どうなる新大橋の橋桁跡
19日のブログ企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」―つづき: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介した、新大橋の橋桁の話しのつづきです。
25日に西平和大橋の東詰付近を散歩していると,川の中程に不思議な構造物(台船)が設置されているのが目に入りました。
台の上では、人が何か作業をしています。「何をしているんだろう」と思い周囲を見回すと、「地質調査を行なっています」と書かれた立て看が目に入りました。
立て看には、広島市役所内の連絡先が書かれていますので、すぐに問い合わせの電話を入れました。
「西平和大橋の上流側に平和大橋と同じような歩道橋を作る計画がありますので、そのための地質調査を行なっているところです。」との回答があり、さらに「この地質調査を基に、今年度から来年度にかけて,どのような橋の構造で作るのか具体的な計画を立てることになっています。」と説明を受けました。
帰宅後、ネットで検索すると今年1月27日付の中国新聞に「西平和大橋歩道橋設置 広島市24年度に設計着手」と題した記事がありました。本文には、「24年度に設計に着手し、26年度以降の着工をめざす」と記載されています。完成時期の記載はありません。
これで何のための作業か理解できました。
19日のブログに掲載した写真を撮ったときは、ちょうど新大橋の橋桁の真上の位置の河岸で作業が行なわれているのを対岸から見ましたので、高潮による浸水被害対策のための地質調査だと勝手に理解していたのですが、目的は違っていたようです。
この説明を受けながら「あそこには、新大橋の橋桁の跡がありますが、あれはどうなるのでしょうか」と問うと「あそこに新大橋の橋桁があることは承知しています。ただ、まだ設計段階に入っていませんので、今のところなんとも答えようがありません」との答えでした。
1873年に木造橋として架けられ、1919年洪水により部分破損し、1922年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、1945年8月6日の被爆では、両方の高欄が川に落下したものの、落橋には免れたといわれる新大橋です。あの日もなんとか生き延びた被爆者がこの橋を通ったに違いありません。
その歴史を少しでも思い起こさせる新大橋の橋桁ですので、西平和大橋の歩道橋設置後も何とか残ればよいのだがと思いながら地質調査の台船を眺めました。
ところでもう一つ気になったのは、新大橋の上流側にあった水道橋がいつ撤去されたかです。
大段徳市さんが1967年9月に撮った写真には、まだ水道橋が写っていますので、それ以降ということになります。
いろいろ調べてみると,撤去中の写真が見つかりました。
まさに撤去作業の最中です。説明文には、「1973年10月水道橋の取り壊し中」と書かれています。
1973年は、核実験抗議の座り込みがスタートした年です。座り込みに参加するため、平和公園原爆慰霊碑前までは、何度も足を運びましたが、当時は被爆建物などにまったく関心のない時期でしたので、まだ残っていた水道橋を気にとめることもありませんでした。
しかし、今はこんなことが気になるようになりました。
いのちとうとし
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