「広島ブログ」

2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

書籍・雑誌

2023年1月27日 (金)

第28回紙屋町シャレオ古本まつり

毎年1月に開催される(昨年はコロナの影響で延期となり5月に実施)「紙屋町地下街シャレオの古本まつり」が、今年は1月21日からスタートし、明後日29日まで開催されています。

Photo_20230126112901

私は、いつものように初日に行きましたが、今回は、私が重点的に見て歩く郷土史関係のコーナーの棚がずいぶん小さくなっていました。ちょっと期待外れです。

初日には、買いたいなと思う本を見つけることができませんでしたが、24日に改めて足を運び、今度はすべての棚をゆっくりと見て回りました。

1冊だけ見つかりました。本のタイトルは「わが国の軍備縮小に身命を捧げた 加藤友三郎」で、著者は田辺良平となっています。この本は、2004年(平成16年)に発行された新しい本ですが、初めて目にしました。

Img014_20230126113001

加藤友三郎については、1月4日のブログ加藤友三郎生誕地碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)を書いた時から、もう少し詳しく知りたいと思っていましたので、すぐに手に取りました。

この本は、発行時の定価は「1000円」とですが、裏表紙裏に貼られた値札には「1500円」と書かれています。少し高いかなとも思ったのですが、加藤友三郎の名前は、秋葉さんの話の中によく登場しますので、ずっと気になっていましたので、これも巡り会わせと思い、購入することにしました。今回はこの一冊のみです。

棚から引き出して本文の「はじめに」を読むと、著者は、どうも私たちの運動には批判的な立場のようですが、生い立ちを含め、かなり詳しく加藤友三郎のことが書かれているようですので、全体を読むのが楽しみです。

この本の中には、加藤友三郎の生涯を記した「豊田穣著『蒼茫の海』」の一部が引用されていますので、この本も読んでみようとこちらは図書館で借りることにしました。

「本も整理し、少しずつ減らさなければ」と思っていますが、珍しい本があるとついつい手にしてしまい、蔵書を減らすということは、なかなか難しいことです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2023年1月25日 (水)

忘れてはならないテニアン島

平和公園やその周辺の碑めぐり案内をする時、必ず行くところに爆心地跡があります。島病院のところです。

太平洋マリアナ諸島の中に在るテニアン島、太平洋戦争末期の米軍基地として原子爆弾リトルボーイを搭載したB29エノラゲイ号が出撃したところと説明をする場所です。僕の頭の中でのテニアンの歴史は、エノラゲイ号が出撃した1945年8月6日の早朝からでした。

吉永直登(よしなが なおと)さんの著書「テニアン-太平洋から日本を見つめ続ける島」を読みました。これを読んで、自らの無知をとっても恥ずかしく思うとともに、テニアンの歴史の悲しさに打ちのめされた気持ちになりました。

51g7eyzxisl_sx342_bo1204203200_

マリアナ諸島に人が定住生活を始めたのは、遺跡調査などで今から3500年前頃だそうです。テニアンは日本の委任統治下にあって、日本人が住みついたのは明治時代頃だと言われてます。最初は移民県であった沖縄の人たちが多かったのようです。

昭和初期、沖縄からテニアンに隣りの島サイパンへの直行船便が開設され、1週間程度で行けたそうです。しかし便数も少なく、多くの人は本土経由のルートを使いました。テニアン元在住者の思い出によると、テニアンへの行き方を次のように書いています。

「奄美諸島を経由して鹿児島まで船で2泊3日、鹿児島で旅館に2泊ぐらいした後、鹿児島から福岡県門司市まで汽車で向かった。船の出発待ちで3泊した後、門司港から船に乗り、神戸経由で横浜に着いた。横浜で2,3泊し、サイパンに向け出港した」という工程を書いているのです。直行船便の倍以上の日時を使って行ってるのです。

これだけの行程を使いながらテニアンに着いた人たち、そこで従事した仕事はサトウキビの栽培だったそうです。しかし最初の頃の移民者の仕事は、広大なジャングルの開墾、整備作業という重労働から始まったのです。

やがて1929(昭和4)年以降、テニアンの海岸通りには学校や公共機関を建ち始めたのです。これらの建物が建ち並ぶ通りは、その後「スズラン通り」と名付けられ、菓子屋、時計屋、自転車屋、床屋、歯医者…などが建ち並んだのです。

終戦の2年前の1943年には人口が6101人に膨らんだとされています。もちろん沖縄の人だけでなく、「本土側」からの人も加わり、熱帯の島に突然現れた「日本の地方小都市」に発展したと書かれています。

そして1941年12月から始まった太平洋戦争、平和だったテニアンが戦争開始から約2年後過ぎから、米軍の総攻撃を受けたのです。その時の様子について元海軍兵士だった人は次のように書いています。

「ジャングルに飛び込んで私は目をみはった。おびただしい死骸が打ちすてられたようにころがり、腐って、ハエとウジが群がりついている。かなたの木陰に、こなたの岩陰にと、うつろな目をした女が腰かけ、老人がうずくまり、子どもが寄りかかっている」と。多くの人が岬から海に飛び込むなどして、自らが死を選んだのです。

1944年8月1日、テニアンは米軍に占領され島には星条旗が掲げられ、それから急ピッチで基地として様変わりの道を歩むことになったのです。それにしても、逆算すれば戦争そのものが終了する1年以上前にテニアンの日本人の歴史は終えたのですが、日本政府はそれを知っているのでしょうが、まさに「見て見ぬふり」で、本土側では「頑張ってる 頑張ってる」の嘘宣伝を繰り返しているようで、そのことがどうしても許せないのです。

そして米本土から極秘裏に原子爆弾が輸送され、ヒロシマ・ナガサキとなったのです。

「あの戦争さえなければ」

「貧しかったが、楽しかった」

テニアンの「はじめに」に書かれている言葉です。

今やテニアンは、サイパンやグアムと並び日本から容易に行ける観光リゾート地となっていますが、忘れてはならない悲劇の歴史でもありますね。

吉永直登さん著「テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島(出版社 あけび書房」、是非とも読んでいただきたいと思います。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年11月29日 (火)

原爆納骨安置所と佐伯敏子さん

26日(土)午前10時からアステールプラザで開催されたワールドフレンドシップセンターの「Hirosihimaをつ・た・え・る基礎講座」・「中川幹朗さんに聴く2カ月連続企画『原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』」に参加しました。10月は、フィールドワークが行われたようです。

今回の講師であるヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんが編集した「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」が発刊されたことを10月21日の中国新聞「小山田浩子の本棚掘り」で知り、この本を入手したいと思っていました。

Photo_20221128162801

そう思っていたところに届いた東京の竹内良男さんの「ヒロシマ通信」1820号(11月20日)にワールドフレンドシップセンターの企画が紹介されていましたので、早速申し込みをするとともに、中川さんにも電話を入れ、「証言集」を申し込みました。

当日の中川さんの話は、「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」に出てくる話を中心に、中川さんと佐伯敏子さんとのかかわりなど、わかりやすい話が続きました。講演が始まる前に中川さんからこの本を入手し、本を見ながら講演を聞くことができましたので、理解が深まったような気がします。といっても、ここで全てを紹介することはできません。

20221126_101154

一番印象に残ってことは、原爆納骨安置所(原爆供養塔)に納められた遺骨の遺族探しの話でした。名前が分かっていながら遺族のもとに帰ることのできない遺骨の引き取り手を探し始めた佐伯さんは、わずか半年の間で10人の遺骨を遺族のもとへ返すことができました。その佐伯さんの行動が、広島市を動かし昭和50年(1975年)、被爆30周年事業として「原爆供養塔の納骨名簿」が一枚の大きな紙に印刷されて県内だけでなく全国の自治体に送られ、一定期間、各役場の掲示板に掲示されることになったのです。それは、今も続いています。

20221128_154445

中川さんの話の中に、何度も堀川惠子著「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」が登場しました。私も読んだことのある本ですが、中川さんの話を聞くまで、すっかり忘れていました。

帰宅後、「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」を棚から取り出し、ページをくくりました。「第4章 原爆供養塔とともに」で佐伯さんの遺骨の遺族探しの様子が詳しく記載されていますが、そこに1975年から始まった「原爆供養塔の納骨名簿」のことも紹介されています。「たまたま掲示板の前を通りかかって亡き人の名前を見つけたという遺族が、全国から何組も訪れた。この年だけで107人の遺骨が遺族のもとに帰っている。」

佐伯さんの行動が、どれだけ多くの遺骨を遺族のものに返すことにつながったのか、感動する思いで、佐伯さんと身近に接してこられた中川さんの話を聞きました。

「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」には、2017年12月3日に東京で行われた「佐伯敏子さんを偲ぶ会」での参列者の話しとともに、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の最初の出版「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」が再録されています。2004年に発刊されたこの本は未入手でしたので、今回の出版は、私にとってありがたいものとなりました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年11月17日 (木)

紙屋町シャレオ古本まつり

今年2回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、15日から24日までの会期で開催されています。私は、初日の15日に会場に行ってきました。

私が、この古書展で探す本は、歴史関係、特に郷土史関係の本です。いつもこの種の本を出店している店は決まっていますので、その店の棚を探します。

20221115_125856

金座街と紙屋町に店を構えているアカディミー書店も歴史書や郷土史や被爆体験記などを並べていますが、こちらは週に一度はのぞく店ですので、他の店の棚から探していきます。

いつも何か珍しい本を見つけることができる神鳥書店も出店していますので、まずその棚から探し始めました。

残念ながら、今回は「これは」という本を見つけることはできませんので、後は順番にそれらしい本が置かれている棚を探します。そしてその後、ゆっくりと全部の棚(文庫本を除く)を一応探して回りましたが、残念ながら私が購入したいと思う本に出合うことはできませんでした。

それでも気になった本が一冊ありました。「安田学園70年史」です。被爆についての記述を探しました。あるにはあったのですが、体験記が2編あるだけでその他の内容は広島原爆戦災誌で読んでいた内容とほとんど変わりません。この学校の被爆体験集や追悼集などを見たことがありませんので、少し心が動いたのですが、結局購入は見送ることにしました。

「希少本を手に入れるためには」とほぼ毎回初日に古書展をのぞいていますが、収穫ゼロだったのは今回が初めてです。

各店とも、毎日追加の本を棚に入れますので、そこに期待したいと思いますが、私が求めるジャンルの本は、希少本がほとんどですので、追加されることはほとんどありません。

古本まつりの楽しみは、店舗が遠くて普段行けない店も多く参加していることです。あまり期待はできませんが、1回だけであきらめず、会期中にもう一、二度行ってみたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年9月 3日 (土)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその3

この書籍「核絶対否定の歩み」は、残念ながら森瀧先生が亡くなられた(1994年1月25日没)後の1994年3月に発刊されています。しかし、この本の出版計画は、森瀧先生ご存命中に進んでいましたので、この本の編集の中心となった下畠準三さんが、森滝先生の生前中に何度もご自宅に足を運び、先生と一緒「何を掲載するか」を含め、検討し作業を進められ、生前にほぼ完成していたものです。ですから、当然森瀧先生の了解を得て編集発刊されたものです。

残念ながら下畠さんは、今年5月に永眠されましたので、いまでは直接その詳細を確認することはできません

この「核絶対否定の歩み」の編集者ともいえる下畠さんは、全電通広島被爆者連絡協議会が1970年から1983年までの間に第10集まで発行した原爆体験記「原子雲の下に生きつづけて」の編集責任者でもありました。

この「原子雲の下に生きつづけて」には、森瀧先生が書かれた題字が使われ、5集までの全てには、先生の「巻頭言」ともいえる文章が寄せられていますので、森瀧先生と下畠さんは、深いつながりがあったことがわかります。

2293

そのことは、「原子雲の下に生きつづけて」の第4集に、森瀧先生と下畠さんの対談が収録されていることからも理解できます。

その対談の中で、下畠さんの「それは先生の哲学的思索の結論ですから、短い時間に変わっていくというものではないと思いますし、まして、根本的命題、先生の体系、原理というものでしょうから・・・」との問いに森瀧先生は「人類は生きねばならん、これが今の私の至上命令ですよ、倫理学の、平和の倫理の・・・」「それから原水禁運動そのものも、ひらきなおって大きく言えば、人類の生命というもの・・・」と答えられています。

さらに対談の最後の部分では、「私の戦後の発想法の人類という概念がものすごく実在化して、この、人類の運命などと昔いったら、大きなことをいうなってことになって抽象的になったのですが、いまはそうではないでしょう。原爆だけでもそうだったのが、今や世界的な公害になって来ますと、まさに人類の運命を考えざるを得ないようになってきた。人類は生きつづけなければならんという命題をたててみたりしますとね、」

そのことは1976年に日本評論社から発刊された「森瀧市郎反核30年」の前書きに次のように記されていることからもわかります。

「また、広島大学在職中に学生たちに乞われるままに書いたものや、広島の諸誌・諸新聞に寄せた折々の感想・提言などの中に『人類は生きねばならぬ』という私の根本命題にそった訴えのいくつかを加えた。私は、被爆後30年間殆ど宿命的に辿った歩みが、核絶対否定の志念(原文のまま)と行動であったことを核時代の世界人類に訴えたいという願いをいだきつつこの書を世におくる。」

もう一つ紹介しておきたいのは、同じ「森瀧市郎反核30年」の書名ともなった「反核30年」と題した文(全電通新聞=全電通労働組合機関紙=に1973年10月から1975年8月まで70回のわたる連載)の「核時代の道徳的義務」の項で次のように記されていることです。

「第4回大会(1958年)の宣言に『道徳的義務の分科会』の討議の要旨を盛ろうとして、私にその部分の起草を求めた。それは極めて簡潔でなければならなかった。曰く、『全人類が生死を共にしなければならない原子力時代に於いては自滅を防ぎ共存を促進することは人類の至上かつ普遍的な義務である。この義務は生命への深い畏敬と人類共同体の保存への願望に根がしている』と。」

「人類」という考え方は、森瀧先生にとっては至上のことだったと推察できます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年9月 2日 (金)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその2

私が所蔵している「原水禁世界大会報告集」の中には、「被爆30周年原水禁大会」の報告決定集がありませんので、広島市立図書館のホームページで蔵書検索をしてみました。中央図書館が、所蔵していることがわかりましたので、すぐに中央図書館に行き、調べました。

そこには間違いなく「核と人類は共存できない」に収録されているとおり「核と人間は共存できない」と「人間」ということばになっています。

しかし、前後の文章では、全て「人類」ということばが使われていますので、なぜここで「人間」ということばが使われているのか、もう少し調べてみることにしました。

その1で引用した文章の中に「先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは」と書かれていますので、同じ「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」に収録されている「国際会議」での森滝先生の「日本側代表基調演説」を読むことにしました。

20220825_101452

「国際会議の基調演説」には、次のように書かれています。

「私は以上の概観の上に立って、この核の時代30年を総括して『核分裂エネルギーを利用する限り人類は未来を失うだろう』というテーゼを提起したいと思います。

と申しますことは、人類は核と共存することはできない故に、核分裂の利用の全てを否定する核絶対否定の理念をいよいよ高くかかげ、人類の生きのびる道を切り開いてゆかなくてはならないということであります。」(強調はいのちとうとし)

ここには、「核と人類は共存できない」ということばではありませんが「人類は核と共存できない」と、人類ということばが使われています。

ところで、「被爆30周年原水禁世界大会基調演説」の問題の部分を、後に森滝先生自身が引用し紹介された文章があります。それは「核絶対否定への歩み」と題して、日本社会党機関紙「社会新報」1979年6月15日から7月24日まで連載された原稿です。

この連載記事は、重要な文章だということで、1994年3月に原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)が、発刊した「核絶対否定の歩み」に収録され、それを底本にして原水禁国民会議が2015年に発刊した「核と人類は共存できない」にも収録されています。

「生存のために」のサブタイトルがついた項があります。

そこには「大会基調演説の草案を精魂こめて書いた。その演説の後半は、いわば『核絶対否定』の宣言であった。」と記した後、「いわく」のことばの後「演説文」が長文で引用されています。

「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」で

「結局、核と人間は共存できないのであります。

共存できないということは人間が核を否定するか、核が人間を否定するかより外ないのであります。われわれはあくまで核を否定して生きのびなければなりません。」となっている部分が次のように修正されています。

「結局、核と人類は共存できないのであります。

共存できないということは、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかないのであります。われわれは、あくまで核を否定して生きのびなければなりません。」

ここでは、「被爆30周年原水禁大会報告決定集」で「人間」となっていたものが、全て「人類」ということばに置き換えられています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年8月29日 (月)

絵本「わたしはゴミステーション」

絵本「わたしはゴミステーション」が送られてきました。

奥付に「2022年8月1日発行」と書かれていますので、出来たばかりの絵本です。

さらに奥付には、「さく のびるぶんこのなかまたち」「え たけはらようこ」「発行 のびる文庫」、となっています。

この素敵なプレゼントを送ってくれたのは、「え」作家の竹原陽子さんです。

Img001_20220828170501

表紙を見ただけで、何となく優しい気持ちになります。

すぐに絵本を開きました。

見開きの左側に、ひらがなで散文詩のような文章が綴られています。右側のページは、竹原さんが作った画用紙を切り張りして作った絵でおおわれています。

楽しくなる絵本ですので全部の文章と絵を紹介したいのですが、ここでは1ページ目の文章を紹介します。

わたしは ゴミステーション

ここでなんねんも こどもたちをみまもっている

はる

わたしの まえのあきちが

とうこうはんの こどもたちの しゅうごうばしょ

きょうは しぎょうしき

げんきなこえがきこえてくる

あしたから いちねんせいも やってくる

右側のページには、表紙と同じ絵があります。よく見ると、かわいいゴミステーションだけでなく、タンポポが描かれています。

次のページは「なつ」です

この絵本の発行者となっている「のびる文庫」について、奥付の横に次のように書かれています。

「1982年春から自宅で活動している地域文庫〔私設図書館〕です。絵本や児童書の貸し出し、読み聞かせ等を毎月1回、日曜日午前を基本に開設してきました。2012年からは地域の小学校での読み聞かせ活動、最近では地域でのふれあいサロン等へも出かけています。」

ここの自宅は、福山市議会議員の西本章さんのお宅です。もちろんこの絵本の中には、西本章さんの名前は出てきません。絵本好きの西本さんが、いつか絵本を作りたいと思っていたことがついに実現したのです。

この絵本を受け取り、竹原さんに次のようなお礼のメールを送りました。

「絵本は大人にも夢を与えてくれますね。

絵本を開けば、心が温まり、優しい気持ちにさせてくれます。

ちょっとかわいすぎるゴミステーション、今日はどんな声を聴いたのでしょうかね。

竹原さんの切り絵とも思える絵、とっても素敵です。

こんな特技があったなんて、といっては失礼ですよね。」

子どもたちが楽しそうにこの絵本を開く姿が目に浮かびます。

こんな素敵な絵本を作り、届けてくださった竹原陽子さん、西本章さん、本当にありがとうございます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年8月18日 (木)

藤登弘郎さんの水彩画集「原爆資料館 無言の証言」

被爆建物や被爆樹木などを描き続けてこられたアマチュア画家藤登弘郎さんの7冊目となる画集「あの日から77年悲しみは消えない 原爆資料館 無言の証言」が、自費出版され、私ものもとにも送られてきました。

Img016_20220817150101

「刊行にあたり」には、次のように書かれています。一部を引用します。

「1955年(昭和30年)に完成した原爆資料館には、2万点を超す被爆資料が収蔵されています。これらは原爆の悲惨さだけでなく、持ち主の思いや当時の人々の暮らし、喜びと悲しみ、無念さを今に伝える、大きな役割を担っています。

遠からずやってくる、被爆者のいなくなる日。資料館に残された遺品は『無言の証言』となるでしょう。

この一年間、私は資料館を訪れ、被爆者や遺族から資料館に託された数々の遺品を目にしました。遺品から、核廃絶と戦争のない平和な世界を願う『ヒロシマの心』を知ってもらいたいと思い、絵を描き始めました。少年少女が着ていたであろう焦げた衣服やかばん。熱で変形した瓦・・・描くうちに、平和に暮らしていた人たちの命を奪った、原爆そして戦争に怒りがこみ上げ、涙を禁じ得ませんでした。

今回は、地質学者として被爆直後の広島に入り、執念で遺品を収集―研究した長岡省三さんと資料館の歩みにも目を向けました。初代館長となった長岡さんに共鳴した人たちが収集に協力し、長岡さんは『悪魔の刻印』と呼んだ遺品1500点を寄贈。資料館の礎を築きました。(略)

『核兵器が存在する限り、悲惨は繰り返される』。犠牲者の遺品は無言で訴えています。つらい体験を語り続けてきた被爆者と、この気持ちを共有したい。小さな力ですが、広島市民の一人として、被爆の惨状をしっかりと後世に伝えていきたいと思います。」

この画集には、89点の原爆資料館の遺品を描いた作品が収められています。何度も何度も原爆資料館に足を運ばれたようすが浮かんできます。

最初の作品は伸ちゃんの「三輪車・鉄かぶと」です。

Img017_20220817150101

それぞれに遺品の被爆時の状況が書き添えられています。

「森脇瑤子さんの制服」には、2021年4月5日付の「少女の未来 奪われた 兄・細川さん被爆者の思い託す」とタイトルの付いた記事が添付されています。あと数点同じように中国新聞の記事が添付された作品がありあす。

今回の画集には、遺品を描いた作品に加え、被爆建物や樹木、地蔵、慰霊碑など、これまで描いてこられた35点も収められています。

「7冊目の画集」と紹介しましたが、被爆をテーマにした画集は、201年7月に発刊された2冊目の「被爆建物は今」以後の6冊です。

この画集は、200部発行されましたが、主に広島市立の各中学校や市立中央図書館に寄贈されていますので私に寄贈していただいた一冊も大変貴重なものです。

「刊行にあたり」に込められた藤登弘郎さんの思いを共有しながら、以前送っていただいた画集と一緒に大切に所蔵したいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年8月16日 (火)

8・15のつどい

2002年から、毎年8月15日に開催されてきた「8・15のつどい 反戦・原爆詩を朗読する市民のつどい」が、今年は会場の都合で8月14日に広島市まちづくり市民交流プラザで開催されました。

「8月15日」を改めて問い直す企画として広島文学資料保存の会、広島花玄忌の会、四國五郎追悼の会の三団体が主催し、毎年8月15日の午後に開催されてきました。私も数年前から、参加しています。

例年、第一部では、原爆詩・反戦詩が朗読されてきましたが、今年は朗読劇「神部ハナという女の一生」が、上演されました。

20220814_140652

「神部ハナという女の一生」は、もぐり助産婦の神部ハナが、堕胎罪に問われながらもしたたかに生きていく様子が描かれたものです。最後のシーンで、神部ハナは原爆症で命を失う構成になっていますが、なぜ今年は、この構成詩なのか?ちょっと疑問符が付くものでした。

例年通り、集会のタイトル通り「反戦・原爆詩」、例えば原民喜の詩の朗読が行われればよかったのに、というのが率直な感想です。

第二部は、「今、改めて四國五郎を思うーウクライナ。核・表現の不自由―」と題した元NHKプロデューサーで武蔵野大学教授の永田浩三さんの講演です。永田さんは、2016年に発刊された「ヒロシマを伝える 詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち」の著者です。

永田さんの話は、被爆直後から朝鮮戦争の時代にかけての広島の反戦・平和運動の歴史を、四國五郎さんの様々な詩を間に挟みながらたどるものでした。冒頭は、いま安倍前総理の死去の後に起こっている出来事、特に国葬の問題を問う内容でした。メディアで批判されている朝日新聞の川柳の紹介もありました。その一つです。「忖度は どこまで続く あの世まで」 言い得て妙の川柳ですが、恥ずかしながら、私自身はこの場で紹介されるまでよく知りませんでした。

永田さんは、四國五郎の詩だけでなく、大田洋子の小説「屍の街」や原民喜の「水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ ノマシテ下サイ」、正田篠江の短歌、栗原貞子の「ヒロシマというとき」などが紹介され、ほっとしました。

もう一つ、永田さんの話で初めて知ったことがあります。日本人が最初に写真で原爆の惨状を知ったのは、1952年8月に発行された「アサヒグラフ」の特集だと言われていますが(私もずっとそう思ってきた)、それより2年早く1950年6月9日の「平和戦線」という本だったことです。下関でこっそりと4万部印刷されたそうですが、まだ占領下、プレスコード(占領軍による事前検閲)下でしたので、即時発行停止処分になり、世には出なかった様です。

20220814_163807

興味深い話が続きましたが、最後に「『自由にものが言えない社会』にしないためには、市民がさまざまな声を上げ、表現を止めないことだ」ということを強調し、「表現者はカナリヤ 闇を照らすともしび 世界に輪郭を提供する 絵画や言葉で」と結んで、講演は終わりました。

広島は、8月6日だけでなく8月15日をどう過ごすのか、問われる時代になっていると思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2022年6月 1日 (水)

紙屋町シャレオ古本まつり

第26回紙屋町シャレオ古本まつりが、紙屋町の地下街シャレオ中央広場で、5月30日から明日6月2日まで開催されています。

今年は、1月に続いて2度目の開催ですが、今回は4日間とこれまでで最も短い会期となっています。出店舗数もいつもよりやや少なく、9店舗の参加です。

Img009_20220531153001  

私は、雨が降っていましたが、初日の30日のオープン時(10時)に行ってきました。

私がめざすのは、郷土史関係のコーナーです。9店舗のうち3店舗が、このコーナーを設けています。郷土史といっても様々ですが、私が探すのは、原爆関係と軍都廣島に関するものです。学校史などにも被爆時のことや復興期のことが書かれていますので、それらが目に付くと一冊一冊、ザーッと目を通します。古い絵ハガキも、積まれていますので、一枚一枚丁寧にみていきます。

古い資料や冊子は、当然のことですが、一点ものです。今回見逃すと、次はいつ巡り合えるかわかりません(というか、再び手にすることはまれ)ので、気を付けて棚を追っていきます。戦前の資料や被爆直後に発行されたものは、少し値が高いなと思っても、見つけた時にすぐ購入するのが鉄則です。

20220530_112111

店舗が少ないのでフロアーに余裕があります

1時間あまり時間をかけて、ゆっくりと探して歩きましたが、残念ながら今回は、買っておかなければと思うものを見つけることはできませんでした。

最近は、だんだんとそうした本を見つけることが少なくなっています。1月の時に購入したのは、昭和9年(1934年)11月1日に廣島懸が発行した「明治二十七・八年戦役 廣島大本營誌」の1冊だけでした。日清戦争時広島に置かれた大本営に関する本は、2冊ほど既に入手していますが、広島県という公的機関が発行した資料は初めて目にするものでしたので、躊躇なく購入しました。

郷土史コーナーを設けている店の一つ、アカディミー書店は、よく訪れる店ですが、他の2店舗は、遠くにあるため店を訪れることができませんので、「古本まつり」には、時々アッと思うような本を出品していることがありますので、いつも楽しみにしている店です。

「古本まつり」には、映画のポスター、乗り物関係のコーナーなど専門分野に特化した品物を出店するお店や文庫本コーナー、300円・500円均一コーナーなどもありますので、一度出かけてみるのも楽しいと思います。

郷土史コーナーや専門書などは、1冊ものが多くほとんど補充がありませんが、その他の棚は毎日新しい本が補充されていますので、何度足を運んでも新しい発見があると思います。

私も会期中にもう一度行って見ようと思っています。

いのちとうとし

【編集者】毎月1の付く日(1日、11日、21日)は、イライザさんの原稿を掲載していましたが、イライザさんが参議院選挙に立候補することになり多忙となりましたので、当分の間このブログの原稿は、中止することになりました。イライザさんは、ヒロシマの心を世界にを毎日更新されていますので、ぜひそちらをお読みください。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧