「広島ブログ」

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文化・芸術

2025年7月 9日 (水)

「ヒロシマ平和絵画展」

旧日銀広島支店で13日までの日程で「ヒロシマ平和絵画展」が開催されています。

知人の藤登弘郎さんから案内のはがきが届いていましたので、昨日観に行ってきました。

最初の掲示された「ごあいさつ」には、次のように書かれています。

「被爆80年を機に、本展の趣旨に賛同する広島在住のプロとアマチュアの作家が“ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催します。本展覧会を通して平和と核廃絶の思いを共有し、さらに創作活動を高めあい“ヒロシマの心”を未来に繋げていきたいと思います。」

会場に入ると今年89歳になられた藤登さんが元気な姿で受付をされていました。少しだけあいさつを交わして、すぐに作品を見ます。

会場には、画家15人の作品23点が並んでいます。

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最初の展示は、陸軍被服支廠の半開きになった鉄の扉が題材となっています。題材として一番多いのは、原爆ドームです。

藤登さんは、3枚の水彩画を出展されています。3枚とも原爆ドームが題材となっています。タイトルは「ユネスコ世界遺産原爆ドーム」です。

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説明文には「1996年、原爆ドームが核兵器の脅威を物語る証人、平和のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録された。核兵器廃絶を世界に訴える広島の声が国際社会に届いたものと考えている。原爆ドームは無言であるが、生き証人としていつまでも立ちつづけていくよう願っている。」

もう一人の知人、西村不可止さんは、「平和・希望」のタイトルで、紅いカンナの花を描いた作品を出展しています。

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説明文には次のように書かれています。

「被爆40日後には咲いていたという真っ赤なカンナ。焦土に咲くこの花を見て、被爆者は復興に向けてどんなに希望を見いだせただろう。」

野尻純三さんの「核兵器禁止条約」をテーマにした2点の作品には、興味を引かれました。一点のタイトルは「被爆電車 核兵器禁止条約締結行」です。よく見ると、原爆ドームの横を走る電車のヘッドに表示された行き先は「核兵器禁止条約」となっていますし、ボディには「日本」という文字も描かれています。

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日本政府に「すぐに核兵器禁止条約に締結せよ」との思いが込められています。

この展覧会は、5年ぶりの開催です。

絵を通して平和を考えるのも、平和創造の一つの道だと思います。

暑い日が続いていますが、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 7日 (月)

ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ

昨日、午後1時から広島国際会議場で、在日朝鮮青年商工会主催の「부흥(プフン)-チャレンジ! ヒロキョレ」をテーマとした「ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ」が開催されました。ちなみに「부흥(プフン)」とは「復興」という意味です。

広島での開催は、24年ぶりということで、地元広島青年商工会を中心に、現地実行委員会が結成され、一年間かけて先輩の話しを聞き、碑めぐりをし、研究会を実施し、演舞や歌、劇の稽古を繰り返しながら準備が進められ、その成果が披露されました。

地元はもとより全国の青商会のメンバーが参加し、会場一般となり盛り上がった集会となりました。

日朝友好広島県民の会も出来るだけ多く参加しようと申し合わせ、取り組みを進めてきました。

集会の第1部は「復興<広島同胞社会-受け継ぐ歴史と・切り開く未来->で、被爆80年、そして民族解放80年の歴史を振り返る内容です。

最初は、在日朝鮮人にとって被爆80年は何を意味するのか、なぜ多くの朝鮮人が被爆しなければならなかったのか、被爆者の体験をもとに、舞踊、歌、映像で表現します。

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民族解放の歴史は、1955年5月25日に結成された在日朝鮮人総連合会、それに呼応して広島県本部も結成されました。しかし、民族教育への着手は、それよりも早い1946年から。その後の強制解散命令による朝鮮学校の閉鎖。しかし、それを乗り越えて続けられた民族教育の歴史が回想されました。そしてそれは、同時に差別との闘いでもあったのです。

その困難な道を乗り越えてきた在日朝鮮人の人たちの歩みを改めて知ることが出来ました。それは同時、この集会開催に向けて取り組んだ若い人たちが、先人の歴史を知ることにつながる活動となったことが報告されました。

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第2部は、「富興<民族教育100年に向けて>と題して、広島・中国四国民族教育100年に向け手、朝鮮学園の子どもたちのステージとパネルディスカッションが行なわれました。

来年創立80周年を迎える朝鮮学園が置かれている状況、特に入園する子どもの減少などの問題点を率直に語りながら、民族教育、そして在日朝鮮人のよりどころとしての朝鮮学園を100周年に向けてどう改善するのか、が討論されました。

第1部から、共通することですが、在日朝鮮人の人たちにとって朝鮮学園、民族教育がいかに大切なものか、そしてみんなの力で存在し続けさせなければならないとの思いが、強くつよく伝わってきました。

フィナーレは、活力ある新時代!と題し、「オール広島」で、歌、踊り、楽器演奏、太鼓演奏、集団演舞で活力あるパフォーマンスが繰り広げられました。

熱い思いが伝わる「ウリ民族フォーラム」でした。

いのちとうとし

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2025年7月 2日 (水)

「あー」

「島根方言集成」で最初に登場することばは「あー」です。意味、わかりますか。

出雲弁がよくわかっていると思っていた、私にもすぐには、意味が思い浮かびません。

「島根方言集成」には次のように書かれています。

あー ①ある。②会う。出雲」

確かに、と納得です。私が使っていたのはこんなふうです。

「そこにあーがね」とは、「そこにあるよ」という意味で、よく言っていたように思います。「あーに行くけんね」とも言っていました。これは②の「会いに行くから」と言うことを伝えるために使っていたことばです。

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「島根方言集成」を手にする川上正夫君(山陰中央新報より)

 川上君は、2007年頃から「土地ごとに、消えることなく生きてきた言葉がある。方言は『暮らしの言葉、言葉の民衆芸術』と、方言が失われない」ことを願って準備を進めてきたそうです。

私が、「出雲蕎麦ふなつ」で、この本を紹介されたとき、一番に引いたことばは「はしま」です。

小学生だったころのわが家は、農家が15軒ほどが集まる集落(周囲は全て田んぼ)の離れ家を間借りして住んでいました。農繁期と言われる田植えの頃、秋の米の取り入れの頃には、友達と一緒に手伝いというか農作業中に近くで遊んでいて、「はしま」を一緒に食べさせていただいたことを思い出します。

午後の農作業では、午後3時頃になると短い時間ですが、持参した大きなヤカンの番茶?を飲みながら、重箱いっぱいに入ったむすびや漬物や簡単な煮染めなど食べ、雑談をして休憩をします。

その時休憩しながら食べること「はしま」と呼んでいました。麦ご飯を食べていた私には、白米のむすびが食べられることは、忘れることのできない思い出です。

ですから、「はしま」ということばが載っているか、気になったのです。もちろんありました。次のように説明されています。

「昼食と夕食との間食。出雲。大田市。邑智郡美郷町・川本町・邑南町。江津市・浜田市。」

出雲だけのことばかと思っていましたが、石見地方でも使われていたようです。後で川上君に尋ねると「主に石見で使われていた」と教えてくれました。

書くのが遅くなりました、「島根方言集成」は、出雲地方の方言だけでなく、島根県全域、つまり出雲地方、石見地方、そして隠岐地方で使われていることばを集成していますので、訳の後に必ず、どの地域で使われていたことばかが、きちんと書かれています。

これは大変な作業だったはずです。よくぞまとめたものと、わらためて感心します。

私には、もう一つ気になることばあります。

「ばんじまして」です。このことばを読んで、どんなイメージが浮かびますか。

「ばんじました」は、外での農作業を終え、日が落ちうす暗い時期に頃帰宅途中ですれ違った人たちが交わすあいさつの言葉です。

私の記憶どおり、昼間の「こんにちは」と暗くなってからの「今晩は」との中間的に時間帯で夕闇がせまる頃から暗くなるまでのごく限られた時間帯で使われたことばです。広島には、こんな時間帯で使われるあいさつことばがあるのでしょうか。

こんな微妙な時間帯を使い分ける言葉を持っているのが出雲の人たちです。なんとも言えない思いのこもったことばだと忘れるいことの出来ない懐かしいことばです。

「島根方言集成」を手にして、懐かしい出雲のことばを思い出しながら、小さかった頃の遊び回っていた懐かしい頃を思い出しています。

いのちとうとし

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2025年7月 1日 (火)

「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」

今日は、6月17日の松江に帰りました。: 新・ヒロシマの心を世界にで少し触れた島根の出版社ワンラインが5月30日の発行した「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」の紹介です。

出版を通して出雲の文化的魅力を発進し続けてきた友人の川上正夫君が、久方ぶりに出版したのが「島根方言集成」です。地方で出版活動を続けるのは本当に難しいことです。一度は会社を閉鎖したと聞いていましたので、先日「出雲蕎麦ふなつ」でこの本を紹介されたときには、「エッ、まだがんばっているんだ」とびっくりしました。

しかも、自著(これまでに何冊か発刊していますが)として総頁数946頁にも及ぶ大作(辞書であれば、当然のページ数かも知れませんが)ですのでなおさらです。

収録された方言を紹介する前に、「ふなつ」で手渡されたフリーペーパーをもとに、この本の全体像を簡単に紹介します。

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見出し語は、20717語収録されています。そのことばは、方言によって索引するのは当然のことですが、この方言集成がユニークなのは、標準語から方言を探すことが出来るようになっていることです。

方言本文が755頁、標準語索引が149頁です。

このフリーペーパーには、小泉八雲の孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんの推薦のことばがありますので、それを紹介します。

「同書には、自然を畏怖し人や動植物を愛する島根の人々が、古来、語り継いだ言語芸術が満載です。柳田圀男いわく『語源の詮索は本源にこそ必要』で、方言を知ることは自分や日本を知ることだ。八雲一家も、セツを筆頭に、書生さん、お手伝いさんの多くが島根県東部出身で、もちろん家庭内の共通語は出雲弁。セツが語った明治の出雲ことばもきっと本書に収録されているはず。川上さんが心血を注いだ労作を、多くの方が手に取っていただきと願っています。」

私もその通りだと思っています。その地方で育まれた文化、風土を伝えているのが、方言だと言えます。ですから、私は今も、こよなく出雲弁を愛しています。

ところで「島根方言集成」を手にしたとき、私の頭の最初に浮かんだのは、NHK朝ドラの今年後期に予定されている「ばけばけ」です。

この朝来らのモデルこそ、小泉凡さん推薦文に登場する松江藩の没落士族の娘で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻となった小泉セツです。

川上君は、長い間準備してようやく出版にこぎ着けたのですから、まさか出雲弁が登場する朝ドラがこの出版と合わせるように放映されることになるとは、当然想像もしていなかったことと思いますが、天の助けのような朝ドラ「ばけばけ」の放映です。

さて肝心の方言の紹介です。この本を手にしたとき、まず浮かんだのが二つの方言ですが、そのことは明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2025年6月 9日 (月)

映画「声よ集まれ」広島上映会

全国各地の朝鮮学校を支援する日本の市民たちの活動に焦点を当てて作成された映画「声よ集まれ」の上映会が、同映画製作委員会広島の主催で、6日の夕方と7日の午後の2回広島弁護士会館で開催されました。私は、7日午後の部に参加しました。

主催者によると6日は約100名、7日は、朝鮮学校の生徒の参加もあり約200名の観客が、映画を見ました。

広島では、昨年秋に試写会が行われていますが、完成した映画での上映会は、今回が初めてです。全国各地でも上映活動が展開されています。

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映画は、約1時間半の作品で、朝鮮学校の高校無償化裁判以降も続く、朝鮮学校を支援する日本の市民を描いていますが、縦糸では、もっとも地域社会とつながり、若い人達が支援の輪の中にいた(朴さんのことば)滋賀の支援活動を紹介し、横糸は朝鮮学校で学ぶこどもたちの活き活きとした姿が描かれています。ですから、映画の最初と最後は、地域社会を象徴する琵琶湖の湖岸と未来を表す青空の映像が流れます。

映画は、全国各地の朝鮮学校を15年間撮り続けてきた朴英二さんの監督によって作成されていますので、日本の支援者のことも十分に理解した作品になっていると感じました。

上映終了後は、大月純子さんの司会で、朴英二監督とこの映画に出演する広島の二人、広島無償化弁護団平田かおり事務局長、日朝友好広島県民の会高橋克浩共同代表にトークイベントが行われました。

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高橋さんは、繰り返される人権を無視した差別は絶対に許されないことを話し、とりわけ「子どもたちに対し、言われなき差別を行われていることは絶対に許せない」ことを強調し、今後も子どもたちを守るための活動を強化すると表明しました。

朴英二監督は、この作品を作ったきっかけを「朝鮮学校を題材にしたものはこれまで沢山作ってきたが、そのほとんどは子どもたちが主人公。学校を回ると、どこにもそれを支援する日本人がいることを知った。そのことを表したかった」と話し、「これまでの上映会で、若い人たちから『初めて朝鮮学校のことを知った』『何か出来ることが有るのではないか』という声をいただいている」ことを紹介しました。

そして「150時間、100人の取材を通じて、朝鮮学校の魅力とは、母国語、文化を学ぶことだけでなく、学校、教師、子ども、保護者、地域が一体となったコミュニティーが存在する。共同体の価値を見ることができる」「これまで、内からも外からも壁を作っていたが、これからはもっと地域社会とのつながりを大切にしていかなければならないことを学んだ」と、この映画の持つ力とこれからの朝鮮学校支援のあり方を提起しました。

この映画では、日本人だけでなく、在外コリアンにも日本の問題に関心を持ってほしいと、韓国、アメリカやドイツなどヨーロッパに出かけて取材した様子も登場します。

映画を観ながら、朝鮮学校無償化裁判が行なわれているとき、朝鮮学校の子どもたちが行った県庁前や市役所前での街頭行動で、「声よ集まれ 歌となれ‘(ソリヨ モヨラ  ノレヨ オノラ)」の歌を一緒に歌ったことを思い出しました。

いのちとうとし

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2025年5月 7日 (水)

写真展「1945年8月6日より前の広島」

フラワーフェスティバルも終わり、街の様子も少し静かになった連休最終日の昨日、旧日銀広島支店で開催されている「写真展 1945年8月6日より前の広島」に行ってきました。

数日前、会場前を通った時、入り口に立てられた看板を見て気になっていました。

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写真展の最初に次のような解説文があります。

「本写真展は、2025年5月23日から公開映画の『惑星ラブソング』と連動した展示となります。映画『惑星ラブソング』では、劇中に広島の原爆投下より前の街並みを映す写真展がでてきます。本写真展はそれを再現し、劇中で使われた写真や、庭田杏珠さんの広島の昔の写真をカラー化した写真、広島市公文書館、中国新聞に寄与された貴重な写真なども追加して展示させていただきました。(以下略)」

間もなく公開上映される「惑星ラブソング」(映画「惑星ラブソング」オフィシャルサイト)の関連企画のようですので、スタートにはこんな写真が展示されていました。

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会場の左側には、1945年8月6日より前の広島の街の様子を映した写真が、そして右側には、庭田杏珠さんカラー化した写真がならんでいます。

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展示されている写真のかなりの枚数が、これまでにみたことのある写真ですが、初めてみる写真も何枚かあります。その中で気になった一枚です。

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被写体のメインは、川中に立つ子どもを抱いた少女と、川遊びをする子どもの姿だと思うのですが、私が興味を引かれたのは後ろの大きな建物です。「身近な川」のタイトルの下に次のような説明文が書かいてあります。

「デルタの各所に雁木があり、潮が引くと気軽に川に降りることができた。子どもたちにとって川は格好の遊び場だった。写真は元安川で、対岸は大手町の吉川旅館」

吉川旅館の名前を見た時、すぐ頭に浮かんだのはロックミュージシャン吉川晃司です。吉川家が営業を行う「吉川旅館」が、原爆投下1月前まで産業奨励館(現在の原爆ドーム)の対岸の旧中島地区の慈仙寺の鼻にあったという話しを以前に聞いたことがあったからです。

これ写真を見た時、その吉川旅館かなと思ったのですが、説明文には、「大手町」と書かれていますので、この写真に写っている「吉川旅館」は、別の同名の旅館のようですが、「本当にそうかな」と少しだけ疑問が残ります。

そんなことを思いながら見ていくと、いろいろと興味をそそられる写真がならんでいます。

会場には、全部で49枚の写真が展示されています。そのうち34枚は、当時写したままの写真、15枚は、庭田杏珠さんカラー化した写真です。

会期は、残念ながら今日までです。

いのちとうとし

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2025年5月 1日 (木)

「屍の街」の章題―つづきのつづきのつづき

今回もまた、「「屍の街」の章題」についてです。

ブログを読んでいただいた方から、「屍の街」の章題について、二つの研究論文の情報が届きましたので、紹介します。

一つは、日本近代文学研究者黒古一夫の論文です。黒古一夫は、文芸評論家としても活躍しており、1983年には原爆文学論集「原爆とことばー原民喜から林京子まで」を出版し、同じ年に出版された「日本原爆文学」の編集委員でもあります。

黒古の論文は、新日本文学1997年4月号に「戦後ある呪詛と怒りの構造―大田洋子の場合―」のタイトルで掲載されています。その中で、「屍の街」の章題(黒古論文では、小題となっている)について、次のように書かれています。

「なお、冬芽社版以降どの版からも、この小題は消えている。この小題がなくなった理由は不明であるが、この小題は消さなくても良かったのではないか、というのが、潮文庫版の解説を書いている小田切秀雄氏の意見である。私も賛同する。小題の一見オーバーと思える表現は、執筆当時の大田の心情が推察できて、かえって興味をそそられる。」

黒古は、この論文で「小題は消さなくても良かった」としていますが、「冬芽社版以降どの版からも、この小題は消えている」ことを紹介しています。この点は、私がこれまでに記述したこととほぼ同じです。

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中央公園西側に移設された大田洋子文学碑

 二つ目は、大阪の高等学校先生である渡部晴美が、「国語教育研究」1980年11月号に「『屍の街』の成立について」のタイトルで書いた論文です。少し長いのですが、章題に関する部分を引用します。

「「中公版」、「冬芽社版」には、各章ごとに章題がつけられている。・・・この章題は、河出書房の市民文庫版で「屍の街」以降は削られており、潮文庫版にもない。

章題を削除した理由に関して小田切秀雄氏は、「一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ない」「それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまった」(潮文庫版「屍の街」解説P215~P216)と述べている。各章ごとにつけられた「一見きわめてどぎつい題」は、大田の「一種の我中心主義ふうの傾斜」(同)と結びつけて受け取られ、かえって広島の惨状を理解することを困難にしている。そのことを知って、題は大田が取り去ったということである。

大田が「一種の我中心主義ふうの傾斜」によって反感を買っていたことを十分に知っていたかどうかは明らかでない。しかし、どぎつい題がかえって広島の惨状をありのままのものとして理解することを困難にしているということについては、気付いていたものと思われる。

冬芽社版出版のための推敲の過程で、大田は無駄な語を省き文を簡潔なものにしようと努めている。そうすることによって文を押さえ引き締め、表現効果を上げようとしたのである。省かれたものには、・・・。谷崎潤一郎は「文章読本」の中で、むだな形容詞や副詞を多用するのは、「ちょうど、へたな俳優が騒々しい所作を演ずるのと同じ結果に陥」り、かえって効果を弱めるということを述べている。大田にも同じ反省があったものと思われる。章題の削除は、このような反省の延長に立ってなされたものと考えられる。」

黒古一夫は、「章題を削除した理由は不明」としていますが、渡部晴美は、大田が章題を削除した理由として「どぎつい題がかえって広島の惨状をありのままのものとして理解することを困難にしているということについては、気付いていたものと思われる。」とし、さらに、谷崎潤一郎の「文章読本」まで引用して、その理由を示しています。

渡部晴美が示した理由が、正しいかどうかは私の能力では判断できないのですが、「章題を削除した」理由が明記されています。

しかし、この二つの論文は、いずれも「大田洋子全集」が発刊された1982年以前に書かれたものですので、当然のことですが、「章題が削除された」ことについての記述はありますが、私が知りたいと思っている「章題が『全集』以降復活した」理由については、触れられていません。

繰り返すようですが、二つの論文に共通しているのは、「全集」が発刊されるまでは、「冬芽社版以降どの版」にも「屍の街」には「作者の意思によって章題がついていない」ということです。

なぜ「章題が復活したのか」という疑問は、さらに深まります。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月28日 (月)

「屍の街」の章題―つづきのつづき

市民文庫版については、「全集第一巻」の「収録」で、「『章題』を削除した」ことがと明記されています。市民文庫版は、大田洋子存命中に発刊されていますから、小田切秀雄が解説しているように当然「作者の意思で削除」されたことは、間違いありません。「章題」がないことは、本を開き確認しました。

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ですから、その後に発刊された「潮文庫版」にも「章題」がないのは当然だといえます。

この市民文庫版の最後には、佐々木基一が書かいた「解説」があります。佐々木基一は、大田洋子と同じ原爆文学作家と言われる原民喜の義弟で、「夏の花」の出版に深く関わった人です。ですから、解説の中でも原民喜と大田洋子に連なる原爆文学についての記述がほとんどで、「『章題』を削除」した理由の手がかりのようなものは書かれていません。ここでも大田洋子がなぜ、この版から「章題」を削除することにしたのかという「手がかり」となるものを見つけることはできませんでした。

「全集第一巻」の「収録」では、潮文庫版の発行が最後の出版になっていますが、そのことについて佐多稲子が同書の解説の中で次のように語っていることを紹介します。

「大田さんの作品は、生前でも『屍の街』が絶版になっていて、外国から送ってくれと言われても送る本がないのよ、と大田さんが言うのをきいたことがありますし、その後も長くこういう作品が絶版になっていることを、私は大変つらく思っていたのです。・・・今度みなさんのお骨折りで作品集が出ることになって、私も本当にうれしいのです。」

潮文庫版以降、1982年に『大田洋子全集』が出版されるまで、10年間新しい版での出版が無かったことが分かります。

少し横道にそれましたが、「章題」に戻ります。先にも書きましたが、この「全集第一巻」に収録された「屍の街」には「章題」がついています。その理由は、浦西さんの「解題」では「*底本 冬芽書房版『屍の街』(昭和25530日)」と書かれていることでハッキリします。つまり、この全集は、「章題」がつけられていた冬芽書房版を底本(複製本の原本、よりどころとする本)としたからです。以降出版された「屍の街」は、この全集に準じたものと思われますので、私が持っている「潮文庫版」以外は「章題」がついていると考えられます。

ここまで調べましたが、残念ながら私の疑問は解決していません。作者の意思で削除された「章題」が、なぜ作者の意思を無視して「全集」で復活したのか、疑問は残ったままです。先に紹介した潮文庫版の「解説」で、確かに小田切秀雄も「各章の題はあってもよかったのだが」と書いていますので、文学的センスのない私も「章題」(「鬼哭啾々の秋」「無欲顔貌」「運命の街・広島」「街は死体の襤褸筵」「憩いの車」「風と雨」「晩秋の琴」)があった方が良いように思います。しかし、だからといって「章題」を削除した作者の意思を無視して良いはずはないと思います。

もし「章題」について大田洋子が書いたとする新しい資料が、「潮文庫版」出版以降に発見されたというのであれば別です。ただ今回調べた限りでは、そんな資料が見つかったという研究発表を得ることはできていません。

「全集第一巻」の「解題」には、「*異同 生原稿と底本(冬芽書房版)との主な異同をあげる」として、生原稿が底本ではどのように異同しているかを49点にわたって、丁寧に記述されていますが、「章題」についての記述はありません。

小田切秀雄は、「大田洋子全集」の栗原貞子さんなど6人の刊行委員会のメーバーの一人ですが、「全集」発刊に当たって、「章題」のことは、なぜ問題にならなかったのでしょうか。触れなければならない問題だったと私は思いますが、残念ながら私が調べた限り、触れられた形跡がありません。

私に調べられる範囲は、ここまでです。誰か「屍の街」の「章題」について研究し、「なぜ全集で復活させたのか」その理由を教えて欲しいなと思います。

一回で終わるつもりのー「屍の街」の章題―がこんなに長くなってしまいました。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月26日 (土)

「屍の街」の章題―つづき

図書館に行き、事情を説明すると、司書や学芸員のみなさんが、蔵書を検索し関連する資料を準備していただきました。

最初に調べたのは、「章題」に関する研究書はないのかです。まず調べたのは、原爆の問題を「文学」、あるいは「文学的」な問題として研究している人たちの発表の場となっている「原爆文学研究」です。大田洋子に関しての記述がある巻(現在まで23号まで発行されている)を3冊ほど出していただいたのですが、その中に「章題」に関する研究報告はありません。図書館員の方が、その他にも、研究書のなかで検索でききたものはありませんでした。

さらに、題が「屍の街」なっている本、「屍の街」が収録されている本を調べます。

参考になったのは、「大田洋子全集第一巻」(以下「全集第一巻」)です。

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ここに収録された「屍の街」には、「章題」がついていますが、巻末に佐多稲子ヘの聞き取りが「解説」として掲載されています。しかし、その中に「章題」に関する発言はありません。

「解説」の後に浦西和彦さんによる「解題」があります。その中心は、文章をどう直したのかなどの「校訂」について詳しく記述されていますが、しかし「章題」の変更については書かれていません。「章題」に関する記述は、「収録」の中に出てきます。「収録」は「屍の街」がどの本に掲載されているのかを記述しています。そこに記述されていることを全文引用します。

「屍の街」(昭和25年5月30日・冬芽書房)一七-二一八頁、このとき中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に修正、章題「酷薄な雨と風」を「風と雨」に変更。市民文庫「屍の街」(昭和26年8月15日・河出書房)二〇-一七九頁、このとき章題を削除。小田切秀雄編「原子力と文学」(昭和30年8月5日・大日本雄弁会講談社)三一-六三頁、「運命の街・広島」章(本巻39から63頁)部分の抄録。河出文庫「屍の街」(昭和30年9月19日・河出書房)二〇-一七九頁。「日本現代文学全集106<現代名作選(二)」(昭和44619日・講談社)三〇-四一頁、「運命の街・広島」章(本巻3963頁)部分の抄録。潮文庫「屍の街」(昭和47720日・潮出版)五-一五八頁。

「収録」によれば、「屍の街」が、全文収録され発行されたのは、冬芽書房版と、市民文庫版、河出文庫版、潮文庫版の4回と云うことになります。ただ、河出文庫版は、河出書房が市民文庫版の名前を変えて出版したものですので、実際には3種類といってよいと思われます。

この「収録」で、「章題」についての記述は、冬芽書房では、「削除部分『無欲顔貌』の章を増補し、章題『酷薄な雨と風』を『風と雨』に変更したことが書かれています。

冬芽書房版の本もありますので、確認しました。

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当たり前のことですが、「章題」はついています。

次は、市民文庫版での確認ですが、その結果は簡単に書き切れませんので、今日はここで終了し、つづきは次回(28日)に報告します。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月24日 (木)

「屍の街」の章題

18日の大田洋子文学碑の碑文と「屍の街」: 新・ヒロシマの心を世界にで、大田洋子の話は終わりにするはずでしたが、「つづき」がでてしまいました。

大田洋子の著書「屍の街」は、様々な形で出版されています。初出は、1948(昭和23)年11月10日発行の中央公論社版です。このときは、アメリカ占領軍のプレス・コードを憚って「無欲顔貌」章を削除して出版しています。この中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に訂正、章題「酷薄な風と雨」に変更して、1950(昭和25)年5月30日に冬芽書房から、出版されました。(以上、1982年発行:大田洋子全集第一巻「解題」より)

今週に入って、書棚を整理している時、目に入ったのが、1972(昭和47)年7月に潮出版から発行された「屍の街」です。この本は文庫本ですが、カバー表紙に丸木位里・俊の「原爆の図」の一部が使われています。このカバー表紙が気になり古本屋で購入したと思われます。

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開いてみる先日手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)にあった「章題」がありません。「エッ?」です。最後まで見たのですが、やはりどの章も数字だけです。

文庫本には、ほとんどの本に「解説」がついていますので、「章題」について何か記述はないかと、「解説」を読むことにしました。

この本の「解説」は、文芸評論家・近代文学研究者の小田切秀雄が「解説ー現代の地獄、その証言」のタイトルで、7ページにわたって書いておられます。その中で小田切は、「章題」を削除した理由を次のように書かれています。少し長いのですが、引用します。

「作者がたまたまそこの居合わせたためにその現世の地獄にまきもまれ、傷ついて死にひんし、空前の大量の死のなかで偶然によってかろうじて生きのび、ペンによってそれの表現にむかって立ち向かっていったのは1945年8月6日、広島にアメリカが落とした原子爆弾による大都市破壊、人間破壊である。そのすさまじさは、現世の地獄、などということばなどではとうていおおいきれぬもので、この作品の各章に、初版本では「鬼哭啾々の」とか「運命の街・広島」とか「街は死の襤褸筵(ぼろむしろ)」という一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ないのだが(それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまったのだが)、この作品の内容を読み進むにしたがってそのどぎついという抵抗感など消えてゆくばかりか、そういうどぎついと見られることばをもってしてもまだ足りないこと、もっとつよいほかのことが必要なのだが、それがまったく見つけにくいほどのものであることが、しだいに明らかになってくる。(その意味では各章の題はあってもよかったのだが、ここではのちに作者が取去ったのに従うことにした)敗戦までのこの作家の仕事につきまとっていた一種の我中心主義風の傾斜と、それにともなう・・・」(原文のママ)

赤字の「私」は、「秋」の間違いと思われます。問題は、私が引いた下線部分です。

作家の作風や文体などのことは、私には分かりませんが、この小田切の解説を読むと、「章題」をとったのは、「作者の意思」であることになります。

私の手元には、「屍の街」が収録された本がもう一冊あります。2011年6月に集英社から発刊された「戦争文学 ヒロシマ・ナガサキ」です。

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すぐにこの本でも「章題」を確認しました。最初の手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)と同じように、「章題」がついています。

「あれっ」と思います。小田切が、解説を書かれた1972(昭和47)年には、すでに大田洋子は亡くなって(1963年12月10日没)います。小田切が指摘しているように「章題」を省略したのが作者の意思であるなら、なぜその後の出版されたものでは、作者の意思を無視したかのように「章題」が復活したのか?ということで。

気になりますので、広島市立中央図書館に行って調べることにしました。その結果は、26日に紹介します。

(敬称略)

いのちとうとし

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