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書籍・雑誌

2023年11月 7日 (火)

柳田邦男さんの企画展「空白の天気図」特別講演

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で開催されている企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」(4月4日のブログ「「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介)の監修者であり「空白の天気図」の著者でもあるノンフィクション作家の柳田邦男さんの3回目となる講演会が、昨日午前10時から広島平和記念資料館メモリアルホールで開催されました。

柳田さんの講演をぜひ聴きたいと、過去の2回(314日と89日)応募しましたが、抽選に漏れ参加できませんでした。しかし、最後の講演会となる今回は、300人の会場に400人を超える応募があったようですが、抽選に当たり参加することができました。

柳田さんの講演のタイトルは「死の灰、黒い雨、二次災害―解明された被害拡大のメカニズム-」です。

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講演は、「空白の天気図」の元原稿が見つかったことから始まりました。「信州大学の図書館から、この夏『柳田さんの特別コーナー』を作りたいとの話があり、わが家の蔵書や資料、原稿などを搬出している時に、もう手元にはないと思っていた50年前の『空白の天気図』の原稿が出てきました。出版元である新潮社が、400字詰め原稿用紙で700枚ある生原稿に表紙を付け製本した状態でプレゼントしてくれていました。ペンで書いています。」というエピソードの紹介から始まりました。「今回持参し、会場入り口に展示しています。追悼祈念館の企画展開会中は、会場に展示することになっています。」

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「空白の天気図」の生原稿

その後、「空白の天気図」のねらいが紹介されます。「70年代、2重災害によって原爆の被害から生き延びた被爆者が、枕崎台風によって亡くなっていった。しかし、それはほとんど報道されていなかった。また、黒い雨の被爆者は援護されていない状況にあった。」「原爆によって気象台の機能がなくなって通信手段が途絶していた。襲来した台風についても、当日の広島気象台の天気図には、輪郭が書かれているだけ。」「水害の被害が伝えられていなかった」。そんな中で「①原爆と台風 複合災害の象徴的なものー枕崎台風の見直し」「②社会災害 戦争の中で起きる複合災害がいかに大変なものか」「③原点に返って考える 放射能被害の実相を見つめ直す 複合災害の実態も」を考えながら、「空白の天気図」を書かなければならないと思ったということでした。

この後、黒い雨のメカニズム、「空白の天気図」を読んで黒い雨の調査を行った宇田さん足跡を知り「黒い雨」の再調査を行った気象研究者増田善信さん、そのことによって黒い雨地域の拡大が証明され、その後の「黒い雨裁判」に活かされたことなどが科学的に、そして詳細に紹介されました。

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増田資料を手にする柳田さん

 特に増田善信さんの黒い雨地域の再調査は、「宇田雨域の原点である広島地方気象台における『観測精神』の実践、『現地調査』による記録」の考え方を引き継ぎ、「宇田氏の原資料の発掘、さまざまな手記類の調査、全国の体験者からの通報、現地住民の聞き取り」による調査の紹介は、原爆被害への向き合い方を教えていただける内容でした。

複合災害の危険性についての話もありましたが、ここでは省略します。

最後に「一人ひとりの人間が、複合災害に巻き込まれると本当に大変なことになる。一人ひとりが、それに巻き込まれたらどんなことになるか、調査し、記録することが大切だ」ということを強調されて講演は終わりました。

「空白の天気図」を読み直し、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」(来年2月29日まで開催)にもう一度出かけたいと思わされる講演会でした。

いのちとうとし

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2023年10月28日 (土)

紙屋町シャレオ「古本まつり」あと二日

紙屋町シャレオで21日から始まった「第30回古本まつり」の会期もあと二日(29日まで)となりました。

毎回のことですが、私も2度ほど会場を訪れ、「何か珍しい本はないか」と物色しました。なかなかこれはと思うものに出合うことが少なくなり、今回は2冊にとどまりました。

1冊は、以前購入したことがあったのに、なぜがわが家の書棚から消えてしまいネットなどでずっと探していた「ヒロシマの女たち」です。1987年の発刊です。1998年には「続ヒロシマの女たち」が発刊されていますが、この「ヒロシマの女たち」で取上げられている人たちの方が、懐かしいというか、改めて足跡をたどりたいなと思う初期の原水禁運動を担ってきた人が多く登場します。幾人かの名前を挙げます。栗原貞子、日詰忍、松原美代子、小西信子、伊藤サカエ、山岡美智子、節子・サーロー、個人ではないのですが、原水爆禁止広島母の会、デルタ・女の会などです。目次を読めば、この他にもこの人のことも知りたいと思う何人かの名前があります。

ようやく入手できた貴重な本です。

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もう1冊は、「占領されたスクリーン わが戦後史」です。1975年に発刊されていますが、ネットや古書目録などを含め初めて目にする本です。著者は岩崎昶さんです。目次を見ると「大本営と原爆」「原爆映画の運命」「原爆と人種差別」「原爆ニュース第一号」「原爆記録映画の発端」など、興味を引かれる文字が並んでいましたので、とにかく買っておこうと購入したものです。

あとがきには次のように書かれています。「とにかく、とりあえず、戦後の記録だけでもまとめてみたのがこの書物である。戦後といっても、終戦からわずか数年間、袖井林二郎氏のことばを拝借すれば『マッカーサーの二千日』の間に限り、しかも主として私自身の直接体験に限った。私ひとりしか知らない出来事をこの際活字の形で記録しておこうと考えた。米軍の占領が日本で何を行ったか、そして何を遺していったのか、それを映画という場面で受け止めたひとりの人間の証言として定着しておきたかった。」

読むのが少し楽しみです。

今回の「古本まつり」は節目の30回です。全く新しいデザインのそしてどこかで見たことのあるタッチで描かれたポスターができあがっています。

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出店店舗の中でも中心的な役割を果たしているアカデミイ書店の話しによれば、「節目の古本まつりなので、こうの史代さんにお願いしたところ、快く引き受けていただき、原画が届き、今までにないポスターができあがりました」と、うれしそうに教えてくれました。

本を購入すると、はがき大に縮小印刷されたものを一緒の付けてくれます。もちろん買わなくてもくれると思います。

あと二日、出かけてみて下さい。思いがけない本に出合うことができるかも知れません。

こうの史代さんの原画は、アカデミイ書店本店(福屋の西隣)のショウウインドウにしばらく展示されています。こちらにもどうぞ。

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2023年8月16日 (水)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

終戦記念日の8月15日、今年も「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、袋町のひとまちプラザで、午後2時から開催されました。

この「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は、2002年8月15日に5人の有志によって元安橋のたもとの路上で、沖縄県人会の人たち数人が三線片手に「沖縄を返せ!沖縄に返せ」を歌い、女子生徒の「ひろしまの空」(林幸子・作)の朗読などから始まったものです。翌年からは、原爆ドームの東側・原民喜詩碑付近で朗読を中心に歌や演奏の青空集会が行われてきましたが、2013年から屋内での実施となりました。

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今年の主催者は、広島文学資料保全の会、広島花幻忌の会、四國五郎追悼の会の三団体です。

広島文学資料保全の会の土屋時子さんの司会で会はスタート。全員で黙祷した後、オープニングは、鎮魂の願いを込めたチャンゴの演奏です。演奏者は、友人のペ・ハクテさん。

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後で聞くと演奏した曲は自作とのことでした。

今年の「市民のつどい」は、サブタイトルに「グランド・ゼロの記憶 被爆作家8月6日の記録」でした。全体が、1部、2部、3部となっていましたが、全体を通してユネスコ遺産登録をめざしている原爆文学資料の4人の作家を中心にして構成されていました。

1部は、恒例の原爆作品の朗読です。

原民喜は、原爆被爆時のノートの一部、原民喜詩碑の銘文、詩「永遠のみどり」です。

大田洋子は、「屍の街」の一節。

栗原貞子は、「生ましめんかな」、「ヒロシマというとき」です。

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峠三吉は、「原爆詩集」より「序」、「8月6日」、「影」、「呼びかけ」です。

何度も聞いたものもありますが、今回も新鮮な気持ちで聞きました。

2部は、広大名誉教授で広島文学資料保全の会顧問の水島裕雅先生の講演「ヒロシマに文学資料館を設立する意義と課題」です。

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・広島の原爆資料の重要性 ・広島中央図書館に寄贈した約2万点とその後に収集された数万点の文学資料が「広島文学資料室」に納められているが、死蔵の状態 ・1981年の広島平和記念館主催の「原民喜展」で初めて原爆文学資料に接し、特に「原爆被災時のノート」に出会ったとき受けた強い感銘 ・今年一月に発表された「世界終末時計」が、後90秒となったことの危機感 ・もし文学館ができたら予想以上に核戦争が迫っている現在、世界の人々が広島を訪れ、原爆資料館に寄り、次に「言葉館」としての文学館を訪れることで、じっくりと人間の過去と未来に思いを寄せて、自分は何をすべきか、他の人に何を伝えるべきか考えてほしい ・広島の文学は、原爆だけでなく頼山陽の頃から現代に至るまで日本文学に大きな影響を与えている。例えば児童文学の鈴木三重吉、新劇運動の中心的存在である幼い顔ロルはいずれも広島市出身 ・今回広島の原爆文学資料がユネスコの「世界の遺産」に登録されれば、文学館の役割も大きくなる

そういう内容でした。

3部は、「ユネスコ「世界の遺産」登録申請の歩み」について、広大名誉教授で広島文学資料保全の会幹事の成定薫先生が、報告。これまでの2回の反省を生かし、申請書作成作業が進んでいるとのことでした。今回の申請では、新たに大田洋子の「屍の街」の初稿・原稿が加わったことが詳記されました。

もう一つの報告は、新たに登録資料に加わった「大田洋子『屍の街』(自筆原稿)」について、広島文学資料保全の会事務局次長川口悠介さんが解説。

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大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、現在日本近代文学館に所蔵されていること、白島九軒町で被爆し、3日間河原で野宿した後、佐伯郡玖島に逃れ執筆をはじめ、同じ年の11月に脱稿し出版しようとしたが占領下のプレスコードによって一部削除され、ようやく出版、そして1950年になって削除部分を増補し、大幅に訂正されて出版されたことなどが紹介されました。大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、貴重な原爆資料だということです。

いろいろと調べてみたいことが出てきた今年の「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」でした。

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2023年7月 9日 (日)

柳田邦男著「空白の天気図」ー黒い雨

4月4日のブログ「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の最後に「これを機会に『空白の天気図』を読み直したいと思っています。」と書きましたが、ようやく柳田邦男著「空白の天気図」を読み終えました。

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手元にあったのは、新潮文庫の初版(昭和56年7月25日発行)です。

ずいぶん前に一度は読んだことがあったはずですが、「あっこんなことが書いてあったのだ」と思う場面の数々に出会いました。

特にその思いを強くしたのが、「黒い雨」のタイトルの付いた第5章です。

柳田さんは、この著作の中で「黒い雨被爆者」の命運を分けることになった「宇田雨域」が、どういう経過を経て調査され、決定したのかを詳細に記述しています。

もちろんその後の「黒い雨訴訟」では、この宇田雨域が大きな争点となるのですが、私が関心を持ったのは、「黒い雨の降雨地域」の調査することになったきっかけです。

「空白の天気図」の中では、その時の様子が次のように記されています。少し長いのですが、引用します。

「宇田は、原爆で皆実町の自宅が破壊されたため、原爆後は爆心地から西に4.2粁程離れた郊外の高須に移り住んでいた。子供は三人いたが、そのうち一人だけ親許を離れて疎開していた小学校六年生の次男が、十月になって疎開先から帰ってきた。ところが、その次男が、広島に帰ってまもなく髪の毛が脱ける脱毛症状を起こした。高須から己斐にかけての一帯では、脱毛したとき下痢をしたという話をよく耳にしたので、宇田は次男も残留放射能にやられたに違いないと心配した。それにしても二ヶ月も経っているのにおかしいと思っていたところへ、近所に理化学研究所の調査班が残留放射能の調査にやって来た。調査班は、理研仁科研究室の宮崎友喜雄と佐々木忠義という二人の若手研究員だった。宇田は、仁科研究室の人たちと顔見知りだったので、自宅へ招いて、昼食をふるまった。

宇田は、宮崎、佐々木の二人に、原爆のときは広島に居なかった自分の次男が最近疎開先から帰ったら急に脱毛したのだが、このあたりはまで強い放射能が残っているのだろうか、と尋ねた。『この付近の泥を測定しますと、どうもかなりかなり高い放射能の値を示しています。直後に降った雨で放射能が運ばれてきたようです。ひとつ先生のお宅も測ってみましょうか』と、宮崎が言った。二人は携帯用の測定器機をもっていたので、宇田の家のまわりをあちこち測定してみた。驚いたことに、雨戸にこびりついた泥から非常に強い放射能が出ていることが発見された。その雨戸は、原爆のとき爆風で庭に吹き飛ばされ、間もなく降って来た黒ずんだ雨に打たれて、雨水中の泥分がこびりついていたのだった。」

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赤色の部分が宇田雨域

その後宇田は、黒い雨の調査の重要性について台員たちに次のように説明した。「黒い雨が強い放射能を帯びた泥を含んでいたとするなら、雨がどのように発生し、どのような地域にどれぐらい降ったのかを明らかにすることは、単に原爆に伴う気象現象の変化を解明するのに役立つばかりでなく、放射能の影響範囲と影響度を調べるためにも重要な資料となる筈だ」

当時の少数の気象台員による調査を元にした「宇田雨域」が、黒い雨被爆者の拡大の大きな阻害になった(といっても、その責任は、宇田報告にあるのではなく、頑なに黒い雨降雨地域の拡大を拒んだ国の責任が問われるべき)のも事実ですが、もし宇田の「黒い雨への疑問」がなかったら、黒い雨の被爆者を救済する道は本当に開けたのだろうか、との思いをこの本を読みながら感じました。

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2023年5月 9日 (火)

精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ

「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」

この言葉は、1962年(昭和37年)4月20日から始まった昼夜連続無期限の核実験抗議の坐りこみに参加された森滝市郎先生が、反核運動の「さとり」として、全世界に向かって宣言(注:先生の言葉)されたものです。今、この「さとり」は、核実験抗議の坐りこみの理念となっています。

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坐りこんでいる前を往ったり来たりしていた小さな女の子の「座とっちゃ止められすまいでえ」のとのつぶやきの問いに対し、見つけ出された回答がこの言葉でした。

この思索の経緯については、先に紹介した「座りこみ10年の『前史』と理念」の中で詳しく紹介され、その後の森滝先生の著書の中に収録されているので、私も何度も読み返した文章ですが、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

今日の話は、この「さとり」に使われている「精神的原子」という言葉の由来についてです。

私自身は長く、座りこみの「さとり」から生まれた言葉だと思っていました。しかし、最近になって改めて著作を読み直してみると10年も前に「精神的原子」につながる言葉を使われていたことがわかりました。

そのきっかけは、書棚にあった「平和をもとめて 長田新論文・追悼記」を最近手にした時です。この表紙の題字「平和をもとめて」は、森滝先生が書かれたものです。

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この中で森滝先生も「幼き神の子の声を聞け」と題した「追悼記」を書かれています。内容は、長田新先生が、昭和26年(1951年)に広島市内の子どもたちから原爆体験の作文を集めて編集出版された「原爆の子」(注:現在は岩波文庫として発刊)に森滝先生の長男、長女が深くかかわったことなどについて書かれています。そして、翌昭和27年(1952年)2月27日に長田先生の呼びかけで原爆の作文を書いた子どもたちをねぎらう集会が開催され、その集会が自然発生的に「原爆の子友の会」の発会式となったことを紹介されています。

その発会式で、森滝先生は父兄(注:原文のまま)代表として挨拶をされたのですが、「精神的原子の連鎖反応」のつながる次のようなあいさつをされています。その一部を引用します。

「原子爆弾のあの大音響には私もびっくりしたのですが、考えて見ればしかし、その音響はたかだか230里位しか聞こえなかったのであります。ところが長田教授が発見し、結集された子供たちの精神的原子爆弾の音響は世界中にひびきわたったのであります。しかもかれはのろいと破壊の大音響であり、これはすくいと平和の大音声であります。小さきものに巨大な力がひそむことの発見という点では物理学的発見も教育学的発見も同じでありますが、精神的原子力の発見を伴わない物理的原子力の発見は人類の破滅を招く以外の何ものでもありません。」

「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」のさとりが生まれた10年前に、すでに森滝先生の思想に「精神的原子」(ここではまだ「精神的原子力」となっていますが)という考え方があったと考えるのは、私の考えすぎでしょうか。

この「原爆の子友の会」の発会式のあいさつ文は、「長田先生から後日あの挨拶を是非書いておいてくれないかと熱心に頼まれましたので、私はそれを文章化してお届けしました。」ため、きちんとした文章として残っています。

「平和をもとめて 長田新論文・追悼記」の発行年は、「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」の理念を確立された年の1962年の3月25日となっています。何か深い縁を感じます。

森滝先生の長田新先生への追悼記は、「核絶対否定への歩み」(広島県原水禁1994年3月25日発刊)には、「幼き神の子の声を聞け」のタイトルで収録されていますが、「核と人類は共存できない」(2015年8月6日発刊)には、残念ながら収録されていません。

「核絶対否定への歩み」は、森滝先生が生存中に編集された本ですから、ここに「原爆の子友の会発会式のあいさつ」が収録されているということは、先生のとって大切な文章だったことを示していると考えてよいと思います。

いのちとうとし

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2023年1月27日 (金)

第28回紙屋町シャレオ古本まつり

毎年1月に開催される(昨年はコロナの影響で延期となり5月に実施)「紙屋町地下街シャレオの古本まつり」が、今年は1月21日からスタートし、明後日29日まで開催されています。

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私は、いつものように初日に行きましたが、今回は、私が重点的に見て歩く郷土史関係のコーナーの棚がずいぶん小さくなっていました。ちょっと期待外れです。

初日には、買いたいなと思う本を見つけることができませんでしたが、24日に改めて足を運び、今度はすべての棚をゆっくりと見て回りました。

1冊だけ見つかりました。本のタイトルは「わが国の軍備縮小に身命を捧げた 加藤友三郎」で、著者は田辺良平となっています。この本は、2004年(平成16年)に発行された新しい本ですが、初めて目にしました。

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加藤友三郎については、1月4日のブログ加藤友三郎生誕地碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)を書いた時から、もう少し詳しく知りたいと思っていましたので、すぐに手に取りました。

この本は、発行時の定価は「1000円」とですが、裏表紙裏に貼られた値札には「1500円」と書かれています。少し高いかなとも思ったのですが、加藤友三郎の名前は、秋葉さんの話の中によく登場しますので、ずっと気になっていましたので、これも巡り会わせと思い、購入することにしました。今回はこの一冊のみです。

棚から引き出して本文の「はじめに」を読むと、著者は、どうも私たちの運動には批判的な立場のようですが、生い立ちを含め、かなり詳しく加藤友三郎のことが書かれているようですので、全体を読むのが楽しみです。

この本の中には、加藤友三郎の生涯を記した「豊田穣著『蒼茫の海』」の一部が引用されていますので、この本も読んでみようとこちらは図書館で借りることにしました。

「本も整理し、少しずつ減らさなければ」と思っていますが、珍しい本があるとついつい手にしてしまい、蔵書を減らすということは、なかなか難しいことです。

いのちとうとし

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2023年1月25日 (水)

忘れてはならないテニアン島

平和公園やその周辺の碑めぐり案内をする時、必ず行くところに爆心地跡があります。島病院のところです。

太平洋マリアナ諸島の中に在るテニアン島、太平洋戦争末期の米軍基地として原子爆弾リトルボーイを搭載したB29エノラゲイ号が出撃したところと説明をする場所です。僕の頭の中でのテニアンの歴史は、エノラゲイ号が出撃した1945年8月6日の早朝からでした。

吉永直登(よしなが なおと)さんの著書「テニアン-太平洋から日本を見つめ続ける島」を読みました。これを読んで、自らの無知をとっても恥ずかしく思うとともに、テニアンの歴史の悲しさに打ちのめされた気持ちになりました。

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マリアナ諸島に人が定住生活を始めたのは、遺跡調査などで今から3500年前頃だそうです。テニアンは日本の委任統治下にあって、日本人が住みついたのは明治時代頃だと言われてます。最初は移民県であった沖縄の人たちが多かったのようです。

昭和初期、沖縄からテニアンに隣りの島サイパンへの直行船便が開設され、1週間程度で行けたそうです。しかし便数も少なく、多くの人は本土経由のルートを使いました。テニアン元在住者の思い出によると、テニアンへの行き方を次のように書いています。

「奄美諸島を経由して鹿児島まで船で2泊3日、鹿児島で旅館に2泊ぐらいした後、鹿児島から福岡県門司市まで汽車で向かった。船の出発待ちで3泊した後、門司港から船に乗り、神戸経由で横浜に着いた。横浜で2,3泊し、サイパンに向け出港した」という工程を書いているのです。直行船便の倍以上の日時を使って行ってるのです。

これだけの行程を使いながらテニアンに着いた人たち、そこで従事した仕事はサトウキビの栽培だったそうです。しかし最初の頃の移民者の仕事は、広大なジャングルの開墾、整備作業という重労働から始まったのです。

やがて1929(昭和4)年以降、テニアンの海岸通りには学校や公共機関を建ち始めたのです。これらの建物が建ち並ぶ通りは、その後「スズラン通り」と名付けられ、菓子屋、時計屋、自転車屋、床屋、歯医者…などが建ち並んだのです。

終戦の2年前の1943年には人口が6101人に膨らんだとされています。もちろん沖縄の人だけでなく、「本土側」からの人も加わり、熱帯の島に突然現れた「日本の地方小都市」に発展したと書かれています。

そして1941年12月から始まった太平洋戦争、平和だったテニアンが戦争開始から約2年後過ぎから、米軍の総攻撃を受けたのです。その時の様子について元海軍兵士だった人は次のように書いています。

「ジャングルに飛び込んで私は目をみはった。おびただしい死骸が打ちすてられたようにころがり、腐って、ハエとウジが群がりついている。かなたの木陰に、こなたの岩陰にと、うつろな目をした女が腰かけ、老人がうずくまり、子どもが寄りかかっている」と。多くの人が岬から海に飛び込むなどして、自らが死を選んだのです。

1944年8月1日、テニアンは米軍に占領され島には星条旗が掲げられ、それから急ピッチで基地として様変わりの道を歩むことになったのです。それにしても、逆算すれば戦争そのものが終了する1年以上前にテニアンの日本人の歴史は終えたのですが、日本政府はそれを知っているのでしょうが、まさに「見て見ぬふり」で、本土側では「頑張ってる 頑張ってる」の嘘宣伝を繰り返しているようで、そのことがどうしても許せないのです。

そして米本土から極秘裏に原子爆弾が輸送され、ヒロシマ・ナガサキとなったのです。

「あの戦争さえなければ」

「貧しかったが、楽しかった」

テニアンの「はじめに」に書かれている言葉です。

今やテニアンは、サイパンやグアムと並び日本から容易に行ける観光リゾート地となっていますが、忘れてはならない悲劇の歴史でもありますね。

吉永直登さん著「テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島(出版社 あけび書房」、是非とも読んでいただきたいと思います。

木原省治

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2022年11月29日 (火)

原爆納骨安置所と佐伯敏子さん

26日(土)午前10時からアステールプラザで開催されたワールドフレンドシップセンターの「Hirosihimaをつ・た・え・る基礎講座」・「中川幹朗さんに聴く2カ月連続企画『原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』」に参加しました。10月は、フィールドワークが行われたようです。

今回の講師であるヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんが編集した「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」が発刊されたことを10月21日の中国新聞「小山田浩子の本棚掘り」で知り、この本を入手したいと思っていました。

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そう思っていたところに届いた東京の竹内良男さんの「ヒロシマ通信」1820号(11月20日)にワールドフレンドシップセンターの企画が紹介されていましたので、早速申し込みをするとともに、中川さんにも電話を入れ、「証言集」を申し込みました。

当日の中川さんの話は、「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」に出てくる話を中心に、中川さんと佐伯敏子さんとのかかわりなど、わかりやすい話が続きました。講演が始まる前に中川さんからこの本を入手し、本を見ながら講演を聞くことができましたので、理解が深まったような気がします。といっても、ここで全てを紹介することはできません。

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一番印象に残ってことは、原爆納骨安置所(原爆供養塔)に納められた遺骨の遺族探しの話でした。名前が分かっていながら遺族のもとに帰ることのできない遺骨の引き取り手を探し始めた佐伯さんは、わずか半年の間で10人の遺骨を遺族のもとへ返すことができました。その佐伯さんの行動が、広島市を動かし昭和50年(1975年)、被爆30周年事業として「原爆供養塔の納骨名簿」が一枚の大きな紙に印刷されて県内だけでなく全国の自治体に送られ、一定期間、各役場の掲示板に掲示されることになったのです。それは、今も続いています。

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中川さんの話の中に、何度も堀川惠子著「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」が登場しました。私も読んだことのある本ですが、中川さんの話を聞くまで、すっかり忘れていました。

帰宅後、「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」を棚から取り出し、ページをくくりました。「第4章 原爆供養塔とともに」で佐伯さんの遺骨の遺族探しの様子が詳しく記載されていますが、そこに1975年から始まった「原爆供養塔の納骨名簿」のことも紹介されています。「たまたま掲示板の前を通りかかって亡き人の名前を見つけたという遺族が、全国から何組も訪れた。この年だけで107人の遺骨が遺族のもとに帰っている。」

佐伯さんの行動が、どれだけ多くの遺骨を遺族のものに返すことにつながったのか、感動する思いで、佐伯さんと身近に接してこられた中川さんの話を聞きました。

「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」には、2017年12月3日に東京で行われた「佐伯敏子さんを偲ぶ会」での参列者の話しとともに、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の最初の出版「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」が再録されています。2004年に発刊されたこの本は未入手でしたので、今回の出版は、私にとってありがたいものとなりました。

いのちとうとし

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2022年11月17日 (木)

紙屋町シャレオ古本まつり

今年2回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、15日から24日までの会期で開催されています。私は、初日の15日に会場に行ってきました。

私が、この古書展で探す本は、歴史関係、特に郷土史関係の本です。いつもこの種の本を出店している店は決まっていますので、その店の棚を探します。

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金座街と紙屋町に店を構えているアカディミー書店も歴史書や郷土史や被爆体験記などを並べていますが、こちらは週に一度はのぞく店ですので、他の店の棚から探していきます。

いつも何か珍しい本を見つけることができる神鳥書店も出店していますので、まずその棚から探し始めました。

残念ながら、今回は「これは」という本を見つけることはできませんので、後は順番にそれらしい本が置かれている棚を探します。そしてその後、ゆっくりと全部の棚(文庫本を除く)を一応探して回りましたが、残念ながら私が購入したいと思う本に出合うことはできませんでした。

それでも気になった本が一冊ありました。「安田学園70年史」です。被爆についての記述を探しました。あるにはあったのですが、体験記が2編あるだけでその他の内容は広島原爆戦災誌で読んでいた内容とほとんど変わりません。この学校の被爆体験集や追悼集などを見たことがありませんので、少し心が動いたのですが、結局購入は見送ることにしました。

「希少本を手に入れるためには」とほぼ毎回初日に古書展をのぞいていますが、収穫ゼロだったのは今回が初めてです。

各店とも、毎日追加の本を棚に入れますので、そこに期待したいと思いますが、私が求めるジャンルの本は、希少本がほとんどですので、追加されることはほとんどありません。

古本まつりの楽しみは、店舗が遠くて普段行けない店も多く参加していることです。あまり期待はできませんが、1回だけであきらめず、会期中にもう一、二度行ってみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月 3日 (土)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその3

この書籍「核絶対否定の歩み」は、残念ながら森瀧先生が亡くなられた(1994年1月25日没)後の1994年3月に発刊されています。しかし、この本の出版計画は、森瀧先生ご存命中に進んでいましたので、この本の編集の中心となった下畠準三さんが、森滝先生の生前中に何度もご自宅に足を運び、先生と一緒「何を掲載するか」を含め、検討し作業を進められ、生前にほぼ完成していたものです。ですから、当然森瀧先生の了解を得て編集発刊されたものです。

残念ながら下畠さんは、今年5月に永眠されましたので、いまでは直接その詳細を確認することはできません

この「核絶対否定の歩み」の編集者ともいえる下畠さんは、全電通広島被爆者連絡協議会が1970年から1983年までの間に第10集まで発行した原爆体験記「原子雲の下に生きつづけて」の編集責任者でもありました。

この「原子雲の下に生きつづけて」には、森瀧先生が書かれた題字が使われ、5集までの全てには、先生の「巻頭言」ともいえる文章が寄せられていますので、森瀧先生と下畠さんは、深いつながりがあったことがわかります。

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そのことは、「原子雲の下に生きつづけて」の第4集に、森瀧先生と下畠さんの対談が収録されていることからも理解できます。

その対談の中で、下畠さんの「それは先生の哲学的思索の結論ですから、短い時間に変わっていくというものではないと思いますし、まして、根本的命題、先生の体系、原理というものでしょうから・・・」との問いに森瀧先生は「人類は生きねばならん、これが今の私の至上命令ですよ、倫理学の、平和の倫理の・・・」「それから原水禁運動そのものも、ひらきなおって大きく言えば、人類の生命というもの・・・」と答えられています。

さらに対談の最後の部分では、「私の戦後の発想法の人類という概念がものすごく実在化して、この、人類の運命などと昔いったら、大きなことをいうなってことになって抽象的になったのですが、いまはそうではないでしょう。原爆だけでもそうだったのが、今や世界的な公害になって来ますと、まさに人類の運命を考えざるを得ないようになってきた。人類は生きつづけなければならんという命題をたててみたりしますとね、」

そのことは1976年に日本評論社から発刊された「森瀧市郎反核30年」の前書きに次のように記されていることからもわかります。

「また、広島大学在職中に学生たちに乞われるままに書いたものや、広島の諸誌・諸新聞に寄せた折々の感想・提言などの中に『人類は生きねばならぬ』という私の根本命題にそった訴えのいくつかを加えた。私は、被爆後30年間殆ど宿命的に辿った歩みが、核絶対否定の志念(原文のまま)と行動であったことを核時代の世界人類に訴えたいという願いをいだきつつこの書を世におくる。」

もう一つ紹介しておきたいのは、同じ「森瀧市郎反核30年」の書名ともなった「反核30年」と題した文(全電通新聞=全電通労働組合機関紙=に1973年10月から1975年8月まで70回のわたる連載)の「核時代の道徳的義務」の項で次のように記されていることです。

「第4回大会(1958年)の宣言に『道徳的義務の分科会』の討議の要旨を盛ろうとして、私にその部分の起草を求めた。それは極めて簡潔でなければならなかった。曰く、『全人類が生死を共にしなければならない原子力時代に於いては自滅を防ぎ共存を促進することは人類の至上かつ普遍的な義務である。この義務は生命への深い畏敬と人類共同体の保存への願望に根がしている』と。」

「人類」という考え方は、森瀧先生にとっては至上のことだったと推察できます。

いのちとうとし

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