国民の4人に一人を虐殺したポル・ポト
ベトナムとカンボジアが仏領インドシナとして共に抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦い、その後アメリカを後ろ盾とするカンボジアのロン・ノル政権との戦いとベトナム戦争(抗米救国戦争)で連携し、共に1975年4月に勝利しました。
その直後から、稲作を主体とする農村共同体(原始共産制)を目指すポル・ポトは、都市住民を「社会の阻害者」、教師や公務員などのインテリや僧侶を「反革命分子」として弾圧し、政権が崩壊する1979年1月までに国民の4人に一人、200万人を虐殺しました。
私は1991年に初めてカンボジアとベトナムを訪問しました。1979年1月、ベトナムの支援でポル・ポト政権を倒したヘン・サムリンがカンボジア人民共和国政府を成立させ、ヘン・サムリン新政権とポル・ポト派、旧ロン・ノル派を継いだソン・サン派、シアヌーク派の三派連合との間で内戦が続きます。その内戦の停戦協定が成立した直後で、治安上と地雷などの安全上から訪問地は首都プノンペンだけでした。
「両親と兄弟姉妹をポル・ポトに殺され、親族で唯一人生き残った」27歳の青年(外務省職員)の案内で、ポル・ポトによる大虐殺の現場を訪ねた記憶は今も鮮明です。案内してくれた青年の名前は思い出せないので、文中ではKさんとして進めます。
想像を絶するキリングフィールド
政治犯が囚われていたツールスレン中学校跡(現在の虐殺博物館)の教室には膨大な犠牲者の写真が貼られ、薄暗く仕切られた拷問部屋には足枷や爪を剥がすヤットコ、水責に使った桶などの拷問道具が残されていました。この政治犯収容所には14,000人が囚われ、ポル・ポト政権崩壊時に生き残っていた人は僅か7名ということでした。

(撲殺による虐殺、ツールスレン博物館)
何よりも背筋が凍りついたのは、Killing Field(キリングフィールド)と呼ばれる処刑場でした。「銃弾がもったいない」と、もっぱら丸太や鉄棒で撲殺、斧や鎌などで殺戮が繰り広げられたとのことでした。「この木も殺戮に使われた」と説明された木の高さ1メートル辺りにあった陥没が忘れられません。赤ちゃんや幼児の足を持って、頭を木に打ち付け殺戮したKilling Tree(キリングツリー)です。ポル・ポト政権崩壊当時には何に使われた木なのか分からなかったそうですが、「木に残された髪の毛や血痕と近くの穴に捨てられた多くの赤ちゃんの遺体からキリングツリーと分かった」とのことでした。
自国民4人に一人を殺戮するという世界が震撼する大虐殺がなぜ起きたのか。様々に分析・研究され、書物が書かれ、メディアでも報道されています。「なぜ起きたのか」と同時に、大虐殺システムはどのように作られ機能したのかも気になります。
「内部の敵」密告者、旧社会の破壊者にされた子どもたち
その一つが、中央から地方までポル・ポト政権が完全に支配し、疑問を持ったり反対する者を「内部の敵」として摘発する密偵(チュロープ)をすべての集落に配置した作り上げた監視網と密告体制です。監視者自身もが監視・密告・粛正される恐怖の構造です。
34年前初めてプノンペンを訪れたとき、長い線香や花束を手にした数人の子どもたちから「買ってくれ」と声をかけられました。思わず買おうとすると、Kさんに「買わないで欲しい。彼らにはきちんと教育を受けさせ、国の再建を担って貰わなければならない。あなた方が線香を買ってくれても、それは一時的なもので子どもたちのためにならない」と諭されました。線香を買うという「善意」が、「本当に子どもたちを助ける」ことにつながるのか考えさせられたものです。
Kさんはあちこちに倒れている頭のない仏像を指して、「これもポル・ポト時代に子どもたちがやったことです」と言いました。信心深く僧侶や寺院への寄進で徳を積むカンボジアの人びとにとって寺院は、支えであり村社会の統合の中心でもありました。大人には寺院や仏像の破壊は到底出来ないことだったのです。
張りめぐらされ監視と密告網の一翼を担わされ、旧社会の破壊者として使われたのが、何の知識もなく旧来の価値観を持たない無垢な子どもたちだったのです。幼児の頃から子どもキャンプでポル・ポト政権のスローガンを叩き込まれ、「教師や僧侶は敵だ」と洗脳されました。
そして親たちの会話を盗み聞し、僧侶や旧政権の軍人や教師など前歴を偽っている大人を見つけ出し、ポル・ポト政権側の役人をも監視させ、旧い道徳や価値観、仏像や寺院の破壊者として使われたのです。ナチスに洗脳された少年・少女がユダヤ人狩りの密告システムに組み込まれ、ユダヤ人虐殺へとつながった「ヒトラー青年団」と重なります。ロシアによるウクライナ・ブチャ虐殺、イスラエルによるパレスティナ虐殺に重なります。そして、今も続いているウクライナやガザやレバノンでの殺戮に重なります。
虐殺 ~国民と社会の分断が基礎にした民主主義の究極的破壊~
ポル・ポトもヒトラーも支配構造の基礎に「国民と社会の分断」を置いていました。為政者の「政策に賛成か反対か」によって「こちら側の人間かどうか」を決め、「国益に沿う国か、そうではない国か」で「敵」「味方」に分け、敵は徹底して攻撃・排除する。「防衛のため」と称して「先制攻撃」まで準備し実行する。そこには多様性を認め合う真摯な対話も協調もなく、独断的な攻撃による排除がまかり通ります。その手段は真実にもとづくプロパガンダではなく、嘘とデマゴーグに満ちています。刷り込まれた認識は時として為政者の指示や命令がなくても、「自警団」的な行動を誘発します。このことは洋の東西を問わず、戦争と殺戮の歴史が物語っています。
ポル・ポトの大虐殺の根底に横たわるものが現在の社会に装いを変えて存在し、ツールや手段を進化させながら膨らんでいるのではないかと気になるのは私一人ではないと思います。
2月9日から34年ぶりにカンボジアを訪れる予定です。訪問記はまたの機会に報告させていただきます。
次号では、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリンがポル・ポト政権を倒し、カンボジア人民共和国を成立させた1979年1月~1991年までのベトナム、カンボジアについてレポートします。
2025年1月20日(あかたつ)
[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。


最近のコメント