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文化・芸術

2024年11月24日 (日)

旧陸軍輜重隊の被爆遺構の公開と被爆石

サッカースタジアム建設に伴う発掘調査で出土した「旧陸軍輜重隊」の被爆遺構が、空鞘橋東詰南側馬碑前で21日に公開されました。

遺構設置途中の状況は、このブログでも紹介しましたが、ようやく完成し公開されることになったのです。

旧陸軍輜重隊の遺構そのものと比べるとごく一部の展示ですが、市民からの「遺構保存」の強い要望を受けて、実現したものですので、ぜひ多くの人に関心持って欲しい施設です。

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入り口には、この遺構が地図と共にどんな経緯でここの設置されることになったかの説明板があります。大きい説明板ですので、通る人は気づくと思います

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馬碑に向かって真ん中に作られて通路を挟んで、3つの遺構が設置されています。

入ってすぐの左手には、「厩遺構の敷石通路」が展示されています。

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説明板には、この遺構が、輜重隊跡のどの位置にあったかが示されています。

よく見ると、石が赤色をしていますので、「火災によるものかな」と思い、市に問い合わせたところ、「もともとこういう色の石が使われていたようですので、被爆時の火災によるものではありません」との説明を受けました。

右手には、二つの遺構が設置されています。

手前は、対面形式の馬房に敷かれていたアスファルトです。

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大きさは7平方メートルで被爆後の火災による痕跡を見ることができます。溝などもありますので、このアスファルトの部分は、今後「雨などが降ったときどんな影響が出るのか、冬に凍ったときなど剥離したりしないのか」など,保存上の問題が生ずる可能性があるように感じました。

右手奥側にあるのは、馬繋杭を設けた手入場です。

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全体で計57枚の石畳が遺構として使われ、広さは約17平方メートルの大きさです。

遺構の発掘調査現場を目にし,全体の保存を求めていた者からすれば、あまりにも小さすぎる(石畳だけでも発掘されたのは約800枚)という思いを禁じ得ませんが、市民の要望の中から実現したものでということも、忘れないで欲しいと思います。

今回の展示を機にサッカースタジアム東側の公園にも2枚の石畳が置かれ、この場所を案内する表示も展示されました。

残された被爆石の行方

輜重隊の遺構が、発掘調査が終わると壊されるということを知り、遺構展示用の被爆石だけでなく、その他の被爆石も活用して欲しいと当時要望していました。

広島市は、遺構復元用以外に20枚を超える被爆石を保管し、希望があればお分けするとしていましたが、その行き先が定まらないままでした。

「被爆遺構の公開のための作業が完了すれば、廃棄処分するしかないので、どこか引き取っていただくところはないだろうか」と相談を受けました。

すぐには、思いつくところはなかったのですが、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」のメンバーの一人が、「被爆建物が壊されたりしたとき、被爆石をもらって保存し、街角の原爆の絵展示の時、活用しています」と、話していたことを思い出しましたので、連絡を取ってみました。

「来年被爆80周年の行事として第11号碑を設置することにしているので、もらい受けたい」との返事があり、広島市と連絡を取り、20枚近い被爆石が「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」に引き取っていただくことになりました。

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戸坂に保管されていた被爆石

遺構の公開が始まった翌日22日に無事、引き取りが完了し、きちんと整理されて保管場所に収まりました。

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広島市が保管していた被爆石全部というわけにはいきませんでしたが、貴重な被爆石の多くが引き取られ、活用される道が開けて本当によかったと思います。

もし被爆石を入手したいという希望があれば、広島市の文化財振興課へ連絡して下さい。来週初めであれば間に合うと思います。

いのちとうとし

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2024年11月20日 (水)

ベトナムの歴史(その34) ― ベトナム Now Ⅳ―

2021年に「ヒロシマとベトナム」シリーズに加え、「ベトナムの歴史」シリーズの寄稿をはじめ、昨年の9月(その28)から今年6月(その30-7)までの間、ベトナム戦争を取り上げてきました。来年、1975年4月30日の「サイゴン開放」(ベトナム戦争が終結し、南北統一決定的になった日)から50周年を迎えることから、7月に今日のベトナムを紹介する「ベトナムNow」に着手しました。

ところが、8月、9月、10月と枯葉剤被害者支援のための「“エージェントオレンジDay”2024inヒロシマ」(東広島市)や「チャリティ・コンサート」(福山市)の紹介に費やしてしまいました。あらためて、今月から「ベトナムNow」をお届けします。

1975年4月30日

「ベトナムNow」、すなわち「南部解放・南北統一」からの「50年の歩み」は1975年4月30日のサイゴン解放によって始まります。それから50年経た今日までのベトナムを紹介する「ベトナムNow」に入る前に、49年前の歴史的瞬間を見てみましょう。

南ベトナムの首都サイゴン解放を目指す「ホー・チ・ミン作戦」最終の日となった1975430日午前11時半、南ベトナム大統領官邸(現在の「トンニャット宮殿)前に南ベトナム解放民族戦線(NFL)の旗を掲げた戦車隊が到着。直後、宮殿の屋上に南ベトナム解放民族戦線旗が掲げられました。この瞬間、ベトナム戦争が終結しました。

ベトナム戦争は一般的に、1964年のトンキン湾事件後の北爆をもって始まったとされ、「15年に及ぶベトナム戦争が終わった」と言われます。しかし、私は以前、1950年代初めからアメリカがフランスのベトナムでの植民地戦争に深く関わり、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスが敗退した後、ベトナム介入を本格化させたことを書きました。したがって「21年に及ぶベトナム戦争が終結」と表現します。

さらに言えば、1847年にフランス軍艦によるダナン攻撃に始まったフランスの植民地支配に抗する戦争、第二次世界大戦時の日本軍とフランスとの「二重のくびき」時代の抗仏抗日戦争、戦後の抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)、ディエンビエンフー以降の抗米戦争(ベトナム戦争)と、実に130年にも及ぶ長い植民地支配と民族分断の鎖を断ち切った歴史的な日として1975430日を捉える必要があると思います。

「サイゴン陥落」を伝えた日本人

この日、ハノイのラジオ局「ベトナムの声」の日本語アナウンサーとして「サイゴン陥落」を伝えた日本人がいました。九州大学農学部に留学中の夫、ルオン・ディン・クアと結婚、その後「解放区」(北ベトナム)に移住した中村信子さんです。夫、クアは日本で農学博士を取得し帰国後は、帰国後「解放区(北ベトナム)」で農業政策を推進しましたが55歳で亡くなります。中村さんも2年前(2022年5月)に亡くなられましたが、2008年に『ハノイから吹く風』を出版され、「サイゴン陥落」を告げた放送を回想されています。

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中村信子さん:出典:東京新聞(2022年5月24日)

「1975年4月30日の朝はよく晴れわたっていた。もうすぐ夏を迎えるハノイの空には、まぶしい太陽が輝いていた。・・・・私はもう10年以上、日本語番組のアナウンサーをしている。私にとって忙しい日々が続いていた。今年に入って南ベトナムの戦況は新しい展開を見せ、解放戦線の勝利に次ぐ勝利のニュースが絶え間なく伝えられていた。今日あたりサイゴンが陥落するのではとの情報が流れ、放送局は朝からそわそわした雰囲気に包まれていた。・・・・そして11時を過ぎた頃、激しい爆竹の音がパン・パン・パンと激しく局中に響きわたった。『うわぁー』という歓声があちこちで一斉に沸き上がった。南ベトナムが解放され、ベトナムが完全に統一された、その感激の瞬間であり、歴史的な瞬間だった。・・・・このビッグニュースを世界に伝えるために待機していた各国語のアナウンサーたちは、次々に原稿をつかんで録音室に走り、勝利の喜びを伝えた。」

そして、「ホーチミン戦役の勝利を祝う!ホーチミン戦役の勝利を祝う!。視聴者の皆さん、私たちは大きな喜びを持って次のことをお伝えします。ホーチミン戦役は完全に勝利しました。サイゴン市は完全に解放されました。この歴史的な瞬間の大勝利を祝う爆竹の音が首都ハノイをはじめ、全ベトナムに響いています。ハノイの市民は、老若男女を問わず、一斉に通りに出て共に勝利を分かち合いました。民族の大勝利を祝っています。英雄不屈のベトナム人民万歳。愛する祖国、ベトナム万歳。」(『ハノイから吹く風』、中村信子著)

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次号から1975年4月30日から今日までのベトナムを追う「ベトナムNow」の旅を始めたいと思います。

2024年1120日(あかたつ)

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2024年11月18日 (月)

企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」

旧日本銀行広島支店で、15日から広島市が主催する企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」が、開催されていますので、昨日観に行きました。

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この企画展は、広島市で中学校の社会科教員として勤務するかたわら、1954年から2002年まで,広島の景観の変化をテーマにして大段徳市さんが撮り続けた写真を展示したものです。

1911年生まれの大段さんが亡くなられたのは2008年ですが、その後遺族から約15万点にも及ぶネガやプリントが広島市に寄贈され、現在整理・デジタルデータ化が進められ,その一部は、広島市公文書館のデジタルアーカイブ・システムで閲覧が可能となっているようです。

大段さんの写真は、道路・河川・橋梁・建物が中心ですので、広島市の発展の様子を見ることができます。

この企画展の展示は、広島市が大きく変貌を遂げた1950年代から1970年代頃の写真が主になっています。しかも定点観測のように,同じ場所を何度も移していますので、その移り変わりもよくわかります。

展示構成は、「・広島を撮り続けて・変わりゆく広島の地形、道路・橋梁の建設と整備・街並みの移ろい」です。

興味をそそられた写真を何枚か紹介します。

1959年1月の平和大通りの宝町・鶴見町から東を望んだ写真です。現在の「被爆者の森」あたりだと想像でしますが、1957年から58年にかけて行なわれた「供木運動」で贈られた木々です。キャプションには、「短期間により多くの樹木を運搬するため、樹高は6mに統一されている」と書かれています。

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興味深い一文です。確かに樹木の木の高さが揃っています。

市内には「七つの川がある」と言われていますが(今は太田川放水路ができて6本しかありませんが)、その河岸には、かつては家が建ち並んでいたようですが、今はきれいな緑地公園に整備され,市民の散歩や憩いの場となっています。

私が広島に転勤となった1970年はじめ頃は、相生通と言われた基町、そして駅前周辺にまだ多くの家が建ち並んでいたことを思い出します。大段さんの写真にも河岸に家が建ち並ぶ写真が何枚かもあります。この写真は、1967年3月に駅前大橋から見た京橋川左岸です。後方に比治山が写っています。

キャプションによると1966年8月から比治山橋下流から建物の撤去作業が始まり、1968年には、かなり進んでようですので、この写真は、撤去直前の景色です。

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私が広島に来た頃には、このあたりはすでに撤去作業が終わっていたことになりますので、目にしたことのない景色です。

まだまだ、気になる写真がたくさんありました。この写真は、わが家のすぐ近くの風景です。

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1956年8月に鷹野橋消防署の望楼から北に向かって写した写真だと説明されています。右端が市役所、鯉城通りを挟んで左手手前にあるのが、農協ビルです。わが家は、農協ビルのすぐ後ろです。今ではとても想像できない風景です。

こういう風に、今の景色を想像しながら見ると、楽しみが増えます。

もう一枚、気になる写真がありましたが、その紹介は明日にします。

いのちとうとし

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2024年11月13日 (水)

50周年を迎えた金剛山歌劇団公演

金剛山歌劇団広島公演実行委員会が主催する「金剛山歌劇団公演」が、昨日午後6時半からアステールプラザで開催されました。今年は、50周年記念となる公演会でした。

今年も「広島朝鮮小中高等学校チャリティコンサート」として開催されましたので、日朝友好広島県民の会も支援の活動を取り組みました。

今年も金剛山歌劇団の公演に先立って、朝鮮学園の中高級生徒の民族楽器の演奏,小学5年生の子どもたちの演舞が、行なわれました。この二組は、今年の夏に行なわれた朝鮮学校のコンテストでそれぞれ金賞を得たそうです。特に小学校の子どもたちの踊りには、手拍子も入り盛り上がりました。いつものことですが、私も感動を覚えます。

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「時をこえ 時代をこえ 異国の地で守る大切なことがある

 だからこの道 かわらぬ思いで 歩き続ける100年へと」

民族のアイディンティテーを大切に歩んできた50年をさらに100年へと引き継ごうとの思いが込められた公演会です。

その思いは、オープニングでは、この50年を振り返る映像が流れる中での金剛山歌劇団のルーツである歌劇<金剛山の歌>の名曲を抜粋し創作した作品でした。

演目を紹介します。

女性重唱<リンゴの木を植えました>、舞踊<山河を舞う>、男声独唱<母よ>、舞踊<あの空の向こうへ>。ここで一部が終了しました。

第二部の演目です。舞踊<月灯りの下で>、チャンセナブ独奏<われら幸せを歌う>はいつも楽しみに聴く演奏です。歌謡メドレー混声重唱<ウリハッキョ、ウリ未来>,混声重唱<海に伝える想い>、舞踊<朝鮮相撲>は一人が手と足を使って二人の相撲の様子を演じます。舞踊<チャンゴの舞>、民謡メドレー男性独唱<ニルリリ打令>と混声重唱<黄金山打令>と続きました。

そして最後はいつものように民族舞踊<農楽舞2024>が、舞台一杯で演じられました。今年は、<2024>と銘打たれているからでしょうか、まったく新しい振り付けでの踊りでした。会場も一体となって手拍子が鳴り、最後には大きな拍手が巻き起こり、公演会が幕となりました。撮影禁止ですので、舞台の様子を映像でお見せできないのが残念です。

今年で50周年を迎えた「金剛山歌劇団公演」を私が最初にみたのは、はっきりとは覚えていませんが、40年以上前になるような気がします。当時の会場は、白島北町にある郵便貯金会館(現在の「上野学園ホール」)でした。郵便貯金会館は、1972年に完成していますが、当時1800席を超え,広島市内では最大の席数を誇るホールでした。

私がみたのは、昼の部でしたが、当時は昼と夜の一日2回の公演だったことを覚えています。

こんなことを思い起こしながら、今年の公演会への日朝友好県民の会を代表してのメッセージを次のように書きました。

「金剛山歌劇団50年の歩みは、民族の伝統文化を大切にし、そして新しい未来を築く文化を創造し、多くの在日同胞に朝鮮民族の歴史と伝統の素晴らしさを伝えつづける50年だったと思います。

どれだけ多くの在日同胞の皆さんが、この公演に励まされ、民族の誇りを取り戻されただろうかと想像します。

私も、金剛山歌劇団の公演を参観するたびに、会場と一体となって進む様子に感動を覚えてきました。」・・・「この公演を観ることによって一人でも多くの日本人が、素晴らしい朝鮮の文化に触れることを通じてさらに日朝友好の輪を広げることができればと願っています。」

今年の公演をみながら、この思いをさらに強くしました。

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2024年11月12日 (火)

初日に行きました「紙屋町シャレオ古本まつり」

先週の土曜日9日から、「第33回紙屋町シャレオ古本まつり」が、始まりました。5月に続く今年2回目の開催です。

出店する店は、広島県内だけでなく岡山、山口、兵庫、福岡などから11店舗が参加しています。5月は9店舗でしたので2店舗増え、100台のワゴンが並んでします。

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これまで数回参加がなかった岩書房が久しぶりに出店されるということですので、初日のオープン時間10時に会場に行きました。

と言うのも岩書房のワゴンでは、これまで郷土史関係の珍しい本を何度か見つけることができたからです。他店のワゴンには目もくれず、岩書房のコーナーをめざしました。

目をこらして棚をみていきましたが、なかなかこれはという本を見つけることができません。結局岩書房の棚では2冊購入しました。

1冊は、前々から探していた「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」です。この本は、中川幹朗が中心となって活動するヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が、2004年に発行した一冊です。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会は、これまでに何冊も「証言」集を発刊しています。私が所持するのは7冊で、初期の発行と思われる数冊はなかなか見つけることができないでいました。「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」は、その一冊です。この内容は2022年8月6日に発行された「原爆納骨安置所を守り続けて 佐伯敏子の証言」に収録されていますが、私の性でしょうか、やはり全冊そろえたいとの思いがありますので、購入することにしました。

もう一冊は、広島花幻忌の会発行の「雲雀第6号」です。この号は、「原民喜生誕100周年祭記念号」となっています。最近と言っても数年前からですが、原民喜に関わることを調べる機会が増えましたので、せっかく目についたのだからと購入することにしました。私に原民喜のことをいろいろと教えてくれる竹原陽子さんの「遺構『心眼の国』と『永遠のみどり』」も掲載されています。

岩書房の棚を見終えた後は、他の店の郷土史関係の棚をめぐりました。

一冊気になる本が目に入りました。「修道学園史」です。と言うのも、私の原水禁運動の関わりの中でも大きな影響を受けることになった近藤幸四郎さんが、被爆時に通っていた学校が旧制修道中学だからです。本を開くと約40ページにわたって「動員・被爆」について書かれています。「修道中学校職員生徒慰霊碑」は、近いうちに訪れたいと思っている慰霊碑ですので、その前に被爆状況を調べておきたいと思いましたので、躊躇なく購入しました。定価は1000円でした。

その他にも何冊か購入したいなと思う本もありましたが、思ったより高い値段がついていますので、断念しました。

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最近本離れが言われていますが、意外と若い人の姿(この写真には写っていませんが)も見ることのできる会場の風景でした。会期は、17日までです。新しい本も追加されます(と言っても郷土史関係の追加はほとんどない)ので、初日は、郷土史関係の書棚だけ見て回りましたので、他の棚をみるために何度か足を運びたいと思っています。

いのちとうとし

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2024年11月 9日 (土)

被爆バイオリン特別演奏会

7日の午後5時30分から、旧日銀広島支店で「被爆バイオリン特別演奏会」が開催されました。

この演奏会は、中国新聞が主催し広島市が共催して11月1日から12月25日まで開催される「未来へ繋がる 平和の軸線~ひろしまピースライン~」の「被爆建物 特別展示演奏会」の一環として開催されました。

3日には、平和公園レストハウスで「被爆ピアノ特別演奏会」が行なわれました。被爆ピアノの演奏は何度か聴く機会がありましたが、被爆バイオリンの演奏を聴くのは初めてでしたので、聞きに行きました。

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ひろしまピースラインのチラシから

今回演奏で使われる被爆バイオリンは、1917年のロシア革命で祖国を追われ日本に亡命したロシア人セルゲイ・パルチコフさんが、所持していたものです。

現在の広島女学院の当時の校長に誘われたセルゲイ・パルチコフさんは、1926年から1943年まで生徒たちに音楽を教えることになったようですが、戦局の悪化ともに女学院をやめざるをえなくなったようです。

しかし、広島に住み続けたセルゲイ・パルチコフさんは、1945年8月6日午前8時15分、爆心地から2.5キロの牛田で家族やバイオリンとともに被爆することになりました。

セルゲイ・パルチコフさんは、戦後、バイオリンとともにアメリカに渡り、1969年に亡くなりましたが、その後長女が1986年に広島女学院に寄贈し、壊れていたバイオリンは修復され、同じ音色を取り戻し、同校で展示され、時々演奏会で使用されているようです。

被爆ピアノは、何台かあるようですが、被爆バイオリンで現存しているのは、この1本のみと言うことです。

今回の演奏者は、エリザベート音楽大学・大学院の生徒の皆さんで、バイオリン:森脇恵厘花さん、ソプラノ:村田菜さん、ピアノ:汲地紗弥さん、ウン チェンタッさん、クラリネット:山田夕果さん、フルート:シランクルス ランバルさんの6人でした。

バッハの「無伴奏ソナタ」を森脇さんが、被爆バイオリンで独奏することから演奏会はスタートし、ヴィヴァルディの「四季」より秋など、9曲あまりが1時間半の予定通り演奏されました。

私には、演奏そのものを評価する力はありませんので、多くの参加者の大きな拍手が起こったことだけを紹介します。

会場に私が着いたときには、40席足らずの席が用意されていましたが、その倍を上回る椅子が追加されるほどの盛況でした。

私も楽しい秋の夕べの一時を過ごすことができました。

いのちとうとし

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2024年11月 5日 (火)

サッカースタジアム下の遺構の移設作業

今日5日は、「ヒロシマとベトナム(その63)」を掲載する予定でしたが、あかたつさんからの連絡で、一日遅れて明日掲載することになりました。

今日は、サッカースタジアム建設のために行なわれた埋蔵文化財の調査中に見つかり,一部を切り取り保存することになった旧陸軍輜重隊の遺構の移設作業についての報告です。

伊賀上野に行っていた1日に広島市から「切り取り保存を予定していた旧陸軍輜重隊の移行作業が11月末完成予定で始まりました」との電話連絡がありました。

11月に工事が行なわれることは、9月11日のブログ「旧陸軍施設遺構」はどれだ?: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したとおりです。

昨日、好天気に恵まれましたので、現地に行ってきました。

整備が大分進んでいました。馬碑に向かって、真ん中に石畳の園路が作られています。

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その園路を挟んで、左右に敷石が並んでします。向かって右側には、アスファルトが溶けた部分と敷石が縦に細長く並んでいます。この黒い部分は、発掘調査時に、遠くからもよく目につく場所でした。

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向かって左側には、敷石のみです。右側よりは、小さめです。

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それぞれの石には、発掘時に着けられた個別の番号がついています。これによって、発掘時と同じ位置に設置できることになります。

私が訪れた4日は、休日でしたので作業は中断していましたが、作業としてはかなり進んでいるように思えましたので、今月末までには予定通り完成すると思われます。

ただ、この展示でやはり「大きな輜重隊跡を想像するのは難しいだろうな」というのが、率直に感想です。それでもサッカースタジアムに行く道筋にありますので、一人でも多くの人が気づき、目にとめて,この地がかっての軍都広島の中心だったことを想像して欲しいと思います。

9月に訪れたとき、サッカースタジアム東側の芝生広場の東側の「ひろしまスタジアムパーク」の一角にあった「周辺の記念碑等案内地図」がどうなっているか気になりましたので、行ってみました。

被爆遺構の設置が完了するまで撤去したのでしょうか、案内板を見つけることができません。

ただ9月には見ることのできなかった子どもたちが、楽しそうに遊ぶ姿が目につきました。

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いのちとうとし

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2024年11月 3日 (日)

伊賀上野に行きました。

伊賀上野に窯を構える伊賀焼の陶芸家谷本景さんの「偲ぶ会」に参加するため、1日、2日と三重県の伊賀上野に行ってきました。

谷本さんは、1988年に初めてギャラリーたむらで個展を開催されて以来のお付き合いですので、ギャラリーたむらの店主と二人で参加し、一言挨拶をしました。

伊賀上野駅に着いたのは、午後1時過ぎでしたので、谷本さん縁のお店「田楽座わかや」で豆腐田楽をご飯の上の載せて食べるお昼の定食を食べました。田楽をご飯に載せて食べるのは初めてです。

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「田楽座わかな」には、谷本さんの作品が何点か展示されていました。

「谷本景を偲ぶ会」の会場は、国の史跡に指定されている江戸時代の藩校「史跡旧崇広堂」でした。

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「えっ国の史跡で偲ぶ会?」と思ったのですが、伊賀市では、有料での見学だけでなく、最近はさまざまな展示会やコンサートなどで活用されているようです。このアイデアは、谷本さんの提案が基になって始まったようですから、会場としてはふさわしい場所でした。

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会場には作品の一部が展示されていました。

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150人ほどの参加者で、伊賀市長や教育長同級生などのあいさつのトリを私が務めることになり、偲ぶ会は午後5時前に終了しました。

夕食は、伊賀に来たのだからと伊賀牛のステーキを食べにきました。

朝起きると、ホテルルートインの部屋の窓からは、伊賀上野城がすぐ近くに見えます。

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二日目は、市内観光をして午後3時に伊賀上野駅を出発する予定でしたが、豪雨による帰りの列車の運転休止が心配になり、帰りの時間を早くすることにしました。

でもせっかくきたのだからと、朝食後伊賀上野城周辺を散策しました。

伊賀上野城は、藤堂高虎が築城した城で、本丸の西には、日本1,2の高さを誇ると言われる約30メートルの高石垣が作られています。

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現在建つ天守閣は、1935年に復興されたものです。

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正面は、一部足場を組んで修復中でしたので、東側から写しました。

伊賀上野は、芭蕉生誕の地ですので、お城の周辺にも幾つか縁の建物がありました。

さらに伊賀と言えば、忍者です。忍者屋敷もありましたが、早い時間に行きましたので、まだ開館されていませんでした。

前日に「明日は自宅によって帰って下さい」とお誘いを受けていましたので、午前中の内にと谷本景さんの自宅を訪問することにしました。

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谷本さんのお父さん光生さんは、桃山時代に武将茶人に愛されながら、なぜか終焉を迎えてしまった古伊賀を再建された方で、ここで作陶されていたようですが、ちょうど谷本景さんが作陶をはじめたとき、別の場所に自宅や作業場所窯を移され,その後は景さんが、この場所で作陶を続けることになった場所です。

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父光生さんが新たに居を構え作陶されたお宅にも行きました。遠くに伊賀上野城が見える小高い場所にありました。

雨の影響で駆け足となった伊賀上野訪問でしたが、有意義な時間を過ごすことができました。

伊賀上野駅を出発したのは、当初の予定を大幅に繰り上げて午前11時21分でした。途中、新幹線などの遅れもあり,往路よりは少し時間がかかりましたが、午後4時過ぎに無事に帰広することができました。

いのちとうとし

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2024年10月20日 (日)

ベトナムの歴史(その33) ― ベトナム Now Ⅲ ―

先月号でお知らせしました「“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山」、10月16日(水)、344名の皆さんにご入場いただき成功裏に開催できました。連休明けから半年間、企画・準備・運営とご協力くださった連合に結集する働く仲間の皆さんや企業、団体、そしてボーンアティア市民の皆さんに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

ベトナム伝統の民族楽器が奏でる素晴らしい音色や生演奏の臨場感を味わっていただくことはできませんが、公演スナップをお届けします。

準備

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開演

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月琴(ダングエット)           一弦琴(ダンバウ)                 

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竹琴(トルン)             石琴(ダンダ)

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上3枚は、数々の賞を受賞した著名の舞踊家によるパフォーマンス。

終演後のロビー

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“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山

開演にあたってのご挨拶

皆さん、こんばんは。ようこそ“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山にお越しくださいました。

代表世話人の一人を務めています広島ベトナム平和友好協会の赤木達男です。

4年前、2020年にチャリティー・コンサートを計画しました。広島が「被爆75周年」、ベトナムがベトナム戦争から45周年を迎えた年です。戦争による核被害を受け、今なおその放射線による被爆死が続いている広島と猛毒ダイオキシンを含む化学兵器、枯葉剤を大量に浴び、同じく今なおその被害が続いているベトナム。この事実を風化させることなく、“核も化学兵器も、戦争もない平和で豊かな世界を築く”というヒロシマとベトナムの思いをつなぎ、そして枯葉剤被害者の支援につなごうと計画しました。

しかし、世界で猛威を振るった新型コロナウイルスの感染拡大のため、実現しませんでした。

今日のチャリティー・コンサートはそのリベンジです。

この4年の間、世界は大きく変わりました。ロシアによるウクライナ侵攻は3年にも及び、イスラエルによる「ガザ虐殺」はレバノンへと拡大しています。この瞬間にも、罪のない多くの子どもたちや市民の尊い命が奪われています。化学兵器や非人道兵器が使われ、核兵器の使用も心配されています。日本やベトナムのある東南アジア・東アジアでも軍事的緊張が高まり、チャリティー・コンサートの持つ意味、意義は、ますます重くなっています。

4日前、私たちはとても嬉しいニュースを手にしました。被爆者の立場から核兵器の廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会が、今年のノーベル平和賞に選ばれたというニュースです。

この受賞は、79年間、決して忘れることなく、諦めることなく、自らの体験を通して核廃絶を訴え続けてこられた被爆者の方々への敬意と賞賛。そして、再び核兵器が使われる危険性が増している今日、平和を愛し、その実現を目指す私たちに一層の努力を促し、加えて、世界で唯一の戦争被爆国である日本政府に対し、その役割と責任を果たすことを求めたものだと思います。

来年、広島は「被爆80周年」を迎え、ベトナムはベトナム戦争が終結し、南北ベトナムが統一されて50周年を迎えます。こうした歴史的な節目を前に、日本被団協が受賞したノーベル平和賞の意味、本日、“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートを開演できますことの意義を、皆さまと共に確認し合いたいと思います。

おりしも、日本の将来を左右する大切な時期の真っ只中ですが、今夜はホーチミンから国立ボンセン歌舞団の皆さんをお迎えし、54の民族が織りなす伝統楽器の素晴らしい演奏、継がれてきた歌や踊りをお楽しみください。そこには、長く大国によって支配・蹂躙されながらも、平和で豊かな国を取り戻すための不屈の闘志や、人びとの深い絆で結ばれた日々の暮らしを思い浮かべることができると思います。

おわりに、本日の公演のために、惜しみのないご支援とご協力をお寄せくださいましたすべての皆さまに、心からお礼を申し上げ、開演にあたってのご挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

2024年10月16日

                一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会

                           会長  赤木達男

2024年10月20日(あかたつ)

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2024年9月20日 (金)

ベトナムの歴史(その32) ― ベトナム Now Ⅱ ―

枯葉剤被害者支援チャリティーにご協力ください

6月から「ベトナムNow」シリーズを始めましたが、今号は枯葉剤がベトナムで初めてまかれてから63年、最後の枯葉剤散布から53年、ベトナム戦争が終結して49年経た今なお、深刻な被害をもたらし続けている枯葉剤被害者を支援するチャリティーコンサートを福山市で開催します。


    10月16日(水) 17時開場  18時開演~20時終演

ところ  広島県民文化センターふくやま ホール

チャリティー協力券  一般:2,500円 大学高校生:1,500円  ベトナム人:1,000円

(当日券はいずれもプラス300円)

   お申し込み先 一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会

TEL) 090―1010―0472  (FAX) 082-423-8060

Mailakatatu@d4.dion.ne.jp

振込先  広島銀行  西条支店  普通  口座番号 3825337

         口座名 一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会 代表理事 河内昌彦

チケットお申し込み、支援カンパをお待ちしています。

広島は来年、「被爆80周年」を迎えます。

ベトナムは来年、ベトナム戦争終結=「ベトナム南部解放・祖国統一50周年」を迎えます。

日本がはじめたアジア太平洋地域への侵略戦争の結果、ヒロシマ・ナガサキに原子爆弾が投下され、80年経た今なお、被爆者、被爆二世、三世と多くの人たちが放射線後障害に苦しんでいます。

長い植民地支配に抗して、民族の独立と統一のために戦ったベトナムの人々。ベトナム戦争でアメリカ軍が散布した猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤爆弾は、50年経た今なお、ベトナムの人々に深刻な被害をもたらし続けています。

ヒロシマの原子爆弾による被害とベトナムの枯葉剤による被害は、20世紀の戦争被害の象徴であり、再び繰り返させてはなりません。

そのヒロシマとベトナムは、〔核兵器も 化学兵器も 戦争もない 平和で豊かな世界を築く〕という固い意思と絆で結ばれています。

 ヒロシマとベトナム、ともに歴史的節目の前年(プレ年)にあたります。

その年、“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートを福山で開催させていただきました。

県内第二の都市、「ものつくり地域」備後の拠点都市福山は、外国籍市民のうちベトナム出身者が最も多く暮らしています。相互に理解を深め合いながら多文化共生の地域づくりが先進的に進められている福山市で、チャリティーコンサートを開催させていただくことを通じて、枯葉剤被害に対する理解と被害者への支援の輪が広がり、一層の日越交流につながれば、私たちの何よりの喜びです。

この瞬間にもウクライナで、ガザで

子どもたちや女性など多くの尊くかけがえのない命が奪われています。

禁じられた化学兵器やクラスター爆弾など非人道兵器が使われ、核兵器使用の懸念も高まっています。

いかなる理由が掲げられようとも、理不尽に、無差別大量に殺戮を続ける紛争や戦争に私たちは与することは出来ません。それが、被爆県広島民の心、「ヒロシマの心」です。

ノーモア・ヒロシマ  ノーモア・ナガサキ

ノーモア・枯葉剤   ノーモア・ウオー

ストップ!殺戮 パレスチナとガザに平和を

 厳しかった残暑もようやく和らぎ、訪れた文化の秋のひととき

54の民族が織りなすハーモニーを存分にお楽しみください。心に染み入るやさしい一弦琴の音色、軽快で弾ける旋律のトルン、竹の筒から押し出させる奥深くまろやかな音、コミュカルで愛情表現豊かな舞踊、そして人々の暮らしが紡いできた歌・・・・。

いずれも、100%、200%の満足感を味わっていただけるコンサート。存分に満喫ください。

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2024年9月20日(あかたつ)

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