「広島ブログ」

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2024年7月14日 (日)

「絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~」

久しぶりに広島市郷土資料館に行ってみようと思いホームページを開いたのですが、今月20日から「企画展夏休み おばけの博物館」がはじまるようで、残念ながら現在は特別の展示は開催されていません。

同じページにある「新着情報」を見ると,これまで完売となっていた刊行物の販売再開が告知されています。今月2日からは「陸軍の三廠」、昨年の11月5日に図録「宇品」、同じく昨年の8月3日に図録「絵葉書の中の広島」が再販されたことが告知されています。

「陸軍の三廠」と図録「宇品」は、すでに購入済でしすが、図録「絵葉書の中の広島」は未購入でしたので、暑い中自転車をこいで広島市郷土資料館に行き、購入してきました。

この図録「絵葉書の中の広島」は、平成25年度(2013年)に開催された特別展「絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~」のための図録として発刊されたものが、今回再刊されたのです。

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帰宅して早速開いてみました。興味深い絵葉書(写真)が、249枚もんでします。

この本の「はじめに」に書かれていますが、「(前略)名所・イベント・事件・事故など,実に様々な絵葉書が日本中で作成されるようになりましたが、それは絵葉書が単なるはがきとして利用されただけではなく、マスコミが発達していなかった時代の貴重なメディアとして機能していたからです。(中略)近代日本の風景を知ることが出来る資料して近年見直されています。(後略)」

その通リだと思います。特に、広島は原爆で多くの写真が焼失したはずですから、絵葉書は多数発行されており残っているものも多いと思われます。そして写真と同じように当時の風景を知る大きな手がかりとなります。

目次を見ると、「絵葉書の中の広島」として「1,繁華街 2,橋 3.軍都 4.宇品 5.さまざまな風景 6.お祭り・イベント 7,学校」と続いています。

パラパラとめくっていると「3.軍都」には、サッカースタジアム建設の発掘調査で明らかになった「輜重隊第五大隊」の隊舎やこのブログで7月5日「なぜ」と思う新しい説明板が付いていました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に紹介した井戸の写真が同じように写った絵葉書、さらに「5,さまざまな風景」では、天守閣から見た風景として「大本営の後ろ側から見た景色」などが目に付きます。

他にも原民喜が一夜を過ごした東照宮の参道もあります。

興味ある絵葉書写真が並んでいますので、じっくりと見れば、このブログでも紹介したいと思うような絵葉書がたくさん出てくると思います。

興味は尽きない図録です。

完売になっており購入を諦めていた刊行物がありますが、今後も引き続き再刊されるのなら、今度はぜひ平成24年(2012年)の特別展「広島の路面電車100年~今も昔も広島の街を路面電車が走っていく~」を再刊してい欲しいと思います。

いのちとうとし

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2024年7月10日 (水)

「松葉カニ」と「カニ蒲鉾」の違い

6月26日水曜日、第100回となる中国電力株主総会が広島市小町の本店2階の大会議室で開催されました。

ぼくが中国電力の株主総会に出席したのは、第3代社長の山根寛作さんの頃だと思います。そして、株主として総会に議案を提出するという株主提案議案を提出するのを始めてからは、30年以上前になると記憶しています。

大下英治さんの著書で、徳間文庫か出版された「最後の総会屋」という本がありますが、そのモデルになっている小川薫(本の中では、小原薫とあります)という総会屋、彼に会ったのは中国電力の株主総会でした。背広の胸ポケットに赤色の花が差してありました。広島市生まれの彼は、広島弁丸出しで暴力団との繋がりもあったようです。

まさにド迫力で、今では考えられない一問一答の形で当時の松谷健一郎社長を徹底的に追い詰めていました。小川さんの後方から「議事進行ー」という声を掛ける株主がいました。そうすると彼は、おもむろに後ろを向き、大きくドスの効いた声で「今、ヤジをしたのは誰やあ! 立て、立たんかい」と言い、5分以上後ろを睨みつけたままの状態を維持していました。こうなると、会場はまさに静寂の世界となりました。

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株主総会の中間報告をする筆者と祝島島民の会の人たち

ぼくは子どもの頃から、他人の前で話しをすることも出来ない体質だったので、彼に驚くとともに、あんなに強くなりたいなあーとも思ったものです。彼はその後、週刊誌のインタビューに「私は、中国電力の株主総会に出席したのを最後に、総会屋を辞める」と話した記事を読みました。

不動産会社のアーバン・コーポレーションを恐喝した罪で、東京拘置所に収容されていた2009年4月、肺炎のために満71歳の人生を終えています。

今でも株主総会で大きな声をあげる、おじさん株主がいます。その人のことを「総会屋」と言う人がいますが、ぼくに言わせれば「総会屋もどき」で、高級な松葉カニと、「カニ蒲鉾」の違いにも及びません。

その人にも、この株主総会の場で会いました。向こうから「木原さん、健康に気を付けてね。長い付き合いだからね」と声を掛けられました。2日前に開催された広島ガスの総会にも出たとのことでした。

総会が始まる前、玄関あたりで中国電力の役職にいた人に会いました。「この春で退職しました。最後の数年間の仕事は、まさに不祥事の後始末ばかりでしたよ。疲れました。お世話になりました」と声をかけられました。

総会が終わって、広島バスセンターの3階食堂で、松江から総会に参加した友人と遅い昼食を食べていると、またもやその人と出会いました。笑顔で握手を交わして「お元気で!」と声を掛け合って別れました。

昨年の株主総会で社長になった中川賢剛さん、手を上げた株主に対し「そこのお客さま…」と言うので、「ここにいる人をお客だと思っているの。株主だよ。間違わないで」と注意しました。「すみません」と言いながらも、「お客さん」を3回は繰りかえしていました。ぼくは独り言で「バカみたい」とつぶやきましたが、社長になって最初の総会で緊張していたのかしれませんが、まあ-イヤハヤという感じでした。

総会の終了時間は昼12時40分、本店入口で終了まで街頭行動をしてくださった応援者の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいでした。

帰りの道沿いにあるコンビニで、発砲酒とカニ蒲鉾を買って食べながら飲んでいました。

木原省治

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2024年7月 9日 (火)

「なぜ」と思う新しい説明板が付いていました。

「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」の撤収作業は、設営とほぼ同じメンバーによって作業が行なわれましたので、12時前に運送会社に10箱に納められた荷物を引き渡し、すべての作業が終了しました。

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昼食のあと、伊藤さんが「広島城跡の大本営跡に行きたいのですが、どう行けばよいですかね」と尋ねられたので、私には次の予定がありませんでしたので、案内することにしました。伊藤さんは、1980年代には、朝鮮半島出身者の被爆者の写真撮影、2009年には「ヒロシマ・ピョンヤン」の映画製作のため訪れて以来の広島訪問だったようです。

せっかくですので、広島市水道局1階ロビーに展示されている最初の敷設された水道管を見学し、さらに隣の「臨時帝国議会仮議事堂跡」、そして少し東の広島YMCAにある済美国民学校職員生徒慰霊碑を案内し、広島城方面へ移動しました。

日清戦争当時、広島に帝国議会仮議事堂がつくられ、臨時帝国議会が開催されたことは、初めて聞く話だったようです。

さらに、広島城堀東側にある歩兵第11連隊跡をめぐり、護国神社の被爆大鳥居の説明も行ないながら、大本営跡に足を運びました。

私が、注目したのは、カメラマン伊藤さんの被写体への向き合い方です。

大本営跡に着くと、もちろん、石柱も写真に収めていましたが,少しだけ私たちとは違う目線でカメラを構えます。

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私は、こんな位置から、写真を撮ったことなどありませんので、参考になりました。

次は、中国軍管区司令部の防空作戦室跡です。ここは、伊藤さんが、大本営跡と共に最初に行きたいと言っておられた場所です。

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次は中御門跡の赤く焼けた石垣の説明をしました。

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その後、被爆樹木のマルバヤナギ、ユーカリの木を案内しました。

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2本の被爆樹木とも元気に育っていました。「ユーカリの木は、どこでも真っ直ぐに育っていたのですが。やはり被爆の影響ですかね」何度もオーストラリアを訪れている伊藤さんならではの感想です。

広島城跡を後にし、最後に広島中央図書館北側の歩道にある「井戸」を案内しました。

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「この井戸のことは初めて知りました」と話しながら熱心にカメラを向けていました。

私もスマホ構えたのですが、「おやっ」と思う新しい説明板が、竹垣に3枚取り付けられています。東西の2枚には、次のように書かれています。

「明治天皇の御用井戸跡  この井戸は元々広島城三の丸屋敷内にあったもので、水は代々の藩主に供されていたとする記録が残されています。明治27年(1894),日清戦争開戦に伴い大本営が広島城本丸跡に移された際、大本営に滞在されていた明治天皇の飲料水のために使われたことでも知られています。 広島市」

南側の説明板には、上記の文章の他に広島城から提供された昭和初期頃の写真も付けられています。

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写真部分の拡大です。

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初めて見る写真です。

数年前にここを通ったときには、この説明板はありませんでした。いつ頃この説明板が付けられたのか時期は不明ですが、ここ数年のうちに取り付けられたことは間違いないと思います。広島市が、なぜ今頃になってこの説明板を付けることにしたのか、その理由を知りたいと思いますので、一度問い合わせてみるつもりです。

伊藤さんのお陰で、知ることが出来た不思議な説明板です。

これで伊藤さんの案内は終わりましたが、あまりの暑さでしたので、水分補給をかねて、ひろしま美術館の喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲み別れることにしました。

いのちとうとし

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2024年7月 3日 (水)

今日からスタートです。伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」

先日予告をした「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』広島展」が、いよいよ今日から7日までの日程で旧日銀広島支店を会場にスタートします。

昨日午前10時から、三重から来広された伊藤孝司さんの指導を受けながら、同写真展実行委員会のメンバーなど9人によって、無事会場設営が行なわれました。

写真が会場に届いたのは、12時少し前でした。昼食をとり梱包を解き展示の作業に取りかかったのが、12時半でした。伊藤さんが、事前に配置場所を決めて図面化されていたことと、午前中にパネルの位置決めなどの作業を終えていましたので、108枚という写真でしたが、取り付けメンバーの手際よい作業で、意外に早い午後3時半過ぎには、全ての展示が完了しました。

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朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)でお会いしたことのある懐かしい被爆者の写真があります。その写真を見ると「今もお元気だろうか」「まだ何も出来ていない」という自責の念に駆られます。

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「写真記録原爆棄民」(1987年刊)に納められた朝鮮半島出身の被爆者の写真にも目を奪われます。

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1992年の初訪朝以来、約10回訪朝していますが、私が目にすることの出来なかったピョンヤンの街の様子、人びとの姿が,活き活きと写されています。

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共和国を何度も訪れた伊藤孝司さんならでは写真だと思います。

設営の準備に携わり、改めてこの写真展に、一人でも多くの人たち、とりわけ広島市民の皆さんに見に来て欲しいと思いました。

毎日午前10時から午後5時まで入場が可能で、午後1時と午後3時には、伊藤さんによる写真解説が行なわれます。伊藤さんによれば、「以前の写真展では1時間以上かけて解説をした」とのことですので、思い入れのある広島で写真展ですので、どんな解説になるか楽しみです。

共和国の今の姿を、そして置き去りにされている在朝被爆者ヘの思いをこの写真展を通じて共有できればと思います。

私も午前8時からの平和の火リレー出発式に参加した後、会場に向かうつもりです。

いろいろな形で多くの人にこの写真展のことを知らせていただいていますので、多くの人の来場が期待されます。

どうか会場に足を運んでください。

いのちとうとし

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2024年6月28日 (金)

「核先制不使用」政策の継続を

今月20日、原水禁国民会議の代表団として北京を訪れ中国人民平和軍縮協会(以下「中国軍縮協会」)と交流を行ないました。昨年の原水禁大会に中国代表団が参加し交流していますが、訪中しての両団体の交流は、2018年以来6年ぶりです。

当初、染共同議長を含む3人で訪中する予定でしたが、染さんのビザ発給が間に合わず、私ひとりの訪問となりました。出発前日に決まったため一人旅に不安がありましたが、中国軍縮協会から「一人でもぜひ訪中を」との連絡もあり、代表団とは名ばかりの一人での訪中となりました。

当初、午後3時半から中国軍縮協会の事務所で懇談が予定されていましたが、私ひとりの訪問となったためでしょうか、午後5時半から夕食をとりながらの懇談に変更となりました。

中国軍縮協会の安秘書長とは、安さんが秘書長に就任された直後の2017年7月(別の目的で訪中)、翌年7月の原水禁訪中団、翌2019年秋に安秘書長が広島平和文化センター招待での広島を訪れたとき、安秘書長からの要望で特別に二人だけの会談を行なうなど何度か個人的な関係での意見交換を行なって来ましたので、今回も食事をとりながらでしたが、率直な意見交換が出来たと思います。今回の会談には、中国軍縮協会のアジア太平洋州部門の責任者である孫処長(40歳)も同席しました。

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向かって右が安秘書長、左が孫処長

 食事に入る前、私から二つの意見を述べました。一つは、中国がとり続ける「核先制不使用」の政策を今後も継続して欲しいこと、二つは、今年8月に開催する原水禁大会に代表団を派遣して欲しいということです。特に「核先制不使用」政策については、核保有国が「核兵器禁止条約」を批准しない現状の中で、厳しい核状況(核兵器使用をほのめかす保有国の発言が相次ぐなど)の不安を除くためには、全ての核保有国が「核先制不使用」宣言を行なうことの重要性を強調しました。これに対し、安秘書長は「中国は核先制不使用政策を変える考えはない」と応じました。原水禁大会への参加は、「近く会議が予定されているので、この中で検討する」との回答でした。

その後、現在の日中間の問題について、率直な意見交換を行ないました。安秘書長が特に意見を求めたのは、「汚染水海洋放出」問題、「岸田首相の後継は誰になるだろうか」ということです。「汚染水海洋放出」問題では、「IAEAの報告だけが強調され、近隣諸国の危惧に対しきちんとした日本政府による説明がなされていない」ことが強調されました。私は、原水禁も「汚染水の海洋放出には反対している」とことを説明すると共に、「日本政府は、反対する諸国に納得できるような説明を尽くすべきだ」との考えを述べました。

意外だったのは、「現在の日中関係はよい方向に向かっている」という発言でした。その根拠は、一昨年11月、昨年11月に岸田首相と習近平国家主席の会談が行なわれたこと、そして今年5月には、岸田首相と李強総理との首脳会談が行なわれたことです。中国側は、平和的外交関係の強化を強く望んでいることの表れだと感じました。

その他にも環境問題,経済問題などそれぞれの意見を交換しました。

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最後に私が、「最近日本では、本屋さんの閉店が相次いでいますが、中国はどうですか。ここに来る前、王府井(ワンフーチン)書店に行ってきました。1階,入ってすぐの売り場には、今までと同じように『習近平国家主席』関係の書籍、党関係、社会科学関係の本が並んでいましたが、2階、3階は、子ども向けの売り場なっているのにびっくりしました。」話し、さらに「2018年に訪中したとき、別にお会いした方から日本語版『習近平 国政運営を語る』の1巻から3巻までいただいたのですが、第4巻はいつ頃発行されるのですか」と問うたところ、「おやっ」いう顔をしながら、お土産にと用意されていたのでしょう「実は」と言って、取り出されたのが日本語版「習近平 国政運営を語る」の第4巻でした。余りにも偶然すぎて、びっくりです。

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これを機に、お土産を交換して安秘書長との歓談は終わりました。

安秘書長は、今年10月に定年を迎え退任することが決まっていますので最後の会談になりますが、原水禁と中国軍縮協会の両組織の良好な関係を継続していくことが大切だということを確認することが出来た有意義な会談となりました。

いのちとうとし

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2024年6月14日 (金)

「基町写真展2024」に行きました。

広島市中区役所と広島市立大学が実施主体となって活動する「基町プロジェクト」が企画する「基町写真展2024」に行ってきました。

「基町プロジェクト」の活動がはじまってから10目を迎えた「写真展」は、2015年より基町地区内外の方々から提供された写真をもとに毎年8月に「基町、昔の写真展」としてスタートしました。2020年からは、この年オープンした「基町資料室」の企画展「基町写真展」としてはじまりました。(以上は、「基町プロジェクト」ホームページから)

10年目となる今年の「基町写真展」は、基町住宅内の5カ所に会場が設けられ、これまでに提供された約5000枚の写真の中から選ばれた、約110点が展示されています。

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最初に訪れたのは、市営基町アパート17号棟1階の「旧大橋商店」に設けられた「1号」と表示された展示会場です。

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今年開場したピースウイング広島(サッカースタジアム)の道を挟んですぐ北側にある建物です。

ここには、基町高層アパートと共に生まれた基町小学校の始まりから学校行事の様子を見ることができます。

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左側の壁面に「子どもたちから大人まで一緒に基町を練り歩いた『おみこし』」(1967年)の写真が大きく引き延ばして展示され、真ん中に学校の歩みを伝える写真が並んでいます。

もらった地図を手に、第2会場から順に会場をめぐっていきます。

第2会場は、基町プロジェクト事務所の隣の部屋で、戦後復興の状況を写した写真が展示されています。今も元気な姿を見せている「被爆楠」の1970年代の写真や広島城のエピソードを伝える写真があります。

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第3会場は、いつもこの『基町写真展』会場となっている場所で、私が初めてこの写真展を訪れた時にメイン会場になっていた場所です。基町高層アパートの建設から完成までの様子が「基町住宅の模型」と共に展示されています。

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第4会場は、「基町プロジェクト」が常設している「基町資料室」で、これまでの「展示会」で展示された写真や提供された写真が、資料として整理されています。

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手前に写っているのが、これまでの「写真展」で展示し写真を冊子にまとめた資料です。その冊子をめくっていると、思いがけない写真を見つけました。

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「馬蹄」碑が写った写真です。写真と撮った人は、犬をメインに写したと思われますが、私にとっては、犬の後ろにある碑が気になります。今はファミリープールのすぐ西側にある「馬蹄」碑ですが、背景に川が写っています。以前には、川土手に立っていたことが分かります。その後の河岸の整備によって現在地に移されたと思われます。

第5会場は、少し離れていたちょっと分かり難いのですが,基町中央集会所1階の大きなショーウインドウを利用して設けられています。ここには、ヒロシマピースウイングが建設された中央公園の1970年(公園以前)。1983年(公園整備)、2018年(周囲の樹木も大きくなった中央公園)、そしてサッカースタジアム完成した2024年の歴史をたどる4枚の写真が大きく引き延ばされて掲示されています。

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この写真を見ていると、かつて相生通と言われた元安川河岸に住んでいたという夫婦連れが来られました。一番古い1970年の写真を見ながら、「この辺に住んでいた」と懐かしそうに私にも話して下さいました。自分史をたどるために訪れる人も多いのでしょう。

「基町写真展」では、こういう出会いを毎回体験します。

私が、「基町写真展」に毎回訪れるのも,広島に来た時,最初に働いていた中国通信局(現在のリーガロイヤルホテル)ビルの北側にあった基町市営住宅とその周囲の道路沿いに連なっていた喫茶店、食堂、一杯飲み屋さんが写った写真を見たいという思いからです。

展示されている中には、1970年代の住宅地図があり、その地図上では確認できるのですが、今回も写真を見つけることは出来ませんでした。今後に期待し、これからも見に来たいと思っています。

「基町写真展2024」は、6月30日までの木、金、土、日曜日の12時から17時まで開場されています。

いのちとうとし

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2024年6月13日 (木)

教科書採択に市民の声を!

 今年の7~8月にかけて、各自治体の教育委員会会議において、来年度から使用される中学校教科用図書の採択が行われます。その前に各地で展示会が開催されています。

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各地の展示会日程

4年前の採択時、私は近所の中学校に見に行きました。社会科や道徳はもちろんのこと、家庭科も教科書によって「家族」の描かれ方が違い、興味深かったです。市民の皆さん、ぜひ実際に教科書を手にとり、さまざまな観点から見比べてみてください。そして、子どもたちが「人権・平和・環境・共生」を学べる教科書が選定されるよう、意見を書いてください。

意見箱の設置がなく、意見収集をしていない会場もあります。そのような会場では教育委員会に意見箱の設置を求め、併せて教科書についての意見をメール、手紙、FAX等で送ることができます。

よりのぶ

【編集者】各地の展示会の日程(上の図表)は、クリックすると拡大してみることが出来ます。して拡大して見て下さい。

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2024年6月10日 (月)

能登地震から5か月

能登地震から5か月、反原発新聞を発行している「反原発運動全国連絡会」の総会が6月1日~2日、福井県高岡市で開催され、総会に合わせて行われた能登地震の被災地や志賀原発の視察などの企画に参加してきました。

地元で志賀原発に反対する活動をしている、志賀町町会議員の堂下健一さんや、「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」団長の北野進さんらに案内してもらい、改めて地震の怖さと、その中で志賀原発に反対する人たちのパワーを感じることができました。堂下さんは、現在も避難所生活をしているのです。

6月2日朝、高岡市から能登半島を北上するとブルーシートで覆われた家が多くなり、全壊した家を見かけました。道路はいたるところで亀裂や横ずれし、クラックと言われるひび割れした家もありました。

通行が可能になった道路もありますが、道の繋ぎ目に段差があるところが多く、その上を通るとバスのタイヤを通してガタン、ガタンという音と振動が身体に響いてきます。

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最初に訪ねたのは、高岡駅前からバスで約1時間半の場所に在る志賀原発団結小屋でした。能登半島で計画された珠洲原発建設計画は、28年におよぶ反対運動によって2003年12月、建設を断念させました。その話しを「赤住団結小屋」の藤岡彰浩さんから説明をしてもらいました。そして団結小屋も前で、参加者みんなで紙製の風船を空に揚げ、珠洲原発計画を断念させた先人たちの信念の強さを感じ取り、志賀原発の再稼働をさせない決意を新たにしました。

次に訪れたのは志賀町の領家(りょうけ)漁港、ここでは富来川南岸断層を視察しました。富来川南岸断層は志賀原発の北約9km付近にあります。北陸電力は当初この断層を活断層と認めてこなかったものです。

原発周辺の施設は、部屋の中の気圧を外気の圧力よりも高くして、外から放射能が入るのを防ぐために、陽圧(ようあつ)装置を付けた部屋を作っています。

志賀町にある富来小学校では、柱や天井が損壊し陽圧化装置が機能しなくなり、1月30日に学校は閉鎖されました。現在、児童たちは富来中学校に通っているそうです。校舎の建物は基礎部分が浮き上がり、窓越しからみた教室は乱雑にたくさんの段ボール箱が置いてありました。

この場所からバスで約30分、輪島市門前町鹿磯(かいそ)漁港でした。港の堤防は5メートル以上隆起し、海底に埋まっていた堤防の基礎部分との色がはっきりを区分けできる状態には、この地震の強さに身震いしました。堤防の下部分には多くの貝類がついていて、堤防隆起によって、命を失った貝類に思いを馳せていました。

そしてバスは金沢市に近い内灘町へ。かつて埋め立てられたこの町の液状化被害の状態は壮絶でした。家屋の基礎部分が液状化で浮き上がり、多くの家屋は住めないために、家の玄関には「危険」、「住居不可」などの貼り紙が貼られていました。液状化した家を実際に見たのは初めてでした。

6月2日の夜、帰広しました。そしたら翌3日の早朝に珠洲市で最大震度5強の地震が発生したとのニュース、この度の視察旅行で案内して下さった方や、町で見かけた人たちのことを考えながら、重い気持ちになっていました。

木原省治

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2024年6月 9日 (日)

福島原発視察報告その6

福島原発視察報告の最終回です。

ホテルで朝食をとった後、出発まで少し時間がありましたので、街の様子を知りたくてJR常磐線浪江駅前まで散歩をしました。

最初に訪れたのは、浪江町役場横の「まちなみまるしぇ」です。ここは2017年の視察で訪れた町内で初めて出来た商業施設でした。

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 左が2017年6月、右が今年

真ん中に置かれたテーブル・椅子の色は変っていますが、同じように配置され、奥の「まちなみまるしぇ」の看板や右側に「リラクア」の看板もそのまま両方とも写っています。少し早い時間でしたので、人影は見えませんが、今も町民の暮らしを支えているのが分かります

震災以前は、この町のメインストリートだった道路を進みます。2017年には、地震で壊れ,放射能汚染した家々がそのまま放置され人影はありませんでした。

今は、古い家は全て撤去され,ほとんどが空き地です。「売地」「売り物件」の看板が目立ちます。

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新しく建てられた建物は、マンショを兼ねた公共的な建物、建設業関連の看板が目だちます。

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浪江駅前に着くと、駅前のオブジェやバス停はそのままですが、配達前の新聞が山積みになっていた新聞配達所を始め家々が立ち並んでいた2017年の風景が一変し、空き地に草が伸び,寂しい風景になっていました。いつ、もっと活気のある街が戻るのか、想像できません。

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 復興の現状を知るため、浪江町のホームページに記された住民の推移を見てみたいと思います。

2011年3月11日、震災以前の人口は、21,542人(7671世帯)でした。

本年4月末現在の人口は、14,947人(6645世帯)です。しかし、浪江町に住んでいる人は、2,227人(1395世帯)です。うち震災前の町民は1430人ですので、震災前に住んでいた人のわずか6.6%しか町に帰っていないことになります。もちろん詳細を見れば、もっと複雑だと思いますし、町は復興に全力で取り組んでおられるのですが、これが13年以上経った原発事故被災地の実態です。

また浪江町は、原発事故前の住民の避難状況も毎月末ごとに掲載しています。それによれば、19,154人の内、福島県内に13,236人(うち浪江町在住1430人)居住し、県外(外国が12人)は和歌山県鳥取県を除く全ての都道府県に居住し、広島県には7人が居住されています。

毎月全員に連絡し、確認するのは大変な作業だと思います。

30分あまりの散歩を終え、ホテルに帰ると再びバスに乗り最後の見学場所、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」に移動しました。

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「東日本大震災/原子力災害伝承館」は、津波による被害を受けた場所に立っています。東電第一原子力発電所から北に約1kmの位置ですから、この地の住民も当然避難を余儀なくされ、避難指示が解除されたのは、2020年3月4日です。

受付を終えると最初に,語り部講話を聞きます。講師は、元高校教師の青木淑子さんです。

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「崩壊と創世の狭間で」と題した講演は、原発事故のその後を語る報告でした。その中で私が印象に残った言葉のいくつかを紹介します。

「双葉町は11年ぶりに避難が解除されたが、復興しているのはこの情報館の周辺だけ。原発事故は、人災。放射の被害による流言飛語は、全て個人にかかる。これからの課題は、50年後ではあるが、原発のなくなった町をどう計画するのか。13年間で、関連死した人は400人余り、大丈夫と言われた人も帰ることが出来ない。福島の複合災害は、終わっていない。これを語るのが私たち語り部の仕事。原子力災害は、絶対にあってはならない。2度と福島のようなおもいをさせてはならない。」

約45分の講演でしたが、原発事故への強い憤りを感じました。

その後館内を見学。広島の平和公園内にある「国立原爆死没者追悼祈念館」の館内を思わせるスロープの空間。

 

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双葉町にかけられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板の写った写真も展示されています。

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屋上にデッキからは、海岸に向かって整備が進められる「福島県復興祈念公園」の様子が見えます。一部震災当時のままの姿が残るようです。

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たくさんの展示物がありましたが、伝承館見学の時間は、講話を聞く時間を含めて1時間半しかありませんでしたので、充分に館内を見学することは出来ませんでした。

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館をでた後、視察で初めての集合写真撮り、解散場所の福島駅に移動し,12時に無事視察は終了しました。参加者の皆さんご苦労様でした。

福島第一原発報告を終えるにあたった一言。

「東京電力は、廃炉作業と言いますが、本当にこの名称で良いのだろうか?通常運転を終えて進める廃炉作業とは違うのだから、『原発事故処理作業』と名称を変えるべきでは」

一番に思ったことです。

いのちとうとし

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2024年6月 7日 (金)

福島原発視察報告その5

視察2日目の最後は、地元の皆さんとの交流です。

最初に、浪江町議会議員で「福島原発事故被害から健康と暮らしを守る会」会長の紺野則夫さんの話しを聞きました。紺野さんは現在,全ての福島原発事故被害者に対し国による「健康手帳」交付を求める運動の中心的役割を果たしておられます。2017年の福島視察でも当時の馬場町長に同行し、福島市での開会行事でいろいろと報告をしていただきました。

紺野さんの話しは、13年前の原発事故当時の浪江町の避難状況からはじまりました。

浪江町の健康保健課長だった紺野さんが、浪江町にある支所で勤務中に、東日本大震災が発生。翌日の3月12日政府から東電福島第一原発事故による「避難指示」がだされ,対策本部を設置して対応したこと、その避難指示によって浪江町中心部から30km離れた同じ町内の津島地区に5~6時間かけて住民がやって来た。

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東京新聞2023年3月18日より

のちに明らかになるのですが、原発の爆発事故によって発生した放射性物質が集まる放射性プルーム(放射性雲)は、東京電力福島第一原発から北西の方向に流れたため、津島地区は最も汚染が酷い地域になってしまいます。

馬場町長は、「ここも危ない」とさらに避難を決断。「どこに行くか」と探して見つけたのが、二本松市の東和地区。3月15日に津島にいた1万1千人が移動。一番の問題は医療問題で、東和には「地元の人しか診察できない」小さな診療所しかなかった。3月17日、18日に診療所を立ち上げ,医師は何とか確保できたが、看護師がいない。6月に発注したホーボディカウンターが届いたのが翌年の5月頃。自分の体は、800ベクレルの被曝。馬場町長は、原発事故被害者の健康管理、健康保障への責任は本来国が果たすべきだが、国がやらないのなら、として被爆者健康手帳と同じものをつくろうと町独自の「放射 線健康管理手帳」 (健康手帳)をつくり全町民に配布した。その後、広島県被団協の坪井理事長と話した時、坪井さんから「10年、20年の健康をきちんと調べる。原発と原爆はどこが違うのか。広島と福島が違うのは、爆風と熱だけだ」と「健康手帳」への支援を送っていただいたこと。当時広島市長だった秋葉さんには「日本政府が何もやっていないことを国際社会に訴えるべき。6万人の命が守れなくて1億人が守れるのか」と示唆をいただいたことを思い出す。

役場を退職後、「何をやるべきか」と考え、町議に立候補した。医療費の無料化を継続させなければと思っている。当時3千人の子どもたちがいたが、この子たちが健康に暮らせるなら何でもやるというのが私のスタンス。

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「差別よりもいのちが大事」と言った馬場町長の意思を引き継ぎ、「検診体制の確立を含め医療費無料化の制度を構築することが国の責務」と「健康手帳」の法制化求めている。

紺野さんの「健康手帳法制化」に取り組む強い思いを感ずることの出来たお話でした。

二人目は、私たちの「福島原発視察」の日程作成に協力をいただいた福島県平和フォーラムの引地力男事務局長の話しです。

引地さんの話しは、「ALPS処理水の海洋放出」の問題です。いま福島では、「汚染水」呼称が問題視され、3月の県議会では「汚染水」との表現を教育現場で認めない自民党の意見書が採択され、また「汚染水」と発言したひとが強いパッシングを受ける実態が報告されました。こうした現状の中で福島県平和フォーラムも「ALPS処理水」と表現していることが、紹介されました。もちろん、福島県平和フォーラムも発生するのが「汚染水」であるとしていますが、言葉狩りとも思える状況が広がる中で苦悩しながら運動を展開せざるを得ない実態が報告されました。

このことについては、様々な意見があると思いますが、ここでは福島の現状の紹介だけにとどめておきます。

当初予定していた漁業事業者の話を聞くことが出来ませんでしたが、現地の声を聞くことの大切さをこの交流でも学びました。

これで、ようやく二日目の日程の報告が終わりました。

次回は、翌朝出発前に散策した7年ぶりに見た浪江町の街の様子と、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」見学の様子を報告します。

いのちとうとし

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