「広島ブログ」

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« ビキニ・デー | トップページ | 映画「GAMA月桃の花」上映と海勢頭豊ミニコンサート »

2025年3月 2日 (日)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その5

何か手がかりはないかと、さらに「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」のページをくくってみました。遺族や同窓生、同期生の多数の手記がならんでいますが、数が多すぎで全部をきちんと読むことはできません。一渡り手記に目を通し終わると、その次に「資料編」のタイトルがついてページが始まります。「資料編」には、「当時の残されている学校の記録など」のサブタイトルがついています。

「資料編」の最初に「追悼碑の一年生」のタイトルで、犠牲者の名前と、死亡日、死亡場所と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館ヘの遺影登録の有無が書かれた名簿があります。

252272 

クラスごとに編集されていますので、まず「幸子」の名前のある6人を探し各人の「死亡場所」を調べます。その中に「己斐国民学校」となっている「幸子さん」が一人だけいました。一人だけですので、この人が、栗原貞子の隣家の「幸子さん」にほぼ間違いないと思われます。

2組の「土屋幸子」さんです。死亡日は、8月6日となっています。どうして死亡日が分かったのかは、後で紹介する資料ではっきりします。

次に調べたのは、「なぜ己斐国民学校に逃れていったのか」です。手がかりとなる記述があります。有朋45期宍戸和子さんが「第一縣女の被爆状況」に建物疎開作業の場所となった「土橋・小網町付近の被爆状況」として「一年生の引率責任者であった地理・歴史を担当の佐々木先生は原爆の炸裂により、全身負傷、両腕に大火傷を負ったが『僕は駄目だから皆さんは己斐の方に逃げなさい』と最後の指示を行い、生徒を救出するために負傷の身を翻してもうもうと煙る中に走り込んで『己斐に逃げる!己斐に逃げろ!』と叫びながら火炎の中に消えたのです。」と書いておられます。

これで、避難場所として己斐が指示され、土橋から西方面に向かい、己斐国民学校に何とかたどり着いたのです。己斐国民学校は、多くの被爆者が避難し、命がつきた場所です。

次に「己斐国民学校」の様子と死亡日が特定できる資料を紹介します。今度は、資料のもう一冊「広島第一県女の学徒勤労動員」です。

25322

その中の「Ⅲ-Ⅶ学校報国隊土橋建物疎開班」に記載された教員の坪井守麿さんの証言です。

「・・・夜中(*いのちとうとし注、「6日の夜」)己斐小学校に火傷した多数の第一県女の生徒がいると聞き、数名の職員とかけつけてみると、己斐小学校の暗い講堂の中には、建物疎開で動員中被爆した一年生らしい生徒で一杯になっている。全身火傷で皮膚が赤くやけ、男とも女とも見分けのつかない状態になってうづくまっていた。『第一県女の生徒はいいないか』との声にあちこちから『ハイ第一県女の生徒です』とはっきりした答えがかえってきた。約30人の生徒がいた。・・・翌日再度いった時は、全員がすでに死亡していた。」

「幸子さん」は、坪井先生の呼びかけに応えることができたのだろうかとつい思ってしまいますが、その答えを見つけることはできません。

「広島第一県女の学徒勤労動員」は、建物疎開への動員だけでなく全ての勤労動員の様子が、よくこれほど詳しく調べたなと思う内容で記されており、ほんとうに貴重な資料だということを紹介しておきます。

私が、栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」のモデルだと思っている土屋幸子さんの遺影が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているようですので、一度見に行きたいと思います。

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」は、今度こそ終わりです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« ビキニ・デー | トップページ | 映画「GAMA月桃の花」上映と海勢頭豊ミニコンサート »

文化・芸術」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

被爆者」カテゴリの記事

学校」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« ビキニ・デー | トップページ | 映画「GAMA月桃の花」上映と海勢頭豊ミニコンサート »