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2025年7月 2日 (水)

「あー」

「島根方言集成」で最初に登場することばは「あー」です。意味、わかりますか。

出雲弁がよくわかっていると思っていた、私にもすぐには、意味が思い浮かびません。

「島根方言集成」には次のように書かれています。

あー ①ある。②会う。出雲」

確かに、と納得です。私が使っていたのはこんなふうです。

「そこにあーがね」とは、「そこにあるよ」という意味で、よく言っていたように思います。「あーに行くけんね」とも言っていました。これは②の「会いに行くから」と言うことを伝えるために使っていたことばです。

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「島根方言集成」を手にする川上正夫君(山陰中央新報より)

 川上君は、2007年頃から「土地ごとに、消えることなく生きてきた言葉がある。方言は『暮らしの言葉、言葉の民衆芸術』と、方言が失われない」ことを願って準備を進めてきたそうです。

私が、「出雲蕎麦ふなつ」で、この本を紹介されたとき、一番に引いたことばは「はしま」です。

小学生だったころのわが家は、農家が15軒ほどが集まる集落(周囲は全て田んぼ)の離れ家を間借りして住んでいました。農繁期と言われる田植えの頃、秋の米の取り入れの頃には、友達と一緒に手伝いというか農作業中に近くで遊んでいて、「はしま」を一緒に食べさせていただいたことを思い出します。

午後の農作業では、午後3時頃になると短い時間ですが、持参した大きなヤカンの番茶?を飲みながら、重箱いっぱいに入ったむすびや漬物や簡単な煮染めなど食べ、雑談をして休憩をします。

その時休憩しながら食べること「はしま」と呼んでいました。麦ご飯を食べていた私には、白米のむすびが食べられることは、忘れることのできない思い出です。

ですから、「はしま」ということばが載っているか、気になったのです。もちろんありました。次のように説明されています。

「昼食と夕食との間食。出雲。大田市。邑智郡美郷町・川本町・邑南町。江津市・浜田市。」

出雲だけのことばかと思っていましたが、石見地方でも使われていたようです。後で川上君に尋ねると「主に石見で使われていた」と教えてくれました。

書くのが遅くなりました、「島根方言集成」は、出雲地方の方言だけでなく、島根県全域、つまり出雲地方、石見地方、そして隠岐地方で使われていることばを集成していますので、訳の後に必ず、どの地域で使われていたことばかが、きちんと書かれています。

これは大変な作業だったはずです。よくぞまとめたものと、わらためて感心します。

私には、もう一つ気になることばあります。

「ばんじまして」です。このことばを読んで、どんなイメージが浮かびますか。

「ばんじました」は、外での農作業を終え、日が落ちうす暗い時期に頃帰宅途中ですれ違った人たちが交わすあいさつの言葉です。

私の記憶どおり、昼間の「こんにちは」と暗くなってからの「今晩は」との中間的に時間帯で夕闇がせまる頃から暗くなるまでのごく限られた時間帯で使われたことばです。広島には、こんな時間帯で使われるあいさつことばがあるのでしょうか。

こんな微妙な時間帯を使い分ける言葉を持っているのが出雲の人たちです。なんとも言えない思いのこもったことばだと忘れるいことの出来ない懐かしいことばです。

「島根方言集成」を手にして、懐かしい出雲のことばを思い出しながら、小さかった頃の遊び回っていた懐かしい頃を思い出しています。

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2025年7月 1日 (火)

「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」

今日は、6月17日の松江に帰りました。: 新・ヒロシマの心を世界にで少し触れた島根の出版社ワンラインが5月30日の発行した「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」の紹介です。

出版を通して出雲の文化的魅力を発進し続けてきた友人の川上正夫君が、久方ぶりに出版したのが「島根方言集成」です。地方で出版活動を続けるのは本当に難しいことです。一度は会社を閉鎖したと聞いていましたので、先日「出雲蕎麦ふなつ」でこの本を紹介されたときには、「エッ、まだがんばっているんだ」とびっくりしました。

しかも、自著(これまでに何冊か発刊していますが)として総頁数946頁にも及ぶ大作(辞書であれば、当然のページ数かも知れませんが)ですのでなおさらです。

収録された方言を紹介する前に、「ふなつ」で手渡されたフリーペーパーをもとに、この本の全体像を簡単に紹介します。

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見出し語は、20717語収録されています。そのことばは、方言によって索引するのは当然のことですが、この方言集成がユニークなのは、標準語から方言を探すことが出来るようになっていることです。

方言本文が755頁、標準語索引が149頁です。

このフリーペーパーには、小泉八雲の孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんの推薦のことばがありますので、それを紹介します。

「同書には、自然を畏怖し人や動植物を愛する島根の人々が、古来、語り継いだ言語芸術が満載です。柳田圀男いわく『語源の詮索は本源にこそ必要』で、方言を知ることは自分や日本を知ることだ。八雲一家も、セツを筆頭に、書生さん、お手伝いさんの多くが島根県東部出身で、もちろん家庭内の共通語は出雲弁。セツが語った明治の出雲ことばもきっと本書に収録されているはず。川上さんが心血を注いだ労作を、多くの方が手に取っていただきと願っています。」

私もその通りだと思っています。その地方で育まれた文化、風土を伝えているのが、方言だと言えます。ですから、私は今も、こよなく出雲弁を愛しています。

ところで「島根方言集成」を手にしたとき、私の頭の最初に浮かんだのは、NHK朝ドラの今年後期に予定されている「ばけばけ」です。

この朝来らのモデルこそ、小泉凡さん推薦文に登場する松江藩の没落士族の娘で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻となった小泉セツです。

川上君は、長い間準備してようやく出版にこぎ着けたのですから、まさか出雲弁が登場する朝ドラがこの出版と合わせるように放映されることになるとは、当然想像もしていなかったことと思いますが、天の助けのような朝ドラ「ばけばけ」の放映です。

さて肝心の方言の紹介です。この本を手にしたとき、まず浮かんだのが二つの方言ですが、そのことは明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2025年6月19日 (木)

ウラン鉱夫の肺癌リスクは、4倍に増加

一昨日午後2時半から広島県医師会館で、放射線影響研究所(以下「放影研」)設立五〇周年の祈念式典が開催されました。

原水禁にも招待がありましたので、代表して私が参加しました。

祈念式典は、神谷研二理事長のあいさつで始まり、来賓のあいさつが続き、最後に湯崎英彦広島県知事、松井一實広島市長などのビデオメッセージが流され終了しました。

休憩を挟んで、二人の記念講演がありました。

最初は、箕牧智之広島県被団協理事長が、「原爆被害と私に人生」と題して自らの被爆体験や被爆後の苦しい生活、昨年のノーベル平和賞受賞などの核廃絶のための活動について報告。箕牧さんの話しを聞きながら、同じ放影研の祈念式典でお元気だった坪井直先生が、被爆体験を語られた事を思い出しました。後で調べると2017年に行われた「ABCC―放影研設立70周年記念行事」でのことでした。

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記念品を手にするお二人 箕牧さんの左がジョナサン・サメットさん

二人目の講演者は、放影研の評議員でアメリカコロラド公衆衛生大学院教授、前大学院長のジョナサン・サメットさんです。演題は「被爆80年/放影研設立50周年『悲劇から希望へ』」です。

講演が始まる前は、「放影研の業績の話し」だろうぐらいに思っていたのですが、話しの冒頭のパワーポイントに「ニューメキシコ州のウラン鉱夫の肺ガンリスクは4倍に増加」の文字がでてきました。このパワーポイントを示しながらナバホ族の名前も出しながら「鉱夫への公正な補償が必要だ」と話が進みます。さらに「放射能が有害なことは、1945年以前から知られていた」とレントゲン、キューリー夫人などの話につながります。

まさか、ウラン鉱夫の被曝問題から話しが始まるとは思ってもいませんでしたので、真剣に聞かなければという気になりました。

その後、放影研の研究テーマの話しが続きます。特に、妊婦への影響、そして遺伝的影響についての話しです。「被爆二世の集団では、生存率の低下はない」との話しもでてきますが、撮影が禁じられ私のメモだけが頼りですので、間違いがあってはなりませんので、その詳細をここで紹介することは出来ません。

ただ最後の部分は、再び私の関心を呼びました。現在の世界の核兵器の保有数、さらに世界の原発の数などを図示しながら「米ソ冷戦の時代、小学校?では、空襲警報が鳴ったら机の下に隠れるように」と教えられたこと、原子力発電に関しても「廃棄物の確定的議論は出ていない」と厳しく指摘しました。そして「広島・長崎の生存者である被爆者の証言は、この文脈の中で唯一無二のものです」「核の無い社会 それが私の望みです」と話されました。一番最後は、広島平和公園の原爆慰霊碑が登場し、原爆慰霊碑をバックに大きな文字で「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」が書かれたパワーポイントが写されジョナサン・サメットさんの講演は終了しました。

アメリカの学者から、こんな話しを直接聞いたのは初めてのことです。

講演会後開かれた懇親会でジョナサン・サメットさんに話すことが出来ましたので、「ウラン鉱夫の話しから始まったことに感心しました」と思いを伝えると、「一応アメリカ政府も補償法を作ったのですが、それも肺ガンに限定されていましたし、2年前に打ち切りになりました。」との返答。もう少し詳しく聞きたい話しですが、日本語の翻訳された論文はない用です。いつかそのうちの一つでも読んでみたいなと思います。

放影研の祈念式典のことをこのブログで紹介する予定ではなかったのですが、ジョナサン・サメットさんのことを紹介しなければと思い、記述することにしました。

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2025年4月26日 (土)

「屍の街」の章題―つづき

図書館に行き、事情を説明すると、司書や学芸員のみなさんが、蔵書を検索し関連する資料を準備していただきました。

最初に調べたのは、「章題」に関する研究書はないのかです。まず調べたのは、原爆の問題を「文学」、あるいは「文学的」な問題として研究している人たちの発表の場となっている「原爆文学研究」です。大田洋子に関しての記述がある巻(現在まで23号まで発行されている)を3冊ほど出していただいたのですが、その中に「章題」に関する研究報告はありません。図書館員の方が、その他にも、研究書のなかで検索でききたものはありませんでした。

さらに、題が「屍の街」なっている本、「屍の街」が収録されている本を調べます。

参考になったのは、「大田洋子全集第一巻」(以下「全集第一巻」)です。

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ここに収録された「屍の街」には、「章題」がついていますが、巻末に佐多稲子ヘの聞き取りが「解説」として掲載されています。しかし、その中に「章題」に関する発言はありません。

「解説」の後に浦西和彦さんによる「解題」があります。その中心は、文章をどう直したのかなどの「校訂」について詳しく記述されていますが、しかし「章題」の変更については書かれていません。「章題」に関する記述は、「収録」の中に出てきます。「収録」は「屍の街」がどの本に掲載されているのかを記述しています。そこに記述されていることを全文引用します。

「屍の街」(昭和25年5月30日・冬芽書房)一七-二一八頁、このとき中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に修正、章題「酷薄な雨と風」を「風と雨」に変更。市民文庫「屍の街」(昭和26年8月15日・河出書房)二〇-一七九頁、このとき章題を削除。小田切秀雄編「原子力と文学」(昭和30年8月5日・大日本雄弁会講談社)三一-六三頁、「運命の街・広島」章(本巻39から63頁)部分の抄録。河出文庫「屍の街」(昭和30年9月19日・河出書房)二〇-一七九頁。「日本現代文学全集106<現代名作選(二)」(昭和44619日・講談社)三〇-四一頁、「運命の街・広島」章(本巻3963頁)部分の抄録。潮文庫「屍の街」(昭和47720日・潮出版)五-一五八頁。

「収録」によれば、「屍の街」が、全文収録され発行されたのは、冬芽書房版と、市民文庫版、河出文庫版、潮文庫版の4回と云うことになります。ただ、河出文庫版は、河出書房が市民文庫版の名前を変えて出版したものですので、実際には3種類といってよいと思われます。

この「収録」で、「章題」についての記述は、冬芽書房では、「削除部分『無欲顔貌』の章を増補し、章題『酷薄な雨と風』を『風と雨』に変更したことが書かれています。

冬芽書房版の本もありますので、確認しました。

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当たり前のことですが、「章題」はついています。

次は、市民文庫版での確認ですが、その結果は簡単に書き切れませんので、今日はここで終了し、つづきは次回(28日)に報告します。

(敬称略)

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2024年5月17日 (金)

一枚のプレート

白島九軒町の病院に行った帰り、白島線の電車通りを八丁堀方面に向かって歩いている時、そういえばと思って写したのが、下のプレートです。

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このプレートは、南向きに取り付けられていますので、白島から八丁堀方向に歩いている時には、気をつけないと見過ごします。場所は、県立美術館の電車道り側の北の境界にある塀に取り付けられています。

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 プレートには、「西晋一郎博士旧宅後」と書かれ,次のように記されています。

「文学博士・西晋一郎(1873年―1943年)は、・・・・明治35年(1902)創設の広島高等師範学校教授となり、昭和4年(1929)広島文理科大学教授を併任。同15年(1940)に依願退職するまで、当地・広島において哲学や倫理学を教授をしました。西博士は、わが国古来の神道,儒教、仏教の伝統に、西洋哲学の精密な思索による理論を結びつけ、これらの思想を実践哲学に体系化した学者として知られています。

記念碑は、この通路を約20メートルは入った左側にあります。」

私が、西晋一郎博士のことはまったくといってよいほど知識がありません。知っていることと言えば、森滝市郎先生の岳父,つまり先生の奥さんしげさんのお父さんだということです。1931年の3月に森滝先生は、京都帝国大学大学院を卒業、広島高等師範学校に就任され,同年の12月27日にしげさんと結婚されました。

以前に森滝春子さんからこのプレートに関わることで「小さい頃、縮景園の隣にあったおじいさんの家によく遊びに行ったことがあります。垣根の隙間から縮景園に入り込んだことがありますよ。ですからあの位置だったと思います。」と教えていただいたことがあります。

ですので、「この通路を約20メートル入った」場所に、西晋一郎さんの旧宅があったのは間違いないことのようです。

ただ、このプレートの右側は、現在はビルとビルの谷間になっており、柵では入れなくなっていますので、記念碑が本当にあるのかどうかを確かめる術はありません。

さらに不思議なことは、森滝春子さんにも確かめたのですが、誰がどんな意図でいつ頃このプレートを取り付けたのか、全く不明だということです。

ただ、私には森滝先生ゆかりの地と言うことで、気になる場所です。

なんとも不思議なプレートです。

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2024年3月12日 (火)

古代出雲と備後―古代出雲文化フォーラム

3月9日午後1時から広島国際会議場で島根大学主催の「古代出雲文化フォーラム」が開催されました。

「出雲」と聞いただけで、「とにかく参加しなければ」と、1月下旬にネットで参加申し込みをしました。

当日の参加者は、300人ということで、関心の高さを伺わせました。

この「古代出雲フォーラム」は,「古代出雲文化を通じて島根県の歴史、文化や風土、そして島根大学の学術研究の成果等を全国に向けて発信するものとして、古事記編纂1300年に当たる平成24年(2012年)度に東京において第1回を開催して以来、全国各地で開催して参りました。」(当日配布されたパンフレットより)そうです。ちなみに広島では、平成25年(2013年)度に一度開催されていますので、今回が2度目の開催となります。それぞれの開催地域と出雲との結びつきを中心にテーマが設定されています。

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今回のテーマは「古代出雲と備後」で、第1部のシンポジウムでは3つの講演「1,弥生時代の備後・安芸と出雲・石見の交流、2.国史跡寺町廃寺跡が語る備後と出雲、3,出雲と備後を結ぶ道」がありました。その内容を簡単に紹介します。

「弥生時代の備後・安芸と出雲・石見の交流」の中心テーマは、弥生時代中期に広島県三次市や島根県出雲市で築造された「四隅突出型墳丘墓」から、両地域の繋がりを示す内容でした。

「国史跡寺町廃寺跡が語る備後と出雲」は、三次市にある「国史跡寺町廃寺跡」から見えてくる備後と出雲の繋がりを、屋根の軒に取り付けられた「軒丸瓦」のつくり・文様が同じものであることから「備後と出雲に深い繋がりがあった」ことの報告でした。紹介された「国史跡寺町廃寺跡」は、初めて聞く史跡ですが、大きな伽藍があったようですので、一度訪れてみたい史跡です。

「出雲と備後を結ぶ道」では、天平5年(733年)に完成した出雲風土記に、この両地域を結ぶ道が5つ存在していたことが記述されており、両地域に深い繋がりがあったという報告でした。ちなみに「出雲風土記」は、ほぼ完全な形で残る唯一の風土記として貴重なものです。

私が特に興味を持ったのは、最初の二つの報告です。二つの報告は、いずれも「備後地域で発祥し、それが出雲に伝搬した」というものでした。意外と言えば意外なことです。私は、「出雲は古代の中心だった」と思っていましたので、頭をガツンと打たれたような思いになりました。

第2部は、島根大学の取り組みが紹介されましたが、ここでは省略します。3時間半の長いフォーラムでしたが、もう一度古代の歴史を学び直さなければと思わされた「古代出雲文化フォーラム」でした。

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2023年8月16日 (水)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

終戦記念日の8月15日、今年も「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、袋町のひとまちプラザで、午後2時から開催されました。

この「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は、2002年8月15日に5人の有志によって元安橋のたもとの路上で、沖縄県人会の人たち数人が三線片手に「沖縄を返せ!沖縄に返せ」を歌い、女子生徒の「ひろしまの空」(林幸子・作)の朗読などから始まったものです。翌年からは、原爆ドームの東側・原民喜詩碑付近で朗読を中心に歌や演奏の青空集会が行われてきましたが、2013年から屋内での実施となりました。

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今年の主催者は、広島文学資料保全の会、広島花幻忌の会、四國五郎追悼の会の三団体です。

広島文学資料保全の会の土屋時子さんの司会で会はスタート。全員で黙祷した後、オープニングは、鎮魂の願いを込めたチャンゴの演奏です。演奏者は、友人のペ・ハクテさん。

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後で聞くと演奏した曲は自作とのことでした。

今年の「市民のつどい」は、サブタイトルに「グランド・ゼロの記憶 被爆作家8月6日の記録」でした。全体が、1部、2部、3部となっていましたが、全体を通してユネスコ遺産登録をめざしている原爆文学資料の4人の作家を中心にして構成されていました。

1部は、恒例の原爆作品の朗読です。

原民喜は、原爆被爆時のノートの一部、原民喜詩碑の銘文、詩「永遠のみどり」です。

大田洋子は、「屍の街」の一節。

栗原貞子は、「生ましめんかな」、「ヒロシマというとき」です。

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峠三吉は、「原爆詩集」より「序」、「8月6日」、「影」、「呼びかけ」です。

何度も聞いたものもありますが、今回も新鮮な気持ちで聞きました。

2部は、広大名誉教授で広島文学資料保全の会顧問の水島裕雅先生の講演「ヒロシマに文学資料館を設立する意義と課題」です。

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・広島の原爆資料の重要性 ・広島中央図書館に寄贈した約2万点とその後に収集された数万点の文学資料が「広島文学資料室」に納められているが、死蔵の状態 ・1981年の広島平和記念館主催の「原民喜展」で初めて原爆文学資料に接し、特に「原爆被災時のノート」に出会ったとき受けた強い感銘 ・今年一月に発表された「世界終末時計」が、後90秒となったことの危機感 ・もし文学館ができたら予想以上に核戦争が迫っている現在、世界の人々が広島を訪れ、原爆資料館に寄り、次に「言葉館」としての文学館を訪れることで、じっくりと人間の過去と未来に思いを寄せて、自分は何をすべきか、他の人に何を伝えるべきか考えてほしい ・広島の文学は、原爆だけでなく頼山陽の頃から現代に至るまで日本文学に大きな影響を与えている。例えば児童文学の鈴木三重吉、新劇運動の中心的存在である幼い顔ロルはいずれも広島市出身 ・今回広島の原爆文学資料がユネスコの「世界の遺産」に登録されれば、文学館の役割も大きくなる

そういう内容でした。

3部は、「ユネスコ「世界の遺産」登録申請の歩み」について、広大名誉教授で広島文学資料保全の会幹事の成定薫先生が、報告。これまでの2回の反省を生かし、申請書作成作業が進んでいるとのことでした。今回の申請では、新たに大田洋子の「屍の街」の初稿・原稿が加わったことが詳記されました。

もう一つの報告は、新たに登録資料に加わった「大田洋子『屍の街』(自筆原稿)」について、広島文学資料保全の会事務局次長川口悠介さんが解説。

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大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、現在日本近代文学館に所蔵されていること、白島九軒町で被爆し、3日間河原で野宿した後、佐伯郡玖島に逃れ執筆をはじめ、同じ年の11月に脱稿し出版しようとしたが占領下のプレスコードによって一部削除され、ようやく出版、そして1950年になって削除部分を増補し、大幅に訂正されて出版されたことなどが紹介されました。大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、貴重な原爆資料だということです。

いろいろと調べてみたいことが出てきた今年の「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」でした。

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2023年5月30日 (火)

運転免許更新高齢者講習に行きました。

7月に75歳を迎えます。最近は車を運転することも少なくなったのですが、もう一度は運転免許証を更新しようと思い、昨日免許更新のための認知症検査・高齢者講習に行ってきました。

今回も3年前と同じ南区宇品東にある中国自動車学校での高齢者講習の高齢者講習を受けました。

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この3年間、無事故無違反でしたので、運転技能検査は免除され認知症検査と高齢者講習だけです。

午後2時半から始まった講習の受講者は、8人です。

講習全体の説明があった後、最初は認知症検査です。1枚の紙に4種類の絵が描かれた紙4枚、計16種類の絵の名前を書き記す問題。最初は、何もなしで思い出す全ての名前を記載する。この時は、10しか思い出すことができませんでした。その後に、最初に絵を見せられたときに教官が出したヒントが書かれた用紙にもう一度名前を書きます。今度はヒントがありましたので、一応全部の名前を書くことができました。次は、並んだ数字の中から指定された数字だけを斜線で消すという検査です。最後にこの日の年、月、日、曜日を記載して認知症検査は終了しました。初めての体験ですので、ちょっと緊張しましたが、何とか無事終了。すぐに、検査結果の診断が行われ、30分ほど待つと自動車学校側の診断が終了。「全員、異常ありません」との報告があり、全員に何となくほっとした気分が広がりました。

次は、前回も行った視力の検査です。視力の平均値は次の通りです。

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免許更新時にも通常視力の検査はあるようですが、一応予備的に通常視力の検査も行います。運転免許更新時の通常視力は、0.7以上が必要とのことですが、私の通常視力は、1.2でした。

動体視力は0.4、視力回復時間は45秒、眩光下視力は0.4でした。この3種の視力検査は、この免許証更新時の講習時しか行いませんので、評価が難しいのですが、75歳ということでは、普通の評価でした。これらの視力検査結果が、免許更新に関わるわけではありませんが、自分の現在の状況を知ることができますので、運転時の参考にはなると思います。

最後は、車を運転しての実車です。最近車の運転をすることも少なくなっていましたし、あいにくの雨模様でしたが、これも無事終了。

全ての検査・講習がこれで終わり、「修了証明書」と「『認知症の恐れがある』基準に該当しない」と書かれた「認定認知機能検査結果通知書」を受け取り、中国自動車学校を後にしました。終了したのは、午後5時半ですから3時間のコースでした。

後は、この書類をもって運転免許センターに行き、新しい免許証の交付を受けるだけです。

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2023年5月12日 (金)

初代「原民喜詩碑」の銘板―つづき

広島県立図書館に展示された「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」の説明板の4項目目には次のように書かれています。

「傷ついた旧詩碑の銘板陶板は、預かっておられた民喜の実兄である原守夫氏のご厚情により、民喜自筆原稿『屋根の上』等とともに当館へ寄贈していただきました。(1978年2月24日受入)」

この文章から、「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が原守夫氏が寄贈されたことがわかります。

ところが、次の5項目目を読むと、ちょっと疑問がわいてきます。5項目目は次のように書かれています。

「なお、この陶板が当館に至る経緯について、豊田清史氏は、次のように書いておられます。『傷つけられた陶板は一応制作者である名古屋の加藤唐九郞氏に送られ、すでに他人に渡っていたが、民喜の文学資料に大切な品と私は考え、唐九郞氏に交渉して返送してもらい、現在県立図書館の郷土資料室の陳列ケースに保管されている。(図書新聞1983年4月9日)』」

疑問とはこうです。4項目目を読めば、間違いなく「原守夫氏から寄贈された」ことがわかりますが、図書新聞に掲載された豊田清史氏の文章には、「豊田さんが、加藤唐九郞氏から返送してもらった」としか書かれておらず、原守夫氏に預けたという記述がないのです。そのため、5項目目では、豊田さんが寄贈されたとも読める内容なのです。

県立図書館は、図書新聞の復刻版を所蔵していますので、1983年4月9日号を見させていただき,確認したのですが、5項目目と同じ文章しか書かれておらず、原守夫さんの名前は出てきません。なぜ豊田さんが、原守夫さんの名前を書かれなかったのか、真意を推し量ることが出来ないのが残念です。

改めて調べていただいたのですが、県立図書館受贈品目録には、はっきりと「1978年2月24日に原守夫さんから寄贈を受けた」ことが記録されているとのことでした。

最後の6項目目は次のように書かれています。

「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていましたが、この度、広く公開するために、開架室で展示することにしました。(平成30年3月13日)」

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このことと関連して脇康治さんの「図書館たより」・「出会い」には、次のように書かれています。

「それから(引用者注:「文芸大柿No.6発刊時」)約30年、県立図書館の書庫で偶然、旧詩碑の碑銘陶板に巡り会ったのです。陶芸家加藤唐九郞制作の、あの傷ついた陶板にです。私は運命的なものを感じました。旧館の時代には、郷土資料のコーナーに展示してあったのだそうです。

旧詩碑建設に努力された人びとのことばにあるように、『彼の平和への祈りを永遠に記念』するものとして、また、民喜を超えてヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』ものとして、現在、展示コーナーに展示しています。(9月29日まで)」

この文章から二つのことがわかります。

一つは、「旧詩碑の碑銘陶板」の展示には、「ヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』もの」としての想いが込められていること。

二つは、6項目に書かれた「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていました」は正確ではないということです。「正確ではない」というのは、脇康治さんが館長に就任されるまでは、「館長室」ではなく「書庫」に保管され、県民の目に触れることはなかったが、脇館長が見つけ出され、一時期展示コーナーに展示された後、館長室に展示され、ようやく平成30年(2018年)になって、現在のように常設で「カウンタ-」に展示されるようになったということです。

もし脇さんの目に触れなければ、今も書庫に眠っていたかもしれません。

ところで、私にはもう一つ気になっていることがあります。脇さんの「出会い」には、大柿高校の文芸誌だけでなく国泰寺高校の文芸誌「文芸進路」も紹介されていることです。文芸誌「文芸進路」には何が書かれているのか知りたくなり、国泰寺高校を訪ねたのですが、「文芸進路」はすぐに見つからず、所在を調査していただくことになりました。見つかれば、原民喜のことや詩碑のことがどんな風に書かれているか、ぜひ読みたいと思っています。

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2023年5月 1日 (月)

森滝市郎先生の自筆資料など広島大学に寄贈

広島大学の希望と森滝春子さんの意向で、森滝市郎先生の自筆資料などが、広島大学に寄贈されることが決まり、2018年2月から広大文書館によって受け入れ作業が開始されました。これまでに2回の搬出が行われ、10,582点の文書が、広島大学に受け入れられています。

森滝先生の資料寄贈に当たっては、広島大学文書館の石田雅春准教授から何回か相談を受けたことがありましたので、大掛りの搬出としては3回目の今回が最後になるということで、石田さんから連絡がありました。

当初は、25日が予定されていましたが、雨の心配があり28日に変更となりました。当日は、午後1時から森滝春子さんと広島大学との打ち合わせがあるということですので、私もその時間に合せて森滝家に行くことにしました。

広島大学に対し中国新聞記者から「最後の搬出の際には、事前に連絡をください」との要望があったようで、今回はマスコミ各社に事前に連絡がいったため、私が森滝家に着いたときには、すでに多くのマスコミが駆けつけていました。

これまでの2回は、倉庫などに保管されていた資料が搬出されたようですが、今回は、森滝先生の書斎の文書が、搬出されました。この書斎は、森滝先生と何度もお会いし,先生が亡くなられてからも訪れる度に入れていただいた部屋です。

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過去に運び出された資料の中には、第五福竜丸が被曝したことを契機に始まった原水爆禁止運動の署名活動で集まった百万人の署名簿を国連本部に送るときの「百万署名を発送するに当たって」とタイトルの付いた直筆のメッセージなどもあったようで、今回マスコミが駆けつけるということで、石田さんがわざわざ持ってきておられました。以前の資料の中にもこうした貴重なものがあったようですが、今回運び出される資料は、まさに森滝先生の今に納められ、いつも手元に置いておかれた資料ですから、より貴重なものが含まれていると思います。

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打ち合わせの時間より早めに着いた私は,資料が収められていた押し入れなどを少しだけ見させていただきました。目に触れた中には、1975年の「非核太平洋会議」の資料や精神養子運動の「子どもを守る会」の資料などが在ることが確認できました。いずれの資料もきちんと茶封筒に整理して納められています。

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私が、短い時間で手にした「非核太平洋会議」と書かれた資料の中には写真もあります。以前から気になっていた同会議に参加し、森滝先生の「核と人類は共存できない」の理念確立の最後の一押しをしたアボリジニの女性の写真が、在りましたので、春子さんにお願いしその一枚をもらって帰りました。

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左端がアボリジニの女性

もう一つ、これは春子さんが事前に用意されていたのですが、「社会党に期待する」という直筆原稿をいただくことができました。年数が入っていませんので、いつか書かれたものかは不明です。

マスコミによる森滝春子さんへのインタビューと部屋の撮影が終わった後、ようやく午後3時過ぎから搬出作業が始まりました。私は、次の予定があり作業が始まると同時に帰宅の途につきましたので、作業の様子を写真に収めることはできませんでした。石田さんとのメールのやりとりでわかったことですが、今回は11箱が搬出されたようです。

これまで広島大学が受け入れた資料とともに、数年後には一般公開できるように目録作りが進められるようです。

被団協の運動や原水禁の運動のどんな資料が残っているかに強い関心があるのですが、石田さんの話によれば、講義メモなども含まれているようで、広島大学にとっては、この点からも貴重な資料だということでした。

なお、春子さんの希望で、森滝先生の日記は、今回は寄贈されず残ることになりましたので、日を改めて「日記」を見に行きたいと思っています。

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