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2022年10月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その37-2)ベトナム象、広島を歩く-1のつづき

ベトナム象との出会い

現代の〔足跡第一号〕は分かりましたが、〔歴史をさかのぼって最初に広島県・東広島市に足跡を残した人は?〕を調べる課題は残ったままです。どうやって調べたらよいか、広島県立文書館にベトナムとの関わりを示す記録や古文書の存在と調べ方をお尋ねしましたが、思うように進みません。

そんな折、所属している東広島郷土史研究会の山城探訪会で「ベトナム象が西国街道を歩き、西条四日市宿に泊まった」という話を聞き、〔エッ!〕という驚きと同時に〔ヤッタ!〕と思わず歓声を上げました。

ときは享保年間、第8代将軍徳川吉宗の時代です。今からおおよそ300年前のことです。

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享保14年渡来象の図:国立図書館蔵

鎖国政策の一方、海外事情に強い関心を寄せていた将軍吉宗が「象を見たい」と、雄雌2頭の象を発注したことに始まります。吉宗は馬の品種改良のためにペルシャ馬を輸入し馬場をつくるなど、動物にも関心を寄せていたそうです。これも単なる「趣味」ではなく、何らかの目的をもっていたのかも知れません。

吉宗と言えば、忠介(南町奉行大岡越前守忠介)と共に悪をこらす「名君」として描かれています。また、新田開発や「火消」、「目安箱」などの画期的な制度をつくった一方、「5公5民」や「上米制度」で庶民の暮らしを逼迫するなどの功罪をもつ「享保の改革」を進めた将軍です。

享保13年(1727年)6月13日、吉宗が発注した雄雌各1頭のベトナム象が長崎に着きます。雌象は食べ物や気候に馴染めなかったのか、病気で3ヶ月後に死んでしまいます。翌享保14年(1728年)3月13日に長崎を出発し、江戸までの354里(1400km余り)を75日間かけて踏破しました。

その雄象が、享保14年(1728年)4月8日、西国街道の宿場、西条四日市宿に泊まったというのです。

ベトナム象の旅を追って

〔江戸への象の旅にはベトナム人の象遣いか調教師が付いていたに違いない。するとその人が東広島に初めて足跡を残した人かも知れない〕と、8月から調べ始めました。次号から広島藩(芸州浅野藩)に入って西条四日市宿に泊まり、岡山藩(備前池田藩)に至るまでの象の旅を追い、江戸について亡くなるまでのベトナム象を紹介したいと思います。

「ベトナムの歴史」シリーズではなく、身近な広島県や東広島市に関わる内容なので「ヒロシマとベトナム」シリーズに寄稿することにしました。

(2022年10月6日、あかたつ)

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2022年10月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その37)ベトナム象、広島を歩く-1

「日越国交樹立50周年」を前に

来年、1973年9月21日にパリのベトナム民主共和国総代表部で日本国政府とベトナム民主共和国の代表が外交関係樹立に係る交換公文に署名して半世紀、「日越国交樹立50周年」を迎えます。古(いにしえ)から連綿と続いてきたベトナム(越国)との関わり、交流を経て今日があります。そうした日本とベトナムとの交流史を辿ってみたいと、昨年3月から本Blogに新たなシリーズ「ベトナムの歴史」の寄稿を始めました。

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1973年9月21日パリで調印された「外交関係設立交換書簡」

「日越国交樹立50周年」を来年迎えることから、身近な広島県や東広島市におけるベトナムとの交流の痕跡を探し始めました。

外務省の「国籍別外国人入国統計」によると1950年のベトナム人は18人、外交関係が樹立された1973年は1,411人、2021年末は432,934人です。「国交樹立」半世紀で307倍に増え、中国に次ぐ第2位を占めています。

東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?

ところで、〔東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?〕

調べると1994年に初めて6人のベトナム籍市民が登録されていました。「国交樹立」から20年後に初めてのベトナム人の足跡がありました。ちなみに、今年9月末のベトナム籍市民は1,554人です。

ところで、〔どのような人?〕

一挙に6人ということから、「広島大学の留学生では」と広大を訪ねましたが、当時の記録があったとしても紙媒体でデータベース化されておらず、調べることはとても困難」とのこと。広島大学留学経験を持ち、現在、ベトナム国家大学ホーチミン市校 人文社会科学大学の日本学部長をしている友人(フィン・トロン・ヒエンさん)に尋ねてみることにし、何となくネットで「広島大学ベトナム人留学生第一号」と検索してみました。

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2014年3月15日、博士号を取得し帰国の「ヒエンさんを送る会」

〔あった!〕

広島大学「国際同窓生ネットワーク」「留学生時代の思い出」(注1)にグエン・ティエン・ルックさんの寄稿を見つけました。6人の学友とともに留学し、1992年~1994年3月まで千田キャンパスで、4月から1999年の帰国までの5年間を東広島市で過ごされたのです。

奇遇なことに、ヒエンさんの恩師に当たる方で、学会で来日されたルックさんの送迎をヒエンさんから頼まれ、エスコートした方でした。遠回りして〔東広島に初めて足跡を残した人〕にたどり着き、記憶力の乏しさをあらためて痛感です。

ちなみに当時の広島大学への留学生は540人、ベトナムからは6人だったとのことです。今年5月1日時点では84カ国・地域から1,638人、ベトナムからは55人です。

(注1)広島大学国際同窓生ネットワーク「留学生時代の思い出」 https://www.hiroshima-u.ac.jp/ialumni/memories/memories04

(2022年10月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんからは、「ベトナム象、広島を歩く―1」は1回分の原稿として送られてきましたが、少し長めでしたので、今日、明日の2回に分けて掲載することにしました。明日は、いよいよ「ベトナム象」が登場します。

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2022年8月27日 (土)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第2日目

「戦争遺跡保存全国シンポジウム」の二日目は、午前9時から広島市青年センター会議室を使って3つの分科会が行われました。

分科会のテーマは、第1分科会が「保存運動の現状と課題」、第2分科会が「調査方法の整備技術」、第3分科会が「平和博物館と次世代への継承」です。

私が参加したのは、第1分科会です。この分科会は、各地での戦争遺跡保存運動の体験が報告されました。報告は、6本です。すべての報告内容を紹介することはできませんので、レポートの題名と報告者名を報告順に記載します。

①「大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題」楠本昭夫(広島大会現地実行委員会)

②「731部隊遺跡の世界遺産登録に向けての経緯と現状報告」和田千代子(731部隊遺跡世界遺産登録をめざす会)

③「四国西南部の特攻基地―第132震陽隊・土佐清水市越基地跡を中心に―」出原恵三(戦跡保存ネットワーク高知)

④「川崎市宮前区に残る陸軍東部62部隊の戦争遺跡」山田譲(戦跡保存全国ネット)

⑤「茨城県最大の戦争史跡『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について」金澤大介(筑波海軍航空隊記念館)

⑥「新重文指定の出雲日御碕灯台は、戦争遺跡です」西尾良一(戦跡保存全国ネットワーク)

全ての報告が、地道な活動の紹介で、参考になるものでした。詳細な調査の実施、保存をどう継承するのかなどの事例もあり、戦争遺跡保存が市民の手によって進められていることがよくわかりました。

そんな中で、私が、この第1分科会を選んだ理由の一つは、⑥の報告に興味があったからです。

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ここでは、西尾さんの報告で学んだことの一部を紹介します。

私にとって日御碕灯台といえば、子どもの時から何度も訪れた場所であり、海の青さに映える白亜の「東洋一の高さの灯台」ということだけが強く印象に残っている場所でした。ですから、「日御碕灯台が戦争遺跡?」とは、どういうことなのか知りたかったのです。

島根半島の東西の端に明治期に灯台(美保関と日御碕)が建設されましたが、西の岬で明治36年(1903年)4月1日に初点灯したのが、日御碕灯台です。灯台が点灯した明治36年は、日露戦争の前年です。当時の海軍は、日露戦争に備え、全国に116カ所の海軍望楼(うち仮設望楼は84か所)を設置します。仮説望楼のうち灯台と兼用して設けられたものが4カ所あったようですが、その一つが、日御碕灯台だったのです。海を監視する望楼は、遠くを望むことを目的としていますから、いずれも高い場所に作られています。その意味では、海沿いにあり高くそびえる灯台は、その目的にかなうものだったようです。日御碕灯台も、高さ63.3mですから、その役割を十分に果たしたといえます。灯台を守る職員とともに、望楼長1名、兵卒2名が常駐して、海上望楼を行っていたようです。

これで「日御碕灯台が戦争遺跡」としてあげられる理由が、理解できました。しかし、その史実は、日御碕灯台を紹介する資料の中に登場することはありませんので、地元の人もほとんど知られていない事実だと思います。

戦争遺跡といえば、どうしても第二次世界大戦時のことを思い起こしてしまうのですが、もっと長い西南戦争遺跡からの歴史があることも、今回のシンポジウムで学ぶことができました。

2日目の最後にアピールが採択されましたが、長文ですのでその一部を紹介します。

「戦争遺跡の改変、消滅の危機は一層増しています。島根県出雲大社基地、沖縄県那覇市首里城地下の沖縄守備軍司令壕の保存などまさに戦争遺跡保存の課題は待ったなしの状況です。同時に戦争遺跡の保存・活用の在り方をめぐって、旧日本軍の顕彰を目的とするような『軍事博物館』的な資料館、加害の側面を覆い隠し戦争を美化する手法などの例が数年来指摘されてきました。世界遺産に登録された長崎県端島炭鉱における朝鮮労働者についての責任ある説明の欠如、韓国での『徴用工裁判』への対応など、日本政府の歴史問題に対する不誠実な姿勢に通ずるものです。今必要なことは、日本が行った戦争の加害と侵略の歴史に真摯に向き合うことです。」

戦争遺跡保存を進める運動の役割が一層大きくなっています。3日目のフィールドワークには、参加しませんでした。

いのちとうとし

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2022年8月24日 (水)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第1日目

「旧軍都・被爆都市を経て、戦争遺跡保存の原点となった広島から、戦争も核兵器も許さない世界の創造に向けた取り組みを深めよう」と呼びかけた「第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会」が、20日から3日間、広島市青少年センターを主会場に開催されました。開催前は、参加者希望が少なく現地実行委員会は、少しやきもきしたようですが、2日目までで延べ310人の参加があったようです。コロナ過という状況を考えると成功だったと思われます。

私も以前から、全国の戦争遺跡保存の取り組みに興味を持っていましたので、初日の全体会・講演会と2日目の分科会(当初は2日目のみの参加予定)に参加しました。

3日目は、現地見学会(・広島市内コース・呉コース・太田川上流安野コース・平和公園めぐりコース)が実施されましたが、すでに何度か訪れた場所ですので、参加しませんでした。

初日の20日は、午後2時から広島市青少年センターホールで開催されました。余談ですが、会場の冷房設備の不具合のため、冷房なしの集会となりましたので、3時間は少し辛いものがありました。

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全体会は、地元実行委員会の多賀俊介実行委員長の開会のあいさつでスタートしました。最初に、平和記念資料館の館長も務めたことのある原田浩さん(1939年生まれ、6歳の時広島駅で被爆)が、「ヒロシマの願いを世界へ ~平和行政の歩み~」と題する記念講演。

次は、戦争遺跡保存全国ネットワーク運営委員の菊池実さんの基調報告が行われました。

その詳細は省略しますが、基調報告でも紹介された、今年のシンポジウムのタイトルにある「戦争遺跡保存の原点広島」について、触れておきます。

今年のシンポジウムが、第25回となっているように「戦争遺跡保存全国シンポジウム」は、1997年に長野県長野市松代から始まったものです。松代は、終戦末期に大本営や国の重要期間を移設するために地下壕を掘る施設工事が行われ(8割を終えたところで終戦となった)、戦後早くに保存運動が展開された地です。

1997年も重要です。原爆ドームの世界遺産登録は、1996年12月に実現するのですが、その時大きな障害となったのが国の「文化財指定基準」でした。この変更を実現させたのは、1993年に広島で始まった「原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願(こっかいせいがん)のための全国的な署名(約165万)」運動です。この署名が力となって、当時「約100年を経過したもの」となっていた史跡・文化財指定基準に「戦争遺跡」が加えられたことになり、世界遺産登録への道が開けたのです。

この指定基準の改正は、アジア太平洋戦争期までの戦争遺跡を史跡・文化財に登録する道を開き、全国の戦争遺跡保存運動を行っていた人々に展望を与えることになったのです。

ですから、「戦争遺跡保存の原点となった広島」ということができると思います。

少し長くなりましたので、つづきは、26日に掲載します。

いのちとうとし

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2022年8月 3日 (水)

ヒロシマとベトナム(その35-1)

8月11日に開催予定の「LOVE & PEACEコンサート」、コロナ感染爆発のため中止

7月5日号でお約束した「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」の続き、次号に変更します。

7月26日号でご案内した8月11日(日)の「“エージェントオレンジDay” ‘2022 in ヒロシマ」、「LOVE&PEACEコンサート」(平和を語り継ぐコンサート)を、「爆発的なコロナ感染拡大」のために中止しました。先ず、このことをお知らせし、お詫びいたします。

グエン・ドクさんの「ビデオメッセージ」も届き、友情演奏をしてくださる地元の演奏家や広大生、地元バンドの皆さんも練習を重ね、多くの皆さんが楽しみにしてくださっていた中での中止、大変申し訳ありません。

LOVE&PEACEコンサート」は中止しましたが、今年(被爆77年、枯葉剤61年)の夏は、いつにも増して“ノーモア ウオー”、“ノーモア ヒロシマ・ナガサキ”、“ノーモア 枯葉剤”、“ノーモア ベトナム”の思いはつながり、広がっています。

77年目の“あつい夏の日”(8月6日)を前にした取り組みを報告します。

“枯葉剤61年”~改めて問うエージェントオレンジ「パネル展」(7月15日~29日)

今年2回目を迎えた“エージェントオレンジDay”の取り組み。広島大学ローターアクトクラブの学生さんたち、武田中学校・高等学校の生徒さんたち、黒瀬地域の住民自治協議会の皆さんなどに企画・準備に参画していただき、ピースアクションのネットワークは大きく裾野が広がりました。

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東広島市内だけでなく帰省中の佐賀市の方、広島市や呉市などから162名に来場いただきました。

寄せられた感想文には、「平和憲法、平和教育の充実」、「身近から差別を無くす」、「戦争の酷さ、核兵器・化学兵器の影響を周知」、「軍事力ではなく外交努力で国際関係を保つ」、「核兵器廃絶条約への加盟」、「施政者にこのような勉強をして貰いたい」・・・・など、「平和実現に向けた思い」がつづられていました。

◇「第36回平和学習バス」(7月29日)

東広島市原爆被爆資料保存推進協議会(原資協)が毎年8月6日を前に、市内の全小中学校の児童生徒代表を対象に東広島市と市教育委員会後援で「平和学習バス」を取り組んでいます。内容は記念資料館の見学や碑めぐり、被爆者の体験講話などです。36回を迎えた今年は7月29日に行われました。私も20数年前から原資協の理事を務め、ほぼ毎年参加していますが、今年は、とても画期的な「平和学習バス」でした。

それは平和公園の「碑めぐり」を賀茂高校の生徒さんたち24名が担ってくれたことです。原爆投下の背景(戦争と人々の暮らし)、原爆投下によって8月6日に広島に何が起こったのか(核兵器の威力と被害)、原爆投下後の人々(原爆後障害と暮らしのための戦い)などの学習を重ね、案内する碑と内容は生徒さんたち自身が決め、準備しました。34℃を超す炎天下、6グループに分かれ工夫したパネルや資料を手に案内してくれました。

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賀茂高校生による碑めぐりガイド

在日韓国人被爆者のパク・ナムジュさんの、「多くの残酷と悲惨、悲しみの上に築かれた平和であることを忘れないで」の言葉は、“ズキリ”と胸に刺さり、平和への思いをあらたにしました。

小中学生をガイドしてくれた高校生が、こんな感想を寄せてくれました。

「『悲しみの上に築かれた平和』という被爆者さんの話が心に残りました。原爆の悲惨さ、平和でいることの大切さを改めて気づかされる貴重な体験でした。」

(2022年8月3日、あかたつ)

【編集者】4日から被爆77周年原水爆禁止世界大会広島大会が始まりますので、毎月5日に掲載していたあかたつさんの「ヒロシマとベトナム」は、今日と明日掲載します。

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2022年7月14日 (木)

住吉神社の由来と被爆

管弦祭を見に行ったことがきっかけとなり、住吉神社の歴史を調べてみました。

境内に掲示された由来によれば、享保18年 (1733)に5神が祀られ勧請され、江戸時代は、浅野藩の船の守護神として信仰されました。寛政10年(1798年)水主町(現在の加古町)で大火がありましたが、住吉神社で鎮火し、当時の人は神威の偉大さに驚いたといわれています。しかし、社殿が煙でけがされたとして、翌年6月に現在の場所に遷宮されました。そのため、この日・旧暦の6月12,13日が、夏の例大祭日となり、現在に続いているようです。

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ですから、住吉神社は、原爆投下時現在地にありましたので、爆心地から約1.3キロの地点で被爆したことになります。

広島原爆戦災誌によれば、当時「神殿・拝殿・渡廊下など木造平屋建約40坪の建物があった」とされ、その被害は「社殿はじめ社宝・重要文書などすべて焼失し、境内に茂っていた老松もほとんど枯れ死したが、ただ1本、川べりの松が現在まで残っている」と記されています。「ただ1本」の記述を覚えていてほしいと思います。

さらに原爆戦災誌には、被災当日の様子を次のように記しています。「境内に被災者が雲集し、臨時救護所が設置された。また、ここから暁部隊の舟艇によって多数の負傷者が似ノ島(原文のまま)その他へ運ばれていった。」

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住吉橋のアーチの向こうに似ノ島が見える

この原爆戦災誌には書かれていませんが、「住吉橋記念燈」は、奇跡的に倒壊を免れたようです。

さらに同誌には再建について「昭和23年(1948年)、バラック建てながら神殿と社務所を再建し、同年6月、戦後最初の例祭を執行した。しかし、世情なお不安で参拝者はなかった。」と書かれています。

その後、平成5年(1993年)に太田川高潮対策事業が開催され、堤防のかさ上げが行われ、平成8年(1996年)現在の社殿となりました。

現在は社殿右側奥に平成11年(1999年)に建立された小さな社の合格神社があります。

住吉神社で被爆由来のものを今も見ることができるのは、被爆樹木のクロマツと「住吉橋記念燈」ですが、これらについては次回16日に紹介します。

いのちとうとし

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2022年7月13日 (水)

住吉神社の管弦祭

住吉神社は、国道2号線の本川にかかる新住吉橋の左岸川下にあります。住吉神社の今年の夏祭りが12日(昨日)、13日の二日間行われます。

住吉神社の夏祭りは、すみよしさんと呼ばれ、とうかさん(とうか大祭)、えべっさん(胡子大祭)とともに広島三大祭りに数えられています。

と書きましたが、住吉神社の夏祭りが広島三大祭りの一つだと知ったのは、先日新聞折り込みされたチラシを見たからです。そのチラシには、今年の夏祭りの行事予定が書かれていました。三大祭の文字も目に付きましたが、おっと思ったのが「3年ぶりの広島管弦祭」の文字でした。3年ぶりというのは、ここ2年はコロナのため中止になっていたからです。

そのチラシによると、管弦祭は、初日の12日の午後6時に神事を終えて、住吉神社前の本川を出発し、本川を北上し、相生橋から元安川へ入り、平和大橋と万代橋の間で午後8時ごろ船上祭を行い、船はまた元北ルートをたどり、午後8時30分ごろに住吉神社前に戻るコースが、図入りで紹介されていました。

昨日午後6時前、煙火の音を聞き慌てて自転車で住吉神社に駆け付けました。

多くの参拝者でにぎわっています。3ⅿもある茅の輪があります。

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私が着いた時には、神体や神霊を乗せた「御座船」とそれを引く古来の「漕伝馬船」(こぎでんばせん)が既にスタンバイしています。

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御供船と共に、いよいよ出発です。住吉神社の横、新住吉橋と住吉橋の間で漕伝馬船が掛け声をかけながら2周した後、御座船とロープでつながれ、川岸の観客に手を振られながら、本川を上流に向かって出発しました。

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私はこの出発を見ていったん帰宅し、夕食後の午後7時30分過ぎに船上祭が行われ折り返し地点と図示されていた万代橋に行くことにしました。近くですのですぐ万代橋に着いたのですが、遠くで小さく掛け声が聞こえるだけで、船の姿を見ることはできません。

時間的にみて、ここまで来そうにないようですので、上流に移動することにしました。平和大橋まで行くと元安橋のすぐ下流に船の姿が見えます。しばらくすると、そこで旋回を始めました。どうも元安橋下流で引き返すようです。あわてて元安橋方面にさらに移動し、何とか追いつくことができました。

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この写真を撮ったすぐ後に、原爆ドーム前で漕伝馬船と御座船を繋いでいたロープが離され、漕伝馬船だけが先行して住吉神社をめざします。

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再び本川に戻った漕伝馬船を写真に収めて、私の追っかけもここで終わりにしました。

いのちとうとし

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2022年6月16日 (木)

道路距離表示の不思議

国道54号線は、広島市中区大手町4丁目7番(市役所前交差点)から松江市雑賀町(相生町交差点)までの171.2kmです。ただ、島根県松江市宍道町の宍道交差点から東は、国道9号線と重複していますので、実質延長距離は、154kmです。これらの数字は、国土交通省中国地方整備局国道事務所に電話で問い合わせて教えていただいたことです。

国道事務所に電話をしたのはちょっとしたきっかけがあったからです。

国道54号線の起点となっている市役所前交差点の北西角のJAビルの前の歩道上で、こんな道路距離表示を目にしました。

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この黄色の道路距離表示の上段の小さな数字が、キロを表し、真ん中の大きな数字は、100メートルを表しています。

気になるのは、上段の「-1」です。スタート地点を表す距離表示のはずなのに、なぜかマイナスの距離表示になっています。

気になったので、電車通りをずっと北上して100メートルごとに設置された距離表示板を探していきました。少し行くと上段のマイナスの数字は、1から0に代わりましたが、依然として「―」の表示が付いたままです。

マイナス0.3キロの表示から、表示板の形がスマートな形に変わりました。

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一番上に国道54号線を示すマークが表示され、地名も書かれています。上段の数字の右横にキロを示すKの文字が書かれています。

マイナス表示の最後の一枚です。

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シャレオの地下街を通り抜けてそごう前に出ました。

バスセンターの降車場からの下りエスカレターの出口でようやく「ー」表示のない距表示示板に出会います。

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国道事務所に電話で問い合わせたのは、「なぜ、『-』距離表示板があるのか?」でした。

その答えは、次のとおりです。

「54号線が一級国道となった昭和40年(1965ねん)頃の起点は、紙屋町の交差点だったので、ここが起点となって距離表示されていました。昭和43年(1968年)に市役所前交差点まで延長されたのですが、ここを起点にした距離表示にすると、全部の距離表示板を作り変えなければならないので、紙屋町から市役所前交差点までは、マイナス表示で距離を示すことになりました。」

これで何となく納得です。

ところで市役所前交差点の西南角の歩道にも距離表示板があります。

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これは、国道2号線の距離表示板です。この表示板、よく見るとちょっと面白い表示だということに気づきます。100メートルを表す中段の数字は、1から9までの1桁だけですが、「1.1」と、2桁の表示になっています。その理由は336キロ100メートルの地点が、ちょうど市役所前交差点の真ん中になるため、そこに表示板を取り付けることができませんので、少し西側に移動した場所に設置したため、正確な距離数を表示するため、2桁になったのです。他ではほとんど目にすることのない珍しい表示だと思います。

大阪北区の梅田交差点から北九州市門司区の老松公園前交差点までの国道2号線は、延長672.3kmのようですので、広島市役所前交差点は、ちょうど中間点になります。

調べながら、ちょっと不思議な気持ちになりました。

いのちとうとし

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2022年5月27日 (金)

冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」

新聞報道で紹介され、入手したいと思っていた冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」をようやく手にすることができました。

この冊子は、広島大学と地域が連携し、地域社会が直面する課題の解決や地域の活性化をめざす「地域元気応援プロジェクト」の一環として作成されたものです。表紙を含めて16ページの小冊子ですが、豊富な内容で構成されています。

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よく知られているように丸木位里さんは、丸木俊さんと共同制作した「原爆の図」の作者ですが、現在の広島市安佐北区安佐町飯室(当時は安佐郡飯室村)の出身です。丸木位里さんのことは、「原爆の図」の作者というだけでなく、森瀧市郎先生も同じ年1901年の生れだということが特に印象に残っています。丸木さんは、6月20日生れ、森瀧先生は、4月28日生れです。没年もほぼ同じ、森瀧先生が1994年1月25日、丸木さんは一年長生きで1995年10月19日です。

「丸木位里の足跡を訪ねる」には、飯室地域に残る作品の紹介と共に丸木位里さんにまつわるこの地域の話が紹介されています。

丸木位里さんが、飯室の出身だということは、以前から知っていましたし、飯室の複数のお寺に襖絵などの作品があることも知っていましたが、これまで一度も訪ねたことはりませんでした。

これらのお寺の前を通る国道191号線は、何度も何度も通った道ですが。

この冊子の最初のページには、見開きで「位里さんと故郷のつながりを示す場所」が地図になっています。

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作品リストには、飯室小学校(石碑)、恵比寿神社(門柱)、浄國寺(襖絵)、養専寺(襖絵),正念寺(襖絵)、安佐公民館(額)、安佐区民文化センター(襖絵、額)の名前が並んでいます。これを見ると、何ともこの地に足を運ぶ制作活動をされた丸木位里さんの郷里への強い思いが伝わってきます。

この冊子では、それぞれの作品の紹介とともに、そのゆかりも紹介されていますが、執筆編集者は、広島大学教育学部造形芸術系コース有志ですので、水墨画特有の技術的なことも書かれていますので、現地を訪れるときに持参すれば、良い解説書になると思います。

この中で、私が直接目にしたのは安佐北区民文化センターのふすま絵でだけですので、この冊子を手に、丸木位里さん足跡を訪ねてみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年5月20日 (金)

ベトナムの歴史(その11)

前号から半年

  前号(その10)で1000年に及ぶ中国支配を脱した938年以降もたびたび中国の侵略を受け、独立国として険しい国家建設を強いられたベトナムの歴史を紹介しました。ときは13世紀後半の陳王朝、日本では鎌倉時代、モンゴル帝国が二度にわたって襲来した元寇のあった時代です。同じ頃、ベトナムに侵攻したモンゴル軍は「白藤江の戦い」で陳王朝のチャン・フン・ダオに指揮されたベトナム軍に壊滅的な敗北を受けます。結果、フビライ・ハーンは日本を襲うための艦船と将兵を失い三度目の日本侵攻が不可能になったことから、「日本を救ったチャン・フン・ダオ」と紹介しました。

5ヶ月経た再開ですが、思い出していただけましたでしょうか?

再び始まった中国支配

前号で紹介した1288年の「白藤江(バクダン川)の戦い」でモンゴル軍に勝利しベトナムの独立を守った陳王朝は、その後、朝廷内部の権力闘争で衰退します。一方、長年の敵だった元も衰え、遂に1367年に朱元璋(しゅげんしょう)に滅ぼされ、中国は明朝(13681644年)の時代に入ります。1400年に陳朝が紛争で滅び季犛(ホー・クイ・リ)が胡王朝を起すと、ベトナム併合を意図していた明朝の永楽帝は1406年に陳朝復興を口実に20万もの大軍を派遣し、翌1407年に胡王朝を滅ぼします。

明朝はこの地域を安南(あんなん)と呼び、布政司などの地方官を置いて直接統治を始めます。938年以来、470年ぶりにベトナム北部は再び中国に直接支配され、1427年までの20年間続くことになります。「第4次北属期」と呼ばれている時代です。

その中国支配はどのようなものだったのでしょうか。小倉貞男著『物語ヴェトナムの歴史』から紹介しましょう。「明が支配した地域はまるで兵営になったような感じ」、「きびしい明の命令・指示ルート」ができ「そむく者は徹底的に弾圧」、「水田、桑田の土地税、人頭税などの租税を重くした」うえに「塩田をつくり塩税を徴収」、「塩の専売・独占を行った」。「16歳から60歳まですべての者が軍役に服し、賦役に駆り出され民衆は苦しんだ」。「収穫されたものはすべて明本国に送られた」と、厳しい支配体制のもと徹底した搾取と収奪が行われてたことが覗えます。また、「ベトナム人の民族服を着用することを禁じ、すべて中国風の衣服、髪型を強要」、「熟練した手工業職人、知識人数千人を明に連行」、「ヴェトナムの本はすべて焼くか、本国へ送った」・・・・など、「北俗に従わしむ」と「ヴェトナムのあらゆる文化を破壊することを狙った」と書かれています。

レ・ロイ黎利)とグエン・チャイ(

しかし、30年間に3回もモンゴル軍の侵攻を跳ね返した経験と気概、独立国家建設への思いはことのほか強く、明の暴政をもってしても人々の怒りと抵抗の炎を抑えることはできません。

1416年、レ・ロイ(黎利)と18人の同志がタインホア省ランソンで、「明の支配を打ち破る血盟の誓い」を立て、1418年に蜂起します。指導者・レ・ロイは官僚でも貴族でもない31歳の地方の土豪です。参謀役は胡王朝の監察官だったグエン・チャイ(阮廌)38歳。彼は明の侵攻で逮捕・監禁され、釈放後の10年間は各地をさまよい、明の圧政に苦しむ民衆を見てきた人です。

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タインホア省に立つレ・ロイ像

10年間にわたる長い戦いを経た1427年に明軍の守るハノイを総攻撃し打ち破ります。そして1428年の和議で明は直接統治から撤退、レ・ロイ(黎利)はハノイで即位して都の名をトンキン(東京)と改め、黎朝(前期:14281527年、後期:15321789年)をたて、国号を大越とします。中国明朝はレ・ロイを安南国王に封じるという形式を取り、朝貢貿易を続けることを条件に、実質的な独立を認めたのです。

ベトナムの歴史の大部分はこうした中国封建王朝との戦いであり、撃退したレ・ロイは民族にとって大英雄なのです。ハノイの観光スポットに「ホアンキエム湖(湖還劍)」という湖があります。漢字読みの通り「剣を還した湖」という意味で、明軍の支配を破り独立を回復させたレ・ロイが神様から授かった「神剣」を使いの大亀に還した湖と伝えられています。1968年には体重250kgの大亀が発見され、「民話と現実をつなぐ巨大亀」として剥製が湖上の玉山祠(ぎょくさんじ)に展示されています。是非、一度訪れてみてください。

1968

1968年、湖で捕獲された伝説の巨大亀のはく製

最もベトナムで愛されているグエン・チャイ

 「レ・ロイはベトナム史上で最も輝いている英雄の一人ですが、彼と手を携えて戦ったグエン・チャイは、戦略家、思想家、詩人、外交家、歴史学者、地理学者、音楽学者・・・・多彩という以上に、あらゆる分野に精通する傑出した人物で、最もベトナム人から愛されている人間である。」と小倉貞男さんは書いています。

 次号でこの抗明闘争の歴史的意義、そしてグエン・チャイの辿った生涯について紹介します。

(2022年5月20日、あかたつ)

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