「広島ブログ」

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2025年3月

2025年3月31日 (月)

2025年3月のブルーベリー農園その4

暖かい日、寒い日が交互に続きながら春がやってくる。東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも花木や野の花が次々と咲いてブルーベリー畑の地べたには緑が広がる。農園には安芸区の自宅から通っているが今の農作業はブルーベリーの剪定で5月までもつれそうな進み具合となっている。剪定作業は毎年遅れるが春の気配を楽しながらぼちぼち進めていくしかない。

3月25日(火) 畑のブルーベリーの剪定作業。道の向こうに元気に泳ぐ鯉のぼりが見える

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326日(水) 畑の見回りをしているとアシナガバチが野草の花にとまっているのを見て、急いでスズメバチの捕獲のため酢と砂糖を混ぜた液をペットボトルの枝にぶら下げる。この日の気温は20度を超していた

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一番下の畑のブルーベリーの間引きを行う。ほぼ10アール(1反)ある畑のブルーベリーは8列あり、1列に2m間隔で30本くらい植わってある。各列のほぼ真ん中あたりの木を1.本切って空間を作った

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328日(金)ブルーベリー畑の木と木の間に咲くスイセンもほぼ満開

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ブルーベリーの花芽も硬い蕾が口を開き花が咲く動きが見える

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地べたには野の花のホトケノザが広がっている

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農園の畑ののり面のウメの木の花が満開。今年は実がたくさんできそう

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ウメに近くの草の中にフキノトウを見つけたあたりを見回したが一つしかなかった

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庭ではアシビと八重のツバキは花開く

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白いツバキはまだ蕾のまま。4月になれば・・。

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農園からの帰り道で毎年出会えるのは、畑に咲く白い花木(名前知らず)。今年の春の雪で木が裂けているのもあった

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年3月30日 (日)

今年も見事に咲きました。―普門寺のシダレザクラ

毎年楽しみにこのブログでも紹介してきた近所の普門寺のシダレザクラが,満開になりました。

「いつ咲くのかな」とずっと気になっていましたので、門前を通るたびに境内を覗いてみました。

堅いつぼみが少し膨らんだのを見つけたのは、3月18日です。

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目をこらして,咲き始めたかなと思える花びらを見つけたが、3日後の21日です。

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私が訪れたのは、昼前でしたので、開花宣言となる5輪以上の花を見つけることはできませんでしたが、後でお寺さんに聞くと、「その日の午後、10輪近く咲いたのを見つけましたので、密かに開花宣言をしました」とのことでした。

次に山門をくぐったのは、24日です。この日は、いつも閉じたままの山門が開いていました。3分咲きといってよい開花状況です。

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25日にも訪れたのですが、大分開花が進みました。

満開はいつかと気になったのですが、26日には朝早くに上京しましたので、次に訪れたのは、27日です。曇り空でしたが、満開になっています。

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この数日、急に気温が上昇しましたので、一気に満開になったようです。昼前でしたが、花を見に来ている人はいません。

この日は曇り空でしたので、快晴となった29日にもう一度訪れました。土曜日のこの日は、見に来る人も多くなるだろうと思い、午前9時過ぎに訪れました。

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前日の雨で、少しだけ花びらが散っていましたが、満開のままといってよいでしょう。

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青空に映えて、きれいに見えます。

階段を上がって本堂の前から撮しました。

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午前10時過ぎにお寺の前を通ると、スマホを構えた多くに人の姿が境内にありました。

寒の戻りで気温が下がりましたので、もう少し楽しめそうです。

いのちとうとし

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2025年3月29日 (土)

平和大通りの自転車道

平和大通りで今年初めから工事が始まっていた自転車道の一部が、完成し26日から供用が始まりました。

平和大通り中央の車道を挟んで両側に完成した車道は、それぞれ両方向に自転車が通行できるようになっています。

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巾は2メートルですので自転車2台がすれ違うのにはやや狭いかなと思ってのですが、実際に走ってみると充分な巾になっています。

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私も自転車で平和大通りを通ることがたびたびありますので、歩道と分離されることは、事故を防ぐという意味では意義があることだと思います。しかし、私には別の意味で危惧があります。

実は、この自転車道の計画は、2020年からスタートしたのですが、当初から私は強い関心を持っていました。

自転車道を造る計画がスタートする数年前から平和大通りの賑わいづくり(緑地帯部分に喫茶店などの建物を建てる)の計画がスタートしていました。私は、この計画が進むと平和大道りが変質するのではないかと強い危惧を持ち広島市にいろいろと意見を言っていた時期でしたので、この自転車道の計画が明らかになったときにもすぐに広島市に問い合わせをしました。

関心を持った一番は、これらの計画が進むことによって多くの樹木が伐採されるのではないかと危惧したからです。

平和大通りは、1957年から58年にかけて進められた整備の際、県内各地から樹木を募る「供木運動」によって寄附された約6千本が植樹されたことによって、いまにつながる緑豊かな大通りとなり、市民の目を楽しませてきました。

もちろん、当時寄附された木は、枯れたりした木も多くあるようですので、現存するものは少なくなっていますが、その歴史を考えると樹木の伐採は慎重でなければならないというのが私の意見です。

そんな思いを持ってこの自転車道の工事を見つめてきました。

今回完成した区間は、白神社前交差点から白神社東交差点の両側のわずか約100メートルですが、伐採された樹木は、3本のメタセコイアです。

今後整備は、2024年度当初予定していた平和大橋東詰から田中町交差点までの約1キロのうち残った900メートルとなるようですので、この区間では何本ぐらいの木が伐採されるのか気になります。当初、議会へは「11本の伐採が必要」と説明されていたようですので、この説明に依ればさらに8本の木が伐採されることになります。

計画通り2025年度に田中町交差点までの整備が進めば、次年度はさらに東に延びて鶴見橋まで進むことになります。

田中町交差点と鶴見橋の間の両側の緑地帯には、「被爆者の森」があります。伐採がなかったとしても、周辺で工事が進むことによって樹木への影響はないのかが危惧されますので、しっかりと見守っていきたいと思います。

いのちとうとし

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2025年3月28日 (金)

被爆80周年原水爆禁止世界大会実行委員会結成

26日午後3時から連合会館で「被爆80周年原水爆禁止世界大会」第1回実行委員会が開催され、実行委員会の結成、大会役員の承認などが行われました。

ここ数年私も共同実行委員長に就任してきましたが、結成総会には参加しませんでした。ただ今年は、被爆80周年の節目の大会ですので、さまざまな会議には可能な限り参加したいとの思いで、今年初めて結成総会に参加しました。

提案された「大会開催について」では、核をめぐる情勢を述べた後、今年の大会の意義を次のように述べています。

「このような情勢の中で迎える『被爆80周年原水爆禁止世界大会』は、原水禁運動の積み重ねの中でも重要な意味を持つタイミングで開催されます。これまでの80年の月日の中で決して終わることなく被害が続いてきた事実と向き合いながら,世界のヒバクシャと連帯し,核も戦争もない世界を希求していきましょう。この被爆80周年原水禁世界大会が、各地域での原水禁運動に活かされる大会となることを願います。多くの私たち市民の声が、必ず日本政府を動かし、国際社会を動かします。」

わたしは、大会実行員会役員選出後のあいさつで次のよう述べました。

「大会の名称が『被爆〇○周年』となっているのは、原水禁国民会議が結成されて最初の原水禁大会(1965年被爆20周年)で、『広島、長崎の被爆後、私たちの運動によって核兵器の使用を止めていること、原水禁運動の原点が広島、長崎の被爆の実相にあること』を表すためにつけられました。この先人の思い、運動の歴史に学びながら、今日的課題,核兵器廃絶、世界のヒバクシャ救済、脱原発の課題を取り組む節目の年被爆80周年の原水禁大会としたい。」

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大会の名称については、2022年11月12日のブログ原水爆禁止世界大会の名称は、なぜ「被爆○○周年」か: 新・ヒロシマの心を世界にに詳しく書いていますので、そちらを参照して欲しいと思います。

次に大会について、谷事務局長から提案がありました。その要旨です。

大会コンセプトして

「①被爆の実相を原点としたヒバクシャの援護・連帯と核廃絶運動、それらの次世代継承を柱とします。

②核兵器禁止条約と核不拡散条約による国際社会の軍縮をめざします。

③東日本大震災・福島原発事故から学び、脱原発社会の実現をめざします。」

が提案され確認されました。

大会スローガンは、メインスローガン「核も戦争もない平和な21世紀に!」とサブスローガン10本が提起され、こちらは次回の実行委員会で決定することになりました。

大会日程は、福島大会が7月26日、広島大会が8月4日から6日、長崎大会が8月7日から9日日程で開催することが確認されました。

その他、国際会議は,昨年と同様に8月6日の午前9時から10時30分までの方向で検討すること、分科会は広島、長崎とも4分野6分科会で準備を進めることも提起されました。

ここ数年いろいろと意見が出ているポスターの原案が示され、意見を交換しましたが、これらの意見も入れてデザイナーと協議し、最終案づくりを進めることが確認されました。

最後に現地となる広島、長崎、福島から大会に向けてのあいさつがありました。広島、長崎からは、値上がりが続いている宿泊についての協力要請、福島からは「福島大会としては15年目。国の政策は真逆の方向に進み、除染問題などで地元の分断が強まっている。改めて運動の意味を共有する大会にしたい」と決意の表明がありました。

節目の年、被爆80周年の原水禁世界大会への準備が始まります。

いのちとうとし

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2025年3月27日 (木)

「受け継ぎ、語り継ぐー広島の参加と被爆者の思い-」

平和公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が、今月7日から来年2月28日までの会期で、「被爆80周年企画展 受け継ぎ、語り継ぐー広島の惨禍と被爆者の思いー」を開催しています。

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この企画展は、2002年度から始まり、その年ごとのテーマによって、地下一階の企画展示室で一年間(初年度は除く)の企画として毎年開催されています。

今年の企画展についてチラシには次のように書かれています。

「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、15万編の被爆体験記を収集・保存・公開しています。被爆から80年。被爆者の書き綴った手記は、原爆被害の実相を訴え続けてきました。企画展では、広島の惨禍と被爆者の思いを、映像や資料を交え体験記で紹介します。」

ですから、今年の企画展は、従来の「企画展示室」だけでなく、その向かい側にある被爆体験記を公開している「体験記閲覧室」も会場となっています。

「企画展示室」では、大型スクリーンで被爆者の証言や原爆の絵。写真などによる映像作品によって,被爆体験記が紹介されています。

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同会場には、体験記の直筆原本や関連資料等が展示されています。

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前回までは、会場内は写真撮影禁止でしたが、今回は撮影がOKとなっていますので、こうした資料を紹介することができるようになりました。

大型スクリーンに流れる映像は、約20分です。外国人の姿もおおくみることができます。気づいたことは、この外国人たちは、最後まで熱心にきちんと見ていることです。

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今回の企画展では、先に紹介した撮影許可だけでなく、もう一つ新しい試みがあります。

それは、パンフレットが造られ、無料配布されていることです。

パンフレットには、上映されているビデオの構成(1.被害の概要:高橋滋さんの証言、2.地域社会と家族の崩壊:常松民子さんの証言、3.精神的・心理的打撃:可愛川孝雄さんの証言、4.長期的・持続的な障害:藤井八枝さんの証言、5.次世代へのメッセージ:木村緋紗子さん)や、登場する5人の被爆体験記の全文が、関連する写真や市民が描いた原爆の絵とともに掲載されています。

このパンフレットを手にするだけでも企画展を見学する価値があると思います。

次世代へのメッセージで紹介されている木村緋紗子さんは、仙台で活動を続けておられますが、基町高校が行っている被爆体験をもとに描く「原爆の絵」制作に協力するとともに、日本被団協の代表理事の一人として昨年のノーベル平和賞授賞式に参加されました。ビデオでは、そのことも紹介されています。

来年2月28日までという長丁場の企画展ですので、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年3月26日 (水)

金鎮湖さんの話し

23日、ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)が主催する「金鎮湖(キンヂノ)さん(広島県朝鮮人被爆者協議会会長)のお話を伺う会」が、平和公園レストハウスで開催されました。

金鎮湖さんと私は、50年という長い付き合いがありますが、きちんとした話を聞いたことがありませんでしたので、参加することにしました。

初めて聞く話(特に生い立ち,在日被爆者の実情など)が多く、参加して本当に良かったと思います。

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金鎮湖さんの話しは、広島の朝鮮人原爆被害者の実態、自らの生い立ち、在朝被爆者の歴史と現状、広島で受けてきた民族差別の実態と闘い、日本被団協のノーベル平和賞受賞ヘの思いがテーマでした。

この会がかいさいされた前日、朝日新聞の広島版紙面に「二重の差別 恐れた両親」のタイトルで、金鎮湖さんへの聞き取りをまとめた記事が掲載されました。そのコピーが当日会場で配布されました。

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金鎮湖さんの生い立ち、生き様はこの記事に紹介されていますので、ぜひ読んで欲しいと思います。

その中にも記述されていますが、「日本の植民地支配下にあった朝鮮半島から広島に渡って被爆した朝鮮人は数万とも言われるが、そうした歴史背景から『日本政府の世話になりたくない』と被爆者健康手帳の取得を拒む1世や2世(いのちとうとし注:在日1世2世のこと)の姿を見てきた」という思いをほんとうに共有できるのか、参加者に問いかける内容でもあるように受け止めました。そして、長年受けてきた朝鮮人差別の実態は、知っているつもりでも、なかなか当事者からは聞けない内容ですし、いまも続く差別の問題とどう向き合っていくのかが問われることになります。

在朝被爆者問題は、金さんと何度も同行して朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、被爆者の話を聞き、何とか日本政府を動かすことはできないかと取り組んできたにもかかわらず、何らの前進も見ることもなく今日を迎えている課題だけに、その責任の重さとどうすれば良いのかという思いを抱きながら、聞くことになりました。私からも補足的に、この問題の本質について、説明しました。

放置されたままの在朝被爆者の問題は、日本被団協の田中代表委員のノーベル平和賞受賞にかかわる発言にも全く触れられることがありませんでしたが、そのことも金さんは指摘されました。

今年は、朝鮮民主主義人民共和国に被爆者組織「朝鮮人被爆者協議会」が結成されてちょうど30年の節目の年です。

在朝被爆者問題の解決は、被爆80周年の課題であるだけでなく、朝鮮半島が植民地支配から解放されて80周年の年としての課題でもあります。

今年をこの二つの方向から考えると、在朝被爆者問題は、朝鮮学園無償化問題とともにどうしても解決しなければならない課題だと思い知らされた金鎮湖さんの話しでした。

何よりも今回金さんの話を聞いたことは、金鎮湖さんとの友情をさらに深める思いを強くすることにもなりました。

いのちとうとし

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2025年3月25日 (火)

中国電力、カルテル株主代表訴訟の経過をお知らせします

皆さんの中には、中国電力カルテル事件の株主代表訴訟がどうなっているのか連絡がないことを、心配しておられる方も多いと思いますので、簡単にこの間の裁判の経過についてお知らせしたいと思います。

広島地裁での株主代表訴訟は、昨年2月5日に初公判が行われ、第2回が非公開で同じく昨年4月10日に行われました。

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この度のカルテル事件においては、大きく次の三つの裁判が行われています。さらに正確に言えば、もう一つの手続きを加え、4つの審査があります。

①私たちが起こしている、カルテル事件を起こした当時の中国電力取締役の全員を被告としている株主代表訴訟です。昨年4月10日に非公開で行われた第2回以降、非公開を含め次回の口頭弁論は決まっていません。

②さらに、中国電力が原告として同じく中国電力の、カルテル事件が発生した当時の取締役3人に対して起こしている損害賠償請求事件です。この二つの裁判が広島地裁の同じ裁判官において行われているために、ややこしいというか、とても興味深い形となっています。

③なぜこの裁判が進まないのか疑問をお持ちかとも思いますが、その理由は、中国電力が公正取引委員会から出された、独占禁止法にもとづく「排除措置命令」および707億円を超える課徴金納付命令の取り消しを求めている訴訟があるためです。この裁判は、東京地裁で行われています。広島地裁としては、東京地裁での結論が出されないと、自らの判断を行いたくないという、まさに自主性の無い状況が続いています。

私たちは、東京地裁での裁判に「補助参加」することを求める申し立てを昨年7月に起こしましたが、却下されました。却下はされましたが、この審理でカルテル事件の中での、中国電力と関西電力の当事者たちが行ったリアルなやり取りが明らかになりました。中国電力の取締役らへの、公正取引委員会の取り調べ書は、膨大になっています。

④もう一つは、カルテル事件を起こした当時の中国電力の取締役会と監査等委員会に対し、会社法に基づき、裁判所の許可を得て閲覧できるように求める審理が行われています。

この審理は広島地裁の、別の裁判官による審尋という形で行われています。年度末までに和解をする予定で、まさに詰めの審理が行われています。この3月31日に第7回の審尋が入っています。

ご存知の通り、カルテル事件の株主代表訴訟は中国電力だけでなく、中部・関西・九州の株主で行われています。定期的にZOOM(会議システム)による打合せを行い、情報を共有しながら連携して取り組んでいます。

簡単な報告となりましたが、引き続きご支援をよろしくお願いします。

木原省治

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2025年3月24日 (月)

「2025上関原発を建てさせない山口大集会」に参加しまた。

22日の午前10時から山口市の維新百年記念公園・野外音楽堂で地元山口県内と広島県などから800名が参加し「2025上関原発を建てさせない山口大集会」が、開催されました。

集会では最初に共同代表の木村力さん(上関に原発を建てさせない祝島島民の会代表)と内山新吾さん(弁護士)の二人が主催者あいさつを行いました。

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木村さんは「政府が決めたエネルギー基本計画は、原発推進に舵をきった。しかし、一方で,これまでの型の原発はこれからは建てさせないとしている。と言っているのもかかわらず、中電は計画を撤回せず、山口県も埋め立て免許の撤回をしないまま。さらに中電は、埋立て調査についても『邪魔するな』と私たちを訴えている。中間貯蔵施設に建設については、さきの田布施町議会議員選挙で,建設反対派の議員が半数当選し、追い風が吹いている。私たちは、中電の目の上のたんこぶとして,中電の症状を治すための注射針としてがんばる」と力強く訴えました。

次はジャーナリストの青木美希さんの記念講演。

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青木さんは冒頭に「きのこの出荷制限がかかっているのは、どこまでですか。3択です。60,160,380キロ」と参加者に問いかけました。「答えは、380キロ。青森県の鰺ヶ沢です。林野庁のホームページに掲載されています。原発事故は終わったという人は、ぜひこれを見て下さい。」

その後、取材で録音した被災者の声が流れます。特に「一部の人が儲かる仕組み。これが原発です。この仕組みを作ったのは政治。政治を変えなければなりません」と呼びかけました。

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その後、上関からの報告、県民の声の発言があり、二人の子どもを持つ山本裕美さんが集会宣言を提案し、全員の拍手で採択されました。

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続いて「奇跡の海」と書かれたプラスターを掲げるパフォーマンスを行い、山口県平和運動フォーラム森本正宏議長が「上関原発、中間貯蔵施設計画を中止させるため、引き続きがんばろう」と閉会のあいさつを行い、山口大集会は終了しました。

採択された集会宣言の一部を紹介します。


集会宣言

(前半略)

祝島を始めとする上関町民、市民は40年以上にわたって上関原発を建てさせていません。一昨年から、中国電力が関西電力と共同で上関町に「使用済み核燃料『中間貯蔵施設』を造ろうとする動きが表面化しました。昨年11月、中電は建設予定地のボーリング調査を終え、適地かどうかの判断を行おうとしています。

私たちは、大規模な自然破壊をともなう「中間貯蔵施設」建設計画に反対し、県・県議会への申入れ・請願、署名活動、集会など、あらゆる活動を行っています。現在、地元4団体の呼びかけに応え「上関中間貯蔵計画の撤回!環境影響評価なしに適地判断を行わないよう求める署名」に取り組んでいます。この署名は、昨年12月に生物分野での7学会にわたる研究者組織が中電に求めた要望書を支持するものです。

上関町でも,マスコミのアンケート調査では中間貯蔵施設反対の声が半数をしめています。周辺自治体でも反対の声はますます大きくなっています。昨年の衆議院選挙ではその民意が大きく反映されました。2月の田布施町議会選挙では、議員の半数をしめる6名が中間貯蔵計画反対を訴え上位当選し、議員たちは早速、「中間貯蔵計画反対の決議案」を町議会へ提出しました。

村岡知事は、この県民の意思をしっかり受け止め、「中間貯蔵施設」の可否を判断してください。それが私たちの願いです。

本日、私たちはここの集い、福島や全国ものみなさんと連帯して、日本の原子力政策を変えるためにさらに運動の輪を広げることを確認しました。地震をはじめとする自然災害は止めることはできなくても、原発や「使用済み核燃料『中間貯蔵施設』」の建設は人の決断で止めることができます。

100年後の未来の子どもたちに「核のゴミ」ではなく、「奇跡の海」と呼ばれる素晴らしい自然を残すために,共に闘いましょう!


いのちとうとし

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2025年3月23日 (日)

2025年3月のブルーベリー農園その3

彼岸が来ていい天気が続くようになり、春の雪が降ったかと思うと気温も17度くらいにまで上がってきたりする早春。気温が上がるとスギ花粉も多くなり鼻のむずむずが来るなどの変化に体がついていくのがやっとの中東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通い続けている。

3月14日(金) ブルーベリー畑で剪定をしてそろそろ終わりにしようと片付けをしていると里山でキジの鳴き声が聞こえた。このあとブルーベリー畑の上を飛んで行ったのを眺めた

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319日(水) 春の雪が降った。農園にもうっすらと雪が積もった

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午後2時ころには雪もすっかり消えた

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小さい畑にあるウメの蕾は少し膨らんでいる

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320日(木) 真ん中のブルーベリー畑の剪定を続ける。剪定がすんだらブルーベリーの落ち葉かき集めて株元に敷いてやる

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ブルーベリーの剪定と同時に株元の土をほぐしたり、増し土をしてやる。土はもみ殻、ココチップ、野焼きした炭を混ぜた

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321日(金) 剪定作業の合間にたまったブルーベリーの枝を野焼きする

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畑の地べたにはスイセンの蕾が伸びてきている

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里山あたり

①里山のエビネの花芽も地べたから顔を出してきた。先っちょを指でつまんで花の塊が中にあるかどうか確かめる。ごつごつとした感触があってちゃんと中で花が作られていた

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②ブルーベリー畑の道を挟んだ休耕田にイノシシが掘り起こした土が枯草の中でくっきりと見える

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③ヤブツバキがちらほら咲いている

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帰り道の田んぼにキジがいるのを車の中から見やりながら帰途についた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年3月22日 (土)

府中地区の3月「19日行動」

府中地区の3月の「19日行動」は、雪がちらつく中、15:30から上下町Aコープ前で7名、17:30から府中天満屋前で9名がスタンディングとリレートークを行いました。

昨晩(18日)イスラエルが停戦中にもかかわらずガザ地区へ攻撃し、400名もの死者が出ています。そのうち7割が女性と子どもというニュースに、停戦後しばらく掲げていなかった「イスラエルはガザ虐殺をやめよ」の横断幕を広げて訴えました。

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上下ではいつも通り多くの人が車窓から手を振ってくれ、ピースサインももらって元気が出ました。弁士は代わるがわる以下のように語りました。

・イスラエルが行っている虐殺で亡くなったのは4万5千人以上、府中市民より多く恐ろしい。日本は主権国家として、米国、イスラエル、ロシア、ウクライナに平和を求めるべき。

・来たる参議院選挙で、企業献金がやめられない金権体質の自民党政治を終わらせる第一歩にしよう。高額医療制度の引き上げは当事者と野党の声で見送られた。8兆7千億円もの防衛費予算で戦争の準備をするなと言いたい。与那国島では400億円をかけて自衛隊基地強化が行われ、一方介護予算は4800万円、高齢者の半数が介護が受けられないため島を出たという。沖縄慰霊の日の式典で、6歳の安里有生少年が朗読した詩「平和ってすてきだね」を朗読。子どもの素直な気持ちに応える平和な社会を作ろう。

・府中市の財政健全化のため、府中市民病院内の食育レストランこもれびを閉店するとの報に、急遽存続署名に取り組んだ。不安だった初日、「ここが閉まったら困る」と30筆も集まり、地元紙の報道もあって合計1538筆となった。署名を副市長に届けた際、利用者抜きに閉店を決めたり、存続の努力をしなかったことがわかった。3月議会で取り上げてくれた市議会議員が複数いた。閉店するにしても最後に食べにきて「ごちそうさま」と言って欲しかったが、結局、市長は来なかった。魅力あるまちづくりとはなんなのか、市にはよく考えてもらいたい。

・ガザの報道は少ないが、イスラエルによる殺戮が続き、停戦と言っても安心して暮らせる状況ではない。ガザの町は4200万トンの瓦礫となり、ダンプカーに乗せて並べればその車列はニューヨークからシンガポールまでの長さというから恐ろしい。救援物資や電力を止めてガザを窮地に陥れているイスラエルの姿にどうか目を向けてほしい。

・年金生活者として電気代や洋服代を節約している。暮らしぶりは自己責任にされがちだが、誰もが安心して暮らせる社会が必要だ。教育や医療に税金を回して、若い人がお金を十分に使えるようにするべきだ。

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・停戦交渉中のイスラエルによるガザ爆撃を承認したり、フーシ派への攻撃をしたりと、トランプ氏は中東での米国の優位性を保つために行動していることが明白。ロシア・ウクライナ戦争に対しても、小国が米国に楯突くことが気に入らないといった態度も表明している。トランプ政権のこの4年間は、安保法制で日本も米国の戦争に巻き込まれる可能性が高まっている。これを防ぐためにみんなで力を出そう。

石岡真由美

【編集者】今月は、いつも原稿を送っていただく小川敏男さんが,別の用事があり「19日行動」に参加できませんでしたので、石岡真由美さんにお願いし原稿を送っていただきました。

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2025年3月21日 (金)

ベトナムの歴史(その38-2) ― ベトナム Now Ⅺ その2―

中越戦争の「事実」 

3月7日、ランソンで46年前の中越戦争を取材中に中国軍に銃撃され死亡した『赤旗』記者、高野功さんの「追悼の集い」があったことをメディア各社が報じました。当時、高野記者とともに取材していた『戦場の枯葉剤』で知られる報道写真家の中村梧郎さんたちが開いたものです。

中村さんは一昨年秋、『記者狙撃―ベトナム戦争とウクライナ―』(2023年10月25日、発行:花伝社、発売:共栄書房、1700円)を出版し、その序文にこう記されています。「私は生き残ってしまった。銃弾が飛びしきる中で、頭骨を撃ち抜かれた記者が死んだ。私とポジションを変えたための彼の死であった。それまで死を身近なものと思っていなかった私は、その日以来サバイバーズ・キルト(生き残った者の罪悪感)の苦しさを反芻しつづけることとなった。どのタイミングなのか自分でも分からない。ふいに、生きているのが恥ずかしいという感覚が湧きあがってきて胸を刺す。そのたびに得体のしれぬ奇声が喉をつく。

・・・・そうした堂々巡りを断ち切って、殺された高野功特派員に関わる未発表の事実を記述し、素直に弔ってやりたいと思いはじめたのは、事件から40年を経たのちだった。取材メモは残っている。事件の様相は生々しく記憶してもいる。事件直後には、悲しみのどん底にある遺族がいる前で語れないことがたくさんあった。その未公開だった経緯を正確に記述しておくのは、ベトナム側の関係者がまだ生きていて客観的な証明もできる今のうちしかない。事件前後の事態はきちんと補っておく必要がある。」と、執筆の動機を述べられています。

続いて、「ベトナム戦争で行動を共にした写真家の何人かも戦場取材で殺されたりしている。イラク、アフガン、ウクライナと大国による傲慢な侵略が起きるたびに、私は形容しがたいほどの怒りが涌きあがる。」と、今日につながる憤慨とともに280頁に及びその「事実」を伝えてくださっています。それは、今日の国際情勢を捉えるうえで学び深く、山と紹介したいのですが省きます。是非とも、手にしてください。

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赤旗の高野功記者(眼鏡を掛けた人)は国境紛争の最初の戦況を取材し、1979年3月7日に中国軍に殺害された。(撮影:ミン・ダオ)出典:ベトナム通信社

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高野功記者の追悼の集いで話す中村梧郎さん(左)とン・バン・ドゥオンさん。3月7日、ベトナム北部ランソン出典:共同通信

間もなく4月30日、アメリカの傀儡政権だったベトナム共和国(南ベトナム)の首都・サイゴン(現在のホーチミン市)が陥落し、ベトナム戦争が終結して丸50年を迎えます。翌1976年、南北に分断されていたベトナムは悲願の統一を遂げ、国名をベトナム社会主義共和国に変えてから50周年を迎えます。

 次号では、《なぜ共にフランスやアメリカと戦い、共産党として「兄弟関係」にあったベトナムとカンボジアが戦争したの?》 《なぜ、同じ社会主義国のベトナムと中国は戦争をしたの?》 《日本はどう関わっていたの?》・・・・・と、誰しもが《疑問に思う》ことを見ていきたいと思います。

2025年3月21日(あかたつ)

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2025年3月20日 (木)

ベトナムの歴史(その38-1) ― ベトナム Now Ⅺその1―

中越戦争 ~「ベトナムのカンボジア侵攻に対する懲罰」として中国軍が越境攻撃~

1979年18日、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリンが自国民170万人を虐殺したポル・ポト政権を倒し、カンプチア人民共和国を成立。政権を追われたポル・ポトは仇敵のロン・ノル派とシアヌーク派による「三派連合」を組み、ヘン・サムリン政権との内戦を1991年の「パリ和平協定」まで続けます。この辺りについては前号で触れました。

一方、ポル・ポト政権を支援していた中国は19792月、56万の軍隊をベトナム国境に終結させ、「懲罰的軍事行動」と称して30万の軍勢でベトナム北部に侵攻しました。1500門の重砲による国境線全域への砲撃の後、①ラオカイ市、②カオバン市、③ランソン市を目指し3方面から攻め込んだのです。

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1979年2月17日、中国軍の越境攻撃出典:ウイキペディア(日本語の地名は筆者が挿入)

対するベトナム軍は、主力がカンボジア戦線に展開中のため、正規軍と民兵で約2万人と劣勢です。ベトナム軍は圧倒的な兵力の中国軍を前に、真正面からの衝突を避け、敵に損害を与えながらランソンの南100kmのハノイ近郊に撤退します。中国軍は多くの犠牲を出しながらベトナム軍の後退に合わせ進軍し、3月5日にランソンをはじめ北部5つの省を制圧します。

ベトナム軍はハノイ市民の協力で築いた強固な巨大陣地にカンボジア展開中の主力軍が合流し、中国軍との決戦態勢を整えます。中国軍はベトナム正規軍との正面衝突になれば被害はさらに拡大し、占領地の維持も困難になると判断し、翌日の3月6日に「軍事的懲罰の完了」を宣言し16日までにベトナム領から撤退しました。こうして中越戦争は3週間あまりで終結しました。

中国は「(目的の)懲罰を達成して撤退」と勝利と主張していますが、国際的にはベトナムの勝利との認識が一般的です。それにしても僅か3週間あまりの戦争で、ベトナム側に約3万人(中国発表)、中国側に約26千人(ベトナム発表)の犠牲者を出したと言われ、双方で6~7万人という戦死者はとてつもなく大きな犠牲です。

中国人民解放軍 ― ベトナム兵士の証言

随分と前に読んだ『中国人民解放軍』(岩波新書、平松茂雄著、1987年11月20日)を思い出し、書庫から探し出しました。歩兵の決死隊を先頭に地雷原を進んできた戦車隊とのラオカイでの戦闘についての興味深いベトナム軍兵士の証言があります。「中国歩兵部隊は肩を並べて進み、自分たちの犠牲で地雷原を切り開きつつ、じりじりと進んでくる。彼らはまるで水田の稲穂のように無数で密集していた」。カオバンでの戦闘についても、「われわれ40人の陣地に四方から数え切れないほどの中国兵が18台の戦車とともにラッパを合図にいっせいに攻撃してきた。11台の戦車を破壊し、多くの敵兵を殲滅したが、数えるひまがなかった。目の前は敵の死体でいっぱいだった。中国軍は人海戦術で銃も撃たず押し寄せてくる。弾薬さえあれば、われわれはいくらでも殲滅できる」と。

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ラオ・カイ省などの自衛団は現地の兵士と協力し戦った。撮影:グエン・チャン―出典:ベトナム通信社  

同書は「健軍60周年」(1987年8月1日)を迎え、「国家の安全を守る国防軍として成長することができなかった」が、「鄧小平政権のもとでもう一度近代的軍隊への改造に挑戦している」中国人民解放軍を、誕生から発展、実戦から見た中国軍の戦力と戦略、そして鄧小平の軍事改革などについて分析したものです。

平松茂雄氏は同書のベトナム兵士の証言に続いて、こう記しています。「このベトナム兵の証言通りであったならば、中越戦争でとられた中国軍の戦法は、朝鮮戦争の時と少しも変わっていないということになる」と。

中越戦争を始めた鄧小平が、その教訓(敗北)から「近代的軍隊への改造」に着手したことなどを含め、1979年の中越戦争は決して中国の「勝利」ではなく、軍事的にはベトナムの勝利だったと思います。

「軍事的にはベトナムの勝利」とした理由は、1979年のカンボジア侵攻以降、ベトナムは1991年頃まで国際的な孤立を深めていたからです。このことについては次号で触れたいと思います。

2025年3月20日(あかたつ)

【編集者】今回も、あかたつさんの原稿が少し長めですので、筆書からの要望もあり今日、明日の2回分けて掲載します。

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2025年3月19日 (水)

広島平和記念資料館企画展「広島原爆の視覚的資料」

広島平和記念資料館(以下『資料館』)の今年度第2回となる企画展「広島原爆の視覚的資料-1945年の写真と映像」が、2月28日から資料館東館1階で始まりました。

少し遅くなったのですが、17日に行ってきました。会場に着いたのは、午前11時過ぎでしたが、入場券売り場の前は列ができていました。

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私がめざす企画展会場は、この写真の左手ですので、すぐに会場に入りました。

今回展示されている写真・映像は、1945年8月6日の広島への原爆投下直後からその年の12月末までに撮影されたものです。

これらの資料は、2023年9月に資料を保存する広島市や中国新聞をはじめとするマスコミ5者によって「広島原爆の視覚的資料-1945年の写真と映像」として、ユネスコ「世界の記憶」の国内審査に申請され、同年11月に日本政府がこれを申請することを決定し、現在ユネスコで審査が行われています。

今回の企画展のサブタイトルは「ユネスコ『世界の記憶』登録候補」となっており、申請された写真と映像の一部が、撮影者ごとに紹介されています。

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順路に従って進むと最初のコーナーは「広島の壊滅―『広島原爆被災撮影者の会』関係写真」が,撮影者ごとに紹介されています。ここにならぶ写真は、新聞や出版物に掲載されたもので,1978年に撮影者らによって「広島原爆被災撮影者の会」が結成され,1981年に「広島壊滅の時ー被爆カメラマン写真集-」として発刊されています。

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私も以前にこの本を購入していますので、見覚えのある写真が展示されています。ただ本には、286点が収録されているため、Ⅰ枚Ⅰ枚は小さくなっています。今回の展示は、引き延ばして大きくなっていますので、微妙なところまで見ることができます。

一昨日(17日)のブログ「『旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室』見学―つづき」で紹介した「呉市吉浦町からから撮影したきのこ雲」も展示されていました。私がブログで使った写真よりずいぶんと鮮明です。

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この写真の撮影者は、尾木正己さん。キャプションには次のように書かれています。「尾木正己さん(当時31歳)は、原爆投下当日、爆心地から約18キロメートル離れた呉市吉浦町の呉海軍工廠火工部設計係において室内に勤務中だった。鉛筆を持った手が浮き上がるような衝撃を受け、その後、きのこ雲を撮影した。8月7日から広島市内に救援に入ったため,市内各地の状況も撮影した。」撮影時刻は、原爆炸裂から40分後ごろです。

こうして説明していると終わりが見えません。もう一枚だけ紹介します。

被爆電車です。

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タイトルは「被爆で立ち往生する路面電車651号」となっています。撮影者は、陸軍第五師団司令部報道班員であった岸田貢宜さん(当時29歳)です。撮影日は9日、撮影場所は、小町の中国配電本社(現在の中国電力本社)付近です。

この写真、「650系の被爆した電車」として紹介されていますが、「651号」と意識してみたのは、今回が初めてです。

路面電車651号は、現在も被爆電車として運行されている車両です。

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「広島の壊滅」に続くコーナーは、「被爆地に入るー新聞社・通信社関係写真・映像」です。これらの写真は、8月15日以降に紙面に掲載されますが、プレスコードによって広く被爆の実態をすらせることにはなりませんでした。

さらに「廃墟をあるいてー学術調査関係写真・映像」と続きますが、ここまでで長くなりましたので、企画展の紹介はこれで終了です。

この企画展は、9月16日まで開催されています。入場料は無料ですし、貴重な写真がならび、立派なパンフレットもつくられていますので、一度は見に行って欲しい展示会です。

いのちとうとし

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2025年3月18日 (火)

「ヒロシマドキュメント被爆80年」1955年8月6日―中国新聞

中国新聞が昨年から連載している「ヒロシマドキュメント被爆80年」は、毎回興味深く読んでいます。

3月16日は、1面の左肩と6面は全ページを使って、1955年8月に広島市で開催された原水禁世界大会について、かなり詳細に記述しています。

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初めて知る事実も多くありましたが、何となく気になる記述が数カ所ありましたので、筆者にメールを送りました。その一部を掲載します。


1面関連。

4段目「まとめる東京の全国組織が運動の総括として開催を決めた。広島で署名を集めた市民が被爆10年も考慮して提案し、決定後は広島準備会を結成」の部分です。

この書き方に間違いないのですが、正確には、すでに結成されていた広島県原水協が「世界大会」を提案して開催にいたったことが、少し不明になっています。

このことについては、「ヒロシマ40年森滝日記の証言」の52ページに,次のように記載されています。

まず森滝先生の日記の部分で「協議に入り、来年86日原水爆禁止世界大会開催のことを提案す。申し合わせ事項の最重要事項として決議される。」とし、これ以降は栗栖さん(いのちとうとし注:栗栖さんは森滝日記を担当した記者)が書かれたものと思いますが、「中央レベルでも『原水爆禁止世界大会』の広島開催案は、大きな共鳴を呼んだ。署名運動から国際的な大会を持つ組織的な運動へ。ヒロシマから提起した世界大会開催案は、今日まで続く原水禁大会の基礎となった。」と、広島から提案したことが強調されています。

私は、このことは広島の運動にとって重要なことだと思っていますので、このあたりのことは時系列的にきちんと書いておいた方が良いように思います。

6面関連

「広島 救援の組織化が進む」の見出しの2段目最初の2行です。

紙面では、「55年11月 大会宣言の実現を掲げて原水爆禁止広島協議会が発足。」の部分です。

原水爆禁止広島協議会は、1954年に全県的な署名運動の窓口として6月26日に発足した「原水爆禁止広島県民運動本部」が、その後「原・水爆禁止広島県民運動連絡本部」と改名し(時期は、いまちょっと不明ですが)、その後、その組織を発展的に解消し、1954年9月7日に結成されたのが「原・水爆禁止運動広島協議会」(略称広島原水協)です。このことも、「ヒロシマ40年森滝日記の証言」の50ページから51ページに記載されています。

それからこの面の「被害者が発言会場から拍手」の最下段前から3行目からの「広島準備会事務局長の森瀧市郎さんの回顧によれば、広島の原爆被害者からは「もっと多くの声を聞いて欲しい」と要望が上がった。そのため、大会の運営委員会と折衝。市内6会場での2日目の討議の前に急きょ被害者との懇談を設け、それぞれ十数人を配置した」と書かれており、私も先生の「反核30年」を読み、そう思っていたのですが、これも藤居平一関係資料を見ていて、訂正しなければならないのかなと思ったことがあります。

添付した資料はその一枚ですが、大会案内のチラシの裏面の記載されている「大会日程」です。

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この資料には、発言者の中に「予定」と書かれているものがありますし、中国の代表が発言する(いのちとうとし注:中国代表は広島大会には間に合わなかったので発言できていない)ようになっていますので、大会前のある時期に決まっていた日程で間違いないと思われます。

この「日程」のよると不思議なことですが、「初日」の日程の中に「原爆被害者の発言」はありません。しかし、2日目の分散会の日程の中で「午前8時から9時までは広島・長崎、静岡焼津の原水爆被害者との会談」と書かれていますので、二日目の被爆者の話は急きょ決まったのではなく、あらかじめ予定されていたと思われます。


以上のような問いかけについて、中国新聞の担当記者から、ここでは省略しますが、宇吹暁著「ヒロシマ戦後史」の該当ページが、資料として添付され丁寧な返答がありました。

例えば「原・水爆禁止運動広島協議会(現在の「広島県原水禁」)の結成時期」については、「ヒロシマ戦後史」を読めば、中国新聞の記述もそれなりの理由があることが理解できました。ただ大事なことは、この歴史を運動的視点からどう見るのかが重要だと私は思っていますので、そうして視点から,私たちは歴史をふりかえる必要があると思います。今後もこうした視点から、記事を読んでいきたいと思います。

いのちとうとし

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2025年3月17日 (月)

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」見学―つづき

昨日のつづきです。

旧呉海軍工廠砲熕部火工場の航空写真です。

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1947年に米軍が撮影したものです。呉海軍工廠砲熕部火工場は、空襲の被害を受けなかったようで、戦前のままの建物が残っています。この写真のどの建物かは分かりませんが、多くの建物の中で、「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」だけが現存していることになります。

ところで、ここを訪れたとき、同窓生から渡された資料があります。

1979年12月発行の「文化評論」に掲載された「秘録原子爆弾ー三十四年目の証言―」のコピーです。前文に次のように書かれています。「1945年8月6日朝、広島に投下された一発の『新型爆弾』―。“これは原子爆弾だ”と喝破した一技術将校とこれを掘り起こした科学者の証言」。二人の対談が掲載されていますが、そのうちの一人が、広島に原爆が投下された当時、呉海軍工廠砲熕部火工部長だった三井再男さんです。三井さんは当時大佐、この呉海軍工廠砲熕部火工場から広島に立ち上るキノコ雲の一部に赤い炎色反応が出ているのに気づき「これは原子爆弾だ」と直感した人です。その時のことが書かれているのがこの資料です。詳しく書くことはできませんが、当時三井さんがこの地から見たと思われる原子雲の写真です。撮影場所は、呉海軍工廠砲熕部火工場の敷地内です。

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「原子爆弾だ」と直感した三井大佐は、その日のうちに呉鎮守府の5人の技師からなる調査団を派遣し、自らは翌日隊長として広島に入ります。興味ある内容なので少し長くなりましたが紹介しました。

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」がある地名を、昨日「呉市若葉町」と書きました。ここに海軍施設が建設されたころは「吉浦村池濱」と呼ばれていましたので、当時は呉市ではありませんでした。吉浦が、呉市に合併したのは,1928年(昭和3年)ですが、現在「若葉町」と呼ばれている地域は、吉浦地区といってよいのです。

なぜこの地名にこだわるかといえば、次に訪れたのが、呉市吉浦町狩留家にある吉浦中学校だからです。

ここは戦時中、女子動員学徒の宿舎があり,学生達はここに宿泊しながら「呉海軍工廠砲熕部火工場」に隊列をつくり通っていたのです。距離はおおよそ3kmです。

現在、吉浦中学校の校門を入って左手奥に「呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡」の石碑が建っています。

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「平成七年十二月八日」の日付が刻まれています。

下部にはめ込まれ銅板は、少し読み難くなっていますが、次のような碑文が刻まれています。

「この地は、昭和19年6月から昭和20年8月終戰まで、広島・島根・愛媛三県の女学生(現在の中学二年三年高校一年生)約四千人が学業半ばにして,呉海軍工廠に動員された際の寄宿舎跡である。私達女学生は、学徒勤労令の下,何の疑心も抱かず困苦に耐え真摯な努力を傾けた。このことは教育の及ぼす影響が大なることを痛感させる。 よって平和教育の一助となることを願い、ここの記念碑を建立する。」

その左側に「寄宿舎から出勤の風景」と昨日紹介した「防空壕での作業風景」の2枚の写真が刻まれています。両方とも銅板が傷み見にくくなっていますので、ここでは呉市発行「呉の歩み」に掲載された「呉工廠狩留家宿舎朝礼」の写真を使います。

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写真は、「昭和19年秋」となっています。

さらにその左隣には、協力校の名前が刻まれています。この寄宿舎で寝泊まりしていた女学校名だと思われます。島根は、「津和野、浜田、益田、益田家政」の4校の名前が刻まれています。ここの宿泊していた女学生は、終戦直後、ここから帰郷する途中で広島駅を通過したため、入市被爆することになったのです。

同窓生のお陰で、島根から学徒動員された生徒の足跡の一部を訪ねることができました。

いのちとうとし

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2025年3月16日 (日)

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」見学

先月末、高校の同窓生の車に同乗させてもらい呉に行ってきました。目的は、呉市若葉町にある海上保安大学校の敷地内に残る旧呉海軍工廠の建物を見学するためです。

同窓生は、私が2021年2月ころにこのブログに連載した「学徒動員と原爆被爆」を読んでくれていて、私が関心を持っているだろうと誘ってくれたのです。

当日朝、広島市内で待ち合わせをし、車で呉市若葉町にある海上保安大学校に行きました。あらかじめ予約していましたので、事務所を訪れ最初に敷地内にある海上保安資料館を見学しました。

その後、主目的である敷地内の少し奥にある「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」のレンガ造りの建物を訪れました。ちなみに「砲熕」とは大砲のことです。この建物は、現在は、海上保安大学校煉瓦ホールとして使用されています。

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「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」は、1914年(大正3年)に建造されたレンガの建物で、「海軍第一の製造所」と言われた呉海軍工廠の建物の主要構造部, 外観部分など建設当時の意匠をよく残しており、呉市の有形文化財に指定されています。

中に入ると当時の様子がしのばれます。がっちりした天井の骨組み。

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よく見ると、碍子も沢山残っており、当時機械室だったという面影を感じます。

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おしゃれな出入り口。

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建物の裏側です。

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気になったのは、レンガの積み方です。

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一段おきに大きさのちがうレンガが、積まれています。これまで訪れたレンガ造りの建物では,こうした積み方は見たことがない気がします。

珍しい積み方だなと思いましたので帰宅後調べると、このように「一列目は小口だけ、二列目は長手だけというふうに一列ごとにレンガの向きを変える積み方」は、イギリス積みというようです。明治に入ってレンガ造りの建物が建ちはじめた最初のころは、同じ列で長手と小口を交互に積むフランス方式だったようです。しかし、その後イギリス積みはフランス積みと比較すると強度が高く、使うレンガが少なくて済むので経済的とも言われ、イギリス積みが取り入れられるようになりました。

レンガの積み方はこれぐらいしに、肝心なことは、ここに学徒動員された生徒たちが、どんな作業をしていたかです。

1935年(昭和10年)に「呉海軍工廠火工部」として「砲熕部(ほうこうぶ)」から独立したこの工場では、主に火薬や砲弾の製造をする工廠となりました。

ですから動員された学徒は、火薬や砲弾をつくる作業に従事させられていたと思われます。呉市が2006年(平成18年)に発行した「呉市の歩みⅡ」に、その作業の様子を映した写真があります。

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キャプションには、「防空壕内で砲弾部品の製造にはげむ女子動員学徒(呉工廠火工部)」と書かれています。「防空壕内」と書かれていますので、レンガ造りの建物内での作業ではありませんが、「呉海軍工廠火工部」での女子動員学徒の作業の様子の一部に間違いありません。周囲には防空壕跡がある(私は、帰宅後調べて知ったので、当日は見ていない)ようですから、建物以外でも作業が行われていたものと思われます。

もう少し紹介したいことがありますが、今日はここまでにし、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2025年3月15日 (土)

2025年3月のブルーベリー農園その2

サクラの開花情報が話題に上る季節になっているが東広島市豊栄町のブルーベリー農園の早春はあまり変わり映えのしない景色が広がっている。田んぼの畔起こしがちらほらと行われ、農耕用のトラクターが道路を走るのを見かける。町内にあるイセキの展示会が開催されており農家の方の車がたくさんとまっている。会場の紅白の幕が花見ではないがちょと春めいた空気を作っている。そんな中ブルーベリーの手入れは今が剪定のまっさい地中で農作業もなにかと気ぜわしい日々。

37日(金)イノシシが来たようでブルーベリー畑のそばの道を掘り起こしていた。すぐに土を固めて直した。来たのは久しぶりだったが大きな被害はなかった。

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ブルーベリー畑の水路の向こうののり面に広がるススキは今年の重たい雪のせいばたばたと倒れている

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ブルーベリーの剪定作業では株元からヒコバエを出そうとこぶから写真のように小指大の太さの根が舌のように伸びてその先きヒコバエを出す。これはよくないので切ってやる

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39日(日) 午後から農作業開始。気温も上がり剪定作業がはかどる

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310日(月) 春らしい穏やかな天気つづく。ブルーベリーの剪定を続ける

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311日(火) この日もいい天気。ブルーベリーの花芽も日に日に膨らむ

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小さいブルーベリーの木のある畑で肥料をまく。株元にはモグラの掘った空洞ができているのでかかとで踏み固めながらの作業となる

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大きな木の株元のヒコバエの除去作業では写真のような根がありその途中からひげ根を生やすのがブルーベリーの根の特徴。根の深さは浅い。

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312日(水) 小さい木の枝に葉芽から若々しい葉が出てきた

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地べたにの野の花の咲き具合も広がりを見せている。

①オオイヌノフグリ

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②ホトケノザ

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野の花はこれくらいで、花木も農園のウメの花はまだ咲かずツバキもまだ

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年3月14日 (金)

ふくもとまさお著「原発の町から普通の町に」

ドイツ在住の友人福本まさおさんから自著「原発の町から普通の町に」が送られてきました。本には「ドイツはなぜ、脱原発できたのか?」というサブタイトルがついています。

出版社は、東京のアケビ書房で今年3月1日が発行日となっています。

この本は、もともと電子書籍として出版されたものですので、本のあとがきは「紙の本出版に当たり」となっています。その中で福本さんは次のように記述しています。

「ドイツが脱原発できた要因を検証して、しっかり伝えていこう。そう思って、ホームページで連載した記事をまとめて出したのが電子書籍だった。フクシマ原発事故で脱原発を止めたドイツとか、倫理から原発を止めたドイツと、日本においてやたらにドイツの原発が美化されている。ドイツにいるぼくには、それに抵抗がある。ドイツはそれだけでは、脱原発は実現できなかった。

原子力発電をはじめると、原発はすぐに止めることのできるものではない。脱原発にも長いプロセスが必要となる。長い過程においては、いろいろなことが起こる。それに屈せずに、何が起ころうと脱原発を貫徹するには、ドイツの体験から見るといくつもの要因があった。

脱原発は、政治的、法的、経済的、社会的要因が揃わないと実現しない。長い脱原発のプロセスにおいて、社会は原発を必要としない社会へと変化していかなければならない。それは同時に、原発に依存せずに、社会を脱炭素化させていくプロセスである。」

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筆者は、ドイツで30年以上にわたって原発問題について取材してきた一つの集大成としてこの本をまとめています。

この本は、23のタイトルから成り立っています。「出版に当たって」にも書かれていることですが、その1は「ドイツはフクシマ原発事故で、脱原発を決めたわけではない」となっており、ドイツの脱原発政策が、フクシマ原発事故によって決められたことではなく、長い政治的プロセスの中で進んだことを2以降で詳細に記述しています。第2章では社会の変化を記述しています。

私がより興味を持ったのは「第3章これからの課題」です。3章のタイトルの最初の部分を並べてみます。

「12原発が止まれば脱原発を達成できたのか 13ドイツから見た日本の最終処分地選定への疑問 14日本でも脱原発はできる 15脱原発における独日の根本的な違い 16ドイツで原発が復活する可能性はあるか」

以下23まで続きますが「21」は「ドイツの脱原発から何を学ぶ?」です。

このタイトルを見ただけでもこの本への興味がわくはずです。さらにこの3章には、「ドイツの最終処分地選定の試み」「急激な原発拡大は自殺行為」の二つの読み応えのあるコラムが掲載されています。

日本とドイツの脱原発運動の現状をよく知っている福本さんならではの内容と言えます。

「脱原発には長いプロセスが求められる そのために必要なのは何か? 原発が止まっても、原発の遺産からは解放されない」

約100ページ余りの本ですので容易に読むことができますし、脱原発をめざすものにとってとっても興味深い内容となっていますので、ぜひ多くの人に読んで欲しいと思います。

定価は、1,320円で、Amazonで購入できます。

いのちとうとし

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2025年3月13日 (木)

久しぶりに縮景園に行きました。

梅の開花便りが報じられていますので、少し暖かくなった10日のお昼前、縮景園を訪れました。

夫婦とも65歳を超えていますので、入場料は無料です。

今回の入園では、二つも目的がありました。

もちろん一つは、開花が始まった梅林を見ることです。

表門を入ると左手の泉水亭の北側の通路を西に進みます。少し進むと足下に紫の小さな花が目に入ります。

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寒アヤメの名札がついています。寒アヤメの開花は、1月下旬から3月上旬ですので、最後の一輪のようです。

すぐ隣の椿では、鳥(名前は不明)が蜜をついばんでいました。

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最初の目的は、梅の花ですから、縮景園西側に広がる梅林に歩を進めます。カメラを構える人の姿が目に入ります。

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私も何枚か撮りました。梅林の南側入り口付近に「楊貴妃」の名札がついた木があります。その名にふさわしいきれいなピンク色の花を今を盛りと咲かせています。

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梅林の中程にある広島気象台の「うめ」の植物季節観測用標本木です。

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根元左下にその表示板が見えます。

梅林の北側には、紅梅が集まっていました。

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梅の花を眺めた後は、もう一つの目的の被爆樹木を見に行きます。

被爆樹木のことを特集したNHKの番組の中で、「ほぼ枯れ死状態だ」と言われていた被爆樹木が縮景園にありますので、まずその木を見に行きます。園内北西の塀際にあるムクノキです。

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数年前にもこの木を見に来ましたが、その時よりずっと弱っていて、私の目にも枯れてしまったなと映る残念な姿です。

もう一本の被爆樹木は、イチョウです。園の東側に進みます。こちらは、元気な姿を見せています。

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よく見ると根本付近から沢山のヒコバエが育っています。

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葉になる芽もふっくらと膨らんでいますので、今年も沢山の葉をつけ、元気な姿を見せてくれるはずです。

その後、ゆっくりと園内を巡りながら、最後にサクラの植物季節観測用標本木を見ましたが、つぼみは堅く、開花までにはまだ相当時間がかかりそうです。

この標本木を見終えて出口に向かうと目につくのが、大きく育ったミモザの木です。

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少し黄色くなっていますが、満開とまでは言えません。

余談ですが、38日の「国際女性デー」の日がなぜか「ミモザの日」になっています。その由来は、イタリアで、男性から女性に向けてミモザの花が贈られるようになったことからこの名がついたと伝えられているようです。

いろいろと楽しむことのできた久しぶりの縮景園訪問でした。

いのちとうとし

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2025年3月12日 (水)

3・11フクシマを忘れない さようなら原発ヒロシマ集会

14年目を迎えた3月11日、秋葉忠利さん、箕牧智之さん、森滝春子さん、山田延廣さん、岡田和樹さんの呼びかけで、今年も「3・11フクシマを忘れない さようなら原発ヒロシマ集会」が、午後6時から広島弁護士会館で開催されました。

集会は、大月純子さんの司会でスタートし、呼びかけ人を代表して山田延廣弁護士があいさつ。

最初に「福島からの訴え」が、鈴木薫さん(いわき放射能市民測定室たらちね理事長)から届いたビデオ・メッセージで紹介されました。

続いて、上関原発止めよう!広島ネットワーク・島根原発再稼働止めよう広島連絡会の溝田一成さんが、「島根原発は廃炉へ、上関中間貯蔵施設計画撤回へ」と訴えました。

いよいよ今年のメインとなる講演です。講師は、龍谷大学の大島堅一教授。タイトルは「原子力政策の無責任構造」でした。

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大島さんは、原発コストの問題について、図表を明示しながら、政府の説明がいかに欺瞞であるかを詳しく解説されました。政府が、「脱炭素」の名目で、将来性の全く見えない原子力発電に依存したエネルギー計画を立てたことへの問題点を鋭く指摘しました。

最後に、まとめとして「・第7次エネルギー基本計画は、原子力の『最大限利用』が方針化された。・原子力を推進するのは、衰退する原子力産業を救うためである。・原子力は建設コストが高く、建設期間が長いため、資金調達ができなくなっている。原子力維持のため、巨額の国民負担をともなう原子力補助政策が構築されている。・原子力ではなく、省エネ・再生可能エネ中心の新しいエネレギーシステムへの革新的移行が必要となっている」ことが強調されました。もう少し時間があればと思えた講演内容でした。

最後に實光由人(さねみつ・よしと)さんが集会アピールを提案し、全員の拍手で確認しました。最後に、呼びかけ人の一人である森滝春子さんが『核と人類は共存できないー広島から政府の原子力政策に対決していきましょう』と閉会のあいさつを行い今年の3・11集会は、終了しました。

集会の参加者は、130人、会場での福島支援カンパは4万883円集まりました。

アピールの一部を下記に掲載します。


3・11フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会 集会アピール 

 東京電力福島第1原発の大事故から14年、私たちは、再び原発事故を起こしてはならない。 原発被災地の一日も早い復興を願って「原発ゼロ」を訴えてきた。 今、被災地、福島からの避難者は公式には2万5千人だが、実際は4万5千人を超える人たちが避難生活を余儀なくされている。農業、漁業、産業の復興も道半ばだ。14年経った今も復興 の道筋は遠い。福島第1原発の廃炉も全く見通せない。燃料デブリの取り出しは0・7グラム、 耳かき1杯に過ぎない。除染土の処分も先が見えない。福島第一原発から出た汚染水も、漁業者 をはじめ私たちの声に耳を傾けることなく、海上放出し続け、新たな汚染を拡大している。福島 原発事故以降、福島の子どもたちに甲状腺がんが急増しているにも関わらず、福島県は原発由来ではないと主張しており、原発事故の被害が矮小化されている。ひとたび過酷な原発事故を起こせば取り返しが付かないことを改めて実感する。

(略)

中国電力は、地元住民の反対の声を無視して、2024年12月7日に島根原発2号機を再稼働し、1 月10日に営業運転を開始した。しかし、福島原発事故のような事故が起きたときの避難計画も明らかとなっておらず、即時停止を求める。さらに中国電力は島根原発3号機も稼働し ようとしている。島根原発の廃炉と原発に依存しない社会を実現しなければならない。

 政府は、福島の復興が足踏み状況の中で3年に一度見直される第7次の「エネルギー基本計画」を2月18日閣議決定した。これまで福島の事故を受けて「可能な限り原発の依存度を低減する」としてきたが、またも「最大限活用」と方針が変更されてしまった。(略)

 使用済み核燃料、いわゆる「核のゴミ」問題の解決も全く見通しが立っていない。政府はすでに破綻した核燃サイクルに依然として固執し、青森県六カ所村の再処理工場の完成を前提に「中間貯蔵施設」の建設を進めている。世界が放棄した核燃サイクル事業もきっぱりやめることである。

私たちは、中国電力に対し、上関原発の建設計画と中間「貯蔵」施設計画の白紙撤回を求め続けていかなければならない。

 (略)

 私たちは、福島第一原発事故を忘れず、福島復興はもちろん原発ゼロと再生可能エネルギーに依存し、地気球温暖化対策を推進し、持続可能な地球をもとめるために引き続き努力する。


集会参加者の意思として、後日「島根原発2号機即時停止、上関原発、中間貯蔵施設建設計画の撤回」を求める要請書を中国電力に提出します。

いのちとうとし

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2025年3月11日 (火)

三原の3月「19日行動」

春らしくなった3月8日(土)午後1時30分、三原駅前において15人が参加して定例「19日行動」を行いました。

スピーチを行った弁士からは、「ウクライナやパレスチナなど世界での戦争、破壊を生み出すもので何一つ建設的なものはない。なぜ日本はそのような戦争する道を歩もうとしているのか」。「今、国会で2025年度予算案が審議されているが、軍事費が過去最大の87000億円にのぼる軍備拡大を推し進められている。また、高額医療費の引き上げは国民の命を奪う暴挙である」などと石破政権の政策を批判。「私たちはがんこに平和、徹底して平和を求めてこれからも頑張っていきますので、私たちと手を携えて平和な社会をつくっていきましょう」と市民のみなさんに呼びかけました。

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弁士のM町在住の中西さんは、ニューヨーク国連本部で開催されている核兵器禁止条約第3回締約国会議について意見を述べました。▲「今回の内容は核兵器廃絶とともに核抑止力、このリスク・戦争を世界の人びとにどう訴えるのか。さらに核被害に対する保障や核被害による環境破壊をどうするのか具体的に話されている。会場では広島の胎内被爆者濱住治郎さんが『原爆は本人の未来を奪い、家族も苦しめる悪魔の兵器です。被爆による悲劇を繰り返してはなりません』と訴えられた。また、広島県選出の参議院議員立憲民主党の森本真治さんも発言された。今、世界が非常に不安定な社会で核兵器が使用される可能性がある時だけに今回の締約国会議でどういう見解を出すのか、世界の人びとにとって大きな希望になるのでぜひ成功に終わってほしい」。▲「日本政府の態度。被爆者や日本の多くの人が望まれていた。三原市議会においても昨年12月に日本政府は締約国会議にオブザーバー参加すべきだと意見書を採択したが、政府はそうしたことを無視して今回も会議に参加しなかった。のみならず、8兆円もの予算をつぎ込んで沖縄南西諸島へ敵基地攻撃ができる基地をつくるなど益々、東アジアで緊張を作り出そうとしている。日本は日米同盟の強化やアメリカの核抑止力に依存するのではなく、アジアと平和の安定のための外交を行うべきだ。今年は被爆80年です。被爆者の体験を受け継ぐとともになんとか核の抑止力を乗り越えて、平和な世界をつくることの声をみなさんとともに上げていきましょう」と訴えました。 

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終わりに、戦争をさせない三原市民行動の藤本講治が改憲問題について「自民党は結党70年を迎えて、党是である憲法改正について、憲法改正実現本部で結党70年となる今年、国会の憲法審査会での議論などを通じて、改正に向けた機運を高めたいという考えを強調するとともに、「憲政史上初の大事業である国民投票による憲法改正の早期実現をめざす」と明日(9日)に開催される自民党大会の2025年度運動方針に明記しています。こうした情勢を踏まえて私たちは戦争、軍備拡大、憲法改悪の流れにストップをかけるため、これからも声をあげていきます」と述べて行動を終了しました。

藤本講治

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2025年3月10日 (月)

あの日がやってくる!

14年目の「3・11」がやってきます。「3・11」と言っても、最近解らない人が多くなったとも聞きます。

あの日は金曜日で、広島市はとても良い天気で、地震が発生した時刻の午後2時46分は職場の休憩室でテレビを観ながら同僚と雑談をしていました。

この週初めの日曜日に京都で反原発新聞の会議があり、そのまま茨城県東海村で知人に会い、福島県に向かう予定の旅行を計画していましたが、しかし東京で政府交渉を行うという連絡があり、東海村を終えて東京経由で帰広しました。広島に着いたのは、3月9日の水曜日だったと記憶しています。水戸駅からの常磐線に乗り、電車が走りだすと同時に、右側の車窓に偕楽園の梅林が見えたのは鮮明に覚えています。計画通り福島に行ってたら、どういう経験をしたのかは分かりません。

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あれから14年、ルポライターの鎌田慧さんが、さようなら原発1000万人ニュースの第37号に、『まるでほとぼりが冷めるの待っていたかのように、というべきか、それとも臆面もなく、というべきか。政府は昨年末にまとめた新しい「エネルギー基本計画」の原案で、最大限活用」に転換した』と書いておられました。

3・11後、民主党政権から自民党安倍晋三政権に変わった後のエネルギー基本計画でも「可能な限り原発依存度を低減する」と書き、第4次までフクシマの反省の上に立った計画となっていました。この度の「最大限」への大転換は、まさに究極の裏切りとしか言えません。

こんなことでは、子どもたちへの(しつけ)も教育もできません

計画では新規原発の建設費用を7203億円としていますが、近年海外で建設されている費用は数兆円とされています。島根原発の安全対策費は現時点でも1兆円を超えると言われます。発電コストについても、追加安全対策費、核燃料サイクル費用、事故リスク対応費を入れると1キロワットアワーあたり24円程度になるという数字を、原子力市民委員会の大島堅一さんは指摘しています。

再生可能エネルギーによる発電コストは、1キロワットアワー当たりの単価で事業用の太陽光で8.17円、陸上風力で12,73円という数字も出されています。

14年目を迎え、避難地域の一部解除が報じられますが、原子力資料情報室通信に「2022年秋の航空機モニタリングに基づく、現在・将来のセシウム137汚染マップと面積」というのが掲載されていました。このマップによると、198年後の2222年に、セシウム137の4万~50万ベクレルの地域が2平方㌔㍍残されていました。

今後198年間、事故が起きなければ、その時は「終息」と言えるかもしれませんが、そういうことはあり得ないことだと思っています。

原発回帰は福島原発事故の再来を招く、最も危険な選択といえます。14年目のあの日を迎え、こんなことを考えていました。

木原省治

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2025年3月 9日 (日)

「放射能とともに歩む」-平和記念資料館ボランティアスタッフ研修会

原爆資料館が主催する「広島平和記念資料館ボランティアスタッフ研修会」が、7日の午後1時45分から原爆資料館地下ホールで開催されました。

講師は、明星大学教授の竹峰誠一郎さんです。竹峰さんの話しは、何度か聞いたことがありますが、タイトルの「放射能とともに歩む マーシャル諸島 折り重なる気候危機」に惹かれて、私も参加しました。

竹峰さんは、マーシャル諸島の被爆問題に関しては第一人者といってもよい人で、今回の講演もいろいろと学ぶことのできる内容でした。

竹峰さんは、初めにで、次の四つの問題提起をされました。


・2025年とは?被爆80年であるが、それだけの視点で良いのか。

・広島・長崎の原爆を語るとき「人類初」「最後」「唯一」←それでいいのか

・核兵器は「安全保障」、外交問題だけ・・・?あるいは「歴史」の問題だけ?

現代そして未来の問題、地球環境問題とどう繋がっているのか?

・広島から発する、核兵器問題とは?

 原爆投下とともに、核の危機として、戦争で核兵器が使われること、その可能性が高まっていることへの警鐘だけでいいのか?

→マーシャル諸島をはじめ世界各地の核被害者に想像力の射程を広げて展開していきます。

この4つの問題提起を見れば、竹峰さんの今の広島の反核運動をどう見ているのかが見えてくる講演だったことが分かると思います。

そのさわりを紹介します。

「最初の犠牲者だというのは誤りだ」―広島、長崎の原爆投下前

・先住民の土地を収奪して建設された米ニューメキシコ州ロスアラモス研究所

・広島原爆の原料 ウランはどこからやってきた?

・長崎原爆の原料 プルトニウムはどこからやってきたのか?

・1945年7月16日 核爆発実験 トリニティー

 →ニューメキシコ州 先住民族 環境正義を求める活動。終わりのない除染作業

「長崎を最後の被爆地に」というが?

1946年7月マーシャル諸島での核爆発実験開始 今も続く核汚染

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気づかれたかと思いますが、竹峰さんは、「核実験」を「核爆発実験」と表現することで、核被害が続いていることを認識しなければならないことを教えていることです。今回の講座は、主に碑めぐりなどを行っているボランティアスタッフが対象となっていますが、この竹峰さんの「ブローバルヒバクシャ」「人類みなヒバクシャ」という提起をどう受け止めたか、興味あります。

講演の中で私がもっとも興味深く聞いたのは「1975年フィジーで開催された非核太平洋会議」の話です。森滝市郎先生は、この「非核太平洋会議」に参加され、オーストラリアの先住民アボリジニーの女性との出会いが、その発言を聞いて「核と人類は共存できない」の理念を決定づけ、その年の被爆30周年原水禁大会で打ち出されたのです。

竹峰さんは、この「非核太平洋会議」が「非核独立太平洋運動」へと発展したことを指摘されました。私も「核問題」の講演では、必ずといってよいほど、この1975年の「非核太平洋会議」について触れてきましたが、もう少し「非核独立」という視点に広げなければということを教えられました。

「被爆80年」と簡単に使っていますが、広島、長崎の原爆投下は「点」であるととらえるのではなく、その後の核拡散=核兵器拡散が、核被害の拡散でもあったという問題に意識的に向き合うことが大切だと強く感じました。

核問題、とりわけ核被害の問題にどう向き合わなければならないのかを学ぶことの大切さを教えられた竹峰さんの講演でした。

いのちとうとし

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2025年3月 8日 (土)

2025年3月のブルーベリー農園その1

3月に入って雨の日が続いたので東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通うことができない日がつづいた。間をおいて農園に3月6日に行って農園のブルーベリーや地べたの野草、花木などを見て回った。その変化を確認しながら初春の空気を感じながら農作業を再開した。

2月25日(火) 八重咲のツバキの蕾は

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36日(木) には開花。木全体ではこの花ひとつだけ春を誇示

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36日(木) ブルーベリー畑でいつも咲いてくれるスイセンの場所を見に行くと葉がたくさん地べたから顔を出している

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別の場所では1本だけ蕾がのぞく

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野の花も、もこもこと5mmほどの白い花がさきだした(名前知らず)

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里山の杉林とブルーベリー園の間の空間に昨秋アジサイを植えた場所の巡回で

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植えたアジサイは小さいが葉芽が確実に出てきた。初夏どこまで伸びるか?

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ブルーベリーの木の中には、ひときわぷくっと膨らんだブルーベリーの花芽もある

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ウメの蕾はまだ開かない

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3月のこれからの農作業は

①里山の灌木の伐採(写真は228日に切った場所)

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②今は3段あるブルーベリー畑の2段目の剪定作業中で8列中3列がすんでだところ。長雨でしばらく中断していた(写真は31日)

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年3月 7日 (金)

2025年3月の県原水禁常任理事会の開催

広島県原水禁は、6日午後5時から常任理事会を開催し、1月27日に開催した第94回総会で決めた方針の具体化を協議しました。

総会以降の活動報告を行った後、今後の活動方針について大瀬敬昭事務局長が提案しました。今年は、被爆80周年ですので、節目の年としての方針が提起されました。

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最初に、原水禁国民会議が「被爆80年」に向けた協議を進めている次のような方針が提起されました。

①「核と人類は共存できない」という基本理念の再確認と運動の継承。

・核兵器廃絶【20352045ビジョンの作成・発表】

②具体的な取り組み

   ・小冊子の作成

   ・自治体(首長・議会)や政党への要請

   ・被爆証言、被爆者とのつながりの形成

   ・次世代への継承(高校生・大学生・若い世代との連携)

   ・被爆80年から未来へ(世界とのつながり・カンパの実施)

次に、県原水禁としての「被爆80年」の取り組みについて提起しました。

①被爆80周年を前にした集会

 ・名称「被爆80周年、被爆の原点から核廃絶へ」(仮称)

 ・主催 被団協との共催または後援を検討

 ・会場 県内4カ所(三次、福山、東広島、廿日市)でブロック集会として開催

    規模 いずれの会場も最低100人規模

 ・開催時期 5月中下旬~6月中旬

 ・内容 被爆者の訴え(被団協)

     高校生平和大使の報告

     被爆80周年への提起

②「核兵器禁止条約批准」のための自治体・議会・政党への要請

   ・自治体で決議がないのは、広島県・竹原・世羅・熊野・大崎上島

③原水禁学校の開催

日程 10月か11月の土日の2日間

④核兵器廃絶広島平和連絡会議・連合広島との企画について

  ・「核兵器廃絶1000万人署名」

  ・「戦後・被爆80周年シンポジウム」(仮)

     日程 202561日(日)10時~1440

     会場 国際会議場

この提起に対し、特に「被爆80周年を前にした集会」について、積極的な意見が出され、集会成功に向けて取り組むことが確認されました。

その後、直近の取り組みとして

・福島を忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会

 開催日時 311日(火)18002000

に取り組むことを確認しました。

また、10月5日、6日の二日間広島で開催される「広島・長崎被爆80周年「核のない未来を !世界核被害者フォーラム」への参加も確認されました。

現在ニューヨークの国連本部で核兵器禁止条約第3回締約国会議が行われていますが、原水禁国民会議からも谷事務局長や秋葉忠利県原水禁代表委員、高校生平和大使が参加していますが、その活動が原水禁ウエブサイト(http://gensuikin.peace-forum.com/2025/03/03/tpnw-3rd-msp/)で更新されていますので、ぜひ閲覧してください。

いのちとうとし

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2025年3月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その67-2)

大本営政府連絡会議で決定された佛印への武力行使

この辺りの事情を1940年7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」から見てみましょう。下の写真を参考ください。「帝国ハ世界情勢ノ変局二対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共ニ好機を補足シ対南方問題ヲ解決ス」と、フランスがドイツに降伏した「好機」を利用し、「特二第三国ノ援蒋行為ヲ絶滅スル等凡ユル手段ヲ尽シテ速二重慶政権ノ屈服ヲ策ス」。すなわち、アメリカ、イギリス、フランスなどによる蒋介石支援を絶滅させ、速やかに「重慶政権」(国民党蒋介石政権)を屈服させるとしています。

続いて、「佛印(広州湾ヲ含ム)二対シテハ援蒋行為遮断ノ徹底ヲ期スルト共二我軍ノ補給担任、軍隊通過及飛行場使用等ヲ容認セシメ且帝国ノ必要ナル資源ノ獲得に努」。すなわち、仏領インドシナについては蒋介石支援を遮断させ、日本軍への補給を任じ、軍隊の通過や飛行場の使用を認めさせ、加えて日本帝国が必要とする資源を獲得するとしています。

しかも、「状況二ヨリ武力ヲ行使スルコトアリ」と銘記されているのです。

到底、平和的な「進駐」ではあり得ません。「従わず抵抗すれば武力行使もある」と、25,000人(最終的には5万人)もの軍隊を送り込んで武力制圧した行為は、まさしく侵攻そのものです。

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1940年7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」

フランスと日本、二つの帝国主義による植民地支配(二重の軛)

翌1941(昭和16年)年7月には仏領インドシナ南部(現在のホーチミン)に侵攻し、1945年3月9日までフランスと日本軍の共同統治が続きます。形式的には共同統治ですが、実質的には日本軍による支配です。日本はフランス総督府に対し、物資提供や軍の駐留経費負担など課しました。ベトナムの人々は日本による直接的な搾取と収奪に加え、フランス総督府が日本に課せられた要件を満たすための過酷な支配のもとに置かれました。ベトナムの人々は二つの帝国主義国による過酷な植民地支配を強いられたこの時代のことを、「二重の軛」(一つの首に二つの首枷)と呼んでいます。

米軍の沖縄上陸の直前の1945年3月9日、仏印「進駐」の日本軍はフランス軍基地を夜襲しベトナムから放逐。日本軍による単独支配を確立します。この作戦は「明号作戦」と名づけられていますが、「仏印武力処理」とか「3.9クーデター」と呼ばれています。

日本の仏領インドシナ占領は、8月15日のポツダム宣言による無条件降伏で終止符が打たれます。

5年に及ぶ支配によって日本はマンガン、リン酸塩、石炭、・亜鉛などの鉱物資源、ゴム、コーヒー、コメ、トウモロコシ、ジュート麻などの農産物を奪い去りました。結果、1944年秋から1945年春までの半年間に200万人にも及ぶ餓死者を出したのです。

※詳しくは2019年9月5日、「ベトナムとヒロシマ」(その4)-ベトナム200万人餓死-。

および、2023年1月19日「ベトナムの歴史」(その19)-抗仏闘争3-3-を再訪ください。

仏印「進駐」がアジア・太平洋戦争の引き金

日本軍のインドシナ「進駐」の狙いは、アメリカ・イギリス・フランスによる国民党軍(蒋介石)への支援ルートを断ち、戦局の挽回を図ること。軍需物資の枯渇と食糧不足を補うことでした。しかし、この仏領インドシナへの「進駐」はアメリカの対日石油禁輸などの制裁を招き、1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃と石油資源を求めたマレーシア上陸というアジア・太平洋戦争に向けて突き進むことになったのです。

(2025年3月6日、あかたつ)

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2025年3月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その67-1)

泥沼化する日中戦争と日本軍の仏印侵攻

前号で「昭和100年」とほぼ軌を一に人生を歩んだ父が生まれた1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件から1931(昭和6年)年9月の柳条湖事件、1932(昭和7年)年3月の傀儡国家「満州国」でっち上げ、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件までの「昭和」を見てきました。

盧溝橋事件をでっち上げた日本軍は、これを口実に中国軍対する全面的な軍事行動を始め、日中戦争を起こします。しかし、日本は「自衛のための局地的な軍事行動だ」として、国際法上の最後通牒や宣戦布告をしないまま、「支那事変」と称し全面的な戦争に突入したのです。

当初、中立の立場をとっていたアメリカを加えソ連、イギリスなどが国民党軍(蒋介石)と共産党軍(毛沢東)に軍事物資や石油、食料などを支援します。その国民党軍と共産党軍は「抗日統一戦線」(国共合作)を組み、激しく日本軍と戦い日中戦争は泥沼化します。

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アメリカ、イギリス、ソ連などの中国国民党・蒋介石軍への支援ルート(援蒋ルート)

諸資料を基に筆者作成

決して、平和的ではなかった仏印侵攻

一方、第二次世界大戦が戦われていたヨーロッパでは1940年6月、ナチス・ヒトラーによってパリが陥落しフランスにナチス傀儡政権ヴィシー政権が誕生します。すると、日本は仏領インドシナ総督府に蒋介石軍を支援する「援蒋ルート」の一つであった仏印ルート(ベトナム・ハノイ~中国・粤漢)を遮断する好機と監視団を受け入れさせ、9月には25,000人の部隊をベトナム北部(ハノイ)に侵攻させます。

殆どの資料や文献では侵攻ではなく「進駐」と表現されています。なぜ侵攻ではないのか?不思議に思いませんか。どうも、フランス政府(仏印総督府)合意のもとで、「平和裡に軍隊を駐留」させたということのようです。確かに無抵抗での「進駐」もあったようですが、中国国境ランソン省ではフランス軍部隊を壊滅し、カオバン省の要塞を陥落し、要衝ハイフォン港を空爆のうえ降伏させるなど、各地での激しい戦闘の末の「進駐」です。しかも、フランスのヴィシー政権は日本の同盟国ドイツの傀儡政権だったため、「進駐」を受け入れざるを得ない状況にもありました。

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1941年7月、メコン川河口に上陸した近衛歩兵第4連隊

ところで、先の大戦を「侵略戦争ではなく、国家としての生存を守るための自存自衛の戦い」と主張する人もいます。少し長くなりますがその主張を紹介しますと、「支那事変(日中戦争)は、西欧列強の植民地支配からアジアを開放する大東亜戦争だった。国民党政権No.2の汪兆銘は裏切り者の蒋介石を捨て、日本の応援のもとに南京に新たに中国政府をつくりました。この政府の下にシナ全土が独立すれば中国民衆も幸せだったのですが、蒋介石は奥地の重慶に逃げ込んだまま、いつまでも降参しませんでした。降伏すれば平和がもどり白人列強による中国支配も終わったのは残念なことでした。」、というものです。

そして、日本軍のインドシナ侵攻については、「ソ連やアメリカ、イギリス、フランスの援助がなければ蒋介石はすぐに降伏し、中国と日本に平和が戻っていた」。だから、インドシナ侵攻は中国と日本の平和のためであり、侵略ではなく自存自衛なのだという論です。主に日本会議の皆さんがなさっている主張ですが、オヤッ!と思う「公人」や「良識人」からも似通った言葉を耳にします。

(2025年3月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた「ヒロシマとベトナム(その67)」は、少し長めですので、今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2025年3月 4日 (火)

3の日行動

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会が毎月3日に行っている3月の「3の日行動」が、昨日午後5時半から本通青山前で行われました。

ニューヨーク国連本部では、アメリカ時間の3日から7日までの会期で核兵器禁止条約第3回締約国会議が始まりました。今回も日本政府は、被爆国としての役割を放棄し、オブザーバー参加すら見送りました。「参加することで誤ったメッセージを伝えることになる」とはどういうことでしょうか。今回の締約国会議で議長国を務めるのは、旧ソビエトの構成国だった冷戦時代に450回を超える核実験が行われた中央アジアのカザフスタンです。深刻な核被害がいまも続く国の議長としての役割が期待されます。

一方で、今日の核危機の状況を作り出しているロシアへのウクライナ侵攻に対しても新たな動きが起きています。「停戦合意」に向けて外交努力が進むことが期待された、米国のトランプ大統領とウクライナのゼレンスキー大統領の首脳会談は、激しい論争によって決裂し、さらに不透明感が増しています。イスラエルによるガザへの侵攻をめぐっては、何とか停戦合意が行われましたが、第2段階への協議は、不透明です。

こうした世界情勢の中で、今日本国内では、通常国会が開催されていますが、この国際情勢に対する日本の役割についての論議の様子が見えてきません。

今月の「3の日行動」では、私もマイクを握りましたので、こんな国会論議について「核兵器禁止条約締約国会議に日本はオブザーバー参加すらしないのか、それがなぜもっと国会で論議されないのか」と問題提起をしました。

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さらに、少数与党の国会運営、野党がそれぞれの要求を掲げて予算の修正を迫っていますが、どうも本質的な論議が深まっているとはとても思えない国会審議にいらだちを覚えるのは私だけでしょうか。

真に安心の暮らしを約束するために、今政治は何をすべきか、が問われています。物価高の中で、呻吟する国民の暮らしに向きあい、それに応える政策の実現こそ期待されています。そんなことも訴えました。

そんな思いが伝わればと考えながらの今月の「3の日行動」でした。

他に〇311フクシマを忘れない集会や原発政策について〇国際女性デーの取り組みなどのアピールがあり、最後に石口俊一弁護士がまとめの報告を行い「3の日行動」を終了しました。

どんよりとした空模様で街頭演説が始まるころからグンと寒くなりましたが、幸いにして雨は降らずに行動することができました。

今月は、県部落解放共闘会議総会に日程と重なり、千人委員会からの参加は少なくなりましたが、27人の参加がありました。

いのちとうとし

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2025年3月 3日 (月)

映画「GAMA月桃の花」上映と海勢頭豊ミニコンサート

映画「GAMA月桃の花」上映と海勢頭豊ミニコンサートが、昨日、午後1時からと午後430分からの二部構成で、広島YMCA国際文化ホールで開催されました。

1月22日に実施した「核兵器禁止条約発効4周年キャンドルメッセージ」に三線の演奏で参加してくれた関さんから「ぜひ来て下さい」と誘われていましたので、午後1時からの1部に参加しました。私が会場に着いたのは、開演10分前ぐらいでしたが、会場はすでに満席状態で、空いた席を探すのが一苦労でした。もちろん開演時には、満席となりました。

今回の企画がなぜこの時期になったのか、チラシには次のように書かれています。

「どうして623日(沖縄戦終結)ではなく3月に上映会をするのか?私たちはこう考えます。1945年3月は米軍が慶良間諸島に上陸しました。この時点で日本軍が戦争を終結していれば20万人が亡くなった沖縄戦も、広島、長崎への原爆投下も防げたはずです。紛争が世界に広がる今こそ、戦後80年を迎えて『戦争を食い止める勇気』も私たちの中に育てたいものです。」

最初は、映画の主題歌「月桃」の作者海勢頭豊さんとヴォーカルの島田みちこさん、海勢頭さんの娘さんでヴァイオリン奏者の海勢頭愛さんによるコンサートです。

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海勢頭豊さんのコンサートを聴くのは、何年前だったか記憶をたどれないほど、ほんとうにほんとうに久しぶりです。海勢頭さんは1943年生まれですから、私とは5歳違いです。すでに80歳を超えていますが、以前に聞いた声を思い出させる声量でした。ヴァイオリンの演奏が入ると、全くちがう雰囲気のコンサートになりました。

「船送り~恩納みやらび」から始まり、「あヽ対馬丸」、「浜昼顔」、「コザキチ・ロック」、「トラジの花」と続きます。いずれもきいたことのある曲です。会場から手拍子が起こり、一体となる雰囲気は、以前と同じです。

最後の歌「月桃」は、参加者と声を合わせての演奏です。

       月桃ゆれて 花咲けば夏のたよりは南風

   緑は萌える うりずんのふるさとの夏

    (略)

   香れよ香れ 月桃の花永久(とわ)に咲く身の 花心

   変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏 ふるさとの夏

私も以前はよく口ずさんだことのある曲ですので、声を合わせて歌いました。会場が一体となって盛り上がります。

海勢頭さんも、広島での演奏会は久しぶりということで、話したいことがたくさんあったようですが、時間が限られており、歌と歌の間の語りは、ほとんどなかったのが残念でした。海勢頭さんの「日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことがほんとうの嬉しかったです」のメッセージでコンサートは終了しました。

続いて今回のメインの映画「GAMA月桃の花」上映です。

この映画も久しぶりに見ました。沖縄平和記念公園に「平和の礎」が建立された1995年の翌年に制作された「GAMA月桃の花」。戦争とは何か、軍隊は市民を守らない、「命どぅ宝」、今も変わらぬ価値を持つこの映画が、この年に広島で上映されたことの意味を考えながら、以前見たときとは違う思いで見ることができました。

やはり80年という節目の年だからでしょうか。

いのちとうとし

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2025年3月 2日 (日)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その5

何か手がかりはないかと、さらに「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」のページをくくってみました。遺族や同窓生、同期生の多数の手記がならんでいますが、数が多すぎで全部をきちんと読むことはできません。一渡り手記に目を通し終わると、その次に「資料編」のタイトルがついてページが始まります。「資料編」には、「当時の残されている学校の記録など」のサブタイトルがついています。

「資料編」の最初に「追悼碑の一年生」のタイトルで、犠牲者の名前と、死亡日、死亡場所と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館ヘの遺影登録の有無が書かれた名簿があります。

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クラスごとに編集されていますので、まず「幸子」の名前のある6人を探し各人の「死亡場所」を調べます。その中に「己斐国民学校」となっている「幸子さん」が一人だけいました。一人だけですので、この人が、栗原貞子の隣家の「幸子さん」にほぼ間違いないと思われます。

2組の「土屋幸子」さんです。死亡日は、8月6日となっています。どうして死亡日が分かったのかは、後で紹介する資料ではっきりします。

次に調べたのは、「なぜ己斐国民学校に逃れていったのか」です。手がかりとなる記述があります。有朋45期宍戸和子さんが「第一縣女の被爆状況」に建物疎開作業の場所となった「土橋・小網町付近の被爆状況」として「一年生の引率責任者であった地理・歴史を担当の佐々木先生は原爆の炸裂により、全身負傷、両腕に大火傷を負ったが『僕は駄目だから皆さんは己斐の方に逃げなさい』と最後の指示を行い、生徒を救出するために負傷の身を翻してもうもうと煙る中に走り込んで『己斐に逃げる!己斐に逃げろ!』と叫びながら火炎の中に消えたのです。」と書いておられます。

これで、避難場所として己斐が指示され、土橋から西方面に向かい、己斐国民学校に何とかたどり着いたのです。己斐国民学校は、多くの被爆者が避難し、命がつきた場所です。

次に「己斐国民学校」の様子と死亡日が特定できる資料を紹介します。今度は、資料のもう一冊「広島第一県女の学徒勤労動員」です。

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その中の「Ⅲ-Ⅶ学校報国隊土橋建物疎開班」に記載された教員の坪井守麿さんの証言です。

「・・・夜中(*いのちとうとし注、「6日の夜」)己斐小学校に火傷した多数の第一県女の生徒がいると聞き、数名の職員とかけつけてみると、己斐小学校の暗い講堂の中には、建物疎開で動員中被爆した一年生らしい生徒で一杯になっている。全身火傷で皮膚が赤くやけ、男とも女とも見分けのつかない状態になってうづくまっていた。『第一県女の生徒はいいないか』との声にあちこちから『ハイ第一県女の生徒です』とはっきりした答えがかえってきた。約30人の生徒がいた。・・・翌日再度いった時は、全員がすでに死亡していた。」

「幸子さん」は、坪井先生の呼びかけに応えることができたのだろうかとつい思ってしまいますが、その答えを見つけることはできません。

「広島第一県女の学徒勤労動員」は、建物疎開への動員だけでなく全ての勤労動員の様子が、よくこれほど詳しく調べたなと思う内容で記されており、ほんとうに貴重な資料だということを紹介しておきます。

私が、栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」のモデルだと思っている土屋幸子さんの遺影が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているようですので、一度見に行きたいと思います。

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」は、今度こそ終わりです。

いのちとうとし

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2025年3月 1日 (土)

ビキニ・デー

今日3月1日は、71年前南太平洋でマグロ操業中だった第五福竜丸をはじめ多くのマグロ漁船が、アメリカが実施たブラボー水爆実験により放出された大量の放射能によって被曝した日です。

第五福竜丸の被曝、そして汚染マグロに対する不安が全国的に広がる中で、今日に繋がる原水禁運動のスタートとなる署名運動が始まりました。

原水禁国民会議は今年も、昨日今日の二日間、静岡でビキニ・デーの取り組みを行っています。昨日午後6時から静岡で開催された「被災71周年3.1ビキニ・デー全国集会」で私が「被爆80周年 核兵器廃絶のためにー原水禁運動の歴史に学ぶー」のタイトルで講演を行いました。

今日は、午後1時半から、被曝後亡くなった第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんのお墓がある焼津市・弘徳院で碑前祭が行われます。昨年は、私も参加したのですが、今年は広島での予定があり、参加しません。

アメリカによるビキニ水爆実験による被曝は、日本のマグロ漁船だけではありませんでした。約240km離れたマーシャル諸島ミクロネシアのロンゲラップ環礁の島民64人も被曝していました。

1954年に始まった前項の署名運動、そして広島で1955年8月6日から始まった第1回原水爆禁止世界大会の開催ヘと日本国内の反核運動は広がったのですが、私たちが、マーシャルをはじめ、南太平洋の島々に住む人々の被曝の実相と向き合うようになったのは、ずっと後のことです。

「原水禁運動は、ビキニの水爆実験から始まった」といいながら、第1回原水禁世界大会から16年目となる被爆26周年(1971年)原水禁大会にミクロネシア代表団の参加したことから、ようやく日本人以外の被曝の問題に向きあうことになったのです。

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被爆26周年原水禁世界大会で訴えるミクロネシア代表モーゼス・ウルドゥング

この大会に参加したミクロネシア代表団からの要請を受け、原水禁として、この年の12月に日本で初の「ミクロネシア被曝調査団」を派遣しました。その後毎年の大会にビキニ水爆実験被災地からの代表が原水禁大会に参加します。1975年の3.1ビキニデーには、マーシャル諸島ロンゲラップ村長が来日しました。

そうした交流の深まりによって、1975年4月にフィジーで開催された「非核太平洋会議」に原水禁から森滝市郎先生が参加されます。その会議の中で、オーストラリアから参加したアボリジニの女性の発言「ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにして、ウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである」が強い後押しとなって、その年8月に開催された被爆30周年(1975年)原水禁世界大会で、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の原水禁の理念の提起に繋がりました。

ビキニ・デーの今日、ぜひそんな歴史を思い起こして欲しいと思います。

ここで少し追加しなければならないことがあります。日本被団協のノーベル平和賞受賞は、初期原水禁運動の歴史を学ぶ機会にもなりました。日本被団協、広島県被団協の初代事務局長藤居平一さんの資料を見る機会がありました。

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その資料の中の一枚に「今後の救援運動の問題点」という資料があり、そこには「原水爆被害者は、広島、長崎、原爆によるものの外、各地で行われる水爆実験によって各所に散在していると考えられる。その著しい例としては、ビキニ水爆実験によるマーシャル諸島の住民等があげられる。」と書かれています。こうした問題意識があったにもかかわらず、なぜかその後原水禁運動の中でマーシャル諸島の住民の問題が取上げられることはなかったのです。

いのちとうとし

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