろ事情があるので、町に戻ってくるのは難しい人も多いですよ。津波で亡くなった人は、24人ですけどね」

翌朝ホテルで朝食をとっていると厨房に渡辺さんの姿がありました。協力して町の希望を次世代に繋げようとする姿を見ることができました。

渡辺さんたちの町おこしは、後で紹介する3日目にお話を聞いた語り部の青木淑子さんにあいさつした時、青木さんが、「町内資本だけです」と誇らしげに話されたことが印象的でした。

渡辺さんたちの建物の他にも周辺には確かに新しい建物が建っていますが、空き地が目立つ状態で,真の復興はまだまだ先だなということを実感しました。角田さんの「復興の真の姿を見て下さい」という言葉が思い出されました。

津波で流された常磐線から海側はかなり広い土地ですが、建物を建てることは出来ないようですが、何か出来ないかと言うことで、町の許可を得て「ブドウ栽培」が始まり、来年にはワイン工場も完成するようです。

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「ブドウ栽培」を進めているのは、元町長の息子さんと言うことですから、元住んでいた町民の手によって復興活動を取り組まれています。

朝食後、少し時間がありましたので、駅前の小高い丘に建つ「東日本震災慰霊碑」に行ってきました。

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碑の左手奥に富岡駅舎があります。

今日のブログは、復興に向けた町民の思いを伝えました。

さていよいよ今回のメインの目的である「東京電力福島第一原発」の現地視察ですが、その様子は次回報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 1日 (土)

福島原発視察報告その1

今日から数回に分けて、広島県原水禁が527日から29日に実施した「福島原発視察」報告をしたいと思います。今回の広島県原水禁の福島訪問は、2014年、2017年に続く、3回目です。

すでにイライザさんが「ヒロシマの心を世界に」で、3回(#福島原発視察 ――#冒頭の問題提起と初日の感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)#廃炉館 と #福島第一原発 敷地内 #視察 ――#引き続き #午後の講義 そしてその後の #感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)#東日本大震災・原子力災害伝承館 ――#語り部の講話 と #参加者の #感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))にわたって、速報で参加者の当日の感想が掲載されていますので、ぜひそちらも読んでください。

今日は、初日の報告です。

午後2時、集合場所であるJR福島駅前の福島産業振興センター会議室に、22人の参加者全員が集合し、「福島原発視察」がスタートしました。

大瀬敬昭県原水禁事務局長の司会で開会行事が進行しました。

最初に秋葉忠利県原水禁代表委員が「この視察で、福島の現状をしっかりと見つめよう。又原発と同時に核兵器の問題にも目を向けよう」とあいさつ。

続いて、翌日からの現地視察を前に「フクシマの現状と課題」を学ぶため、福島県平和フォーラム共同代表の角田政志さんから「原発事故から13年 福島の現状と課題」と題しての講演を受けました。角田代表には、県原水禁のこれまでの視察でも何度もお世話になってきました。

角田代表は、「原発事故から13年経過した福島の課題」として3つの課題「①福島第一原発の事故処理・廃炉に関する課題②被災者の生活再建の課題③脅かされる健康被害の課題」を提起しました。

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第1の「東電福島原発事故の現状と課題」として、次の7つの課題が現場の状況を示しながら詳細に報告されました。

  • いまだに取り出せない使用済み核燃料
  • 全容も分からないデブリの取り出し
  • 1号機の原子炉土台、全周損傷(崩落の危険性あり)
  • 汚染水に含まれる放射性物質を自然界への放出処分

・東電の「薄めて流せば安全」の欺瞞

・海洋放出を強行した背景と仕組まれた「必要性」の欺瞞

  • ALPS処理で生じた高線量の放射性汚泥(スラリー)の保管場所
  • 原発敷地内に残る配管・瓦礫・「核のゴミ」

・撤去された排気塔や配管などの汚染された残骸物、撤去できない配管など

・敷地内汚染による汚染瓦礫、土壌

・事故収束作業で生じた、防護服、手袋など

  • 行き場のない中間貯蔵施設の汚染土壌の最終処分

・8000ベクレル超の土壌は、減衰を待って県外処分

・8000ベクレル以下の土壌は、全国で再利用による処分

いずれも現場を写した写真を明示しながらのわかりやすい解説で,翌日の廃炉作業中の東電福島第一原発現地視察に参考になる提起でした。

中でも「③1号機の原子炉土台、全周損傷(崩落の危険性あり)」や「⑥原発敷地内に残る配管・瓦礫・『核のゴミ』」は、マスコミなどでもほとんど提起されていない問題ですが、特に「⑤ALPS処理で生じた高線量の放射性汚泥(スラリー)の保管場所」の問題は、当然考慮しなければいけない問題にもかかわらず、私自身初めて聞くテーマであり重い課題だと感じました。

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角田さんも「現地に入ったら、ぜひお話ししたような視点を持ってみて欲しい」と要望されました。

また「⑦汚染土壌の最終処分」問題は、今回中間貯蔵施設の見学が予定されていませんでしたので、貴重な提起になりました。特に、「8000ベクレル以下の土壌処分」問題は、実際には私たちの身近な場所で起こる問題だという提起で有り、「本当のそれでいいのか」考えなければならないテーマです。

第2の「被災者の生活再建の課題」では、「被災地の『箱もの』建設は進み、見た目の復興は進んでいるが『人々の生活は戻っていない』』ことが、現在の居住者数などを示しながら紹介されました。数字の上では、居住者数は一定程度増え帰還率が上がっているように見えるが、「元の住民の帰還者数はその半分ぐらいしかいない」という指摘は、その後現地で何度か聞くことになりましたので、後日紹介したいと思います。

角田さんが特に強調されたのは「将来を担う子どもたちが戻ってこない」という下の表に示された実態です。

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上の表を見ると、特に今なお多くの帰還困難区域を抱える浪江町、双葉町、大熊町、富岡町で深刻な実態が分かりますし、「子どもたちが戻ってこない地域に本当の復興はあるのか」と厳しく問われています。

第3の「脅かされる健康被害の問題」では、国が「時間の経過と共に被害者の支援措置を減じている」ことを指摘し、特に「強制避難地域に居住していた住民の医療費および保険料の免除措置を段階的に廃止する」政策を進めていることに対し、「継続を前提とする再検討」を求める運動や放射能汚染地域に暮らす全ての人々に「健康手帳」の交付を求める運動が起こっていることが紹介されました。

この「健康手帳交付」については、その取り組みを進める医師の振津かつみさんからも問題提起がされました。広島県原水禁は、「健康手帳交付を求める」署名活動をすでに取り組んでします。

2時間ほどの開会行事を終え、宿泊地の富岡町にバスで移動しました。

今日は、ここまでです。

いのちとうとし

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