栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その4
栗原貞子さんの体験記を紹介した昨日で「原爆で死んだ幸子さん」については、終わりにしようと思ったのですが、幸子さんの年齢が、高等女学校「一年生」だったのか「三年生」だったのかがどうしても気になりますので、もう少し調べることにしました。
手がかりは、「その2」で紹介した「作者附記 8月6日原子爆弾の惨状ありて隣家第一県女一年生かえり来まさず、9日ようやくにして死体は己斐国民学校にありときく、即ち叔父君、母君、私の三人で、午後4時より(中略)、私はこのときの情景を、後に『原爆で死んだ幸子さん』の詩に書いた。」です。
ポイントは、「第一県女」と書かれていることです。第一県女の原爆被災については、このブログでも書いたことがありますので、手元に2冊の資料があります。一冊は、廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期追悼の会が2007年7月27日に発行した「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」です。もう一冊は、と皆実有朋会(縣立第一高等女学校を継承した県立皆実高校の同窓会)が、平成29年(2017年)10月28日に発行した「広島第一県女の学徒勤労動員」です。
廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期は、学徒動員で土橋付近の建物疎開に動員され、多くが命を奪われた第一県女の一年生の同級生です。
ですので、この2冊のうち、特に「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」を中心に調べることにします。
この本の「発刊に当たって」は、次のように文言で始まっています。
「昭和二十年八月六日、広島市に投下された原子爆弾により、廣島縣立廣島第一高等女学校では、多くの先生、生徒の方々が犠牲になられました。建物疎開作業に動員された一年生は、全員が被爆死でした。生き残ったのは、別の場所にいた一クラスとあの日欠席していた数人でした。」
その「発刊に当たって」の前のページに「在職在学中原爆による死没者名簿」があり、廣島縣立廣島第一高等女学校で原爆の犠牲となった教職員、生徒全員の名前が書かれています。まずその死没者名簿を調べてみました。栗原貞子さんの詩にある「三年生」の犠牲者は、わずかに5人の名前しかありません。その中に「幸子」の名前を持つ犠牲者はいません。
次に、土橋付近で建物疎開に動員され多くの犠牲者を出した一年生の名簿を調べることにします。一年生は、223名全員が犠牲になっており、「幸子」の名前を持つ生徒は、6人います。一年生の犠牲者の中に「幸子さん」がいたことははっきりしました。これで「幸子さん」の学年問題は、「栗原貞子全詩編」に書かれた「作者附記」の「隣家第一県女一年生」と言うことが正しいことがほぼ確認できました。これで、「幸子さん」は、ほんとうは何年生だったのかという疑問は、解決しました。
しかし、当初の疑問は解決したのですが、「幸子さん」が6人いることが分かると、栗原さんの詩に出てくる「幸子さん」は、そのうち誰だろうという新たな疑問が出てきました。その結論をどうしても知りたくて、もう少し調べることにしました。
調べると、名字を確認できる重要な資料があり、この人が、栗原貞子さんの隣家の「幸子さん」ではないかというところにたどり着くことができました。
その結果は次回報告します。
いのちとうとし
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