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2025年3月20日 (木)

ベトナムの歴史(その38-1) ― ベトナム Now Ⅺその1―

中越戦争 ~「ベトナムのカンボジア侵攻に対する懲罰」として中国軍が越境攻撃~

1979年18日、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリンが自国民170万人を虐殺したポル・ポト政権を倒し、カンプチア人民共和国を成立。政権を追われたポル・ポトは仇敵のロン・ノル派とシアヌーク派による「三派連合」を組み、ヘン・サムリン政権との内戦を1991年の「パリ和平協定」まで続けます。この辺りについては前号で触れました。

一方、ポル・ポト政権を支援していた中国は19792月、56万の軍隊をベトナム国境に終結させ、「懲罰的軍事行動」と称して30万の軍勢でベトナム北部に侵攻しました。1500門の重砲による国境線全域への砲撃の後、①ラオカイ市、②カオバン市、③ランソン市を目指し3方面から攻め込んだのです。

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1979年2月17日、中国軍の越境攻撃出典:ウイキペディア(日本語の地名は筆者が挿入)

対するベトナム軍は、主力がカンボジア戦線に展開中のため、正規軍と民兵で約2万人と劣勢です。ベトナム軍は圧倒的な兵力の中国軍を前に、真正面からの衝突を避け、敵に損害を与えながらランソンの南100kmのハノイ近郊に撤退します。中国軍は多くの犠牲を出しながらベトナム軍の後退に合わせ進軍し、3月5日にランソンをはじめ北部5つの省を制圧します。

ベトナム軍はハノイ市民の協力で築いた強固な巨大陣地にカンボジア展開中の主力軍が合流し、中国軍との決戦態勢を整えます。中国軍はベトナム正規軍との正面衝突になれば被害はさらに拡大し、占領地の維持も困難になると判断し、翌日の3月6日に「軍事的懲罰の完了」を宣言し16日までにベトナム領から撤退しました。こうして中越戦争は3週間あまりで終結しました。

中国は「(目的の)懲罰を達成して撤退」と勝利と主張していますが、国際的にはベトナムの勝利との認識が一般的です。それにしても僅か3週間あまりの戦争で、ベトナム側に約3万人(中国発表)、中国側に約26千人(ベトナム発表)の犠牲者を出したと言われ、双方で6~7万人という戦死者はとてつもなく大きな犠牲です。

中国人民解放軍 ― ベトナム兵士の証言

随分と前に読んだ『中国人民解放軍』(岩波新書、平松茂雄著、1987年11月20日)を思い出し、書庫から探し出しました。歩兵の決死隊を先頭に地雷原を進んできた戦車隊とのラオカイでの戦闘についての興味深いベトナム軍兵士の証言があります。「中国歩兵部隊は肩を並べて進み、自分たちの犠牲で地雷原を切り開きつつ、じりじりと進んでくる。彼らはまるで水田の稲穂のように無数で密集していた」。カオバンでの戦闘についても、「われわれ40人の陣地に四方から数え切れないほどの中国兵が18台の戦車とともにラッパを合図にいっせいに攻撃してきた。11台の戦車を破壊し、多くの敵兵を殲滅したが、数えるひまがなかった。目の前は敵の死体でいっぱいだった。中国軍は人海戦術で銃も撃たず押し寄せてくる。弾薬さえあれば、われわれはいくらでも殲滅できる」と。

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ラオ・カイ省などの自衛団は現地の兵士と協力し戦った。撮影:グエン・チャン―出典:ベトナム通信社  

同書は「健軍60周年」(1987年8月1日)を迎え、「国家の安全を守る国防軍として成長することができなかった」が、「鄧小平政権のもとでもう一度近代的軍隊への改造に挑戦している」中国人民解放軍を、誕生から発展、実戦から見た中国軍の戦力と戦略、そして鄧小平の軍事改革などについて分析したものです。

平松茂雄氏は同書のベトナム兵士の証言に続いて、こう記しています。「このベトナム兵の証言通りであったならば、中越戦争でとられた中国軍の戦法は、朝鮮戦争の時と少しも変わっていないということになる」と。

中越戦争を始めた鄧小平が、その教訓(敗北)から「近代的軍隊への改造」に着手したことなどを含め、1979年の中越戦争は決して中国の「勝利」ではなく、軍事的にはベトナムの勝利だったと思います。

「軍事的にはベトナムの勝利」とした理由は、1979年のカンボジア侵攻以降、ベトナムは1991年頃まで国際的な孤立を深めていたからです。このことについては次号で触れたいと思います。

2025年3月20日(あかたつ)

【編集者】今回も、あかたつさんの原稿が少し長めですので、筆書からの要望もあり今日、明日の2回分けて掲載します。

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