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2023年2月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その42)ベトナム象、広島を歩く-6

4月8日、海田宿を出発したベトナム象は、穏やかな日和に恵まれ瀬野川沿いの西国街道を桜を愛でながら東へと進んだことでしょう。「出迎え松」を過ぎた辺りから山手に入り、延々と続く上り坂に入りますが、まだまだ何のことはありません。西国街道は瀬野駅手前を右折、2号線を超え東に向かいます。安芸区一貫田の一里塚を通り、再び2号線を超え、龍禅寺辺りから2号線の左山手を東に向かいます。

海田宿と西条四日市宿との間に位置する一貫田には、俳人の種田山頭火の歌碑が残されるなど、間宿(あいだじゅく)として賑わっていました。

西国街道随一の難所、大山峠

一貫田から瀬野川の北側山手を八本松に向けて上ります。かつてドライブイン前にSL「D51」が鎮座していた辺りを過ぎしばらくして瀬野川を南に渡りさらに上って行きます。下の地図はその辺りを示したもので、「旧山陽道(西国街道)のルート情報」(「Google Earth」)に筆者が手を加えました。

D51は瀬野川公園の一角に据えられています。

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大山峠は安芸郡と賀茂郡の境にある標高337m、麓からの比高は約250mと険しい難所です。次㌻の「瀬野川史跡案内図」には、3月に開通予定の東広島・安芸バイパス上に「瀬野馬子唄発祥地」と「代官おろし跡」と書かれています。

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「代官おろし跡」は余りにも急な坂のため代官様も籠を降り、付き人に後ろから押してもらってようやく峠を越えるたとのことです。籠を降りた場所と伝えられている辺りに安芸ライオンズクラブが建てた碑があります。

瀬野馬子唄は、この急な坂を一石5斗(約225kg)の米を背に振り分けた馬を曳きながら、「瀬野の三里とエー、大山の峠とヨー、大須なわてがなけにゃエー。瀬野の馬さはエー、金つき馬でヨー、夜になってもせいをだす」と唄ったということです。当時の馬は金つき馬と呼ばれる去勢されていない馬で、大変扱いが難しかったそうです。いずれの碑も西日本豪雨災害で壊れたため新たに作られています。

ところで、重さが3㌧を超え背丈5尺7寸(約173cm)だったと伝えられるベトナム象、とても象のお尻を押すことはできません。ベトナム象はどのようにして大山峠を登り切ったのでしょう。・・・・

大山峠を襲った5年前の「西日本豪雨災害」

昨年12月1日、東広島郷土史研究会の「石造物研究会」のメンバー4名で大山峠を探索しました。リーダーの船越さんがベトナム象を追っている私のために特別に企画してくださいました。下の写真4枚はそのときに撮影したものです。

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痕跡を辿ることができないほど崩壊した大山峠(瀬野側)の様子。砂防ダムの工事が進んでいました。

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新たに付けられた道路の右辺りに西国街道があった(?)

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2018年の西日本水害で流失し新たに建てられた碑

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安芸区と賀茂郡の境に建てられた碑

西国街道(旧山陽道)が現在どのようになっているかが分かる写真が下の2枚です。前述の「旧山陽道(西国街道)のルート情報」の「Google Earth」から引用しました。

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写真の中央を横に走っているオレンジ色が西国街道(旧山陽道)です。上の写真の右上部分に巨大な砂防ダムが築かれています。下の写真のオレンジは砂防ダムから西条四日市宿に向かって延びている西国街道で、右隅には八本松西で工事が進んでいる東広島・矢野バイパスが写っています。

(2023年2月6日、あかたつ)

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2023年2月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その41)ベトナム象、広島を歩く-5

小春日和、広島城下を発つ

4月7日、朝5つ半時(午前9時)小春日和の広島城下を発ったベトナム象は、その日の宿である海田宿までの4里足らずの途に就きました。本川橋、元安橋を渡り広島城の天守を左に見ながら東に向かい、堀川町辺りを北に折れ、鉄砲町を東にとり、京橋と猿猴橋を渡り船越峠へと向かったと思われます。峠をくだると船越4丁目に残る常夜燈辺りからは緩やかな街道が海田宿まで続きます。

ルートは現在の府中町から瀬野川に続く県道とほぼ同じと考えてください。ご存知の方も多いと思いますが、車の離合にも難渋する道幅です。

象が泊まった場所が海田宿のどこであったのか記録が残されているのかも知れませんが分かりません。海田宿の要職を務める千葉家だったのか、脇本陣として使われていたと伝えられる庄屋の猫田新太郎宅だったのか・・・。この日は船越峠を越えるだけの比較的楽な15km余りの道程でした。しかし、楽あれば苦もあります。翌日とんでもない難行程、「西国街道最大の難所」と呼ばれた大山峠が待ち受けていることを象は知る由もありません。

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この日、広島っ子は “象を見た・・・・・・”

「交趾国より送られた象広島を通過、藩主吉長これを見る」(「吉長公御代記」)とあるように、ときの広島藩主・浅野吉長公も前日、城下の堺町内(現在の広島市中区堺町)まで出かけて象を見学するほどの珍獣です。この日の広島っ子はどうだったのでしょう。以前にも紹介した岡山藩の古文書を読み解いた岡山大学の資料を見てみましょう。この古文書は岡山藩が将軍様の像を粗相なく無事に領内を通過させるため、広島藩の様子を下調べした藩士が藩庁に提出した報告文書です。

象が驚き暴れるので、「通り筋家家簾(のれん)を釣り、或いは戸口を閉め家内人集まり候体見え申さぬように御触れの由」と、外に出ての見物は禁止です。「拠無(よんどころな)き用事につき往来仕らず候て叶わぬ儀これあるとも、通り筋を除け、外道を通り申すべき由、御家中、町方、郡方とも御触れ候由」と、よんどころない場合にも通りを避け脇道を通るようにお触れを出しなさいと念の入れようです。そうした結果、「広島街並み見物の者簾の内に静かに居り申し候、たばこの煙、またそのほか煙出し申さぬように御座候」という状況だったようです、

さらに、下をご覧ください。

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白囲みでは「蟻、鼠、牛馬、犬、猫嫌い申し候やの事、広島御城下前日より繋ぎ申し候、尤も、小鳥等迄外へのけ申し候」と報告され、他の箇所では「犬猫も繋ぎ候事、広島の通り御当地も申し付くべく候」と、岡山藩でも広島のように申し付けることを具申されています。

この様にとても広島っ子は珍獣を見物できるような状況ではなく、犬も猫も、牛馬も、鳥も・・・・大迷惑なことだったことでしょう。迷惑では済まされないお触れも出されています。「広島にては、寺寺の鐘、太鼓、鉄砲等、そのほか音高き事は差し止めなされ候由、御当地も此の通り仰せつけられ然るべく存じ奉り候」と、象をびっくりさせるような音は一切禁止です。時を告げる鐘だけでなく火事などの危急の時に打ち鳴らす早鐘も駄目、趣味の音曲だけでなく鍛冶屋も作事の大工仕事や槌音も禁止です。

象が無事通過するまでの間は、見物はもちろん外に出ても駄目、音の出る仕事も禁止。随分のフラストレーションだったことでしょう。でも、同時に、遠く異郷の地を健気に歩く象に誰もが言い知れないシンパシーを感じたのではないでしょうか。そんな広島っ子の思いが記された文書がどこかに残っていないのか、関心が募ります。きっと、それはどこかにあると思います。

 いずれにしても、ベトナム象は海田宿につきました。次号(その42)では西国街道随一の難所、大山峠を越えを思い描いてみたいと思います。

(2023年2月5日、あかたつ)

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2023年1月16日 (月)

もうひとつの「8.6」を知っていますか

「もうひとつの『8.6』を知っていますか」は、「ひと・まちプラザ」1階ロビー展示コーナーで14日から始まり、23日まで開催されている写真展のタイトルです。

チラシの「8.6」の文字を見た時、最初は「沖縄の被爆者の問題かな」と思ったのですが、「沖縄伊江島 米軍輸送船爆発事件」のタイトルが大きく書かれていますので、広島の原爆投下とは全く関係ないことに気づきました。

事件は、沖縄の伊江島で1948年8月6日の17時28分に起こった米軍弾薬輸送船LCT積載の爆弾125トンが爆発した事故のことです。死者107名、重軽症者70名を出した戦後最大の米軍事故です。LCTとは、戦車揚陸艦(Landing Craft Tamk)で、戦闘時の上陸用舟艇で複数の戦車輸送に用いられた軍用艇の一種ですが、歩兵団、弾薬輸送などの輸送にも多く使われています。

この事件は、米軍が、沖縄戦時の不発弾や未使用爆弾を船に積み込み、島外に運び出す作業をしていた際に、荷崩れを起こし弾薬が爆発したという事故ですが、夕方5時過ぎに起きたため、ちょうどその時間帯に地元の連絡船が入港して波止場が出迎えなど多くの人でごった返していたこともあり、死者107人のうち伊江村民63人、沖縄本島島民31人、米軍関係者13人と、多数の民間人が巻き込まれ犠牲になりました。

チラシによれば、大事故であったにもかかわらず、報道はたった7行で済まされ、関係資料は60年後に初めて公開されたそうです。

写真展は、1948年8月6日に起こった最大の爆発事件の詳細を広島に伝えるため当時の様子を伝える約40枚の写真などが掲示されています。

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この写真展の主催者、「広島と沖縄をむすぶドゥシグヮー」ですが、「伊江島米軍LCT爆発事件8.6の会」(以下「8.6の会」)の共催によって実現したものです。共催団体の「伊8.6の会」は、「なぜ彼らは甚大な被害を受けなければならなかったのかを時を超えて問い続け、この悲惨な事故を記録に残し、未来永劫に語り継がれるよう」にと2016年に結成された組織です。その後体験者などからの聞き取り調査を行い、2021年には、記録誌「伊江島の記憶と記録 時を超えて伝えよう 伊江島米軍爆弾輸送船LCT爆発事件」を発刊しています。

写真展2日目の昨日(15日)午後1時から5時までの日程で「あの日の記憶をもとに:8月6日を語る」と題したお話とシンポジウムが開催されました。

このシンポジウムには、伊江島から「8.6の会」の会員が来広されていましたので、ぜひ参加したかったのですが、午後2時からどうしても参加しなければならない別の行事があったため、残念ながら参加できませんでした。「8.6の会」事務局長の長嶺福信さんは、写真展会期中、会場で解説をされるそうですので、きちんと時間をとって話を聞きたいと思っています。

伊江島と聞けば、沖縄戦での激しい戦闘、そして住民の集団自決の歴史を思い起こすのですが、戦後にこんな悲惨な事件があったことを今回初めて知りました。

写真展は、午前9時30分から午後10時まで(最終日の23日は午後5時まで)開催され、長嶺福信さんの解説は、午前10時から午後5時までの時間帯です。

遅い時間まで開催されていますので、「もうひとつの『8.6』」を知るために、ぜひ行ってみてほしいと思います。ただ今日16日は、休館日ですので注意してください。

いのちとうとし

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2023年1月 6日 (金)

ヒロシマとベトナム(その40-2)ベトナム象、広島を歩く-5

古文書が紐解いてくれたベトナム象、広島の宿

下の写真は、「享保14年酉4月6日 象止宿之刻御附廻り御衆中 宿々賄料之帖」という、象の運送に携わった人たちの宿泊料に関する広島藩の文書で、前述の県立文書館「インターネット版古文書講座」で使われたテキストです。

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上下・久枝家で発見された文書

下の囲みは約300年前の帳面の4枚のうちの1枚の一部分です。中嶋庄右衛門という人と家来の夜食と朝夕の3回の賄い料、計銀2匁7分。但し御切手1通これあり、と書かれています。

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長崎奉行所が各藩に出した「御触」には、「旅籠料理一汁三菜、酒三遍、肴一種、上下これ無く、代1匁」とありますが、実際には身分の違いで料理の内容が違っています。身分の上下による賄方の「忖度」なのでしょうか。、郷土料理が振る舞われたのでしょうが「一汁三菜」のメニューは何だったのでしょう? 関心が湧きます。

同テキストには、続いて「・・・文章が残されたのは、宛所となっている城下広瀬組大町年寄り(注1)芥川屋に残されたものと考えられるが、これが見つかったのは、山県郡北広島町大朝の郷土史家の久枝秀夫氏(故人)宅の襖の裏張りからである。広島城下芥川屋に伝わった帳面が襖の下張の材料としていつの日か山県地方まで流れていたわけである。」と紹介しています。

北広島町で見つかった貴重な資料

それにしても、広島城下から大朝町の久枝家に“いつ頃”、“どのような経緯”でたどり着いたのでしょう。“なぜ襖の裏張り”に使われ、“どのような経過で発見された”のでしょうか。もしも、そのまま広島城下の芥川屋に残っていたなら原爆で焼かれ、私たちが目にすることは出来なかったかも知れません。そう思うと、大朝までどのようにして運ばれ、どのように発見されたのか・・・・と、関心は一層募ります。

同じように、数奇な運命をたどり、原爆や戦禍を免れ発見されるのを待っている古文書が、今もどこかに眠っているかも知れません。開発や世代交代、歴史や文化に対する認識の変化などに伴い、大切な歴史的な遺産が人知れず急速に失われていると思うと居たたまれません。

遺跡や史跡、伝統文化や古文書は国民的財産です。意図的に歴史を歪曲したり、歴史を紡ぐ営みの記録を消し去ったり改竄することは許されない犯罪行為です。一方、無意識のうちに連綿と続いてきた貴重な歴史的財産が失われていくことも、未来への大きな損失です。

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ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王と法皇の言葉が刻まれた平和記念資料館の石碑 (NHK NEWSWEBより)

「歴史とは、過去と現在との間の尽きることのない対話」(E.H.カー)、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」(ヴァイツゼッカー)、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うこと」(ヨハネ・パウロ二世)・・・・。賢人たちが異口同音に「歴史との対話が大切」と語っています。

次号では広島から西条四日市宿までの旅を追って見たいと思います。

(注1)城下広瀬組大町年寄り:広島城下の町家は町組と新開組に分かれ、1677年には69の町組がありました。西から広瀬組・中島組・白神組・中通組・新町組が河川に囲まれ5つの組があった。その一つ、広瀬組の下にあったのが象の泊まった堺町2丁目。町年寄りとは、町奉行所のもとで町政を司る町役人の筆頭に位置する。

(2023年1月6日、あかたつ)

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2023年1月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その40-1)ベトナム象、広島を歩く-4

広島城下にベトナム象が “きたゾー”

一国一城令(注1)に先立って消えた亀居城跡を背に玖波宿(現大竹市玖波)をいつものように4月6日の朝五つ時頃発った(であろう)ベトナム象は、その日の夕刻、芸州広島藩の城下に入ります。岡山藩に残された古文書「象御領内通候一件」の中には、「象広島へ去る6日の晩七つ時(午後4時)前着、7日の朝五つ半時(午前9時)出足」と記されています。

身近な地ですので、象が歩いたであろうルートを紹介します。玖波宿(本陣)→残念社→妹尾の滝→千人塚→十郎原→津和野岐→佐伯郡役所跡→廿日市宿(本陣)→桜尾城跡(廿日市)→塩釜神社(佐伯区)→草津→源左衛門橋(広島市西区)→天満宮→広島宿です。これらの地には、それぞれに謂われ(歴史)が刻まれています。関心のある方は調べてみてください。

『廣島市史』に「四月六日、交趾国(注2)より貢せる象一頭、将軍の召により、長崎より江戸に赴く、途中広島を通過し、是日堺町二町目馬頭(注3)助兵衛の後庭に次す、藩主吉長(注4)、同町沢村屋に臨み之を観る」と記されています。

広島県立文書館が2016年に開講した「インターネット版古文書講座」(第6回)資料にも、「象は4月6日に広島城下に到着した。その宿所は、広瀬組堺町二丁目(現広島市中区堺 町一丁目)あたりの馬継場(注5)の後庭があてられ、隣家の芥川屋との境の塀をくりぬいて小屋を作り(注6)泊まらせた。」と紹介されています。

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西国街道~広島宿(より)

上の地図は江戸時代初期の「広島城城下町古地図」で、中央を東西に走っているのが西国街道です。象が泊まったのは本川橋西詰から天満橋東詰の辺りの堺町にあった広島西宿近くだったと思われます。この辺りに馬継場(伝馬駅)、馬頭の助兵衛宅、芥川屋、沢村屋などが軒を連ねていたのでしょう。

(注1)一国一城令:大名が住む城以外の、領国にあるすべての城を取り壊すように幕府が命じたもの。以降、原則として大名の領国には城は1つだけになった。大名が大きな軍事力を持つことを防ぐために大坂夏の陣の直後(1615年)に出された法令。

(注2)交趾国:古くはベトナム北部地域を指していたが、16世紀以降中部地域を含め交趾と呼ぶようになり、象が送られた当時は北部(ハノイ)から中部(ホイアン)にかけて交趾国と呼ばれた。

(注3)馬頭:宿場毎に伝馬の常備が義務づけられ、その手配・差配をしたのが人馬方とか馬頭、人馬役と呼ばれた。

(注4)浅野吉長:1681~1752年)、安芸国広島藩の第5代藩主。現在の修道中学校・修道高等学校の楚となる「講学所」を開く。

(注5)馬継場:駅で馬を交換したり休憩させ物資や人や情報を運ぶシステムを駅継とか伝馬制と呼んだ。江戸時代になると、公用に限らず宿継の荷駄馬を広く「伝馬」と通称。西条四日市宿では15匹の馬の常備が義務づけられていた。

(注6)象小屋:長崎奉行所が各藩に出した「御触書」では次の様に指示されている。

「泊宿にて象を繋ぎ候場所は、二匹立ての厩中仕切りを取り除け、土間を平らにいたし、右土間の内片脇に寄せ、長さ1丈(3.3m)ほどの5寸(15cm)角を縦に半分埋め、半分出し置き、その角木に象を繋ぎ申す事に候、尤も、厩これ無き泊まりは随分丈夫に構え、広さ6畳」「象小屋高さ8尺(2m40cm)余、入3間(5.5m)ほど、横2間半(4.5m)ほど」「小屋に風入り申さぬように仰せ付けられ然るべき由」「象度々小便つかまつり候故、溜まり申さぬようにとの埒に御座候、小屋の内藁を2尺ばかり敷き宜しき由」

2023年元旦、満71歳になりました。あらためて「温故知新」、引き続き学びの旅を続けたいと思います。

本年もよろしくお願い致します。

(2023年1月5日、あかたつ)

【編集者】今回も今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2022年12月29日 (木)

酒蔵通り

久しぶりに青空がくっきりと見えた12月最後の日曜日、ある学習会に参加するため東広島に行きました。

会場は、西条駅から徒歩で20分ほどの場所です。会場まで徒歩ですので、久しぶりに酒蔵通りを通っていくことにしました。酒蔵通りは、駅前の最初の横道です。入り口はちょっと小さめですので、見逃しそうです。

少し進むと、右手に造り酒屋の建物の長い白壁が続きます。

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この建物の切れたところに賀茂鶴酒造の仕込み水「福神井戸」があります。だれでも自由に水をくむことができます。

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説明板には「水質は素材の繊細な味を引き出し、緑茶・紅茶・、炊飯、料理全般に適しています」と書かれています。

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いつもここで、この水を飲むことにしていましたので、この日も一口飲みたかったのですが、自宅で使おうと3人ほど水くみに来ておられましたので、遠慮してその場を離れました。

すぐ左手に、旧西国街道の陣屋跡の立派な門が建っています。

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さらに進むと、賀茂鶴酒造の別の醸造用建物が続きます。

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二本の赤い煙突が、青空に映えています。

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酒蔵とは違う西洋風のこの建物には、「賀茂鶴酒造株式会社本店」の看板がかかっていました。玄関の軒下には、杉玉がありましたが茶色でしたので、また新酒はできていないのでしょう。

西洋風の建物右隣に、醸造所の広場があり、右奥の醸造所で使われたと思われる道具が、乾されているのが目に入りましたので、一枚写真撮りました。

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少し歩くと、亀齢酒造の酒蔵の一部が見えるところがありました。

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酒米が入った袋が何袋かありましたが、奥まで見ることはできません。

福美人酒造の前を通り少し歩くと、右側の建物の軒に「鏝絵」がありました。

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この道は何度も通ったことがありますが、「鏝絵」に気づいたのは初めてです。五穀の神様大黒さんは、米俵の上に座り、商売の神様恵比寿さんは、右手に釣り竿、左手に大きな鯛を持っています。五穀豊穣、商売繁盛を願った鏝絵です。

真っ青な青空ですので、白さが際立っています。

短い時間でしたが、前日までの寒波が収まり、思いがけない散策となりました。

いのちとうとし

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2022年12月28日 (水)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その4

今日は、弾薬庫跡の紹介です。以前からここに弾薬庫の遺構が残っていることは知っていましたが、現地を訪れたのは今回が初めてです。

弾薬庫跡といっても、弾薬庫そのものの遺構はもちろん残っていません。弾薬庫跡を偲ばせるものは、周囲にめぐらされた土塁です。

広大医学部の東側を通る南北に貫く道路の東側・中国管区警察学校の西側境界に当時の土塁の一部が残っています。

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中国管区警察学校の入り口から南に約100m続いています。

土塁の傾斜は急ですが、どういう目的で使用されたのかは不明ですが、所々に煉瓦でつくられた石段が刻まれています。

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この石段をよく見ると、石垣のところで終わっています。現在の土塁は、下側が石垣になっていますが、石垣の高さは私の背丈(180cm)より高いので、当時の土塁は、もっと手前まで延びていたことが想像できます。道路をつくるときに、石垣の部分から道路側に延びていた斜面が削られたため、削り取った垂直部分が、石垣になったのです。土塁の高さは、私の目測ですが、約5m以上あると思います。

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土塁の一番南側まで行くと、コンクリートの壁がありますが、切り口を見ることができ、土塁が頑丈に作られていたことがわかります。

ところで段原公民館の講座で、藤野先生から「弾薬庫は、最初広島城を中心とした陸軍の敷地内に作られたが、広島陸軍兵器支廠が作られると同時に、この場所に移設された。終戦が近くなった時期に、米軍の空襲から逃れるため、東広島の八本松に移設された」ことが紹介されました。藤野先生の話では、それぞれ移転した年を紹介していただいたのですが、メモを取り忘れてしまいました。

私は、藤野先生が「八本松に移設された」と聞いた時、その場所は、八本松に今もある「川上弾薬庫」だと勝手に思っていましたので、メモを取り忘れた移設の年を調べようと「川上弾薬庫」の歴史を調べました。そこで私はとんでもない間違いをしていたことに気づきました。現在は米軍が所有している「川上弾薬庫」は、もともと海軍の弾薬庫として作られたものですから、ここに陸軍の弾薬庫が移されることは絶対にありえなかったはずです。

それでは、「八本松に移設された弾薬庫はどこに移設されたのか?」が気になります。さらにネットで調べてみると、米軍空中写真を用いた広島陸軍兵器補給廠八本松分廠の調査と活用方法の提案 - 広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)が見つかりました。

詳しくはこの論文を読んで欲しいのですが、ここに記載された内容によれば、八本松駅から東南に2.1kmほど離れた丘陵地に陸軍の弾薬庫跡が、見つかっているのです。戦時中は、八本松駅から引込線が延びていたことも紹介されていますので、この場所で間違いありません。ようやく疑問が解けましたので、少し暖かくなったら、東広島のあかたつさんと一緒に、この場所を訪ねることを約束しました。

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワークの後に訪ねた場所があります。

それは、霞町に弾薬庫が移る以前の弾薬庫があった基町です。その場所は、現在広島地方・高等裁判所が建っている場所です。

その敷地の北側に、当時の弾薬庫の周りに作られていたと思われる土塁の一部が残っています。

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以前は、手前の空き地部分に住宅が建っていましたが、この住宅が壊され整地されていましたので、今回はこれだけはっきりと残った土塁を見ることはできませんでした。手前のフェンスが約2mですので、ここの土塁の高さも約2mぐらいです。

真ん中に写っている大きな木が、被爆クスノキです。この木も以前は、こんなにきちんと写すことはできませんでしたので、これだけでもここに来たかいがありました。

この報告で、「旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク」は終わりです。

いのちとうとし

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2022年11月21日 (月)

ベトナムの歴史(その17-1) 抗仏闘争-2つづき

市井の医師、浅羽佐喜太郎の支援

厳しいフランスの植民地支配によりベトナム有志からの資金援助が途切れ、日本政府の弾圧が加わり困窮の極に立たされたチャウは、かつて行き倒れのベトナム留学生を助けたことがあるという帝大出の開業医・浅羽佐喜太郎にすがり窮状を訴えます。

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浅羽佐喜太郎肖像写真(静岡県袋井市出身)

「まことに少額ですが、家中かき集めて支度しました。これが有り金の全てです。当座のものに使ってください。また今後必要があれば、遠慮なく仰ってください。できるだけの用立てはするつもりです」と書かれた手紙とともに、1,700円(現在の4,700万円相当)もの大金が浅羽から届けられます。

チャウは浅羽の好意にむせび泣いたと伝えられています。

来日から4年後の19093月、日本の政治家と日本政府に対する深い不信と失望を抱えて日本を離れ、「東遊(トンズー)運動」は失敗に帰します。9年後の1918年、ファン・ボイ・チャウは日本を再訪し、真っ先に浅羽のもと(現在の静岡県袋井市梅山)を訪ねます。ところが浅羽佐喜太郎はチャウが日本を去った翌年、43歳の若さで亡くなっていました。言葉もなく茫然自失のチャウは、村人の協力を得て、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込めた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を建立しました。

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浅羽佐喜太郎公紀念碑前の集合写真。1918年、最前列右から2番目がファン・ボイ・チャウ

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碑に刻まれた碑文

ファン・ボイ・チャウの「東遊(トンズー)運動」は失敗しますが、ホー・チ・ミンが指導するベトミン(ベトナム独立同盟)によるフランスの植民地支配を断ち切る第4期へとつながって行きます。

次号では1940年から1945年の日本敗戦までの日本軍進駐期のベトナムを見て行きたいと思います。

(2022年11月21日、あかたつ)

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2022年11月20日 (日)

ベトナムの歴史(その17) 抗仏闘争-2

20世紀初頭の抗仏闘争を牽引したファン・ボイ・チャウ

前号でベトナムの封建制度を支えてきた阮(グエン)王朝の人臣たちによる19世紀半ばから19世紀末の第1期、第2期「抗仏闘争」(攘夷勤王運動)を見てきました。今号では第3期に入った20世紀初頭の「抗仏闘争」を見てゆきたいと思います。

先ず挙げられるのがファン・ボイ・チャウの「東遊(トンズー)運動」です。チャウはベトナム中部(アンナン)に加え南西部(コーチシナ)全域がフランスの植民地支配に入った1867年、ベトナム中北部のゲアン省で儒学者の家に生まれます。日本では大政奉還により1603年以来、260年余続いた幕藩体制が崩壊した年です。

そのチャウが組織したのがベトナムの若者を日本に留学させる「東遊(トンズー)運動」で、20世紀初頭の抗仏闘争を全国的かつ広範な人々による民族運動へと導きました。しかし、チャウの「東遊(トンズー)運動」は成功せず、フランス官憲に逮捕されフエでの長い軟禁生活の後、1940年に亡くなりました。

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フエのチャンティエン橋のたもとに佇むファン・ボイ・チャウの石像

「東遊(トンズー)運動」 なぜ日本に?  そして、その日本は

ところでチャウは、なぜ日本に若者を留学させたのでしょう。そのことを理解するために、当時の日本を含むアジアの状況を見てみましょう。

アヘン戦争や仏越戦争でイギリス、フランスによるアジアの植民地化が進むなか、日本は明治維新による西欧近代化と富国強兵を進めます。清国(中国)は朝鮮半島の利権確保を狙い、露西亜は清国と朝鮮半島を狙うという、まさにアジアは帝国主義的争いのるつぼでした。日本は1894年、アジアの大国・清国と朝鮮半島の利権を争う日清戦争に勝利し、台湾と遼東半島を割譲支配します。続いて1904年、日本は日露戦争でバルチック艦隊と旅順守備隊を破ります。

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列強による中国分割を風刺した漫画(左よりドイツ皇帝(ヴェイヘルム2世)、フランス大統領(ルーベ)、露西亜皇帝(ニコライ2世)、日本の天皇(明治天皇)、アメリカ大統領(ルーズヴェルト)、イギリス国王(エドワード7世)

こうした一連の出来事はフランス植民地支配と闘うベトナムの人々に、「東洋の小国ジャポンが大露西亜帝国を破った」という驚きと、「日本を倣へ」という気運を募らせます。チャウもフランスと覇権を争っているイギリスと同盟関係にあり、軍事・政治・経済の近代化を進める日本で学び、「新しい社会を建設するための力を持った青年を育てよう」と考えたのです。

1904年春、チャウは20名ほどの同志とともにベトナム中部・クアンナムに集まり「維新会」を結成します。会主(党首)には阮王朝の皇位継承者の一人であるクォン・デ候(注1)が就きます。チャウとクォン・デ候は来日し、犬養毅や大隈重信などの協力を得ながら、1905年~1908年の間に200余名の留学生を日本で学ばせます。

ところが大きな弾圧の波が襲ってきます。帝国主義的国として台頭しつつあった日本は1907年にフランスと「日仏協約」を締結します。フランスが朝鮮における日本の優越的地位を認めると同時に、フランスのインドシナ支配を日本が認めるという内容です。

フランスは協定に基づきチャウとクァン・デ候、留学生の引き渡しを求めます。日本政府は留学生の引き渡しには応じますが、チャウとクォン・デ候については拒否します。しかし1909年、日本政府は遂にチャウとクァン・デ候に国外追放命令を出します。

 

(2022年11月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた原稿「ベトナムの歴史(その17)」を今日明日の2回に分けて掲載します。

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2022年10月25日 (火)

米国、ボーグル原発のこと

 福島原発事故が発生した翌2012年のことです。米国東南部ジョージア州ウェインズボロで建設工事中の、ボーグル原発建設に反対する集会に参加したことがあります。「3・11」1周年に合わせての集会でした。

 ボーグルは、ジョージア州の州都アトランタ市から約250㌔離れた場所ですが、3月11日の朝、市内の集合場所に集まり貸し切りバスに乗って現地まで向かいました。こういう形で集会に参加するやり方は、日本と同じですね。

 ボーグル原発1・2号機は稼働中でしたが、1979年のスリーマイル島原発事故で新規原発の建設はありませんでした。しかし12年2月に米原子力規制委員会(NRC)が建設を許可しました。そして東芝傘下の、米ウエスチングハウス(WH)が受注したのです。

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 僕が原発反対運動に参加することになったのは1978年春、米国の反原発運動と交流したのがキッカケですから、どうしても気になるのです。

 独断的な考えかも知れませんが、バーモント州のヤンキー原発、ニューハンプシャー州のシーブルック原発反対運動にしても米北部に位置しているところでは、強い反対運動が行われ計画を止めることができました。

 しかしボーグルもVCサマーなど、南部に位置しているところは、どちらかといえば貧困な人たちが多く、米の歴史の中では奴隷と呼ばれた人も多かったところです。このボーグル原発の在るところも、綿の栽培が盛んだったところです。

現地で交流した一人のアニー・ローラさんは、以前はこの近郊に自宅を持ち農場で働いていたのですが、原発建設のために立ち退きをさせられました。住んでいた時は、自宅に引かれている電線が切られるという嫌がらせも受けています。

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 2年後の14年にも、ボーグルを訪れました。その時には、新たなクーリングタワーも建てられて、多くの作業員が働いていました。原発周辺には作業員用の住まいとなるキャンピングトレーラー車も停まっていました。

 このボーグル原発3・4号機、当初は16年と17年に稼働すると予測されていました。しかし、現在では23年、24年に延期となっています。費用も2基で当初は140億ドル(1ドル100円として1兆4千億円)となっていましたが、現在は300億ドルとされています。

 その理由は、11年の福島原発事故、17年の元請け業者のウエスチングハウスの倒産、そしてコロナウイルスのパンデミックとされています。こういう状況は日本の場合とよく似ています。

 現地での集会では、「日本の原発を復活させないためにも、ボーグル原発の建設を止めたい」と訴えたのを思い出します。アニー・ローラさんどうしておられるだろうか。何とかしてもう一度逢いたいです。

木原省治

【編集者】木原さんは、東京に行く予定があり、早めにこの原稿を送っていただきました。みなさんが「木原さんの意見を聞きたい」と思っておられる上関町長選挙の結果については、次回に報告していただくことになっています。

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