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文化・芸術

2023年2月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その42)ベトナム象、広島を歩く-6

4月8日、海田宿を出発したベトナム象は、穏やかな日和に恵まれ瀬野川沿いの西国街道を桜を愛でながら東へと進んだことでしょう。「出迎え松」を過ぎた辺りから山手に入り、延々と続く上り坂に入りますが、まだまだ何のことはありません。西国街道は瀬野駅手前を右折、2号線を超え東に向かいます。安芸区一貫田の一里塚を通り、再び2号線を超え、龍禅寺辺りから2号線の左山手を東に向かいます。

海田宿と西条四日市宿との間に位置する一貫田には、俳人の種田山頭火の歌碑が残されるなど、間宿(あいだじゅく)として賑わっていました。

西国街道随一の難所、大山峠

一貫田から瀬野川の北側山手を八本松に向けて上ります。かつてドライブイン前にSL「D51」が鎮座していた辺りを過ぎしばらくして瀬野川を南に渡りさらに上って行きます。下の地図はその辺りを示したもので、「旧山陽道(西国街道)のルート情報」(「Google Earth」)に筆者が手を加えました。

D51は瀬野川公園の一角に据えられています。

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大山峠は安芸郡と賀茂郡の境にある標高337m、麓からの比高は約250mと険しい難所です。次㌻の「瀬野川史跡案内図」には、3月に開通予定の東広島・安芸バイパス上に「瀬野馬子唄発祥地」と「代官おろし跡」と書かれています。

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「代官おろし跡」は余りにも急な坂のため代官様も籠を降り、付き人に後ろから押してもらってようやく峠を越えるたとのことです。籠を降りた場所と伝えられている辺りに安芸ライオンズクラブが建てた碑があります。

瀬野馬子唄は、この急な坂を一石5斗(約225kg)の米を背に振り分けた馬を曳きながら、「瀬野の三里とエー、大山の峠とヨー、大須なわてがなけにゃエー。瀬野の馬さはエー、金つき馬でヨー、夜になってもせいをだす」と唄ったということです。当時の馬は金つき馬と呼ばれる去勢されていない馬で、大変扱いが難しかったそうです。いずれの碑も西日本豪雨災害で壊れたため新たに作られています。

ところで、重さが3㌧を超え背丈5尺7寸(約173cm)だったと伝えられるベトナム象、とても象のお尻を押すことはできません。ベトナム象はどのようにして大山峠を登り切ったのでしょう。・・・・

大山峠を襲った5年前の「西日本豪雨災害」

昨年12月1日、東広島郷土史研究会の「石造物研究会」のメンバー4名で大山峠を探索しました。リーダーの船越さんがベトナム象を追っている私のために特別に企画してくださいました。下の写真4枚はそのときに撮影したものです。

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痕跡を辿ることができないほど崩壊した大山峠(瀬野側)の様子。砂防ダムの工事が進んでいました。

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新たに付けられた道路の右辺りに西国街道があった(?)

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2018年の西日本水害で流失し新たに建てられた碑

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安芸区と賀茂郡の境に建てられた碑

西国街道(旧山陽道)が現在どのようになっているかが分かる写真が下の2枚です。前述の「旧山陽道(西国街道)のルート情報」の「Google Earth」から引用しました。

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写真の中央を横に走っているオレンジ色が西国街道(旧山陽道)です。上の写真の右上部分に巨大な砂防ダムが築かれています。下の写真のオレンジは砂防ダムから西条四日市宿に向かって延びている西国街道で、右隅には八本松西で工事が進んでいる東広島・矢野バイパスが写っています。

(2023年2月6日、あかたつ)

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2023年2月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その41)ベトナム象、広島を歩く-5

小春日和、広島城下を発つ

4月7日、朝5つ半時(午前9時)小春日和の広島城下を発ったベトナム象は、その日の宿である海田宿までの4里足らずの途に就きました。本川橋、元安橋を渡り広島城の天守を左に見ながら東に向かい、堀川町辺りを北に折れ、鉄砲町を東にとり、京橋と猿猴橋を渡り船越峠へと向かったと思われます。峠をくだると船越4丁目に残る常夜燈辺りからは緩やかな街道が海田宿まで続きます。

ルートは現在の府中町から瀬野川に続く県道とほぼ同じと考えてください。ご存知の方も多いと思いますが、車の離合にも難渋する道幅です。

象が泊まった場所が海田宿のどこであったのか記録が残されているのかも知れませんが分かりません。海田宿の要職を務める千葉家だったのか、脇本陣として使われていたと伝えられる庄屋の猫田新太郎宅だったのか・・・。この日は船越峠を越えるだけの比較的楽な15km余りの道程でした。しかし、楽あれば苦もあります。翌日とんでもない難行程、「西国街道最大の難所」と呼ばれた大山峠が待ち受けていることを象は知る由もありません。

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この日、広島っ子は “象を見た・・・・・・”

「交趾国より送られた象広島を通過、藩主吉長これを見る」(「吉長公御代記」)とあるように、ときの広島藩主・浅野吉長公も前日、城下の堺町内(現在の広島市中区堺町)まで出かけて象を見学するほどの珍獣です。この日の広島っ子はどうだったのでしょう。以前にも紹介した岡山藩の古文書を読み解いた岡山大学の資料を見てみましょう。この古文書は岡山藩が将軍様の像を粗相なく無事に領内を通過させるため、広島藩の様子を下調べした藩士が藩庁に提出した報告文書です。

象が驚き暴れるので、「通り筋家家簾(のれん)を釣り、或いは戸口を閉め家内人集まり候体見え申さぬように御触れの由」と、外に出ての見物は禁止です。「拠無(よんどころな)き用事につき往来仕らず候て叶わぬ儀これあるとも、通り筋を除け、外道を通り申すべき由、御家中、町方、郡方とも御触れ候由」と、よんどころない場合にも通りを避け脇道を通るようにお触れを出しなさいと念の入れようです。そうした結果、「広島街並み見物の者簾の内に静かに居り申し候、たばこの煙、またそのほか煙出し申さぬように御座候」という状況だったようです、

さらに、下をご覧ください。

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白囲みでは「蟻、鼠、牛馬、犬、猫嫌い申し候やの事、広島御城下前日より繋ぎ申し候、尤も、小鳥等迄外へのけ申し候」と報告され、他の箇所では「犬猫も繋ぎ候事、広島の通り御当地も申し付くべく候」と、岡山藩でも広島のように申し付けることを具申されています。

この様にとても広島っ子は珍獣を見物できるような状況ではなく、犬も猫も、牛馬も、鳥も・・・・大迷惑なことだったことでしょう。迷惑では済まされないお触れも出されています。「広島にては、寺寺の鐘、太鼓、鉄砲等、そのほか音高き事は差し止めなされ候由、御当地も此の通り仰せつけられ然るべく存じ奉り候」と、象をびっくりさせるような音は一切禁止です。時を告げる鐘だけでなく火事などの危急の時に打ち鳴らす早鐘も駄目、趣味の音曲だけでなく鍛冶屋も作事の大工仕事や槌音も禁止です。

象が無事通過するまでの間は、見物はもちろん外に出ても駄目、音の出る仕事も禁止。随分のフラストレーションだったことでしょう。でも、同時に、遠く異郷の地を健気に歩く象に誰もが言い知れないシンパシーを感じたのではないでしょうか。そんな広島っ子の思いが記された文書がどこかに残っていないのか、関心が募ります。きっと、それはどこかにあると思います。

 いずれにしても、ベトナム象は海田宿につきました。次号(その42)では西国街道随一の難所、大山峠を越えを思い描いてみたいと思います。

(2023年2月5日、あかたつ)

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2022年12月27日 (火)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その3

旧広島陸軍兵器廠の遺構から発掘された一部が移設されている場所に移動しました。

フェンスに説明版が3枚取り付けられています。

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立体駐車場の中ですので、頭に気をつけながら、中に入ります。

最初に目に入ったのは、石組枡です。

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発見当時は、蓋があったようです。中をのぞくと、説明版にあるように、配水用の土管があるのがわかります。陸軍兵器支廠官舎の建設に伴って設定されたものです

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石組排水路の一部も保管されています。説明版が無ければ何かわかりません。

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第14兵器庫の建物周囲に配置されていたものです。説明版に詳しくその様子が記載されていますが、幅約18cm厚さ約20cm、長さが25m前後の角柱材の花崗岩切石2本を平行に並べて作られていたようですから、いかに潤沢な資材を使って兵器廠が作られたのかが想像できます。

もう一つは、大型建物礎石です。

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この礎石の上には、東西約20m以上、南北約25m以上の規模の大型建物が建っており、礎石は、東西約3.6m、南北約7.2mの間隔で設置されていました。

大型建物で入口にあった扉を支えていた軸受付の礎石も移設されています。角が丸く削られていることでそのことがわかりますが、遺構を横から見るとその様子がはっきりと見ることができます。

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写真の一番手前の礎石が、入り口のものです。角が丸くなっているのがよくわかります。こうした発掘によって、当時の配置図が間違にないものだということがわかるのです。

藤野先生たちの努力によって移設保管された貴重な遺構です。取り付けられた説明版に詳しい紹介がありますので、一人で訪れても十分理解できると思います。ぜひ見学してほしい遺構です。

この場所での見学を終え、広大医学部構内を東に突っ切り、道を挟んで東側にある中国四国管区警察学校前まで移動しました。ここは、かつて弾薬庫があった場所です。この弾薬庫の紹介は、次回に回し、広大医学部に残る遺構を続けます。

広大医学部敷地の南側境界の道路に移動しました。ここには、遺構が、今も塀の一部として使われています。

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フェンスを支えている塀はブロックとコンクリートですが、その一番下に少し色の変わった部分があります。ちょうど指さしている部分ですが、花崗岩のブロックが横並びに東端から西端まで続いています。この花崗岩のブロックが、当時の陸軍兵器支廠の境界として使われていた石です。よく見ると何か所かに、当時の排水溝とも割れる部分があります。

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排水口だったと思われる半円形の穴が、今はコンクリートでふさがれています。当時は、手前側(現在道路となっており、私たちが歩いて移動した道)は、溝になっており、その溝に陸軍兵器支廠内の水を排水していたため、こんな排水口が作られていたようです。

藤野先生も「最近になって分かったことです」と話されていました。

これで、広島大学医学部校内の旧広島陸軍兵器廠の遺構のフィールドワークが終わりましたが、藤野先生の案内のおかげで、ずいぶんと多くのことを学ぶことができました。

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2022年11月17日 (木)

紙屋町シャレオ古本まつり

今年2回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、15日から24日までの会期で開催されています。私は、初日の15日に会場に行ってきました。

私が、この古書展で探す本は、歴史関係、特に郷土史関係の本です。いつもこの種の本を出店している店は決まっていますので、その店の棚を探します。

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金座街と紙屋町に店を構えているアカディミー書店も歴史書や郷土史や被爆体験記などを並べていますが、こちらは週に一度はのぞく店ですので、他の店の棚から探していきます。

いつも何か珍しい本を見つけることができる神鳥書店も出店していますので、まずその棚から探し始めました。

残念ながら、今回は「これは」という本を見つけることはできませんので、後は順番にそれらしい本が置かれている棚を探します。そしてその後、ゆっくりと全部の棚(文庫本を除く)を一応探して回りましたが、残念ながら私が購入したいと思う本に出合うことはできませんでした。

それでも気になった本が一冊ありました。「安田学園70年史」です。被爆についての記述を探しました。あるにはあったのですが、体験記が2編あるだけでその他の内容は広島原爆戦災誌で読んでいた内容とほとんど変わりません。この学校の被爆体験集や追悼集などを見たことがありませんので、少し心が動いたのですが、結局購入は見送ることにしました。

「希少本を手に入れるためには」とほぼ毎回初日に古書展をのぞいていますが、収穫ゼロだったのは今回が初めてです。

各店とも、毎日追加の本を棚に入れますので、そこに期待したいと思いますが、私が求めるジャンルの本は、希少本がほとんどですので、追加されることはほとんどありません。

古本まつりの楽しみは、店舗が遠くて普段行けない店も多く参加していることです。あまり期待はできませんが、1回だけであきらめず、会期中にもう一、二度行ってみたいと思います。

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2022年11月16日 (水)

今年3度目の「原爆の絵画展」に行きました。

広島国際会議場で開催されていた「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」に行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに取り組んでいる「原爆の絵」の展覧会についてこのブログで、すでに今年2回(「原爆の絵」原画展に行っていました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com、新作が並ぶ「原爆の絵画展」に行ってきました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))紹介しています。

3度目になりますので、どうしようかと迷っていたのですが、1枚だけみたい絵がありましたので、最終日の13日に行ってきました。今日はその1枚について、紹介したいと思います。

その作品は、「おびただしい遺体(8月7日早朝、住吉橋東詰め)」とタイトルが付けられた、この作品です。

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被爆体験証言者は、飯田國彦さん、製作者は、高校3年生(当時)のサンガー梨里さんで、2021年度完成の新作です。

広島テレビのドキュメンタリー番組(番組名は失念して紹介できないのですが)で、飯田さんの被ばく体験と、この二人の共同による作品制作の苦労の様子の一部が紹介された場面が印象に残っていました。描かれた場所が「住吉橋東詰め」だったことも関心をもって一つです。この橋のことも、「住吉神社の被爆」のことを紹介したこのブログで触れていたからです。

この絵画展では、作品ごとに「タイトル、描いた場面の説明、生徒のコメント、被爆体験証言者のコメント」が書いたキャプションが横に貼られていますので、この作品への思いを知ることができます。

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番組の中で、この作品の制作風景とともに「足の踏み場のない程の遺体が横たわっていた」という証言をどう描くのかで苦労したこと、それに対し飯田さんが「私が伝えたいこと、足の踏み場もない程の遺体の様子が良く表現されていますよ」とサンガーさんに伝えている姿が、紹介されていました。

この写真では、見えにくいのですが、会場では、遺体がびっしりと描かれた様子をじっくり見ることができました。サンガー梨里さんは、制作の苦労を次のように書いています。

「今回の絵は、飯田さんだけでなく、この風景を見た飯田さんの叔母様の想いも背負って描きました。数え切れないほどの人を描くのに大変苦労しました。飯田さんをはじめとして、先生方や同じ教室で制作していた仲間、原爆資料館のスタッフの方にも助けてもらい、描き続けることができました。飯田さんと2年にわたり、2枚の原爆の絵の制作を経て、私の平和に対する向き合い方が変わり、自分にできることをより積極的に考えるようになりました。(略)この2年間に原爆の絵を制作して学んだことは一生忘れないと思います。」

テレビの番組でも紹介されていましたが、飯田國彦さんは、3歳の時に被爆、この場所には、叔母の山本弘子さんに抱っこされてたどり着いたそうですから、飯田さんが直接目にした体験ではないかもしれませんが、どうしても語っておかなければならないという強い思いを感ずることができます。

そしてそれを受け止め、懸命にその時の様子を描こうとする高校生たちの苦労の様子を改めて実感した今回の「原爆の絵画展」でした。

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2022年11月 6日 (日)

ヒロシマとベトナム(その38-2) ベトナム象、広島を歩く-3

豪雨で越せなかった「井樋ノ尾峠」(?)

こんな調子で江戸までの象の旅を紹介していたのでは「日が暮れる」ではなく「年が暮れ」てしまいますので、とにかく「初日の象旅」に思いを馳せながら今号を締めくくりたいと思います。

豪雨で山を越せなくなったのが一体どこなのか不明ですが、想像してみます。矢上宿から永昌宿の間には結構の難所である井樋ノ尾峠(いびのおとうげ)があります。写真2枚は、「道しるべ-自然歩道を行く」で紹介されている井樋ノ尾峠の写真です。

おそらく、矢上宿を出たベトナム象一行は、空模様が怪しくなる中、井樋ノ尾峠に差しかかります。次第に風雨は強くなります。“将軍様にお届けする大切な象様。遅れることなく、一時も早く江戸にお届けせねば”と、長崎奉行所の役人に率いられた一行はぬかるんだ坂道を必死に登ったことでしょう。象も人も足を滑らせながら登りますが、ついに上れなくなり、仕方なく矢上宿に戻ることにします。

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(「道しるべー自然歩道を行く」に紹介されている井樋ノ尾峠の写真)

こうした悪戦苦闘のすえ、ずぶ濡れ・泥だらけで矢上宿までたどり着くという惨憺たる旅の初日だったのかも知れません。

長崎を出て3日目、象は牛津宿を通過しました。下の絵はJR牛津宿駅前ロータリーに設置されている江戸時代の牛津宿の様子を描いた陶板パネルで、ベトナム象の一行が描かれています。見たこともない珍獣の行列を見送った人々の感動は大きかったのでしょう。こうして当時の当時の記憶が今日に伝えられています。

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(往事の牛津宿の様子を伝える陶板パネル)

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(陶板パネルにはベトナム象の一行も描かれています)

その後、「九州の箱根」(冷水峠)越えでも難渋しながら10日間かけてベトナム象は長崎街道を踏破し、3月24日に小倉城下につきます。

 次号では、長崎道を踏破し西国街道(旧山陽道)に入った「ベトナム象」を追いつつ、調べるきっかけになった象と一緒に「東広島の地を踏んだ初めてのベトナム人」は誰だったのか報告したいと思います。

(2022年11月6日、あかたつ)

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2022年11月 3日 (木)

「第4回西村不可止絵画展」に行きました。

電電公社で一緒に働いたことのある友人西村不可止さんの「第4回絵画展」が、昨日から6日までの会期でgallery718(中区袋町7-18)で開催されています。

絵画展の案内状が届いていましたので、初日の昨日会場を訪れました。

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案内状に使われた作品名は、「ICT2021」となっています。「ICT」とはと思っていたら、会場に置かれた「ごあいさつ」には次のように書かれています。

「私は高校卒業がすぐに電電公社に入り、24歳の時のコンピューター部門に配属されました。そのころは勤務のかたわら趣味として時折絵が描く程度でした。(中略)絵画展の締め切りが迫る中、師から『職場の中に何かないか』とのヒントをいただき、職場のごみ箱に捨ててあったSCSIボードが目に留まり、これらを構成して描きました。結果は奨励賞をいただき、少しは職業であった『コンピューターシステムのイメージ』に辿りつけました。」

さらに調べるとICTとは、「Information and Communication Technology」の略称で、日本語では、「情報通信技術」と訳されるようです。

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今回の絵画展に並ぶ作品のほとんどは、「ICT」のタイトルが付けられています。とここまで書いて改めて案内状を読み返しました。

「見えたことから感じたことへ。1969年からコンピュータ・システムに携わってきた私。そして今『IT』革命といわれる真っただ中、私が感じた『ICT』のイメージを描いてみました。」

西村さんの絵画展には、何度か足を運びましたが、これまでは「非戦」シリーズや被爆植物を扱った「カンナ」シリーズが中心となった展覧会でしたので、私の運動との共通点を見出し、話が弾むことがありました。もちろん今回も話は弾みましたが、今回は新しいシリーズですので、一緒に働いた職場のことを思い出しながらの会話になりました。

ただ会場には、「ICT」シリーズの抽象画とともに具象調で描かれた鳥取県の大山を描いた「大山」シリーズも数点展示されています。

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これらの絵の前では、何となくほっとする気分になります。

私と同年代の西村さん、応援できるのは会場に行くだけですが、いつまでも頑張ってほしいと思います。

初日だったからでしょう、会場でかつての職場の同僚と何人か会うことができ、旧交を温めました。

一人でも多くの人が訪れることを願いながら会場を後にしました。

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2022年9月26日 (月)

森冨茂雄作「消えた町 記憶をたどり」原画展

中区平和公園内にある被爆建物レストハウスの2階で、被爆者の森冨茂雄さんが、被爆前の原爆ドーム周辺の街並みを鉛筆で描いた絵の原画展が、30日まで開催されています。

平和公園とその周辺を歩くフィールドワークを実施しているヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が森冨さんと出会ったことがきっかけとなり、この鉛筆画が同実行委員会によって2011年8月5日に画集として発行されました。

私は、第3刷となる2018年9月15日判を持っています。せっかくの機会ですので、台風通過後の20日に見に行ってきました。

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会場内は撮影禁止ですので、受付の人に断り、入り口の外から写しました。

会場には、最初にこの原画に関わる説明を書いたパネルが3枚架けられています。1枚目のパネルには、次のように記載されています。

森冨茂雄(1928.8.12~2021.11.11)

「絵はまったく素人でしたが、みんなが絵を見てくれていろいろ話したり、なつかしがったりするんで、次から次へと描いたんです。

絵は子ども心に見た感じを、記憶を頼りに描きました。被爆の絵というのは、むごいからほとんどありません。遊びよったころの楽しかった自分の絵を描いたんです。」

さらにこの原画展の主催者でもあるフィールドワーク実行委員会の文章が続きます。

「レストハウス(元大正屋呉服店)は『記憶の場』です。少年だった頃の森冨さんは、隣のラヂオ屋から流れてくる歌をおぼえ、裏の桜湯でミカン水を飲み、新聞紙に包んだ一銭洋食にかぶりついたのも近所でした。今回の展示には、大正屋呉服店から眺めた光景の絵(8番や10番)や大正屋呉服店そのものを描いた絵(29番)なども含まれています。森冨さんの絵の細部にやどる人への愛おしさを感じ取って下さい。」

( )内の番号は、原画集に納められた絵の番号と同じです。

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ちなみに8番は、「昭和20年8月 原爆前の元安川東側」10番は、「昭和18年頃、元安橋より本通りご丁目入口」、29番は「昭和15年頃 元安橋~中島本町 現在の平和公園」のタイトルが付けられています。そして会場入り口で手渡された印刷物には、画集に書かれた本文(当時の街の様子や生活を紹介)の抄録したものが印刷されています。

この文章は、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんが、森冨さんの話をもとに書いたものだということが、画集に書かれています。

森冨茂雄さんは、被爆時の年齢が12歳です。ここに描かれた絵は、被爆以前の風景であるにもかかわらず、記憶のみによって詳細に描かれているにもかかわらず、ち密に描かれていることにびっくりします。

画集には、43枚の絵が収録されていますが、今回の原画展では、うち26枚が展示されています。

30日まで開催されていますので、ぜひこの絵と対面してほしいと思います。きっと新しい発見があるはずです。

いのちとうとし

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2022年8月29日 (月)

絵本「わたしはゴミステーション」

絵本「わたしはゴミステーション」が送られてきました。

奥付に「2022年8月1日発行」と書かれていますので、出来たばかりの絵本です。

さらに奥付には、「さく のびるぶんこのなかまたち」「え たけはらようこ」「発行 のびる文庫」、となっています。

この素敵なプレゼントを送ってくれたのは、「え」作家の竹原陽子さんです。

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表紙を見ただけで、何となく優しい気持ちになります。

すぐに絵本を開きました。

見開きの左側に、ひらがなで散文詩のような文章が綴られています。右側のページは、竹原さんが作った画用紙を切り張りして作った絵でおおわれています。

楽しくなる絵本ですので全部の文章と絵を紹介したいのですが、ここでは1ページ目の文章を紹介します。

わたしは ゴミステーション

ここでなんねんも こどもたちをみまもっている

はる

わたしの まえのあきちが

とうこうはんの こどもたちの しゅうごうばしょ

きょうは しぎょうしき

げんきなこえがきこえてくる

あしたから いちねんせいも やってくる

右側のページには、表紙と同じ絵があります。よく見ると、かわいいゴミステーションだけでなく、タンポポが描かれています。

次のページは「なつ」です

この絵本の発行者となっている「のびる文庫」について、奥付の横に次のように書かれています。

「1982年春から自宅で活動している地域文庫〔私設図書館〕です。絵本や児童書の貸し出し、読み聞かせ等を毎月1回、日曜日午前を基本に開設してきました。2012年からは地域の小学校での読み聞かせ活動、最近では地域でのふれあいサロン等へも出かけています。」

ここの自宅は、福山市議会議員の西本章さんのお宅です。もちろんこの絵本の中には、西本章さんの名前は出てきません。絵本好きの西本さんが、いつか絵本を作りたいと思っていたことがついに実現したのです。

この絵本を受け取り、竹原さんに次のようなお礼のメールを送りました。

「絵本は大人にも夢を与えてくれますね。

絵本を開けば、心が温まり、優しい気持ちにさせてくれます。

ちょっとかわいすぎるゴミステーション、今日はどんな声を聴いたのでしょうかね。

竹原さんの切り絵とも思える絵、とっても素敵です。

こんな特技があったなんて、といっては失礼ですよね。」

子どもたちが楽しそうにこの絵本を開く姿が目に浮かびます。

こんな素敵な絵本を作り、届けてくださった竹原陽子さん、西本章さん、本当にありがとうございます。

いのちとうとし

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2022年8月27日 (土)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第2日目

「戦争遺跡保存全国シンポジウム」の二日目は、午前9時から広島市青年センター会議室を使って3つの分科会が行われました。

分科会のテーマは、第1分科会が「保存運動の現状と課題」、第2分科会が「調査方法の整備技術」、第3分科会が「平和博物館と次世代への継承」です。

私が参加したのは、第1分科会です。この分科会は、各地での戦争遺跡保存運動の体験が報告されました。報告は、6本です。すべての報告内容を紹介することはできませんので、レポートの題名と報告者名を報告順に記載します。

①「大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題」楠本昭夫(広島大会現地実行委員会)

②「731部隊遺跡の世界遺産登録に向けての経緯と現状報告」和田千代子(731部隊遺跡世界遺産登録をめざす会)

③「四国西南部の特攻基地―第132震陽隊・土佐清水市越基地跡を中心に―」出原恵三(戦跡保存ネットワーク高知)

④「川崎市宮前区に残る陸軍東部62部隊の戦争遺跡」山田譲(戦跡保存全国ネット)

⑤「茨城県最大の戦争史跡『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について」金澤大介(筑波海軍航空隊記念館)

⑥「新重文指定の出雲日御碕灯台は、戦争遺跡です」西尾良一(戦跡保存全国ネットワーク)

全ての報告が、地道な活動の紹介で、参考になるものでした。詳細な調査の実施、保存をどう継承するのかなどの事例もあり、戦争遺跡保存が市民の手によって進められていることがよくわかりました。

そんな中で、私が、この第1分科会を選んだ理由の一つは、⑥の報告に興味があったからです。

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ここでは、西尾さんの報告で学んだことの一部を紹介します。

私にとって日御碕灯台といえば、子どもの時から何度も訪れた場所であり、海の青さに映える白亜の「東洋一の高さの灯台」ということだけが強く印象に残っている場所でした。ですから、「日御碕灯台が戦争遺跡?」とは、どういうことなのか知りたかったのです。

島根半島の東西の端に明治期に灯台(美保関と日御碕)が建設されましたが、西の岬で明治36年(1903年)4月1日に初点灯したのが、日御碕灯台です。灯台が点灯した明治36年は、日露戦争の前年です。当時の海軍は、日露戦争に備え、全国に116カ所の海軍望楼(うち仮設望楼は84か所)を設置します。仮説望楼のうち灯台と兼用して設けられたものが4カ所あったようですが、その一つが、日御碕灯台だったのです。海を監視する望楼は、遠くを望むことを目的としていますから、いずれも高い場所に作られています。その意味では、海沿いにあり高くそびえる灯台は、その目的にかなうものだったようです。日御碕灯台も、高さ63.3mですから、その役割を十分に果たしたといえます。灯台を守る職員とともに、望楼長1名、兵卒2名が常駐して、海上望楼を行っていたようです。

これで「日御碕灯台が戦争遺跡」としてあげられる理由が、理解できました。しかし、その史実は、日御碕灯台を紹介する資料の中に登場することはありませんので、地元の人もほとんど知られていない事実だと思います。

戦争遺跡といえば、どうしても第二次世界大戦時のことを思い起こしてしまうのですが、もっと長い西南戦争遺跡からの歴史があることも、今回のシンポジウムで学ぶことができました。

2日目の最後にアピールが採択されましたが、長文ですのでその一部を紹介します。

「戦争遺跡の改変、消滅の危機は一層増しています。島根県出雲大社基地、沖縄県那覇市首里城地下の沖縄守備軍司令壕の保存などまさに戦争遺跡保存の課題は待ったなしの状況です。同時に戦争遺跡の保存・活用の在り方をめぐって、旧日本軍の顕彰を目的とするような『軍事博物館』的な資料館、加害の側面を覆い隠し戦争を美化する手法などの例が数年来指摘されてきました。世界遺産に登録された長崎県端島炭鉱における朝鮮労働者についての責任ある説明の欠如、韓国での『徴用工裁判』への対応など、日本政府の歴史問題に対する不誠実な姿勢に通ずるものです。今必要なことは、日本が行った戦争の加害と侵略の歴史に真摯に向き合うことです。」

戦争遺跡保存を進める運動の役割が一層大きくなっています。3日目のフィールドワークには、参加しませんでした。

いのちとうとし

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