広島刑務所の土塀
吉島稲生神社の被爆樹木を見た後、すぐ北側にある広島刑務所所まで、足を伸ばしました。
広島刑務所の西側(本川右岸沿い)の道路沿いに、広島刑務所の土塀のモニュメントがあります。大きな塊ですので、左奥にある説明文を読まなければ、土塀の一部とは気づかないと思います。
左奥の現在の塀に貼ってある説明板が写っています。
そこには、この土塀のモニュメントについて、次のように書かれています。
「広島刑務所の土塀(明治19年~平成30年) 広島刑務所の土塀は、明治19年、前身の広島監獄所の時代に、愛知県出身の左官服部長七氏により、土や砂を独自の配合で固めた『人工石』工法で建造されました。土塀は、今日に至るまで幾多の自然災害に耐え、さらに昭和20年8月6日,広島に投下された原子爆弾の熱線や爆風により、広島刑務所の建物は全壊しましたが、倒壊することなく耐え抜き、以降も広島刑務所の最後の砦として建ち続けてきました。広島刑務所の改築に伴い、この外塀がコンクリートの塀に変わっていく中で、地元住民の多くの声を背景に、保存が決定しました。」
この土塀のモニュメントは、頑丈さを誇示しているだけでなく、被爆石としての役割も持っているのです。
後ろに取り付けられた説明板には、写真も掲載されています。
この写真の説明文は次のように記載されています。
「原爆の熱性によって影が残った塀。この入射角が空中の爆発点の、算出基礎となった」
写真をよく見ると、奥側の塀に、斜めの影がはっきりと写っています。空中の爆発点を確定させるため、この塀だけでなく他の多数の構造物に残った影から算出されたのですが、倒壊を免れたこの刑務所の塀の影も重要な算出基礎になったようです。
ところで吉島刑務所で思い出すのは、やはりこの刑務所内の独房で被爆した11人の強制連行された中国人被爆者のことです。
下の写真は、1993年5月に最初の強制連行された中国人被爆者として来広した張文彬さんが、この吉島刑務所を訪れ、広島刑務所の外壁を見上げている写真です。(広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会のホームページより)
張文彬さんは、私にとって忘れられない中国人被爆者の一人です。張さんの真摯な姿が、その後の中国人被爆者招待の大きな力になったと私は思っています。
11月に来広され、私が平和公園を案内した中国人被爆者于瑞雪さんの遺族お二人も、私と別れた後、川原洋子さんの案内で、ここを訪れています。
そんなことを思い出しながら、広島刑務所の土塀のモニュメントを見て帰宅の途につきました。
いのちとうとし
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