明日4月26日は、旧ソ連邦、現在のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故が起こって39年という日です。
米国人の歴史学者ケイト・ブラウンさんの著書、「チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる(緑風出版)」という533ページの長文作品を、まさに一気に読みました。訳がとても上手なので、分かりやすく読めました。
改めて、当時の時代背景を考えていました。チェルノブイリ事故が起こったのは1986年、その時はソ連邦時代です。ソ連邦は91年に崩壊しロシアなどの国に分割するのですが、ソ連邦最後の最高指導者はミハイル・ゴルバチョフ、85年から91年までソ連共産党の書記長を担い国家元首でした。
現在、ロシアによる侵攻で戦争をしているウクライナも、ロシアの味方といわれるベラルーシ共和国もソ連邦の一つでした。ソ連邦が崩壊して、さあーその翌日から国の体制も国民の感覚も新しい体制になることなど不可能なのは当然です。
チェルノブイリ事故では、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアだけでなくヨーロッパ全体が放射能汚染されました。現在もそうですが、ソ連時代、人々は思っていることが言えず、科学者は自由な研究も出来ず、連邦政府はチェルノブイリ事故の放射能汚染の影響はない、健康への影響はないと繰り返していました。今でもその姿勢に大きな変化はありません。

事故直後 シェルターに覆われた事故原発
情報機関・秘密警察を担当していたKGB(ソ連邦国家保安委員会)は、正しい放射能の問題を指摘する学者や研究者の研究所などにスパイを送りこむなどの工作もしていました。そのために正しい意見をいう学者は解雇、左遷、毒殺などがされました。放射能汚染された牛乳など食べ物のデータ改ざんなども頻繁に行われました。子どもたちを中心に甲状腺がんも多発しました。
真相を伝えるために、清掃員に扮して国際学会の場に入り込んだ経験を語るウクライナの物理学者の話しはリアルでした。結局はKGBの工作員に見破られ摘まみ出されてしまうのですが。
一方、国際的に「有名」といわれる研究者を招き、「チェルノブイリはたいしたことない」を言わせるプロパガンダの役も担わせました。広島市にある放射線影響研究所(RERF)の重松逸造理事長は、90年4月、IAEA(国際原子力機関)が発足させたチェルノブイリ原発事故をめぐる国際諮問委員長の専門家集団のトップとして、現地の汚染状況と住民の健康を調査しました。翌年5月にウイーンのIAEA本部で開かれた報告会で、汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない、むしろ「ラジオフォピア(放射線恐怖症)による精神的ストレスの方が問題である」などと報告しました。福島原発事故の後で、日本でも聞いたような話しです。
また「1平方キロメートル当たりの放射能量が40キュリーは移住を解除してもよい」とも発言、この感覚はまともな学者の発言としては考えられないものです。福島原発事故に関連して、日本政府は汚染土壌の放射能量が8000ベクレル以下なら安全と言ってますが、1キュリーは370億ベクレルという値です。
私はチェルノブイリ事故から10年後の96年と翌97年に、ベラルーシとウクライナを訪問しましたが、現地の人から「広島の有名な学者の調査」ということで、期待していたのに裏切られたという声を聞きました。
チェルノブイリ事故が起こった時、日本政府や電力会社などからは「あれはソ連という国だから起こったのだ。民主国家の日本では起きない」という言葉が発せられたのを覚えています。
チェルノブイリはたいしたことはない、事故後増加した甲状腺がんについても、「検査件数が多いからがんになった」とか、過疎地にがんが増えているという理由については「これまで検査していなかったから、その数が表面化した」という、福島原発事故のときに、「すぐに影響はでない」「たいしたことはない」「考えすぎだ」などを繰り返した、日本政府と同じだと実感しました。汚染した土地の処理、避難者の帰還の基準についても、日本とまったく同じです。そして、マスコミなどの報道の極端に縮小したのも、これまたそっくりだと感じました。そのためか、世論の関心も薄れているように思います。
IAEAやWHO(世界保健機構)などの国際機関が、市民の立場に立った組織ではなく、原子力推進の組織だということを、改めて知らされました。まだまだチェルノブイリの被害は続いています。
「20世紀に人類が起こした三つの愚かな行い」として、アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリを言われますが、そのことも考えていました。
さて私事になりますが、地域の町内会長を4年、連合町内会長を4年、計8年間地域活動に関わってきましたが、20日に開催された総会で退任することが出来ました。
町内会加入世帯の減少、役員の担い手不足などは全国的な課題です。このことは、子ども会やPTA活動にしても、市民運動にも共通していると思いますが、それなりに多くのことを学ばせてもらった8年間でした。今は、やっと卒業できたというのが率直な気持ちです。
木原省治
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