「広島ブログ」

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旅行・地域

2022年6月16日 (木)

道路距離表示の不思議

国道54号線は、広島市中区大手町4丁目7番(市役所前交差点)から松江市雑賀町(相生町交差点)までの171.2kmです。ただ、島根県松江市宍道町の宍道交差点から東は、国道9号線と重複していますので、実質延長距離は、154kmです。これらの数字は、国土交通省中国地方整備局国道事務所に電話で問い合わせて教えていただいたことです。

国道事務所に電話をしたのはちょっとしたきっかけがあったからです。

国道54号線の起点となっている市役所前交差点の北西角のJAビルの前の歩道上で、こんな道路距離表示を目にしました。

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この黄色の道路距離表示の上段の小さな数字が、キロを表し、真ん中の大きな数字は、100メートルを表しています。

気になるのは、上段の「-1」です。スタート地点を表す距離表示のはずなのに、なぜかマイナスの距離表示になっています。

気になったので、電車通りをずっと北上して100メートルごとに設置された距離表示板を探していきました。少し行くと上段のマイナスの数字は、1から0に代わりましたが、依然として「―」の表示が付いたままです。

マイナス0.3キロの表示から、表示板の形がスマートな形に変わりました。

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一番上に国道54号線を示すマークが表示され、地名も書かれています。上段の数字の右横にキロを示すKの文字が書かれています。

マイナス表示の最後の一枚です。

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シャレオの地下街を通り抜けてそごう前に出ました。

バスセンターの降車場からの下りエスカレターの出口でようやく「ー」表示のない距表示示板に出会います。

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国道事務所に電話で問い合わせたのは、「なぜ、『-』距離表示板があるのか?」でした。

その答えは、次のとおりです。

「54号線が一級国道となった昭和40年(1965ねん)頃の起点は、紙屋町の交差点だったので、ここが起点となって距離表示されていました。昭和43年(1968年)に市役所前交差点まで延長されたのですが、ここを起点にした距離表示にすると、全部の距離表示板を作り変えなければならないので、紙屋町から市役所前交差点までは、マイナス表示で距離を示すことになりました。」

これで何となく納得です。

ところで市役所前交差点の西南角の歩道にも距離表示板があります。

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これは、国道2号線の距離表示板です。この表示板、よく見るとちょっと面白い表示だということに気づきます。100メートルを表す中段の数字は、1から9までの1桁だけですが、「1.1」と、2桁の表示になっています。その理由は336キロ100メートルの地点が、ちょうど市役所前交差点の真ん中になるため、そこに表示板を取り付けることができませんので、少し西側に移動した場所に設置したため、正確な距離数を表示するため、2桁になったのです。他ではほとんど目にすることのない珍しい表示だと思います。

大阪北区の梅田交差点から北九州市門司区の老松公園前交差点までの国道2号線は、延長672.3kmのようですので、広島市役所前交差点は、ちょうど中間点になります。

調べながら、ちょっと不思議な気持ちになりました。

いのちとうとし

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2022年5月27日 (金)

冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」

新聞報道で紹介され、入手したいと思っていた冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」をようやく手にすることができました。

この冊子は、広島大学と地域が連携し、地域社会が直面する課題の解決や地域の活性化をめざす「地域元気応援プロジェクト」の一環として作成されたものです。表紙を含めて16ページの小冊子ですが、豊富な内容で構成されています。

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よく知られているように丸木位里さんは、丸木俊さんと共同制作した「原爆の図」の作者ですが、現在の広島市安佐北区安佐町飯室(当時は安佐郡飯室村)の出身です。丸木位里さんのことは、「原爆の図」の作者というだけでなく、森瀧市郎先生も同じ年1901年の生れだということが特に印象に残っています。丸木さんは、6月20日生れ、森瀧先生は、4月28日生れです。没年もほぼ同じ、森瀧先生が1994年1月25日、丸木さんは一年長生きで1995年10月19日です。

「丸木位里の足跡を訪ねる」には、飯室地域に残る作品の紹介と共に丸木位里さんにまつわるこの地域の話が紹介されています。

丸木位里さんが、飯室の出身だということは、以前から知っていましたし、飯室の複数のお寺に襖絵などの作品があることも知っていましたが、これまで一度も訪ねたことはりませんでした。

これらのお寺の前を通る国道191号線は、何度も何度も通った道ですが。

この冊子の最初のページには、見開きで「位里さんと故郷のつながりを示す場所」が地図になっています。

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作品リストには、飯室小学校(石碑)、恵比寿神社(門柱)、浄國寺(襖絵)、養専寺(襖絵),正念寺(襖絵)、安佐公民館(額)、安佐区民文化センター(襖絵、額)の名前が並んでいます。これを見ると、何ともこの地に足を運ぶ制作活動をされた丸木位里さんの郷里への強い思いが伝わってきます。

この冊子では、それぞれの作品の紹介とともに、そのゆかりも紹介されていますが、執筆編集者は、広島大学教育学部造形芸術系コース有志ですので、水墨画特有の技術的なことも書かれていますので、現地を訪れるときに持参すれば、良い解説書になると思います。

この中で、私が直接目にしたのは安佐北区民文化センターのふすま絵でだけですので、この冊子を手に、丸木位里さん足跡を訪ねてみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年5月20日 (金)

ベトナムの歴史(その11)

前号から半年

  前号(その10)で1000年に及ぶ中国支配を脱した938年以降もたびたび中国の侵略を受け、独立国として険しい国家建設を強いられたベトナムの歴史を紹介しました。ときは13世紀後半の陳王朝、日本では鎌倉時代、モンゴル帝国が二度にわたって襲来した元寇のあった時代です。同じ頃、ベトナムに侵攻したモンゴル軍は「白藤江の戦い」で陳王朝のチャン・フン・ダオに指揮されたベトナム軍に壊滅的な敗北を受けます。結果、フビライ・ハーンは日本を襲うための艦船と将兵を失い三度目の日本侵攻が不可能になったことから、「日本を救ったチャン・フン・ダオ」と紹介しました。

5ヶ月経た再開ですが、思い出していただけましたでしょうか?

再び始まった中国支配

前号で紹介した1288年の「白藤江(バクダン川)の戦い」でモンゴル軍に勝利しベトナムの独立を守った陳王朝は、その後、朝廷内部の権力闘争で衰退します。一方、長年の敵だった元も衰え、遂に1367年に朱元璋(しゅげんしょう)に滅ぼされ、中国は明朝(13681644年)の時代に入ります。1400年に陳朝が紛争で滅び季犛(ホー・クイ・リ)が胡王朝を起すと、ベトナム併合を意図していた明朝の永楽帝は1406年に陳朝復興を口実に20万もの大軍を派遣し、翌1407年に胡王朝を滅ぼします。

明朝はこの地域を安南(あんなん)と呼び、布政司などの地方官を置いて直接統治を始めます。938年以来、470年ぶりにベトナム北部は再び中国に直接支配され、1427年までの20年間続くことになります。「第4次北属期」と呼ばれている時代です。

その中国支配はどのようなものだったのでしょうか。小倉貞男著『物語ヴェトナムの歴史』から紹介しましょう。「明が支配した地域はまるで兵営になったような感じ」、「きびしい明の命令・指示ルート」ができ「そむく者は徹底的に弾圧」、「水田、桑田の土地税、人頭税などの租税を重くした」うえに「塩田をつくり塩税を徴収」、「塩の専売・独占を行った」。「16歳から60歳まですべての者が軍役に服し、賦役に駆り出され民衆は苦しんだ」。「収穫されたものはすべて明本国に送られた」と、厳しい支配体制のもと徹底した搾取と収奪が行われてたことが覗えます。また、「ベトナム人の民族服を着用することを禁じ、すべて中国風の衣服、髪型を強要」、「熟練した手工業職人、知識人数千人を明に連行」、「ヴェトナムの本はすべて焼くか、本国へ送った」・・・・など、「北俗に従わしむ」と「ヴェトナムのあらゆる文化を破壊することを狙った」と書かれています。

レ・ロイ黎利)とグエン・チャイ(

しかし、30年間に3回もモンゴル軍の侵攻を跳ね返した経験と気概、独立国家建設への思いはことのほか強く、明の暴政をもってしても人々の怒りと抵抗の炎を抑えることはできません。

1416年、レ・ロイ(黎利)と18人の同志がタインホア省ランソンで、「明の支配を打ち破る血盟の誓い」を立て、1418年に蜂起します。指導者・レ・ロイは官僚でも貴族でもない31歳の地方の土豪です。参謀役は胡王朝の監察官だったグエン・チャイ(阮廌)38歳。彼は明の侵攻で逮捕・監禁され、釈放後の10年間は各地をさまよい、明の圧政に苦しむ民衆を見てきた人です。

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タインホア省に立つレ・ロイ像

10年間にわたる長い戦いを経た1427年に明軍の守るハノイを総攻撃し打ち破ります。そして1428年の和議で明は直接統治から撤退、レ・ロイ(黎利)はハノイで即位して都の名をトンキン(東京)と改め、黎朝(前期:14281527年、後期:15321789年)をたて、国号を大越とします。中国明朝はレ・ロイを安南国王に封じるという形式を取り、朝貢貿易を続けることを条件に、実質的な独立を認めたのです。

ベトナムの歴史の大部分はこうした中国封建王朝との戦いであり、撃退したレ・ロイは民族にとって大英雄なのです。ハノイの観光スポットに「ホアンキエム湖(湖還劍)」という湖があります。漢字読みの通り「剣を還した湖」という意味で、明軍の支配を破り独立を回復させたレ・ロイが神様から授かった「神剣」を使いの大亀に還した湖と伝えられています。1968年には体重250kgの大亀が発見され、「民話と現実をつなぐ巨大亀」として剥製が湖上の玉山祠(ぎょくさんじ)に展示されています。是非、一度訪れてみてください。

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1968年、湖で捕獲された伝説の巨大亀のはく製

最もベトナムで愛されているグエン・チャイ

 「レ・ロイはベトナム史上で最も輝いている英雄の一人ですが、彼と手を携えて戦ったグエン・チャイは、戦略家、思想家、詩人、外交家、歴史学者、地理学者、音楽学者・・・・多彩という以上に、あらゆる分野に精通する傑出した人物で、最もベトナム人から愛されている人間である。」と小倉貞男さんは書いています。

 次号でこの抗明闘争の歴史的意義、そしてグエン・チャイの辿った生涯について紹介します。

(2022年5月20日、あかたつ)

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2022年5月17日 (火)

復帰50年5・15沖縄平和行進

5月13日(金)~15日(日)の3日間、「復帰50年5・15沖縄平和行進」が3年ぶりに開催され、広島県から14名、全国から1000人を超える人が参加しました。

 初日の13日は「5・15沖縄平和行進全国結団式」が那覇文化芸術劇場なはーとで行われました。主催者を代表して仲宗根哲共同代表より「コロナ禍で3年ぶりに平和行進の開催となりました。復帰50年の節目の年に是非とも平和行進を実施したいとの思いで慎重に検討した結果、感染拡大防止を図る観点から行進規模を大幅に縮小しての開催としました。」「復帰しても何も変わらない基地の島沖縄の現状がある。復帰50年の思いをはせながら沖縄の問題を全国の問題と共有して行動していただきたい。」とあいさつされました。続いて、藤本泰成さん(平和・人権・環境フォーラム代表)より「この間、沖縄ではアメリカ軍により市民が特に子どもや女性の尊厳がないがしろにされてきました。復帰50年を契機にして引き続き基地も戦争もない世界の実現に向けて取り組みを進めましょう」と連帯のあいさつがありました。

 基調講演は、「復帰50年と平和運動の課題」と題して前泊博盛沖縄国際大学教授より「沖縄返還50年を迎え、今後は周年が忘れられ、今年50年が最後になるかもしれない。覚悟をもって半世紀=反省期を検証しなければならない。」と提起された後「復帰運動の変遷、核抜き本土並み・基地のない平和な沖縄など復帰に託した沖縄の願いの現状」など問題提起されました。

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 二日目は、朝から雨天の中、1000人を超える参加者で「5・15沖縄平和行進」を行いました。感染拡大防止のため休憩や昼食を取りやめ、宜野湾市民会館中庭から八重島公園までの約9キロを午前中に行進しました。途中、右翼団体による妨害行為やヘイトスピーチが繰り返されましたが。行進団は整然と当初の目的を達成するため行進しました。

最終日の15日は、「5・15平和とくらしを守る県民大会」が初日と同じ会場の那覇文化芸術劇場なはーとで開催されました。

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決意表明する藤本講治さん

冒頭上原邦夫共同代表が「復帰50年経過した今も国民主権・平和主義・基本的人権の尊重の日本国憲法の三原則がないがしろにされている沖縄。50年前の不退転の思いに立ち返り運動を進めていきましょう」とあいさつ。

 次に連帯あいさつ、玉城デニー沖縄県知事のメッセージ、平和行進団の報告、来賓のあいさつが行われ、その後4県(北海道・東京・長崎・広島)及び学者の5人より「沖縄と全国を結ぶ決意表明」が行われました。

広島県からは藤本講治憲法を守る広島県民会議事務局長が「基地もない・核もない・戦争もない平和な社会に向けて沖縄と連携して取り組みを進めます」そして「ネバーギブアップ」と力強く発信しました。

 最後に、基地のない、平和な日本、戦争のない世界をつくるため力を尽くすことを誓う大会宣言を全体で確認し、「団結ガンバロー」で終了しました。

 3日間ともあいにくの雨天となりましたが、「観光地沖縄」と同居する基地問題は、復帰50年を迎えても沖縄は今も何も変わらないばかりか「アメとムチ」の国の政策によって沖縄の市民が分断されてきていることを改めて知ると同時に、有事における「基地の島沖縄」について考えさせられました。

「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」の被爆地ヒロシマの思いを沖縄と連帯して核兵器も基地も戦争もない世界に向けて取り組んで行きます。

高橋克浩

【編集後記】沖縄復帰50周年平和行進の報告を平和運動センター事務局長の高橋克浩さんから寄せていただきました。

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2022年5月 9日 (月)

連休最終日の平和公園

ゴールデンウイークに最終日となった昨日(と言っても5日までしか連休が無かった人も多いと思いますが)、「今日の人出は❓」と平和公園を訪れました。平和公園の資料館前に着いたのは、午前10時半過ぎでしたが、人影はまばらです。

連休の初日29日、人と会うため午後2時過ぎ平和公園を訪れたのですが、その時は雨が降っていたため、人の姿はほとんど見ることがありませんでした。しかし、レストハウスでの話し合いを終えて外に出た午後4時過ぎには、資料館東館入口は、資料館の真ん中ほどまで伸びた人の列があり、連休が始まったのだと実感しました。

昨日は、受付前にも、全く行列はできておらず、ちょっと拍子抜けの感がしました。

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すぐに入館が可能でしたので、東館1階企画展示室で開催されている企画展「原爆と医療」(ここは自由に入ることができる)を観ることにしました。

入場券売り場の人に訊ねると「6日までは、コロナ禍以前のような多くの人が入館されました」とのことでしたので、私が見た29日の風景より多くの人の行列が6日までは続いていたようです。

企画展は、戦時下の広島の医療状況と救護活動、原爆投下により壊滅的打撃を受けた医療現場、市内の医師の91%が罹災し全く予定された救護活動ができなかったこと、それでも懸命な救護活動が行われたこと、直後の様々な調査活動の様子などが、貴重な資料や写真と共に展示されています。この企画展は、9月12日まで開催されています。

一回り終えて出口で目に付いたのが、デジタル掲示板です。

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15秒前後で表示内容が変わりますが、その一枚に「被爆遺構展示館」の紹介がありました。何時から始まったのかはわかりあせんが、このフロアーには、2か所あります。何とか連携するようになったなとちょっと安心しました。

資料館を出ると「被爆遺構展示館」に行きました。入り口には、初めて目にする立て看板があります。

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入口で消毒し、中に入りましたが、入館者はいません。しかし、私が館内にいた10分ほどの間に、2組3人の入館者がありました。

私の関心事は、「ここをどれだけの人が訪れたのだろう」ということですので、館内の案内をする人に入館状況を訊ねました。毎日の入館者をカウントしメモが取られているようですので、お願いしその資料を見せていただきました。資料があった5月1日から7日までの合計が、2,804人ですので、1日平均約400人です。この期間中、資料館を訪れた人はずいぶん多かったと思いますので、まだまだここを訪れる人は少ないなというのが実感です。

ちなみに昨日は、私が訪れた時までの入館者は、26人でした。

入館者を増やすための工夫がもっともっと必要だということを改めて感じました。

「被爆遺構展示館」を出て、慰霊碑前に移動しました。

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ここでも人影はまばらで、落ち着いた雰囲気でした。

連休最終日の昨日は、修学旅行生の姿もなく、ゆっくりと資料館を見学し平和公園の散策ができるいつもの風景を取り戻していました。

原爆ドーム方面には行かずに、ここで帰宅しました。

いのちとうとし

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2022年5月 7日 (土)

奇妙なゲートの向き―フラワーフェステバル

第45回フラワーフェステバルのメインの行事は、5日で終了しました。今年も、コロナ対策で、従来とは大きく様変わりした内容になったようです。

その企画の一つとして、平和大通りの白神社前から中央通りまでの北側の緑地帯に色とりどりの花やオブジェで彩った「フラワーロード」と銘うった散策コースが作られています。

この「フラワーロード」の東西の入り口には、それを示すゲートが設けられています。

「奇妙なゲートの向き」というのは、そのフラワーロードの西側の入り口(白神社前)に設けられたゲートのことです。

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少し遠めですが、よく見るとゲートの西側の一番上には、何も書かれていません。

東側に廻り、NHKビル方面を見ると、アーチの上部に「フラワーロード」と書かれています。の

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連休前に、このゲートを取り付ける作業をしている時から、なんか変だなと思いながら眺めていましたが、本番までには、向きがきちんとするだろうと思っていました。

しかし、本番に入ってもそのままです。

ゲートのすぐ東側にあるANAホテル前の愛宕池にも花のオブジェが置かれていますので、フラワーロードは、ここからスタートすることは間違いありません。

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東側の出発点となる中央通り側のゲートはどうなっているだろうと見に行きました。

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こちらは、間違いなく入口となる東側に「フラワーロード」と書かれているのがはっきりと見えます。ゲートの後ろ側には、展示物も見えていますので、このゲートがフラワーロードの入り口であることを示しています。

やはり、西側のゲートは、どう見ても反対向きに立っているとしか思えません。

何故こんなことが起こったのか?ちょっと不思議な光景です。

フラワーフェステバル実行委員会のホームページによれば、このフラワーロードは、2日から15日まで実施されることになっていますが、今もそのままです。

「不思議」というより、なぜこんなことになってしまったのだろう?どうして直さないのだろう?とつい余計な心配をする光景です。

いのちとうとし

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2022年5月 6日 (金)

「中国新聞創刊之地」碑

昨日5月5日は、明治25(1892)年に創刊された中国新聞が130周年の節目を迎えた日でした。

昨日の中国新聞は、本紙だけでなく、8面で構成された別刷りの特別号でその歴史を紹介しています。その中で、私が気になったのは別刷り1面に掲載されていた「明治31(1898)年、『中國』大手町本社時代の社員」とキャプションが付された写真です。それはよく見ると明治31(1898)年当時の「中國新聞社」と看板がかかった社屋をバックにして並ぶ社員が映った写真です。

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中国新聞の前身である「中國」と題された日刊紙が創刊されて5年後の写真ですから、創刊時と同じ場所だと思います。このキャプションで一番関心を持ったのは「大手町本社」の文字です。

このキャプションを読みながら「そうだったのか」と思い出したことがあります。

わが家からバスセンター方面に行くとき通る県民文化センター前の通りの中区大手町2丁目にある「タイムズレンタカー大手町」の敷地に「中国新聞創刊之地」碑があり、いつも不思議に思いながら通り過ぎていました。

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私の記憶の中には、中国新聞社と言えば、被爆した現在の中区胡町(現在の三越広島店)に建っている社屋のイメージしかなかったからです。

今日の新聞でようやく謎が解けました。最初に中国新聞社の社屋があったのは、この大手町だったのです。社屋の前の通りは、江戸時代以来の当時のメイン通りでした。社屋があったと場所だと私がずっと思っていた中区胡町に移転したのは、1926年5月19日のようです。この年は、大正から昭和に元号が変わった年です。この年の12月25日に元号が昭和に開眼されていますので、中国新聞の社屋移転は、大正時代に行われたことになります。

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改めてこの碑を見ると「明治二十五年五月五日 中国新聞創刊之地」と130年前の昨日の日付が刻まれています。裏側を見ても、これ以外の文字は刻まれていませんので、いつ設置されたかは不明です。「中國」から「中国新聞」に紙名が変わったのは、5000号を機に1908(明治41)年6月21日からだそうです。
明治25年(1892年)は、日清戦争が開始された明治27年(1894年)のわずか2年前のことです。軍都廣島の発展と共に中国新聞も発行部数を伸ばしたことが想像されますが、被爆地の新聞社となった戦後は、被爆者問題や反核・平和のために大きな役割を果たしています。

時々、頭をかしげたくなる記事を目にすることもありますが、中国新聞が、これからも被爆地広島の新聞としての役割を果たし続けてほしいと願っています。

いのちとうとし

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2022年4月29日 (金)

「大社基地」跡保存運動―つづき

戦後陸上自衛隊の訓練場として使った後、遊休地となった「旧大社基地跡」(約9万平方メートル)は、国の機関である中国財務局が管理していましたが、2003年から売却が始まり、滑走路の一部は太陽光発電などの用地となっていました。

昨年2月には、残っていた西側2万7200平方メートルが、出雲市の民間企業に売却されました。

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中国新聞記事より

この売却が報道された後、昨日紹介した「出雲市による調査と保存」を求める運動が具体的に始まったのです。市民団体だけでなく、日本考古学会も「遺跡保存は学術上きわめて重要な内容を有する」として、国や県に調査や保存を求める要望を提出しています。

中国新聞の昨年5月の記事によれば、当時出雲市の文化財課は、「平和学習など戦争を後世に引き継ぐため貴重な遺跡」とした上で、「民間企業が土地を取得している。保存について市がどう対応するか結論が出ていない」としていました。

しかし、出雲市は今年2月に「史跡指定はしない」との結論を出し、島根県もその方針を追認しました。

島根県や出雲市が、一定の結論を出すことに異論はないのですが、問題は、この結論を出すまでの経過です。市民団体などから寄せられた情報では、県、市とも「旧大社基地」跡の十分な学術的調査を行った形跡がないのです。もともと市民団体や日本考古学会が求めていたのは、「保存」だけではありません。その前提となる「調査」をきちんと行うことを求めていたのです。

この経過を検証していくと、昨年広島市で問題となった「サッカースタジアム予定地の発掘調査」を思い出さずにはいられません。広島市も専門家などの意見を聴くことなく「重大な価値はない」とし、取り壊し(一部の切り取り保存のみで)を進めてしまいました。

「きちんとした調査も行わずに自らに都合のよい結論を導き出す」姿勢はあまりにも似すぎていると感じるのは私だけでしょうか。

第2次世界大戦時の戦争遺跡が、文化財として指定されるようになったのは、よく知られているように原爆ドームの世界遺産登録運動の結果です。

「原爆ドームの世界遺産登録」の大きな障害となっていたのは、当時の国の文化財指定基準です。その基準では、文化財指定できるのは「概ね100年を経過したもの」とされており、原爆投下から50年しかたっていなかった原爆ドームは、文化財指定基準を満たしていなかったのです。ちなみに当時、経過年数が一番新しい文化財は、松江市の小泉八雲旧居でした。

しかし、「原爆ドームの世界遺産登録」を求める160万を超える市民の署名が力となり、文化財指定基準に新たに「戦跡」を加えることによって世界遺産登録実現への道(登録を申請する国がきちんと法的に保護していることが必要条件)を開いたのです。と同時に、そのことは、第2次世界大戦の戦争遺跡を文化財指定する道も開いたことになります。

この文化財指定基準の改正によって「戦争遺跡」が、文化財として認められることになったのですが、実際に文化財に指定されたのは、ごくわずかだといわれています。その原因の一つが、「ここの戦争遺跡」をどう評価するのかの基準が、残念ながら定まっていいないからです。

文化財指定基準の改正から、すでに27年が経過しています。戦争が終わって77年を迎えようとしています。それは「戦争遺跡」も77年以上の歴史を刻んだことになります。

すでに多くの「戦争遺跡」が、きちんとした調査もされないまま、壊れ、無くなっています。

広島市のサッカースタジアム予定地の「旧陸軍輜重隊跡」の遺構もそうですが、破壊されてからでは遅すぎます。「戦争遺跡」をどう評価するのか、早く一定の結論を出す時期に来ているのではないでしょうか。

不幸な歴史の生き証人としての「戦争遺跡」の保存は絶対に必要なことだからです。

いのちとうとし

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2022年4月28日 (木)

「大社基地」跡保存運動

島根では、今月17日の「気象学者益田善信さんの戦争体験: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した「旧海軍大社基地跡」(以下「旧大社基地」)の保存を求める運動が、行われています。

私が最初に「旧大社基地」の保存を求める運動のことを知ったのは、昨年5月10日の中国新聞の記事です。記事にはこう書かれています。「地元の歴史研究者たちが4月、市に調査と保存を求めて『大社基地の明日を考える会』を発足した」

ちょうどこの時期広島でも、このブログで何度も紹介しましたが、「サッカースタジアム予定地」から同じ戦争遺構である旧陸軍の「輜重隊跡」が発掘され、市民から「保存」を求める運動が起こっていましたので、この記事をより興味深く読みました。

と同時に、「旧大社基地」は、私には忘れられない思い出がありました。

今月17日のブログでは、「小学6年生の時社会見学で訪れたことがあり」と簡単にふれましたが、もう少し詳しく紹介したいと思います。

小学校最後の夏休み(1960年)を利用して、担任の岸先生という若い先生に連れられて同級生10人ぐらいと自転車で、古墳巡りをしました。私にとって、忘れることのできない小学生時代の貴重な思い出の一つです。

旧出雲市内の古墳を数カ所巡った後、珍しい前方後円墳を見学するため旧斐川村立荘原小学校に行く、途中で訪れたのが「旧大社基地」でした。現在は合併され出雲市となっていますが、当時は簸川郡斐川村直江地区にありましたので、「直江の飛行場跡」と呼ばれており、「旧大社基地」という名前は、全く記憶にありません。私が通っていた出雲市立高松小学校は、この「旧大社基地」から直線で西に約7.5キロメートルの距離にあります。

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中国新聞より

 「飛行場跡」と紹介したように飛行場としては使用されていませんでしたが、たまたま私たちが訪れたその日は、自衛隊機が飛来し、市民に紹介するデモンストレーションが行われていました。

私のアルバムにその時の様子を写した写真2枚が、残っています。

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上の写真の左側に4人ほどの半ズボン、ランニングシャツ姿の子どもが映っていますが、これが私たちだと思います。

当時、飛行機をまじかに見ることなど全くありませんでしたから、ただただびっくりして見学したことを覚えています。余談ですが、「大社基地を考える会」の事務局にこの写真を送ったところ、「初めて見る貴重な写真です」と言われました。

当時、カメラは非常に貴重なものでしたが、引率していただいた岸先生は、何かあると自前のカメラを持参して、私たちを写してくださいましたので、この貴重な写真が残っています。

「旧大社基地」は、戦争末期突貫工事でつくられた飛行場ですが、中国新聞の記事によれば「コンクリート舗装の幅約60メートル、長さ1500メートルの滑走路」の規模で建設されました。

戦後「旧大社基地」は、1950年(昭和25年)6月から始まった朝鮮戦争では、米軍が駐留していた美保基地(米子市)の前進基地として整備され、1953年(昭和28年)まで使われたという記録が残っているようですから、私が訪れた時は、まだ十分に飛行場として使える状態だったようですので、デモンストレーションの飛行が行われていたのだと思います。

「旧大社基地」の思い出が少々長くなってしまいました。主題は「保存を求める運動」がどうなっているかです。その紹介は、明日にしたいと思います。

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2022年4月17日 (日)

気象学者益田善信さんの戦争体験

独自の調査によって広島原爆後の「黒い雨」降雨範囲を分析し、黒い雨裁判で原告側住民84被爆者と認められる有力の根拠をとなる「益田雨域」で知られる気象学者益田善信さんの「戦争体験」を知る機会がありました。

二カ月ほど前の2月13日にZOOMで開催された「第5回大社基地講座」でのことでした。

「大社基地」については、機会を改めて詳しく紹介したいと思いますが、島根県出雲市斐川町に敗戦数カ月前の1945年(昭和20年)3月頃から6月にかけ急きょ建設された旧海軍の航空基地のことです。現在市民団体によって保存と有効活用を求める運動が続けられています。

その市民団体が主催して開催されたのが「大社基地講座」です。

「大社基地」については、昨年来中国新聞でも何回か報道されたことがありますので、興味を持っていました。私も小学校6年生の時に社会見学で訪れたことがあり、特別の場所でしたので、この講座を視聴しました。

この講座の最初に、司会者が「今日は、かつて大社基地で働いていた人にも参加していただいています」と紹介がありました。「どんな人だろう」と思っていましたが、講座の途中で紹介されたのが、気象学者の益田善信さんでした。

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実は、ZOOMがつながった時、参加者が映る画面に「益田善信」さんの名前を見つけた時、「なぜ益田さんが?」と思っていましたが、講座の最後の頃に益田さんの話を聞いて納得です。益田さんこそが、大社基地の体験者だったのです。

「1945年6月中旬、米子の美保基地から、気象隊の隊長として大社基地に来ました。初めの一カ月は、基地の気象を調査、発表。7月20日過ぎに宮崎と大分の基地から銀河約50機が大社基地にやって来た。

そして8月6日に7機、7日に6機、8日に6機がこの大社基地から特攻機として飛び立った。1機が飛び立つのに40分以上かかったので、宍道湖の周りを旋回しながら待ち、夕焼けの中を飛んで行った。宮崎の都井岬を過ぎると米軍のグラマンに撃墜され、沖縄までたどり着いたのは、1~2機だったと思う。特攻機が飛んだのは、大社基地が最後ではなかっただろうか」

当時益田さんは、海軍少尉でした。益田さんの話では「銀河の特攻」が強調されていますが、確かに無事に帰還した銀河は少なかったようですが、銀河の役割は、雷撃の通常攻撃だったと思われ、「特攻」ではなかったと思われます。

益田さんの「黒い雨雨域」の講演は何度も聞いたことがありますが、まさか出雲という場所でつながっているとは思いませんでした。

1923年(大正12年)生まれの益田さんは、98歳の高齢ですが、きちんとしたお話には、びっくりしました。

この体験が、「科学者は二度と戦争には協力しない」というその後の益田さんの活動の原動力になったといわれています。

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