「広島ブログ」

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書籍・雑誌

2022年6月 1日 (水)

紙屋町シャレオ古本まつり

第26回紙屋町シャレオ古本まつりが、紙屋町の地下街シャレオ中央広場で、5月30日から明日6月2日まで開催されています。

今年は、1月に続いて2度目の開催ですが、今回は4日間とこれまでで最も短い会期となっています。出店舗数もいつもよりやや少なく、9店舗の参加です。

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私は、雨が降っていましたが、初日の30日のオープン時(10時)に行ってきました。

私がめざすのは、郷土史関係のコーナーです。9店舗のうち3店舗が、このコーナーを設けています。郷土史といっても様々ですが、私が探すのは、原爆関係と軍都廣島に関するものです。学校史などにも被爆時のことや復興期のことが書かれていますので、それらが目に付くと一冊一冊、ザーッと目を通します。古い絵ハガキも、積まれていますので、一枚一枚丁寧にみていきます。

古い資料や冊子は、当然のことですが、一点ものです。今回見逃すと、次はいつ巡り合えるかわかりません(というか、再び手にすることはまれ)ので、気を付けて棚を追っていきます。戦前の資料や被爆直後に発行されたものは、少し値が高いなと思っても、見つけた時にすぐ購入するのが鉄則です。

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店舗が少ないのでフロアーに余裕があります

1時間あまり時間をかけて、ゆっくりと探して歩きましたが、残念ながら今回は、買っておかなければと思うものを見つけることはできませんでした。

最近は、だんだんとそうした本を見つけることが少なくなっています。1月の時に購入したのは、昭和9年(1934年)11月1日に廣島懸が発行した「明治二十七・八年戦役 廣島大本營誌」の1冊だけでした。日清戦争時広島に置かれた大本営に関する本は、2冊ほど既に入手していますが、広島県という公的機関が発行した資料は初めて目にするものでしたので、躊躇なく購入しました。

郷土史コーナーを設けている店の一つ、アカディミー書店は、よく訪れる店ですが、他の2店舗は、遠くにあるため店を訪れることができませんので、「古本まつり」には、時々アッと思うような本を出品していることがありますので、いつも楽しみにしている店です。

「古本まつり」には、映画のポスター、乗り物関係のコーナーなど専門分野に特化した品物を出店するお店や文庫本コーナー、300円・500円均一コーナーなどもありますので、一度出かけてみるのも楽しいと思います。

郷土史コーナーや専門書などは、1冊ものが多くほとんど補充がありませんが、その他の棚は毎日新しい本が補充されていますので、何度足を運んでも新しい発見があると思います。

私も会期中にもう一度行って見ようと思っています。

いのちとうとし

【編集者】毎月1の付く日(1日、11日、21日)は、イライザさんの原稿を掲載していましたが、イライザさんが参議院選挙に立候補することになり多忙となりましたので、当分の間このブログの原稿は、中止することになりました。イライザさんは、ヒロシマの心を世界にを毎日更新されていますので、ぜひそちらをお読みください。

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2021年12月12日 (日)

『ドン・キホーテ』が語る「歴史」とは、

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……歴史家たる者、正確を旨とし、真実に忠実でなければならない。あくまで客観的で、利害、愛憎、恐怖、いずれによっても筆を曲げてはならないからである。なんといっても歴史は真実の母、時の好敵手、行為の記録、過去の証人、現在にとっての手本にして警告、未来へ向けての戒めなのだ。……(『セルバンテス全集第2巻 ドン・キホーテ』〔前篇〕、第九章p,111、水声社)

「ドン・キホーテ」は有名だ。ミゲル・デ・セルバンテスの『才知豊かなる郷士 ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』を読んでなくても、とにかく「ドン・キホーテ」は知ってるだろう。

2002年、ノルウェーのブッククラブ(ノーベル研究所)が、54ヵ国の100人の著名人に「歴史上、もっとも素晴らしい文学作品」10篇の推薦を依頼し、その集計結果で、一番の文学作品として選ばれたのが『ドン・キホーテ』だそうだ。

ミゲル・デ・セルバンテスによって1605年に生まれたあの『ドン・キホーテ』で、著者が歴史について語る場面がある。歴史は、真実の母であり、時の好敵手で、行為の記録、過去の証人で、現在にとっての手本にして警告であり、未来へ向けての戒めであると。

歴史というのは墨塗りで消そうとして消されるものではない。都合が悪いといって改ざんをしても、「真実の母たる歴史」はその改ざんした行為までも記録し、過去の証人となり、現在への警告になる。それこそが、未来に向けての「過ちは繰返しませぬ」という戒めになる。

※エスパーニャ語では‹歴史›も‹物語›も同じhistoriaであり、人によって語られるもの‘という意味だそうです。

 

李 昇勲

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2021年11月24日 (水)

「李実根会長追悼集」発刊記念会

19日の午後6時半から、広島留学生会館で「李実根会長追悼集」出版記念会が開催されました。

1975年8月2日の結成以来広島県朝鮮人被爆者協議会の会長を務め、昨年3月25日、享年90歳で永眠された李実根さん偲ぶため、朝鮮人被爆者協議会によって「追悼集」の発刊作業が進められてきました。その「追悼集」が、李さん夫婦の結婚70周年の節目の日である「11月18日」に発刊されました。ですから出版記念会も「18日に」ということで準備されましたが、会場の都合で19日の開催となりました。

人が集い楽しく語り合うことが好きだった李実根さんの「追悼集」出版記念会でしたが、コロナ過ということもあり、参加者も50人に限定せざるを得ませんでした。当日の来賓あいさつも秋葉忠利前広島市長、宗教者吉川徹忍さんの二人のみでした。来賓のあいさつの前に、この会のために大小田沙和子さんが作成したDVDの上映があり、元気だった李さんの姿を偲ぶことができました。

発刊された「李実根会長追悼集」の内容を少しだけ紹介します。

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巻頭には、李さんが原爆ドーム前に立つ写真とともに李さんの著書「PRIDE 共生への道~私とヒロシマ~」の一部が掲載されています。

「活動家は自分がいかなる環境にあっても毅然とした態度を取り続けることが肝心なのだ。どんな逆境にあっても動じることなく、その境遇を逆手にとって、自分に有利に働くように創意性を発揮した自らの待遇を変革させる運動を常に起こしていく主体性を持たねばならない。政治活動をする者にとっては、‟闘う姿勢“こそが生命線であり、それこそが自己やその集団を守る武器であるということが、その時に得た教訓であったのだ。」

短い文章ですが、私たちへの教訓となる一文です。

「発刊によせて」は、朝鮮総連広島県本部の呂世珍委員長、そして李実根さんの長男李英一さんの「根のある木には実りあれ」と題したお父さんへの思い溢れる文章が続きます。

「父がわが家に残したものは、3冊の本(「PRIDE」「白いチョゴリの被爆者」「アンニョンハシムニカ 李さん」)と、『価値ある生き方』という言葉です。」「「李実根―根ある木には実りありと付けられた父の名前。その根を枯らさぬように、代を継ぎ、遺志を守っていく覚悟であります。」

追悼集の中心は、生前李実根さんと様々な立場で関わってきた14人から寄せられた「在りし日の偲ぶ追悼文」です。5000回にも及んだといわれる被爆証言、講演のこと、旧高野町高暮ダムへの「朝鮮人強制労働犠牲者追悼碑」の建設、在朝被爆者問題、人間的な交わりなどなど、多様な内容となっていますので、様々な場で活躍された李さんの往時の姿を思い起こすことができます。私も「在朝被爆者と李実根さん」のタイトルで寄稿させていただきました。追悼文の後には、「広島から世界へ」「広島・日本と祖国をつなぐ」「家族の支えと共に」のタイトルごとに分類された写真の数々、「李実根会長の歩み」をたどる年表も付けられています。多くの人にぜひ一度手にしてほしいと思います。

この追悼集は、400部発行されましたが、うち200部を希望者に有料(1000円)で配布され、その売上金は、李さんの子どもたち孫たちが通った朝鮮学園に寄附されることになっています。

この出版記念会は、広島県朝鮮人被爆者協議会の総会も兼ねていましたので、李実根さんの跡を受ける新会長には、これまで理事長として李さんを支えてこられた金鎮湖さんが就任されることが決まりました。

いのちとうとし

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2021年10月24日 (日)

「戦争と平和を考える子どもの本展inヒロシマ2021」

22日の中国新聞で紹介された「子どもの本・九条の会」が主催する「戦争と平和を考える子どもの本展inヒロシマ2021」に行ってきました。会場は旧日本銀行広島支店です。

主催者の「子どもの本・九条の会」、広島では初めて聞く名前です。そのはず、2008年に設立された会ですが、活動の拠点は東京だということです。この展覧会、東京では毎年開催されているのですが、以前から希望が実り、今年ようやく広島での初めての開催が実現したそうです。

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会場には、戦争と平和をテーマにした国内外の絵本・児童書が、「核兵器と原発に関する本」「戦争と平和に関する本」「各地の空襲、平和についてのお話絵本」などのテーマごとに約300点展示されています。何冊かは見たことがある本もありましたが、初めての本がほとんどです。

展示されているのは本だけではなく、「おこりじぞう」など5冊の本の原画も展示されています。

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メインの会場の最初の展示は、今年7月22日に亡くなられた児童文学作家那須正幹さんを追悼するコーナーです。

テーブルに並べられた那須さんの多くの本と共に絵本「絵で読む広島の原爆」の原画が展示されています。絵の作者は、西村繁男さんです。この本は、私の書棚にも1冊ありますが、見開き2ページを使って1枚の絵が描かれています。ですから、原画も横長のかなりの大きさです。

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一枚は拡大して紹介したいのですが、「写真撮影は全体としてはOKですが、原画単品での撮影はできません」とのことですので、上写真から横長の大きさを想像してください。

次に移動します。那須さんのコーナーの奥に、気になる原画展示がありました。

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今年1月に発刊された絵本「いぬのふるさと」の原画です。作者は、絵・文とも鈴木邦弘さんです。置かれていた本のチラシには「あの日から10年―遠い町で一人ぼっちになった犬は、ある日、故郷をめざした。」と書かれ、さらに「原発事故の被災地に何度も足を運び、取材を重ねた著者にしか画けなかった絵本」と紹介されています。福島原発事故による被災地の今を描いた作品です。

ここでも原画そのものは写真撮影できませんので、絵の雰囲気を知ってもらうため、会場の置かれていた絵の一枚が使われているチラシを紹介します。

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この絵は、「福島10年 見えない放射能を描く」と題して、昨年6月30日から7月11日まで東京新聞に掲載されたものです。

この「子どもの本展」では、本や原画の展示と共に23日、24日の二日間はトークイベントも開催されます。

最終日の今日のトークイベントは、午前11時からの「『チンチン電車と女学生』の笹口里子さんの被爆証言」、15時からは「絵で読む広島の原爆」の原画作者西村繁男さんの講演など4つの企画が予定されています。

今日が最終日ですが、時間があれば、立ち寄っていただきたい展示会です。

いのちとうとし

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2021年7月 7日 (水)

「ヒロシマの空白 被爆75年」発刊

中国新聞が、2019年11月28日付で開始し20年3月まで連載した「ヒロシマの空白 被爆75年」が、再構成され1冊の本となって出版されました。

「『空白』を埋めていく」と題された前書きには、こう書かれています。「米軍が投下した広島原爆の犠牲者は「14万人±1万人』と言われているものの推計値に過ぎず、いまだに把握されていない死者が大勢いる。平和記念公園内の供養塔にに引き取り手がないまま安置された遺骨の人数や身元、被爆者を苦しめてきた放射線の健康被害―。原爆被害について分かっていないことは、あまりに多い。」

この連載が始まる前、担当記者の一人と同じことを話したことを思い出します。連載中から期待していましたので、毎回の記事を切り抜き、大切に保存してきました。埋もれていた広島の事実が掘り起こされた記事の連載に、興味が尽きることはありませんでした。

ですから、この連載がまとめられて本になればよいのにと期待していましたが、そのニュースを耳にすることはありませんでした。

ところが、この連載企画が、2020年の新聞協会賞を受賞したことが契機となり、今回再構成して出版することになったようです。

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写真グラフから始まる本書の内容については、大きな目次だけ紹介します。

 第1部「埋もれた名前」

 第2部「帰らぬ遺骨」

 第3部「さまよう資料」

 第4部「国の責任を問う」

 第5部「朝鮮半島の原爆被害者」

 第6部「つなぐ責務」

 第7部「75年後の夏」

 連載中によせられた写真を中心とした「街並み再現」

本は、A4版の少し大きめのサイズです。本文には、写真の映りが良くなるような紙が使われています。発行元のザメディアジョンに電話で、使われている紙を問うと「上はマットコートです。古い写真も多くあるので、出来るだけクリアに見えるようにとこの紙を使うことにしました」とのことです。ですから、新聞紙上とは違う写真を目にすることが出来ます。

奥付を見ると発行日は、6月23日となっていますが、初版の1500部は、すでに完売。8月6日も近いということで、増刷されることになっているようです。ひょっとするとすぐに入手できないかもしれませんが、ぜひ手にしてほしい本です。

私もこのブログを書くのに、何度かこの本には、お世話になりそうです。

いのちとうとし

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2021年6月17日 (木)

広銀本店1階 アンデルセンカフェで

「いのちとうとし」さんが、613日に書いておられた「広島銀行慰霊碑」に関連して。

広銀本店の慰霊碑、本店の東口(裏口)から出て、すぐ北側にあったので、私も写真撮りました。

今日は、建物の中を紹介します。

56日に新築オープンした広銀本店の1階、アンデルセンカフェ・イベントスペースがあります。

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奥のドアが東側出入口

 ここには、本がたくさん置いてあって、「自由にお読みください」とあるので、仕事帰りとか買い物途中に休憩して本を読んでいます。

自分では買わない本もあって、ちょこっと読むのには便利。

SDGsの本とか、Zoomの設定の本とか、広島関連の本とか。

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 最初に読んだのは、「戦争は女の顔をしていない」というコミック。

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(第二次大戦中にドイツ戦線に従軍した少女たちの証言をスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんがまとめたものを、小梅けいとさんがコミカライズしたもので、以前、三井マリ子さんが「買った」と紹介されていたので目に止まった。驚くことに、少女たちは自ら志願して従軍し、狙撃兵や衛生兵として戦闘に参加している。)

カフェは、使い捨てカップを使っているのと味がいまいちなのが残念だけど、トイレには、WWF(世界自然保護基金)のトイレットペーパーが置いてあって、ちょっといいな~

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 カフェ利用なしで、ちょっと休憩だけもOK。現在はコロナで18時までですが、通常は19時まで。

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東口から慰霊碑等のある外に出るとヤマボウシが満開でした。

(YOKO)

<編集記>6月13日の「広島銀行慰霊碑」を読んでいただいたYOKOさんから、素敵な写真とともにこの原稿が届きました。ありがとうございます。

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2021年5月18日 (火)

藤居平一さんとの出会い

昨日のブログを書きながら思い出したことがあります。藤居平一さんとの出会いです。

その出会いは、1992年に実施された参議院選挙です。この選挙は、自衛隊の海外派兵を初めて認める「PKO法」(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法))が、同年6月15日に国会で強行採決された成立した直後に行われた国政選挙です。この選挙には、様々な困難がありましたが、広島では「ヒロシマの心を国政に届ける」との強い思いで、栗原君子さんを擁立し、選挙を戦いました。

その選挙事務所に、激励に来ていただいたのが、藤居平一さんでした。

藤居さんは、1916年生れですから、当時76歳です。藤居さんは、若いとには、スイマーとして活躍され、長身だったようですが、晩年には長く糖尿病を患い、70代を超える頃から体が衰え、やせてしまわれたそうです。ですから私がお会いした時の印象は、やせ気味で、少し足が弱っている感じを受けたことを覚えています。栗原さん選挙事務所は、エレベーター無いビルの3階でしたので、健常者でも上り下りするのが大変でしたので、藤居さんにとっては、なおさらな事だったと思います。もちろん帰りには、タクシーに乗られるまで付き添ったのですが。

その頃は、藤居さんの姿を原水禁運動や被爆者運動の場で見ることはありませんでしたので、最初に訪れられた時は、どういう人なのか全く知らず「被爆者の方が応援に来ていただいた」くらいにしか受け止めていませんでした。確か、出された名刺に「藤居銘木 会長」の肩書があったと記憶していますので、原水禁運動や被爆者運動と関連付けて考えることはできなかったのです。「応援しているから」の一言と何枚かのチラシを持ち帰られたことを覚えています。そしてカンパの1万円を渡していただきました。この1万円カンパは、その後事務所を訪れる度に手渡されました。

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2度目の訪問だったでしょうか、コピーした資料の入った紙袋を持参指し、「勉強する気があれば読みなさい」と手渡されました。あともう一回持参されたと思います。選挙の最中でしたので、受け取りはしたものの、目を通すことはありませんでした。その紙袋の中味が、今にして思えば「原水禁運動や被爆者運動の初期のころ」の貴重な資料だったのです。その時にもまだ、藤居さんがどんな人なのかを充分には理解できていませんでした。

藤居さんは、その後何度か選挙事務所に来られたのですが、一度も原水禁運動や被爆者運動の話を伺うことはありませんでした。宮崎安男さんや近藤幸四郎さんから教えられて藤居さんのことを詳しく知ったのは、選挙が終わったのちのことです。申し訳ないことに、いただいた貴重な資料も今どこにあるのか、不明です。

藤居平一さんは、その4年後の1996年に逝去されました。あの出会いは実に貴重で大切なものだったにもかかわらず、何一つお話を聞くことが出来なかったというか、聞こうとしなかったのです。今となっては、取り戻すことのできない時間です。痛恨の思いを抱いています。

ただ今なら私が聞きたいなと思う藤居平一さんの証言は、昨日紹介した「広島平和科学」の19号、20号と、広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術センター(現在は、付属国際放射線情報センター)発行の「資料調査通信」(1981年から1984年)「まどうてくれ 藤居平一聞き書き(聞き手 宇吹暁)」として残されています。私は、「資料調査通信」の全冊を所有していますので、改めてじっくりと読み返したいと思います。そして機会があれば、その一部でも紹介したいと思います。

藤居平一さんのことを知るためにだれでも入手可能な本「まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる」(著者大塚茂樹)が、2011年に発刊されています。

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ただ、私が藤居平一さんのことを取り上げる契機となった中国からの救援金のことが、残念ながらこの本では「第2回原水爆禁止世界大会で巨額の救援金を提供した」と不正確に記載されています。その上、「中国からの救援金と原爆医療法成立との関係」については、全く触れられていませんので、運動の歴史を学ぶときには、少し注意して読まなければいけない部分もあります。でも藤居平一さんの人柄を知り、藤居さんと一緒に運動した被爆者の思いを知ることが出来る本ですので、ぜひ一度読んでみてください。

いのちとうとし

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2021年2月 9日 (火)

出雲の建物疎開

1月26日のブログ「広島被服支廠と出雲」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2021/01/post-17533b.html)で、島根県出雲市の建物疎開のことを次のように紹介しました。「終戦も近くなった7月9日には、島根県でも命令が出され、出雲市でも250戸の目標が立てられてようです。校名になっている『今市』は、出雲市の中心部、商店街が密集する地域の地名です。建物疎開の対象となったのは、この今市地区だと思います。完了目標は、8月20日だったようですので、実際に建物疎開作業がどこまで進んだのかわかりませんが、こんな田舎の都市にまで空襲の危険が迫っていたというのですから、戦争の継続などあり得なかったのです。この建物疎開が実際にどう進んだのかを、出雲在住の同級生に依頼し調べてもらうことにしました。」と。

同級生は、「ワン・ライン」という会社を立ち上げ、出雲市に拠点を置き、郷土出雲を紹介する本を中心に出版していますので、何か情報を持っているのではと思い、電話をしました。「建物疎開?調べて連絡するよ」との返事でしたが、すぐその日のうちに電話が入り「わが社で出した本に建物疎開のことを書いたものがあるので、そこをコピーして送るよ」との返事。翌日に、コピー2枚が入った封書が届きました。

出典は、ワン・ラインが、出雲市制50周年を記念して1992年に発行した写真集「出雲 思い出と飛躍」です。この本は、出版時に送ってもらっていましたので、わが家の書棚にありました。

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送られてきたコピーには、ページがきちんと映っていますので、写真集を開き確認しました。該当するページには、「戦火の陰に」のタイトルが付けられ、「戦死者の村葬」と「建物強制疎開」の様子が写真とともに掲載されています。「建物強制疎開」には、当時建物疎開の対象となった場所の地図が掲載されています。そこは、間違いなく、当時の出雲市の中心今市町です。

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右側は、現在の出雲市駅から250メートル北から始まり、現在の出雲市役所方面に230メートル余りが対象となっています。地図をよく見ると、ちょうどこのあたりから北側は道路が狭くなっていたため対象となったように思われます。左側は、上記の位置から東に280メートルほど離れた場所です。いずれも今市町の中心部です。ただ、これだけでは仮に空襲があった場合、どれだけの延焼を防ぐことができたかは、疑問です。地図の下側には、わかり難いのですが、建物疎開途中の街並みを写した写真も掲載されています。

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何時写した写真かわかりませんが、何故か軒先に日の丸の旗が出ているのが不思議です。

建物疎開の情報はこれだけでしたが、1ページ前のコピーも同封されていました。そのページには「銃後の守り」というタイトルが付けられ、3枚の写真が掲載されています。その3枚目は、「女学生も戦力」という見出しが付けられた、126日のブログで紹介した「被服支廠の学校工場」となった今市高等女学校の生徒の写真が掲載されています。

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解説文には「勤労奉仕などに励んでいた女学生も、19年には学校工場化要綱によって工員として働いた。この写真は、20年3月、今市高等女学校(現出雲高校)の卒業写真である。鉢巻きを締めモンペをはいて胸には住所・氏名・血液型を書いた名札を縫い付けている。彼女たちの青春も戦争の中にあった。」と書かれています。

解説にあるように「卒業写真」ですが、鉢巻き姿で映っているのにびっくりしました。学徒動員で作業中に原爆の犠牲となった女学生の集合写真を今までに何枚か見たことがありますが、鉢巻き姿で写った写真は見た記憶がありません。

鉢巻きの真ん中には、日の丸が描かれているように見えますが、よくよく見ると今市高等学校の校章(上の紋)だということがわかりました。卒業写真も鉢巻き姿ですので、毎日工場で働いている時も、鉢巻きを締めて作業をしていたことが想像できます。

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「のどかな田舎だ」と思っていた出雲にも、戦争が身近にあったことを今回初めて知ることになりました。

いのちとうとし

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2021年2月 3日 (水)

旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿

昨年、宇品線の時刻表を調べるため県立図書館を訪れた時、目に入り気になっている本がありました。その本のタイトルは「旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿」です。気になった第一は、「この中に朝鮮半島出身の軍人・軍属で原爆の犠牲になった人の名前があるのではないか」ということでした。この本は、1346ページに及ぶ大冊です。一応ざーっと目を通したのですが、死亡日が「1945.8.6」となっている戦死者の名前をその時には見つけることができませんでした。

ずっと気になっていましたので、改めてこの名簿を調査するために県立図書館を訪れました。本当は借りて帰ってゆっくり調べたかったのですが、「貸出禁止」の本でしたので、館内で調べるしかありません。

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一人ひとり調べる前に、そもそもこの本は、どんな資料をもとに作成されたのかが気になったものですから、本の終わりの付された解説を読むことからはじめました。と言うのも、この本は「菊池英昭編」と、個人によって編集されたものだったからです。しかし、解説部分の冒頭に「『非徴用死亡者連盟簿』(韓国財務部)の特徴」と小見出しがついた一節があり、そこにはこの名簿作成の「元資料が何か」がきちんと記されていました。少し長いのですが、理解を深めるため大切だと思う部分を引用します。

「韓国政府は、1971年1月、日本政府に対し、日本国によって軍人・軍属に召集または徴用され、死亡した者の名簿の交付要請を行った。71年9月4日、日本政府は要請にこたえるため名簿を引き渡した。日本政府は、南朝鮮(原文のまま)に『名簿』を引き渡した後も、名簿の公開を拒絶してきた。現在この『名簿』は、韓国政府の『政府記録保存所』で電算入力作業を終え、ホームページ上で、名前、生年月日、本籍地、死亡場所を入力し、検索することができる。2万1692名分となっている(金哲秀『朝鮮人軍人・軍属死亡者名簿の分析』)。『被徴用死亡者名簿』を編集したのは、韓国政府財務部である。この『被徴用死亡者名簿』のもととなった資料は、日本国政府から韓国政府にわたされた。この資料の名前は『旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿』と思われる。『被徴用死亡者連名簿』の各道の冒頭に、“旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿”と表示されているからだ。」

この文章いよって、この本は、日本政府から渡された「旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿」をもとに韓国政府が作成した「被徴用死亡者連名簿」を菊池さんが編集されたものだということがわかります。

その一部をコピーしました。

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見難いかもしれませんが、これを見ると、かなり詳細に一人ひとりの死亡状況を日本政府が把握していたことがわかります。別のページでは、死亡月日が、1946年になっている人もいますので、混乱の中でも日本政府が、記録していたことがわかります。朝鮮半島出身者に対する徴兵制が実施されたのは1944年からですから、当然のことですが、死亡時期は、1944年、45年となっています。この名簿を見れば、日本が、日本人の軍人・軍属に行った補償を朝鮮半島出身者にも行おうとすれば、すぐにでも実施が可能だということがわかります。

前置きが長くなりました。私が調べたかったことは、「広島に投下された原爆によって亡くなった朝鮮半島出身者が、この名簿の中に何人いるだろうか」ということでした。以前は、見つけることができなかったのですが、先に紹介した解説文の中ほどで「李鍝公殿下」の名前を見つけましたので、原爆犠牲者の名前が最低でも一人はあると思い、陸軍の8404名分を一人ひとり調べていきました。

名簿は、出身道毎(例えば、李鍝公は京畿道)に記載されていますので、丹念に探すしかありません。その結果、広島で原爆の犠牲となったことが明らかな人は、李鍝公を含めて7名でした。ただ李鍝公以外の名前は、全て創氏改名による日本名で記載されています。読みにくいかもしれませんが、上の資料の右から2番目の安村龍赫さんは、広島基町病院で亡くなっています。この部隊歩兵76連隊の他の兵士(左側につづく)は、「ミンダナオ島で死亡」となっていますので、病気か怪我治療中のため、広島基町病院に入院していた被爆したと考えられます。広島基町病院と記載されていますが、陸軍病院ではないかと思われます。「中国軍管区輜重補」には2名の名前があります。

7名の名前を見つけることができたのですが、「本当にこの7人だけだったのか?」「なぜこの7人の名前だけ残っているのか?」という新たな疑問が出てきます。少しでも原爆被害の実相にたどりつきたいと思ったのですが、その難しさを改め実感させられました。

一方で、わずかに7名かも知れませんが、軍人・軍属の犠牲者名簿の中に、原爆で犠牲になったことが明らかな名前が記されていることがわかりましたので、私がこだわっている日本人の軍人・軍属の原爆犠牲者の名前を明らかにできる資料があるのではないかという希望を持つこともできました。これからの課題です。

いのちとうとし

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2021年1月16日 (土)

稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」

13日に開催されて広島県原水禁常任理会で、このブログに毎月2回の原稿を寄せていただいている木原省治さんから一冊の本を薦められ、購入しました。

2020年12月31日に初版が発行された稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」です。

著者の稲岡さんは、毎年夏に開催される原水禁世界大会に大阪の仲間とともに参加されていますので、私も以前から知っています。原水禁大会広島大会では、いつも「ヒバクシャ」問題を取り上げる分科会に参加し、発言をされています。そして午後に開催される「ひろば『ヒバクを許さないつどい』」では、運営の役割を果たしてこられました。この「ヒバクを許さないつどい」は、稲岡さんたちの努力もあり、一昨年の被爆74周年原水禁大会で「Part20」(昨年は原水禁大会がオンラインとなったため開催できなかった)となるほど、継続して開催されています。

この本の「まえがき」には、びっくりすることが書かれていました。「昨2019年、被爆74周年原水禁世界大会から帰って間もなくの8月末、前頭葉に広がった悪性リンパ腫(眼)で急に倒れた。」

「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」は、373頁にも及ぶ大作です。まだ目次と一部の目を通しただけという状況ですから、この本の全てを紹介することはできませんので、ここでは、ちょっと気になったことを紹介したいと思います。

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本の帯には、次のように書かれています。表側には「被爆者をはじめ世界の人々は、核廃絶のためにどのように苦闘してきたのか」裏側には少し長文で「人類は、広島・長崎への原爆投下以来、何度も核戦争による破滅の危機に遭遇してきた。またビキニをはじめとする核実験やチェルノブイリやフクシマの原発事故は、甚大な被害と莫大なヒバクシャを新たに生み出してきた。本書は、ヒロシマからフクシマまで核時代の歴史の変遷の中で、核による『被害』と『人権』、『加害』と『責任』、具体的には、核被害者の人権と加害者の責任に焦点をあてて歴史を総括。(以下略)」と。

内容は、3部構成になっています。Ⅰの「原爆被害―人権と責任」では、被爆後から現在に至る運動の過程が要約されています。特に気がついたことは、国家補償の問題として「孫振斗裁判」と「石田原爆訴訟」が取り上げられていることと、労働組合内に結成された被爆者組織(例えば全電通被爆協)とその組織が果たしてきた役割が記載されていることです。類書の本では、触れられることのない運動の歴史です。この点で、原水禁運動の歴史を知るためには、良い教材と言えます。

Ⅱは「世界の核被害―グローバルな人権と責任」で、世界の核被害者、そして被曝線量論争などについて書かれています。ここでは、原水禁が取り組んできた「核被害者フォーラム」や「世界核被害者大会」のこともきちんと取り上げられていますので、この点でも参考になると思います。3部の中で、最もページが割かれているのが、Ⅲ「フクシマ核被害」です。稲岡さんがいま最も力を入れて取り組んでいる課題が、フクシマの被曝問題だからだと想像できます。

巻末には、「核時代の変遷と反核平和運動」の年表が付けられています。著者が「運動については筆者の周辺、関西にかなり偏っており」と断り書きを書いていますが、運動にも焦点をあてた良い年表だと思います。

と書いてきましたが、一つ気になったことがあります。「おわりに」に書かれた次のくだりです。「原発の重大事故は、核兵器と人類は共存できないだけではなく原発も人類とは共存できないことを示してきた。運動の発展が示すように、原水禁運動のスローガン『核と人類は共存できない』の核には当然、核兵器だけでなく原発・核燃料サイクルも含まれるべきである」(アンダーラインは、いのちとうとし)

この本に付された年表にもあるように、森瀧市郎先生が、「核と人類は共存できない」と最初に提唱されたのは、1975年の原水禁世界大会です。森瀧先生がいわれた「核」には、稲岡さんが言う「原発・核燃料サイクル」も含まれているどころか、ウランの採掘から始まる全ての核社会が入っているのです。そのことを改めて強調したいと思います。

繰り返すようですが、この本には他の類書にはない視点が多く盛り込まれており、定価が少し高い(税抜き3600円)のですが、一読に値すると思います。

いのちとうとし

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