「広島ブログ」

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

日記・コラム・つぶやき

2025年4月28日 (月)

「屍の街」の章題―つづきのつづき

市民文庫版については、「全集第一巻」の「収録」で、「『章題』を削除した」ことがと明記されています。市民文庫版は、大田洋子存命中に発刊されていますから、小田切秀雄が解説しているように当然「作者の意思で削除」されたことは、間違いありません。「章題」がないことは、本を開き確認しました。

254263

ですから、その後に発刊された「潮文庫版」にも「章題」がないのは当然だといえます。

この市民文庫版の最後には、佐々木基一が書かいた「解説」があります。佐々木基一は、大田洋子と同じ原爆文学作家と言われる原民喜の義弟で、「夏の花」の出版に深く関わった人です。ですから、解説の中でも原民喜と大田洋子に連なる原爆文学についての記述がほとんどで、「『章題』を削除」した理由の手がかりのようなものは書かれていません。ここでも大田洋子がなぜ、この版から「章題」を削除することにしたのかという「手がかり」となるものを見つけることはできませんでした。

「全集第一巻」の「収録」では、潮文庫版の発行が最後の出版になっていますが、そのことについて佐多稲子が同書の解説の中で次のように語っていることを紹介します。

「大田さんの作品は、生前でも『屍の街』が絶版になっていて、外国から送ってくれと言われても送る本がないのよ、と大田さんが言うのをきいたことがありますし、その後も長くこういう作品が絶版になっていることを、私は大変つらく思っていたのです。・・・今度みなさんのお骨折りで作品集が出ることになって、私も本当にうれしいのです。」

潮文庫版以降、1982年に『大田洋子全集』が出版されるまで、10年間新しい版での出版が無かったことが分かります。

少し横道にそれましたが、「章題」に戻ります。先にも書きましたが、この「全集第一巻」に収録された「屍の街」には「章題」がついています。その理由は、浦西さんの「解題」では「*底本 冬芽書房版『屍の街』(昭和25530日)」と書かれていることでハッキリします。つまり、この全集は、「章題」がつけられていた冬芽書房版を底本(複製本の原本、よりどころとする本)としたからです。以降出版された「屍の街」は、この全集に準じたものと思われますので、私が持っている「潮文庫版」以外は「章題」がついていると考えられます。

ここまで調べましたが、残念ながら私の疑問は解決していません。作者の意思で削除された「章題」が、なぜ作者の意思を無視して「全集」で復活したのか、疑問は残ったままです。先に紹介した潮文庫版の「解説」で、確かに小田切秀雄も「各章の題はあってもよかったのだが」と書いていますので、文学的センスのない私も「章題」(「鬼哭啾々の秋」「無欲顔貌」「運命の街・広島」「街は死体の襤褸筵」「憩いの車」「風と雨」「晩秋の琴」)があった方が良いように思います。しかし、だからといって「章題」を削除した作者の意思を無視して良いはずはないと思います。

もし「章題」について大田洋子が書いたとする新しい資料が、「潮文庫版」出版以降に発見されたというのであれば別です。ただ今回調べた限りでは、そんな資料が見つかったという研究発表を得ることはできていません。

「全集第一巻」の「解題」には、「*異同 生原稿と底本(冬芽書房版)との主な異同をあげる」として、生原稿が底本ではどのように異同しているかを49点にわたって、丁寧に記述されていますが、「章題」についての記述はありません。

小田切秀雄は、「大田洋子全集」の栗原貞子さんなど6人の刊行委員会のメーバーの一人ですが、「全集」発刊に当たって、「章題」のことは、なぜ問題にならなかったのでしょうか。触れなければならない問題だったと私は思いますが、残念ながら私が調べた限り、触れられた形跡がありません。

私に調べられる範囲は、ここまでです。誰か「屍の街」の「章題」について研究し、「なぜ全集で復活させたのか」その理由を教えて欲しいなと思います。

一回で終わるつもりのー「屍の街」の章題―がこんなに長くなってしまいました。

(敬称略)

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月27日 (日)

チェルノブイリデー座り込み

1986年4月26日、旧ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発4号炉が、放射能を大量に放出するメルトダウンの史上最大の大事故を起こして39年目となる昨日、広島県原水禁の呼びかけで、午後0時15分から30分間平和公園の原爆慰霊碑前で「チェルノブイリデー座り込み」を行いました。今年の参加者は、37人でした。

原水禁は、事故が発生した翌年から毎年、この日を「チェルノブイリデー」として、座り込みや講演会などの取り組みを行ってきました。そこには、この原発事故を決して忘れてはならないという強い思いがこめられています。

1979年に起こったアメリカ・スリーマイル原発事故は、最初の原子炉が溶融するメルトダウン事故でした。そしてチェルノブイリ事故が起き、さらに2011年には、東京電力福島第一原発事故が発生しました。

これら事故が教えていることは、一度原発が事故を起こせば、大惨事を招き、多くの人々を放射能被害者にしてしまうということです。

この事実を決して忘れてはならないという強い思いが、チェルノブイリデーの行動にはこめられています。そしてヒロシマが、被害者の人たちへの想いを共有していることも示すものでもあります。

原水禁運動は、このチェルノブイリの事故を契機により幅広い市民との共闘を進め、原発に頼らない社会を作るため、それまでの「反原発」から「脱原発」ヘとスローガンを変えました。

25427  

そんな思いを込めて、最後に自治労県本部の梅田侑希さんが提案したアピールを全員の拍手で確認し、石破総理に送ることにしました。


「4・26チェルノブイリデー」アピール

チェルノブイリ原発事故から39年がたちました。事故原発は放射性物質の飛散を防ぐための巨大なシェルターに覆われ、いまだ廃炉に向けた具体的なめどが立たないままです。また、ロシアによるウクライナ侵略では、原発が攻撃の標的となる事態となり、原発の危険性は安全保障という点からも大きなリスクがあることが明らかになりました。

一方、「チェルノブイリのような事故は起きない」と宣伝され続けた日本でも、2011311日、東京電力福島第一原発でチェルノブイリと同じレベル7の事故が発生しました。14年を経た今も、事故を受けて政府が発令した「原子力緊急事態宣言」を解除できず、廃炉に向けた工程も、溶け落ちた核燃料の取り出しが試験的に行われているに過ぎず、880トンともされる燃料デブリ回収の目途は全く立っていません。

にも関わらず、政府と東京電力は多くの県民・漁業関係者の反対を押し切り、放射能汚染水の海洋放出を強行する一方、「原発の最大限活用」へとまたも回帰するエネルギー基本計画を策定しました。

昨年の能登半島地震では、北陸電力志賀原発の変圧器やモニタリングポストの故障、原子力規制庁の想定を上回る揺れの観測、連動しないとされた断層との連動など、数多くの「想定外」の事態が生じました。

そして何より、原発事故と地震災害という複合災害が発生すれば、道路の寸断や集落の孤立、多くの家屋の倒壊・被災で、屋内退避も避難も困難な状態となり、現在の避難計画では住民の安全を確保できないということが明らかになりました。

この教訓を、原発依存・再稼働への強い警告と受け止め、チェルノブイリやフクシマ、そして世界に広がるヒバクシャの痛みを忘れることなく、改めて脱原発への歩みを進めなければなりません。

「核と人類は共存できない」。新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから改めて訴えます。

 ◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

 ◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

 ◆原発の再稼働・新増設への方針転換を許してはなりません!

 ◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

 ◆全ての核被害者への補償と救済を強く求めます!

 ◆放射能汚染水の「海洋放出」の停止を求めます!

 ◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

2025年4月26日

  4.26チェルノブイリデー座り込み参加者一同


いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月26日 (土)

「屍の街」の章題―つづき

図書館に行き、事情を説明すると、司書や学芸員のみなさんが、蔵書を検索し関連する資料を準備していただきました。

最初に調べたのは、「章題」に関する研究書はないのかです。まず調べたのは、原爆の問題を「文学」、あるいは「文学的」な問題として研究している人たちの発表の場となっている「原爆文学研究」です。大田洋子に関しての記述がある巻(現在まで23号まで発行されている)を3冊ほど出していただいたのですが、その中に「章題」に関する研究報告はありません。図書館員の方が、その他にも、研究書のなかで検索でききたものはありませんでした。

さらに、題が「屍の街」なっている本、「屍の街」が収録されている本を調べます。

参考になったのは、「大田洋子全集第一巻」(以下「全集第一巻」)です。

254261

ここに収録された「屍の街」には、「章題」がついていますが、巻末に佐多稲子ヘの聞き取りが「解説」として掲載されています。しかし、その中に「章題」に関する発言はありません。

「解説」の後に浦西和彦さんによる「解題」があります。その中心は、文章をどう直したのかなどの「校訂」について詳しく記述されていますが、しかし「章題」の変更については書かれていません。「章題」に関する記述は、「収録」の中に出てきます。「収録」は「屍の街」がどの本に掲載されているのかを記述しています。そこに記述されていることを全文引用します。

「屍の街」(昭和25年5月30日・冬芽書房)一七-二一八頁、このとき中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に修正、章題「酷薄な雨と風」を「風と雨」に変更。市民文庫「屍の街」(昭和26年8月15日・河出書房)二〇-一七九頁、このとき章題を削除。小田切秀雄編「原子力と文学」(昭和30年8月5日・大日本雄弁会講談社)三一-六三頁、「運命の街・広島」章(本巻39から63頁)部分の抄録。河出文庫「屍の街」(昭和30年9月19日・河出書房)二〇-一七九頁。「日本現代文学全集106<現代名作選(二)」(昭和44619日・講談社)三〇-四一頁、「運命の街・広島」章(本巻3963頁)部分の抄録。潮文庫「屍の街」(昭和47720日・潮出版)五-一五八頁。

「収録」によれば、「屍の街」が、全文収録され発行されたのは、冬芽書房版と、市民文庫版、河出文庫版、潮文庫版の4回と云うことになります。ただ、河出文庫版は、河出書房が市民文庫版の名前を変えて出版したものですので、実際には3種類といってよいと思われます。

この「収録」で、「章題」についての記述は、冬芽書房では、「削除部分『無欲顔貌』の章を増補し、章題『酷薄な雨と風』を『風と雨』に変更したことが書かれています。

冬芽書房版の本もありますので、確認しました。

25426225

当たり前のことですが、「章題」はついています。

次は、市民文庫版での確認ですが、その結果は簡単に書き切れませんので、今日はここで終了し、つづきは次回(28日)に報告します。

(敬称略)

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月25日 (金)

チェルノブイリ原発事故から39年

明日4月26日は、旧ソ連邦、現在のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故が起こって39年という日です。

米国人の歴史学者ケイト・ブラウンさんの著書、「チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる(緑風出版)」という533ページの長文作品を、まさに一気に読みました。訳がとても上手なので、分かりやすく読めました。

改めて、当時の時代背景を考えていました。チェルノブイリ事故が起こったのは1986年、その時はソ連邦時代です。ソ連邦は91年に崩壊しロシアなどの国に分割するのですが、ソ連邦最後の最高指導者はミハイル・ゴルバチョフ、85年から91年までソ連共産党の書記長を担い国家元首でした。

現在、ロシアによる侵攻で戦争をしているウクライナも、ロシアの味方といわれるベラルーシ共和国もソ連邦の一つでした。ソ連邦が崩壊して、さあーその翌日から国の体制も国民の感覚も新しい体制になることなど不可能なのは当然です。

チェルノブイリ事故では、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアだけでなくヨーロッパ全体が放射能汚染されました。現在もそうですが、ソ連時代、人々は思っていることが言えず、科学者は自由な研究も出来ず、連邦政府はチェルノブイリ事故の放射能汚染の影響はない、健康への影響はないと繰り返していました。今でもその姿勢に大きな変化はありません。

254251 254252

事故直後              シェルターに覆われた事故原発

情報機関・秘密警察を担当していたKGB(ソ連邦国家保安委員会)は、正しい放射能の問題を指摘する学者や研究者の研究所などにスパイを送りこむなどの工作もしていました。そのために正しい意見をいう学者は解雇、左遷、毒殺などがされました。放射能汚染された牛乳など食べ物のデータ改ざんなども頻繁に行われました。子どもたちを中心に甲状腺がんも多発しました。

真相を伝えるために、清掃員に扮して国際学会の場に入り込んだ経験を語るウクライナの物理学者の話しはリアルでした。結局はKGBの工作員に見破られ摘まみ出されてしまうのですが。

一方、国際的に「有名」といわれる研究者を招き、「チェルノブイリはたいしたことない」を言わせるプロパガンダの役も担わせました。広島市にある放射線影響研究所(RERF)の重松逸造理事長は、90年4月、IAEA(国際原子力機関)が発足させたチェルノブイリ原発事故をめぐる国際諮問委員長の専門家集団のトップとして、現地の汚染状況と住民の健康を調査しました。翌年5月にウイーンのIAEA本部で開かれた報告会で、汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない、むしろ「ラジオフォピア(放射線恐怖症)による精神的ストレスの方が問題である」などと報告しました。福島原発事故の後で、日本でも聞いたような話しです。

また「1平方キロメートル当たりの放射能量が40キュリーは移住を解除してもよい」とも発言、この感覚はまともな学者の発言としては考えられないものです。福島原発事故に関連して、日本政府は汚染土壌の放射能量が8000ベクレル以下なら安全と言ってますが、1キュリーは370億ベクレルという値です。

私はチェルノブイリ事故から10年後の96年と翌97年に、ベラルーシとウクライナを訪問しましたが、現地の人から「広島の有名な学者の調査」ということで、期待していたのに裏切られたという声を聞きました。

チェルノブイリ事故が起こった時、日本政府や電力会社などからは「あれはソ連という国だから起こったのだ。民主国家の日本では起きない」という言葉が発せられたのを覚えています。

チェルノブイリはたいしたことはない、事故後増加した甲状腺がんについても、「検査件数が多いからがんになった」とか、過疎地にがんが増えているという理由については「これまで検査していなかったから、その数が表面化した」という、福島原発事故のときに、「すぐに影響はでない」「たいしたことはない」「考えすぎだ」などを繰り返した、日本政府と同じだと実感しました。汚染した土地の処理、避難者の帰還の基準についても、日本とまったく同じです。そして、マスコミなどの報道の極端に縮小したのも、これまたそっくりだと感じました。そのためか、世論の関心も薄れているように思います。

IAEAやWHO(世界保健機構)などの国際機関が、市民の立場に立った組織ではなく、原子力推進の組織だということを、改めて知らされました。まだまだチェルノブイリの被害は続いています。

「20世紀に人類が起こした三つの愚かな行い」として、アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリを言われますが、そのことも考えていました。

さて私事になりますが、地域の町内会長を4年、連合町内会長を4年、計8年間地域活動に関わってきましたが、20日に開催された総会で退任することが出来ました。

町内会加入世帯の減少、役員の担い手不足などは全国的な課題です。このことは、子ども会やPTA活動にしても、市民運動にも共通していると思いますが、それなりに多くのことを学ばせてもらった8年間でした。今は、やっと卒業できたというのが率直な気持ちです。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月24日 (木)

「屍の街」の章題

18日の大田洋子文学碑の碑文と「屍の街」: 新・ヒロシマの心を世界にで、大田洋子の話は終わりにするはずでしたが、「つづき」がでてしまいました。

大田洋子の著書「屍の街」は、様々な形で出版されています。初出は、1948(昭和23)年11月10日発行の中央公論社版です。このときは、アメリカ占領軍のプレス・コードを憚って「無欲顔貌」章を削除して出版しています。この中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に訂正、章題「酷薄な風と雨」に変更して、1950(昭和25)年5月30日に冬芽書房から、出版されました。(以上、1982年発行:大田洋子全集第一巻「解題」より)

今週に入って、書棚を整理している時、目に入ったのが、1972(昭和47)年7月に潮出版から発行された「屍の街」です。この本は文庫本ですが、カバー表紙に丸木位里・俊の「原爆の図」の一部が使われています。このカバー表紙が気になり古本屋で購入したと思われます。

254241

開いてみる先日手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)にあった「章題」がありません。「エッ?」です。最後まで見たのですが、やはりどの章も数字だけです。

文庫本には、ほとんどの本に「解説」がついていますので、「章題」について何か記述はないかと、「解説」を読むことにしました。

この本の「解説」は、文芸評論家・近代文学研究者の小田切秀雄が「解説ー現代の地獄、その証言」のタイトルで、7ページにわたって書いておられます。その中で小田切は、「章題」を削除した理由を次のように書かれています。少し長いのですが、引用します。

「作者がたまたまそこの居合わせたためにその現世の地獄にまきもまれ、傷ついて死にひんし、空前の大量の死のなかで偶然によってかろうじて生きのび、ペンによってそれの表現にむかって立ち向かっていったのは1945年8月6日、広島にアメリカが落とした原子爆弾による大都市破壊、人間破壊である。そのすさまじさは、現世の地獄、などということばなどではとうていおおいきれぬもので、この作品の各章に、初版本では「鬼哭啾々の」とか「運命の街・広島」とか「街は死の襤褸筵(ぼろむしろ)」という一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ないのだが(それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまったのだが)、この作品の内容を読み進むにしたがってそのどぎついという抵抗感など消えてゆくばかりか、そういうどぎついと見られることばをもってしてもまだ足りないこと、もっとつよいほかのことが必要なのだが、それがまったく見つけにくいほどのものであることが、しだいに明らかになってくる。(その意味では各章の題はあってもよかったのだが、ここではのちに作者が取去ったのに従うことにした)敗戦までのこの作家の仕事につきまとっていた一種の我中心主義風の傾斜と、それにともなう・・・」(原文のママ)

赤字の「私」は、「秋」の間違いと思われます。問題は、私が引いた下線部分です。

作家の作風や文体などのことは、私には分かりませんが、この小田切の解説を読むと、「章題」をとったのは、「作者の意思」であることになります。

私の手元には、「屍の街」が収録された本がもう一冊あります。2011年6月に集英社から発刊された「戦争文学 ヒロシマ・ナガサキ」です。

254242

すぐにこの本でも「章題」を確認しました。最初の手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)と同じように、「章題」がついています。

「あれっ」と思います。小田切が、解説を書かれた1972(昭和47)年には、すでに大田洋子は亡くなって(1963年12月10日没)います。小田切が指摘しているように「章題」を省略したのが作者の意思であるなら、なぜその後の出版されたものでは、作者の意思を無視したかのように「章題」が復活したのか?ということで。

気になりますので、広島市立中央図書館に行って調べることにしました。その結果は、26日に紹介します。

(敬称略)

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月23日 (水)

2025年4月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー農園にも春が広がっている。生き物が活発で山の木々も薄緑色の葉を広げているし、ブルーベリーの葉も少しずつ芽吹いてきた。農園での作業は安芸区の自宅から通い、摘み取ったブルーベリーの大部分を安芸の郷に納品しているので収穫のカギを握るブルーベリーの剪定は手が抜けない。ブルーベリーの木の全体のほぼ70%が終わったがまだ300本余りの剪定が残っているが、春の景色や生き物と出会うと手を休めることがつい多くなる。

418日(金) ブルーベリーの剪定でたまった枝を野焼きする

254231

里山のヤマツツジが満開

254232

421日(月) 気温が20度を超す日が続く。クマバチが元気に飛び交う

254233

ブルーベリー畑の地べたでは野の花がいろいろ咲いている

①ヘアリーベッチ

254234

②レンゲ

254235

③スミレその1

254236

④スミレその2

254237

ブルーベリー畑での剪定作業を続けるが、その間中オスのキジが時々鳴いて羽ばたきするのでキジの声のする方向を作業の手を休めて探す。冬に見かけてときはやせていたが今は筋肉がついたのか大きくたくましくなっている

254238

キジのいた畑ののり面で、長さが約73mある電気柵が強風で倒れているのでイボダケをポールの側に立てて縛って元に戻した

254239

剪定作業を済ませて農園の見回り

①早生のブルーベリーの花が咲きだした。マルハナバチなどのミツバチはまだ来ない

 2542310

②里山のブルーベリー園からの眺め。桃色の花木ハナズオウの向こうに水を張った田んぼが見える。今月末から5月初めにかけて田植えが始まる季節

2542311

2025423

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月22日 (火)

三原地区の4月の「19日行動」

4月19日(土)17時30分から三原駅前において16人が参加して定例「19日行動」を実施しました。

開会にあたり司会者が「戦後の平和を守ってきた日本国憲法が5月3日に施行78年を迎えます。戦後の日本は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓って再出発しました。しかし、政府は安全保障環境の悪化を理由に防衛費を増強し再び戦争する国にしようとしています。私たちは、戦争をさせない運動を地域で行っています」と述べて街頭行動を始めました。

254221

マイクを持った弁士は、

「福島原発事故から14年。事故はいまだ収束しておらず被害が続いている。故郷を奪われ、仕事を奪われ、家を奪われ、コミュニィテーを奪われ、人間関係を奪われていることを忘れてはならない。原発事故を風化させず、原発のない社会を作るため取り組んでいきましょう」(三原地区労働センター事務局長)。

「憲法を暮らしに活かす立場で議会内外において市民の皆さんとの共闘を広げながら頑張っていきます」(寺田市議会議員)。

「米国トランプ大統領の政治手法は恫喝、いうことを聞かなかったらどうなるかわからないというやり方だ。関税交渉で日本の軍備を自前で強化しろと要求しているようだ。日本が戦争に巻き込まれることに対して強く反対しよう。そして平和な我が国、平和なアジア・世界のために私たちの地道な取り組みが結ばれると思う」(政平市議会議員)などとスピーチしました。

254222                                                    

市内在住の岡崎さんは、「日本の国会状況、とんでもない金額が毎年軍事費として計上され、ほとんど議論されていない。私たちは本当に憲法で保障された安心して平和で暮らせる社会にするためにしっかり政治を見ていかなければならない」。「今年はあの忌まわしい戦争が終わって80年という節目になります。戦争の結果、日本は戦争を絶対しない、戦争する道具は一切持たないことを宣言してきました。しかし残念ながら私たちを取り巻く状況は大きく変わろうとしています。戦後80年、憲法改悪NO!を大きく、広く叫び続けていかなければならないのではないでしょうか」。「アメリカトランプ大統領のやり方はとんでもないことです。日本が追従してアメリカと一緒になって戦争する国にこのままだと必ずやなってしまうのではないかと危惧しています」。「私たちの行動は小さい力ですが、街頭に立って皆さんが声を上げて、今の私たちを取り巻く状況や日本の政治状況を憂いて街頭行動を頑張っています。私は本年8月15日で満83歳になります。我が国の政治をただす。戦争させない国にするために皆さんと一緒にこの行動に参加し頑張っていきます」と訴えました。 

岡崎さんのスピーチを聞きながら、88歳で亡くなられた大江健三郎さん(「ノーベル文学賞」作家、「さようなら原発1000万人アクション」呼びかけ人、「戦争をさせない1000人委員会」呼びかけ人)の言葉がよみがえりました。・・・「やがて80歳になる老人の僕にでもできること、集会に行こうじゃないか、デモをしようじゃないか、そして、それを続けて行こうじゃないか。」

藤本講治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月21日 (月)

府中地区 4月の「19日行動」

安保法制に反対する府中市民の会は419日、初夏を思わせる暑い日差しの中でまちかどツアーを行いました。

今月から夏時間での実施で、1530分から上下Aコープ前に6人、17時から府中天満屋前に6人が集まりました。土曜日で行楽帰りの車が多く、横断幕をよく見てくれました。反応も良く手を振ってくれるドライバーが多く見られました。

254211  

以下、弁士の発言要旨です

 「アメリカは他国に貿易搾取されている」というフェイクニュースを吟味しない悪い癖が蔓延しては困る。攻撃的な貿易戦争関係ではなく、今こそ憲法9条を使って平和的国際関係を提唱するチャンスではないか?戦前と同じ状況になっていることを忘れずに、戦争の芽を早く摘まなければならない。」

「安倍政権は安保法制で集団的自衛権の扉を開き、岸田政権は安保関連3文書で敵基地攻撃能力保持を許したが、軍隊は市民を守らない。年8兆円の軍事費を市民生活に使わせるため、声を上げていこう。米の値段も高すぎる。農家を守るため所得補償を。農家を守って消費者を守れ。消費者は傍観者でいてはいけない。トランプは温暖化防止の取り組みを次々に止めているが、世界は米国のものではない。温暖化防止のため自分が何ができるか考えていきたい。」

「イスラエルによるガザの虐殺について話したい。これまでに5万人の死者、2万3千人の孤児が発生している。国連職員や医療人や200人以上のジャーナリストをイスラエル軍は見境なく、というよりは狙って殺害している。イスラエルの最大の援助国はどこか?米国だ。金も武器も提供し、ネタニヤフに逮捕状を出した国際裁判所職員の米国内資産の凍結までしている。その米国に従っているのが我が国だ。情けないことだ。ガザを救うよう、声を上げてほしい。」

254212

 「自衛隊は近々、北海道で他国を攻撃する訓練を行うという。沖縄では11〜12万人の避難訓練を行うという。捨て石にされたという沖縄戦の教訓を忘れず学ぼう。建設国債の名で防衛費の一部を賄おうとするのは戦前と同じ過ちを繰り返すこと。市民はそれぞれの生活の場で話し合ってほしい。戦争への道を食い止めたい。」

「大飯原発で作った水素が客船用の燃料として大阪万博で使われるという。始まったから仕方ないとは言わせない。安保法制も同じ。おかしいと思ったことには黙らないでいこう。カープが今日も勝った。試合は相手を尊重し正々堂々戦ってこそ成立する。国際関係も同じ。相手を打ちのめしても国際関係は築けない。広島出身ではない若い友人がカープが好きだという。平和を希求する市民が産んだ球団だからだそうだ。若い人がこうした見方をすることに希望を感じる。」

石岡真由美

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月20日 (日)

ジャネット・ゴードンさんの訃報

原水禁運動にとって大切な人をまた一人失いました。その人は、ジャネット・ゴードンさんです。

この訃報を知らせてくれたのは、このブログの執筆者の一人木原省治さんです。「ジャネット・ゴードンさんが,3月に亡くなったそうです。豊崎博光さんからの電話で知ったので、詳しいことは豊崎さんに聞いてみてください」

ジャネット・ゴードンさんは、県原水禁が1984年以来毎年1月27日に平和公園原爆慰霊碑前で行っている「ネバダ核実験場閉鎖を求める国際共同行動・ネバダ・デー」を呼びかけた人ですので、ひょっとすると名前は聞いたことがある、と思い出される人もあるかも知れません。

254202

豊﨑さんは、カメラマンで世界のヒバクシャを写真に撮り,世界に広めた人です。原水禁国民会議の様々な活動に長く協力していただいている豊崎博光さんに電話をすると「ジャネットの姪御さんが、ジャネットのこと本にしたいと以前から何度か問い合わせがあったのですが、先日の電話で3月に亡くなったと言うことを知らされました。5月23日には86歳の誕生日を迎える予定だったそうです。」と教えていただきました。

ジャネット・ゴードンさんは、1980年にネバダ核実験場の風下地域のユタ州南部の市民の被害調査と被爆者支援のための市民グループ「市民の声」(シチズンズ・コール)を結成した創立者の一人です。後に全米被曝者協会会長も務めました。

1982年の第2回国連軍縮特別総会に参加された森滝市郎先生と初めて会い、1985年の原水禁大会国際会議に参加するため初来日し、ネバダ核実験場の風下住民の核被害の実態を訴えるとともに、翌年の大会にも参加し、1987年ニューヨークでの「第1回核被害者世界大会」の開催に大きく尽力しました。「第1回核被害者世界大会」では、受け入れ側のアメリカの中心的な役割を担った一人です。下の写真は、「第1回核被害者世界大会」参加者が市内デモをする直前に豊崎さんが写してものです。豊﨑さんの許可を得ていますので、掲載します。

254201

中央の森滝市郎先生のすぐ左側(写真では向かって右)に立っているのがジャネット・ゴードンさんです。私は、森滝先生の随行者としてこの大会に参加しましたので、よく知っているのですが、ジャネット・ゴードンさんが,森滝先生をほんとうに気遣っている姿が、今も忘れられません。そして私のことを「ボーイ、ボーイ」と呼んで、親しく声をかけてくれました。

原水禁大会に参加した多くの海外代表の中でも、忘れることのできない一人です。

ですので、森滝先生が1994年1月25日に亡くなられ2月5日にお別れ会を開催することになり、海外から誰かを呼びたいと相談した時、一番に声が上がったのがジャネット・ゴードンさんでした。電話でお願いをすると快諾を得、厳しい日程にもかかわらず、来広してくれ、お別れのあいさつをしてくれました。思いのこもったあいさつの一部を紹介します。

1982年に初めて会ったことに触れた後「あなたは偉大な見識と威厳を備えた人でしたが、同時に温かさと優しさ、それにユーモアにあふれる人でした。あなたは核戦争の恐ろしさを直接体験し、理解されていました。どこの核被害者についても心を痛め、世界全体を核兵器の恐怖から守ろうと望まれました。・・・あなたの誠実さは、あなたの背筋と同じく強靱で、真っ直ぐなものでした。精神においても,実行においても素晴らしい人でした。」そして最後に「森滝先生は去られましたが、先生が私たちの心や記憶から消えることは決してないでしょう。先生は私たちに,そして世界に、その一生にわたる活動と業績という贈り物を遺されました。その精神、賢明さ、強さは、将来にわたり私たちを導き続けることでしょう。森滝先生、さようなら」

私は、これと同じメッセージをジャネット・ゴードンさんに送ります。

ジャネット・ゴードンさん、さようなら。

いのちとうとし

【編集者】今日は、あかたつさんの「ベトナムの歴史」の予定でしたが、都合により掲載できなくなりましたので、いのちとうとしの原稿に変更しました。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年4月19日 (土)

三つの鼻

広島に三つ?の鼻があるのをご存知ですか。

ちょうど一週間前の土曜日、NHKが一年前に放送した「新日本紀行―広島 七川 春模様」の再放送を見ながら「三つの鼻」のことを思い出しました。

平和公園を案内し「慈仙寺の跡」や原爆供養塔などを説明する時「この地域は、昔慈仙寺の鼻と呼ばれていました」と説明することがよくあります。

でも「慈仙寺の鼻」の由来については、「慈仙寺」という大きな由緒あるお寺があったからと言うところまでは説明できても,なぜ「鼻」と呼ぶのかを深く考えてことがありませんでした。せいぜい「相生橋に向かった細長く伸びているから」ぐらいにしか考えていませんでした。

ましてや、ここ以外にも二つの「鼻」がある」ことなと全く知りませんでした。

ところが最近,本の整理をするため書棚の本を見直していたところ、「『温故知新』川のまち がんばれ広島の太田川」が目にとまり、開いてみました。この本は、広島太田川ライオンズクラブがCN25周年大会の事業の一環として2000(平成14)年に発行したものです。

太田川にまつわる「逸話」や「源流ー上流ー中流の流れ」「昔のこと」「川のめぐみ」「七つの川の城下町」などのタイトルで、興味深い内容が書かれています。

「鼻」が登場するのは「七つの川の城下町」の「真ん中を流れる本川」の項です。少し長いのですが引用します。

「『七つの川』の時代、西に山手川・福島川・天満川,東に元安川・京橋川・猿候川と、東西にそれぞれ3本の川を従えて真ん中に流れるから『本川』と言う意味で本川と呼ぶようになったのでしょうか。七本の川があった当時の本川についての説明は、『白島北町一本木ノ鼻上流で、右岸三篠町(楠木町)、左岸牛田町から南流し・・・海に入る』と書かれています。」

ここで二つの図が示されています。

254191254192

さらに本文が続きます。

「上の図で分かるように,長束と大柴の間の下流は昔、陸地でした。源流の吉和村から流れ出し、途中、幾多の支流を受け入れながら『太田川』として流れてきて、初めて分かれる地点は、長い間ずっと、白島の『一本木鼻』だったのです。

川と川との分岐点、三角形の土地のことを,その形から『鼻』と呼んでいます。本川と元安川の分岐点となる中島の北端に慈仙寺というお寺があったので、『慈仙寺ノ鼻』、京橋川と猿候川の分岐点は『台屋ノ鼻』と呼ばれていました。」

川と川の分岐点を「鼻」と呼び『一本木鼻』『慈仙寺ノ鼻』『台屋ノ鼻』の三つの鼻があったことが紹介されています。三つの鼻の今の写真です。

「一本木鼻」です。

254193

現在は、ホームテレビの本社が建っています。

「慈仙寺ノ鼻」です。相生橋の向こう側です。

254194

「台屋ノ鼻」です。

254195

この「鼻」に名称の由来について次のような記述があります。「台屋ノ鼻で京橋川から猿候川が分かれていきます。南区京橋町の浄土宗源光院というお寺は別名『台屋寺』といい、かつてこのあたりは台屋町とも呼ばれていました。台屋ノ鼻は、その先端にあることから名付けられました。この地区の古くからの住民はただ単に『出鼻(でび)』と呼んでいるそうです。」

これでも「三つの鼻」があったこと、そしてその名称の由来は分かりました。

ただ、疑問が一つ残ります。「川と川の分岐点、三角形」を「鼻」と呼んだことは分かりましたが、この条件を持つ場所がもう一ヶ所あります。

254196

上の写真は本川と天満川が分岐する三角形です。見え難いのですが、桜の向こうに別院の屋根が見えます。「鼻」と呼ばれる他の三ヶ所と同じ地形のように見えますが、この本では、この地は「鼻」としては記述されていません。文中では「お城の堀の取水口と基町堤防を左に眺め、ゆっくり下っていくと,右手の寺町で天満川と分かれていきます。中央公園、空鞘橋と過ぎていくと,T字型の相生橋が待っています。」と天満川と分岐していることだけが記述されているだけです。やはり「鼻」の地名はなかったと思われますが、なぜここは、「鼻」と呼ばれなかったのか疑問が残ります。広島の地名や行事などの古い話を紹介する「がんす横丁」(4分冊)を探したのですが、それらしい記載はありませんでした。

もし、理由をご存知の方がおられ寺教えてください。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

 

広島ブログ

 

より以前の記事一覧