「広島ブログ」

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

日記・コラム・つぶやき

2024年3月 4日 (月)

自己表現とは

広島県の公立高校入試で「自己表現」が導入され、2年目となりました。

広島県教育委員会のホームページによると、【自己表現は、「広島県の15歳の生徒に身に付けさせたい力」である「自己を認識し、自分の人生を選択し、表現することができる力」がどのくらい身に付いているかをみるため】に【個人ごとの面談形式で実施】し、【自分自身のこと(得意なことやこれまで取り組んできたことなど)や高等学校に入学した後の目標などについて、自分で選んだ言葉や方法で表現する】。【5分以内】で行い、【検査官は、受検者が自己表現した内容に対する補足的な質問を行う。時間は、受検者が質問に回答する時間を含め3分以内とする。】とあります。

新たな試験科目「自己表現」導入に伴い二日間で行っていた学科試験の日程も、一日で5教科すべてを実施するという非常に過密ものとなりました。

「自己表現」導入1年目だった昨年、わが子の入試と重なりました。

ごく一部の県立学校で先行していたインターネット出願が、全校になったのも昨年からです。学校では、事前に出願のテスト作業を各家庭で行わせ、できたかどうかチェックもされました。子どもたちには、試験時間に慣れるために模試を1日で行う。「自己表現」の原稿を作成する。パソコンで表現内容を作成してスケッチブックにまとめる。クラスで発表しあう。先生が検査官となり自己表現を確認する等々の指導もされたようです。いろいろな対策に多くの時間を充てることとなり、先生方には非常に負担だったのではないかと思いました。

2434

家では、学校から「1年目なので、どうなるのか詳しくはわからない」という声と一緒に配布された資料から「新しい入試制度WEB説明会」を視聴したり、「自己表現」で何をどの順番で伝えるかを一緒に考えました。部活動の実績もアピールできる特技もないと訴えるので、最初は「高校に入学したら何がしたいか」と、ひねり出して編み上げて取って付けたような原稿で「自己表現」をする方向でした。ほぼ原稿はできていましたが、やはり唯一好きなことについてアピールしたいと、その原稿は使用しませんでした。

いざ試験を迎え、一日目の学科試験が終了すると「非常に疲れた」と訴えながらも「白い布が欲しい」と言い出しました。意図をたずねると、「シャツに「I LOVE 〇〇」と書いた布を貼っておき、最後に見せてアピールしたい」と言います。二日目終了後、結果を尋ねるまでもなく、制服のシャツに直接布を重ねて書いたのだと一目でわかる黒い油性ペンの裏抜けがありました。

わがことが終わり一息つくと、いろいろ気になりました。

日本語が得意でない外国籍の保護者や生徒もいるのに出願の手引書は日本語版しかなかったこと。人前で発言ができない子や、ことばに不安のある子はどうしたんだろうか。受験生から聞こえてきた「自己表現の間、検査官の先生が終始無反応でつらかった」という声。「自己表現」は、指導の面でも採点の面でも中学校、高等学校、両方に非常に負担をかける試験制度だと思いました。

「自己を表現する力」は高校へ入学した後につけていけばよい力だと思います。ただ良かったと思うことは、子どもと話をする機会が持てたことです。ただそれも、それぞれの家庭状況や子どもの個性などでさまざまなのだろうなとも思います。

はたや

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年3月 3日 (日)

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話のつづき

本題に戻ります。これで疑問の一つは消えました。下中町にあった校舎は、広島英語学校としてスタートし、その後「明101877)年」に「広島県中学校」となって以降も校地としては変っていなかったのです。そして、「明24(1891)年」に国泰寺村(上記のコラムでは雑魚場町)に移転したときは、私は先日の「余話」で「門柱も移転したと想像できます」と書きましたが、大きな間違いでした。門柱は移転せず、下中町に残ったままだったのです。

一つの疑問は解決しましたが、このコラムにも出てくる「広島師範学校」のことがまだ解明できていません。2月27日紹介した「門柱の歴史」の最初に「広島師範(現広島大学)」と記載されていましたので、この広島師範を勝手に「広島高等師範学校」と間違って解釈してしまいました。そのため「余話」で「広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから」と書いてしまいましたが、改めて調べると、1902年(明治35)年に創立したのは、勅令によって決まった「広島高等師範学校」でした。コラムや「門柱の歴史」に登場する「広島師範学校」は、1877(明治10)年に「広島公立師範学校」から「広島県師範学校」に学校だったのです。

時代経過は、確かに解明されたのですが、なぜ「広島師範学校の門柱」だったのかの疑問が残りますが、「広島一中国泰寺高校100年史」の中にあった次に記述を見つけて、その謎も解明できました。

24331

上の図は、明治12年の広島中学校の位置図です。真ん中ほどに「中学校」があります。もう一つ注目して欲しいのは、右端に「師範学校」があります。平田屋川(現在の並木通り)の東です。広島師範学校は、創立当時この場所にあったのですが、「広島一中国泰寺高校100年史」に付けられた年表をたどると「1880(明治13)年3.19 広島師範学校本校に移転同居」の記述が目に入ります。さらに「広島一中国泰寺高校100年史」の本文には、「1879(明治12)年、火災のため教場を失い・・・寄宿舎もまた灰燼に帰した県師範学校用に転用されたため・・・」さらに「その後十年間を経て、本校は生徒数の増加と、師範学校の拡張とによって・・・」、県立中学校は、国泰寺村に移転することになります。ここには、記載はありませんが、県師範学校は、1902年(明治35)年に高等師範学校が設立されるまでこの地に残り、その跡地に広島県立高等女学校が創立されたのです。

そのことを「皆実友朋百周年記念誌」には、「本校の校地にあてられたのは、広島市下中町の広島師範学校旧地であった」と書かれ、つぎに地図が添えられています。

24332

最初の地図と重ねれば、中学校と同じ場所に「高等女学校」の文字が書かれています。

「広島県立第一高等女学校の門柱」を訪ねる長い旅は、これで終わりです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年3月 2日 (土)

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の最後に「最大の疑問は、『広島県中学校(現国泰寺高校)』の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。」「古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。」と書きましたが、気になったので、国泰寺高校の「沿革史」のもととなったと思われる「広島一中国泰寺高校100年史」で調べてみました。

その1ページに「広島英語学校の門柱―広島県中等教育百年の回顧(数田猛雄)―」と題したコラムを見るけることができました。

24321

興味あることが書かれていますので、その全文を紹介します。

「原爆当時下中町にあった広島第一県女の門柱―如何にも明治の初期のものらしい古風なデザインの御影石の門柱は、広島英語学校の門柱であったことを記しておこう。

あの校地(下中町)は広島県英学校の廃止の後は広島県中学校の校地として使用せられ、この校が雑魚場町に移転の後は新しく開設された広島県高等女学校の校地となった。それ以来その門柱は、県立女学校とともに風雪を凌いできた。

原爆後県女が、皆実町の元被服廠あとに移転したとき、関係者はその門柱を焼け野原の中から運んできた。歴史の眼から見れば、この門柱も唯一校のみの記念物ではなく、広島一中、広島中学、広島師範学校の記念物でもあるということである。

試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ、『明治十年一月広島英語学校』と刻まれている読みとることができる。左の写真は百米道路に立つ広島英語学校の門柱である」

このコラムに「試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ」と書かれていますので、とにかく「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」に行き、調べてきました。

24322

これまで気がつきませんでした(というより、そう思って見ていなかった)が、門柱の裏側には、見にくくなっていますが、確かに文字が刻まれています。文字の下部はコンクリートで補修されていますので、コラムにある「明治十年一月広島英語学校」の文字のうち、「語」の文字は半分、「月」と「学校」の文字は、無くなっています。これらの文字の上部に「寄附」の文字が刻まれていますので、コンクリートで隠れている部分には、寄付者の名前が刻まれていたのではないかと想像できます。広島皆実高校にある門柱3本のうち2本は短くなっていますので、刻まれた文字は無くなっていると思われますが、1本だけ長かったような気がしますので、文字が残っていないか確認に行ってこようと思います。

これからこのコラムにも書かれている「門柱の歴史」をもう少し詳しく検証したいと思いますが、ここまで少し長くなりましたので、このつづきは明日にします。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年3月 1日 (金)

被爆者の森―2本植え替え

昨日午前8時から平和大通り東詰付近に広がる被爆者の森で、沖縄県の木と石川県の木の2本の植え替えがありました。

最初の植え替え作業が行なわれたのは、石川県の木です。もともと石川県の木は、県木アスナロが植えられていましたが、私が知る限り過去3度枯れています。

1度目の植え替えの様子は、「被爆者の森」の植栽と樹名板の取付け: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しましたが、翌年3月再び枯れているのを発見し、広島市に連絡したところ、3月18日に植え替えられました。その時のことを「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

ところが、2度目の植え替えを行なったアスナロが、翌年2023年夏前になると再び枯れ始めたのです。この時も広島市に連絡を入れたのですが、その時は「もう少し様子を見たい」との返事でしたが、やはり枯れてしまったということで、今回の植え替えとなったのです。

今回は、アスナロは、広島の気候に向かないのではないかと判断し、樹木を変更することになり関係者とも相談し「兼六園菊桜」が選ばれて植樹されました。

24311

アスナロが植わっていた場所は、がれき(瓦など)が多く土が悪いことや周囲の樹木の根が張りすぎていることなどから、今回の植樹場所は少し南によった中心部の車道のすぐそばが選ばれました。

植え替え業者の話では、昨年秋に石川県の造園業者が広島に来られたとき相談し、3種類ぐらいの木を選び、その中から広島の別の場所で育っている「兼六園菊桜」ならきちんと育つだろうと選ばれたそうです。

24312

「兼六園菊桜」の原木は、石川県金沢市・兼六園にあり国指定天然記念物されていましたが、1970年に残念ながら枯れ死してしましました。現在は、接木増殖したものが公園内に植えられ入園者を楽しませているようですので、石川県の木として相応しい木だと思います。花は八重ですので、4月の中旬頃に咲くようです。今回植樹された木は、栃木県の造園業者から取り寄せられたもので10年ぐらいの成木ですが、つぼみはあまり付いていませんので、今年は花は期待できないということでした。

1時間ほどで1本目の植樹が終わり、2本目の沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)の植樹です。数年前から、幹に腐植ができたため樹勢が弱まり、昨年秋に枯れ死したようです。こちらは以前に植わっていた木と同じも種類の木です。

24313

この木は、熊本県の造園業者から取り寄せたもので、7~8年育った木です。

花は、しっかりと色づく濃いピンク色で、ソメイヨシノなどとは違いうつむきがちに咲く桜です。こちらの木には、つぼみがしっかり付木、少し膨らんでいるように見えます。

24314

業者の話では、「今後の気候にもよりますが、3月中旬には咲くと思います」とのことでした。楽しみです。

全ての作業が終わったのは、午前11時前でした。

今回の植栽に立ち会ったいくつが気づいたことがあります。

一つは、植栽のための一月前から、植栽位置の周囲2メートル以上を掘り起こし、新しい土の入れ替え、栄養剤の補給が行なわれたことです。比較的土の状態がよいと思われる沖縄の木の植樹場所の地下からも瓦片がでています。

24315

二つは、植えた木を保護するための柵が作られています。低木だった北海道のライラックを植栽するとき、「保護柵をつくって保護して欲しい」と広島市にお願いしたことがありますが、今回はいずれも3~4メートルの成木でしたが、両方とも柵で保護されました。

広島市の姿勢が、「被爆者の森」をきちんと保護しようという前向きの方向に進んでいると評価できます。それ以上に、それを支える業者の努力が大きいということを丁寧な説明を聞きながら実感しました。

いのちとうとし

<追伸>今日は、ビキニデーです。原水禁国民会議が、静岡で「3.1ビキニデー」の集会と明日は、焼津で「久保山愛吉さんの墓前祭」を開催しますので、70年周年の節目ですので、久しぶりに参加するため、静岡に行きます。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月29日 (木)

2024年2月のブルーベリー農園その4

2月は3連休が2回あった。23日から25日までの3連休はいつも午後から農作業が始まるのでどうにか雨に邪魔されずにブルーベリーの剪定が行えた。雨雲レーダーを見ながら、小雨が来そうな雲があっても東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から行ってみると降らなかったりするので、晩冬から初春にかけては豪雨は来ないこともあり、とりあえず農園に行くことにしている。2月に入って撮影用のカメラが壊れたので買い換えた(中古)。それに伴い記録画素数も30万画素から200万画素に変えたので少し鮮明度が増したようだ。

242291

2月23日(金)

里山のブルーベリーの剪定が終わったのでこの日から3段ある畑のブルーベリーの剪定に取り掛かる。どこから始めるか? 昨年は上の段から始めたので今年は一番下の段からスタートすることにした。

242292

防草シートを少し動かすとシートの下にはもごもごと白い草の根が伸びている。土の中や上ではもう根が活動している。

242293

2月24日(土)

いい天気。ブルーベリー畑で切った枝をすこしづつ野焼きする。

242294

あちこちでカマキリの作った巣がある。害虫を食べてくれるのでこのままにしておく。ついた枝をカットしたときは近くの枝にくくり付けておく。

242295

2月25日(日)

今日の農作業は一人。作業の合間に周囲を見回る。

①荒おこしをした田んぼに草の緑がうっすら広がる。

242296

②ナノハナも咲き始めた。

242297

③小さな畑のウメの花は数を増して咲いている。今年は梅の実がとれそう。

242298

④朝方まで雨が降っていたので、午後の気温の上昇で田んぼの草むらから湯気がのぼる。

242299

3日間で切ったブルーベリーの枝。しばらく置いてから野焼きして処分する。

2422910

その際挿し木に使える枝を品種別により分けて保管して安芸の郷に持ち帰る。

2422911

2月27日(火)

安芸の郷の温室で農園で切って来たブルーベリーの穂木を13㎝位の長さに切って冷蔵庫に保管する作業を行った。高さ13㎝位に切ったペットボトルの中に穂木を置いて機械的にカットしていく。20本くくりで輪ゴムをまく。3月に入るとブルーベリーの苗木を作るために挿し木を始める。

2024年229

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月28日 (水)

「広島県立広島第一高等女学校の門柱」余話

昨日、「広島県立広島第一高等女学校の門柱」の歴史を書きながら、気になることがありました。

「門柱の歴史」の一行目に書かれていた「1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」に書かれた「広島英語学校」です。

ネットで検索する「寺田芳德『広島英語学校と宇和島』」がヒットしました。そこには、「広島英語学校」創立の歴史が次のように書かれています。

「広島英語学校は初め広島外国語学校と称し,明治7(1874)329日設置,同年 6.15日開校された。前節で述べたとおり,明治65月設置の東京,大阪,長崎外国語学校につゞいて愛知,新潟,宮城とともに設立された全国7つの外国語学校の一つであった。」さらに「文部省は明治10(1877)214,広島英語学校を愛知・長崎・新潟・宮城の各校とともに廃止して、これを広島県に委譲するに至るわけである。」 と創立の経緯が記されています。他の4県で廃止されたのに、なぜ広島だけ残ったのか?と思いますが、「当時の校長の識見と手腕が大きかった」ことが、この論文の別のところに書かれています。

ここに記された明治10年が、「門柱の歴史」に記載されていた「1977(明治10)年」に符合しますが、少し疑問に思うのは、「門柱の歴史」では、「1月」となっているのですが、「広島英語学校と宇和島」では、「214日」となっており、この関係はどうなのかは不明です。

Photo_20240227135701

広島第一高等女学校の4本の門柱(「皆実友朋会アーカイブズ」より)

次に気になったのは、「門柱の歴史」の「その後広島県中学校(現国泰寺高校)」という記述です。そこで国泰寺高校のホームページを検索したところ、「学校沿革史」を見つけることができました。ここでかなりの謎が解けました。

71874) 6 官立広島外国語学校として大手町1丁目に開校。生徒120名募集、修業年限6

       12 広島英語学校と改称

101877) 2 官立広島英語学校を広島県に移管。広島県中学校と称す。これを本校の創立とする。

       7 下中町の新校舎に移る。

      11 校舎落成。

121879) 9 広島県中学校と改称。

241891) 3 本校校舎現在地(当時国泰寺村)に落成移転。

ただ、国泰寺高校の沿革史をよく見ると、「門柱の歴史」の「1877(明治10)年1月」に疑問が出てきます。広島英語学校が、下中町の新校舎に移ったのは、「1877(明治10)年7月」さらに校舎が落成したのは、同年10月となっていますから、門柱が建てられたのは、7月以降となるのではないかと思います。そして、校舎の移転とともに1891(明243月には、現在の国泰寺高校の敷地に門柱も移転したと想像できます。

こうして調べると、さらに疑問が広がります。それは「広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」の歴史です。広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから、広島師範学校の門柱として引き継がれ、広島県立高等女学校に移設されることはあり得ないはずです。

そして最大の疑問は、「広島県中学校(現国泰寺高校)」の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。国泰寺高校の沿革史では、前年の1901(明治34)年6月に学校の名前が「広島県立広島中学校」が改称されてはいますが、「校舎が改修された」などの特別の記述はありません。

やはり不思議な気がします。

古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月27日 (火)

広島県立広島第一高等女学校の門柱

今日は、平和大通りの「広島第一県女原爆犠牲者追憶の碑」のモニュメントの一つとして立つ門柱の話しです。

広島第一県女の同窓会「皆実友朋会」のアーカイブの報告書のことが知りたくて県立皆実高等学校の一角にある同窓会事務所を訪ねました。譲っていただいた「アーカイブ報告書」については日を改めて報告しますが、この時「この学校には、第一県女時代被爆したものは移設されていませんか」と尋ねたところ、「正門を入って右側にある学校庭園『憩の森』に3本門柱が立っていますよ」と教えていただきました。

同窓会事務所からの帰り「憩の森」で門柱を探すと、公園の入り口と思われるところ2本建っています。

242271

右側の1本は、ずいぶん短くなっています。そして少し離れたところに1本建っています。

242272

「皆実友朋アーカイブス」には、この門柱を「コケシ型石柱碑」と紹介した後「百十余年もの歴史ある3本の県女の門柱は、1本に最上部の欠落、1本に下部の欠損が、残る1本に表面の斑状剥離があるものの・・・」と書かれています。

第一県女にあった4本の門柱のうち、一番被害が少なかった門柱が「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」のモニュメントとして移設されたことがわかります。広島皆実高校からの帰り道「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」を訪れました。

242273_20240226143301

上の写真、よく見ると門柱の左下に小さな石碑があります。

242274

この石碑には、次のように書かれています。「この位置は、旧広島第一縣女の正門付近に当たり、この石柱は原爆当時の門柱4本の一つである」

何度も読んだはずですが、「後の3本の行方を気にしたことがなかったな」と思いました。

ところで広島皆実高校の「憩の森」に建つ門柱には、第一県女時代の4本の柱が立つ写真とともに「門柱の歴史」を刻んだ銅板が設置されています。

242275

そこのは、この門柱の「百十余年もの歴史」といわれる歴史が書かれています。

「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」には、この歴史は紹介されていませんので、全文を紹介します。


門柱の歴史

1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる

1902(明治35)年4月 本校の前身である広島県立高等女学校が広島市下中町(現百米道路の白神社東方付近)に開校され、その門柱として引き継がれる。

1941(昭和16)年 改称された広島県立広島第一高等女学校に引き継がれる。

1945(昭和20)年86日 原爆投下により一瞬にして校舎や施設を失い門柱も被爆、生徒教師297名の犠牲者を出す

1946(昭和21)年 広島県立第一高等女学校が出汐町に移る

1948(昭和23)年 学制改革によって,広島県広島友朋高等学校となった本校に引き継がれる

1949(昭和24)年 再編成によって、広島県広島皆実高等学校となった本校に引き継がれる

1955(昭和30)年 旧広島県立広島第一高等女学校跡(現百米道路の白神神社東方付近)に「追憶の碑」が建立され、4本のうち1本が移設される

1968(昭和43)年 改称された広島県立広島皆実高等学校に引き継がれる

1991(平成3)年1016

贈創立90周年記念

皆実友朋会

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月26日 (月)

見学の早期再開が望まれる中国軍管区司令部跡旧防空作戦室

一昨日のブログ「被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書」で、市内6つの被爆建物が、国史跡に指定されたことを紹介しました。

6つの被爆建物のうち、5つの建物は現在見学が可能ですが、中国軍管区司令部跡旧防空作戦室のみ、外からは見ることができますが、内部の見学はできません。

広島原爆遺跡調査報告書によれば、「1993年から平和学習を目的とした場合に限って内部への立ち入りが許可し、2011年度から2016年度は、中央公園の指定管理者である(公財)広島市みどり生きもの協会が、同協会のホームページで見学について紹介し、同協会で受付を行なった上で内部の見学を認めてきた。(年度別見学者数は概ね8,000人~11,000人)。・・・しかし、2017年4月より、施設の老朽化によるコンクリートの剥離等が進行しておし、今後、降雨による施設への浸水によりさらなる剥離の危険性が増すことが予測されるため、施設内部への立ち入りを禁止している。」と、2017年より見学が不可能となったことが記されています。

6862a7f3290c8cb46c461046328b386f

この記述を読んで気づいたのは、年度別の見学者数の多さです。他の被爆建物(希望すれば自由に見学できる)と違って、(公財)広島市みどり生きもの協会で受付の手続きを経なければ内部見学が不可能であるにもかかわらず、年間に1万人前後、一日平均30人ぐらいの人たちの見学希望があったということです。

被爆直後「広島が新型爆弾にやられて全滅状態です」との第一報が、動員された比治山高等女学校の女子勤労隊員2名によって発せられた場所を見学したいという希望者が多いことを表しています。

確かに危険性のある建物内部の見学を現状では許可することは難しいと思いますが、国史跡指定を機に、修理補修をして見学を再開してほしいと思い、市役所に行ってきました。

最初にこの調査報告書を作成して文化振興課を訪ねたのですが、「施設の管理などは、緑政課が行なっていますので、そちらに聞いていただけませんか」との答えでしたので、次に緑政課を訪ねました。

「修復は、これまでもを検討してきたのですが、財政的なこともあり、具体的にはなっていません。」とのことでしたので「今回国の史跡に指定されたので、修理補修のための財政負担について国が二分の一補助することになるので、ぜひ保存・活用の推進ためにも早急に対策を講じて見学できるようにして欲しいのですが」と要望したところ「まだ史跡指定されたばかりですので、きちんとした回答はできませんが、今後あらためて修復などの対策について検討することになると思います」とのことでした。

早急に修復計画を策定し、見学が再開できるよう今後も働きかけを強めたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月25日 (日)

能登地震の教訓は島根原発の「再稼働」を止めること

島根原発の南側、約2kmのところを東西に走る宍道(しんじ)断層という活断層があります。この活断層、島根原発が建設された当初、中国電力は「無い」というのが言い分でした。

 それが1998年に8kmとなり、2004年に10km、2008年には22km、そして地震調査委員会は39kmと評価し、この値に基づいて原子力規制委員会は島根原発2号機の再稼働を許可しました。

活断層の長さが変更されれば、それに対応する基準地震動を算定して原発の安全対策を講じなければなりません。安全対策を実施すれば、当然ですが費用も増えてきます。

 中電の島根原子力本部 広報部が発行している2017年秋号の「あなたとともに」という情報紙の「QAコーナー」には、次のように書いています。

Q、何度も評価長さを見直すのはなぜですか?

A、原子力発電所の安全性を向上させるためには、その時々の最新の知見に基づき、慎重に評価する必要があると考えています。評価結果については、過去の見直しの際にも、その都度国による確認を受けており、今後も、審査会合等で説明してまいります。

Q、評価長さを見直すことで発電所にはどのような影響があるのですか?

A、評価長さを延長すると、基準地震動は引き上げの方向で見直すことになります。しかしながら、今回は発電所から比較的遠い箇所を延長するものであり、引き上げの程度は小幅になるものと考えていますが、詳細は今後検討してまいります。

Q、宍道断層が近隣の断層と連動することはありませんか?

A、宍道断層に近い活断層として、鳥取沖の断層があります。宍道断層の東端から鳥取沖西部断層の西端までの区間の音波探査の結果、上載地層法により後期更新世以降の断層活動が認められない(活断層がない)ことを確認していること等から、連動することはないものと考えており、今後審査会合で説明してまいります。

242205

最終調査前の周辺の断層

242256

調査後の宍道断層の長さ

 しかし宍道断層の東端から、鳥取県西部断層の西端の間は6kmで非常に近いのです。

この地方は、以前から大地震が多く起こっている地域です。1943年には、マグニチュード(Ⅿ)7・2の直下型地震が起こり、死者・行方不明者1210人、全壊家屋1万3295棟という甚大な被害が発生したと、鳥取県震災小誌に記されています。

2000年10月6日に発生した鳥取県西部地震では、米子市などで大きな被害が起こり、また2016年10月21日には鳥取県中部地震が起こり、震度6を記録しました。「連動することはない」と言い切ってよいのでしょうか。

 鳥取県地震防災調査研究委員会(委員長・香川敬生鳥取大大学院教授)は2月3日、鳥取県庁で研究会を開き、宍道断層の長さが22kmから39kmになったことによる被害予測を公表しました。そうなった場合、米子市と境港市で最大5千棟が全壊・焼失するとの予測を示しています。22kmだったら約1千4百棟ですから、3倍以上の危険性が増えるとされています。被害額も22kmの時に比べ、5761億円増えて7738億円に拡大するとしています。

 この度の能登地域の地震では、16時6分には前震とみられる最大震度5強が起こり、その4分後の16時10分に最大震度7の本震が、そして16時18分には同じく震度5強の余震も起こっているのです。

多数の余震は長さ150km、幅30kmほどの範囲で起きているのです。本震の時の最大加速度は2828ガルを記録しています。それも地震の震央の近くではなく、震央から約60km南西に遠く離れた志賀町の地震計が記録したのです。

 この事実を、中電はもっと謙虚に受け止めることだと思います。島根原発で想定されている基準地震動の最大加速度は820ガルです。

 今号のブログは数字が多く、分かりにくい部分もあったかと思いますが、能登地震の教訓は、今年8月に計画している島根原発2号機の再稼働は思い留まることです。「再稼働」を許可した原子力規制委員会は、中国電力に対し「再稼働は中止するよう」に云いわたすことだと思うのですが。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年2月24日 (土)

被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書

先日、予約していた本を受け取りに中区図書館に行ったとき、あれっと思う本が目に入りました。

昨年9月に広島市が発行した「広島原爆遺跡調査報告書」です。すぐに手に取り、パラパラと中をめくってみました。写真や図面が多数配された興味深い内容です。貸し出しが可能のようですので、予約した本と一緒に借りることにしました。

この報告書は、2020年度と2021年度に実施した「広島原爆遺跡調査業務」に基づき編集されたものです。

「第1章広島原爆遺跡とその調査」では、「原爆遺跡とは」として「広島原爆遺跡は、広島に投下された原子爆弾を受けた建造物や被爆樹木等で現存するもの、又はその一部や被爆した遺物が、ほぼ被爆時と同じ位置に残されているものあと、本報告書において定義する。」とし、「2023年度3月31日現在広島市が登録しているものは次の通りである。〇被爆建物:86件(棟数ではない)、うち非木造30件、木造56件 〇被爆橋梁:6橋:京橋(京橋川)栄橋(同)比治山橋(同),猿猴橋(猿候川),荒神橋(同),観光橋(八幡川)〇被爆樹木:160本」と記されています。

242241

その後に被爆建物のリストが,掲載されています。

調査の目的として「広島原爆遺跡の概要を把握・確認し,その中から具体の物件を抽出し、それらが有する歴史上及び学術上の価値を明らかにして、文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」としており、今回の調査対象(被爆建物)の条件を「爆心地から2キロ以内、被爆の痕跡が顕著。被爆当時の姿を比較的良好に残している。被爆当時の位置に残っている。公開等による活用の可能性が高い。調査に所有者の同意が得られる。」とし、「・平和記念公園レストハウス(広島市所有)・旧日本銀行広島支店(日本銀行所有:広島市へ無償貸与)・本川小学校平和資料館(広島市所有)・袋町小学校平和資料館(広島市所有)・中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)(財務省所有:管理団体広島市)・多門院鐘楼(多門院所有)」の6つの調査が行なわれています。

調査報告では、建物ごとに「①建物の概要②歴史③被害の状況④被爆前後の利用状況⑤現況及び被爆痕跡などの調査」の5項目にわたって報告され,最後に「小括」として「確認できた事項について特徴や価値の面を中心に要点を整理」してそれぞれ数点にわたって評価が記されています。

特に興味を持つのは、今は見学ができない「中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)」です。

小括では次のように述べています。

「●被爆直後に被害を発信した場所である建物(略)●現存する防空作戦室跡として希少な建物(略)●軍事拠点中枢部に残る軍関係の建物―史跡広島城趾の史跡指定地内に位置し、大本営跡等とともに,明治以降の広島城跡における軍関係の役割・機能やその変遷を伝える数少ない遺構であり、軍都広島や戦時下の防衛体制をうかがい知ることのできる建物である。」

調査対象物としてはただ一つの木造建造物多門院の小括では、「爆心地から最も近くに位置する木造の被爆建物」とし「被爆当日、火災は多門院等にも押し寄せていたが、呉海軍鎮守府の救援隊によって食い止められた。全壊全焼地域は、多門院の西側で止まることとなった。」と記されています。この部分は、初めて知る事実です。

この報告書の最後は、「広島原爆遺跡の保存・活用に向けた課題」として「広島原爆遺跡をより多くの人々に知ってもらい、関心を高めることは、広島原爆遺跡への理解を広げ、その保存・活用の推進力につながるものと考えられる。」と結んでいます。

242242

 NHK広島2月21日夕方ニュース

とここまで書いたところで、この6つの被爆建物が国史跡に指定されたニュースが入ってきました。

この報告書を手にしたとき「なぜこの6つだろう」と思ったのですが、このニュースを聞いて納得です。ここで紹介したように確かに調査目的には「文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」と明記されています。

この調査は、国史跡指定のためだったかも知れませんが、内容のあるよい調査報告ですので、できるだけ多くの人に読んでほしいと思いますし、被爆建物めぐりの際に活用したいと思います。

できれば、他の原爆遺跡も調査してほしいものです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧