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2024年12月

2024年12月31日 (火)

2024年12月のブルーベリー農園その4

24日に道路下の畑でブルーベリーの剪定をしていると道路の向こうの休耕田からキジの鳴き声が聞こえたとたんさーっと飛び立ち一番下のブルーベリー畑におりたった。最初にバタバタと羽音を聞かせたあとは翼の揚力で全く羽ばたかずにすうーっと目の前を横切って行った。今年のキジはブルーベリー畑に4か所も巣を作り草刈りで抱卵の邪魔をしたのだが、今冬もしっかり生きていることが確認できて一安心。ほかにもブルーベリーの手入れの最中あちこちで野鳥の巣あとが見つかった。キジの巣も野鳥の巣も例年より多めだった。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に通うこともどうにかできた一年に感謝

1224日(火) ブルーベリーの紅葉と青空と白い雲のコントラストで冬日の一日の農園の景色を見せてくれる

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株元はくさぼうぼうで木は茂りすぎたこの区画の5本のブルーベリーの散髪がやっと済んだ

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1228日(土) 雪が1センチくらい積もっていた。1時間ばかり早生のブルーベリーの剪定と蕾の間引きを行って作業はおしまいに。これえでこの場所は終了。気温は3度だった

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農園の雪の景色から

①里山からブルーベリー畑を見る

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②里山の早生のブルーベリー園と檜の林

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③花壇のナンテンの実

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ブルーベリーの剪定以外に励んでいるのが木々の伐採でこれまで手入れできなかったので時間がかかる

①ブルーベリー畑ののり面のアジサイを切(1226日(木))

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②里山西側の周囲の木の伐採。ブルーベリーに日の光が入らないので切ることに(20年間もほったらかしだった)

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③同じ場所の伐採。上から脚立を足場代わりにして電動チェンソーでばっさりと。切った後は枝の整理。この木はエゴノキ(1229日(日))

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1229日(日) 畑のブルーベリーも紅葉から落葉の時期に入ったようで、葉も茶色を帯びてきた

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落葉した木も多くなった

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晩生(ラビットアイ系)の花は自家受粉できる構造になっていないそうで、種類の違う他の品種の花粉をミツバチなどに持ってきてもらって結実する。そう考えると他人頼りで実らせるともいえ、生き物は喧嘩でなく共生しないと生きられない一つの例に見える

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年12月30日 (月)

いのちとうとしの今年最後のブログです。

明日31日には、遊川さんの「12月のブルーベリー農園4」を掲載しますので、私の原稿をアップするのは、今日が今年最後です。

遊川さん、あかたつさん、木原さん、広教組の皆さん、藤本さん、小川さん、大瀨さんなどなどのみなさんの協力によって、今年も何とかブログを更新することができました。ありがとうございました。

ただ、今年後半の一時期、私の体調不良から、更新できない日ができてしまいました。

歳を感じる一年でもありました。

なんといっても今年一番のニュースは、日本被団協のノーベル平和賞受賞です。長い間の被爆者の皆さんの努力が報われたことを改めて喜びたいと思います。一方で、被爆80周年を前に被団協にノーベル平和賞を授与しなければ、ならないほど核兵器使用の危機が強まっているということでもあります。そのことを考えさせられた年でもあります。

ロシアによるウクライナ攻撃が開始されてからすでに1000日を超えました。今も収束のめどは立っていません。昨年10月7日に始まったイスラエルによるガザへの軍事侵略は、今も続き、多くの命が奪われています。そのうちの7割は、女性や子どもたちです。食糧不足、衛生状況の悪化。イスラエルの暴挙は、とどまるところを知りません。

市民の命を奪う戦争の即時停止を強く求めなければなりません。

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中国人民平和軍縮協会主催の国際会議で安月軍秘書長と記念撮影

中国人民平和軍縮協会主催の「2024年国際和平日記念活動」の国際会議に原水禁が初めて招待され参加したことも、この年の大きな活動の一つです。ところが会議の初日に体調不良となり、帰国後もこのブログを休まなければならないほどの体調不良に陥り、「中国を訪問します」とは書きましたが、訪中報告できなかったことが心残りです。しかし、6月の一人での訪中、8月原水禁大会への中国代表団の参加、そしてこの国際会議への参加、それなりに日中交流強化に役割を果たすことができた年として忘れられない年となりました。

日本被団協のノーベル平和賞受賞は、私に改めて被爆者運動、原水禁運動の歴史を学ぶ機会を与えてくれました。被爆80周年の来年に活かしたいと思います。

以下は昨年末にも書いたことですが、今年も心がけてきたことは、できるだけまなびに出かけ、現地に足を運ぶことでした。

そこでは、いつも新しい発見の連続があり、多くのことを学ぶことができたと思っています。

みなさんにとって、この一年はどんな年だったでしょうか。

残された今日、明日の二日間、もう一度この一年を振り返りながら、新たな年への決意を固めたいと思います。

どうか、よい年をお迎え下さい。

いのちとうとし

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2024年12月29日 (日)

修道中学校職員生徒慰霊碑

日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースに接して以降、何人もの被爆者の皆さんのことを思い出しました。

その一人が近藤幸四郎さんです。近藤さんは、1974年の広島被爆者団体連絡会議発足に尽力し、その後亡くなる2002年まで、事務局長を努められました。私が接した多くの被爆者の中で、もっとも身近で,もっとも多くのことを教えていただいたのが近藤幸四郎さんでした。写真は、2001年12月6日の写真で、近藤さんのお気に入りの一枚で,小澤こうさんの写真集「2002ひろしま」の巻頭に掲載されています。

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1945年4月修道中学入学した近藤さんも、連日「学徒動員」にかり出されていました。8月1日から10日間の予定で、広島市役所裏の雑魚場町で建物疎開に従事していた近藤さんですが、作業効率が低下した生徒の姿を見かねた担任の先生が5日の作業終了後「疲れているから明日はゆっくり休め」と言い渡され、原爆が投下された8月6日は、自宅近くの御幸橋で友人と遊ぶことになり、命を奪われることから免れました。

前々から訪ねようと思いながら実現していなかった近藤さんが修学していた修道中学(現在の修道高校)の「修道中学校職員生徒慰霊碑」をこの機会に訪ねようと,学校が冬休みになった27日に中区南千田西町にある修道高校に行ってきました。

学校に着くと、許可を得なければと事務所を訪ねました。応対していただいた事務員さんから、予想もしなかった返事が返ってきました。

「今、修道学園創設300周年事業として本館建て替えなどの工事をしているため、わたしたちも慰霊碑に近づくことができないのです。」

そして、示されたのが「修道学園同窓会会報第90号」でした。

そこには、本館建て替え工事のための「慰霊碑」を移設させた時の写真やきれいに整備された広場の完成予想図が、掲載されています。

慰霊碑の移設は、4月19日から6月26日までに執り行われたようです。

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完成後の広場の中心に慰霊碑が建っています。

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「来年10月には、整備が終了しますので、あらためてきていただけませんか」とのこと。

残念ですが、今回は慰霊碑への参拝はあきらめるしかありません。

あきらめて事務所から外に出ると、向かい側に工事用の資材の間に慰霊碑の上部が見えます。作業の邪魔にならないよう遠くから写真を撮りました。

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蔵のような建物の左側に慰霊碑が写っています。

今回この碑を訪れようと思ったのは、近藤さんのことを思い出したことの他にもう一つ理由があります。

11月に開催された紙屋町シャレオ古本まつりで「修道学園史」を購入していたからです。「修道学園史」には、「動員・原爆」の項があり,約40ページにわたって詳細に記述がありますので、この本を手に訪れたいと思っていたからです。

「修道中学校職員生徒慰霊碑」めぐりは、学校整備が終わった来年10月頃に改めて行いたいと思います。

「修道学園史」に書かれた被爆の被害の実相はその時に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2024年12月28日 (土)

新著「『原爆裁判』を現代に活かす」を拝受

日本反核法律家協会会長の大久保賢一さんの新著「『原爆裁判』を現代に活かす」が、著者から郵送されてきました。

大久保さんとは、数年前反核市民団体が行った外務省との話し合いの場で同席したことがあり、それ以来、毎年のように発刊される新著を贈呈していただいてきました。

先日、新聞広告でこの新著のことを知り、『原爆裁判』という文字に惹かれて、購入しなければと思っていたところに,この本が届きました。

ゆっくりと読みたいと思いますが、今日はそのさわりを紹介したいと思います。

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大久保さんは、まえがきの中で、この本を出す契機になったことを次のように書いています。

「この『法とは何か』は、2024年4月から9月末まで放映されたNHKの朝ドラ『

虎に翼』のテーマの一つでした。私はこの『虎に翼』を感動しながら見ていました。・・・とりわけ、『原爆裁判』を描くシーンは、原爆という『残酷な兵器』が被爆者にもたらしたものは何か、それを法や裁判がどのように向き合うべきなのかを正面から問いかけるものでした。・・・三淵さんが『原爆裁判』にかかわっているので、その裁判資料を保管している日本反核法律家協会の会長である私を取材したのです。『原爆裁判』を出来るだけ多くの人に知ってもらいたいと考えている私は、喜んで取材に応じました。」

さらに「私は、そのようなドラマで『原爆裁判』が描かれないことなどありえないと思っていましたが、現実に描かれた場面を見て,本当に感動を覚えました。」

私は、朝ドラ「虎に翼」をずっと通して視聴したわけではありませんが、「原爆裁判」が描かれたこの週だけは、録画をして観ましたので、改めて「原爆裁判」について学ばなければと思っていました。

先日の被爆二世裁判の時、在間弁護団長から、当時の判決文の資料をもらったこともあり、より関心が深まっていました。

そんなときに届いた「『原爆裁判』を現代に活かす」ですので、興味は尽きません。

特に大久保さんがまえがきで書かれているように「裁判資料を保管している」ものとしての著作だけに、貴重な内容と言えます。

目次を見ると、第一章が、「『原爆裁判』とは?」で、①裁判の当事者②裁判の提起③被告国の対応④裁判所の判断⑤鑑定人の意見⑤被害者の損害賠償請求権⑦対日平和条約による請求権の放棄について⑧判決の背後に何があったのか、の順で「原爆裁判」がまとめられています。

興味を引くのは、③の「被告国の対応」ですので、該当するページを開きました。

1945年当時、「原爆投下は国際法違反」としていた政府が、この裁判係争中の1956年には「国際法違反ではない」とし、さらに「原爆の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。このような事情を客観的に見れば、広島・長崎に対する原爆投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を出しがたい」と、原爆被害を他人事にいう今の政府に継続している考えが、ここで表明されたことがわかります。

そうした政府の考えに同裁判官が対応したのかなどなど、しっかりと読み込み、改めて「原爆裁判」から学びたいと思います。

いのちとうとし

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2024年12月27日 (金)

ノーベル平和賞受賞記念展示

25日から原爆資料館1階出口手前のロビーで、広島市と広島平和文化センターが主催する日本被団協のノーベル平和賞受賞を記念した展示会がスタートしました。

25日昼過ぎ、平和会館を訪れた時、広島県被団協熊田事務局長から教えていただきましたので、早速会場に行ってきました。展示のタイトルは「日本被団協ノーベル平和賞受賞記念パネル展 被爆者-核なき世界を目指して」です。

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8枚の写真パネルを中心にした展示です。

写真パネルのほとんどは、これまでに見たことのあるものでしたが、1枚だけはじめてみる写真がありました。

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広島県被団協が結成される(1956年5月27日)以前の1952年8月10日に,援護と原爆反対を求めて組織された誕生した「原爆被害者の会」の活動の様子を映した写真です。この会は、原爆被害者の証言を集めた「原爆に生きてー原爆被害者の手記」を発刊しています。写真に写っている「壁新聞」を読むと、翌53年の8月6日に向け、「原爆に生きて」を販売しながら、支援を呼びかけている風景です。

この「原爆に生きて」は、ずっと以前に東京の古本屋で見つけて購入しましたので、今私の手元にあります。

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発行者は、原爆被害者の手記編集委員会で、発行日は1953年6月25日です。短期間に手記が集められ発行されたことがわかります。定価は280円です。27名の手記が掲載されており、その中には日詰忍さんの名前もあります。

この本の紹介は改めてしたいと思います。

写真パネルの他に「被爆者のメッセージ」を記した色紙(複製)が展示されています。

この色紙は、2002年に広島県被団協が県内の会員に肉筆で「一言」書き残そうと呼びかけて集められたものです。約1万人分のメッセージが記された579枚の色紙が集まり、その後国立原爆死没者追悼平和祈念館に寄贈され保管されています。ここにはその一部(目に見えるのは4枚)が、展示されていました。

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4枚の内3枚は、広島市原爆被害者の会のみなさんが書かれた色紙です。

坪井直さんの「感情の世界だけでは戦争は避けられない 理性の力から世界が確かとなる」は、キャプションがついています。

その他にも懐かしい名前、今も元気でがんばっている人の名前が並んでいます。下畠順三さん、沼田鈴子さん、佐々木愛子さん、豊永恵三郎さん、平川林木さん、恩地恵美子さん、室田秀子さん、柳川良子さん。森滝春子さんの名前もあります。

残る1枚は、三良坂町原爆被害者の会の色紙で、真ん中の最上段に広島県被団協の3代目理事長だった藤川一人さんの名前があります。藤川さんは、この一言メッセージの取り組みが実施された時期の理事長です。藤川さんは、東京に来られた時、国会議員会館の私の部屋をいつも訪れていただきましたので、強く印象に残っているお一人です。その意味でも懐かしい名前です。

私が訪れた翌日の中国新聞によれば、地下1階の情報資料室には、日本被団協ニュースや被爆体験記が展示されているようですので、改めて出かけたいと思っています。

この展示は、来年の8月31日まで実施されるそうです。

いのちとうとし

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2024年12月26日 (木)

エイ?

散歩をしているといろいろと目に入ります。

昨年10月29日に「これ、壊れていますよね: 新・ヒロシマの心を世界に」で紹介したNHKビルの前にある時計、長い間針がない状態が続いていました。

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最近といっても気づいたのは、10月1日のことですが、ふと見ると、真っ白になっていた中程の円に時計の針があるように見えます。

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近づいて確認すると、やはり時計の針です。1年前「部品が見つからないので、すぐには修理できないです」といわれていたことを思い出します。やっと針が見つかって修復され、今まで通り「時」を知れせるようになったのです。

散歩の途中では、意外なものを目にすることも時々あります。

最近の意外なものは、魚のエイを目にしたことです。

わが家から幾つかの散歩コースがあるのですが、その一つにマンションの玄関を出てすぐ前の通りを西方向(アステールプラザ方面)に歩くコースがあります。

250メートルほど西に進むと元安川に架かる万代橋を渡ります。橋を渡る時、「今日は水位が異常に高いな」「干潮時間だから干上がっているな」などと話しながら、よく川面を覗き込みます。特に水位が低い時には、川を泳ぐ魚が、はっきり見えます。魚の名前はそんなによく知らないのですが、ボラやチヌ(と勝手に思っているのですが)などが,時には群れているのが目につきます。

数日前のことです。散歩で万代橋を渡る時、川面を覗くと干潮時でしたので、底までよく見えます。魚はいないかと、川面をよく見ると今まで目にしたことのない魚影がゆっくりと泳いでいるのが目に入りました。

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川底の土の色と同じような色をしていますので、よく見ないと魚だということがわかりませんが、じっと見ていると動きますので、間違いなく魚です。エイのようです。

しばらく見ているとチヌのような魚が近づいていきました。川底にへばりついたエイが、カモフラージュするかのように川底の泥を跳ね上げ,エイの姿が見えにくくなりました。

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チヌは、しばらくエイの周りを泳いでいましたが、ケンカをする様子はありません。そのうちチヌと思われる魚は別の場所に悠々と泳いで移動しました。なぜチヌはエイのそばに寄っていったのか、ちょっと不思議な眺めでした。

万代橋は、京橋川と合流する河口から2.4kmしかありませんので、エイもこのあたりまでやって来るのでしょうか。

今までに見たことのない川の様子でした。

こんなことを目にするのも散歩の楽しみです。

いのちとうとし

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2024年12月25日 (水)

3・11を忘れたのか、第7次エネルギー基本計画

12月17日、経済産業省は第7次エネルギー基本計画の素案を明らかにしました。どこが問題点かと訊ねられても答えられないほどの、最悪の基本計画案です。

福島原発事故後の2012年9月14日、当時の民主党政権が「革新的エネルギー・環境戦略」と称した前文には「今回の事故の深刻な現実を直視し、事故の教訓に深く学ぶことを通じて…」と記し、「これまで進めてきた国家のエネルギー戦略を、白紙から見直すべきであると確信するに至った」としました。2030年代に「原発ゼロをめざす」としたのですが、その4日後に閣議決定を見送りました。

政権は民主党政権から自民党政権に変わりましたが、2014年4月に定められた第4次エネルギー基本計画でも、「福島原発事故で被災された方々の心の痛みにしっかり向き合い、寄り添い、福島の復興・再生を全力で成し遂げる。震災前に描いてきたエネルギー戦略は白紙から見直し、原発依存度を可能な限り低減する」としました。この「可能な限り」という言葉に引っかかりもありましたが、まだ福島原発事故は基本計画に残っていました。

しかし、この度の基本計画では、福島原発事故は無かったことにされています。

「革新的エネルギー・環境戦略」の時には、全国各地で討論会が開催され、私たちの意見を直接聴こうという態度を感じましたが、この度はそういう会合はゼロでした。経済産業省の議論の中で何が話し合われているのかも、公けには明らかにされませんでした。

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また、これまで明記されていた「可能な限り原発依存度を低減する」との表現は撤回され、「最大限活用していくことが極めて重要」と位置づけとされました。

10月27日に実施された衆議院選挙戦で、こういうことになる予想をしていました。その理由はいくつかありますが、⑴は選挙中に原発・エネルギー問題が選挙の大きな争点にされなかったこと、⑵議席を増やした国民民主党だと思います。

国民民主は、原発推進の急先鋒だからです。少数与党になった自公政権は政権を維持するためには、国民民主の機嫌を取ることは止められないからです。

「したたかな悪」国民民主、「その場しのぎの悪」公明党、そのことを最も知っているのが、経済産業省の官僚だと思います。

しかし官僚たちの本音は、この度の基本計画で原発がどんどん増えるとは考えていないでしょう。原発を活用する政策を言い続けることによって、自らの官僚としての立場を高めることを考えているのだと思います。

興味深いのは、原発新設についての「リプレース」の意味です。これまでリプレースとは今在るところの原発を廃炉にして、その同じ敷地内に新たに建てるという意味だとされていました。しかし廃炉完了の見通しが立たない中では、新設は無理だと考えたのでしょう、同じ電力会社であれば敷地外にある別の原発の立地場所でも建設ができるとしました。

新設計画である上関原発建設はこれまでの考えからも、この度の基本計画でも許可されてはならないものです。それでも「上関の原子力は重要。位置付けは変わらない」とする中国電力の態度は許せません。

まだまだ多くの問題点がある基本計画案です。字数の制約で、続きが書けません。

エネルギー基本計画はパブリックコメント(意見公募)を経て、今年度内に閣議決定される予定となっています。「パブリックコメントを出しても変わらんわい」と言う人がおられますが、粘り強く主張することを止めたらダメです。

私が、年内に担当しているブログは今日が終わりです。読んでいただき、ありがとうございました。

木原省治

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2024年12月24日 (火)

今日の署名は、487筆

22日(日曜日)のちょうどお昼時間、平和公園の元安橋西詰を散歩していると高校生平和大使派遣委員会の小早川健さんとサポーターの中谷悦子さんの姿がありました。

「今日は署名活動ですか?高校生は?」と尋ねると「そうです。午前中の署名活動を終え、ちょうど昼休憩に入り弁当を買いに行っています。昼食をとって、午後も署名集めをすることにしています」との答えです。高校生の姿が見えませんでしたので、そのまま散歩を続け、帰宅後昼食を終えて再び、平和公園に行ってみました。家を出るのが午後2時ちょっと前になりましたが、それでもまだ署名活動が続いているかなと思いながら、自転車を走らせましたが、現地に着いた時は、ちょうど署名活動は終わり、集まった署名の集約中でした。

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「今日の署名数は、487筆です。9月からの合計は、2227筆になりました。」

午前中は、時々小雨が舞う天気、午後もなかなか気温が上がらない条件の中ですが、みんなの頑張りで487筆も集まったようです。

「日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まった後は、本当にたくさんの署名が集まりました」との参加者の声。

広島の高校生1万人署名活動の平和公園での署名集めは、毎月一回実施されているそうです。最初は、午前中のみの行動だったそうですが、参加する高校生から声が上がり、今は午後も実施しています。

今回の参加者は、今年の高校生平和大使の二入を含め15人。福山からも参加していました。

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最後の参加者全員で記念写真を撮って、12月の1万人署名活動は終了しました。

たまたま駆付けた私に、小早川さんから声がかかり「みんなの行動は、私たち原水禁運動にとっての大きな励ましの力になっています。平和運動は、すぐに具体的成果を上げることはできません.私たちが続けている核実験抗議の座り込みもそうです。でも地道な活動が、少しずつかもわかりませんが、必広がっていきます。今日も487人の人が署名に協力してくれました。このうちの何人かは、帰ってからきっと誰かに『広島の平和公園で核兵器廃絶の署名をしたよ』と話す人がいるはずです。そのことでまた輪が広がります。『継続は力』です。一緒にがんばりましょう」とあいさつさせていただきました。

この高校生1万に署名活動の粘り強い行動に私たちも学ばなければと思いながら、散会しました。

今年も高校生平和大使のカレンダーが作られましたので、参加者の一人の持っていただき、写真を撮りました。

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ノーベル平和賞授賞式現地オスロでの高校生平和大使の活躍ぶりが多くのマスコミで報道されましたが、その背景にこうした地道な行動の積み重ねがあることを忘れてはなりません。高校生一万人署名活動の合い言葉「微力だけど無力じゃない」を改めて実感させられました。

いのちとうとし

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2024年12月23日 (月)

2024年12月のブルーベリー農園その3

1221日は冬至だがこの日は時雨、木枯らしで服を着替えて農作業を始めるのにちょっと気合がいる天気だった。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通いながらブルーベリーの栽培を続けているこの時期のメインの作業は竹や灌木の伐採で晩生のブルーベリーの剪定は落葉を待って始めるので年明けからになる。農園の山の上あたりで薄く雪が降っているのを見ることはあっても畑や道路にはまだ雪は見ず。今冬も暖冬であってほしいが・・。

ブルーベリーの植えている里山の周囲のタケやドングリの灌木が茂ってきてブルーベリーの花芽が少なくなるので木々の伐採を続けている

①1215日(日) 左の木々をも切りたいのだが太いのでチェンソーでないと無理で、安全作業を勉強中

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②1219日(木) こちらは灌木ばかり。ヤマツツジも切った

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③1221日(土) 閥の伐採場所では、あたりを見回すととても太いカズラを見つけたので切る。ヒノキが締め付けられて立ち枯れしていた

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1217日(火) 防獣ネットを丸めて倉庫に保管する。太いネットは50mの長さがある

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里山の晩生のブルーベリーの落葉が進んでいる

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ヒガンバナは秋に花が終わってから冬の向かって葉を伸ばす

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午後4時前になると日差しが赤みを帯びてくるので畑のブルーベリーも一段と赤くなる

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1220日(金) 畑のブルーベリーの根元に特に茂っている雑草をスコップや鋸鎌を使って引き抜く

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周りには緑肥用で秋に種をまいたダイコンの根が白い顔を出してきた

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1221日(土) 伐採してたまった枝を久しぶりに野焼きする

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この日は冬至。里山のエビネの根元を探ってみると花芽が1センチくらい出ていた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年12月22日 (日)

12・21島根原発2号機再稼働反対集会

21日(土)午後2時半から松江市のくにびきメッセで、「12・21島根原発2号機再稼働反対集会」が開催され、広島からも県原水禁や市民団体などから多数が参加しました。

広島県原水禁事務局から午前10時に出発したのは、6名。冬らしい雨模様の松江に昼過ぎに到着。先ずは昼食、やはり出雲そばです。行きつけの「ふなつ」へ直行し、割後そばに出雲独特の釜揚げそばなどを堪能し、会場へ移動しました。

午後2時半、地元の芦原康江さんの司会で集会はスタートしました。最初に実行委員会を代表して「フォーラム平和・人権・環境しまね」の内田智己代表があいさつ。

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つづいて、ゲストスピーカー3人のスピーチ。

トップは、広島県原爆被害者団体協議会熊田哲治事務局長。熊田さんは,日本被団協のノーベル平和賞受賞に触れながら、田中代表委員のあいさつにあった「国家補償」の問題を紹介し、放射線被害は長くつづくが、特に内部被曝問題は置き去りにされたままであり、原発事故が起きれば内部被曝問題を引き起こすのであり、再稼働は許されないと連帯を表明しました。

次は、志賀原発を廃炉に「訴訟」原告団の北野進団長からのビデオメッセージ。北野さんは、この中で「1月の能登半島地震は、もし原発事故が起きたら、どんな事態になるかを教えている。原発の再稼働は絶対認めることはできない」とあいさつ。

次に上関原発を建てさせない山口県民連絡会の大久保雅子さんが、上関原発建設、そして中間貯蔵施設建設に反対する運動の現地の活動を紹介しました。

島根・鳥取からのスピーチでは3人が壇上に立ちました。

原発ゼロをめざす島根の会共同代表の石田忍さん、福島原発事故避難者(雲南市)の坂本美緒さん、島根原発2号機運転差し止め仮処分申立人の土光均さんが、それぞれの立場で「島根原発2号機再稼働反対」のためにこれまで取り組んできた活動を紹介しながら、「絶対に再稼働は認めることはできない。今後も運転停止を求めて,がんばる」と決意の表明がありました。

最後に「能登半島で起きた地震のメカニズムすら、中国電力は説明することもせず、自ら行った活断層の連続評価は信頼を失っています。また、大規模地震と原発事故が重なれば、多くの住民は、屋内退避もできず、避難も困難になることは明らかです。このことは多くの住民により一層の被曝を強いてしまうことになります。」「中国電力も再稼働を許した自治体も,このような問題に目を瞑り、再稼働に突き進んできました。住民の犠牲すらいとわないような安全軽視の再稼働強行は、断じて許すわけにはいきません。災害対応すら困難が付きまとうことの不安を抱きながら,とりあえず動かすことに同意した行政に対しても、あまりにも無責任だと強く抗議したいと思います。」「中国電力には、住民に被曝を強い、暮らしを根こそぎ奪う権利などありません。私たちは島根原発2号機再稼働に断固として抗議し、島根原発2号機の廃炉を求めます。」と集会アピールを全員の拍手で確認し集会は終了しました。

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当初屋内集会終了後、屋外でのスタンディングが予定されていましたが、雨風が強いため、場所を会場内に変更し、シュプレヒコールを繰り返した後、プラスターを掲げて「原発はいらない」の声を上げ、再稼働反対集会を終了しました。

いのちとうとし

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2024年12月21日 (土)

府中地区:12月の「19日行動」リレートークとスタンディング

安保法制に反対する府中市民の会は、今月も19日午後3時から上下Aコープ前8人、4時30分から府中天満屋店前9人で、リレートークとスタンディングを30分間行いました。

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上下の行動

手作りの新しいプラカード「ガザを救え、沖縄の基地化を許すな!」と「ミサイルより能登復興に国の金を使え!」をもってスタンディングされていました。

Aさん  今ガザは大変寒いです。多くの人が食料や衣料、薬を求めています。その食料や薬を提供する団体をイスラエルは攻撃の対象にしています。国連でネタニヤフ首相を戦争犯罪人と決めると、アメリカは決めたその外交官たちにアメリカでの食料など一切提供をしないと脅迫しています。国際世論でイスラエルのジェノサイドをやめさせ、アメリカのおどかしこそ国連の否定だと言わねばなりません。

Bさん  今の政治や生活から戦争法と言われている安保法制がわかると言われています。たとえば、今年1月1日に起きた能登半島地震、227人の方が亡くなられました。その後の災害関連死者数は235人と直接死者数227人を上回り、東日本大震災以降最大の462人の死者数となっています。

さらに中学3年生の女の子が家に一人でいて川の氾濫で家ごと流されて亡くなったことを記憶されている方も多いことでしょう。9月の集中豪雨では15人の方が亡くなられています。これこそ自公政権の無策の犠牲者であり人災です

能登の現状をテレビや新聞が報道していますが、地震で2200箇所が崩れ、さらに集中豪雨で1900箇所が崩れたそうです。ところが家の中の土砂撤去などは深刻な人手不足で進まず、ボランティアを募集するが、全くめどが立たないと言われています。これから雪が降り道路が通えなくなると買い物にも病院にも行けないと訴えていました。この能登の人の声を聞いて日本には政府はないのかと怒りが湧いてきます。なぜ復興をボランティア任せにするのでしょうか。

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府中の行動

こういうときこそ自衛隊が出動して土砂撤去や道路の整備を行うべきです。地震や自然災害の多いこの国で災害対策は政府の最優先の任務です。ところが自公政権は被害地の現状をかえりみず、アメリカの言いなりに軍拡を最優先にしています。沖縄・石垣島など南西諸島だけでなく、鹿児島、大分、京都などでも基地や弾薬庫新増設、さらに港湾や空港を軍港化しています。

いま政府がやらなくてはならないことは、ボランティア任せにすることではなく、自衛隊を動員して能登の土砂を取り除き、冬でも道路が通行できるようにすることです。軍備を拡大するということは、国民の生活を切り捨てることです。安保法制に反対していきましょう。

今年最後の19日行動は市議会議員の人が全員協議会とかで参加できず、ここぞとばかりにみなさん発言していました。

小川敏男

【編集者】安保法制に反対する府中市民の会の皆さん、一年間毎月定例で「19日行動」を続けられたことに敬意を表します。新しい横断幕が登場し、工夫されていることが伝わってきました。そして、小川さん、一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

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2024年12月20日 (金)

ベトナムの歴史(その35) ― ベトナム Now Ⅷ―

ベトナム戦争終結から50年

1975年4月30日、北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線によるサイゴン解放(陥落)でベトナム戦争は終結しました。翌年7月、悲願の南北統一を遂げ、国名をベトナム民主共和国(北ベトナム)からベトナム社会主義共和国に改称しました。幾度も触れましたが来年、「南部解放(ベトナム戦争終結)50周年」を迎えます。

以降半世紀、ベトナムの歴史は「国家建設と祖国防衛闘争」(ベトナム中学校歴史教科書)の1975年~1985年、ドイモイ政策の始まった1986年からアセアン加盟を果たした1995年、2000年代以降~今日までの高成長と大別できます。

ベトナムとカンボジア、フランス植民地支配との戦い

ベトナム戦争後の10年間は「国家建設と祖国防衛戦争」と呼ばれるカンボジアとの紛争と中越戦争の時期です。理解し易くするために、少し長くなりますが遡ってカンボジアとベトナムの関係を概観します。

カンボジアは1862年以降、君主制を存続しつつ、ベトナムやラオスとともに仏領インドシナ総督府に統治されるフランスの植民地でした。フランスはカンボジアの植民地支配を間接統治の形態にし、ベトナム人の役人を使い苛烈な支配しました。この時の厳しい間接統治によって、カンボジア人がベトナム人への強い反感を持つようになったと言われています。

1930年2月、ホー・チ・ミンらがベトナム、ラオス、カンボジアの共産主義勢力を統合してインドシナ共産党を結成し、民族独立闘争を展開します。1940年9月23日、日本軍が北部仏印(ハノイ)に侵攻し、翌1941年7月28日に南部仏印(サイゴン)侵攻します。日本軍はカンボジア、ラオス全域に展開し、インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)はフランスと日本軍による「二重の支配」に置かれます。

そうした1941年5月、インドシナ共産党を核にベトナムの独立を目指すベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され、抗仏闘争・抗日闘争が戦われます。ます。1945年8月15日の日本の敗戦以降、再びインドシナ3国の支配に乗り出したフランスとのインドシナ独立戦争が始まります。ベトナムは1954年5月ディエンビエンフーの戦いに勝利し、フランス支配から脱しました。その後はご存知の通り、フランスに代わったアメリカが介入したベトナム戦争が1975年4月30日のサイゴン解放まで続きます。

フランスからの支配を脱したカンボジアの曲折

フランスと日本の二重統治下にあったカンボジアのノロドム・シアヌーク国王は、1945年3月9日のインドシナ駐留日本軍のクーデター(明号作戦)に便乗し独立宣言を発します。しかし、日本の敗戦で再び侵攻したフランスの保護下に戻り、独立は消滅します。その後もシアヌークは各国世論に訴えながら独立運動を続け、1953年11月に独立を果たします。

しかし、シアヌーク独裁体制のもとでフランスや中国の企業が経済を抑え、農村の疲弊が進む中で1951年に結成されたカンボジア共産党のクメール・ベトミンが、反政府勢力として伸張します。ベトナム共産党の指導で作られたクメール・ベトミンのNo.3だったポル・ポトは、1963年に親ベトナム派幹部を暗殺し共産党(クメール・ルージュ)の実権を握ります。クメール・ルージュは「反シアヌーク」「反王制」キャンペーンを強めますが、シアヌークの弾圧によってジャングルの解放区に逃げ込みます。

米軍と親米政権と戦う「戦場の友」

一方、シアヌークは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南ベトナム攻撃にカンボジア領を使うことを容認し、アメリカと南ベトナムとの関係が悪化します。かたや中国と「友好不可侵条約」を締結し、関係を深めていきます。1970年3月、ロン・ノル将軍によるシアヌーク政権打倒のクーデターが起こり、国家元首のシアヌークは訪問先の中国に亡命します。クーデターの背景にはニクソン米大統領が、反米姿勢を強めるシアヌーク政権を倒し、南ベトナム解放民族戦線への物資輸送を遮断するためにCIAを使ったと言われています。

亡命政権(カンプチア王国民族連合政権)を立ち上げたシアヌークは、ロン・ノル政権への抵抗を呼び掛けます。北ベトナムはデモや反政府行動を武力鎮圧するロン・ノル政権と戦うクメール・ルージュに大量の武器を提供し、カンボジアは内戦に突入しました。ベトナム系住民40万人が盾として抑留・虐殺される事態に、北ベトナム軍はカンボジア国境配備の部隊を投入しロン・ノル政権軍と戦闘に入ります。

1970年4月、アメリカはロン・ノル政権支援のため南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアに投入し、ベトナム戦争はインドシナ戦争へと広がりました。

「安全への逃避」でピュリッツアー賞を受賞した沢田教一が亡くなったのがこの時です。10月28日午後3時過ぎ、UPIのプノンペン支局長と取材に出かけた沢田教一(34歳)は翌日、銃弾を浴びた遺体となって発見されました。下の写真は1970年5月24に撮影されたものです。

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「トンレベトの戦闘で家を失った二人の老人が、若者に連れられて避難する。沢田はこの二組の人を数時間にわたって追跡取材した。これは、沢田の死後、1970年のロバート・キャパ賞を贈られた一連のカンボジア取材の中心となる写真である」(写真集『サワダ』)と説明が添えられています。

腐敗と弾圧を強めるロン・ノル政権への反感の高まりとともにクメール・ルージュの解放区は次第に広がります。ベトナム戦争も1973年1月のパリ和平協定に基づく米軍撤退を境に終結に向かい始めます。

1975年4月17日、北ベトナム軍に支援されたクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させ、親米ロン・ノル政権を倒しました。ベトナムはその2週間後の4月30日、南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍は南ベトナムの首都・サイゴンを解放し、親米ズオン・ヴァン・ミン政権を倒します。

ベトナムとカンボジアはフランスの植民地支配に対しともに戦い、その後はともにアメリカ軍と国内の親米政権と戦う「戦場の友」でした。

1975

1975年4月17日、プノンペン陥落

忌まわしきポル・ポト時代

ところが、1975417日はカンボジアの人びとにとって、忌まわしき大虐殺のポル・ポト時代の始まりの日になったのです。そして、ベトナムは「サイゴン解放」の翌日、197551日にポル・ポトから攻撃を受け、長きにわたる「祖国防衛闘争」を強いられることになったのです。

このことを理解するためには、1975年から79年のポル・ポト政権崩壊まで繰り広げられた大虐殺を見なければなりません。その後1991年10月の「パリ和平協定」まで、ベトナムが支援するヘン・サムリンが国家元首のカンプチア人民共和国政権とポル・ポト派、シアヌーク派、ソン・サン派の三派連合政権との間で10年余の内戦が続きます。

この背景についても、冷戦構造や中ソ対立(国境紛争)、ニクソンの電撃的な訪中で始まった米中関係の正常化の動き、これらとインドシナ情勢との関わりを俯瞰しなければなりません。1973年にベトナムとの外交関係を結びながら、1990年代まで何らの関係構築を進めなかった日本の姿もこれらを通して浮かび上がると思います。

気軽に「ベトナム戦争後の50年」を振り返りながら、「ベトナムNow」へと歩む旅に出ましたが、出足から手間取っています。次号でベトナムが「祖国防衛闘争」としている1978年の「西南部国境防衛闘争」(カンボジア)と、1979年の「北部国境防衛闘争」(中国)について見てゆきたいと思います。

2024年1220日(あかたつ)

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2024年12月19日 (木)

日朝友好広島県民の会2024年度総会

日朝友好広島県民の会は、2024年度総会を18日午後6時から広島留学生会館で開催しました。

総会は、森崎賢司幹事(広教組)の司会で始まり、高橋克浩共同代表が、この一年科の取り組みへの協力に感謝した後「朝鮮学園を支援する人たちの活動を描いた映画『声よ集まれ』が間もなく完成します。この映画の上映活動を通じて,朝鮮学園への支援を強化したい」と開会あいさつを行なった後、大瀬敬昭事務局長事務局長が活動報告、次年度活動方針を提案しました。

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活動報告は、「3月13日に行なった廿日市市への朝鮮学校の生徒も「宮島訪問税」免除の対象とするよう要請7月3日から7日までの5日間旧日銀広島支店で開催した「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』広島展」11月に開催された「金剛山歌劇団広島公演」を広島朝鮮初中高級学校支援のためのチャリティーコンサートとして 位置づけ取り組んできたこと無償化裁判を闘った全国の弁護士が集まって11月9日に広島で開催された「朝鮮学校を支援する全国弁護士フォーラム 2024IN 広島」を成功させるための協力」について報告されました。

次年度方針としては、「日朝国交正常化の実現をめざし、朝鮮民主主義人民共和国に対する全ての制裁措置を直ちに解除し、対話再開のための道を開くよう、全国の運動に結集し日本政府に対する働きかけを強化します。朝鮮学園への「高校無償化」の適用、補助金の再開、物価高騰対策補助金適用対象を勝ち取るため、支援行動への参加、情宣活動・署名運動等を通じて、政府・文科省、広島県・広島市に対する取り組みを強化します。広島朝鮮初中高級学校における民族教育諸活動を財政面から支援できるよう、「民族教育連帯基 金」(別称「広島朝鮮学園支援県民基金」)の協力呼びかけ、チャリティーコンサートなどのカンパ行動に引き続き取り組みます。在日朝鮮人に対するあらゆる差別・偏見を許さず、在日朝鮮人の民主的民族諸権利を擁護するための取り組みを継続・強化します。」とする活動方針が提案され、全体の拍手で承認されました。また、12月広島県議会で採択された宿泊税も非徴収の対象から朝鮮学園が除外されている問題についての取り組みを具体的に進めることも確認されました。

その後、会計報告、予算さらに足立修一(弁護士)、高橋克浩(広島県平和運動センター)の共同代表をはじめ、役員体制提案され承認され,総会は終了しました。

総会終了後、11月12日に開催された「金剛山歌劇団広島公演チャリティー」で集まったカンパ金124万6千円の目録が、高橋克浩代表委員から広島朝鮮学園朴志晙(パク・チジュン)校長に贈呈されました。

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総会終了後は、例年その時のテーマに沿った講演を行なってきましたが、今年は少し趣向を変え、数年前から福岡朝鮮歌舞団と共に活動を続けている広島朝鮮歌舞団の活動を支援する意味も込めた両歌舞団による公演が行なわれました。

福岡から駆付けた3名と広島の1名、計4名による歌、踊り、仮面舞踊が演じられました。

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イムジン河、アリランと赤とんぼの歌、さらにこの公演のメインである仮面舞踊朝鮮の昔話「三年峠」が、コミカルに演じられ、会場から大きな拍手が起きました。そして、最後は出演者の指導の下、朝鮮舞踊の一部の振り付けを参加者全員が演じて、公演は終了しました。

今後、日朝連帯活動の中で,広島・福岡朝鮮歌舞団の公演をやりたいとの声も会場から上がっていました。

いのちとうとし

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2024年12月18日 (水)

三原の12月「19日行動」

12月14日(土)、2024年最後となる三原駅前での定例街宣「19日行動」を13時30分から19人が参加して行いました。マイクを持った6人の弁士は、「ウクライナ軍事侵攻やパレスチナ・ガザ大量虐殺の悲惨な状況を見たとき、絶対に戦争はあってはならない。良い戦争はない。悪い平和はない」。「ノルウェー・オスロでの日本被団協ノーベル平和賞授賞式に参加した被爆者や若い高校生の核兵器廃絶への強い思い、姿を見て、被爆の実相の継承が大切である」などと訴えました。

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司会者からは、11月に岡山市で開催された「憲法理念の実現をめざす護憲大会」での畠山澄子さん(ピースボート共同代表)の言葉、「日本被団協のノーベル平和賞受賞について、被爆証言、一つ一つの行動が結果に出る。大変勇気づけられた。核兵器廃絶へのメッセージ『戦争はダメなんだ戦争ではなく平和の準備を』ということを教えてくれた」を紹介しました。

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 弁士の冨中さんは、今年の政治を振り返りスピーチを行いました。▲10月27日に実施された衆議院選挙で自公連立政権は過半数割れとなり、国会の状況も大きく様変わりしてきた。衆議院の予算委員長に野党の立憲民主党。憲法審査会長も野党の立憲が就任。立憲野党の存在感を発揮し、民主的に運営されることが期待されている。更に、国連女性差別撤廃委員会が重ねて政府に勧告している民法改正・選択制夫婦別性問題を扱う法務委員会委員長に野党(立憲)が選出され、法案審議が期待されている。▲先の衆議院選挙で厳しく問われた自民党派閥の裏金事件を受けて、「政治とカネ」の問題が政治改革の焦点になっている。企業・団体献金の禁止、政策活動費の廃止など政治資金規正法の再改正について、石破首相は熟議の姿勢を見せつつも、結論には踏み込まず、時にははぐらかす「石破論法」に終始して物事の先送りをしている。来年は参議院選挙が行われる。今度こそ政治を国民の手に取り戻すため、頑張って行きたいと思う。▲今年1年大変お世話になりました。『憲法9条を』守り、『戦争法を廃止』し、平和で安心・安全に暮らせる社会を作るため皆さんといっしょに頑張りますので、来年もよろしくお願いします。等戦争をさせない三原市民行動共同代表として挨拶しました。

 「19日行動」、今年も延べ200人を超える市民のみななさんが毎月街頭に立って、平和憲法を守ろう!と訴えてきました。引き続き、戦争をさせない運動に温かいご支援をお願いいたします。

藤本講治

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2024年12月17日 (火)

江戸・戦前の広島を発見!

旧日銀広島支店で「江戸・戦前の広島を発見!」、22日までの会期で開催されています。

どんな展示になっているか興味がありますので、厳しい寒さの中、昨日会場を訪れました。

会場は行ってすぐに掲げられている「はじめに」には次のように書かれています。

「この企画展は、写真などを通し、広島の街で人々が大切にしてきたものや文化に触れ、皆n影響で古いものは残っていない』といわれ広島市ですが、実は多くの史料が残されています。今回は、それらの中から,現在の広島に暮らす人々にもなじみの深い場所と共に、江戸時代から戦前までの広島市で、人々が喜び祝った管絃祭にまつわる写真を選びました。」

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解説文に引用されているのは二つの書籍です。

一冊は、中島豪一著「古地図と歩く広島」です。

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もう一冊は、薄田太郎著「がんす横丁」です。この本は4分冊になっています。

これらを下に「中島町、広島商、流川・幟町・胡町界隈・旧台屋町・京橋界隈、二葉の里界隈、広島駅周辺、比治山とその周辺、宇品界隈、豪華な御供船で賑わった京橋・本川、幟町周辺」の戦前の様子を映した写真とその解説が展示されています。2冊の本は、私も所持していますので、見覚えのある資料が並んでいます。

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紹介したいのですが、展示されているものは、撮影禁止ですので、チラシの裏にあった写真の内2枚を紹介します。左は猿猴橋、右は御幸橋です。

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熱心に見ていましたので、「興味がありますか」と岡部喜久雄さんから声をかけられました。

岡部さんは、この企画展に関わっておられる一人です。岡部さんとは初対面でしたが、いろいろ興味ある解説をしていただきました。

「このコーナーは、私が作ったものが展示されていますので、写真を撮ってもらってもかまいませんよ」とのこと。展示物の最後の方にこのコーナーはあり、特に戦前の戸別詳細地図があります。

その一枚です。

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米軍が原爆を投下する直前の7月25日写した航空写真とそこの写っている街の当時の戸別地図が並べてあります。右側の地図の上には、幾本ものピンが立っています。このピンは、これまでこの地図を見て、「私の家だ」とか「親類の家だ」とかの情報が寄せられた家でそうです。

こんな地図もありました。

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下部の青丸は「西」と書かれています。森滝市郎先生の岳父西晋一郎宅です。現在の県立美術館のすぐ北側に「西晋一郎旧宅」の看板があり、実際にはどの辺りに家があったのかと思っていましたので、興味ある地図です。岡部さんに話すと、「その通りです」と教えていただきました。

他にも,原民喜が被爆した実家も地図で見つけることができました。岡部さんから「原家は、お父さんの代に家を平屋に建て直した時、頑丈な造りにされたので、爆風でも倒壊しなかったのですよ」と教えていただきました。

さらに「爆心地から約950メートルの距離しかなかった流川教会の牧師だった谷本清さんが、なぜ生き残ることができたのかと不思議に思っていたのですが、娘さんの近藤紘子さんに尋ねたら、『牧師の宿舎が縮景園の近くにあり、そこで被爆したからです』と教えていただきました」などなど、いろいろな情報を提供していただきました。

「もし興味があったらぜひ訪ねてきて下さい。いろいろ資料を持っていますので」とお誘いを受けました。

博識な岡部さんには、聞きたいことが山ほどありますので、ぜひその機会を作りたいと思います。

午後4時過ぎの会場を訪れたので、少し時間が足りない感じですが、有意義な「江戸・戦前の広島を発見!」展示会の見学になりました。

いのちとうとし

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2024年12月16日 (月)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

広島国際会議場地下2階サクラで開催されている「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」に行ってきました。

広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒が、2007年から毎年、被爆体験証言者とともに原爆被害の実相を後世に伝えるために取り組んできた作品は、207点となっているそうです。

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今年夏にも開催され、その時も見に来ていますが、日本被団協のノーベル平和賞受賞のニュースの中で、箕牧智之さんのインタビューの時に何度か基町高校生が描いた画が写っていましたので、もう一度見てみたいとの思いもあって、会場を訪れました。

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今回の展示は、今年完成した作品とこれまでに制作された作品の中から,逝去された証言者の絵が展示されていましたので、残念ながら箕牧さんの証言をもとにした絵は展示されていませんでした。

しかし、全部で42枚展示された「原爆の絵」は、いずれも当時の状況を再現しようという思いが伝わる作品でした。

会場を入ると最初に、今年完成した作品が並んでいます。

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新作の一枚に「黒い雨」を題材とした作品もありました。

タイトルは「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射性物質を含んだ危険な雨とも知らずに」です。

ここにその作品を紹介しようと思って写真を撮ったのですが、額のガラスに私の姿があまりにもはっきりと映り込んでしまいましたので,紹介を断念します。

亡くなった被爆者の中には、李鐘根さん、松原美代子さん、兒玉光男さん,中西巌さん、岡田恵美子さん。・・・何人も私のよく知った人の名前がありました。

絵画に添付された「描いた場面の説明」「生徒のコメント」そして「被爆体験者のコメント」じっくりと読むことによってより描かれた情景に思いをはせることができます。

高校生のよって描かれた「原爆の絵」は、これまでの被爆者の証言活動の大きな力になったと思いますが、これからも被爆の実相を伝えるための役割を果たし続けてくれるに違いありません。

すでに12月中旬になっていますが、会場を出ると寒空の中でしたが、今日も修学力生の姿がありました。同じ高校生、時間があれば「原爆の絵画展の会場にも行ってほしいと強く思いました。

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会期は、24日(最終日のみ16時、それ以外は17時まで開場)までです。一人でも多く開場に足を運んで欲しい絵画展です。

いのちとうとし

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2024年12月15日 (日)

2024年12月のブルーベリー農園その2

東広島市豊栄町のブルーベリー農園ではブルーベリーの紅葉がまだ続いていてメインの晩生のブルーベリーは落葉をまって剪定をするので、今の時期に落葉している早生の木100本余りの剪定に取り掛かりほぼ終了。そして里山のシカ対策で設置していた防獣ネットもここ数年被害がないので撤去作業も終了。これから年末までは農園周囲の灌木、笹の伐採やブルーベリーの木の周りの耕起や伸びた根の根切りなどの作業に移行する。

128日(日) 日中は穏やかな天気だった

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里山の木々の間からブルーベリー畑の紅葉が見える

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128日(日)には里山のカエデも黄色に紅葉していたが

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11日には一気に落葉して地べたを黄色く染めた

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とても大きくてよく茂ったブルーベリーの木(晩生のティフブルー)は花芽もしっかりついている

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ブルーベリー畑の電気柵のポールにとまるジョウビタキ

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里山のエゴノキの枝にとまるヤマガラ

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剪定作業中の里山からも刈った木々は田んぼに運んで野焼きする近所の農家の方が作業をしているのが見える

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しばらくすると黙々と煙が上がる

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1213日(金) ブルーベリー園にある里道もきれいに伐採する

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アキノキリンソウの花が終わり穂にはたくさんの種が実っている。春に芽がでることを期待して何本か切って地べたにまき土をかけてみた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年12月14日 (土)

「不当判決」ー被爆二世裁判広島高裁判決

2023年2月の広島地裁判決を不服として,広島高裁に控訴して争っていた広島被爆二世集団訴訟に対し、昨日12月13日広島高裁高宮健二裁判長は、原告の控訴を棄却する不当判決を言い渡しました。黒い雨訴訟で、原告勝利の判決を出した広島高裁だけにと期待がされましたが、その期待を全く裏切るものでした。

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今回の判決は、広島地裁判決は、下記の弁護団、原告団声明にも書かれているように,国側の主張を意図的に重視し、放射線被害の遺伝的影響を肯定する科学的根拠は示されていない、と基本的に国の主張と同様の判断を示しました。被爆二世の健康、生活不安に向き合おうと言う姿勢を全く感じることができずないしないもので、到底容認できるものではありません。

記者会見の後、弁護団、原告は、直ちに最高裁への上告を決定し、上告手続きに入ることを確認しました。

以下に、少し長いのですが、弁護団・原告団声明を掲載します。


2023年27日の広島地裁判決に対する控訴審において、本年1213日、広島高裁は、私たちの控訴を棄却するとの判決を示した。第1審広島地裁の判決に続いて、結論において、私たちの求めた被爆二世に対する賠償を否定したことは、到底納得し得るものではなく、強く抗議する。

 原爆による放射線の被害は、19458月に広島・長崎の人たちが人類史上初めて経験したものであり、極めて多数の人たちが、瞬時に、そして耐えがたい苦痛の末に命を失い、また被爆による深刻な健康被害に苛まれてきた。日本政府は、被爆者の切実な訴えを受けて、ようやく1957年に原爆医療法を制定し、以降現在の被爆者援護法によって被爆者援護の政策を続けてきた。原爆放射線が人間に遺伝的影響を与えるかについては、すでに1950年代から指摘されてきたことであり、現在に至るまで、多くの研究者がその影響を否定できないことを動物実験等科学的根拠をもって明らかにしてきた。現実に多くの被爆二世が、何らかの形で原爆放射線の影響を受けていることは否定できず、多くの二世が白血病や様々なガン等の疾病に苦しみ、またほとんどの被爆二世が健康に不安を覚える日々を過ごしてきた。

 私たちは広島地裁において以上のことを切々と訴えた。同地裁は、放射線被害の遺伝的影響の可能性を認め、この点における原告らの主張の正当性を認める判断を示したと理解することができるものの、結論的に、被爆二世に対する援護措置については、「立法府の総合的政策的判断を要する合理的な裁量的判断に委ねられている」として、私たちの請求を棄却した。

 被爆者援護法は、原爆放射線により健康被害が生ずる可能性がある事情の下に置かれていた者を援護の対象としていると解されることは、地裁も高裁も認めている。そうであるならば、当然被爆二世に対しても同様に援護法による援護がなされるべきは明らかである。

 しかし、このたびの広島高裁判決は、「現実に放射線を直接浴びた可能性のある被爆者及びみなし被爆者と、被爆時には存在していなかった被爆二世とでは、原爆の放射能により健康被害が生じる可能性の前提となる、ヒトに対する放射線の影響(被爆二世については遺伝的影響)に関し、その基礎となる医学的・科学的知見において顕著な差異があるというべきである」とし、「被爆二世の訴える健康上の不安に対処すべく、被爆二世を援護の対象に加えるか否か、その援護の在り方については、総合的・政策的判断を要する立法府の合理的な裁量的判断に委ねられているというべき」と、極めて恣意的な、地裁判決と同様の解釈を示し、不当にも私たちの主張に正面から応えようとしなかった。

 のみならず、広島高裁判決は、国側の書証、国側の証人の証言を意図的に重視し、放射線被害の遺伝的影響を肯定する科学的根拠は示されていない、と、基本的に国の主張と同様の判断を示している。今回のような不当な司法判断を確定させることは到底できない。

 しかしながら、被爆二世訴訟においてこれまで示された裁判所の結論は、いずれも「立法府の合理的な裁量的判断に委ねられている」というものである。国会が被爆二世について立法的措置を講じるか否か、大きな課題とされていること自体は否定できないところである。

 私たちはあくまでも、国の被爆二世に対する援護についてのこれまでの国の態度を根本的に改めさせるために、そして、世代を超えた“核”による人類への重大な影響を明らかにし、最終的には核兵器の廃絶を実現するために、最後まで闘いを続ける所存である。


判決も原告側の主張は認めなかったものの「立法府の合理的な裁量的判断に委ねられている」としていますから、今後はさらに国会への働きかけが重要になります。

いのちとうとし

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2024年12月13日 (金)

日本政府は今こそ被爆者の願いに応えよ

昨日の続きです。

日本被団協の田中煕巳代表委員は、ノーベル平和賞受賞演説の中で日本政府に対し、「戦争被害者である原爆犠牲者に対し、国家補償による償い」を強く求めるとともに、その後の記者会見では「日本政府が核兵器禁止条約を署名批准し、核兵器廃絶の先頭に立つ」ことを求めました。

こうした被爆者の思いに対し、石破首相は、衆議院予算委員会で「来年で被爆80周年になる。風化することは絶対にあってはならない」とし、「証言をずっと続け、核兵器に悲惨さを世界に広め、平和への思いを伝えていただいた。政府として感謝以外の何物でもない」と語ったとマスコミは報道しています。

しかし、その発言の中には、被爆者が求める「核兵器廃絶」や「原爆犠牲者への償い」への道筋を示すものは何もありません。被爆者が日本政府に求めるのは、自分たちの活動への感謝ではないはずです。核兵器の存在を前提とする「核抑止」の政策を転換し、「核なき社会」の実現に日本政府が先頭に立って全力を挙げることです。

その第一歩が、日本政府による核兵器禁止条約の署名、批准です。そしてそれは、私たちの決意でもなければなりません。

それを実現させる運動へのひとつの示唆を与えるのが、原爆ドームの世界遺産登録に向けた市民の運動です。

連合広島や広島県原水禁、広島県被団協など12団体で構成する核兵器廃絶広島平和連絡会議は、ノルウェーのオスロで開催されたノーベル平和賞受賞式の前日9日の午後6時から原爆ドーム前で「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」を開催しました。 

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その集会アピールの中で,原爆ドーム世界遺産登録の経緯を次のように紹介しています。

「1996年12月7日、『原爆ドーム』のユネスコ世界遺産登録が実現した。当時、多くの市民、県民が一体となって,4年間にわたる署名活動などの取り組みを実施した。思いが詰まった164万筆を超える請願署名は政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることができた。」

署名が始まる前には「政府を動かすのはなかなか難しい」と思っていたのですが、まさに市民・県民一体となった署名が、もちろん市民の署名だけでなく、県内自治体の意見書採択なども大きな力となって政治を動かし、「文化財指定基準」の改正を実現させ、原爆ドームの世界遺産登録実現への道を切り拓いたのです。

当時広島県被団協理事長だった伊藤サカエさんは,世界遺産登録の意義を次のように述べています。

「1996年12月に世界遺産に登録された原爆ドームはあまりにも酷い姿をさらけ出しています。でも、原爆ドームは生きています。世界の未来に向けて絶叫しています。原爆ドームこそは、世界の共有財産として警告を発しなくてはなりません。・・・核兵器が存在する限り、抑止力に頼る冷戦は終わりません。人間の世界で、イデオロギー、宗教差別、人種の違い、貧富の格差等によっての戦いはやめて下さい。核兵器は、人類や地球上の生き物凡ての生命を奪います。被爆の生き証人の私たちの命も後少しとなりました。原爆ドームは人間の世界が有る限り、平和と核廃絶を世界の人々に求め、訴え続けてくれるでしょう。」

世界遺産登録された原爆ドームは、被爆者の証言とともに、平和公園を訪れる人々に無言の証言者として、核兵器の恐ろしさを訴えています。

1956年3月の被爆者による最初の国会請願に参加し、被団協結成にも参画した伊藤サカエさんは、1994年12月に被爆者援護法が成立して時「国は原爆で死んで人に線香の一本でもよいから供え、悪かったと言ってほしい」と国家補償の理念を欠いた被爆者援護法を厳しく批判しました。そうした先人の思いが、田中煕巳代表委員の演説に繋がっているのです。

被団協のノーベル平和賞受賞は、改めて被爆者運動の歴史をふりかえる機会になり、そして運動の原点に立つことの大切さを私たちに教えてくれました。

民衆の力こそが、政治を変える力だということです。

いのちとうとし

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2024年12月12日 (木)

ノーベル平和賞授賞式

今年のノーベル平和賞に選ばれた日本被団協の授賞式が,10日ノルウェーのオスロ市庁舎で行なわれました。

私は、その様子をわが家でNHKの中継放送で見ました。

被爆者の皆さんが核兵器の廃絶と被爆者の援護を訴え続け、そして「こんな思いを他の誰にもさせてはならい」と世界の人びとに呼びかけてきた活動が評価されたものであり、心からお祝いを申し上げます。

NHKの映像を見ながら、身近に接してきた森滝市郎先生をはじめとする今は亡き広島県被団協の歴代の理事長の姿を思い起こしました。この先人のたゆまぬ努力があったからこそ、今の受賞があるのだと改めて感じました。そして、反核運動を共にしてきた私たちが果たすべき役割の重さも改めて自覚させられる授賞式でした。

田中煕巳代表委員の演説中に写された会場には、何人かの知り人の姿がありました。

その中で、印象に残ったのは、ブラジル在住被爆者の渡辺淳子さんです。何度も渡辺さんの姿が登場しましたが、最初気がつかなかったのですが、途中大写しになったとき、渡辺さんの手には、在ブラジル被爆者運動の牽引者であり、4ヶ月前の今年8月100歳の生涯を終えられた森田隆さんの遺影がありました。

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田中煕巳代表委員の演説は、自らの被爆体験を語り、日本政府の国家補償に基づかない被爆者行政を厳しく批判し、「核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心から願いです」とし、「核兵器は人類と共存できない」と訴えました。そして「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めてともにがんばりましょう」との呼びかけに、会場からは大きな拍手が沸き起こり,感銘を与える演説でした。

田中さんの演説には、私も心を打つものを感じたのですが、演説を聴きながら、私は何とも言えない違和感を持ちました。

翌日の新聞に掲載された田中煕巳さんの受賞演説全文を改めて読み返してみました。違和感は、どこから生じたかといえば、この演説の中に「非人道兵器である原爆を投下したアメリカ」が、全く登場しないことです。

こうした違和感を持つのは私だけでしょうか。それとも、こうした違和感を持ってはならないのでしょうか。

そう思う中で11日付中国新聞の1面に掲載された宮野史康記者の署名記事「被爆者に報いる行動をする時」の中に次の一文を見つけました。「亡き森瀧市郎さんが起草した広島県原爆被害者大会の宣言には『あの瞬間に死ななかった私たち』という一文もある。被爆者たちは米軍が落とした原爆により命を絶たれた死没者たちの思いを背負っている」

いのちとうとし

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2024年12月11日 (水)

12.8不戦の誓いヒロシマ集会

毎年12月8日に、憲法を守る広島県民会議、広島県平和運動センター、広島県原水禁、8の日平和行動ヒロシマ女の会、戦争をさせないヒロシマ1000人委員会の5団体が主催する「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」は、今年も午前10時から広島弁護士会館で開催されました。

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集会は、藤本講治県護憲事務局長の司会で始まり、弁護士で戦争をさせない1000人委員会代表委員の山田延廣さんが主催者代表あいさつ。山田さんは「自民党政権によって進められる軍備増強の動きに対し、私たちがしっかりと声を上げていこう」と呼びかけました。

続いて、原爆ドーム前で「イスラエルのガザ侵攻に抗議し、即時停止」を求めてのスタンディング行動を行なっている広島パレスチナともしび連帯共同体の広島市立大学大学院生のレベッカ・マリア・ゴールドシュミットさんが「ガザ侵攻の今」と題してスピーチ。

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レベッカさんは、ガザ侵攻によって多くのいのちを奪っているイスラエルを厳しく糾弾、そしてそれを支える世界の多くの企業、もちろん日本企業がいることを指摘するとともに、世界で若者たちが、ガザ侵攻に抗議し、停戦を求めて立ち上がっているにもかかわらず、日本の動きが極めて弱いと指摘。さらに、平和都市というヒロシマが本当にその役割を果たしているのかと問いかけました。原爆ドーム前で連日先頭に立って行動してきたレベッカさんの訴えは、参加者の胸に堪えるものでした。

レベッカさんのスピーチの後、「日米開戦から83年―戦争への道を再び歩まない-」と題して、私が講演を行ないました。

私が訴えたかったことは、「①歴史から学ぶことが大切。歴史を忘れたとき再びあやまちを繰り返すことになる。②私たちは、12.8だけを忘れてはならない。なぜ12.8の開戦が起こったのか、9.18(1931年柳条湖事件),7.7(1937年盧溝橋事件)の日付を記憶に残して欲しい。③12.8真珠湾攻撃より先に始まったのがマレー半島の上陸作戦。その作戦には、広島の歩兵第11連帯が大きな役割を果たした。④広島第11連帯は、1937年に始まった日中戦争以降、すぐに中国を侵略した部隊である。この戦争の犠牲となった2000万人のほとんどはアジアの人々。太平洋戦争というが、その実態はアジア太平洋戦争。⑤今、脅威が強調され、日本の軍備強化が進んでいる。しかも明らかな敵基地攻撃の能力もって。⑥そんな中で政府の「台湾有事脅威」論に私たちも肯定していないか。⑦軍備増強を唱える政治家は、『国民の生命や財産を守る』というが、一般戦災者を保障する法体系はいまだ作られていない。⑧こうした事態の中で大切なことは、日本国憲法の理念に立ち返ること.とりわけ憲法の前文を読み直して欲しい。」ことです。

そして特に強調したのは、「戦争は政治の失敗。戦争にいたらせないための努力こそが政治の役割。同じあやまちを繰り返さないためには、おかしいことはおかしいと言える社会を作らなければならない。それを作るのは,私たち一人一人の日常的な努力と自覚が必要である。」「一生懸命にがんばっても何も変わらない。確かに私たちの行動はほとんど無意味かも知れない。しかし、何もしなければ、もっと悪くなるし、自分自身の考え方も変わることになる」と訴えて講演をまとめました。

私が広島に来て55年。その間に被爆者の皆さんや先輩から学んだことを基に、問題提起をしました。

その後、アイ女性会議の富川久子さんが「ヒロシマに暮らす私たちは、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて心に刻み、世界から戦争が無くなることを願い、歴史の忘却を許さず、平和憲法の理念の下に世界の恒久平和の実現に向け、これからも不断の努力をつづけていることを確認する」とした不戦の誓いアピールを提案し、全員の拍手で採択し、集会は終了しました。

参加者は、80人でした。

いのちとうとし

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2024年12月10日 (火)

どうしても理解できない島根原発2号機の再稼働

12月7日午後、島根原発2号機の再稼働が強引に開始されました。

12月に再稼働すると聞いた時、この日を予測していました。なぜか、それは7日が「大安」だからです。これまで、この会社を40年以上見てきましたが、大きな行事を行う時は大安を選ぶのです。大安で且つ土曜日、ニュース報道も少ない中、予測が的中しました。こんな会社なのです。

島根原発の危険性については、11月25日付けのブログにも書きました。しかし、時々「原発の危険性は解るけど、電気が無いと困るから」という質問を受けることがあります。こういう質問は街頭でマイクを持って話している時が多いのです。

だからこの際、あえて原子力発電の危険性という問題を外して、それでも発電所は要らないという話しをしたいと思います。

電力の需要と供給の割合を現わすものに、「予備率」というのがあります。需要量に対し供給量がどれだけあるかというものを示すものです。例えば100の供給量に対し90の需要量の場合、予備率は10%となります。

先日中国電力ネットワークは、この冬期(12月~2月)の予備率の予測を、が発表しました。電力需要は常に変動していますので、最大利用時で予備率を予測していました。

その発表によると、いずれの月も11%を超えています。この数字は島根原発2号機の再稼働がされていないという前提で算定されたものです。最低限必要な予備率は3%とされていますから、10%を超える予備率は電力の余り過ぎを数値で示しています。島根原発2号機が発電を始めると、予備率はもっと上がります。

また、出力制御(抑制)というのがあります。電力供給量が需要を上回る場合に、再生可能エネルギー発電を行っている事業者に発電停止を求めることです。発電された電力を中国電力が買い取らないことです。再生可能エネルギー発電の電力をゴミ箱に捨てることです。

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注 上記グラフは、中国電力の12月9日午後5時現在の需給見通しと実績

棒グラフは、水色は当日実績、薄い緑色は当日予想。赤色の折れ線は、太陽光発電実績、上部にある赤い横線は、ピーク時供給力で、使用率は80%前半で推移

主に太陽光と風力による発電が出力制御されます。この回数も数値も中国地方は全国で3番目に多いのです。

一般的に出力制御は、電力需要が少ない春や秋の時期が多いのですが、中国地方では11月28日の時点で46日間実施したと発表しました。1月1日から11月28日までは333日ですから、7日間に1日は出力制御を実施していたことになります。

出力制御は、再生可能エネルギー事業者の意向に関わらず、中国電力ネットワークにより遠隔操作で行われます。再生可能エネルギー発電事業者にとってはまさに死活問題です。

島根原発2号機は電気出力82万Kwの発電所です。再稼働されれば、供給量が82万増えることになります。原子力発電をベースロード電源とも言いますが、これは電力使用量の変動に対応できない電源というものです。そうなると、ますます出力制御の回数が増えてくるのは明らかです。

そこまでしてなぜ原子力発電を動かすのか、どうしても理解できないことです。夜間には太陽光発電は発電しないと反論がありますが、電力を貯めることは日本では十分に可能な技術です。あえてやらないで原発が必要というのは、まさに詐欺的な行為だと思っています。

木原省治

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2024年12月 9日 (月)

中国電力島根原発2号機再稼働に抗議する慰霊碑前座り込み

広島県原水禁と広島県平和運動センターは、8日午後0時30分から30分間、多くの市民の反対の声を無視し、7日に強行した中国電力島根原発2号機の再稼働に抗議する座り込みを慰霊碑まで行ないました。

参加者は、42人でした。

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座り込みの最後に最後の以下の抗議文を全員で確認し、政府、中国電力に送付しました。


中国電力島根原発2号機の再稼働に抗議し、原発に依存しないエネルギー政策を求めるアピール

中国電力は12月7日、多くの国民の声を聞き入れることなく島根原発2号機を再稼働させました。

この原発は、事故を起こした福島原発と同型の沸騰水型原子炉(BWR)で、この型の再稼働は福島原発事故後10月の女川原発に続く2基目となります。福島原発事故の原因も未だ明確になっていない中、そして福島の「原子力緊急事態宣言」も解除されておらず、廃炉作業も遅々として進んでいないなか、次々と進められる再稼働を容認することはできません。

とりわけ、本年1月1日に発生した能登半島地震では、北陸電力志賀原発で数々の「想定外」起きました。原発内での変圧器の故障、原発周辺のモニタリングポストの故障、そして地震による道路やライフライン等の寸断。島根半島の地形も能登半島と同様に避難路が限られており、現状の避難計画に全く実効性がないことは明らかです。

さらには、核廃棄物処理を含めた「核燃料サイクル」が破綻し、廃棄物の処理もできない中での再稼働には一片の合理性も見いだすことはできません。

2011年3月11日、国民の大多数は、決して忘れることのできない東京電力福島第一原発の過酷事故を経験し、改めて、原発に依存しない社会の実現を決意したはずです。

今求められているのは、危険な原発への回帰ではなく、再生可能エネルギーのさらなる開発など、原発に頼らないエネルギー政策の推進です。

福島の被害者の思いを忘れてはなりません。

核と人類は共存できません!

私たちは、島根原発2号機の再稼働に強く抗議するとともに、即時運転の中止を求めます。

2024年12月8日

「中国電力島根原発2号機再稼働抗議・慰霊碑前座り込み行動」参加者一同


いのちとうとし

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2024年12月 8日 (日)

2024年12月のブルーベリー農園その1

当たり前だが少しずつ寒くなっている。東広島市豊栄町のブルーベリー農園では日中の気温が7度、8度となっていてしっかり作業着を着こんで安芸区の自宅から農作業に通っている。今の作業はブルーベリーの剪定で、落葉の早い早生のタイプから始めている。その木がある場所が里山なのでブルーベリーの畑にはほとんど行かない。見えないが、ヘビもカエルも冬眠、庭の池や溝の泥の下にはヤモリがじぃっーと潜んでいる。地べたのコケや雑草が青々と緑を広げている

125日(木) 123日から9日は障害者週間で安芸区の区民文化センターのギャラリーで3日から7日まで障害者の作品展示と事業所の紹介、食品や工芸品の展示販売コーナー、相談コーナーで構成された行事が行われた。

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参加した事業所の障害者の皆さんの絵や写真などの作品が展示されている。広島市の安芸区地域支えあい課、自立支援協議会、事業所代表としての安芸の郷などの協力で初めて実現したものでギャラリーならではの見栄えで心温まるイベントとなっており、今後も内容を充実させて続けたい

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121日(日) 畑のブルーベリーは全体が紅葉した

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124日(水) 里山の西側の早生のブルーベリーの剪定を続けている

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紅葉した葉の裏側にはところどころにセミの抜け殻がしがみついている

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ブルーベリー木の根元の太い幹を切ってみるとシンクイムシの入った穴がぽっかり開いている。枝を詰めこみ癒合剤を塗ってコーティングし雨が入らないように保護した。それでも他の場所から新しい枝が伸びているので枯れることはない

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126日(金) 農園の庭のヤツデの花は晩秋から初冬の貴重なミツバチの蜜源になる

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里山の早生のブルーベリーの剪定を続けている。切った枝には花芽が冬至を前に少しずつふくらむのが見える

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夕暮れになると剪定作業から同じ場所の里道側の防獣ネットの撤去作業に切り替える。1m幅で50mの長さのネットを分けていく

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時々小雨時々日差しが差し込む天気で空に虹が出て、

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遠くの山が赤く染まる夕暮れの景色が見事

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年12月 7日 (土)

ユーロシマ

日本被団協のノーベル平和賞受賞の機に、マスコミが連日日本被団協や被爆者の歩みの報道を続けています。

その一つに中国新聞が、12月1日から連載を始めた「歩み 被団協ノーベル平和賞」があります。

私の知らない歴史の紹介もあり、毎回注目して読んでいますが、その5回目となる12月5日の「国際活動」では少し気になる記載がありました。

この回は大見出しは「被爆者訴え 欧米で共鳴」で、被爆者の海外での証言活動の歴史の一部が紹介されています。気になったというのは、「核戦争に現実味」の小見出しで書かれた次の記述です。少し長いのですが、引用します。

「被団協の訴えは70年代後半から,欧米の反核運動と共鳴し始めた。東西冷戦のさなか、人々は現実味を増す核戦争におびえていた。米ソによる欧州への核ミサイル配備を起点に「ノー・ユーロシマ」(欧州を広島のような核戦場にするな)のかけ声が拡大。被団協は各国からの派遣依頼に積極的に応じた。」

何が気になるかといえば、「ノー・ユーロシマ」の言葉です。この記事の記述に間違いがあるというわけではありませんが、この記述では、「ノー・ユーロシマ」は、欧州の反核運動団体によって作られて言葉のように受け取れます。

じつはこの言葉は、森滝市郎先生が、1981年11月21日に西ドイツ(当時はドイツは東西に分裂していた)ドルトムントで開催された反核集会「クレーフェルト・フォーラム」での連帯あいさつの中で使われたのが、最初です。

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ドルトムントの集会 テーブルの左端が森滝市郎先生

 二週間あまりの「ヒロシマ語り部の旅」をふりかえって、中国新聞の取材に応じた森滝先生は、次のように語っておられます。

「西ドイツの環境保護団体『緑の党』のペトラ・ケリー女史、イギリスの核廃絶運動(CND)のEP・トンプソン氏らが檀上から報告。私は『ヒロシマ・ホロコースト』(大虐殺)の生き証人として聴衆に語りかけ、ドイツ語で締めくくった。『ユーロシマ』(ヨーロッパのヒロシマ化)になってはいけない。世界のどこにも核戦争が起こってはならない。われわれは生きることを欲する。そして生命が勝たねばならぬ。ワーッと歓声が上がった。『廃墟の光』で広島を描いたロベルト・ユンク氏が駆け寄って『よかった、よかった』といってくれた。」

この記述だけでは、「ノー・ユーロシマ」の言葉を森滝先生が最初に使ったということはっきりしないかも知れませんので、別のところに森滝先生自身が書かれたものを紹介します。

1982年7月に発刊された「ヨーロッパ反核79-82」(近藤和子、福田誠之郞編)の巻頭言「核戦争の危機と世界民衆の連帯」の中に、森滝先生は次のように記述されています。

「西ヨーロッパの人々の恐怖は同じように東ヨーロッパの人々の恐怖であるに違いない。81年11月21日西独ドルトムントの集会で『ヨーロッパはユーロシマになってはならない』と叫んだ私はその翌日22日ボンの集会に出た。そこには東ヨーロッパの代表も困難を押して参加していた。民衆の恐怖と憂慮と反核行動に於て西欧も東欧も一つなのである。

私が帰国してまもない頃、東独の平和団体から届いた印刷物にホーネッカー首相の演説が載っていた。その標題は『ヨーロッパはユーロシマとなる必要はない』となっていた。」

中国新聞の連載は、前日の「座り込み」で森滝先生が取上げられていますので、この記事では森滝先生の名前は記載されなかったと思いますが、この二つの文章を読めば、「ノー・ユーロシマ」の語源が、森滝先生であることが理解できるのではと思います。

当時、ヨーロッパでは、1979年に決定された「1983年のNATO軍への地上発射ミサイルパーシングⅡの配備」に反対するため、10万人を超える抗議集会が、各地で開催されていました。この欧米での反核運動の盛り上がりを受け、日本でも1982年3月21日に広島で「反核20万人集会」が開催され、その後の全国各地での数十万人を集める反核集会へと繋がったことを思い出します。

私が原水禁運動の事務局に関わることになったのは、この「3.21反核集会」実行委員会の事務局に入ったことが契機でした。

いのちとうとし

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2024年12月 6日 (金)

被爆二世裁判広島高裁判決前集会

今年726日に結審し,今月13日に広島高裁での判決日を迎える被爆二世裁判の判決前集会が,昨日午後3時から弁護士会館で開催されました。

被爆二世への援護を求め人権を守るこの裁判も,2017年広島地裁への提訴からすでに7年が経過しました。

同時に提訴した長崎での集団訴訟では、今年229日に「被爆2世については原爆による放射線の遺伝的影響は証明されていない。被爆者などと同じ援護をしないことが差別的な扱いとはいえず憲法に違反しない」とする福岡高裁判決が出ています。

原告団は、先月27日にマスコミの皆さんにこの裁判をより理解してもらうため、「被爆二世裁判の意味」や地裁判決の問題点などをレクチャーし, 昨日の判決前集会開催となりました。ています。

集会は、全国被爆二世協事務局長平野克博さんの司会でスタートし、長崎から駆付けた全国被爆二世協会長崎山昇さんが「黒い雨判決をなかったかにするような司法判断が続いているが、広島高裁は、黒い雨訴訟で原告勝訴の判決を出しているので13日の判決に期待をしている」とあいさつ。

続いて弁護団長である在間秀和弁護士が、なぜ提訴したのか、これまでの被爆者援護法制の歴史、さらに裁判の経緯、これまで出された判決の問題点を説明しました。

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特に、裁判を通じて国が主張してきた「放射線被害の遺伝的影響を示す科学的根拠はない(「放射線被害に遺伝的影響はない」と断言せず)。だから立法義務はない」という国の主張は、「裏を返せば、遺伝的影響が否定されていないことになる」と解説。

さらに訴訟の争点を改めて整理し①被爆者援護法の基本的趣旨は何か②放射線被害の遺伝的影響はないと言えるのか③「遺伝的影響の可能性」があるとして、援護法の趣旨からすれば援護の対象とされるべきか④援護の対象とされるべきとして、国はいかなる措置を執るべきか⑤国が執るべき措置をとっていないとして,原告らに対して賠償責任を負うのか.の5つを提起しました。

そして、13日に出される広島高裁の判決について「遺伝的影響をなんとか避けたいと,私たちの主張を否定する姿勢にしか見えないが、核兵器は世代を超えて影響を与える兵器であり、私たちの主張に真摯に向き合った判決を出すべきだ」と指摘しました。

最後にNHK朝の連続ドラマ「虎の翼」でも紹介された「原爆裁判」の判決文の「充分な救済策をとるべきことは、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない責務である。しかも、そういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけではなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって,そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。」を紹介し問題提起を終えました。

その後数人の参加者の意見表明があり、その中で、広島高裁の第3回口頭弁論で意見陳述をおこなった上野原曻さんが、「自分のことをやっとさらけ出せるようになったのは、この裁判に参加してからだ。さらけ出すことによって裁判官にも訴えるものがあったのではないか」と裁判に参加した意義を話されたのが印象的でした。

判決前集会は予定通り午後4時30分に終わりました。

広島高裁の判決は、13日の午前11時に言い渡されます。

いのちとうとし

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2024年12月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その64) ~南シナ海をめぐる動向-8~

岩礁の法的地位と海洋権原をめぐって

  前号に続き2016年のハーグ常設仲裁裁判所の裁定についてです。中国・台湾・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ブルネイの6カ国が領有権を争っている南シナ海問題でよく取り上げられるのが、中国が岩礁を埋め立て、建設した人口島です。中国はこれら岩礁(人口島)の領有を主張、自国に属する排他的経済水域(EEZ)として漁業や天然資源の採掘、科学的な調査などを行っています。

下図は、西沙諸島と南沙諸島における中国の人口島建設と実効支配を示したものです。西沙諸島のボンバイ礁、フィリピン本島西のスカーボロ礁、南沙諸島のスビ礁、ガベン礁、ファイアリー・クロス礁、 クアテロン礁、ジョンソン南礁、ミスチーフ礁、ヒューズ礁などです。

それらの海域にはフィリピンのEEZにあたる海域もあり、フィリピン政府は「漁民の生活権を妨害」し、「大陸棚における生物および非生物資源に関する主権的権利の享受および行使を妨害」していると提訴したのです。前号でも述べましたが、仲裁裁判所は主権や領有権に関する管轄権を持ちません。そこでフィリピンは、領有権そのものではなく、中国が人口島を建設し実効支配している岩礁(人口島)の「海洋地形の法的地位と海洋権原」を争点に提訴したのです。

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出典:「南シナ海情勢」防衛省、2023年5月)

岩礁埋め立て、中国の意図

領海や排他的経済水域(注1)は国連海洋法条約(海洋法第55条、57条)で定められています。そのイメージは下図です。起点となるのは領土ですが、国際法では海面下の岩礁(暗礁)は認められていません。そこで中国は水中に隠れたり、水面に少しだけ見られる岩や常に水面下に隠れている岩を埋め立てることによって島に仕立て、領土化を図ろうと実効支配しているのです。

その意図はこれまで幾度も述べた海洋資源などの経済的権益、海洋交通の要衝海域で主権が及ぶ空域と海域を広げ、米軍とその同盟国および同志国に対する軍事的プレゼンスの強化にあります。

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出典:『毎日小学生新聞』2022年11月23日

(注1)排他的経済水域

領海の基線からその外側200海里(約370km)の線までの海域(領海を除く。)並びにその海底及びその下です。

なお、排他的経済水域においては、沿岸国に以下の権利、管轄権等が認められています。

  1.天然資源の探査、開発、保存及び管理等のための主権的権利

  2.人工島、施設及び構築物の設置及び利用に関する管轄権

  3.海洋の科学的調査に関する管轄権

  4.海洋環境の保護及び保全に関する管轄権

仲裁裁判所の裁定 ~「島」ではなく「岩」~

仲裁裁判所はミスチーフ礁、セカンド・トーマス礁、ガベン礁、ケナン礁、スビ礁、ジョンソン礁、クアテロン礁、ファイアリークロス礁の海洋地形を「高潮地形(高潮時も水上面にあるが、人間の居住または独自の経済活動を営めない岩)」、もしくは「低潮高地(低潮時には水に囲まれ水面上にあるが高潮時には海中に没する岩)」とし、海洋法条約121条第3項の「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」に基づき、「領海や排他的経済水域(EEZ)および大陸棚に関する権利を生じせしめない」と裁定。すなわち、「島」ではなく単なる「岩」としたのです。

一方、ミスチーフ礁およびセカンド・トーマス礁はフィリピンの排他的経済水域(EEZ)および大陸棚の一部であると裁定しました。また、フィリピン本島から約240km西方海域のスカボロー礁において「中国が不法にもフィリピンの漁民が伝統的な漁獲を行うことで生計を立てることを妨害」しているとも断じました。

前号で触れた中国の「9段線の内海における歴史的権利」の主張に対し、「何ら法的根拠はない」と裁定したことを含め、仲裁裁判所の裁定はフィリピンの主張をほぼ認めたものになっています。しかし、一貫して仲裁裁判参加を拒否してきた中国は、「裁定は無効であり、拘束力を持たず、中国は受け入れず、認めない」と、今日に至っています。

対立と緊張を高めるのではなく、平和的解決への主導的役割を

裁定から8年経た現在、事態は6カ国の当事国だけでなく日米豪台vs中国の構図で緊迫の度を増しています。下図は、先に見た防衛省の「南シナ海情勢」に掲載されているものです。同じ西沙諸島・南沙諸島の海域において中国以外の領有権を争っている各国が進めている埋め立てと構造物建設の状況が掲載されています。

図中央の南沙諸島海域見ると、中国の〔赤色〕のプロットのほかフィリピンの〔水色〕、マレーシアの〔緑色〕、台湾の〔茶色〕、ベトナムの〔黄色〕プロットがしのぎを削るように描かれています。

力(武力)による対抗はシーソゲームのように際限なく拡大し、意図しない不測の事態に発展しないとも限りません。なぜか、中国の動向部分の見出しでは「中国による南沙諸島の占拠状況」と書かれ、ここ(下図)では「フィリピン、ベトナム、マレーシア等による開発動向」と書かれています。

 前号でも触れましたが、「締約国間の紛争を平和的手段によって解決するものとする」(「国連海洋条約」第279条)に添った日本政府の外交努力を求めます。いたずらに敵愾心を煽るのではなく、平和的なアプローチへと主導するための冷静な姿勢で臨むことを強く訴えます。

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出典:「南シナ海情勢」防衛省、2023年5月

4月から続けてきた「南シナ海をめぐる動向」シリーズ、今号で終え新年から新たなシリーズを始めたいと思います。来年も引き続き、よろしくお願いいたします。

(2024年12月5日、あかたつ)

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2024年12月 4日 (水)

12月の「3の日行動」

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマそうがかり行動実行委員会は、3日の午後5時半から本通の洋服の青山前で、定例の街頭アピール行動を実施しました。

定例と言っても先月の3日は、「2024平和といのちと人権を!11・3ヒロシマ憲法集会」を開催しましたので、2ヶ月ぶりの街頭アピール行動となりました。

私は、体調不良で10月の「3の日行動」に参加していませんので、3ヶ月ぶりとなりました。

12月の行動ですが、今日は11月初旬並みの気温ということで、寒さを感じることはありませんでした。ただ、午後5時前に日没を迎えたということで、開始時間の午後5時半は、すっかり暗くなっていました。

先の総選挙で、自公の与党が過半数割れの少数与党となって初めての街頭アピールとなりました。

藤元事務局長の司会で始まったアピールは、共同代表の一人川后和幸さんが冒頭の発言。続いて、数日後に迫った中国電力島根第2原子力発電所再稼働問題について「島根原発再稼働は許されない 上関原発止めよう!広島ネットワーク」の藤井純子さんが、このブログでも島根原発2号機再稼働の問題点を指摘してきましたが、強く危険な原発の再稼働に反対するアピールを行ないました。特に、藤井さんの娘さんが、広島弁で訥々と訴えたのは、力になりました。

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次は、私がマイクを握り、先の選挙結果を受けての国会のありようについて次のことを訴えました。

「何よりも大切なことは、安倍政権以降続いて国会論議軽視の国会運営をあらため、しっかりとし論議を通じて、国民の声が届いたと思える国会状況を作らなければならない。そして、広島の河井問題から連なる政治と金の問題について、その真相を明らかにし、具体的な政治改革を進めなければならない。今臨時国会では、主要課題としては見えてきていないが、私たちの行動のスタートとなった安倍政権による『憲法違反の集団的自衛権容認』、そして岸田首相による憲法無視の『攻撃的武器の配備、GDP2パーセントまでの防衛費の増大』の問題に正面から向き合った論議を深める必要がある。」

つづいて尾道からの参加者三木郁子さん、ピースリンク広島・呉・岩国の新田秀樹さんが、憲法9条をないがしろにするなと訴えました。

最後にマイクを握ったのは、すでに一年以上にわたってガザへのイスラエルによる虐殺攻撃に対し、被害者への連帯と「即時停止」を求めて原爆ドーム前でのスタンディング行動などの活動を続ける「ガザの虐殺止めよう 広島パレスチナともしび連帯共同体」の田野淳路さんです。「すでに12ヶ月、スタンディング行動を続けています。こんなに長く続くとは思いませんでした」としながら,憲法の前文を引用し「私たちにいま必要なことは、不断の努力です。平和も民主主義も私たちの不断の努力がなければ守ることはできません」と訴え、原爆ドーム前のスタンディングは、金曜日と土曜部の二日間に変えたことを紹介し、この行動への参加を呼びかけました。

最後に藤元事務局長が、「私たちのこの街頭行動は、来年も続けます。一人でも多くの人に耳を傾けて欲しいと願っています」と呼びかけ、12月の3の日行動を終了しました。

いのちとうとし

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2024年12月 3日 (火)

「広島市平和記念都市建設法」と第1回「平和宣言」

1日の午後1時半から平和記念資料館メモリアルホールで、「広島平和記念都市建設法75周年記念イベント」が開催されました。

イベントは、「広島平和記念都市建設法制定から75年の現在、広島の復興の原点と被爆者の想いをもう一度学び直すことから広島の未来について考える」ことをテーマに、二部の構成になっていました。

第一部は、「広島平和記念都市建設法」についての解説です。解説者の名前を聞いてびっくりです。このブログでも何度か取上げてきた「平和の鐘」で多くの示唆を与えていただいてきた「響け!平和の鐘実行委員会代表」の高東博視さんです。

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高東さんの話しは、三つの視点「①法の誕生の経緯②法の理念と骨子③法の制定過程」からのお話でした。広島平和記念都市建設記念法については、制定70周年の講演会の様子をこのブログ「広島平和記念都市建設法」制定70周年: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したことを思い出しながら聞きました。

広島平和記念都市建設法は、ややもすると復興に大きな役割を果たしたことが強調されますが、第一条の目的では「この法律は.恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」とされています。残念ながら、いまの広島市政には、この目的を誠実に追求しようとする姿勢が感じられません。そんな思いを持ちながら高東さんの話を聞きました。

高東さんとは、メールや電話で何度もやりとりをしながら一度もお会いすることができていませんでしたので、講演の後の休憩時間中にあいさつを名刺交換することができました。

第二部というかこちらがメインですが、「真の平和都市ヒロシマの願いとは・・・」と題した浜井順三さんの講演です。浜井さんは、「原爆市長」の著書がある公選によって初めて広島市長になり復興に尽力された浜井信三さんの息子さんです。

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浜井さんの話しの後、中国新聞水川恭輔解説委員との対談があったのですが、浜井さんのお話は、私の能力では解説できませんので、浜井さんが何度も強調された第1回(1947年8月6日)の「平和宣言」の全文を紹介します。この宣言の中から、浜井順三さんが強調された「平和を希求する広島の役割」を考えて欲しいと思います。


平和宣言

本日、歴史的な原子爆弾投下2周年の記念日を迎え、われら広島市民は、いまこの広場に於て厳粛に平和祭の式典をあげ、われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしようと思う。

昭和2086日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く原因となったことは不幸中の幸いであった。この意味に於て86日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。われらがこの日を記念して無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和祭を執行しようとするのはこのためである。けだし戦争の惨苦と罪悪とを最も深く体験し自覚する者のみが苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求するものであるから。

又この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新らしい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。われわれは、何か大事にあった場合深い反省と熟慮を加えることによって、ここから新らしい真理と道を発見し、新しい生活を営むことを知っている。しかりとすれば今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新らしい文明へのさきがけとなることでなければならない。

この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。

永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。

ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。

1947年(昭和22年)86

広島平和祭協会長・広島市長 浜井 信三


ところで、一昨日紹介した国際シンポジウム「グローバルに核被害をとらえ直す」でも、この「広島平和記念都市建設記念法75周年記念イベント」でも、「核と人類は共存できない」が強調されましたが、その「核」が核兵器にとどまっていることに強い違和感を持たざるを得ませんでした。

いのちとうとし

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2024年12月 2日 (月)

国際シンポジウム「グローバルに核被害をとらえ直す」

1130日午後130分から広島国際会議場で、広島市立大学平和研究所、中国新聞メディアセンター、長崎大学核兵器廃絶研究センターの3団体が主催する国際シンポジウム「グローバルに核被害をとらえ直すーいま改めて『ノーモア・ヒバクシャ』」が、開催されました。

この国際シンポジウムは、毎年この時期に開催され私も何度か傍聴してきましたが、これまでは、核をめぐる情勢を中心のシンポだったように記憶していますので、あまりピタリとくる内容ではなかったような印象が残っています。

今年は、タイトルに「グローバルに核被害を」とありましたので、少し期待を持って参加しました。シンポジウムを終えての感想は、それぞれの立場で、世界の核被害者に向き合おうとする思いを感じました。

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特に市立大学平和研究所のロバート・ジェイコブズ教授の基調講演「核兵器の開発・保有という暴力 グローバル・被爆者の視点から」は、興味深く聞くことができましたので、少しだけその内容を紹介します。

最初に、核兵器の影響(爆風・熱線・放射線)について解説。特に放射線の影響の中で、広島では黒い雨に象徴されるフォールアウト(放射性降下物)による健康への影響を強調されました。それは次に続く、核実験による被曝に繋がる指摘です。「1945年から2121カ所で核実験が行なわれ人類は何百万単位で放射性降下物にさらされた。928回の核実験が行なわれたネバダ核実験場では風下に500万人が居住して被曝。大気圏核実験由来のフォールアウトは、全米に広がっている。その影響は、300年続く。旧ソ連のセミパラチンスク核実験場でのフォールアウトでは、150万人が被曝したと推計できる。」と、核実験による被曝の実態について政府調査統計などを示しながら具体的に説明されました。その後、核兵器製造の基となるウランの採掘、核兵器製造、さらに大量の核廃棄物による核被害にも言及しました。その核被害者の中から、ウラン採掘による核被害者となったナバホ族を対象にした追跡健康調査を紹介しながら、「700以上のウラン鉱があり、1989年に採掘が停止されたが、いまもウラン残土によって汚染続き、85%の家屋で検出されている」とし、「これまで直接被爆による外部リスクのみが検証されてきた」と,内部被曝の問題が置き去りにされてきたことを指摘しました。その後再び、核実験の実態に触れ、「冷戦中には、統計的に言えば、8.6日に1回、核爆発が起きていた」とし、「冷戦は、限定核戦争だった」と強調しました。最後に「核抑止力は、核兵器使用を防ぐ」などとする「核の神話」に対し,核の現実は「核抑止力は、核兵器の製造・実験・配備の上に構築」さら「巨額の公的資金が投入され社会福祉から奪う」「実験と称するものは現実には攻撃」(風下にいる人たちにとって)「核のゴミのよって核兵器は後世まで拡散する」と指摘すると共に「核兵器であれ、平和利用であれ、核兵器に利用可能なポプルトニウムを製造することになり、使用済み核燃料貯蔵所は、核兵器貯蔵所だ」と指摘し、「核兵器の開発と保有は、それ自体が暴力である」とし、基調講演は終了しました。

その後、4人のパネリストによる問題的があり、それぞれに興味深いものでしたが、今日の報告では省略します。

今回のシンポジウムは、原水禁が1970年代の初めから向き合ってきた世界の核被害者に焦点を当てる内容でした

ようやくここまできたのかという思いもありましたが、「核と人類は共存できない」この理念の原点を改めて学ぶ機会となりました。

日本被団協のノーベル平和賞受賞を機に、広島でも世界の核被害者にさらに関心が深まることを期待したいと思います。

いのちとうとし

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2024年12月 1日 (日)

「平和記念式典招待者排除基準の作成に反対」を広島市へ要請

広島県原水禁は1129日、広島市に対して「平和記念式典招待者排除基準作成に反対する」要請を広島市に対して行いました。

要請は、金子哲夫代表委員、髙橋克浩代表委員、大瀬敬昭事務局長の3人が市民局を訪れ、中谷満美子市民局次長に要請書を手渡し、意見交換を行いました。

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金子代表委員はまず、日本被団協のノーベル平和賞の受賞なども踏まえ、「被爆地として注目を集めている今、できるだけ多くの人に来てもらい、被爆の実相に触れてもらうことが重要。排除の論理をとるべきではない」と要請の主旨を説明しました。

中谷市民局次長からは、排除という点に関して「誤解を招いている」と述べる一方、式典に招待する「要請の方法を検討している」と表現しました。

この説明に対して金子代表委員からは、「ロシアやベラルーシへの招待をやめた理由を、(ウクライナへの侵攻を続けていることで)式典が混乱するおそれがあるとされた。しかし、同じようにガザへの攻撃を続けるイスラエルには招待状を送っており、ダブルスタンダードではないか」と述べるとともに、広島市が招待状を送っていない事実は、排除そのものであり、「誤解ではない」と指摘しました。

 また、「排除の基準」ではなく、「要請の方法」を検討しているという点については、その表現の違いがどこにあるかの納得できる説明がされることはありませんでした。

 県原水禁としては最後に、今後の議論の在り方について、「市の中だけで決めるのではなく、広く意見を聞く場を設けるなどしてほしい」と口頭で申し入れ、要請を終えました。

 以下、申入れ文の全文を掲載します。


平和記念式典招待者排除基準作成に反対です

広島市民の生活向上と核兵器廃絶に向けて努力されていることに敬意を表します。

日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。被爆者の世界的な功績を認めるべきだと運動してきた私たちにとっては、遅きに失した感がありますが、同時にノーベル平和賞委員会が私たちの考えてきた被爆者の役割、そして広島の役割を追認してくれたと言うことに大きな意味を見出しています。

広島市の平和行政が被爆体験を元に進められるべきことは言うまでもありませんが、そうだとすれば、平和記念式典にどの国を招待し、どの国を招待しないかと言う基準作りをしてはならないことは明白です。以下、その理由を掲げます。

  1. 広島訪問は広島を訪れる人たちに大きな影響を与えます。広島を訪問し資料館を見学し、さらに被爆者の証言を聞くことによって人生が変わったあるいは世界観が変わったと言う人たちは多くいます。それだけでも無条件で広島訪問をすべての人に勧めるべき理由になります。逆に広島を訪れたことで、それが人生に大きなマイナスになったとか、その後、その人たちの生活等に悪い影響を与えたという事は全く耳にしたことがありません。これが、平和記念式典に各国大使を招待する大前提です。
  2. すなわち、駐日大使や駐日の政府、地域の代表を平和記念式典に招待する目的は、広島そして被爆者への理解を深めて貰い、広島や被爆者の友人と呼べる人を増やすことにあります。招待しないことで、友人が増えるのでしょうか。この点からも排除基準は不要です。
  3. そもそも駐日各国大使や国、地域の代表を平和記念式典に招待することは、秋葉市長時代に始められました。その後10年以上、市長が変わってもその方針を踏襲することは行政の継続性から当然です。にもかかわらず、突然市民への説明もなく「ロシアとベラルーシは招待せず、イスラエルは招待する」という日本政府の意向と共同歩調をとる決定を広島市は下しました。国との間にどのようなやり取りがあったのかは全く知らされておらず、行政の継続性、市民への説明責任という二つの視点から、許されることではありません。
  4. 排除するという事は、敵と味方を区別して、そして「敵」とラベルを貼った人たちとは、関わりを持たないということを意味します。排除された側、つまり敵と見做された人たちが自分たちの核について、あるいは核を使うぞという脅しについて、排除されたことが元になって、これはいけないと反省をし、核を廃絶するあるいは被爆者の意向を実現するような行動を取ることになるのでしょうか?
  5. 核による脅しを続ける人たちには、排除ではなく、積極的に広島が働き掛け、広島に特別に招待して、被爆の実相と被爆者のメッセージに直接触れて貰うという、核政策を再考する機会を作るべきです。市長自ら、熱意を持って直接行動を取るべきです。
  6. 広島市が仮に特定の国の施策について問題があると判断し、その国に対するメッセージを出すことが重要だと考えた場合、何故、86日の平和記念式典という特別の日にちと時間を選んでそのメッセージを出さなくてはならないのかが不明です。問題が重要であれば、86日だけではなく、364日を使って、上記(F)の行動を取るべきではありませんか。364日は完全に無視しておいて、86日だけは、特定の国の施策を抜き出して非難の対象にするのは、その日がそもそも特別の日であるという重みを利用することになりますが、それは被爆者への冒涜以外の何物でもありません。
  7. 会場の混乱等は、それが犯罪であれば警察、あるいは会場を整理する側の責任で行うことであり、参加者を排除することで解決するという選択は原則として受け入れてはいけないことです。

大瀬敬昭

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