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旅行・地域

2024年3月 1日 (金)

被爆者の森―2本植え替え

昨日午前8時から平和大通り東詰付近に広がる被爆者の森で、沖縄県の木と石川県の木の2本の植え替えがありました。

最初の植え替え作業が行なわれたのは、石川県の木です。もともと石川県の木は、県木アスナロが植えられていましたが、私が知る限り過去3度枯れています。

1度目の植え替えの様子は、「被爆者の森」の植栽と樹名板の取付け: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しましたが、翌年3月再び枯れているのを発見し、広島市に連絡したところ、3月18日に植え替えられました。その時のことを「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

ところが、2度目の植え替えを行なったアスナロが、翌年2023年夏前になると再び枯れ始めたのです。この時も広島市に連絡を入れたのですが、その時は「もう少し様子を見たい」との返事でしたが、やはり枯れてしまったということで、今回の植え替えとなったのです。

今回は、アスナロは、広島の気候に向かないのではないかと判断し、樹木を変更することになり関係者とも相談し「兼六園菊桜」が選ばれて植樹されました。

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アスナロが植わっていた場所は、がれき(瓦など)が多く土が悪いことや周囲の樹木の根が張りすぎていることなどから、今回の植樹場所は少し南によった中心部の車道のすぐそばが選ばれました。

植え替え業者の話では、昨年秋に石川県の造園業者が広島に来られたとき相談し、3種類ぐらいの木を選び、その中から広島の別の場所で育っている「兼六園菊桜」ならきちんと育つだろうと選ばれたそうです。

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「兼六園菊桜」の原木は、石川県金沢市・兼六園にあり国指定天然記念物されていましたが、1970年に残念ながら枯れ死してしましました。現在は、接木増殖したものが公園内に植えられ入園者を楽しませているようですので、石川県の木として相応しい木だと思います。花は八重ですので、4月の中旬頃に咲くようです。今回植樹された木は、栃木県の造園業者から取り寄せられたもので10年ぐらいの成木ですが、つぼみはあまり付いていませんので、今年は花は期待できないということでした。

1時間ほどで1本目の植樹が終わり、2本目の沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)の植樹です。数年前から、幹に腐植ができたため樹勢が弱まり、昨年秋に枯れ死したようです。こちらは以前に植わっていた木と同じも種類の木です。

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この木は、熊本県の造園業者から取り寄せたもので、7~8年育った木です。

花は、しっかりと色づく濃いピンク色で、ソメイヨシノなどとは違いうつむきがちに咲く桜です。こちらの木には、つぼみがしっかり付木、少し膨らんでいるように見えます。

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業者の話では、「今後の気候にもよりますが、3月中旬には咲くと思います」とのことでした。楽しみです。

全ての作業が終わったのは、午前11時前でした。

今回の植栽に立ち会ったいくつが気づいたことがあります。

一つは、植栽のための一月前から、植栽位置の周囲2メートル以上を掘り起こし、新しい土の入れ替え、栄養剤の補給が行なわれたことです。比較的土の状態がよいと思われる沖縄の木の植樹場所の地下からも瓦片がでています。

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二つは、植えた木を保護するための柵が作られています。低木だった北海道のライラックを植栽するとき、「保護柵をつくって保護して欲しい」と広島市にお願いしたことがありますが、今回はいずれも3~4メートルの成木でしたが、両方とも柵で保護されました。

広島市の姿勢が、「被爆者の森」をきちんと保護しようという前向きの方向に進んでいると評価できます。それ以上に、それを支える業者の努力が大きいということを丁寧な説明を聞きながら実感しました。

いのちとうとし

<追伸>今日は、ビキニデーです。原水禁国民会議が、静岡で「3.1ビキニデー」の集会と明日は、焼津で「久保山愛吉さんの墓前祭」を開催しますので、70年周年の節目ですので、久しぶりに参加するため、静岡に行きます。

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2024年2月20日 (火)

ベトナムの歴史(その30-3) ― 日本の中の枯葉剤・Ⅰ ―

日本でもベトナムと同じ成分の枯葉剤が使われた

「枯葉剤」と聞けばベトナム戦争を連想し、すぐに“ベトちゃんドクちゃん”が浮かぶ世代は残念ながら少なくなっています。日本のベトナム戦争との関わりや枯葉剤についてもそうです。しかし最近、日本でも再び話題になることが多くなってきました。そこで、「日本の中の枯葉剤」をテーマに幾度か書いてみます。

日本で枯葉剤が認識されたのは、1964年9月に猛毒ダイオキシンを含む2,45-トリクロロフェノキシ酢酸(以下「245-T」)を有効成分とした枯葉剤が農薬として登録されてからです。

1968年、全国各地の国有林で杉やヒノキの植林を進めていた林野庁が、その生育を妨げる雑草を駆除するため「245-T」を始めました。ところが、ベトナム戦争で使われている同じ成分を持つ枯葉剤が原因と考えられる奇形出産が、ベトナムやアメリカ国内で問題になり始めます。そうした中で、林野庁の職員などの反対運動が起こり、林野庁は19714月に使用中止を決定します。

日本政府が農薬登録を失効させたのは、さらにその4年後の19754月でした。その間10年あまり日本国内で使用された枯葉剤(2,45-T)がもたらした被害の実態は明らかにされていません。

林野庁が全国4自治体の国有林に枯れ葉剤を埋設

ところが近年、NHKや民放・新聞各社がかつて国有林に埋設処分された枯葉剤を取り上げ、次第に日本で今でも続く枯葉剤問題が知られるようになりました。

大量に残った大量の猛毒「245-T」を成分とする枯葉剤の処分に関する「通知」が197111月、林野庁長官から各営林署長に出されています。林野庁の資料によると、「 ダイオキシン類についての有効な無害化処理技術が無かった当時、まだ農薬登録されている薬剤が人手に渡らないようにするための処分方法として、当時の『毒物及び劇物取締法』に定める処分方法に基づいて」、全国46カ所で26㌧ン枯れ葉剤が埋設されました。

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下の地図は枯れ葉剤(2,45-T)が埋設されている自治体です。広島県では庄原市が該当します。

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出典:左NHK特番、2022年1月20日,右読売新聞、202255

「通達」に反する埋設29カ所

ところが、埋設方法、埋設場所とも「通知」通りに実施されていない事実が判明し、全国各地で被害が懸念広がり始めています。埋設場所が11カ所、埋設方法が7カ所、300kg以内の制限を超えたものが11カ所、計29カ所も「通達」に反し埋設された事実が明らかになりました。中には1㌧を超すものもありました。

2年前の20221月にNHKWEB特集が「“猛毒”地中に~枯れ葉剤の原料 漏れ出す懸念も 負の遺産」という特集番組を組み、同じ年の5月には読売新聞が「ダイオキシン含む除草剤、全国の山林46か所に埋設のまま水源近くの例も」という特集記事を報道しました。

NHK特番では営林署の元職員の「営林署の上層部からは『245-T』が害があるとは知らされていなかったが、ベトナムでこの物質が原因とされる障害のある子どもが生まれたため、こんな危険なものは絶対に散布してはいけないと、強く反対しました」、「埋める場所の下流に住む人たちに害を与える可能性もゼロではないと思ったので、本当は埋設しない方がいいという思いはありました。ただ技術的にほかに方法がなく、やむなく後世に残す形になってしまったのです」と証言しています。

また、「熊本県芦北町の職員は「大雨によって土砂崩れなどが頻発すれば、埋設地も大きな影響を受けるのではないか」との不安を訴えています。

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出典:読売新聞2022年5月5日

読売新聞では、「もう50年も前か、15道県42市町村の山中46カ所に有毒な除草剤が、26トンも埋められているんです。この除草剤はベトナム戦争の際にまかれた枯れ葉剤と同じ成分で、猛毒のダイオキシンが含まれているんです。これまでの調査で、すでに基準の17倍のダイオキシンが地中に漏れ出ている場所もあることがわかっています」(原田和明:北九州市立大学職員)

近年多発する豪雨や地震などで流出する危険性についても、「ダイオキシンは何百年たっても分解されません。将来、そこに除草剤があると知らずに掘り起こしてしまい、埋まっていたダイオキシンが流出する可能性はあるでしょう。ダイオキシンを無害化する処理方法は確立しているのですから、できるだけ早く行うべきなのです」(中地重晴:熊本学園大学教授、ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議理事)と警鐘を鳴らしています。

「日本の地中に埋まる『負の遺産』を今後どうしていくのか。半世紀前には想定されていなかった災害の実態を踏まえた早急な対策が求められています。」(NHK特番、2022年1月20日)

「昨年の熱海のように山ごと流されるような激甚災害が埋設場所付近で発生しないとも限らない。一日も早い撤去が望まれる。」(『読売新聞』、2022年5月5日)と、いずれも早急な対応を求めています。

報道に接していない人も多く、政府や埋設されている自治体からの情報が無いに等しい中で、当該地域の人たちでさえ、枯葉剤が埋設されていることやその危険性への認識は極めて乏しいと思います。

次号では県内で唯一枯れ葉剤((2,45-T)が埋設されている庄原市を含む全国の状況を報告します。

赤木達男

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2024年2月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その55) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その4~

昨年11月にスタートした「ベトナム訪問記」、ホイアン編に入る前に嬉しい報告です。昨年秋の訪問時、クアンチ省知事から功労賞をいただいたことは既に報告しましたが、この度、一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が、ベトナム国のブイ・タン・ソン外務大臣表彰を受けました。1月21日、六本木ヒルズ・ハリウッドプラザで、宮城県日越交流協会、栃木県ベトナム友好協会などとともにファム・クアン・ヒエウ大使から表彰状を授与していただきました。この間の草の根交流を支えてくださった多くの皆さまのお陰です。

ありがとうございました。

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古の交流が偲ばれる遠来橋(日本橋)

さて、話をホアイアンに戻します。11月4日の午後、フエとダナンの間に立ちはだかるハイバン峠を貫く東南アジア最長のトンネル(6,280m)を難なく越え、夕刻、ダナン市に入りました。このハイバン・トンネルは日本のODAで2005年に開通したものです。車窓から著しい発展を遂げるダナン市を眺めながら、ひたすらホイアンに向かい、チェックインしたホテルは五つ星ホテル「LOYAL RIVER SIDE」。料金の方は旅行社のオーダーミスで格安、皆、“ラッキー”と大喜びでした。

ホイアンといえば16末~17世紀中頃まで朱印船が通い、日本人町や遠来橋(別名「日本橋」)が作られた歴史の町で、1999年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。遠来橋は1593年に日本人町と中国人町を結ぶ橋として日本人が架けた瓦屋根付きの珍しい橋です。ベトナム紙幣(2万ドン)の裏面にデザインされ、日常的に親しまれています。

1719年に広南国王が「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」という論語から遠来橋と名付けたと伝えられ、ホイアンの人気スポットです。残念ながら8回目の修復工事中で橋全体が覆われ、今回はその姿は見ることはできませんでした。

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左は2014年訪問時、右は今回

つながった『古着屋惣兵衛』、『新・古着屋惣兵衛』シリーズ

話は長くなりましたが、幕府開闢から200年あまり、欧米列強が植民地支配の触手を伸ばしてくるとともに、幕藩体制が緩み、軋み出す時代を背景にした時代スペクタル。是非、手にしてみてください。

絶景!ランタンに浮かぶホイアン

もう一つホイアンで有名なのがランタンです。かつて貿易港として栄えたホイアンはファイファという大きな貿易港があり、16~17世紀にかけて日本との交易が盛んでした。日本の鎖国政策以降は、中国との関係が強くなり、様々な交易品が持ち込まれます。その中に含まれていたランタンからホイアンの職人によって独自のデザインが生まれ、ホイアン名物になったと伝えられています。

世界遺産のまちホイアンは毎月旧暦の14日の夜、ランタン祭りで賑わいます。もともと故人を追悼する行事だそうで、日本のお盆に似ています。私たちが訪れた時はランタン祭りではありませんでしたが、まちを彩るランタンはとても幻想的で誰もが魅了されます。

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今につながる日本とベトナムの絆

ホイアンには、日本との縁を伝える遠来橋を含む貴重な歴史的な建造物も多く残されています。かつて日本や中国との海洋貿易港だったという面影を残しているのが「フーフンの家」です。コショウや絹製品、ガラス細工や青磁器などで繁栄を築いた豪商のフーフン(馮興)が200年前に建てたものです。土壁はベトナム式、柱や扉は中華式、屋根は日本式という日越中3カ国の建築様式が融合し独特の雰囲気を漂わせています。

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フーフンの家にはお土産屋を兼ねたアートがあり、ガイドもしてくれます。上の写真はホイアン名物のランタンをモチーフに織られたベトナム刺繍です。作っていたのは枯葉剤被害者でした。その美しさに惹かれて買い求め、わが家の居間を飾っています。

 今号でダナンまで進む予定でしたが、少し長くなりましたので次号で報告します。

(2024年2月5日、あかたつ)

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2024年2月 1日 (木)

「まさか」に備えて…

人生には「上り坂」「下り坂」「まさか」の3つの「さか」があるとよく言われます。その「まさか」な出来事が、いわゆるお正月気分を吹き飛ばすことになりました。

「能登半島地震」が発生して、1か月が経とうとしています。この度の震災で犠牲となられたみなさんに哀悼の意を表するとともに、避難生活を余儀なくされているみなさんに心からお見舞い申し上げます。

災害への備えを考えるとき、よく自らとりくむ「自助」、地域で、みんなで協力してとりくむ「共助」、行政、公的機関がとりくむ「公助」の3つがあげられます。

「自助」について、行政のホームページをみると、「3日分の水や食料を確保しましょう」などと書かれています。私自身、家族の人数分の防災リュックを購入しているだけで、十分な備えができているとはいえない状況です。

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「共助」について、私が住む市では自主防災組織がつくられており、防災訓練がほぼ毎年実施され、多くのみなさんが参加されています。

また、自宅の近くに市からの備蓄品の保管場所があります。ここはメインの防災倉庫ではないので、水、レトルトご飯、アルミシート、寝袋等しか保管されていません。これだけでは近隣のみなさんが避難されても不十分と言わざるを得ません。

「自助」「共助」でカバーできない部分を担うのが「公助」ということになります。行政の最大の責務は、市民の生命・財産・安心安全をまもることです。一方で、「公助の限界」ということも指摘されています。特に、今回の「能登半島地震」のように、災害の規模が大きくなると、迅速に支援することが難しくなると言われています。

「公助」を担う行政、公的機関には、日常的に「自助」「共助」を促すための施策が求められているのではないでしょうか。また、いつどこで災害が起こってもおかしくない日本では、防衛よりも防災・減災が求められていると思います。自衛隊を災害救助に特化した組織に再編することを願ってやみません。

(まるちゃん)

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2024年1月30日 (火)

島根県知事に「能登の警告は、島根原発2号機の再稼働同意を撤回すること」を要請

中国電力は、今年8月に島根原発2号機の再稼働をさせることを計画しています。

「島根原発2号機の再稼働」については、原子力規制委員会の「合格」を受けて、一昨年6月に丸山達也島根県知事が同意を表明していました。

そんな中での能登半島の大地震が発生しました。その教訓は、島根原発2号機を動かそうとしていることへの警告として、県知事は再稼働同意を撤回するように求める緊急要請を1月26日に行いました。

緊急要請には、広島県原水禁など北海道から鹿児島県までの192団体の賛同を得ました。能登の教訓は、志賀原発が立地されている志賀町で震度7を記録したこと。活断層の長さと連動の問題、屋内退避が不可能さ、道路寸断で避難ができないということなどだろうか。

島根原発の南側約2キロに、宍道断層があります。その西端から6キロのところの日本海側には、鳥取県西部沖断層の東端が存在しています。この二つの活断層が繋がっているという主張を私たちは行っていましたが、その心配を能登が示しました。

一昨年6月、丸山島根県知事は「重大事故のリスクがゼロになっているわけではない。不安、懸念をもたれている県民がいる」「苦渋の決断だった」としながらも、再稼働を同意しました。

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私たちの要請に対し、島根県の担当者は「現状においては、やむを得ないとの判断に変わりはない」の発言を繰り返しました。

『苦渋の決断』だったのなら、まずは県民の不安に応えるために、立ち止まることではないでしょうか。

私たちは、この地震による警告を本気で受け止め、再度考えを表明することを求めました。全国からの声に、本気で向き合ってほしいと強く思います。

以下に、要請書の全文を掲載します。


能登半島地震を受けての島根原発2号機再稼働の中止を 求める緊急要請

日ごろより県民の安全・安心な暮らしのため、県政を担っておられることに対し心より敬意を表します。 

一昨年6月2日、貴知事が島根原発2号機の再稼働に同意を表明したことから、中国電力は本年8月に再稼働させる計画です。 

本年1月1日能登半島大地震が発生し、能登半島一帯においては多数の死者や安否不明者、負傷者、避難生活者が発生するなど、まさに未曾有の被害が起こっています。 

同県志賀町においては、北陸電力志賀原発から9km離れた地点で震度7、加速度2826ガルを記録しています。志賀原発では震度5強を観測しました。

同原発が運転停止中であったことは幸いでしたが、2系統の外部電源を喪失するなど、重大な事故となり地震の影響を無視することはできません。 

また今回の地震について、原子力規制委員会の会合において、能登半島北部に連なる細切れの活断層が、およそ150㎞以上に渡って連動したとされています。 

このことを、北陸電力は想定することができていませんでした。これは活断層評価及び連動評価のあり方に対する信頼を消失させました。

この度の地震によって、能登半島西側道路は通行止め等で、集落が孤立し避難・救援ができないという状況が続いています。島根原発近傍の「宍道断層」による地震が発生した際にも、同様の事態が生じることは十分に考えられます。そして原発で重大な事故が起きた際、屋内にとどまって被ばくを避けるといった国の指針にもかかわらず、屋内退避や避難が物理的に困難な状況になることを示しました。原発事故と地震災害という複合災害発生時の「避難計画」が機能しないことも明確です。

この度の能登半島地震の教訓は、島根原発2号機を動かそうとすることへの、強い警告と受け止め、私たちは貴知事に対し、下記のことを緊急に要請いたします。 

 

1,一昨年6月2日に行った島根原発2号機再稼働同意を撤回し、中国電力(株)に対し、そのことを伝えること。   

以上 


木原省治

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2024年1月20日 (土)

ベトナムの歴史(その30-2) ―ベトナム戦争と枯葉剤被害Ⅱ―

枯葉剤被害者に謝罪も補償もしないアメリカ政府

よく、「アメリカは枯葉剤被害者に対する補償をしているの」と聞かれます。結論から言って、アメリカ政府は枯葉剤被害者に対する謝罪も補償もしていません。しかし、非戦闘員であるベトナムの人々の頭上と命をつなぐ大地や河川・湖沼に猛毒ダイオキシンを10数年にわたって反復的に散布した行為は、無差別大量の破壊的効果を意図した戦争犯罪です。

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枯葉剤使用20年後に生まれたベトちゃんとドクちゃん

しかもその人体的影響と被害は、その瞬間とその後の一定期間に止まることなく、幾世代にわたって被害を持続させることから核兵器と同様、非人道的大量殺戮兵器を使用したという責任は免れません。

1960年8月10日に“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地、コントウム省で、最初の枯葉剤(エージェントオレンジ)がまかれる3年も前から、製造に携わっていた労働者に塩素ざ瘡などのダイオキシン中毒症状が発生していました。そうした被害をもたらすことを知り尽くした上で、1961年11月30日に兵器としての使用をケネディ大統領が承認したのです。

枯葉剤による被害を知り尽くした上での使用

このホワイトハウスの決定過程で、「ジャングルの中のホーチミン・ルートやベトコンの隠れ家を破壊するためには枯葉剤の使用が最善の方法だ」と主張するマクナマラ国防長官と、「それはアメリカとベトナムの友好関係を損ない、ベトナムの農民たちはアメリカを『野蛮な帝国主義者ども』といって嫌うことになるだろう。そして、それ以上に『合衆国は化学戦をやったといって非難されることになろう』」と反対するロジャー・ヒルズマン情報調査局長やアヴレル・ハリマン極東担当国務次官補らとの間で激しい議論があったことから見ても、アメリカ政府は、枯葉剤(エージェントオレンジ)がもたらす被害について十二分に知り尽くした上での、ケネディ大統領による「ランチハンド作戦」承認であったことは疑いないことです。

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ランチハンド作戦に使われた米軍C113輸送機(1945年9月2日ハノイ)

ベトナムの枯葉剤被害者による訴訟はことごとく棄却・敗訴

これまで幾度もベトナム国内や在外のベトナム人枯葉剤被害が、枯れ葉剤を製造したモンサント社などを相手に訴訟が起こしました。

モンサント社などは「企業はアメリカ政府の注文に応じただけ」、「当時、枯葉剤の使用は国際法で禁止されていたのか」、「枯葉剤と原告の被害との因果関係は完全に立証されていない」などと主張し、アメリカ司法省も「元の対戦国による訴訟を受け付けることは、大統領の戦争遂行権限に大きな脅威となる」とのコメントを出すなど、審理すら行われず棄却されたものを含め、いずれも棄却・敗訴になっています。

 2021年5月11日、フランスの刑事法院(裁判所)は、在住ベトナム人のチャン・ティ・トー・ガーさん(81歳)の枯葉剤を製造販売したアメリカの化学企業14社に対する訴訟を却下しました。「米国政府の戦時中の行動に関わる訴訟を裁く権限を持たない」との理由でした。

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チャン・ティ・トー・ガー(出典:VietnamPlus紙(2015年04月16日付))

ガーさんは控訴して現在も闘いを進めています。皆様、関心を寄せていただきご支援をお願いします。

アメリカ参戦兵士と家族には補償

一方、ベトナム戦争兵士は帰国後、流産や奇形出産が多発したことから、「ベトナム帰還兵オレンジ剤被害者の会」を設立。ベトナムの枯れ葉剤被害者同様、枯葉剤(エージェントオレンジ)を製造したモンサント社などを相手に訴訟を起こしました。これに対してはアメリカの裁判所は補償を命じています。さらにモンサント社の除草剤による被害を受けたアメリカ国民の訴訟に対し、枯葉剤と同じ成分の除草剤ががん発症の原因として被害者への補償金の支払い命令を出しています。

 こうしたアメリカ政府の姿勢は、過去の戦争に対するものではありません。ウクライナ戦争を一時も早く停戦・終戦に向けた責任を果たさず、国際法が禁ずるクラスター爆弾や劣化ウラン弾を供与し、継戦によるアメリカ国益のみを追求する姿勢そのものです。イスラエルによるガザにおけるパレスチナ壊滅(ホロコースト)を容認するばかりか、武器供与を続ける姿勢にも表れています。

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2001年1月米軍の大量劣化ウラン弾で破壊された旧ユーゴスラヴィアの戦車で遊ぶ子どもた(出典:朝日デジタル2023年3月5日)

そのアメリカにどこまでも追随する日本政府の責任は、アメリカの後方支援基地、襲撃基地としてベトナム戦争に加担した過去の責任にとどまらず、現在の罪でもあります。

 枯葉剤作戦による被害者への謝罪と補償を求めるガーさんたちの闘いは、ウクライナとパレスチナに平和を取り戻し、非人道的殺戮兵器の製造・保管・使用、また供与や譲渡を禁じるための歩みでもあります。

日本の過去・現在を問い続け、未来を切り開くための課題でもあると思います。

 「被爆80周年」を来年に控える今年の夏、86日の「原爆の日」に続く810日の「エージェントオレンジDay」(枯葉剤64周年)を通して、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。

次号では「日本の中の枯葉剤」を取り上げてみたいと思います。

2024年1月20日(あかたつ)

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2024年1月 6日 (土)

ヒロシマとベトナム(その54-2) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その3-2~

ティエンムー寺院

次に向かったのはグエン王朝の祖先にあたり、徳川幕府と朱印船による交易を進めた広南朝のグエン・ホアが1601年に建立したティエンムー寺です。ティンは「天」、エンムーは「姥」を意味し、「いつかここに真の主がやって来て、霊気と龍脈をあつめ強力な国をつくるために、寺を建てるであろう。」との老婆の予言によって造られたティエンムー(天姥)寺はフエで最も古く美しい寺院です。

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慈仁塔(トゥニャン塔)、フォーン川対岸がショットポイント。

内外から多くの人々が訪れるティエンムー寺には、もう一つの歴史が刻まれています。

フエはフランス植民地政府に恭順するグエン王朝の都でしたが、歴代の王には抗仏闘争に身を投じ逮捕されたり流刑に処せられた王もいるなど、抗仏運動の盛んな地でした。

1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス植民地支配を打ち破ったベトナムの人々は、その後南北に分断され、1975年のサイゴン解放まで長く苦しいベトナム戦争を強いられます。1963年当時、南ベトナムはアメリカ傀儡のゴ・ディン・ジェム政権でフエは南ベトナムに属していました。キリスト教徒のゴ・ディン・ジェム政権は仏教弾圧を強めながら、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)壊滅作戦を進めていました。

 不屈・不滅のベトナム ~僧侶、ティック・クアン・ドックの焼身自殺~

1963年6月11日、ティンエンムー寺の僧侶、ティック・クアン・ドックはその弾圧に抗議し、サイゴン(現ホーチミン)まで車でいき、アメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺しました。燃え盛る炎の中で絶命まで姿勢を崩さなかった様子はカメラを通じて世界中に放映され、ベトナム国内だけではなく国際的世論に大きな影響を与えました。

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マルコム・ブラウンが撮影したドックの焼身自殺。(ウィキペディア)

その時サイゴンまで乗って行ったオースチンA95(写真下)がティエンムー寺に展示されています。

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また、ティック・クアン・ドック僧の身体が焼け落ちても心臓は形をたもったまま残り、その不滅の精神を体現したといわれています。その心臓の写真パネルも展示されていました。

初めて訪れた団員はもとより、幾度も訪れてた私と久保さんも身の引き締まる思いでした。

フエ料理にベトナムを味わう

フエといえば宮廷料理、定番の鳳凰のパテです。
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ベトナムの麺はフォーですが、ここフエでは米粉麺ブン・ボー・フエが名物です。

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ブンはビーフン、ホーは牛。レモンを搾り、レモングラスとトビ切り辛いフエ蒼唐辛子で食べると絶品!!

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次号ではホイアンとダナンの旅を紹介します。

(2024年1月6日、あかたつ)

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2024年1月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その54-1) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その3-1~

ベトナム最後のグエン王朝の都、フエ

ご愛読くださっている皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

今日はお約束した日越外交関係樹立50周年記念訪問の3つめの目的だった「歴史・文化、ベト味Tour(ベトナム満喫)」について報告します。クアンチ省での「公式行事」と「ホアビン(平和)Tour」を終え、向かったのは、1802年にベトナム全土を初めて統一したグエン王朝の都として栄えた世界遺産のまち「古都フエ」です。先ずはフエを象徴する観光スポット、グエン朝王宮。ベトナム戦争でその大半、40もの建物が破壊されましたが、現在では復旧工事も進み多くの建築物が往時の姿を見せてくれます。

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ベトナム中部は古都フエ、チャンバ王国のミーソン遺跡、朱印船で栄えたホイアン、歴史と発展とダナンと観光のメッカです。

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グエン王宮正面、後方には2009年にユネスコの無形文化遺産に登録された閲是堂(当時の王宮劇場)がそびえる。  

次に訪れたのはカイデン帝廟です。フランス統治下、ファン・ボイ・チャウの抗仏運動に呼応し、逮捕・廃位・流刑された前皇帝、ズイタン帝(維新帝)に代わってフランスが擁立した第12代カイデン帝(啓定帝)の陵墓(りょうぼ)です。フランスの搾取に苦しむ国民から「フランスの保護下で贅沢な暮らしをしている傀儡皇帝」と反発されていたカイデン帝が、税金を20%も引き上げ、1920年に着工し1931年の完成まで11年を要し造られました。カイデン帝に対する国民の怨嗟の声は、当時パリに亡命中のホー・チ・ミン(当時グエン・アイ・コックと名乗っていた)に伝わり、ホー・チ・ミンは戯曲「竹の籠」を著したと伝えられています。

日本のビール瓶も埋められたモザイク装飾

ベトナム国民の血涙を注ぎ込んで造られたカイデン帝廟は、ヨーロッパで発達したバロック様式の建築物に混在するザイク装飾によって東洋独特の雰囲気が漂い、建築的にも芸術的にも価値のあるフエ建造物群の一つとして1993年に世界遺産に登録されました。

左下の写真はカイデン帝廟のモザイク装飾です。割った磁器やガラスの破片を使ったベトナム独特の装飾で、高価な中国の磁器やワインボトルの破片などが皇帝の墓を飾っています。右下を見てください。花びらをあしらったモザイク装飾の幹部分に、日本のビール瓶が埋め込まれています。

“TOKYO”との文字に、訪問団一様に驚きと出来映えの素晴らしさに感嘆の声を上げました。

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中国の磁器やワインボトルの破片に描かれた動植物

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"綺麗だな~”見入っていると左の茎は、なんと瓶・"TOKYO"と書いている。

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大正から昭和にかけたカイデン帝廟造営に日本も関わっていたようです。

(2024年1月5日、あかたつ)

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2023年12月28日 (木)

修復したのですが

10月29日のブログこれ、壊れていますよね: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した「NHKのビルが建つ敷地の南東角に設置されている時計」の修復が完了したようです。したようですとは、曖昧な表現ですが。

数日前、散歩の途中で気づいたのですが、NHKビル前の壊れていた時計を見ると、何か以前見た様子と違う違和感を感じます。

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おかしいなとよくよく見ると、以前は残っていた短針も無くなり、真ん中の小さな円は、真っ白になっています。時計としての姿は全くなくなっていますので、修復途中かなと思いNHK広島放送局の受付に行き、聞いてみることにしました。

「あの時計修復が終わったのですか」と尋ねると「そうなんです。古い時計だったもので、部品を取りそろえることができず、時計としての修復はできませんでした。」との答えでした。そういえば、10月29日のブログに「NHKの問い合わせた答えとして『修理を検討しているのですが、何分にも古いもの(ビルが建って30年ぐらい経つ)なので、どう修理するのか手配ができずにいます。オーナーさんとも相談して、どうするか検討中です。』」と書きましたが、結局時計としての修復は不可能だったようです。

1996年3月に完成したこのモニュメントは「宇(そら)の広場」の名称が付けられています。広島城が作られたころ、このあたりまでが海で、太古の昔から月が見守ってきたことを象徴するものとして、海水中の岩(岩礁)を照らし出していた月の推移を三日月と満月で表現したものでした。

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設計者坂上直哉さんは「右側の時計は満月を表現し、左側には三日月を配し、月の推移をあらわすと共に、時の流れを今度はこの大時計が未来に向かって刻むことになる」との想いを込められていたようです。

修復が終わったといっても、時計の針がなくなり未来に向かって時を刻むことはできなくなりましたが、本来の満月としての表現はよりはっきりとしたように思われます。

そんな思いで、このモニュメントがこれからも市民に親しまれればよいなと感じながら、この場を後にしました。

いのちとうとし

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2023年12月19日 (火)

ガザに支援物資を届けたいー森下雄一郎さんの話し

11月27日から12月8日まで、ガザへの支援物資を届けようと活動して来られた森下雄一郎さんの話を聞く会が、昨日午後2時から平和会館で行われました。

この聞く会の呼びかけ人は、広島県被団協の前田耕一郎事務局長。私も案内をもらいましたので、参加をしました。

これまで世界各地にでかけ支援活動を続けてこられた森下さんが、紛争のニュースを聞いて何とかしてガザの人々に支援物資を届けたいと思い、選んだのがエジプトのカイロからの道でした。いまガザへ物資を届けることが可能と思われる唯一の道です。以下は、自らが映した映像を流しながらの森下さんの話しです。

届けようと思った支援物資は、食料、水、医薬品です。ガザ近郊に住む人でないとガザには入れないとカイロで支援者を探し、何とかガザへの車の手配ができ、ガザへと向かった。カイロからガザまでの道のりは、シナイ半島を経由し約1000キロ。何カ所もの軍が管理する検問所があります。後300キロとなった地点の検問所では、それまでにない非常に厳しいチェックがあり、これ以上外国人である私が進むことは難しいという状況になりました。協力者のひとりに、ガザに住んでいた住民がいましたので、この人に後は託すことにしました。

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この協力者は、何とか難民キャンプにたどり着いて物資を届けることができ、彼を通じてスマホでその様子が知ることができました。その施設には、約1000人が収容されているようです。

この難民キャンプにいる人たちは、今回の紛争で逃れた人なのか以前から難民となっていた人たちなのかは、残念ながらはっきりしませんでした。

スマホの画像を通じてですが「シュクラン」(ありがとう)の言葉があったので、きちんと物資が届き、感謝されていることがわかりました。

これまでの支援活動もそうなのですが、「人が人を助けることができないのが戦争だ」と言うことを感じます。そして、いつも現地の支援者(といっても、日本を出るときからはっきりしているわけではなく、現地に行ってから森下さん自身が探すようですが)が協力し、助けてくれるから、いつも何とか進むことができています。

ガザへの支援の報告は以上ですが、森下さんがなぜこの危険と思われる場所に行くのかを次のように話してくれました。「NGOの手の届かないところ、それは最も危険な場所です。しかし、そんな場所が最も支援が必要な場所なんです」「水、食料、教育、女性の問題。国は関係ありません。人は人です。明日ではない、今日届けたいのです。私たちは、国境を越えてわかり合えるのです」。森下さんの強い思いが伝わります。

森下さんは、ガザへの支援行動のほかにも、次のような活動をしていることが紹介されました。濁った水をのんで生活するブルンジ共和国の村に行き、井戸掘りをしたこと、トルコ・シリア地震の被害を受けながら、ほとんど支援の手が届いていないシリアに行ったこと、大水害に合ったリビアへの支援、ミャンマーの難民を支援するためタイに行ったことなど。2,3ヶ月に1回海外を訪れて支援活動を続けていること。

最後に森下さんは、こう言いました「『微力だけど無力ではない』と言うことをいつも思わせてもらっています。」

どこかでいつも耳にする言葉です。

いのちとうとし

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