「広島ブログ」

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2025年1月

2025年1月31日 (金)

2025年1月のブルーベリー農園その4

日が少しづつ長くなり日の光がすこしづつ強さを増してきた。そう、明るくなってきたので農作業は寒いのだが春までもう少しといった気分になれるのでありがたい。季節は変わりゆくのでなんということはないのだが安芸区の日宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園にいっての農作業はこうした少しの変化が感じられる場でもある。農園の周りでは田んぼを耕すトラクターが時々動いてる程度だし、キジは元気に鳴き、ジョウビタキが剪定をしていると近くでひっひっと鳴いてくれる以外ひっそりしている大寒。

123日(木) 暖かい日差しの中でブルーベリーの剪定作業を続ける

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124日(金) 日中の気温が10度を超す日が2~3日続いたのでブルーベリー畑の地べたに草の花が顔を出した

①オオイヌノフグリ

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②ナズナ

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③ホトケノザ

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127日(月) 風もないのでブルーベリーの剪定でたまった枝を野焼きする。里山から杉の枝を拾ってきて火種にして火をつけると勢いよく水分を含んだ煙がたつ

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128日(火) ブルーベリーの剪定。太い枝を切ったのちに新しい元気な枝が出てきたのでの2本残して切った上側を斜めに切り戻して余分な芽が出にくくする処理をした

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一方枝先のつまようじやマッチ棒くらいの長さの花芽のついた枝が根気よく切っていくと大きな実がなりやすくなる(1月29日)

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129日(水) 4時ころになると寒くなるので立ちっぱなしのブルーベリーの剪定はやめて体を動かす灌木の伐採に作業変更する。この日は里山のクリの木に挑戦。足場は斜面でチェンソーで切るのは危ないので手持ちで切れる電動チェンソーと鋸2本で時間をかけて切っていく

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切った末口の直径は25センチくらいで

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長さは8mくらいあった。枝を切って一か所に集めてからの処理は次回に持ち越す。緊張する力仕事なので体がポカポカになった

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130日(水) 午後5時15分頃の農園の東側の空はまだ明るい

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年1月30日 (木)

原水爆禁止広島県協議会第94回総会

27日は、ノーベル平和賞授賞式報告会に続き、午後7時から原水爆禁止広島県協議会第94回総会が開催されました。

高橋克浩代表委員の司会で開会し、議長にアイ女性会議の貴田月美さんを選出し議事が進行しました。

最初に、秋葉忠利代表委員があいさつ。

秋葉さんは、「この総会は、歴史的な総会です。私たちには時間が限られています。被爆者のお元気なうちに核兵器の廃絶を実現するということです。本当に我々がそれを活動の目標に据えるとするならば、その目標年は2045年しかありません。被爆100周年までに核兵器の廃絶を行うそれまで20年間です。20年間という時間はあっという間です。

その間に何をすればいいのかということを考えると、私たちのエネルギーをそれに集中するということが一つの可能性として考えられます。」とし、そのために「運動の輪を広げることによって核兵器の廃絶に対するエネルギーも増しますし、それから他の関連をしている活動についてももっともっと大きな成果が上がるはずです。それが相乗効果として早期に核兵器を廃絶させることにつながります。」さらに「我々が主導して世界に広めて、そして日本政府も変え、核保有国を説得して核の廃絶に持っていく。それを諦めてしまったら最初から何もできません。諦めずに目標を設定して、そのためにまず一歩を踏み出すということが一番大事だと思います。」と総会の課題を提起しました。

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その後、大瀬敬昭事務局長が、2024年度活動報告、2025年度活動方針、財政関係の収支報告、予算案を提案し、審議に入りました。

被爆80周年の今年度の活動方針は、特に、原水禁運動の若い世代への継承の強化、そのための原水禁学校の開催、「県原水禁結成70周年の歩み」の発行、核兵器禁止条約の署名・批准を求める活動の強化、10月に開催される「核被害者フォーラム」への支援、被爆者援護法への国家補償を明記させるための取り組みの強化などが柱となっています。

参加者からの意見は、「ホームページ、SNSを活用して、さまざまな活動を事前に周知して欲しい」「被爆者援護法への国家補償の明記はどんな意味を持つのか」などが出されました。これらに対し、「さまざまな行動計画については、ホームページだけでなく、メールによる発信によって個人会員を含めて周知できるように改善する」「援護法への国家補償の明記については、なぜ必要なのか、どんな意味を持つのかを改めて学習するため場を持つこと」が事務局から提案され、承認されました。

「被爆者援護法への国家補償の明記」は、ノーベル平和賞授賞式での田中煕巳代表委員が、受賞演説の中で特に強調されたことであり、関心が深まっていますので、出来るだけ早い時期に学習会を開催したいと思います。

そうした質疑の後、全員の拍手で、提案した議案全てが承認されました。

最後に自治労副委員長の檪原研介さんが、総会宣言を提案し拍手で確認されました。総会宣言の一部を紹介します。

私たち原水禁の運動は、核兵器の廃絶に留まらず「核と人類は共存できない」と原発を始めとした「核の商業利用」にも反対してきた。そしてウラン採掘から始まる核社会の中で被曝させられた核実験をはじめとする、すべての核被害者の救済を求めてきた。これ以上の核被害者を作らせないためにも核兵器廃絶への取り組み、脱原発への取り組みもいっそう強め非核社会を作らなければならない。

 被爆者は高齢化し、被爆体験を直接聞くことが困難になる中で、若い世代への運動の継承が求められている。高校生や大学生を始め、核兵器や原発の存在に疑問を持ち、活動を主体的に行おうとする若者も生まれている。そうした中心に「高校生平和大使」「一万人署名行動」を行う高校生がいる。こうした若者たちと原水禁運動を中心的に支えてきた労働運動や市民運動がいっそう手を携え、被爆者が「二度と自分たちと同じ思いを他の誰にもさせるわけにはいかない」と語ってきた原点に学び、「核も戦争もない社会の実現」へと歩んでいく1年にしていくことを改めて決意し総会宣言とする。

貴田議長が解任され、総会は無事終了しました。貴田さん、ご苦労様でした。

いのちとうとし

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2025年1月29日 (水)

ノーベル平和賞授賞式報告会と府中のネバダデー座り込み

ノーベル平和賞受賞報告会

広島県原水禁は、毎年1月27日には、昼のネバダデー座り込みに続き、夜は「広島県原水禁総会」を開催しています。

今年は、総会に先立ち昨年12月にノルウェーのオスロで行われた日本被団協のノーベル平和賞授賞式に参加した二人(県原水禁常任理事箕牧智之県被団協理事長と第27代高校生平和大使甲斐なつきさん)による「ノーベル平和賞受賞報告会」を行いました。

箕牧さんからは、ノーベル平和賞受賞決定のニュースが届いた時の思い、その日以来報道関係の取材が相次いだこと、さらに国王夫妻などの出席の下で行われたオスロでの授賞式に、これまでの運動の歴史を作ってきた被爆者たちの思いも胸に登壇したこと、ストーレ首相との会談などの関連行事の様子を紹介するとともに、被爆者の高齢を心配したスカンジナビア航空が、帰路はビジネスクラスの席を準備してくれたエピソードなどが、報告されました。

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甲斐なつきさんは、オスロ滞在中の4日間の精力的な活動の様子を報告しました。4日間の行動は次の通りです。

1日目:高校訪問、労働組合訪問、被爆者証言会参加

2日目:ノーベル平和賞授賞式参列、日本大使館主催レセプション参加、たいまつ行列、晩餐会

3日目:Youth Dialogue with Hibakusha(被爆者と若者の対話)、Red Cross Youth訪問、オスロ国際平和研究所訪問、オスロ大学での交流

出発日:ノーベル平和センター見学

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甲斐さんは、その行動を通して「私たち高校生が、原爆を過去のことじゃなくて、いまにも続くことというのを伝えていかなければならない」と思ったことや、曾祖父と曾祖母の被爆体験を聞いて「家族の被爆証言を引き継いでくれてありがとう」と涙を流す人もいたこと、「私たちの力は小さいけれど、一緒になることで、平和に向けての大きな力になりうる」ことを学んだことなどを報告しました。

二人の報告の後、私が「日本被団協ノーベル平和賞受賞の意義と課題」をテーマに30分の講演を行いました。

私は、「①ノーベル平和賞受賞のニュースを聞いた時の率直な感想②ノーベル委員会のノーベル平和賞受賞理由を聞いて納得③核兵器廃絶の原点が被爆の実相のあることを再確認④被爆体験の継承と私たちの課題⑤田中代表委員の授賞式のあいさつ」の五つをテーマに問題提起をしました。

1時間の「ノーベル平和賞受賞報告会」を終え、総会に移りましたが、その様子は明日報告します。

いのちとうとし

府中地区の1・27ネバダデー

雨が降ってきたので府中市役所玄関前へ変更したネバダデー

 1・27ネバダデーを行いました。小降りとはいえ雨なのでゴザの上で傘をさして座るわけにはいかず、急遽、ひさしがある市役所玄関前に場所かえ、スタンディングを行いました。
 最近は参加者が20人を超えることが多くありがたいことです。青年部や女性部、現評の役員など府中市職労からの参加が多いためです。

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20分間スタンディングを行った後、県原水禁常任理事の水田豊議員から「核兵器禁止条約の締約国会議へのオブザーバー参加を見送った石破首相に対しきびしい世論があったことから、自民党の国会議員を派遣することになったと報道されています。私たちの目的は核兵器禁止条約の署名・批准ですから署名・批准に向けて一層頑張りましょう」とあいさつされました。

大勢の参加にほんと感謝するばかり、もっともっと(私が)参加者の青年部や女性部、現評の役員さんにお礼を言うべきでした。

小川敏男

【編集者】小川さんから昨朝、府中の1.27ネバダデー行動の報告が届きましたので、一日遅れですが今日掲載しました。

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2025年1月28日 (火)

1. 27ネバダデー座込み

広島県原水禁は、1951年アメリカが初めてネバダ核実験場で核実験を行ってから74年目となる1月27日、平和公園原爆慰霊碑前で1984年から毎年実施している「ネバダデー国際共同行動」の座り込みを行いました。

この行動は、原水禁が核被害者との連帯を強めるため協力し、原水禁大会にも参加していたアメリカ・ユタ州シーダー市のネバダ核実験場の風下住民で組織された「シティズンズ・コール」(ジャネット・ゴードン会長)の呼びかけに応えて始まった行動です。

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座込みの経緯、意義などは、当日採択されたアピールに記載していますので、その全文を掲載します。


「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

 今日1月27日は、1984年、米国の市民団体の呼びかけで始まった核実験場閉鎖・核実験禁止を求めるネバダ・デー国際共同行動日です。

 ネバダ核実験場では、74年前の1月27日に最初の核実験が行われて以来、地上での核実験を86回実施し、その後の地下核実験を含めると爆発を伴う核実験は935回に達したとされます。この核実験によって、風下住民を始め、全米各地で多くの核被害者を生み出しました。包括的核実験禁止条約(CTBT)が成立した1996年以降も、臨界前核実験を強行しています。

核兵器の廃絶を求めて2017年に国連で採択された核兵器禁止条約は、第1条で「核兵器の開発、実験」を禁止しています。核実験場は、閉鎖されなければなりません。私たちは、新たな核兵器開発につながる全ての核実験場の廃止を強く求めます。そして核実験実施国は、同条約の第6条に明記された「核実験被害者に対する補償」を速やかに実施すべきです。ネバダ・デーを呼びかけた人々が、核実験被害者であったことを忘れてはなりません。

発効して4周年を迎えた核兵器禁止条約の署名国・批准国は増加を続け、昨年9月24日時点で、条約への署名は94か国・地域、批准も73か国・地域へと拡大を続けています。ところが、唯一の戦争被爆国でありながら核抑止力に依存し、条約に背を向け続けているのが日本政府です。世界が核兵器廃絶へと動きだしている今こそ、日本がその先頭に立ち核兵器禁止条約に署名・批准し、国際的なリーダーシップを発揮することを強く求めます。

2022年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって多くのいのちが奪われ、一昨年10月にはハマスのイスラエルへの攻撃に端を発したイスラエルのガザへの大量虐殺とも言える無差別軍事攻撃でおびただしい犠牲者が生み出されています。また核兵器の威嚇・使用発言も繰り返されています。子どもを始め多くのいのちを奪い、「核兵器の使用」につながる全ての軍事行動を直ちに停止することを強く求めます。

「核と人類は共存できない」。核兵器の廃絶なくして、核の脅威から逃れることはできません。

「核も戦争もない平和な世界の実現」を求め、私たちは全世界に訴えます。

◆ネバダを始めすべての核実験場を閉鎖させよう!

◆すべての国と地域は直ちに核兵器禁止条約に参加し、核兵器開発・核実験全面禁止を実現しよう!

◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

◆原発の再稼働、新増設をやめ、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

◆すべての戦争当事国は即刻停戦し、和平への一歩を踏み出そう!

◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ヒバクシャ! ノーモア ウォー!


参加者は、広島県被団協箕牧智之理事長など60人でした。

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2025年1月27日 (月)

被爆80年・日本被団協ノーベル平和賞受賞記念イベント

広島被爆者7団体と記念イベント実行委員会が主催し、公益財団法人広島平和文化センターが共催する「被爆80年・日本被団協ノーベル平和賞受賞記念イベント」が、26日午後1時から平和記念資料館地下メモリアルホールで開催されました。

第一部は、オスロで行われたノーベル平和賞受賞式に参加した日本被団協代表委員で広島県被団協理事長でもある箕牧智之さんや第27代高校生平和大使甲斐なつきさんなど5人が登壇し、参加報告を行いました。

ノーベル平和賞授賞式の様子、被爆樹木の種の贈呈、ノルウェーの高校生との交流、たいまつ行進など、ニュースでも報道された様子が、それぞれの思いとともに紹介されました。

広島被団連事務局長で日本被団協代表委員の田中聰司さんは、入院中のため欠席でしたので、「森滝先生や藤居さんなど被団協結成に深く関わられた人たちの写真を手に参加しました」というメッセージが紹介されました。

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第二部は、「ノーベル平和賞受賞をどう受け止めたか」のタイトルで、11の団体から代表が、意見を表明しました。

この中で印象に残った発言は、韓国原爆被害者対策特別委員会の権俊五委員長、広島県朝鮮人被爆者協議会金鎮湖会長から、「授賞式での田中代表委員のあいさつは、評価できるが朝鮮半島出身者が多く被爆していることにきちんと触れられなかったのが残念だ」との意見が表明され、さらに金鎮湖会長は「アメリカの原爆投下責任について全く触れられなかった」ことが指摘されたことです。

私も二つの意見の同感です。私は、田中代表委員のあいさつでの中で言って欲しこととして、授賞式以前にある会合で「原爆の被害者は日本人だけでなかったこと。核兵器使用の危機が深まっていること。世界には広島、長崎以外にも多くのヒバクシャがいることを入れて欲しい」と話したことがありますので、二人の意見に同感です。そして「アメリカの原爆投下責任というかアメリカが原爆を投下したことに全く触れられなかったこと」については、このブログでも書きましたので、その通りの思いでした。

私も広島県原水禁を代表した発言する機会がありましたので、この「アメリカの原爆投下責任について触れられなかった」問題」については、触れようと思っていましたので、金鎮湖会長の意見には大きな拍手を送りたい気持ちでした。

私は、日本被団協がノーベル平和賞決定のニュースを見た時、「本当によかったと喜ぶ同時に被団協活動の先頭に立ってこられた先人を思い出したこと。今日の核兵器威嚇・使用の危機が迫る国際情勢に対し、それを止めるために被爆者の力を借りたいとの思いで受賞が決まったこと、そしてこの受賞によって、ますます被爆者や日本の原水禁運動の責任が重くなった」と感じたことを話した後、1955年の第1回原水禁世界大会宣言の中の「原水爆被害者の不幸は実相は、ひろく世界に知られなければなりません。その救済は世界的な救済運動を通じて急がなければなりません。それがほんとうの原水爆禁止運動の基礎であります。原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことができます。」の部分を紹介し、「一人でも多くの被爆者のいのちがあるうちに、核兵器廃絶を実現させるのは、私たち原水禁運動の約束・責任だ」と決意を述べました。

この記念イベントには、約230名(私の推測)の参加がありました。

いのちとうとし

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2025年1月26日 (日)

赤貝のに付け

全国都道府県対抗男子駅伝が行われる1月の第3日曜日とその前日の土曜日の二日間、毎年「島根ふるさとフェアー」が開催されます。

今年は、ゲートパークとハノーバー庭園を会場に島根の全自治体が参加し,観光情報や特産品が並べられ、18日、19日の二日間開催されました。例年主会場となる県立体育館は修繕工事のため今年は、使用できなかったようです。

いつからこのフェアーが始まったのかはわかりませんが、ここ十数年は、私も毎年出かけることにしています。

屋外だけの開催ですので、天気が心配されましたが、二日間とも好天に恵まれ会場に着くと、今年も多くの人で賑わっていました。ブースによっては、長蛇の列ができています。

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毎年私の目当ては、二つです。一つは赤貝、もう一つは、宍道湖のシジミです。

初日には、午後2時頃会場に着きましたので、二つとも売り切れていました。翌日は、入荷すると言うことでしたので、二日目の19日にも会場に足を運びました。今度は午前中に会場を訪れましたので、目的の品を入手することができました。

宍道湖のシジミは、広島の人にもなじみがありますが、赤貝(島根ではずっとそう読んでいるのですが、広島に来てから初めて知ったのですが、正式名は「サルボウ貝」というようです)は、ほとんどと言うよりほぼ全くと言ってよいほどなじみのない貝です。

しかし、島根では、正月のおせち料理には欠かせない食材となっています。安い食材でしたので、わが家でも大鍋で煮られて正月の食卓を賑わしました。

以前には、複数のブースで売られていましたが、今年は1ブースのみになっていました。

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赤貝は、かつては、島根県と鳥取県の県境にある中海で漁獲されていましたが、現在ではほぼ漁獲できなくなっており、岡山県児島湾や有明海産が流通しているようです。しかし、この両地でも、年々漁獲量が減っていると言うことでした。

赤貝の食べ方ですが、このままでは、貝に泥が付いていますので、ネットに入れてしっかりともみ洗いし、泥や付いているゴミを落とした後、調理します。調理といっても鍋に醤油や酒、砂糖を入れた調味料と少量の水を入れて煮込み、煮え立ったら貝をそのまま入れて口が開くのを待つだけです。数分でできあがります。

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早速夕食に食卓にのぼりました。正月には食べることができませんでしたので、やはり懐かしい味です。

最近、中海で資源復活のため、漁業者による飼育試験が行われているようですので、なんとか成功し、入手がもう少し簡単になればと期待しています。

宍道湖のシジミは、シジミ漁師が持参した「砂抜き」されたLサイズのものを2kg購入しました。

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こちらは、毎日の味噌汁です。

2kgも買ってどうするのかと思われるかも知れませんが、冷凍保存すれば、3ヶ月は美味しくいただけます。冷蔵保存より冷凍保存のほうが、グルタミン酸・アラニン・オルニチンなどの旨み成分がより増加しますので、更に美味しく食べることが出来るといわれています。

私が昔肝炎になった時、出雲にいる姉が、「肝臓によいから」と言って,大量に送ってくれたことがあり、その時冷凍保存して食べることを知りました。それ以来松江に行った時に大量に購入し、冷凍保存して食べています。

しばらくふるさとの味が堪能できそうです。

いのちとうとし

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2025年1月25日 (土)

島根原発をめぐる今年の動きを予想する

1月10日、島根原発2号機が営業運転に移行し、2025年はどういう動きが起こるだろうかを予想していました。

2号機は運転開始から35年を超えた原発です。中国電力はまだ黙っていますが、40年超え運転に向けての表明を行うだろうと考えています。まあーまだ営業運転を開始したばかりですから、来年3月頃に実施される予定の定期点検まで、問題無く運転が続くかがポイントになるでしょう。それまでに事故や不祥事が起これば足止めになるでしょう。

それと、原子力規制委員会の3号機運転開始に向けての審査が進んでいくことも予想されます。これまで中国電力は、とりあえず2号機を再稼働させることを目標にしていましたから、繰り返しになりますが2号機が定期点検まで問題なく動くことです。

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手前の左側が島根原発2号機 奥が3号機(読売新聞より)

その他の課題について、思いつくことを箇条書きにしてみました。

(1)2号機のプルサーマル問題。

(2)能登半島地震で明らかになった活断層の連動問題に対する「安全対策」。

(3)政府も採用するとしている避難計画に対する国際基準を、実効性のある内容にするために、自治体がどう措置するか。

(4)中国電力が自治体職員への人件費負担をすることへの、自治体間の亀裂。

(5)能登半島地震を踏まえて、安全対策基準が変更されるか。

(6)上関町での中間貯蔵施設建設問題。

11月25日付けのブログにも少し書かせていただきましたが、⑶の避難計画の国際基準が明らかにされたことが大きな議論にさせたいものです。政府もこの基準を受け入れる方針を決め、年度内に指針の改定を行う方針を明らかにしました。

この基準は「スフィア基準」と呼ばれますが、正式には「人道憲章と人道支援における最低基準」と言われます。国際赤十字などが1998年にまとめました。給水・衛生、食料、避難所、保健医療の4分野にわたり、最低限の基準やその目的、効果を記載しています。国の現行の避難所運営指針は「避難所の質の向上を考えるとき、参考にすべき国際基準」と扱われています。

例えばトイレの場合、災害発生当初は「50人に一つ」ですが、災害発生の中期になれば「20人に一つ」とし、女性用を男性用の3倍にするとし、一人あたりの居住専有面積も3,5平方㍍(2畳程度)としています。その他、食事の質や、生活用水の確保についてもガイドラインを改定しています。

昨年12月13日、内閣府防災担当は「自治体向けの避難所に関する取組指針・ガイドラインの改定について」を示しました。この基準を採用するキッカケは、なんといっても昨年1月の能登半島地震です。

スフィア基準を受け入れることになれば、これまでの原発事故における避難計画も、根底から直さなければならないことになります。専有面積が大きくなれば当然ですが、一つの避難所に収容される人数は減りますし、トイレの整備もたいへんな作業となります。

これらの施策の責任は、自治体が担うことになります。たぶん、内閣府から島根県など原発立地の自治体におろされ、その後に広域避難者を受け入れる県に、中国電力の場合は広島、鳥取、岡山にわたり、その後に各市町村が指示されると思います。

年度末に向けて、原発事故避難者を受け入れる自治体は、たいへんな作業が実施されているものと思います。そのたいへんさが、先日ある自治体から伝わってきました。

木原省治

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2025年1月24日 (金)

「核兵器禁止条約」発効4周年キャンドルメッセージ

「核兵器禁止条約」が発効してから4周年目となる22日夕方、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)が呼びかけて、1500本のキャンドルで核廃絶を世界に訴えるキャンドルメッセージが行われました。

今年は、10月に開催される「核被害者フォーラム」のプレ企画としての意味を持っていますので、描かれる文字は「核と人類は共存できない」の英語文「NUCLEAR  &  HUMANITY  CANT’T  COEXIST !」です。

午後4時半から、田室さんが準備した作業用道具をもとに準備が始まりました。

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予定通り午後5時半には、キャンドクルで形取られた文字が完成しました。

キャンドルを入れたガラス瓶が壊れないように気をつけながら点火です。

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全てのキャンドルが点灯するときれいな文字が浮かび上がります。NHK広島局が中継し、さらに全国ニュースで放映しましたので、全国に届いたと思います。世界にもYouTubeを通して発信されました。

完成した文字を前に、今年初めての参加ですが、三線による演奏が行われました。

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三線の演奏が終わると参加者全員で記念撮影します。

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続いてアピール行動です。最初の主催者代表の森滝春子さんが、趣旨を説明。

・核がある限りヒバクシャは増え続け、核戦争の危機をもたらす!核時代に終焉を!

・中東・東欧の戦火拡大の危機を止めよう!民衆の命の灯を消させない!

・日本政府は、核兵器禁止条約に早急に参加せよ!

続いて、参加者からのメッセージです。今年は両被団協から熊田哲治事務局長、佐久間邦彦理事長、ガザ救済を訴えている「広島パレスチナともしび連帯共同体」の田浪亜央江さん、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の石口俊一さんがアピールしました。

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アピールする広島県被団協熊田事務局長

最後に、以下の内容の声明文が読み上げられ全体の拍手で確認しました。

*人類の英知で発効した核兵器禁止条約が4年目の記念日を迎えた。

3月には第3回締約国会議を迎えるが、核被害者の対象拡大など多くの課題がある。

*今日の状況は、ウクライナ戦争は3年経てなお泥沼化し、イスラエル・ネタニヤ政権はパレスチナ自治区・ガザへのジェノサイド攻撃に加え、レバノン、イラン、シリアなど中東に戦火を拡げ、領土拡大の野望をあらにしている。その間、毎日子どもや女性をはじめとする多くの無辜の民の命が奪われ傷つけられている。

*ロシアもイスラエルも核を持ち、使用の威嚇をしており、今や人類を核戦争の危機にさらしている。中東の戦火拡大をはじめとする世界戦争の火種を消し止めなくて はならない。

*現実化する世界核戦争の危機にあって、2024ノーベル平和賞は日本被団協に光を当てた。未曽有の非人間的極致の無差別大量虐殺の汚点を人類の歴史に刻んだアメリカの原爆投下による辛酸を舐めながらも、生き残ったヒバクシャは無念の死者たちを背負って立ち向かい闘ってきた。ノーベル平和賞は、築き上げてきた核のタブーが根幹から揺さぶられている現況に楔を打ち込もうと世界に呼びかけるものであった。

*私たちは、終わりを見せない世界の核被害者の苦しみと拡大に立ち向かうため、2025年10月に「核の無い未来を!世界核被害者フォーラム」をヒロシマの地で開催するにあたり、核権力と戦う世界の民衆に連帯を呼び掛ける。

午後6時半に、参加者全員が「核兵器廃絶への決意」を新たにし、キャンドルメッセージによるアピール行動は、終了しました。

いのちとうとし

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2025年1月23日 (木)

2025年1月のブルーベリー農園その3

安芸区の自宅から通いながら東広島市豊栄町のブルーベリー農園で行う農作業はブルーベリーがほぼ落葉したので晩生の剪定と里山ブルーベリー園の周辺の灌木の伐採と枝の野焼きが中心になる。同じ作業を続けると体に負担がかかるので学校の時間割のように一日の作業の種類を変えている。20日は大寒なのに農園の日中の気温は10度を超えていておだやかな日だった

115日(水) ブルーベリーの剪定は3段ある畑の一番上から始めることにした

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1月17日(金) この畑では昨年剪定のできなかった列があって枝が伸びに伸びている。その環境を気に入ったのか鳥の巣(左上)が作られた1本の木は切らずに残しておいてが今回ばっさりと切る

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太い枝は新梢が出にくいので地際2~30センチの高さで切っていく

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併せて地べた数センチに伸びている根も切っていく。黒い枝が根の部分(118日)

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119日(日) 雪もすっかり解けて剪定した枝も乾いているので野焼きをする。火事は怖いがたなびく煙は人の息遣いが感じられる

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119日(日) ちちちちーという声がしたので庭のクロガネモチの木を見あげると10羽くらいの野鳥がせわしなく枝から枝にとまりながら枝を突っついている。すぐさまズボンからカメラを出して撮影した。映像をネットで調べると野鳥の名前は「エナガ」と判明。ブルーベリーの中を集団で動き回るのを毎年見ているが写真にしたのは初めて。頭のセンターに白い筋が入っているのがエナガの特徴で、動きが素早いので

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ひたすらシャッタを押してどうにか撮影できた

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120日(月) この日もいい天気で気温も10度くらいなので作業するのに靴の中に入れるカイロも不要だった

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剪定の枝が大分たまった

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剪定作業の次に場所を変えて、里山の周囲の灌木のクロガネモチ(実がつかないので雄の株らしい)を伐採した。このあと枝をはらい、根元から1m位の長さに切り分けても運んだが重かった

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年1月22日 (水)

安保法制に反対する府中市民の会の1月の「19日行動」

今年もよろしくお願いいたします。さて、今日はいつもとは違い府中から初めて、上下で終りました。午後3時から府中天満屋店前、参加者11人、午後4時30分から上下Aコープ前、9人でした。

いつものようにリレートークとスタンディングを行いました。府中天満屋店前では阪神淡路大震災を経験されたAさんから、ぜひ話をさせてほしとマイクを持って次のように話されました。

Aさん  「30年前に神戸の灘区で震災に合い現在府中市に住んでいますが、その時の経験は筆舌に尽くしがたいことです。昨年1月1日に起きた能登半島地震、227人の方が亡くなられました。災害関連死者数は235人と直接死者数を上回り、東日本大震災以降最大の462人の死者数となっています。関連死者数が多いのは避難場所でのトイレなどの設備が悪い結果だそうです。阪神淡路大震災から30年、東日本大震災から14年、震災の教訓がまったく生かされていません。残念というより怒りで腹が立ってしょうがありません。地震に備えて避難することになる全国すべての体育館、公民館、集会所に男女別々の洋式の水洗トイレを国の予算でつくるべきです。1月13日にも宮崎県日向灘で地震が起きました。南海トラフともそろそろだと言われています。ばかげた中国との戦争準備のために国のお金を使うより、まぢかの地震に備えて国のお金を使うべきだと思います。

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Bさん  「フジテレビが前代未聞の窮地に立たされています。2023年6月に中居正広が起こした女性トラブルにフジテレビの社員が関与していたと、昨年12月に「週刊文春」に報じられたフジテレビ。これに対して港社長が17日に記者会見を行いました。なんと参加できたのは、「ラジオ・テレビ記者会」加盟社とNHKと東京のテレビ局の記者という身内のみ。さらに、放送局の会見でありながら、動画撮影も禁じるという閉鎖的な形式で行われたのです。翌日の18日、明治安田生命、日本生命、トヨタ自動車、NTT東日本がフジテレビのスポンサーから撤退すると発表しました。トヨタ自動車など日本の大企業がなぜフジテレビから撤退を決めたのかフジテレビ自身がわかっていないのだと思います。自分の会社の女性アナンサーをスポンサーや芸能人との酒を飲む場に連れ出し接待させる。それも職務命令として行ったことはセクハラであり、恫喝のパワハラです。こうした企業体質は許されるべきものではありません。そして、他のテレビ局も週刊誌が報道する以前に知っておきながら一切報道しませんでした。こうしたマスコミの姿勢こそが戦争準備を進めている自民党に何も言えない姿勢と相通じるものがあると思います。マスコミの使命は権力監視です。今回の中居正広問題のマスコミ対応に私たちは抗議していかなくてはなりません。」

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Cさん  「24日から国会がはじまります。この国会では新年度の予算が決められます。大事なことはこの予算でどんな国をつくろうとしているかです。作家、帚木蓬生さんの「花散る里の病棟」という本の中で、アメリカ人の医師が「アメリカでは、成人の2割強が医療保険に入っていない。去年の統計でも保険がないため1年に4万5000人が死亡したと算出された。日本は国民全部が、国が管理する保険に入っているんだろう?」と日本人医師に質問し、「原則として3割しか支払わなくてもいい。費用のかかる治療には、高額療養費制度や特定疾病療養制度があって、個人負担の上限が決められている。」と答えます。さらにアメリカ人医師は「キューバという国は貧乏な国だと軽蔑されているが、医療費は全国民無料だ。キューバの最大の輸出産業は医療。医者や看護師が南米の各国に出向いていき、給料の大半を母国に送っている。国民一人残らず医療の恩恵を受けられる。それも進んだ医療を。貧乏だけどそんな国と、アメリカとどちらが未来の国だと思う。」と言います。日本の国民皆保険制度をアメリカの医者からうらやましいと言われています。しかし新年度予算では高額医療費の上限が引き上げられ個人の負担が増えようとしています。戦争のできる国を目指して防衛費を増やすより、キューバのような誰でもが進んだ医療を受けられ、医療費は無料な国を日本は目指すべきです。そうした将来像を描くべきです。だからこそ戦争法と言われている安保法制に反対していきましょう。」

今日は代表の石岡真由海さんがインフルエンザのため参加できず、1月23日の「祝島島民の会」の裁判を応援するバスツアーと、1月27日のネバダデーの案内もありませんでした。この会も代表の石岡真由海さんがいないとまったくしまらない。今年は前途多難だぁ。

                              小川敏男

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2025年1月21日 (火)

第51回在日朝鮮学生美術展

今日(21日)から24日までの会期で「第51回在日朝鮮学生美術展」が、旧日銀広島支店で開催されます。

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在日朝鮮学生美術展実行委員会が主催し、全国を巡回して開催される展覧会です。昨年9月4日の神戸展をスタートに,広島展までに8会場で実施され、この後山陰展など3会場での開催が予定されています。

毎年朝鮮学園の生徒達による作品が、並びます。今年は50周年という節目の年でもあります。

昨日、午前10時から作品の展示作業が行われ、日朝友好県民の会からも応援の呼びかけがあり、私も午前中だけですが、参加しました。

作業は、大きな木箱に収められた作品を運び込み、箱から出す作業から始まりました。

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額装された作品だけではありません。紙に描かれた作品は、何枚かをつなぎ合わせて一組にする作業もあります。

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つなぎ合わせた作品は、二階の回廊から吊り下げることになります。

大きな作品は、何枚かに分割されていますので、裏側に板切れを取り付け、完成させます。

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沢山の作品が届いていますので、展示作業には時間がかかります。

私が協力できたのは、正午過ぎまででしたので、取り付けが完了し、全作品が並んだ会場風景をお伝えすることができませんが、梱包から出てきた作品は、本当に力作揃いでした。

今日改めて展示が完了した会場を訪れる予定です。

朝鮮学園にまなぶ子どもたちの感性豊かな作品に触れ,朝鮮学園への理解を深めて欲しいと強く感じますので、ぜひ一人でも多く会場に足を運んでいただけると嬉しいなと思います。

いのちとうとし

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2025年1月20日 (月)

ベトナムの歴史(その36) ― ベトナム Now Ⅸ―

国民の4人に一人を虐殺したポル・ポト

ベトナムとカンボジアが仏領インドシナとして共に抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦い、その後アメリカを後ろ盾とするカンボジアのロン・ノル政権との戦いとベトナム戦争(抗米救国戦争)で連携し、共に1975年4月に勝利しました。

その直後から、稲作を主体とする農村共同体(原始共産制)を目指すポル・ポトは、都市住民を「社会の阻害者」、教師や公務員などのインテリや僧侶を「反革命分子」として弾圧し、政権が崩壊する1979年1月までに国民の4人に一人、200万人を虐殺しました。

私は1991年に初めてカンボジアとベトナムを訪問しました。19791月、ベトナムの支援でポル・ポト政権を倒したヘン・サムリンがカンボジア人民共和国政府を成立させ、ヘン・サムリン新政権とポル・ポト派、旧ロン・ノル派を継いだソン・サン派、シアヌーク派の三派連合との間で内戦が続きます。その内戦の停戦協定が成立した直後で、治安上と地雷などの安全上から訪問地は首都プノンペンだけでした。

「両親と兄弟姉妹をポル・ポトに殺され、親族で唯一人生き残った」27歳の青年(外務省職員)の案内で、ポル・ポトによる大虐殺の現場を訪ねた記憶は今も鮮明です。案内してくれた青年の名前は思い出せないので、文中ではKさんとして進めます。

想像を絶するキリングフィールド

政治犯が囚われていたツールスレン中学校跡(現在の虐殺博物館)の教室には膨大な犠牲者の写真が貼られ、薄暗く仕切られた拷問部屋には足枷や爪を剥がすヤットコ、水責に使った桶などの拷問道具が残されていました。この政治犯収容所には14,000人が囚われ、ポル・ポト政権崩壊時に生き残っていた人は僅か7名ということでした。

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(撲殺による虐殺、ツールスレン博物館)

何よりも背筋が凍りついたのは、Killing Field(キリングフィールド)と呼ばれる処刑場でした。「銃弾がもったいない」と、もっぱら丸太や鉄棒で撲殺、斧や鎌などで殺戮が繰り広げられたとのことでした。「この木も殺戮に使われた」と説明された木の高さ1メートル辺りにあった陥没が忘れられません。赤ちゃんや幼児の足を持って、頭を木に打ち付け殺戮したKilling Tree(キリングツリー)です。ポル・ポト政権崩壊当時には何に使われた木なのか分からなかったそうですが、「木に残された髪の毛や血痕と近くの穴に捨てられた多くの赤ちゃんの遺体からキリングツリーと分かった」とのことでした。

自国民4人に一人を殺戮するという世界が震撼する大虐殺がなぜ起きたのか。様々に分析・研究され、書物が書かれ、メディアでも報道されています。「なぜ起きたのか」と同時に、大虐殺システムはどのように作られ機能したのかも気になります。

「内部の敵」密告者、旧社会の破壊者にされた子どもたち

その一つが、中央から地方までポル・ポト政権が完全に支配し、疑問を持ったり反対する者を「内部の敵」として摘発する密偵(チュロープ)をすべての集落に配置した作り上げた監視網と密告体制です。監視者自身もが監視・密告・粛正される恐怖の構造です。

34年前初めてプノンペンを訪れたとき、長い線香や花束を手にした数人の子どもたちから「買ってくれ」と声をかけられました。思わず買おうとすると、Kさんに「買わないで欲しい。彼らにはきちんと教育を受けさせ、国の再建を担って貰わなければならない。あなた方が線香を買ってくれても、それは一時的なもので子どもたちのためにならない」と諭されました。線香を買うという「善意」が、「本当に子どもたちを助ける」ことにつながるのか考えさせられたものです。

Kさんはあちこちに倒れている頭のない仏像を指して、「これもポル・ポト時代に子どもたちがやったことです」と言いました。信心深く僧侶や寺院への寄進で徳を積むカンボジアの人びとにとって寺院は、支えであり村社会の統合の中心でもありました。大人には寺院や仏像の破壊は到底出来ないことだったのです。

張りめぐらされ監視と密告網の一翼を担わされ、旧社会の破壊者として使われたのが、何の知識もなく旧来の価値観を持たない無垢な子どもたちだったのです。幼児の頃から子どもキャンプでポル・ポト政権のスローガンを叩き込まれ、「教師や僧侶は敵だ」と洗脳されました。

そして親たちの会話を盗み聞し、僧侶や旧政権の軍人や教師など前歴を偽っている大人を見つけ出し、ポル・ポト政権側の役人をも監視させ、旧い道徳や価値観、仏像や寺院の破壊者として使われたのです。ナチスに洗脳された少年・少女がユダヤ人狩りの密告システムに組み込まれ、ユダヤ人虐殺へとつながった「ヒトラー青年団」と重なります。ロシアによるウクライナ・ブチャ虐殺、イスラエルによるパレスティナ虐殺に重なります。そして、今も続いているウクライナやガザやレバノンでの殺戮に重なります。

虐殺 ~国民と社会の分断が基礎にした民主主義の究極的破壊~

ポル・ポトもヒトラーも支配構造の基礎に「国民と社会の分断」を置いていました。為政者の「政策に賛成か反対か」によって「こちら側の人間かどうか」を決め、「国益に沿う国か、そうではない国か」で「敵」「味方」に分け、敵は徹底して攻撃・排除する。「防衛のため」と称して「先制攻撃」まで準備し実行する。そこには多様性を認め合う真摯な対話も協調もなく、独断的な攻撃による排除がまかり通ります。その手段は真実にもとづくプロパガンダではなく、嘘とデマゴーグに満ちています。刷り込まれた認識は時として為政者の指示や命令がなくても、「自警団」的な行動を誘発します。このことは洋の東西を問わず、戦争と殺戮の歴史が物語っています。

ポル・ポトの大虐殺の根底に横たわるものが現在の社会に装いを変えて存在し、ツールや手段を進化させながら膨らんでいるのではないかと気になるのは私一人ではないと思います。

2月9日から34年ぶりにカンボジアを訪れる予定です。訪問記はまたの機会に報告させていただきます。

 次号では、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリンがポル・ポト政権を倒し、カンボジア人民共和国を成立させた1979年1月~1991年までのベトナム、カンボジアについてレポートします。

2025120日(あかたつ)

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2025年1月19日 (日)

「戦争ホウキと折り鶴」-旧日本銀行広島支店

旧日本銀行広島支店の前に掲示された「催しの開催案内」に「17日から19日 戦争ホウキと折り鶴」と書かれていましたので、17日の午後会場を訪れました。

以前私に「戦争ホウキ」を手渡してくれた山口誠治さんがやっているのだろうと会場に入ると山口さんの姿は見えませんでしたが、入り口右側にある第一応接室に旧知で現在は北海道に住んでいる墨アート作家の月下美紀さんの姿が見えました。

先ずは展示会場となっている一般事務室に足を運びました。入って右側に写真パネルが展示されています。

この写真は、アメリカ軍の従軍カメラマンとして戦後すぐに占領軍の一員として最初佐世保に上陸し,その後広島、長崎などを訪れたジョー・オダネルが写したものです。そういえば、「催し開催案内」には、サブタイトルとして「ジョ-・オダネル写真展示」と書いてありました。展示されている写真は、有名な「焼き場に立つ少年」など、25枚が展示されています。

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貴重な写真ですので、これを見るだけでも会場を訪れる価値があると思います。

この写真パネルの左側フロアーに月下さんの作品が、展示されています。

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白く見えるのは、紙に描かれています。手前から右にかけて黄土色の四角な作品が並んでいます。この作品には、短い足のようなものが付いており、手で回すことができるようになっています。後で月下さんに教えていただいたのですが、「禅ではないけれど、自分で自由に動かしながら、その流れの中から何かを感じて欲しいとの思いで作った作品」とのことでした。

一般事務室の展示を見終えて、第一応接室に行くと,外に出ていた山口誠治さんが帰っていました。

山口さんが座っている前には、私がもらったのと同じような袋詰めされ完成した「戦争ホウキ」があります。同じ箱の中には、袋詰めを待つホウキが沢山並んでいます。

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このホウキは、月下さんがかつて住んでいたことのある沖縄の知人が,作って送ってくれたそうです。その他にもホウキの原材料となるような植物が送られてきているようです。

私がこの部屋に入った時、月下さんが,少し前に来館した人からいただいたという折り鶴とそれを入れる箱を使ったモニュメントを作ろうと作業をしていました。

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この折り鶴と箱、折った時きちんと絵柄が出るように計算してデザインされたもののようです。

私が訪れたのは、初日17日の午後1時過ぎで,作業の途中でしたが、私が帰った後、そんなに時間をおかずに完成したと思いますので、今は完成して展示されていると思います。どんな形に作られているか楽しみですので、もう一度訪れようと思っています。

なお会期は3日間という短い会期ですので、今日19日午後5時までで終わります。

いのちとうとし

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2025年1月18日 (土)

「労働組合が建設した慰霊碑」余話

広島市の「原爆関係の慰霊碑などの概要」には、南区には、似島にある「似島慰霊碑」を含め25基の慰霊碑が掲載されています。何回も見直すのですが、その中に私が「原爆慰霊碑」だと思っていた碑の名前がありません。

その碑は、御幸橋の東詰東北角にある「猫田記念館体育館」の東側に建っています。

「猫田記念館体育館」のある一角を除いて、北側には現在はゆめタウン広島が建っていますが、ここには以前たばこ工場がありました。たばこ工場には、全専売という労働組合があり、ここにも「全専売被爆協」(後に名称を「全たばこ被爆協」に変更)という職域被爆者組織がありました。

ですので、この地の一角に建つこの碑も当然、原爆慰霊碑だと思っていたのですが、広島市の「原爆関係の慰霊碑などの概要」には、この碑が掲載されていないのです。

この碑のことが、なぜ掲載されていないのかに気になりましたので、現地に行って碑を見てきました。

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碑の後ろに建つのが「猫田記念体育館」

自然石で作られた碑には、「祈 平和 人類の平和のために」と刻まれているだけで、「被爆者」とか「慰霊」「追悼」などの文字は刻まれていません。被爆との関連を思わせる文字は,最下段に刻まれた「被爆三十六周年八月」だけです。裏側も見たのですが、何の文字も刻まれていません。「慰霊碑」とは私の勝手な思い込みだったようです。

帰宅後、「全たばこ被爆協」の一員で、私の選挙でも大変お世話になった先輩に電話で問い合わせました。

「あの碑は、『平和の碑』として建立したものだよ。『慰霊碑』と名前がついていないのは、幸いにしてといってよいのだが、たばこの工場では、原爆によった命のなくした人が、一名もいなかったので」との返答です。

さらに「誰が作ったのですか」と問うと「被爆協と労働組合がカンパを集め、たばこ工場の敷地内に建てるので、会社の協力も得て建立したよ」と教えていただきました。

この答えで、「この碑が、広島市の『原爆関係の慰霊碑などの概要』になぜ掲載されていないのか」という私の疑問も解決しました。

そして、原爆にかかわる「慰霊碑」ではないのですが、全たばこ被爆協の皆さんの強い思いによってこの「平和の碑」が建立されたことがわかりました。

この碑の前では、全専売組合員によって核実験抗議の座り込みが行われていましたので、忘れられない碑です。

ところで、「広島市の『原爆関係の慰霊碑などの概要』」を見ていたもう一つ気づいたことがあります。

登録された207基の碑の中で、一つだけ原水禁組織が建立した碑があったことです。建立者については、これまであまり深く考えていませんでした。しかし、今回のこと(労働組合による建立)があり、初めて気づくことになりました。

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森滝先生の米寿を祝うために発刊した「いのちとうとし」より

その碑は、佐伯区五日市にある光禅寺の参道に建つ「五日市町原爆死没者慰霊碑」で、被爆20周年の1965年5月23日に原水爆禁止五日市協議会が、町民の浄財を集めて建立しています。当時は、広島市に合併するはるか前ですので、五日市町は、独立した自治体でしたので、原水爆禁止五日市協議会が、原水禁の地域組織が作られ活動を展開していました。

この碑の碑文は、森滝市郎先生が揮毫されていますので、この碑については、別の機会に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2025年1月17日 (金)

労働組合が建設した慰霊碑

先日のTさんへの「職域被爆者組織の結成」について話す時、以前このブログで紹介した「国鉄原爆死没者慰霊碑」についても触れることにしました。その理由は、言うまでもないことですが、この碑が労働組合とその被爆者組織によって作られた碑だからです。建立に至る経緯などは、すでに紹介しましたので、ここでは省略します。

ところで、Tさんに話すための資料を作りながら、「唯一の労働組合が作った原爆慰霊碑」と書きそうになって「待てよ、まだ他にも労働組合が作った碑があったな」と思いだし、調べることにしました。

個別の資料を調べることはできませんので、広島市が作成している「原爆関係の慰霊碑などの概要」(原爆関係の慰霊碑等の概要 - 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市)を検索しました。

ここには、市内にある原爆関連の慰霊碑等207基の個別の概要(名称、建立年月日、場所、碑文、建立者、建立経緯など)が、区ごとにまとめられ掲載されています。

職域関係の碑が多数ある中で、私が確認した労働組合によって建立された慰霊碑は、見逃しがあるかも知れませんが、「国鉄原爆死没者慰霊碑」以外に3基あります。

平和公園内にはある碑は一つだけです。「全損保労働組合被爆20周年記念碑」(通称「全損保の碑」)で、平和記念資料館東館北側にあります。

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この碑は、その名のとおり被爆20周年の1965年8月6日に全日本損害保険労働組合によって建立されました。私の記憶では、建立時は、原爆資料館の南側の緑地帯にあったように思います。この碑は、1989年7月に右翼によって台座だけを残し石碑部分だけが持ち去られ、広島刑務所脇にあった空き地に放置されるという事件がありました。理由は碑文の「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」です。労働組合が建立した碑の碑文ですが、右翼にとっては、天皇制や資本主義を否定するものだったようです。

次に紹介するのは、平和公園内ではありませんが、元安橋右岸の東南の河岸に1988年8月5日に建立された「原爆犠牲建設労働者・職人之碑」です。

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この碑は、大工さんなど建設労働者・職人で作られている全国建設労働組合総連合会・広島建設労働組合によって建立されました。この碑の建立については、思い出すことがあります。広島建設労働組合の役員から「平和公園内に建設したいので協力して欲しい」と当時の社会党の議員団に協力要請があり、広島市と何度か協議しました。しかし、広島市は「平和公園内には新しい碑の建立は認められない」と,希望する平和公園内への建設は認められませんでした。結局、平和公園にできるだけ近い場所と言うことで現在の場所が指定され,今の建立場所が決まりました。

最後の三つ目は、広島市文化交流会館北西の本川河岸緑地に建つ「原爆犠牲新聞労働者の碑」です。この碑は、1985年8月5日に中国新聞労働組合が建立し、碑面には「不戦」の文字が刻まれていますので、「不戦の碑」とも言われています。以前にこの碑については、このブログで紹介していますので、今日はこれだけで終わります。

これで私が把握する労働組合が建立した碑の紹介は終わりですが、これを調べていて気になったことが出てきましたが、それについては明日報告します。

いのちとうとし

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2025年1月16日 (木)

三原地区の1月の「19日行動」

新しい年がスタートしました。2025年のキーワードは、「被爆・戦後80年」。平和で安心して暮らせる社会に…と願って、地域で粘り強く戦争をさせない運動を取り組んでいきます。

「戦争をさせない三原市民行動」年明け1回目の駅前行動は、1月11日(土)、午後1時30分から15名が参加して、平和といのちと人権を守ろう!と道行く市民に訴えました。

街頭行動の始めに、市民行動共同代表の森光さん(地区労働センター議長・広教組)がオスロでの日本被団協ノーベル平和賞受賞に触れながら、「政府や教委などによって学校現場から平和教育や平和教材などが追いやられてきた。今、少しずつだが心ある人たちの努力によって押し返す動きが出来てきている。高校生平和大使など若い人たちの『平和は自分たちで創っていくもの』という取り組みが大きな勇気を与えてくれている。私たちも頑張りたい」とあいさつを行いました。その後、4人の方がリレートークを行いました。

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政平市議は、「庶民が生活苦にあえぐ中で、軍事費だけが突出して増加する事態は許されない。平和とは、戦争が無いだけということではなく、全ての人の生活や人権が守られていることだ」。

寺田市議は、「ミサイル増備などを含めた8,400億円の補正予算が国会通過した。軍事費は累積で9兆円にもなろうとしている。一部野党も賛成に廻った。与党が過半数割れしている中で、もっと別な考え方は出来ないのか?市民の監視と行動が必要だ」とそれぞれ、現在の国会状況に対する危惧を訴えられました。

M町の岡崎さんからは「戦後、そして被爆80年という大きな節目の年だと思う。『憲法が現状にそぐわない』というレトリックで改憲を叫び、それが(なかなか)出来ないということで憲法解釈の変更や運用を捻じ曲げることが当たり前のように行われている。韓国大統領の非常事態宣言などを引用して、『こうした事態が起こるから日本でも非常事態法が必要だ?』などと、訳の分からない言動を平気で垂れ流す今の政治は恐ろしい。国家の武装を捨てても立派に周辺国と仲良くやっているコスタリカのように世界からも尊敬されている国もある。改めて平和憲法を持つ日本が、原点に立ち返る時期だ」と熱く訴えられた。

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H町の冨中さんは、「昨年を振り返ると、『政治とカネ』の問題で与党の自民・公明が過半数割れした。こうした中で成立した政治改革三法は、アドバルーンだけで中身はこれから…という中途半端なもの。これからも政治のあり様を国民が厳しくチェックしていかないと、皆が怒りを忘れたころに、再び安倍内閣のような一強政治をやりたいと云う石破首相の思惑が諸々の言動から読み取れる。通常国会のやり取り如何では7月衆参同日選挙も日程に上るかもしれない。粘り強く、そして大胆に声を上げ行動する1年にしよう」と結ばれ、1月の「19日行動」を終了しました。

藤本講治

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2025年1月15日 (水)

2025年1月のブルーベリー農園その2

5センチくらいの雪が東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも降った。日中の気温も0度近くまで下がった日もあって靴の中にホッカイロを入れてしもやけ防止、腰にもホッカイロを入れたりして農作業を続けている。安芸区の自宅から車で通うが幸い道路が雪で困ることはなかった。この状態で春を迎えたいが1月20日が大寒で節分までは油断できない。晩生のブルーベリーの剪定をすこしづつ始めている

ブルーベリー農園での農作業の日々に見える冬の景色

①1月8日(水) 5センチくらいの雪が降った田んぼ

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②空は青く柿の木に実はなく枝だけがどしん、とたっている

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③ ②の1時間後には雪

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④ ③の2時間後には里山のブルーベリー園に青空が雪の地べたに青白く映る

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⑤19日(木)田んぼの雪は日差しで輝く

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⑥112日(日)昼前の日差しの中、里山東側のブルーベリー園にも雪が残っている

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⑦112日(日)午後4時前の景色は、空は曇り寒々とした田んぼと里山と雪と枯れたセイタカアワダチソウやススキ

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112日(日) とんど焼きの時期なので大きな焚火の準備が行われている。午後は別の場所でとんど焼きに火が入ったのか灌木の伐採をしているところまで竹のはぜる音が聞こえてきたが煙は見えない

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農作業は2種類

①クリの木を地際から1mくらい上で切る

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②伐採が終わると畑の晩生のタイプのブルーベリーの剪定

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③里山の伐採からブルーベリー畑に移動する途中のエゴノキの枝にヤマガラが数羽とまっていた。時々地べたのエゴノキの実を食べにおりるものや、枝をくちばしでこんこんたたくものもいた

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理事長 遊川和良

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2025年1月14日 (火)

労働組合の被爆者組織について教えて下さい。

昨年秋、東京の大学生Tさんから「下畠順三さんの話を聞いた時、職域の被爆者組織の話を聞いたのですが、そのことを詳しく教えていただけませんか」と要望があり一度計画したのですが、当日台風の襲来で急きょ東京に帰郷することになりのびのびになり、昨日ようやく実現しました。

10時に平和公園内のレストハウスで会い、私の書棚にある資料を基に作ったレジュメとコピーをもとに以下のような話をしました。

職域の被爆者組織は、全部で10団体ありますが、今回取上げたのは、1966年6月に結成された「国労原爆被爆者対策協議会」と、1968年10月に結成された「全電通広島被爆者組合員連絡協議会」(略称「全電通広島被爆協」)と1969年3月に600名の被爆教職員によって結成された「広島県原爆被爆教職員の会」の三つです。

労働組合は、原水禁運動の発足の初期からその運動に積極的に参加してきたのですが、「イベント動員型」に終わっていたことの反省から、日常的な労働運動の課題の一つとして労働組合内に作られたのが,職域の被爆者組織です。

「国労原爆被爆者対策協議会」を取上げたのは、労働運動史上初めての被爆者組織として結成されたからです。

1965年の定期全国大会で被爆者問題の特別決議がされ、「被爆の後障害で仕事に出られない職員(特に貧血症で苦しむ)が何人かいることを見過ごしにできない」と発足し、その後実態調査を行い「被爆者に対する待遇改善の申入れ」を行ったことから、活動が開始しました。

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全電通広島被爆協は、私に原水禁運動、被爆者運動とは何かを教えていただいた近藤幸四郎さんが中心となって結成した組織です。全電通被爆協の結成では忘れられないことがあります。

当時全電通には、「夏期手当の差別問題」がありました。その差別によって異常に手当が低い人がおり、当局に問うと「上司にも黙ってよく休んでいる」との答え。近藤さんが、本人に会い事情を質すと「原爆に遭い、肉親を失い、彼女自身、肝臓の機能障害や無力症候群で広島原爆病院に入退院を繰り返していた。被爆者であることが職場に知られたら首になる」と考えていたことが分かりました。「最も身近な職場のことを置き去りにしてきた。この女性のような悩みを持っている被爆者はまだ他にもいるのでは無いか」と準備会を結成し、被爆者調査を実施し、組織結成へと繋がったのです。

1969年3月に結成された「広島県原爆被爆教師の会」の中心であった石田明さんは、当時のことを書籍「被爆教師」で次のように書いています。

「われわれは、全国の教師とともに,勤務評定に反対し、一斉学力テストに反対し、安保条約に反対して行動してきたし、原水爆禁止運動にも参加してきた。しかし、その一方で、教師の最も重要な課題である教育内容の取り組みでは、力が抜けていたのではないだろうか。その最大のものが平和教育だと思う。だから、おとなが原水爆禁止運動を進めている片方で、ヒロシマに無関心な子どもたちが育っていたのだと思う」「行動を起こすのがおそすぎたくらいだ。ばらばらに生きている被爆教師が早急に一堂に知恵と力を出し合おう」

当然「広島県原爆被爆教師の会」も他の労働組合被爆者組織と同じように労働条件の改善も目的に掲げていますが、この組織特有の目的「被爆体験をもとにその使命を自覚し、原爆を中心とした平和教育の確立をめざす」と言う目的を規約の第2条に掲げているのが特徴です。

今回のTさんへのレクチャーは、労働組合被爆者組織について、学び直すよい機会になりました。日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースの中には登場しない被爆者組織ですが、原水禁国民会議の運動にとっては重要な役割を果たしたのが、労働組合被爆者組織であったことを忘れてはならないと思います。

もう少し理解を深めたいとTさんは、その後、コピーし手渡した資料の原本を見るため、原爆資料館の情報資料室に足を運びました。

いのちとうとし

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2025年1月13日 (月)

2025新春討論会

毎年正月明けのこの時期に開催されてきた市民運動グループの新春討論会が、今年も12日の午後1時から、有志の呼びかけで開催されました。

毎年、その時々の政治情勢や運動課題などについて、何人かから問題的を受け、討論する形式で開催されてきました。私が、最初にこの新春討論会に参加したのは、2001年頃だったと記憶しています。その後、毎年というわけではありませんが、ほとんど毎回、正月明けの一つの行事として日程に入れ参加してきました。

今年は、少し趣向を変えて最初に、講師からの問題提起を受けることになりました。問題提起者は、「NPO法人ピースデボ」代表の湯浅一郎さんです。湯浅さんは、1975年から2009年まで旧通産省・中国工業技術試験所(呉市)に勤務しながら、芸南火電、松枯れ農薬空中散布、海洋開発など多くの公害反対運動に参画し、1989年には、ピースリンク広島・呉・岩国を結成し、その中心として活動してきました。

ピースデポの仕事で、上京されて以来、ゆっくりと話を聞く機会がなかったのですが,今回「資本主義の現在。21世紀、人類はどこへ向かうのか?」のタイトルで、「生物多様性」と「共通の安全保障」の二つのテーマで、それぞれ問題提起をいただき、討論を深めました。

余談ですが、湯浅さんがピースデポの専従として東京に行くことになった時、湯浅さんを支援する気持ちで、ピースデポの正会員に入会(年会費12000円)し、今も継続しています。

今回の参加者の中心は、戦争させない・9条壊すな!ヒロシマそうがかり行動実行委員会のメンバーですが、同実行委員会では、これまで環境問題についての論議を深めてきませんでしたので、この機会にこの問題への理解を深めようと今回このテーマが選ばれました。

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第1テーマの「生物多様性」では、「太陽系の一角に自分が生きている。過去の中に現在があり、現在の先に未来がある。自分は時間が経つとよくなると思っていたが、今は時間が経つと悪くなっていく。生物多様性の低下に対する危機感をもたなければならない。」と前置きし、瀬戸内海、辺野古、祝島の問題を例にしながら、政府の進める生物多様性国家戦略の問題点を提起し「閣議決定した第6次生物多様性国家戦略の推進を法的拘束力がないことを理由にこれまで通りの施策を強行するなら、未来への国家による犯罪が続くことになる。これを止め、変革を推進するのは市民の力しかない」と締めくくりました。

第2のテーマ「共通の安全保障」では、「日本は、憲法9条に依拠した外交政策を創り出す責務があるし、与野党逆転の中でチャンスはある。市民は、日米軍事一体化や日米韓をはじめとした多国間共同演習の日常化に反対していくことが重要だ」とし「軍事力が平和を担保するとの常識から、軍事力によらない安全保障体制の構築、脱軍備への道を拓くことが必須であり、状況を変えるのは民衆の意思と行動だ!」と締めくくり二つの講演が終わりました。

その後、参加者の意見交換が行われました。

午後5時までの討論が終わると、持ち込んだ食べ物飲み物での恒例の新年会です。毎年のことですが、一番盛り上がるのは、この時間です。みんな言いたいことが山ほどありますので、あちらで、こちらで議論の花が咲き,今年一年の運動の強化を誓い合いました。

いのちとうとし

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2025年1月12日 (日)

広島刑務所の土塀

吉島稲生神社の被爆樹木を見た後、すぐ北側にある広島刑務所所まで、足を伸ばしました。

広島刑務所の西側(本川右岸沿い)の道路沿いに、広島刑務所の土塀のモニュメントがあります。大きな塊ですので、左奥にある説明文を読まなければ、土塀の一部とは気づかないと思います。

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左奥の現在の塀に貼ってある説明板が写っています。

そこには、この土塀のモニュメントについて、次のように書かれています。

「広島刑務所の土塀(明治19年~平成30年) 広島刑務所の土塀は、明治19年、前身の広島監獄所の時代に、愛知県出身の左官服部長七氏により、土や砂を独自の配合で固めた『人工石』工法で建造されました。土塀は、今日に至るまで幾多の自然災害に耐え、さらに昭和20年8月6日,広島に投下された原子爆弾の熱線や爆風により、広島刑務所の建物は全壊しましたが、倒壊することなく耐え抜き、以降も広島刑務所の最後の砦として建ち続けてきました。広島刑務所の改築に伴い、この外塀がコンクリートの塀に変わっていく中で、地元住民の多くの声を背景に、保存が決定しました。」

この土塀のモニュメントは、頑丈さを誇示しているだけでなく、被爆石としての役割も持っているのです。

後ろに取り付けられた説明板には、写真も掲載されています。

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この写真の説明文は次のように記載されています。

「原爆の熱性によって影が残った塀。この入射角が空中の爆発点の、算出基礎となった」

写真をよく見ると、奥側の塀に、斜めの影がはっきりと写っています。空中の爆発点を確定させるため、この塀だけでなく他の多数の構造物に残った影から算出されたのですが、倒壊を免れたこの刑務所の塀の影も重要な算出基礎になったようです。

ところで吉島刑務所で思い出すのは、やはりこの刑務所内の独房で被爆した11人の強制連行された中国人被爆者のことです。

下の写真は、1993年5月に最初の強制連行された中国人被爆者として来広した張文彬さんが、この吉島刑務所を訪れ、広島刑務所の外壁を見上げている写真です。(広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会のホームページより)

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張文彬さんは、私にとって忘れられない中国人被爆者の一人です。張さんの真摯な姿が、その後の中国人被爆者招待の大きな力になったと私は思っています。

11月に来広され、私が平和公園を案内した中国人被爆者于瑞雪さんの遺族お二人も、私と別れた後、川原洋子さんの案内で、ここを訪れています。

そんなことを思い出しながら、広島刑務所の土塀のモニュメントを見て帰宅の途につきました。

いのちとうとし

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2025年1月11日 (土)

2025年最初の広島県原水禁常任理事会

広島県原水禁は、9日今年最初の常任理事会を開催しました。

主要な協議事項は、27日に開催する「広島県原水禁第94回総会」に提案する議案の協議でしたが、幾つかのテーマで理事の間で意見交換が行われました。

その一つが、昨年12月のオスロでの日本被団協のノーベル平和賞受賞式での田中熙巳代表委員によるスピーチで強調された「国家補償の被爆者援護法」をめぐっての議論です。

昨日の木原さんのこのブログ「被爆80年、改めて国家補償を考える」で、この問題が提起されていますが、原水禁常任理事会でもこの問題の口火を切っていただいたのは、木原さんです。論議の中心は、「国家補償とは何を言うのか」です。

この論議を聞きながら、幾つかの論点を整理しながら、論議を進めなければならないと感じました。

一つは、1994年12月に成立した「被爆者援護法」に対する当時の評価がどうであったのか。「被爆者援護法」が成立して、すでに30年以上が経過していますので、その当時のことを知る人が、県原水禁の役員でも少なくなっています。当時何を求め、何が不十分だったのかを、整理する必要があると感じました。

二つは、田中さんが言われる「国家補償」の中身は、何かです。当時もっともいわれていたことは、「原爆で命を失った死没者への国家による謝罪と補償」ですが、今後「具体的の要求としては、何を求めるべきか」をはっきりさせる必要があるように思います。

その中では、被爆者援護法に盛り込まれた「特別葬祭給付金」のまやかしも明らかにしなければならないと私は考えています。

三つは、国家補償の性格を持つ「被爆者援護法」ということが、在外被爆者裁判や原爆症認定訴訟、黒雨訴訟の判決でいわれていますが、そのこととの関連をどう考えるか,です。

いずれにしても、「被爆者援護法を国家補償法」にという主張は、原水禁も運動の柱にしていましたので、県原水禁として、これを機会に県原水禁として改めて学習会などを開催し、この問題への理解を深める必要があることを確認しました。

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昨年の総会

その他に総会へ提出する議案協議する(意見がある場合は、一週間後までに提出する)とともに当面する県原水禁の日程として次のことを確認しました。

ネバダ・デー座り込み 1月27日午後0時15分から 原爆慰霊碑前

第94回総会 1月27日午後6時から 自治労会館

今年の総会では、最初に「ノーベル平和賞授賞式報告会」を行い、ノーベル平和賞授賞式に参加した広島県被団協理事長(日本被団協代表委員)箕牧智之さん、第27代高校生平和大使甲斐なつきさんの現地活動報告を受けた後、「受賞の意義」についての講演を行うことにしています。

その他に、1月26日に広島被爆者7団体などを主催する「被爆80年・日本被団協ノーベル平和賞受賞記念エベント」への参加、10月5日、6日に開催される「核のない未来を 世界核被害者フォーラム」への協力などを確認し,常任理事会を終了しました。

いのちとうとし

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2025年1月10日 (金)

被爆80年、改めて国家補償を考える

が担当する2025年初めてのブログとなりました。どうぞよろしくお願いします。

被団協のノーベル平和賞で、「国家補償」ということが、クローズアップされています。原爆投下から80年を迎えた中で、国家補償をどうすれば形にすることになるのかということを考えていました。

「国家補償」とは、過去の補償、現在の保障、未来の保証の「三つのほしょう」という考え方だと思っています。特にこれから未来に亘って、核による被害者を作らないという「未来の保証」を国に求め、世界に訴えることだと考えています。

原爆二法と言われた「医療等に関する法律(医療法)」と、「特別措置に関する法律(特別措置法)」が、一本化され1994年12月に「援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されました。

この被爆者援護法が制定された翌95年に、大蔵省(現・財務省)令によって額面10万円の国債金が、亡くなった被爆者の家族に配られました。私もこの国債金を受け取りましたが、配布に対しては強い疑問を感じていました。しかし当時の政権が野党政権であったことなどもあり、被爆者団体はこの省令を受け入れ、その時から「国家補償による被爆者援護法」の制定運動は、急激に活動が低下していったと思っています。

そして2002年8月には、国の気持ちを現わす「国立広島原爆死没者追悼平和記念館(追悼記念館)」が平和公園内に建設されました。被爆者団体のリーダー的な役割を担っておられた人に、「これらの施策で過去の補償としてよいのでしょうか」と電話をしました。その人は「今しかチャンスはないのだよ」と、強い口調で語られたのを覚えています。

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日本被団協がこの国債を受け入れた時点で、内容は猛烈なる不十分ですが「過去の補償」問題は終わったとされても、ある意味仕方ないと思っています。国家補償を求めることは大切だと思いますが、それを再びお金で求めることに違和感を思うのです。

被団協の事務所に対し「まだお金を欲しいと要求しているのか」という、嫌がらせ的な電話が掛かってくるとも聞きました。

国の責任を明らかにする真の国家補償を明確にするには、現在の被爆者援護法の前文に、1956年の日本被団協の結成大会での、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはならない」との宣言を基にした文章を、明示することも国家補償の精神を組み入れることの一つの手段ではないかとも考えています。

米国の核実験被ばく者やウラン採掘に従事した人たちへの援護法として、被ばく者補償法(RECA)がありました。この法律は、昨年6月に失効されましたが、その考え方について合衆国議会は「(前略)国家安全保障の犠牲になったことを認める。議会は政府に代わって、これらの人々とその労苦に耐えた家族に対しおわびを表明する」と書いていました。この被ばく者補償法が完全なものだとは思いませんが、参考にする価値は在りだと思っています。

米国の核被害者団体では、RECAが失効したことに強い反対運動が起こるとともに、被団協が平和賞を受賞したことに、強い連帯のメッセージも寄せられています。

被爆80年の今年、ノーベル平和賞を実効性のあるものにするには、世界の多くの被ばく者たちとの連帯が必要なのではと思っています。その根底の考え方が「国家補償」の精神だと思う年明けとなりました。

今年1月の鹿砦社(ろくさいしゃ)カレンダーにあった言葉、「今日も笑顔で一歩前へ」で過ごしたいと思います。

木原省治

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2025年1月 9日 (木)

「核のない未来を!世界核被害者フォーラム」の記者会見に同席しました

「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(HANWA)とニューヨークで反核運動を行っている「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の2団体が主催し、被爆80周年の今年10月5日、6日の二日間広島で開催される「広島・長崎被爆80周年 核のない未来を!世界核被害者フォーラム」の概要を説明する記者会見が、7日の午後広島市政記者クラブで行われました。

今回の記者会見は、主催団体の一つである「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の共同創始者井上まりさんが、昨年末から帰国されたこの機会に開催することになったものです。

当初は、井上さんとHANWAの共同代表の一人森滝春子さんが、出席し会見を行うことになっていたのですが、体調が悪くなった森滝さんからHANWAの世話人の一人である私(HANWAには、個人として参加)に代理で参加するよう要請があり、急きょ参加することになりました。

午後1時からの会見は、HANWAの藤元康之事務局長が概要を説明、その後井上さんから「世界核被害者フォーラム」への思いが発表されました。

私も「森滝先生が、被爆30周年の原水禁世界大会で『核と人類は共存できない』という原水禁運動の理念を最初に発表されてから今年で50年。今この時期に全ての核被害者の問題を広島から発信することは非常に意味がある」こと哉「核兵器禁止条約で触れられていないウラン採掘など多くの核被害者の実態を明らかにし、救済への道を開きたい」など「世界核被害者フォーラム」の意義について発言しました。

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左が井上まりさん

開催まで9ヶ月あまりあること時期での記者会見でしたが、予想を超えるマスコミの参加があり、関心の高さを伺うことができました。

記者会見で発表した主な概要は次の通りです。

開催目的:世界の核被害者がヒロシマに集い、過酷な実態を世界に訴え、早期救済を目指します。さらに、核兵器廃絶、核と人類は共存できないことを自らの体験を通して訴えます。

ウラン採掘に始まり、核兵器や核燃料製造、核実験、劣化ウラン兵器、原発といったあらゆる場面で今も核被害者が生まれています。

米国による広島、長崎への原爆投下から80年、世界で核戦争の危機が高まっている今、私たちは核被害者とともに、核戦争は絶対に起こさせないという市民世論をまき起こし、世界の指導者に戦争反対、核兵器廃絶を強く要求します。

参加予定の核被害者:広島・長崎、ウラン採掘・精錬、核実験、原発事故、原発被曝労働、核廃棄物処理、劣化ウラン兵器などの核被害者で、海外から10名、国内から20名程度を予定。この他にZOOMやビデオメッセージによる参加もあります。

10年前の2015年にも広島で開催された「世界核被害者フォーラム」は実行委員会方式で開催されましたが、今回は上記2団体の主催で開催されます。

原水禁国民会議には、主催団体の一つである「核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト」の井上さんから、昨年末呼びかけ団体としての協力要請がありました。井上まりさんには、谷事務局長や原水禁の代表が、NPT再検討会議や核兵器禁止条約締約国会議に参加した時、支援を受け、共同行動を行っていますので、呼びかけ団体になることを了解しています。呼びかけ団体としての協力要請は、日本被団協、原水協にも行われています。

今後も、「世界核被害者フォーラム」の準備状況については、このブログで紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2025年1月 8日 (水)

2025年1月のブルーベリー農園その1

13日(金) 今年始めての農園行き。まあ穏やかな一日。墓参りを済ませブルーベリーの見回りをして早めの帰宅

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里山の晩生のブルーベリー園。この場所は木枯らしがよく吹くところなので落葉が進んでいた

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15日(日) 農作業の休憩中にかっかっというジョウビタキの鳴き声がしたので撮影。大陸からはるばるやってくる渡り鳥で冬の農作業でよく見かける野鳥

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16日(月) 晩生中心のブルーベリー畑の花芽。ウッダードという品種でまだ葉も紅葉もしないでしっかり枝にしがみついている

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16日(月) 里山のブルーベリー園の周囲に茂った木がブルーベリーの日差しを遮るので切る作業が続く

ミカンの剪定用の鋸の刃を新しいに取り替えた。新品はサクサクとよく切れる

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電動チェンソーと鋸を併用してばっさり。この木はエゴノキ

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切った木は枝を払い太い幹は22.5m位に切って燃やさずに近くにおいて朽ちるままに任せる

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写真右の木が栗(小さい実がなり甘い)は今年は残してその左端のドングリの木の伐採にかかりたいが、ちょっと大きい

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昨年初夏に伸びたブルーベリーの枝の先を切って脇から枝が伸びているのを確認。この枝にも花芽がそれぞれついている

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ブルーベリー畑

①寒そうにタンポポの花が咲いている

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②昨秋種をまいたレンゲの葉っぱが見えるようになった

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年1月 7日 (火)

吉島稲生神社の被爆樹木

先月、修道学園の慰霊碑を見ることができなかったので、その後吉島稲生神社まで足を伸ばしました。吉島稲生神社は、吉島線のバス通りから西側に少しはいったところにあります。爆心地からは、2,160mの距離です。

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10年以上前には、この吉島稲生神社の近くのお店に何度も買い物に来たことがあったのですが、その時には、被爆樹木のことに強い関心が無かったため、気にすることもありませんでした。最近テレビ番組で、吉島稲生神社の被爆樹木が紹介されたことがあり、いつか見に行こうと思っていましたので、ちょうどよい機会だと訪れることにしました。

こじんまりとした境内ですが、5本の被爆樹木があります。

最大の被爆樹木は、拝殿と本殿の間に植わるクスノキです。

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この木は、高さは20.5m、幹回り3mという巨木で、「広島市指定保存樹」となっています。

本殿右横には、エノキが植わっています。

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この木も「広島市指定保存樹」で、高さは14.5m、幹回り2.1mの巨樹です。

鳥居の横には、ツバキが植わっています。

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花が咲いていてもよい時期だと思ったのですが、まだつぼみの状態でした。

広島市の被爆樹木リストには、この他にクロマツは2本登録されています。

そのうち写真に収めたのは、1本だけです。

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最初に被爆樹木は5本と紹介しましたが、急きょ訪れることになったため、5本ということを知らずに現地を訪れましたので、4本を確認しただけでした。帰宅後、広島市の被爆樹木リストを確認して初めて5本ということがわかりました。私が写すことのできなかったクロマツの写真が、広島市の被爆樹木リストに掲載されています。

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言い分けになりますが、この写真をよく見ると他の樹木覆われた感じですので、誰かに尋ねないと見つけることができないように思えます。近いうちもう一度、訪ねて確認しようと思います。

ところで、広島市の被爆樹木リストから、樹木の写真を検索すると次のような紹介文が目に入ります。

「被爆当時、吉島稲生神社の社務所はこれら境内の樹木に守られたため、倒壊を免れ、ここで被爆によって焼け出された人々の治療が行われました。」

この文章を読みながら、私が現地を訪れた時、不思議な思いで本殿の石垣の側面に貼り付けられた看板をみたことを思い出します。

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そこには次のように書かれています。

「原爆に耐えた吉島稲生神社 当本殿は、昭和2年2月に改築建立された。昭和20年8月6日の強い爆風で本殿の銅板屋根が浮き上がり南側の用水路に落下した。間もなく町民の手で,本殿の欠落した垂木を補い屋根を元通りに戻した。屋根のあまり丁寧でない細工を見ると当時の困難が偲ばれる。」

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よくよく本殿を見たのですが、私の目には、どの垂木か判然としませんでした。

吉島稲生神社の境内には、被爆の歴史を示すものがたくさん保存されていることがわかりました。

広島原爆戦災史第4巻には、16の神社の被爆状況が掲載されていますが、その中には吉島稲生神社は入っていませんので、これ以上被爆当時の様子を知ることはできません。

いのちとうとし

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2025年1月 6日 (月)

森滝日記

元日の中国新聞の1面トップ記事は、森滝先生の日記に関する記事でした。ちょっとびっくりの内容です。なぜ?トップ記事になったことはもちろんですが、先生が亡くなられて(1994年1月25日)から数年経った頃だったと思いますが、ある時、森滝春子さんから「あの日記が、見当たらないのです」と聞いていたからです。その後も何度も自宅を訪れたのですが、「見つかった」という話を聞いていませんでした。

どこにしまわれていたかは不明ですが、貴重な日記が見つかって本当によかったと思います。

8月6日から9月9日までの日記「さいやく記」,そして被爆前日の8月5日の日記を記述中に被爆にあい、インクが飛び散った跡、自らの右目に刺さったガラス片と同じようなガラス片が突き刺さった痕跡を残した被爆前まで記述された大学ノートの日記です。

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中国新聞2025年1月1日より

森滝先生の生前中に、自宅で何度も見させていただいた記憶がよみがえります。

森滝先生の自宅にあった資料は、現在広島大学公文書館に寄託され整理が進んでいますが、先生の日記だけは、春子さんの強い思いがあり、自宅に残すことになりました。日記類は、森滝家にとっても思い入れの深い大切なものです。

この日記は、1985年に発行された「ヒロシマ40年 森滝日記の証言」に世に知られることになりました。この本は、「さいやく記」の引用から始まります。かなり詳しく引用されていますので、これを読むだけでも、被爆直後の生々しい様子を知ることができます。

ところで、「さいやく記」の最後の記述となる9月9日は、森滝先生が、吉舎町(現三次市)敷地にあった星田眼科病院に入院された日です。

1988年に森滝先生と一緒に郷里君田を訪れた時、星田眼科病院まで足を伸ばしたことも思い出します。

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中国新聞の記事では、「さいやく記」が大きく取上げられていますが、私が強く印象に残っているのは、ガラス片が刺さった跡の残る大学ノートの日記帳です。

この二つの日記が、出てきということですので、近いうちに見せていただくため、森滝家を訪れようと思います。

被爆80周年の節目の年の元日にこの記事が掲載されたことに驚くと共に、もう一度原点に返ることの大切さを教えられた思いです。

いのちとうとし

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2025年1月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その65)

ともに特別大切な年を迎えて

ヒロシマに暮らしベトナムとの交流に携わる者として迎えた2025年、例年になく思いをめぐらせています。心の病を克服し家族のため懸命に働き、施設で余生を過ごす96歳の特攻志願の海軍飛行兵だった父。虫一匹も殺せなかった純朴な若者が、捕虜を的にした刺突訓練で鬼畜になった体験から平和活動を貫かれた中国帰還者の会の方。多くの被爆者との出会い。「一人ひとりの被爆体験を分かることはできないが、その体験、思いに近づくことはできる」と教えてくださった恩人・・・・。どんなに険しく厳しい中でも「ネバーギブアップ!」と勇気を与えてくださったヒロシマの牽引者・・・・。

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元日の原爆ドーム

いずれも52年前の広島転勤以降の出会いであり、「ヒロシマとの出会い」と重なります。

そのヒロシマは「被爆80周年」、「敗戦80周年」を迎え、交流を続けるベトナムは「ベトナム戦争が終結50周年」を迎えます。日本軍の支配下に置かれていたベトナムが独立(建国)したのは日本の敗戦直後の1945年9月2日ですので、今年、ベトナムは「建国80周年」でもあります。

昨年末で一区切りとした「南シナ海の動向」シリーズに変わって、何を始めようかと思い悩んでいましたが、日本が無謀な戦争へと突き進み原爆投下と敗戦に至る経過と、インドシナ進駐との関わりについて調べてみようと思い立ちました。私自身の「ヒロシマに近づいてきた道」を振り返りつつ、「ヒロシマへの道」シリーズを幾号か書いてみようと思います。

「ヒロシマへの道」シリーズ

国際交流活動でよく使われる相互理解というキーワードも、多くは現在と未来に関して使われるものが多い気がします。過去は終わったことであり、相互理解は未来を創造するためのものであるかのようです。「未来志向」という言葉もよく使われます。もちろん、大切なキーワードだと思います。しかし、それは決して過去を閉ざし、過去を清算し、将来だけを見ようということではなく、過去の出来事に真摯に向き合い、今を生きる糧とし、未来の希望を見出すことです。

重ねられた互いの歴史や文化を知り、今に触れ合い、共に未来を描き、分かち合い支え合い、地球人として共に生きるための関係づくり。これが国際交流活動だと思ってきました。

「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて充分に理解できるようになるのです」、歴史とは「現在と過去のあいだの終わりのない対話です」(イギリスの政治家であり歴史家のエドワード・ハレット・カー著「歴史とは何か」)

(2025年1月5日、あかたつ)

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2025年1月 2日 (木)

2025年元日の平和公園

快晴に恵まれた今年の元日も平和公園に行ってきました。原爆資料館南側の駐輪場に自転車を止めて、慰霊碑を目指します。

最初に目に入るのは、原爆資料館1階南側にある地球平和監視時計です。

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広島への原爆投下からの日数を示す数字は、29003日になっています。被爆80周年という長さをこの数字は示しています。この日数は、被爆者にこれだけの長い間、苦痛を与え続けていることも示しています。

下側の最後の核実験からの日数は、232日です。アメリカが昨年5月14日に行った臨界前核実験からの日数です。

原爆資料館に入る人の姿が,途切れなく続いています。

原爆資料館本館下まで行くと、元日の午前9時45分頃ですが、多くの人が原爆慰霊碑を訪れているのが目に入ります。

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外国人観光客の姿が多いのが、目につきます。

原爆慰霊碑前では、毎年元日に花を献花する市民グループの人たちが、献花された花を撤去しています。

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この花は、この人たちが参拝者のために献花用にと手渡した花たちですが、「多すぎるので一部撤去して欲しい」との警備員からの指示で、撤去しているとのことでした。

この献花は、20年前の被爆60周年の年から始まったそうですが、一端献花した花をすぐに撤去するようにというのが、最近の広島市の指示だということでした。

今年初めて気がついたのですが、よく見るとお花の他に、鏡餅が供えられています。

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数年前から、お花と共に鏡餅を供えているということですが、置きっぱなしにするとカラスが食べに来るということで、この鏡餅もすぐに撤去されました。

このグループは、その後原爆供養塔と韓国人原爆犠牲者慰霊碑の二カ所に献花と鏡餅のお供えをするということでした。

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その二カ所に同行した後、私は、その後原爆ドームを訪れました。

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快晴に恵まれましたので、きれいな写真を撮ることができました。

その後一端帰宅し,改めてパートナーと散歩に出ました。

原爆慰霊碑前で写真家の長谷川潤さんから「午後1時半から原爆ドーム前で、午後3時半から原爆供養塔前で,被爆ピアノの演奏会が行われます」と教えていただきましたので、時間を合わせて午後1時半前に原爆ドームに行きました。

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原爆ドーム前の演奏だけ聴いて、移動しました。

2025年、被爆80周年は、快晴で、穏やかに一日で迎えることができました。

いのちとうとし

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2025年1月 1日 (水)

2025年 新しい年を迎えて

新年明けましておめでとうございます。

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今年も届いた田谷行平さんの絵馬

今年は、広島・長崎に原爆が投下されてから80周年を迎えます。

昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞で、被爆80周年の節目というだけでなく、核問題が世界から注目される年になります。

先人の運動の歴史をきちんと学び、今私たちにできることは何か、何をしなければならないか、しっかりとした目標を作ることが大切です。

原水禁国民会議としても昨年末以来、80周年ビジョンを作るための話し合いを続けています。核兵器廃絶に向けてどのような道筋をつけるのか、しっかりとした目標を定めたいと思います。

私自身も、この一年をどのように生きていくのか、問い続けています。果たさなければならない課題は、多くありますが、その中で私には、どうしても果たさなければならない大切な課題があります。

在朝被爆者の問題です。被爆者援護法が国外に住む被爆者にも適用されるようになって20年余りが過ぎましたが、今なお放置されたまま,何の援護も受けることができていないのが在朝被爆者です。

1992年に初めて訪朝して以来、何度も朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、多くの被爆者と面談し、お話を聞いてきました。特に、最後となっている2018年の訪朝では、朝鮮被爆者協会からその実態調査の結果を聞いてきました。それからでもすでに6年以上が経過しました。

日本被団協のノーベル平和賞受賞で被爆者が大きな注目を浴びましたが、その中で在朝被爆者問題が取上げられることはありませんでした。だからこそ、余計にこの問題が頭に浮かびます。

在朝被爆者問題は、待ったなしの課題です。そして忘れてはならない課題です。

一人でも多くの被爆者が生存されている内になんとしても、この問題の解決の道筋をつけなければなりません。それは私に課せられた課題でもあります。

被爆80周年、被害の実相を改めて思い起こさなければなりません。しかし、被爆80周年は、日本の侵略戦争終結80周年でもあります。そのことも同時に思い起こしていくことが今年の課題です。被害の前に加害の歴史があることを忘れてはなりません。

そんなことを思いながら、新年を迎えました。

今年も少しでもこうした問題に向き合うことのできるブログにしていきたいと思いますので、本年もよろしくお願いします。

いのちとうとし

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