「広島ブログ」

2025年9月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2025年4月 | トップページ | 2025年6月 »

2025年5月

2025年5月31日 (土)

2025年5月のブルーベリー農園その4

すっかり初夏。それでも暑い日ちょっと寒い日が入り混じっていて農作業の服装も細かく調整しないといけない。そして植物全般が葉を広げ新梢が出てきて田んぼの早苗と水の鏡の場所以外に覆われてきて日々の変化が気ぜわしい。忙しいのは農園の周囲に住んでいるキジで今は繁殖期なのでオス、メスの姿をよく見かける。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通っているが今もまだブルーベリーの剪定を続けているので今年も遅れ気味だが手入れすればそれだけ成果はあるので焦らず続けている

526日(月) ブルーベリーの剪定の場所が里山の西側に移った。小高い場所なので下の田んぼや集落が見える。この場所の草刈りも数回に分けて行う

255311

3段あるブルーベリー畑の一番上の畑を見回り。道路の向こうにオスがいた。その彼にメスが羽ばたきながら道路を横切り走り寄った。上の茂みにもう1羽のメスがいるのに・・。

255312

529日(木) 畑仕事を少し

①ソラマメの初収穫。育てた場所は里山に行く手前の小さい畑。夕食で湯がいて頂いた

255313

②これまで放置していた場所に予備の防草シートを敷いて、植える場所にバーナで穴をあけて里芋、ひまわり、コスモスを植えた。シートの押さえにもう使わない稲木(はぜ)をリユースした。雑草は押さえられるか

255314

季節がどんどん動く。里山のエビネも花がしぼんだ。この後花軸を引っこ抜いてやらないといけない。引っこ抜くと葉が一気に大きくなる

255315

春先のバラの剪定が遅れたので今頃元気な蕾が出て花が咲きだした。名前はクイーンエリザベス(農園の花壇で)

255316

里山の西側の農園で剪定と草刈りを行っている

①黄色い花はハナニガナ(多分・・)

255317

②アザミ

255318

③緑肥のヘアリーベッチはつる性なのでブルーベリーの木につかまりながら上を目指して花を咲かせる。ここは撮影の後草刈りした

255319

下の谷あいの向こうの3区画の田んぼで終盤の田植えの準備か、水が張られている

2553110

早生のブルーベリーの実が順調に大きくなっている。今年は昨年よりたくさん実っている

2553111

2025531

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月30日 (金)

ポツダム「ヒロシマ・ナ ガサキ広場」で平和学習の場に

被爆80年、そして昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞で、ヨーロッパでも核問題への関心が高まっているようです。

日本被団協の代表理事で、広島県被団協の理事でもある田中聰司さんもフランス南東部のグルノーブル市長からの招待を受け、フランスを訪れ、被爆体験の証言を含めた講演活動を行われたようです。そのフランスでの活動の様子は、同行された前田耕一郎前県被団協事務局長にこのブログで紹介してもらうことになっていますので、ご期待ください。

ところで、いつも情報交換をしているドイツの福本まさおさんからも次のようなメールが届きました。

「今年原爆投下80年ではポツダムの学校といろいろやれそうなんですが、先日その学校の先生とお会いしてきました。7月に学校で日本のことを紹介する2日間のイベントがあり、その時に原爆投下についてもというスタンスです。小生が最初に30分話して、生徒さんたちとディスカッションします。その時に先生からは、広場を学校の生徒たちで手入れしたいという申し入れがありました。教育的にもとてもいいことであり、ありがたいことなのでお願いすることで進めます。

カトリック系の小学校から高校までの私立統合学校です。広場から歩いて15分くらいのところにあります。」

25530

広場のすぐ近くの学校のようですので、こうした活動を通じて、「ヒロシマ・ナ ガサキ広場」に興味を持ち、広島や長崎のことを少しでも学ぶ機会になればと思います。

メールには、つづきがあります。

「なお記念碑の碑文が結構傷んできているので、今石屋さんにみてもらって直すことで進めています。まあ15年も経ったので仕方ないですが。ただ石屋さんからは、よくここまで持ちましたねといわれています。」

255301

真ん中の男性が、碑の建設に尽力された被爆者の外林秀人さん

確か碑文が刻まれた石は、御影石だったように記憶していますので、傷むことなど想像していませんでしたが、どんな傷みか気になります。

記念碑が出来て今年の7月でちょうど15年となります。屋外に雨ざらしになっていますし、冬の寒さは、調べてみると、「 ポツダム における 1 年の最も寒い月は 1で、平均最低気温は -1°C、最高気温は 3°C 」ということですので、やはり痛みが出てくるのでしょうか。

子どもたちの手入れ、石屋さんによる修復で、公園と記念碑がいつまでも大切にされることを祈っています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月29日 (木)

名前が特定された原爆犠牲者は何人?-原爆被爆者動態調査

原爆被爆者動態調査は、1982年に厚生労働省(当時は厚生省)が、広島市と長崎市に依頼して始まった調査です。

その時の出された通達には、「調査の目的」として次のように記載しています。

「この調査は、広島・長崎に投下された原子爆弾の投下時から今日までの被爆者の状況等を調査し、原爆による人的被害の実態を明らかにするものであり、これによって、昭和五六年度までに未調査、未解明となっている区域について、併せて被爆者世帯の被害状況等を明らかにすることを目的とする。(特に、昭和五七年度からは原爆死没者について、各種資料を照合、調整し、その実態を明らかにするための調査を重点に行う。)

この目的で、私が重視するのは、最後に( )で記されている「原爆死没者の実態を明らかにするための調査を重点的に行う」という点です。

昨日のブログで書きましたが、「広島の原爆による1945年末までの犠牲者は、約14万人」と極めてアバウトの数字で表現されています。

そのことを埋めるために行われているのが原爆被爆者動態調査です。この調査によって、原爆犠牲者のここの名前を明らかにしようということです。

当初の通達では、調査期間は「昭和57年度から昭和59年度までの3年間」となっていましたが、現在も継続して調査が続けられています。

これ以前に広島市は、1979年にとして実施していたようです。

原爆動態調査は、広島市が独自に調査(現在は原医研(広島大学原爆放射線医科学研究所)に委託)を開始した1979年から81年を第1期(当時の名称は、「原爆被爆者被災調査」)とし、現在は、2013年から始まった第8期の途中です。

犠牲者一人一人の名前を特定する作業は、様々な資料を集積させ、進めていく地道な作業です。

25529  

その地道な動態調査作業によって名前が特定された犠牲者は、2019年3月末の8万9025人が現在明らかになっている人数だと私は、ごく最近まで思っていました。というのも、この間何度か広島市に問い合わせたのですが、新しい調査結果を教えてもらうことがなかったからです。

ところが、昨日のブログを書くため、「2019年3月末の8万9025人」が最新の数字だということを確認するため電話で問い合わせたところ「2025年3月末で、8万9153人」という答えが返ってきました。調査が進んだことは、嬉しいことなのですが、ごく最近の問い合わせでも聞くことの出来なかった数字でしたので、びっくりしました。

さらに「2024年度は?」と問うと、「8万9125人」という返答です。被爆後79年となるこの一年間でも、28人の新たな名前が明らかになっています。

ここ数年は、毎年更新されていたようです。

ところでこの調査によって明らかになったことは、氏名だけではありません。8月6日当日に亡くなった犠牲者数、その年の12月末までに亡くなった犠牲者数の内訳も明らかになっています。

ちなみに、2025年3月末までに明らかになった8万9153人の内訳は、8月6日当日の死亡者は、5万4404人、翌7日から12月末までの死亡者は、3万4749人です。

なぜ、前回教えていただけなかったのか、疑問が残りますが、大事なことは、この調査結果が、問い合わせなければ、知ることが出来ないということです。

そこで広島市に「せっかく貴重な調査結果が出ているのに、調査期間が終わったとき出される被爆者動態調査報告書までの期間、調査結果が報告されることはないと思いますので、毎年発行される『原爆被爆者対策事業概要』で、年度末までの調査結果を掲載できないか」と要請しました。回答は、「今年7月に発行するものは、すでに校正段階に入っているので、難しいが、来年以降、掲載できるのか、出来るとしたらどのような内容にすればよいのか、検討してみたいと思います」でした。

この8期は、いつまでと期間が決まっていないようですので、余計に年度ごとの報告をした方がよいと思います。広島市の前向きな方向性に期待し、待ちたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月28日 (水)

沖縄「平和の礎」と原爆犠牲者

沖縄は、間もなく組織的戦闘の終結した日、80年目の6月23日を迎えます。その日は、沖縄県では「慰霊の日」と定められ、県民の休日となり様々な慰霊行事が行われます。

「慰霊の日」沖縄平和公園にある「平和の礎」の前で、犠牲者を追悼する人々の姿を報道で見ます。その「平和の礎」に、今年新たに死没者342人の名を刻んだ刻銘板が一昨日(26日)に設置されたと報道されました。これで刻銘者総数は、27万2567人になりました。

27日朝のNHKニュースでは、342人の人数だけでその内訳は報道されませんでしたが、80年経って新たに刻まれた犠牲者は、どんな人達だろうと気になります。

その朝届いた中国新聞は、「米軍の攻撃で1945年4月に沈没した戦艦大和の乗組員が多く含まれている」と報道しています。

「そうか、戦艦大和の乗組員なんだ」と思いながら、「多く含まれている」という表現が気になりますので、沖縄のマスコミ報道を検索してみました。

沖縄タイムスには、作業中の写真ありましたが、私が知りたい内容は記述されていません。

Photo_20250527093301

次に琉球新報は、検索してみました。

「今年の追加は県内出身者16人、県外325人、米国人1人。県内16人のうち9人は013歳の子どもだった。終戦後の約1年間に戦争が原因で死亡した人も対象になると遺族が知り、申し込んだケースもある。県外の大半は戦艦大和の乗組員など海軍関係者が占める。」

さらに「刻銘碑は平和の広場を中心に屏風状に配置され、平和の波が世界に広がるようにとの願いが込められている。 新しい刻銘板は県内分が1枚、県外分が3枚、国外分が1枚の計5枚で、それぞれの地域の一番外側にある刻銘碑に据え付けられた。」ことが記述されています。

平和の礎が、1995年に設置されてから30年経った今も、沖縄県内出身の犠牲者名が、16人も明らかとなったことにちょっと驚きを感じますが、犠牲者をハッキリさせようとするつよい姿勢を感じます。

このニュースを聞き、読んで思い浮かぶのは、広島の原爆犠牲者のことです。

1976年に広島市が国連に提出した要請書では、犠牲者数は、「14万人±1万」としていますが、現在の広島市のホームページは「原爆投下後に様々な機関が調査を行っていますが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。本市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。」と、±1万人という数はなくなり、「約14万人」となっています。

では、この約14万人の犠牲者のうち何人の名前が明らかになっているかです。

広島市は、1979年から「原爆被爆者被災調査」(現「被爆者動態調査」)を開始し、現在も継続して調査を進めていますが、今年3月末までに明らかになったのは、8万9153人です。

2019年3月の人数が8万9025人でしたので、困難な作業の中でわずかとはいえ明らかになりました。

しかし、今だ名前が明らかになっていない犠牲者が、約5万人もいるのです。その空白が少しでも埋まることを望んでいます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月27日 (火)

ある日の平和公園

散歩の途中、よく平和公園を訪れますが、ときには、いつもと違う景色に出合うことがあります。

今日は、原爆供養塔でのことです。

すぐ横に車が一台止まっていました。原爆供養塔の周辺の草刈りかなと思ったのですが、少し違うようです。

原爆供養塔の北側のある入り口のところから、大きなホースのようなものがでています。

作業員に「何をされているのですか?」と尋ねると、「供養塔の下の、納骨室の床を塗り替えています。」との返答です。

納骨室入り口の扉が開いているのをみたことがありませんので、近くに寄ってみました。

255271

床を塗り替えた後、乾燥させるために空気を送り込んでいるように見えます。暗くてよく見えないのですが、中は空っぽになっているようです。「中に納められていた骨壺は、どうなっていますか」。「私たちは、床の塗り替え作業をするためにここに来ていますのでわかりませんが、今、この中にはありません。」

作業員の人にこれ以上詳しい話しを聞くのは、難しいようですで、広島市に聞くことにし、この場所を後にしました。

帰宅後、平和公園は、「緑政課が管理しているはず」と、緑政課に電話をかけて問い合わせると、「原爆供養塔の管理は私のところではありません。原爆対策部の調査課です」と教えられましたので、市役所を訪れ直接聞くことにしました。

わかったことはこうです。「被爆80年を迎え、納骨室の棚や床、壁などを整備するための作業をしています。遺骨は、現在ある葬儀屋さんに依頼し、別の場所で保管しています。

天気しだいですので、いつ作業が終わるかわかりませんが、終わり次第遺骨を戻すことにしています。全てが終わった時点で、マスコミに公開する予定です。」

そういえば思い出したことがあります。今月の31日に鹿児島県の姶良伊佐ブロック平和運動センターの広島訪問で平和公園などを案内することを引き受けていましたので、その資料づくりの作業中に見つけた新聞の切り抜きです。

255272

右側に書かれた解説文の日付が、2015年7月になっていますので、10年前にも納骨室の整備と合せてマスコミに公開されたことがわかります。

市民への公開は予定されていないようですので、「遺骨が戻る日が決まったら教えてください」とお願いして帰りました。

別の日には、木原さんがこのブログ「さすが広島だ」と思われたい: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介した、修学旅行生が、原爆犠牲者慰霊碑の前一杯になって記念写真を撮る様子を見ました。

257272

引率の先生に「どこの学校ですか。生徒は何人ですか」と尋ねると「大阪から来ました。158人です」とのこと。「クラスは、5クラスですね」というと「そうです」。私も小学校の修学旅行で広島に来たことを思い出しながら、「私が小学生のときは、150人ほどで3クラスだったんですよ。私たちもここで写真を撮りました」と話すと「エッ、一クラス50人ですよね、そんな人数想像できません」

時の流れを感じながら、この場を後にしました。

平和公園での出来事です。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月26日 (月)

HANWA総会と小出裕章記念講演会

核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)第2回総会が、24日午後1時から平和ビル5階会議室で開催されました。私も会員として出席しました。

総会は、昨年5月の総会以降の活動報告と情勢報告、活動方針が提案され、全体の拍手で承認されました。

255261

2025年の活動方針では、11項目の活動課題が提起されました。その中でも特に10月5日、6日に核の無い世界のためのマンハッタン・プロジェクトと共催で開催する「広島・長崎被爆80周年核被害者フォーラム」成功に向けての方針が具体的に提起されました。その成功のために、次のようなプレ企画が、実施されることが紹介されました。

6月29日 クラウドファンディング・キックオフ集会

7月26日 吉永小百合チャリティー朗読会

8月6日  「8.6広島国際対話集会―反核の夕べ」

その他にも、「広島市の平和行政の変質」に対する取り組みを強めることが提案されました。

総会は、新役員体制を承認し、足立修一共同代表の閉会あいさつで終了し、記念講演に移りました。

今回の記念講演は、小出裕章さんの「原子力平和利用の嘘」と題しての1時間半の講演でした。

原子力研究に携わってきた小出さんは、「原子力の平和利用」に疑問を持ち、1970年から「原発廃止のための活動に力を入れた」ことを紹介しながら、原発がいかに大量の死の灰を作るかなど、広島の投下された原爆と比較しながら、分かり易く解説。

その後、アメリカの原爆製造(マンハッタン計画)の課程と「平和利用」と言われる原発の燃料製造過程が同じ道を進むことを紹介、「核―軍事利用、原子力ー平和利用」とあたかも違うもののように思い込まされている現状を指摘しました。

興味を引かれたのは「Nuclear Development」が、「イランや朝鮮民主主義人民共和国がやるときは核開発、『文明国』である日本がやるときは原子力開発』と使い分けている指摘です。

255262

さらに「原子力平和利用」といいながら、日本は着々と原爆材料・プルトニウムを手に入れ、すでにその量が長崎原爆3500発分をこえており「日本は、実質的な核保有国になった」とその危険性を指摘しました。

最後に、「原子力の平和利用ならいいということであれば間違いであると思う」とし「反核運動と反原発運動」が連帯することの重要性を提起しました。

まとめで強調されたことがつよく共感できる内容でしたので、パワーポイントをそのまま紹介します。

「為すべきは 戦争のない世界を作ること 

戦争とは。人と人とがお互いに憎しみあって殺し合うこと、自分に家族がいて、恋人がいたりするように、敵という人にも同じように家族や恋人がいる。戦争をしてはいけない。そのことを徹底的に子どもたちの教えるべきだ。

今、パレスチナではイスラエルがガザの住民を虐殺している。

日本国憲法には、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とある。それならパレスチナの人々の安全と生存を守るために、その憲法を持つ日本は働くべきだ。

本当に必要なことは戦争そのものを無くすことで、自民党政権の政策とは正反対に、軍隊(自衛隊)を廃止し、軍事同盟(日米安保体制)を廃止し、武器を作る企業を禁止することである。」

何度か、小出さんの講演を聴きましたが、原発問題のとどまらず、日本国憲法を引用し「戦争のない世界」にまで踏み込んだ内容は初めて聞いたような気がします。

つよく印象に残る記念講演でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月25日 (日)

「さすが広島だ」と思われたい

5月、新学期がスタートして1か月が過ぎ、平和公園にも修学旅行生が戻ってきました。そして碑めぐりガイドの用事も、次々と入ってきています。

新学期最初の修学旅行生は滋賀県近江八幡市の中学生でした。久しぶりだったので改めて資料をチェックしましたが、やっぱり最初の言葉は、「よう来たね。みんなが来るのを待っていたよ」と笑顔で話すことにしました。

今年は大阪万博開催の関係で、広島は少ないのかなとも思っていましたが、今のところそんな感じは無さそうです。まあー大阪と広島は近いから、広島に来て、そして京都や大阪に寄るというコースで、両方行くというのもありでしょうね。

平和公園を訪れる人、昨年は外国人4割、修学旅行生4割、日本人2割と思っていましたが、今年は外国人5割、修学旅行生3割、残りの2割ぐらいが日本人一般観光客という感じでしょうか。日本人の大人にとって広島の魅力が少なくなったのでしょうか少し寂しくはなります。

25525

最近の修学旅行生は、ぼくも宿泊したことのないような。高級ホテルや宿に泊まるようです。大部屋に10人以上が泊まって『マクラ投げ』という定番は、昭和の物語りですね。宿泊料金も高額になり、さぞかし保護者の負担も多くなると思えば、広島での時間を有意義で、且つ楽しく過ごしてもらいたいと思うと碑めぐりガイドも頑張らねばという気持ちが強まります。

そのためか社会見学という形で、日帰りの形で平和公園を訪れる学校が増えているようにも思います。特に岡山県の中学校は熱心で、その傾向は、この10年以上から続いていますね。逆に、広島県内の学校は少ないですね。広島に住んでいると、平和公園は「新鮮味」がないのかも知れませんが、文部科学省からの「是正指導」という話しも聞いたことがありますが、そういう現場にいた経験が無いので何とも言えません。

碑めぐりガイドは、広島に住んでいる大人にも行うことがあるのですが、大人から「広島に長い間住んでいるけど、初めて知った」という人が多いのには驚きでもあります。

修学旅行生らが広島に来るにあたって学校で作った千羽鶴、その量は1年間で約1千万羽、重さは約10トンという話しを聞いたことがあります。その千羽鶴は再生紙になって市内にある公立の小・中学校の卒業証書の用紙になっていると話すと、「さすが広島だ」という感じでうなずき、関心した表情を見せてくれます。

その時には、改めて広島からの発信メッセージの大切さを感じます。決して大それたことでなくても、「さすが広島だ」という気持ちを修学旅行生たちに伝わったと受け止めた時、ジーンと思うのは毎回のことです。

ノーベル平和賞の受賞で頂いた賞金、全国の小中学校に中沢啓治さんの「はだしのゲン」を贈呈するというのは如何でしょうか。「さすが広島だ」という声が返ってくると思うのですが。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月24日 (土)

三原地区の5月の「19日行動)」

戦争をさせない三原市民行動は、5月19日(月)1730分から三原駅前において定例「19日行動」を実施しました。

街頭では15人が「沖縄をふたたび戦場にさせない!」、「自民党政権に終止符を!」などのプラカードを掲げてスタンディング。マイクを持った5人の弁士は、石破内閣の農林水産大臣や自民党参議院議員の国民を愚弄し、侵略戦争の歴史を歪曲化する発言に対して怒りを発していきました。

255241

▲政平市議会議員は、「自民党の江藤農林大臣の発言は、米価高騰で苦しむ国民の生活について一切考慮に入れない発言である。戦争が起きるのもこういう発言が積み重ねられて市民の生活・安全・人権が無視される。まさに同じ構図である。石破内閣は末期的な症状であるが残念ながらそれを助ける政党もある。今の我が国は戦争に反対する政党は少ない。私たちは、戦争はダメなんだということをはっきりと明確に訴える市民活動を行っている」。 

▲寺田市議会議員は、「53日、78回目の『憲法記念日』でした。改めて憲法とはなんぞやということを憲法集会に参加して学習を深めてきた。憲法9条を掲げて戦後80年、日本は自衛隊員一人も犠牲者を出さずに今日まできた。米国トランプ大統領が就任して世界の国々は戦々恐々である。私たちは憲法9条のもとで世界から紛争や戦争をなくしていく。日本は世界のリーダーとして発揮すべきですが、アメリカ追従の日本の無様な姿勢が問われている。7月の参議院選挙は日本の大きな変わり目になる。気を引き締めて憲法を変えない、憲法を暮らしに活かす社会にしていきましょう」。 

255242

▲M町の中西さんは、「515日、沖縄は日本に復帰して53年になりました。沖縄県民の願いは基地のない平和で豊かな沖縄でした。悲惨な地上戦を経験し、戦争が終わっても27年もアメリカの統治の下におかれていた。基地のない平和な島は沖縄県民の切実な願いでありました。しかし沖縄は、今も米軍基地の7割が押し付けられている異常な状態が続いている。さらに米兵による犯罪の横行や沖縄・南西諸島へのミサイル配備など自衛隊の増強がされている。こうした県民の不安に油を注ぐ自民党西田参議院議員の『ひめゆりの塔』の展示内容の歴史の書き換え発言は、許しがたい問題である。沖縄県民の戦いに連帯して軍備拡大の動きにストップをかけるために頑張っていきましょう」。 

255243

 沖縄平和行進に参加した藤本さんが写したひめゆりの塔です。

▲M町の岡﨑さんは、今年はいろんな点から憲法や戦争について振り返る年だと思っている。最近、当時の社会党石橋委員長の時に訴えられた『非武装中立論』について考えさせられた。非武装中立論の考え方は、憲法の状態は今、違憲状態である。しかし自衛隊は、国会で憲法で定められている手続きによって法律として成立している。今、私たちがやるべきことは非武装中立論をちゃんと運動の柱に立てて、具体的にどう取り組んでいくのか。自公改憲派の土俵に乗せられている運動にしかならないのではないかと平和活動家が厳しく言われていた。専守防衛は今、吹き飛んでいる。専守防衛の言葉の中からも改憲は土俵に乗せられた言葉ではないでしょうか」。 

▲最後に戦争をさせない三原市民行動共同代表H町の冨中さんから、「教育の中でも戦争のできる国へと変えていこうとする動きが強まっている。今日まで80年、平和を守ってきた。平和な日本を私たちの子どもや孫たちに手渡していくために頑張って、憲法改悪、戦争できる国へと進める勢力と民主主義を守るために頑張っていく責任がある。今後も街頭で訴えて皆さんと一緒に平和を願う、平和な三原市を守っていきましょう」と訴えて街頭行動を終了しました。

藤本講治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月23日 (金)

2025年5月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー農園でブルーベリーの栽培をしている。今はまだ済んでいないブルーベリーの剪定を続けているが、晩春だが日中の気温は25度を超す日が多くなった。そう、初夏の到来でホトトギスの鳴き声があたりにこだましている。鶯も谷渡りの鳴きをみせて冬のじゃっじゃっのそっけない声からの成長ぶりがうかがえる。畑ののり面や里山の草刈りにいそしむ時期でもある。刈り払い機での草刈りはきついので一日のうちで1時間くらいにとどめて体第一の作業メニューを進めている。

514日(水) 里山東側の斜面で育てているブルーベリーの剪定が続く

255231

515日(木) ブルーベリー畑のクローバーの花にしがみついて蜜を吸うテントウムシ

255232

517日(土) 農園の家の前の花壇のジャーマンアイリスが咲く季節になった

255233

ブルーベリー畑ではポツンとヤグルマソウが咲いている

255234

その近くのブルーベリーの株元にドイツアヤメが咲いている。昨秋、球根を昨秋植えたがちゃんと花が咲いた。5月から6月はハナショウブも含めアイリス系の植物が咲く時期

255235

518日(日) 里山西側のブルーベリー園の草刈りを始める。

255236

519日(月) 枝の先にもほぼ全部花をつけていてまるで大蛇のしっぽのようにもみえてしまう満開のオオタニウツギ

255237

4月後半から咲きだしたクリムソンクローバーの花穂はだんだん伸びて、そしてだんだん色が黒っぽい赤に変わっていく。

255238

それからしばらくたつと下から上へと訪花昆虫によって花が落ち、結実して種をつけていく。

255239

里山の西側で育てている早生のブルーベリーの実はもう大豆位の大きさになっている。今年の初収穫は6月中~下旬あたり? その前に防鳥ネットを設置しないといけない

2552310

2025523

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月22日 (木)

府中の5月の「19日行動」 

安保法制に反対する府中市民の会は、5月の「19日行動」をいつものように2カ所で、19日の午後3時30分から上下Aコープ前、午後5時から府中天満屋店前で行いました。参加者はどちらも9名でした。ところで天満屋店前はいつも学生服の店の駐車場を利用させてもらっています。

始める前にご挨拶に行きますがいつも「どうぞ、どうぞ」と言ってくださいます。亡くなられた森上肇市議会議員の親戚の方で、リレートークが始まると外に出てきて聞いてくださいます。感謝するばかりです。

255211255212

さて、肝心なリレートークですが原稿にしてきている方が多く、準備万端、「これは言わんといけん」と言うことがはっきりしているのでしょう。19日行動への熱意を感じます。

トークの内容は①消費税の廃止問題、②自民党西田昌司参議院議員の『ひめゆりの塔』発言への抗議、③昨日尾道市で上映された「蟻の兵隊」の感想、④基礎年金引上げなしの年金改革法案の問題点などでした。国民の関心が高い消費税廃止問題と西田議員の「歴史の書き換え」発言を中心に報告します。

Aさん 消費税がなぜ問題なのかは明らかです。金持ちにやさしく、貧乏人につらい税金だからです。儲けている人からとり、貧乏人に配るのが税制であり、国の仕事であり政治です。消費税は公正という課税の原則に反しています。

いまの日本は貧富の格差が拡大しています。富裕層はますます繁栄するのに貧困層そこから逃れられない。それどころか子どもまで貧困が連鎖する世の中だということはみなさん実感するところではないですか。格差の拡大、貧困層の固定化は消費税と無縁ではありません。今こそ廃止に向けて頑張るときです。

「消費税減税はありがたいけれど財源はどうするんだ」と思われるでしょう。思い出してください。消費税導入と同時に法人税が引き下げられたことを。政府は「消費税は福祉に使われている」といっていますが、お金に色がついていない以上、消費税導入時に法人税が引き下げられたのですから法人税の引き下げ財源が消費税だったことは明らかです。引き下げ財源を消費税では問題視され、法人税では問題にもされなかったんです。その引き下げられた法人税の税率をもとに戻せば財源問題は解決です。消費税が導入されたのは1989年、平成元年41日です。その時の大企業の法人税の税率は40%でした。それが今や23.2%です。実に16.8%の引き下げ、バーゲンセール。それをもとに戻せば財源問題は解決します。あるいは引き下げられた税率によって大企業には現在600兆円を超える内部留保金があります。その内部留保金に、たったの1%の税金を掛けるだけで6兆円の税収が入ってきます。2023年、令和5年の国の決算では消費税収入は23兆円です。単純に言えば消費税1%の税額は2兆円です。内部留保金に2%の税金を掛ければ消費税5%の引き下げは可能です。財源を理由に惑わされないようにしましょう。

大企業は抵抗するでしょう。だから有権者の力が必要です。7月の参議院選挙で大企業から裏金をもらっている自民党の議員を落としましょう。そうすれば私たちの暮らしは良くなります。暮らしをよくする政治を実現しましょう。その延長線上に安保法制を廃止し、武力で紛争を解決しないという理念、平和を実現できると私は信じております。皆様のご理解とご協力をお願いする次第です。私からのアピールはこれで終わり次の人にバトンを渡します。

Bさん 自民党の西田昌司参議院議員が沖縄であった自民党の講演会で「ひめゆりの塔」の展示内容が「ひどい」と非難した上で、「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり学徒隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて沖縄が解放されたという文脈で書いてある。歴史を書き換えるとこうなる。」と批判したものです。

西田議員の「ひめゆりの塔」の展示内容に関する発言は事実無根です。ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳(ふてんま・ちょうけい)館長は「西田議員が言及した記述は現在も過去もありません。発言は、後世に絶対戦争を起こさせないために伝えようとした方々の気持ちを否定し冒とくするものです。」と抗議されています。

255213

太平洋戦争の沖縄決戦は本土決戦を遅らせるため沖縄が「捨て石」になったものであり、凄惨な地上戦で沖縄県民4人に1人、20万人が犠牲となったものです。西田昌司議員の「ひめゆりの塔」の展示を「歴史の書き換え」という発言は、血がにじむような思いで証言し、資料館を造った生存者の思いを受け止めていません。西田昌司議員の意図は戦勝国が一方的に敗戦国を裁くという東京裁判の歴史観と戦後教育を否定するものと思いますが、沖縄の自民党県連さえも「認識錯誤も甚だしい」と撤回を求めています。こうしたデマを許してはなりません。

小川敏男

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月21日 (水)

戦後80年 沖縄平和行進

2025年5月15日(木)、沖縄が日本復帰して53年を迎えました。

「戦後80年 基地のない沖縄を 平和な日本を 戦争のない世界を」基本スローガンに、5月16日(金)から18日(日)3日間、「515沖縄平和行進」に広島参加団19人で基地のない沖縄・戦争のない平和な世界に向けて参加しました。

初日の16日(金)は、復帰53年第48回2025515平和行進全国結団式が那覇文化芸術劇場なはーとで全国から800人の参加で開催され、実行委員会の多和田栄子共同代表から「復帰後も米軍基地があるがゆえに事件・事故が後を絶たず、沖縄がおかれている不条理を実感して全国に発信、そして各地に持ち帰り現状を訴え共に取り組んでいただきたい」とあいさつされました。

255211_20250520175001

続いて、嘉手納基地コースと普天間基地コースの平和行進団に、団長・本渡代表にタスキ授与と決意表明を行い、妨害行為に対しても毅然とし、基地のない沖縄・平和な日本・戦争のない世界の確立に向け行進することを確認しました。

5月17日(土)は、広島参加団19人は嘉手納基地コースに全員が参加しました。読谷村役場を出発した行進団は、朝から天候もよく日差しの強い沖縄の道を「基地のない平和な沖縄をつくろう」「戦争放棄の憲法9条を守ろう」「米兵の犯罪は許さない」などシュプレヒコールを行いながら行進しました。

255212_20250520175001

町役場出口でヘイトスピーチによる妨害を受けながらも毅然と行進を続け、午前中5,6㎞を行進し嘉手納町民広場で昼食・休憩を行いました。休憩を取る町民広場内に行進団以外の人が入りヘイトスピーチを繰り返し機動隊ともめる一幕もありました。

255213_20250520175001

午後からは、日差しも強くなり気温も上がり道路の照り返しも強い中参加団は6.9㎞の道のりを県民大会会場のAgreスタジアム北谷なで度重なる右翼団体からのヘイトスピーチによる妨害を受けながらも毅然と行進を続けました。

Agreスタジアム北谷に到着後、引き続いて「515平和とくらしを守る県民大会」が開催され、主催者を代表して実行委員会の外間ひろみ共同代表より「米兵による暴行事件が起こり、米軍基地の人権侵害など女性や子ども、住民が守られない安全保障とは何なのだろうか?そして、西田参議院議員による『歴史の書き換え』発言や中谷防衛相の『辞世の句』発言など看過できない。皇民化教育により国民が悲惨な戦争に巻き込まれた。戦争をしない覚悟は私たちの責任だ。平和憲法の理念に基づく外交を通して東アジアの軍事的緊張の緩和を求めていきましょう」とあいさつされました。

255214

また、連帯すフォーラム平和・人権・環境の染裕之共同代表は「復帰から53年経過したが、沖縄はいまだに基地の島であり日米地位協定により米軍の特権が温存され米軍関係者による性犯罪が多発している。歴史修正主義の政治家による暴言。けっして沖縄だけの問題ではない。沖縄の闘いは基本的人権の尊重、反戦平和など日本が抱える様々な問題と繋がっている。民主主義を蹂躙する蛮行を許すわけにはいかない。共に闘いましょう」と連帯のあいさつに続いて、来賓として玉城デ二―沖縄県知事より「復帰から53年経った現在も広大な米軍基地の存在が沖縄振興の障害となり県民生活に様々な影響を及ぼしている。今年は戦後80年の節目の年、平和で豊かな沖縄を実現させるため平和を考える機会を創出したい。東アジアを再び戦場にしないなど、沖縄戦で得た教訓を正しく次世代に伝え平和を希求していく。うちなーの肝心を世界に発信し共有することを一緒に呼び掛けていきましょう」とあいさつされました。

また、多くの来賓や国会議員・県議会議員など地方議員など駆けつけられ大会を盛り上げていただきました。

そして、嘉手納基地コース(1,200人)・普天間基地コース(750人)より、行進団報告を受け、最後に「いまだ沖縄は変わらぬ基地の島であり、むしろ一層強化され南西諸島は米軍と自衛隊の軍事要塞化へと変貌している。基地問題や米軍による性犯罪が後を絶たないなど、日本国憲法より日米地位協定が優越され県民の基本的人権が蹂躙されている現状を決して看過できない。私たちは、平和と暮らしを守るため多くの市民の力を結集し、基地のない沖縄・平和な日本・戦争のない世界をめざしましょう」と大会宣言を参加者全員で誓い2日間の日程を終えました。

3日目の18日(日)は、広島参加団で、沖縄平和祈念資料館・糸数アブチラガマ・ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館・ひろしまの塔・魂魄の塔を平和学習しました。

右翼団体によるヘイトスピーチによる妨害もありましたが、暑い中行進を続けていると道路わきから、車の中から「頑張って」「ご苦労さん」と手を振ってくれる多くの沖縄県民のみなさんに勇気と元気、そして平和に対する熱い思いをいただきました。

高橋克浩

【編集者】沖縄平和行進の報告を広島県平和運動センター議長の高橋克浩さんにかいていただきました。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月20日 (火)

ベトナムの歴史(その39) ― ベトナム Now Ⅻ―

歴史的な節目 ベトナム「南部解放50周年」

 本シリーズ、45月と2ヶ月の間、お届けできませんでした。

一世紀にも及ぶ抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)。1954年のフランス敗退後、換わって侵攻してきたアメリカ軍との20年にわたるベトナム戦争が終結したのはサイゴンが解放された1975年4月30日です。この4月30日は、「ベトナム南部解放記念日」として、ベトナムの人々にとって非常に重要な日です。翌年1976年7月に南北が統一、国名をベトナム民主共和国からベトナム社会主義共和国に改称します。この新しいベトナムの歴史の始まりが1975年4月30日なのです。

ベトナムは今年、その歴史的な「南部解放50周年」を迎えました。また1945年8月15日の日本敗戦後の9月2日、ホー・チ・ミンの独立宣言でベトナム民主共和国が建国されて80周年でもあります。ベトナムでは一年間にわたって、様々な記念行事が計画され、私が会長を務めている一般社団法人広島ベトナム平和友好協会も「パネル展」や「講座」、記念訪問団の派遣などを予定しています。

 盛大に催された「4.30記念日」行事

私は「南部解放30周年」と「40周年」には記念日(式典出席)に訪問しました。今年は2月にカンボジアとベトナムを訪問したことや、10月末から11月初旬にかけて「南部解放50周年記念訪問」を予定していることから訪問しませんでした。

下の写真は1995年の「南部解放30周年」の訪問時、花火や祝賀行事に湧くホーチミンのストリートで若者たちと撮ったものです。

255201

今年の意義深い記念行事は盛大に催され、「VietJo」や「VIETNAM.VN」、「VOV5」などベトナムのメディアだけでなく、「Newsweek」など多くの国々で報道されました。

255202

「VietJo」 2025年4月27日

255203

「Newsweek」(2025年5月2日)

255204

「Newsweek」(2025年5月2日)

255205

「VIETNAM.VN」(2025年5月2日

前号まで幾度かベトナム戦争後に起きたベトナムとカンボジアの戦争、中越戦争について紹介しました。そして、〔なぜベトナムはインドシナ解放抗仏戦争やベトナム戦争をともに戦い、支援したカンボジアや中国と戦争になったのか。また日本はどのように関わっていたのか〕についてお届けすることを約束していました。遅くなりましたが、次号でこの辺りのことを紹介します。

2025年5月20日(あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月19日 (月)

金沢に行きました。

原水爆禁止石川県民会議の2025年度総会が、5月15日に金沢市で開催されました。第2部の「記念講演」に講師として招待され、「被爆80年 核と人類は共存できない」のタイトルで約1時間の講演を行いました。

25519

久しぶりの金沢訪問でしたので、翌日は市内見学をしました。前回金沢を訪れたのは、何年のことだったか定かでありませんが、近藤幸四郎さん、宮崎安男さんなどと一緒に観光目的で、観音にあった広島空港から小松空港まで飛行機で行きました。広島―小松線は、1991年に開通していますので、それ以降ということになりますが、いずれにしても約30年ぶりということになると思います。当時のことを思い出しながら、金沢城、兼六公園、長町武家屋敷跡界隈をめぐりました。

観光案内ではありませんので、その詳細は省略しますが、いくつか気になったことを紹介します。

一つは、昨年1月の能登半島地震の影響が、金沢城にも残っていることです。その痕跡は、石垣の崩れです。私が入ったのは、北西にある鼠多門口です。その近くの石垣にシートが被さっています。

255191

近くにいたボランティアガイドに聞くと「この石垣は、明治以降石積みの専門でない陸軍の軍人が石垣を築いたので、崩壊しています。石も小さいですし、奥行きも短い石垣ですので、崩れたようです。」との説明です。築城当時に作られた石垣も崩れてはいませんが、石が少し前に突き出す「孕み出し」という現象の被害が何カ所かにでています。そこは、これ以上の崩壊を防ぐためでしょうネットで覆われていました。

255192

崩壊したほとんどのカ所は、陸軍が築いたところだったようです。

この金沢城跡も、広島城跡がそうであったように、明治以降陸軍の駐屯地になったのです。

別の場所でも陸軍が作った石垣で同じように崩落している場所がありました。

255193

この石垣の上には、本丸があったようですが、その石垣に奇妙なトンネルのようなものが見えます。周囲の構造からいって、明治以降に掘られたものだと想像できます。たまたま通った市の職員?と思われる方に聞きました。「そうです、陸軍が弾薬庫を作るために掘ったトンネルです。よく見ていただくとわかるように、トンネルの左右だけ小さな石で石垣が作られています。ですから、右側が崩落してしまい、シートをかぶせています」。

このトンネルは、有名な五十軒長屋の中を見学した後に見つけました。写真の左手奥です。

255194

陸軍の施設跡は残っていないかと探すと、「旧第六旅団司令部」の建物がそのまま残っていました。

255195

軍の施設だったことがわかるものは無いかと探したのですが、なかなか見つかりません。近づいて、建物下部のレンガ積みに作られた空気穴と思われる場所をよく見ると、そこを塞いでいる鋳造された鉄枠に「星印」が刻まれているのを見つけることが出来ました。

255196

この星のマークは間違いなく陸軍の施設を示すものです。すぐに「それだ」と気付いたのは、広島市の上水道管にもこれと同じ星形のマークが刻まれたものがあり、それは陸軍が敷設したものだということを知っていたからです。

こんなことも見ながら、金沢城跡の見学を終え、隣の「兼六園」に入りました。「兼六園」でどうしても見たかったのは、昨年3月に被爆者の森に植栽された「ケンロクエンキクザクラ」を見たかったからです。

入り口で場所を尋ね、その場所に直行します。

255197

解説文には花の特徴を書いた後に次のように書かれています。

「昭和3年(1928)天然記念物に指定された初代兼六園菊桜は、昭和45年(1990)枯れ死した。」

ですからこの木は2代目ということになります。こうして増やされた木の1本が、「被爆者の森」に植栽されたのです。この木のように大きく育ってほしいと思います。

兼六公園には、桜の古木が沢山植わっていますが、「ケンロクエンキクザクラ」以外にも「兼六園」の名がつく桜があることを知りました。

2551971

名前は「兼六園熊谷」です。この木も、古木で大きな木でした。その中で、「ケンロクエンキクザクラ」が被爆者の森の「アスナロ」の後継木として選ばれたのは、天然記念物になっていたことと見事な花を咲かせることからかなと想像しながらこの場を後にしました。

駆け足のように兼六園を巡り、その後近藤さん、宮崎さんと一緒に歩いたことのある長町武家屋敷跡界隈に行きました。

255198

大きな敷地の家もあるな、と思いながら散策し、帰途につきました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月18日 (日)

電通遺族会―その5

「電通遺族会―その4」の最後に紹介した核実験抗議の座り込みは、フランスの核実験に抗議して1973年7月20日から始まりました。

その後も核保有国が、核実験を行う度に抗議の座り込みが行われました。1996年9月に成立したCTBT(包括的核実験禁止条約)を歓迎する座り込みがちょうど600回目となりました。

この座り込みの初期の頃、電通遺族会の小松キクエさん、原水爆禁止広島母の会升川貴志栄さん、皆実原爆被害者の会日詰忍さんの姿がいつもありました。

これから紹介する出来事が起こったのは、フランスの核実験に抗議して1973年8月27日に実施した座り込みでのことです。連続して座りこみを初めて5回目の座り込みです。

この座り込みに、初めてで、最後となったのですが、現職の広島市長が参加しました。その市長は、山田節男さんです。

255181

上の写真は、1984年に広島県原水禁が発行した「ヒロシマの記録―核実験抗議座りこみ10年」の表紙に使われたものです。前列一番左の背広姿の男性が山田節男市長です。その隣から右に日詰忍さん、升川貴志栄さん、そしてしっかりと顔が見えているのが小松キクエさんです。小松さんの向かって左後ろに近藤幸四郎さんの姿があります。

翌日の新聞は次の様に報道しました。

「連絡を受けた山田市長もかけつけ原爆慰霊碑に黙祷の後『度重なるヒロシマや国際諸国からの抗議の声の中、四回も実験を繰り返したことは、被爆者や人類に対する悪魔的挑戦だ』と抗議の声をあげ、そのまま最前列に座った。」(朝日新聞1973年8月28日)

これを読むと、山田市長は原爆慰霊碑に黙祷した後すぐに座りこんだことになります。

しかし、当時私も参加していましたので、その時のことを忘れるのことができないのですが、山田市長は、私たちが座りこむすぐ近くに立ち、座ろうかどうしようかと迷っていました。

その山田市長に「市長さん一緒に座りましょうや」と声をかけ、山田市長に座りこむよう促したのが、小松さん、升川さん、日詰さんの女性三人でした。

市長はどうするのだろうと眺めているだけだった男性陣だったのですが、この女性たちの誘いで、やっと山田市長は座り込みの最前列の女性陣のすぐ横に座りこんだのです。

女性はすごい、と思ったことを覚えています。

写真は、見にくいのですが、当時の雰囲気は伝わると思います。

小松キクエさんが座りこんだのは、この時だけではありません。それを証明しているのが、この写真です。

 

255182

「ヒロシマの記録―核実験抗議座りこみ10年」に使われ、キャプションに次のように書かれています。「小松キクエさんと今は亡き升川貴志栄さん(右端)升川さんは『座っていると石畳の下から子どもの声が聞こえる』と言い続けて座っておられた。」

小松さんも岸川さんも「核実験反対」のタスキを掛けておられます。「ヒロシマの記録―核実験抗議座りこみ10年」の記録をたどると、森滝市郎先生の肩にこのタスキが掛かるのは、1975年5月16日に行われた24回目からですので、この写真はそれ以降の座り込みということになります。

同じ写真は、広島県原水禁が2004年に発行した「原爆禁止運動50年の歩み」に掲載されていますので、広島県原水禁運動のとっても忘れることのできない人達だったのです。

升川さんの当時広島一中の一年生だった長男は、建物疎開の作業中に被爆死しています。当時のことを升川さんは、原水爆禁止広島母の会の会報「ひろしまの川1号」(昭和36(1961)年6月15日)に次のように書いておられます。

「当時広島一中の一年生だった長男を探しに中心部に出て行きました。私はまるで焦熱地獄もかくやと思われるばかりの、ものの燃える熱と照りつける太陽の炎熱に照射されて原爆の街をさがしましたが、ついに子供を見つけることは出来ませんでした。

私が子供を探して歩いた時着ていた防空服は今も原爆資料館の中でところどころ焼けこげたまま陳列されており、私の記名が入っております。

私は今でも子供のことを思って耐えられなくなると資料館に出かけていき、当時をまざまざ思い起こし原爆で焼かれた子供の苦しさを思い子供の名前をひそかに呼ぶのです。」

キャプションに書かれた思いが伝わると思います。

電通遺族会の話し、ずいぶん長くなってしまいましたが、今度こそ終わりです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月17日 (土)

電通遺族会―その4

なぜ電通遺族会ができたのかです。電通遺族会それ自身の資料を見たことがありませんので、他の資料から引用します。

広島県被爆者団体連絡会議の初代事務局長だった近藤幸四郎さんの歩みが書かれた書籍「被爆動員学徒の生きた時代―広島の被爆者運動」(小畑弘道著)に、こんな記述があります。少し長いのですが、引用します。

「彼の兄、欣次郎は広島電気通信工事局の機械課に所属していた。同課の業務は軍要請通信網の新規仮設及びこれの保守などであり、要員190名を擁する事業所であったが、応召のため働き盛りの社員が次々と職場から姿を消し、これらの補充として学徒などが当てられていた。職場は中央電話局であり、8月6日には電話局中庭でラジオ体操をしているとき被爆、即死したと当局の記録に残されている。『15歳、官職・工員』。遺骨や形見はなく、『近藤欣次郎、叙勲8等授白色桐葉賞、昭和20年8月6日 勲章局』の賞状が残されている中国電気通信局編「廣島原爆誌」)。」

小松キクエさんの娘さんと同じ電話局の場所は中庭とバルコニーの違いはありますが、被爆死したことがわかります。

ここからが重要です。「両親は長男だった兄の遺族年金を受け取れなかった。原爆の犠牲となった『雇用人』、つまり判任官でない人たちは、旧逓信共済組合法の規定により、死亡当時に扶養家族を有していなかった人には遺族年金が支給されなかったのである。これは、専売公社や国鉄など他の共済組合が生計を共にしていれば支給されていたのに比べれば著しく不利な規定であった。」

本の記述を見て思い出しました。「懇談録」にこんな頁があったことを。

25517

勲章局の上の日付は、「昭和20年9月1日」です。もちろん、写真ではなく、ガリ版で作られていますので、正確さには?が付きますが。下には、「仮の交付でありましたが、現在に至っても正規なものは発行されていません。この宝冠章とともに褒章があります。」と記述されています。

小畑さんの文中の「判任官」とは、戦前天皇の委任を受けた行政官庁の長が官職に任じた人達の官職で、それ以外「雇用人」または「雇人」は、地方採用の一般職員だったため遺族年金を受給することが出来なかったのです。

こうして差別され放置されたままの遺族たちが、補償を求めて結成したのが、「電通遺族会」なのです。

そのことについて、小松キクエさんは、「原子雲の下に生きつづけて」(第2集)で、次のように記述しています。

「そして死体の整理がつくまで、毎日線香をもって合掌しに行きました。娘はいつも、電話局で、もし死んでも立派な戦死になり、靖国神社に祭ってもらえるのだといっていました。

百日祭が局で行われたとき、叙勲八等宝授冠章をもらったのですが、今では犬死に同様の扱いを受けています。一億総進軍の旗印の下に、あらゆる強制に従事しながら、若い生命をふみにじられ現在にいたっています。軍人遺族会、学徒遺族会も出来ており、それなりの補償を受けていますが。私たちの電通遺族会は、26年を経っていまだに報われず、訴え続けているのが今日の有様です。一日も早く遺族が救われてこそ、真の平和と言えるでしょう。」

この電通遺族会の訴えや行動が何とかみのったのは、小松さんがこの手記を書かれた1971年の翌年1972年です。中国新聞の記事によると、その時には7~30万円の一時金が支給され、さらに1976年6月には、2回目となる特別一時金60万円が支給されることになりました。

電通遺族会は、補償金を求める運動だけでなく、核実験抗議座り込みなど、様々な反核運動にも参加します。小松キクエさんとは、私も一緒に座り込みに参加したことが何度もありますが、その時のエピソードもぜひ紹介したいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月16日 (金)

電通遺族会―その3

今日こそ、電通遺族会結成について、記述します。

電通遺族会結成の話しは、懇談会の最後のところで語られています。「遺族会結成へ」の見出しがついています。

最初の紹介するのを忘れていましたが、この懇談会は、昭和35(1960)年7月22日に開催されています。開催場所は、「電通会館」となっていますが、この場所がどこにあったかは不明です。

この日付が重要です。と言うのも、懇談会の最後部分では、その年の8月6日に除幕された「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」の除幕式の話しとなり、それを機会に電通遺族会を作ろうという話が出るからです。

そのあたりの発言を紹介します。

出席者の一人から「除幕される慰霊碑は、いつでもお参りすることができるか」という話しがでた後、司会の田村さんが「遺族会を作ろうということであるが、これはどうでしょうか」と話を振ります。さらに「原爆被害者の会で一寸聞いたが色々あるんです。被害者の会、子供を守る会、母親大会、私も一寸聞きましたが、それはどうしても遺族会を作ることがいい事じゃないかと言われます。けれども、8月6日のその時に電話局の遺族の方も、どうせ参拝されるでしょうから、私はいい考えではないかとおもうですが」と問いかけると、それに応えて遺族の一人である山口ハツノさんが「遺族の方が参列され、一旦式が終わりまして、少し時間をとっていただきまして、その時に経過報告をしていただきたいと思います。結成まで持って行きたいんです。」

25516

続いて小松キクエさんの発言です。「今までの例で見ますと、参拝者が非常に少ないんです。去年も牛田の安楽寺であったのですが、480名余り死んでおられるのに参拝者は余りおられないんです。今年は特に多いんじゃないかと思います。」

再び山口さんが発言します。「8月6日にね、結成大会まで持って行かれる様な。こう言うことの不慣れな者ばかりなんでそういうことがちょっとわからないんです。ぜひ結成まで持って行っていただきたいと思います。」

長い引用になりました。この懇談会録を読む限り、この場で「電通遺族会結成」の結論が出ていないように読み取れます。しかし、それは全電通が主催した懇談会だったからだと思います。この懇談会録から推測できることは、慰霊碑の除幕が行われた年、1955年8月6日に結成されたと結論づけてもよいと思います。仮に8月6日で無かったとしても、その日にごく近い日に結成されたはずです。

この懇談会からわずか2週間あまりでの結成で、余りにも期間が短すぎるようにも思いますが、山口さんの発言に「経過報告」ということばが出ていますので、以前から何か会を作ろうという話はあったことが想像でします。

「遺族会」が結成されていたからこそ、翌年3月の「国会請願行動」に5人もの参加者を送ることにつながったのです。

これで、「電通遺族会」の結成時期の問題は、ひとまず解決しました。被爆10年となる1955年は、第1回原水爆禁止世界大会の開催だけでなく、大きな動きがあったことがわかりました。

ところで、結成時期はなんとか突き止めたのですが、新たな疑問がでてきます。なぜ「電通遺族会」を作ろうということになったのかです。

他にも公務事業所、例えば郵便局、国鉄などがあったにもかかわらず、私が知るところでは、「遺族会」が組織されたのは、電通だけです。

次回は、その事情を調べてみたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月15日 (木)

2025年5月のブルーベリー農園その2

晩春とも初夏ともいっていい季節で513日の東広島市豊栄町のブルーベリー農園の日中の気温は26度にまで上がり初夏の暑さになったが、時折吹く風はとてもさわやか。寒いとあまり活動しないミツバチもブンブンと飛び交ってブルーベリーや地べたの野の花の蜜を吸ってくれるので受粉、結実が順調に進んでいる。昨年は安芸の郷へのブルーベリーの実の納品が前年に比べて4割も少なかったが、今年は例年並みに実りそうなのでブルーベリーの剪定作業に安芸区の自宅から通うのもちょっと軽やか。

512日(月) ブルーベリー畑の隣の休耕田には今年キジノムシロの花がたくさん咲いている

255151

咲いた花がずらっーと広がっている

255152  

513日(火) ブルーベリー畑の桜の木にぶら下げているペットボトルの捕獲機には3匹入っていた。気温が高くなってきてスズメバチの動きが活発になっている

255153

こちらは地べたに咲くクリムソンクローバーの花の蜜を吸うミツバチ

255154

510日(土) ブルーベリー畑では大きく鳴いた後羽を羽ばたかせるオスのキジがいる。いつも農作業中に見ているとこの一連の動作は定期的に行うのがわかってきた

255155

513日(火) もう一つの野鳥。里山の小高い丘のブルーベリー園からは田植えの終わったサギがじぃーと水面を見つめているのが見える

255156

512日(月) 満開のブルーベリーとミツバチの羽根音の中で里山のブルーベリー園の剪定を続ける。

255157

513日(火) マムシグサを探しにため池に行く。のり面に一株だけ咲いている

255158

エビネは同じ花色でたくさんで咲くと見栄えがする

255159

ブルーベリー畑ののり面に咲くオオタニウツギ

2551510

元気な枝にたくさん結実したブルーベリーの実

2551511

植えられた早苗はまだひっそりとしているが、のり面のキジムシロの黄色い花は元気

2551512

2025515.

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月14日 (水)

電通遺族会―その2

昨日のつづきです。

原爆で犠牲となった娘さんについての小松キクエさんの話しを記述します。少し読み難いカ所がありますが、なんとか記述します。

小松さんの話しには、次のような小見出しがあります。

「楽しいはずのハイキングが 死のハイキングへ 故小松ときえ19歳」

本文です。

「明けでした。(いのちとうとし注:宿泊勤務が終わった日のことを明けと呼んでいた)(略)5日の3時頃に家を出ました。そして翌日朝、朝礼で、何でもその日は友達とハイキングに行くと言うことで楽しみにしておりまして、私も用意しておったが空襲になってしまって私も町内の救護の役をしていたものですから、その方をしていたら原爆に遭った。それから結局帰らんようになりまして、その翌朝すぐ、たった一人の娘でしたので夫婦で電話局にかけつけましたが、まだ火がもうもうと燃えており、その時に死体を出されたけれども、その死体が二目と見られぬ・・・」

後さらにそのすさまじい様子が続きますが、読み難いカ所がありますし、ここまでで目的は達することができましたので、後は省略します。

目的は、「廣島原爆誌」の「死亡者名簿」にある小松「登岐枝」さんが、小松キクエさんの娘さんかどうかでした。小松「登岐枝」さんが、小松キクエさんの娘さんであることは、「宿泊勤務明け」であったことと小松キクエさん夫婦が「電話局に探しに行かれた」ことで、証明されていると思います。

しかし、こうして調べてみると一人の名前が、三つになっていることの気付きます。

「懇談会録」の出席者の名前は「小松時枝」となっており、おなじ「懇談録」の小見出しでは「小松ときえ」とひらがなになり、「廣島原爆誌」では「小松登岐枝」と3文字の名前になっています。

これを調べながら「懇談会録」も「廣島原爆誌」もいずれも被爆10年後に作られているにもかかわらず、これだけ名前が違って記述されるのだから、供養塔の遺骨探しが、もちろん時間がたったということもありますが、名前の特定し遺骨を遺族に渡すことが、どんなに難しい作業なのかことかを想像させられます。

さて、名前に関しての結論です。公的に近い資料ですので「廣島原爆誌」に記述された「小松登岐枝」さんで間違いないと思いますが、再確認のためもう一つ調べることにしました。

全電通広島被爆者連絡協議会が発行してきた被爆体験記です。

25514

全電通広島被爆者連絡協議会(1968年10月結成)は、1970(昭和45)年から1983(昭和58年)にかけて被爆体験記「原子雲の下に生きつづけて」を10集まで発行しています。その第2巻(1971年発刊)に、小松キクエさんが、電通遺族会会長の肩書きで、「親子の最後の日」の題で体験記を寄せています。当然のことですが、その中には娘さんのことが書かれており、名前も出てきます。

名前が出てくるカ所を引用します。

「親子三人、一人子の娘は18歳で中央電話局に勤めており、主人は安佐郡可部町にあった軍需工場に勤めておりました。

8月5日、娘の登岐枝は夜勤でした。6日には、4,5人の局の友たちと佐伯郡大野町の妹背の滝にハイキングに行く予定にしていましたので、娘は楽しみにしていろいろ準備をしておりました。」

もうこれ以上、小松キクエさんの娘さんの名前と勤務先のことで記述する必要はありません。名前は「登岐枝」さんで、勤務先は広島中央電話局です。

小松キクエさんの娘さんの名前の話しを調べているうちに今回も終わりになってしまいました。次回からは本当に「電通遺族会」結成の経緯に入りたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月13日 (火)

電通遺族会

原爆被害者の最初の国会請願行動が行なわれたのは、1956年3月20日です。その時の様子は、3月21日の中国新聞3面「ドキュメントヒロシマ被爆80年 1956年3月20日」で、詳しく紹介されています。

255131

記事では、「原爆被害者たち約40人が、東京駅に着いた」ことが紹介されています。私の手元には、「国会請願代表者名簿」と表書きされた7枚の名簿があります。もちろんコピーですが、参加者一人一人の名前が自筆で記載されています。この名簿については、以前に紹介したことがありますので、詳細は省略します。中国新聞では、「約40名」となっていますが、名簿に記載された名前は大人41人、子ども1人の合計42人です。

それによると、今日取上げる「電通遺族会」の参加者は、小松キクエさん、桑原文子さん、佐々木節吾さん、二川久夫さん、大國フサエさんの計5名で、一つの組織からの参加者としては一番多い参加になっています。

この名簿を最初に見た時から、「電通遺族会ってずいぶん早くに作られたな」という感想を持つと同時にいつ結成されたのだろうと興味を持っていました。

というのも、その名が示すとおり、電電公社と深い関わりがあり、私が所属していた全電通の中で、よく聞く名前だったからです。

しかし、なかなか関連する資料を見つけることができず、少しあきらめていましたが、このブログでも何回か登場した「藤居平一関係資料」を調べていた時、その中に貴重な資料を目にしました。

その資料は、今月2日のブログ電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介した「全電通新聞」のすぐ後に綴られていました。資料のタイトルは、「部内原爆犠牲者遺族との懇談会」です。

255132

これは、全電通労働組合が主催し、 遺族9人を招いて開催された懇談会の記録です。サブタイトルに「10年を迎えたが ―涙とともに語る遺族-」が付けられ、全部で23頁あります。

全電通の田村さん(役職はわからない)の司会で懇談会が始まりますが、遺族の最初の発言は、後に会長となられる小松キクエさんです。

255133

小松さんの名前は、ずっと「キクエ」さんだと思っていたのですが、この名簿では「キク枝」となっています。小松さんの名前の後に、当時47歳「広島電報局勤務(故)小松時枝(19)母」と記されています。

ここで寄り道をします。それは、小松時枝さんの所属が、ここでは広島電報局となっているからです。私が以前聞いていた話しでは、「娘さんは、電話局で被爆された」と聞いていたからです。この「懇談会録」の中でも、小松キクエさんは「電話局に探しに行った」ことを証言されています。

気になりますので、これも以前の紹介したことのある「中国電気通信局編 廣島原爆誌」を開いて、小松時枝さんの名前が探しました。この「廣島原爆誌」は、懇談会が開かれて同じ年1955年8月6日に発行されています。「懇談会録」では広島電報局となっていますが、「廣島原爆誌」では「広島電信局」の名前になっています。「電信局」の死没者の中には、小松姓の名前が一人おられますが、「時枝」さんではありませんし、年齢も16歳です。小松キクエさんの娘さんでは無いと思われますので、「広島中央電話局」の「死亡者名簿」を探しました。「時枝」さんではありませんが「登岐枝」さんの名前があります。官職は「事務員」、年齢は「20」、罹災場所は「局内」、死亡日は「8.6」、死亡場所「局内」、死亡状況は「バルコニーに集合中、被爆死亡」と記載されています。「なぜバルコニーか」については、「当日の出勤状況」の中に「宿明者約50名は中のバルコニーに集合して退庁あいさつをしていた」という記述があります。

この記述を裏付ける話しを小松キクエさんが、懇談会で話しておられます。その内容を紹介したいのですが、ここまでで少し長くなりましたので、つづきは明日にします。

なかなか「電通遺族会」の結成の話しにたどりつけないのですが、気になる話しですので、このまま続けさせてください。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月12日 (月)

「沖縄の慰安所と米軍の性暴力」のパネル展 

日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークが主催する「『沖縄の慰安所と米軍の性暴力』のパネル展」が、5月2日から15日までの会期で合人社ウエンディひとまちプラザ南棟1階ロビーで開催されています。

チラシやメールなどで何度も案内をいただいていましたので、昨日行ってきました。

太平洋戦争で唯一国内での地上戦の戦場となった沖縄には、今もなお、沖縄県民の声を無視して米軍基地が居座り続けています。

その沖縄で、戦前には「慰安所」が、そして戦後は居座り続ける米軍によって、様々な性被害が発生しています。

このパネル展は、その実態を明らかにしたものです。

255121

すぐに目に入るのは、「沖縄・慰安所マップ」です。一番上に「今日までの調査で、戦時中沖縄には、145ヶ所の慰安所があったことがわかっています。」と書かれ、マップの上部の説明文には「1944年3月に第32軍が創設されてから沖縄戦が始まるまでの一年間にのべ130ヶ所以上の慰安所が作られました。」と記述されています。日本軍と慰安所が密接な関係にあったことを教えてくれています。第32軍は、沖縄など先島諸島、奄美群島防備のために設置された部隊です。

次に気になったのは、「「沈黙の声―米軍の性暴力に抗して」のパネルです。3400㎜×1200㎜サイズというビッグサイズの掲示板いっぱいに、1945年の慶良間諸島への米軍上陸からの性暴力の数々が被害者の声が、楕円形の紙の一枚一枚に刻まれています。

会場では、遠景の写真のみ撮影可能となっていますので、個別の写真撮影は遠慮しましたが、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークの情報として岡原さんから届いた写真がありますので、ここで使用させていただきます。

255122255123

沖縄に駐留する米軍によってどれほど多くの性暴力事件が発生したのかを思い起こさせ、その一枚一枚に書き込まれた被害記述を通して被害者の痛みを感じます。

もう一枚、気になったパネルがあります。

そのパネルには、「沖縄戦の記憶をめぐる攻防」と書かれています。

ここには、「日本軍の加害の歴史を消そうとする動き」として「新平和祈念資料館の展示改ざん事件―『慰安婦問題も削除の対象に』」「教科書から消された『集団自決』の日本軍の強制」「第32軍壕の説明板から『住民虐殺』『慰安婦』を削除」の三つの事例を紹介しています。

私は、これを見ながら、最近起こった自民党の西田昌司参議院議員によるひめゆりの塔の展示説明の改ざん発言を思い出しました。西田議員は、展示説明を「歴史の書き換え」と発言し、その後発言の訂正、削除、撤回に追い込まれましたが、パネルの事例と同質なものを感じました。こうした歴史の歪曲は、西田参議院議員だけ問題ではありません。今回の展示は、そうしたことが繰り返し起こっていることを私たちに教えてくれています。

「沖縄の慰安所と米軍の性暴力」のパネル展は、そうしたことも教えてくれる展示会です。 

個別の写真が撮れませんので、これ以上は詳しく説明できませんので、直接見てほしいと思う展示会です。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月11日 (日)

ふくもとまさお著「『小さな平和』を求めて」

3月14日のブログふくもとまさお著「原発の町から普通の町に」: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したふくもとまさおさんから新著「『小さな平和』を求めて」が届きました。

この本のサブタイトルは「ポツダム・トルーマンハウスとヒロシマ・ナガサキ広場の記録」です。

255111

この本は最初電子書籍で発行されましたので、ふくもとさんは、電子書籍あとがきの冒頭で次のように書いています。

「この本は、ヒロシマ・ナガサキ広場の市民の活動を記録しながら、原爆投下に係わる戦中からポツダム会談、戦後の歴史について書いている。市民活動の記録ということから、出来るだけ中立に事実を伝えることに心掛けた。感傷的な表現も避けた。広場に記念碑を設置するには、被爆体験者の外林秀人さんと石刻家の藤原信さんの存在がなくてはならなかった。」

「ヒロシマ・ナガサキ広場」は、ドイツ・ポツダムに今も残るトルーマンハウス(ポツダム会談に参加したアメリカ合衆国大統領がトルーマンが滞在した邸宅)前の道を挟んで広がるといっても小さな広場に付けられた名前です。トルーマンは、この邸宅に滞在中に「原爆投下の最終指令を出した」といわれており、その史実を忘れないようにと市民運動が起こり、2005年12月ポツダム市議会が、この広場を「ヒロシマ広場」と命名することが決議されます。そして翌年6月15日から「ヒロシマ広場記念碑設置のための募金活動」が開始され、2010年7月25日に記念碑が完成し、除幕式が行われました。

そして、2012年1月12日に広場の名前は「ヒロシマ・ナガサキ広場」と改名されます。

まえがきに登場する外林秀人さんは、ドイツ在住の被爆者として「募金活動」のため、ドイツ各地で「原爆体験」を語ってこられました。この外林さんの証言活動が、「募金活動」の推進力にもなりました。外林さんは、広島の被爆者です。2011年には、ポツダム市の名誉市民となっています。

藤原信(まこと)さんもドイツ在住者で、公園に設置された記念碑の設計・工事者です。お二人とも今は亡き人ですが、私も親しくしてきたお二人ですので、この本を読みながら懐かしくその姿を思い起こしています。

ところで言い過ぎかも知れませんが、私もこの記念碑建立には、少しだけ重要な役割(と自分では思っています)を果たしました。

重要な役割と書きましたが、それが誇張でないことは、本書82頁から86頁に記述された「広島、長崎の被爆石を記念碑に入れる」の項に、詳しく記述されていますので、それを読んでいただければ理解していただけるものと思います。

255112

手前の碑文が刻まれ石板の右が広電の被爆敷石、左が長崎山王神社の被爆石。右後ろの建物がトルーマンハウス

ですから、2010年の除幕式、2015年の追悼式(いずれも7月25日)にも灯籠を持って参加しました。

この本は、「ヒロシマ・ナガサキ広場」の経緯を縦軸に、原爆開発に係わる歴史を横軸に、話が展開しますので、歴史を学ぶ書でもあります。特にふくもとさんが独自に調べた、戦中における日独原爆開発についての詳述は、これまで余り多く語られることのなかった歴史ですので、その意味でも貴重な書です。

ふくもとさんは、電子書籍(2021年2月)のあとがきを次の文章で締めくくっています。「この本によって、ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場の記録が残り、広場のことが日本でもたくさんの人に知っていただけたら幸いです。」

そして、その後に得た日独原爆開発協力に関しての情報を加え、紙の本を出すことを決意したとしています。

さらに「紙の本出版に寄せて」では、環境問題を取り組むふくもとさんらしい文章が登場します。

「問題は、電子書籍にした理由である紙のことだった。日本の出版界では依然として、環境問題を考えた紙が使用されていない。しかし、紙の本にするには、どうしても持続可能な森林管理を認証するFSCマーク付きの紙で出したい。元々は、この本を最初にFSCマーク紙で出版することを考えていた。そのため事前に、FSCジャパンにも問い合わせている。日本でもFSCマーク紙で出版できることがわかった。」

その出版社が、この本の出版社であるアケビ書房です。

その意味でも応援して欲しい本です。本の定価は、税込み2200円ですので、購入していただけると嬉しいです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月10日 (土)

4月30日、中国電力の決算発表と人事案が示されました

4月30日、中国電力の2024年度の決算が発表され、新たな人事案も示されました。

中国電力を誉めておきたいことが一つあります。それは社外取締役に岡島礼奈(おかじま・れな)さんを充てるとしたことです。岡島さんは鳥取県生まれの46歳、天文学の博士号を取得してから外資系金融機関ゴールドマン・サックス証券に入社し、その後世界初の「人工流れ星」の実現をめざす民間の宇宙スタートアップの会社「ALE(エール)を起業した人です。

25510

経産省ホームページより

私たちは長年に亘って、取締役に女性を登用することを求めてきました。中電の現状は、取締役13人中、女性は3人で、常務執行役員では9人全員、執行役員では27人全員が男性という男性偏重という状況です。女性なら誰でも良いとは思いませんが、この度の岡島さんが取締役に就任すれば、女性取締役が辛うじて30%以上になります。

世界では、多様性を重視し、女性役員の比率を上げる努力を推進しております。

比率を上げた企業は確実に成果をあげており、意思決定の場に男性が多く占める同質的組織では、経営の変化は見られないと思います。経営の新たな創造や成長を果たすには、豊富な経験や生活の視点を持つ女性の登用こそ必須だと考えています。

私たちは株主提案議案でも、長年に亘り島根原発反対運動の活動を続けている松江市に住む芦原康江さんと、再生可能エネルギー発電の研究・実践者である鳥取市に住む手塚智子さんを選任する議案を提出しました。

もう一つこの度の決算で。見落とせないことがあります。それは減収・減益となっていることです。中電はその言いわけを、電力事業の競争、物価上昇による材料費の増加、米国の関税措置などとしています。私は、「身のほど知らず」の原発運転計画だと思っています。島根原発2号機の再稼働により収支改善などがあったとは言ってますが、電力需要が減るなかでは儲けられないのは当然です。

来期25年度の予想見通しでも、この度よりも売り上げ利益とも、すべてにわたって減額としています。島根原発2号機が25年度にフル稼働しても「減」になり、株主への配当も減になるとされています。1株当たりの配当は23年度が35円、24年度は27円で、来年度は21円としてしています。

配当金の減額は、島根原発3号機の運転開始に向けた設備投資金などが必要だということも明らかになっています。なぜ、そこまでして3号機を動かす必要があるのか?株主も消費者も黙って見過ごすことは出来ないと思います。

そのためか4月30日の決算発表と同時に株価も大きく値下がりし、発表の時は840円台だった株価は740円台に低迷しています。忘れてはならないのは、福島原発事故以前は2000円台だったことです。

テレビなどで繰り返し放映されている中国電力の新たなブランドメッセージの、「一日も。百年も。」というもの、知っておられるとは思いますが、一方で「自分こと化・行動化」を促すメッセージとして「変わるか。消えるか。」というのもあります。このままでは「消えるか。」の予想の方が大きいようにも思います。

6月26日午前10時から中国電力本店で開催される株主総会に、私たちは株主配当を1株あたり90円とする株主提案議案を出しました。その提案の内容と理由について次のことを書きました。提案の理由は400字以内という厳しい制約があるために、範囲内で書くのはテクニックがいるのですが、読んでいただければと思います。

▼提案の内容

株主への年間配当金を1株当たり90円とする。配当は金銭により行い、配当金の総額は306億4、195万2、685円とし、配当の効力発生日は株主総会の翌日とする。

提案の理由

株主が会社に望むことは、株価の上昇であり配当金の増額です。そこで、配当金を1株当たり年間90円とします。

上関原発の建設計画が発表された当初、その建設費用は原発2基で約9,000億円とされました。現在では原発建設費用は、1基あたりで1兆円を超えるともいわれています。 

上関原発建設計画は、公けになって43年が経過していますが、計画は頓挫しており、その費用は無駄なものです。これまで上関原発に費やした費用は不明ですが、その額は9,000億円には達していません。上関原発建設計画を断念し、上関町に配置している職員を引き上げ、不動産を処理します。

島根原発3号機は現時点で運転中止を決断すれば、これ以上の費用は発生しません。また2号機からの使用済み核燃料も同原発内の核燃料貯蔵プールに保管し、これ以上の使用済み核燃料を発生させないことにしたら、上関町へ中間貯蔵施設を建設する必要はありません。  

約12万6千人の株主がこの議案に対して、どう反応するかが大注目です。この議案が可決されたら、一人の方限定でご馳走いたします。お楽しみに!!

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 9日 (金)

写真展「1945年8月6日より前の広島」余話

一昨日、実家の甥の通夜、葬儀の参加しようと広島バスセンターで松江行きのバスを待っていたところ、後ろから声をかける人がいました。振り返ると広島県被団協の箕牧智之理事長です。一便前の三次行きのバスに乗るため、急いでおられるところでした。

「今日は、何か会議があったのですか」と問うと「旧日銀広島支店に行ってきたのよ」との返事。さらに、「あそこに展示されている産業奨励館が写っている写真の中に、親父が映っていると聞いたので見に来たのよ」とのことでした。すでにバスが到着していましたので、箕牧さんは、すぐの車中の人となら、それ以上詳しいことをきくことができませんでした。

ちょうどその日のブログで紹介した写真展「1945年8月6日より前の広島」のことです。最終日の7日、急いで見に来られたようです。

私は箕牧さんのお父さんを知っているわけではありませんから、気付いているわけがありません。もう少し早く箕牧さんの話しを聞いていたらと悔やまれます。

箕牧さんとの出会いで、写真展「1945年8月6日より前の広島」余話を書くことにしました。

7日のブログでは、興味を持った写真として「吉川旅館」のことを書きましたが、実はもう一枚、気になっていた写真がありました。

25591

写真のタイトルは「行き交う路面電車」です。説明文には「紙屋町西交差点西の広島写真館あたりから南東方面を望む。交差点には軌道切り替え所と待合所があった。」と書かれています。

電車を行き交う賑わった様子が分かりますが、私が興味を持ったのは、写真右奥にある看板です。その部分を拡大します。

25592

看板の文字は、右から左へと「平和堂時計店」書かれています。そうです。店名に「平和」の文字が付いています。

戦後、広島には「平和」と名のついたお店がかなりあったように記憶しています。「平和電気」「平和食堂」などなど。広島に来た当時、「やはり広島は平和都市だからな」と思ったものです。

「平和」がつけられたのは、戦後という思いが強かったものですから、戦前の様子を映したこの写真に「平和堂時計店」と書かれた看板を見つけ、少し驚きました。戦前の広島の風景をよくよくみたわけではありません。きっと他にも「平和」と名のついたお店があったのだと思いますが、「平和」の名前のついた看板を見たのは、初めてでしたので、私にとっては意外に思え、印象に残る写真でした。

箕牧さんとの思いがけない出会で、やはりこのことを書いておこうと思いました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 8日 (木)

2025年5月のブルーベリー農園その1

東広島市豊栄町のブルーベリー農園の周辺はゴールデンウイークが田植えの時期で田んぼに水が張られ、田植えのすんだ所は早苗が水面から少しばかり顔を出したばかりの様子なので水面は青空や夕日を写してとても田んぼが溌溂としている。安芸区の自宅から車で通っているが農園の周辺道路も信号機で渋滞が起きるのが連休の特徴。農作業はもっぱらブルーベリーの剪定を続けている。

430日(水) ブルーベリーの剪定は畑がすんで里山に移行している。枝も切るが、根は四方八方に広がってヒコバエを生やすのでバールを使って根を起こして切っていく。切った場所から新しい根が出てくるので新陳代謝になる

 25581

54日(日) 里山でブルーベリーの剪定作業をしているので周辺の田んぼがよく見える。田植えが始まっている。

25582

春真っ盛りの中、元気な生き物、花とブルーベリーたちの様子

①マルハナバチ(53日)

25583

②オスのキジ(54日)

25584

③エビネ

25585

④フジ

25586  

⑤レンゲツツジ

25587

⑥ヤブツバキの赤とガマズミの白

25588

⑦ブルーベリーの花とクリムソンクローバーの花

25589

⑧ヘアリーベッチ

255810

⑨早生のブルーベリーの花と結実した実

255811

⑩同じく早生の新梢

255812

202558

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 7日 (水)

写真展「1945年8月6日より前の広島」

フラワーフェスティバルも終わり、街の様子も少し静かになった連休最終日の昨日、旧日銀広島支店で開催されている「写真展 1945年8月6日より前の広島」に行ってきました。

数日前、会場前を通った時、入り口に立てられた看板を見て気になっていました。

25571

写真展の最初に次のような解説文があります。

「本写真展は、2025年5月23日から公開映画の『惑星ラブソング』と連動した展示となります。映画『惑星ラブソング』では、劇中に広島の原爆投下より前の街並みを映す写真展がでてきます。本写真展はそれを再現し、劇中で使われた写真や、庭田杏珠さんの広島の昔の写真をカラー化した写真、広島市公文書館、中国新聞に寄与された貴重な写真なども追加して展示させていただきました。(以下略)」

間もなく公開上映される「惑星ラブソング」(映画「惑星ラブソング」オフィシャルサイト)の関連企画のようですので、スタートにはこんな写真が展示されていました。

25572

会場の左側には、1945年8月6日より前の広島の街の様子を映した写真が、そして右側には、庭田杏珠さんカラー化した写真がならんでいます。

25573

展示されている写真のかなりの枚数が、これまでにみたことのある写真ですが、初めてみる写真も何枚かあります。その中で気になった一枚です。

25574

被写体のメインは、川中に立つ子どもを抱いた少女と、川遊びをする子どもの姿だと思うのですが、私が興味を引かれたのは後ろの大きな建物です。「身近な川」のタイトルの下に次のような説明文が書かいてあります。

「デルタの各所に雁木があり、潮が引くと気軽に川に降りることができた。子どもたちにとって川は格好の遊び場だった。写真は元安川で、対岸は大手町の吉川旅館」

吉川旅館の名前を見た時、すぐ頭に浮かんだのはロックミュージシャン吉川晃司です。吉川家が営業を行う「吉川旅館」が、原爆投下1月前まで産業奨励館(現在の原爆ドーム)の対岸の旧中島地区の慈仙寺の鼻にあったという話しを以前に聞いたことがあったからです。

これ写真を見た時、その吉川旅館かなと思ったのですが、説明文には、「大手町」と書かれていますので、この写真に写っている「吉川旅館」は、別の同名の旅館のようですが、「本当にそうかな」と少しだけ疑問が残ります。

そんなことを思いながら見ていくと、いろいろと興味をそそられる写真がならんでいます。

会場には、全部で49枚の写真が展示されています。そのうち34枚は、当時写したままの写真、15枚は、庭田杏珠さんカラー化した写真です。

会期は、残念ながら今日までです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 6日 (火)

瑠璃光寺の五重塔とSLやまぐち号

連休の中日、4日と5日、妻の実家の山口に行ってきました。

今年の山口帰りでは、どうしても写真に撮りたいものが二つありました。瑠璃光寺の五重塔とSLやまぐち号です。

瑠璃光寺の五重塔は、一昨年2月から約70年ぶりの檜皮葺屋根の全面葺き替え工事が始まっていましたので、昨年5月に訪れた時には、シートで覆われており、そのシートに描かれたシルエットしか見ることができませんでした。

今年2月からシートの撤去作業が始まり、連休前の26日には、工事用の足場なども撤去され、屋根の葺き替えが終わった五重塔が姿を現しました。最近のニュースでその様子が報道されていましたので、期待をして見に行きました。

花盛りとなったサツキの向こうに屋根の葺き替えが終わったばかりの五重塔が見えます。

25561  

池の方に近づくと、大勢の観光客の姿があります。その間からスマホを構え、写真を撮ります。

25562

池の真ん中ほどを悠々と泳いでいる鯉も一緒に撮ることが出来ました。

足場などほとんどは撤去されたようですが、池の左側には工事用のフェンスがまだ残っていました。フェンスの上から、レンズを向けると1階部分はまだ工事が完了しないことが分かります。

25563

工事は今年いっぱい続き12月には完了するようです。

近くにいたボランティアガイドの人から、「この池は、塔影?池と呼ばれていますよ」と教えていただいたのですが、訪れたのが午後3時ころでしたので、池に映る五重塔を見ることができませんでした。

何とか「塔影池」らしく五重塔が池に写った写真を撮りたいと、次の日の午前10時ころ再度訪れました。日が当たっている水面には映っていませんが、それでも上部3層ぐらいは映っている姿を写真に収めることができました。

25564

今回は、鯉が3匹写っています。

もう一つの目的「SLやまぐち号」の撮影です。

上りのSLやまぐち号が山口駅を出発するのは午後5時40分です。

今年は、昨年とはちがう場所で撮影したいと思いましたので、少し早めに山口駅周辺に行き、場所を探しました。結局、山口駅を出てすぐの踏切で待つことにしました。駅のホームも見通せます。

定刻の午後5時40分になると汽笛を鳴らし、SLやまぐち号出発します。駅のホームにも多くの人影が見えます。それもあってでしょうか、多くの煙を吐き出します。

25565

白い煙と黒い煙は吐いています。蒸気を吐き出しながらだんだんと近づいてきます。

25566

スピードが少しずつ速くなり、煙をしっかり吐きながら、ぐんぐんと近づいてきます。

25568

25569

そして大きな音を響かせて、私の前を通り過ぎました。

255610

夢中でシャッター押しましたので気付きませんでしたが、後でよく見ると機関手が手を振ってくれていました。

今年は、早くから場所を探したのが良かったのでしょう。何とか間近でSLらしい写真が撮れたような気がしています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その69) ―「昭和100年」と父― その1

前号(4月5日)で『伊丹十三のエッセイ集』から「戦争責任の問題」を紹介し、次号から「国民がどのようにして騙され、黙らされ、戦争に狩り出されたのか。政治はどのように動き、軍事国家へと突き進んでいったのかについて見てゆきたいと思います。」と約束しました。

さて、約束したものの〔どのようにまとめてゆくか〕迷っていましたが、昭和3年(1928年)生まれの〔父の少年時代を通して見る〕ことにしました。今号から幾度か「昭和100年と父」シリーズとして書き進めてみたいと思います。

25551

松根油採取派遣隊員として派遣先の鳥取県若桜町にて、後列中央が父。撮影年月日1945年8月6日

このシリーズに入るために、5年前の「ヒロシマとベトナム」(その8-1)の一部を再掲します。

【父は1928年(昭和3年)3月24日、岡山県上房郡川面村高尾田(現高梁市川面町)に平亀の次男として生まれました。軍国教育一色のもとで尋常高等小学校(注1)を卒業した父は、小型特攻ボート「震洋」や人間魚雷「回天」など水上・水中特攻の研究とロケット推進特攻兵器「桜花」など航空特攻の研究が相次ぎ始まった翌年、1944年、16歳で予科練甲種飛第14期生(注2)として松山海軍航空隊に入隊。当時のことを聞いた折りに「川面駅での壮行式で爺さん(平亀)が『万歳』、『万歳』しよった」という父の語り草に、決して「自ら進んで予科練に行ったのではない」という思いが込められていたように思ったものです。どのような経過で予科練を志願し、どんな思いで故郷を後にしたのか尋ねていませんが、それが可能な時間は多くはありません。】(2020年1月4日号)

注1:「その8-1」では「中学を卒業し・・」と書いていましたが、尋常高等小学校の誤りのため訂正しました。

注2:「予科練甲種飛第14期生」は正式には、第14期海軍甲種飛行予科練習生。入隊した日にちから甲種ではなく乙種だったと思われ、現在、厚生労働省に「軍歴」を照会中のため、「その8-1」のままとします。

勇んで志願したのではない父・・・・ なぜ予科練に

上記のブログから5年経た先月、97歳を迎えた父を岡山の施設を訪ね、「なぜ予科練を志願したのか」尋ねました。「水兵・機関兵・予科練・・・、同級生みんなが志願したんじゃ。村からSくんと二人が予科練に行った・・」とのこと。しかし、16歳の少年が敗戦色濃くなっていく中で、なぜ予科練を「志願」したのか、その経緯や当時の気持ちについては語りません。そうしたことから今回も、父は予科練を「勇んで志願したのではないのだ」と改めて思いました。

父の育った時代

25542_20250504072001

父が生まれた1928年(昭和3年)は昭和天皇即位の年で、日本軍が中華民国に出兵し軍事衝突を繰り返す中で、関東軍が張作霖を爆殺する張作霖爆殺事件が起きた年です。この年には天皇皇后両陛下の御真影が全国の学校に下げ渡され、御真影を奉り護(たてまつりまもる)ための奉安殿が建てられ、教師はもちろんのこと子どもたちもつつしんで拝むことが求められ始めます。

翌1929年(昭和4年)には、その後の戦争遂行を全目的とした国民統制(物資統制・精神統制)につながる「総動員計画設定処務要綱」が閣議決定され、戦時色が強まります。

1931年(昭和6年)、満3歳の時に満州事変が起こり、4歳になった翌1932年3月1日、満州事変で日本軍が占領した満州と内蒙古などを領土とする日本の傀儡国家「満州国」がつくられます。そして、政党や財閥を倒し軍部中心の政府をつくろうと、海軍の青年将校が満州国の承認に反対する犬養毅首相を暗殺、日本銀行や警視庁を襲う「5.15事件」が起こります。この事件を機に政党政治は終焉し、軍部の政治介入が強まります。

尋常高等小学校に入学した6歳(昭和9年)の時には、(自作自演の)柳条湖事件を口実とした満州事変は日本の侵略行為とする「リットン踏査団報告」を可決した国際連盟から脱退し、国際的な孤立を深め始めます。

子どもの側面から見ると、『少年倶楽部』に日の丸・御真影・奉安殿をアイテムに、南方の現地人を「支配」下に置く「冒険ダン吉」の連載が始まり、軍国少年づくりに大きな役割を果たします。

7歳の時、1935年(昭和10年)には、天皇の軍事に関する大権行使に対する内閣の権限を根拠づけた「天皇機関説」を攻撃し、皇軍(陸海軍)の独裁と暴走に道を開いた「天皇機関説事件」が起こります。

8歳の時、1936年(昭和11年)には、陸軍若手将校らによる軍部にとって都合の悪い首相や大臣を暗殺し、天皇を中心とした軍事政権樹立のためのクーデター、「2.26事件」が起こります。クーデターそのものは失敗しますが、武力を背景に政府と議会の無力化と軍の発言権を高め、一層の軍国主義化に突き進みます。

そして、その翌年の1937年(昭和12年)、9歳のとき起きた盧溝橋事件で全面的に日中戦争に突入します。

10歳の時、1938年(昭和13年)には全面戦争となった日中戦争遂行のための国家総動員令が敷かれ、11歳の時1939年(昭和14年)には、ソ連との国境紛争(ノモンハン事件)し、高等科に進んだ12歳の時には泥沼化した中国戦線の立て直しと軍需物資や食糧不足の打開を狙ってフランス領インドシナへの侵攻という「南方作戦」を始めます。このことから国際的な孤立を一層深め、無謀極まりない太平洋戦争へと突き進みます。

緒戦でこそ「破竹の勢い」といわれた日本軍は、14歳で尋常高等小学校を卒業する1942年にはミッドウエー海戦やガダルカナル島の戦いに敗北し、翌年には学徒出陣が始まります。当時、戦争遂行のための「国民決意標語」で優等賞を取り、全国津々浦々に貼り巡らされたのが「勝つまでは欲しがりません」のポスターです。

父が松山航空隊に入隊したのは1944年(昭和19年)10月25日、最初の神風特攻隊出撃から1ヶ月余り後の12月1日です。

次号から「年表」に見る父の少年時代の出来事や世相を通して「軍国少年」、いや「予科練志願少年」が生み出されるに至ったのか、特徴的かつ重要と思うことについて見てゆきたいと思います。次号は父が生まれた頃から一斉に全国の学校に下付された「御真影」についてです。予科練志願までの多感な少年時代の大半を過ごした尋常高等小学校で「御真影」が果たしたものを考えてみたいと思います。

(2025年5月5日、あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 4日 (日)

2025平和といのちと人権を!5・3ヒロシマ憲法集会

3日の憲法記念日、今年も「戦争をさせない・9条壊すな!ヒロシマそうがかり行動実行委員会」が主催する「2025平和といのちと人権を!5・3ヒロシマ憲法集会」が、午後1時半から広島県民文化センターで開催されました。さらにオンライン会場が、三次、福山2か所、三原の計4会場が設けられました。

集会は、憲法ミュージカルのオープニング・ナンバーの「マイライフ・マイ憲法」の合唱でスタートしました。

最初の主催者あいさつは、ヒロシマ総がかり行動実行委員会事務局長の石口俊一弁護士。

今年は、二部構成の集会です。第一部は、これまでこの県民文化センターで行っていた憲法ミュージカルのメンバーによる「歌でつづる憲法の誕生、そして今!」の上演です。

25541

小学生から大人までの熱演に、大きな拍手があがります。

ミュージカルが終わると今日のメイン講演です。講師は、京都大学人文科学研究所教授の藤原辰史さんです。初めて話しを聞く講師ですが、北海道生まれで島根県育ちの経歴ですので、何となく親しみを覚えます。

25542

演題は「非道の時代の平和論 食の歴史学のアプローチ」です。

藤原さんの話しは、会場の参加者に学校給食で何を食べたか、の問いかけから始まりました。それは、「給食一つとっても戦争と深い関わりがある」からです。

そして繰り返し話されたのは、「戦争はいつも防衛から始まる」ということです。

話は、ミナマターヒロシマーベトナムを結んで進みました。これ以上詳細に紹介することはできませんので、印象に残ったことばのいくつかを紹介します。

「戦争にこうすることは、命を壊すマーケットにも抗さなければならない」

「戦争だけでなく資本主義という経済活動暴力」

「食べ物を通じた平和の思想を持とう」

「加害者であることをやめることが平和」

最後の配布されたレジュメの最後のパートだけ引用します。

・4 資本主義の次の構想の中心に「食」を置くこと

  • 砂時計システム(ラジ・パテル『肥満と飢餓』)を崩す
  • 生命の脱商品化——穀物投機からの脱却(巨大穀物商社の暴力)
  • 食農技術=戦争技術の脱商品化(化学肥料と農薬)
  • 脱中央集権化(食権力の分散)と食を循環過程に置き直す

→「食べること」から構想する

講演の後、下記の集会アピールが、戦争をさせないヒロシマ千人委員会の高木智子さんが提案し、全体の拍手で確認されました。

2025 平和といのちと人権を! 5・3ヒロシマ憲法集会アピール

本日、この場に集った私たちは、多くの市民とともに以下のような意思を表明し、広く訴えます。

・憲法を日々の生活や活動に活かし、平和・いのち・くらし・人権と地球環境を守ります。

・松井一実市長による広島市の平和行政の変質を許さず、核兵器廃絶を早急に実現するため、市民とともに運動するよう求めます。

・日鉄呉製鉄所跡地への複合的防衛拠点整備に反対し、旧軍港市転換法の目的である「平和産業港湾都市」をめざすよう求めます。

・米軍岩国基地の拡張強化、沖縄の民意を踏みにじる辺野古基地建設などによる自衛隊と米軍の一体化に反対し、日米地位協定の見直しを求めます。

・生活を破壊し、戦争への道を歩む軍備増強を許さず、平和憲法の理念の実現を目指します。

・「台湾有事」という煽動を許さず、敵基地攻撃能力の保有と日本全土へのミサイル基地配備の撤回を求めます。

・パレスチナとウクライナでの戦争の惨禍を食い止め、恒久的停戦を実現するため、日本政府に憲法9条を生かした平和外交を求めます。

・ミャンマーや韓国などの市民による民主化運動に連帯し、東アジアにおける平和を求めます。

・日本政府は原発推進政策を撤回し、再生可能エネルギーへの転換をすることを求めます。

・ジェンダー平等を実現し、選択的夫婦別姓の法制化、一人一人の個人の尊厳を大切にする社会をめざします。

・これらを実現するために市民の共同の輪をひろげ、7月の参議院選挙では金権腐敗、憲法破壊、物価高騰に無策の政治を変えて、平和のうちに安心して生活できる社会をめざします。

最後に全員で「大軍拡より くらし守れ」と声を合わせ、プラスターを掲げてアピール行動を行いました。

25543

閉会あいさつは、ヒロシマ総がかり行動実行委員会世話人の世話人依田有樹恵さんでした。

参加者は、会場が414人、オンラインで137人の計551人でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 3日 (土)

電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑―その2

「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」は、爆心地から540メートルに位置していた広島中央電話局など電信電話関係機関の職員を慰霊するために建立されました。

現在の慰霊碑です。

25531

最初に建てられた場所と比べると狭くなり、後ろの壁面にあった句碑が前方にでるなど、配置がずいぶんと変わっています。

中央にきのこ雲をかたどった碑には、動員学徒を含む電信電話職員の犠牲者名簿が納められています。

25532

1955年の建立時には、573名の名前が収められたそうですが、その後どうなっているのかは調べていません。

右側の石版には昨日紹介した追憶のことばが刻まれています。左側にこの碑の由来が刻まれた石版が建っています。

25533

「昭和二十年八月六日午前八時十五分 晴れわたった空に 閃光一閃一瞬のうちに 広島は廃墟と化して しまいました 当時 広島では 緊迫した情勢の中で約二千名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたが そのうち六百名近くの人たちがとうとい命をうしなわれ 平和のいしずえとなられました この慰霊碑は原爆十周年にあたる昭和三十年八月 亡くなられた方々への 心からの追悼と みたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって 建てたものです」

最初の建立時からそうなのですが、この地は被爆時は西練兵場ですので、電電関連の建物の被爆地ではありませんが、当時この場所には、電電公社の中心的建物群が建っていましたので、この場所に設置されました。

ところで、よく見ると向かって右側の植え込みの中に2本の石柱が立っています。周りの樹木が大きく育ち、見え難くなっていますが、気になりますので近づいて何が書かれているか覗いてみました。

奥の一本の片面には、「『通信女たちの追憶』出版記念」もう一面には「平和祈念植樹」と刻まれ、裏面には「1986年9月××日」と刻まれています。本の出版を記念して建てられたものです。

25534

私は、この本のことは知りませんでしたので、調べてみると全電通婦人常任委員会(当時は、女性ではなく「婦人」となっていた)が、通信部門に携わっていた女性たちの戦争体験をまとめて出版したものです。

Photo_20250502111401

当時全電通の婦人常任委員会が、反戦・平和運動を熱心に取り組んでいたことが思い出されます。

手前の石柱には、さらに興味深い文字が刻まれていました。

25535

「全電通被爆者支援基金一億円達成」と刻まれています。

25536

植え込みの中まで入り込めないのですが、木をかき分けなんとか読み取ると、右側の面には「全電通被爆協会長山岸××」、左側の面には「昭和六十一年八月六日建立」と刻まれています。

これは、全電通が、1964年から全国で取り組んでいた「被爆者支援1円カンパ」の総額が、1億円となったことを記念して建立したものです。「山岸××」は、後に連合初代会長となる山岸章(あきら)さんです。よく見えなかったので×を二つ書きましたが、「章」の一文字だったようです。山岸さんは、1982年に全電通委員長になっていますので、昭和61(1986)年もまだ委員長でした。

でもここに刻まれている肩書きは「全電通被爆協会長」となっていますので、山岸さんは、被爆者だったのですか?と疑問がわくと思います。

「全電通原爆被爆者協議会」は、1973年に結成されたのですが、結成時から会長には、被爆者ではなく当時の全電通中央執行委員長が、就任してきました。

当時の全電通の「被爆者支援1円カンパ」について、被爆26周年原水禁世界大会報告集 分科会報告の中に「全電通の代表から報告が行われた。全電通の青婦部では1円カンパを毎年行っており、年間のカンパ額100万円のうち、原水禁に50万、全電通内の被爆協に50万を配分している。」の記述があります。被爆26周年は、1971年です。年間のカンパ額が100万円なら1億円に達するまでには、100年かかることになりますが、当時は大幅賃上げの時代でしたので、カンパ額も年々大きくなったのでしょう。

私の職場でも、紙で作ったカンパ箱が机の上にあったことを思い出します。

この文章を書きながら気付いたのですが、二本の石柱とも同じ年に、全電通が建てているのですが、「『通信女たちの追憶』出版記念」の碑は、西暦で表記され、「全電通被爆者支援基金一億円達成」の碑は、和暦が表記されています。ちょっと不思議な思いながら、写真を見ています。私が、電電公社を退職したのは、1981年3月です。

電電公社関連の慰霊碑は、この碑だけでなくあと二つあります。

一つは以前紹介したと思いますが、被爆時広島中央電話局があったNTT袋町ビルの「広島中電話局鎮魂の碑」です。もう一つは、かつて私が働いていたNTT DATA比治山ビル前庭にある「電電搬送通信部関係職員慰霊碑」です。この碑については、いつか紹介していと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 2日 (金)

電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑

今日は、私がかつて働いたことのある電電公社(現NTT)の原爆犠牲者慰霊碑の話しです。

このブログで何度か紹介した県公文書館の「藤井平一関係資料」の中に、第1回原水爆禁止世界大会に関する資料の綴りがあります。

その中には、原水禁世界大会の開催時に発行された労働組合の機関誌もあります。紙質が落ちて変色したりボロボロになっている資料の中に、全電通の機関誌「全電通新聞」がありました。

25521

タイトルは、「全電通在広共同デスク」となっており、トップ記事は「全電通の仲間たちの参加 三百名をはるかに突破」の見出しで、当時の高揚した雰囲気が綴られています。

私が興味を持ったのは、その左側の写真入りの記事です。「部内犠牲者慰霊碑」(現在の「電信電話職員原爆犠牲者慰霊碑」ですが、当時はこう呼ばれていたようです)の除幕式の様子が記述されています。読み難いのですが、全文引用します。

見出しは「厳かな雅楽の音と共に 部内原爆犠牲者の慰霊碑除幕さる」です。本文です。

「(六日) 午前七時四五分公社、組合が一体となって完成させた部内犠牲者慰霊碑の除幕式が、遺族四百人、参列者四百有余人、合せて八百人以上の参列のもとに厳かに取り行われた。式が進むにつて会場の中はしのび鳴く声に埋まった。遺族、被災者の面には当時の悲惨極まりない有様を、今はなき肉親を、友の姿を思い出しているのかウツロな瞳を涙でぬらし除幕された慰霊碑をジーッと見つめていた。

慰霊碑には、

広島の追憶は 世界の追憶であれ 広島の嘆きは 世界の嘆きであれ 天地のくだけたる日の 苦しみを告ぐる事なく わが友はここに眠る

敷地十坪ほどの中心に平和を象徴した黒石の御影石に深く刻み込まれた碑銘は、万傷の人達に深い感動を与え、『三度この参加を繰り返してはならないぞ』との決意を満面にみなぎらせている。」

慰霊碑への思いが伝わるとともに、遺族が400人参列したということは、いかに原爆による被害が甚大だったかを示しています。

公社と組合が一体となって完成させた「部内犠牲者慰霊碑」前では、この後も毎年86日に公社と組合が共催する慰霊祭が行われています。

私が、全電通で労働運動にかかわっていた時期には、86日には原水禁世界大会の分科会が開催されていましたので、残念ながら私自身が慰霊祭に参加したことはまったくありません。

この碑が完成した当時は、現在のクレドホール広場の一番東端、県庁の真向かいにありました。当時の写真の手持ちはありませんので、黒川万千代編「原爆の碑 広島のこころ」の画像を転載させていただきます。

25522

ゆったりとした敷地に建立されていたことが分かります。先に引用した碑文は、後ろの壁面の右奥にあります。

25523  

その後、基町のNTT(電電ビル)の再開発によってこの碑も移設されることになり、現在は同じ敷地の北西角に立つNTT広島の玄関横に立っています。当時の面影を偲ぶものはありませんので、この懐かしい写真です。

附記すれば、電電公社は、この慰霊碑の建立、慰霊祭の挙行と合わせ、原爆10周年記念事業として被爆前後における広島所在の各機関の詳しい被爆状況を記述した「広島原爆誌」を同年8月6日付で発行しています。

この『広島原爆誌』は、その年の4月からスタートするという短期日の作業であったにもかかわらず、「とくに死亡者については、各人につきその死亡の状況が克明に記録され、従来、あるいは不明とされ、あるいは誤り伝えられていたものが明らかにされている」(序文より引用)という貴重なものとなっています。

碑の建立にかかわる話しが長くなりました。明日は、現在の碑の様子を紹介します。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2025年5月 1日 (木)

「屍の街」の章題―つづきのつづきのつづき

今回もまた、「「屍の街」の章題」についてです。

ブログを読んでいただいた方から、「屍の街」の章題について、二つの研究論文の情報が届きましたので、紹介します。

一つは、日本近代文学研究者黒古一夫の論文です。黒古一夫は、文芸評論家としても活躍しており、1983年には原爆文学論集「原爆とことばー原民喜から林京子まで」を出版し、同じ年に出版された「日本原爆文学」の編集委員でもあります。

黒古の論文は、新日本文学1997年4月号に「戦後ある呪詛と怒りの構造―大田洋子の場合―」のタイトルで掲載されています。その中で、「屍の街」の章題(黒古論文では、小題となっている)について、次のように書かれています。

「なお、冬芽社版以降どの版からも、この小題は消えている。この小題がなくなった理由は不明であるが、この小題は消さなくても良かったのではないか、というのが、潮文庫版の解説を書いている小田切秀雄氏の意見である。私も賛同する。小題の一見オーバーと思える表現は、執筆当時の大田の心情が推察できて、かえって興味をそそられる。」

黒古は、この論文で「小題は消さなくても良かった」としていますが、「冬芽社版以降どの版からも、この小題は消えている」ことを紹介しています。この点は、私がこれまでに記述したこととほぼ同じです。

2551

中央公園西側に移設された大田洋子文学碑

 二つ目は、大阪の高等学校先生である渡部晴美が、「国語教育研究」1980年11月号に「『屍の街』の成立について」のタイトルで書いた論文です。少し長いのですが、章題に関する部分を引用します。

「「中公版」、「冬芽社版」には、各章ごとに章題がつけられている。・・・この章題は、河出書房の市民文庫版で「屍の街」以降は削られており、潮文庫版にもない。

章題を削除した理由に関して小田切秀雄氏は、「一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ない」「それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまった」(潮文庫版「屍の街」解説P215~P216)と述べている。各章ごとにつけられた「一見きわめてどぎつい題」は、大田の「一種の我中心主義ふうの傾斜」(同)と結びつけて受け取られ、かえって広島の惨状を理解することを困難にしている。そのことを知って、題は大田が取り去ったということである。

大田が「一種の我中心主義ふうの傾斜」によって反感を買っていたことを十分に知っていたかどうかは明らかでない。しかし、どぎつい題がかえって広島の惨状をありのままのものとして理解することを困難にしているということについては、気付いていたものと思われる。

冬芽社版出版のための推敲の過程で、大田は無駄な語を省き文を簡潔なものにしようと努めている。そうすることによって文を押さえ引き締め、表現効果を上げようとしたのである。省かれたものには、・・・。谷崎潤一郎は「文章読本」の中で、むだな形容詞や副詞を多用するのは、「ちょうど、へたな俳優が騒々しい所作を演ずるのと同じ結果に陥」り、かえって効果を弱めるということを述べている。大田にも同じ反省があったものと思われる。章題の削除は、このような反省の延長に立ってなされたものと考えられる。」

黒古一夫は、「章題を削除した理由は不明」としていますが、渡部晴美は、大田が章題を削除した理由として「どぎつい題がかえって広島の惨状をありのままのものとして理解することを困難にしているということについては、気付いていたものと思われる。」とし、さらに、谷崎潤一郎の「文章読本」まで引用して、その理由を示しています。

渡部晴美が示した理由が、正しいかどうかは私の能力では判断できないのですが、「章題を削除した」理由が明記されています。

しかし、この二つの論文は、いずれも「大田洋子全集」が発刊された1982年以前に書かれたものですので、当然のことですが、「章題が削除された」ことについての記述はありますが、私が知りたいと思っている「章題が『全集』以降復活した」理由については、触れられていません。

繰り返すようですが、二つの論文に共通しているのは、「全集」が発刊されるまでは、「冬芽社版以降どの版」にも「屍の街」には「作者の意思によって章題がついていない」ということです。

なぜ「章題が復活したのか」という疑問は、さらに深まります。

(敬称略)

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« 2025年4月 | トップページ | 2025年6月 »