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書籍・雑誌

2025年7月11日 (金)

伊藤孝司著「原爆棄民」

1年前の7月に旧日銀広島支店で写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」今日からスタートです。伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」: 新・ヒロシマの心を世界にを開催した伊藤孝司さんの新著「原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言」が、15日発刊されます。

この本は、1987年に発刊された「写真集 原爆棄民」の復刊ですが、伊藤さんが「増補改訂版」としているように、1987版以降の韓国での取材を加えるとともに、2回目の訪問となった1998年から始まった朝鮮民主主義人民共和国での在朝被爆者の取材で得た被爆証言が新たに加わっています。

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同書を紹介するチラシには次のように書かれています。

「広島や長崎では7万人の韓国朝鮮人も被爆。彼らは日本人被爆者と異なる戦後を送らざるを得なかった。」とし、さらに「忘れてはならない歴史がある。日本の朝鮮植民地支配の結果、生活できなくなった多くの朝鮮人が、日本に渡ってきて被爆した。本書に収録した被爆者たちの言葉から、近代の日本と朝鮮半島との歴史が見えてくる。『日本被団協』のノーベル平和賞受賞、そして被爆80年に合わせて、改めて韓国・朝鮮人が被爆したことの意味を問う。また、知られていない朝鮮民主主義人民共和国で暮らす被爆者17人の証言も収録!」

目次を紹介します。

目次

  第1部 韓国・日本で暮らす

   1 植民地・強制連行 31人の証言

   2 被爆 49人の証言

   3 帰国・在日 49人の証言

   解説 韓国・朝鮮人被爆者-その歴史と存 

   在の意義 鎌田定夫

第2部 朝鮮で暮らす 17人の証言

解説  伊藤孝司

合計146人の証言が掲載されています。

韓国を47回、朝鮮民主主義人民共和国は43回訪問した伊藤さんならではの本と言えます。

在朝被爆者の被爆体験がこれだけまとまって出版されるのは、今回が初めてだと思います。在朝被爆者問題を取り組んできた一人として、この本を通して一人でも多くの市民のこの事実を知ってほしいと思います。

伊藤さんは、次のように書いています。

「私は長年にわたり、日本の植民地支配や侵略によって被害を受けた人々への取材にこだわってきたのは、日本が再び加害者にならないためである。日本にとって不都合で隠してしまいたい歴史であっても、それと正面から向き合うことからしかアジア太平洋の人々との信頼関係を築くことは出来ない。」

被爆80年は、侵略戦争終結80年でもあります。そのことを考えるよい本だと言えます。

全編415頁の大作で、定価は3960円と高価ですが、ぜひ読んで欲しい本です。

いのちとうとし

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2025年5月11日 (日)

ふくもとまさお著「『小さな平和』を求めて」

3月14日のブログふくもとまさお著「原発の町から普通の町に」: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したふくもとまさおさんから新著「『小さな平和』を求めて」が届きました。

この本のサブタイトルは「ポツダム・トルーマンハウスとヒロシマ・ナガサキ広場の記録」です。

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この本は最初電子書籍で発行されましたので、ふくもとさんは、電子書籍あとがきの冒頭で次のように書いています。

「この本は、ヒロシマ・ナガサキ広場の市民の活動を記録しながら、原爆投下に係わる戦中からポツダム会談、戦後の歴史について書いている。市民活動の記録ということから、出来るだけ中立に事実を伝えることに心掛けた。感傷的な表現も避けた。広場に記念碑を設置するには、被爆体験者の外林秀人さんと石刻家の藤原信さんの存在がなくてはならなかった。」

「ヒロシマ・ナガサキ広場」は、ドイツ・ポツダムに今も残るトルーマンハウス(ポツダム会談に参加したアメリカ合衆国大統領がトルーマンが滞在した邸宅)前の道を挟んで広がるといっても小さな広場に付けられた名前です。トルーマンは、この邸宅に滞在中に「原爆投下の最終指令を出した」といわれており、その史実を忘れないようにと市民運動が起こり、2005年12月ポツダム市議会が、この広場を「ヒロシマ広場」と命名することが決議されます。そして翌年6月15日から「ヒロシマ広場記念碑設置のための募金活動」が開始され、2010年7月25日に記念碑が完成し、除幕式が行われました。

そして、2012年1月12日に広場の名前は「ヒロシマ・ナガサキ広場」と改名されます。

まえがきに登場する外林秀人さんは、ドイツ在住の被爆者として「募金活動」のため、ドイツ各地で「原爆体験」を語ってこられました。この外林さんの証言活動が、「募金活動」の推進力にもなりました。外林さんは、広島の被爆者です。2011年には、ポツダム市の名誉市民となっています。

藤原信(まこと)さんもドイツ在住者で、公園に設置された記念碑の設計・工事者です。お二人とも今は亡き人ですが、私も親しくしてきたお二人ですので、この本を読みながら懐かしくその姿を思い起こしています。

ところで言い過ぎかも知れませんが、私もこの記念碑建立には、少しだけ重要な役割(と自分では思っています)を果たしました。

重要な役割と書きましたが、それが誇張でないことは、本書82頁から86頁に記述された「広島、長崎の被爆石を記念碑に入れる」の項に、詳しく記述されていますので、それを読んでいただければ理解していただけるものと思います。

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手前の碑文が刻まれ石板の右が広電の被爆敷石、左が長崎山王神社の被爆石。右後ろの建物がトルーマンハウス

ですから、2010年の除幕式、2015年の追悼式(いずれも7月25日)にも灯籠を持って参加しました。

この本は、「ヒロシマ・ナガサキ広場」の経緯を縦軸に、原爆開発に係わる歴史を横軸に、話が展開しますので、歴史を学ぶ書でもあります。特にふくもとさんが独自に調べた、戦中における日独原爆開発についての詳述は、これまで余り多く語られることのなかった歴史ですので、その意味でも貴重な書です。

ふくもとさんは、電子書籍(2021年2月)のあとがきを次の文章で締めくくっています。「この本によって、ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場の記録が残り、広場のことが日本でもたくさんの人に知っていただけたら幸いです。」

そして、その後に得た日独原爆開発協力に関しての情報を加え、紙の本を出すことを決意したとしています。

さらに「紙の本出版に寄せて」では、環境問題を取り組むふくもとさんらしい文章が登場します。

「問題は、電子書籍にした理由である紙のことだった。日本の出版界では依然として、環境問題を考えた紙が使用されていない。しかし、紙の本にするには、どうしても持続可能な森林管理を認証するFSCマーク付きの紙で出したい。元々は、この本を最初にFSCマーク紙で出版することを考えていた。そのため事前に、FSCジャパンにも問い合わせている。日本でもFSCマーク紙で出版できることがわかった。」

その出版社が、この本の出版社であるアケビ書房です。

その意味でも応援して欲しい本です。本の定価は、税込み2200円ですので、購入していただけると嬉しいです。

いのちとうとし

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2025年5月 3日 (土)

電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑―その2

「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」は、爆心地から540メートルに位置していた広島中央電話局など電信電話関係機関の職員を慰霊するために建立されました。

現在の慰霊碑です。

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最初に建てられた場所と比べると狭くなり、後ろの壁面にあった句碑が前方にでるなど、配置がずいぶんと変わっています。

中央にきのこ雲をかたどった碑には、動員学徒を含む電信電話職員の犠牲者名簿が納められています。

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1955年の建立時には、573名の名前が収められたそうですが、その後どうなっているのかは調べていません。

右側の石版には昨日紹介した追憶のことばが刻まれています。左側にこの碑の由来が刻まれた石版が建っています。

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「昭和二十年八月六日午前八時十五分 晴れわたった空に 閃光一閃一瞬のうちに 広島は廃墟と化して しまいました 当時 広島では 緊迫した情勢の中で約二千名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたが そのうち六百名近くの人たちがとうとい命をうしなわれ 平和のいしずえとなられました この慰霊碑は原爆十周年にあたる昭和三十年八月 亡くなられた方々への 心からの追悼と みたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって 建てたものです」

最初の建立時からそうなのですが、この地は被爆時は西練兵場ですので、電電関連の建物の被爆地ではありませんが、当時この場所には、電電公社の中心的建物群が建っていましたので、この場所に設置されました。

ところで、よく見ると向かって右側の植え込みの中に2本の石柱が立っています。周りの樹木が大きく育ち、見え難くなっていますが、気になりますので近づいて何が書かれているか覗いてみました。

奥の一本の片面には、「『通信女たちの追憶』出版記念」もう一面には「平和祈念植樹」と刻まれ、裏面には「1986年9月××日」と刻まれています。本の出版を記念して建てられたものです。

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私は、この本のことは知りませんでしたので、調べてみると全電通婦人常任委員会(当時は、女性ではなく「婦人」となっていた)が、通信部門に携わっていた女性たちの戦争体験をまとめて出版したものです。

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当時全電通の婦人常任委員会が、反戦・平和運動を熱心に取り組んでいたことが思い出されます。

手前の石柱には、さらに興味深い文字が刻まれていました。

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「全電通被爆者支援基金一億円達成」と刻まれています。

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植え込みの中まで入り込めないのですが、木をかき分けなんとか読み取ると、右側の面には「全電通被爆協会長山岸××」、左側の面には「昭和六十一年八月六日建立」と刻まれています。

これは、全電通が、1964年から全国で取り組んでいた「被爆者支援1円カンパ」の総額が、1億円となったことを記念して建立したものです。「山岸××」は、後に連合初代会長となる山岸章(あきら)さんです。よく見えなかったので×を二つ書きましたが、「章」の一文字だったようです。山岸さんは、1982年に全電通委員長になっていますので、昭和61(1986)年もまだ委員長でした。

でもここに刻まれている肩書きは「全電通被爆協会長」となっていますので、山岸さんは、被爆者だったのですか?と疑問がわくと思います。

「全電通原爆被爆者協議会」は、1973年に結成されたのですが、結成時から会長には、被爆者ではなく当時の全電通中央執行委員長が、就任してきました。

当時の全電通の「被爆者支援1円カンパ」について、被爆26周年原水禁世界大会報告集 分科会報告の中に「全電通の代表から報告が行われた。全電通の青婦部では1円カンパを毎年行っており、年間のカンパ額100万円のうち、原水禁に50万、全電通内の被爆協に50万を配分している。」の記述があります。被爆26周年は、1971年です。年間のカンパ額が100万円なら1億円に達するまでには、100年かかることになりますが、当時は大幅賃上げの時代でしたので、カンパ額も年々大きくなったのでしょう。

私の職場でも、紙で作ったカンパ箱が机の上にあったことを思い出します。

この文章を書きながら気付いたのですが、二本の石柱とも同じ年に、全電通が建てているのですが、「『通信女たちの追憶』出版記念」の碑は、西暦で表記され、「全電通被爆者支援基金一億円達成」の碑は、和暦が表記されています。ちょっと不思議な思いながら、写真を見ています。私が、電電公社を退職したのは、1981年3月です。

電電公社関連の慰霊碑は、この碑だけでなくあと二つあります。

一つは以前紹介したと思いますが、被爆時広島中央電話局があったNTT袋町ビルの「広島中電話局鎮魂の碑」です。もう一つは、かつて私が働いていたNTT DATA比治山ビル前庭にある「電電搬送通信部関係職員慰霊碑」です。この碑については、いつか紹介していと思います。

いのちとうとし

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2025年4月29日 (火)

原爆被害を調べる人のためのガイドブック「ヒロシマ調査・研究入門」

広島市立大学広島平和研究所が、大学開学30周年記念事業として「ヒロシマ調査・研究入門」を刊行しました。

大芝亮所長は、本書発刊の目的を「はじめに」で次のように記しています。本書の特質が書かれているように思いますので、少し長くなりますが、その一部を引用します。

「本書を参考に、広島原爆被害について、ぜひ、自分自身で資料を見、証言を聞いて欲しい。慰霊碑・慰霊祭や被爆建物などを訪問し、原爆被害を受け、それを語り継ぐ『現場』を自分なりに体感して欲しい。・・・被爆に関する資料や証言、そして被爆建造物は、決して自然に残ったわけではなく、それらを残そうとした人々の営みにより保存された。その取り組みの歴史を辿ってほしい。」さらに「個々の資料や証言、被爆建物や慰霊碑・慰霊祭などは、一体どのような意味を持つのだろうか。本書の解説を一つの参考にして、自分なりに考えてほしい。」

最後に「全国には、長崎の被爆資料・被爆建物をはじめ、それぞれの地域に戦争被害を示すものが残されている。広島の取り組みとそれぞれの地域の活動の『つながり』についても考えたい。また、諸外国における原爆観にも留意する。」

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本書は、「1章 調査研究ガイド 2章 広島で調べる 3章 広島を体感する 4章 日本で調べる 5章 原爆被害・核問題を知る扉」の五つの章で構成されています。

1章の「調査研究ガイド」では、「文献」や「被爆体験」などの資料ごとに調べ方の基礎をまとめています。かなりの検索方法が網羅されていますので、私もそうですが「どこで調べれば良いか」と思っている人にはほんとうに参考になります。

2章の「広島で調べる」は、広島平和記念資料館をはじめ、広島市内で原爆被害に関する資料を保存し、展示する施設を紹介しています。私が訪れたことのない施設も紹介されています。さらにこの章では、原爆被害のみならず「戦争を調べる」ための施設も紹介されているのが特徴だと思います。

3章の「広島を体感する」は、「86日をめぐる」のサブタイトルがあり、86日前後の市内各地で行われる慰霊・追悼の行事が紹介されています。例えば、「義勇隊の碑」で行われる「川内・温井義勇隊慰霊祭」の項では、碑の説明をした後、式典の様子ではこんな下りがあります。「同時刻に平和記念式典が近くで開催されるため、式典に参列する要人が通る度に中断を余儀なくされてしまうが」こう書けるのは、川内・温井義勇隊遺族会の関係者に直接話を聞いているからです。私も浄行寺を訪れ住職から聞いて初めて知った話です。実際に足を運び、情報収集したことがよく分かります。

これは一つの例ですが、他にも原爆供養塔前で行われる「原爆死没者慰霊行事」では、他の原爆供養塔を紹介するものの中では、ほとんど触れられることのない「宗派を超えた合同慰霊祭が執り行われている」ことが紹介されています。

私は、これ一つとっても、本書は貴重だと思います。

まだ全部を読み切れていませんが、多にもこんな充実した内容があると思います。

4章の「日本を調べる」については、少し長くなってしまいましたので省略します。

5章の「原爆被害・核問題を知る扉」は、平和研究所の本らしく、もっとも多くのページが割かれ、様々な分野からの情報が提供されています。その中で私が特に注目したのは、「まえがき」でも触れられている第二次世界大戦の被害地である「朝鮮半島」「中国」「東南アジア」そして原爆を投下した「米国」、それぞれからみた「ヒロシマ」が記述されていることです。

全体を通じて、さらにもっと内容を深めたいと思う人のために、「もっと調べる」として多くの書籍が紹介されているのも参考になります。

この本の発刊に当たっては、編集委員会がつくられたようですが、その中心は、同大学の准教授四條知恵さん、竹本真希子さんのお二人だったようです。

二人の精力的な活動に敬意を表したいと思います。

本書は、定価は消費税込みで1980円ですが、充分に価値のある本だと思います。そして多くの人に手にして欲しい本です。

いのちとうとし

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2025年4月28日 (月)

「屍の街」の章題―つづきのつづき

市民文庫版については、「全集第一巻」の「収録」で、「『章題』を削除した」ことがと明記されています。市民文庫版は、大田洋子存命中に発刊されていますから、小田切秀雄が解説しているように当然「作者の意思で削除」されたことは、間違いありません。「章題」がないことは、本を開き確認しました。

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ですから、その後に発刊された「潮文庫版」にも「章題」がないのは当然だといえます。

この市民文庫版の最後には、佐々木基一が書かいた「解説」があります。佐々木基一は、大田洋子と同じ原爆文学作家と言われる原民喜の義弟で、「夏の花」の出版に深く関わった人です。ですから、解説の中でも原民喜と大田洋子に連なる原爆文学についての記述がほとんどで、「『章題』を削除」した理由の手がかりのようなものは書かれていません。ここでも大田洋子がなぜ、この版から「章題」を削除することにしたのかという「手がかり」となるものを見つけることはできませんでした。

「全集第一巻」の「収録」では、潮文庫版の発行が最後の出版になっていますが、そのことについて佐多稲子が同書の解説の中で次のように語っていることを紹介します。

「大田さんの作品は、生前でも『屍の街』が絶版になっていて、外国から送ってくれと言われても送る本がないのよ、と大田さんが言うのをきいたことがありますし、その後も長くこういう作品が絶版になっていることを、私は大変つらく思っていたのです。・・・今度みなさんのお骨折りで作品集が出ることになって、私も本当にうれしいのです。」

潮文庫版以降、1982年に『大田洋子全集』が出版されるまで、10年間新しい版での出版が無かったことが分かります。

少し横道にそれましたが、「章題」に戻ります。先にも書きましたが、この「全集第一巻」に収録された「屍の街」には「章題」がついています。その理由は、浦西さんの「解題」では「*底本 冬芽書房版『屍の街』(昭和25530日)」と書かれていることでハッキリします。つまり、この全集は、「章題」がつけられていた冬芽書房版を底本(複製本の原本、よりどころとする本)としたからです。以降出版された「屍の街」は、この全集に準じたものと思われますので、私が持っている「潮文庫版」以外は「章題」がついていると考えられます。

ここまで調べましたが、残念ながら私の疑問は解決していません。作者の意思で削除された「章題」が、なぜ作者の意思を無視して「全集」で復活したのか、疑問は残ったままです。先に紹介した潮文庫版の「解説」で、確かに小田切秀雄も「各章の題はあってもよかったのだが」と書いていますので、文学的センスのない私も「章題」(「鬼哭啾々の秋」「無欲顔貌」「運命の街・広島」「街は死体の襤褸筵」「憩いの車」「風と雨」「晩秋の琴」)があった方が良いように思います。しかし、だからといって「章題」を削除した作者の意思を無視して良いはずはないと思います。

もし「章題」について大田洋子が書いたとする新しい資料が、「潮文庫版」出版以降に発見されたというのであれば別です。ただ今回調べた限りでは、そんな資料が見つかったという研究発表を得ることはできていません。

「全集第一巻」の「解題」には、「*異同 生原稿と底本(冬芽書房版)との主な異同をあげる」として、生原稿が底本ではどのように異同しているかを49点にわたって、丁寧に記述されていますが、「章題」についての記述はありません。

小田切秀雄は、「大田洋子全集」の栗原貞子さんなど6人の刊行委員会のメーバーの一人ですが、「全集」発刊に当たって、「章題」のことは、なぜ問題にならなかったのでしょうか。触れなければならない問題だったと私は思いますが、残念ながら私が調べた限り、触れられた形跡がありません。

私に調べられる範囲は、ここまでです。誰か「屍の街」の「章題」について研究し、「なぜ全集で復活させたのか」その理由を教えて欲しいなと思います。

一回で終わるつもりのー「屍の街」の章題―がこんなに長くなってしまいました。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月24日 (木)

「屍の街」の章題

18日の大田洋子文学碑の碑文と「屍の街」: 新・ヒロシマの心を世界にで、大田洋子の話は終わりにするはずでしたが、「つづき」がでてしまいました。

大田洋子の著書「屍の街」は、様々な形で出版されています。初出は、1948(昭和23)年11月10日発行の中央公論社版です。このときは、アメリカ占領軍のプレス・コードを憚って「無欲顔貌」章を削除して出版しています。この中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に訂正、章題「酷薄な風と雨」に変更して、1950(昭和25)年5月30日に冬芽書房から、出版されました。(以上、1982年発行:大田洋子全集第一巻「解題」より)

今週に入って、書棚を整理している時、目に入ったのが、1972(昭和47)年7月に潮出版から発行された「屍の街」です。この本は文庫本ですが、カバー表紙に丸木位里・俊の「原爆の図」の一部が使われています。このカバー表紙が気になり古本屋で購入したと思われます。

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開いてみる先日手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)にあった「章題」がありません。「エッ?」です。最後まで見たのですが、やはりどの章も数字だけです。

文庫本には、ほとんどの本に「解説」がついていますので、「章題」について何か記述はないかと、「解説」を読むことにしました。

この本の「解説」は、文芸評論家・近代文学研究者の小田切秀雄が「解説ー現代の地獄、その証言」のタイトルで、7ページにわたって書いておられます。その中で小田切は、「章題」を削除した理由を次のように書かれています。少し長いのですが、引用します。

「作者がたまたまそこの居合わせたためにその現世の地獄にまきもまれ、傷ついて死にひんし、空前の大量の死のなかで偶然によってかろうじて生きのび、ペンによってそれの表現にむかって立ち向かっていったのは1945年8月6日、広島にアメリカが落とした原子爆弾による大都市破壊、人間破壊である。そのすさまじさは、現世の地獄、などということばなどではとうていおおいきれぬもので、この作品の各章に、初版本では「鬼哭啾々の」とか「運命の街・広島」とか「街は死の襤褸筵(ぼろむしろ)」という一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ないのだが(それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまったのだが)、この作品の内容を読み進むにしたがってそのどぎついという抵抗感など消えてゆくばかりか、そういうどぎついと見られることばをもってしてもまだ足りないこと、もっとつよいほかのことが必要なのだが、それがまったく見つけにくいほどのものであることが、しだいに明らかになってくる。(その意味では各章の題はあってもよかったのだが、ここではのちに作者が取去ったのに従うことにした)敗戦までのこの作家の仕事につきまとっていた一種の我中心主義風の傾斜と、それにともなう・・・」(原文のママ)

赤字の「私」は、「秋」の間違いと思われます。問題は、私が引いた下線部分です。

作家の作風や文体などのことは、私には分かりませんが、この小田切の解説を読むと、「章題」をとったのは、「作者の意思」であることになります。

私の手元には、「屍の街」が収録された本がもう一冊あります。2011年6月に集英社から発刊された「戦争文学 ヒロシマ・ナガサキ」です。

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すぐにこの本でも「章題」を確認しました。最初の手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)と同じように、「章題」がついています。

「あれっ」と思います。小田切が、解説を書かれた1972(昭和47)年には、すでに大田洋子は亡くなって(1963年12月10日没)います。小田切が指摘しているように「章題」を省略したのが作者の意思であるなら、なぜその後の出版されたものでは、作者の意思を無視したかのように「章題」が復活したのか?ということで。

気になりますので、広島市立中央図書館に行って調べることにしました。その結果は、26日に紹介します。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月 6日 (日)

ひろしまブックフェス

一昨日の散歩は、満開となった平和公園、そして相生橋上流の本川土手の両岸の桜を見ながらの散歩でした。昼前でしたので、あちこちで弁当を広げる姿が目に入りました。

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原爆ドームの写真も撮りました。この時期しか撮れない写真です。

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空鞘橋で折り返し、青少年センターの近くまで来たとき、ゲートパークで古本市をやっていることを思い出し、土手降りました。

大屋根広場を会場に今年で2回目となる「ひろしまブックフェス」が、4日から10日までの会期で開催されています。

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古本市と書きましたが、昨年もこのブログで紹介したと思いますが、この「ブックフェス」は、新刊書店、古書店、出版社、取次という、枠を超えた本の祭典として昨年から開催されています。

会場の一角には、昨年紙屋町シャレオ地下街にて2度、期間限定で開催された「古書店+立ち呑み屋」の複合店舗が,この会場にも展開されています。

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私はお酒を飲みませんので、このテントに入ることはないのですが、昼間だというのに何人かの姿が見えました。立ち飲み屋のすぐ横には、こんなコーナーも設けられています。

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今年初めてつくられたコーナーで、各店がセレクトした震災や原爆に関連する本を集め、1つのブースとして展開します。新刊と古本を合わせ、約300冊が並んでいます。新刊、古本混ざっていますので、気をつけないといけません。

といいつつも、私がじっくりと覗く店は、やはり古本屋さん。

今回は、2冊購入しました。

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わが家の本を少し整理して少なくしなければと思いながら、核に関する本があれば、とりあえず買っておこうとつい購入していまします。いずれも300円ですので、私にとっては安い買い物と言えます。2冊買っても600円です。

この「ひろしまブックフェス」では、本と酒を売るだけでなく、いろいろな企画もあります。その告知がでていました。

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日程を見ると4日5日の開催されるものばかりですので、すでに終了していますが、参考までに紹介します。

4日の「古本屋になろう!相談会」,どんな人が相談に来たのか、ちょっと興味がわきます。いまやネットの時代ですので、店舗を持たずにネット販売だけという古本屋さんも増えているようですので、相談があったかも知れませんね。

とにかく本がならんでいる風景に出合うのは、なんとも言えず嬉しいものです。

大屋根があるとはいえ、本ですので、雨が心配です。そんなことを思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2025年3月14日 (金)

ふくもとまさお著「原発の町から普通の町に」

ドイツ在住の友人福本まさおさんから自著「原発の町から普通の町に」が送られてきました。本には「ドイツはなぜ、脱原発できたのか?」というサブタイトルがついています。

出版社は、東京のアケビ書房で今年3月1日が発行日となっています。

この本は、もともと電子書籍として出版されたものですので、本のあとがきは「紙の本出版に当たり」となっています。その中で福本さんは次のように記述しています。

「ドイツが脱原発できた要因を検証して、しっかり伝えていこう。そう思って、ホームページで連載した記事をまとめて出したのが電子書籍だった。フクシマ原発事故で脱原発を止めたドイツとか、倫理から原発を止めたドイツと、日本においてやたらにドイツの原発が美化されている。ドイツにいるぼくには、それに抵抗がある。ドイツはそれだけでは、脱原発は実現できなかった。

原子力発電をはじめると、原発はすぐに止めることのできるものではない。脱原発にも長いプロセスが必要となる。長い過程においては、いろいろなことが起こる。それに屈せずに、何が起ころうと脱原発を貫徹するには、ドイツの体験から見るといくつもの要因があった。

脱原発は、政治的、法的、経済的、社会的要因が揃わないと実現しない。長い脱原発のプロセスにおいて、社会は原発を必要としない社会へと変化していかなければならない。それは同時に、原発に依存せずに、社会を脱炭素化させていくプロセスである。」

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筆者は、ドイツで30年以上にわたって原発問題について取材してきた一つの集大成としてこの本をまとめています。

この本は、23のタイトルから成り立っています。「出版に当たって」にも書かれていることですが、その1は「ドイツはフクシマ原発事故で、脱原発を決めたわけではない」となっており、ドイツの脱原発政策が、フクシマ原発事故によって決められたことではなく、長い政治的プロセスの中で進んだことを2以降で詳細に記述しています。第2章では社会の変化を記述しています。

私がより興味を持ったのは「第3章これからの課題」です。3章のタイトルの最初の部分を並べてみます。

「12原発が止まれば脱原発を達成できたのか 13ドイツから見た日本の最終処分地選定への疑問 14日本でも脱原発はできる 15脱原発における独日の根本的な違い 16ドイツで原発が復活する可能性はあるか」

以下23まで続きますが「21」は「ドイツの脱原発から何を学ぶ?」です。

このタイトルを見ただけでもこの本への興味がわくはずです。さらにこの3章には、「ドイツの最終処分地選定の試み」「急激な原発拡大は自殺行為」の二つの読み応えのあるコラムが掲載されています。

日本とドイツの脱原発運動の現状をよく知っている福本さんならではの内容と言えます。

「脱原発には長いプロセスが求められる そのために必要なのは何か? 原発が止まっても、原発の遺産からは解放されない」

約100ページ余りの本ですので容易に読むことができますし、脱原発をめざすものにとってとっても興味深い内容となっていますので、ぜひ多くの人に読んで欲しいと思います。

定価は、1,320円で、Amazonで購入できます。

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2025年2月24日 (月)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その2

前置きが長くなりましたが、いよいよ「原爆で死んだ幸子さん」にかかわる栗原貞子さんの体験記です。

栗原貞子さんにとって「隣家の幸子さんの死」は、強い衝撃だったようです。

そのことを示すのが、昨日紹介した「栗原貞子全詩編」で、そこには多くの短歌が収録されています。

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その中に「原爆投下直後」に作られた短歌として「己斐国民学校収容所にて」と題して、「収容所に近づけ行けば車たんか 行きかいしげく血なまぐさきも」を初句として計18首の短歌が収録されています。この短歌を読み進んでいて気になることに気づきました。18首の短歌の後に次のような記述があるのです。

「作者附記 86日原子爆弾の惨状ありて隣家第一県女一年生かえり来まさず、9日ようやくにして死体は己斐国民学校にありときく、即ち叔父君、母君、私の三人で、午後4時より(中略)、私はこのときの情景を、後に『原爆で死んだ幸子さん』の詩に書いた。」

気になることとは、詩「原爆で死んだ幸子さん」の中では、「幸子さん」は、「女学校三年生」となっています。後で全文紹介する体験記には「「家の女学校三年生の『さっちゃん』」と三年生となっています。「栗原貞子全詩編」の「附記」は当然、栗原貞子さんが書かれたもののはずにもかかわらず、なぜか「第一県女一年生」となっているのです。どうにも解けない謎が残ります。

またまた前置きが長くなりました。いよいよ栗原貞子さんの体験記の紹介です。

No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」の中で、栗原貞子さんの肩書きは、次のようになっています。

「廣島郊外祇園町にて罹災をまぬかる35歳詩人 現在生活新聞社 土居貞子」

題はついていませんので、栗原貞子さんの旧姓が「土居」であったことを知らなければ、見逃してしまいそうです。私は、祇園町、生活新聞社の文字が気になり、そして「確か栗原さんの旧姓は土居だった」ことを思い出し、体験記全文を読むことにしました。やはり栗原貞子さんの体験記だと確認しました。そして、「原爆で死んだ幸子さん」の基となる体験記だということに気づいたのです。

先にも紹介しましたが、「栗原貞子全詩編」の注書きには、「作者は、『1952.5.25』と言う日付を入れている。」とこの詩の作成年を記しています。

そうすると、「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」の発行年が、「1950年」となっていますので、この体験記は、当然それ以前に書かれたことになりますので、まさに詩「原爆で死んだ幸子さん」の基になる体験記と言ってようのではないかと思います。

ようやく、体験記の全文紹介にたどり着きましたが、原文は、1500単語という長いものですので、次回に紹介します。

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2025年2月22日 (土)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」ーその1

被爆詩人として原爆の非人道性を告発して多くの作品を残された栗原貞子さんの作品の中で「生しめんかな」とともに繰り返し読まれた詩に「原爆で死んだ幸子さん」があります。

2005年7月に発刊された「栗原貞子全詩編」によれば、「原爆で死んだ幸子さん」が作詩されたのは、「1952・5・25」だとし、「幸子さんは、広島県立第一高女(現在の皆実高校)の一年生で、8月6日土橋の建物疎開に動員されて亡くなった隣家の少女である。」と栗原さんが記していることを紹介しています。

最近本棚を整理していると(いつ購入したのか思い出せないのですが)、この「原爆で死んだ幸子さん」のもととなる体験記が書かれた本が見つかりました。

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その本には「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」のタイトルがついており、奥付は「1950年8月1日発行 発行所 東京都墨田区東両国2-7 自由青年出版社 編集兼発行人 中村武雄」と記載されています。

本を開くと、最初のページに「軍閥への憎しみたぎれ怒りもえよ ああ崩れゆく呪われし街 宗俊」という短歌とともに「長崎上空における原子雲」「瓦礫の街と化した広島市」の説明文がつけられた2枚の写真が掲載されています。

次のページの見開きには、峠三吉の「八月六日」の詩が、丸木位里・赤松俊子共同制作「原爆三部作」のうち壹の部の一部の絵が掲載されています。

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この本、ただ者ではないように思えます。

「まえがき」もなければ、「あとがき」も、「目次」もありませんが、ページをめくると次々と体験記や手紙、詩などが掲載されています。それぞれの多くには、冒頭に「宗俊」の名前で短歌つけられています。「宗俊」は、深川宗俊さんだと思われます。被爆の傷跡が残る被爆者や被爆後の街の様子を映した写真が、何枚も載っています。

四國五郎さんの「こころに喰いこめ」と題した詩、峠三吉の「影」、そして赤松俊子さんのデッサンが何枚もカットで使われています。「ストックホルムアピール」も掲載されています。

最後に掲載された「平和への訴え」と題したアピール文は「広島平和擁護委員会世話人会」となっていますので、この組織に所属する人たちが、発行したものと思われます。

実は、この中の一片に栗原貞子さんの「原爆で死んだ幸子さんの死体を引き取りに行った」体験記があるのです。

体験記を全文紹介するつもりですが、「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」について、もう少し触れさせてください。

1950年の印刷ですので、不鮮明な点はありますが、この時期にこれだけ多くの被爆関係の写真を掲載し、被爆の実相を伝える体験記が記述された本が、プレスコードがある中で、よく無事に発行できたなという思いがします。東京の出版社が発行していますので、全国で販売(定価は25円となっている)されたと思われますので、余計にそう思います。どういう経緯があったのでしょうか。もうこの時期には、プレスコードによる検閲もそんなに厳しくなかったのでしょうか。

私が原水禁運動の歴史を考える中で、全国的に広島、長崎の被爆の実相を伝えた出版物は、サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月27日)によってプレスコードが失効した後、「原爆被害の初公開」とタイトルをつけて発行された「アサヒグラフ 1952年8月6日号」とばかり思っていたのですが、これを訂正しなければならなくなったように思います。

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ここまでが長くなってしまいましたので、紹介しようと思った栗原貞子さんの体験記は、次回紹介します。

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