森滝日記
元日の中国新聞の1面トップ記事は、森滝先生の日記に関する記事でした。ちょっとびっくりの内容です。なぜ?トップ記事になったことはもちろんですが、先生が亡くなられて(1994年1月25日)から数年経った頃だったと思いますが、ある時、森滝春子さんから「あの日記が、見当たらないのです」と聞いていたからです。その後も何度も自宅を訪れたのですが、「見つかった」という話を聞いていませんでした。
どこにしまわれていたかは不明ですが、貴重な日記が見つかって本当によかったと思います。
8月6日から9月9日までの日記「さいやく記」,そして被爆前日の8月5日の日記を記述中に被爆にあい、インクが飛び散った跡、自らの右目に刺さったガラス片と同じようなガラス片が突き刺さった痕跡を残した被爆前まで記述された大学ノートの日記です。
中国新聞2025年1月1日より
森滝先生の生前中に、自宅で何度も見させていただいた記憶がよみがえります。
森滝先生の自宅にあった資料は、現在広島大学公文書館に寄託され整理が進んでいますが、先生の日記だけは、春子さんの強い思いがあり、自宅に残すことになりました。日記類は、森滝家にとっても思い入れの深い大切なものです。
この日記は、1985年に発行された「ヒロシマ40年 森滝日記の証言」に世に知られることになりました。この本は、「さいやく記」の引用から始まります。かなり詳しく引用されていますので、これを読むだけでも、被爆直後の生々しい様子を知ることができます。
ところで、「さいやく記」の最後の記述となる9月9日は、森滝先生が、吉舎町(現三次市)敷地にあった星田眼科病院に入院された日です。
1988年に森滝先生と一緒に郷里君田を訪れた時、星田眼科病院まで足を伸ばしたことも思い出します。
中国新聞の記事では、「さいやく記」が大きく取上げられていますが、私が強く印象に残っているのは、ガラス片が刺さった跡の残る大学ノートの日記帳です。
この二つの日記が、出てきということですので、近いうちに見せていただくため、森滝家を訪れようと思います。
被爆80周年の節目の年の元日にこの記事が掲載されたことに驚くと共に、もう一度原点に返ることの大切さを教えられた思いです。
いのちとうとし
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