前号(4月5日)で『伊丹十三のエッセイ集』から「戦争責任の問題」を紹介し、次号から「国民がどのようにして騙され、黙らされ、戦争に狩り出されたのか。政治はどのように動き、軍事国家へと突き進んでいったのかについて見てゆきたいと思います。」と約束しました。
さて、約束したものの〔どのようにまとめてゆくか〕迷っていましたが、昭和3年(1928年)生まれの〔父の少年時代を通して見る〕ことにしました。今号から幾度か「昭和100年と父」シリーズとして書き進めてみたいと思います。

松根油採取派遣隊員として派遣先の鳥取県若桜町にて、後列中央が父。撮影年月日1945年8月6日
このシリーズに入るために、5年前の「ヒロシマとベトナム」(その8-1)の一部を再掲します。
【父は1928年(昭和3年)3月24日、岡山県上房郡川面村高尾田(現高梁市川面町)に平亀の次男として生まれました。軍国教育一色のもとで尋常高等小学校(注1)を卒業した父は、小型特攻ボート「震洋」や人間魚雷「回天」など水上・水中特攻の研究とロケット推進特攻兵器「桜花」など航空特攻の研究が相次ぎ始まった翌年、1944年、16歳で予科練甲種飛第14期生(注2)として松山海軍航空隊に入隊。当時のことを聞いた折りに「川面駅での壮行式で爺さん(平亀)が『万歳』、『万歳』しよった」という父の語り草に、決して「自ら進んで予科練に行ったのではない」という思いが込められていたように思ったものです。どのような経過で予科練を志願し、どんな思いで故郷を後にしたのか尋ねていませんが、それが可能な時間は多くはありません。】(2020年1月4日号)
注1:「その8-1」では「中学を卒業し・・」と書いていましたが、尋常高等小学校の誤りのため訂正しました。
注2:「予科練甲種飛第14期生」は正式には、第14期海軍甲種飛行予科練習生。入隊した日にちから甲種ではなく乙種だったと思われ、現在、厚生労働省に「軍歴」を照会中のため、「その8-1」のままとします。
勇んで志願したのではない父・・・・ なぜ予科練に
上記のブログから5年経た先月、97歳を迎えた父を岡山の施設を訪ね、「なぜ予科練を志願したのか」尋ねました。「水兵・機関兵・予科練・・・、同級生みんなが志願したんじゃ。村からSくんと二人が予科練に行った・・」とのこと。しかし、16歳の少年が敗戦色濃くなっていく中で、なぜ予科練を「志願」したのか、その経緯や当時の気持ちについては語りません。そうしたことから今回も、父は予科練を「勇んで志願したのではないのだ」と改めて思いました。
父の育った時代

父が生まれた1928年(昭和3年)は昭和天皇即位の年で、日本軍が中華民国に出兵し軍事衝突を繰り返す中で、関東軍が張作霖を爆殺する張作霖爆殺事件が起きた年です。この年には天皇皇后両陛下の御真影が全国の学校に下げ渡され、御真影を奉り護(たてまつりまもる)ための奉安殿が建てられ、教師はもちろんのこと子どもたちもつつしんで拝むことが求められ始めます。
翌1929年(昭和4年)には、その後の戦争遂行を全目的とした国民統制(物資統制・精神統制)につながる「総動員計画設定処務要綱」が閣議決定され、戦時色が強まります。
1931年(昭和6年)、満3歳の時に満州事変が起こり、4歳になった翌1932年3月1日、満州事変で日本軍が占領した満州と内蒙古などを領土とする日本の傀儡国家「満州国」がつくられます。そして、政党や財閥を倒し軍部中心の政府をつくろうと、海軍の青年将校が満州国の承認に反対する犬養毅首相を暗殺、日本銀行や警視庁を襲う「5.15事件」が起こります。この事件を機に政党政治は終焉し、軍部の政治介入が強まります。
尋常高等小学校に入学した6歳(昭和9年)の時には、(自作自演の)柳条湖事件を口実とした満州事変は日本の侵略行為とする「リットン踏査団報告」を可決した国際連盟から脱退し、国際的な孤立を深め始めます。
子どもの側面から見ると、『少年倶楽部』に日の丸・御真影・奉安殿をアイテムに、南方の現地人を「支配」下に置く「冒険ダン吉」の連載が始まり、軍国少年づくりに大きな役割を果たします。
7歳の時、1935年(昭和10年)には、天皇の軍事に関する大権行使に対する内閣の権限を根拠づけた「天皇機関説」を攻撃し、皇軍(陸海軍)の独裁と暴走に道を開いた「天皇機関説事件」が起こります。
8歳の時、1936年(昭和11年)には、陸軍若手将校らによる軍部にとって都合の悪い首相や大臣を暗殺し、天皇を中心とした軍事政権樹立のためのクーデター、「2.26事件」が起こります。クーデターそのものは失敗しますが、武力を背景に政府と議会の無力化と軍の発言権を高め、一層の軍国主義化に突き進みます。
そして、その翌年の1937年(昭和12年)、9歳のとき起きた盧溝橋事件で全面的に日中戦争に突入します。
10歳の時、1938年(昭和13年)には全面戦争となった日中戦争遂行のための国家総動員令が敷かれ、11歳の時1939年(昭和14年)には、ソ連との国境紛争(ノモンハン事件)し、高等科に進んだ12歳の時には泥沼化した中国戦線の立て直しと軍需物資や食糧不足の打開を狙ってフランス領インドシナへの侵攻という「南方作戦」を始めます。このことから国際的な孤立を一層深め、無謀極まりない太平洋戦争へと突き進みます。
緒戦でこそ「破竹の勢い」といわれた日本軍は、14歳で尋常高等小学校を卒業する1942年にはミッドウエー海戦やガダルカナル島の戦いに敗北し、翌年には学徒出陣が始まります。当時、戦争遂行のための「国民決意標語」で優等賞を取り、全国津々浦々に貼り巡らされたのが「勝つまでは欲しがりません」のポスターです。
父が松山航空隊に入隊したのは1944年(昭和19年)10月25日、最初の神風特攻隊出撃から1ヶ月余り後の12月1日です。
次号から「年表」に見る父の少年時代の出来事や世相を通して「軍国少年」、いや「予科練志願少年」が生み出されるに至ったのか、特徴的かつ重要と思うことについて見てゆきたいと思います。次号は父が生まれた頃から一斉に全国の学校に下付された「御真影」についてです。予科練志願までの多感な少年時代の大半を過ごした尋常高等小学校で「御真影」が果たしたものを考えてみたいと思います。
(2025年5月5日、あかたつ)
[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。


最近のコメント