「松本商店」は、秋葉さんに「郵便局の向かい側で、いまはパン屋さんになっている」と教えられていましたので、今度は「郵便局」を目標に車を走らせました。
楢原の交差点を過ぎ、少しだけ秋葉宅の方に進むと右手に「玖島郵便局」があります。最初通った時には、楢原交差点のすぐそばだと勝手に思い込んでいましたので、見逃して通り過ぎたようです。
ここで車を止めて、反対側を見ると「手造りパンの店 夢工房」の看板がかかった家を今度は見つけることができました。
いまはパン屋さんになっていますが、この建物が、旧雑貨店「松本商店」で、大田洋子は,ここの2階を借りて45年8月から11月まで「屍の街」を執筆したのです。建物骨格は当時のままで、2階の左側の部屋を使っていたそうです。
大田洋子は、「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの」と作家の責任として、ここで自分が目にした被爆の惨状と恐怖を障子紙やちり紙まで使って懸命に書き続けたといわれています。
この後、トイレが使いたくなったので、郵便局の裏手にある廿日市市玖島市民センターに入りました。図書館に人影がありましたので「大田洋子さんについての何か資料はないですか」と尋ねると「すぐ近くの佐伯民俗資料館にあると思います」と教えていただきました。
玖島市民センターには、図書館も併設されているのに大田洋子に関する資料はないのかと思いつつ、すぐ近くの佐伯民俗資料館に移動しました。
佐伯民俗資料館は、日曜日は開館していますが、閉館時間が午後4時となっています。すでに閉館時間が過ぎていますので、不安に思いながら、玄関の戸を開けるとカギがかかっていません。まだ事務室に一人残っておられましたので、「時間が過ぎているのに申し訳ありません」と断りを言いながら中に入らせていただきました。
佐伯歴史民俗資料館は、佐伯地域の歴史的・文化的な遺物や書籍、古くから使われていた農機具や日常の生活用品などが収集され、保管されていますが、玄関を入ったホールには、被爆作家太田洋子の写真や執筆原稿などが展示されていました。
展示された資料には、大田洋子が、1946年(昭和21年)春に松本家から次に住んだ家やその後次の執筆活動を行った家などの興味深い情報がありましたが、すでに閉館時間を過ぎていましたので、写真だけ撮らせてもらいました。
退館する前に「パン屋さんの建物は見たのですが、それ以外に大田洋子に関する碑などはありませんか」と尋ねたところ、「パン屋のもう少し先に玖島小学校跡がありますが、そこに『大田洋子の碑』が建っていますよ」と教えていただきました。
すぐに玖島小学校跡めざして移動します。玖島小学校跡は、郵便局を過ぎて少し先にありました。
大田洋子が通っていた当時と同じと思われる校門を入るとすぐ右手(写真は、校門の内側から写しているので写真では左端)に「大田洋子文学碑」があります。
大田洋子の母トミが、9歳のとき再婚したので、一緒に佐伯郡玖島村吉末に移り住み、玖島尋常高等小学校尋常科(1947年に玖島小学校と改称)5年生に転校し、15歳まで玖島で生活していますので、この学校の卒業生です。同校を卒業した後、4月に広島市の進徳高等女学校(現在の進徳女子高等学校)に入学して、この地を離れています。
この碑は、大田洋子が亡くなって15年後に建立され、碑には、「屍の街」でここが舞台となった一節が刻まれています。
「近くの小学校(玖島)から帰ってきた小さな少女の一群が、ふいに立ちどまり、思い出したようにつよい太陽をふり仰いだ。そして、額に手をかざしながら言った。
「おお、いびせやいびせ 天に焼かれる!原子爆弾ー」
ほかの少女たちも いっせいに空を向き,太陽を仰いで、恐ろしそうに、両手で頭をおさえたり、顔をおおった。
大正7年卒業 大田洋子 「屍の街」より」
碑の一番下には、「1978.8.6 玖島小学校児童会」と刻まれています。後輩にとっても自慢の卒業生だった様子がうかがわれます。
昨年8月に中央公園のサッカースタジアム西側に移設された「大田洋子文学碑」も同じ年の1978年7月に建立されています。
帰宅後知ったのですが、旧玖島小学校の校舎は、2022年から交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されており、館内に設けられた「くじま知ルーム」には、大田洋子に関する資料も一部展示されているそうですが、今回は見ずに返りました。
準備不足の上、短時間の訪問となってしまいましたが、前田さんの好意で、思いがけず玖島での大田洋子の一部を訪ねることができた貴重な時間となりました。
いのちとうとし
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