「広島ブログ」

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2025年7月

2025年7月23日 (水)

このブログを一旦休止します。

「新・広島の心を世界に」を読んでいただいている皆さん、今日ブログを更新しようとしましたら、「エラー ディスク容量が不足しています。」と表示され、更新が出来なくなりました。
この問題は、このブログでは解決する方法は、ないことがわかりました。

解決するには、新たなブログを立ち上げるしかありません。

すぐに作業を進めたいのですが、原水禁大会も間近となり、急ぎ仕事をするとミスが出ることになります。

原水禁大会が終わったら、9月頃には新たな名称のブログを立ち上げるつもりでがんばりたいと思います。

その時、またお会いできることを楽しみにしています。

長い間ご支援をいただきました皆さんに感謝申し上げます。

ありがとうございました。

いのちとうとし

 

2025年7月22日 (火)

三原の7月「19日行動」

7月19日(土)1730分から三原駅前において定例「19日行動」を実施しました。街頭には20人が立って、「戦争させない!」、「市民が変える 選挙で変える!」「核兵器禁止条約 世界の希望!」などのプラカードを掲げてスタンデングと6人の弁士がマイクからアピールを行いました。

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▲「間もなく敗戦80年です。なぜ終戦記念日なんですか。敗戦なんです。敗戦記念日ではない。敗戦の日なんです。日本は戦争に負けたのではない。戦争が終わったんだ。だから戦争の責任を取ろうとしない姿勢が日本政府にありありと見えてきたのがこの80年であります。国民はそういう言いかえにごまかされている」と指摘しました。

▲今月筆者は司会の番でなかったのでプラカードを持って立っていたら、スピーチを聞いていた通りがかりの市民の方が「これ選挙なんですか?」「広島でやっている核兵器の問題なんですか?」と尋ねられました。「私たちは平和憲法を守るために三原で活動している市民運動団体なんです。政府が進める戦争する国づくりに反対し、戦争放棄を定めた憲法9条の改悪阻止を求めて毎月19日に街頭でアピール行動を行っているんです。なぜ19日かというと安倍政権の時、10年前の919日、戦争につながる安全保障関連法が国会で強行採決された日なんです」。「私たちは唯一の戦争被爆国として核も戦争もない社会を求めて街頭で訴えています」など市民の方と10分くらい話しました。

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▲街頭行動のまとめに立ったM町の岡崎さんは、「今、日本で起きている大きな問題は全て憲法違反だと思う。憲法違反だと裁判所から提訴されて規則違反だと言われたことは一切ない。どういうことなんでしょうか。こういうことを権力側は垂れ流しにして国民をだまし続けている。憲法違反の憲法改正の手続きを問うとなると大変なことになる。国民投票の過半数の賛成がなければ憲法は変えられません。しかし中身はどんどん変えていくんです。憲法違反を垂れ流ししながら、そういう社会に今なっていることを私たちは見抜かなければならない」。「憲法に謳われている『憲法擁護義務』、政治に携わる者(政治家)は、このことをしっかり肝に銘じて仕事をしなければならない。したがって、私たち主権者が私たちの身の回りを見ておかしいことはおかしいと言い続けてしっかりやっていかなければならない」。「政治を変えるのは私たち主権者です。私たちの一票で政治が変わります。政治を見るとき、どんな社会をめざすのか、そのためにどんな国の形にするのか、今のような政治が続けば、差別と分断いのちと暮らし、人権が破壊される社会ではないでしょうか。なんとしても憲法を暮らしに活かす。日本の行先を決める『日本国憲法』をみなさん守り抜きましょう。それができる主権者(国民)になりましょう」。と訴えて街頭行動を終了しました。 

藤本講治

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2025年7月21日 (月)

府中地区の7月「19日行動」

参議院選挙の投票日を前日となる19日、今月の「19日行動」は、いつものリレートークではなく、投票をよびかけるスタンディングを行いました。15時30分から上下Aコープ前(9人)、17時から府中市天満屋前(10人)で、実施ました。

横断幕は「差別に投票するな」としました。

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上下Aコープ前

明日(20日)の投票の結果しだいで戦後つづいてきた自民党中心の政治が終わるか否かの重要な転換点となる選挙です。すでにその兆候はあらわれています。本日のスタンディングでもいつになくみなさん手をふっての意思表示が多いと感じました。

日本人ファーストなどとアメリカの大統領をまねした安易なスローガンが予想外の支持を受けるのを見て、どの政党も同じような主張を大声で言い合い、外国人差別がまかりとおる選挙戦にあ然とします。

日本人ファーストが当たり前と思う皆さんに考えてもらいたい、日本人ファーストという言葉には外国人は差別して当たり前という意味が含まれているということを。「外国人を差別しろ」と日本人ファーストは同じである。すでに「私は外国人を差別する」と公然と言い放つ候補者まで現れました。また選挙期間中に女性候補者に対する殺害予告メールが届くという事態にもなっています。

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府中市天満屋前

マスコミは報 道しないか、ほんのちょっとのスペースしか記事にしませんでした。「断固許さない」というメッセージと共に報道するのがマスコミの使命だと思いますが、安倍政権とその後の自民党政治のもとではマスコミにその役割を期待するのは無理なのでしょうか。

この流れをそのままにしておくことはできません。

外国人差別が女性差別に、障害者差別に、少数者差別に、高齢者差別に、弱いものいじめにつながっていくことは容易に想像できます。

日本社会は壊れかかっています。明日の投票日にはその動きをストップする投票行動をおこないましょう。「差別には断固として反対する」と意思表示をしましょう。日本がアジアの国々から見向きもされない国にならないために。

小川敏男

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2025年7月20日 (日)

ベトナムの歴史(その41) ― ベトナム Now Ⅴ -カンボジア侵攻-

ポル・ポト政権崩壊・内戦10年

1975年4月17日、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュと元国王のシアヌーク派が組んだカンプチア民族統一戦線が親米軍事政権ロン・ノル政権を倒します。翌76年にはクメール・ルージュ(ポル・ポト派)がシアヌーク派を押さえ、実権を握り民主カンプチア政府を作ります。そのポル・ポト政権が国民の4人に一人といわれる170~200万人を虐殺したことは幾度も触れました。

1978年12月、ベトナム軍がポル・ポトの粛正から逃れベトナムに亡命していたヘン・サムリンなど元クメール・ルージュの親ベトナム派を支援しカンボジアに侵攻。翌1979年1月、ベトナムに支援されたヘン・サムリンはポル・ポト政権を倒し、カンプチア人民共和国を成立させます。そして、2月17日にはポル・ポトを支援していた中国が「懲罰」と称して、ベトナム領内に大規模な越境攻撃し、中越戦争が起こります。

中越戦争は中国軍の撤退により一ヶ月で終結しますが、政権を追われたクメール・ルージュト(ポル・ポト派)とシアヌーク派(王党派)、ソン・サン派(共和派)という三派連合とヘン・サムリン政権との内戦が10年間続きます。この10年間は「カンボジア問題」として扱われますが、ベトナムとカンボジアの問題としてだけでなく、国連の果たす役割を含め国際政治が問われたのだと思います。

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国際政治に翻弄された「カンボジア問題」

下の図は、親ベトナム政権のヘン・サムリン政権と亡命政権の「民主カンプチア三派連合政府」の対立構図です。自国民やベトナム系住民を大量虐殺したポル・ポト政権を倒し、カンボジアの人々を「死の恐怖から解放」したヘン・サムリン政権ではなく、ポル・ポト派を含む三派連合をアセアン諸国やアメリカ、国連、そして日本が支持したのです。理解できないのは私一人ではないと思います。

ここにも冷戦が深まるなかで、それぞれの国益(経済的・軍事的)と思惑を持った国際的な対立を反映した構造が見て取れます。

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そのことを、初鹿野直美さんは「カンボジア:内戦とその後の国づくりの歩み」の中で、次のように述べています。「国連の代表権は三派連合にあり、西側諸国は虐殺を行ったポル・ポト派を含む三派連合側を支持することにジレンマを抱えつつ、ベトナムが背後に控える人民革命党政権を支持することができず、ちぐはぐな状態で4派が併存することとなった。」と。

国連安保理や国連総会など国際政治の場では、ベトナムの軍事侵攻を非難し、ヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡国家であるとして認めないとの姿勢に終始します。日本政府もそうした流れの中で、「ベトナムの軍事介入による傀儡政権を、日本政府として政治的に認めるわけには行かない」と、ポル・ポト政権を承認してきたそれまでの立場を維持したのです。

無責任な国際政治や日本の追随外交が、ポル・ポト政権崩壊後の10年に及ぶ内戦で、カンボジアの人々を苦しめたことを忘れてはならないと思います。

国際世論が解決の扉を開き、デタントが道をつくった

こうした「カンボジア問題」に変化の兆しが出始めたのが、1980年代半ばからです。その一つが、ポル・ポト政権時代にカンボジアで繰り広げられた悲惨な大虐殺を描いた映画『キリング・フィールド』が公開されて、ポル・ポト派に反対する国際世論が大きく高まってきたことです。それは国連や国際政治に影響を及ぼし、ポル・ポト派を除き復興の主務者であるヘン・サムリン政権をはじめカンボジアの人々による枠組みづくりが進められました。

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もう一つはゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(経済・社会の再構築)路線と新思考外交(対話と協調)、グラスノチス(情報公開)を推進し、米ソの緊張緩和(デタント)が進み、1989年12月の「マルタ会談」で冷戦終焉へと大きく動いたことです。合わせて80年代半ばからの中ソ和解の動きも上げられます。

こうした中で、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の設置・派遣が準備され、1991年10月、「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定(パリ和平協定)」が締結されました。

国益に執着した自国ファーストで絡まった迷路を照らし、解決への扉を開いたのは、何よりもカンボジアの人々の悲惨な体験と復興への姿です。そして一人ひとりの心をつないだ国際世論によるところが大きいと思います。

2025720日(あかたつ)

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2025年7月19日 (土)

二つの「ヒロシマアピールズ」ポスター展

「ヒロシマの心」を、言葉を超えて広く内外に訴える事業として、1983年にスタートした「ヒロシマ・アピールズ」ポスターの展示会が現在2カ所で開催されています。

「ヒロシマ・アピールズ」ポスターは、日本グラフィックデザイナー協会〈JAGDA〉を代表するデザイナーが、毎年1枚、ボランレィアでポスターを制作しているものです。

今年は、北川一成さんがデザインした「PEACE」です。

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制作のコメントは次のように書かれています。

「戦後80年。
平和の願いをこめて白の空間に墨の五文字、
PEACE」の言葉を描きました。
両面表のポスターに成っています。
クレジットが鏡文字の白い「空」間は、くう、そら、
あく、あける、から、むなしい、すく、うつろ、
の言葉を表しています。」

最初の訪れた中国新聞ビル1階の会場は、1983年からの全作品が展示されています。

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第1回作品は、当時JAGDA会長だった故・亀倉雄策氏が制作した「燃え落ちる蝶」で、後に「第6回ラハティ国際ポスタービエンナーレ展」で最高賞を受賞しました。

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この作品は見覚えがあります。

この会場の作品には、全て作者の製作意図が記述されています。

ゆっくりと見終えて、もう一つの会場である旧日銀広島支店に行きました。こちらは建物の入り口に大きな懸垂幕がでています。

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入り口を入ったロビーの左側に中国新聞本社と同じように歴代の「ヒロシマアピールズ」ポスターが展示されていますが、ここはパスをし、その奥にある一般事務室のスペースに行きました。

こちらは、二つのコーナーというか展示区分があります。

手前は、ヒロシマ、長崎、沖縄で活躍するJAGDA会員の作品25点が展示されています。

入り口の懸垂幕の原画となる作品が最初に展示されています。

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広島の会員西村和明さんの作品ですが、タイトルは書かれていません。

沖縄会員の作品が3枚ほどありましたが、その一枚です。

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作者は、佐治俊克さんです。

奥の方のコーナーの最初にはこんな看板がありました。

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このコーナーには、「広島平和ポスター学生コンペティション」選出作品15点が並んでいます。いずれも広島のデザイン学校や大学などでデザインを学んでいる生徒の作品で、「コンペティション」で選ばれた優秀な作品が展示されています。

最初に展示されているのは、グランプリを取った信重心美さんの作品です。

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「平和は、知ることから始まる。」の文字と新聞でつくられたハトとでデザインされています。信重さんは、比治山大学短期大学部専攻科美術専攻の生徒です。

いずれの作品にもタイトルが付いていませんから、見る人の想像力が試されるような感じを受けました。

この旧日銀広島支店の展示会は、毎年行われているようですが、私が見に来たのは初めてです。

中国新聞本社ビル1階で開催されている「ヒロシマ・アピールズ ポスター展」の開催期間は、土日祝を除いて25日までです。

旧日銀広島支店で開催されている「ヒロシマ平和ポスター展 2025」は、24日までの開催となっています。

「平和」について様々な表現方法がありますが、会場を訪れ作品と向き合えば、グラフィックデザインの持つ力を感ずることが出来ると思います。

いのちとうとし

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2025年7月18日 (金)

「原爆の絵碑」第11号の設置作業

このブログでも何度か紹介した「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」が設置した「原爆の絵碑」の第11号の設置工事が、16日、17日の二日間をかけて、設置場所である相生橋西詰緑地で行われました。

今回の「原爆の絵碑」の土台には、私が、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」に連絡し引き取ってもらった広島中央公園から出た被爆石が使われるということで、事前に私にも工事の日程の連絡がありました。

16日、作業の様子を見ようと現地に行きましたが、私が現地に着いたときには、すでに設置作業が終わり、白いシートで覆う作業中でした。

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17日に目地にパテなどを詰める仕上げの作業が行われて完成ということになるようです。

「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」から、私が見ることができなかった作業風景を写した写真をお借りしました。この写真を見ると4枚の市民が描いた絵が取り付けられているようです。

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「原爆の絵碑」の第10号碑が設置されたのは、2006年10月14日ですので、この11号碑は、19年ぶりの建立ということになります。

この碑の除幕式は、22日午後6時から行われますが、ちょうどその時間は、広島を訪問するノーベル平和賞の選考を行うノーベル委員会のフリードネス委員長との意見交換会が行われ、そこに出席することにしていますので、残念ながら参加できません。

23日以降に完成した「原爆の絵碑」第11号碑を見に行こうと思っていますので、その時碑の紹介をしようと思います。

ところで作業現場では、思いがけないことが起こりました。

今回の碑の制作は、西区三滝にある「モリシタストーンオフィス」が手がけられてようですが、作業中のお一人に少しだけ話しを聞くことが出来ました。

話しの流れから、私が、「私の友人も島根県の『石販』という石材店をやっていますよ。ご存じないですか」と話したところ、「エッ、『石販』さんをご存知ですか。実は、この石の加工は、『石販』さんでやってもらったのですよ」とのこと。びっくりです。

「石販」という会社は、1983年に、現在は会長となっている金山義夫さんが起業した「建築石材及び墓石材全般に関わる製品のデザイン・製造・輸出入・卸販売・工事請負」などを行う石の加工や販売をする会社です。

金山義夫さんは、このブログの今月の1日と2日に紹介した「島根方言集成」を発刊した川上正夫さんと同じく、中学生時代以来の友人で、先日も「島根方言集成」のことを電話で話したばかりなのです。

すぐに金山さんに電話をかけました。「そー言えば、広島から頼まれて作業をしたな。うちの会社は、中四国の石屋さんから頼まれて大きな石の加工もやっている。以前広島の猿猴橋のリニューアル作業もやらせてもらったよ」とのこと。広島でも色々と仕事をしていたとは、意外でした。「除幕式が終わったら写真を送りよ」と話して電話を切りました。

土台となった被爆石の引き取り、その加工、なんか不思議な縁を感じる「原爆の絵碑」11号碑です。

いのちとうとし

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2025年7月17日 (木)

原水禁大会で朝鮮人・中国人被爆者支援がテーマとなったのはいつからか?―その2

翌年の被爆28周年原水爆禁止世界大会(1973年)になるとさらに具体的になります。

大会基調では、「三、国際的運動の課題 (四)国際的被爆者救援とその実態調査」で次のように提起しています。

「広島、長崎の原爆投下によって直接被害を受けた国民は、日本人、朝鮮人および若干の中国人であった。日本の被爆者はある程度その実態がわかっており、貧しいながらも一定の医療施策もなされている。だが、かつて旧軍国主義時代に日本によって強制連行され、働かされていた朝鮮人被爆者は、戦後二十八年を経てもいまなお殆ど実態を知られていない。われわれ原水禁運動の責任において、その実態を調査し、救援の活動を開始しなくてはならない」と。

ここでいう「若干の中国人」とは、被爆当時広島高等師範、広島文理大に留学した学生たちのことです。この時点では、強制連行によって日本に連れてこられた中国人に被爆者がいたことは、まだ知られていませんでした。強制連行による中国人被爆者が顕在化するのは、1990年代に入ってからです。

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さらに大会基調では、「四、国内運動における運動課題(三)被爆者救援と援護法制定運動」の項の4番目に「朝鮮人被爆者に対する日本政府の責任を追求し、また被爆者の実態調査と救援の活動を強化する。この上に立って日本政府の責任による朝鮮人被爆者の救援と医療活動を要求する。同時に、入管令の制限をとり払い朝鮮人被爆者を差別なく扱うことを要求する」とする具体的な課題を提起しています。

そして大会スローガンの中でも2項目目に「朝鮮人・中国人被爆者に対する日本政府の責任を追求し、被爆者を救援しよう!」と明記されています。

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当時の分科会会場は、小・中学校の体育館だった

こうした大会基調を受けた分科会討論の様子を次のように報告しています。

「被爆者問題第一分科会」報告では、執行部からの問題提起の4番目に「4朝鮮人を主とする外国人被爆者の問題は、国家の戦争責任の問題であるとともに、日本国民の責任問題だととらえるべきである。本国にある二万人を超えるといわれる朝鮮人被爆者に対しては、二十八年間放置されている」と提起されたことが記述されています。

「被爆者問題第二分科会」報告では「6 外国人被爆者問題とABCC問題は別途決議する」と記述され、その後の「決議」では、「一 本会場で韓国人被爆者より切実な訴えがあった。我々は日本政府の戦争責任の問題としてこの問題を理解した。本部がこの問題を本会議の課題として取上げられ具体的な教護活動を即時展開するようお願いいたします。」としています。この報告を読むと、韓国人被爆者がこの大会に参加し、この分科会で訴えたことがわかります。この第二分科会報告では、発言者の名前は記述さていませんが、「被爆者問題第三分科会」報告には「私たちは、今日、韓国在住被爆者の代表徐錫佑さんから韓国在住被爆者の実態を知ることが出来た。韓国在住被爆者の願いにもこたえて私たちは、こうした国民的力をつくりだすために、本世界大会に参加したすべてのものが、次の具体的な運動に取り組むことを確認した。」と記述され、ここでは在韓被爆者の名前が明らかにされています。

この分科会報告を読む限り、複数の在韓被爆者がこの大会に参加したことがわかります。

その結果、長崎大会の最終日に出された「被爆者救援と援護法制定の決議」では、「かつて旧日本軍国主義者によって、日本に強制的に連行され原爆にあった朝鮮人・中国人被爆者にも大きな関心を払わなくてはならない。原爆被害の実態は今なお解明されておらず、それに対する日本政府の責任も果たされていない。われわれは韓国在住被爆者の実態を解明するとともに、日本政府の責任を追及し、朝鮮人被爆者の健康な生活を取り戻さなくてはならない。」と決議しています。

大会報告決定集には、他の分科会でも在韓被爆者問題が議論されたことが報告されています。

こうした時期、在韓被爆者を支援しようと1971年12月に「韓国の原爆被害者を支援する市民の会」が発足し、その後の在外被爆者支援運動に大きな役割を果たし続け、いまも活動を続けていることを紹介し、このテーマでの報告を終わります。

いのちとうとし

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2025年7月16日 (水)

原水禁大会で朝鮮人・中国人被爆者支援がテーマとなったのはいつからか?-その1

「在朝被爆者問題について話してほしい」との要望を受け、これまでの運動の経緯を中心にまとめる作業を進めています。

在朝被爆者問題が、原水禁大会で具体的なテーマとなったのは1990年代からですが、原水禁が朝鮮半島出身者や中国人の被爆者問題を取り組むようになったのはいつからだろうかと、手元にある「原水爆禁止世界大会報告決定集」を調べてみました。

被爆26周年原水禁世界大会報告決定集には、「朝鮮人・中国人被爆者」の文言は全く見つけることができません。

余談ですが、この被爆26周年原水禁世界大会は、特別の意味を持つ大会です。それは、この大会に初めてミクロネシアの代表が参加し、「1954年のビキニ水爆実験で、数多くのミクロネシア人が死の灰を浴びた」ことを告発し、日本の原水禁運動が、「原水爆被爆国が日本だけでなかった」ことを知ることになった大会です。

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そしてミクロネシア代表の告発を受け、国際共同行動として「現地の実態調査を行う」ことを決議し、核実験被害者と向き合うきっかけとなった大会だからです。

いつかこのことも紹介できればと思っていますが、話しを本題の「朝鮮人・中国人被爆者」に戻します。

大会報告集をめくると、ようやく被爆27周年原水禁世界大会(1972年)の基調に初めて「朝鮮人被爆者問題」が登場します。

基調の「(三)被爆者救援と援護法の制定運動」で、詳しく記述されています。

大会スローガンでも「五、被爆者を救援し、『被爆者援護法』を即時制定させよう!②,朝鮮人・中国人被爆者を救援しよう!」と明記されています。

大会の分科会報告の「被爆者問題第一分科会」で、次のように記述されています。

「七、又、本大会によって、『日本国民は唯一の被爆国民』という言葉を改め、朝鮮人・中国人等の外国人被爆者の実態調査に立ち上がり、その救援運動に併せて取り組むことを確認した。南朝鮮の被爆者孫振斗さんが、日本政府の責任によって、日本人被爆者と同等に扱われることが確認された。そのためには、日中、日朝、即時国交回復をかちとる闘いを進めることが、その基本であり、反戦・平和をかちとる大きな課題であることも確認した。」

この分科会報告を読むと、韓国人被爆者孫振斗さんが、1971年10月に被爆者健康手帳交付を申請し、翌1972年7月に却下されたことが大きな契機となったことがわかります。

この分科会報告の「被爆者問題第三分科会」報告には、次のような興味深い記述があります。

「宮崎:朝鮮総連と連携して『在日朝鮮人被爆者実態調査に取り組んでいる』状況が報告された」

当時全電通の役員だった宮崎安男さん(後に広島県原水禁事務局長、代表委員、原水禁国民会議副議長)が、全電通と在日朝鮮人被爆者の李実根さんなどが連携して取り組んでいた実態調査のようすを分科会で報告したものと思われます。この調査が、1975年の「広島県朝鮮人被爆者協議会」の発足に結びつくことになります。

翌年の大会では、さらに突っ込んだ討論が進んでいますが、その内容は明日報告します。

いのちとうとし

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2025年7月15日 (火)

2025年7月のブルーベリー農園その2

暑い暑い日々が続いているが、それでも東広島市豊栄町のブルーベリー農園の周辺でブルーベリー栽培中心の農作業をしていると季節の移り替わりがすこしずつ進んでいることが分かる。ブルーベリーの実の収穫は今の季節は早生の種類になるが不作だった昨年より多くなっていて、安芸の郷への納品も順調に行われている。安芸の郷ではブルーベリージュースやスイーツ、100gパックの生食販売などで運営するcafeさくらもこの季節はにぎやか。農作業は草刈り、防草シートを畑の列間に敷くなど連続作業を短く、休憩を多くしながら続けている。

ブルーベリー園の草刈りが続く

①里山で(710日)

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②畑の方は3段あるうちの2段がすんでそのあとの防草シートの設置もすんで一度刈った3段目の畑は白や赤のクローバーが伸びて来ているので2度目の草刈りをしないといけない(711日)

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713日(日)の里山の周辺の様子

①ハグロトンボ

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②ササユリは受粉して種づくり中

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③キボシの花もそろそろおしまい

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軒下で休んでいると目の前の庭でトンボ(名前知らず)が藤のつるにとまる

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季節が動く。真夏にさくオオハンゴンソウが背を伸ばし黄色い花を咲かせ始めた

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防草シートを敷いたブルーベリー畑。あともう少しで終わる

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この日は古くからの友人4名が援農で農園に来て早生のブルーベリーの摘み取りを行う。早生の木は少ないのでほとんど摘み取って頂いた

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晩生(ラビットアイ系)のブルーベリーの実が緑色から青色に変わりはじめてきた。味見をしてみたがまだちょっと酸っぱい。もう数日たつとおいしくなる。早生(北部ハイブッシュ系)が終わるので次の品種にバトンタッチで9月初めまで実り続ける

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田んぼの風景はすっかり緑一面になって、いまはのり面の草刈りや刈った後の草焼きが続く

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年7月14日 (月)

沼田鈴子さんの話2題

白島の逓信局から平和公園に移植された被爆アオギリのそばで、1983年から被爆証言活動を続けてきた沼田鈴子さんの活動を振り返る二つの企画がありました。

その一つ、ヒロシマを語る会と9条ヒロシマの会が主催する「沼田鈴子さんを語る会」で、12日(土曜日)午後1時から、ひと・まちプラザで開催されました。

最初に ANT-Hiroshima(アントヒロシマ)が、2007年5月24日に平和公園のアオギリ前で沼田鈴子さんに取材し作成した30分ほどの映像が上映されました。

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「一粒の平和の種を蒔くようにして沼田さんはその体験を語ります」との字幕が最初に写されますが、沼田さんは「お話しすることが一つの平和の種だと思って」と語りはじめます。

生前の沼田さんを思い出しながら、映像を見ました。

その後、親交のあった4人が、それぞれの立場から思い出を語りました。

最初の発言者は、教員時代の教え子で、沼田さんに証言活動の後押しをされた篠田恵さんです。安田高校2年生のとき初めて出合ったときからの篠田さんならではの話しです。

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次は、9条ヒロシマの会の藤井純子さん。藤井さんは、憲法を大切にした沼田さんを紹介。三木豊さんは、沼田さんとの長い付き合いの中で「障害者」として向き合ってくれ、「今日は、右腕の不自由な自分のために沼田さんが袖口を補正してくれた上着を着てきた」というエピソードを紹介。

ヒロシマを語る会の豊永恵三郎さんは、「1984年に15人の会員でヒロシマを語る会を作ったとき、体験を語ったことのある人は、わずか一人。その一人が沼田さんだった」ことを紹介し、「沼田さんは、軍国主義教育だけしか受けていなかったが、自分が受けた戦後の民主主義教育の話しをすると『砂に水が入るように』熱心に聞いていた」ことなどを懐かしく紹介されました。

私にも沢山の沼田さんと思い出がありますので、それを懐かしく振り返りながら聞く4人の話しでした。

「語る会」が終わった後、多くの参加者が、同じひと・まちプラザの南棟1階で開催されているもう一つの企画「沼田鈴子展『沼田鈴子と海外の人たち』」に足を運びました。

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この展覧会は、「被爆アオギリのねがいを広める会」が主催するもので、昨年沼田鈴子遺品展「沼田鈴子と被爆アオギリのねがい」: 新・ヒロシマの心を世界にに続く開催です。

今回はタイトルのごとく、沼田さんの海外での証言活動、外国人との交流を中心にまとめられています。

また、びっしりと証言活動の日程が書き込まれた沼田さんの手帳も展示されています。

会場入り口に下の写真のような表示がありました。

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沼田さんの写真の下に小さな字で「七月十二日 今日は沼田鈴子さんの命日です」と書かれた紙が付いています。私は忘れていたのですが、この日12日は、14年前の2011年に永眠された沼田鈴子さんの命日だったのです。

この展覧会は、明日15日(最終日は、15時00分まで)まで開催されています。

いのちとうとし

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2025年7月13日 (日)

走り継ぐ「反核平和の火リレー」

7月2日に平和公園・原爆慰霊碑前を出発した「第44回反核平和の火リレー」は、厳しい暑さの中、各地区実行委員会によって走り継がれています。

府中の小川敏男さんから、その様子が写真とともに届きましたので、今日はそれを紹介します。


7月9日(水)に福山市から府中市に入ってきた反核平和の火リレー、10日(木)は府中市役所前で、朝810分からセレモニーが行われ、小野申人市長から激励の挨拶があり、ランナーからは「今年だけでなく来年の第45回を目指して走ります」と決意を述べられました。

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右写真の真ん中が小野申人府中市長

リレーは府中市上下支所を経て、神石高原町を目指して走り継がれました。

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府中市役所を出発する反核平和の火リレー

なお、第44回反核平和の火リレーは72日に広島市の平和公園を出発し、県内23全市町約600キロを約1,000人のランナーで走り継がれ、722日に再び平和公園に到着します。

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府中市役所は区間188で上下支所は224、神石高原町は248となっています。


小川さんの別のメールによれば、県実行委員会の車が故障したため、急きょ小川さん所有の街宣車が使用されたようです。上の写真、坂道をランナーが懸命に走っていますが、その後ろに写っているのが小川さんの街宣車です。

今日、13日は日曜日ですので、平和の火リレーは休みです。

例年、この時期集中豪雨などによって、中断を余儀なくされることがありますが、22日には無事に平和公園に到着してほしいとつよく願っています。

編集者

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2025年7月12日 (土)

プリンターが壊れました。

昨日、パソコンを開き、資料を印刷しようとすると、プリンターの次のような表示が出ました。

「廃インク吸収パッドの吸収量が限界に達しました。エプソンの修理窓口に交換をご依頼ください。」

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初めて見る表示です。「拝インク吸収パッド」といわれてもよくわかりませんし、「交換」という言葉もありますので、すぐに購入したエディオンの修理窓口に電話を入れました。

「機種は何ですか」と問われましたので、あらかじめ調べていましたので「EP-806ABです」と答えると、先方も何か調べていたようです。1分もかからないうちに「この機種の補修用性能部品の保有期間は、2019年末までとなっていますので、いまから修理することは出来ません」との答えが返ってきました。

いつ購入したのかは定かでないほど、ずいぶん前に購入したことに間違いはりません。

表示には、「交換を依頼してください」と出たのですが、交換可能時期はすでに過ぎてしまっていたようです。

幸いにして、これまで故障したことがなかったため、何の支障もなく使い続けてきましたが、今回の故障は、買い換えるしかないようです。

毎日毎日印刷するわけではありませんが、プリンターにある「スキャン」機能は、よく使いますので、このまま放置することは出来ませんので。すぐに新しいプリンターを購入するために、エディオンに行きました。

売り場にはいろいろな機種が並んでいますが、選んだのは「EP-806AB」の後継機種と言われる「EP-887AW」です。

この機種を選んだもう一つの理由は、今回のエラー原因である「拝インク吸収パッド」の取り替えが、修理に出さなくても自分で出来るように仕様が変わっていたからです。

「廃インク吸収パッドの吸収量が限界に達する」ことは、かなり長い期間使い続けなければ出ないエラーのようですので、この先また「廃インク吸収パッド」の交換が必要になることがあるかどうかはわかりませんが、一応の対策をと思って、この機種に決めました。

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実は、数日前にプリンターインクを購入したばかりで、まだ未開封なのですが、機種ごとにプリンターインクが決まっているようで、新しい機種では、このインクを使うことが出来ないのがちょっと残念ですが、仕方ありません。

新しい機種は、月曜日の午後配達されることになっています。

いのちとうとし

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2025年7月11日 (金)

伊藤孝司著「原爆棄民」

1年前の7月に旧日銀広島支店で写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」今日からスタートです。伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」: 新・ヒロシマの心を世界にを開催した伊藤孝司さんの新著「原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言」が、15日発刊されます。

この本は、1987年に発刊された「写真集 原爆棄民」の復刊ですが、伊藤さんが「増補改訂版」としているように、1987版以降の韓国での取材を加えるとともに、2回目の訪問となった1998年から始まった朝鮮民主主義人民共和国での在朝被爆者の取材で得た被爆証言が新たに加わっています。

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同書を紹介するチラシには次のように書かれています。

「広島や長崎では7万人の韓国朝鮮人も被爆。彼らは日本人被爆者と異なる戦後を送らざるを得なかった。」とし、さらに「忘れてはならない歴史がある。日本の朝鮮植民地支配の結果、生活できなくなった多くの朝鮮人が、日本に渡ってきて被爆した。本書に収録した被爆者たちの言葉から、近代の日本と朝鮮半島との歴史が見えてくる。『日本被団協』のノーベル平和賞受賞、そして被爆80年に合わせて、改めて韓国・朝鮮人が被爆したことの意味を問う。また、知られていない朝鮮民主主義人民共和国で暮らす被爆者17人の証言も収録!」

目次を紹介します。

目次

  第1部 韓国・日本で暮らす

   1 植民地・強制連行 31人の証言

   2 被爆 49人の証言

   3 帰国・在日 49人の証言

   解説 韓国・朝鮮人被爆者-その歴史と存 

   在の意義 鎌田定夫

第2部 朝鮮で暮らす 17人の証言

解説  伊藤孝司

合計146人の証言が掲載されています。

韓国を47回、朝鮮民主主義人民共和国は43回訪問した伊藤さんならではの本と言えます。

在朝被爆者の被爆体験がこれだけまとまって出版されるのは、今回が初めてだと思います。在朝被爆者問題を取り組んできた一人として、この本を通して一人でも多くの市民のこの事実を知ってほしいと思います。

伊藤さんは、次のように書いています。

「私は長年にわたり、日本の植民地支配や侵略によって被害を受けた人々への取材にこだわってきたのは、日本が再び加害者にならないためである。日本にとって不都合で隠してしまいたい歴史であっても、それと正面から向き合うことからしかアジア太平洋の人々との信頼関係を築くことは出来ない。」

被爆80年は、侵略戦争終結80年でもあります。そのことを考えるよい本だと言えます。

全編415頁の大作で、定価は3960円と高価ですが、ぜひ読んで欲しい本です。

いのちとうとし

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2025年7月10日 (木)

変わるか、消えるか?!

「変わるか」「消えるか」この言葉、中国電力で働いている人に読まれている広報紙にあった言葉です。今の役員たちの「ノホホン」とした体質が続くと、消えてしまう可能性が大だと思うのです。

6月26日の株主総会前日の株価終値は、681円でした。20年以上前から、株主として中電を見続けてきました。思い出したくもないのですが、初めて中電株を買ったときの値段は、2000円を超えていたと記憶しています。 

当時友人から「中電株を持ちたいが、いくらぐらいになれば買い時だろうか」と訊ねられたことがあります。「まあ、1500円よりは下がることはないだろうから、それぐらいで買えば損はないと思うよ」と答えたのを思い出します。

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「小さく産んで大きく育てる」とか「谷深ければ、山高し」という言葉、素人が株を始める時の鉄則だと思っています。株価に「一喜一憂」しないことも大切だとは思いますが、ここまで下がると、この会社の無責任体質というか考える尺度を持たない感覚に疑問を持たざるを得ません。

中国電力など旧電力会社の株価は、「3・11」によって下がり始めました。あの日は金曜日でした。14時46分に地震発生、残り14分で株式市場は閉まりますが、この短い時間に東京電力の株は下がり始め、時間切れで取り引きは終わりました。

土日を挟んで月曜日、この週は、まさにジェットコースターの急降下という勢いで東電の株価は下がり始め、当然ですが、電力株の下がり傾向は他の電力会社にも波及しました。その結末が今の状況に通じていると思っています。

小さな島国で、且つ世界中でもっとも地震多発列島であるこの国に、原発を作り続けた政治や電力会社の責任は許されるものではありません。当然問われるものであると思いますが、最近の裁判では、その責任すら否定しているのはご存知と思います。

3・11の反省から、脱原発の声は大きくなりました。本音は別にしても自民党でさえ脱原発を言い出していていました。あの時、本気になって原発ゼロ政策を進め、再生可能エネルギーの推進をしていたら、福島原発事故の責任はしっかり問うことにしても、電力株の今の状態はなかったのではと思うのです。

株価の低迷とともに、株式配当も少なくなり、来年はもっと下がるということです。何よりも腹が立つのは配当に回す金を、2030年の運転開始を目標とする、島根原発3号機の設備投資に使うというのです。

これだけの事態になっても、莫大なお金を使って島根原発2号機の再稼働を進め、また3号機も稼働させたいと言い、上関原発もやるというのです。

計画発生から40年以上が経過しても、「必要だ」と言い続ける上関原発の計画、中電すら本気度がないにも関わらず、地元住民に謝罪すらしない。原発推進の人にも反対の人にも謝罪することを求めたいのです。

707億円を超える課徴金を支払わされたカルテル事件、顧客情報の漏洩事件、度重なる不祥事にも関わらず「ノホホン」としている幹部たちの姿。今、中電株の買い時を訊ねられたら、2000円を超えた時と伝えようかな。あり得ない話ではありますが、その時は僕がすぐに売ります。

これからも地域に必要とされ続けるために、中電は変わるしか道はない。凝り固まった考えも、見えない組織の壁も取り払い、今までの中国電力から、“はみ出す”勇気を持とうと言いたいです。

中国電力はもっと変わろう!今年の株主総会、2時間32分という時間が掛かりましたが、大きなヤジが飛びかうこともなく、参加株主からの発言も、中電の今の状態を憂う声がたくさん出ました。株主は感覚的に「変わるか」「消えるか」の節目を感じたのではないでしょうか。   

木原省治

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2025年7月 9日 (水)

「ヒロシマ平和絵画展」

旧日銀広島支店で13日までの日程で「ヒロシマ平和絵画展」が開催されています。

知人の藤登弘郎さんから案内のはがきが届いていましたので、昨日観に行ってきました。

最初の掲示された「ごあいさつ」には、次のように書かれています。

「被爆80年を機に、本展の趣旨に賛同する広島在住のプロとアマチュアの作家が“ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催します。本展覧会を通して平和と核廃絶の思いを共有し、さらに創作活動を高めあい“ヒロシマの心”を未来に繋げていきたいと思います。」

会場に入ると今年89歳になられた藤登さんが元気な姿で受付をされていました。少しだけあいさつを交わして、すぐに作品を見ます。

会場には、画家15人の作品23点が並んでいます。

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最初の展示は、陸軍被服支廠の半開きになった鉄の扉が題材となっています。題材として一番多いのは、原爆ドームです。

藤登さんは、3枚の水彩画を出展されています。3枚とも原爆ドームが題材となっています。タイトルは「ユネスコ世界遺産原爆ドーム」です。

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説明文には「1996年、原爆ドームが核兵器の脅威を物語る証人、平和のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録された。核兵器廃絶を世界に訴える広島の声が国際社会に届いたものと考えている。原爆ドームは無言であるが、生き証人としていつまでも立ちつづけていくよう願っている。」

もう一人の知人、西村不可止さんは、「平和・希望」のタイトルで、紅いカンナの花を描いた作品を出展しています。

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説明文には次のように書かれています。

「被爆40日後には咲いていたという真っ赤なカンナ。焦土に咲くこの花を見て、被爆者は復興に向けてどんなに希望を見いだせただろう。」

野尻純三さんの「核兵器禁止条約」をテーマにした2点の作品には、興味を引かれました。一点のタイトルは「被爆電車 核兵器禁止条約締結行」です。よく見ると、原爆ドームの横を走る電車のヘッドに表示された行き先は「核兵器禁止条約」となっていますし、ボディには「日本」という文字も描かれています。

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日本政府に「すぐに核兵器禁止条約に締結せよ」との思いが込められています。

この展覧会は、5年ぶりの開催です。

絵を通して平和を考えるのも、平和創造の一つの道だと思います。

暑い日が続いていますが、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 8日 (火)

2025年7月のブルーベリー農園その1

6月末に梅雨が明けてとても暑い毎日がつづいている。東広島市豊栄町のブルーベリー農園も毎日30度以上の暑さなので体調管理が慎重になる。農作業の時間を短くする。キンキンに冷やした保冷剤を首に巻いて作業する。昼寝をして一番熱い時間を避けるなどなどして農作業を続けている。でも生き物はブルーベリーも含めてとても元気。ブルーベリー畑の草刈りがすんで一山超えたので早生のブルーベリーの摘み取りと安芸の郷への納品を続けている。

71日(水) ブルーベリー畑の中は草が茂っているので草を刈る作業が続いている

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73日(木) 午後軒先で一休みしていると花壇のグラジオラスの花穂にトンボ(名前知らず)がとまっているのでデジカメを望遠にして撮影

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ブルーベリー畑のブッシュの中にジョロウグモらしき蜘蛛が元気に巣をかけている

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74日(金) ブルーベリー畑ののり面に居ついて大きくなったネムノキに花がたくさん咲いた

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友人2人がブルーベリーの摘み取りで援農。午後の休憩で取れたてのブルーベリージュースを頂く

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首に巻く保冷剤は使った後によく乾燥させてから冷凍庫に入れる。摘み取ったブルーベリーを安芸の郷の事業所さくらに納品した。10キロを超えていた

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76日(日) 早生のブルーベリーを栽培しているエリアは防鳥ネットを設置しているので草を刈る下ごしらえでネットの裾をあげてから草刈り機を使う

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別のブルーベリー畑で草刈りが終わったので防草シートを敷く作業を始める

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里山東側のブルーベリー園の草刈りは今年初めてのエリア。笹が多い

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昨日は蕾だったヤブカンゾウが今日は開花

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里道沿いに植えているヒマワリがコスモスに続いて開花

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年7月 7日 (月)

ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ

昨日、午後1時から広島国際会議場で、在日朝鮮青年商工会主催の「부흥(プフン)-チャレンジ! ヒロキョレ」をテーマとした「ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ」が開催されました。ちなみに「부흥(プフン)」とは「復興」という意味です。

広島での開催は、24年ぶりということで、地元広島青年商工会を中心に、現地実行委員会が結成され、一年間かけて先輩の話しを聞き、碑めぐりをし、研究会を実施し、演舞や歌、劇の稽古を繰り返しながら準備が進められ、その成果が披露されました。

地元はもとより全国の青商会のメンバーが参加し、会場一般となり盛り上がった集会となりました。

日朝友好広島県民の会も出来るだけ多く参加しようと申し合わせ、取り組みを進めてきました。

集会の第1部は「復興<広島同胞社会-受け継ぐ歴史と・切り開く未来->で、被爆80年、そして民族解放80年の歴史を振り返る内容です。

最初は、在日朝鮮人にとって被爆80年は何を意味するのか、なぜ多くの朝鮮人が被爆しなければならなかったのか、被爆者の体験をもとに、舞踊、歌、映像で表現します。

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民族解放の歴史は、1955年5月25日に結成された在日朝鮮人総連合会、それに呼応して広島県本部も結成されました。しかし、民族教育への着手は、それよりも早い1946年から。その後の強制解散命令による朝鮮学校の閉鎖。しかし、それを乗り越えて続けられた民族教育の歴史が回想されました。そしてそれは、同時に差別との闘いでもあったのです。

その困難な道を乗り越えてきた在日朝鮮人の人たちの歩みを改めて知ることが出来ました。それは同時、この集会開催に向けて取り組んだ若い人たちが、先人の歴史を知ることにつながる活動となったことが報告されました。

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第2部は、「富興<民族教育100年に向けて>と題して、広島・中国四国民族教育100年に向け手、朝鮮学園の子どもたちのステージとパネルディスカッションが行なわれました。

来年創立80周年を迎える朝鮮学園が置かれている状況、特に入園する子どもの減少などの問題点を率直に語りながら、民族教育、そして在日朝鮮人のよりどころとしての朝鮮学園を100周年に向けてどう改善するのか、が討論されました。

第1部から、共通することですが、在日朝鮮人の人たちにとって朝鮮学園、民族教育がいかに大切なものか、そしてみんなの力で存在し続けさせなければならないとの思いが、強くつよく伝わってきました。

フィナーレは、活力ある新時代!と題し、「オール広島」で、歌、踊り、楽器演奏、太鼓演奏、集団演舞で活力あるパフォーマンスが繰り広げられました。

熱い思いが伝わる「ウリ民族フォーラム」でした。

いのちとうとし

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2025年7月 6日 (日)

「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」」成功裏に終了

広島県原爆被害者団体協議会(以下「県被団協」)と原水爆禁止広島県協議会(以下「県原水禁」)が共催し県内4カ所で開催した「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」は、昨日の三原会場を最後に、成功裏に終了しました。

県被団協と県原水禁の2団体は、これまでもつよいきずなで行動を共にしてきましたが、私が知る限りでは、共催して集会を開催したのは、これが初めてだと思います。

広島市での集会ではなく、各地域で開催することで、その地域の被爆者の皆さんとの連携を強化しようという目的も達成することが出来ました。

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最後の三原会場

 各地の被団協、そして地区労センターなどの積極的な取り組みによって、会場いっぱいとなる参加者を得ることが出来ました。特に、各会場とも地元の被団協から予想を上回る参加があったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

被爆者の証言は、福山会場は平逸男さん、三次会場は岡本忠さん、廿日市会場は畑口實さん、昨日の三原会場は中岡穂子(ひでこ)さんに、それぞれの被爆体験(親の体験も含め)を語っていただきました。

平逸男さんの証言については、623日付中国新聞「ヒロシマドキュメント被爆80年」で「継承に危機感 証言紡ぐ」と題して取上げられました。

中岡穂子さんは、一週間前に96歳になられたばかりですが、80年前を思い起こし、明瞭の証言をしていただきました。証言の最後に繰り返し「戦争がなければ核兵器が使われることはない、戦争をさせてはならない」と訴えられたことが強く印象に残りました。

一つとして同じ話のない被爆体験は、参加者一人一人の胸に残ったと思います。みなさんありがとうございました。

高校生平和大使の活動報告は、福山と廿日市会場が甲斐なつきさん、三次会場が沖本晃朔さん、三原会場が佃和佳奈さんが行なってくれました。「微力だけど無力じゃない!」を合い言葉に、この一年間繰り広げた活動、一万人署名活動やジュネーブの国連欧州本部訪問を中心にした活動内容とともに、その活動を通じて得た思いや学んだことが報告されました。

集会の最後は、各会場とも私が「被爆80年 原水禁運動の歴史と私たちの課題」と題して、第1回原水禁世界大会以降の運動の歴史を振り返りながら核兵器をめぐる情勢に触れ、「核兵器廃絶運動の強化」や「世界のヒバクシャとの連帯」の運動課題について問題提起しました。

特に強調したことは、「国の戦争責任を問い続けること」「原爆投下責任を明確にすること」が大切なことを改めて確認し、第1回原水禁世界大会の宣言で約束した「原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことが出来ます」を実現させるため「被爆80年を機にヒロシマから声をあげよう」と呼びかけました。

この集会成功の力を、非核平和行進、そして8月4日~5日に開催される「被爆80周年原水爆禁止世界大会広島大会」に結びつけたいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その71) ―「昭和100年」と父― その3

6月26日付けの『読売新聞』に「『戦時版よみうり』全容確認」の見出しとともに、「『のらくろ』幻の連載も」という記事が掲載されていました。『戦時よみうり』は、本土防衛と戦争継続に必要不可欠とする領土・地点である「絶対防衛圏」が破綻し、本土決戦の準備が始まった1944年3月から翌年3月までの間、戦意高揚を担い総動員体制下で働く勤労者向けに発行された全4頁タブロイド判の新聞です。

人気の少年誌『少年倶楽部』(講談社)に「のらくろ」の連載が始まったのは、関東軍が中国軍の仕業に見せかけ満州で巨大な勢力を持つ軍閥・張作霖を爆殺し、満州での日本の勢力拡大を狙って起こした1928(昭和3)年の張作霖爆殺から3年後、満州事変の引き金となった柳条湖事件(これまた関東軍による謀略)が起きた1931(昭和6)年です。

天涯孤独の野良犬(のらくろ(・・・・))が軍隊に入り、ヘマを繰り返しながらも手柄を立てて出世します。1941(昭和16)年10月号で大尉に出世した「のらくろ」は除隊し、大陸の鉱山掘りの仕事に就くところで連載が終わります。10年に及ぶ連載で「のらくろ」ブームが起き、『少年倶楽部』は「昭和11年には75万部に達し、日本最大の児童雑誌になる」(日本近代文学大事典)に至ったそうです。

ズッコケな「のらくろ」の軍隊生活も、盧溝橋事件による全面的な日中戦争に入る1937年頃から「現実の戦争がトレース」され、「戦意高揚漫画とレッテルされても仕方ない」(映画プロデューサー、西村崇)漫画として、他の戦意高揚プロパガンダととともに「軍国少年」「軍国少女」を作り出す役割を果たしました。

かつて少年たちの人気を博した「のらくろ」が復活したのは、1944(昭和19)年という一段と厳しくなった戦局のもとで創刊された『戦時よみうり』の4コマ漫画でした。

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出典:読売新聞 2025年6月26日

上左の4コマは『戦時よみうり』の創刊号に掲載された1回目、上中は最終回前、上右は最終回の「のらくろ」です。1回目の文字は鮮明でなく、読み辛いかもしれませんので紹介します。除隊後に「死に物狂いで満州の自分の山もすっかり掘りつくし」、「久しぶりに帰って見る故郷の風物は決戦に張切ってゐる」、「ことに産業戦士の血のにじむ努力」、「今こそ のらくろの真価を見てもらふ時が來た、ヨウシ ヤルゾッ」

そして、1年後、「貯蓄戦線」の「社会見学」帰りを待ち受けていた「召集令状」で「のらくろ」の掲載は終わっています。

『少年倶楽部』に「のらくろ」が連載されたのは父が3歳から13歳までの10年間です。おそらく父も読んでいると思いますが、近々父の施設に行く予定があるので聞いてみたいと思います。『戦時よみうり』が発行されたのは予科練を志願する16歳でしたが、これは手にすることはなかったと思います。

戦意高揚と「軍国少年」「軍国少女」を作り出すためのポスター(出典:「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争)

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「みんなが受けたんじゃけぇ」と予科練を「志願」し、飛行訓練もままならない戦況下で、「特攻に志願するもの一歩前」の号令に、自ら「百死零生」の特攻攻撃を「志願」した父。月1回の通院で会うと、「一つ上の者はようけぇ死んだ。97になって生き残っとる。不思議なことじゃ・・・」と繰り返す。

次号から、その特攻攻撃についてみてゆきたいと思います。

(2025年7月5日、あかたつ)

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2025年7月 4日 (金)

被爆者清水弘士さんの訃報

被爆者清水弘士さんが、一昨日午前10時頃亡くなられました。

私は、昨日午前11時頃、遺体が安置された本願寺広島別院の西隣にあるびはーら葬儀社に行き、お別れをしてきました。読経による葬儀は行われず、親族や身近な人たちが集まり、それぞれが清水さんとの思い出を語りながらのお別れでした。

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広テレの映像から

1942年6月生まれの清水さんは、3歳の時爆心地から1.6kmの吉島町の自宅でお母さんとともに被爆。倒壊した家の下敷きになりましたが、お母さんの必死の努力によって、生きのびることが出来たそうです。お父さんは被爆の影響で10月8日に亡くなられました。

そんな家族環境ですから、清水さんは、特に被爆者の「空白の10年」について究明し語り継ぐことを課題としてこられました。

また、同じ被爆者である切明千枝子さんの被爆体験をまとめる活動を続けてこられ、冊子「切明千枝子 ヒロシマに生き抜いて」3冊の発行に尽力されました。

清水さんが県被団協の役員になられて以来、特に親しくしてきました。

昨年の原水禁大会では、直前になって無理にお願いをして分科会での被爆証言を行っていただきました。ありがとうございました。

二月ほど前、紙屋町方面でばったり出会ったのが、お会いした最後になりました。その時は、お元気な姿だったのですが、パートナーの話によると、その後急速に体調を崩され、帰らぬ人となられてしまいました。

清水さんは、今年10月に開かれる「世界核被害者フォーラム」で、証言を行うことになっていましたが、それもかなわぬこととなりました。

被爆80年、訴え続けてきた核兵器の廃絶の実現を見ることなく、また大切な被爆者のお一人とのお別れになりました。

思いを引き継ぎ、がんばらなければと誓ったお別れでした。

いのちとうとし

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2025年7月 3日 (木)

第44回反核平和の火リレーがスタート

1982年に始まって今年で44回目となる「反核平和の火リレー」の出発式が、昨日午前7時55分から平和公園・原爆慰霊碑前で行われました。

出発式は、「反核平和の火リレー」の主催者である広島県青年女性平和友好祭実行委員会の笠松丈人事務局長の司会で始まり、献花、原爆犠牲者への黙祷、そして坂井心哉自治労県本部青年部長の手で「平和の灯」からの採火が行なわれ、原爆慰霊碑前で待つ実行委員長で第1奏者の辻大輝さんの持つトートに点火されました。

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その後、激励のあいさつ。広島県原爆被害者団体協議会からは熊田哲治事務局長、広島県平和運動センターからは高橋克浩議長、広島県原水禁は私が、あいさつを行い、社民党広島県本部福山権二事務局長、新社会党広島県本部三木郁子委員長が紹介されました。

さらに、松井一實広島市長からのメッセージが紹介されました。

激励のあいさつが終わると、いよいよ反核平和の火リレーの出発です。

第一走者の一人、辻大輝実行委員長が、「広島の青年女性が『語り継ごう、走り継ごう、ヒロシマのこころを』のスローガンをもとに、被爆体験や反核平和運動の継承者として、被爆の実相、ヒロシマのこころを大切に、県内を走り継ぎます」と決意を表明。

そして、80年前の原爆投下時間と同じ8時15分に、坂井心哉自治労県本部青年部長など6名のランナーとともに、参加者の大きな拍手に見送られて原爆慰霊碑前をスタートしました。

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今年は、今月22日までの土日祝日を除く14日間、県内23全市町548区間602.2キロを走り継ぐことになっています。通過する各自治体では、「被爆者援護法を国会補償法に改正させる」ことや「日本政府に核兵器禁止条約を批准させる」ことなどを求めての働きを強めることを求める要請を行うことにしています。

昨年は、豪雨被害などにより区間を451に、距離を484.3キロに短縮せざるを得ませんでしたが、今年は、ぜひ完走してほしいと思います。

また連日30度を超える暑さが続いていますので、体調に気をつけた走り継ぎ、22日の夕刻に無事到着式が迎えられるよう祈っています。

出発式が終わり、帰途につくとき資料館の地球平和監視時計を見ると、広島への原爆投下からに日数は「29185」になっていました。

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「平和の灯」は、核兵器が廃絶されたとき消されることになっていますが、その日を迎えたとき、この日数は何日になっているだろうかと、と思いつつ平和公園を後にしました。

いのちとうとし

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2025年7月 2日 (水)

「あー」

「島根方言集成」で最初に登場することばは「あー」です。意味、わかりますか。

出雲弁がよくわかっていると思っていた、私にもすぐには、意味が思い浮かびません。

「島根方言集成」には次のように書かれています。

あー ①ある。②会う。出雲」

確かに、と納得です。私が使っていたのはこんなふうです。

「そこにあーがね」とは、「そこにあるよ」という意味で、よく言っていたように思います。「あーに行くけんね」とも言っていました。これは②の「会いに行くから」と言うことを伝えるために使っていたことばです。

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「島根方言集成」を手にする川上正夫君(山陰中央新報より)

 川上君は、2007年頃から「土地ごとに、消えることなく生きてきた言葉がある。方言は『暮らしの言葉、言葉の民衆芸術』と、方言が失われない」ことを願って準備を進めてきたそうです。

私が、「出雲蕎麦ふなつ」で、この本を紹介されたとき、一番に引いたことばは「はしま」です。

小学生だったころのわが家は、農家が15軒ほどが集まる集落(周囲は全て田んぼ)の離れ家を間借りして住んでいました。農繁期と言われる田植えの頃、秋の米の取り入れの頃には、友達と一緒に手伝いというか農作業中に近くで遊んでいて、「はしま」を一緒に食べさせていただいたことを思い出します。

午後の農作業では、午後3時頃になると短い時間ですが、持参した大きなヤカンの番茶?を飲みながら、重箱いっぱいに入ったむすびや漬物や簡単な煮染めなど食べ、雑談をして休憩をします。

その時休憩しながら食べること「はしま」と呼んでいました。麦ご飯を食べていた私には、白米のむすびが食べられることは、忘れることのできない思い出です。

ですから、「はしま」ということばが載っているか、気になったのです。もちろんありました。次のように説明されています。

「昼食と夕食との間食。出雲。大田市。邑智郡美郷町・川本町・邑南町。江津市・浜田市。」

出雲だけのことばかと思っていましたが、石見地方でも使われていたようです。後で川上君に尋ねると「主に石見で使われていた」と教えてくれました。

書くのが遅くなりました、「島根方言集成」は、出雲地方の方言だけでなく、島根県全域、つまり出雲地方、石見地方、そして隠岐地方で使われていることばを集成していますので、訳の後に必ず、どの地域で使われていたことばかが、きちんと書かれています。

これは大変な作業だったはずです。よくぞまとめたものと、わらためて感心します。

私には、もう一つ気になることばあります。

「ばんじまして」です。このことばを読んで、どんなイメージが浮かびますか。

「ばんじました」は、外での農作業を終え、日が落ちうす暗い時期に頃帰宅途中ですれ違った人たちが交わすあいさつの言葉です。

私の記憶どおり、昼間の「こんにちは」と暗くなってからの「今晩は」との中間的に時間帯で夕闇がせまる頃から暗くなるまでのごく限られた時間帯で使われたことばです。広島には、こんな時間帯で使われるあいさつことばがあるのでしょうか。

こんな微妙な時間帯を使い分ける言葉を持っているのが出雲の人たちです。なんとも言えない思いのこもったことばだと忘れるいことの出来ない懐かしいことばです。

「島根方言集成」を手にして、懐かしい出雲のことばを思い出しながら、小さかった頃の遊び回っていた懐かしい頃を思い出しています。

いのちとうとし

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2025年7月 1日 (火)

「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」

今日は、6月17日の松江に帰りました。: 新・ヒロシマの心を世界にで少し触れた島根の出版社ワンラインが5月30日の発行した「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」の紹介です。

出版を通して出雲の文化的魅力を発進し続けてきた友人の川上正夫君が、久方ぶりに出版したのが「島根方言集成」です。地方で出版活動を続けるのは本当に難しいことです。一度は会社を閉鎖したと聞いていましたので、先日「出雲蕎麦ふなつ」でこの本を紹介されたときには、「エッ、まだがんばっているんだ」とびっくりしました。

しかも、自著(これまでに何冊か発刊していますが)として総頁数946頁にも及ぶ大作(辞書であれば、当然のページ数かも知れませんが)ですのでなおさらです。

収録された方言を紹介する前に、「ふなつ」で手渡されたフリーペーパーをもとに、この本の全体像を簡単に紹介します。

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見出し語は、20717語収録されています。そのことばは、方言によって索引するのは当然のことですが、この方言集成がユニークなのは、標準語から方言を探すことが出来るようになっていることです。

方言本文が755頁、標準語索引が149頁です。

このフリーペーパーには、小泉八雲の孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんの推薦のことばがありますので、それを紹介します。

「同書には、自然を畏怖し人や動植物を愛する島根の人々が、古来、語り継いだ言語芸術が満載です。柳田圀男いわく『語源の詮索は本源にこそ必要』で、方言を知ることは自分や日本を知ることだ。八雲一家も、セツを筆頭に、書生さん、お手伝いさんの多くが島根県東部出身で、もちろん家庭内の共通語は出雲弁。セツが語った明治の出雲ことばもきっと本書に収録されているはず。川上さんが心血を注いだ労作を、多くの方が手に取っていただきと願っています。」

私もその通りだと思っています。その地方で育まれた文化、風土を伝えているのが、方言だと言えます。ですから、私は今も、こよなく出雲弁を愛しています。

ところで「島根方言集成」を手にしたとき、私の頭の最初に浮かんだのは、NHK朝ドラの今年後期に予定されている「ばけばけ」です。

この朝来らのモデルこそ、小泉凡さん推薦文に登場する松江藩の没落士族の娘で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻となった小泉セツです。

川上君は、長い間準備してようやく出版にこぎ着けたのですから、まさか出雲弁が登場する朝ドラがこの出版と合わせるように放映されることになるとは、当然想像もしていなかったことと思いますが、天の助けのような朝ドラ「ばけばけ」の放映です。

さて肝心の方言の紹介です。この本を手にしたとき、まず浮かんだのが二つの方言ですが、そのことは明日紹介することにします。

いのちとうとし

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