「広島ブログ」

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日記・コラム・つぶやき

2022年10月 7日 (金)

原爆犠牲者の月命日の法要-その1

平和公園の原爆供養塔には、身元が分からないか、判明しても引き取り手のない遺骨約7万体が、納められています。

その原爆供養塔の前で、毎月6日に犠牲者の月命日の供養が行われていますが、私も昨日初めて参加しました。

以前から、新聞報道などでこの月命日の供養は知っていましたが、実際に自分も参加しようと思うきっかけとなったのは、今年8月6日にTSS(テレビ新広島)で放送された「ヒロシマ祈りの場の1年」を見たことです。この番組は、「祈りの場」としての平和公園で毎日行われている市民の様々な祈りの様子を昨年8月から今年7月までの一年間を通して取材して作られた番組です。

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テレビ新広島ホームページより

 この番組を見ながら、思い出しことがあります。この番組を制作した前田典郎ディレクターには、今年の元日が平和公園の原爆慰霊碑を訪れた時、そこで会い、新年のあいさつをしたのです。その時には、「新年早々から取材で大変だな」ぐらいにしか思っていなかってのですが、いまにして思えば、この番組を制作するための取材中だったのです。

番組の中心は、毎日夜明けとともに公園内にある原爆供養塔にやってきて、供養塔周辺の落ち葉を丁寧にかき集め献花台を清掃しておられる渡辺和子さんの姿や、毎月6日に月命日の供養のための読経を続けておられる呉市の白蓮寺住職の吉川信晴さんの姿でした。

昨日、ようやくこの月命日の供養に参加することができました。前夜に前田ディレクターに電話をかけ「いつ頃から始まりますか」と訊ねたところ「吉川住職は、8時ころには平和公園に来ておられます。始まるのは、はっきりと決まってはいないのですが、8時半前後ですね」と教えていただきましたので、遅れないようにと8時を目途に家をだました。

家を出ると、少しだけパラパラの小雨が落ちてきましたので「本格的な雨にならなければよいが」と心配しましたが、平和公園に着くと間もなく雨は上がりました。

供養塔に行くと三人の人が、清掃されている姿が目に入りました。

供養塔の周りの溝の掃除をされているのが、渡辺和子さんでした。

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供養塔の北側で熱心に落ち葉を集めておられる二人に「どこから来られたのですか」と声をかけました。

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びっくりする答えが返ってきました。「福岡から来ました」「えっ」聞き返しました。聞き違いではありません。「福岡」に間違いありませんでした。続けて「福岡で放送された『ヒロシマ祈りの場の1年』を見たのがきっかけで。どうしてもとの思いできました。」とのことです。番組を見て私と同じ思いをもった人がおられたのです。しかも福岡から。

福岡のお二人と話していると、前田ディレクターの姿が見えました。福岡のお二人の話をした後、前田ディレクターが「住職が近くで待っておられるのであいさつに行きます」とのことですので、同行させてもらいました。

吉川住職とお会いするのはもちろん初めてでしたが、少しだけ話を聞かせていただきました。「今朝は、6時45分に家を出かけ、呉市体育館前から高速バスに乗り、本通前で降りて、歩いてここまで来ました。今日は少し早く着きましたので、ここでゆっくりしていました。」その後、介護度5度の奥さんの介護のことに話が続きます。食事つくりから大変な毎日のようですが「もうすぐ86歳になりますが、介護のしながら、学ぶことが多いですよ。」と淡々と話されます。後で改めて聞いたのですが、私と干支は同じ、ネズミ年生まれ、ちょうど一回り違いです。私たち夫婦もそんな時期を間もなく迎えるけれど、そんなふうに生きられるかなと思いながら、話を聞いていると、すぐに30分くらいの時間が経ちました。「じゃー、供養を始めましょうかね」と読経が行われる供養塔の北側に一緒に移動しました。

前置きが長くなってしましました。今日の報告はここで終わりです。この後の様子は、9日に紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その37-2)ベトナム象、広島を歩く-1のつづき

ベトナム象との出会い

現代の〔足跡第一号〕は分かりましたが、〔歴史をさかのぼって最初に広島県・東広島市に足跡を残した人は?〕を調べる課題は残ったままです。どうやって調べたらよいか、広島県立文書館にベトナムとの関わりを示す記録や古文書の存在と調べ方をお尋ねしましたが、思うように進みません。

そんな折、所属している東広島郷土史研究会の山城探訪会で「ベトナム象が西国街道を歩き、西条四日市宿に泊まった」という話を聞き、〔エッ!〕という驚きと同時に〔ヤッタ!〕と思わず歓声を上げました。

ときは享保年間、第8代将軍徳川吉宗の時代です。今からおおよそ300年前のことです。

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享保14年渡来象の図:国立図書館蔵

鎖国政策の一方、海外事情に強い関心を寄せていた将軍吉宗が「象を見たい」と、雄雌2頭の象を発注したことに始まります。吉宗は馬の品種改良のためにペルシャ馬を輸入し馬場をつくるなど、動物にも関心を寄せていたそうです。これも単なる「趣味」ではなく、何らかの目的をもっていたのかも知れません。

吉宗と言えば、忠介(南町奉行大岡越前守忠介)と共に悪をこらす「名君」として描かれています。また、新田開発や「火消」、「目安箱」などの画期的な制度をつくった一方、「5公5民」や「上米制度」で庶民の暮らしを逼迫するなどの功罪をもつ「享保の改革」を進めた将軍です。

享保13年(1727年)6月13日、吉宗が発注した雄雌各1頭のベトナム象が長崎に着きます。雌象は食べ物や気候に馴染めなかったのか、病気で3ヶ月後に死んでしまいます。翌享保14年(1728年)3月13日に長崎を出発し、江戸までの354里(1400km余り)を75日間かけて踏破しました。

その雄象が、享保14年(1728年)4月8日、西国街道の宿場、西条四日市宿に泊まったというのです。

ベトナム象の旅を追って

〔江戸への象の旅にはベトナム人の象遣いか調教師が付いていたに違いない。するとその人が東広島に初めて足跡を残した人かも知れない〕と、8月から調べ始めました。次号から広島藩(芸州浅野藩)に入って西条四日市宿に泊まり、岡山藩(備前池田藩)に至るまでの象の旅を追い、江戸について亡くなるまでのベトナム象を紹介したいと思います。

「ベトナムの歴史」シリーズではなく、身近な広島県や東広島市に関わる内容なので「ヒロシマとベトナム」シリーズに寄稿することにしました。

(2022年10月6日、あかたつ)

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2022年10月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その37)ベトナム象、広島を歩く-1

「日越国交樹立50周年」を前に

来年、1973年9月21日にパリのベトナム民主共和国総代表部で日本国政府とベトナム民主共和国の代表が外交関係樹立に係る交換公文に署名して半世紀、「日越国交樹立50周年」を迎えます。古(いにしえ)から連綿と続いてきたベトナム(越国)との関わり、交流を経て今日があります。そうした日本とベトナムとの交流史を辿ってみたいと、昨年3月から本Blogに新たなシリーズ「ベトナムの歴史」の寄稿を始めました。

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1973年9月21日パリで調印された「外交関係設立交換書簡」

「日越国交樹立50周年」を来年迎えることから、身近な広島県や東広島市におけるベトナムとの交流の痕跡を探し始めました。

外務省の「国籍別外国人入国統計」によると1950年のベトナム人は18人、外交関係が樹立された1973年は1,411人、2021年末は432,934人です。「国交樹立」半世紀で307倍に増え、中国に次ぐ第2位を占めています。

東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?

ところで、〔東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?〕

調べると1994年に初めて6人のベトナム籍市民が登録されていました。「国交樹立」から20年後に初めてのベトナム人の足跡がありました。ちなみに、今年9月末のベトナム籍市民は1,554人です。

ところで、〔どのような人?〕

一挙に6人ということから、「広島大学の留学生では」と広大を訪ねましたが、当時の記録があったとしても紙媒体でデータベース化されておらず、調べることはとても困難」とのこと。広島大学留学経験を持ち、現在、ベトナム国家大学ホーチミン市校 人文社会科学大学の日本学部長をしている友人(フィン・トロン・ヒエンさん)に尋ねてみることにし、何となくネットで「広島大学ベトナム人留学生第一号」と検索してみました。

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2014年3月15日、博士号を取得し帰国の「ヒエンさんを送る会」

〔あった!〕

広島大学「国際同窓生ネットワーク」「留学生時代の思い出」(注1)にグエン・ティエン・ルックさんの寄稿を見つけました。6人の学友とともに留学し、1992年~1994年3月まで千田キャンパスで、4月から1999年の帰国までの5年間を東広島市で過ごされたのです。

奇遇なことに、ヒエンさんの恩師に当たる方で、学会で来日されたルックさんの送迎をヒエンさんから頼まれ、エスコートした方でした。遠回りして〔東広島に初めて足跡を残した人〕にたどり着き、記憶力の乏しさをあらためて痛感です。

ちなみに当時の広島大学への留学生は540人、ベトナムからは6人だったとのことです。今年5月1日時点では84カ国・地域から1,638人、ベトナムからは55人です。

(注1)広島大学国際同窓生ネットワーク「留学生時代の思い出」 https://www.hiroshima-u.ac.jp/ialumni/memories/memories04

(2022年10月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんからは、「ベトナム象、広島を歩く―1」は1回分の原稿として送られてきましたが、少し長めでしたので、今日、明日の2回に分けて掲載することにしました。明日は、いよいよ「ベトナム象」が登場します。

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2022年10月 4日 (火)

10月の「3の日行動」

昨日午後5時30分から午後6時10分(いつもより少し時間を短縮しました)まで本通電停前で、戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する10月の「3の日行動」が行われました。

ちょうどこの日から参議院選挙後初の本格論戦となる臨時国会が召集されましたので、今月の主テーマは、「国会開会 岸田首相は市民の声を聞け」です。

もともと野党は、8月18日に、憲法53条(いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。)に基づき、「安倍元総理の国葬問題や旧統一教会問題」を論議するための臨時国会召集を求める要望書を提出していたにもかかわらず、岸田首相自らの都合だけで臨時国会が、召集されないといういわば憲法違反の状態が続いていましたので、この時期の臨時国会の召集は遅きに失した感があります。

今回召集された臨時国会の会期は、昨日から12月10日までの69日間ですので、しっかりとして論戦が交わされることを強く期待します。

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昨日の「3の日行動」では、私もマイクを握り、短い時間でしたが、主に次のようなことを訴えました。

第一は、野党の質問に正面から答える国会論議を取り戻すべきだということです。

国会の論議を形骸化させてしまったのは、野党の質問にまともに答えようとしなかった安倍元総理の答弁姿勢です。残念ながらその姿勢は、岸田首相の答弁にも表れています。それを示したのが、「安倍元首相の国葬」問題をめぐって9月8日に衆議院、参議院の両院で開催された議事運営委員会の閉会中審査です。野党が繰り出す様々な質問に対し、岸田首相は、従来の説明を繰り返すだけでした。こんな答弁が繰り返されれば、論議が深まるはずがありません。岸田首相は、野党の質問にしっかりと向き合って、誠意をもって答弁すべきです。こうした論戦を通じて、失われた国会の民主主義を取り戻すことが、この国会の最重要な課題です。

第二は、その試金石となるのが、「安倍元首相の国葬」問題での説明です。国民の半数以上が反対をしているにもかかわらず「安倍元首相の国葬」をなぜ強行しなければならなかったのか、その理由は徹底して究明されるべきです。手続き問題とともに、安倍元首相が本当に国葬にふさわしい政治家だったのかも問われなければなりません。

第三は、旧統一教会問題への対応です。自民党の調査がいかに杜撰なものか、そして教団との関係を断つと言えば、全てが不問に付されてよいのか。などなどです。特に安倍元首相と旧統一協会の関わりについて、岸田首相は「本人が無くなっているので調査には限界がある」としていますが、その限界までも調査していないのですから、全く調査しないと同じです。安倍元首相と統一教会との関係解明無くして、統一教会問題の終息はありません。

第四は、「核なき世界」が政治信条だとする岸田首相が、果たして本当にその役割を果たしたのかが問われなければなりません。核兵器禁止条約締約国会議、そして首相自らが参加したNPT再検討会議は、いずれも6月に通常国会が閉会して以降に行われています。この二つの重要な会議の総括をぜひこの国会で行うべきです。

第五は、野党が共同提案を予定している「憲法53条に基づいて臨時国会の開催要求があった時には、20日以内に召集しなければならない」という国会法の改正です。これは、以前から指摘されてきた問題ですので、ぜひこの国会で与野党が協力して成立させることを期待します。

さらに、物価急上昇のなかでの生活者の暮らしを守るための経済政策はどうあるべきか、などなど論議を深めなければならない課題が山積しています。国民の声を聞くだけでなく、その声にこたえる国会論議が進むことを強く望んでいます。

私の他には、統一教会問題が二人、国防費増額の問題を一人、それぞれの立場で問題点を厳しく指摘しました。

今月の行動では、「11・3ヒロシマ憲法集会」の案内チラシを配布しました。

参加者は、45人でした。

いのちとうとし

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2022年10月 3日 (月)

爆心直下の町―細工町・猿楽町

広島原爆資料館の1階で、9月16日から「広島平和記念資料館令和四年度第一回企画展 爆心直下の町―細工町・猿楽町」が始まりました。

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会場に置かれているパンフレットの「はじめに」には、次のように書かれています。

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「通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明版。現在も島内科医院として続く島病院の地上600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町、猿楽町と呼ばれた町にありました。

この企画展では、爆心直下の2つの町に焦点をあてて、被爆前の町の様相、原爆による破壊、再建に向けた歩みを当時の写真や遺品、住民の方の証言を交えて展示します。人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。」

この「はじめに」のとおり、展示は「被爆前の街並み」「変わり果てた光景」「再建の歩み」の順で、写真や遺品が展示されています。

「変わり果てた光景」で展示されている写真は、「見たことがある」と思える写真が並んでいますが、私が一番興味を持ったのは、「被爆前の街並み」のコーナーに展示された、電車通りに面して立っていた護国神社の大鳥居が写った2枚の写真です。

なぜ興味を持ったのかは、大鳥居の写真がいずれも鳥居の裏側(北側)から写されているからです。以前このブログ旧廣島護国神社被爆鳥居―その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「大鳥居の裏側にも額があったが、留め金しか残っていない」ことを紹介しましたが、裏側(北面)の額が写った写真を紹介することはできませんでした。

ところが今回の展示で、その裏側(北面)の額が写った写真が2枚も展示されていたのです。

1枚は、「広島護国神社での防空演習」とタイトルがついています。この写真は、パンフレットにも掲載されています。

もう1枚には、ズバリ「神社の大鳥居」のタイトルが付けられ、キャプションに「神社側から南に撮影したものです。」と書かれています。裏側の額がはっきりと写っています。これで、間違いなく裏側(北面)にも額があったことが確認できました。

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よく見ると原爆によっても落ちることのなかった表側(南面)の額も小さくですが確認することができます。

残念ですが、裏側(北面)の額は、原爆によって落下した後、どうなったのかは、不明のままです。

この他にも興味ある写真が何枚も展示されていますので、別の機会に紹介したいと思います。

「細工町、猿楽町のことを書いた本があったな」と思い出し、田邊雅章さんの「原爆が消した廣島」を引っ張り出して、先日紹介した森冨茂雄さんの「絵と証言 消えた町 記憶をたどり」ととともにもう一度読み直してみようと思っています。

この企画展は、来年の2月13日まで開催されていますので、ぜひ行って見てください。何か新しい発見があるはずです。パンフレットも貴重に資料です。

いのちとうとし

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2022年10月 2日 (日)

また枯れてしまうのか「アスナロ」の木―被爆者の森

3月16日のブログ「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で石川県の被爆者団体から贈られた「アスナロ」の木が、植え替えられたことを紹介しました。

ところが、このアスナロの木が、再びというか三度というか、またもや枯れ死の危機にさらされています。

先日、被爆者の森の木を管理する広島市中区維持管理課に別件で訪れたところ、最後に担当者から残念な話を聞くことになりました。

いいにくそうな感じで「最近は、時々被爆者の森を訪れて、樹木の状態をチェックしています。先日訪れた時に気がついたのですが、3月に植え替えたアスナロの木の上部が、茶色くなっていました。枯れ死させてはならないと思い、応急措置として水をやったりして何とか元気になるように気をつけていますが、どうも様子が変なのですよ。今後も継続して養生することにしていますので、もう少し様子を見たいと思っています。まだ様子を見ている段階ですが、枯れ死ということも考えなければなりません。」との話です。

私が、「枯れればまた植え替えてくれますよね」と問うたところ、「もちろんそうしますが、今回は、少し原因を考えなければならないと思っています。例えば、アスナロそのものが、広島の気候に合わないのか、苗木に何か問題があるのか、土壌の問題か?色々と考えられますので、今度はそこをはっきりしたうえで、次の手立てを考えなければならないと思っています。」

この話を聞きながら思い出したことがあります。昨年の植え替えに立ち会った時、苗木を植えるために掘られた穴の縁の土には、壊れた瓦のような瓦礫があったような気がします。

そのことを担当者に伝えると「そのことも充分に考えられます。周囲の土壌が悪いため根が張らないことが原因かもしれませんので、そのことも含めて原因をはっきりさせたいと思います。」

昨日、ある行事に参加して被爆者の森付近を訪れる機会がありましたので、アスナロの木を見に行きました。

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先日、担当者から聞いていた状態よりも、もっと樹勢が弱っているように感じました。葉が枯れて茶色となっている部分が多くなっていますし、茶色になっていない葉も、植栽時の鮮やかな深緑の色が失われ、灰色っぽくなっています。

広島市の担当者は、「これからも、何度も現地に行き、状態を確認しながらできる対応をしていきたい」とのことでした。何度か枯れた木ですので、担当者の適切な措置で、樹勢が何とか回復することを祈るばかりです。

いのちとうとし

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2022年10月 1日 (土)

不思議な石碑

平和公園には、世界各地、国内各地から贈られた樹木が茂っています。

これらの樹木には、これまでに何度かこのブログでも紹介しましたが、QRコードのついた「説明版」が付けられ、その由来が分かるようになっています。

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最近平和公園を散策していて気付いたのですが、この「説明版」とは別に、寄贈者が置いたと思われる石碑がいくつかあります。

ところが、原爆資料館と国立追悼祈念館の間の緑地帯で、石碑はあるのですが、それに該当すると思われる樹木が見つからないものがあることに気づきました。

その一つが、国立追悼祈念館のすぐ南側にある昭和36年(1961年)に西ドイツ教授団から贈られた「オーシュナラ」の石碑です。

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石碑の後方には、該当する木がありません。裏側に廻ってみましたが、それらしき樹木の痕跡も見つけることができません。

この石碑の少し南側には、昭和50年(1975年)に長崎市から送られて「ナンキンハゼ、アジサイ」の石碑があります。

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この石碑の後ろにも、それらしき樹木が見当たりませんが、すぐ左後ろに緑色のコーン3本で、保護されているような様子が見えますので、後ろに廻ってみました。

このコーンで囲われた部分の地表に、樹木の切り株の根元部分が残っており、そこに小さな緑のものが目に付きます。

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近づいてよく見ると、切り株と思われる部分の写真の手前に、複数の発芽が見えます。株の様子からナンキンハゼの切り株だと想像できます。

実は、この石碑は一週間ほど前に気づき、一度写真を撮ったことがあります。

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この時の写真には、石碑の左側には、コーンは映っていません。後ろに廻って切り株らしきものが残っていることは確認したのですが、この切り株が該当するのかどうかは判別できませんでした。もちろん芽が出ていることは全く気がつきませんでした。

この10日間の間に、ひこばえと思われる芽が出たことに誰かが気付き、広島市がコーンを置いて保護することになったと思われます。

この二つの石碑に刻まれた3本の樹木は、枯れたり折れたりしたものと思われます。

平和公園に供木として植えられた樹木は、植樹後は広島市に寄贈され、広島市が管理することになっています。

これらの樹木が、いつ枯れたのか、その後の対処はどうしようとされているのか、樹木が元気だったころの写真はないのかなど、詳しい情報を知りたいと思い広島市の担当課である公園維持課に問い合わせたところ、「全てをお答えするのには、少し時間がかかるので持ってほしい」との返事がありました。

このすぐ近くにある「峠三吉の碑」の後ろ側にあるバラの木も、その棚の大きさに比べ、新しく植えられたと思われるやや小さめの1本しか残っていません。これも気になりましたので、このことも一緒に問い合わせています。

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これまでの問い合わせに対しては、担当者には丁寧に対応していただき、いくつかの情報を得ていますが、誤解を与えることがあってはいけませんので、きちんとした情報は、広島市からの回答を待って紹介したいと思います。

この日の散策で、意外なものを見つけました。

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曼珠沙華の花です。後ろに写っている建物はレストハウスです。こんな場所で曼珠沙華を見つけたのは初めてのことですので、写真を1枚撮りました。

いのちとうとし

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2022年9月30日 (金)

2022.9月のブルーベリー農園その4

彼岸の23日から25日までの3連休も安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー園に農作業で通う。

3日間の作業のメインはブルーベリー農園全体に緑肥用の種をまくこと。これまでただ一度だけレンゲの種を少しまいたことはあるが、農園全体に緑肥用の種をまくのは初めて。栽培しているブルーベリーにはここ2年間肥料は一切やっていない。代わりに緑肥の植物を茂らせて窒素などを取り込もうという目論見。今年実ったブルーベリーも甘くておいしいとの声を頂いているのでその味が持続でできるためにもうまく芽が出て茂ってくれればいいのだが、結果は来春になるまで我慢。

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923日(金)

農園全体は、これまで雑草が生えるに任せておいて、ひたすら草を刈る方法で栽培してきたが、いろいろ勉強して、今年は秋にカバークロップ(被覆作物)というか緑肥というかの種を購入してまいてみることにした。写真の種はレンゲ、赤クローバー、クリムソンクローバーを混ぜたもの。重さで約2キロある。

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大根はブルーベリーの木と木の間に種をまいて伸びるに任せる方法でやってみる。太ったダイコンも窒素を固定してくれるので肥料代わりになるそうだ。こちらは2種類で少しだけ実験してみる。他にもカラシナ、菜の花、赤ソバ、6種類のミックスされた種(えん麦、赤クローバー、クリムソンクローバー、イタリアンラグラスなど)を3日間かけた農園にまいた。不耕起で土をかけることができないのでどれほどの種類の芽が出るかはわからないのだが・・・。とにかくまいてみた。要は農園の植物の多様性を生み出したいため。そうするとミツバチなどの生き物の多様性の連鎖につながるはず。

 

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農園の家の池の小型のスイレンの花がひとつだけ咲いた。

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彼岸なので、妻の両親の墓参りの折にすぐ近くにあるため池に行ってみる。大きな鯉がゆっくり泳いでいた。

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種をまく作業とは別に夏中できなかった小さな畑の草取りを行う。

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924日(土)

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①種をまきに畑に入る。入口の電気柵にとまっている。こちらは羽の先が黒い。

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②この日の種まきがすんで竹の支柱にとまっている赤トンボが目に入りそっと近づき撮影。夕陽でひときわしっぽが赤い。

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小さな畑の草取り。まだ半分の広さが残った。

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同じ畑にある富有柿が少し黄色くなっている。もぐのはもう少し待ってからに。

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925日(日)

この日は一人で農作業。種まきが終わって残った種は安芸の郷の2つの建物の庭や屋上にまいてみることにする。車に剪定でためていたブルーベリーの枝を積んで森の工房みみずくに持ち帰る。枝を短く切ってサンタクロースの人形に加工する材料などに使う。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年9月29日 (木)

安倍元首相の国葬と「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」

広島市まちづくり市民交流プラザ南棟1階ロビーで「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」が開催されています。

安倍元首相の国葬が行われた昨日、会場を訪れました。

展示されている写真は、主催者のZENKO(平和と民主主義をめざす全国交換会)広島が、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センターと沖縄ドローンプロゼクトの奥間政則さんなどから提供を受けたものです。

南西端の沖縄の与論島から続く沖縄南西諸島、そして奄美諸島の馬毛島に至る島々で進むミサイル要塞化、軍備増強の実態を知ることができる写真展です。

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中国の海洋進出を口実に日米韓、オーストラリ、インド、英仏などによる中国封じ込めの最前進基地として九州南方から台湾北方にかけて約1,200kmに連なる島嶼群に、日米によるミサイル要塞化が進められている実態を知ることができます。

馬毛島、与那国島、宮古島などなど個別の軍事基地建設の問題、そして住民の反対運動などについては、いくつかの講演会などを通じて知っているつもりでしたが、全ての島々で進む軍事基地化の事実を一体のものとして明らかにしているこの写真展が示す事実は、私の想像をはるかに超えるものです。

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それぞれの島の軍事要塞化の実態は、どれだけ国民に知らされているのでしょうか。

先の大戦で、国内唯一の戦場となった沖縄が、再び本土の砦としての役割が押し付けられようとしています。そそれは、いったい誰が推進してきたのか?平和憲法を踏みにじり、軍備増強・戦争をする国づくりを進めてきたのは、安倍元総理です。それは、アメリカの戦争に日本を巻き込む道に他なりません。この写真展は、安倍元首相が国葬にふさわしくない政治家であったことを如実に示しています。

「安倍元総理の国葬」は、安倍元総理が進めてきた軍事大国化への政策にお墨付きを与えることにつながるのではないでしょうか。なぜ、私たちが「安倍元総理の国葬」に反対したのか、反対しなければならなかったのか、国葬が終わったとしても、そのことは言い続けなければなりません。

この写真展は、明日(30日)まで開催されています。ぜひ今沖縄南西諸島で起きている事実を知るためにも会場を訪れてほしいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月28日 (水)

安倍元首相の「国葬」実施に抗議行動―府中地区 

国民の半数以上が反対しているにもかかわらず、実施された安倍元首相の「国葬」に対して安保法制に反対する府中市民の会で抗議行動を取り組みました。

「国葬」が始まる午後2時より前からはじめようということで、午後1時から上下町Aコープ前で、府中天満屋店前は30分過ぎた2時30分から行いました。

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上下地区

リレートークとスタンディングは今回も新しい人が駆けつけてくださり上下は12名、府中は16名の参加でした。

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府中地区

リレートークでは、「先の戦争の反省で『国葬』は国民を戦争にかりたてるものだということで『国葬』という法律は廃止されたこと、そうした歴史的経過を無視して行ったこと、国会審議もなかったことは国会無視の安倍政治そのものであり許せない」というアピールがありました。

また、「国葬」の中で自衛隊音楽隊が演奏する3曲は非常に問題です。一つは靖国神社の歌「国の鎮め」で先の戦争を反省しているのなら演奏されないはずです。次は「悠遠なる皇御国(スメラミクニ)」、つまり幾久しい天皇の治める国という曲で、主権在民であるこの国にはふさわしくない曲です。そして東日本大震災復興キャンペーンソング「花は咲く」ですが政府のトップ・首相として多くの方が生まれ故郷に帰れなくなった原発事故の反省がみられません、という発言は印象的でした。

「国葬」が終わったからと言って、問題が解決したわけではありません。特に安倍元首相の憲法無視の政治、統一協会との関係など引き続き問い続けていきたいと思います。

小川敏男

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