「広島ブログ」

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2025年4月

2025年4月30日 (水)

2025年4月のブルーベリー農園その4

東広島市豊栄町のブルーベリー農園は畑、里山、ため池などがあってそれらを管理しながらブルーベリーを育てている。それは小さなエリアだが春はいろいろな生き物の姿が活発になっていくさまが見えるので単調なブルーベリーの剪定の作業もあきずに続けられている。メインのブルーベリーも葉が展開し、花が咲きだしたが、ミツバチの本格的な活動はまだ。28日などは日中の気温が16度と低かったので花粉交配でのミツバチの活躍は5月になりそうだ。

423日(水) 今春初めてのブルーベリー畑の草刈り。畑の入り口を少しだけ刈る。周辺の田んぼではのり面の草刈りがあちこちで始まっている

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424日(木) ブルーベリー畑で枝の剪定を続けている

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426日(土) ブルーベリー畑の地べたの草は昨秋まいた緑肥用の種が大きくなったものといろいろな雑草が混じっている。種から大きくなって花を咲かせているのは

①クリムソンクローバー

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②ヘアリーベッチ。ほかにレンゲもたくさん咲いている。雑草ではムラサキゴケやカキオドシ、タンポポ、スミレなどが元気に咲いている

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428日(月) 農園に午後についたが小雨なので周囲を見て回る

①西側の里山で早生のブルーベリーを育てている場所では防鳥ネットの柱の継ぎ目のジョイントがさびてきて、中には折れているところもあるので新しいジョイントに交換しないといけない

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②エビネが咲きだした

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③サンショウの葉と花

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④西側の里山のブルーベリー園

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⑤早生のブルーベリーの花

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⑥晩生のブルーベリーの花

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雨が上がって少しの間畑のブルーベリーの剪定をして、午後6時前安芸区の自宅に車で帰ろうとしたときに上の小さな畑の辺りからキジの鳴く声がしたので足を止めてしばらく観察。キジの立っているこの畑からは下のブルーベリー畑が見下ろせる。その向こうの林のあたりでもう1羽のオスのキジが鳴いている。どちらも縄張りを主張しながら住んでいるようだ。ブルーベリー畑の地べたに今年も巣を作るのだろう。去年は3か所もあった

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年4月29日 (火)

原爆被害を調べる人のためのガイドブック「ヒロシマ調査・研究入門」

広島市立大学広島平和研究所が、大学開学30周年記念事業として「ヒロシマ調査・研究入門」を刊行しました。

大芝亮所長は、本書発刊の目的を「はじめに」で次のように記しています。本書の特質が書かれているように思いますので、少し長くなりますが、その一部を引用します。

「本書を参考に、広島原爆被害について、ぜひ、自分自身で資料を見、証言を聞いて欲しい。慰霊碑・慰霊祭や被爆建物などを訪問し、原爆被害を受け、それを語り継ぐ『現場』を自分なりに体感して欲しい。・・・被爆に関する資料や証言、そして被爆建造物は、決して自然に残ったわけではなく、それらを残そうとした人々の営みにより保存された。その取り組みの歴史を辿ってほしい。」さらに「個々の資料や証言、被爆建物や慰霊碑・慰霊祭などは、一体どのような意味を持つのだろうか。本書の解説を一つの参考にして、自分なりに考えてほしい。」

最後に「全国には、長崎の被爆資料・被爆建物をはじめ、それぞれの地域に戦争被害を示すものが残されている。広島の取り組みとそれぞれの地域の活動の『つながり』についても考えたい。また、諸外国における原爆観にも留意する。」

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本書は、「1章 調査研究ガイド 2章 広島で調べる 3章 広島を体感する 4章 日本で調べる 5章 原爆被害・核問題を知る扉」の五つの章で構成されています。

1章の「調査研究ガイド」では、「文献」や「被爆体験」などの資料ごとに調べ方の基礎をまとめています。かなりの検索方法が網羅されていますので、私もそうですが「どこで調べれば良いか」と思っている人にはほんとうに参考になります。

2章の「広島で調べる」は、広島平和記念資料館をはじめ、広島市内で原爆被害に関する資料を保存し、展示する施設を紹介しています。私が訪れたことのない施設も紹介されています。さらにこの章では、原爆被害のみならず「戦争を調べる」ための施設も紹介されているのが特徴だと思います。

3章の「広島を体感する」は、「86日をめぐる」のサブタイトルがあり、86日前後の市内各地で行われる慰霊・追悼の行事が紹介されています。例えば、「義勇隊の碑」で行われる「川内・温井義勇隊慰霊祭」の項では、碑の説明をした後、式典の様子ではこんな下りがあります。「同時刻に平和記念式典が近くで開催されるため、式典に参列する要人が通る度に中断を余儀なくされてしまうが」こう書けるのは、川内・温井義勇隊遺族会の関係者に直接話を聞いているからです。私も浄行寺を訪れ住職から聞いて初めて知った話です。実際に足を運び、情報収集したことがよく分かります。

これは一つの例ですが、他にも原爆供養塔前で行われる「原爆死没者慰霊行事」では、他の原爆供養塔を紹介するものの中では、ほとんど触れられることのない「宗派を超えた合同慰霊祭が執り行われている」ことが紹介されています。

私は、これ一つとっても、本書は貴重だと思います。

まだ全部を読み切れていませんが、多にもこんな充実した内容があると思います。

4章の「日本を調べる」については、少し長くなってしまいましたので省略します。

5章の「原爆被害・核問題を知る扉」は、平和研究所の本らしく、もっとも多くのページが割かれ、様々な分野からの情報が提供されています。その中で私が特に注目したのは、「まえがき」でも触れられている第二次世界大戦の被害地である「朝鮮半島」「中国」「東南アジア」そして原爆を投下した「米国」、それぞれからみた「ヒロシマ」が記述されていることです。

全体を通じて、さらにもっと内容を深めたいと思う人のために、「もっと調べる」として多くの書籍が紹介されているのも参考になります。

この本の発刊に当たっては、編集委員会がつくられたようですが、その中心は、同大学の准教授四條知恵さん、竹本真希子さんのお二人だったようです。

二人の精力的な活動に敬意を表したいと思います。

本書は、定価は消費税込みで1980円ですが、充分に価値のある本だと思います。そして多くの人に手にして欲しい本です。

いのちとうとし

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2025年4月28日 (月)

「屍の街」の章題―つづきのつづき

市民文庫版については、「全集第一巻」の「収録」で、「『章題』を削除した」ことがと明記されています。市民文庫版は、大田洋子存命中に発刊されていますから、小田切秀雄が解説しているように当然「作者の意思で削除」されたことは、間違いありません。「章題」がないことは、本を開き確認しました。

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ですから、その後に発刊された「潮文庫版」にも「章題」がないのは当然だといえます。

この市民文庫版の最後には、佐々木基一が書かいた「解説」があります。佐々木基一は、大田洋子と同じ原爆文学作家と言われる原民喜の義弟で、「夏の花」の出版に深く関わった人です。ですから、解説の中でも原民喜と大田洋子に連なる原爆文学についての記述がほとんどで、「『章題』を削除」した理由の手がかりのようなものは書かれていません。ここでも大田洋子がなぜ、この版から「章題」を削除することにしたのかという「手がかり」となるものを見つけることはできませんでした。

「全集第一巻」の「収録」では、潮文庫版の発行が最後の出版になっていますが、そのことについて佐多稲子が同書の解説の中で次のように語っていることを紹介します。

「大田さんの作品は、生前でも『屍の街』が絶版になっていて、外国から送ってくれと言われても送る本がないのよ、と大田さんが言うのをきいたことがありますし、その後も長くこういう作品が絶版になっていることを、私は大変つらく思っていたのです。・・・今度みなさんのお骨折りで作品集が出ることになって、私も本当にうれしいのです。」

潮文庫版以降、1982年に『大田洋子全集』が出版されるまで、10年間新しい版での出版が無かったことが分かります。

少し横道にそれましたが、「章題」に戻ります。先にも書きましたが、この「全集第一巻」に収録された「屍の街」には「章題」がついています。その理由は、浦西さんの「解題」では「*底本 冬芽書房版『屍の街』(昭和25530日)」と書かれていることでハッキリします。つまり、この全集は、「章題」がつけられていた冬芽書房版を底本(複製本の原本、よりどころとする本)としたからです。以降出版された「屍の街」は、この全集に準じたものと思われますので、私が持っている「潮文庫版」以外は「章題」がついていると考えられます。

ここまで調べましたが、残念ながら私の疑問は解決していません。作者の意思で削除された「章題」が、なぜ作者の意思を無視して「全集」で復活したのか、疑問は残ったままです。先に紹介した潮文庫版の「解説」で、確かに小田切秀雄も「各章の題はあってもよかったのだが」と書いていますので、文学的センスのない私も「章題」(「鬼哭啾々の秋」「無欲顔貌」「運命の街・広島」「街は死体の襤褸筵」「憩いの車」「風と雨」「晩秋の琴」)があった方が良いように思います。しかし、だからといって「章題」を削除した作者の意思を無視して良いはずはないと思います。

もし「章題」について大田洋子が書いたとする新しい資料が、「潮文庫版」出版以降に発見されたというのであれば別です。ただ今回調べた限りでは、そんな資料が見つかったという研究発表を得ることはできていません。

「全集第一巻」の「解題」には、「*異同 生原稿と底本(冬芽書房版)との主な異同をあげる」として、生原稿が底本ではどのように異同しているかを49点にわたって、丁寧に記述されていますが、「章題」についての記述はありません。

小田切秀雄は、「大田洋子全集」の栗原貞子さんなど6人の刊行委員会のメーバーの一人ですが、「全集」発刊に当たって、「章題」のことは、なぜ問題にならなかったのでしょうか。触れなければならない問題だったと私は思いますが、残念ながら私が調べた限り、触れられた形跡がありません。

私に調べられる範囲は、ここまでです。誰か「屍の街」の「章題」について研究し、「なぜ全集で復活させたのか」その理由を教えて欲しいなと思います。

一回で終わるつもりのー「屍の街」の章題―がこんなに長くなってしまいました。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月27日 (日)

チェルノブイリデー座り込み

1986年4月26日、旧ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発4号炉が、放射能を大量に放出するメルトダウンの史上最大の大事故を起こして39年目となる昨日、広島県原水禁の呼びかけで、午後0時15分から30分間平和公園の原爆慰霊碑前で「チェルノブイリデー座り込み」を行いました。今年の参加者は、37人でした。

原水禁は、事故が発生した翌年から毎年、この日を「チェルノブイリデー」として、座り込みや講演会などの取り組みを行ってきました。そこには、この原発事故を決して忘れてはならないという強い思いがこめられています。

1979年に起こったアメリカ・スリーマイル原発事故は、最初の原子炉が溶融するメルトダウン事故でした。そしてチェルノブイリ事故が起き、さらに2011年には、東京電力福島第一原発事故が発生しました。

これら事故が教えていることは、一度原発が事故を起こせば、大惨事を招き、多くの人々を放射能被害者にしてしまうということです。

この事実を決して忘れてはならないという強い思いが、チェルノブイリデーの行動にはこめられています。そしてヒロシマが、被害者の人たちへの想いを共有していることも示すものでもあります。

原水禁運動は、このチェルノブイリの事故を契機により幅広い市民との共闘を進め、原発に頼らない社会を作るため、それまでの「反原発」から「脱原発」ヘとスローガンを変えました。

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そんな思いを込めて、最後に自治労県本部の梅田侑希さんが提案したアピールを全員の拍手で確認し、石破総理に送ることにしました。


「4・26チェルノブイリデー」アピール

チェルノブイリ原発事故から39年がたちました。事故原発は放射性物質の飛散を防ぐための巨大なシェルターに覆われ、いまだ廃炉に向けた具体的なめどが立たないままです。また、ロシアによるウクライナ侵略では、原発が攻撃の標的となる事態となり、原発の危険性は安全保障という点からも大きなリスクがあることが明らかになりました。

一方、「チェルノブイリのような事故は起きない」と宣伝され続けた日本でも、2011311日、東京電力福島第一原発でチェルノブイリと同じレベル7の事故が発生しました。14年を経た今も、事故を受けて政府が発令した「原子力緊急事態宣言」を解除できず、廃炉に向けた工程も、溶け落ちた核燃料の取り出しが試験的に行われているに過ぎず、880トンともされる燃料デブリ回収の目途は全く立っていません。

にも関わらず、政府と東京電力は多くの県民・漁業関係者の反対を押し切り、放射能汚染水の海洋放出を強行する一方、「原発の最大限活用」へとまたも回帰するエネルギー基本計画を策定しました。

昨年の能登半島地震では、北陸電力志賀原発の変圧器やモニタリングポストの故障、原子力規制庁の想定を上回る揺れの観測、連動しないとされた断層との連動など、数多くの「想定外」の事態が生じました。

そして何より、原発事故と地震災害という複合災害が発生すれば、道路の寸断や集落の孤立、多くの家屋の倒壊・被災で、屋内退避も避難も困難な状態となり、現在の避難計画では住民の安全を確保できないということが明らかになりました。

この教訓を、原発依存・再稼働への強い警告と受け止め、チェルノブイリやフクシマ、そして世界に広がるヒバクシャの痛みを忘れることなく、改めて脱原発への歩みを進めなければなりません。

「核と人類は共存できない」。新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから改めて訴えます。

 ◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

 ◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

 ◆原発の再稼働・新増設への方針転換を許してはなりません!

 ◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

 ◆全ての核被害者への補償と救済を強く求めます!

 ◆放射能汚染水の「海洋放出」の停止を求めます!

 ◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

2025年4月26日

  4.26チェルノブイリデー座り込み参加者一同


いのちとうとし

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2025年4月26日 (土)

「屍の街」の章題―つづき

図書館に行き、事情を説明すると、司書や学芸員のみなさんが、蔵書を検索し関連する資料を準備していただきました。

最初に調べたのは、「章題」に関する研究書はないのかです。まず調べたのは、原爆の問題を「文学」、あるいは「文学的」な問題として研究している人たちの発表の場となっている「原爆文学研究」です。大田洋子に関しての記述がある巻(現在まで23号まで発行されている)を3冊ほど出していただいたのですが、その中に「章題」に関する研究報告はありません。図書館員の方が、その他にも、研究書のなかで検索でききたものはありませんでした。

さらに、題が「屍の街」なっている本、「屍の街」が収録されている本を調べます。

参考になったのは、「大田洋子全集第一巻」(以下「全集第一巻」)です。

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ここに収録された「屍の街」には、「章題」がついていますが、巻末に佐多稲子ヘの聞き取りが「解説」として掲載されています。しかし、その中に「章題」に関する発言はありません。

「解説」の後に浦西和彦さんによる「解題」があります。その中心は、文章をどう直したのかなどの「校訂」について詳しく記述されていますが、しかし「章題」の変更については書かれていません。「章題」に関する記述は、「収録」の中に出てきます。「収録」は「屍の街」がどの本に掲載されているのかを記述しています。そこに記述されていることを全文引用します。

「屍の街」(昭和25年5月30日・冬芽書房)一七-二一八頁、このとき中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に修正、章題「酷薄な雨と風」を「風と雨」に変更。市民文庫「屍の街」(昭和26年8月15日・河出書房)二〇-一七九頁、このとき章題を削除。小田切秀雄編「原子力と文学」(昭和30年8月5日・大日本雄弁会講談社)三一-六三頁、「運命の街・広島」章(本巻39から63頁)部分の抄録。河出文庫「屍の街」(昭和30年9月19日・河出書房)二〇-一七九頁。「日本現代文学全集106<現代名作選(二)」(昭和44619日・講談社)三〇-四一頁、「運命の街・広島」章(本巻3963頁)部分の抄録。潮文庫「屍の街」(昭和47720日・潮出版)五-一五八頁。

「収録」によれば、「屍の街」が、全文収録され発行されたのは、冬芽書房版と、市民文庫版、河出文庫版、潮文庫版の4回と云うことになります。ただ、河出文庫版は、河出書房が市民文庫版の名前を変えて出版したものですので、実際には3種類といってよいと思われます。

この「収録」で、「章題」についての記述は、冬芽書房では、「削除部分『無欲顔貌』の章を増補し、章題『酷薄な雨と風』を『風と雨』に変更したことが書かれています。

冬芽書房版の本もありますので、確認しました。

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当たり前のことですが、「章題」はついています。

次は、市民文庫版での確認ですが、その結果は簡単に書き切れませんので、今日はここで終了し、つづきは次回(28日)に報告します。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月25日 (金)

チェルノブイリ原発事故から39年

明日4月26日は、旧ソ連邦、現在のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故が起こって39年という日です。

米国人の歴史学者ケイト・ブラウンさんの著書、「チョルノービリ・マニュアル 原発事故を生きる(緑風出版)」という533ページの長文作品を、まさに一気に読みました。訳がとても上手なので、分かりやすく読めました。

改めて、当時の時代背景を考えていました。チェルノブイリ事故が起こったのは1986年、その時はソ連邦時代です。ソ連邦は91年に崩壊しロシアなどの国に分割するのですが、ソ連邦最後の最高指導者はミハイル・ゴルバチョフ、85年から91年までソ連共産党の書記長を担い国家元首でした。

現在、ロシアによる侵攻で戦争をしているウクライナも、ロシアの味方といわれるベラルーシ共和国もソ連邦の一つでした。ソ連邦が崩壊して、さあーその翌日から国の体制も国民の感覚も新しい体制になることなど不可能なのは当然です。

チェルノブイリ事故では、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアだけでなくヨーロッパ全体が放射能汚染されました。現在もそうですが、ソ連時代、人々は思っていることが言えず、科学者は自由な研究も出来ず、連邦政府はチェルノブイリ事故の放射能汚染の影響はない、健康への影響はないと繰り返していました。今でもその姿勢に大きな変化はありません。

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事故直後              シェルターに覆われた事故原発

情報機関・秘密警察を担当していたKGB(ソ連邦国家保安委員会)は、正しい放射能の問題を指摘する学者や研究者の研究所などにスパイを送りこむなどの工作もしていました。そのために正しい意見をいう学者は解雇、左遷、毒殺などがされました。放射能汚染された牛乳など食べ物のデータ改ざんなども頻繁に行われました。子どもたちを中心に甲状腺がんも多発しました。

真相を伝えるために、清掃員に扮して国際学会の場に入り込んだ経験を語るウクライナの物理学者の話しはリアルでした。結局はKGBの工作員に見破られ摘まみ出されてしまうのですが。

一方、国際的に「有名」といわれる研究者を招き、「チェルノブイリはたいしたことない」を言わせるプロパガンダの役も担わせました。広島市にある放射線影響研究所(RERF)の重松逸造理事長は、90年4月、IAEA(国際原子力機関)が発足させたチェルノブイリ原発事故をめぐる国際諮問委員長の専門家集団のトップとして、現地の汚染状況と住民の健康を調査しました。翌年5月にウイーンのIAEA本部で開かれた報告会で、汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない、むしろ「ラジオフォピア(放射線恐怖症)による精神的ストレスの方が問題である」などと報告しました。福島原発事故の後で、日本でも聞いたような話しです。

また「1平方キロメートル当たりの放射能量が40キュリーは移住を解除してもよい」とも発言、この感覚はまともな学者の発言としては考えられないものです。福島原発事故に関連して、日本政府は汚染土壌の放射能量が8000ベクレル以下なら安全と言ってますが、1キュリーは370億ベクレルという値です。

私はチェルノブイリ事故から10年後の96年と翌97年に、ベラルーシとウクライナを訪問しましたが、現地の人から「広島の有名な学者の調査」ということで、期待していたのに裏切られたという声を聞きました。

チェルノブイリ事故が起こった時、日本政府や電力会社などからは「あれはソ連という国だから起こったのだ。民主国家の日本では起きない」という言葉が発せられたのを覚えています。

チェルノブイリはたいしたことはない、事故後増加した甲状腺がんについても、「検査件数が多いからがんになった」とか、過疎地にがんが増えているという理由については「これまで検査していなかったから、その数が表面化した」という、福島原発事故のときに、「すぐに影響はでない」「たいしたことはない」「考えすぎだ」などを繰り返した、日本政府と同じだと実感しました。汚染した土地の処理、避難者の帰還の基準についても、日本とまったく同じです。そして、マスコミなどの報道の極端に縮小したのも、これまたそっくりだと感じました。そのためか、世論の関心も薄れているように思います。

IAEAやWHO(世界保健機構)などの国際機関が、市民の立場に立った組織ではなく、原子力推進の組織だということを、改めて知らされました。まだまだチェルノブイリの被害は続いています。

「20世紀に人類が起こした三つの愚かな行い」として、アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリを言われますが、そのことも考えていました。

さて私事になりますが、地域の町内会長を4年、連合町内会長を4年、計8年間地域活動に関わってきましたが、20日に開催された総会で退任することが出来ました。

町内会加入世帯の減少、役員の担い手不足などは全国的な課題です。このことは、子ども会やPTA活動にしても、市民運動にも共通していると思いますが、それなりに多くのことを学ばせてもらった8年間でした。今は、やっと卒業できたというのが率直な気持ちです。

木原省治

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2025年4月24日 (木)

「屍の街」の章題

18日の大田洋子文学碑の碑文と「屍の街」: 新・ヒロシマの心を世界にで、大田洋子の話は終わりにするはずでしたが、「つづき」がでてしまいました。

大田洋子の著書「屍の街」は、様々な形で出版されています。初出は、1948(昭和23)年11月10日発行の中央公論社版です。このときは、アメリカ占領軍のプレス・コードを憚って「無欲顔貌」章を削除して出版しています。この中央公論社版削除部分「無欲顔貌」の章を増補、字句大幅に訂正、章題「酷薄な風と雨」に変更して、1950(昭和25)年5月30日に冬芽書房から、出版されました。(以上、1982年発行:大田洋子全集第一巻「解題」より)

今週に入って、書棚を整理している時、目に入ったのが、1972(昭和47)年7月に潮出版から発行された「屍の街」です。この本は文庫本ですが、カバー表紙に丸木位里・俊の「原爆の図」の一部が使われています。このカバー表紙が気になり古本屋で購入したと思われます。

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開いてみる先日手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)にあった「章題」がありません。「エッ?」です。最後まで見たのですが、やはりどの章も数字だけです。

文庫本には、ほとんどの本に「解説」がついていますので、「章題」について何か記述はないかと、「解説」を読むことにしました。

この本の「解説」は、文芸評論家・近代文学研究者の小田切秀雄が「解説ー現代の地獄、その証言」のタイトルで、7ページにわたって書いておられます。その中で小田切は、「章題」を削除した理由を次のように書かれています。少し長いのですが、引用します。

「作者がたまたまそこの居合わせたためにその現世の地獄にまきもまれ、傷ついて死にひんし、空前の大量の死のなかで偶然によってかろうじて生きのび、ペンによってそれの表現にむかって立ち向かっていったのは1945年8月6日、広島にアメリカが落とした原子爆弾による大都市破壊、人間破壊である。そのすさまじさは、現世の地獄、などということばなどではとうていおおいきれぬもので、この作品の各章に、初版本では「鬼哭啾々の」とか「運命の街・広島」とか「街は死の襤褸筵(ぼろむしろ)」という一見きわめてどぎつい題がつけられていたのにたいしても、敗戦以前のこの作家の作品をいくらかでも知っている者は、この作家の必ずしも文学的ともいえなかった傾斜の側面と結びつけて、一種の抵抗感をもったに相違ないのだが(それでのちに作者は各章ごとの題を取ってしまったのだが)、この作品の内容を読み進むにしたがってそのどぎついという抵抗感など消えてゆくばかりか、そういうどぎついと見られることばをもってしてもまだ足りないこと、もっとつよいほかのことが必要なのだが、それがまったく見つけにくいほどのものであることが、しだいに明らかになってくる。(その意味では各章の題はあってもよかったのだが、ここではのちに作者が取去ったのに従うことにした)敗戦までのこの作家の仕事につきまとっていた一種の我中心主義風の傾斜と、それにともなう・・・」(原文のママ)

赤字の「私」は、「秋」の間違いと思われます。問題は、私が引いた下線部分です。

作家の作風や文体などのことは、私には分かりませんが、この小田切の解説を読むと、「章題」をとったのは、「作者の意思」であることになります。

私の手元には、「屍の街」が収録された本がもう一冊あります。2011年6月に集英社から発刊された「戦争文学 ヒロシマ・ナガサキ」です。

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すぐにこの本でも「章題」を確認しました。最初の手にした「平和文庫」(2010年7月初版 日本ブックエース)と同じように、「章題」がついています。

「あれっ」と思います。小田切が、解説を書かれた1972(昭和47)年には、すでに大田洋子は亡くなって(1963年12月10日没)います。小田切が指摘しているように「章題」を省略したのが作者の意思であるなら、なぜその後の出版されたものでは、作者の意思を無視したかのように「章題」が復活したのか?ということで。

気になりますので、広島市立中央図書館に行って調べることにしました。その結果は、26日に紹介します。

(敬称略)

いのちとうとし

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2025年4月23日 (水)

2025年4月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー農園にも春が広がっている。生き物が活発で山の木々も薄緑色の葉を広げているし、ブルーベリーの葉も少しずつ芽吹いてきた。農園での作業は安芸区の自宅から通い、摘み取ったブルーベリーの大部分を安芸の郷に納品しているので収穫のカギを握るブルーベリーの剪定は手が抜けない。ブルーベリーの木の全体のほぼ70%が終わったがまだ300本余りの剪定が残っているが、春の景色や生き物と出会うと手を休めることがつい多くなる。

418日(金) ブルーベリーの剪定でたまった枝を野焼きする

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里山のヤマツツジが満開

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421日(月) 気温が20度を超す日が続く。クマバチが元気に飛び交う

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ブルーベリー畑の地べたでは野の花がいろいろ咲いている

①ヘアリーベッチ

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②レンゲ

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③スミレその1

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④スミレその2

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ブルーベリー畑での剪定作業を続けるが、その間中オスのキジが時々鳴いて羽ばたきするのでキジの声のする方向を作業の手を休めて探す。冬に見かけてときはやせていたが今は筋肉がついたのか大きくたくましくなっている

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キジのいた畑ののり面で、長さが約73mある電気柵が強風で倒れているのでイボダケをポールの側に立てて縛って元に戻した

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剪定作業を済ませて農園の見回り

①早生のブルーベリーの花が咲きだした。マルハナバチなどのミツバチはまだ来ない

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②里山のブルーベリー園からの眺め。桃色の花木ハナズオウの向こうに水を張った田んぼが見える。今月末から5月初めにかけて田植えが始まる季節

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年4月22日 (火)

三原地区の4月の「19日行動」

4月19日(土)17時30分から三原駅前において16人が参加して定例「19日行動」を実施しました。

開会にあたり司会者が「戦後の平和を守ってきた日本国憲法が5月3日に施行78年を迎えます。戦後の日本は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓って再出発しました。しかし、政府は安全保障環境の悪化を理由に防衛費を増強し再び戦争する国にしようとしています。私たちは、戦争をさせない運動を地域で行っています」と述べて街頭行動を始めました。

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マイクを持った弁士は、

「福島原発事故から14年。事故はいまだ収束しておらず被害が続いている。故郷を奪われ、仕事を奪われ、家を奪われ、コミュニィテーを奪われ、人間関係を奪われていることを忘れてはならない。原発事故を風化させず、原発のない社会を作るため取り組んでいきましょう」(三原地区労働センター事務局長)。

「憲法を暮らしに活かす立場で議会内外において市民の皆さんとの共闘を広げながら頑張っていきます」(寺田市議会議員)。

「米国トランプ大統領の政治手法は恫喝、いうことを聞かなかったらどうなるかわからないというやり方だ。関税交渉で日本の軍備を自前で強化しろと要求しているようだ。日本が戦争に巻き込まれることに対して強く反対しよう。そして平和な我が国、平和なアジア・世界のために私たちの地道な取り組みが結ばれると思う」(政平市議会議員)などとスピーチしました。

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市内在住の岡崎さんは、「日本の国会状況、とんでもない金額が毎年軍事費として計上され、ほとんど議論されていない。私たちは本当に憲法で保障された安心して平和で暮らせる社会にするためにしっかり政治を見ていかなければならない」。「今年はあの忌まわしい戦争が終わって80年という節目になります。戦争の結果、日本は戦争を絶対しない、戦争する道具は一切持たないことを宣言してきました。しかし残念ながら私たちを取り巻く状況は大きく変わろうとしています。戦後80年、憲法改悪NO!を大きく、広く叫び続けていかなければならないのではないでしょうか」。「アメリカトランプ大統領のやり方はとんでもないことです。日本が追従してアメリカと一緒になって戦争する国にこのままだと必ずやなってしまうのではないかと危惧しています」。「私たちの行動は小さい力ですが、街頭に立って皆さんが声を上げて、今の私たちを取り巻く状況や日本の政治状況を憂いて街頭行動を頑張っています。私は本年8月15日で満83歳になります。我が国の政治をただす。戦争させない国にするために皆さんと一緒にこの行動に参加し頑張っていきます」と訴えました。 

岡崎さんのスピーチを聞きながら、88歳で亡くなられた大江健三郎さん(「ノーベル文学賞」作家、「さようなら原発1000万人アクション」呼びかけ人、「戦争をさせない1000人委員会」呼びかけ人)の言葉がよみがえりました。・・・「やがて80歳になる老人の僕にでもできること、集会に行こうじゃないか、デモをしようじゃないか、そして、それを続けて行こうじゃないか。」

藤本講治

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2025年4月21日 (月)

府中地区 4月の「19日行動」

安保法制に反対する府中市民の会は419日、初夏を思わせる暑い日差しの中でまちかどツアーを行いました。

今月から夏時間での実施で、1530分から上下Aコープ前に6人、17時から府中天満屋前に6人が集まりました。土曜日で行楽帰りの車が多く、横断幕をよく見てくれました。反応も良く手を振ってくれるドライバーが多く見られました。

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以下、弁士の発言要旨です

 「アメリカは他国に貿易搾取されている」というフェイクニュースを吟味しない悪い癖が蔓延しては困る。攻撃的な貿易戦争関係ではなく、今こそ憲法9条を使って平和的国際関係を提唱するチャンスではないか?戦前と同じ状況になっていることを忘れずに、戦争の芽を早く摘まなければならない。」

「安倍政権は安保法制で集団的自衛権の扉を開き、岸田政権は安保関連3文書で敵基地攻撃能力保持を許したが、軍隊は市民を守らない。年8兆円の軍事費を市民生活に使わせるため、声を上げていこう。米の値段も高すぎる。農家を守るため所得補償を。農家を守って消費者を守れ。消費者は傍観者でいてはいけない。トランプは温暖化防止の取り組みを次々に止めているが、世界は米国のものではない。温暖化防止のため自分が何ができるか考えていきたい。」

「イスラエルによるガザの虐殺について話したい。これまでに5万人の死者、2万3千人の孤児が発生している。国連職員や医療人や200人以上のジャーナリストをイスラエル軍は見境なく、というよりは狙って殺害している。イスラエルの最大の援助国はどこか?米国だ。金も武器も提供し、ネタニヤフに逮捕状を出した国際裁判所職員の米国内資産の凍結までしている。その米国に従っているのが我が国だ。情けないことだ。ガザを救うよう、声を上げてほしい。」

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 「自衛隊は近々、北海道で他国を攻撃する訓練を行うという。沖縄では11〜12万人の避難訓練を行うという。捨て石にされたという沖縄戦の教訓を忘れず学ぼう。建設国債の名で防衛費の一部を賄おうとするのは戦前と同じ過ちを繰り返すこと。市民はそれぞれの生活の場で話し合ってほしい。戦争への道を食い止めたい。」

「大飯原発で作った水素が客船用の燃料として大阪万博で使われるという。始まったから仕方ないとは言わせない。安保法制も同じ。おかしいと思ったことには黙らないでいこう。カープが今日も勝った。試合は相手を尊重し正々堂々戦ってこそ成立する。国際関係も同じ。相手を打ちのめしても国際関係は築けない。広島出身ではない若い友人がカープが好きだという。平和を希求する市民が産んだ球団だからだそうだ。若い人がこうした見方をすることに希望を感じる。」

石岡真由美

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2025年4月20日 (日)

ジャネット・ゴードンさんの訃報

原水禁運動にとって大切な人をまた一人失いました。その人は、ジャネット・ゴードンさんです。

この訃報を知らせてくれたのは、このブログの執筆者の一人木原省治さんです。「ジャネット・ゴードンさんが,3月に亡くなったそうです。豊崎博光さんからの電話で知ったので、詳しいことは豊崎さんに聞いてみてください」

ジャネット・ゴードンさんは、県原水禁が1984年以来毎年1月27日に平和公園原爆慰霊碑前で行っている「ネバダ核実験場閉鎖を求める国際共同行動・ネバダ・デー」を呼びかけた人ですので、ひょっとすると名前は聞いたことがある、と思い出される人もあるかも知れません。

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豊﨑さんは、カメラマンで世界のヒバクシャを写真に撮り,世界に広めた人です。原水禁国民会議の様々な活動に長く協力していただいている豊崎博光さんに電話をすると「ジャネットの姪御さんが、ジャネットのこと本にしたいと以前から何度か問い合わせがあったのですが、先日の電話で3月に亡くなったと言うことを知らされました。5月23日には86歳の誕生日を迎える予定だったそうです。」と教えていただきました。

ジャネット・ゴードンさんは、1980年にネバダ核実験場の風下地域のユタ州南部の市民の被害調査と被爆者支援のための市民グループ「市民の声」(シチズンズ・コール)を結成した創立者の一人です。後に全米被曝者協会会長も務めました。

1982年の第2回国連軍縮特別総会に参加された森滝市郎先生と初めて会い、1985年の原水禁大会国際会議に参加するため初来日し、ネバダ核実験場の風下住民の核被害の実態を訴えるとともに、翌年の大会にも参加し、1987年ニューヨークでの「第1回核被害者世界大会」の開催に大きく尽力しました。「第1回核被害者世界大会」では、受け入れ側のアメリカの中心的な役割を担った一人です。下の写真は、「第1回核被害者世界大会」参加者が市内デモをする直前に豊崎さんが写してものです。豊﨑さんの許可を得ていますので、掲載します。

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中央の森滝市郎先生のすぐ左側(写真では向かって右)に立っているのがジャネット・ゴードンさんです。私は、森滝先生の随行者としてこの大会に参加しましたので、よく知っているのですが、ジャネット・ゴードンさんが,森滝先生をほんとうに気遣っている姿が、今も忘れられません。そして私のことを「ボーイ、ボーイ」と呼んで、親しく声をかけてくれました。

原水禁大会に参加した多くの海外代表の中でも、忘れることのできない一人です。

ですので、森滝先生が1994年1月25日に亡くなられ2月5日にお別れ会を開催することになり、海外から誰かを呼びたいと相談した時、一番に声が上がったのがジャネット・ゴードンさんでした。電話でお願いをすると快諾を得、厳しい日程にもかかわらず、来広してくれ、お別れのあいさつをしてくれました。思いのこもったあいさつの一部を紹介します。

1982年に初めて会ったことに触れた後「あなたは偉大な見識と威厳を備えた人でしたが、同時に温かさと優しさ、それにユーモアにあふれる人でした。あなたは核戦争の恐ろしさを直接体験し、理解されていました。どこの核被害者についても心を痛め、世界全体を核兵器の恐怖から守ろうと望まれました。・・・あなたの誠実さは、あなたの背筋と同じく強靱で、真っ直ぐなものでした。精神においても,実行においても素晴らしい人でした。」そして最後に「森滝先生は去られましたが、先生が私たちの心や記憶から消えることは決してないでしょう。先生は私たちに,そして世界に、その一生にわたる活動と業績という贈り物を遺されました。その精神、賢明さ、強さは、将来にわたり私たちを導き続けることでしょう。森滝先生、さようなら」

私は、これと同じメッセージをジャネット・ゴードンさんに送ります。

ジャネット・ゴードンさん、さようなら。

いのちとうとし

【編集者】今日は、あかたつさんの「ベトナムの歴史」の予定でしたが、都合により掲載できなくなりましたので、いのちとうとしの原稿に変更しました。

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2025年4月19日 (土)

三つの鼻

広島に三つ?の鼻があるのをご存知ですか。

ちょうど一週間前の土曜日、NHKが一年前に放送した「新日本紀行―広島 七川 春模様」の再放送を見ながら「三つの鼻」のことを思い出しました。

平和公園を案内し「慈仙寺の跡」や原爆供養塔などを説明する時「この地域は、昔慈仙寺の鼻と呼ばれていました」と説明することがよくあります。

でも「慈仙寺の鼻」の由来については、「慈仙寺」という大きな由緒あるお寺があったからと言うところまでは説明できても,なぜ「鼻」と呼ぶのかを深く考えてことがありませんでした。せいぜい「相生橋に向かった細長く伸びているから」ぐらいにしか考えていませんでした。

ましてや、ここ以外にも二つの「鼻」がある」ことなと全く知りませんでした。

ところが最近,本の整理をするため書棚の本を見直していたところ、「『温故知新』川のまち がんばれ広島の太田川」が目にとまり、開いてみました。この本は、広島太田川ライオンズクラブがCN25周年大会の事業の一環として2000(平成14)年に発行したものです。

太田川にまつわる「逸話」や「源流ー上流ー中流の流れ」「昔のこと」「川のめぐみ」「七つの川の城下町」などのタイトルで、興味深い内容が書かれています。

「鼻」が登場するのは「七つの川の城下町」の「真ん中を流れる本川」の項です。少し長いのですが引用します。

「『七つの川』の時代、西に山手川・福島川・天満川,東に元安川・京橋川・猿候川と、東西にそれぞれ3本の川を従えて真ん中に流れるから『本川』と言う意味で本川と呼ぶようになったのでしょうか。七本の川があった当時の本川についての説明は、『白島北町一本木ノ鼻上流で、右岸三篠町(楠木町)、左岸牛田町から南流し・・・海に入る』と書かれています。」

ここで二つの図が示されています。

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さらに本文が続きます。

「上の図で分かるように,長束と大柴の間の下流は昔、陸地でした。源流の吉和村から流れ出し、途中、幾多の支流を受け入れながら『太田川』として流れてきて、初めて分かれる地点は、長い間ずっと、白島の『一本木鼻』だったのです。

川と川との分岐点、三角形の土地のことを,その形から『鼻』と呼んでいます。本川と元安川の分岐点となる中島の北端に慈仙寺というお寺があったので、『慈仙寺ノ鼻』、京橋川と猿候川の分岐点は『台屋ノ鼻』と呼ばれていました。」

川と川の分岐点を「鼻」と呼び『一本木鼻』『慈仙寺ノ鼻』『台屋ノ鼻』の三つの鼻があったことが紹介されています。三つの鼻の今の写真です。

「一本木鼻」です。

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現在は、ホームテレビの本社が建っています。

「慈仙寺ノ鼻」です。相生橋の向こう側です。

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「台屋ノ鼻」です。

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この「鼻」に名称の由来について次のような記述があります。「台屋ノ鼻で京橋川から猿候川が分かれていきます。南区京橋町の浄土宗源光院というお寺は別名『台屋寺』といい、かつてこのあたりは台屋町とも呼ばれていました。台屋ノ鼻は、その先端にあることから名付けられました。この地区の古くからの住民はただ単に『出鼻(でび)』と呼んでいるそうです。」

これでも「三つの鼻」があったこと、そしてその名称の由来は分かりました。

ただ、疑問が一つ残ります。「川と川の分岐点、三角形」を「鼻」と呼んだことは分かりましたが、この条件を持つ場所がもう一ヶ所あります。

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上の写真は本川と天満川が分岐する三角形です。見え難いのですが、桜の向こうに別院の屋根が見えます。「鼻」と呼ばれる他の三ヶ所と同じ地形のように見えますが、この本では、この地は「鼻」としては記述されていません。文中では「お城の堀の取水口と基町堤防を左に眺め、ゆっくり下っていくと,右手の寺町で天満川と分かれていきます。中央公園、空鞘橋と過ぎていくと,T字型の相生橋が待っています。」と天満川と分岐していることだけが記述されているだけです。やはり「鼻」の地名はなかったと思われますが、なぜここは、「鼻」と呼ばれなかったのか疑問が残ります。広島の地名や行事などの古い話を紹介する「がんす横丁」(4分冊)を探したのですが、それらしい記載はありませんでした。

もし、理由をご存知の方がおられ寺教えてください。

いのちとうとし

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2025年4月18日 (金)

大田洋子文学碑の碑文と「屍の街」

昨日で終わる予定でしたが、今日も大田洋子の話です。

今日は、昨日紹介した旧玖島小学校に建つ大田洋子文学碑に刻まれた碑文のことです。

ブログの原稿を書いた後、もう一度「屍の街」を読んでみようと書棚の本を開きました。私が所持する本は、日本ブックエースが発行する「平和文庫」シリーズ「屍の街」です。

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文学碑の碑文は、読み始めてすぐの「屍の街」の最初の章「鬼哭啾々の秋 2」から

引用されています。何度か読み返したのですが、原文と碑文には、少し違いがあります。

該当する原文です。

陽のなかを,近くの小学校から帰ってきた小さな少女のひと群れが、にぎやかに喋りながら通りかかった。私は二階から村の少女たちを眺めていた。

十一,二歳の,もんぺズボンをはいた少女は、ふいに立ちどまり、思い出したようにつよい太陽をふり仰いだ。そして額に手をかざしながら云った。

「おお、いべせやいべせ(ああとてもこわい)天に焼かれる!原子爆弾―」

ほかの少女たちもいっせいに空を向き、太陽を仰いで、恐ろしそうに両手で頭をおさえたり、顔をおおった。」

碑文では、下線部分が省略されています。

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そのため、原文では「ふいに立ちどまり、思い出したように」の主人公は、「十一、二歳の、もんぺズボンをはいた少女」であるのに対し、碑文では「小さな少女のひと群れ」になっているので、カギ括弧後の「ほかの少女たちも」という書きぶりに少し違和感を持つことになります。

誰がどんな考えで、このような文章に変えたのか?今となっては、それを知ることはできないでしょう。

原文では、この後「天に焼かれるという,子ども表現は面白い。あの朝の青い閃光は,この村までも染めたのである。―広島市から村までまっすぐにして六里―。」と続き、遠く(約24キロ)離れた玖島でも,閃光を感じたことが記されています。この文章で、子どもたちが「おお、いべせやいべせ(ああとてもこわい)天に焼かれる!原子爆弾―」と言った意味がより理解できます。

実は昨日、碑文を書きながら,「おお、いびせやいびせ」はどういう意味だろうと思いました。原文には、( )書きで「ああとてもこわい」と訳が書かれています。これを読めば言葉の意味を理解できます。ところが、二つの文章をよく比べると気になることがあります。この文言、原文は「いべせやいべせ」となっているのに碑文では「いびせやいびせ」と表現が変えられています。言葉を変えることで、地元の人には、その意味を説明する必要がなくなったので、碑文では( )書きが省略されたのでしょうね。

いずれにしても「屍の街」、完読したいと思います。

もう一つ気になることが出てきました。

昨日のブログで、大田洋子は、「同校を卒業した後、4月に広島市の進徳高等女学校(現在の進徳女子高等学校)に入学して、この地を離れています。」と書きましたが、この記述は正確ではありませんでした。

正確には「同校を卒業した後、4月に広島市の進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)に入学して、この地を離れています。」書くべきでした。

進徳女子高等学校の沿革史を見ると「明治44(1911)年3月 進徳実科高等女学校設立 昭和10(1935)年2月 進徳高等女学校と校名改称 昭和23(1948)年3月 進徳女子高等学校と校名改称」となっています。

大田洋子が入学した1918年は、大正7年ですので、当時の校名は「進徳実科高等女学校」と言うことになるからです。

今度こそ、大田洋子の話は終わりです。

いのちとうとし

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2025年4月17日 (木)

「松本商店」と旧玖島小学校の大田洋子文学碑

「松本商店」は、秋葉さんに「郵便局の向かい側で、いまはパン屋さんになっている」と教えられていましたので、今度は「郵便局」を目標に車を走らせました。

楢原の交差点を過ぎ、少しだけ秋葉宅の方に進むと右手に「玖島郵便局」があります。最初通った時には、楢原交差点のすぐそばだと勝手に思い込んでいましたので、見逃して通り過ぎたようです。

ここで車を止めて、反対側を見ると「手造りパンの店 夢工房」の看板がかかった家を今度は見つけることができました。

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いまはパン屋さんになっていますが、この建物が、旧雑貨店「松本商店」で、大田洋子は,ここの2階を借りて45年8月から11月まで「屍の街」を執筆したのです。建物骨格は当時のままで、2階の左側の部屋を使っていたそうです。

大田洋子は、「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの」と作家の責任として、ここで自分が目にした被爆の惨状と恐怖を障子紙やちり紙まで使って懸命に書き続けたといわれています。

この後、トイレが使いたくなったので、郵便局の裏手にある廿日市市玖島市民センターに入りました。図書館に人影がありましたので「大田洋子さんについての何か資料はないですか」と尋ねると「すぐ近くの佐伯民俗資料館にあると思います」と教えていただきました。

玖島市民センターには、図書館も併設されているのに大田洋子に関する資料はないのかと思いつつ、すぐ近くの佐伯民俗資料館に移動しました。

佐伯民俗資料館は、日曜日は開館していますが、閉館時間が午後4時となっています。すでに閉館時間が過ぎていますので、不安に思いながら、玄関の戸を開けるとカギがかかっていません。まだ事務室に一人残っておられましたので、「時間が過ぎているのに申し訳ありません」と断りを言いながら中に入らせていただきました。

佐伯歴史民俗資料館は、佐伯地域の歴史的・文化的な遺物や書籍、古くから使われていた農機具や日常の生活用品などが収集され、保管されていますが、玄関を入ったホールには、被爆作家太田洋子の写真や執筆原稿などが展示されていました。

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展示された資料には、大田洋子が、1946年(昭和21年)春に松本家から次に住んだ家やその後次の執筆活動を行った家などの興味深い情報がありましたが、すでに閉館時間を過ぎていましたので、写真だけ撮らせてもらいました。

退館する前に「パン屋さんの建物は見たのですが、それ以外に大田洋子に関する碑などはありませんか」と尋ねたところ、「パン屋のもう少し先に玖島小学校跡がありますが、そこに『大田洋子の碑』が建っていますよ」と教えていただきました。

すぐに玖島小学校跡めざして移動します。玖島小学校跡は、郵便局を過ぎて少し先にありました。

大田洋子が通っていた当時と同じと思われる校門を入るとすぐ右手(写真は、校門の内側から写しているので写真では左端)に「大田洋子文学碑」があります。

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大田洋子の母トミが、9歳のとき再婚したので、一緒に佐伯郡玖島村吉末に移り住み、玖島尋常高等小学校尋常科(1947年に玖島小学校と改称)5年生に転校し、15歳まで玖島で生活していますので、この学校の卒業生です。同校を卒業した後、4月に広島市の進徳高等女学校(現在の進徳女子高等学校)に入学して、この地を離れています。

この碑は、大田洋子が亡くなって15年後に建立され、碑には、「屍の街」でここが舞台となった一節が刻まれています。

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「近くの小学校(玖島)から帰ってきた小さな少女の一群が、ふいに立ちどまり、思い出したようにつよい太陽をふり仰いだ。そして、額に手をかざしながら言った。

「おお、いびせやいびせ 天に焼かれる!原子爆弾ー」

ほかの少女たちも いっせいに空を向き,太陽を仰いで、恐ろしそうに、両手で頭をおさえたり、顔をおおった。

大正7年卒業 大田洋子 「屍の街」より」

碑の一番下には、「1978.8.6 玖島小学校児童会」と刻まれています。後輩にとっても自慢の卒業生だった様子がうかがわれます。

昨年8月に中央公園のサッカースタジアム西側に移設された「大田洋子文学碑」も同じ年の1978年7月に建立されています。

帰宅後知ったのですが、旧玖島小学校の校舎は、2022年から交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されており、館内に設けられた「くじま知ルーム」には、大田洋子に関する資料も一部展示されているそうですが、今回は見ずに返りました。

準備不足の上、短時間の訪問となってしまいましたが、前田さんの好意で、思いがけず玖島での大田洋子の一部を訪ねることができた貴重な時間となりました。

いのちとうとし

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2025年4月16日 (水)

大田洋子の墓とイチリンソウ

日曜日の午後、前広島県被団協事務局長の前田耕一郎さんと二人で桜の花が咲き誇る廿日市市玖島の秋葉忠利さんのお宅を訪問しました。

2時間ほど懇談し帰宅の途についた時、少し寄り道をすることにしました。

玖島は、被爆作家大田洋子が、広島市内白島の妹宅で被爆した後、市内から逃れて身を寄せた場所で、お墓もあります。

以前からそのことを知っていましたので、いつかは訪れたいなと思っていました。

玖島に来たのは秋葉さん宅を訪れるのが主目的でしたが、来がけの道路標識に「大田洋子の墓→」の案内板があったのを思い出し、まだ午後4時前で少し時間がありましたので、探してみることにしました。急に思いたったので事前の準備がありません。秋葉さんにおおよその場所をきき、目的の場所を目指しました。

玖島の楢原交差点から西に500m程進み、二股に分かれる道を左方向に川沿いを7~800mほど進むと,川の対岸の墓地に「太田洋子の墓」と刻まれた墓が目に入りました。大きな文字で刻まれていますので、車で走っていてもちょっと気をつけていれば、目にすることができます。間違いありません。

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大田洋子が、ふるさとの思い出の一つ「静かな音を響かせて流れる月夜の川音」としてあげた川と思われ,いまも清流が流れる吉末川にかかる小さな橋を渡って墓地に入ります。墓地の一番左端に大田洋子の墓があります。

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スマートですが周りの墓より少しだけ背が高い墓石です。表には「作家 大田洋子の墓」と刻まれています。

日陰となっているので読み難いのですが、裏にはと縦書きに3行で「昭和三十八年十二月十日 福島県猪苗代湖中の沢温泉に於て頓死 享年六十一歳」で刻まれています。

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墓は見つけることができたのですが、ここまで来る時に見逃した大田洋子が被爆後、玖島に戻り45年8月から11月まで「屍の街」を執筆したという雑貨店「松本商店」を探しに、来た道を引き返すことにしました。

ただ、この道路沿いに何本も立っている「イチリンソウ」と書かれた幟が気になります。すぐ近くで、鯉のぼりの柱を準備されている人の姿がありましたので、「イチリンソウってどこに生えていますか?」と尋ねると、「横の小道の突き当たりの斜面に生えています。いつもの年ならもう花が咲いても良い頃なんですが、今年は寒かったのか、今朝見た時はまだ花が見つかりませんでしたよ」と教えていただきました。

それこそ、ダメもとの気持ちで教えていただいた斜面まで歩きます。

斜面は、きちんと整備されています。

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目をこらして、花を探しますが、確かになかなか見つかりません。何せ、イチリンソウの花を見たことがないのですから、どれがイチリンソウなのかも分かりません。

それでもと思い、斜面を見ながら少しずつ移動します。少し移動すると何とか一本だけつぼみを見つけることができました。

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目をこらしてみなければ見つけることができないほど小ささなつぼみですが、間違いないように思います。ちょうど散歩途中の二人連れの女性が通りかかられましたので、「これイチリンソウのつぼみですよね」と聞くと、「そうです。今年は遅くなっていますが、間違いありません。いつもこの辺に沢山出てきますから。ただ最近は、アザミが増えて、イチリンソウがだんだん少なくなっているのですよ」と教えていただきました。

この言葉に励まされてさらに探していると,前田さんが「花が咲いていますよ」と嬉しそうに教えてくれました。

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アップで撮りました。

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ほんの数株でしたが、なんとか可憐な花をつける「イチリンソウ」を見つけることができました。思いがけない出会いです。

帰りがけに,道を教えていただいた方に写真を見てもらうと「イチリンソウに間違いありません。ようやく咲き始めたのですね」と嬉しそうな声が返ってきました。

花が見つかったので、安心して「松本商店」を探すため道を戻りました。この後の様子は明日紹介します。

いのちとうとし

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2025年4月15日 (火)

2025年4月のブルーベリー農園その2

ブルーベリー畑の見回りをしているともうヘビも冬眠から目を覚まし散歩しているのを見かける。東広島市豊栄町のブルーベリー農園から帰りに廊下を見るとマルハナバチがへたりと座っているので夜は冷ええるので砂糖水を小皿に入れて小枝を止まり木代わりにおいて帰った。翌日来てみるとどうにか生きていたので外の草むらに放してやった。かすかに羽音を響かせてくれたのでバイバイした。多分女王バチだろうと思われる。カエルのはき声もにぎやかになってきて中の春は生き物たちとの出会いがいろいろと多い。

48日(火) 農園の周囲では水を張る田んぼもあって田植えの準備が進んでいる。この辺りは5月の連休に田植えする農家が多い

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豊栄のホームセンターに買い物に行った帰りに、近くの川の土手を見る。タンポポとオドリコソウの花がわさわさと咲いている

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農園の庭には石の片隅でスミレが咲いている。昨年はなかったので庭に住み着いてくれたらしい

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411日(金) こちらは家の前の里道の隅に咲く白色のスミレ

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412日(土) ブルーベリー畑の地べたもすっかり草に覆われる中で剪定を続ける

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413日(日) 雨が上がって午後から農園でブルーベリーの剪定作業を続ける。里道で雨に洗われたムスカリの青色が鮮やか

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農園の管理するため池を見回りの帰りに小さい小さい池の中でミズスマシが光と影でを受けてせわしなく動いていた(影の右にミズスマシが浮かんでいる)

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庭のグミ(グイビ、グイミともいう)の木の蕾がふくらむ

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早生のブルーベリーの蕾からは花が姿を見せた。口はまだ閉じている

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サクラ(ソメイヨシノ)も花が散りだした。手前のブルーベリーの蕾は日に日に大きくなっている

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ブルーベリー畑では背の高くなったナズナの前で負けじ、と昨秋種をまいたレンゲが葉を伸ばし花を咲かせだした

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年4月14日 (月)

梶山夫妻の結婚の誓い

 中国新聞連載の「ヒロシマドキュメント被爆80年」は、毎回楽しみにして読む記事です。12日付の「お好み焼き店開業」で登場するお好み焼き「KAJISAN」は、何度か食べに行った店です。昨年長く休業の札が下がり、「いつ再開されるのか」と期待していたのですが、確か秋口だったと思いますが、遂に「閉店」を知らせる紙が入り口に貼り出されてしまいました。いまどうされているのかな、と思っていましたので、懐かしく記事を読みました。

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この記事を読みながら、梶山夫妻の結婚のはなしを書いた資料が合ったことを思いだし、探しました。

中国新聞紙面で森滝市郎先生の名前とともに登場する「広島こどもを守る会」の会報18号です。

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発行日は、1962年4月30日です。発行所は「広島こどもを守る会 広島大手町8丁目広島平和会館内」です。この住所は、広島県被団協の事務所です。当時の大手町8丁目は、現在の大手町4丁目です。

会報の1ページ目は、「九周年を迎えて」のタイトルで「会長 森瀧市郎」の挨拶文が掲載されています。この文章を読むと、梶山夫妻以外にも前年末にK・Uさんが結婚されたことが紹介されています。梶山夫妻の結婚について次のように書かれています。

「テレビ結婚式でのかの新郎新婦の誓い言葉がありふれた形式の言葉でなく『平和のまもりて』としての強い真実のひびきを発した時に思わず『あっ』と心中に叫んだのである。『これあるかな。私たちの仕事はみのったのだ』と私はまるでみのりの秋の美酒に酔ったかのような満足を覚えたのであった。」

会報の2ページ、3ページには、「結ばれた精神養子 梶山君小椋さんのテレビ結婚」と題した中野千歳さんが書かれた結婚式の様子が写真とともに記載されています。

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左上の写真には、梶山夫妻と森滝市郎先生が写っています。右下の写真では、シャンソン歌手石井好子さんが、歌を歌っています。石井さんのことは、別の機会に紹介したいと思います。

今日は、森滝先生が感銘を受けられた二人の誓いの言葉が、全文掲載されていますので、それを紹介します。


私達はいま希望に満ちて結婚いたします。広島に若し原爆が落とされなかったら,お互いは相知ることもなく,今頃は親の元で勉学にいそしんでいることかも知れません。過去二十年間、淋しく苦しい日々を、ここに御列席の方やその他の方々の,はげましや物心両面の援助をいただいて成人の日を迎えることができました。

原爆は、私達の人生を大きく狂わせましたけれども、今は同じ境遇のもと。同じ願いに結ばれて自分達の家庭の幸せを考える時がきました。

これからは二人で協力して,私達のささやかな幸福が又,万人の求める世界の幸福につながるように努力して参ります。

右誓います。

昭和三十七年三月二十七日

   梶山 昇

   小椋 敏子


中野千歳さんは、この誓いを紹介した後「ききながら私は、日本中の人が心から、このけなげな二人を、不幸にさせない決心をすべきでないかと思ったことでした。」と記述されています。

「もう一度『KAJISAN』でお好み焼きを食べたいな」と思いながら、新聞記事とともに改めてこの誓いの言葉を読みなおしました。

会報の中野さんの記述によれば、会の子どもたちの中で,敏子さんは女子としては7人目のお嫁さん、男子は梶山さんがトップで、精神養子同士というのは初めてのことだったそうです。

梶山敏子さんは、森瀧市郎先生のお別れの会(1994年2月5日)で、広島子どもを守る会代表としてお別れの言葉を述べていただきましたが、その中で「三十二年前に,同じ境遇で結ばれてた私たち夫婦の結婚式に列席してくださり、祝辞をいただいたことを鮮明に覚えています。」触れています。

広島の歴史の一つをたどることができました。

いのちとうとし

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2025年4月13日 (日)

またまた被爆者の森のはなし

平和大通りの被爆者の森には、昨年、アスナロの代木として植栽された石川県のケンロクエンキクザクラ、京都府のシダレザクラ、奈良県のヤエザクラ(杉の代木),そして同じく昨年植え替えられた沖縄県のカンヒザクラとそれぞれ種類の違う4本の桜が植わっています。

今月1日のブログ「被爆者の森」の花: 新・ヒロシマの心を世界にで、そのうちの2本の様子を紹介しました。沖縄県のカンヒザクラはちょうど満開でしたが、その時「つぼみ」と紹介した石川県のケンロクエンキクザクラのことが気になりましたので、一昨日また現地を訪れました。すでに満開の時期は終わったようでしたが、いくつかの枝にきれいな花がまだのこっていました。

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今年も無事に咲いたようです。

京都のシダレザクラは、かなり散っていましたが、枝によっては充分に花を見ることができました。

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このシダレザクラは、満開になると見事な花を咲かせますので、来年は、満開の時期に訪れたいと思います。

ちょうど満開の花を咲かせていたのは、奈良県のヤエザクラです。

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ヤエザクラは、少し遅く咲き始めますので、ちょうどいまが満開でした。見事なものです。この花は、もう少し長く楽しめそうです。

サクラと広義的には同じ「桜」といってよい山形県のサクランボの様子が気になりますので、見てきました。

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見上げると、花はすでに終わり、小さいのですが沢山の実をつけています。数年前、子どもたちが熟したサクランボを食べていた風景を思い出します。今年は、いつ食べ頃になるのか、楽しみです。

被爆者の森で、いつも気になり必ず見に行くのが、北海道のライラックです。

1日のブログでは、「枝が小さすぎるのでしょうか、つぼみは全くついていません。以前にはこの時期につぼみがありましたので、今年は花は期待できないようです。」と書きましたが、今回もう一度見に行きました。

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近づいてよく見ると、右側に伸びた枝と手前に伸びた枝の2本の枝先に、まだまだ小さいのですが「つぼみ」がついています。右側の枝先です。

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手前に伸びた枝先です。

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小さな枝ですので、風にゆれてうまく撮れないのですが、間違いなくできたばかりのつぼみです。

このライラックは、いろいろなことがあり何度も植え替えられた木ですので、今度こそ無事に成長して欲しいと願っています。今年は駄目かなと思っていましたが、つぼみを見つけることができましたので、期待して見守りたいと思います。

いつ行っても何か新しいことが発見できる被爆者の森です。

いのちとうとし

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2025年4月12日 (土)

被爆地別の被爆者健康手帳所持者数

7日の平和公園巡りでは、四人家族を案内しました。

両親は、富山県出身で神戸市在住,妹さんも神戸市在住、知人の陶芸家は京都市在住です。

案内の資料を揃えるとき、直前になって「それぞれが関係する県の被爆者数を紹介しよう」と思いたち、広島市が毎年7月に発行する「原爆被爆者対策事業概要」の「令和6年(2024年)版」を取り出しました。

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その年の3月末現在の都道府県別、被爆者健康手帳所持者数が手帳区分(1号:直接、2号:入市、3号:救護介護従事者、4号:胎内被爆者)ごとに集計され、一覧表として掲載されていますので、そのページを探しました。

そのページを見つける前に、別の一覧表が目に入りました。その一覧表のタイトルは「被爆地別被爆者及び健康診断受診者証所持者数」となっており、こちらも都道府県別に集計されています。

その時は、少し急いでいましたので、余り疑問を持たずそのページ(2ページ)をコピーして、平和公園へ足を運びました。

そして平和公園案内の途中で、持参した資料を示しながら「富山県の被爆者は、30人ですね。富山県は、広島の被爆者より長崎の被爆者が多いですね。だいたい広島で被爆した人の方が長崎で被爆した人より多いのですが、富山は逆になっていますね。珍しい県です」と説明しました。その説明を興味深そうに聞いておられました。

その時は、富山県のことだけ話をしたのですが、長崎被爆に被爆者が多いことが気になったので帰宅後改めて見直しました。九州各県を除くと青森県、山形県など東日本の県で富山県と同様に逆転しています。どういう理由かは不明ですが、特に東海四県(岐阜県、静岡県、愛知県、三重県)では、大幅に長崎での被爆者が多くなっていることが分かりました。

今日の話はそれが主題ではありません。「被爆地別被爆者及び健康診断受診者証所持者数」の一覧表のことです。

「余り疑問を持たずに」と書きましたが、落ち着いて考えてみると,この資料初めて目にする資料のような気がしてきましたので、前年に発行された「令和5年(2023年)版」を取り出して、ページをくくります。「令和6年(2024年)版」に掲載されているページあたりを何度も何度も探しましたが、見つけることができません。

「被爆地別被爆者及び健康診断受診者証所持者数」を見ていると、もう一つ疑問が出てきました。区分を見ると「広島被爆」「長崎被爆」の次に「不明」という項があります。「不明」ってどういうこと?

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疑問を解消するためには、広島市に尋ねるしかありませんので、担当課に電話を入れました。

すぐに答えが返ってきました。

新しい資料の追加については「そうです、2024年度版に初めて追加した資料です。令和3年から広島市独自の調査として,各都道府県に4月の初めに『5月中旬を目途に報告して欲しい』と依頼して調べてきました。ただ当初は、合計人数が、厚労省が発表する被爆者健康手帳所持者数と一致しないものですから、掲載しなかったのですが、昨年の集計で、ようやく一致しましたので、掲載することにしました。」

「不明」の問題は、「各都道府県に期限をきってお願いしているものですから、充分に調査ができないで回答されている可能性があります。もう一つ考えられるのは、手帳申請時の台帳が、保存期間が過ぎたと言うことで、破棄されている可能性があります。これまできちんとした理由を聞いていなかったのですが、今年の調査では、『不明』があれ、その理由を尋ねてみたいと思います。」

いつも厚生労働省が発表する「被爆者健康手帳所持者数」を見ながら、広島、長崎の被爆地別の被爆者数はどうなっているだろうと思っていましたが、「不明」がありますが、広島市の努力で貴重な資料が作られたことになりました。

資料では「不明」となっている人数は、被爆者健康手帳所持者数106,835人のうち、660人ですが、やはり気になりますので、今年の発表を待ちたいと思います。

ちなみに、この一覧表によれば、広島被爆は66,493人、長崎被爆は39,682人となっています。被爆時の居住人口を考えれば当然のことですが、広島被爆が圧倒的に多くなっています。

この一覧法には、国外の被爆者健康手帳所持者の地域区分も掲載されています。手帳所持者は、2,481人、広島被爆は2,278人、長崎被爆は195人となっています。

広島市は、昨年の記者発表では、新しい資料を付け加えたことを発表しなかったようですが、独自の調査による貴重な資料ですから、もっと広めても良いのではと思います。

いのちとうとし

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2025年4月11日 (金)

フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会実行委員会が中電へ要請書を提出

3月11日に「フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会」を開催した同実行委員会は、昨日午前11時に山田延廣呼びかけ人、大瀨敬昭県原水禁事務局長など5名が中電本社を訪れ、集会で確認した「島根原発2号機の即時停止」など4項目からなる要請書を中国電力の地域共創本部吉田公武グループマネージャーに提出しました。

その後、吉田マネージャーから型どおりの要請内容に対する回答を受け、約1時間にわたり意見交換を行いました。

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SNSなどでは公開しないという中国電力からの要望を受け入れての要請書提出となりましたので、その内容については省略し、要請書の全文(前文を除く)を以下に掲載します。


要請内容

1.実行可能な避難計画すらない島根原発2号機の稼働を即刻停止すること。

2.島根原発3号機を運転しないこと。

3.上関原発の建設計画を白紙撤回すること。

4.上関町への中間貯蔵施設建設を断念すること。

理由

 1.福島原発事故が発生してから14年、廃炉作業は遅々として進んでいません。880トンと言われる燃料デブリの取り出しは、試験的な取り出しとしてわずか0.7グラムが3年遅れで取り出せたに過ぎず、廃炉に向けたロードマップも、実現不可能との指摘が多くの専門家の一致するところです。事故を起こした原発の廃炉作業がいかに困難なものであるかを示しています。

 そして何より、いまだに公式でも2万5千人を超える人々が避難生活を余儀なくされるなど、原発事故が与えた人々への影響は計り知れないものがあります。

福島で起きている現実は、原発がいったん重大事故を起こせば、数十年・数百年と世代を超えて人々に苦難を与え続け、一企業が責任を持って処理できるものではないことを教えており、原発の稼働は、人々の安心・安全を脅かす無責任な行為と言わざるをえません。

2.貴社は多くの反対の声を押し切り島根原発2号機を再稼働させました。事故が発生した際の避難計画のずさんさが様々に指摘されていましたが、その声が受け止められることはありませんでした。

とりわけ、昨年の能登半島地震では、北陸電力志賀原発で、変圧器やモニタリングポストの故障、想定を上回る基準地震動、複数断層の連動、一部の電源喪失など改めて原発の脆弱性や原発事故時の避難の困難さを明らかにしました。

もし、島根原発で同様の複合災害が発生した場合、現在の避難計画では住民の安全を確保できないことが示されたにも関わらず、再稼働を強行した姿勢は看過できません。2号機は即刻停止すべきであり、3号機についても稼働させることがないよう改めて求めるものです。

3.放射性廃棄物の処理も全く不透明です。使用済み核燃料の最終処分については、方法も場所もめどが立っていません。政府は、「核燃料サイクル」にこだわり続けていますが、高速増殖炉計画は破綻し、六ケ所再処理工場も1997年に完成予定であったものがすでに27回も延期されたままです。すでに発生した高レベル放射性廃棄物の処分方法も確定せず、地層処分を念頭に募集している最終処分場建設も全く目途が立っていません。

原発の再稼働を進め、新たな放射性廃棄物が日々作り出されているという国と電力会社の姿勢では、処分場建設が進むはずもありません。

しかも、「地域振興」という「金にものを言わせる」方法で、原発建設が進まない上関町に、今度は、中間貯蔵施設を建設しようというのは、あまりに住民をバカにした話と言わざるを得ません。

原発敷地外への中間貯蔵施設は、青森県むつ市に建設され、昨年国内で初めて稼働しましたが、その運搬も含め放射性物質をばらまくことにもなりかねず、また、そのまま最終処分地になるのではないかとの疑念も付きまとい、決して容認できるものではありません。

以上の理由からして、今貴社に求められていることは、原子力発電からの撤退です。原子力規制委員会も認めているように「原発に絶対の安全」はなく、事故を防ぐためには、原子力発電所を稼働させないこと以外にありません。

政府の姿勢に唯々諾々と追随することなく、今こそ原子力発電からの撤退で、失われた信頼を取り戻す第一歩とすべきです。


いのちとうとし

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2025年4月10日 (木)

台湾で原発ゼロの日がやってくる

5月17日、台湾が原発ゼロの日になります。

台湾本島の面積は、九州よりやや小さい3.6万平方㎞で、人口は約2,300万人です。

最初に基本的な台湾の原発状況について話したいと思います。民進党の蔡英文さんが台湾の総統に就任した2016年には、台湾で稼働中の原発は3カ所に6基ありました。蔡総統は「25年非核圏(原子力のないふるさと)」を掲げ、運転許可期間40年の延長を認めないことで、順次原発を廃止してきました。

台湾の原発は金山(第1原発)、国聖(第2原発)、そして南部に馬鞍山(第3原発)があり、金山と国聖原発の近くに龍門(第4原発)が建設中という状況にありました。日本と特に関わりが強いのは龍門(第4原発)でしょうか。1996年、この龍門(第4原発)は台湾電力が米国GE(ゼネラル・エレクトリック)社に発注し、日本の原発メーカーの日立や東芝が原子炉、三菱重工は発電機、清水建設が建屋を担当することになりました。俗に「日の丸原発」と呼ばれ、1999年に正式着工し2004年に運転開始の予定とされていました。

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朝日新聞記事より

この原発の出力135万kw、ABWR型で発電出力は島根原発3号機とほぼ同じで、沸騰水(BWR)型でまったくの同じです。

しかし、2011年の福島原発事故を契機に台湾での原発反対の世論は急速に高まりました。当時は国民党の馬英九総統で、この年の11月、彼は龍門(第4原発)を2016年までに完成させる一方で、その他の6基の原発は、40年の運転期間満了後に段階的に閉鎖していく政策を明らかにしました。

しかし福島原発事故を受けた原発反対の世論が高まり、龍門(第4原発)に反対する運動が高まりました。2021年に龍門(第4原発)は実質的に停止状況になりました。当時の総統は蔡英文さんに交替していました。この年の12月、龍門(第4原発)の建設再開の是非を問う住民投票が実施され、建設再開は反対多数(52,8%)で否決されたのです。

40年の運転期間の満了に伴い、金山(第1原発)1号機が2018年12月に、2号機は翌19年7月に、国聖(第2原発)1,2号機は2021年12月と23年3月に閉鎖されました。そして馬鞍山(第3原発)1,2号機の1号機が24年7月に閉鎖され、2号機が今年の5月17日に閉鎖されることになったのです。これで台湾での原発ゼロが達成されるのです。

昨年1月13日に行われた台湾総統選挙で、蔡英文さんを引き継いだ頼清徳さんが新しい総統に就任しました。頼清徳さんらの得票率は約40%、最大野党の国民党の候補者が約33,5%、第3党の台湾民衆党の候補者が約26,5%という構図になりました。しかし同じ日に行われた、日本でいう国会議員選挙の立法委員選挙では、定数113議席のうち、国民党が52議席を獲得して第1党となり、民進党は51議席、若者から人気の強い民衆党が8議席、その他が2議席となりました。いわゆる「ねじれ状況」になったのです。

このような状況の中で昨年7月10日、国民党は原発の運転許可期間を60年に延ばす改正案を立法院に提出しました。この法案、採決はされず結論が先送りとなっていましたが、この3月19日に立法院で公聴会が開催され、3月31日に委員会(立法院教育文化委員会)で審議が行われ、8対7で通過したとのことです。この後は立法院会議での攻防となります。

台湾はAI(人工知能)や半導体の開発大国であり、その開発により電力需要が増えるという宣伝が行われ、5月17日に原発ゼロになっても短い期間になるのではという声も聞こえてきます。

また国民党との繫がりが強い中国が、原発建設を強めていることも、台湾の原発推進世論にも影響を与えているといえます。

日本の国会と似ていますが、議会でキャスチングポートを握るのは、8議席を得た第3党の民衆党とも言われています。民衆党は「国聖(第2原発)は復活、馬鞍山(第3原発)は稼働延長」を訴えており、これからの状況にも目が離せません。

日本政府の「原発回帰」が強まる中、台湾の原発ゼロは日本の原発ゼロに通じます。台湾の反原発団体から、私たちに連帯の声が送られてきています。

木原省治

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2025年4月 9日 (水)

エレベーターが終日停止

エレベーターは、定期的な点検が必要で時には時間を区切って停止することがあります。

私の住むマンションは、10階建てですので、通常は3時間ぐらい停止します。

ところが今回は、午前8時から午後5時まで終日停止することになりました。

今回の作業は、一番下のコックピットにたまった水の処理と、エレベーター乗降させるためのロープの交換が重なったためです。

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わが家は7階ですので、出かけるときは苦にならないのですが、帰宅時階段を徒歩でのぼるのは、ちょっと応えます。ですから、昨日は一日外出禁止にしました。

一日外にでないことにしたのには、もう一つ理由があります。

一昨日は、私の知り合いの京都の陶芸家が,家族(両親、妹)とともに広島に来られたので、押しつけのようでしたが、午後平和公園の案内をかってでました。

原爆死没者慰霊碑前で落ち合い、材木町跡碑、被爆アオギリ、市立高女の慰霊碑、祈りの泉、義勇隊の碑、慈仙寺跡の墓石、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、原爆供養塔、原爆ドーム、西向寺の墓地、爆心地(島病院),当初はここで終わる予定でしたが、もう少し頑張れるということでしたので、せっかくなので被爆建物である旧日銀広島支店、白神社前平和大通りの被爆樹木まで足を伸ばしました。

熱心に話を聞いていただいたこと、久しぶりの案内ということ、初めての広島平和公園訪問ということでしたので、できるだけ多くのヒロシマを知って欲しいとの思いがあり、ちょっと力が入ったのでしょうか午後2時から2時間の予定でしたが、1時間もオーバーしてしまいました。

そんなことが重なりましたので、一日外出禁止というか、一日休業ということにしました。

ですので、いつも前日の準備するブログも,今日はこれで終わりにします。

いのちとうとし

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2025年4月 8日 (火)

2025年4月のブルーベリー農園その1

日曜日の6日の東広島市豊栄町のブルーベリー農園の日中の気温が19度で、東広島市に合併した時に町から記念に全戸に配られソメイヨシノがあちこちで開花。5月の連休に向けた田植えの準備でトラクターがよくとおるので田んぼの泥が道のあちこちに足跡を残している。安芸区の自宅から農園に通って寒さ硬くなった体をほぐせる春の作業を続ける日々。

331日(水) 畑でブルーベリーの剪定を続けている。中心となる木の横に伸びたヒコバエを放置していたのですっかり大きくなっていた。中心の木を育てたいのでこれは掘り起こして切った

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43日(木) このブルーベリーの木は園内で一番太い木で地際の幹は足首くらいの太さになってる。周りのヒコバエを切ったら一段と貫禄が出た

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44日(金) 春の目覚め

①カナヘビ

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②アマガエル

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③夕日に輝くツクシ

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45日(土)  サクラは数輪花開いた向こうに鯉のぼりが泳ぐ

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46日(日) 畑のブルーベリーの剪定を続ける。切った枝の処理のため野焼きも並行して行う

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昼食の食材は小さな畑に適当に植えたキャベツがテニスボールくらいの大きさになっていたのを刈り取りトマトパスタにして食べた

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野の花から

①石垣にへばりついて咲くホトケノザ

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②倉庫のそばの日陰に咲くキケマン

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早生のブルーベリーの花芽。サクラは咲いてもブルーベリーはまだ花の口を開かないが硬い蕾から花がぼこぼことせり出してきた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年4月 7日 (月)

二葉の里の桜並木

中国新聞に「東区二葉の里桜並木復活の歩み」が発刊されたことが報じられました。入手希望の連絡先は、田辺良平さんになっています。田辺さんは、一昨年夏に開催された「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」でご一緒しましたので、すぐにショートメールを送り、入手のお願いをしました。

数日後に「二葉の里歴史散歩 桜並木ものがたり」が届きました。

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新聞記事では、「広島市東区二葉の里に原爆で焼失した桜並木をよみがえらせたNPO法人『二葉の里に桜並木を復活させる会』の約15年間の活動を冊子のまとめた」と書かれていましたし、「無料で配る」とも書かれていましたので、簡単な小冊子が届くだろうと思っていたのですが、届いた本は、A4版121ページの立派なものでした。

改めて新聞記事をよく読むと、確かに121ページと書かれていますので、小冊子というのは私の勝手な思い込みでした。

前にも一度、この桜並木は桜の花が咲くころに訪れていますが、ちょうど桜の満開の時期でしたので、早速行ってきました。

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見事な桜並木が続いています。

届いた本を開いてみると、記述の多くは「桜並木復活」に向けた活動が詳細に語られていますが、同時に貴重な歴史・文化遺産が集積する二葉の里を歴史の散歩道として価値を高め、魅力を高めるための努力がされたことも紹介されています。

ここの植えられているサクラの多くは、ソメイヨシノです。そのソメイヨシノは、白島九軒町の碇神社の被爆ザクラを親木にして育てられた被爆二世ザクラであることが紹介され、その苗木づくりを様子も紹介されています。この記述は、被爆者の森の植栽でお会いしたみずえ緑地(株)の正本大社長です。

このことが分かっておれば、鳥取県のマメナシの植栽の時、もっといろいろ聞けばよかったと思うのですが、後の祭りです。

もう一つ、気になる記述があります。筆者は、二葉の里歴史の散歩道ガイドの会の大谷完次さんです。大谷さんも「被爆桜二世の復活 桜並木」のタイトルで「被爆桜二世をどこで、何本育てたか」など詳しく紹介されています。

気になると言ったのは、大谷さんは、私も所属する「NTTデータ同友会」の会員だからです。一度、NTTデータ同友会の歴史散歩で案内をしていただいたのですが、私は別の行事とダブり参加できず,いつかお願いしたいなと思っているからです。

大谷さんの記述にはこう書かれています。「被爆二世の桜は、東西のライン、南北のラインに満遍なく植樹しましたが、特に南北のラインを重視しました。このラインは、江戸時代の『たぐひなき壮観なり』と詠われた桜の名所『桜の馬場』の桜並木がありました。明治になりこの辺りに東練兵場が開設され、桜木が全て伐採されて桜並木は廃滅しましたが、大正時代に有志の力で復活しました。しかし、この努力も空しく太平洋戦争で再び焼失。この桜並木をもう一度復活させたいと思ったからです。

高速道路5号線の東側にこの桜並木が見事に復活しました。19本の桜並木ですが、東側12本のうち11本は被爆桜二世です。被爆桜が11本ならぶ桜並木は、全国的に希なもので、小さいですが皆に誇れる桜並木です。」(原文のママ)

私は以前、どの桜が被爆二世桜だろうと探したことがあるのですが、これでようやく被爆二世桜がどの木かハッキリしました。

その他にもこの桜並木復活に協力された多くの人たちの思いが記述されています。

こんなことを知ってこの桜並木を見れば、また別の感慨が浮かぶと思います。

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昭和戦前期の桜並木(広島市公文書館)

この地の歴史を紹介する記述もあります。その一つに「二葉の里歴史の散歩道に残る原爆の痕跡」のページがあり、安楽寺、碇神社,明星院、東照宮など15の遺構が紹介されています。

植えられている桜は、ソメイヨシノだけではありません。東西、南北の道路をゆっくりと歩けば、思いがけない出会いがあると思います。

桜の花は、もうすぐ終わりになりますが、この本を手にゆっくりと散歩を楽しみたい場所です。

いのちとうとし

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2025年4月 6日 (日)

ひろしまブックフェス

一昨日の散歩は、満開となった平和公園、そして相生橋上流の本川土手の両岸の桜を見ながらの散歩でした。昼前でしたので、あちこちで弁当を広げる姿が目に入りました。

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原爆ドームの写真も撮りました。この時期しか撮れない写真です。

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空鞘橋で折り返し、青少年センターの近くまで来たとき、ゲートパークで古本市をやっていることを思い出し、土手降りました。

大屋根広場を会場に今年で2回目となる「ひろしまブックフェス」が、4日から10日までの会期で開催されています。

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古本市と書きましたが、昨年もこのブログで紹介したと思いますが、この「ブックフェス」は、新刊書店、古書店、出版社、取次という、枠を超えた本の祭典として昨年から開催されています。

会場の一角には、昨年紙屋町シャレオ地下街にて2度、期間限定で開催された「古書店+立ち呑み屋」の複合店舗が,この会場にも展開されています。

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私はお酒を飲みませんので、このテントに入ることはないのですが、昼間だというのに何人かの姿が見えました。立ち飲み屋のすぐ横には、こんなコーナーも設けられています。

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今年初めてつくられたコーナーで、各店がセレクトした震災や原爆に関連する本を集め、1つのブースとして展開します。新刊と古本を合わせ、約300冊が並んでいます。新刊、古本混ざっていますので、気をつけないといけません。

といいつつも、私がじっくりと覗く店は、やはり古本屋さん。

今回は、2冊購入しました。

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わが家の本を少し整理して少なくしなければと思いながら、核に関する本があれば、とりあえず買っておこうとつい購入していまします。いずれも300円ですので、私にとっては安い買い物と言えます。2冊買っても600円です。

この「ひろしまブックフェス」では、本と酒を売るだけでなく、いろいろな企画もあります。その告知がでていました。

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日程を見ると4日5日の開催されるものばかりですので、すでに終了していますが、参考までに紹介します。

4日の「古本屋になろう!相談会」,どんな人が相談に来たのか、ちょっと興味がわきます。いまやネットの時代ですので、店舗を持たずにネット販売だけという古本屋さんも増えているようですので、相談があったかも知れませんね。

とにかく本がならんでいる風景に出合うのは、なんとも言えず嬉しいものです。

大屋根があるとはいえ、本ですので、雨が心配です。そんなことを思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2025年4月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その68)

仏印侵攻から太平洋戦争

1931年(昭和6年)の満州事変に始まり、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件で中国との全面戦争(支那事変)に入った日中戦争は、長期戦の泥沼に落ち込みます。1938年(昭和13年)、すべてを戦争遂行と軍需生産に集中するための「国家総動員体制」(注1)を作りますが、軍需物資から生活必需品まで逼迫します。

1939年9月ナチスのポーランド侵攻をきっかけに、ドイツとイギリス・フランスなどとの間で第二次世界大戦が始まります。ナチス軍はノルウエイ・デンマーク・ベルギー・オランダに侵入し、イギリス・フランス軍を追い1940年6月、フランスを占領します。これを好機とみた日本軍はアメリカ、イギリス、フランスなどの「援蒋ルート」遮断と国内で欠乏している食糧や資源確保を南方に求める「南方政策」に基づき仏領インドシナに侵攻しました。このあたりのことは前号で触れました。

こうした中でアメリカは1937年の支那事変以来、これを日本の中国侵略と捉え、下表に見るように様々な経済制裁を続けていました。それは日独伊三国同盟を結んだことでさらに強まり、遂にアジア・太平洋地域への帝国主義的な野望を露わにした1941年(昭和16年)9月の仏領南部インドシナへの侵攻を機に、アメリカにある日本資産凍結と石油の全面禁輸に踏み切ります。

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様々な資料を基に筆者が作成

石油輸入の80%、鉄鋼材の45%をアメリカに依存していたのですから、途絶すれば戦争どころか国民経済の維持も困難なことは誰の目にも明らかです。ところが、「緒戦で米軍を叩き、南方侵攻で資源を確保し、期待するナチスの勝利で有利に講和を」と、真珠湾攻撃で太平洋戦争に突き進んだのです。

下表をご覧ください。開戦当時、1942年の日本とアメリカの国力比較です。その差は歴然としており、この無謀極まりない愚かな戦争を始めた結果、日本国民とアジア・太平洋の人々に未曾有の惨禍と犠牲をもたらした日本の国家指導者の責任は免れ得ません。

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様々な資料を基に筆者が作成

下の写真をご覧ください。なにの写真か分かりますか?写真右に「祝南京占領」と大書きされた駒形のプラカードが掲げられ、「祝戦勝」の提灯も見られます。中央の提灯には「竹屋町」、左の提灯には「田中町」と書かれています。広島市内の町名です。

 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を機に中国との全面戦争に突入した日本軍は、12月13日に中華民国の首都・南京を占領します。日本中が「戦勝」に湧き、翌日の14日には提灯行列が各地で行われています。この写真もおそらく10万人が集まったと伝えられている12月中頃の広島市内の写真だと思います。

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出典:早川タダノリon Xより

宣戦布告もせず、挑発と謀略をもって武力衝突を繰り返し、戦争行為ではなく「事変」と称して中国大陸への侵攻を始めて7年。提灯行列に加わった(狩り出された)人たちは、南京で繰り広げられた略奪・放火・強姦のことも、20万人(中国は30万人)以上ともいわれる「南京虐殺」についても、知る由もありません。日中戦争は1941年12月8日からアジア・太平洋戦争へと広がり、1945年8月15日まで、まだ8年も続きます。

愚かで無謀な戦争の責任

2月5日の「その66」で、伊丹万作のエッセイ「戦争責任の問題」から「騙され、騙す」について紹介しました。今日は続く一節を紹介します。「・・・だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである。」(筑摩叢書『伊丹万作エッセイ集』78㌻)

「被爆80周年」(戦後80周年)を迎えた今を見るとき、伊丹万作の言葉が刺さります。

 次号から国民がどのようにして騙され、黙らされ、戦争に狩り出されたのか。政治はどのように動き、軍事国家へと突き進んでいったのかについて見てゆきたいと思います。

(注1)国家総動員体制(ウイキペディア)

  1938年(昭和13年)に日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨に関する法律。

(注2)南京虐殺(ウイキペディア、他)

 1937年12月に日本軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を攻略した後(もしくはその前後)に、数か月間にわたって多数の非戦闘員である一般市民、捕虜、敗残兵を虐殺した事件

犠牲者数については、中国政府が30万人以上、東京裁判で20万人以上、日中両国の有識者による歴史共同研究委員会の報告書で「20万人を上限として、4万人、2万人」など様々な推計がある。

(2025年4月5日、あかたつ)

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2025年4月 4日 (金)

4月の「3の日行動」

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、今月も3日の午後5時半から本通洋服の青山まで、「3の日行動」を行いました。

この日の広島の日の入り時刻は,午後6時33分ですので、ずいぶんと日が長くなった中で、街宣となりました。

今回も世話人の川后和幸さん冒頭演説からスタートしました。

3月のテーマは、

・米国トランプ政権の誕生で強まる日本へのさらなら軍拡を求める要求に対する問題と2025年度予算をめぐる国会の動きと今後の政局。

・呉で進む自衛隊の海上輸送軍の新設等の大軍拡に対し,これを止める市民の連帯した運動の呼びかけ。

・選択夫婦別姓問題やジェンダー指数がいまだに100位以下となっている日本の政治姿勢をどう考えるのか、どうして変革させていくのか

・物価高のなか非正規労働者の賃金は上がらず、苦しい生活を強いられる人たちへの支援の強化を求める。

などでした。

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私も、2番目の演説者として、第1のテーマについて、マイクを握り,次のようなことを訴えました。

「石破首相は、最近の国会論議の中で,核兵器禁止条約第3回締約国会議に参加しなかったことを人ごとのように『被爆者の期待に応えられなかった』と発言しているが、参加を決める立場にあったのは、石破首相自身だったはず。改めて厳しく追及しなければならない。

米国トランプ政権の誕生は、日米安保の根幹にかかわる問題を提起している。いまこそ、そのあり方を問うべきだ。この時期にこそ、日本が東アジアの一員として近隣諸国との関係、とりわけ中国との関係はどうあるべきかを真剣に論議する絶好の機会だととらえるべき。いたずらに軍拡を強調することは、一層戦争への道を突き進むことになり、この地域の平和と安定をつくることにはならない。

一部の人たちからは、独自の軍拡をとの声が上がりそうだが、もう一度憲法9条の理念に立ち返った日本の安全保障のあり方を考える絶好の機会にしなければならない。

2025年度予算審議を通じてはっきりしたことは、野党の一部が、自らの一部の要求を実現させるため、本来あるべき国会の論戦が深まらなかった。物価対策、年金問題などなどの審議はほんとうの深まったのか。野党の役割を放棄してしまったと言ってよいような国会審議が続いた。いまこそ、国会は真に生活への支援を必要とする人たちの要望に向き合い論議を尽くし、参院選挙迎えるべきである。」

その後約1時間、それぞれの思いを訴えました。

最後の石口俊一弁護士が、「この国の税金、予算はほんとうの国民の暮らしに役立つように使われているのか、国民の命を守るための政治をみなさんでつくろう」と呼びかけて、4月の「3日の行動」を終了しました。参加者は、30人でした。

いのちとうとし

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2025年4月 3日 (木)

「営業中」の看板

散歩をしていると、時々アレッと思う首をかしげたくなる景色に出合うことがあります。

先日中央通りで見かけた看板もその一つです。

目についたのは、よく目にするビルのメンテナンス工事のためにビル全体を覆っている網目状の被い幕(現場シート)です。

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どこでも目にする姿ですので、これだけ見れば何の変哲もない風景です。しかし、このビルも入り口と思われるところについている横断幕を見て、何となく違和感を持ったのです。大きな文字で「営業中」と書かれています。

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メンテナンス工事のため、ビルがフェンスやこうした膜で被われているとき、そのビルの中に営業中のお店などがあれば、それを知らせるため,大小は別にして「営業中」という看板はよく見かけます。

私が違和感を持ったのは、このビルは、1階には薬局が入っていますが、それ以上の階には,入り口の看板によればほぼ全て病院が入っています。このビルは、いわば病院ビルと言ってもよい建物だからです。

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なぜそれを知っているかと言えば、私もこのビルに入っている皮膚科に定期的に通っているからです。

「営業中」の看板は、お店、商売を思い浮かべさせ、商売と言えば、次には「もうけ」という言葉に行きつきます。

ここまで書けば、「そうだな」と思われる方もおられると思います。

そうなのです。病院が、「営業中」とはどう理解すれば良いのだろうかと、頭をひねりました。

病院も「営業」と言えなくはないと思いますが、何かしっくりこないのですよね。一緒に散歩していた妻の意見を聞きましたが、「代わりの言葉は見つからないけど、やっぱりなんか変だね」と言います。

「診療中」だと昼休み時の「休診」時があるし、これも変かな。「やってますよ」でもね。

さて、どんな言葉良いのやら、と考えながらの散歩でした。

いのちとうとし

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2025年4月 2日 (水)

「被爆者の森」の移植

今日は、昨日紹介した沖縄県の「カンヒザクラ」のすぐ横にはられたブルーシートの話しです。といってもブルーシートそのものの話しではありません。ブルーシートで囲って行われている作業のことです。作業の様子を覗いてみると、隣の木の根元の周りが掘られ,何人かの作業員がそこに入って作業をしています。

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樹木を移植するための根回しの作業中です。近づいてみると、切った根にさらに手を加えているようです。

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監督中の業者に「何をしているんですか」と聞いてみました。答えはこうです。

「この木が大きくなって,隣の木の育成に影響を与えていますので、来年、別の場所に移植することになっています。いわゆる根回しです。周囲を掘り起こし、根を切っています。ただ、樹木は、根の先端部にある毛根から水や栄養を吸収しますので、このままの状態で移植すると、水や栄養を吸収できず、枯れてしまいます。そこで、切った大きな根の皮を少しはぎ、その後毛根ができるように栄養剤を与えているのです。」

根回しは、樹木を移植する一、二年前に、その周囲を掘って、側根の大きなものと主根とを残し、その他の根を切り、細根を発生させ、移植を容易にするために行う作業のことです。

この木は、熊本県原爆被害者の会から寄贈された「クスノキ」です。このクスノキが大きくなりすぎて、すぐ近くの大分県から贈られた「ブンゴウメ」の木(下の写真では右後ろ)の育ちに影響しているため、別の場所に移すことになったのです。

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今年のウメの開花時期に来たのですが、花が少なくなっているなと感じていましたが、まさかクスノキの影響とは考えてもみませんでした。

上の写真は、作業の二日後に撮ったものです。作業は終わり、埋め戻されています。しかし、よく見ると根元の周りに黒いビニールのようなものが見えます。

これも作業員から教えていただいたことですが、1年後に移植するとき根回しの場所がきちんと分かるようにするため、切った根の周りをこのビニール状のもので囲っているとのことです。

実は、一月ほど前に被爆者の森まで散歩をしたとき、幹にピンクのビニールひもが巻かれている木が何本かあり、市の担当者に聞いたところ「木が育ち、密集しているところがあるので、何本か移植することになっていますので,その目印です。」と説明を受けていました。確かにこの木にもピンクのビニールひもが巻かれています。

このクスノキの近くにすでに根回しが終わった木が2本ありました。

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右側の移植される木は、愛媛県原爆被害者の会から贈られて「クロマツ」です。左側の岐阜県原爆被災者福祉会の「イチイ」の木を守るために移植されるようです。

もう一本は、香川県の「オリーブ」です。

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 写真の真ん中にオリーブの木がありますが、周囲を大きな木で囲まれています。周りの木の中に落葉しているものもありますので、いまは日が差しているように見えますが、一ヶ月も経つと周りの木の葉も繁り、日が差さなくなってしまいます。だからでしょうか、これまで実をつけた姿を見たことがありません。

被爆者の森に来るたびに気になっていたのが、広島の「モミジ」です。

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写真の左手前が、モミジですが、右奥のカシワ(被爆者団体から贈られてものではない)の枝が覆い被さるように伸びていますので、横の方にいびつに育っています。このモミジも移植して欲しいのですが、今回の対象になっていないようです。

広島市によれば、被爆者の森の木で今回移植の対象となっている木は、全部で7本です。その中には、昨日のブログで紹介した北海道のライラックも入っており、日当たりの悪い南側から日当たりの良い北側のゾーンへ移植される予定のようです。これで元気に育ってくれればと願わずにはいられません。

被爆者の森は、1990年につくられましたので、すでに35年が経っています。当時は予想もできなかったかも知れませんが、他の木の生育に影響が出るほどに大きく育っていますので、樹木のためには移植は大切な作業となります。

被爆者の森にずっと関心を持ってきた一人ですので、広島市が、ようやく関心を強め、移植などによって大切に育てようと対策をとってくれるようになったことを喜んでいます。

いのとうとし

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2025年4月 1日 (火)

「被爆者の森」の花

被爆者の森では、昨年二つの件の樹木が、植え替えられました。一年経ってどんな様子か見に行ってきました。

その一本に沖縄県の「カンヒザクラ」です。元気に育っています。

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昨年とほぼ同じような枝振りですが、きれいな花を咲かせていました。

隣接する木の根元を掘り起こす作業をしていますので、すぐ横にブルーシートが貼られています。この様子は、明日報告します。

昨年植え替えられたもう一本は、石川県の「ケンロクエンキクザクラ」です。

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葉がでていますので、一年経って活着(植え付けた苗が根付く事、そして成長して行く事)したことが分かります。この花は、八重桜ですので、花はまだ開いていません。

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遠目には葉だけが茂っているように見えますが、近づいてみると葉と一緒につぼみのようなものが見えます。花芽だと思われます。もう少し時間がかかると思いますが、この木も花を咲かせると思います。

昨年植栽された二本の木が無事に育っていることは確認できました。

この他にもずっと気になっている木がありますので、見に行きました。

北海道のライラックです。枯れたり折られたりして何度も植かられた木です。

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ヒコバエから育った木が、何とか育っています。枝が小さすぎるのでしょうか、つぼみは全くついていません。以前にはこの時期につぼみがありましたので、今年は花は期待できないようです。原因は、不明です。元気に育っていますが、よく見ると真ん中の支柱に寄りかかっている枝が折れています。

何度も何度植え替えられた木ですので、今度こそ元気に育ったと思います。

226日のブログ被爆者の森の植栽: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したように今年は、鳥取県の木が「二十世紀梨の木かマメナシ」に植え替えられました。こちらも見てきました。

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写真では、下の方しか花が見えませんが、全体に花が咲いています。

植栽に立ち会われた鳥取県原爆被害者の会石川行弘事務局長に「花が咲いています」とのメッセージとともに写真を送りました。

被爆者の森の花と言えば、京都のシダレザクラを逃すわけにいきません。毎年見事な花を咲かせ、ここを通る人の目を楽しませてくれています。今年は。

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3月30日の写真です。2分から3分咲きというところでしょうか。ここ数日寒さが続いていますので、満開までにはもう数日かかりそうですが、今年も楽しませてくれそうです。

このシダレザクラ、気になることがあります。よく見ていただくと、すぐそばに歩道が通っています。被爆者の森の木の中で、自転車道の設置で一番心配されるのは、この木です。どんな風に自転車道が設置されるのか見守りたいと思います。

いのちとうとし

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