「広島ブログ」

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文化・芸術

2022年6月 7日 (火)

シンポジウム「クルド」

4日(土)の午後4時から「シンポジウム・クルド」が、南区の広島市留学生会館で開かれました。

友人からの情報で知った私は、このプログラムの中の「演奏と歌」に興味を持ち、参加することにしました。

午後5時前まで、別の予定が入っていましたが、プログラムでは、午後4時15分から映画が上映され、演奏と歌は午後5時30分からとなっていましたので、この時間には間に合うと会場に行きました。会場に着いたのは、午後5時過ぎだったのですが、すでに演奏と歌は、始まっていました。後でわかったことですが、せっかくの機会なので、演奏と歌を充分に聞いてほしいということで、映画の上映は中止となり、最初から演奏と歌が行われたようです。

私が会場に入ってから演奏された曲は、「労働の歌」「嫁とりの歌」そして曲の名前の紹介はありませんでしたが、「楽しい歌で締めくくります」と紹介された3曲でした。

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演奏に使われた楽器は、クルド人の民族楽器3弦の楽器タンブールと胴の部分が少し丸く大きくなったバーラマです。

演奏者は、セルダン・ジャーナンさん。セルダンさんは、クルド各地をめぐり、クルド民謡・音楽を収集してきた研修者であり、民族音楽の専門家です。

私は、珍しいクルド人の歌が聞けるという安易な気持ちで参加したのですが、とんでもない勘違いをしていました。歌と演奏の後で行われたパネルディスカッションで、そのことを思い知らさることになりました。

クルド人は、約3千万人の民族ですが、その人々が住む地・国を意味するクルディスタンは、現在国家としては存在しません。1923年に結ばれた条約によって、クルド人の住む地域は、トルコ、イラク、イラン、シリアの四カ国に分割されています。

特にトルコで暮らすクルド人は、同化政策のもと、クルド人のアイディンティティが、否定され、長らく母語のクルド語もクルド音楽も禁じられてきました。

その中で、クルド語を語り伝えてきたのがデングベジュ(吟遊詩人)と呼ばれる人たちです。セダルさんが、収集し演奏し歌った歌は、このデングベジュと呼ばれる人たちによって、語り継がれたものですが、その伝えられたそれぞれの歌には、クルド人の歴史や物語があるのです。デングベジュの人たちが語り伝えることによって、クルド語そのものも伝えられてきたことになります。

セルダンさんが歌うクルド語の歌の背景には、そんな歴史があったのです。

私が聞いたわずか3曲の間(約15分)のセルダンさんの語りの中で、それを知ることができました。すでに45分間ぐらいの演奏が終わっていましたので、その間にはもっと貴重な話があったと思われます。

演奏が終わり休憩の後、広島在住の音楽評論家東琢磨さんの進行で、セルダンさんと、一緒に来日したというか、クルド人ジャーナリストのイルファン・アクタンさんの3人によるパネルディスカッションが行われました。そこで学んだことは、9日のブログで紹介します。

いのちとうとし

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2022年6月 1日 (水)

紙屋町シャレオ古本まつり

第26回紙屋町シャレオ古本まつりが、紙屋町の地下街シャレオ中央広場で、5月30日から明日6月2日まで開催されています。

今年は、1月に続いて2度目の開催ですが、今回は4日間とこれまでで最も短い会期となっています。出店舗数もいつもよりやや少なく、9店舗の参加です。

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私は、雨が降っていましたが、初日の30日のオープン時(10時)に行ってきました。

私がめざすのは、郷土史関係のコーナーです。9店舗のうち3店舗が、このコーナーを設けています。郷土史といっても様々ですが、私が探すのは、原爆関係と軍都廣島に関するものです。学校史などにも被爆時のことや復興期のことが書かれていますので、それらが目に付くと一冊一冊、ザーッと目を通します。古い絵ハガキも、積まれていますので、一枚一枚丁寧にみていきます。

古い資料や冊子は、当然のことですが、一点ものです。今回見逃すと、次はいつ巡り合えるかわかりません(というか、再び手にすることはまれ)ので、気を付けて棚を追っていきます。戦前の資料や被爆直後に発行されたものは、少し値が高いなと思っても、見つけた時にすぐ購入するのが鉄則です。

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店舗が少ないのでフロアーに余裕があります

1時間あまり時間をかけて、ゆっくりと探して歩きましたが、残念ながら今回は、買っておかなければと思うものを見つけることはできませんでした。

最近は、だんだんとそうした本を見つけることが少なくなっています。1月の時に購入したのは、昭和9年(1934年)11月1日に廣島懸が発行した「明治二十七・八年戦役 廣島大本營誌」の1冊だけでした。日清戦争時広島に置かれた大本営に関する本は、2冊ほど既に入手していますが、広島県という公的機関が発行した資料は初めて目にするものでしたので、躊躇なく購入しました。

郷土史コーナーを設けている店の一つ、アカディミー書店は、よく訪れる店ですが、他の2店舗は、遠くにあるため店を訪れることができませんので、「古本まつり」には、時々アッと思うような本を出品していることがありますので、いつも楽しみにしている店です。

「古本まつり」には、映画のポスター、乗り物関係のコーナーなど専門分野に特化した品物を出店するお店や文庫本コーナー、300円・500円均一コーナーなどもありますので、一度出かけてみるのも楽しいと思います。

郷土史コーナーや専門書などは、1冊ものが多くほとんど補充がありませんが、その他の棚は毎日新しい本が補充されていますので、何度足を運んでも新しい発見があると思います。

私も会期中にもう一度行って見ようと思っています。

いのちとうとし

【編集者】毎月1の付く日(1日、11日、21日)は、イライザさんの原稿を掲載していましたが、イライザさんが参議院選挙に立候補することになり多忙となりましたので、当分の間このブログの原稿は、中止することになりました。イライザさんは、ヒロシマの心を世界にを毎日更新されていますので、ぜひそちらをお読みください。

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2022年5月27日 (金)

冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」

新聞報道で紹介され、入手したいと思っていた冊子「丸木位里の足跡を訪ねる」をようやく手にすることができました。

この冊子は、広島大学と地域が連携し、地域社会が直面する課題の解決や地域の活性化をめざす「地域元気応援プロジェクト」の一環として作成されたものです。表紙を含めて16ページの小冊子ですが、豊富な内容で構成されています。

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よく知られているように丸木位里さんは、丸木俊さんと共同制作した「原爆の図」の作者ですが、現在の広島市安佐北区安佐町飯室(当時は安佐郡飯室村)の出身です。丸木位里さんのことは、「原爆の図」の作者というだけでなく、森瀧市郎先生も同じ年1901年の生れだということが特に印象に残っています。丸木さんは、6月20日生れ、森瀧先生は、4月28日生れです。没年もほぼ同じ、森瀧先生が1994年1月25日、丸木さんは一年長生きで1995年10月19日です。

「丸木位里の足跡を訪ねる」には、飯室地域に残る作品の紹介と共に丸木位里さんにまつわるこの地域の話が紹介されています。

丸木位里さんが、飯室の出身だということは、以前から知っていましたし、飯室の複数のお寺に襖絵などの作品があることも知っていましたが、これまで一度も訪ねたことはりませんでした。

これらのお寺の前を通る国道191号線は、何度も何度も通った道ですが。

この冊子の最初のページには、見開きで「位里さんと故郷のつながりを示す場所」が地図になっています。

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作品リストには、飯室小学校(石碑)、恵比寿神社(門柱)、浄國寺(襖絵)、養専寺(襖絵),正念寺(襖絵)、安佐公民館(額)、安佐区民文化センター(襖絵、額)の名前が並んでいます。これを見ると、何ともこの地に足を運ぶ制作活動をされた丸木位里さんの郷里への強い思いが伝わってきます。

この冊子では、それぞれの作品の紹介とともに、そのゆかりも紹介されていますが、執筆編集者は、広島大学教育学部造形芸術系コース有志ですので、水墨画特有の技術的なことも書かれていますので、現地を訪れるときに持参すれば、良い解説書になると思います。

この中で、私が直接目にしたのは安佐北区民文化センターのふすま絵でだけですので、この冊子を手に、丸木位里さん足跡を訪ねてみたいと思います。

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2022年5月24日 (火)

「水辺の吹奏楽フェスティバル」―3年ぶりの開催

21日(土)の午前11時過ぎ、本川町の靴の修理屋「靴専科」に行こう平和公園内を歩いていると元安川の方から吹奏楽の演奏の音が耳に届きました。

「何をやっているかな」と音の聞こえる元安橋方面に移動すると、原爆ドーム前の対岸に設けられた「元安川親水テラス」で、水の都ひろしま推進協議会が主催する「第18回水辺の吹奏楽フェスティバル」が開催されていました。

このフェスティバルは、11時からのスタートですので、私たちが耳にしたのは、最初の出演者・県立安古市高等学校吹奏楽部の演奏でした。渡されたプログラム表によれば、スタート曲は「それ行けカープ!」だったようですが、私たちが気付いたのは、3曲目の「DEEP PUPPLE MEDLEY」でした。この曲も最後の部分で、近くに行ってしばらくすると演奏が終わりました。

プログラム表では、次の演奏まで、15分以上ありましたので、この場を後にし、「靴専科」へと移動しました。修理の依頼を終えて、相生橋を渡っていると再び吹奏楽の音が聞こえてきます。2番目の演奏校広島市立己斐中学校吹奏楽部です。少し時間もありましたので、正面から演奏を聞こうと「元安親水テラス」の対岸に移動しました。

こちら側では、多くの人が演奏に聞き入っています。かなりの人が、スマホで演奏風景を動画撮影中ですので、出演者の関係者だと思われます。

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私たちも、少し足を止めて演奏に聞き入りました。

プログラムを手渡されたときに説明を受けたのですが、一昨年、昨年と2年間コロナ対策で中止となったため、「第18回水辺の吹奏楽フェスティバル」は、3年ぶりの開催となったそうです。

コロナ禍、色々と制約があり演奏会もままならない状況だったと思いますが、3年ぶりにようやく開催され、本当によかったと思います。もし今年も延期になっておれば、この場での演奏を一度も体験することなく、卒業しなければならなかった子どもがいたことになるのですから。

プログラムによれば高校、中学13の吹奏楽部が持ち時間20分で、演奏することになっていましたので、終わるのは、午後4時35分と長時間の演奏会ですが、平和公園を訪れた人への思いがけないプレゼントになったと思います。

私たちは、己斐中学校の演奏が終わった時点で、会場を後にしましたが、少し暑いぐらいの天候に恵まれて、良いフェスティバルになったと思います。

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2022年5月18日 (水)

平野薫作《傘》

ヱビデンギャラリーの「どこかで?ゲンビ」第3弾として展示されている平野薫さんの《傘》の紹介です。

平野さんは、古着や布製の小物などを糸の一本一本にまで分解し、それらを展示空間の中に再構成するインスタレーション(ある特定の空間や室内屋外などにオブジェや装置を置いて空間を構成し、場所や空間全体を作品として体験させる芸術)を制作する作家です。

今回のモチーフは、傘です。傘をもともとの素材である糸の状態に解き、結び直して再構成されています。

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作品解説によれば、県内の色々な場所から忘れ物の傘を譲り受け、それらを解き、作品したものです。今は5本の傘で構成されています。吉和、石内北、大塚東、西白島、比治山の地名が読み取れます。

私が会う約束をしている5月末には、加計の傘が加わりますので、最終的には6本の傘が並ぶことになります。

傘の骨組みに解かれてつなぎ合わされた布が、垂れ下がっています。糸状にまで細くなっていますので、どれだけの時間がかかるのか?想像するだけでも大変だなと思いました。

日中は道路に面したガラスに周りの景色が映るため、スマホで撮影しようとしても作品が綺麗に写りません。日没後3時間は、照明が付くということでしたので、夜再び訪れ写したのが、下の写真です。

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全体の様子を感ずることができるように写すことができました。

百聞は一見に如かず、会期は、9月25日までですので、ぜひ訪れてほしいと思います。

ヱビデンギャラリーに現代美術館の「どこかで?ゲンビ」が展示されるのは、今回が第3弾ですが、ここには以前から現代美術作家の作品が展示されていました。

現代美術作家の作品は、どうしても紹介する場所が限られている中で、こうした展示スペースを提供されている持ち主のヱビス電材社に拍手を送りたいと思います。

いのちとうとし

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2022年5月14日 (土)

えっ この名前は?

中区中町の平和大通りに面して建つ「エビデンビル」の1階で、「傘」のタイトルがついて「どこかで?ゲンビ平野薫」展が開催されています。広島現代美術館(愛称:ゲンビ)が来年3月までの休館中に実施している「サテライト展示」の一つです。

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この「エビデンビル」の1階では、定期的に若い作家の現代美術品が展示されています。私もよく前を通りますので、いつも楽しみにみていますが、特別に作家のことを気にしたことはありませんでした。

しかし、今回の作家名「平野薫」を見て、「どこかで聞いたことがある名前だな」と気になりました。平野さんの経歴が掲示されていましたので、読んでみました。

やはりそうだ。平野薫さんは、私がかかわっていたドイツ・ポツダム市にある「ヒロシマ・ナガサキ広場」の記念碑をつくるときに聞き、気にしていた平野さんでした。

1945年7月にポツダム市で行われた「ポツダム会談」に出席したアメリカのトルーマン大統領が宿泊したといわれる建物(現在もトルーマンハウスとして残っている)のすぐ前にある小さな公園に「ヒロシマ広場」と名前が付けられたのは、2005年のことです。その「ヒロシマ広場」に記念碑をつくろうとドイツ国内で募金活動が始まったのが2007年でした。

それに協力するため日本でも支援組織が作られ、募金が始まったのですが、ある事情で私がその組織を引き継ぐことになり、私のかかわりが始まりました。

記念碑の設計を任されたのがドイツやノルウェーで活躍されていた石刻家の藤原信(まこと)さんでした。ある時、ベルリンに留学している学生たちに記念碑の話をした藤原さんに「どうしていつもヒロシマなんですか」と指摘したのが、平野薫さんでした。平野さんは、長崎県出身で広島市立大学からドイツに留学中でした。

この一声が、この広場の名前を「ヒロシマ広場」から「ヒロシマ・ナガサキ広場」へと改称させることにつながったのです。広場に記念碑がつくられたのは2010年7月25日ですが、名称が変わったのは、少し遅れて2011年12月でした。

この平野さんの一言から、広場の名称が変わっただけでなく、記念碑に「広島と長崎の被爆石」が並んで据えられることになりました。

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右が広島(広電の路面電車の敷石)、左が長崎(山王神社の境内)の被爆石

この経緯もいつか、このブログで紹介したいと思います。

そんな経緯が私には強烈な印象として残っていましたので、エビデンビルのサテライト展示で「平野薫」さんの名前を見た時「えっ この名前は」と思ったのです。

「私が思っている平野さんに間違いないのか、当人だったらぜひ一度あって話してみたい」と思い、現代美術館に問い合わせませました。しばらくして現代美術館から連絡がありました。平野さんは、現在安芸太田町に住み、活躍されているということでしたが、私が思っている平野さんに間違いありませんでした。

平野さんからも「そんな人とならぜひ会いたい」との返事があったということでしたので、展示の一部を変えるため5月末にエビデンビルに来ることになっているとのことで、その時お会いすることにしました。名前は知っていたのですが、会うのは初めてですので、どんな話になるのか、いまから楽しみです。

平野さんの作品を紹介しなければなりませんが、少し長くなりましたので、のブログに書きたいと思います。

いのちとうとし

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2022年5月12日 (木)

「ヒロシマ、顔」写真展に行ってきました。

昨日午後、中区八丁堀のギャラリーGで開催されていた「1945年8月6日。あの日まで。あの日から。『ヒロシマ、顔』写真展」に行ってきました。

この写真展は、ANT-Hirosimaが、2020年から被爆者の人生を写真冊子や映像で記録するプロジェクトの一環として開催されたものです。

会場には、写真家の石河(いしこ)真理さんが撮った10人の写真が並んでいます。

会場内の写真は、撮影禁止ですので紹介することはできませんが、会場の外からは撮影OKということでしたので、入り口付近から撮影しました。

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遠めですが、一番右側に昨年4月に亡くなられて被爆者の岡田恵美子さんの写真を見ることができます。10人の中には、私もよく知っている被爆者の顔もあります。みんな少し笑顔の写真です。写真手前に写っている看板の「ヒロシマ、顔」の文字は、

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中国新聞で一昨日最終回を迎えた「生きる」の被爆者で書道家森下弘さんが書かれたものです。森下弘さんも10人のうちの一人です。

会場には、石河さんのメッセージが掲示されていましたので紹介します。

「ヒロシマの顔」に寄せて

ある日、小学校の図書館に

辛いことがあった子どもが一人でやってきて

本棚にある‟ヒロシマ、顔“の一冊を手にする

そして 優しい顔に出会い 直接話しかけられるように

その言葉が聞こえてくる

そんな伝え方があったらいいなと思っていました

なるべく直接出会い 子どもたちにはなしかけてもらいたい

その大切な出会いのお手伝いになるのが写真だと思いました

撮影の時に感じたものが そのままこの一冊に乗り 伝わっていけばいいなと

小さな子どもたちにこの声が聞こえたら。

広島で育ち‟伝える“という言葉を追い続けてきました。

‟伝える“はいつも私の心の中で形を変えながら問いかけています。

お一人お一人の放つ暖かさが伝わることは

人間の尊さが伝わることだと心から信じています。

撮影の時 みなさまがそれぞれ先立たれた方々の声を伝えようと

大切なことを伝えようとカメラのレンズを見つめてくださいました。

 

石河さんの写真撮影と共に若い人たちが、被爆者のはなしを聴き取り写真冊子や映像となって残されていくことになります。会場では、すでに映像化が終わった岡田恵美子さんと李鍾根さんのビデオが流れていました。

会場の都合で、会期は3日間でしたが、多くの人が訪れられてようです。私が会場にいる間にも次々と人が訪れていました。9月には、少し会期を長くして袋町の市民交流プラザで写真展が開催される予定だそうです。今回見逃した人には、ぜひその機会に訪れてほしいと思った写真展でした。

いのちとうとし

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2022年4月29日 (金)

「大社基地」跡保存運動―つづき

戦後陸上自衛隊の訓練場として使った後、遊休地となった「旧大社基地跡」(約9万平方メートル)は、国の機関である中国財務局が管理していましたが、2003年から売却が始まり、滑走路の一部は太陽光発電などの用地となっていました。

昨年2月には、残っていた西側2万7200平方メートルが、出雲市の民間企業に売却されました。

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中国新聞記事より

この売却が報道された後、昨日紹介した「出雲市による調査と保存」を求める運動が具体的に始まったのです。市民団体だけでなく、日本考古学会も「遺跡保存は学術上きわめて重要な内容を有する」として、国や県に調査や保存を求める要望を提出しています。

中国新聞の昨年5月の記事によれば、当時出雲市の文化財課は、「平和学習など戦争を後世に引き継ぐため貴重な遺跡」とした上で、「民間企業が土地を取得している。保存について市がどう対応するか結論が出ていない」としていました。

しかし、出雲市は今年2月に「史跡指定はしない」との結論を出し、島根県もその方針を追認しました。

島根県や出雲市が、一定の結論を出すことに異論はないのですが、問題は、この結論を出すまでの経過です。市民団体などから寄せられた情報では、県、市とも「旧大社基地」跡の十分な学術的調査を行った形跡がないのです。もともと市民団体や日本考古学会が求めていたのは、「保存」だけではありません。その前提となる「調査」をきちんと行うことを求めていたのです。

この経過を検証していくと、昨年広島市で問題となった「サッカースタジアム予定地の発掘調査」を思い出さずにはいられません。広島市も専門家などの意見を聴くことなく「重大な価値はない」とし、取り壊し(一部の切り取り保存のみで)を進めてしまいました。

「きちんとした調査も行わずに自らに都合のよい結論を導き出す」姿勢はあまりにも似すぎていると感じるのは私だけでしょうか。

第2次世界大戦時の戦争遺跡が、文化財として指定されるようになったのは、よく知られているように原爆ドームの世界遺産登録運動の結果です。

「原爆ドームの世界遺産登録」の大きな障害となっていたのは、当時の国の文化財指定基準です。その基準では、文化財指定できるのは「概ね100年を経過したもの」とされており、原爆投下から50年しかたっていなかった原爆ドームは、文化財指定基準を満たしていなかったのです。ちなみに当時、経過年数が一番新しい文化財は、松江市の小泉八雲旧居でした。

しかし、「原爆ドームの世界遺産登録」を求める160万を超える市民の署名が力となり、文化財指定基準に新たに「戦跡」を加えることによって世界遺産登録実現への道(登録を申請する国がきちんと法的に保護していることが必要条件)を開いたのです。と同時に、そのことは、第2次世界大戦の戦争遺跡を文化財指定する道も開いたことになります。

この文化財指定基準の改正によって「戦争遺跡」が、文化財として認められることになったのですが、実際に文化財に指定されたのは、ごくわずかだといわれています。その原因の一つが、「ここの戦争遺跡」をどう評価するのかの基準が、残念ながら定まっていいないからです。

文化財指定基準の改正から、すでに27年が経過しています。戦争が終わって77年を迎えようとしています。それは「戦争遺跡」も77年以上の歴史を刻んだことになります。

すでに多くの「戦争遺跡」が、きちんとした調査もされないまま、壊れ、無くなっています。

広島市のサッカースタジアム予定地の「旧陸軍輜重隊跡」の遺構もそうですが、破壊されてからでは遅すぎます。「戦争遺跡」をどう評価するのか、早く一定の結論を出す時期に来ているのではないでしょうか。

不幸な歴史の生き証人としての「戦争遺跡」の保存は絶対に必要なことだからです。

いのちとうとし

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2022年4月28日 (木)

「大社基地」跡保存運動

島根では、今月17日の「気象学者益田善信さんの戦争体験: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した「旧海軍大社基地跡」(以下「旧大社基地」)の保存を求める運動が、行われています。

私が最初に「旧大社基地」の保存を求める運動のことを知ったのは、昨年5月10日の中国新聞の記事です。記事にはこう書かれています。「地元の歴史研究者たちが4月、市に調査と保存を求めて『大社基地の明日を考える会』を発足した」

ちょうどこの時期広島でも、このブログで何度も紹介しましたが、「サッカースタジアム予定地」から同じ戦争遺構である旧陸軍の「輜重隊跡」が発掘され、市民から「保存」を求める運動が起こっていましたので、この記事をより興味深く読みました。

と同時に、「旧大社基地」は、私には忘れられない思い出がありました。

今月17日のブログでは、「小学6年生の時社会見学で訪れたことがあり」と簡単にふれましたが、もう少し詳しく紹介したいと思います。

小学校最後の夏休み(1960年)を利用して、担任の岸先生という若い先生に連れられて同級生10人ぐらいと自転車で、古墳巡りをしました。私にとって、忘れることのできない小学生時代の貴重な思い出の一つです。

旧出雲市内の古墳を数カ所巡った後、珍しい前方後円墳を見学するため旧斐川村立荘原小学校に行く、途中で訪れたのが「旧大社基地」でした。現在は合併され出雲市となっていますが、当時は簸川郡斐川村直江地区にありましたので、「直江の飛行場跡」と呼ばれており、「旧大社基地」という名前は、全く記憶にありません。私が通っていた出雲市立高松小学校は、この「旧大社基地」から直線で西に約7.5キロメートルの距離にあります。

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中国新聞より

 「飛行場跡」と紹介したように飛行場としては使用されていませんでしたが、たまたま私たちが訪れたその日は、自衛隊機が飛来し、市民に紹介するデモンストレーションが行われていました。

私のアルバムにその時の様子を写した写真2枚が、残っています。

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上の写真の左側に4人ほどの半ズボン、ランニングシャツ姿の子どもが映っていますが、これが私たちだと思います。

当時、飛行機をまじかに見ることなど全くありませんでしたから、ただただびっくりして見学したことを覚えています。余談ですが、「大社基地を考える会」の事務局にこの写真を送ったところ、「初めて見る貴重な写真です」と言われました。

当時、カメラは非常に貴重なものでしたが、引率していただいた岸先生は、何かあると自前のカメラを持参して、私たちを写してくださいましたので、この貴重な写真が残っています。

「旧大社基地」は、戦争末期突貫工事でつくられた飛行場ですが、中国新聞の記事によれば「コンクリート舗装の幅約60メートル、長さ1500メートルの滑走路」の規模で建設されました。

戦後「旧大社基地」は、1950年(昭和25年)6月から始まった朝鮮戦争では、米軍が駐留していた美保基地(米子市)の前進基地として整備され、1953年(昭和28年)まで使われたという記録が残っているようですから、私が訪れた時は、まだ十分に飛行場として使える状態だったようですので、デモンストレーションの飛行が行われていたのだと思います。

「旧大社基地」の思い出が少々長くなってしまいました。主題は「保存を求める運動」がどうなっているかです。その紹介は、明日にしたいと思います。

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2022年4月24日 (日)

映画「私はチョソンサラムです」上映会とトークイベント

今日午後1時から西区民文化センターで、映画「私はチョソンサラムです」の上映会とトークイベントが開催されます。

「植民地と分断の歴史を生き、今も残る日本社会の差別の中、なぜチョソンサラム(朝鮮人)として生きようとするのか。

日本で生まれ韓国に留学し、祖国でスパイという冤罪で死刑判決を受け、その後、再審無罪を獲得した『政治犯』たち。

子どもたちのアイデンティティを確立するために民族の言葉や文化を学ぶ朝鮮学校。

日本政府による「高校無償化制度」適用除外という差別。

分断を乗り越え、自主的に平和的な統一を実現するために取り組んでいる活動家たち。

韓国の金哲民(キムチョルミン)監督が、18年の歳月をかけて作成した、在日朝鮮人の生きざまを紹介する貴重なドキュメンタリー映画です。」

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チラシに書かれた映画の紹介文です。

映画の上映後、映画に登場する康宗憲さん(韓国問題研究所代表)、金昌五さん(在日韓国民主統一連合大阪本部副代表委員)、朴錦淑さん(京都朝鮮中高級学校オモニ会元会長)の3人によるトークイベントも開催されます。

この映画は、2019年に作成され、2020年の11月に広島をはじめ全国10箇所で上映をされました。その映画を見た広島の有志が中心となり、実行委員会が結成され今回の上映が企画されました。当初、1月16日に開催する予定でしたが、コロナの影響で延期となり、今日の開催となりました。

私も知っているようで知らない在日朝鮮人の人たちの姿を知ることができる上映会だと期待しています。

いのちとうとし

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