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2025年5月 3日 (土)

電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑―その2

「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」は、爆心地から540メートルに位置していた広島中央電話局など電信電話関係機関の職員を慰霊するために建立されました。

現在の慰霊碑です。

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最初に建てられた場所と比べると狭くなり、後ろの壁面にあった句碑が前方にでるなど、配置がずいぶんと変わっています。

中央にきのこ雲をかたどった碑には、動員学徒を含む電信電話職員の犠牲者名簿が納められています。

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1955年の建立時には、573名の名前が収められたそうですが、その後どうなっているのかは調べていません。

右側の石版には昨日紹介した追憶のことばが刻まれています。左側にこの碑の由来が刻まれた石版が建っています。

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「昭和二十年八月六日午前八時十五分 晴れわたった空に 閃光一閃一瞬のうちに 広島は廃墟と化して しまいました 当時 広島では 緊迫した情勢の中で約二千名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたが そのうち六百名近くの人たちがとうとい命をうしなわれ 平和のいしずえとなられました この慰霊碑は原爆十周年にあたる昭和三十年八月 亡くなられた方々への 心からの追悼と みたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって 建てたものです」

最初の建立時からそうなのですが、この地は被爆時は西練兵場ですので、電電関連の建物の被爆地ではありませんが、当時この場所には、電電公社の中心的建物群が建っていましたので、この場所に設置されました。

ところで、よく見ると向かって右側の植え込みの中に2本の石柱が立っています。周りの樹木が大きく育ち、見え難くなっていますが、気になりますので近づいて何が書かれているか覗いてみました。

奥の一本の片面には、「『通信女たちの追憶』出版記念」もう一面には「平和祈念植樹」と刻まれ、裏面には「1986年9月××日」と刻まれています。本の出版を記念して建てられたものです。

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私は、この本のことは知りませんでしたので、調べてみると全電通婦人常任委員会(当時は、女性ではなく「婦人」となっていた)が、通信部門に携わっていた女性たちの戦争体験をまとめて出版したものです。

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当時全電通の婦人常任委員会が、反戦・平和運動を熱心に取り組んでいたことが思い出されます。

手前の石柱には、さらに興味深い文字が刻まれていました。

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「全電通被爆者支援基金一億円達成」と刻まれています。

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植え込みの中まで入り込めないのですが、木をかき分けなんとか読み取ると、右側の面には「全電通被爆協会長山岸××」、左側の面には「昭和六十一年八月六日建立」と刻まれています。

これは、全電通が、1964年から全国で取り組んでいた「被爆者支援1円カンパ」の総額が、1億円となったことを記念して建立したものです。「山岸××」は、後に連合初代会長となる山岸章(あきら)さんです。よく見えなかったので×を二つ書きましたが、「章」の一文字だったようです。山岸さんは、1982年に全電通委員長になっていますので、昭和61(1986)年もまだ委員長でした。

でもここに刻まれている肩書きは「全電通被爆協会長」となっていますので、山岸さんは、被爆者だったのですか?と疑問がわくと思います。

「全電通原爆被爆者協議会」は、1973年に結成されたのですが、結成時から会長には、被爆者ではなく当時の全電通中央執行委員長が、就任してきました。

当時の全電通の「被爆者支援1円カンパ」について、被爆26周年原水禁世界大会報告集 分科会報告の中に「全電通の代表から報告が行われた。全電通の青婦部では1円カンパを毎年行っており、年間のカンパ額100万円のうち、原水禁に50万、全電通内の被爆協に50万を配分している。」の記述があります。被爆26周年は、1971年です。年間のカンパ額が100万円なら1億円に達するまでには、100年かかることになりますが、当時は大幅賃上げの時代でしたので、カンパ額も年々大きくなったのでしょう。

私の職場でも、紙で作ったカンパ箱が机の上にあったことを思い出します。

この文章を書きながら気付いたのですが、二本の石柱とも同じ年に、全電通が建てているのですが、「『通信女たちの追憶』出版記念」の碑は、西暦で表記され、「全電通被爆者支援基金一億円達成」の碑は、和暦が表記されています。ちょっと不思議な思いながら、写真を見ています。私が、電電公社を退職したのは、1981年3月です。

電電公社関連の慰霊碑は、この碑だけでなくあと二つあります。

一つは以前紹介したと思いますが、被爆時広島中央電話局があったNTT袋町ビルの「広島中電話局鎮魂の碑」です。もう一つは、かつて私が働いていたNTT DATA比治山ビル前庭にある「電電搬送通信部関係職員慰霊碑」です。この碑については、いつか紹介していと思います。

いのちとうとし

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