「広島ブログ」

2025年7月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

旅行・地域

2025年7月 2日 (水)

「あー」

「島根方言集成」で最初に登場することばは「あー」です。意味、わかりますか。

出雲弁がよくわかっていると思っていた、私にもすぐには、意味が思い浮かびません。

「島根方言集成」には次のように書かれています。

あー ①ある。②会う。出雲」

確かに、と納得です。私が使っていたのはこんなふうです。

「そこにあーがね」とは、「そこにあるよ」という意味で、よく言っていたように思います。「あーに行くけんね」とも言っていました。これは②の「会いに行くから」と言うことを伝えるために使っていたことばです。

25721

「島根方言集成」を手にする川上正夫君(山陰中央新報より)

 川上君は、2007年頃から「土地ごとに、消えることなく生きてきた言葉がある。方言は『暮らしの言葉、言葉の民衆芸術』と、方言が失われない」ことを願って準備を進めてきたそうです。

私が、「出雲蕎麦ふなつ」で、この本を紹介されたとき、一番に引いたことばは「はしま」です。

小学生だったころのわが家は、農家が15軒ほどが集まる集落(周囲は全て田んぼ)の離れ家を間借りして住んでいました。農繁期と言われる田植えの頃、秋の米の取り入れの頃には、友達と一緒に手伝いというか農作業中に近くで遊んでいて、「はしま」を一緒に食べさせていただいたことを思い出します。

午後の農作業では、午後3時頃になると短い時間ですが、持参した大きなヤカンの番茶?を飲みながら、重箱いっぱいに入ったむすびや漬物や簡単な煮染めなど食べ、雑談をして休憩をします。

その時休憩しながら食べること「はしま」と呼んでいました。麦ご飯を食べていた私には、白米のむすびが食べられることは、忘れることのできない思い出です。

ですから、「はしま」ということばが載っているか、気になったのです。もちろんありました。次のように説明されています。

「昼食と夕食との間食。出雲。大田市。邑智郡美郷町・川本町・邑南町。江津市・浜田市。」

出雲だけのことばかと思っていましたが、石見地方でも使われていたようです。後で川上君に尋ねると「主に石見で使われていた」と教えてくれました。

書くのが遅くなりました、「島根方言集成」は、出雲地方の方言だけでなく、島根県全域、つまり出雲地方、石見地方、そして隠岐地方で使われていることばを集成していますので、訳の後に必ず、どの地域で使われていたことばかが、きちんと書かれています。

これは大変な作業だったはずです。よくぞまとめたものと、わらためて感心します。

私には、もう一つ気になることばあります。

「ばんじまして」です。このことばを読んで、どんなイメージが浮かびますか。

「ばんじました」は、外での農作業を終え、日が落ちうす暗い時期に頃帰宅途中ですれ違った人たちが交わすあいさつの言葉です。

私の記憶どおり、昼間の「こんにちは」と暗くなってからの「今晩は」との中間的に時間帯で夕闇がせまる頃から暗くなるまでのごく限られた時間帯で使われたことばです。広島には、こんな時間帯で使われるあいさつことばがあるのでしょうか。

こんな微妙な時間帯を使い分ける言葉を持っているのが出雲の人たちです。なんとも言えない思いのこもったことばだと忘れるいことの出来ない懐かしいことばです。

「島根方言集成」を手にして、懐かしい出雲のことばを思い出しながら、小さかった頃の遊び回っていた懐かしい頃を思い出しています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年7月 1日 (火)

「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」

今日は、6月17日の松江に帰りました。: 新・ヒロシマの心を世界にで少し触れた島根の出版社ワンラインが5月30日の発行した「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」の紹介です。

出版を通して出雲の文化的魅力を発進し続けてきた友人の川上正夫君が、久方ぶりに出版したのが「島根方言集成」です。地方で出版活動を続けるのは本当に難しいことです。一度は会社を閉鎖したと聞いていましたので、先日「出雲蕎麦ふなつ」でこの本を紹介されたときには、「エッ、まだがんばっているんだ」とびっくりしました。

しかも、自著(これまでに何冊か発刊していますが)として総頁数946頁にも及ぶ大作(辞書であれば、当然のページ数かも知れませんが)ですのでなおさらです。

収録された方言を紹介する前に、「ふなつ」で手渡されたフリーペーパーをもとに、この本の全体像を簡単に紹介します。

2571

見出し語は、20717語収録されています。そのことばは、方言によって索引するのは当然のことですが、この方言集成がユニークなのは、標準語から方言を探すことが出来るようになっていることです。

方言本文が755頁、標準語索引が149頁です。

このフリーペーパーには、小泉八雲の孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんの推薦のことばがありますので、それを紹介します。

「同書には、自然を畏怖し人や動植物を愛する島根の人々が、古来、語り継いだ言語芸術が満載です。柳田圀男いわく『語源の詮索は本源にこそ必要』で、方言を知ることは自分や日本を知ることだ。八雲一家も、セツを筆頭に、書生さん、お手伝いさんの多くが島根県東部出身で、もちろん家庭内の共通語は出雲弁。セツが語った明治の出雲ことばもきっと本書に収録されているはず。川上さんが心血を注いだ労作を、多くの方が手に取っていただきと願っています。」

私もその通りだと思っています。その地方で育まれた文化、風土を伝えているのが、方言だと言えます。ですから、私は今も、こよなく出雲弁を愛しています。

ところで「島根方言集成」を手にしたとき、私の頭の最初に浮かんだのは、NHK朝ドラの今年後期に予定されている「ばけばけ」です。

この朝来らのモデルこそ、小泉凡さん推薦文に登場する松江藩の没落士族の娘で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻となった小泉セツです。

川上君は、長い間準備してようやく出版にこぎ着けたのですから、まさか出雲弁が登場する朝ドラがこの出版と合わせるように放映されることになるとは、当然想像もしていなかったことと思いますが、天の助けのような朝ドラ「ばけばけ」の放映です。

さて肝心の方言の紹介です。この本を手にしたとき、まず浮かんだのが二つの方言ですが、そのことは明日紹介することにします。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年6月27日 (金)

中国電力株主総会と祝島島民

この時期、各企業はいっせいに株主総会を開催します。一昨日のブログ6月は忙しい月: 新・ヒロシマの心を世界にで、木原省治さんから紹介してくれた「中国電力株主総会」が、昨日(26日)午前10時から中国電力本社で開催されました。

私も毎年、この日行われる本社ビル前の行動に参加していますが、今年も遠く祝島からの「上関原発計画の撤回、中間貯蔵施設の建設反対」の声を株主に届けるためバス1台で来られることを聞いていましたので、9時30分前に中電本社ビル前に行きました。

中電本社ビル前に着くと、例年のように玄関前には脱原発を訴え続けてきた市民グループの姿とマスコミのカメラがありました。

256271

5分ほどすると、祝島の皆さんを乗せた防長バスが到着し、手際よく幟用の竹竿などが下ろされます。

256272

全員が下車し、幟の準備が始まります。

256273 256274

それを横目に見ながら、株主が次々と玄関を入っていきます。どんな思いを持っているのでしょうか。

256275  

株主総会が始まりました。株主総会の様子が、声だけですけれど、準備したスピーカーを通じて流れます。

256276  

数年前から中継が始まりましたが、今年はよく聞きとることが出来ます。

256277

「脱原発へ!中電株主行動の会」の皆さんの複数の「株主提案議案」の提案理由の説明(時間が限られ十分な説明は出来ない)が行なわれ、それに対する中国電力の「反対の説明」、いつもの中国電力への申し入れに対する誠意のない回答を思い出しながら、聞きます。

その後株主からの質疑が続きましたが、問答無用の回答に終始する中国電力。

会場内の発言の様子をこれほどハッキリと聞いたのは初めてですが、なんとも言えずむなしさだけが残ります。

祝島の皆さんは、12時半に帰りのバスが来るとのことでしたが、私は別の用事があり、行動の途中でしたが、11時半過ぎの中電本社前を後にしました。

1982年に上関原発計画が明らかになってから40年を超える年月が経っていますが、祝島の皆さんの頑張りで建設計画は、ストップしたままで、将来の見通しも立っていません。

以前見かけたことのある祝島島民の姿がずいぶんと少なくなっていますが、今年は「使用済み核燃料の中間貯蔵施設建設計画」の問題で周辺地域からの参加もあり全体の参加者は増えたとのことでした。

いつものことながら、祝島の皆さんの奮闘に頭が下がります。そして、この頑張りに答えなければとの思いを強くさせられた「中国電力株主総会」でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年6月17日 (火)

松江に帰りました。

土曜日の14日、実家の甥の49日の法要に参列するため、松江に日帰りで行ってきました。

バスで松江駅前に着いたのが、ちょうど12時。法要は、午後2時半からですので、松江温泉行きの市内バスに乗って、松江に帰ったときには必ず訪れる「出雲蕎麦ふなつ」に行きました。

256171  

店に着いたのは、午後0時半過ぎ。この時間ならいつも満席の状態ですが、雨模様だったからでしょうか、空席がありすぐに座ることが出来ました。

注文は、いつものように釜揚げ蕎麦と割子蕎麦2枚です。そんなに時間をおかずにでてきました。

256172

熱いうちにと、出汁をかけて、まず釜揚げ蕎麦食べました。そして、ゆっくりと割子蕎麦を食べます。

いつものことですが、美味しくいただきました。

食べている最中に、主人が厨房から出てきて、1冊の本を見せてくださいます。二人の共通の知人で、私の中学校以来の友人川上正夫さんが、今年5月に出版した「島根方言集成」です。川上さんは、出雲で出版社を経営し、これまでに何冊も郷土に係わる本を出版しています。この本については、別の機会に紹介したいと思います。

食べ終え、勘定を済ませて店を後にします。

少し時間がありましたので、すぐ近くのスーパーマーケットに寄り、宍道湖産シジミを購入しました。

法要の会場である圓成寺は、少し遠いのですが、時間が充分あり、街の様子も見てみたいとの思いがあり、雨も止んでいましたので、歩いて行くことにしました。

10分も歩くと県庁前に着きます。ここからは、松江城の正面が望めます。青空を背景にした松江城もよいものですが、雨に濡れた松の木の間から見えるお城もなかなかの景色です。

256173

お城を眺めた後、松江大橋を渡ります。そういえば、今年の秋から始まるNHKの朝ドラ「ばけばけ」は、ラフカディオハーンの妻である松江生まれの小泉セツが主人公ということですから、松江大橋も登場するかも知れないと思いながら渡りました。

橋を渡り終えると、かつて私が働いていたことのある松江電報局があった(現在は別の建物が建っている)白潟本町を通り、天神町竪町と懐かしい名前の町筋を南の方に向かいます。少し雨が強くなりました。

法要が営まれる圓成寺(えんじょうじ)には、開始30分前に着きました。雨が少し強く降ったということもありますが、40分以上歩いたのですが、その間にだれ一人すれ違う人はありませんでした。

圓成寺は、松江城を開城した堀尾義晴公の菩提寺ですので、重厚に山門が出迎えます。山門の手前の看板には、小泉八雲(ラフカディオハーン)が、ここをよく訪れたことが記されていました。

256174

山門を入った境内もきれいな庭になっています。

256175

境内には、中門があります。広島ではみることのない、寺の作りです。

本堂脇で着替えを済ませます。方丈さんのお誘いを受け、屋内から裏庭をみることが出来ました。圓成寺は、禅宗の臨済宗 妙心寺派(禅宗)のお寺ですから、庭もそれらしいつくりとなっています。

「この部屋からお殿様が、庭を眺めたと伝えられています」お殿様のように座敷に入って、部屋の中から庭を眺めることは出来ませんでしたが、前の廊下に立ち写真を撮りました。

256176  

松江城もそうでしたが、雨に濡れた庭の眺めもなかなかのものでした。この庭の奥に堀尾義晴公の墓所があります。

そうこうするうちに法要の時間となり、亡くなった甥の小学校時代の同級生である若月大峰住職の心のこもった読経により、法要は無事終了しました。

私は、松江駅午後4時発のバスで広島に帰りました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2025年6月12日 (木)

キョウチクトウの花

原爆被爆により焼野原になった広島の街で、真っ先に花をつけた〝一番花はキョウチクトウとカンナです。中でも生命力が強く、乾燥にも潮風にも耐える力を持ったキョウチクトウが咲かせた花は、まるで〝復興の象徴のように、広島市民を力づけたといわれています。

そのキョウチクトウは、毎年この時期になるといっせいに白や深紅の花を咲かせます。

平和公園南側のタクシープールのすぐ東側の道路沿いに、以前にも紹介したことのある白い花を咲かせる大きなキョウチクトウがあります。

梅雨入りして雨模様の日が続くようになりましたが、少しだけ晴れ間も覗いた昨日の午後、見に行ってきました。

256121

キョウチクトウは、7月8月に咲く花と言われていますが、この木はすでに盛りを過ぎたのでしょうか、沢山の花びらが落ちています。でもまだまだ沢山の花を付けています。つぼみもありますので、まだ咲き続けるようです。

平和公園を訪れた西宮市の小学生たちが、団体の入り口となっている資料館南側の入り口に列を作っています。

256122

今日も多くの子どもたちが平和公園を訪れていますが、この子どもたちに「焼け野原の広島で真っ先に咲いたキョウチクトウの話」が伝わっているかなと思いながら、本川橋に移動しました。

本川橋に向かったのは、一昨年のG7サミットのとき、「警備上のため」として、バッサリと刈り込まれた本川右岸と本川小学校の校庭東側生垣のキョウチクトウが、どうなっているのか観てみようと思ったからです。

昨年見に来たときの様子は、つぼみを付けたキョウチクトウ: 新・ヒロシマの心を世界にで「大人の背丈ぐらいに伸び」「枝先に小さなつぼみがついている」ことを紹介しています。

今年は、本川沿いに並ぶキョウチクトウは、背丈も私より大きく新しい枝が伸び沢山の紅い花を咲かせています。

256123

ところが、道を挟んだ西側の本川小学校の生垣となっているキョウチクトウは、背丈がそんなに大きくなっていません。

256124

花の姿は、まったくと言ってよいほど目に入りません。それでもと思い目をこらして、観ていくと生垣の一番南の端に何とか白い花を見つけることが出来ました。

256125

葉は繁っていますので、もう少し時間が経てば、花を咲かせる枝があるかも知れません。

散歩の途中にまた寄ってみたいと思います。

G7さっミット警備のために本当にキョウチクトウの伐採が必要だったのか?

今年もまた、そんなおもいをしながら、この場を後にしました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年6月11日 (水)

台湾が原発ゼロになった日―その2

放射能の遺伝的影響の問題は私たち被爆二世、三世にも及ぶ心配を持たせます。被爆二世の知人で白血病などの遺伝影響とすぐに結びつく病気な亡くなった人もいますが、風邪をひきやすいとか、疲れやすいといった放射能の影響とは断定できない免疫力の低下といった症状を持つ人も多く、健康上の不安を持っている人が多いこともアンケート結果などで現れています。二世自らの子どもや孫への心配ということも懸念されています。

先人の被爆者からいつも聞かされていた言葉に、「三つのほしょう論」というのがありました。「ほしょう」という言葉、漢字で表すと異なるのですが「補償」、「保障」、そして特に三番目の「保証」は、これから放射能被害で苦しむ人を作らない、作らせない社会、世界を作っていることの「保証」です。それは原発による被害者を作らない、核兵器開発・使用に係ることでの被害者を作らない世界を作ることの「保証」です。

先日ニューヨークの国連本部で第3回の核兵器禁止条約の締約国会議が開催されましたが、その会議の中で米国の先住民居留地でのウラン採掘被害を告発する発言をした女性は、核被害の苦しみは核兵器と原発を区別できないと強調していました。核被害とは何なのか。原子爆弾と原子力発電所の加害としての核問題を、考える視点の重要さを指摘されました。核兵器禁止条約の内容をもっと充実させるためのヒロシマの役割りも重要だと感じています。

2011年3月11日、東日本大震災によって福島原発事故が発生し、あれから14年の年が経過しました。当時の日本の政権は、民主党政権でしたが「2030年原発ゼロ」を掲げましたが、翌12年に定めた「エネルギー基本計画」では、明確にそのことを決めずに、民主党政権から自民党政権に交替しました。

しかし、自民党政権ですらその後のエネルギー基本計画でも「原発削減をめざす」とし、「新規の原発は建設しない」という姿勢を維持していました。世論も「原発嫌だ」が圧倒的でした。

25611

後ろに廃炉となった第3原発が見える

しかし今年2月に改定、否、改悪された「第7次エネルギー基本計画」では、これまでの「原発の削減」から「原発回帰」と大きく政策が変わりました。

私の住んでいる広島県の隣りの県である山口県の上関町に計画されている「上関原発計画」は、計画が公けになって今年は43年目となります。上関原発反対運動の拠点と呼ばれる祝島の反原発島内デモは、コロナ禍のために2020年から中断していましたが、今年1月から再開されました。ノーニュークス・アジア・フォーラムの皆さんは、何年か前のフォーラムで祝島へ行かれ、強く感動されたということのようですが、定例デモが再開されました。

上関原発計画は新設の原発計画で、海の埋立てを実施しなければ建設できない原発ですが、地元の人たちは漁業者の生活の糧を得る海の埋立ては許さないという強い気持ちで活動が行われています。

上関町の人から聞いた言葉があります。「広島の人は私らが原発建設に反対する気持ちを一番に分かってくれてであろう。原爆の被害を経験しておられるから」と。私は、この言葉は決して忘れられない言葉です。祝島には出稼ぎ作業員として、原発の下請け作業を経験した方もたくさんおられました。また、原爆被爆者も何人かおられました。原発作業員が持つ放射線管理手帳と原爆被爆者健康手帳の二つを持つ人もおられました。

5月17日には、台湾で原発がゼロとなる記念の日に、私たち日本の運動も皆さんに負けないで、皆さんと連帯して原発の無い社会をめざす活動を行ってまいります。

ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ヒバクシャ

We don’t want a Radiation ,

We don’t want a Nuclear power plant

We don’t want a Nuclear war

頑張ります。ありがとうございました。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年6月10日 (火)

台湾が原発ゼロになった日―その1

5月17日午後8時(日本時間午後9時)頃から、台湾の台北市にある台湾電力公司本店の前は約300人が集まりました。この日、台湾の原発がゼロになったのです。ドイツに続いて2カ国目です。原発が停止されるのは、午後10時、その時刻前にはカウントダウンも始まりました。

10時になったと同時に、高さが10階以上ある本店建物の壁面には大きく「非核家圏 No Nukes TAIWAN  No Nukes ASIA」と書いた照明が照らし出されました。

256101

前日から開催された「ノーニュークス・アジア・フォーラム」に、参加しておりました。フォーラムは台北大学の講堂で開催され、日本、韓国、台湾、ベトナム、インドネシア、フィリピン、インド、トルコから100人が参加しました。同時通訳のブースも、日本語⇔英語、英語⇔中国語が置かれていました。

256102

インドネシアの二人との記念写真

16日初日の主催者あいさつに続いて、基調スピーチをさせられました。

被爆地広島で活動しているということ、そして昨年ノーベル平和賞を受賞したということで頼まれていたのです。今日はそのスピーチを掲載させていただきます。

みなさんこんにちは!台湾が原発ゼロとなる日に、この場で居ることをとても嬉しく思っております。日本の広島から参加いたしました、木原省治と申します。

私は原子爆弾が投下された4年後の1949年に生まれました。両親と二人の姉が被爆しました。すぐ上の姉は、原爆が投下された時には、母親のお腹の中にいた、「胎内被爆者」です。原爆投下翌年の1946年2月に生まれました。

母親は背中から肩にかけて大やけどを負いました。もう一人の姉は2歳でした。両親も何とか生き延びたので、4年後に私が生まれ、その4年後の1953年に父親が47歳で急死しました。母親は私を含め3人の子どもを育ててくれました。胎内被爆した姉は2005年に58歳で、急死しました。母親は生活の苦労と身体の不調の中でも、1998年まで生き延びてくれました。

私は被爆者である父親と母親の生き様と死に様を見て育って参りました。私たちのことを被爆二世と呼びます。現在は被爆三世、四世も存在しています。

私は70歳まで仕事をしておりましたが、原子力発電に反対する運動と、全国各地から広島市の平和公園を訪れる修学旅行生などに、公園内の原子爆弾に関する慰霊碑の案内などを行っています。

昨年は原爆資料館を訪れた人数が、これまでの最大になったと報じられていました。私の見る限り、外国人が約4割、修学旅行生が約4割、その他が2割という感じではないかと思っています。

昨年は日本原水爆被害者団体協議会、約して「日本被団協」と呼びますが、ノーベル平和賞を受賞しました。たいへん嬉しいことではありますが、私は強いプレッシャーとともに責任の大きさ感じています。

原子爆弾投下から80年、戦後80年、先人の被爆者や平和運動を担ってこられた方々の大きな努力によって、長崎への原爆投下以後は、戦争で原子爆弾が使用されることを食い止めることが出来たと思います。プレッシャーと責任の大きさとは、被爆地に生まれ育ってきた者として、先人の方の期待に応える活動の大きさです。

(以下、明日に続く)

木原省治

【編集者】基調スピーチの途中ですが、木原さんの了解を得て、今日明日の2回に分けて掲載します。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年6月 2日 (月)

JR本郷駅のツバメの巣

昨日、三原市・本郷生涯学習センターで開催された「2025部落解放・人権啓発講座」デ、「戦後・被爆80年―広島から平和と人権を考える」のタイトルでの講師を務めるため、本郷に行ってきました。

講演は、何とか無事に終わり、役割を果たすことが出来ました。

帰途につくためJR本郷駅に着いたときです。2階の改札口の前に「頭上注意」と看板が付けられた段ボール箱が置いてあります。

256225622

 「頭上注意」の文字の下に小さな文字で「つばめが巣を作っております。」と書かれています。

頭上を見上げると、監視カメラの上につばめの巣があります。

25623  

つばめの姿は見えませんが、この巣を見ながら思い出すのは昨年わが家の近くの八百屋さんの軒先に作られたつばめの巣です。

25621

この写真を写したのは、一年前の611日です。すでに卵からひながかえっていたように思います。

少し時間があったので、トイレを使おうと1階に降りました。忙しく飛び回るので、写真に写すことが出来なかったのですが、数羽のつばめが飛んでいます。

1階にも何個かの巣がありました。ここは、天井が高くなっていますが、天井にひっつくように巣が見えます。

 

25624

外に出ると、入り口にも巣があります。

25625

この巣には、つばめの姿がありました。

これらの巣の下には、「頭上注意」の貼り紙はありませんが、新聞紙が広げてありますので、気付くことになります。

JR本郷駅は、昨年の51日から無人駅になっているそうですので、巡回の職員が、注意の貼り紙や新聞紙の貼り付けをしているのでしょう。

ちょっと待ち時間がありましたが、つばめの巣がさして時間を潰すことが出来ました。

わが家の近くの八百屋さんにも、もうそろそろつばめの巣が出来てもよい頃だと思いながら、到着した列車に乗り、帰宅の途につきました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月30日 (金)

ポツダム「ヒロシマ・ナ ガサキ広場」で平和学習の場に

被爆80年、そして昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞で、ヨーロッパでも核問題への関心が高まっているようです。

日本被団協の代表理事で、広島県被団協の理事でもある田中聰司さんもフランス南東部のグルノーブル市長からの招待を受け、フランスを訪れ、被爆体験の証言を含めた講演活動を行われたようです。そのフランスでの活動の様子は、同行された前田耕一郎前県被団協事務局長にこのブログで紹介してもらうことになっていますので、ご期待ください。

ところで、いつも情報交換をしているドイツの福本まさおさんからも次のようなメールが届きました。

「今年原爆投下80年ではポツダムの学校といろいろやれそうなんですが、先日その学校の先生とお会いしてきました。7月に学校で日本のことを紹介する2日間のイベントがあり、その時に原爆投下についてもというスタンスです。小生が最初に30分話して、生徒さんたちとディスカッションします。その時に先生からは、広場を学校の生徒たちで手入れしたいという申し入れがありました。教育的にもとてもいいことであり、ありがたいことなのでお願いすることで進めます。

カトリック系の小学校から高校までの私立統合学校です。広場から歩いて15分くらいのところにあります。」

25530

広場のすぐ近くの学校のようですので、こうした活動を通じて、「ヒロシマ・ナ ガサキ広場」に興味を持ち、広島や長崎のことを少しでも学ぶ機会になればと思います。

メールには、つづきがあります。

「なお記念碑の碑文が結構傷んできているので、今石屋さんにみてもらって直すことで進めています。まあ15年も経ったので仕方ないですが。ただ石屋さんからは、よくここまで持ちましたねといわれています。」

255301

真ん中の男性が、碑の建設に尽力された被爆者の外林秀人さん

確か碑文が刻まれた石は、御影石だったように記憶していますので、傷むことなど想像していませんでしたが、どんな傷みか気になります。

記念碑が出来て今年の7月でちょうど15年となります。屋外に雨ざらしになっていますし、冬の寒さは、調べてみると、「 ポツダム における 1 年の最も寒い月は 1で、平均最低気温は -1°C、最高気温は 3°C 」ということですので、やはり痛みが出てくるのでしょうか。

子どもたちの手入れ、石屋さんによる修復で、公園と記念碑がいつまでも大切にされることを祈っています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月28日 (水)

沖縄「平和の礎」と原爆犠牲者

沖縄は、間もなく組織的戦闘の終結した日、80年目の6月23日を迎えます。その日は、沖縄県では「慰霊の日」と定められ、県民の休日となり様々な慰霊行事が行われます。

「慰霊の日」沖縄平和公園にある「平和の礎」の前で、犠牲者を追悼する人々の姿を報道で見ます。その「平和の礎」に、今年新たに死没者342人の名を刻んだ刻銘板が一昨日(26日)に設置されたと報道されました。これで刻銘者総数は、27万2567人になりました。

27日朝のNHKニュースでは、342人の人数だけでその内訳は報道されませんでしたが、80年経って新たに刻まれた犠牲者は、どんな人達だろうと気になります。

その朝届いた中国新聞は、「米軍の攻撃で1945年4月に沈没した戦艦大和の乗組員が多く含まれている」と報道しています。

「そうか、戦艦大和の乗組員なんだ」と思いながら、「多く含まれている」という表現が気になりますので、沖縄のマスコミ報道を検索してみました。

沖縄タイムスには、作業中の写真ありましたが、私が知りたい内容は記述されていません。

Photo_20250527093301

次に琉球新報は、検索してみました。

「今年の追加は県内出身者16人、県外325人、米国人1人。県内16人のうち9人は013歳の子どもだった。終戦後の約1年間に戦争が原因で死亡した人も対象になると遺族が知り、申し込んだケースもある。県外の大半は戦艦大和の乗組員など海軍関係者が占める。」

さらに「刻銘碑は平和の広場を中心に屏風状に配置され、平和の波が世界に広がるようにとの願いが込められている。 新しい刻銘板は県内分が1枚、県外分が3枚、国外分が1枚の計5枚で、それぞれの地域の一番外側にある刻銘碑に据え付けられた。」ことが記述されています。

平和の礎が、1995年に設置されてから30年経った今も、沖縄県内出身の犠牲者名が、16人も明らかとなったことにちょっと驚きを感じますが、犠牲者をハッキリさせようとするつよい姿勢を感じます。

このニュースを聞き、読んで思い浮かぶのは、広島の原爆犠牲者のことです。

1976年に広島市が国連に提出した要請書では、犠牲者数は、「14万人±1万」としていますが、現在の広島市のホームページは「原爆投下後に様々な機関が調査を行っていますが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。本市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。」と、±1万人という数はなくなり、「約14万人」となっています。

では、この約14万人の犠牲者のうち何人の名前が明らかになっているかです。

広島市は、1979年から「原爆被爆者被災調査」(現「被爆者動態調査」)を開始し、現在も継続して調査を進めていますが、今年3月末までに明らかになったのは、8万9153人です。

2019年3月の人数が8万9025人でしたので、困難な作業の中でわずかとはいえ明らかになりました。

しかし、今だ名前が明らかになっていない犠牲者が、約5万人もいるのです。その空白が少しでも埋まることを望んでいます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧