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映画・テレビ

2024年8月24日 (土)

在ブラジル被爆者森田隆さんの訃報とMOVIE「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」

「我々ブラジル在住の被爆者が連絡して活動を始めてから、早くも40年が過ぎていきました。当時年長では無かった私も百歳を超えました。そして、何よりも我々が願望した幾つかの成果を達成することが出来たと思います。(中略)

1984年協会を設立し、数え切れない多くの協力者に支えられ、励まされながら運動を続けてくることが出来ました。奇しも皆さまが我々の活動の支援のために会を結成されたのは、2002年3月2日、私の78歳の誕生日でした。そして当時、在外被爆者の運動も一番難しい、待ったなしの時期でした。(中略)

我々の会も、2020年 念願の現地医療機関で治療の実現を達成できました後、そして、世界でのコロナウイル感染危機の際、ブラジルの規則に基づいた正規の会としては終了しました。

その後は、元役員達の協力と尽力の元、出来る範囲内で残り少なくなった同胞達のお手伝いをしております。また、ブラジル社会の若人への平和活動は、私も命有る限り参加したと願っておりますが、現状の世界情勢を考えますと只々心が痛みます。

いつの日か、この世の戦闘の無い平和が実現出来ることを祈り、私たちの皆さまへのお礼のメッセージとさせていただきます。

2024年7月 ブラジル・サンパウロより

森田隆」

このメッセージは、現地時間8月12日午後5時55分、逝去された在ブラジル被爆者森田隆さんから、7月28日に「在ブラジル・在アメリカ被爆者を支援する会」の活動に区切りを付けようと関係者が集まり開催された懇談会に届いたメッセージです。

この懇談会で、百歳の誕生日を、そして5月4日にブラジルを訪問した岸田首相と面談し、自伝の本を手渡すと共に「核廃絶」を強く訴えた森田さんの元気な様子を話し合ったばかりでしたので、森田さんの訃報を伝える14日の中国新聞を只々驚きと悲しみで読むしかありませんでした。

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岸田首相との面談前の左から盆小原さん、森田さん、渡辺さん

その後、中国新聞紙面では、かつてブロジルを訪問し森田さんとずっと親交が続いていた森田裕美さんが何度か思い出の記事を書かれていますので、読まれた方も多いと思います。

この森田さんの訃報が届いた同じ時期に計画されたのが「MOVIE&TALK 岡村淳の世界」でした。

森田裕美さんの記事で「森田隆さんの活動を紹介した映像も上映される」と書かれていましたので、18日に観に行ってきました。

森田さんたち在ブラジル、在南米被爆者を紹介する映画は、1955年にテレビ放映するために製作された「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」で、30分の映像でした。

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この映画の主役の森田隆さんと制作者の岡本淳さんは、町内のお付き合いという関係にあったそうですので、30分の短い映像でしたが、ずいぶんと掘り下げた内容の作品でした。

そして何よりも、私たちが出合う前、苦悩しながら懸命に在ブラジル、在南米の被爆者のために奔走されている森田隆さんの姿を見ることのでき、見に来てよかったと思う映画鑑賞でした。

岡本さんの話の中で、被爆者森田さんとの出会いを書いた本「忘れられない日本人移民」が紹介されましたので、帰宅後すぐにAmazonで購入しました。

その本には、私の知らない森田さんの姿が紹介されていましたので、懐かしく読み進みました。

いのちとうとし

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2024年7月12日 (金)

映画「RICHLAND」リッチランド

8月3日からの広島本上映に先駆けて7月9日午後6時半から横川シネマで映画「RICHLAND」(リッチランド)の特別先行上映&監督トークがありましたので、見に行ってきました。

映画の内容を紹介できませんので、チラシに書かれた文章の一部を引用します。

「アメリカ北西部で太平洋に面しカナダと国境を接するワシントン州南部にあるリッチランドは、平和で美しいアメリカの典型的な郊外の町です。

そのリッチランドは、核兵器開発マンハッタン計画における核燃料生産拠点『ハンフォード・サイト』で働く人びとと家族が生活するためにつくられた町です。1945年8月9日、長崎に投下された「ファットマン」のプルトニウムは、ハンフォード・サイトで生成されたものです。

終戦後は、冷戦時に数多く作られた核兵器の原料生産も担い,稼働終了(筆者注:1987年)した現在は国立歴史公園に指定(筆者注:2015年)され、アメリカの栄光ある歴史を垣間見ようと多くの観光客が訪れている。」

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リッチランドで思い出すのは、高校の校章に「キノコ雲」を描いていることです。確か、このことが明らかになった頃の1988年6月の第3回国連軍縮特別総会に参加するため渡米した広島県原水禁の代表団が、ハンフォードを訪れ核汚染を告発する市民と交流した歴史です。

映画「RICHLAND」は、「原爆は戦争の早期終結を促した」と誇りを口にする人びと。リッチランド高校の「キノコ雲」が町のいたるところで掲げられている。町の歴史を誇りに思う者がいる一方、多くの人々を殺りくした“原爆”に関与したことに逡巡する者、そして核廃棄物による放射能汚染への不安を今も抱えながら暮らしていく者。そうしたさまざまな市民の姿を描いています。

私が映画を見て一番興味を持ったのは、ネイティブアメリカン(アメリカ先住民族)とハンフォード・サイトとの関わりです。

ここはコロンビア川、スネーク川、キマ川の合流点に当たり、伝統的にネイティブアメリカンが住んでいた土地でしたが、ハンフォード・サイトを作るため、古来そこで生活してきたネイティブアメリカンを追い出し奪った土地だということです。

映画では、ネイティブアメリカンの古老が、そのことを語るシーンが出てきます。

ネイティブアメリカンの核被害については、ウランの採掘との関わりで理解をしていたつもりでしたが、核開発それ自体によっても犠牲を強いられてきた歴史を新たに知る機会となりました。

映画を見ての一番の感想は、そのことです。

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上映終了後、アイリーン・ルスティック監督とこの映画に出演するアメリカ在住の被爆3世川野ゆきよさん(オンライン)のトークがあり、参加者の感想もいろいろでましたが、私にとっては、このネイティブアメリカンとの関わりを知っただけでも、この映画を見に来た甲斐があったように思います。

広島での本上映は、横川シネマで8月3日から823日までのロングランで公開されます。「アメリカが“核”とどう向き合って来たのか」を知る機会になる映画だと思いますので、ぜひ足を運んでみてください。

いのちとうとし

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2024年2月 9日 (金)

映画「寡婦たちの村」

カナダのウラン採掘による先住民族の被曝を扱った映画「寡婦たちの村」の上映会&トークが、4日の午後2時から広島市民交流プラザで行なわれました。

カナダのウラン鉱山は、早くから採掘が行なわれ、第2次世界大戦中のアメリカの原爆開発に寄与したとされ、広島、長崎に投下された原爆の原料の一部になったとも言われています。

この映画は、先住民族サーツ・デネとカナダ北西準州のウラン鉱山の歴史に光を当てたドキュメンタリー映画で、1999年に上映されましたが、長く広島で知られることがありませんでした。最近、アメリカやカナダにおける原爆・核エネルギーをめぐる言説あるいは文化表象を研究対象している広島大学松永京子准教授によってその存在が明らかになりました。

当時は、日本語字幕はなかったようですが、松永さんの努力によって、日本語字幕版が完成し、昨年12月10日にピーター・ブロー監督を広島に招き、初めての上映会が行なわれ、その後大阪大学でも上映されました。今度の上映会が3度目ということになりました。

私の記憶にはないのですが、サーツ・デネの代表団8人が、1998年8月に広島を訪れ、広島の被爆者や渡日治療中に在韓被爆者との交流や平和記念式展への参加を行なっています。ピーター・ブロー監督もこの訪日に同行し、その時の様子も含めて作成された映画が、「寡婦たちの村」です。

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今回の上映会は、この映画を日本に紹介した松永京子さんや、当時広島での受け入れに協力した韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部、第九条の会ヒロシマなどの主催で開催されました。

映画の上映の前のトークでは、サーツ・デネの代表団が広島を訪れたときの様子が、それぞれの団体の代表から紹介されました。

トークのメインは、松永京子さんの「『寡婦たちの村』の背景とその後をめぐって」の報告です。その一部を紹介します。

ウランが採掘されたポートラジウムは、カナダのノーストウエスト準州のグレートベア湖の東岸にあり、北米最大のウラン産地で1942年から1960年にウラン採掘が行なわれ、アメリカに輸出されています。

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ノースウエスト準州とグレートベア湖(赤い矢印)

サーツ・デネ人の住む村デネリは、グレートベア湖の西岸にあり、ウランなどの鉱石をこの湖の東岸から西岸に運搬する作業に30人以上がかかわっていたようです。当時の村の住人は、約600人。もちろん、その危険性が知らされることはありません。その結果、1970年代から1998年までに少なくとも14名ががんで死亡しています。運搬中にこぼれた鉱石や湖に投棄された鉱滓、残土による汚染、さらに鉱石の袋などが先住民族の住宅のテントなどに使用したため汚染は広がったのです。

それらの事実をデネ人が「公式」に知ったのは、1980年代半ばです。

ピーター・ブロー監督は、1985年にデネの人と出会い、1997年からデネリに入り、1998年の広島訪問にも同行したのです。

ずっと無視し続けてきたカナダ政府が、「寡婦たちの村」の上映をきっかけとして、ようやくポートラジウムのウラン採掘による環境と人体への影響調査を実施し、2005年8月に100ページにわたる最終報告を出しました。しかし「特定の個人の死や病気が,放射線被曝によるものかどうかを確実に知ることは可能でない」と,その因果関係をほぼ否定する内容でした。

こうしたカナダの先住民の核被害の実態は、私にとって初めて聞く話でした。先住民が核サイクル社会の犠牲者になり、その被害が無視されていることを改めて認識させられる映画上映&トークの集いでした。

同時にサーツ・デネの人々は、運搬と鉱滓の投棄などによる核被害者ですが、鉱山の採掘現場で働いていた人たちはどういう人たちで、その後どうなっているのか、調べてみたいと思います。

そして、核兵器禁止条約でこの人々がきちんと救済の対象となるようにするのも私たちの課題だということも突きつけられることになりました。

いのちとうとし

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2023年12月14日 (木)

福田村事件

「福田村事件」という映画をご存じですか?

今年は関東大震災から100年。資金が集まらない中、クラウドファンディングでの寄付も得て製作された映画です。近くの映画館で上映していることを知り観に行きました。

香川県の行商団が、東京に向かう途中関東大震災が起こり、混乱の中自警団に虐殺されるという悲撃のストーリーです。村人は政府が流したデマ(朝鮮人が井戸に毒を放り投げているなど)に怯え疑心暗鬼に陥り、行商団を朝鮮人だと思い込み、15人の内9人を虐殺しました。クライマックスのシーンはあまりにむごたらしく直視できませんでした。自分や家族を守るために殺さなくてはという集団心理が働き、誰も止めることは出来ませんでした。

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この映画が事実を元に製作されたことを知り、ただただ驚いたのが素直な感想です。こんな愚かで悲惨な事件が起こってたなんて。殺されてもいい命はありません。

ウクライナやガザで起こってることも同じです。歴史を振り返ると、何かが起きたとき必ず差別が噴き出します。

日々私たちはどれだけ差別や不合理と向き合っているでしょうか。おかしいことはおかしいと言い続けなければ、何か起きたときに遅いのです。止めることはできません。

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2022年8月11日 (木)

「テレビが記録したヒロシマ」-NHK・民放番組上映会2022

広島平和記念資料館東館地下ホールで、今月7日から始まっていた「テレビが記録したヒロシマ-NHK・民放番組上映会2022」に、最終日の昨日行ってきました。

この上映会は、NHK広島放送局、中国放送、広島テレビ放送、広島ホームテレビ、テレビ新広島の5局が協力し、被爆70周年の2015年から開始した取り組みです。コロナ禍で2年間開催できず、今年は3年ぶりの開催となったようです。各局が制作した核・平和関連の番組の中から、各局が選んだ14本の番組の中から、午前10時開始午後6時終了で、1日9本から11本の番組が上映されました。

私が訪れた最終日の10日は、4日間の中でも最も多い11本を上映するスケジュールになっていました。

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私が会場を訪れたのは、午前10時少し前でした。会場には、一人の姿も見ることができませんでしたが、上映が開始される午前10時過ぎには、10人余り参加者がありました。

最初の上映は、広島テレビが今年3月13日に放送した「あきらめない 被爆者・坪井直 96年の生涯」です。上映時間は25分、生放送で見た記憶のある番組でした。短い番組ですが、コンパクトにまとめらており、改めて坪井さんの足跡を振り返ることができ、もうあの声を直接聞くことができないのかという思いがつのりました。

5分間の休憩の後、2本目の広島ホームテレビ作成の「私は何者なのか~原爆孤児となって~」の上映が始まりました。このころになると20人ちょっとの観客になっていました。上映時間は、52分。配布されたパンフレットのよれば「4歳の時被爆した『田中正夫』のルーツを探す旅」を追う番組で、2019年12月28日放送となっていますが、見た記憶がない番組でした。

あと9本の番組が上映される予定ですので、全部見たい思いもありましたが、別の用事もあり、ここで退席しました。

会場には、途中の出入りもありましたが、常時20人以上の観覧があったように思います。特に、旅行で平和公園を訪れた途中と思われる親子連れの姿が目に付きました。

広島の放送局が、被爆地ならではの視点から制作した番組ですが、民放では多くが県内エリアのみの放送で、全国で放送される番組は、少ないように思います。

その意味では、ほとんど見る機会のなかった県外からの参加者が多かったのは、良かったなと思います。

ただ、今回選ばれた作品は、最も古いもの2017年で、ほとんどがここ2~3年に制作されたものですので、私の感想からいえば、もう少し古い時代(1990年代)のものも上映するようにしてほしいなと思います。

というのも、今年5月頃から(気がついたのはその頃)中国放送が、199年代作成の古い番組の再放送(深夜なので録画をして観た)しており、強い印象を受けたからです。

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会場を出て、1階に上がると資料館入館を待つ長蛇の列(外にも続く)がありました。

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2022年4月24日 (日)

映画「私はチョソンサラムです」上映会とトークイベント

今日午後1時から西区民文化センターで、映画「私はチョソンサラムです」の上映会とトークイベントが開催されます。

「植民地と分断の歴史を生き、今も残る日本社会の差別の中、なぜチョソンサラム(朝鮮人)として生きようとするのか。

日本で生まれ韓国に留学し、祖国でスパイという冤罪で死刑判決を受け、その後、再審無罪を獲得した『政治犯』たち。

子どもたちのアイデンティティを確立するために民族の言葉や文化を学ぶ朝鮮学校。

日本政府による「高校無償化制度」適用除外という差別。

分断を乗り越え、自主的に平和的な統一を実現するために取り組んでいる活動家たち。

韓国の金哲民(キムチョルミン)監督が、18年の歳月をかけて作成した、在日朝鮮人の生きざまを紹介する貴重なドキュメンタリー映画です。」

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チラシに書かれた映画の紹介文です。

映画の上映後、映画に登場する康宗憲さん(韓国問題研究所代表)、金昌五さん(在日韓国民主統一連合大阪本部副代表委員)、朴錦淑さん(京都朝鮮中高級学校オモニ会元会長)の3人によるトークイベントも開催されます。

この映画は、2019年に作成され、2020年の11月に広島をはじめ全国10箇所で上映をされました。その映画を見た広島の有志が中心となり、実行委員会が結成され今回の上映が企画されました。当初、1月16日に開催する予定でしたが、コロナの影響で延期となり、今日の開催となりました。

私も知っているようで知らない在日朝鮮人の人たちの姿を知ることができる上映会だと期待しています。

いのちとうとし

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2021年1月 3日 (日)

違和感を感ずるオリヅルタワーからの映像

元日に平和公園を訪れ、対岸から原爆ドームを見た時、その右横に写るオリヅルタワーを見て、思い出したことがあります。

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昨年放送されたある番組を思い出しました。その番組は、11月30日に放送されたNHK広島放送局と広島テレビが今年何回か行ったコラボ放送の最後の回「被爆75年ヒロシマの記憶を伝える」です。

夕方5時台と6時台との2回に分けMHKで言えば「お好みワイド広島」の特別編として放送されたこの番組は、いくつかの被爆建物を訪ね、広島を考える内容でした。

「わたしもこの番組を見た」というひとも多いと思います。この時取り上げられた被爆建物は、現在広島市郷土資料館として活用されている旧陸軍糧秣支廠、宇品線もちょっとだけ映像が流れます。そして陸軍被服支廠、現在原爆ドームと呼ばれている産業奨励館、平和公園内にある改修工事を終えたレストハウス(当時の大正屋呉服店)、被爆建物ではありませんが、平和公園の下に眠る当時の街並みや暮らしです。

被爆建物の紹介には、初めて知ることも多く非常に参考になりました。例えば、「産業奨励館は、4角形に建てられているのではなく、正面と裏面は、カーブした状態で建設された。前を流れる元安川に綺麗な顔を見せるためにそういう設計がされた。後ろ(川と反対側)に廻って良く見るとそれを知ることができますよ」いう案内役の高田真さん(アーキウォーク広島代表)の話や原爆資料館の下から出土し保管されている被爆遺物の紹介などなどです。

資料館下から出た被爆遺物として映し出された「炭化したふすまの取っ手」を見た時、現在進んでいる平和公園の地下遺構保存予定地の貧弱な遺構が思い出され、本当にこの場所でよいのかと、考えさせられました。

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番組全体は、解説もわかり易く、参考になる古い映像や写真も多く使われており、豊富な内容だったと思います。2回に分けて放送されたすべてを録画して大切に保存しています。

私が、違和感を持ったのは、ライブ中継の会場としてオリヅルタワーの屋上が使用されていたことです。もともとオリヅルタワーそのものに疑問を持っていますが、そのことは別にしてです。

原爆ドームを消化する映像が流れる前に、オリヅルタワーの屋上に4人が並んでいる映像が映されました。

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すぐに画面が振られて「原爆ドーム」を上から眺める映像に画面が変わりました。

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この画面を観て、どう感じますか。私が感じたことは、上からの視線は、原爆を投下したエノラゲイに通じる視線ではないのかということです。アメリカ軍が映したといわれる原爆投下後のきのこ雲が沸き上がっている写真は、間違いなく原爆を投下した側からの視線です。そこには、地上で起きている生き地獄の景色を見出すことはできません。大事なことは、上からの目線ではなく、人々の目線の中で何が起きていたのか、その事実に向き合うことだとわたしは思っています。原爆の惨禍を伝える原爆ドームを上から眺めることは、私にとってはどうしても原爆を投下した側からの視線を感じてしまうのです。そう思うのは私だけでしょうか。

この違和感を持ったのは、今回だけではありません。これまでにもオリヅルタワー屋上からの映像を見る度に感じてきたことです。原爆ドームを上から眺め、そして平和公園を俯瞰できる映像ですから、メディとしては、使いたい場所でしょうが、ちょっと考えて欲しいことのように思います。

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2020年8月26日 (水)

長崎の原爆犠牲者数―7万3884人

8月9日24時55分から広島テレビで放映された「NNNドキュメント シリーズ戦後75年 8.9長崎が壊された日~下平作江 75年の闘い~」の中で、「えつ」と思う数字に出会いました。この番組は、10歳の時爆心地から約800メートルで被爆し、母、兄、姉を原爆で奪われ、一緒に被爆した妹さんは、10年後に自殺するという苦しい体験を語り続ける下平作江さんをとりあげた作品でした。下平さんは、私たち広島県原水禁が、原水禁長崎大会に参加した時、8月9日の閉会総会前にお参りする城山小学校(当時は城山国民学校)

の生徒でしたので、余計な関心を持ってみました。「観た」と言っても、当日の深夜の放映でしたので、数日後に録画した映像を見たのですが。

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その画面を写したものですので、ちょっと見にくいのですが、右下に「死者 7万3884人 負傷者 7万4909人 (昭和20年末までの推定」)」と書かれています。録画した画面ですので、ここで一時停止をして、スマホで映しました。

「えっ」と思ったのは、この数字です。死者数が、一ケタまではっきりと示されていたことです。広島の犠牲者は、「14万人±1万人」と言われているのに、どうして長崎は一ケタまではっきりしているのだろうか、疑問が湧きます。

番組は、長崎国際テレビが製作したものだということが分かりましたので、「視聴者の声投稿フォーム (視聴者の声)」を通じて「この数字の根拠は何でしょうか」と問い合わせました。その日のうちに答えが返ってきました。

「お尋ねの件ですが、原爆資料館のホームページをみると、『死者73,884人 重軽傷者74,909人』と記載されています。『この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものですが、これが今日の通説になっている』と書いてあります。」

さらに、「長崎原爆資料館のhttps://nagasakipeace.jp/japanese/abm.htmlホームページを開き、「原爆の記録」→「被爆の惨状」→「原爆の威力」の順に開いていくと、上記の記述が出てきます。よろしいでしょうか?」と検索方法まで教えていただきました。

早速、指示された通りに検索していくと、確かに「被害状況」として「回答のとおりの数字と『この数字は』という但し書き」が記載されていました。さらに、死者のみならず重軽症者、罹災人員、罹災戸数、全焼、全壊、半壊についてもすべて一ケタまで明示した数字が記載されています。

しかし、ここにはテレビ画面にあった「昭和20年末までの推定」という「推定」という言葉は全く見当たりません。にもかかわらず「今日の通説」という言葉が使われています。「通説」をどう理解すればよいのかと、他の資料をさがしてみることにしました。

広島、長崎両県市が毎年7月に発行している「原爆被爆者援護事業概要」の長崎市版をホームページで検索しました。その中の「第2 原子爆弾の投下と被害状況」の「2 被害状況」に長崎原爆資料館に記載されている「長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告」の数字が記載されていました。ただし、ここでは前段に「原爆中心地は、ほとんど全滅の状態でたまたま被爆地域外に旅行中の者、又は外出中の者あるいは横穴壕などに入っていたごく僅少の者が被害を受けなかった程度で、町内会長、隣組長等の町内の幹部も大部分死亡又は行方不明となったため、正確な死傷者を調査することは困難であった。」と、この数字が正確な数字でなかったことが推測できることが明記されています。

もう一つは、1976年に広島・長崎市の連名で出された「核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請」です。ここでは、1945年末までの原爆による死亡者数として「長崎は、約7万人(誤差±1万人)」としています。

私が、「死者 7万3884人」という数字にこだわるのは、一ケタ台まで明示するということは「犠牲者の名前が明らかになっている」と誤解を与える危険性があるからです。ここまでの人数を明示するのであれば、その中に外国人被爆者は何人、特に朝鮮半島出身者はと明示されてもおかしくないはずです。

しかし、広島がそうであるように、長崎でも実態調査は事実上困難なのですから、そうであればそのような死者数を掲げるべきだと思います。

長崎市の「原爆被爆者援護事業概要」を調べていると、そこに意外な広島の犠牲者数が明示されていることを知りました。次回報告したいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月24日 (月)

安保法制に反対する府中市民の会の8.19リレートーク

府中市の小川敏男さんから、「府中市民の会の8.19行動」の写真とともに次の原稿が送られてきました。小川さんの了解をいただきましたので、紹介します。


今年は戦後75年、広島の暑い夏が終わりました。今年は新型コロナウイルス対策のため平和祈念式典などの行事に参加できませんでした。そこで阿川弘之さんの「春の城」を読んでみました。いまや阿川弘之さんより娘さんの阿川佐和子の方が有名です。土曜日の朝7時30分からの「サワコの朝」を見ておられる方も多いと思います。肝心な小説「春の城」のことですが、内容は第二次世界大戦という激動の時代を生きた青春物語です。広島の原爆の惨状などが詳しく書かれていますが、戦争の状況について次のように書かれています。

大学を卒業と同時に海軍の軍務に服し、コロナウイルス発祥の地・武漢(漢口)へ派遣されますが、その地の海軍の状況を『海軍士官専用の慰安所がある。参謀達もその他の士官達も、連夜此処で酒と歌と女で暮らしていた。耕二も着任後屡々(しばしば)此処へ遊びに通ったが、比島沖海戦の終わった頃、知らない民間人から『毎晩あの馬鹿騒ぎでは、海軍も負けるのが当たり前ですね』と云われ、なさけない気がして、それ以来ふっつり行くのを止めて了(しま)った。」と。

比島沖海戦とは、1944年10月23日~26日、フィリピン周辺海域で行われた日米両艦隊による海戦で、参加兵力(日本側水上艦艇77隻、飛行機約700機、アメリカ側152隻、約1300機)、先頭距離、死傷者数などにおいて史上最大の海戦と言われている。 

8月8日付の中国新聞には、一橋大名誉教授(東京大空襲記念館の館長でもある)吉田裕(ゆたか)さんの「日中戦争以降の全ての日本人の戦没者は軍人と民間人を合わせて約310万人だった。戦艦大和などの艦船の沈没による戦死者が約36万人にもなっている」との記事が掲載されていました。

 片や毎晩の馬鹿騒ぎ、片や海軍の艦船の沈没による戦死者が約36万人。いろんな行事に参加はできませんでしたが小説「春の城」を読んで学ぶことは多いと思ったところです。

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そして8月15日夜に放映されたNHKの「忘れられた戦後補償」では、「国家総動員体制で行われた日本の戦争で310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は民間人だった。しかし、国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象として補償してきた」という内容をとりあげていました。

この「忘れられた戦後補償」は、「軍人と民間人を区別しないドイツとイタリアと、民間人を補償の対象としない日本の違いは何なのか、国家が進めた戦争の責任を問う」番組でした。日本は軍人や軍属には60兆円の補償がされましたが、空襲被害者などは何も補償されていません。

現在の福島原発の被災者や新型コロナウイルスで休業を求められた商売人の人はわずかしか補償されない理由がよくわかります。日本政府は民間人に冷たく権力に近い人には手厚いというのが戦後一貫国の政治姿勢だということです。

安倍首相は、森友や加計学園に見られる民間人に冷たく権力に近い人には手厚いという政治姿勢を貫き、いま日本の防衛を「専守防衛」から、新しく外国の基地を攻撃する「敵基地攻撃」という方向に変えようとしています。

しかし、8月2日の中国新聞に掲載された全国世論調査では「専守防衛を厳守」が76%だったのに対し「憲法9条を改正し軍隊として明記」は17%だったと報道しています。世論調査結果からも国民は誰も敵基地攻撃を求めていません。安倍首相が進めている敵基地攻撃という新しい方向に反対していきましょう。そのためにも安保法制反対の取り組みにご支援をお願いいたします。

小川敏男


小川さん、ありがとうございました。私もNHKの「忘れられた戦後補償」を同じ思いで見ました。

いのちとうとし

       

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2020年7月 1日 (水)

「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

「無責任」の論理構造 (4)

――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

 

前回述べたように、「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。それから60年以上経った今、「一億総白痴化」はさらに進行しているはずです。今の政治状況をどんな言葉で表現すべきなのか皆さんのお知恵を拝借したいのですが、ここではその一面に焦点を合せています。

つまり、安倍政治の特徴とも言える「無責任」体質です。その「無責任」体質は、前回説明した「憲法マジック」と、今回取り上げる「説明責任」――それは「一億総白痴化」の現代的な象徴なのですが――によってその輪郭が決っているというのが本稿の主張です。

「一億総白痴化」をもう少し詳しく見ると、大宅壮一氏の指摘したテレビ番組の低俗さ、という誰にでも分る現象だけでなく、余りにも多くの人が何となく受け入れてしまっていて、その不自然さや歪みに気付かないような、つまり見落としてしまっても不思議ではない「微妙な」あるいは「微細な」現象に気付くはずです。今回はそのうちの一つを取り上げ、問題が如何に深刻なのかを確認したいと思っています。

それは「説明責任」という表現です。森友問題や加計スキャンダル、そして桜を見る会の醜聞について、安倍総理は「説明責任」を果していない、「説明責任」くらい果しなさいという声が大きかったことは記憶に新しいと思いますが、それは、国会や記者会見でそれぞれの事例について納得の行く説明をしなさい、という意味でした。それは当然です。

「納得が行く」という点では、私たち主権者の要求に応えてはいませんが、意味のない言葉をペラペラ並べることが「説明」だと強弁することも可能です。そんな御託を並べて、その場凌ぎの言い抜けを続ける「安倍の理屈」(アベノリクツ)では、「説明責任」を果したことになってしまいます。恐らくこんな解釈が罷り通っているから、何事にも「無責任」な結果が現れることになるのではないでしょうか。

しかし国会で、質問に対して答弁を拒否した回数が、2012年からつい最近まで、総理以下大臣や政務官等、答弁する義務を負っている人たちについては、6532件もあることが、フリージャーナリストの日下部智海さんの調査で分っています。

大臣たちは、国会で議員の質問に答えなくてはならないという義務を負っているというのが国会法の決まりであり、これまでの慣行だったのです。それが無視され続けている背景にも、「説明責任」という言葉で「責任」そのものの意味を薄めてしまったという事実があるのです。

もう一度、「説明責任」の意味から考えてみましょう。まずはウイキペディアを見てみましょう。

 

説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー英語: accountability)とは、政府企業団体政治家官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主従業員従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。

 

ここで注目して欲しいのは、「説明責任」という言葉が、英語の「accountability」の訳語であること、そしてゴシックで強調されているように、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定しているという点なのです。

「accountability」の形容詞形は「accountable」で、その受身形である「be held accountable」も良く使われます。最近のニュースでこの表現が何度も聞かれたのは、ミネアポリスで起きた警官による黒人男性、ジョージ・フロイドさん殺害事件についての市民の声としてでした。警官が、フロイドさんの頭を地面に頭を押さえ付け、フロイドさんの頸部を8分以上も膝で押し続けた結果、それも「息ができない、助けけてくれ」という懇願を無視しての8分なのですが、その結果、フロイドさんが死亡したという事件です。

Black-lives-matter

「Cops are accountable (警官は責任を取れ)」という言葉が書かれています

 

これに憤激した世界中の多くの人たちが抗議活動を始め、「Black Lives Matter」という標語とともに、黒人の生命を尊重すべきだという、当たり前すぎる主張が全米、そして世界を覆い、1968年の大抗議運動を彷彿とさせるレベルの大きな動きになっています。その出発点になったのは、警察官を非難する市民の声でした。その典型的なもののひとつが、「He should be held accountable」でした。そして「Cops are accountable」です。「cops」(複数)は、警官の俗称ですが、訳としては「警官は責任を取れ」くらいが良いのではないかと思います。

しかし、日本全国で「常識」として流布されている「accountability」 = 「説明責任」という固定概念を元に訳すと、その意味は、「警官に説明を求める」という意味になってしまいます。でも、フロイドさんの死についての言葉として、これがいかに現実離れしているものなのかは、皆さんもうお分りですね。

済みません。今回も長くなってしまいました。これで完結してはいませんので、残りは次回、7月11日にアップします。

[2020/7/1 イライザ]

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