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2025年2月10日 (月)

上関をめぐる今年の動きを予想する

 私が担当した1月25日のブログで「島根原発をめぐる今年の動きを予想する」と題して書かせていただきました。正月気分はとっくに無くなっていますが、今号では「上関をめぐる今年の動きを予想する」と題して書くことにしました。

以前なら「上関原発をめぐる…」と書くのでしょうが、現在、上関町では上関原発の動きというより、使用済み核燃料の中間貯蔵施設をめぐる動きの方が前面に出ています。「方が」というよりも、中間貯蔵施設だけになったように思えます。

1月14日、新年のあいさつで上関町を訪問した、中川(けん)(ごう)中国電力社長は、西 哲夫上関町長と面談しました。新聞記事を見る限り、中間貯蔵施設のことばかりとなっています。

上関町に原発建設の動きがあるのを、忘れてしまいそうな感じです。昨年12月10日、久しぶりに上関町議会の本会議を傍聴しました。新装された役場内の議場、原発に反対する議員も質問しましたが、原発をめぐる質問は全く有りませんでした。

上関原発の建設計画が公けになって、今年は43年目です。こんなに長期間に亘り、地元の人を含めて苦しませているのは大犯罪です。人としても組織としても許されないことだと思います。中電で働いている人からも、同じ考えの人は多いと聞きます。

中間貯蔵施設建設について、共同事業だとして前向きだった?関西電力も、ここにきてそのスタンスは後退しているように思えます。福井県の原発内に置かれている使用済み核燃料について、「どうしても県外に出すこと」を再稼働の条件にしていた福井県当局のスタンスが、後退したことが大きな理由だと思っています。

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読売新聞より

今年、上関原発計画が完全に撤回されることは無いでしょうが、次の2点をめぐる動きに注目しています。

その一つは、今年度中に閣議決定される予定の第7次エネルギー基本計画です。原発の新設問題について、これまでは既存原発の敷地内に建設するとしていた考えを、別の原発敷地での新設を容認する「敷地外」での建て替えにも道を付けました。中電の場合、島根以外で別のところに原発は在りませんから、上関も新設にはなりません。

エネルギー基本計画の素案が示された日に、経済産業省資源エネルギー庁の担当者は、建て替え先に「上関は該当しない」と言い切ったと、12月18日の新聞は報じています。

二つ目は、中電が「上関原発を建てさせない祝島島民の会」に起こしている、原発建設予定地内での海上ボーリング調査を止めないように求めている訴訟です。山口地方裁判所岩国支部で行われている裁判ですが、まさに反対運動への恫喝(どうかつ)訴訟といえます。

その一で書いたことにも関連しますが、上関原発の原子炉設置許可申請は2009年12月18日、中国電力から経済産業省原子力安全・保安院に提出されました。

提出した日の中電の記者会見用資料を見ますと、この申請は初めに原子力安全・保安院による第一次審査を受けることになっています。皆さんご存知のことだと思いますが、3・11福島原発事故後、原子力安全・保安院は廃止されました。上から読んでも下から読んでも「ホアンインアホ」で、笑いの話題なった保安院でした。

保安院が無くなり、「独立性が高い」とされた原子力規制委員会が発足しましたが、原子力規制委員会からは新設原発の審査の基準も出されていません。当然ですが、審査をする予定もありません。

海を埋め立てると元に戻すことは不可能です。上関原発は建設できないとした第7次エネルギー基本計画、それでも海を埋め立てようとする中電の恫喝訴訟、この訴訟の動きが上関原発計画を撤回させる、まさにトドメになると思います。

次回公判は4月10日、次々回は5月29日のいずれも木曜日と決まっています。

取り返しが出来ない海の埋立て、そのためのボーリング調査、理屈がつかない中電の主張、裁判ですから勝っても負けても控訴・上告という手続きとなるでしょうが、中電が負ける可能性を予測しています。

山口地裁岩国での判決は今年中に出されるでしょう。大きな節目となるのは間違いないと思っています。

追記ですが、2月2日に上関の隣り町、田布施町で町会議員選挙が行われ、「原発いらん!山口ネットワーク」の小中進代表が3位で当選されました。中間貯蔵施設反対の議員が4名から6名になり、推・反同数となりました。

木原省治

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2025年2月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その66-2)

騙され、騙す

昭和初期に活躍し日本映画の基礎を築いた監督の一人、伊丹万作が1946年(昭和21年)8月に創刊された『映画春秋』に寄稿した一文を初めて目にしたのは1990年11月1日でした。「戦争責任」と題する一万字弱の寄稿文、少し長いですが書き出し部分を紹介します。

「多くの人が今度の戦争で騙されという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲ではおれが騙したのだと言った人はまだ一人もいない。ここらあたりからぼつぼつ分からなくなってくる。多くの人は騙した者と騙された者との区別ははっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。例えば、民間の者は軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中に入ればみな上の方を指して、上から騙されたと言うだろう。上の方に行けば、さらにもっと上の方から騙されたというに決まっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、僅か一人や二人の智慧で一億の人間が騙されるわけのものではない。すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりも遙かに多かったに違いない。しかもそれは、『騙し』の専門家と『騙され』の専門家とに豁然と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捉まえて騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり、騙されたりしていたのだろうと思う。このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみればすぐに分かることである。」

続きは「伊丹万作全集」(1)「戦争責任の問題」を手にしていただくとして、あらためて噛み締めたいと思っている一節をだけ書き足します。

「『騙されていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるであろう。いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。」

 「反軍演説」  斎藤隆夫の政治姿勢

随分と長くなってしまいましたが、もう一人尊敬する人を紹介します。1940年(昭和15年)2月2日、帝国議会衆議院本会議場で行った「反軍演説」のために、国会を除名された斎藤隆夫です。「反軍演説」そのものも、鋭く感銘深いものですが、除名された後に詠んだ漢詩が特に心に残っています。。

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1940年 斎藤隆夫

吾言即是万人声 〔吾ガ言、即チ是レ万人ノ声〕

褒貶毀誉委世評 〔褒貶毀誉(ホウヘンキヨ)、世評ニ委ス〕

請看百年青史上   〔請ウ看ヨ、百年青史ノ上〕

正邪曲直自分明   〔正邪曲直、自ヅト分明〕

「昭和100年」を迎えた今、伊丹万作の言葉、斎藤隆夫の言葉がそのまま響きます。

次号では、泥沼に入った日中戦争からインドシナ侵攻、パールハーバーへと突き進んだ昭和を見たいと思います。

(2025年2月6日、あかたつ)

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2025年2月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その66-1)

「昭和100年」と父

今号から“日本が無謀な戦争へと突き進み原爆投下と敗戦に至った経過”、“日本軍のインドシナ進駐”、“父の戦争体験”について書き進めることにします。

1928年(昭和3年)3月24日生まれの父は間もなく97歳を迎えます。父の生まれた1928年は初めての普通選挙が実施された年であり、同時に関東軍による張作霖爆殺事件があった年です。大正デモクラシーの一つの果実としての普通選挙と、ヒロシマ・ナガサキにつながる「昭和の戦争」に踏み込んだ年です。大変なコントラストですが、「父の人生」は「昭和100年」とほぼ重なります。

明治維新以降、富国強兵政策を進めてきた日本は、1877年(明治10年)の内戦(西南戦争)を経、1894年(明治27年)に日清戦争、1904年(明治37年)日露戦争に勝利します。勢い躍り出た日本は、ロシア帝国から割譲した遼東半島などの権益を守る関東軍を配備。帝国主義国として植民地政策を進めます。

でっち上げと謀略による大陸侵略

1931(昭和6年)年9月18日、関東軍は柳条湖事件を自作自演し、中国軍との戦闘を始めます。いわゆる「満州事変」、日本軍は戦火を中国本土に拡大させます。そして、1932年1月には上海の共同租界で日本人僧侶が殺害される事件を口実に、日本海軍陸戦隊が3月にかけて中国軍と衝突する上海事変を起こします。高まる排日運動と満州事変・満州国成立などへの批判をそらすための関東軍による謀略でした。

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陸戦隊は民衆の中に紛れている平服の中国軍(便衣隊)の銃殺を布告し、銃や日本刀などで武装した日本人自警団も加わり、「便衣隊狩り」と称して中国人住民を虐殺しました。犠牲者は上海市社会局の発表によると6,080人の住民が殺され、2,000人が負傷し、1万4千人が行方不明になっています。

傀儡国家「満州国」から日中全面戦争へ

翌1932年(昭和7年)3月1日、日本軍が占領した満州、内蒙古、熱河省を領土として日本の傀儡国家「満州国」が作られます。ご覧になった方も多いと思いますが、「ラストエンペラー」は、満州皇帝となった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の生涯を描いた映画です。

1933(昭和8年)年3月27日の国際連盟総会で「日本の侵略行為」とするリットン調査団報告が、賛成42、反対1(日本のみ)、棄権(シャム=タイ)という結果で採択されたのを受け、日本は国際連盟を脱退します。

1937(昭和12年)年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍との衝突が起こります。「夜間演習中に実弾が撃ち込まれ、兵士一人が行方不明」になったことを中国側からの攻撃として判断して起きたとされていますが、定かではありません。いずれにしても中国軍との全面戦争に入る口実として日中戦争の契機となります。

こうして日本は国際社会から孤立深め、言論・結社・表現の自由を奪う一方、戦時世論を掻き立て太平洋戦争へと突き進んでいきます。その結果、310万にも及ぶ犠牲者とヒロシマ・ナガサキの悲惨な結果を招いたのです。

この時代を知らない私は、「何でこのような愚かで無謀な道を歩んだのか」と思ってしまいます。後世に歴史として、ことの「正邪曲直」を知った者として、現在において再び「愚かで無謀な道を歩もうとしている」事態に臨む姿勢が問われていると痛感します。

(2025年2月5日、あかたつ)

【編集者】届いた原稿が少し長めですので、あかたつさんの了解を得て今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2025年1月26日 (日)

赤貝のに付け

全国都道府県対抗男子駅伝が行われる1月の第3日曜日とその前日の土曜日の二日間、毎年「島根ふるさとフェアー」が開催されます。

今年は、ゲートパークとハノーバー庭園を会場に島根の全自治体が参加し,観光情報や特産品が並べられ、18日、19日の二日間開催されました。例年主会場となる県立体育館は修繕工事のため今年は、使用できなかったようです。

いつからこのフェアーが始まったのかはわかりませんが、ここ十数年は、私も毎年出かけることにしています。

屋外だけの開催ですので、天気が心配されましたが、二日間とも好天に恵まれ会場に着くと、今年も多くの人で賑わっていました。ブースによっては、長蛇の列ができています。

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毎年私の目当ては、二つです。一つは赤貝、もう一つは、宍道湖のシジミです。

初日には、午後2時頃会場に着きましたので、二つとも売り切れていました。翌日は、入荷すると言うことでしたので、二日目の19日にも会場に足を運びました。今度は午前中に会場を訪れましたので、目的の品を入手することができました。

宍道湖のシジミは、広島の人にもなじみがありますが、赤貝(島根ではずっとそう読んでいるのですが、広島に来てから初めて知ったのですが、正式名は「サルボウ貝」というようです)は、ほとんどと言うよりほぼ全くと言ってよいほどなじみのない貝です。

しかし、島根では、正月のおせち料理には欠かせない食材となっています。安い食材でしたので、わが家でも大鍋で煮られて正月の食卓を賑わしました。

以前には、複数のブースで売られていましたが、今年は1ブースのみになっていました。

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赤貝は、かつては、島根県と鳥取県の県境にある中海で漁獲されていましたが、現在ではほぼ漁獲できなくなっており、岡山県児島湾や有明海産が流通しているようです。しかし、この両地でも、年々漁獲量が減っていると言うことでした。

赤貝の食べ方ですが、このままでは、貝に泥が付いていますので、ネットに入れてしっかりともみ洗いし、泥や付いているゴミを落とした後、調理します。調理といっても鍋に醤油や酒、砂糖を入れた調味料と少量の水を入れて煮込み、煮え立ったら貝をそのまま入れて口が開くのを待つだけです。数分でできあがります。

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早速夕食に食卓にのぼりました。正月には食べることができませんでしたので、やはり懐かしい味です。

最近、中海で資源復活のため、漁業者による飼育試験が行われているようですので、なんとか成功し、入手がもう少し簡単になればと期待しています。

宍道湖のシジミは、シジミ漁師が持参した「砂抜き」されたLサイズのものを2kg購入しました。

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こちらは、毎日の味噌汁です。

2kgも買ってどうするのかと思われるかも知れませんが、冷凍保存すれば、3ヶ月は美味しくいただけます。冷蔵保存より冷凍保存のほうが、グルタミン酸・アラニン・オルニチンなどの旨み成分がより増加しますので、更に美味しく食べることが出来るといわれています。

私が昔肝炎になった時、出雲にいる姉が、「肝臓によいから」と言って,大量に送ってくれたことがあり、その時冷凍保存して食べることを知りました。それ以来松江に行った時に大量に購入し、冷凍保存して食べています。

しばらくふるさとの味が堪能できそうです。

いのちとうとし

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2025年1月20日 (月)

ベトナムの歴史(その36) ― ベトナム Now Ⅸ―

国民の4人に一人を虐殺したポル・ポト

ベトナムとカンボジアが仏領インドシナとして共に抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦い、その後アメリカを後ろ盾とするカンボジアのロン・ノル政権との戦いとベトナム戦争(抗米救国戦争)で連携し、共に1975年4月に勝利しました。

その直後から、稲作を主体とする農村共同体(原始共産制)を目指すポル・ポトは、都市住民を「社会の阻害者」、教師や公務員などのインテリや僧侶を「反革命分子」として弾圧し、政権が崩壊する1979年1月までに国民の4人に一人、200万人を虐殺しました。

私は1991年に初めてカンボジアとベトナムを訪問しました。19791月、ベトナムの支援でポル・ポト政権を倒したヘン・サムリンがカンボジア人民共和国政府を成立させ、ヘン・サムリン新政権とポル・ポト派、旧ロン・ノル派を継いだソン・サン派、シアヌーク派の三派連合との間で内戦が続きます。その内戦の停戦協定が成立した直後で、治安上と地雷などの安全上から訪問地は首都プノンペンだけでした。

「両親と兄弟姉妹をポル・ポトに殺され、親族で唯一人生き残った」27歳の青年(外務省職員)の案内で、ポル・ポトによる大虐殺の現場を訪ねた記憶は今も鮮明です。案内してくれた青年の名前は思い出せないので、文中ではKさんとして進めます。

想像を絶するキリングフィールド

政治犯が囚われていたツールスレン中学校跡(現在の虐殺博物館)の教室には膨大な犠牲者の写真が貼られ、薄暗く仕切られた拷問部屋には足枷や爪を剥がすヤットコ、水責に使った桶などの拷問道具が残されていました。この政治犯収容所には14,000人が囚われ、ポル・ポト政権崩壊時に生き残っていた人は僅か7名ということでした。

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(撲殺による虐殺、ツールスレン博物館)

何よりも背筋が凍りついたのは、Killing Field(キリングフィールド)と呼ばれる処刑場でした。「銃弾がもったいない」と、もっぱら丸太や鉄棒で撲殺、斧や鎌などで殺戮が繰り広げられたとのことでした。「この木も殺戮に使われた」と説明された木の高さ1メートル辺りにあった陥没が忘れられません。赤ちゃんや幼児の足を持って、頭を木に打ち付け殺戮したKilling Tree(キリングツリー)です。ポル・ポト政権崩壊当時には何に使われた木なのか分からなかったそうですが、「木に残された髪の毛や血痕と近くの穴に捨てられた多くの赤ちゃんの遺体からキリングツリーと分かった」とのことでした。

自国民4人に一人を殺戮するという世界が震撼する大虐殺がなぜ起きたのか。様々に分析・研究され、書物が書かれ、メディアでも報道されています。「なぜ起きたのか」と同時に、大虐殺システムはどのように作られ機能したのかも気になります。

「内部の敵」密告者、旧社会の破壊者にされた子どもたち

その一つが、中央から地方までポル・ポト政権が完全に支配し、疑問を持ったり反対する者を「内部の敵」として摘発する密偵(チュロープ)をすべての集落に配置した作り上げた監視網と密告体制です。監視者自身もが監視・密告・粛正される恐怖の構造です。

34年前初めてプノンペンを訪れたとき、長い線香や花束を手にした数人の子どもたちから「買ってくれ」と声をかけられました。思わず買おうとすると、Kさんに「買わないで欲しい。彼らにはきちんと教育を受けさせ、国の再建を担って貰わなければならない。あなた方が線香を買ってくれても、それは一時的なもので子どもたちのためにならない」と諭されました。線香を買うという「善意」が、「本当に子どもたちを助ける」ことにつながるのか考えさせられたものです。

Kさんはあちこちに倒れている頭のない仏像を指して、「これもポル・ポト時代に子どもたちがやったことです」と言いました。信心深く僧侶や寺院への寄進で徳を積むカンボジアの人びとにとって寺院は、支えであり村社会の統合の中心でもありました。大人には寺院や仏像の破壊は到底出来ないことだったのです。

張りめぐらされ監視と密告網の一翼を担わされ、旧社会の破壊者として使われたのが、何の知識もなく旧来の価値観を持たない無垢な子どもたちだったのです。幼児の頃から子どもキャンプでポル・ポト政権のスローガンを叩き込まれ、「教師や僧侶は敵だ」と洗脳されました。

そして親たちの会話を盗み聞し、僧侶や旧政権の軍人や教師など前歴を偽っている大人を見つけ出し、ポル・ポト政権側の役人をも監視させ、旧い道徳や価値観、仏像や寺院の破壊者として使われたのです。ナチスに洗脳された少年・少女がユダヤ人狩りの密告システムに組み込まれ、ユダヤ人虐殺へとつながった「ヒトラー青年団」と重なります。ロシアによるウクライナ・ブチャ虐殺、イスラエルによるパレスティナ虐殺に重なります。そして、今も続いているウクライナやガザやレバノンでの殺戮に重なります。

虐殺 ~国民と社会の分断が基礎にした民主主義の究極的破壊~

ポル・ポトもヒトラーも支配構造の基礎に「国民と社会の分断」を置いていました。為政者の「政策に賛成か反対か」によって「こちら側の人間かどうか」を決め、「国益に沿う国か、そうではない国か」で「敵」「味方」に分け、敵は徹底して攻撃・排除する。「防衛のため」と称して「先制攻撃」まで準備し実行する。そこには多様性を認め合う真摯な対話も協調もなく、独断的な攻撃による排除がまかり通ります。その手段は真実にもとづくプロパガンダではなく、嘘とデマゴーグに満ちています。刷り込まれた認識は時として為政者の指示や命令がなくても、「自警団」的な行動を誘発します。このことは洋の東西を問わず、戦争と殺戮の歴史が物語っています。

ポル・ポトの大虐殺の根底に横たわるものが現在の社会に装いを変えて存在し、ツールや手段を進化させながら膨らんでいるのではないかと気になるのは私一人ではないと思います。

2月9日から34年ぶりにカンボジアを訪れる予定です。訪問記はまたの機会に報告させていただきます。

 次号では、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリンがポル・ポト政権を倒し、カンボジア人民共和国を成立させた1979年1月~1991年までのベトナム、カンボジアについてレポートします。

2025120日(あかたつ)

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2025年1月 2日 (木)

2025年元日の平和公園

快晴に恵まれた今年の元日も平和公園に行ってきました。原爆資料館南側の駐輪場に自転車を止めて、慰霊碑を目指します。

最初に目に入るのは、原爆資料館1階南側にある地球平和監視時計です。

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広島への原爆投下からの日数を示す数字は、29003日になっています。被爆80周年という長さをこの数字は示しています。この日数は、被爆者にこれだけの長い間、苦痛を与え続けていることも示しています。

下側の最後の核実験からの日数は、232日です。アメリカが昨年5月14日に行った臨界前核実験からの日数です。

原爆資料館に入る人の姿が,途切れなく続いています。

原爆資料館本館下まで行くと、元日の午前9時45分頃ですが、多くの人が原爆慰霊碑を訪れているのが目に入ります。

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外国人観光客の姿が多いのが、目につきます。

原爆慰霊碑前では、毎年元日に花を献花する市民グループの人たちが、献花された花を撤去しています。

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この花は、この人たちが参拝者のために献花用にと手渡した花たちですが、「多すぎるので一部撤去して欲しい」との警備員からの指示で、撤去しているとのことでした。

この献花は、20年前の被爆60周年の年から始まったそうですが、一端献花した花をすぐに撤去するようにというのが、最近の広島市の指示だということでした。

今年初めて気がついたのですが、よく見るとお花の他に、鏡餅が供えられています。

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数年前から、お花と共に鏡餅を供えているということですが、置きっぱなしにするとカラスが食べに来るということで、この鏡餅もすぐに撤去されました。

このグループは、その後原爆供養塔と韓国人原爆犠牲者慰霊碑の二カ所に献花と鏡餅のお供えをするということでした。

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その二カ所に同行した後、私は、その後原爆ドームを訪れました。

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快晴に恵まれましたので、きれいな写真を撮ることができました。

その後一端帰宅し,改めてパートナーと散歩に出ました。

原爆慰霊碑前で写真家の長谷川潤さんから「午後1時半から原爆ドーム前で、午後3時半から原爆供養塔前で,被爆ピアノの演奏会が行われます」と教えていただきましたので、時間を合わせて午後1時半前に原爆ドームに行きました。

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原爆ドーム前の演奏だけ聴いて、移動しました。

2025年、被爆80周年は、快晴で、穏やかに一日で迎えることができました。

いのちとうとし

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2024年12月26日 (木)

エイ?

散歩をしているといろいろと目に入ります。

昨年10月29日に「これ、壊れていますよね: 新・ヒロシマの心を世界に」で紹介したNHKビルの前にある時計、長い間針がない状態が続いていました。

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最近といっても気づいたのは、10月1日のことですが、ふと見ると、真っ白になっていた中程の円に時計の針があるように見えます。

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近づいて確認すると、やはり時計の針です。1年前「部品が見つからないので、すぐには修理できないです」といわれていたことを思い出します。やっと針が見つかって修復され、今まで通り「時」を知れせるようになったのです。

散歩の途中では、意外なものを目にすることも時々あります。

最近の意外なものは、魚のエイを目にしたことです。

わが家から幾つかの散歩コースがあるのですが、その一つにマンションの玄関を出てすぐ前の通りを西方向(アステールプラザ方面)に歩くコースがあります。

250メートルほど西に進むと元安川に架かる万代橋を渡ります。橋を渡る時、「今日は水位が異常に高いな」「干潮時間だから干上がっているな」などと話しながら、よく川面を覗き込みます。特に水位が低い時には、川を泳ぐ魚が、はっきり見えます。魚の名前はそんなによく知らないのですが、ボラやチヌ(と勝手に思っているのですが)などが,時には群れているのが目につきます。

数日前のことです。散歩で万代橋を渡る時、川面を覗くと干潮時でしたので、底までよく見えます。魚はいないかと、川面をよく見ると今まで目にしたことのない魚影がゆっくりと泳いでいるのが目に入りました。

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川底の土の色と同じような色をしていますので、よく見ないと魚だということがわかりませんが、じっと見ていると動きますので、間違いなく魚です。エイのようです。

しばらく見ているとチヌのような魚が近づいていきました。川底にへばりついたエイが、カモフラージュするかのように川底の泥を跳ね上げ,エイの姿が見えにくくなりました。

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チヌは、しばらくエイの周りを泳いでいましたが、ケンカをする様子はありません。そのうちチヌと思われる魚は別の場所に悠々と泳いで移動しました。なぜチヌはエイのそばに寄っていったのか、ちょっと不思議な眺めでした。

万代橋は、京橋川と合流する河口から2.4kmしかありませんので、エイもこのあたりまでやって来るのでしょうか。

今までに見たことのない川の様子でした。

こんなことを目にするのも散歩の楽しみです。

いのちとうとし

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2024年12月22日 (日)

12・21島根原発2号機再稼働反対集会

21日(土)午後2時半から松江市のくにびきメッセで、「12・21島根原発2号機再稼働反対集会」が開催され、広島からも県原水禁や市民団体などから多数が参加しました。

広島県原水禁事務局から午前10時に出発したのは、6名。冬らしい雨模様の松江に昼過ぎに到着。先ずは昼食、やはり出雲そばです。行きつけの「ふなつ」へ直行し、割後そばに出雲独特の釜揚げそばなどを堪能し、会場へ移動しました。

午後2時半、地元の芦原康江さんの司会で集会はスタートしました。最初に実行委員会を代表して「フォーラム平和・人権・環境しまね」の内田智己代表があいさつ。

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つづいて、ゲストスピーカー3人のスピーチ。

トップは、広島県原爆被害者団体協議会熊田哲治事務局長。熊田さんは,日本被団協のノーベル平和賞受賞に触れながら、田中代表委員のあいさつにあった「国家補償」の問題を紹介し、放射線被害は長くつづくが、特に内部被曝問題は置き去りにされたままであり、原発事故が起きれば内部被曝問題を引き起こすのであり、再稼働は許されないと連帯を表明しました。

次は、志賀原発を廃炉に「訴訟」原告団の北野進団長からのビデオメッセージ。北野さんは、この中で「1月の能登半島地震は、もし原発事故が起きたら、どんな事態になるかを教えている。原発の再稼働は絶対認めることはできない」とあいさつ。

次に上関原発を建てさせない山口県民連絡会の大久保雅子さんが、上関原発建設、そして中間貯蔵施設建設に反対する運動の現地の活動を紹介しました。

島根・鳥取からのスピーチでは3人が壇上に立ちました。

原発ゼロをめざす島根の会共同代表の石田忍さん、福島原発事故避難者(雲南市)の坂本美緒さん、島根原発2号機運転差し止め仮処分申立人の土光均さんが、それぞれの立場で「島根原発2号機再稼働反対」のためにこれまで取り組んできた活動を紹介しながら、「絶対に再稼働は認めることはできない。今後も運転停止を求めて,がんばる」と決意の表明がありました。

最後に「能登半島で起きた地震のメカニズムすら、中国電力は説明することもせず、自ら行った活断層の連続評価は信頼を失っています。また、大規模地震と原発事故が重なれば、多くの住民は、屋内退避もできず、避難も困難になることは明らかです。このことは多くの住民により一層の被曝を強いてしまうことになります。」「中国電力も再稼働を許した自治体も,このような問題に目を瞑り、再稼働に突き進んできました。住民の犠牲すらいとわないような安全軽視の再稼働強行は、断じて許すわけにはいきません。災害対応すら困難が付きまとうことの不安を抱きながら,とりあえず動かすことに同意した行政に対しても、あまりにも無責任だと強く抗議したいと思います。」「中国電力には、住民に被曝を強い、暮らしを根こそぎ奪う権利などありません。私たちは島根原発2号機再稼働に断固として抗議し、島根原発2号機の廃炉を求めます。」と集会アピールを全員の拍手で確認し集会は終了しました。

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当初屋内集会終了後、屋外でのスタンディングが予定されていましたが、雨風が強いため、場所を会場内に変更し、シュプレヒコールを繰り返した後、プラスターを掲げて「原発はいらない」の声を上げ、再稼働反対集会を終了しました。

いのちとうとし

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2024年12月20日 (金)

ベトナムの歴史(その35) ― ベトナム Now Ⅷ―

ベトナム戦争終結から50年

1975年4月30日、北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線によるサイゴン解放(陥落)でベトナム戦争は終結しました。翌年7月、悲願の南北統一を遂げ、国名をベトナム民主共和国(北ベトナム)からベトナム社会主義共和国に改称しました。幾度も触れましたが来年、「南部解放(ベトナム戦争終結)50周年」を迎えます。

以降半世紀、ベトナムの歴史は「国家建設と祖国防衛闘争」(ベトナム中学校歴史教科書)の1975年~1985年、ドイモイ政策の始まった1986年からアセアン加盟を果たした1995年、2000年代以降~今日までの高成長と大別できます。

ベトナムとカンボジア、フランス植民地支配との戦い

ベトナム戦争後の10年間は「国家建設と祖国防衛戦争」と呼ばれるカンボジアとの紛争と中越戦争の時期です。理解し易くするために、少し長くなりますが遡ってカンボジアとベトナムの関係を概観します。

カンボジアは1862年以降、君主制を存続しつつ、ベトナムやラオスとともに仏領インドシナ総督府に統治されるフランスの植民地でした。フランスはカンボジアの植民地支配を間接統治の形態にし、ベトナム人の役人を使い苛烈な支配しました。この時の厳しい間接統治によって、カンボジア人がベトナム人への強い反感を持つようになったと言われています。

1930年2月、ホー・チ・ミンらがベトナム、ラオス、カンボジアの共産主義勢力を統合してインドシナ共産党を結成し、民族独立闘争を展開します。1940年9月23日、日本軍が北部仏印(ハノイ)に侵攻し、翌1941年7月28日に南部仏印(サイゴン)侵攻します。日本軍はカンボジア、ラオス全域に展開し、インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)はフランスと日本軍による「二重の支配」に置かれます。

そうした1941年5月、インドシナ共産党を核にベトナムの独立を目指すベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され、抗仏闘争・抗日闘争が戦われます。ます。1945年8月15日の日本の敗戦以降、再びインドシナ3国の支配に乗り出したフランスとのインドシナ独立戦争が始まります。ベトナムは1954年5月ディエンビエンフーの戦いに勝利し、フランス支配から脱しました。その後はご存知の通り、フランスに代わったアメリカが介入したベトナム戦争が1975年4月30日のサイゴン解放まで続きます。

フランスからの支配を脱したカンボジアの曲折

フランスと日本の二重統治下にあったカンボジアのノロドム・シアヌーク国王は、1945年3月9日のインドシナ駐留日本軍のクーデター(明号作戦)に便乗し独立宣言を発します。しかし、日本の敗戦で再び侵攻したフランスの保護下に戻り、独立は消滅します。その後もシアヌークは各国世論に訴えながら独立運動を続け、1953年11月に独立を果たします。

しかし、シアヌーク独裁体制のもとでフランスや中国の企業が経済を抑え、農村の疲弊が進む中で1951年に結成されたカンボジア共産党のクメール・ベトミンが、反政府勢力として伸張します。ベトナム共産党の指導で作られたクメール・ベトミンのNo.3だったポル・ポトは、1963年に親ベトナム派幹部を暗殺し共産党(クメール・ルージュ)の実権を握ります。クメール・ルージュは「反シアヌーク」「反王制」キャンペーンを強めますが、シアヌークの弾圧によってジャングルの解放区に逃げ込みます。

米軍と親米政権と戦う「戦場の友」

一方、シアヌークは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南ベトナム攻撃にカンボジア領を使うことを容認し、アメリカと南ベトナムとの関係が悪化します。かたや中国と「友好不可侵条約」を締結し、関係を深めていきます。1970年3月、ロン・ノル将軍によるシアヌーク政権打倒のクーデターが起こり、国家元首のシアヌークは訪問先の中国に亡命します。クーデターの背景にはニクソン米大統領が、反米姿勢を強めるシアヌーク政権を倒し、南ベトナム解放民族戦線への物資輸送を遮断するためにCIAを使ったと言われています。

亡命政権(カンプチア王国民族連合政権)を立ち上げたシアヌークは、ロン・ノル政権への抵抗を呼び掛けます。北ベトナムはデモや反政府行動を武力鎮圧するロン・ノル政権と戦うクメール・ルージュに大量の武器を提供し、カンボジアは内戦に突入しました。ベトナム系住民40万人が盾として抑留・虐殺される事態に、北ベトナム軍はカンボジア国境配備の部隊を投入しロン・ノル政権軍と戦闘に入ります。

1970年4月、アメリカはロン・ノル政権支援のため南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアに投入し、ベトナム戦争はインドシナ戦争へと広がりました。

「安全への逃避」でピュリッツアー賞を受賞した沢田教一が亡くなったのがこの時です。10月28日午後3時過ぎ、UPIのプノンペン支局長と取材に出かけた沢田教一(34歳)は翌日、銃弾を浴びた遺体となって発見されました。下の写真は1970年5月24に撮影されたものです。

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「トンレベトの戦闘で家を失った二人の老人が、若者に連れられて避難する。沢田はこの二組の人を数時間にわたって追跡取材した。これは、沢田の死後、1970年のロバート・キャパ賞を贈られた一連のカンボジア取材の中心となる写真である」(写真集『サワダ』)と説明が添えられています。

腐敗と弾圧を強めるロン・ノル政権への反感の高まりとともにクメール・ルージュの解放区は次第に広がります。ベトナム戦争も1973年1月のパリ和平協定に基づく米軍撤退を境に終結に向かい始めます。

1975年4月17日、北ベトナム軍に支援されたクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させ、親米ロン・ノル政権を倒しました。ベトナムはその2週間後の4月30日、南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍は南ベトナムの首都・サイゴンを解放し、親米ズオン・ヴァン・ミン政権を倒します。

ベトナムとカンボジアはフランスの植民地支配に対しともに戦い、その後はともにアメリカ軍と国内の親米政権と戦う「戦場の友」でした。

1975

1975年4月17日、プノンペン陥落

忌まわしきポル・ポト時代

ところが、1975417日はカンボジアの人びとにとって、忌まわしき大虐殺のポル・ポト時代の始まりの日になったのです。そして、ベトナムは「サイゴン解放」の翌日、197551日にポル・ポトから攻撃を受け、長きにわたる「祖国防衛闘争」を強いられることになったのです。

このことを理解するためには、1975年から79年のポル・ポト政権崩壊まで繰り広げられた大虐殺を見なければなりません。その後1991年10月の「パリ和平協定」まで、ベトナムが支援するヘン・サムリンが国家元首のカンプチア人民共和国政権とポル・ポト派、シアヌーク派、ソン・サン派の三派連合政権との間で10年余の内戦が続きます。

この背景についても、冷戦構造や中ソ対立(国境紛争)、ニクソンの電撃的な訪中で始まった米中関係の正常化の動き、これらとインドシナ情勢との関わりを俯瞰しなければなりません。1973年にベトナムとの外交関係を結びながら、1990年代まで何らの関係構築を進めなかった日本の姿もこれらを通して浮かび上がると思います。

気軽に「ベトナム戦争後の50年」を振り返りながら、「ベトナムNow」へと歩む旅に出ましたが、出足から手間取っています。次号でベトナムが「祖国防衛闘争」としている1978年の「西南部国境防衛闘争」(カンボジア)と、1979年の「北部国境防衛闘争」(中国)について見てゆきたいと思います。

2024年1220日(あかたつ)

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2024年12月17日 (火)

江戸・戦前の広島を発見!

旧日銀広島支店で「江戸・戦前の広島を発見!」、22日までの会期で開催されています。

どんな展示になっているか興味がありますので、厳しい寒さの中、昨日会場を訪れました。

会場は行ってすぐに掲げられている「はじめに」には次のように書かれています。

「この企画展は、写真などを通し、広島の街で人々が大切にしてきたものや文化に触れ、皆n影響で古いものは残っていない』といわれ広島市ですが、実は多くの史料が残されています。今回は、それらの中から,現在の広島に暮らす人々にもなじみの深い場所と共に、江戸時代から戦前までの広島市で、人々が喜び祝った管絃祭にまつわる写真を選びました。」

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解説文に引用されているのは二つの書籍です。

一冊は、中島豪一著「古地図と歩く広島」です。

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もう一冊は、薄田太郎著「がんす横丁」です。この本は4分冊になっています。

これらを下に「中島町、広島商、流川・幟町・胡町界隈・旧台屋町・京橋界隈、二葉の里界隈、広島駅周辺、比治山とその周辺、宇品界隈、豪華な御供船で賑わった京橋・本川、幟町周辺」の戦前の様子を映した写真とその解説が展示されています。2冊の本は、私も所持していますので、見覚えのある資料が並んでいます。

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紹介したいのですが、展示されているものは、撮影禁止ですので、チラシの裏にあった写真の内2枚を紹介します。左は猿猴橋、右は御幸橋です。

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熱心に見ていましたので、「興味がありますか」と岡部喜久雄さんから声をかけられました。

岡部さんは、この企画展に関わっておられる一人です。岡部さんとは初対面でしたが、いろいろ興味ある解説をしていただきました。

「このコーナーは、私が作ったものが展示されていますので、写真を撮ってもらってもかまいませんよ」とのこと。展示物の最後の方にこのコーナーはあり、特に戦前の戸別詳細地図があります。

その一枚です。

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米軍が原爆を投下する直前の7月25日写した航空写真とそこの写っている街の当時の戸別地図が並べてあります。右側の地図の上には、幾本ものピンが立っています。このピンは、これまでこの地図を見て、「私の家だ」とか「親類の家だ」とかの情報が寄せられた家でそうです。

こんな地図もありました。

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下部の青丸は「西」と書かれています。森滝市郎先生の岳父西晋一郎宅です。現在の県立美術館のすぐ北側に「西晋一郎旧宅」の看板があり、実際にはどの辺りに家があったのかと思っていましたので、興味ある地図です。岡部さんに話すと、「その通りです」と教えていただきました。

他にも,原民喜が被爆した実家も地図で見つけることができました。岡部さんから「原家は、お父さんの代に家を平屋に建て直した時、頑丈な造りにされたので、爆風でも倒壊しなかったのですよ」と教えていただきました。

さらに「爆心地から約950メートルの距離しかなかった流川教会の牧師だった谷本清さんが、なぜ生き残ることができたのかと不思議に思っていたのですが、娘さんの近藤紘子さんに尋ねたら、『牧師の宿舎が縮景園の近くにあり、そこで被爆したからです』と教えていただきました」などなど、いろいろな情報を提供していただきました。

「もし興味があったらぜひ訪ねてきて下さい。いろいろ資料を持っていますので」とお誘いを受けました。

博識な岡部さんには、聞きたいことが山ほどありますので、ぜひその機会を作りたいと思います。

午後4時過ぎの会場を訪れたので、少し時間が足りない感じですが、有意義な「江戸・戦前の広島を発見!」展示会の見学になりました。

いのちとうとし

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