ベトナム戦争終結から50年
1975年4月30日、北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線によるサイゴン解放(陥落)でベトナム戦争は終結しました。翌年7月、悲願の南北統一を遂げ、国名をベトナム民主共和国(北ベトナム)からベトナム社会主義共和国に改称しました。幾度も触れましたが来年、「南部解放(ベトナム戦争終結)50周年」を迎えます。
以降半世紀、ベトナムの歴史は「国家建設と祖国防衛闘争」(ベトナム中学校歴史教科書)の1975年~1985年、ドイモイ政策の始まった1986年からアセアン加盟を果たした1995年、2000年代以降~今日までの高成長と大別できます。
ベトナムとカンボジア、フランス植民地支配との戦い
ベトナム戦争後の10年間は「国家建設と祖国防衛戦争」と呼ばれるカンボジアとの紛争と中越戦争の時期です。理解し易くするために、少し長くなりますが遡ってカンボジアとベトナムの関係を概観します。
カンボジアは1862年以降、君主制を存続しつつ、ベトナムやラオスとともに仏領インドシナ総督府に統治されるフランスの植民地でした。フランスはカンボジアの植民地支配を間接統治の形態にし、ベトナム人の役人を使い苛烈な支配しました。この時の厳しい間接統治によって、カンボジア人がベトナム人への強い反感を持つようになったと言われています。
1930年2月、ホー・チ・ミンらがベトナム、ラオス、カンボジアの共産主義勢力を統合してインドシナ共産党を結成し、民族独立闘争を展開します。1940年9月23日、日本軍が北部仏印(ハノイ)に侵攻し、翌1941年7月28日に南部仏印(サイゴン)侵攻します。日本軍はカンボジア、ラオス全域に展開し、インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)はフランスと日本軍による「二重の支配」に置かれます。
そうした1941年5月、インドシナ共産党を核にベトナムの独立を目指すベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され、抗仏闘争・抗日闘争が戦われます。ます。1945年8月15日の日本の敗戦以降、再びインドシナ3国の支配に乗り出したフランスとのインドシナ独立戦争が始まります。ベトナムは1954年5月ディエンビエンフーの戦いに勝利し、フランス支配から脱しました。その後はご存知の通り、フランスに代わったアメリカが介入したベトナム戦争が1975年4月30日のサイゴン解放まで続きます。
フランスからの支配を脱したカンボジアの曲折
フランスと日本の二重統治下にあったカンボジアのノロドム・シアヌーク国王は、1945年3月9日のインドシナ駐留日本軍のクーデター(明号作戦)に便乗し独立宣言を発します。しかし、日本の敗戦で再び侵攻したフランスの保護下に戻り、独立は消滅します。その後もシアヌークは各国世論に訴えながら独立運動を続け、1953年11月に独立を果たします。
しかし、シアヌーク独裁体制のもとでフランスや中国の企業が経済を抑え、農村の疲弊が進む中で1951年に結成されたカンボジア共産党のクメール・ベトミンが、反政府勢力として伸張します。ベトナム共産党の指導で作られたクメール・ベトミンのNo.3だったポル・ポトは、1963年に親ベトナム派幹部を暗殺し共産党(クメール・ルージュ)の実権を握ります。クメール・ルージュは「反シアヌーク」「反王制」キャンペーンを強めますが、シアヌークの弾圧によってジャングルの解放区に逃げ込みます。
米軍と親米政権と戦う「戦場の友」
一方、シアヌークは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南ベトナム攻撃にカンボジア領を使うことを容認し、アメリカと南ベトナムとの関係が悪化します。かたや中国と「友好不可侵条約」を締結し、関係を深めていきます。1970年3月、ロン・ノル将軍によるシアヌーク政権打倒のクーデターが起こり、国家元首のシアヌークは訪問先の中国に亡命します。クーデターの背景にはニクソン米大統領が、反米姿勢を強めるシアヌーク政権を倒し、南ベトナム解放民族戦線への物資輸送を遮断するためにCIAを使ったと言われています。
亡命政権(カンプチア王国民族連合政権)を立ち上げたシアヌークは、ロン・ノル政権への抵抗を呼び掛けます。北ベトナムはデモや反政府行動を武力鎮圧するロン・ノル政権と戦うクメール・ルージュに大量の武器を提供し、カンボジアは内戦に突入しました。ベトナム系住民40万人が盾として抑留・虐殺される事態に、北ベトナム軍はカンボジア国境配備の部隊を投入しロン・ノル政権軍と戦闘に入ります。
1970年4月、アメリカはロン・ノル政権支援のため南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアに投入し、ベトナム戦争はインドシナ戦争へと広がりました。
「安全への逃避」でピュリッツアー賞を受賞した沢田教一が亡くなったのがこの時です。10月28日午後3時過ぎ、UPIのプノンペン支局長と取材に出かけた沢田教一(34歳)は翌日、銃弾を浴びた遺体となって発見されました。下の写真は1970年5月24に撮影されたものです。
「トンレベトの戦闘で家を失った二人の老人が、若者に連れられて避難する。沢田はこの二組の人を数時間にわたって追跡取材した。これは、沢田の死後、1970年のロバート・キャパ賞を贈られた一連のカンボジア取材の中心となる写真である」(写真集『サワダ』)と説明が添えられています。
腐敗と弾圧を強めるロン・ノル政権への反感の高まりとともにクメール・ルージュの解放区は次第に広がります。ベトナム戦争も1973年1月のパリ和平協定に基づく米軍撤退を境に終結に向かい始めます。
1975年4月17日、北ベトナム軍に支援されたクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させ、親米ロン・ノル政権を倒しました。ベトナムはその2週間後の4月30日、南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍は南ベトナムの首都・サイゴンを解放し、親米ズオン・ヴァン・ミン政権を倒します。
ベトナムとカンボジアはフランスの植民地支配に対しともに戦い、その後はともにアメリカ軍と国内の親米政権と戦う「戦場の友」でした。
1975年4月17日、プノンペン陥落
忌まわしきポル・ポト時代
ところが、1975年4月17日はカンボジアの人びとにとって、忌まわしき大虐殺のポル・ポト時代の始まりの日になったのです。そして、ベトナムは「サイゴン解放」の翌日、1975年5月1日にポル・ポトから攻撃を受け、長きにわたる「祖国防衛闘争」を強いられることになったのです。
このことを理解するためには、1975年から79年のポル・ポト政権崩壊まで繰り広げられた大虐殺を見なければなりません。その後1991年10月の「パリ和平協定」まで、ベトナムが支援するヘン・サムリンが国家元首のカンプチア人民共和国政権とポル・ポト派、シアヌーク派、ソン・サン派の三派連合政権との間で10年余の内戦が続きます。
この背景についても、冷戦構造や中ソ対立(国境紛争)、ニクソンの電撃的な訪中で始まった米中関係の正常化の動き、これらとインドシナ情勢との関わりを俯瞰しなければなりません。1973年にベトナムとの外交関係を結びながら、1990年代まで何らの関係構築を進めなかった日本の姿もこれらを通して浮かび上がると思います。
気軽に「ベトナム戦争後の50年」を振り返りながら、「ベトナムNow」へと歩む旅に出ましたが、出足から手間取っています。次号でベトナムが「祖国防衛闘争」としている1978年の「西南部国境防衛闘争」(カンボジア)と、1979年の「北部国境防衛闘争」(中国)について見てゆきたいと思います。
2024年12月20日(あかたつ)
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