労働組合が建設した慰霊碑
先日のTさんへの「職域被爆者組織の結成」について話す時、以前このブログで紹介した「国鉄原爆死没者慰霊碑」についても触れることにしました。その理由は、言うまでもないことですが、この碑が労働組合とその被爆者組織によって作られた碑だからです。建立に至る経緯などは、すでに紹介しましたので、ここでは省略します。
ところで、Tさんに話すための資料を作りながら、「唯一の労働組合が作った原爆慰霊碑」と書きそうになって「待てよ、まだ他にも労働組合が作った碑があったな」と思いだし、調べることにしました。
個別の資料を調べることはできませんので、広島市が作成している「原爆関係の慰霊碑などの概要」(原爆関係の慰霊碑等の概要 - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市)を検索しました。
ここには、市内にある原爆関連の慰霊碑等207基の個別の概要(名称、建立年月日、場所、碑文、建立者、建立経緯など)が、区ごとにまとめられ掲載されています。
職域関係の碑が多数ある中で、私が確認した労働組合によって建立された慰霊碑は、見逃しがあるかも知れませんが、「国鉄原爆死没者慰霊碑」以外に3基あります。
平和公園内にはある碑は一つだけです。「全損保労働組合被爆20周年記念碑」(通称「全損保の碑」)で、平和記念資料館東館北側にあります。
この碑は、その名のとおり被爆20周年の1965年8月6日に全日本損害保険労働組合によって建立されました。私の記憶では、建立時は、原爆資料館の南側の緑地帯にあったように思います。この碑は、1989年7月に右翼によって台座だけを残し石碑部分だけが持ち去られ、広島刑務所脇にあった空き地に放置されるという事件がありました。理由は碑文の「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」です。労働組合が建立した碑の碑文ですが、右翼にとっては、天皇制や資本主義を否定するものだったようです。
次に紹介するのは、平和公園内ではありませんが、元安橋右岸の東南の河岸に1988年8月5日に建立された「原爆犠牲建設労働者・職人之碑」です。
この碑は、大工さんなど建設労働者・職人で作られている全国建設労働組合総連合会・広島建設労働組合によって建立されました。この碑の建立については、思い出すことがあります。広島建設労働組合の役員から「平和公園内に建設したいので協力して欲しい」と当時の社会党の議員団に協力要請があり、広島市と何度か協議しました。しかし、広島市は「平和公園内には新しい碑の建立は認められない」と,希望する平和公園内への建設は認められませんでした。結局、平和公園にできるだけ近い場所と言うことで現在の場所が指定され,今の建立場所が決まりました。
最後の三つ目は、広島市文化交流会館北西の本川河岸緑地に建つ「原爆犠牲新聞労働者の碑」です。この碑は、1985年8月5日に中国新聞労働組合が建立し、碑面には「不戦」の文字が刻まれていますので、「不戦の碑」とも言われています。以前にこの碑については、このブログで紹介していますので、今日はこれだけで終わります。
これで私が把握する労働組合が建立した碑の紹介は終わりですが、これを調べていて気になったことが出てきましたが、それについては明日報告します。
いのちとうとし
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