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旅行・地域

2023年10月 3日 (火)

船舶の定期検査

今日も散歩中の話です。

元安川の水面が異常に高くなっていたことは、昨日のブログで紹介しました。同じ時間帯に散歩に出ましたので「今日はどうだろうか」と元安川を見ながら右岸を上流に向かって歩きました。ほぼ同じような水面の高さでした。

ちょうど、「カキ船かなわ」付近にたどり着いたところ、数人の人が、カキ船の方を見ながら話をしているのが目に入りました。

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何をしているのか気になりましたので様子を見ていると、二人が少し上流に移動し、カキ船の外観を見ながら、手元の紙に何か書いています。

「何をしているのですか」と尋ねると女性が「船舶検査です」との答えてくれました。さらに「係留船といっても船舶ですので、検査をしているのです」とのこと。「その検査には、係留状況の検査もあるのですか?」と問うているとかなわの社長に同行していた従業員が、少し大きな声で「時間がないから」と、私の声を遮ります。客商売を行っている人の態度とも思えない姿勢でしたので、エッと思ってのですが、検査を進めている二人が、船舶の中に移動しはじめましたので、それ以上の問いかけは断念し、写真を撮って私たちも原爆ドーム方面へ移動しました。

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午後になって、少し詳しいことが知りたいと思い中国運輸局海上安全環境部船舶検査官に電話を入れました。

電話に出てきたのは、午前中かなわの船舶検査を行っていた検査官でした。丁寧な回答で、次のようなことを教えてくれました。

船舶の検査は、年1回実施し、検査項目は、「外観(損傷がないか)、脱出経路の安全が確保されているのか、消火器、非常灯、火災報知器の作動などに異常はないか」などです。消火器以降の項目は、消防署が点検するような内容ですが、船舶検査でも実施するとのことです。

念のため、「離岸が可能かの検査はないのですか」と尋ねたところ、「離岸が可能かどうかは、船舶検査の対象ではありません。ただ、動力を持たない船舶ですから自力では移動できませんので、移動させようと思えば他の船で曳航するしかないですね」との答え。やはり、誰が考えても簡単には離岸できないのです。「カキ船かなわ」の撤去を実現させることは、事実上困難ですが、ごまかしを押し通して進められたことだけは、決して忘れてはならないことだと今でも思っています。

それにしても、現場での「かなわ」の対応は、市民の声を軽視する姿勢が全く変わっていないとの思いを強くさせる出来事でした。

いのちとうとし

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2023年9月20日 (水)

ベトナムの歴史(その28)

ベトナム戦争はいつ始まった

よく、「ベトナム戦争はいつ始まったのですか」という質問を受けます。

1964年8月の「トンキン湾事件(注1)」に端を発したアメリカ軍の北爆(注2)か、その北爆が恒常化した65年2月、もしくは20万人のアメリカ地上軍がダナンに上陸した3月など諸説ありますが、一般的には北爆の本格化と地上軍が投入された1965年を「ベトナム戦争が始まった年」とされることが多いようです。

しかし、私は常々〔もっと早くに始まっていた〕と思っていました。

前号までにアメリカはベトナムの人々が抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦っていた1950年から軍事顧問団と大量の軍事物資を送りフランス軍を支援していたこと、1954年5月のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗退したこと、翌55年7月に「南北統一の国民投票を実施」などが盛り込まれた「ジュネーブ協定」が結ばれたこと、同じ55年10月にアメリカの後ろ盾でベトナム共和国(南ベトナム、ゴ・ジン・ジェム政権)が作られたこと、ジュネーブ協定を無視したアメリカとベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間で南北統一めぐる争が始まったことなどについて触れました。

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1973年にピュリツア賞を受賞した「戦争の恐怖」。1972年にベトナム人写真家ニック・ウト(本名フィン・コン・ウト)撮影

前にも書きました(ベトナムの歴史(その23)抗仏闘争-3の7)が、第二次世界大戦後に戦われた第一次インドシナ戦争は、再びインドシナでの植民地支配を狙ったフランスと、それに抗し民族独立を目指すベトナム人民との戦いでした。同時に戦後、東ヨーロッパやアフリカ、アジアで勃興する民族独立の気運と社会主義化が進む中で、その伸長を抑え込もうとする西側陣営による防共戦争という性格を持っていました。

いわゆる、戦後冷戦構造のもとで戦われた象徴的な戦争が第一次インドシナ戦争だったのです。だから、アメリカはフランスに13億㌦という莫大な軍事援助をしたのです。にもかかわらずフランスは敗退してしまった。慌てたアメリカはフランスがディエンビエンフーの戦いで敗れた直後の1954年9月、自らが主導しイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンの8カ国と対共産圏包囲網の一環として東南アジア条約機構(SEATO)を結成します。「宣戦布告なき戦争」と言われているベトナム戦争は、この時点に始まったとの説もあります。

しかし、私はアメリカのベトナム人民に対する戦争行為が始まったのは、それ以前、大量の軍事物資とともに軍事顧問団を送った1950年5月だと思っています。

「宣戦布告なき戦争」

下の表をご覧ください。これは私が会長を務める一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会:HVPFが、毎年「エージェントオレンジDay(810日の枯葉剤被害者の日)に取り組んでいる、今なお続く深刻な枯葉剤被害「パネル展」で掲示した年表の一部です。

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表中の横線3本は、下から一般的に言われている「ベトナム戦争が始まった年」(1965年)、真ん中が敗退したフランス軍に替わって米軍が直接ベトナムに干渉し始めた年」(1955年)、そして一番上は私が「ベトナム戦争が始まった年」と考えている1950年です。

 1950年とする理由はアメリカが明確な意思と意図をもってベトナムへの干渉を宣言したのがこの年だからです。トルーマン大統領が承認した「インドシナに関する米国のポジション(The Position of the U.S. with Respect to Indochina)」と題した国家安全保障会議の文書(NSC64)には、次の様に書かれています。「仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)は、共産主義者の手に落ちるのを座視してはならない重要な地域であり、米国はこの地域への共産主義の攻勢を阻止するための支援策を提供する」と。

この文章に基づく支援先はフランスなのか、フランスがホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国(北ベトナム)に対抗するために、ベトナム最後の皇帝バオ・ダイを担ぎ出し建てたベトナム国なのかは明らかにしていません。

「宣戦布告なき戦争」と呼ばれている所以は、戦線布告という明確な区切りがなく、アジアの小国に連続して襲いかかった帝国主義国とその同盟者による侵略戦争であり、ベトナムの人々にとってはフランスに続くアメリカとの連続した抗仏戦争・抗米救国戦争だったことにあります。

その意味で私はベトナム戦争を捉え・語るとき、広くはフランスの植民地支配が始まった1858年からサイゴンが解放された1975年までを俯瞰することが大切だと思っています。狭く捉えても、戦後のフランス再支配のための第一次インドシナ戦争から連続して捉えることが不可欠だと思っています。

もちろん、歴史学者でも軍事専門家でもない私の勝手な思い込みです。

読者の皆さんはいかがでしょうか。

次号では1961810日から19711031日まで10年間続いた米軍による枯葉剤(エージェントオレンジ)散布について触れたいと思います。

(2023年9月20日、あかたつ)

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2023年9月14日 (木)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その3

チラシには、講演会の講師の森滝先生の紹介があります。

「先生は、広島こどもを守る会会長、こどもを守る会中国協議会長、原水爆禁止世界大会広島事務局長、原水爆禁止全国協議会事務局長、世界連邦アジア会議広島大会事務局長等の要職についておられ、平和運動には懸命の努力をつづけていられる方です。

森滝先生は、自身原爆の被害をうけられており、その体験をもととして救済事業に力をつくし、現在数十人の原爆孤児の世話をしていられます。」

経歴の最初に「広島こどもを守る会会長」が書かれ、後段でも「原爆孤児の世話」が記載されていますので、このことが「世界児童憲章」の策定を求める加納莞蕾さんと森滝先生を結びつける大きな力となっていることがわかります。

さらに「一昨年には、松江市で開かれた山陰平和大会にまた安来市で開かれた世界連邦の講演に来られ、この地方とも縁故のある方であります。この先生からお話を聞き、また先生を中心にディスカッションを行ったり今後の歩み方を協議したいと思います。」と書かれています。

これを読むと、森滝先生が、「原水爆禁止」の署名活動が行われた1954年からさまざまな場所に足を運ばれていたこともわかります。

さらにチラシに書かれた日程を見ると非常に中身の濃い布部村行きだったことがわかります。

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11月3日 講演会・座談会 講演と討議(べんとう持参のこと)

      午前10:00より午後4:00 布部中学校

      講師 森滝教授

      午後7:00より午後10:00 役場二階

      宗教と文化・教育についての座談会

11月4日 研究会 布部中学校

      午前10:00より午後2:00

      村をたてるにはどうすればよいか総合研究

森滝先生は、日記を読む限りでは、4日の「村づくり懇談会」への参加は午前中で終え、昼食を加納町長足立議長とともにした後、布部を出発された(そうしないと富田城趾の山や清水寺を訪ねて夕方に鳥取県の大山寺に着くことはむずかしい)と思われますが、それにしてもすごいスケジュールです。

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中央が森滝先生、その右が加納莞蕾さん、左が足立議長

チラシにはこうも書かれています。「このたび、この宣言を記念し、また、さあこれから手をとりあって村づくりにたちあがるのだというスタートとするために文化の日を以て『講演会と討論研究の会』と『映画の夕』を催します。」

この大切な行事に森滝先生をメインで招待した加納莞蕾さん、これほど厳しい日程であるにもかかわらず布部村を訪れられた森滝先生。お二人の間に強い信頼関係が築かれていたことを、このチラシから知ることができます。

チラシの「『映画の夕』この映画会は有料ですが、収益金のうちで必要経費を差し引き、純益金は原・水爆被害者救済義金、社会福祉のための基金にあて、気の毒な人たちにわづかながらもつくしたいと考えております。この収支報告は必ず行います。」という文章からも伺うことができます。

純益金がいくらあったのかは知ることができませんが、料金は『大人40円児童10円』となっています。

このチラシは、「平和をどうして作るのか」が、多くの字数を使って書かれていますので、全文を知らせたいとの思いが出てきますが、あまりにも長文ですので、残念ながら全文を紹介することができませんが、自らが鉄筆をもって書かれたと思われる加納莞蕾の強い思いが、伝わってくる文章です。

当時の布部村は、3,250人の住民が住む村だったようですが、加納莞蕾さんの熱い思いと理想が村民にどのように理解されたのか、興味が膨らみます。

加納加世子さんが持参された資料の中には「布部村平和五宣言」ごとに「なぜこの宣言をするのか」が詳細に書かれたものもあります。「原・水爆禁止宣言」の解説は、特に全文を紹介したい内容ですが、「森滝市郎先生と加納莞蕾」のシリーズもずいぶん長くなってしまいましたので、また別の機会に譲ることとし、今回はこれで終わりとします。

いのちとうとし

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2023年9月13日 (水)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その2

ガリ版印刷の内容豊富なチラシですが、日記に記載されていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」が映画の題名だということがわかります。

チラシによれば、11月2日の夜は、午後8時から『映画の夕』が開催され、そこで4本の映画が上映されています。「生きていてよかった」と「中国の曲芸」は、そのうちの2本です。

チラシに書かれた映画紹介は、大変興味深いものですので、原文のまま掲載します。

中国のサーカス 初めて公開された中国映画!健康で明るい中国のサーカス!大人も子供も面白く見られる映画。北京映画製作所作品」

生きていてよかった 公開以来全国民の感動をまき起こした。原爆被害者の実相を描く長編記録映画。原爆娘の悲痛な叫び。第一部 死ぬことは苦しい 第二部 生きることも苦しい 第三部 でも生きていてよかった 製作・原水爆禁止日本協議会 作品・日本ドキュメント・フィルム社 徳川夢声氏評―心の底から感動した。私にできることならこの映画を持って説明役をつとめながら世界中の人達にこの悲劇を訴えて歩きたい。」

黄金のりんご チェコスロバキア国立映画製作所作品 楽しい××マンガ映画!一つのりんごをめぐってかもしだす可愛い動物たちの物語」

月の輪古墳 古墳の発掘・それは失われた私たちの歴史の発掘であり、光と希望の発掘であった。村中の人たちが、一つにかたまって協力する素晴らしい記録映画」

4本のこの映画には、主催者の強い思いがこもっているように感じます。

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「生きていてよかった」は、1956年7月6日に公開されたばかりの映画です。小さな文字で読めないと思いますが、チラシの本文で次のように紹介されています。

「原爆被害の記録を綴ったもので、ー死ぬことは苦しいー生きることも苦しいーでも生きていてよかった.と、被害の傷手を受けながらも雄々しくも強く生き世界の人々にうったえるほんとうに清らかに強い人間性のすがたをあらわしたものです。この映画から正しい認識と人間性を読み取っていただきたく、みなさんの知性にうったえたいと思います。」

この映画の紹介に「徳川夢声氏評」が記載されていますが、評の内容はもちろん素晴らしいものですが、あえて徳川夢声氏評が使用されたのは、徳川夢声さんが島根県の益田市生まれだからではないかと勝手に想像しています。

「中国のサーカス」と「黄金のりんご」は、外国映画です。この時期、村の映画祭で外国映画が上映されることは珍しいことではないかと思います。しかも2本とも戦後新しく誕生した社会主義の国で製作された映画です。当時、布施村は「平和五宣言」だけでなく「世界連邦平和村宣言」も行っていたようです(チラシに記載)ので、4本の映画のうち2本も外国映画が、上映されたと思われます。「黄金のりんご」は、マンガ映画ですので、子どもたちも楽しめるようにとの思いが感じとられます。

「月の輪古墳」が選ばれた理由と思われることが、チラシの最初に書かれています。「平和な民主的な国・村をつくるには一人一人の文化××が高められ、すべての人々が、まごころから心を合わせ、よく結合してよい社会よい村を作ろうと努力する強い向上心から生まれるのでありまして、明日を信じて希望をもつことが大切であります。」

チラシの下部に記載された日程には「11月4日 研修会 午前10:00より午後2:00 村をたてるにはどうすればよいか総合研究」とあります。森滝先生の日記に「村つくり懇話会」と記載されているものですが、加納莞蕾さんが、「新しい村づくり」に力を入れておられたことが、想像できます。

今回は、「映画の夕」について、考察したのですが、チラシには森滝先生の布施村訪問についてさらに興味深いことが書かれています。明日さらに続けて考察したいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月12日 (火)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編

93日の「森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき」の最後に、次のように書きました。「後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です」と。

8日の午後、森滝家で「森滝春子さんと加納加世子さん夫妻」の対面が実現しました。「再会」と書きましたが、私の勘違いで、今回が初めての出会いでした。

春子さんは森滝先生の思いを、加納加世子さんは加納莞蕾さんの思いをそれぞれ受け継いで活動する二人の出会い(加納加世子さんの表現)です。

翌日に加納加世子さんから届いてメールには次のように書かれていました。

「父莞蕾の考えていたこと、その行動の確かめができました。尊敬する森滝先生とも信頼関係を確かに持っていたことを知り、うれしい限りでした。春子さんのお体のことも心配でご無理があっては・・・と、思っていましたのになんとも長い時間お邪魔をしてしまいました。たくさんのお話ができ、当時の確かめもでき、よかったです。」

私も同席させていただいたのですが、本当に貴重な時間でした。

私は、二人が会われる予定時刻の少し前に森滝家を訪れました。それは、1956年11月3日の布部村訪問のことが、森滝先生の日記にどう書かれているか確かめたかったからです。

きちんと書かれています。布部村訪問に関わる部分の日記の写しです。

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11月1日(木) 布部行き支度。

2日(金) 安子とともに島根県布部村へ。中国山脈越えのところ紅葉美し。三成駅下車。氏出迎え。バス。そろばん、砂鉄。布部村市場に夕方つく。歓迎茶話会。夜「生きていてよかった」「中国の曲芸」

3日(土) 安子は松江へ。布部村平和五宣言宣言式。午後記念講演。夜座談会。村の有志と懇談晩さん。

4日(日) 午前役場階上で「村つくり懇談会」昼食には、加納氏及び足立議長と。村を辞し、大山に向ふ。富田城趾の山。清水寺。夕方、大山寺部落、山の家に泊まる。

   5日(月) 安子と大山頂上(1715米)にのぼる。壮大な紅葉。夕方米子市で安子と夕食。レストラン白菊で。夜ちどりにのる。

日記によれば、布部村の滞在は、3日間ですが、毎日精力的に活動されたことがうかがえます。

加納加世子さんが、森滝家に到着され春子さんとのあいさつが終わったところで、「布部村への訪問、森滝先生の日記にきちんと書かれていますよ」と日記をお見せしました。

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森滝日記を前にして

その時の思いを加納加世子さんは「最初森瀧市郎先生のあの日記にであえたことは、感激でした。」とメールに記されていました。

この日記を見るなり、加納加世子さんが、たくさんの沢山の資料の中から少し茶色くなったガリ版刷りのチラシを取り出されました。そのチラシには、「文化の日に村民に贈る布部村平和宣言記念の講演討議と映画の夕べ」とタイトルが付けられ、この3日間の意義と11月2日から4日にかけての日程が記されています。森滝先生の日記には、このチラシに書かれた日程通りの行動が記されていますので、加納さんが感激されるのも納得です。

森滝先生の日記に書かれていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」の意味もこのチラシを見れば、よく理解できるので紹介したいのですが、少し長くなりますので、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2023年9月 3日 (日)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき

2回にわたって「森滝市郎先生と加納莞蕾さんの出会い」について考察してきましたが、今日が最後です。

昨日、森滝先生と加納莞蕾さんの最初の出会いは、「1955年の原水爆禁止世界大会だった」と思われることを検証してきました。

今日は、加納莞蕾さんの原水爆禁止世界大会への参加が、その後の活動にどんな形で引き継がれたのかを考えます。

8月29日の「安来加納美術館と加納莞蕾(かんらい): 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で、「布部村平和五宣言」について触れ、その内容を後日紹介することを約束しましたが、ようやくその順番が回ってきました。

「布部村平和五宣言」は、次の五項目です。

  • 自治宣言
  • 国際親善宣言
  • 世界連邦平和宣言
  • 原・水爆禁止宣言
  • 世界児童宣言制定促進宣言

4を除く各宣言は、加納莞蕾さんが続けた「フィリピンの戦犯釈放」運動の延長線上にあり、特に「5,世界児童宣言制定促進宣言」には、平和のモラルを確立するために子どもの権利を確立することが大切だという強い思いが込められています。

私が注目するのは、「4,原・水爆禁止宣言」です。この「布部村平和五宣言」は、1956年に制定され、その年の11月3日に「平和宣言式」が行われ、その式に森滝先生が参加されたことを紹介しました。

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そこで紹介した写真を拡大してよく見ると「宣言」は、1956年8月3日に布部村議会が決議したとあります。8月6日を意識して決議がされたと思うのは私の考えすぎでしょうか。4項目目に「原・水爆禁止宣言」があることを考えれば、86日の前のこの日を選んで決議されたと考えても不思議はないと思います。もう一つ考えられるのは、ちょうど3ヶ月後に当たる11月3日の「憲法公布の日」に「平和宣言式」を行いたいという思いがあったのではということです。

いずれにしても、この「布部村平和五宣言」に「原・水爆禁止宣言」が入れられたのは、加納莞蕾さんが1955年の「原水爆禁止世界大会」に参加されたことと深いつながりがあったことは、間違いないでしょう。

安来加納美術館に掲示された「布部村平和五宣言」の説明文には、「平和宣言式に、周りの多くの自治体からの祝詞、また全国的に子どもを守ろうとする団体、原水爆禁止協議会からの祝詞も来ています。」と書かれていますので、その代表として森滝先生が「平和宣言式」に招かれたようです。

ここにも森滝先生と加納莞蕾さんの強いつながりを感じますが、加納加世子さんからは、更にそれを証明する貴重な資料を見せていただきました。

アフリカのガーナから届いた森滝先生からの手紙です。宛名は、「加納辰夫様村民一同様」となっています。

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 手紙の冒頭に次のように書かれています。「出発前には、わざわざ歓送会に御出くださり、心からの激励を賜り誠にありがとうございました。」

そして最後のところで「昨日で会議がすんだので、いよいよこれからランバレネにシュヴァイツァー博士を訪れていきます。」と書かれ、日付は「六月二九日朝」と記載されています。

この手紙は、1962年ガーナのアクラで開催された「爆弾のない世界」会議に出席された森滝先生が、全ての会議が終わり、いよいよシュヴァイツァー博士を訪ねる旅に出かけられる朝に書かれた手紙です。

この手紙からさらに二人の繋がりの深さを知ることができます。ガーナへの出発前の歓送会に加納莞蕾さんが、島根の布部村から遠い道のりをいとわず、参加されたことです。当時の交通事情を考えると、島根から広島に出てくるには相当の時間がかかったと思われます。そしてそのことに対し、他に何通の手紙を書かれたかわかりませんが、森滝先生が、遠いガーナの地から加納莞蕾さんと村民の皆さんにお礼の手紙を書かれたことです。最初の出会い(私が考える)から7年後のことですから、この間にも深い交流が重ねられたことが想像できます。

「四國五郎展」を見るために訪れた安来加納美術館でしたが、加納加世子さんと出会うことができ、そしてそのご厚意で森滝先生の新たな足跡を知ることができました。

感謝です。

後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です。

ずいぶんと長くなった安来加納美術館訪問記もようやく終わりを迎えました。

いのちとうとし

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2023年9月 2日 (土)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづき

森滝先生と加納莞蕾さんの出会いのつづきです。

「加納辰夫 広島へのメッセージ」の冒頭には、次のように書かれています。

「昭和30.8.6~8 広島市で開かれた原・水爆禁止世界大会に於いて、私はこの問題をアピールした。」

この問題とは、「世界児童憲章」のことですが、これについては後でもう少し詳しく紹介しますが、ここで重要なことは「原・水爆禁止世界大会に於いて、アピールした」との記述です。

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ご承知のように森滝先生は、この「原・水爆禁止世界大会」では、地元広島の事務局長として大会の準備に追われ、大会成功の重要な役割を担われました。当然のことですが、大会運営にも深く関わられたことは、間違いありません。

ですから、加納莞蕾さんが、大会でアピール(どの場で行われたかは定かではないが)をしようと思われれば、事務局長であった森滝先生が、その判断に関わられたと考えても不思議はありません。

加納莞蕾さんが一参加者として「原・水爆禁止世界大会」に参加されたのであれば、この大会の場で森滝先生と加納莞蕾さんの出会いがあったかどうかは、はっきりしないのですが、どの場であれ、加納莞蕾さんは大会でアピールされたのですから、「どんな内容のアピールか」などを、森滝先生を含めた事務局で検討され、その時加納莞蕾さんを知ることになったと考えるのは当然のことです。

これらのことから、私は、森滝先生と加納莞蕾さんが、1955年の「原・水爆禁止世界大会」で会われたと結論づけました。森滝先生の日記は、8月4日以降空白となっています(中国新聞社編「ヒロシマ四十年森滝日記の証言」より)ので、日記から確認することはできませんが。

次に、アピールされた「加納辰夫 広島へのメッセージ」を理解するため、その一部を資料からの引用し紹介します。

「原水爆禁止のためのいかなるとりきめも、申し合わせも、或は法律も、世界のヒューマニティに支えられなければ何らの効力もない。過去に於いていかなる国際協定も一片の反古と化して戦争防止に何の力もなかったことを省みれば自ずから明らかである。平和は次の時代に期待すべく、それは児童に期待せねばならぬ。児童憲章の任務はここにある。(中略)されば、児童憲章が真に権威をもつには“過去の厳しい反省と懺悔”そして“世界性の獲得と基礎付け”がなければならず、それはまた“戦争否定“の理念をもたねばならない。これらの反省と自覚を促す動機となるものこそ最も具体的な“比島赦免のモラル“でなくてはならない。そして“児童は最も尊重せられた”実証たる、愛児の名において赦した真意が世界の知性に訴えられ、児童憲章が真に時代を作る平和憲章となることを要求する。かかる理由において原水爆禁止、さらに根源的なる戦争防止と否定のために世界児童憲章の速やかに制定せられることを求めている。」

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日本人戦犯を赦免したエルピディオ・キリノ元大統領(妻や子どもを日本軍によって殺された)と会見する加納莞蕾

この文章の中から、加納莞蕾さんの思想、「児童憲章」と原水禁運動の関わりを学ぶことができると思います。この考え方に、原爆孤児を守るための精神養子運動「広島子どもを守る会」の会長を務めていた森滝先生が強い共感を持たれたことも想像でします。

そして1956年の森滝先生の布部村訪問と布部村未亡人会による「子どもを守る会への義援金」集めにつながったのだと言えます。

後もう一つだけ触れておきたいことがありますので、「森滝市郎先生と加納莞蕾」の「つづきのつづきのつづき」を書きたいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月 1日 (金)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづき

森滝市郎先生と加納莞蕾さん(今回から本文中は「さん」付けにします)のお二人は、何時どこで知り合われたかです。

当時、二人が住んでおられた場所は、広島市と島根県能義郡布部村とずいぶん離れた場所ですので、早くから交流があったとは思えません。間違いなく出会いがあったと思われるのは、1955年8月6日に広島市で開催された原水爆禁止世界大会の会場です。それは、一昨日紹介したアルバムの同じベージの一番下に貼られている写真が説明してくれます。

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写真下の説明文には、「Aug.5.1955 原水禁世界大会広島大会に出発。前田貞明君と 松江駅にて。」と書かれています。2枚同じ松江駅前の写真が貼られていますので、どちらの写真が、前田貞明さんと写ったものかは不明(多分左側の写真と思える)ですが、2枚の写真の左側に写っている人物は同じですので、この方が加納莞蕾さんだということがわかります。

注目して欲しいのは、人物の後ろの垂れ幕です。垂れ幕の全体は写っていませんが、「水爆禁止   界大會 島根代表」の文字が書かれているのがわかります。アルバムの説明文だけでなくこの写真からもはっきりと、1955年8月6日に開催された原水禁世界大会に参加するため、8月5日に松江駅を出発するときに撮られたことがわかります。

ただ、気になるのは「説明文」にある「原水禁世界大会広島大会」という表現です。

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上の写真は、1955年に開催された「原水禁世界大会」の写真です。よく見ていただければわかるように、会場に掲げられた看板には「原水爆禁止世界大会」と書かれているだけです。確かにこの大会は広島で開催されましたが、「とにかく大会を開催しよう」との呼びかけで開催が決まった経緯がありますので、後にこの大会の名称に付けられることになった「第一回」という文言はもちろん「広島大会」という名称も使われていません。

このアルバムは、貼り付けられている順番が、必ずしも年代順ではないことから考えると、後になって写真が整理され、説明文も書かれたため、『広島大会』との記載が加わったと思われます。

少し横道にそれましたが、森滝先生が布部村を訪れたれた写真と加納莞蕾さんが1955年の原水禁世界大会に参加するため松江駅を出発する時撮られた写真が、同じページに貼られていることから、二人の最初の出合いが、原水禁世界大会の場だったと想像して間違いないと思います。

「確かに加納莞蕾さんが、1955年の原水禁世界大会に参加されたことはわかるが、あの大会には、5千人を超える参加者があったと言われているのに、この写真だけを根拠に、二人の出会いがあったと結論づけるのには不十分ではないですか」という疑問がわきます。

その通りです。ところが加納加世子さんは、「二人の出会いがあった」と考えることのできるもう一つの貴重な資料を見せてくださったのです。

その資料、といっても加納莞蕾さん手書きのものではありません。パソコンで打ち替え、A4の紙に印刷されたものです。

タイトルは「加納辰夫 広島へのメッセージ」で、その下に「(昭和30年(1955年)8月6日 第1回原水爆禁止世界大会(広島)における「世界児童憲章」の提案より)と付記されています。

この文章を読むと、間違いなく二人の出会いが原水禁世界大会の場であったことが、はっきりします。それとともに前回紹介した「布部村の未亡人会(原文のまま)から送られた『原爆孤児救援義金』」が、なぜ布部村で集められたのかも理解することができます。

ここまでで、またまた長くなってしまいましたので「加納辰夫 広島へのメッセージ」の紹介は次回にします。

いのちとうとし

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2023年8月30日 (水)

森滝市郎先生と加納莞蕾

四國五郎展を見終えての場面にもどります。

別の部屋から出てこられた女性は、美術館の名誉館長加納加世子さんでした。加納さんは、開口一番「森滝春子さんの体調はどうでしょうか。体調が悪いと聞いていましたので、電話をかけるのを遠慮していたのですが」との問いかけられました。。一週間ほど前にあったばかりでしたので、私が知っている限りの森滝さんの今の様子と、私と森滝市郎先生と関わりについて話しをしました。

「時間があれば、もう少し詳しい話を聞かせていただけませんか」とのことでしたので、同じ敷地内にあるレストランに場所を移して、つづきを話すことになりました。

レストランに入ると「ちょっと待っていてください」と席を離れ、しばらくするとアルバムのようなものを手にして、戻ってこられました。

「四國五郎展で展示された絵本『おこりじぞう』の作者の名前に山口勇子と書かれているのを見て、どこかで見た名前だなと思い、資料を探していたら、見つかったのです。」と言って見せていただいたのが、加納莞蕾宛ての森滝先生の手紙です。見覚えの文字が並んでします。

Photo_20230829100901

この手紙は、便せん3枚に書かれています。内容の本題は、布部村の未亡人会(原文のまま)から送られた「原爆孤児救援義金」に対するお礼です。日付は、封筒、手紙には「二月二三日」としか書かれていませんが、手紙の最後に「只今三月一日(ビキニ三周年)原水爆実験阻止広島集会を準備しています」と書かれていますので、1957年に書かれたものだということがわかります。この手紙の文中に、当時「子どもを守る会」の事務局長だった山口勇子さんの名前が、2カ所で書かれていますので、そのことを思い出した加納加世子さんが、資料を探し見つけ出されたようです。ここでも不思議な縁を感じます。

加納加世子さんの話は続きます。「森滝先生は、一度この布部に来られたことがあるのですよ」と言われて開かれたのがアルバムです。「ここを見てください」と示されたページには、小さな写真がびっしりと貼られていました。「村長在職中のスナップ」と書かれています。

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1ページ全体を写し忘れ、必要だなと思った部分のみ写しましたので、2枚になってしまいました。

このページの上部に、森滝先生が布部村を訪れられたときの写真が並んでいます。一番左上の写真には「村長在職当時のスナップ集」とタイトルが付けられ、それぞれの写真にキャプショが書かれています。この写真には、次のように書かれています。

Photo_20230829101001

写真上部に「nov2 森滝先生を迎えて 布部● 議長足立正一、森滝氏令嬢、森滝市郎教授、加納」、そして写真下部には「november3.1956(昭36) 平和宣言式挙行 森瀧市郎広大教授を迎える」と。森滝先生の同行された「令嬢」は、長女の安子さんだと思われます。

昨日のブログを思い出して欲しいのですが、加納莞蕾が、布部村村長となって「布部村平和五宣言」を制定したのは、1956年です。森滝先生は、その「平和宣言式」に招待され、布部村を訪れられたのです。

アルバムには、その日(11月3日)役場の階上で森滝先生を囲んでの座談会が行われた様子の写真もあります。

Photo_20230829101002

話された内容は不明ですが、森滝先生が笑顔で話されているのが印象的です。これが縁となって、手紙にある布部村未亡人会からの「原爆孤児救援義金」につながったことが想像できます。

実は最初に紹介した手紙のはじめの部分には次のように書かれています。「第一に貴兄が村長を辞職なさったとのこと、全く寝耳に水でびっくりして了ひました。なによりも残念でならないのは、昨秋の平和宣言式で新たに雄々しく出発した貴村の平和への歩みが阻まれてはということです。しかし、又考えてみれば、貴兄が蒔かれた種子が、そんなに容易にふみにじられて了ふやうなことはないと信ぜられます。めざめた村民がもう一度ねむらされるということはあり得ないからです」

お二人の間の揺るぎない信頼を感じます.そこで知りたくなったのは、お二人は何時どこで知り合われたかです。そのヒントになる写真が、アルバムの同じページにありました。

つづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年8月29日 (火)

安来加納美術館と加納莞蕾(かんらい)

安来加納美術館での不思議な出会いを紹介する前に、この美術館の設立趣旨をまず紹介したいと思います。そのことが、後の話に繋がると思うからです。

美術館ホームページからの引用です。

「当館は、平成8年(1996年)11月1日安来市広瀬町布部(ふべ)(旧広瀬町)に開館しました。

設立は、故加納溥基により郷里の文化発展を願って、文化活動や生涯学習の拠点となるよう願って設立されてものです。

設立の動機は溥基の父であり画家であった加納辰夫(雅号 莞蕾(かんらい))の作品を収蔵したいとの思いと、戦後莞蕾がフィリピン日本人戦犯助命嘆願活動を起こし、6代フィリピン大統領エルピディオ・キリノ大統領ほかに送った300通に及ぶ嘆願書の往復書簡の控えを保存したいとの思いからです。また、同時に広瀬出身の芸術家から寄贈された作品を収蔵してほしいとの強い要請を受けてのこともありました。

(中略)

近時、当館の最も大事な使命として、戦後加納莞蕾がフィリピン日本人戦犯釈放運動から得た大きな教訓『許し難きを許す』というキリノ大統領の平和への思いを、当館の活動指針として設定して事業運営をいたしております。恒久平和を希求する美術館として邁進していきたいと思っております。」

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ここで注目していただきたいのは「近時」以下の下線を付した部分です。

同じホームページに記載されている「加納莞蕾」についての記載から、その経緯をもう少し詳しく紹介します。

美術を学んだ加納莞蕾は、島根で教職に就いていましたが、1937年画家として生きていくことを決意し、朝鮮に渡ります。そして1938年11月従軍画家を命じられ、中国山西省に行き部隊とともに移動します。1940年その任を解かれ朝鮮の京城にもどり、師団各部隊作戦記録画を作成するとともに京城工業高等学校の講師を務め終戦を迎え、1945年9月家族とともに帰郷しました。

帰郷直後の布部村(当時は独立した村だった)で、フィリピン特攻隊司令官であった元海軍少将の古瀬貴季(たけすえ)と出合い、その古瀬は「戦争は過ちであった」「未来ある青年を死に追いやった私の罪は大きい」と加納に語ります。しかし、古瀬は間もなく戦犯として戦争裁判のためフィリピンのマニラに行きます。古瀬は、その後フィリピンのマニラ軍事法廷で「死刑判決」を受けましが、自らの責任と向き合う古瀬の態度を知った加納莞蕾は、フィリピンに助命嘆願をすることになります。

1949年3月末からフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領に「戦犯赦免こそが平和の確立につながる」という考え方にもとづく38通の英文の助命嘆願書を送ります。そして、1953年7月6日、エルピディオ・キリノ大統領は、日本人戦犯の赦免を発表します。赦免された戦犯105人(すでに死刑になった17柱の遺骨とともに)は、1953年7月15日に帰国しました。

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美術館入り口左側に建立された碑

その後も加納莞蕾は、「キリノ大統領が日本人戦犯を赦免したことは、われわれは大統領から大きな課題を与えられたのだ」と言い続け、「戦犯の赦免は『平和へのスタート』であり、大統領の思いに応ずるために、われわれは平和を築かなければならない」と決意し、活動します。

その活動の一つとして、1954年(昭和29年)布部村村長となった加納莞蕾は、1956年に村議会で「布部村平和五宣言」を制定します。

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少し長くなったので、「布部村平和五宣言」の内容は、明日以降紹介しますが、これを読んでいただければ、安来加納美術館が「恒久平和を希求する美術館」として運営されている理由がわかっていただけると思います。

帰宅後、フィリピンのエルピディオ・キリノ大統領の「戦犯赦免」の話は、ずっと以前に広島市立大学の市民講座で学んだことがあったことを思い出しましたが、その時の話に加納莞蕾のことが触れられたかどうかは、残念ながら全く記憶に残っていません。

明日からの話の背景には、こんな歴史があることを知っておいて欲しいのです。

いのちとうとし

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