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2025年3月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その67-1)

泥沼化する日中戦争と日本軍の仏印侵攻

前号で「昭和100年」とほぼ軌を一に人生を歩んだ父が生まれた1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件から1931(昭和6年)年9月の柳条湖事件、1932(昭和7年)年3月の傀儡国家「満州国」でっち上げ、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件までの「昭和」を見てきました。

盧溝橋事件をでっち上げた日本軍は、これを口実に中国軍対する全面的な軍事行動を始め、日中戦争を起こします。しかし、日本は「自衛のための局地的な軍事行動だ」として、国際法上の最後通牒や宣戦布告をしないまま、「支那事変」と称し全面的な戦争に突入したのです。

当初、中立の立場をとっていたアメリカを加えソ連、イギリスなどが国民党軍(蒋介石)と共産党軍(毛沢東)に軍事物資や石油、食料などを支援します。その国民党軍と共産党軍は「抗日統一戦線」(国共合作)を組み、激しく日本軍と戦い日中戦争は泥沼化します。

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アメリカ、イギリス、ソ連などの中国国民党・蒋介石軍への支援ルート(援蒋ルート)

諸資料を基に筆者作成

決して、平和的ではなかった仏印侵攻

一方、第二次世界大戦が戦われていたヨーロッパでは1940年6月、ナチス・ヒトラーによってパリが陥落しフランスにナチス傀儡政権ヴィシー政権が誕生します。すると、日本は仏領インドシナ総督府に蒋介石軍を支援する「援蒋ルート」の一つであった仏印ルート(ベトナム・ハノイ~中国・粤漢)を遮断する好機と監視団を受け入れさせ、9月には25,000人の部隊をベトナム北部(ハノイ)に侵攻させます。

殆どの資料や文献では侵攻ではなく「進駐」と表現されています。なぜ侵攻ではないのか?不思議に思いませんか。どうも、フランス政府(仏印総督府)合意のもとで、「平和裡に軍隊を駐留」させたということのようです。確かに無抵抗での「進駐」もあったようですが、中国国境ランソン省ではフランス軍部隊を壊滅し、カオバン省の要塞を陥落し、要衝ハイフォン港を空爆のうえ降伏させるなど、各地での激しい戦闘の末の「進駐」です。しかも、フランスのヴィシー政権は日本の同盟国ドイツの傀儡政権だったため、「進駐」を受け入れざるを得ない状況にもありました。

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1941年7月、メコン川河口に上陸した近衛歩兵第4連隊

ところで、先の大戦を「侵略戦争ではなく、国家としての生存を守るための自存自衛の戦い」と主張する人もいます。少し長くなりますがその主張を紹介しますと、「支那事変(日中戦争)は、西欧列強の植民地支配からアジアを開放する大東亜戦争だった。国民党政権No.2の汪兆銘は裏切り者の蒋介石を捨て、日本の応援のもとに南京に新たに中国政府をつくりました。この政府の下にシナ全土が独立すれば中国民衆も幸せだったのですが、蒋介石は奥地の重慶に逃げ込んだまま、いつまでも降参しませんでした。降伏すれば平和がもどり白人列強による中国支配も終わったのは残念なことでした。」、というものです。

そして、日本軍のインドシナ侵攻については、「ソ連やアメリカ、イギリス、フランスの援助がなければ蒋介石はすぐに降伏し、中国と日本に平和が戻っていた」。だから、インドシナ侵攻は中国と日本の平和のためであり、侵略ではなく自存自衛なのだという論です。主に日本会議の皆さんがなさっている主張ですが、オヤッ!と思う「公人」や「良識人」からも似通った言葉を耳にします。

(2025年3月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた「ヒロシマとベトナム(その67)」は、少し長めですので、今日、明日の2回に分けて掲載します。

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