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2025年2月

2025年2月28日 (金)

2025年2月のブルーベリー農園その4

東広島市豊栄町のブルーベリー農園は標高が約400mあり、安芸区の自宅より寒さが厳しい。今冬は雪のよく降った年になったが、2月末になると寒さが緩み始めて農作業も気持ちのいい季節に移ってきてくれたので、やれやれといった気分でいる。里山の農園の見回りをしているとオスのキジが突然飛び立ったりするのはいつものことだが元気で生きていることだけは確認できるので、お互い大丈夫と胸の内で交感している。ウメの花もツバキの花もまだ咲かない。

223日(日) ブルーベリー畑の地べたの雪が消えて緑肥として昨秋種をまいたレンゲやヘアリーベッチの緑色の葉がじわじわと広がっている

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224日(月) 24日は一転してブルーベリー畑は雪で真っ白

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里山の古い大きなクリの木の枝にも重たい雪が積もっている

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225日(火) もうすぐ3月なので日が照ると雪の解けるのは早い。風もなくいい天気で農園に着いたら真っ先に剪定したブルーベリーの枝を燃やす

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平行して畑ののり面の日陰にはまだ雪は残っているが地べたにはもう雪はないので剪定作業を続ける

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226日(水) いつも車を止める前のブルーベリー畑には春がすぐそこといった景色がひろがる

 

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3段あるブルーベリー畑の2段目の畑のブルーベリーの剪定を続けた。根元のヒコバエをすっかり切った後は姿もすっきりする

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昨年6月によく伸びた枝を切った後には3~4本の新しい枝が伸びてくれた。ちょっと収穫する量が増える

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ところで剪定に使う鋏はおもに2種類ある。細い枝には軽くて細い刃先の鋏を使う

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作業中の気温は14度くらいで冬用の作業服を2枚重ね着しているが、動くと体温があがってくるので一枚一枚脱いでとうとうセーター姿で作業してちょうどよくなった

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暖かい気配を察してオオイヌノフグリがあちこちで花開きだした

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年2月27日 (木)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その4

栗原貞子さんの体験記を紹介した昨日で「原爆で死んだ幸子さん」については、終わりにしようと思ったのですが、幸子さんの年齢が、高等女学校「一年生」だったのか「三年生」だったのかがどうしても気になりますので、もう少し調べることにしました。

手がかりは、「その2」で紹介した「作者附記 86日原子爆弾の惨状ありて隣家第一県女一年生かえり来まさず、9日ようやくにして死体は己斐国民学校にありときく、即ち叔父君、母君、私の三人で、午後4時より(中略)、私はこのときの情景を、後に『原爆で死んだ幸子さん』の詩に書いた。」です。

ポイントは、「第一県女」と書かれていることです。第一県女の原爆被災については、このブログでも書いたことがありますので、手元に2冊の資料があります。一冊は、廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期追悼の会が2007年7月27日に発行した「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」です。もう一冊は、と皆実有朋会(縣立第一高等女学校を継承した県立皆実高校の同窓会)が、平成29年(2017年)10月28日に発行した「広島第一県女の学徒勤労動員」です。

廣島縣立廣島第一高等女学校友朋会45期は、学徒動員で土橋付近の建物疎開に動員され、多くが命を奪われた第一県女の一年生の同級生です。

ですので、この2冊のうち、特に「原爆・八月六日 平和への祈り あの時の縣女を語ろう」を中心に調べることにします。

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この本の「発刊に当たって」は、次のように文言で始まっています。

「昭和二十年八月六日、広島市に投下された原子爆弾により、廣島縣立廣島第一高等女学校では、多くの先生、生徒の方々が犠牲になられました。建物疎開作業に動員された一年生は、全員が被爆死でした。生き残ったのは、別の場所にいた一クラスとあの日欠席していた数人でした。」

その「発刊に当たって」の前のページに「在職在学中原爆による死没者名簿」があり、廣島縣立廣島第一高等女学校で原爆の犠牲となった教職員、生徒全員の名前が書かれています。まずその死没者名簿を調べてみました。栗原貞子さんの詩にある「三年生」の犠牲者は、わずかに5人の名前しかありません。その中に「幸子」の名前を持つ犠牲者はいません。

次に、土橋付近で建物疎開に動員され多くの犠牲者を出した一年生の名簿を調べることにします。一年生は、223名全員が犠牲になっており、「幸子」の名前を持つ生徒は、6人います。一年生の犠牲者の中に「幸子さん」がいたことははっきりしました。これで「幸子さん」の学年問題は、「栗原貞子全詩編」に書かれた「作者附記」の「隣家第一県女一年生」と言うことが正しいことがほぼ確認できました。これで、「幸子さん」は、ほんとうは何年生だったのかという疑問は、解決しました。

しかし、当初の疑問は解決したのですが、「幸子さん」が6人いることが分かると、栗原さんの詩に出てくる「幸子さん」は、そのうち誰だろうという新たな疑問が出てきました。その結論をどうしても知りたくて、もう少し調べることにしました。

調べると、名字を確認できる重要な資料があり、この人が、栗原貞子さんの隣家の「幸子さん」ではないかというところにたどり着くことができました。

その結果は次回報告します。

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2025年2月26日 (水)

被爆者の森の植栽

平和大通りにある「被爆者の森」で、植栽がありました。

昨年秋に「木が傷んだ」ということで植え替えが決まっていた鳥取原爆被害者の会から贈られていたの「二十世紀なし」です。

昨日朝8時40分頃現地に行きました。

現場ではすでに作業が始まったおり、新しい植栽場所の土の掘り起こし、肥料やりが行われていました。

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昨年と同じ業者ですので、作業中にいろいろと話を聞かせていただきました。

植え替えの原因は、「木が枯れたから」ときいていたのですが、実際には、病気に罹ったための植え替えでした。

「二十世紀なし」(リンゴなどの果実も)は、近くに「カイヅカイブキ」の木があると、赤星病に罹りやすく、ここもカイヅカイブキが近くにあるので、病気に罹ったことが原因で植え替えることになったのが真相のようです。

昨秋は「鳥取の被爆者団体と相談して同じ二十世紀なしで植え替える」ときいていたのですが、植木業者からのアドバイスで。同じ梨の木ですが、「マメナシ」に代えることになったようです。植え替えの場所も、日当たりを考え周囲に大きな樹木がない、やや東側に移動していました。

「マメナシ」は、三重県地方に多く生息する木で、実はつけますが、その名のとおり実は、マメのように小さいようです。

植栽される木は、鳥取市の千代川沿いにある園芸場で育てられた10年ほどの成木で高さは、約10mです。

そんな説明を聞きながら作業風景を見ていると、スーツ姿の一人の男性が近づいてこられました。気になるものですから「どちらからお越しですか」とお聞きすると、「鳥取県原爆被害者の会事務局長 石川行弘」と書かれた名刺を手渡されました。この日、植え替えがおこなわれるということで、わざわざ鳥取から来られたのです。一昨日山陰は大雪でしたから、「どうやってこられたのですか」とお聞きすると「米子で証言活動があったので、終わってから出雲、浜田を経由し浜田道できました」とのことでした。後でわたったのですが、石川さんは、鳥取大学名誉教授で、農学博士ですので、余計に関心が深かったと思います。それにしても、「よくお見えになったな」と感心しました。

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植栽されるマメナシの向こう側で、ネクタイ姿で見守っておられるのが、石川さんです。植え替えを一緒に見ながら話を聞くと、三歳の時にお母さんと一緒に楠木町で被爆されたことが分かりました。農学博士です。植木業者との話も、樹木の話が交わされていました。

石川さんが見守る中で作業は進みました。

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9時半過ぎには、ほとんどの作業が済みました。後は、木を保護するための囲いを作り、周辺を整地する作業が残るのみです。

最期まで見届けたかったのですが、10時から原水禁のZOOM会議がありましたので、帰宅し、午後に再度現場を見に行ってきました。

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根元は、土が盛り上げられて給水時に水がたまるようにしてあります。

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添え木の高さ、向きなど丁寧な作業が行われましたので、きちんと根付き、元気に成長してくれるものと思います。

マメナシの花は、白い花です。鳥取県では、倉吉市で、ママナシで並木がつくられています。石川さんもよく知っておられました。

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苗木には花芽がついていますので、この春も花を咲かせてくれるようですから、またここを訪れる楽しみが増えました。

いのちとうとし

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栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その3

ようやく栗原貞子さんの体験記までたどり着きました。

被爆後3日目の広島の姿が、詩人の目を通して語られています。旧漢字は、一部新漢字にかえてましたが、基本的に本に記載されたままで、以下に全文を紹介します。

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廣島郊外祇園町にて罹災をまぬかる。三五歳詩人。

現在生活新聞社 土居貞子

午後の陽の暑い警戒警報下の道を小さな配給車を引きながら私たちは、市内へ急いだ。隣家の女学校三年生の「さっちゃん」の死体を己斐町小学校の死傷者収容所に取りに行くためである。空襲におびえる二人の子供達を説得して出たものの残してきた子供たちが気にかかって不安でならない。

市内へ入ると樹木も建物もきれいになくなり見渡す限りの瓦礫の原となって、いたるところに死傷者がころがっている。

八月の太陽がじりじりと照りつけるその下に髪が焼けちじれ着物もぼろぼろになって男か女かわからない真黒に汚れた顔の人間が無数にころがっている。

あまりに悲惨な異常な現実に転倒してしまった私達は現実へピントを合わせることができないで目眩と嘔吐を感じながら真夏の炎熱と燃え落ちたままくすぶっている余燼とで焦熱地獄のように暑い街を通って己斐の学校に着いたときはもううす暗くなっていた。・・・担架や車を持って死体や負傷者を受けとり来た人達が校門をひきもきらず出入りしている。校庭から廊下にあがるとずらりとならんだ死傷者、収容しきれぬのがコンクリートのたたきの上にもいっぱいである。教室も勿論死臭と汗いきれでむっと臭い。ここの死傷者は体も顔も倍以上にふくれあがり、目は糸のように細く唇は大きくむくれている。発狂したらしい負傷者があっちこっちで奇声をあげている。廊下の死体と死体の間にまだ幼い八歳ばかりの軽傷の男の子が「お母さん」と呼んでいる。どの顔もどの顔も人間とは思えない恐ろしい形相になっている中からいたいけない少年の声をきいた私はそこからしばらく離れることができなかった。「坊やどこ」と聞いてみたものの、今の場合連絡しようもない。「おばちゃんお水頂だい。水、水、水」私はあたえてはわるいかとも思ったけれど校庭に行ってポンプの水を、児童用の竹の筒のコップがあったのでそれに汲み、そっとのませてやった。「じゃあさよなら、いい子をして待っているのよ、母さんがきっと探しに来てくださるから・・・」こんな場合冷静な救助のことなど突差に浮かんではこなかった。私は少年を見捨てて去らねばならなかった。

顔には白いハンカチをおおった女学生の服を着た死体があった。叔父さんにあたる人がハンカチをとろうとしたが火傷でビランしているせいかくついて離れない。でも焼けたモンペの縞模様や胸の名札で「さっちゃん」であることが確かめられた。

さっちゃんのお母さんは泣かなかった。人間として我が子のかかる姿を受けとることはできない。

発狂以上のことである。私達は持ってきたゴザに生きていればこれから花ひらこうとする少女の死体を包まねばならなかった。

抱きかかえる時背も火傷でビランしていたのかピチャッという音がして水気が手のひらに感じられた。私は誰とも対象のはっきりしないものに憤りを感じて全世界に向かって「こんなことがあっていいのか」と声をあげて叫びたいような衝動を感じ、体の表面を冷たいものがサッと通り過ぎて倒れそうになった時、空襲警報が不気味に鳴り出してふっと我にかえった。もうあたりは暗くなって来たが収容所にはローソク一本ともす用意もないようであるし、死傷者の世話をしているような人達も見受けられなかった。やっと校門をくぐって外に出ると担架や配給車が腕々とつずいている。瓦礫の上を死体をのせた配給車はがたがたしながら行き焼け落ちた電線に何度もひっかかって途中で死体が二度ばかり路上に落ちた。見渡せばあちこちの街で死体を一ヶ所にあつめて焼く火が地獄の火のように燃え、市の周辺の山が闇の夜空を赤くこがして世界の終わりのような凄惨だった。


栗原貞子さんは、この体験から生まれたこの詩のことを「『原爆で死んだ幸子さん』と「『生しめんかな』は、被爆直後の作品で、私の戦後の原基点である」(ヒロシマ詩集「未来はここから始まる」23ページ)と紹介しています。

いのちとうとし

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2025年2月25日 (火)

原発避難計画はどう変わるか!?  「スフィア基準」というのをご存知でしょうか。

スフィア基準、正式名称は「人道憲章と人道支援における最低基準」で、国際赤十字などが1998年にまとめました。給水・衛生、食料、避難所、保健医療の4分野にわたり、最低限の基準やその目的、効果を記載しています。紛争地帯の難民救済が目的でしたが、災害避難者へと運用が広がりました。約400㌻に及ぶものです。「避難所の質の向上を考えるとき、参考にすべき国際基準」として扱われています。

昨年の能登半島地震がきっかけで、昨年11月、政府はこの基準を受け入れることにし、年度内に指針(ガイドライン)を明らかにすることにしました。

スフィア基準による具体的な主な内容は、避難所を必要とする事態が発生した場合、確保するトイレ数ですが発生当初は「50人に一つ」、災害発生中期には「20人に一つ」とし、女性用を男性用の3倍にすることも求めています。トイレカーの普及なども踏まえ、目標を高めることを検討しているとのことです。

一人当たりの専有面積も、スフィア基準では3・5平方㍍(たたみ2畳程度)とするとしています。自治体によって状況が違うために、一律化できないというのが理由です。スフィア基準の3・5平方㍍でも狭いという意見もあります。何年か前に広島県内の自治体に対し、アンケートを実施しましたが、回答はマチマチでした。

避難を担当する政府機関は内閣府防災担当という部署ですが、昨年12月13日、「自治体向けの避難所に関する取組指針・ガイドラインの改定について」というものを出していますが、トイレや専有面積だけでなく、食事の質や生活用水の確保についても書いています。能登半島地震のとき輪島市では、キッチンカーや仮設入浴施設が活用されていました。

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能登半島地震後の避難所

また、昨年10月原子力規制委員会の検討チームは、原発事故時の5~30㌔圏内自治体の屋内退避の目安を、「3日間」とすることを明らかにしました。規制委の原子力災害対策指針では、事故時は5㌔圏の住民はすぐに30㌔圏外に避難する。5~30㌔圏内に住民は自宅や避難所などで屋内退避をし、放射線量が基準を超えた場合は30㌔圏外へ避難をすると定めています。その屋内退避の目安を3日間としました。

3日間の理由は自治体や政府の持つ、水や食料の備蓄量から計算されています。屋内ですから屋内にとどまるのが基本ですが、物資の受け取りなどの生活に必要な一時外出はできるとしています。

規制委の方針が取りまとめられたことに、全国の原発関係自治体からは、原発事故と自然災害が同時に起きる「複合災害」への備えが不十分などとした懸念が出されています。

毎日新聞が今年1月、原発が立地する13道県に実施したアンケート調査の分析記事が掲載されていましたが、自治体からは次のような意見がありました。新聞記事を掲載します(2月8日付け)。

青森県→自然災害を前提とした議論を検討してほしい

宮城県→複合災害では自然災害で物資が枯渇するなど、一概に目安通りにならない可能性もある

静岡県→屋内退避の継続には個々の住民に応じた物資や環境が必要。十分な準備と理解が不可欠。住民の負担軽減に活用したいが、丁寧な説明と理解が必要

茨城県→屋内退避中のライフラインの確保に、具体的な方針を示すこと

島根県→3日間の目安にとらわれず屋内退避が必要な期間継続できるよう、国の支援が必要

福井県→(事故予測の)判断が困難だと性急に結論付けず、議論を継続してほしい

新潟県→住民への説明に活用する

原子力規制委員会の報告書案は修正がなされて、この3月中には示されることになっています。

木原省治

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2025年2月24日 (月)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」―その2

前置きが長くなりましたが、いよいよ「原爆で死んだ幸子さん」にかかわる栗原貞子さんの体験記です。

栗原貞子さんにとって「隣家の幸子さんの死」は、強い衝撃だったようです。

そのことを示すのが、昨日紹介した「栗原貞子全詩編」で、そこには多くの短歌が収録されています。

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その中に「原爆投下直後」に作られた短歌として「己斐国民学校収容所にて」と題して、「収容所に近づけ行けば車たんか 行きかいしげく血なまぐさきも」を初句として計18首の短歌が収録されています。この短歌を読み進んでいて気になることに気づきました。18首の短歌の後に次のような記述があるのです。

「作者附記 86日原子爆弾の惨状ありて隣家第一県女一年生かえり来まさず、9日ようやくにして死体は己斐国民学校にありときく、即ち叔父君、母君、私の三人で、午後4時より(中略)、私はこのときの情景を、後に『原爆で死んだ幸子さん』の詩に書いた。」

気になることとは、詩「原爆で死んだ幸子さん」の中では、「幸子さん」は、「女学校三年生」となっています。後で全文紹介する体験記には「「家の女学校三年生の『さっちゃん』」と三年生となっています。「栗原貞子全詩編」の「附記」は当然、栗原貞子さんが書かれたもののはずにもかかわらず、なぜか「第一県女一年生」となっているのです。どうにも解けない謎が残ります。

またまた前置きが長くなりました。いよいよ栗原貞子さんの体験記の紹介です。

No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」の中で、栗原貞子さんの肩書きは、次のようになっています。

「廣島郊外祇園町にて罹災をまぬかる35歳詩人 現在生活新聞社 土居貞子」

題はついていませんので、栗原貞子さんの旧姓が「土居」であったことを知らなければ、見逃してしまいそうです。私は、祇園町、生活新聞社の文字が気になり、そして「確か栗原さんの旧姓は土居だった」ことを思い出し、体験記全文を読むことにしました。やはり栗原貞子さんの体験記だと確認しました。そして、「原爆で死んだ幸子さん」の基となる体験記だということに気づいたのです。

先にも紹介しましたが、「栗原貞子全詩編」の注書きには、「作者は、『1952.5.25』と言う日付を入れている。」とこの詩の作成年を記しています。

そうすると、「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」の発行年が、「1950年」となっていますので、この体験記は、当然それ以前に書かれたことになりますので、まさに詩「原爆で死んだ幸子さん」の基になる体験記と言ってようのではないかと思います。

ようやく、体験記の全文紹介にたどり着きましたが、原文は、1500単語という長いものですので、次回に紹介します。

いのちとうとし

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2025年2月23日 (日)

2025年2月のブルーベリー農園その3

寒い日がつづく。春めいた空気感は日が長くなったことだけで地べたの野の花もひっそりとして開花もしていない。22日からの3連休も寒いそうで春めいてくるのはそのあとらしい。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通い少しずつブルーベリーの剪定と日当たりの悪くなる灌木の伐採を続けている

215日(土) 農園に行く中の福富町のダムでどんど焼きが始まるとこに出くわした。ダムの中の島にとんど焼きの場所を作って燃やすと竹のはぜる音がこだまする。道の駅の企画らしい

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庭のサクラの枝にとまる野鳥。シジュウガラのようだ

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ブルーベリーの剪定の後で里山に移動して写真左の2本のクリの木を2日館かけて伐採した。足元が悪いのでベニヤ板を足場代わりにして作業した

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217日(月) 農作業中も水をたっぷり吸いこんだ雪が舞う。ブルーベリーの枝にところどころに引っかかる感じでつもる

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にわか雪だし寒いしでの剪定はやめて農園の家の裏の雑木を切って野焼きする場所まで運んだ

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220日(木) ブルーベリーの剪定で切った枝の中で挿し木用に使える穂木を集める。安芸の郷に持っていき挿し木にする材料となる

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ブルーベリーの剪定から

①冬でもシンクイムシがはびこる

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②昨年春に切った幹から新しい枝が出ている

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221日(金) ブルーベリーの剪定の後で里山の木の伐採を少し行う。1本だけ切った

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ブルーベリーを切る鋸と灌木の伐採に新しく購入した34センチの刃渡りの長い鋸。緩くカーブしていてよく切れる

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農園の小さい畑にある梅の木の蕾。まだ咲きそうにない

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理事長 遊川和良

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2025年2月22日 (土)

栗原貞子作「原爆で死んだ幸子さん」ーその1

被爆詩人として原爆の非人道性を告発して多くの作品を残された栗原貞子さんの作品の中で「生しめんかな」とともに繰り返し読まれた詩に「原爆で死んだ幸子さん」があります。

2005年7月に発刊された「栗原貞子全詩編」によれば、「原爆で死んだ幸子さん」が作詩されたのは、「1952・5・25」だとし、「幸子さんは、広島県立第一高女(現在の皆実高校)の一年生で、8月6日土橋の建物疎開に動員されて亡くなった隣家の少女である。」と栗原さんが記していることを紹介しています。

最近本棚を整理していると(いつ購入したのか思い出せないのですが)、この「原爆で死んだ幸子さん」のもととなる体験記が書かれた本が見つかりました。

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その本には「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」のタイトルがついており、奥付は「1950年8月1日発行 発行所 東京都墨田区東両国2-7 自由青年出版社 編集兼発行人 中村武雄」と記載されています。

本を開くと、最初のページに「軍閥への憎しみたぎれ怒りもえよ ああ崩れゆく呪われし街 宗俊」という短歌とともに「長崎上空における原子雲」「瓦礫の街と化した広島市」の説明文がつけられた2枚の写真が掲載されています。

次のページの見開きには、峠三吉の「八月六日」の詩が、丸木位里・赤松俊子共同制作「原爆三部作」のうち壹の部の一部の絵が掲載されています。

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この本、ただ者ではないように思えます。

「まえがき」もなければ、「あとがき」も、「目次」もありませんが、ページをめくると次々と体験記や手紙、詩などが掲載されています。それぞれの多くには、冒頭に「宗俊」の名前で短歌つけられています。「宗俊」は、深川宗俊さんだと思われます。被爆の傷跡が残る被爆者や被爆後の街の様子を映した写真が、何枚も載っています。

四國五郎さんの「こころに喰いこめ」と題した詩、峠三吉の「影」、そして赤松俊子さんのデッサンが何枚もカットで使われています。「ストックホルムアピール」も掲載されています。

最後に掲載された「平和への訴え」と題したアピール文は「広島平和擁護委員会世話人会」となっていますので、この組織に所属する人たちが、発行したものと思われます。

実は、この中の一片に栗原貞子さんの「原爆で死んだ幸子さんの死体を引き取りに行った」体験記があるのです。

体験記を全文紹介するつもりですが、「No moro Hiroshimas ヒロシマを忘れるな」について、もう少し触れさせてください。

1950年の印刷ですので、不鮮明な点はありますが、この時期にこれだけ多くの被爆関係の写真を掲載し、被爆の実相を伝える体験記が記述された本が、プレスコードがある中で、よく無事に発行できたなという思いがします。東京の出版社が発行していますので、全国で販売(定価は25円となっている)されたと思われますので、余計にそう思います。どういう経緯があったのでしょうか。もうこの時期には、プレスコードによる検閲もそんなに厳しくなかったのでしょうか。

私が原水禁運動の歴史を考える中で、全国的に広島、長崎の被爆の実相を伝えた出版物は、サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月27日)によってプレスコードが失効した後、「原爆被害の初公開」とタイトルをつけて発行された「アサヒグラフ 1952年8月6日号」とばかり思っていたのですが、これを訂正しなければならなくなったように思います。

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ここまでが長くなってしまいましたので、紹介しようと思った栗原貞子さんの体験記は、次回紹介します。

いのちとうとし

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2025年2月21日 (金)

安保法制に反対する府中市民の会の2月「19日行動」

今日(19日)の府中市は神石高原町や世羅町と同じく大雪の予報で心配でしたが、それより中国新聞一面で「核禁会議 不参加を表明」と出ており朝から怒り心頭のはじまりでした。そのため「NO NUKES(ノー・ニュークス)核にサヨナラ。」の横断幕を急きょつくってこられました。午後3時から上下Aコープ前、9人、そして午後4時30分から府中天満屋店前、10人の参加者で19日行動を行いました。

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リレートークでは次のような訴えがありました。

Aさん  

府中市の財政問題が大きな話題となっています。今日のミニコミ紙に17日(月)に行った市民説明会に100席用意していたが150名の参加だったと載っています。実際は200名位おられたと思います。ことは家庭の貯金である財政調整基金が40億円もあったものが底をついた。そのため300の事業を見直すと言っています。そのなかで市主催の平和祈念式典事業を縮小すると言っています。今年は戦後80年の節目の年です。この節目の年に縮小するとはどうかしています。また障がい者も運営に加わっている市民病院の食堂を閉鎖すると言っています。インクルーシブと言っている中でこうした施設を廃止することは雇用の場をなくすことです。来週からは3月議会です。議会の場でも問題点を追及していきます。

Bさん

日本政府が3月3日からニューヨークで開かれる核兵器禁止条約第3回締約国会議に「不参加を表明した」と今日の新聞に載っています。その理由を岩屋外相は「安全保障政策と相いれない。締約国になることはない」とまで言っています。せめて締約国会議にオブザーバー参加するようノーベル平和賞を受賞した日本被団協や広島市、広島県が石破首相に訴えていたにもかかわらず、訴えを蹴散らすような対応です。被爆国日本の責任を果たしていません。さらに政府は原発回帰のエネルギー基本計画を閣議決定しています。しかし、私たちは少数者ではありません。日本被団協のノーベル平和賞を受賞、世界各国から平和記念資料館を訪れ、その人数は1年で200万人を超えようとしています。さらに高校生の平和大使の活動が若い人たちに平和の輪を広げています。粘り強く頑張りましょう。

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Cさん

連日テレビで「高額療養費制度」の問題が取り上げられています。「高額療養費制度」は安心して医療を受けられるよう1カ月の自己負担を一定に抑える制度です。政府はこの高額医療費を引き上げようとしています。

例えば年収が550万円(370~770万円)の人ですと現在ひと月の個人負担は約8万100円です。それが今年の8月から8,100円増えて、8万8,200円に引き上げると言っています。問題は引き上げが1回だけでなく、再来年の2027年の8月には3万3,300円増えて11万3,400円に引き上げると言っていることです。

がんで手術をされた方などはこの高額医療費の恩恵を受けられた方も多いと思います。健康保険のいいところは国民みんなが加入する国民皆保険であることと、自己負担額の上限が決まっている高額医療制度があることです。

しかし、収入が増えない中でこれ以上引き上げられたら生活が出来なくなります。

政府は高齢化や医療技術の向上で医療費が増えているためと言っています。

しかし、軍事費である防衛費は11年連続の引き上げで今年度は1兆円増えて過去最大の8兆7000億円、9.4%の引き上げです。

日本の防衛は専守防衛としてきました。中国へ届く長距離ミサイルなど必要ありません。防衛費を引き上げずに高額医療費に充てるべきです。こうした高額医療費の引き上げからも軍事費の引き上げが私たちの生活をおびやかしていることがわかります。これが安保法制の中身です。私たちの生活をおびやかす安保法制に反対していきましょう。

終って

上下町では横殴りの雪で口が回らないと言われていましたが日が出てきた時はうれしかったです。今日は府中市の基金枯渇問題で2回目の市民説明会が行われるため終了後すぐ解散となりました。

小川敏男

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2025年2月20日 (木)

ベトナムの歴史(その37) ― ベトナム Now Ⅹ―

ポル・ポト政権打倒、ヘン・サムリン政権樹立

前号で1975年4月から3年8ヶ月続いたポル・ポト政権のもとで、国民の4人に一人(150万人)もの虐殺が繰り広げられたことを紹介しました。カンボジア国民がその「忌まわしき大虐殺」から解放されたのは、ベトナムに支援されたヘン・サムリンがポル・ポト政権を倒した1979年1月です。

ヘン・サムリンはポル・ポト政権の下で主に軍で活動し、1976年には東部地域の師団長・政治委員でした。しかし、ポル・ポトによる「内部の敵」狩りと親ベトナム幹部粛清の嵐の中で19785月、ポル・ポト部隊と戦いベトナムに逃れます。同年12月2日、カンボジア東部で反ポル・ポト派の政治的・軍事的組織として、カンプチア救国国民統一戦線を結成し、議長に就任。12月25日、ベトナム軍15万の支援を受けた1万5千の救国国民統一戦線兵士がプノンペンに侵攻。僅か2週間でポル・ポト政権を倒し、1979年1月8日にカンプチア人民共和国(PRK)を樹立。人びとを虐殺の恐怖から解放します。

ポル・ポトなど3派連合と10年間にわたり内戦

しかし、カンボジア国民が真に解放されるには、さらに10年余の時を経なければなりません。政権を追われジャングルに逃れたポル・ポト派、シハヌーク派(FUNCINPEC)、ソン・サン派(KPNLF)の3派が民主カンプチア連合政府(CDGK)をつくり、ヘン・サムリン新政権(カンプチア人民共和国)との内戦を始めたのです。下の表をご覧ください。

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資料を基に筆者作成

1863年、フランス保護領として仏領インドシナ国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の一つになります。

1953年にシハヌークが90年に及ぶフランス支配からの独立を果たし、カンボジア王国を樹立。

1970年にはロン・ノル将軍がアメリカを後ろ盾にクーデターでシハヌーク政権を倒し、クメール共和国を作ります。

1974年にはクメール・ルージュのポル・ポトがロン・ノル政権を倒し、民主カンプチアを作ります。

1979年にヘン・サムリンがベトナムの支援を受け、ポル・ポト政権を倒し、カンプチア人民共和国を樹立します。

政権を追われたポル・ポトは衰退したロン・ノルを除く仇敵同士と手を握り、ヘン・サムリン新政権(カンプチア人民共和国)に内戦を挑んだのです。アメリカや中国、タイなど各国はヘン・サムリン新政権ではなく、大虐殺を繰り広げたポル・ポト政権(民主カンプチア)を支持し、9月21日の国連総会では日本を含む71カ国が引き続きポル・ポトの国連代表権維持に賛成し、ヘン・サムリン新政権を排除します。

なぜ、日本は「大虐殺ポル・ポト政権」を支持

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出典:日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所「カンボジアにおける国民国家の形成と国家の担い手をめぐる紛争」(天川直子、2001年)

なぜ、日本を含む国際社会は150万人もの自国民を虐殺したポル・ポト政権やポル・ポトが加わる民主カンプチア連合政府(CDGK)を支持し、虐殺を止めたヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)を敵視したのでしょうか。誰もが不思議に思うことでしょう。親ベトナム政権がカンボジアにできることを嫌ったアメリカをはじめ西側諸国は、カンボジア国民を解放したヘン・サムリン政権ではなく、反ベトナムのポル・ポト政権が良かったのです。まったく、何と言うことでしょう!残念ながら「アメリカ追随」の姿勢は今も改まっていません。

西欧の列強フランスの植民地支配を脱したインドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)は、「勢力を伸ばし東南アジアに迫りある共産勢力を阻む」とするアメリカの介入(ベトナム戦争)に晒され、1975年の勝利以降も冷戦構造の下で複雑に絡んだ大国の利害と思惑に翻弄されたのです。

ようやく戦火や混乱が静まり、復興・再建への途に就いてから僅か3040年です。

2月9日から15日までカンボジアとベトナムを訪れ、両国の着実な復興と著しく発展する姿を目の当たりにしました。また惨禍の傷跡を訪ね、「正邪曲直」両面での日本の歴史的な関わりを正しく捉え、問い続けなければと心に刻みました。

次号では、今号と関連して1979年の中越戦争を取り上げます。

2025年2月20日(あかたつ)

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2025年2月19日 (水)

藤登弘郎作 水彩画集「平和を訴える物言わぬ証人-広島被爆80年」

「悲惨なヒロシマ」の記憶を未来に繋ぐため、銀行を退職後20年あまりにわたって「物言わぬ証人」の姿を水彩画で描き続けてきた藤登弘郎さんの7冊目となる画集「平和を訴える物言わぬ証人-広島被爆80年」の贈呈を受けました。

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「被爆75年・あの日を忘れない」藤登弘朗水彩画展始まる: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介しましたが、藤登さんとの最初の出会いは、2008年に広島で最初の「東京大空襲写真展」を開催するため、旧日銀広島支店使用申し込みため訪れた広島市役所でした。

その時以来、藤登さんから展覧会の案内をいただき、「水彩画集」を贈呈していただいてきました。

先日の中国新聞に新たな水彩画集の発刊の準備が進んでいることが報じられましたので、どんな画集が完成するかと楽しみにしていました。

藤登さんは、2010年7月に発刊された「被爆建物は今」以来、「物言わぬ証人」として「被爆樹木」「原爆死没者慰霊碑」「被爆地蔵」「旧広島陸軍被服支廠」「原爆資料館無言の証人」を描き続けてこられました。

残念ながら、なぜか第2集の「生きつづける被爆樹木」だけ私の手元にはありませんが、他の5冊は揃っています。

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7冊目となる「水彩画集『平和を訴える物言わぬ証人-広島被爆80年』」は、これまでの作品の集大成として、被爆80年を機にテーマごとにまとめた画集となっています。

例えば、最初に登場する「被爆建物」では、描いた水彩画だけでなく、世界遺産の原爆ドーム、国の重要文化財の旧広島陸軍被服支廠、国史跡に登録された6件の建物についての現在の写真、関係する新聞記事などの情報が付け加えられ、より豊富な内容となっています。

一人でこの作業を続けることは並大抵ではなかったと思います。

藤登さんの画集は、自費出版ですので市販はされていませんが、広島市内の図書館や学校に寄贈されますので、それぞれの場で手にして欲しいと思います。

藤登さんは、「発刊に当たり」の最後に次のように記述されています。

「悲劇を伝えてきた被爆者は今年、10万人を割り込むと予想されています。ただ、当時を想像し、学ぶ方法、ヒントはたくさん残っています。国内外の一人でも多くの方に広島に来ていただきたい。現存する遺構や被爆樹木などを巡り、広島に起きた出来事を感じ、想像し、学んでいただきたい。亡くなられた多くの方々の気持ちを胸に抱き、小さな力ですが描きためてきたこれらの絵から、何かを感じ取り、行動してもらえることを信じ、筆を置きます。」

後はもう何も語ることはありません。私もこれでパソコンを打つのをやめにします。

いのちとうとし

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2025年2月18日 (火)

三原の2月の「19日行動」

2月15日(土)、13時30分から三原駅前において定例の三原地区の「19日行動」を実施しました。

街頭では15人が「軍拡・戦争!ストップの声を!」、「対米投資より防災インフラ整備」などのプラカードを掲げてスタンディング。また、マイクを持った5人は、「アメリカ・トランプ新大統領の米国第一主義政策」、「米国追従の石破政権の大軍拡防衛政策」、「埼玉県八潮市の道路陥没事故とインフラ政策」などについて問題点を指摘しました。 

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街頭行動の始めに、司会者から先月(1月)の街頭行動で教育労働者から、「高校生平和大使など若い人たちの平和運動への取り組みが大きな勇気を与えてくれている」とスピーチがあったことを受けて、1月29日、三原市の本郷西小学校において、ノーベル平和賞授賞式に参加した高校生平和大使たち二人が出席して「出前授業」が行われ、小学5年・6年の子どもたちと平和について考え合う授業が行われ、高校生は子どもたちの目線で平和の尊さを伝えてきました。子どもたちの感想では、「戦争が起きたら家族や友達もいなくなるから平和をすごく大切にしたいと思った」。「戦争で生活ができなくなると思うと悲しい。家族といっぱい話して友達を大切にしていきたい」。など平和が大事、平和を続けようという子どもの素直な思いが伝わってきたことの報告がされました。

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 次に弁士のS町在住の政平さんからは、▲「子どもたちの素直で平和を希望していることがよくわかる感想である。このように誰もわかるように良い戦争はない。悪い平和はない。それが真実です。正義の戦争はあり得ません」。▲「今、アメリカのトランプ大統領とロシアのプーチン大統領が戦争を終わらせるよう会談に入ったというニュースが流れています。アメリカのウクライナへの援助が無くなってきている。ロシアも莫大な犠牲を払っている。そろそろこの辺でやめようかということ。戦争をやめることは良いことですが、なぜ戦争を始めたのかそのことをうやむやにしながら大国のエゴによって戦争を終わらせようとする。まさに市民の命がどれだけ奪われたのか。そのことをしっかりと見据えておかなければならない」。▲「とにかく戦争は市民が犠牲になるものです。子ども、女性、高齢者、障がい者そういった人たちが犠牲になるものです。私たちは我が国が戦争を引き起こさないようにしっかりと主張し、しっかりと行動していかなければなりません。正義の戦争を打ち砕いて、どんな平和でも平和が良いということを私たちは行動によって証明しなければなりません」。▲「そのようなことを思わなければならないこと自体、我が国の政権が危ない方向に進んでいるということを私たちはしっかりと指摘をしておかなければなりません。市民のみなさん、ともに戦争を起こさせないように私たちの行動に連帯していただきますようお願いします」。と訴えました。

 なお、三原の「19日行動」は、3月までは冬季期間として土曜日の昼の時間帯に行っており、来月は3月8日に実施します。

藤本講治

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2025年2月17日 (月)

高レベル放射性廃棄物の最終処分場建設問題で説明会

213日、資源エネルギー庁と原子力発電環境整備機構(NUMO)が行う「高レベル放射性廃棄物の最終処分に関する対話型全国説明会」が広島市内で開かれました。昨年5月から全国15都府県で開かれているもので、広島は12会場目となります。また、12月からは、北海道の2町村(寿都町・上恵内村)の文献調査報告書の説明も加わり、地層処分による最終処分場建設に理解を求めようとするものです。

 説明会は約2時間半。二つの部屋に分かれ、最初に地層処分の説明が映像と口頭で行われ、その後北海道の文献調査状況の説明がされ、ここまでで1時間10分程度。10分の休憩の後6~7人ぐらいの複数のグループに分かれ、グループごとでの質疑が70分程度行われました。

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当日は撮影禁止のため中国新聞から転載

 説明は、高レベル放射性廃棄物の地層処分の仕組みを始め、火山・活断層・地下水・地震・津波・輸送等々、様々なリスクを挙げながら、その対策や見通しなどを述べ、「将来世代への負担が小さく、現状では最も安全で実現可能と国際社会でもなっている」と地層処分の安全性と必要性が話されました。

グループ質疑は参加者が疑問や質問をメモに書き、広報と技術者の二人がそれを見て答えることで進められました。

私は、「地層処分という方法が技術的に最も安全であるかどうかは、私の知識では判断できないが、仮にその方法が今の最善であっても、廃棄物を出し続ける原発を稼働し続ける中での最終処分は納得できないこと。とりわけ、チェルノブイリや福島原発事故を始め、原発政策を転換できる出来事があったにも関わらず、またも原発推進へと動きながら、処分場建設に理解を求めようとするなど考えられない」ことを述べました。

NUMO側からは、「エネルギーの乏しい日本で、安定的にエネルギーを確保するには原発に依存せざるを得ないというのが国の判断」との趣旨が話されるに留まり、議論が深まることはありませんでした。

また、説明会ではNUMO側から「自分ごととして考えてほしい」「自分事として考えるきっかけになれば幸いです」と何度も言われたことに、違和感を持ちました。

どのような形であろうと何らかの処分をせざるをえないことは理解できます。しかし、一方で新たな廃棄物を出し続けておきながら、文献調査に応じた自治体や人々が考えていて、そうでない自治体や人々が考えていないかのように宣伝することは許されません。

説明会の冒頭NUMOから、東京会場で最終処分場を北方領土に建設したらどうかとの提案に、NUMO幹部が「一石三鳥四鳥」と応じたことのお詫びが述べられました。そうしたこともあってか、説明は極めて低姿勢で丁寧に質疑にも応じていましたが、参加者の声に何かを変えよう、考えようという姿勢を感じることは、当然でしょうができない説明会でした。

(県原水禁事務局長 大瀬敬昭)

【編集者】私も「どんな説明会になるか」と興味がありましたので、参加しました。会場受付で大瀨さんの姿を発見。大瀨さんに原稿をお願いしました。私も大瀨さんと同様の思いを感じた説明会でした。

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2025年2月16日 (日)

ノーベル平和賞メダルー広島県被団協代表者会議

14日午後1時から、平和ビル5階大会議室で広島県被団協の新春代表者会議が開催されました。

広島県原水禁も毎年招待を受けますので、今年も私が出席しあいさつをしました。

代表者会議は、熊田哲治事務局長の司会で始まり、最初に原爆で犠牲となった人たちへの黙祷を行い、箕牧智之理事長が「ノーベル平和賞の受賞は、1956年以来、核兵器廃絶を訴えてきたことが、認められたもの。受賞した時、森滝先生をはじめ伊藤サカエさんなど先人たちの苦労を思い出しました。奇数月の22日には、核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名行動を行っていますが、今後も粘り強く続けていきます。私は、1月に石破首相と面談した時、何度も核兵器禁止条約の署名批准、最低でも締約国会議への参加を求めましたが、全く返事がありませんでした。被爆国日本政府がそんな態度でよいのかと強く感じました。被爆80年のことし、核兵器の廃絶と戦争反対を訴え続けていこうではありませんか」と呼びかけました。

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その後私と県生協連の岡村信秀会長が、来賓あいさつ。次に、ノーベル平和賞授賞式に日本被団協代表委員として参加した箕牧理事長と日本被団協代表理事として参加した田中聰司県被団協理事の二人が、ノーベル平和賞授賞式参加報告がありました。田中さんの報告の冒頭、被団協結成の中心メンバーお二人(森滝市郎先生、藤居平一さん)の写真を持参した式典に臨んだことが報告されたことが、印象的でした。その報告を聞きながら思い出したのは、在ブラジル被爆者として参加された渡辺淳子さんが、昨年8月100歳で生涯を閉じられて森田隆さんの遺影を式典会場で手にしておられてことです。

二人の報告の後、若干の意見交換があり、その後、冒頭のあいさつで箕牧さんが触れられたノーベル平和賞授賞式で授与されたメダルと賞状が披露されました。箕牧さんの最初のあいさつで、「後で披露します」ということでしたので、私も会場の後ろの方で最後まで参加させていただきました。

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メダルには、アルフレッド・ノーベルの横顔の肖像が彫られています。実物は、18金製で重さ196グラムだそうです。

メダルと賞状は、いずれもノーベル委員会が作成したレプリカです。日本被団協が三つ受け取り、そのうちの一つが、「この代表者会議で披露したい」との要望で当日の午前中に届いたとのことです。

スマホのカメラを向けた皆さんの顔がほころんでいたのが印象的でした。

披露された二つのレプリカは、広島で保管されることになるようですので、いずれ一般公開されると思います。

余談ですが、実物は、貸金庫で保管されているとのことです。

いのちとうとし

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2025年2月15日 (土)

2025年2月のブルーベリー農園その2

人も植物も動きが少ないので農作業の合間に撮影する写真もアップが多くなった。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通う農作業も寒さが次第に緩んでくるのがうれしい。ブルーベリーを植えてから25年目に入ってきて、必要な枝の更新も去年と今冬でほぼ終了したので短い枝や込み合った枝の剪定がこれからの中心となる。枝の更新で昨年夏の収穫量が落ちて安芸の郷への納品も少なくなってしまったので実がなりそうな枝をできるだけ残すようにしている。

29日(日) 3段あるブルーベリー畑の一番上でブルーベリーの剪定を行う。地べたは雪で靴の中にカイロを入れて鋏を動かす

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210日(月) ブルーベリーの枝に作られたカマキリの巣。春に孵化して害虫を食べてくれる

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ブルーベリーの太い枝を切ったので癒合剤を塗った

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211日(火) ポツンと残るブルーベリーの実

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212日(水) 一日中小雨で倉庫の片付けと農園の見回りを行う。

①里山のブルーベリー園は日が当たらないのでまだ雪が残っている

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②日差しが強くなってきているのでブルーベリーの枝のしずくもキラキラ明るい

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③畑の早生のブルーベリーの花芽。順調に膨らんでいる

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213日(木) 野焼きする場所も雪が消えたのでブルーベリーの枝を燃やす

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ブルーベリーの剪定では写真のようなマッチやつまようじの長さ以下の短い枝をコツコツと切っていく作業が続く

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一番上のブルーベリー畑の剪定が9割がた終わる。すっきりした枝が広がる

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夕方5時過ぎでも空は明るい季節に入った。この日は風もなく気温も6度くらいまで上がっていた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年2月14日 (金)

日本銀行広島支店慰霊碑―つづき

第1会議室に入るとすぐに「これが慰霊碑です」と案内されました。「慰霊碑」は、入ってすぐ左側の壁面にはめ込まれています。

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慰霊碑のレリーフの上にハトが三羽飛んでいます。

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まず黙祷をささげます。壁面のつくりは、慰霊碑の下に棚のようなもの(献花台になると思われる)があり、旧日銀広島支店と同じような構造です。

レリーフの左側に「慰霊」の文字が刻まれ、その下に碑が建立された「昭和41年8月6日」の日付が、そして、右側には、原爆で犠牲となった42名の名前が刻まれています。毎年8月にこの碑の前で、慰霊祭が行われているそうです。

以下、広島原爆戦災史をもとに日銀広島支店の被害の状況をもう少し詳細を記述したいと思います。

42名の犠牲者のうち、即死者は29名、その後死亡した人が13名です。即死者29名には、動員によって働いていた応召者5名が含まれています。

当時の在籍従業員数は、95人(日銀広島支店のホームページでは「実動者は85人」となっている)ですが、被爆時出勤していた人は、12人でした。その12人のうち死亡した人は5人、重傷者は5人、軽傷者は2人でした。多くは出勤途上で被爆したと思われます。

被爆時の日本銀行広島支店は爆心地から380メートルという近距離ですが、建物が堅牢だったことと、原爆投下の8時15分はまだ開店前ということで1階、2階のシャッターが閉じていたため、爆風により窓枠ごと破壊されたようですが、内部は大破を免れ、即死者が少なかったようです。さらに、建物の南隣にあった国泰寺の墓地のクスノキが原子爆弾の熱線で燃え上がり、この炎によって3階に火が入り、3階は火災が発生しましたが、1階、2階は火災を免れることができたのも犠牲者を少なくすることに繋がったと思われます。

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上の写真は、日銀広島支店のホームページに掲載されている川本俊雄さんが写されたものです。手前に大きく写っているのが、焼け残った国泰寺のクスノキの大木と思われます。左奥が日銀広島支店(当時)ですので、その近さがよくわかると思います。

広島原爆戦災史の「被爆後の混乱」には、「6日、店内の労務員室・食堂などを臨時病室として・・・」の記述があります。労務員室・食堂があったということは、当然労務員や食堂の職員がいたと思われますが、何人いたのか、在籍従業員数の中に含まれているのかは、記述がありませんので、不明です。広島原爆戦災史の「在籍従業員数95人」とホームページの「実働者は85人」との差が、この人たちの人数なのでしょうか。

建物の被害の状況は、現在も残る「旧日銀広島支店」を見学すれば、いろいろな説明が書かれていますので、ここでは省略します。

被爆後の日銀広島支店の営業活動については、ホームページに次のように記載されています。

「このように営業所は大きな被害を受けましたが、広島支店は原爆投下2日後の88日(水)に営業を再開しました。また、営業所内の窓口を民間銀行等に間貸しし、810時半から10行余りの民間銀行等が預金の払出業務を再開しました。預金の払い出しに必要な資金は日銀が民間銀行等に貸し付けました。
多くの預金者は被爆により預金通帳や印鑑を失っている下で、民間銀行等は無通帳・無印鑑の顧客にも臨機応変に払い出しに応じましたが、預金者からの不正な引き出しはほとんどなかったと伝えられています。こうして現金の供給・流通が早期に回復したことは、焦土の下で経済活動を再開させるうえでの一助になりました。

ホームページでは、この記述とともに一行員が書いたと思われる「8月8日の営業開始に向けて」と題した一文(https://www3.boj.or.jp/hiroshima/files/atomic-bomb/jhb03-1-2.pdf)が掲載されています。

「8月8日の営業開始に向けて」を読むと、冒頭の「高山営業課長は、牛田町の安楽寺前にあった合宿に住んでいたが」というちょっとびっくりする記述が目に入りました。

安楽寺は、被爆大銀杏がありますので何度も訪れ、前住職の豊世岡浩治さんにも被爆体験やいろいろなことを教えていただいたお寺です。まさかこのお寺の名前が出てくるとは思いませんでしたので、ここでこの文章を紹介することにしました。

たくさんの資料や展示物がありましたので、その資料もゆっくりと見させていただき、約30分あまりで見学を終了しました。

案内をいただいたお二人には大変お世話になりました。ありがとうございます。

いのちとうとし

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2025年2月13日 (木)

日本銀行広島支店慰霊碑

先日と言っても先月のことですが、日本銀行広島支店慰霊碑を訪ねました。

きっかけは、先月掲載した労働組合が建立した慰霊碑を紹介するため、広島市の原爆関係の慰霊碑等の概要 - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市を検索している時、そのリストの中に、前々から気になっていた「日本銀行広島支店慰霊碑」を目にしたことです。

「前々から気になっていた」というのは、昨秋、どの展覧会だったかは忘れましたが、旧日本銀行広島支店で開催された展覧会場で、ここで働いたことのある人と出会い、「ここに慰霊碑があったのですよ。今は、基町の支店内に移されているはずです」と教えていただいたことがあったからです。下の写真は、旧日銀広島支店に慰霊碑が設置されていた場所です。

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ここは、旧日銀広島支店の3階にある第一会議室(現在はフリースペースとなっている)の外の廊下の東側壁面です。当然のことですが、現在慰霊碑は撤去されているので、誰かに教えていただかなければ、気づかない場所です。下に台のようなものが残っているのですが、この時は、どんな形の慰霊碑か想像できませんでした。

日本銀行広島支店慰霊碑の見学について、広島市のホームページには、「見学する場合、原則3週間前までに事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、 見学者数、連絡先を電話(082-227-4100)で)」と書かれていますので、早速電話をしました。

広報担当者と思われる人が「支店内の見学だと5人以上から受け付けていますが」とのこと。私の希望は、慰霊碑の見学だけですので、その旨伝えると「慰霊碑の見学だけでしたら、一人でも可能です。希望日はいつですか。翌週だったらいつでもOKですよ」との説明でしたので、1週間後の1月16日午後3時を予約しました。「当日は、建物の北側の受付に来て下さい」。これで見学の予約は完了しました。

日銀広島支店の正面玄関は南側にありますが、見学者などは北口にある入り口から入るようになっています。

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日銀広島支店のホームページには、初代の建物の写真がありましたので掲載します。

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余談ですが、初代の建物は1905年に現在の中区加古町に建てられ、二代目の現在私達が、「旧日銀広島支店」と呼んでいる建物は、1936年に建立しました。三代目となる現在の建物は、1992年に建立され、同時に慰霊碑も移転しています。

予約した時間に北側の入り口に行き、守衛さんに来意を告げました。あらかじめ連絡が入っていたようで、すぐに担当者に電話を入れていただきます。しばらくすると文書課長と同課の企画役補佐で私の電話に対応していただいた田中さんのお二人が出てこられました。私は、担当者お一人だと思っていたのですが、課長まで出てこられたので、ちょっとびっくりです。

すぐに建物の中に案内され、エレベーターで4階に移動しました。「日本銀行広島支店慰霊碑」は、エレベーターを降りるとすぐ目の前の第一会議室に設置されていました。この部屋には、「日本銀行広島支店慰霊碑」だけでなく、初代の建物の写真など日銀広島支店の歴史を物語るものや紙幣の印刷にかかわる資料など「お金の歴史や日本銀行の役割」に関する資料が展示されています。日銀広島支店を見学する人たちのための展示物のようです。その中でも多くを占めているのは、被爆にかかわる資料や写真でした。

第一会議室と表示された部屋に入ると、入り口左手の壁面にはめ込まれた慰霊碑がありました。

このつづきは、明日紹介します。

いのちとうとし

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2025年2月12日 (水)

守ろう、平和・民主主義・人権!紀元節復活反対!2・11ヒロシマ集会

毎年2月11日に開催している「守ろう、平和・民主主義・人権!紀元節復活反対!2・11ヒロシマ集会」が、今年も昨日午前10時から弁護士会館で開催されました。

平和運動センター・県原水禁の大瀬敬昭事務局長の司会で集会は始まり、最初に平和運動センター高橋克浩議長が、「皇国史観にもとづく『紀元節』は、戦後の憲法施行とともに廃止されたにもかかわらず、天皇の政治利用を画策した政府・自民党によって『建国記念の日』として復活させ、今日の政治反動に結びついている」と主催者あいさつをしました。

今年の記念講演は、京都宇治にあるウトロ平和祈念館で副館長を努める金秀煥(キム・スファン)さんの「在日朝鮮人と天皇制=ウトロの歴史から人権を考える~差別と分断を乗り越えた力~」題して1時間半の熱弁がありました。中身の深い講演でしたが、ここでは私が関心を持った話しを紹介します。

戦前、戦争と植民地支配を背景に生まれた朝鮮半島出身者住むウトロ地区。その歴史的背景が丁寧に報告されました。私達は、強制連行による朝鮮半島出身者の日本への移住については、それなりに理解をしていますが、1910年の「韓国併合」以降、日本の朝鮮に対する植民地政策による「日本のための開発」を押しつけられた結果、多くの人々が生活基盤をうばわれ生活の糧を求めて日本に渡ってこざるをえなくなった背景については、ほとんど理解されていません。

金さんは、その一つの事象として、1910年以降の日本人の朝鮮への移住者数が、朝鮮から日本への移住者数を大幅に上回っていることをグラフで示しました。

私も、朝鮮の植民地支配以降急激に日本人の朝鮮半島への移住が進んでことを今まで考えたことがありませんでしたので、目からうろこの話しでした。もう少し調べてみなければと思う課題です。

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その後金さんは、戦後の差別と貧困の中でのウトロ地区での生活、特に民族教育の開始、劣悪な生活環境の中での立ち退き問題などを通じて、団結を強めていったウトロの住民の闘いの歴史を紹介。そして今なお続く差別の問題について次のように提起しました。

ヘイトスピーチ、ヘイトクライムが沈黙効果を与えるが、それは、2次被害3次被害を控えたいとの思いからだと指摘しました。

しかし、権力が反人権、反民主主義、反平和を押しつけても、そうなっていないのは、市民の力があったから。市民の力こそが平和や人権主義を守る力になると強く訴えました。

私がもう一つに気なったもとは、金さんの「1945年8月15日からサンフランシスコ講和条約締結(1952年4月28日に発効)にいたる間の朝鮮半島出身者をめぐる政治の動きによって身分が翻弄され続けてきた」という話です。全く問題意識のなかった点ですので、学び直さなければと思いました。

最後の金さんは、「歴史を生きてきた人々の今がある。そこに学びながら、みんなが生きていけれる社会、生きることをあきらめない社会を作りましょう」と呼びかけました。

いろいろと学ばされる講演でした。

その後集会アピールが、県護憲藤本講治事務局長から提案され、全員の拍手で採択され、三木郁子さんの閉会あいさつで集会は終わりました。

集会アピールを全文紹介すると少し長くなりますので、後半部分のみを紹介します。


集会アピール

(前半略)

戦後の日本は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓って再出発しました。しかし、現政権は「防衛力の抜本的強化」を謳いあげ、2025年度予算案では、軍事費は過去最高、8兆7000億円にのぼるなど軍備強化、戦争する国づくりを推し進めようとしています。今も世界では、22年2月に始まったウクライナにおける戦争、さらに23年10月からはイスラエルによるパレスチナに対するおぞましいジェノサイド攻撃がなされており、多くの命が奪われています。戦争国家づくりは一刻も早く終わらせなければなりません。

戦後・被爆80周年の節目の年。日本が過去の侵略戦争と植民地支配にどう向き合うのかが問われています。天皇制のもとで行われた民族差別、朝鮮の人々を「天皇の民」とする皇民化政策、今なお繰り返されるヘイトクライム。本日の集会で、戦争の中から生まれた在日朝鮮人のまち、京都ウトロ地区の歴史と人権、これまでの取り組みの中から人間の尊厳について、貴重なメッセージを受け取りました。私達は、平和憲法のもとで戦後80年間、戦争をしないで平和を守ってきました。この歴史的経緯とその意味をあらためて心に刻み、日本の戦前回帰を許さず、憲法を守る世論と運動を強化し、全ての人々の命と人権、平和が守られる社会を築くため、行動していくことを誓い、集会アピールとします。

いのちとうとし

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2025年2月11日 (火)

旧被服支廠の慰霊祭と講演会

旧被服支廠の保全を願う懇談会が主催した「旧被服支廠の慰霊祭と講演会」が、9日午前10時から9日午前10時から平和記念資料館東館地下第一会議室で行われました。私も会員の一人として参加しました。

旧被服支廠の保全を願う懇談会は、被爆の実相の継承に努め、旧陸軍被服支廠をはじめとする被爆建物の保全のため、様々な啓発活動行うことを目的に、20143月に発足しました。学徒動員中に、被服支廠で被爆した中西巌さんが初代の代表を務めました。

「慰霊祭と講演会」は、菊楽忍さんの司会で始まり、最初に参加者全員で原爆犠牲者への黙祷が行われ、続いて切明千枝子代表があいさつ。

切明さんは、旧被服支廠のすぐ近くに住んでいたことを紹介しながら、軍都広島が戦前どんな町であったかを自らの体験を通して紹介し、「広島は今年被爆80周年を迎えるが、当時に侵略戦争終結の80周年であることも忘れてはならない」とあいさつしました。久しぶりに聞く切明さんの話しでしたが、95歳とは思えない記憶の確かさに今回も驚かされました。

その後、内藤達郎副代表が活動報告、その中で、昨年からはじめた旧被服支廠保全のための「樽募金」活動について紹介し協力を要請しました。会場にも募金用の樽が置かれていました。

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続いて、都市計画プランナー山下和也さんの講演です。山下さんは、会場で顔を見て思い出したのですが、2023年11月に行われた広島市主催の「南区の被爆建物を通じて、ヒロシマをさがそう」のガイドを行っていただいた方です。その時の様子は、広島市主催「被爆建物めぐり2023」: 新・ヒロシマの心を世界にと次の日のブログで紹介しています。

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今回の山下さんの話しで、興味を引かれたのは、「地霊」(ゲニウス・ロキ)と言う考え方です。「地霊」とは、霊があると言うことではなく「どのような土地にも、時を経ても消えることのない歴史・記憶の堆積がある」と言う考え方のようですが、旧被服支廠もこうした考えから見ることによって、新しいヒントになるのではという指摘でした。

その一つに、鬼門についての話がありました。広島城の鬼門に当たる位置には寺社群があることを紹介しながら、「平和記念資料館の鬼門(東北)の位置には平和記念聖堂があると考えると面白い」と紹介されました。広島城の鬼門に寺社群があることは、当時の発想からいえば当然のことのように思いますが、平和記念資料館にも鬼門があり、その方向に平和記念聖堂があるという説は、初めて聞くユニークな発想ですので、ちょっとびっくりしながら聞きました。

その後も広島が干拓によって広がったこと、城下町の軸線と現在の広島市の軸線の関係が「重層性」を持っていることなどの説明は、都市計画プランナーの話らしい興味深いものでした。

その中で、多くの軸線が東西、南北に走っている中で、斜めに走っている軸線があるという話しが出てきました。その軸線は、南区民文化センターと産業会館の間、そして南区役所の東側に延びている道路のことです。今は、ビルなどが建ち見通せないのですが、この道の北西延長線は、広島城に達するということです。そんな風に思ってこの道路を通ったことがなかったので、意外な思いで聞きました。なぜこういう道路ができたかは、広島湾の干拓の影響だということのようです。

山下さんの話しは、その後、旧陸軍被服支廠が歩んだ歴史、今後どのような活用されるべきかの話に移りましたが、その内容は、今までにも聞いたことのある内容ですので、ここでは省略します。ただ、最後に「旧被服支廠などの道標を頼りにヒロシマを歩こう、ヒロシマをさがそう」と提起されたことだけ紹介しました。

旧被服支廠は、保存が決まり国の重要文化財に指定されたと安心するのではなく、どういうものにしていくのか、市民が積極的にかかわっていくことが重要だと感じました。

いのちとうとし

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2025年2月10日 (月)

上関をめぐる今年の動きを予想する

 私が担当した1月25日のブログで「島根原発をめぐる今年の動きを予想する」と題して書かせていただきました。正月気分はとっくに無くなっていますが、今号では「上関をめぐる今年の動きを予想する」と題して書くことにしました。

以前なら「上関原発をめぐる…」と書くのでしょうが、現在、上関町では上関原発の動きというより、使用済み核燃料の中間貯蔵施設をめぐる動きの方が前面に出ています。「方が」というよりも、中間貯蔵施設だけになったように思えます。

1月14日、新年のあいさつで上関町を訪問した、中川(けん)(ごう)中国電力社長は、西 哲夫上関町長と面談しました。新聞記事を見る限り、中間貯蔵施設のことばかりとなっています。

上関町に原発建設の動きがあるのを、忘れてしまいそうな感じです。昨年12月10日、久しぶりに上関町議会の本会議を傍聴しました。新装された役場内の議場、原発に反対する議員も質問しましたが、原発をめぐる質問は全く有りませんでした。

上関原発の建設計画が公けになって、今年は43年目です。こんなに長期間に亘り、地元の人を含めて苦しませているのは大犯罪です。人としても組織としても許されないことだと思います。中電で働いている人からも、同じ考えの人は多いと聞きます。

中間貯蔵施設建設について、共同事業だとして前向きだった?関西電力も、ここにきてそのスタンスは後退しているように思えます。福井県の原発内に置かれている使用済み核燃料について、「どうしても県外に出すこと」を再稼働の条件にしていた福井県当局のスタンスが、後退したことが大きな理由だと思っています。

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読売新聞より

今年、上関原発計画が完全に撤回されることは無いでしょうが、次の2点をめぐる動きに注目しています。

その一つは、今年度中に閣議決定される予定の第7次エネルギー基本計画です。原発の新設問題について、これまでは既存原発の敷地内に建設するとしていた考えを、別の原発敷地での新設を容認する「敷地外」での建て替えにも道を付けました。中電の場合、島根以外で別のところに原発は在りませんから、上関も新設にはなりません。

エネルギー基本計画の素案が示された日に、経済産業省資源エネルギー庁の担当者は、建て替え先に「上関は該当しない」と言い切ったと、12月18日の新聞は報じています。

二つ目は、中電が「上関原発を建てさせない祝島島民の会」に起こしている、原発建設予定地内での海上ボーリング調査を止めないように求めている訴訟です。山口地方裁判所岩国支部で行われている裁判ですが、まさに反対運動への恫喝(どうかつ)訴訟といえます。

その一で書いたことにも関連しますが、上関原発の原子炉設置許可申請は2009年12月18日、中国電力から経済産業省原子力安全・保安院に提出されました。

提出した日の中電の記者会見用資料を見ますと、この申請は初めに原子力安全・保安院による第一次審査を受けることになっています。皆さんご存知のことだと思いますが、3・11福島原発事故後、原子力安全・保安院は廃止されました。上から読んでも下から読んでも「ホアンインアホ」で、笑いの話題なった保安院でした。

保安院が無くなり、「独立性が高い」とされた原子力規制委員会が発足しましたが、原子力規制委員会からは新設原発の審査の基準も出されていません。当然ですが、審査をする予定もありません。

海を埋め立てると元に戻すことは不可能です。上関原発は建設できないとした第7次エネルギー基本計画、それでも海を埋め立てようとする中電の恫喝訴訟、この訴訟の動きが上関原発計画を撤回させる、まさにトドメになると思います。

次回公判は4月10日、次々回は5月29日のいずれも木曜日と決まっています。

取り返しが出来ない海の埋立て、そのためのボーリング調査、理屈がつかない中電の主張、裁判ですから勝っても負けても控訴・上告という手続きとなるでしょうが、中電が負ける可能性を予測しています。

山口地裁岩国での判決は今年中に出されるでしょう。大きな節目となるのは間違いないと思っています。

追記ですが、2月2日に上関の隣り町、田布施町で町会議員選挙が行われ、「原発いらん!山口ネットワーク」の小中進代表が3位で当選されました。中間貯蔵施設反対の議員が4名から6名になり、推・反同数となりました。

木原省治

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2025年2月 9日 (日)

2025年「全国被爆二世交流会」

昨日、今日の二日間、広島自治労会館で「2025年全国被爆二世交流会」が開催されています。

「交流会」は、総会を挟んで2年に1回開催されていますが、今年の交流会は広島での開催となり、私も原水禁国民会議の代表として参加しました。

一日目の昨日は、雪の影響もあり開会の遅れが心配されましたが、午後2時からの予定どおり開会しました。

今年の交流会は、「裁判闘争や放影研との対応,そして厚生労働省交渉など,私たちにとって非常に重要な課題が山積している」(案内文)での開催となりました。

開会にあたった崎山昇全国被爆二世団体連絡協議会会長が、さきの長崎被爆二世裁判に対する最高裁の「上告棄却」の判断を厳しき批判するとともに、広島被爆二世裁判での上告に最大限の努力を行う決意するとともに「原爆被爆二世の援護に道を拓くため、全国対策など今後の活動のあり方を皆さんと協議しながら進めたい」とを表明しました。

その後、来賓のあいさつ紹介がありました。私も原水禁を代表として出席し、紹介を受けました。今回は、発言の機会がありませんでしたが、もし発言する機会があればと思っていたことは次のようなことです。

「被爆二世裁判の厳しい判決が続いているが、広島での上告に最高裁がきちんとした判断が行われることを強く求める。この厳しい裁判所の判断を受けても、被爆二世の将来への健康を解消することにはならない。もう一度、被爆二世問題とは何かを原点に立ち返り、自らの課題とするとともに、何が問題なのか、その本質を広げ、支援の輪をどう広げるかが課題となっている。とりわけ、厚労省との交渉は、今後の重要な課題となっていくと考えている。そのための努力を共につづけていきたい」

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来賓のあいさつ、紹介の後、二つの記念講演がありました。講演者はいずれも被爆二世裁判に深く関わっていただいた方です。

最初は、在間弁護団長が「裁判闘争の現状と課題」と題して、この間の裁判闘争の到達点、判決の問題点についての解説をするとともに、「国家の戦争責任を問う」視点からの運動の重要性が提起されました。

二番目は、裁判闘争を医学者の立場から意見陳述、さまざまなアドバイスを行ってきたいただいた医師の振津かつみさんが「裁判と遺伝的影響」と題して講演を行いました。

その後、石破茂内閣総理大臣宛の次の3点を柱とする要請が、全体の拍手で確認されました。

・核兵器禁止条約の署名、批准。仮にそれができないとしても3月に開催される第3回締約国会議に参加すること。

・原爆放射線の遺伝的影響の問題や被爆二世の置かれている状況と向き合い、原爆放射能の遺伝的影響を否定できない被爆二世を広く救済すること。

・福島第一原子力発電所事故を起こしたことの責任を果たすこと。トリチウムなどのを含む汚染水の海洋放出を直ちに中止。すげての福島原発事故被害者に「健康手帳」を交付すること。エネルギー政策を脱原発に転換すること。

要望書を確認し、寺中副会長が閉会のあいさつを行い、一端会議を終了した後、1時間ほどの参加者による「交流」が行われましたが、私は「交流」が始まる前に退席しました。

2日目の今日は、午前9時から同じ会場で、「今後の取り組みについての議論」や各県・各組織の取り組み交流を行い、午前11時半には終了する予定です。

いのちとうとし

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2025年2月 8日 (土)

2025年2月のブルーベリー農園その1

2月に入ってから雪、低温、風と冬らしい天気がやってきた。ブルーベリーの剪定の作業は体を動かさないので寒さはこたえる。3時過ぎると気温が一段と下がるので休憩をはさんでから里山の灌木の伐採の作業に移る。そうすると体を動かすので体感温度が上がる。しかし決して無理はしないようにしている。2日に降った雪は水分を含んで重く、4日に降った雪はさらさらで風によく舞い上がる。夕方は0度からマイナスになっている。とにかく冬景色がしばらく続く。

22日(日) 水分を多く含んだ重たい雪が降った

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里山の杉の太い枝も裂けて防獣用のワイヤーメッシュの上にドスンとていた

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24日(火) 2日に降った雪はまだ残っている。ブルーベリーの剪定をするが寒くて体の冷えが厳しいので伐採で体を動かす作業にかえることにした

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里山のエゴノキを伐採したが防獣用のワイヤーメッシュに食い込んだ枝もあってその逞しさに感心する

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切った枝を野焼きの場所まで運ぶと体が温まる

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体が温まった勢いでエゴノキの近くの枯れた杉を根元から鋸でごしごしと切り倒す。これで作業はおしまい。帰るころの気温はマイナス1度だった

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2月5日(水) 青空に輝くつららはのどかだが

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午後2時ころには風が吹き荒れたので粉雪が霧状に舞い

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地吹雪のように吹き荒れたりして

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里山のモミジの枝が裂ける

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青空が見えるのだが寒いのと風が強いのと相まって農作業を早じまいする

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花木の蕾は春に備えて確実に膨らんで、ツバキは少し色づいている

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年2月 7日 (金)

書籍「被爆者阿部静子は語る」

日本被団協のノーベル平和賞受賞を機に、初期の被爆者運動に参加した被爆者についての報道が続きました。

その一人が、今も被爆体験を語り続け今月22日に98歳の誕生日を迎える阿部静子さんです。

阿部静子さんの歩みを本人へのインタビューを下に発刊されたのが「被爆者阿部静子は語るー悲しみに苦しみに生きていてよかった」です。

著者は、「阿部静子+ヒロシマ通信研究会」です。「ヒロシマ通信研究会」は、これまで発刊された「原爆手記」の書誌データをまとめ、検索できる専用サイトヒロシマ通信|TOPページを設け取り組みを続けているグループです。

今回の出版は、このグループのうち3人が、昨年(2024年)4月から14回にわたって阿部さんの証言聞き取りを書き起こし、背景説明を加えて再構成し編集されたものです。

先にも述べたように、阿部静子さんのインタビュー記事が、昨年末幾つか報道されましたが、この本は、それ以前から準備が進みちょうど今の時期に発刊となったものです。

聞き取り編集にかかわった3人は、原爆資料館情報室で「被爆体験記」の入手に努めたり、マスコミ人として長年原爆取材に携わった経験を持つ人たちですので、「幾度も聞き返し、文献資料と照らした細かな質問」によって聞き取り、まとめられ編集されていますので、大変貴重なものといえます。特に、取材者たちによってまとめられた背景説明が、阿部さんの証言をより内容の深いものにしています。

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詳細をここで紹介することはできませんので、本に挟まれていた「『被爆者阿部静子は語る』謹呈のごあいさつ」に書かれた紹介文を引用します。

「1945年8月6日、広島市の第六次建物疎開作業に国民義勇隊として動員され、米軍が投下した原爆に爆心地から東南約1.5キロで遭い一命を取り留めましたが、顔や右半身に消えない傷を負いました。復員した夫と義母と生家があった安芸郡奥海田村(現在の海田町)で暮らし、米軍主導の占領統治が開けた1952年、いばらの道を強いられてきた被爆者の集まりに通うようになり、1956年、原爆被害者による初の『国会請願』から広島県原爆被害者団体協議会、続く日本原水爆被害者団体協議会の結成大会に参加しました。彼女がつくった詩『悲しみに苦しみに』は歌曲となり、日本被団協結成総会の会場となった長崎国際文化会館でも歌われました。二男一女の子育てと農作業にいそしみ、原水爆禁止世界大会などでも証言をします。」続いて、阿部さんの海外での証言活動などが書かれていますが、ここでは省略します。

私が、阿部静子さんで最初に頭に浮かぶのは、ここにも書かれていますが、1956年の原爆被害者による初の「国会請願」です。私の手元に、この時の自筆の参加者名簿のコピーがあります。

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その中に「八・六の会 阿部静子」の名前があります。最後のページには、「阿部比路志(子供)」の名前が書かれています。阿部さんの子どもさんで、同行した子どもは阿部比路志さんだけです。子どもを同行したことについて、この本の中で阿部さんは次のように話しています。「子ども三人(1954年に長女が誕生)の面倒は見切れんと言われるので、次男(当時六つ)を連れていくことにしました。」

この名簿を何度も目にしていましたので、阿部さんのことは余計に印象に残っています。この参加者名簿にいつかこのブログでも改めて紹介したいと思いますが、「国会請願」に参加した人は42人です。その一人池田精子さんが、昨年12月20日に亡くなられたので、この行動に参加した大人で今も健在なのは、阿部さんだけになりました。

また「被爆者阿部静子は語る」には、貴重な写真が何枚も掲載されていますので、それを見るだけでも興味深いものがあります。

この本は、被爆体験でなく、被爆者運動、原水禁運動の歴史も学ぶことのできる貴重な書籍です。全国の公設図書館や平和講座を開く大学図書館に寄贈することになっているようです。ぜひ図書館で読んで欲しいと思います。

私は、たまたま編著者の一人が私の古くから知人ということで、贈呈されることになり、いつでも読むことができますので、ここで学んだことをぜひこのブログで紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2025年2月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その66-2)

騙され、騙す

昭和初期に活躍し日本映画の基礎を築いた監督の一人、伊丹万作が1946年(昭和21年)8月に創刊された『映画春秋』に寄稿した一文を初めて目にしたのは1990年11月1日でした。「戦争責任」と題する一万字弱の寄稿文、少し長いですが書き出し部分を紹介します。

「多くの人が今度の戦争で騙されという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲ではおれが騙したのだと言った人はまだ一人もいない。ここらあたりからぼつぼつ分からなくなってくる。多くの人は騙した者と騙された者との区別ははっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。例えば、民間の者は軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中に入ればみな上の方を指して、上から騙されたと言うだろう。上の方に行けば、さらにもっと上の方から騙されたというに決まっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、僅か一人や二人の智慧で一億の人間が騙されるわけのものではない。すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりも遙かに多かったに違いない。しかもそれは、『騙し』の専門家と『騙され』の専門家とに豁然と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捉まえて騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり、騙されたりしていたのだろうと思う。このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみればすぐに分かることである。」

続きは「伊丹万作全集」(1)「戦争責任の問題」を手にしていただくとして、あらためて噛み締めたいと思っている一節をだけ書き足します。

「『騙されていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるであろう。いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。」

 「反軍演説」  斎藤隆夫の政治姿勢

随分と長くなってしまいましたが、もう一人尊敬する人を紹介します。1940年(昭和15年)2月2日、帝国議会衆議院本会議場で行った「反軍演説」のために、国会を除名された斎藤隆夫です。「反軍演説」そのものも、鋭く感銘深いものですが、除名された後に詠んだ漢詩が特に心に残っています。。

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1940年 斎藤隆夫

吾言即是万人声 〔吾ガ言、即チ是レ万人ノ声〕

褒貶毀誉委世評 〔褒貶毀誉(ホウヘンキヨ)、世評ニ委ス〕

請看百年青史上   〔請ウ看ヨ、百年青史ノ上〕

正邪曲直自分明   〔正邪曲直、自ヅト分明〕

「昭和100年」を迎えた今、伊丹万作の言葉、斎藤隆夫の言葉がそのまま響きます。

次号では、泥沼に入った日中戦争からインドシナ侵攻、パールハーバーへと突き進んだ昭和を見たいと思います。

(2025年2月6日、あかたつ)

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2025年2月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その66-1)

「昭和100年」と父

今号から“日本が無謀な戦争へと突き進み原爆投下と敗戦に至った経過”、“日本軍のインドシナ進駐”、“父の戦争体験”について書き進めることにします。

1928年(昭和3年)3月24日生まれの父は間もなく97歳を迎えます。父の生まれた1928年は初めての普通選挙が実施された年であり、同時に関東軍による張作霖爆殺事件があった年です。大正デモクラシーの一つの果実としての普通選挙と、ヒロシマ・ナガサキにつながる「昭和の戦争」に踏み込んだ年です。大変なコントラストですが、「父の人生」は「昭和100年」とほぼ重なります。

明治維新以降、富国強兵政策を進めてきた日本は、1877年(明治10年)の内戦(西南戦争)を経、1894年(明治27年)に日清戦争、1904年(明治37年)日露戦争に勝利します。勢い躍り出た日本は、ロシア帝国から割譲した遼東半島などの権益を守る関東軍を配備。帝国主義国として植民地政策を進めます。

でっち上げと謀略による大陸侵略

1931(昭和6年)年9月18日、関東軍は柳条湖事件を自作自演し、中国軍との戦闘を始めます。いわゆる「満州事変」、日本軍は戦火を中国本土に拡大させます。そして、1932年1月には上海の共同租界で日本人僧侶が殺害される事件を口実に、日本海軍陸戦隊が3月にかけて中国軍と衝突する上海事変を起こします。高まる排日運動と満州事変・満州国成立などへの批判をそらすための関東軍による謀略でした。

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陸戦隊は民衆の中に紛れている平服の中国軍(便衣隊)の銃殺を布告し、銃や日本刀などで武装した日本人自警団も加わり、「便衣隊狩り」と称して中国人住民を虐殺しました。犠牲者は上海市社会局の発表によると6,080人の住民が殺され、2,000人が負傷し、1万4千人が行方不明になっています。

傀儡国家「満州国」から日中全面戦争へ

翌1932年(昭和7年)3月1日、日本軍が占領した満州、内蒙古、熱河省を領土として日本の傀儡国家「満州国」が作られます。ご覧になった方も多いと思いますが、「ラストエンペラー」は、満州皇帝となった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の生涯を描いた映画です。

1933(昭和8年)年3月27日の国際連盟総会で「日本の侵略行為」とするリットン調査団報告が、賛成42、反対1(日本のみ)、棄権(シャム=タイ)という結果で採択されたのを受け、日本は国際連盟を脱退します。

1937(昭和12年)年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍との衝突が起こります。「夜間演習中に実弾が撃ち込まれ、兵士一人が行方不明」になったことを中国側からの攻撃として判断して起きたとされていますが、定かではありません。いずれにしても中国軍との全面戦争に入る口実として日中戦争の契機となります。

こうして日本は国際社会から孤立深め、言論・結社・表現の自由を奪う一方、戦時世論を掻き立て太平洋戦争へと突き進んでいきます。その結果、310万にも及ぶ犠牲者とヒロシマ・ナガサキの悲惨な結果を招いたのです。

この時代を知らない私は、「何でこのような愚かで無謀な道を歩んだのか」と思ってしまいます。後世に歴史として、ことの「正邪曲直」を知った者として、現在において再び「愚かで無謀な道を歩もうとしている」事態に臨む姿勢が問われていると痛感します。

(2025年2月5日、あかたつ)

【編集者】届いた原稿が少し長めですので、あかたつさんの了解を得て今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2025年2月 4日 (火)

2月「3の日行動」

2月3日午後5時半から1時間、洋服の青山前で今年初めてとなる戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会の「3の日行動」が行なわれました。

昨年10月の総選挙の結果、少数与党に追い込まれた自公連立政権の初めての通常国会が始まっています。通常国会での最大に任務は、来年度予算の審議です。2月に入り衆議院での本格的な予算委員会の審議が始まりました。すでに野党からは、予算組替えのさまざまな意見が出ています。生活関連の予算組替えを求めてはいますが、さてその財源は?となるとどのような案が提示されるのか、見えてきません。もちろん財源をどう確保するのは、政府与党の役割ですが、野党の意見を聞いていて奇妙に感じるのは、増大し続ける防衛費予算についての発言がほとんどないと言うことです。日本の防衛費はGDP1%以内を目安としてきました。しかし、岸田政権が初編成した2022年度予算の防衛関係費は、従来方針を踏襲し5.1兆円でしたが、23年度当初予算では6.6兆円、24年度はさらに1兆円以上増額し7.7兆円となりました。そして25年度予算では、8.7兆円が計上されており、右肩上がりに増え続けています。

せっかく自公政権を少数与党に追い込んだのですから、この防衛費の増大にこそ、メスを入れるべきだと思いながら、「3の日行動」に参加しました。

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弁士とテーマは次の通りです。

いつのように川后和幸さんの「能登地震にみる防災対策の遅れ」を指摘する冒頭発言でスタートし、

立花志瑞雄さんは「被ばく80年核廃絶・戦争反対の大運動を」、大月純子さんは「『建国記念日』を問う」、山田延廣さんは「トランプ大統領と日米関係」、宮岡照彦さんは「呉の防衛拠点化反対運動の今」のテーマでそれぞれの思いを訴えました。

最後のまとめは、石口俊一弁護士でした。

寒波襲来の前日、日が落ちるとグーンと寒さが厳しくなった2月の「3の日行動」でしたが、30名の参加がありました。

いのちとうとし

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2025年2月 3日 (月)

2月1日に開催された二つの講演会

2月1日に開催された二つの講演会の報告です。

午前10時から、広島平和記念資料館地下会議室1で開催されたのが「『中国人』被爆者の碑を考える会 結成2周年記念シンポジウム」です。

「中国人」被爆者の碑を考える会は、ピースボランティアの一人が平和公園を案内しているとき『韓国人の慰霊碑はあるのに、なぜ中国人の原爆犠牲者の慰霊碑はないのですか』と問われたことをきっかけに、2年前に「碑の建立」を目的に発足した組織です。

私も当初会への入会の誘いを受けたのですが、「中国人被爆者と言ってもその背景は複雑なため、どんな碑を建てるのか、あまりにも問題が多すぎ、ほんとうに責任が持てるのか」と思い持っていましたので参加を見送っていました。

今回のシンポジウムでは、「どんなことを話してもらってもよいので、3人のパネラーの一人として参加して欲しい」との旧知の共同代表多賀俊介さん、楠本昭夫さんから要望がありましたので、引き受けることにしました。

今回のパネラーは、広島大学大学院教授中村平らさん、被爆者で「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」前広島支部長の豊永恵三郎さん、そして私の3人です。

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中村さんは、「どのような論理で碑を建立しようとしているのか、それぞれの遺族との意思疎通をしているのか。中国人被爆者と言っても当時のさまざまな状況が背景にあるが、それをどう考えるのか。そして日本の加害性はどうするのか。など多くの問題があるので、さらなる研究が必要だ」と指摘。豊永さんからは「韓国人原爆犠牲者慰霊碑の建立、平和公園への移転、統一碑建設に向けての動き」などが、紹介されました。

私は、自分自身がどう中国人被爆者問題にかかわってきたのかを紹介し、中村さんの提起に賛同の意を表明しながら、特に「強制連行された中国人被爆者の問題を早くから、そして今も続けている市民団体の理解と協力なしには、建立は難しい。どう理解していただくのか。拙速であってはならない。」ことを話しました。

「中国人」被爆者の碑を考える会が、発足して2年、このシンポジウムが、会にとって改めて「建てるとすれば、どんな意味を持つ碑か、場合によっては政治的な問題に繋がりかねない問題をどう考えるのか」を検討する機会になればと思います。

午後は、1時半から袋町の市民交流プラザを会場に被爆二世問題で医師の立場から助言、提言を続けていただいている神戸医科大学の振津かつみ医師の「原爆放射線被ばくによる遺伝的(継世代)影響をめぐって」の講演会がありました。

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この講演会の主催は、広島市原爆被害者の会二世・三世部会と広島県被爆二世団体連絡協議会の共催で開催されました。同じ被爆二世の組織である二つの団体が、共同して行動するのは、これが初めてではないかと思いましたので、振津さんの話しはこれまでにも何度か聞いていましたが、参加することにしました。

振津さんは、マウス実験の事例を紹介しながらの遺伝的影響についての語るとともに、世界の核被害者にも向けて欲しいと訴えました。参加者は、約40人、「原爆放射線被ばくによる遺伝的(継世代)影響」についての講演を始めての人も多かったと思います。

振津さんの講演内容はもちろんですが、被爆二世団体が共同して開催したことに意義を感ずる講演会でした。

いのちとうとし

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2025年2月 2日 (日)

紙屋町シャレオ古本まつり

第34回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、紙屋町シャレオ中央広場で、1月25日から今日2月2日までの会期で開催されています。

今回は岡山、山口、福岡の店舗を含め10店舗が出店しています。時々郷土史や原爆関係の珍しい本が棚に並ぶことのある岩書房の出店がないと言うことを事前に聞いて残念に思っていましたが、いつも通り初日のオープン時に行ってきました。

オープンしてすぐに訪れる人の姿が増えてきました。

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いつもより多い気がします。数日後、とりまとめ役であるアカデミイ書店を訪れたとき、「古本まつり、売れゆきはどうですか」と尋ねると「来場者も多く、それなりの売り上げがあります」とのこと。どういうジャンルの本を探しているのはわかりませんが、意外と、というとちょっと変ですが、若い女性の姿が目に付きます。上の写真もよく見ると真ん中奥の方に若い女性の姿が何人か映っています。

最近自宅の本を少なくするための整理をしていますので、以前のように安いから珍しいからといって買い込むことはできません。各店の郷土史、原爆関係の本が置かれている棚だけを見て回ります。私もこれまでにかなりの本を入手していますので、「これは」という本はなかなか見つかりません。

今回は、購入本なしで帰ろうかなと思いながら、最初の頃に見た棚をもう一度見ると、ちょっと興味をそそられる本の表紙が目に入りました。

「昭和二十年十一月 終戰教育事務處理提要 第一輯 文部大臣官房文書課」

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少し茶けた本で、パラフィンの袋に入っています。出展者は、アカデミイ書店です。会計のところに顔見知りの店員の姿がありましたので、お願いして袋から出してもらいました。終戦直後に発行された本で紙質はよくありませんが、保存がよかったのでしょうきれいな状態です。

表紙を開くと終戦の詔書が、旧漢字で書かれています。興味深いのは、日付が「昭和二十年八月十四日」となっていることです。

それはとりあえず置いて、次のページに「凡例」として次のように書かれています。旧漢字とカタカナで書かれているのですが、読みづらいので新漢字とひらがなで記載します。

「本輯は、昭和二十年八月十五日終戰に伴い連合国軍側より日本帝国政府に対し発せられたる教育関係の指令覚書等を収録せり。

本輯は終戰に伴い本省関係の閣議決定、次官会議決定(報告、了解事項を含む)及び諸通牒類を収録し事務担当者の便に供せんとするものなり。

本書は付録として終戰に伴い制定並びに廃止せられたる法令をも便宜収録することと競り」

これで、この本がどんな目的で発行されたのかがわかります。

「第一章「ポツダム」宣言並びに指令」の最初には、「ポツダム」共同宣言が収録され、付録として「カイロ」宣言も記載され、次に「連合国軍側よりの指令」と続きますが、もっとも古い日付は、昭20・10・11です。

第二章からは、閣議決定や次官会議決定が記載されています。興味深いのは、終戰日といわれる昭20・8・15に「聖旨奉戴方に関する件」と題した訓令が出されていることです。さらに翌日の昭20・8・16には文部次官、厚生次官のなで「動員解除に関する件」が出され、工場に出動していた学徒の動員を解除し、帰校させることが指示されています。私が、以前、呉海軍工廠に動員された島根県、鳥取県に終戦後いち早く帰郷したことをこのブログで紹介しましたが、それを書いたときは、なぜすぐに動員が解除されたかまでは調べることができませんでしたが。これで理解ができました。

さらに後ろの方の「第四章終戰に伴う諸調査」に最初に出てくるのが「原子爆弾災害調査研究に関する件」です。興味深い内容です。この日付は、昭20・9・15です。

ここまで見て、やはり購入することにしました。定価は、1500円です。

この値段が高いか安いかは、これからこの本をどう活用するかに架かっていますが、少なくとも今回を逃すと、再び目にすることはないと思われる本です。

戦後、どのように教育改革が行われたのかを知ることのできる書物の一つのように思える興味深い本であることは間違いありません。じっくりと読みたいと思っています。

こうした本との出会いがあるので、どうしても出かけてしまう「古本まつり」です。

いのちとうとし

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2025年2月 1日 (土)

被爆二世をめぐる課題に向き合い、国として補償せよ!

 2025122日、最高裁が被爆二世(長崎)訴訟の上告を棄却しました。

原告団・弁護団の声明は、次のように結ばれています。

「私たちはあくまでも、国の被爆二世に対する援護についてのこれまでの国の態度を根本的に改めさせるために、そして、世代を超えた“核”による人類への重大な影響を明らかにし、最終的には核兵器の廃絶を実現するために、最後まで闘いを続ける」

被団協のノーベル平和賞受賞で改めて注目されている「原爆被害者の基本要求」の柱は、「核戦争起こすな、核兵器なくせ」と「原爆被害者援護法の即時制定」です。その援護法の対象は、法律上の「被爆者」(手帳所持者)以外に、「死没者、遺族、子供、孫をふくむ」とされています。

https://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/about/about3-04.html

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怒りの記者会見する崎山曻団長

ふたたび被爆者をつくらないため、二度と国家権力に個人の尊厳を踏みにじらせないためには、戦争を遂行し原爆被害をもたらした国の責任において償う「国家補償」を求めるたたかいが不可避です。

私たち被爆二世は、被爆者のたたかいを継承しているという責任を、改めて感じています。

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 【マスコミ報道の紹介】

NBC長崎放送

https://www.youtube.com/watch?v=LKznfLEOTZU

NCC長崎文化放送

https://www.youtube.com/watch?v=FJvH4S6NdsY

KTNテレビ長崎

https://www.ktn.co.jp/news/detail.php?id=20250128007

 よりのぶ

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