原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい
終戦記念日の8月15日、今年も「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、袋町のひとまちプラザで、午後2時から開催されました。
この「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は、2002年8月15日に5人の有志によって元安橋のたもとの路上で、沖縄県人会の人たち数人が三線片手に「沖縄を返せ!沖縄に返せ」を歌い、女子生徒の「ひろしまの空」(林幸子・作)の朗読などから始まったものです。翌年からは、原爆ドームの東側・原民喜詩碑付近で朗読を中心に歌や演奏の青空集会が行われてきましたが、2013年から屋内での実施となりました。
今年の主催者は、広島文学資料保全の会、広島花幻忌の会、四國五郎追悼の会の三団体です。
広島文学資料保全の会の土屋時子さんの司会で会はスタート。全員で黙祷した後、オープニングは、鎮魂の願いを込めたチャンゴの演奏です。演奏者は、友人のペ・ハクテさん。
後で聞くと演奏した曲は自作とのことでした。
今年の「市民のつどい」は、サブタイトルに「グランド・ゼロの記憶 被爆作家8月6日の記録」でした。全体が、1部、2部、3部となっていましたが、全体を通してユネスコ遺産登録をめざしている原爆文学資料の4人の作家を中心にして構成されていました。
1部は、恒例の原爆作品の朗読です。
原民喜は、原爆被爆時のノートの一部、原民喜詩碑の銘文、詩「永遠のみどり」です。
大田洋子は、「屍の街」の一節。
栗原貞子は、「生ましめんかな」、「ヒロシマというとき」です。
峠三吉は、「原爆詩集」より「序」、「8月6日」、「影」、「呼びかけ」です。
何度も聞いたものもありますが、今回も新鮮な気持ちで聞きました。
2部は、広大名誉教授で広島文学資料保全の会顧問の水島裕雅先生の講演「ヒロシマに文学資料館を設立する意義と課題」です。
・広島の原爆資料の重要性 ・広島中央図書館に寄贈した約2万点とその後に収集された数万点の文学資料が「広島文学資料室」に納められているが、死蔵の状態 ・1981年の広島平和記念館主催の「原民喜展」で初めて原爆文学資料に接し、特に「原爆被災時のノート」に出会ったとき受けた強い感銘 ・今年一月に発表された「世界終末時計」が、後90秒となったことの危機感 ・もし文学館ができたら予想以上に核戦争が迫っている現在、世界の人々が広島を訪れ、原爆資料館に寄り、次に「言葉館」としての文学館を訪れることで、じっくりと人間の過去と未来に思いを寄せて、自分は何をすべきか、他の人に何を伝えるべきか考えてほしい ・広島の文学は、原爆だけでなく頼山陽の頃から現代に至るまで日本文学に大きな影響を与えている。例えば児童文学の鈴木三重吉、新劇運動の中心的存在である幼い顔ロルはいずれも広島市出身 ・今回広島の原爆文学資料がユネスコの「世界の遺産」に登録されれば、文学館の役割も大きくなる
そういう内容でした。
3部は、「ユネスコ「世界の遺産」登録申請の歩み」について、広大名誉教授で広島文学資料保全の会幹事の成定薫先生が、報告。これまでの2回の反省を生かし、申請書作成作業が進んでいるとのことでした。今回の申請では、新たに大田洋子の「屍の街」の初稿・原稿が加わったことが詳記されました。
もう一つの報告は、新たに登録資料に加わった「大田洋子『屍の街』(自筆原稿)」について、広島文学資料保全の会事務局次長川口悠介さんが解説。
大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、現在日本近代文学館に所蔵されていること、白島九軒町で被爆し、3日間河原で野宿した後、佐伯郡玖島に逃れ執筆をはじめ、同じ年の11月に脱稿し出版しようとしたが占領下のプレスコードによって一部削除され、ようやく出版、そして1950年になって削除部分を増補し、大幅に訂正されて出版されたことなどが紹介されました。大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、貴重な原爆資料だということです。
いろいろと調べてみたいことが出てきた今年の「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」でした。
いのちとうとし
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