「広島ブログ」

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文化・芸術

2023年6月 2日 (金)

ライブ・イン「浄土の真宗」―念仏の平和コンサートin広島別院

友人に誘われて,昨日午後1時半から本願寺広島別院本堂で開催された「ライブ・イン『浄土の真宗』―念仏の平和コンサートin広島別院」に行ってきました。

広島別院では、偶数月の1日に「広島別院豊耳会(ほうにかい)仏教講座」が開催されていますが、今月は特別に「コンサート」が行われることになったようで,私も誘っていただきました。

出演者は、「近藤龍麿&天白真央 with Hobo’s」です。このメンバーは、名前が出ている二人の「シンガー・ソングライター」を中心に、<平和への願いと如来の大きな慈悲の心>を歌い続ける真宗大谷派僧侶によって構成されています。

今回は、「近藤龍麿&天白真央 with Hobo’s」にとっても待望の被爆地広島でのピースコンサートだったようです。

コンサートではありますが、仏教講座の一環として開催されましたので、参加者全員による「讃仏偈」の唱和からスタートしました。私は、教本もありませんので、ただ最初と最後の念仏を唱えるだけでした。

「讃仏偈」(さんぶつげ)の唱和が終わると、いよいよコンサートの始まりです。

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最初は、近藤龍麿作詞、近藤龍麿・天白真央作曲の「南無阿弥陀仏」の演奏です。

8人のメンバーに加え、地元の女性4人のコーラスが入ります。コーラスの4人は、西本願寺派、東本願寺派のそれぞれ2名づつで構成されていました。

この歌だけ歌詞を印刷した資料が配付されましたので、その最初を紹介します。

ナムアミダ ナムアミダ

ナムアミダブツ ナムアミダブツ

我らは迷いの人 弥陀の船に乗り

これで最後の 人生(いのち)を生きる

雲はわき雨が ふりそそぐ

大地につながる いのちの音

(以下略)

この歌が終わると「近藤龍麿&天白真央 with Hobo’s」によるコンサートです。

71歳の近藤龍麿さんを最高に全員が60代の僧侶ですが、10数曲の歌が休みなしで続きました。

その内3曲だけ、核に関わる歌が披露されました。

タイトルは「一本の鉛筆」、原発銀座と言われる福井をテーマにした「若狭の海」そして原発事故後の福島県飯舘村で作られた「ふるさと」です。

「一本の鉛筆」は、1974年の第1回広島平和音楽祭で、美空ひばりが歌った歌です。この歌を独唱した天白真央は、「広島で歌うことに深く気持ちが入っています」と話した上での歌唱でした。

歌われた歌は、全て仏教との関わりや人の生き様に関わるもので「念仏と平和コンサート」のタイトルにふさわしいものだったような気がします。

本願寺広島別院本堂という特別の場所で聞くこれらの歌は、いつもと違う思いで聞くコンサートでした。

いのちとうとし

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2023年5月13日 (土)

「国際平和文化都市の基(はじまり)」展

基町のユニテで、明田フォトプロジェクトが主催する「国際平和文化都市の基(はじまり)」展が、4月21日から5月21日(木・金・土・日の12時~17時)までの会期で開催されています。

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私は、11日の午後に行ってきました。

展示されている写真は全て、写真工房を構え、仕事の傍ら60年以上にわたって復興した町や人びとの暮らしをとり続けた明田弘司さんが撮影されたものです。

会場は、明田さんの写真を中心に3つのタイトルで編成されています。

第1のタイトルは「児童文学館」・「焦土広島の児童たちのために」で、戦後の広島で最初の文化施設児童館が、「終戦の翌年の苦しい時代に小学校教師60人が結成した『広島児童文化振興会』が企画した『児童文化センター』構想の中心施設として建設された」と記されています。下の写真では、第1のタイトルが切れてしましましたが。

この構想の中で、児童文学館は、教師が中心とした民間人の活動によって建設され、昭和23年(1948年)5月3日という早い時期に開館式が行われてということに注目したいと思います。

ここで、「なぜ子どもの日の5月5日ではないのか?」と疑問を持たれる人もあるかもしれませんが、5月3日のブログ(76歳となった日本国憲法: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))に書いたように、「国民の祝日」が公布されたのは、1948年7月20日からですので、まだこの時には、「こどもの日」は定められていませんでした。

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第2は「児童図書館」・「広島の子どもたちが夢と希望をもつように、子ども図書館を立てて欲しい」で,この建物は、戦前に移民した人たちによる募金で建設されたことが次のように書かれています。

「戦前から移民を多数送出した広島県。ふるさとの惨状を伝え聞いた在外広島県人たちは、大戦中は『敵国人』の扱いを受け、戦後は生活の立て直しに精一杯でありながらも募金活動に励み、被爆後の広島をいち早く支援した。」

児童図書館も市民といっても在外の市民ということになりますが、そうした人たちの援助によって、昭和27年(1952年)12月4日に児童文化会館の近く基町に開館しています。

第3部は「文化のまちへ」・「未来につなぐ、国際平和文化都市ひろしまです。ここで初めて1949年8月6日の平和記念都市建設法公布・施行を機に、文化施設の整備が進んだことが展示されています。

会場の置かれたパンフレットの最後に「未来を担う子どもたちのために」とのタイトルで、次のように記されています。

「被爆後、著しい人口減少や経済的打撃で市は深刻な財政難に陥り、教育など社会の仕組みも一変。戦後の混乱に翻弄され、ものの不足する苦しい暮らしを強いられながらも、児童文化の復興に尽力する市民の行動が、ここ基町で早くも始まっていました。

当時の様子を写真で振り返り、『国際平和文化都市ひろしま』の礎を築いた市民の心意気を,現在そして未来へとつづく<文化のまち>の礎(はじまり)の姿を,今まさに変わりゆくまちの『これから』を、感じていただけると幸いです。」

柔らかな文章で書かれていますが、広島市中央図書館、児童図書館の移転問題での広島市の対応を、過去の歴史の中から厳しく批判している展示会だと思うのは、私だけでしょうか。

著作権の問題があり、明田さんの写真を掲載することが出来ませんが、子どもたちの表情豊かな写真が何枚もあります。またその他にも豊富な資料が用意されており、基町が、戦後の広島文化の基(はじまり)だったことが理解できます。

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また会場には、主催者である明田フォトプロジェクトの梅森美帆さんや明田さんの次女などが常駐されていますので、説明を聞いたり意見を交換することが出来ます。

ぜひ会場に足を運んでいただき見て欲しい展覧会です。

いのちとうとし

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2023年5月12日 (金)

初代「原民喜詩碑」の銘板―つづき

広島県立図書館に展示された「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」の説明板の4項目目には次のように書かれています。

「傷ついた旧詩碑の銘板陶板は、預かっておられた民喜の実兄である原守夫氏のご厚情により、民喜自筆原稿『屋根の上』等とともに当館へ寄贈していただきました。(1978年2月24日受入)」

この文章から、「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が原守夫氏が寄贈されたことがわかります。

ところが、次の5項目目を読むと、ちょっと疑問がわいてきます。5項目目は次のように書かれています。

「なお、この陶板が当館に至る経緯について、豊田清史氏は、次のように書いておられます。『傷つけられた陶板は一応制作者である名古屋の加藤唐九郞氏に送られ、すでに他人に渡っていたが、民喜の文学資料に大切な品と私は考え、唐九郞氏に交渉して返送してもらい、現在県立図書館の郷土資料室の陳列ケースに保管されている。(図書新聞1983年4月9日)』」

疑問とはこうです。4項目目を読めば、間違いなく「原守夫氏から寄贈された」ことがわかりますが、図書新聞に掲載された豊田清史氏の文章には、「豊田さんが、加藤唐九郞氏から返送してもらった」としか書かれておらず、原守夫氏に預けたという記述がないのです。そのため、5項目目では、豊田さんが寄贈されたとも読める内容なのです。

県立図書館は、図書新聞の復刻版を所蔵していますので、1983年4月9日号を見させていただき,確認したのですが、5項目目と同じ文章しか書かれておらず、原守夫さんの名前は出てきません。なぜ豊田さんが、原守夫さんの名前を書かれなかったのか、真意を推し量ることが出来ないのが残念です。

改めて調べていただいたのですが、県立図書館受贈品目録には、はっきりと「1978年2月24日に原守夫さんから寄贈を受けた」ことが記録されているとのことでした。

最後の6項目目は次のように書かれています。

「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていましたが、この度、広く公開するために、開架室で展示することにしました。(平成30年3月13日)」

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このことと関連して脇康治さんの「図書館たより」・「出会い」には、次のように書かれています。

「それから(引用者注:「文芸大柿No.6発刊時」)約30年、県立図書館の書庫で偶然、旧詩碑の碑銘陶板に巡り会ったのです。陶芸家加藤唐九郞制作の、あの傷ついた陶板にです。私は運命的なものを感じました。旧館の時代には、郷土資料のコーナーに展示してあったのだそうです。

旧詩碑建設に努力された人びとのことばにあるように、『彼の平和への祈りを永遠に記念』するものとして、また、民喜を超えてヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』ものとして、現在、展示コーナーに展示しています。(9月29日まで)」

この文章から二つのことがわかります。

一つは、「旧詩碑の碑銘陶板」の展示には、「ヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』もの」としての想いが込められていること。

二つは、6項目に書かれた「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていました」は正確ではないということです。「正確ではない」というのは、脇康治さんが館長に就任されるまでは、「館長室」ではなく「書庫」に保管され、県民の目に触れることはなかったが、脇館長が見つけ出され、一時期展示コーナーに展示された後、館長室に展示され、ようやく平成30年(2018年)になって、現在のように常設で「カウンタ-」に展示されるようになったということです。

もし脇さんの目に触れなければ、今も書庫に眠っていたかもしれません。

ところで、私にはもう一つ気になっていることがあります。脇さんの「出会い」には、大柿高校の文芸誌だけでなく国泰寺高校の文芸誌「文芸進路」も紹介されていることです。文芸誌「文芸進路」には何が書かれているのか知りたくなり、国泰寺高校を訪ねたのですが、「文芸進路」はすぐに見つからず、所在を調査していただくことになりました。見つかれば、原民喜のことや詩碑のことがどんな風に書かれているか、ぜひ読みたいと思っています。

いのちとうとし

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2023年5月11日 (木)

初代「原民喜詩碑」の銘板

広島県立図書館(中区千田町3丁目)に入ってすぐ左手のカンターの奥側に「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が、ケースに収められて展示されています。

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 「旧詩碑」の後ろに取り付けられた2枚の説明板の右側には、詩碑に刻まれている銘文と新しい詩碑の写真が、左側には、この場所の展示された経緯が6項目に分けて書かれています。

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その最初の二つは、次のように書かれています。

「小説『夏の花』で知られる郷土の作家原民喜の詩碑は、最初,広島城跡の被爆した石垣を背景に建てられました。(1951年11月15日)」

「しかし、まもなく佐藤春夫氏起草の碑文を刻んだ裏面の陶板は盗まれ、民喜自筆による『碑銘』を刻んだ表面の陶板(陶芸家加藤唐九郞制作)は、投石などによって傷ついてしまいました。」

実は、県立図書館を訪れてすぐに「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-の由来を知りたい」と館員に尋ねたところ,「ぜひこれを読んでください」と1枚の資料「1996年7月 図書館たより 広島県立図書館報第81号」を手渡されました。

その「図書館たより」には、「原民喜の旧詩碑銘陶板」と「原爆ドーム東側に再建された詩碑」の2枚の写真とともに当時の県立図書館長だった脇康治さんの「出会い」と題した手記が掲載されています。

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その手記の冒頭に次のように書かれています。

「大柿高等学校の文芸誌『文芸大柿』(1965・No.6)に、『文学散歩-近辺文学碑めぐり-』という文章があります。その中で『原民喜の詩碑』については、次のように記されています。

『広島城を歩くと人影もない、ひっそりとした所に,ポツンと一つの詩碑が立てられています。これは広島が生んだ原爆詩人、原民喜の詩碑なのです。雑草の中に埋もれ、建設の縁起を記した佐藤春夫氏の文が刻まれた銅板は、何者かによって持ち去られていました。碑の正面も、子供たちが、標的としてぶつける石で傷つけられ読めなくなっています。

遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ天地のまなか/一輪の花の幻

と書かれた詩が、この傷ついた貧しい詩碑に刻まれているのです。わたしたちは、碑のまわりを掃除し、心ばかりの花を供えて、静かにひざまずいたのでした。』

顧問として案内した時のことを懐かしく思いだしています。」

この文章からは、原民喜詩碑が広島城のどのあたりにあったのかはわかりませんが、当時広島城が子供たちの遊び場だったことや詩碑が傷つき雑草の中に埋もれるなど放置状態にあった様子が想像できます。

説明板に書かれた当時の様子は、この文章を元にして書かれてものだということが理解できます。「文芸大柿」には、1965年の何時頃この場所を訪れたかは書かれていませんが、原爆ドーム横に新しい詩碑が建立されたのが、1967年7月29日ですので、旧原民喜詩碑の様子が、これでよくわかります。

原民喜詩碑が再建された際に作られた報告集「原民喜詩碑再建記念」には、詩碑が傷ついていたことについて、冒頭の「原民喜詩碑の再建について」の最初に次のように書かれています。

「この度、原民喜の詩碑を,十幾星霜にわたって痛ましく傷つけられた儘になっていました広島城跡から・・・。そもそもこの原民喜詩碑が、毀損されたにつきましては、彼を識るものも識らぬものも,心を痛めますこと久しく,修復と保存について・・・」(原文のまま)

図書館の説明板の3項目は、「原民喜詩碑が原爆ドーム横に再建された」ことが記されています。

4項目以降に、詩碑再建に伴って、撤去されることになった「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が県立図書館にたどり着き、展示されるまでの経緯が記されていますので、その内容を次回紹介します。

いのちとうとし

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2023年4月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その46) 「ベトナム象、広島を歩く」エピローグ1 ~なぜベトナム象は日本に来たの~

享保って、どんな時代

これまで9回にわたって第8代将軍・徳川吉宗が買い求めたベトナム象が、長崎から江戸まで75日間かけて歩いた旅を駆け足で追ってきました。今号から何回かにわたって、エピローグを書きたいと思います。

ベトナム象が来た享保13年(1728年)頃は、どんな時代だったのでしょう。

慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開闢(かいびゃく)され120年余り経った江戸時代中期、第8代将軍吉宗の時代です。戦国乱世を経験し、心身の鍛練に励む豪壮武勇な気質の江戸初期から大きく変わってきます。泰平の時代に移り武勇より能吏が求められ、軍事による武断政治から経済・政治の文治主義に転じます。新田開発に伴う農業技術や器具の改良などによる生産性向上と貨幣経済の発展を受け、いわゆる元禄文化が花開きます。一方、華やかで贅沢な暮らしに慣れ親しみ、武士気質は変貌し、側用人政治が幅をきかせ幕府財政は逼迫します。

ベトナム象が来たのは、こうした中で徳川吉宗が将軍(1716~1745年)に就き、殖産や倹約の奨励などの財政再建、目安箱設置や側用人廃止などの行政改革による幕府権威の立て直しを図る「享保改革」(現代版「行財政改革」)を断行していた頃です。すなわち、政権に就いた吉宗が幕府権威の復活と行財政改革を両輪で一体的にグイグイと進めていた時代です。

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徳川吉宗像:徳川記念財団蔵、出典:ウィキペディア

なぜ、吉宗は象を買った?

では、なぜ、吉宗は象を買い求めたのでしょう。

確かに吉宗は好奇心旺盛で新しいもの好きな「暴れん坊将軍」だったようですが、一方、「頭が良く、切れ者の理論家」、「武芸や絵画にも優れた文武両道の将軍」だったようです。逼迫財政を立て直す行財政改革と低下する幕府権威の復活に邁進する吉宗が、単に新しいもの好きというだけでベトナム象やペルシャ馬、インド産の白牛を高い金を払って買うとも思えません。

長崎奉行所の役人だった近藤重蔵(注1)が著した『安南紀略藁(あんなんきりゃくこう)』(注2)に、「象之益者出戦之時、先備へに相立申候。牡象三歳に成り、 乳放し致候、而から段々教込熟練いたし候。而後出陣之節、筒重さ四十八貫目程石火矢を一挺豪に仕掛け、象の背の上に置き、象遣ひ二人騎り居り候。而則石火矢を打放し懸け仕候(中略)牡象は十五、六歳より軍用に立、牝象は種を取候迄に而、軍用には立不申候」という一文があります。

“象は戦の時、先陣として役立ち、乳離れした頃から教え込む。象の背に重さ48貫目(180kg)程の大砲1門を置き、象遣い二人が乗って大砲を撃つ。雄象は15~16歳から軍用に使える。牝象は子を産むが軍用にはならない”とのことです。

洋の東西を問わず、象の描かれた戦絵が数多く残されています。吉宗もオランダ商館から手に入れた書物や伝聞から、軍用象としての活用と繁殖を意図して雄雌各一頭買い求めた可能性があります。ペルシャ馬も幕府直轄の牧場を作って品種改良したことや、ドイツ人馬術師を招き洋式馬術の導入を図ったことなどとあわせて考えると、軍用象を開発する目的で買ったという推論もあながち間違いではない気がします。

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出典:ともにAfloより

江戸に着いた翌年に「払い下げ令」(今日の規制緩和による民間への市場開放に当たる)が出されたことは前号で紹介しました。その「令」が出されて11年後に中野村の源助らに払い下げられるまでの12年間過ごした「浜御殿」が、吉宗の「享保の改革」によって、将軍家の別邸から薬園・製糖所・鍜治小屋・火術所・大砲場などを備えた殖産と軍事に関する研究施設になっていたことを考えると、〔軍用象として買い求めた〕という推論は確信へと傾きますが、記録がなく(あるのかも知れませんが、知り得ませんので)確証はありません。

判断は皆さんにお任せします。

なぜ、ベトナム象は海路でなく陸路で江戸に向かった

昨年11月5日の「ベトナム象、広島を歩く(その2)」で、「ベトナムから船で来たのなら、なぜ船そのまま江戸まで運ばなかったの」と尋ねられ、「ウーン・・・、歩かせることに意味があったのじゃないの・・・」と答えたことを紹介しました。この点についても、そろそろ考えてみたいと思います。

家に簾をかけ外に出るな、煙を出すな、音を出すな、牛馬・鳥まで除け・・・・との長崎奉行所の御触れを思い起こして下さい。どうも、珍獣を江戸っ子だけではなく、沿道各藩の人々にも見せてあげたかっのではなさそうです。しかし、“「見るな」と言われると、余計に見たくなる”のが人情です。こうした心理のことを「カリギュラ効果」と言うそうですが、聡い吉宗は「禁じても、“あの手この手”で人々は見るだろう」とも予測していたでしょう。

すると、陸送の狙いは如何に・・・・

緩んできた士風や幕府の権威を立て直すために、海上ではなく陸路で運ばせた・・・・。長崎奉行所(幕府)の御触に、〔沿道各藩がどれだけ違(たが)わず忠実に従い、安全かつ迅速にベトナム象を送り継ぐか試した〕と考えられないでしょうか。さらに、禁じれば禁じるほど人々は見たがります。話しは広がり瓦版にも載り、象人気は湧き象ブームも起こります。これまた〔幕府にとって無為なことでは無い〕と読んでいたのかも知れません。

この判断も読者の皆さんにお任せします。

次号では、象を送り出したベトナムはどのような時代だったのかを見ることにします。

(注1)近藤重蔵:幕臣(旗本)、寛政7年(1795)、長崎奉行手付出役として赴任。文化5年(1808)から11年間、江戸城紅葉山文庫の書物奉行を務める。生涯に32分野に関する1500巻に及ぶ著作を残した地理学者、書誌学者として知られている。

(注2)安南紀略藁(あんなんきりゃくこう):近藤重蔵が長崎奉行所の時代に書いた安南の歴史・風俗・言語・地誌などに関する書物。

(1796年完成、2巻3冊)

(2023年4月5日、あかたつ)

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2023年3月30日 (木)

原民喜詩碑修復工事―銘板の取り付け

33日のブログ「原民喜詩碑」の修復: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した原爆ドーム前にある「原民喜詩碑」の銘板の取り付け作業が、昨日午前11時から始まりました。

前日に広島市の担当者から連絡が入っていましたので、午前11時前に現場に行きました。現場に着いたときには、すでに作業が始まっていました。

最初の作業は、銘板が取り付けられる箇所、特に角の部分の修正作業です。

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それが終わると、銘板を碑本体に接着させるためのセメントが塗られていきます。接着剤など使用される場合もあるようですが、今回はセメントが使われています。丁寧な作業が続きます。

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セメントを塗り終わると、いよいよ銘板の取り付けです。銘文が書かれている部分は、まだ紙で覆われています。セメントとの接着面は、グレーの色です。元の黒い面とは大分違います。業者に訊ねると「こちらの面は、研磨をかけていないので、乱反射するために白っぽくみえますが、きちんと研磨すると黒御影石の黒色になります。」との答えです。少し不思議な気がします。

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銘板と碑本体のすき間の余分なセメントを拭い取ります。「今日は、銘板の紙は剥がしません」と言われていましたので、今日は新しい銘板を見ることが出来ないなと諦めていたのですが、銘板側のセメント拭き取るため、上の紙がはずされました。

新しい銘板を見ることが出来ました。

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銘板に刻まれた文字は、古いものをすべて再現することは出来ませんので、できるだけ近い文字をコンピューターで選び、刻印したということです。

ただ,この銘板の文章の作成者である佐藤春夫の名前など、終わりの3行だけは、元の文字を活かした修正したとのことでした。

セメントの拭き取り作業が終わりましたが、銘板が定着するまで,銘板がずれたり、とれたりしないように養生されました。

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この養生を取り除く作業は、31日に行われますので、それ以後は新しい銘板が、この地を訪れた人が見ることが出来るようになります。

今回の修復作業では、正面右上にあった欠けの部分も修復されています。

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修復された場所は、白くなっています。見たところ、周りとの色の違いがあまりにも目立つ気がしました。

しかし、この部分も研磨されて,ほぼ周りとの違いがわからなくなりました。

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 これで予定されていた修復作業は終了しました。いろいろな人の思いがこもって建立された「原民喜詩碑」。修復作業以前と全く同じというわけにはいかなかったようですが、文字などもはっきりと読めるようになりました。

いのちとうとし

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2023年3月 9日 (木)

峠三吉詩碑前祭

日曜日の3月5日午後2時から、広島文学資料保全の会と四國五郎追悼の会の呼びかけで平和公園内の原爆詩人峠三吉詩碑の前で、「峠三吉没後70年・碑前祭」が開催されました。

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「峠三吉碑前祭」は、1963年にこの碑が完成してから、5年ごとに開催されていたようですが、没後50年にあたる2003年を最後に、開催されずにきたそうです。

しかし、今年は没後70年というだけでなく、ロシアによるウクライナ侵略の中、核兵器使用の威嚇が現実味を帯びてきたにもかかわらず、日本政府は核兵器禁止条約に背を向けている現在、峠三吉の「原爆詩集」は、人類への警鐘を鳴らし続けている意味を改めて、思い起こすことが大切だと開催することになったようです。

当日は、約100人が参加しました。

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全員での黙祷の後、主催者を代表して千葉県東金市から参加された原爆資料保全の会顧問の水島裕雅さんが、「命を懸けて原爆詩集を書いた峠さんは今、何を思っているだろう。怒っているのか。深い悲しみで今の状況を見ているのではないか。『何とかしろ,何とかしなければならない』と峠さんに言われているような気がする」とあいさつ。

次にこの峠三吉詩碑の設計をした四國五郎の長男光さんが「峠さんに関わるすべてをやるという強い思いがあった父は、碑の階段部分を含めて設計した。シベリアから帰国した父はすぐに峠さんに会い、『本当にいい人に巡り会えることが出来た。本当にありがたい』と心の底から思った。私は、碑文の『にんげんをかえせ』を最初に読んだとき、『原爆犠牲者を返せ』と思っていたが、父は『人間性を返せということ』だといった。人間性を奪うものは絶対に許さないということを呼びかけると同時に誓いの言葉でもある。峠さんの詩集は、人類に残した貴重な遺作だ」と話しました。

その後、あいさつやメッセージの紹介、献花に続き、原爆文学を研究する大学生や、峠と知友を描いた演劇作品「河」の出演者によって「原爆詩集」に収録された4作品の朗読がり、碑前祭は終了しました。

その後参加者は、峠三吉の墓がある西應寺に移動し、お墓に献花するとともに本堂を借りて、懇談会が行われました。

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この峠三吉碑前祭と呼応するように原爆資料館地下1階情報資料室では、峠の没後70年に合わせた企画展が開かれ、代表作「原爆詩集」の草稿や本人直筆の日記などが展示されています。普段は非公開の資料が特別展示されていますので、私も行ってきました。

この特別展示は、13日までの開催ですので、ぜひ見に行って欲しいと思います。

いのちとうとし

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2023年3月 3日 (金)

「原民喜詩碑」の修復

原爆ドームの東側に原爆作家の「原民喜詩碑」があります。

先日、原爆ドームを訪れた時、原民喜詩碑で作業している姿が目に入りました。

作業中の方に「何をされているのですか」と尋ねると、詩碑の一部に壊れたところがあるので、その修理を行っているということでした。

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私が目にしたのは、作業は、詩碑の裏面の「原民喜詩碑の記」を取り替えるため、古いものを取り外しているところでした。

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「今日は取り外しただけで、しばらくして新しいものを取り付けます」とのことです。

「壊れたのですか」と問うと、「壊れたわけではありませんが、真ん中ほどにひびが入ったので、新しいものに取り替えることになったのです」とのことでしたので、無理にお願いをして、すでにトラックの積まれていた取り外した古い石板を見させてもらいました。

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「原民喜詩碑の記」に記された文章については、修復が完了したときに紹介したいと思っていますが、確かに白い亀裂があります。小さな亀裂ですので、よく見ないとわかりませんが、写真の左側の「天」の文字から右斜め下の「生」の文字にかけて走っているのがわかります。

原爆ドーム前の集会に参加し、再び前を通るとすでに作業は終わり、裏面はブルーシートで覆われ「お知らせ」が書かれた紙が貼ってあります。

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最後の一行に「広島市都市整備局緑政課」と書かれていましたので、後日広島市緑政課を訪ねて話を聞きました。

担当者の話によれば、「この亀裂が見つかったのは、2014年市民からの通報で知りました。現地を調べたとき、石材業者に確認したところ、人為的に壊されたものではなく、経年劣化によって発生した亀裂だとわかりました。修復も考えたのですが、当時は予算のこともあり、すぐに修復することは出来ませんでした。ところが、昨年末になって碑そのものの角がかけているという情報提供があり、検討した結果、裏面も含めて修復することにしたものです。」

さらに「裏面の『原民喜詩碑の記』は、取り外したものを業者が持ち帰り、元の文字と同じような状態になるように作り替えることにしていますので、少し時間がかかると思います。」とのことでした。

実は、緑政課を訪れる前に原民喜の研究者である竹原陽子さんから、この情報の提供は受けていました。2014年も昨年も,広島市に情報を提供したのは竹原さんや原時彦さんたちだったそうですが、竹原さんは私が連絡して初めて「修復が始まった」ことを知ったようです。

原民喜が亡くなった日3月13日には毎年「花幻忌」が開催されていますので、それまでには修復が完了すると思い、「裏面の修復が行われる日が決まったら連絡をください」とお願いをして帰りました。

いのちとうとし

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2023年2月 7日 (火)

ヒロシマとベトナム(その43)ベトナム象、広島を歩く-7

ベトナム象は「飢坂(かつえざか)」を登った?

大山峠を下った西国街道は八本松駅の南に位置する県教育センター前の道を東に進みます。そして八本松東のシャープの工場内を通って「材修場跡の碑」までほぼ平坦な道が続き、そこから四日市宿までの最後の登り、「餓坂」を越え西条の町へと入ります。船越さんに「餓坂」入口までお連れいただいたので、近いうちに歩いてみたいと思っています。

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「電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅 本郷宿から安芸中野へ 最高地点 松子山峠・大山峠越え」からお借りしました

案内板に「江戸時代にここを西国街道が通り、この峠の西側(八本松側)を飢坂と言います。江戸時代、飢饉の時、ここで多くの人が飢えて力尽き亡くなったことから、この地名になったと伝えられています。」と由来が書かれています。

ベトナムの像が西(八本松側)からこの峠を登った享保14年(1729年)には既に「飢坂」と呼ばれていたのか、いつごろから「飢坂」と呼ばれるようになったのかを調べてみました。下表はウィキペディアなどを基に作成した江戸時代の4大飢饉の表です。

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江戸時代の4大飢饉に関する広島藩の動向を広島県文書館作成の「広島県史年表」から探ってみました。寛永大飢饉(1642年)には、「百姓作食、種米に難渋する者多く、餓死者少なからず、凶作は正保元年まで続く」とあり、少なからぬ餓死者があったと思われます。その他、飢饉に関するであろう動きは「幕府、在々での酒造を禁止する」、 「広島藩、倹約に励み耕作に精出すべきとの幕令を領内に布達する」だけでした。

享保の飢饉(1732年)に関しては、「うんか大発生、広島領の田畑損毛31万4,028石余に及び、翌春まで飢人32万4,255人、餓死者 8,644人。福山領の田畑損毛5万2,917石に達し、翌春までの飢人2万830人、 餓死者731人に及ぶ」と書かれています。その他にも「飢饉救済のため郡中に救援米を支給」、「酒造りを 3分1造りに制限」、「町郡中飢人救米3万3,470石、家中扶持米不足の者への貸米1万2,000石余、 計4万5,470 石余放出する」などの記述があります。

天明の飢饉(1782年)」に関しては「気候不順により凶作、広島領の田畑損毛11万690石余に及び、飢民少なからず」のみ。天保の飢饉(1833年)に関しては藩内の飢饉に関するものはなく、「広島藩、幕命により、米払底の江戸に1万1,400石余を廻米する」というものだけでした。

江戸時代、広島藩を襲った96回の災害・飢饉

 私が所属する東広島郷土史研究会の12月例会で蔵楽恭子さんが「『社倉(注1)』を通してみる近世の農村・村役」について研究報告されました。その時頂いた資料(飯田米秋著『東広島近世年表』)に、賀茂郡原村でいなごの虫害が発生、洪水で水漬かり(天保2年、1831年)。肥前の国(注2)の者、原村で行き倒れ死亡(天保3年)。広島、福山両藩とも旱、冷害による損耗甚大(天保4年)。天候不順、大凶作(天保5年)。春から秋にかけて洪水、凶作、大飢饉となり餓死者多数出る。賀茂郡志和村、西野村(注3)、造賀村に百姓一揆起こる。原村八幡神社で施しの粥が炊き出される(天保7年)。路上に死者多数出る、疫病流行(天保8年、1837年)とありました。

『広島藩』(土井作治著)によると18世紀以降の広島藩内で記録されている災害・飢饉は96回に及ぶそうで、中でも享保の飢饉も天保の飢饉は相当深刻な大飢饉だったようです。

「飢坂」の名がついたのは西日本各地、特に瀬戸内沿岸に大きな被害をもたらした江戸中期の「享保の大飢饉」か、江戸後期の「天保の飢饉」かのいずれかと思いますが特定できませんでした。しかし、いずれにしてもベトナム象が峠を越えた時には、まだ「飢坂」の名は付いていなかった可能性が高いのではと思います。

3月13日に長崎を発ったベトナム象は歩くこと26日目の4月8日、わがまち西条四日市宿に到着しました。あと2カ月もすると「ベトナム象来宿295年」を迎えます。次号(その44)では、西条四日市宿でのベトナム象をたぐって見たいと思います。

(注1)社倉

飢饉などに備えて米や雑穀を蓄えておく倉のことで、天明飢饉後に全国に広まったもの。

広島藩の社倉は,海田市の儒者加藤缶楽の教えを受けた安芸郡矢野村の神官香川正直の指導によって矢野村・押込村で寛延2年(1749)社倉法による備荒貯麦をはじめたことに由来する。

(注2)肥前の国

   佐賀県全域、および長崎県の壱岐・対馬を除く地域の旧国名。当時は鍋島成義が治めていた。

(注3)西野村

   当時の賀茂郡は竹原市域も含まれており、現在の竹原市西野町。

(2023年2月7日、あかたつ)

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2023年2月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その42)ベトナム象、広島を歩く-6

4月8日、海田宿を出発したベトナム象は、穏やかな日和に恵まれ瀬野川沿いの西国街道を桜を愛でながら東へと進んだことでしょう。「出迎え松」を過ぎた辺りから山手に入り、延々と続く上り坂に入りますが、まだまだ何のことはありません。西国街道は瀬野駅手前を右折、2号線を超え東に向かいます。安芸区一貫田の一里塚を通り、再び2号線を超え、龍禅寺辺りから2号線の左山手を東に向かいます。

海田宿と西条四日市宿との間に位置する一貫田には、俳人の種田山頭火の歌碑が残されるなど、間宿(あいだじゅく)として賑わっていました。

西国街道随一の難所、大山峠

一貫田から瀬野川の北側山手を八本松に向けて上ります。かつてドライブイン前にSL「D51」が鎮座していた辺りを過ぎしばらくして瀬野川を南に渡りさらに上って行きます。下の地図はその辺りを示したもので、「旧山陽道(西国街道)のルート情報」(「Google Earth」)に筆者が手を加えました。

D51は瀬野川公園の一角に据えられています。

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大山峠は安芸郡と賀茂郡の境にある標高337m、麓からの比高は約250mと険しい難所です。次㌻の「瀬野川史跡案内図」には、3月に開通予定の東広島・安芸バイパス上に「瀬野馬子唄発祥地」と「代官おろし跡」と書かれています。

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「代官おろし跡」は余りにも急な坂のため代官様も籠を降り、付き人に後ろから押してもらってようやく峠を越えるたとのことです。籠を降りた場所と伝えられている辺りに安芸ライオンズクラブが建てた碑があります。

瀬野馬子唄は、この急な坂を一石5斗(約225kg)の米を背に振り分けた馬を曳きながら、「瀬野の三里とエー、大山の峠とヨー、大須なわてがなけにゃエー。瀬野の馬さはエー、金つき馬でヨー、夜になってもせいをだす」と唄ったということです。当時の馬は金つき馬と呼ばれる去勢されていない馬で、大変扱いが難しかったそうです。いずれの碑も西日本豪雨災害で壊れたため新たに作られています。

ところで、重さが3㌧を超え背丈5尺7寸(約173cm)だったと伝えられるベトナム象、とても象のお尻を押すことはできません。ベトナム象はどのようにして大山峠を登り切ったのでしょう。・・・・

大山峠を襲った5年前の「西日本豪雨災害」

昨年12月1日、東広島郷土史研究会の「石造物研究会」のメンバー4名で大山峠を探索しました。リーダーの船越さんがベトナム象を追っている私のために特別に企画してくださいました。下の写真4枚はそのときに撮影したものです。

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痕跡を辿ることができないほど崩壊した大山峠(瀬野側)の様子。砂防ダムの工事が進んでいました。

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新たに付けられた道路の右辺りに西国街道があった(?)

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2018年の西日本水害で流失し新たに建てられた碑

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安芸区と賀茂郡の境に建てられた碑

西国街道(旧山陽道)が現在どのようになっているかが分かる写真が下の2枚です。前述の「旧山陽道(西国街道)のルート情報」の「Google Earth」から引用しました。

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写真の中央を横に走っているオレンジ色が西国街道(旧山陽道)です。上の写真の右上部分に巨大な砂防ダムが築かれています。下の写真のオレンジは砂防ダムから西条四日市宿に向かって延びている西国街道で、右隅には八本松西で工事が進んでいる東広島・矢野バイパスが写っています。

(2023年2月6日、あかたつ)

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