「広島ブログ」

2025年9月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 「沖縄の慰安所と米軍の性暴力」のパネル展  | トップページ | 電通遺族会―その2 »

2025年5月13日 (火)

電通遺族会

原爆被害者の最初の国会請願行動が行なわれたのは、1956年3月20日です。その時の様子は、3月21日の中国新聞3面「ドキュメントヒロシマ被爆80年 1956年3月20日」で、詳しく紹介されています。

255131

記事では、「原爆被害者たち約40人が、東京駅に着いた」ことが紹介されています。私の手元には、「国会請願代表者名簿」と表書きされた7枚の名簿があります。もちろんコピーですが、参加者一人一人の名前が自筆で記載されています。この名簿については、以前に紹介したことがありますので、詳細は省略します。中国新聞では、「約40名」となっていますが、名簿に記載された名前は大人41人、子ども1人の合計42人です。

それによると、今日取上げる「電通遺族会」の参加者は、小松キクエさん、桑原文子さん、佐々木節吾さん、二川久夫さん、大國フサエさんの計5名で、一つの組織からの参加者としては一番多い参加になっています。

この名簿を最初に見た時から、「電通遺族会ってずいぶん早くに作られたな」という感想を持つと同時にいつ結成されたのだろうと興味を持っていました。

というのも、その名が示すとおり、電電公社と深い関わりがあり、私が所属していた全電通の中で、よく聞く名前だったからです。

しかし、なかなか関連する資料を見つけることができず、少しあきらめていましたが、このブログでも何回か登場した「藤居平一関係資料」を調べていた時、その中に貴重な資料を目にしました。

その資料は、今月2日のブログ電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介した「全電通新聞」のすぐ後に綴られていました。資料のタイトルは、「部内原爆犠牲者遺族との懇談会」です。

255132

これは、全電通労働組合が主催し、 遺族9人を招いて開催された懇談会の記録です。サブタイトルに「10年を迎えたが ―涙とともに語る遺族-」が付けられ、全部で23頁あります。

全電通の田村さん(役職はわからない)の司会で懇談会が始まりますが、遺族の最初の発言は、後に会長となられる小松キクエさんです。

255133

小松さんの名前は、ずっと「キクエ」さんだと思っていたのですが、この名簿では「キク枝」となっています。小松さんの名前の後に、当時47歳「広島電報局勤務(故)小松時枝(19)母」と記されています。

ここで寄り道をします。それは、小松時枝さんの所属が、ここでは広島電報局となっているからです。私が以前聞いていた話しでは、「娘さんは、電話局で被爆された」と聞いていたからです。この「懇談会録」の中でも、小松キクエさんは「電話局に探しに行った」ことを証言されています。

気になりますので、これも以前の紹介したことのある「中国電気通信局編 廣島原爆誌」を開いて、小松時枝さんの名前が探しました。この「廣島原爆誌」は、懇談会が開かれて同じ年1955年8月6日に発行されています。「懇談会録」では広島電報局となっていますが、「廣島原爆誌」では「広島電信局」の名前になっています。「電信局」の死没者の中には、小松姓の名前が一人おられますが、「時枝」さんではありませんし、年齢も16歳です。小松キクエさんの娘さんでは無いと思われますので、「広島中央電話局」の「死亡者名簿」を探しました。「時枝」さんではありませんが「登岐枝」さんの名前があります。官職は「事務員」、年齢は「20」、罹災場所は「局内」、死亡日は「8.6」、死亡場所「局内」、死亡状況は「バルコニーに集合中、被爆死亡」と記載されています。「なぜバルコニーか」については、「当日の出勤状況」の中に「宿明者約50名は中のバルコニーに集合して退庁あいさつをしていた」という記述があります。

この記述を裏付ける話しを小松キクエさんが、懇談会で話しておられます。その内容を紹介したいのですが、ここまでで少し長くなりましたので、つづきは明日にします。

なかなか「電通遺族会」の結成の話しにたどりつけないのですが、気になる話しですので、このまま続けさせてください。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« 「沖縄の慰安所と米軍の性暴力」のパネル展  | トップページ | 電通遺族会―その2 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

#平和推進」カテゴリの記事

被爆者」カテゴリの記事

コメント

 小松キクエさんからは、大事にされました。記憶では吉島辺りに住んでおられたと思いますが。
 「電通遺族会の小松です」と語られた声というか音が今でもリアルに残っています。先日の写真といえ、過去の思い出に感動するのは、私自身が年齢を重ねたからでしょうかね。
 溜まっている資料を整理していたら、、森滝市郎さんのことを書いたぼくの文章も見つかりました。そして原水禁本部におられた坂本くにあきさんの書かれた「原水禁ニュース」もありました。「一本化された二法の問題点」というタイトルで連載されていました。

木原さん
コメントありがとうございます。
いつか、電通遺族会のこと、小松さんのことを書こうと思っていました。
過去から学ぶことは多いですからね。
電通遺族会の話し、後2から3回、書くつもりです。
いろいろとご意見をください。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「沖縄の慰安所と米軍の性暴力」のパネル展  | トップページ | 電通遺族会―その2 »