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心と体

2022年5月24日 (火)

「水辺の吹奏楽フェスティバル」―3年ぶりの開催

21日(土)の午前11時過ぎ、本川町の靴の修理屋「靴専科」に行こう平和公園内を歩いていると元安川の方から吹奏楽の演奏の音が耳に届きました。

「何をやっているかな」と音の聞こえる元安橋方面に移動すると、原爆ドーム前の対岸に設けられた「元安川親水テラス」で、水の都ひろしま推進協議会が主催する「第18回水辺の吹奏楽フェスティバル」が開催されていました。

このフェスティバルは、11時からのスタートですので、私たちが耳にしたのは、最初の出演者・県立安古市高等学校吹奏楽部の演奏でした。渡されたプログラム表によれば、スタート曲は「それ行けカープ!」だったようですが、私たちが気付いたのは、3曲目の「DEEP PUPPLE MEDLEY」でした。この曲も最後の部分で、近くに行ってしばらくすると演奏が終わりました。

プログラム表では、次の演奏まで、15分以上ありましたので、この場を後にし、「靴専科」へと移動しました。修理の依頼を終えて、相生橋を渡っていると再び吹奏楽の音が聞こえてきます。2番目の演奏校広島市立己斐中学校吹奏楽部です。少し時間もありましたので、正面から演奏を聞こうと「元安親水テラス」の対岸に移動しました。

こちら側では、多くの人が演奏に聞き入っています。かなりの人が、スマホで演奏風景を動画撮影中ですので、出演者の関係者だと思われます。

20220521_114101

私たちも、少し足を止めて演奏に聞き入りました。

プログラムを手渡されたときに説明を受けたのですが、一昨年、昨年と2年間コロナ対策で中止となったため、「第18回水辺の吹奏楽フェスティバル」は、3年ぶりの開催となったそうです。

コロナ禍、色々と制約があり演奏会もままならない状況だったと思いますが、3年ぶりにようやく開催され、本当によかったと思います。もし今年も延期になっておれば、この場での演奏を一度も体験することなく、卒業しなければならなかった子どもがいたことになるのですから。

プログラムによれば高校、中学13の吹奏楽部が持ち時間20分で、演奏することになっていましたので、終わるのは、午後4時35分と長時間の演奏会ですが、平和公園を訪れた人への思いがけないプレゼントになったと思います。

私たちは、己斐中学校の演奏が終わった時点で、会場を後にしましたが、少し暑いぐらいの天候に恵まれて、良いフェスティバルになったと思います。

いのちとうとし

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2021年10月 6日 (水)

「いじめ」に対応する「第三者機関」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

「いじめ」に対応する「第三者機関」

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (9)――

  ずいぶん長いシリーズになってしまいましたが、小山田圭吾事件が契機となって、遅まきながら私も「いじめ」についての俄か勉強を始めました。マスコミの報道はもちろん、何冊かの本や論文を読みながら、学んだ内容を整理してこのブログで報告してきたのですが、心許ない右往左往にお付き合い下さり、有難う御座いました。

  俄か勉強をする前から、北欧の「いじめ」対策に一日の長があるらしいことには気付いていましたが、勉強するにつれて「集団的自立」や「教師集団」を強調する考え方こそこの問題の本質を突いているのではないかと感じて、我が国における研究と実践にも注目しました。さらに、コールバーグの発達段階説という枠組みからも刺激を受けて、「第三者機関」の必要性についての提案をする準備ができました。

《フィンランドの「KiVa」プログラム》

  そのために、この2か月弱の間に学んだことを改めて最初から整理するうちに、最初の北欧に戻ることになりました。フィンランドの「KiVa」というプログラムが、その全てを包摂する実践的な内容を持ち、かつ実証実験においてその効果が証明されている優れたものであることに気付いたからです。さらに、ヨーロッパの数か国、そしてニュージーランド等では、国単位でこのプログラムを採用し、効果を挙げているという報告もショッキングでした。

  しかし、我が国ではウイキペディアに「KiVa」の項目はありませんでした。解説している論文やマスコミ報道も少なく、その中で北川裕子氏他による「学校におけるいじめ対策教育―フィンランドのKiVa に注目して―」(不安障害研究,5(1), 31–38, 2013) が手短に「KiVa」を分り易く紹介しています。PDF版は、ダウンロードできます。

  また東京都議会議員の風間ゆたか氏は、御自分のブログで「KiVa」の考え方を元にして世田谷区が2018年度にいじめ防止プログラムを導入したことを紹介しています。

  となると、今回から「KiVa」の紹介をするのが理に適っているのですが、もう少し勉強が必要です。まずはこのシリーズのそもそもの目的に戻って、「いじめ」の被害者を守るための「第三者機関」についての提案をしておきたいと考えています。

  そのために、9月21日の第五回で紹介した、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) で提案されている「特別クラス会」と、毎年最初の時間に先生が子どもたちに提案する「六つの合意」を枠組みとして使います。それは、「KiVa」の考え方にも沿っていますので、方向性としては問題ありません。大きな違いは、これからの提案は「いじめ」そのものの防止という大きな観点ではなく、「いじめ」が起きた時にどう対応するのかに焦点を絞って考えていることです。

  何度もお読み頂くことになりますが、大切なリストですので、再度「六つの合意項目」を掲げます。

六つの合意項目 (『いじめ』141ページ)

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

  これまで大きく報道されてきた「いじめ」事件は、被害者が自殺する、あるいは殺されるといった最悪の事態が生じてからのものが多いのですが、事後的にその真実を究明するための、我が子を失った親による大変困難な努力が目立ちます。これらの事件では、被害者は必ず何らかの訴えをしているのですが、それを学校側が受け止められなかったことから悲惨な結果につながっています。

  となると、上記の合意の②「トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する」を実現するために、誰が主役になれば良いのかが問われなくてはなりません。ほとんどの場合、先生や親にも「いじめ」を受けている事実が十分に伝わらなかったことを考えると、被害者本人が自ら「いじめ」を「公開の場」に持ち出すことは至難の業なのではないでしょうか。

  さらに、六つの合意の内、③と④、そして⑤まで入れても良いと思いますが、それらはトラブルを公にした場合の「仕返し」対策です。「チクる」という言葉が実態を良く表現していますが、被害者が「いじめ」を受けていることを誰かに話すこと自体の難しさの中でも「仕返し」をされるだけではなく、「いじめ」が一層酷くなるのが通例であることを示しています。

《被害者の側に立つ「駆け込み部屋」》

  これら、二つの点に焦点を合わせての「第三者機関」が必要です。それをどのようなものにすべきなのかを記述する前に、学校を巡る大切な条件を整えておくべきだと思います。

  最大の条件は、「いじめ」についてどのような対応を行うにしても、先生方への負担が増す結果になってはいけないということです。今までにないことをしなくてはならないのですから、そのために必要な時間に相当する分のこれまでの仕事を減らさなくてはなりません。もっと大掛かりな改革ができるのなら、学校制度そのものの見直しをして、子どもたちが学校そのものの運営により主体的に関与できるシステムを創ることも考えるべきだと思います。

  しかし、それほど大掛かりではなくても、これまでの学校教育で決定的に欠けてきた「少人数学級」を実現することくらいはして貰わなくてはなりません。これが「いじめ」問題解決のためには大きな力になることも御理解頂けると思います。それも、中途半端な「35人」学級ではなく、「20人」学級にすることです。子どもたち一人ひとりとの意味ある関わりが先生の側の犠牲的な献身によって実現されるのではなく、余裕のある創造的環境の中で継続されるためには、これが前提条件です。

  その上で、学年の最初には先生と生徒との間での「六項目合意」を結ぶという順序です。また、被害者が被害を比較的容易に訴えられる仕組みとして、子どもたちによる「いじめパトロール」を組織します。数人のグループで、休み時間や放課後に「いじめられてはいませんか?」という問い掛けをして、「いじめ」を受けている子どもからの発信があれば、子ども同士の問題として「特別クラス会」を開いて議題にする役割も果します。さらに、「第三者機関」への報告はオプションとしてできることにしておきましょう。

  その「第三者機関」の名前も付けておきましょう。イメージとしては、江戸時代の駆け込み寺のように、被害者が加害者から隔離され、駆け込んでからは身の安全が保障されるという機能が大切ですので、「駆け込み部屋」にしておきましょう。「Hot Line」という側面もありますのでそれでも良いのですが、電話だけというイメージが強くなりますので、「駆け込み部屋」にしてみました。

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  「駆け込み部屋」は各学校に一室を持ち、担当の専門職とスタッフが常駐します。官僚組織としての学校には所属せず、例えば民間の公益財団法人のような立場で学校や子どもたちと関わります。先生方、子どもたちとの信頼関係の存在することが大前提になりますので、そのためにどのような位置付けにするのかは、法的な枠組みの整備も含めて、これからの課題としておきます。

  仮にある子どもが「いじめ」に遭ったとして、「いじめパトロール」にも言えない場合、「駆け込み部屋」に物理的に駆け込むか、SNSなどを通して被害を受けていることを発信し、それを受け取るのが「駆け込み部屋」の第一の役割です。

  「駆け込み部屋」は「第三者機関」ではあるのですが、とは言っても、徹底的に被害者の立場に立ちます。「仕返し」の可能性がありますし、それ以前にその時点で続いている「いじめ」から被害者を守らなくてはなりません。被害者が加害者と顔を合わせなくて済むように一時的、あるいはそれ以上の期間被害者を保護することが第二の役割です。場合によっては転校等の対応も視野に入れる必要があります。

  そして、先生方にこの「いじめ」についての調査を迅速に行うよう要請し、調査に立ち会い、調査の補助を行えるようにします。その際、保護者との連絡等を学校が行うのか「駆け込み部屋」が行うのかについては、今後の課題としておきましょう。

  さらに、この「いじめ」が犯罪としての要件を満たしている場合には、学校と連携して、警察の関与を求めます。

  日夜、学校現場で努力を続けられている皆さんには「机上の空論」としか見えないのでないかと思いが強いのですが、それなりのイメージは伝わったでしょうか。とにかく子どもたちが元気で安心して通える学校を実現するためには、私たち大人が当事者意識を持って関わらなくては何事も始まらないという点だけでも共有できたとしたら有り難い限りです。

 [21/10/6 イライザ]

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2021年10月 1日 (金)

2021年9月17日に公表された、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (8)――

2021年9月17日に公表された、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (8)――

 

  今回は、「いじめ」の被害者を守るための「第三者機関」についての提案をする積りでしたが、その前に考えておくべきことが起きました。

  ウイキペディアによると、「2021年9月17日、小山田圭吾本人による謝罪と経緯説明 (以下「説明」と略します) がCorneliusのHP、及び本人のInstagramに掲載された」そうですので、できればその全文をお読み下さい。

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  元々このシリーズの発端になった、1994年発行の『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』 (以下『ロック』と略します) と、翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』 (以下、『クイック』と略します) に掲載されたインタビュー記事については、第一回で取り上げました。

  その際、三つの問題点を指摘しました。一つは、小山田が学校行った「いじめ」そのものです。二つ目は、それを12年も経ってから「武勇伝」として公にしていることです。そして三つめは、被害者からの年賀状を公開し、被害者ならびに被害者の母親を嘲っていることです。

  今回の「説明」では、一つ目は『ロック』に掲載された「いじめ」のいくつかについては自分では手を下していない、つまり実体がなかったという言い訳をしています。その上で、だから二つ目も二次被害を与えたかもしれないが、自分が話した内容よりはセンセーショナルに書かれてしまっているという趣旨の説明になっています。三つ目については言及がありません。

  私も当初、二つ目の問題については、「二次被害」という側面を強調しました。でも今回の「説明」を読んでの違和感はそれだけでは表現できません。「一次」的な面に着目する必要があるからです。

  一つには、学生時代に酷い「いじめ」をした、それも相手が特定できる個人を対象にしたものであることを、全国的に流通している雑誌で公開すること自体が酷い「いじめ」であるという点です。被害者の視点からは「二次被害」ではなく、「一次被害」として捉えるべきだという点です。

  次に、物理的に相手に排泄物を食べさせたり、マットレス巻きにしたり、ひもで縛って自慰行為をさせたりということを仮にしていないにしても、「そういう行為を誰々にした」と公の場で自慢すること自体が「いじめ」なのです。それも「一次被害」ですす。

  この点について、伝わりにくい感じもしますので、極端な例を挙げることでその酷さを強調しておきましょう。「説明」の中では、次のような意図で、実際はしていない「いじめ」にもかかわらずそれが自分の行為であることにしてしまったと述べています。「露悪的なキャラクターを演じることで世間からの見られ方を変えようとしていました。過剰で自虐的なリップサービスを必要以上に行うこと」にした、というのです。

  つまり、「二次被害」を与えてしまった「動機」があり、その点は理解して欲しいということなのだと思います。その気持は分りますが、動機としてイタリックで表記した部分は、極めて自己中心的です。それも問題なのですが、自己中心的な動機があったことで、被害者が受けた心の傷や人間としての尊厳の無視などが許されるはずもなく、全く別次元で考えなくてはならないことなのです。

  その点を明確にするために「思考実験」をしてみたいと思います。前提として、ある人Aが、自分に対する世間の見方を変えるために過剰で自虐的なリップサービスを必要以上にしたい、という「自己中心的」な目的があったとします。そして「思考実験」として、「自己中心的」な目的達成のために、次のような「嘘」を全国的な雑誌の中で公開したとしましょう。

「自分は、自分の家族 (あるいは親しい友人に) に、排せつ物を食べさせ、マットレス巻きにし、自慰行為を強制した」

  仮に、こんな言葉が雑誌に乗り多くの人の目に触れたとしたら、当該家族あるいは友人は、まずAが何故そんな「嘘」をつかなくてはならないのか、それを公刊されている雑誌に何故載せなくてはならないのかを不思議に思うでしょう。Aに精神鑑定を受けさせても不思議ではありませんし、「勘当」とか「親子の縁を切る」、永遠に「絶交」する等の結果になったとしても仕方のない行為だと考えられます。

  このことだけからも明らかなように、「嘘」であっても、家族や友人に対して自分がこの種類の「いじめ」をしたと広言することはあり得ないのです。ですから、小山田事件の実際の被害者を「友人」だと規定している「説明」の文章とは大きな矛盾があることになります。そして、仮に被害者が抗議をしたとしてもそれがAにとってはどうでも良いというくらいの弱い立場にある人間を標的にしていることもハッキリしてきます。

  さらに問題なのは、仮に、このような行為に実体がない、つまり嘘をAが出任せに言っていたとしても、これが単に「いじめ」に止まらず、Aの家族あるいは友人に対しての許しがたい、人間の尊厳を無視している侮辱であり、言葉による暴力、人権侵害であることは一目瞭然なのではないでしょうか。あなたの親しい友人から、あなたがこのような被害を受けていたという「嘘」を、雑誌でもネットでも良いですが、広められたとしたらどう感じるのかを想像してみて下さい。

  言うまでもないことですが、ネットを介しての「いじめ」の多くは、これと同種類の「言葉」による「いじめ」ですし、多くの場合この種の「いじめ」には実体のないことも良く知られています。

  繰り返しますが、「説明」の中ではこの新たな「人権侵害」、「人間性の否定」は、単なる「二次被害」というレベルで捉えられています。「二次」ではなく新たな「一次」レベルの「いじめ」、それも人権侵害、人間としての尊厳を侵す深刻な行為であるという認識のないことが問題です。

  オリンピックで重要な役割を任されるような、知名度もあり広い交友関係もある人なのですから、周囲にこのような本質的な点について、きちんと説明し諭してあげられる人はいるはずです。もう一度、自分の行為についての自覚をした上での反省ができるように、その内の何方かが骨を折って下さらないものかと祈っています。

 [21/10/1 イライザ]

 

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2021年9月26日 (日)

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

前回は、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) がどのように「いじめ」を把握しているのか、そしてその理解を元にした対策はどんなものなのかを概観しました。

「いじめ」の対策として村瀬が『いじめ』の中で薦めているのは、普通の「クラス会」とは別に「特別クラス会 (広場) 」を設けていじめの問題を話し合うことです。普通のクラス会が、「授業の場」あるいは「教育の場」に位置付けられているのに対して、「特別クラス会」は「法の場」として位置付けられます。それは、「先生のルール」と「子どもの自由なルール」という公開された場で共有されているルールの場に、「掟 = 子ども法」という地下に潜ったルールを持ち出して話し合いをするということです。

この「特別クラス会」を機能させるために、4月の新しい学年が始まる最初の日に、先生は生徒との間で「六つの合意」を取り交わします。念のために、「六つの合意」を再掲します。

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

このような合意が守られれば、「いじめ」そのものを防げるであろうことは分ります。同時にいくつかの疑問も生じます。

例えば、「いじめ」は、一つのクラスの中に限定されているものではありません。例えば部活などの場で「いじめ」のあることは良く知られています。その場合はどうすれば良いのでしょうか。あるいは、前の年から続く「いじめ」があり、組替えで別のクラスになった「仲間」が、新学年になってもその行為を続けるというケースはどうでしょうか。

『いじめ』は、基本的な教科書であり、このような応用問題については別の著作や研究・実践があるのかもしれませんが、「クラス」より広範囲の場、例えば全校での取り組みも必要になってくるのではないでしょうか。

また「いじめ」は世界のどこでも起きているのですから、外国での経験や研究も参考になるはずです。その際に、「いじめ」を考える枠組みの一つとして、ロレンス・コールバーグの道徳的発達理論が役に立つと思えるのですが、村瀬の『いじめ』では、コールバーグへの言及が一切ありません。9歳から10歳頃に、子どもの中に「法」という意識が芽生えることを基本として「いじめ」の問題を扱っているのですから、コールバーグ理論の中の、中間的段階に現れる正義や法についての志向の変化・発達との関連を考えるのは自然なように思えるのですがどうでしょうか。

心理学や教育学を勉強した方には常識だと思いますが、ここで、コールバーグ理論の発達段階を日本語と英語のウイキペディアを元に簡単に示しておきましょう。各段階の下のイタリックの言葉は、その段階での道徳的思考の典型を示しています。

800pxkohlberg_model_of_moral_development

http://www.afirstlook.com/docs/diffvoice.pdf

 

1.慣習以前のレベル

第一段階=罰と服従への志向

「警察に捕まらないならば、それはOKだ」

罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あるものとなり、罰せられるか褒められるかという行為の結果のみが、その行為の善悪を決定する。

第二段階=道具主義的相対主義への志向

「気持ちが良ければ、やって良いんだ」

正しい行為は、自分自身の、また場合によっては自己と他者相互の欲求や利益を満たすものとして捉えられる。具体的な物・行為の交換に際して、「公正」であることが問題とされはするが、それは単に物理的な相互の有用性という点から考えられてのことである。

2.慣習的レベル

第三段階=対人的同調あるいは「よい子」への志向

「私のためだから、そうして欲しい」

善い行為とは、他者を喜ばせたり助けたりするものであって、他者に善いと認められる行為である。多数意見や「自然なふつうの」行為について紋切り型のイメージに従うことが多い。行為はしばしばその動機によって判断され、初めて「善意」が重要となる。

第四段階=「法と秩序」の維持への志向

「義務を果せ」

正しい行為とは、社会的権威や定められた規則を尊重しそれに従うこと、すでにある社会秩序を秩序そのもののために維持することである。

3.脱慣習的レベル

第五段階=社会契約的遵法への志向

「思慮深い人たちみんなの考えだ」

ここでは、規則は、固定的なものでも権威によって押し付けられるものでもなく、そもそも自分たちのためにある、変更可能なものとして理解される。正しいことは、社会にはさまざまな価値観や見解が存在することを認めたうえで、社会契約的合意にしたがって行為するということである。

第六段階=普遍的な倫理的原理への志向

「みんながそれと同じことをしたらどうなる?

正しい行為とは、「良心」にのっとった行為である。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することができる。

ここで「慣習的」という言葉は、「世間で受け入れられている善悪の判断」という意味です。多くの人は十代でこのレベルに達します。村瀬は『いじめ』の中で、9歳か10歳頃に子どもたちは「法の人」としての目覚めを経験することを指摘していますが、それは第1レベルの第二段階から第2レベルの第三そして第四段階への発達だと考えられます。

そして、『いじめ』の中の中心的解決方法として提案されている「特別クラス会」は、子どもたちを第3レベルの第五段階における判断をするような環境を創ることだと考えて良いでしょう。それも自分たちの手で「社会契約」をつくるという積極的な意味を持つことになるのです。

そして、コールバーグの理論を活用することで、「いじめ」の問題にどう取り組むのかという研究や実践も世界的に、そして我が国でも行われてきています。ネット上で探しただけでも、星野真由美による「いじめ問題への道徳的発達理論によるアプローチの方法について」(教育科学研究 第15号 1996年7月、17-27)や、その中でも触れられているコールバーグの提唱した「ジャスト・コミュニティ」の実践を取り上げている「ジャスト・コミュニティを目指す全校(学年)道徳という指導法」(田沼茂紀道徳教育研究室 2006年2006年12月24日号)が見付かります。

「ジャスト・コミュニティ」は、これまでこのブログで取り上げてきた、「集団的自立」や「特別クラス会(広場)」と共通した考え方ですので、これらの異なる理論や実践が相互に補い合い適用範囲を広げるなどすることで、さらに効果的な「いじめ」対策が可能になるのではないかと思います。

私は、コールバーグの発達段階理論を見詰めながら、第三者機関についての要件をより具体的に考えられるようになりました。その結果は次回に。

 [21/9/26 イライザ]

 

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2021年9月21日 (火)

「法の人」を育てるために学校でできること ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

「法の人」を育てるために学校でできること

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

 

前回は、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) を紹介しました。村瀬によると、「いじめ」を理解する上で一番大切なのは、子どもたちが9歳か10歳になる頃、世の中には一定のルールがありそれに従う必要のあることに気付く、いわば「法の人」になるという事実でした。

しかし、その「法」には二面性があり、一つは、刑法その他の大人社会に通じる「公開」された法という面です。もう一つの側面は、しばしば、自分たちの仲間だけには通じても、仲間以外、例えばその他の友だちや先生には公開されない秘密の「法」あるいは「掟」だと言って良いでしょう。『いじめ』では、これを「仲間内の子ども法」と名付けた上で、この関係を次のように示しています。

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そしてこの「法」は、教室内では、次のような三つの「ルール」という形で具体的に現れているというのが『いじめ』の主張です。

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「法」、「ルール」、「掟」といろいろな言い方がありますが、要するに自分たちの行動を規制するという効果を持つ「言葉」が、直接的行使される「力」あるいは「暴力」を抑える状況を示しています。

問題は、その中に特定の仲間にしか共有されず、他の人たちには見えない「地下」空間が存在し、その中で「いじめ」が起きているという点です。

さらに、地下に潜った「掟 = 子ども法」の一部として、犯罪としか名付けられない直接暴力が大きな役割を果していることなのです。つまり「法」によって、と言うことは力によってではなく言葉によってという意味ですが、その「法」によって行動を支配することの重要性を理解し始めた子どもたちの中に、まだ力によって行動を強制することを容認する価値観が残っているのです。

そうした理解の下、「いじめ」の対策として村瀬が『いじめ』の中で薦めているのが、普通の「クラス会」とは別に「特別クラス会 (広場) 」を設けていじめの問題を話し合うことです。普通のクラス会が、「授業の場」あるいは「教育の場」に位置付けられているのに対して、「特別クラス会」は「法の場」として位置付けられます。その意味では、民主的な色が付きますので、「広場」という名称が相応しいと考えられます。

上の図で説明すると、「先生のルール」と「子どもの自由なルール」という公開された場で共有されているルール作りの場に、「掟 = 子ども法」という地下に潜ったルールを持ち出して話し合いをするということです。

そして、この「特別クラス会」が機能するために、「4月。新しい学年が始まるその初日に、先生は最初の重大な提案をします。それは生徒と取り交わす「六つの合意」の提案。何の合意かというと、いじめ対策に向けての合意です。」以下、「六つの合意」です。

六つの合意項目 (『いじめ』141ページ)

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

合意①の「アンケートの項目」とは、「いじめ」のリストですが、長くなりますので省略します。

さて、ここで提案されている「広場」と、尾木ママが北欧で観察してきた「子どもパトロール」や、楠による「教育学」で強調されている「集団的自立」との共通点に注目して頂きたいのですが、北欧と日本とでのいじめ対応に共通点のあるということは、より広い国際的な広がりでこの問題について考えるとどうなるのか、という新たな問いにつながります。

スペースが限られていますので、さらに詳しい説明のできないことを申し訳なく思いますが、『いじめ』には実践例や過去のいじめの例を交えて詳しい説明がありますので、是非、読んでみて下さい。

これで、9歳から10歳頃に子どもの中に芽生える「法」という意識を元に「いじめ」を考える村瀬による『いじめ』の紹介を終りますが、「いじめ」についてずいぶんすっきりとした整理ができてきたように思います。

次回は、村瀬著の『いじめ』について、いくつかの疑問点を述べた上で、これまで何回か予告してきた「国際的」な広がりに目を向けます。

[21/9/21 イライザ]

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2021年9月16日 (木)

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

小山田圭吾事件の「犯罪性」を軸に、建設的な提案ができないものかいろいろ勉強をしてきたのですが、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) が提唱している枠組みが大変貴重ですので、今回はその概略を報告します。

一言お断りしておきますが、今後、人名については敬称を略します。

『いじめ』では、副題が示しているように「いじめ」と法との関係に焦点を合わせています。通常の「法律」よりは広い概念ですが、その中心にあるのは当然、「法律」です。

『いじめ』では、学校における「いじめ」が矛盾した存在である点から出発します。一方では、「いじめ」と呼ばれる行為のほとんどが大人の社会であれば「犯罪」、つまり「違法行為」であるという事実があります。

この点について、『いじめ』では文科省が「いじめ」についてのアンケートで挙げている項目に注目します。それらは、「悪口や脅し文句、嫌なことを言われる」というあたりから始まり、「金品をたかられる」や「金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする」さらに、「嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをさせられたりされたりする」等です。大人の職場なら最低ハラスメント (それも犯罪として位置付けられています) として問題にされることであり、傷害罪、窃盗、恐喝、強要等の罪名が付く犯罪です。

他方、刑法には第41条で「14歳に満たないものの行為は、罰しない」という規定があります。「罰しない」という規定があるのですから、仮に14歳未満の子どもが学校で犯罪を犯してもそれは「犯罪」とは認められないことを意味します。

注記: ここでは「犯罪を犯す」という表現を使っています。本来は「罪を犯す」と言うべきだとの考え方もあり、しばしば、「犯罪を犯す」は重言だから使ってはいけないと主張する人もいます。しかし、「犯罪」の意味の一つは「法律によって罪を科される行為」ですし、この意味以外で使われる場合は少ないのではないかと思います。従って、字面だけを見ると「重言」ですが、意味としては「罪を犯す」では特定されない、ハッキリ限定された範囲を指していますので、この表現を使います。

さらに、14歳以上18歳未満の場合は少年法が適用されるので、「いじめ」における「犯罪性」、あるいは「犯罪度」といった方が正確なのかもしれませんが、の認識が甘い方に偏る結果になってしまっているのかもしれません。この点を『いじめ』では、次の表としてまとめています。

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『いじめ』では、この表の「青の領域」における子供たちの行動については「教育の力」だけでは十分に対応できなかった。それ以外の力、つまり「別の力」によって子どもたちが動き始めていると主張しています。この辺りの記述はかなり複雑で私流に整理してみると、次のようなことになります。

その「別の力」とは、この時期に子どもたちにとって、「法的な領域」の中にいるという (仮に言語化できていなくても) 感覚的理解とでも表現すべき前提の元に子どもたちを動かす力のことだと、私には読み取れました。

このような状態を『いじめ』では「小さな法の人」、あるいは「法の人」と表現していて、多くの子どもたちにこの意識が生まれるのは、9歳から10歳くらいだと特定されています。

そして『いじめ』の結論部分は次の通りです。

「青の領域」にいる子どもたちに、「法の人」になる「時期」を想定して、ここから始まるこの「小さな法の人」をしつかりと育ててゆくようなイメージを本当につくり出せるのかということです。

その可能物は、子どもたちが、教師と自分たちでこの「青の領域」期に自治(私はそれを「教室に広場をつくる」活動と呼んできました)が出来るような「教育態勢」をつくってゆけるかどうかにかかってきます。そしてその態勢をつくることが、「いじめ苦」「いじめ死」に向かい合う唯一の対応ではないかと私は考えてきました。

私がこのことを突き詰めて考えるきっかけになったものは中井久夫氏の「いじめの政治学」(1997年)という論文でした、そこで中井氏は「子どもの世界には法の適用が猶予されている。しかし、それを裏返せば無法地帯だということである。子どもを守ってくれる『子ども警察』も、訴え出ることのできる『子ども裁判所』もない。子どもの世界は成人の世界に比べてはるかにむきだしの、そうして出口なしの暴力社会だという一面を持っている」と指摘されていました。

私はこの論文を真正面から受け止め、ならば「子ども警察」のようなもの、「子ども裁判所」のようなものを考えることをもっと積極的にすべきではないかと思いました。

本書は、中井氏の思いに対する私の精一杯の返答になるように書い

たものです。

ここで思い出して頂きたいのは、シリーズの第4回で御紹介した楠凡之の『いじめと児童虐待の臨床教育学』 (2002年、ミネルヴァ書房) です。その結論部分を掲げます。

その結果として、「いじめ」の問題に関わる教師が心すべき留意点を5つ挙げています。

(1) 「集団的自立」のエネルギーを発揮できる活動世界の創造

(2) 子どもたちとの相互的な関係性を築きつつ、自らの価値観を明示していくこと

(3) 仲間集団のなかに相互尊重の関係性を実現していくこと

(4) 「9,10歳の発達の節目」を乗り越えていける学力の保障

(5) いじめや仲間集団内のトラブルを克服していける自治的な力量の形成

視点は少し違いますが、村瀬学の『いじめ』との共通性に御注目下さい。そしてこれは、同じく第4回で報告したように、尾木ママが北欧で見聞したこととも共通点がありますので、国際的に共有されているノウハウなのではないかと考えられます。

次回は、『いじめ』の中で報告されている実践例を取り上げた上で、再度視野を国際的に広げたいと思います。

[21/9/16 イライザ]

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2021年9月 6日 (月)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (4)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (4)――

前回もそうだったのですが、最初は「今回が最終回」という心積もりで書き始めるのですが、内容が複雑ですので、次の回にまで待ち越すことになってしまいます。ということで、今回も完結はしませんが、お付き合い頂ければ幸いです。

これまでは、小山田圭吾事件を犯罪だと考えるべきだという点から出発して、そのためにも被害者からの発信が大切であること、そしてそれが可能になるのは、被害者の発信をきちんと受け止められる人や組織があり、被害者との信頼関係が基本になくてはならないことを確認してきました。

発信を受け止める側には、当然、家庭つまり保護者も入りますが、小山田事件との関連で、ここでは学校に焦点を合わせてきました。そして、その学校には被害者と同時に加害者も在籍しており、被害者と加害者双方の教育・指導をする責任が学校にあることを考えると、学校が「犯罪」という視点からの対応についての全責任を負うことには無理があるのではないかと考えられるという結論に達しました。

そこで、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないか、という問題提起になりました。今回はその続きです。

 

「いじめの中には犯罪としか言えないものがある」という認識は正しいのですが、その前に、犯罪的ないじめも出発時点から「犯罪」そのものであるかどうかを考えることも必要です。「犯罪」になってしまった時点でどうすべきかに焦点を合わせる以前の問題提起として、「いじめ」を「犯罪」にしないような手立てがないものかを考える必要もありそうです。

《北欧の事例》

答えの一つは既に1990年代の北欧にありました。尾木直樹さんが、『日経xWOMAN』の2015年6月3日号で、1996年に北欧4か国を訪問した時の報告をしています。

北欧4カ国を訪れた際に驚いたのは、子ども達が主体的にいじめを無くすための取り組みをしているという点でした。子ども達が昼休みに2~3人のチームを組んで、「いじめている子、いないよね」とパトロールするのです。

 デンマークでは学校理事会が大きな権限を持っているのですが、校長、PTA会長、地域の弁護士といった13人の理事の中の7人が、小学校5~6年生の子ども達でした。

この実践例だけで、「いじめ」対策についての理想に近いあり方が理解できたような気がします。そして、子どもの権利条約の四つの柱を具現しているだけでなく、大人が積極的に関わってこれらの柱を教育の場で子どもたちのために提供しているという事実も、子どもの権利と大人がどう向き合うのかの良いお手本になっているのではないでしょうか。

念のため、ユニセフのホームページに掲載されている4本の柱を引用しておきます。

(1) 命を守られ成長できること

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

(2) 子どもにとって最もよいこと

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

(3) 意見を表明し参加できること

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

(4) 差別のないこと

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

私の提案した「第三者機関」とこのような実践例の大きな違いは、「犯罪」としての「いじめ」対応にどのくらい配慮するのかという点です。しかし、子どもたちが学校運営の面でも主体性を発揮できるシステムを前提として考えるとき、学校そのものの「いじめ」対応で果す役割が大きく変わるはずですので、「第三者機関」の必要性もその視点から見直す必要が出てきます。

その点については次回に譲りますが、今回の趣旨は「北欧の教育は進んでいる。それに比べて日本は遅れている」という主張をすることではありません。その逆です。

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そのために、高校と大学の同級生の柴田勝征さんの著書から引用します。彼も数学を専攻し、その後、教育や言語学比較文化論等幅広い分野で活躍したのですが、彼の著書、『フィンランド教育の批判的検討』 (2012年、花伝社刊。以下「検討」と略します。) に取り上げられている我が国での実践例や理論的な整理を紹介します。300ページ近くの大部であるこの本では、国際学力比較(PISA)で常にトップクラスの成績を収めているフィンランドの教育を批判的に検証していますが、その中で「いじめ」についての調査・研究や検証も行われています。

《我が国での実績》

「検討」では、16ページを割いて「いじめ」についての記述があるのですが、そのほとんどは、楠凡之さんの『いじめと児童虐待の臨床教育学』 (2002年、ミネルヴァ書房。以下、「教育学」と略します。) の紹介です。本来ならこの本を読んでから内容を要約すべきなのですが、「検討」では、かなりの分量を引用していますので、以下の記述は完璧とは言えなくても近似値としてはそれなりの意味があるのではないかと考えています。

柴田さんは、「教育学」の内容の内、日本の教育学が強調している「教師集団」や「生徒集団」の役割を、フィンランド教育の「礼賛的紹介者」が無視していることを指摘しているだけでなく、学校におけるいじめ対策のカギである、という認識を示しています。

その概略ですが、「教育学」ではまず、「子どもの発育段階を4つの直に区分して、それぞれの時期のおける子どもの自我・社会性の発達的特徴と、それを反映した主要ないじめの特徴を提示しています。」

その4段階とは次の通りです。

(1) 6歳から9歳頃 (小学校低学年)

(2) 9,10歳から11歳頃 (小学校高学年)

(3) 11歳から13歳頃 (中学入学前後)

(4) 14歳から17歳頃 (高校生)

さらに注目すべきなのは、大脳の発達と子どもの社会性の発達とを密接に結びつけて考察していることです。

その結果として、「いじめ」の問題に関わる教師が心すべき留意点を5つ挙げています。

(1) 「集団的自立」のエネルギーを発揮できる活動世界の創造

(2) 子どもたちとの相互的な関係性を築きつつ、自らの価値観を明示していくこと

(3) 仲間集団のなかに相互尊重の関係性を実現していくこと

(4) 「9,10歳の発達の節目」を乗り越えていける学力の保障

(5) いじめや仲間集団内のトラブルを克服していける自治的な力量の形成

これらの留意点は、ただ抽象的に説明されているのではなく、具体的な実践例とともに、これらの留意点を日常的にどう生かすのかについても触れられています。

私の力量では、これだけ詳細かつ具体的なアドバイスを短く要約することは難しいので、関心のある方は是非、「検討」あるいは「教育学」をお読み頂ければと思います。さらに、楠さんの著書『虐待・いじめ 悲しみから希望へ 今、私たちにできること』 (2013年、高文研) も「教育学」をテキストにした楠さんの授業で、受講生たちの実際の経験を元に、 実践的な分析が行われている分り易い解説ですので、お読み下さい。

次回は、そこを出発点に、「第三者機関」についても考えてみたいと思います。

[21/9/6 イライザ]

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2021年9月 1日 (水)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

前2回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。さらに、我が国でも「いじめ」についての認識が変りつつあることを踏まえて、次のステップとして何ができるのかを考え始めました。

ここでお断りした上で強調したいのは、「全ての『いじめ』が犯罪である」という主張をしているのではないということです。逆に強調したいのは、「いじめ」という名称が付けられることによって、犯罪行為が見逃されてはならないという点なのです。

《文科省の「いじめ観」》

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文科省もその点には気付いているようです。(文科省による「いじめの定義」から。以下「定義」と略します。)

いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度 (2013年度・筆者注) から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

これより7年前には文科大臣から、次のような「お願い」が出されています。

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

成十八年 (2006年・筆者注) 十一月十七日

文部科学大臣 伊吹 文明

二、三注釈を付けておくと、一つには、私の探し方に問題があるのかもしれませんが、ネット検索ではこれより新しい文科省の見解は見付かりませんでした。また、前回御紹介したコメントの中で、尾木直樹さんは2006年度に定義が変更されたとことを指摘しています。その後、いじめ防止対策推進法ができた際、2013年度に再度変更された定義が、上記のものなのです。そして伊吹大臣からのお願いは、定義の変更前のものです。古い「いじめ」の定義に沿っての「お願い」であることにも注意して下さい。

しかし、ここで取り上げた文科省の「いじめ観」には、「いじめ」を考える上で決して忘れてはならない必須の教訓がはっきり示されています。それは、被害者が二の次、三の次になっているという点です。

仮に、「自分が死ななくては、この苦しみから逃れられない」とまで感じている子どもが、文科大臣の「お願い」を読み始めたとして、最初に出てくる言葉が「いじめている」側の子どもたちへのメッセージだったら、その先を読む気にはならないでしょう。

そして、いじめの定義についての文科省の注釈では、「死という選択」は、漢字に埋もれた長い文章の中に申し訳程度に触れられていて、被害者本人の苦しみには何の言及もないのです。

《被害者の「発信」を受け止められる第三者機関》

問題の本筋に戻って、犯罪に相当する「いじめ」にあっている子どもがいたとして、その子が「自分はいじめにあっている」という発信を誰に何処でどの様にするのかは、最重要課題です。そして仮に何らかの形で発信をしたとして、その発信を、誰が何処でどの様に受け止めるのかというシステムを創ることもそれと不離一体の重要課題です。

「定義」では、被害者の発信には触れられていませんし、ほぼ自動的に「学校」がその発信を受け止める存在であることが仮定されています。さらに、警察への通報も学校からですし、「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」(平成29 年3月文部科学省)を見ても、被害者や保護者への配慮という言葉はあるものの、被害者に寄り添う姿勢があるとは読めません。

しかし、それを文科省の責任だと糾弾し非難するだけでは解決策にはなりません。学校そのものの本質を再度、見直すことが必要です。前回引用した、旭川市の中学校教頭の言葉が参考になります。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo!ニュースJapan 8月21日から引用)です。

彼の言葉は、「官僚組織としての中学校」を守ることを最優先した結果のように読み取れるのですが、同時に、犯罪を摘発し罰するという視点からだけ捉えた場合に、学校という存在が基本的矛盾を内蔵していることも明確に示しています。学校は教育機関ですから、被害者だけでなく加害者も指導・教育することが使命なのです。最初から被害者の立場に立って犯罪を立件し、それを受けて裁判所が罪を裁くことになるという一連の手続きを始める立場にはないのです。

それなら、被害にあう可能性を持つ全ての子どもたちに「110番ベル」のようなものを渡して、何かあればすぐ警察に通報するというシステムを作ったラどうでしょうか。しかし、このようなシステムが機能するようには到底思えません。一つには、子どもたちとの信頼関係があるかどうかが成否のカギになりますが、その可能性は学校と警察の双方が「革命的」に変化しない限り無理でしょう。現状のままでこのようなシステムを導入すれば、それは学校が「教育」を放棄することにつながるかもしれません。そもそも教育を否定するシステムで子どもを守るという構想そのものに無理があります。

となると、ちょっと荒唐無稽の部類に入ってしまうかもしれませんが、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないでしょうか。

「机上の空論」にしないために、外国での例も参考にしながら次回、考えられたらと思います。

 

[21/9/1 イライザ]

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2021年8月26日 (木)

「いじめ」ではなく「犯罪」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――

「いじめ」ではなく「犯罪」

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――

前回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。小学生から高校生にかけての学生時代に「障害者をいじめていた」ことが第一の犯罪です。15年ほど経ってから、『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』と翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』に掲載されたインタビューで、いわば「武勇伝」として自慢していたことは第二の犯罪です。

さらに、『クイック・ジャパン(95年vol.3)』では、被害者と彼の母親が小山田に出した年賀状を15年も保管した上で嘲笑していることを、第三の犯罪であると考えました。

今回問題にしたいのは、「犯罪」はそれだけに止まっていないという点です。小山田インタビューは、多くの人の目に触れる雑誌が企画し掲載したという事実抜きに語ってはいけない事柄です。『ROCKIN’ON JAPAN』の当時のインタビュアーは山崎洋一郎で、現在は同誌の編集長です。(謝罪文を公式サイトで発表しています。)

今回は、もう一つの掲載誌『クイック・ジャパン』で、「いじめ紀行」というシリーズを企画し、取材していた村上清の言動について考えたいと思います。この「いじめ紀行」の全文はネットで読めますので、(例えば、「のり部屋」というサイトがあります。)

ここで、最大級の言葉で弾劾したいのは、村上清は、「いじめはエンターテインメント」だと考え、小山田のインタビュー記事を企画し掲載したことです。その前提の下、小山田の犯罪の対象になった被害者のうち二人の母親に連絡を取り、特に、これまで注目してきた被害者と彼の母親と、有無を言わせず面会したことです。さらに、二人の母親からは、面会を断られているのもかかわらず、村上とのやり取りを (本人たちの許可がないまま、としか読めないのですが) 『クイック・ジャパン』に掲載していることです。このことも「のり部屋」に掲載されています。

「いじめ」を「エンターテインメント」だと考える人に人権意識があるかどうか問うこと自体愚問ですが、人を馬鹿にするのも好い加減にしろ、くらいは言っておきましょう。

この出版元の太田出版は、一応謝罪文を出していますが、1995年の記事の復刻版を2012年に出していることも合わせて考慮する必要もありそうです。

 《いじめについての認識》

以下、裾野も含めての小山田事件から何を学び取れるのかということなのですが、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」に立ち戻ることを提案します。特に「いじめ」の被害者の人権を、私たち全てが再度見つめ直す必要があるのではないかと思います。

確かに、「いじめ」については、社会的な認識が変ってきてはいます。例えば、NHKのインタビュー記事の中で、尾木直樹さんは次のように説明しています。

これまでの昭和の定義で言えば、いじめは▽自分より立場の弱い子を、▽長期間継続的にいじめて、▽相手が苦痛を感じているもの、しかもそれは▽学校が認定したものという4つも条件が付いていたんです。

昭和の定義では、いじめっ子が主語でいじめをして、学校が調べたら本当にあったという時に認定していた。それは自殺して亡くなってもそういう認定がされてきたんです。

ところが2006年に新しい定義になって、これはおかしいというので相当運動にもなって、いじめられている当該児童生徒が主語になって、被害者が「僕はいじめを受けた」「つらいよ」と言えば認定しましょうということになったんです。

ゆっくりですが、変化は起きているのです。その一つが15年前に起きた、被害者の立場から「いじめ」を捉えるという大きな「逆転」です。

それでも、社会全体として「被害者」を尊重しているのかを問われれば、「否」と言わざるを得ないのではないでしょうか。例えば、旭川市でいじめが原因で自殺した中学3年生について、同校の教頭の言葉、「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo?ニュースJapan 8月21日から引用) の意味は、被害者と加害者の命を天秤に懸け、被害者の命を切り捨てているということなのです。

《子どもの声が届くために》

スペースが足りなくなってきましたので、詳細は別の機会に回すことにしますが、どうすれば良いのかについて、一番大切だと思われる点を挙げておきたいと思います。それは、制度的に法律的にまた社会全体の価値観として、被害者の発信力が弱いという事実です。被害者を非難したり批判をしているのではなく、「いじめ」という被害にあう子どもたちがその被害を訴えても、その声が届かないという結果にしかならないような法律や制度、そして社会全体の考え方が問題だという意味です。

かつては、セクハラやDVの被害、ストーカーの被害や煽り運転の被害等は、法律的・制度的に犯罪の被害とは認められていませんでした。しかし、まず法律が作られ、その法律に従って、被害者の存在が認められ、被害を受けた人は、刑事的な犯罪の告発ができるようになりました。直接警察に訴えることが可能になったのです。

しかし、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができたとはいえ、被害にあった子どもが直接警察、あるいはそれに代る力を持つ公的機関にいじめ被害を訴えるという形の法律ではありません。

いじめ問題の難しさの一つは、いじめが限られた範囲の子どもたちの間で起こり、それがそのグループの外に認知される可能性が低いことです。そして、被害にあった子どもが先生や学校に訴えても、被害そのものを認めて貰うことが難しいという事例も多く報告されてきました。

そんな環境だからこそ、「いじめ防止対策推進法」が被害者の子どもの声を大きく強くし、その声が社会に届き、その結果として子どもを守る役割を果さなくてはならなかったはずなのですが、旭川の例が示すように被害を受けた子供の声は届いていなかったのです。

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では、どうすれば良いのでしょうか。皆さんと一緒に考えられればと思いますが、「子どもの権利条約」に謳われている子どもの権利を確認し、子どもたちの力を中心に据えて新たな学校制度を創るという方向が一つの可能性ではないでしょうか。

[21/8/26 イライザ]

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2021年8月21日 (土)

「人間」に対する罪 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは?――

「人間」に対する罪

――小山田圭吾事件が問いかけているのは?――

オリンピック・パラリンピック開幕直前、開会式前の7月14日に浮上したのが、開会式の作曲担当者として発表された小山田圭吾による、過去の「いじめ」事件です。

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ハフポストから

この事件の概要は皆さん御存じのはずですが、Yahoo!ニュースJapanの7月18日付、篠田修司氏のまとめが分り易いので、彼の記事から引用します。全文もお読み下さい。

問題となっているのは、1994年に発行された『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』と、翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』に掲載されたインタビュー記事です。

記事では小学生から高校生にかけての学生時代に「障害者をいじめていた」と告白。後述しますが、批判しているブログや報道によるいじめの内容を簡潔に書くと

    ・段ボール箱に入れてガムテームでぐるぐる巻きにした

    ・ジャージを脱がして裸にした

    ・(山形マット死事件の例を出しながら)マットレス巻きにした

    ・うんこを食べさせた

    ・バックドロップをかけた

    ・洗濯紐で縛って自慰行為をさせた

などなどです。

いじめではなく明らかに犯罪であり、文章の書き方も後悔しているのではなく自慢気に読めたことから「障害者をいじめていた人間がパラリンピックに関わるのか」、「五輪憲章に違反している」と炎上しました。

篠原氏が指摘しているように、小山田の行為は言い訳のできない犯罪です。そして、それを全国的に流通している雑誌二誌で「武勇伝として」語っていることも、当然、人権侵害です。被害者は二重の被害を受けているからです。これは、被害者本人にとっては「二重」では言い表せないほどの深刻な攻撃です。

《親としての立場から》

さらに「親」としての立場からこの事件を知って、どうしても許せないのが、『クイック・ジャパン(95年vol.3)』のインタビューです。

その詳細を報告・報道しているサイトはいくつもありますが、ここでは私が閲覧した中で一番詳しく報じている「にこスタ」から、内容を抜粋します。その記事は、「村上清のいじめ紀行・第一回ゲスト小山田圭吾」 (「いじめ紀行」と略)、で、長さは51~72ページにも及ぶものだったとのことです。「いじめ紀行」の中では、被害者の仮名が使われていますが、ここでは「被害者」という表現を使います。

この「いじめ紀行」で報じているショッキングな「事実」として、小山田が15年間持ち続けていた年賀状が登場します。

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この年賀状についての小山田の次のようなコメントに憤りを感じない人がいるのでしょうか。

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二つの画像は、「Tomo」さんのツイッターからお借りしました。

以下、私の推測ですが、被害者はお母さんに、自分がいじめられている事実を話せなかったのだと思います。自分のことを誰よりも愛してくれている、そして心配してくれているお母さんに、「ボクはうんこを食べさせられている」って言えないでしょう。でも、子どものことを心配している母親は、同じ部活(太鼓部だったそうです)で一緒の「友達」の名前の中から、「小山田」という名に気付き、「わが子と一緒に遊んでいてくれている」と思ったのではないでしょうか。ことによると、「そう思いたい」気持が、それから先の詮索にまで行き着かなかったのかもしれません。

そしてその関係が続くように、祈るような気持で、子どもと一緒に年賀状を書き、それを小山田に送ったのではないでしょうか。

小山田はその年賀状を15年間も保管して、この親子をあざ笑うために『クイック・ジャパン(95年vol.3)』公開したのです。

ことによると、真実はもっと醜いのかもしれません。『クイック・ジャパン(95年vol.3)』誌のインタビューで小山田は、自分は年賀状を出していないと言っています。しかし、被害者親子の送った年賀状には、「手紙ありがとう」という言葉があります。こちらの方が真実であると信じて良いのではないでしょうか。普通に考えて、年賀状に貰ってもいない手紙のお礼は書かないでしょう。

つまり、それが年賀状なのかその前の手紙なのかは分りませんが、小山田は被害者に手紙を郵送したか、手渡ししているのです。そしてその内容は、母親が我が子に「年賀状を書きましょう」と言わせるような内容だった、少なくともそう考える上での障害にはならないものだったということでしょう。

いつもは、想像を絶するような悲惨な行為を繰り返している相手に、なぜ小山田はそんな内容の手紙を送ったのでしょうか。大変大きな疑問符です。

ここで大胆な推理をします。被害者が小山田に年賀状を送るように仕向けるためだった――と仮定すると、それを15年間、持ち続けていた意味も分ります。

私は小山田を、それほどの悪人に仕立て上げたくはありません。どこかに人間性が残っていると信じたいからです。その願いが通じるような説得力のある説明を、仮説で十分ですので、何方か示して頂けないでしょうか。

 長くなりました。この先で、この種の「犯罪」を「いじめ」で終らせてしまっている現在の法制度、社会認識を改めるための問題提起をしたかったのですが、次回に延ばします。

[21/8/21 イライザ]

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