「広島ブログ」

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2024年11月

2024年11月30日 (土)

2024年11月のブルーベリー農園その4

東広島市豊栄町のブルーベリー農園ももうすぐ冬。野菜畑に植えている2株のジャガイモの葉は霜にあたったのかぐにゃりとなり、一方ソラマメやダイコン、ニンニクは元気そう。農園には安芸区の自宅から車で通うので行きつけの車屋さんに相談したら中古のホイール付きのスタッドレスタイヤがあったので初めて替えた。ついでにバッテリーも劣化しているので新品と交換して農園に通う日数が増えた冬対策をすすめた。あとは体力か・・。近所の年上の幼馴染の男性が高齢化で四国の娘さんの家に引っ越しが決まったのでお会いして名残を惜しんだ。聞けばお母さんは原爆の落ちた日から近くの小学校に避難した方たちの支援に従事したが被爆手帳は持たないまま亡くなったとのこと。女手一つで手帳の申請まで手が回らなかったらしい。私の住む地域は多くの家庭でこうした原爆の傷跡が残っている。硬く握手してお別れした。

1125日(月) 稲刈りのすんだ田んぼの荒おこしが行われているのが里山のブルーベリー園から見える

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里山の周囲の木々の伐採を続けている。ツバキの枝をたくさん切ったので野焼きする場所に置く

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里山のブルーベリー園周囲に張り巡らせている防獣ネットを撤去するために絡んだつるや木の枝を何日もかけて切っている

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この場所の里道下の田んぼのある小さな谷あいの向こうに刈った草の野焼きの煙が見える

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1128日(木) お日様が出ると畑のブルーベリーや里山のモミジがさらさらと鮮やかに浮かび上がる

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木の下には草刈りで切らずにおいているマンリョウが元気に赤い実をたくさんつけている

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早生のブルーベリーの剪定を27日から始めている。スギやヒノキ林のそばなので風も強く寒い

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剪定がすんだ木にホースで作ったわっかをかけて次に来るときの目印にする

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早生のブルーベリーは種類にもよるが作業中にも風でばさばさ葉が落ちる

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切ったブルーベリーの枝を野焼きする場所において明るいうちに作業はおしまい。野焼きするときには焼き芋が欠かせない

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年11月29日 (金)

町内会の防犯・防火パトロール

町内会が毎月行なっている「防犯・防火パトロール」に久しぶりに参加しました。

私の住む町内会は、大手町4丁目町内会です。いつから始まったかはよくわかりませんが、町内会役員を中心に毎月1回町内の防犯・防火を呼びかける町内パトロールを行なっています。私も都合のつくときには出来るだけ参加するようにしていますが、ここ一年あまりご無沙汰をしていました。

毎月参加を呼びかけるチラシが、郵便受けに入ります。今月は、27日に実施することになりましたので、久しぶりに参加することにしました。

集合場所の大手町平和ビル前に行くと、すでにほとんどの参加者が集合しています。今月は、私を含めて8人が参加です。このパトロールには、住民だけでなく4丁目に事業所があるNTTドコモや浜脇病院、みらい創世高校などからも参加があります。今月は事業所からは2名の参加がありました。

夕方6時(私が以前参加していたときは、午後8時から),大手町3丁目の長久寺の鐘を合図にスタートしました。平和ビル北側の通りを西(万代橋方面)に進みます。11月の終わりの時期ですので、すっかり辺りは暗くなっています。

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道路の右側は大手町3丁目

リーダーの拍子木を合図に「火の用心、戸締まり用心、火の用心」と唱和します。ここまでは以前私が参加していたときと同じなのですが、その後にもう一声続きます。「闇バイトには手を出すな」です。「いつからこの呼びかけをするようになったのですか」と聞くと「先月からです」とのこと。世相を反映し、加えられたようです。

大手町4丁目は、東側は電車通り、西側は元安川左岸、南側は国道2号線、北側は万代橋に通じる道路に囲まれた狭い地域ですので、町内の道路をくまなく回ってもちょうど30分ほどで、パトロールは終わりました。「ご苦労様でした。また来月も、よろしくお願いします」のあいさつを交わして、散会しました。

大手町町内会では、12月1日の午前9時から,広島市が呼びかける「年末 クリーンボランティア支援事業」として、万代橋から新明治橋までの元安川左岸のサクラ土手の清掃作業を行なうことになっていますので参加しようと思っています。

いのちとうとし

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2024年11月28日 (木)

国鉄原爆死没者慰霊之碑

城北通りの京橋川に架かる常盤橋の西詰め北側にある東白島公園に「国鉄原爆死没者慰霊之碑」が建っています。

この碑は、国労原爆被爆者対策協議会が、1972年に建立を決定し、全国カンパを行なって、建立したものです。

除幕式と第一回慰霊祭が行なわれたのは、1973年8月6日で、合祀者は、262名です。

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慰霊碑の後ろには、新幹線の高架と少し見え難いのですが、右側に京橋川に架かる鉄橋があります。

この碑のことを紹介します。

広島駅周辺でなくこの場所が選ばれたのは、「爆心地から1.5キロの山陽線太田川鉄橋の下。広島駅を発車し鉄橋にさしかかった貨物第377列車が爆風で脱線転覆し大事故となった場所」だったからです。

ところで、なぜ今「国鉄原爆死没者慰霊之碑」のことを書こうと思ったかです。

11月11日のブログ結成40周年記念・第10回先人を語る会: 新・ヒロシマの心を世界にで、先人の一人瀬戸高行さんのことを私が話すことになったからです。

瀬戸さんは、国労原爆被爆者対策協議会の中心メンバーとして、この慰霊碑建立に尽力された一人です。国鉄労働組合と国労原爆被爆者対策協議会が、2005年7月1日に発行した「この怒りを 被爆60周年特集号 第8集」の巻頭の写真特集では、慰霊祭で頭を垂れる瀬戸さんの写真が掲載されています。

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この写真のキャプションには「慰霊碑建立に御尽力された瀬戸高行さん」と書かれています。

碑の紹介を続けます。先にこの慰霊碑は、全国カンパ(最終的には、約800万円)によって建立されたと書きましたが、碑のデザイン、碑文の作詞、碑銘・碑文の揮毫も組合員に公募し、その作品の中から選ばれています.まさに組合員によって作られた慰霊碑です。制作者の名前は、碑の後ろの壁に取り付けられています。

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碑文です。

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「天を撃つな 戦雲を射て 人を撃つな 戦禍を射て

原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来とを」

「この怒りを 第8集」に書かれたこの碑文の解説には「前段の『天を撃つな・・・』の碑文は、天に向かって立てられた反戦・平和を象徴する三角錐の碑と共に原爆・戦争に対する怒りを表し、後段の『原爆・・・眠る』の碑文は、大地に安置された球形の碑と共に犠牲者の霊を慰め、原爆の中に眠れる強き国鉄労働者の霊と魂が平和と未来とを見守っていることを表したものである」と書かれています。

労働組合が作った慰霊碑らしい碑文と言えます。

この碑を建立した「国労原爆被爆者対策協議会」は、1966年6月18日に発足していますが、労働組合として初めて組織された被爆者組織です。

日本被団協のノーベル平和賞受賞決定によって被団協や被爆者のことが連日マスコミで取上げられていますが、労働組合の被爆者組織に触れた報道を読んだり聞いたりしたことがありません。もう一つの大事な被爆者運動の歴史として、このブログで紹介しなければと思っています。

いのちとうとし

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2024年11月27日 (水)

どうなる新大橋の橋桁跡

19日のブログ企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」―つづき: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介した、新大橋の橋桁の話しのつづきです。

25日に西平和大橋の東詰付近を散歩していると,川の中程に不思議な構造物(台船)が設置されているのが目に入りました。

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台の上では、人が何か作業をしています。「何をしているんだろう」と思い周囲を見回すと、「地質調査を行なっています」と書かれた立て看が目に入りました。

立て看には、広島市役所内の連絡先が書かれていますので、すぐに問い合わせの電話を入れました。

「西平和大橋の上流側に平和大橋と同じような歩道橋を作る計画がありますので、そのための地質調査を行なっているところです。」との回答があり、さらに「この地質調査を基に、今年度から来年度にかけて,どのような橋の構造で作るのか具体的な計画を立てることになっています。」と説明を受けました。

帰宅後、ネットで検索すると今年1月27日付の中国新聞に「西平和大橋歩道橋設置 広島市24年度に設計着手」と題した記事がありました。本文には、「24年度に設計に着手し、26年度以降の着工をめざす」と記載されています。完成時期の記載はありません。

これで何のための作業か理解できました。

19日のブログに掲載した写真を撮ったときは、ちょうど新大橋の橋桁の真上の位置の河岸で作業が行なわれているのを対岸から見ましたので、高潮による浸水被害対策のための地質調査だと勝手に理解していたのですが、目的は違っていたようです。

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この説明を受けながら「あそこには、新大橋の橋桁の跡がありますが、あれはどうなるのでしょうか」と問うと「あそこに新大橋の橋桁があることは承知しています。ただ、まだ設計段階に入っていませんので、今のところなんとも答えようがありません」との答えでした。

1873年に木造橋として架けられ、1919年洪水により部分破損し、1922年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、1945年8月6日の被爆では、両方の高欄が川に落下したものの、落橋には免れたといわれる新大橋です。あの日もなんとか生き延びた被爆者がこの橋を通ったに違いありません。

その歴史を少しでも思い起こさせる新大橋の橋桁ですので、西平和大橋の歩道橋設置後も何とか残ればよいのだがと思いながら地質調査の台船を眺めました。

ところでもう一つ気になったのは、新大橋の上流側にあった水道橋がいつ撤去されたかです。

大段徳市さんが1967年9月に撮った写真には、まだ水道橋が写っていますので、それ以降ということになります。

いろいろ調べてみると,撤去中の写真が見つかりました。

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まさに撤去作業の最中です。説明文には、「1973年10月水道橋の取り壊し中」と書かれています。

1973年は、核実験抗議の座り込みがスタートした年です。座り込みに参加するため、平和公園原爆慰霊碑前までは、何度も足を運びましたが、当時は被爆建物などにまったく関心のない時期でしたので、まだ残っていた水道橋を気にとめることもありませんでした。

しかし、今はこんなことが気になるようになりました。

いのちとうとし

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2024年11月26日 (火)

久しぶりに参加した「護憲大会」

61回目を迎えた「護憲大会」が、24日から26日までの日程で、岡山市で開催されています。

岡山市での開催ということで、大会成功のため1日目の開会総会には、地元岡山はもとより中国ブロックからも多数参加しました。私も、1日目だけですが、久しぶりに護憲大会に参加しました。

岡山芸術創造劇場ハレノワで開催された開会総会は、午後130分にスタート。

オープニングは、地元岡山で1994年にまちづくり、ひとづくり、幸せづくりのきっかけとなればと始まった「うらじゃ」と呼ばれるおどり。三つの組が踊った後踊り手全員による「総おどり」で幕を閉じました。

開会総会は、染裕之大会実行委員長(平和フォーラム共同議長)の主催者あいさつからスタートし、鳥越範博地元実行委員長あいさつ、来賓のあいさつの後、谷雅志大会実行委員会事務局長が基調を提案しました。

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谷事務局長は「先の衆議院選挙の結果、改憲勢力を3分の2以下に押し込んだが、改憲をもくろむ動きが止まったわけではない。自民党は党内バランスをとるため、かつて野党に転じたときと同じように、これまで以上に改憲に前のめりになることが予想される。私たちは、憲法を『改正』する必要などないことをしっかり訴える運動が引き続き重要になる」とし、・「①憲法改悪を許さない『立憲主義』の回復②憲法審査会のめぐる状況③GDP比2%とする軍備拡張路線―今なぜ防衛力の強化なのか④沖縄辺野新基地建設と南西諸島軍備強化の阻止を一体のものとして⑤核兵器廃絶・核の商業利用に反対し、エネルギー政策の転換を求める⑦基本的人権の確立に向けて」の6つのテーマについて報告をし,最後に「今必要なのは、憲法に貫かれている理念の実現に向けた努力です。世界の平和を希求すること平和な生活を守ること、命を大事にすること、人権を大切にすること、そして未来を決めるのは私たち自身であるということ、こういった当たり前に思える一つひとつを確認する取り組みが、重要性を増してきている現状について、認識を共有する必要があります。」とし「憲法を『改正』するよりも、憲法の理念の実現こそが重要であり必要なのだ」と強調しました。

私も、私たち一人一人が、今一度「日本国憲法」の条文を読み直し、憲法の基本理念を再確認することが大切だという思いを再確認しました。

開会総会の第二部は、染大会実行委員長のコーディネートによるパネルディスカッシンでした。パネラーは、飯島滋明さん(名古屋大学院教授)、下地茜さん(宮古島市議会議員),畠山澄子さん(ピースボート共同代表)の三人。

それぞれに特色のある話,飯島さんの憲法論、畠山さんのピースボートの活動実践を通じての若者の参加をどう進めたのかなど、興味をそそられましたが、特に印象にのこったのは、「南西諸島で強行されている陸上自衛隊の配備」の現状についての下地さんの話しです。中でも「住民の安全確保のため、先島12万人の『島外避難計画』が進められている」ことに対する問題点の指摘です。

話を聞きながら、改めて「何のための陸上自衛隊配備なのか」を基本的に考えなければならないということを感じました。「台湾有事」が強調されていますが、本当に有事は起こるのか、仮に起こったとして、なぜ自衛隊が参戦しなければならないのか。その時、真に守られるべき住民の命を本当に守ることができるのか,です。

つい、武力事態が起こったとき、どうするのかの論議に走りがちですが、その事態を起こさないためにどうするのか、をこそ、今論議しなければならないのではないかという感想を持ちながら、パネラーの話を聞きました。

それこそが、憲法理念を実現する道だというのが、私の感想です。

久しぶりの護憲大会参加でしたが、いろいろと学ぶことの多い参加になりました。

いのちとうとし

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2024年11月25日 (月)

既成事実を作って島根原発2号の再稼働を急ぐのか!

3・11原発事故から13年、「フクシマなどまるで無かったかのように」原発回帰が進む中、島根原発2号機の再稼働が12月7日に強引に進められようとしています。

島根原発は福島第一原発と同型の、沸騰水型(BWR)原発です。この間、住民の強い反対運動の中でも、九州・関西、四国の電力会社の原発が再稼働されましたが、いずれも加圧水型(PWR)の原発でした。

福島原発事故の原因の究明も対策も補償も終わらない中、政府や電力会社も沸騰水型の再稼働には、「慎重」な姿勢を見せているようにも見えていました。

しかし、沸騰水型も再稼働の動きが強まりました。政府が最初に再稼働を目論んだ沸騰水型原発は、新潟県に在る東京電力の柏崎刈羽原発6・7号機でした。しかし同原発では、不正行為や新潟県が重視している「緊急時対応」の策定が進まず、再稼働の見込みが立たない中、次に浮上したのが宮城県女川町・石巻市に在る東北電力女川原発2号機となったのです。

女川原発も「安全対策工事」の遅れなどから、総選挙が終わるのを待っていたかのように10月29日に再稼働を開始しました。東北電力は万全の体制で再稼働に踏み切ったとしましたが、開始から6日後の11月3日、機器のトラブルから停止する事態になったのです。

女川原発2号と島根原発2号は、「兄弟原発」と呼ばれています。同じ沸騰水型であるとともに、電気出力も運転が開始されたのもほぼ同じ時期です。その兄弟がトラブルを犯し停止に追いやられたのに、中国電力から女川の事故原因が島根原発での対策にどう影響しているのかも、明らかにされないでいます。

丸山達也島根県知事が原子力規制委員会を訪れ対策の要望を行いましたが、何も明らかにされない中、島根2号が再稼働されようとしています。

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右側が島根原発2号機

島根2号は福島原発事故翌年の12年に定期点検のため運転を停止し、約13年の空白期間を経ています。この間、新たな規制基準も策定され、そのために莫大なお金を費やして工事が行われています。その額は1兆円を超えるだろうとされているのです。また2号機の運転員64名のうち、未経験者は61%の39名に上ると新聞は報じていました。中国電力は松江市のシュミレーター施設での訓練や、他の原発に出向いての教育や、退職者からの訓練を実施しているとしていますが、原発周辺の住民からの不安は大きいものがあります。

地元新聞は、再稼働をテーマにした投稿の集計結果を報じていましたが、そのうち9割が再稼働に「反対」「慎重」という内容だったのです。

次の5点を島根原発の問題点として記しておきます。

一つは、福島第一原発と同じ沸騰水型原発であること。

二つは、原発敷地から南側2㌔メートルにある宍道断層という活断層の存在であり、この断層の東側6㌔にある鳥取県西部断層とが連続して動く連動の問題点である。今年1月1日に発生した能登半島地震では、150㌔におよぶ連動が起こり、大きな被害を与えている。能登半島に在る志賀原発を持つ北陸電力は連動の長さを178㌔に拡大すると発表している。

三つは、島根原発から西側にある三瓶山と東側にある大山の2箇所の火山の危険性が指摘されていること。

四つは、避難計画の問題点である。原発から30㌔に住んでいる住民は島根県と鳥取県を含め約46万人とされている。この数は全国で3番目という多さである。そのうち避難に支援を要する人数は、4万人を超え全国でトップという数字である。

五つは、中国電力の体質がある。23年に発覚した関西電力とのカルテル事件、公正取引委員会から707億円の課徴金を命じられた事件をはじめ、データ改ざん、点検漏れ、などなど…繰り返される不祥事は、周辺自治体の首長からも厳しく指摘されている。

10月18日、原子力規制委員会の検討チームは原発事故時の屋内退避の目安を見直す方針案を取りまとめました。そして政府は、能登半島地震などを踏まえ、避難所運営に関する環境に国際基準を反映する方針を固めたとされています。避難所での一人当たりの面積を3.5平方㍍にするとか、トイレの数を増やす等です。

11月16日と23日の両日、島根原発防災訓練が開催されました。訓練が終われば、来年の1月頃には「検証委員会」が開かれるのが通例です。今の中国電力の強引に再稼働を進めようとする姿を見ていると、国や自治体の避難に対する方針が改定されるまでに再稼働を行い、既成事実を作って「逃げ得」を狙っているとしか思えないのです。

木原省治

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2024年11月24日 (日)

旧陸軍輜重隊の被爆遺構の公開と被爆石

サッカースタジアム建設に伴う発掘調査で出土した「旧陸軍輜重隊」の被爆遺構が、空鞘橋東詰南側馬碑前で21日に公開されました。

遺構設置途中の状況は、このブログでも紹介しましたが、ようやく完成し公開されることになったのです。

旧陸軍輜重隊の遺構そのものと比べるとごく一部の展示ですが、市民からの「遺構保存」の強い要望を受けて、実現したものですので、ぜひ多くの人に関心持って欲しい施設です。

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入り口には、この遺構が地図と共にどんな経緯でここの設置されることになったかの説明板があります。大きい説明板ですので、通る人は気づくと思います

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馬碑に向かって真ん中に作られて通路を挟んで、3つの遺構が設置されています。

入ってすぐの左手には、「厩遺構の敷石通路」が展示されています。

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説明板には、この遺構が、輜重隊跡のどの位置にあったかが示されています。

よく見ると、石が赤色をしていますので、「火災によるものかな」と思い、市に問い合わせたところ、「もともとこういう色の石が使われていたようですので、被爆時の火災によるものではありません」との説明を受けました。

右手には、二つの遺構が設置されています。

手前は、対面形式の馬房に敷かれていたアスファルトです。

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大きさは7平方メートルで被爆後の火災による痕跡を見ることができます。溝などもありますので、このアスファルトの部分は、今後「雨などが降ったときどんな影響が出るのか、冬に凍ったときなど剥離したりしないのか」など,保存上の問題が生ずる可能性があるように感じました。

右手奥側にあるのは、馬繋杭を設けた手入場です。

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全体で計57枚の石畳が遺構として使われ、広さは約17平方メートルの大きさです。

遺構の発掘調査現場を目にし,全体の保存を求めていた者からすれば、あまりにも小さすぎる(石畳だけでも発掘されたのは約800枚)という思いを禁じ得ませんが、市民の要望の中から実現したものでということも、忘れないで欲しいと思います。

今回の展示を機にサッカースタジアム東側の公園にも2枚の石畳が置かれ、この場所を案内する表示も展示されました。

残された被爆石の行方

輜重隊の遺構が、発掘調査が終わると壊されるということを知り、遺構展示用の被爆石だけでなく、その他の被爆石も活用して欲しいと当時要望していました。

広島市は、遺構復元用以外に20枚を超える被爆石を保管し、希望があればお分けするとしていましたが、その行き先が定まらないままでした。

「被爆遺構の公開のための作業が完了すれば、廃棄処分するしかないので、どこか引き取っていただくところはないだろうか」と相談を受けました。

すぐには、思いつくところはなかったのですが、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」のメンバーの一人が、「被爆建物が壊されたりしたとき、被爆石をもらって保存し、街角の原爆の絵展示の時、活用しています」と、話していたことを思い出しましたので、連絡を取ってみました。

「来年被爆80周年の行事として第11号碑を設置することにしているので、もらい受けたい」との返事があり、広島市と連絡を取り、20枚近い被爆石が「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」に引き取っていただくことになりました。

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戸坂に保管されていた被爆石

遺構の公開が始まった翌日22日に無事、引き取りが完了し、きちんと整理されて保管場所に収まりました。

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広島市が保管していた被爆石全部というわけにはいきませんでしたが、貴重な被爆石の多くが引き取られ、活用される道が開けて本当によかったと思います。

もし被爆石を入手したいという希望があれば、広島市の文化財振興課へ連絡して下さい。来週初めであれば間に合うと思います。

いのちとうとし

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2024年11月23日 (土)

2024年11月のブルーベリー農園その3

寒い日や、暖かい日が混在しているが着実に寒くなっている。ブルーベリーの落葉まで剪定はしないので、周囲の木々の伐採や、ブルーベリーの生育状況を調べたり、倉庫の整理をするために東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から車で通っている。5時半にはあたりはすっかり暗くなっているが冬至の日まで続くので農作業をしまうのがだんだん早くなる

1117日(日) 農園に着くと前の道をランナーが走るのに出会った。板鍋山登山マラソンが行われている。この道から最後の登りの板鍋山までもう少しある

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1118日(月) 農園全体のブルーベリーの生育状況を調べている。11本ノートに記録する。Ⅼ、Ⅿ、S別に書いていく。結構時間がかかる作業だ。Ⅼになると1本で4キロ以上の実が収穫できる見込みだが・・

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記録をしているときに咲いていた見かけない野の花(名前知らず)

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里山の西側から見える田んぼと林の紅葉

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農園の生き物との出会い

①1119日(火) ヤマガラがエゴノキの枝にとまる

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②次に地べたに降りてエゴの実を加えてまた枝にとまる。この実を好んでストックする習性があるそうだ。だから伐採予定のエゴノキを少し残した

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③里道に夏中住んでいたヘビ(名前しらず)が里道にいて、寒いので動きがのろい。気温は8度

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④1121日(木) ほぼ同じ場所でどくろをまいて動かない。気温は16度。冬眠まじか

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1121日(木) 里山の西側の周囲の木を切って防獣ネットを取り外す準備をする

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ブルーベリー畑と隣の休耕田の雑草の紅葉。

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野菜畑にまいたソラマメの芽が出てきた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年11月22日 (金)

島根原発再稼働問題学習会

広島県原水禁は、広島県平和運動センターと共催で、20日午後6時から自治労会館で「島根原発再稼働問題学習会」を開催しました。

中国電力が、12月7日の島根原発2号機の再稼働をめざす中で、再稼働を許さない運動を強化するために改めて「島根原発2号機再稼働の問題点」を再確認することを目的に開催しました。

学習会の講師は、県原水禁の常任理事であり「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表で、このブログの執筆者の一人でもある木原省治さんです。

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木原さんの講演内容を簡単に紹介します。

島根原発2号機の再稼働をめぐる最近の動きを紹介しながら,

① 先月29日に再稼働を強行した東北電力女川原発2号機と同型の沸騰水型原発(BWR)であること。同原発と、出力(島根は82万kw),運転開始時期がほぼ同時期であり、2011年に事故を起こした福島第一原発と同型であること。

② 島根原発の基礎知識として・県庁所在地にある唯一の原発(県庁までの距離やく10km)・30km圏内に46万人の住民がいる・広島市中心部まで約130km。など

③ 島根原発は・1号機の廃炉が決定・2号機は2012年1月27日に定期点検により運転停止をして以来、長期にわたって運転されていない(運転空白期間の長さ)。そのため現在の運転員64人中39人が運転未経験者である・3号機は、工事が実質完了しているが、運転開始は未定。

④ 島根原発の安全対策費は、2023年10月31日までで明らかになっているだけでも約6800億に達している(建設費は、3003億円)

⑤ 島根原発の2km以内に長さ39kmの宍道湖断層があるだけでなく、6km東側には、長さ37kmの鳥取沖西部断層があり、連動する問題がある。周辺には他にも多くの断層がある。

⑥ 島根原発の西側には、活火山の三瓶山があり、噴火した場合の火山灰による障害の危険性がある。

⑦ 原発事故時の避難の問題。46万人の避難者の内、支援が必要な人が4万と全国最多であり、その支援体制は?広島県は、17万人の避難者を受け入れることになっている(大崎上島町を除く全市町)が、その受け入れ体制は具体的になっていない。

⑧ これらの疑念に対し、隣県である鳥取県と30km圏内の自治体となる境港市、米子市から中国電力に申し入れが行なわれている。

などの問題点を指摘した後、

「確かに中電は12月7日の再稼働に向けて準備を進めているが、これまでも何度も再稼働を延期してきたし、まだ何が起こるかわからないので、あきらめず再稼働反対の声を上げよう」と呼びかけて,木原さんの講演は終わりました。

その後、会場からの質問を受け、学習会は終了しました。

わかりやすい話でしたので、参加者には島根原発2号機再稼働の問題点が、よく理解できたと思います。学習会の参加者は、約50名でした。

広島県原水禁は、中国電力が12月7日の再稼働を強行した場合は、8日の午後0時30分から原爆慰霊碑前での抗議の座り込みを予定しています。

いのちとうとし

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2024年11月21日 (木)

9年目に入った安保法制に反対する府中市民の会の行動-11月の19日行動

11月の安保法制反対する府中市民の会の行動は、定例通り19日に冬時間に変わり30分繰り上げ午後3時から上下Aコープ前(参加者10人)と午後4時30分から府中天満屋店前(参加者11人)で行われました。府中天満屋店の前は議員さんが1人しか来られず、その代わり今回は多くの人が訴えられました。

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上下Aコープ前

Aさん「衆議院選挙の結果は自公過半数割れの結果だけど自民党の改憲への執念や軍事費拡大の政策は変わっていません。軍事共同体制も変わっていません。ガザへの残虐な侵攻も終わりがみえません。ロシアのウクライナ侵略が実質3年に及んでいます。より一層、戦争はいけない。戦争が起こらないための行動を取り組むことが必要ではないでしょうか。」

Bさんは「日本被団協のノーベル平和賞受賞について思うことですが。長崎の被爆者の山口仙二さんが1982年の国連軍縮総会で訴えられたノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャにはノーモア ウォーの訴えがあります。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ヒバクシャのためにはノーモア ウォーの戦争をしない行動が問われています。そうしたなか石破首相の核共有発言は絶対に認められません。日本被団協のノーベル平和賞受賞を認めないと言っていることと同じです。日本の首相が言うことではありません。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ヒバクシャ、ノーモア ウォーのための行動をしましょう。」

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府中天満屋前

Cさん「衆議院選挙が終わった後、厚労省は高額療養費の自己負担限度額を引き上げると言っています。選挙後に言うのも問題ですが、物価高で生活も苦しい中で高額療養費の自己負担限度額を引き上げることはなにごとでしょうか。結局、軍事費の拡大の中で私たちの生活がさらに苦しくなります。これが安保法制の現実ではないでしょうか。私たちの生活をおびやかす安保法制に反対していきましょう。」

終了後、島根原発2号機が来月7日に再稼働されます。抗議行動を行っていくことが報告され、現地での抗議集会参加などが提起されました。

小川敏男

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2024年11月20日 (水)

ベトナムの歴史(その34) ― ベトナム Now Ⅳ―

2021年に「ヒロシマとベトナム」シリーズに加え、「ベトナムの歴史」シリーズの寄稿をはじめ、昨年の9月(その28)から今年6月(その30-7)までの間、ベトナム戦争を取り上げてきました。来年、1975年4月30日の「サイゴン開放」(ベトナム戦争が終結し、南北統一決定的になった日)から50周年を迎えることから、7月に今日のベトナムを紹介する「ベトナムNow」に着手しました。

ところが、8月、9月、10月と枯葉剤被害者支援のための「“エージェントオレンジDay”2024inヒロシマ」(東広島市)や「チャリティ・コンサート」(福山市)の紹介に費やしてしまいました。あらためて、今月から「ベトナムNow」をお届けします。

1975年4月30日

「ベトナムNow」、すなわち「南部解放・南北統一」からの「50年の歩み」は1975年4月30日のサイゴン解放によって始まります。それから50年経た今日までのベトナムを紹介する「ベトナムNow」に入る前に、49年前の歴史的瞬間を見てみましょう。

南ベトナムの首都サイゴン解放を目指す「ホー・チ・ミン作戦」最終の日となった1975430日午前11時半、南ベトナム大統領官邸(現在の「トンニャット宮殿)前に南ベトナム解放民族戦線(NFL)の旗を掲げた戦車隊が到着。直後、宮殿の屋上に南ベトナム解放民族戦線旗が掲げられました。この瞬間、ベトナム戦争が終結しました。

ベトナム戦争は一般的に、1964年のトンキン湾事件後の北爆をもって始まったとされ、「15年に及ぶベトナム戦争が終わった」と言われます。しかし、私は以前、1950年代初めからアメリカがフランスのベトナムでの植民地戦争に深く関わり、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスが敗退した後、ベトナム介入を本格化させたことを書きました。したがって「21年に及ぶベトナム戦争が終結」と表現します。

さらに言えば、1847年にフランス軍艦によるダナン攻撃に始まったフランスの植民地支配に抗する戦争、第二次世界大戦時の日本軍とフランスとの「二重のくびき」時代の抗仏抗日戦争、戦後の抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)、ディエンビエンフー以降の抗米戦争(ベトナム戦争)と、実に130年にも及ぶ長い植民地支配と民族分断の鎖を断ち切った歴史的な日として1975430日を捉える必要があると思います。

「サイゴン陥落」を伝えた日本人

この日、ハノイのラジオ局「ベトナムの声」の日本語アナウンサーとして「サイゴン陥落」を伝えた日本人がいました。九州大学農学部に留学中の夫、ルオン・ディン・クアと結婚、その後「解放区」(北ベトナム)に移住した中村信子さんです。夫、クアは日本で農学博士を取得し帰国後は、帰国後「解放区(北ベトナム)」で農業政策を推進しましたが55歳で亡くなります。中村さんも2年前(2022年5月)に亡くなられましたが、2008年に『ハノイから吹く風』を出版され、「サイゴン陥落」を告げた放送を回想されています。

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中村信子さん:出典:東京新聞(2022年5月24日)

「1975年4月30日の朝はよく晴れわたっていた。もうすぐ夏を迎えるハノイの空には、まぶしい太陽が輝いていた。・・・・私はもう10年以上、日本語番組のアナウンサーをしている。私にとって忙しい日々が続いていた。今年に入って南ベトナムの戦況は新しい展開を見せ、解放戦線の勝利に次ぐ勝利のニュースが絶え間なく伝えられていた。今日あたりサイゴンが陥落するのではとの情報が流れ、放送局は朝からそわそわした雰囲気に包まれていた。・・・・そして11時を過ぎた頃、激しい爆竹の音がパン・パン・パンと激しく局中に響きわたった。『うわぁー』という歓声があちこちで一斉に沸き上がった。南ベトナムが解放され、ベトナムが完全に統一された、その感激の瞬間であり、歴史的な瞬間だった。・・・・このビッグニュースを世界に伝えるために待機していた各国語のアナウンサーたちは、次々に原稿をつかんで録音室に走り、勝利の喜びを伝えた。」

そして、「ホーチミン戦役の勝利を祝う!ホーチミン戦役の勝利を祝う!。視聴者の皆さん、私たちは大きな喜びを持って次のことをお伝えします。ホーチミン戦役は完全に勝利しました。サイゴン市は完全に解放されました。この歴史的な瞬間の大勝利を祝う爆竹の音が首都ハノイをはじめ、全ベトナムに響いています。ハノイの市民は、老若男女を問わず、一斉に通りに出て共に勝利を分かち合いました。民族の大勝利を祝っています。英雄不屈のベトナム人民万歳。愛する祖国、ベトナム万歳。」(『ハノイから吹く風』、中村信子著)

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次号から1975年4月30日から今日までのベトナムを追う「ベトナムNow」の旅を始めたいと思います。

2024年1120日(あかたつ)

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2024年11月19日 (火)

企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」―つづき

企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」を観に行った話しのつづきです。

気になった写真は、1967年9月に写され、「西平和大橋」とタイトルが付けられた一枚です。「本川をまたいで中島町と河原町・土橋をつなぐ橋です。原爆で落橋した新大橋のかわりに1952年にかけられた橋です。」

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キャプションは,さらに次のように続きます。

「中島町から西平和大橋を西に望む。平和大橋と一対をなし、欄干は平和大橋と同じくイサム・ノグチによる設計です。建設当初はコンクリート打放しの仕上げを限りなく滑らかにした手触りのものでした。写真中央部には、新大橋の痕跡が残っています。」

新大橋の痕跡と思われる写真中央部を拡大して見ました。

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河岸に確かに突起物があります。

実は、以前から西平和大橋を通るとき、「この突起は何だろう」と気になっていました。

この写真展を観た後、すぐに西平和大橋に行ってみました。痕跡が残ったままです。

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ちょうど日曜日でしたので、作業員の姿はありませんが、痕跡の真上に河岸の土質を調査するための器具とそれを覆うブルーシートがあります。

突起物の上部はツタのようなもので覆われていますが、新大橋の痕跡に間違いありません。今まで「何だろう」と思っていた疑問が解けました。

公園整備の際撤去されたのでしょうか、対岸(東側)の平和公園側の河岸には、この痕跡は残っていません。どういうことだろう、ちょっと気になるので、帰宅後中島地区の復元地図を見てみました。

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上の図では、少し分かり難いかも知れませんが、新大橋は、西平和大橋に対し少し斜めにかけられており、西詰では半分ほど上流側にずれていますが、東詰は西平和大橋の下になっています。ですから東側に痕跡が残っていないのは当然かも知れません。

さらにこの図を見る限りでは、西側の新大橋の痕跡も全体ではなく、一部ということになります。橋の痕跡にしては「こんなに小さな橋だったのか」と思ったのですが、これで納得です。

大段さんの写真さらによく見ると、右側に「水道橋」が写っています。復元地図でも新大橋のすぐ上流に細い二本線で表示されています。いつ撤去されたのかは不明ですが、もちろん現在は、存在しませんので、痕跡はのこっていないかと私が写した写真を見直しました。

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 そうすると、向こう岸の右端のところに、その左右の石垣は、斜めに組まれているのに一部だけ横組みに組まれた石垣(河岸からツタのようなものが下がっている)があるのがわかります。なぜ、と思いながら、この部分に水道橋があったではないかと勝手に想像しています。

新しい発見やいろいろな想像をかき立ててくれる大段徳市さんの写真ですので、もう何度か訪れようと思っています。

会期は、今月の27日までですので、一度足を運んでみてはいかがでしょう!

いのちとうとし

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2024年11月18日 (月)

企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」

旧日本銀行広島支店で、15日から広島市が主催する企画展「広島を撮り続けてー大段徳市によるふるさとの記録-」が、開催されていますので、昨日観に行きました。

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この企画展は、広島市で中学校の社会科教員として勤務するかたわら、1954年から2002年まで,広島の景観の変化をテーマにして大段徳市さんが撮り続けた写真を展示したものです。

1911年生まれの大段さんが亡くなられたのは2008年ですが、その後遺族から約15万点にも及ぶネガやプリントが広島市に寄贈され、現在整理・デジタルデータ化が進められ,その一部は、広島市公文書館のデジタルアーカイブ・システムで閲覧が可能となっているようです。

大段さんの写真は、道路・河川・橋梁・建物が中心ですので、広島市の発展の様子を見ることができます。

この企画展の展示は、広島市が大きく変貌を遂げた1950年代から1970年代頃の写真が主になっています。しかも定点観測のように,同じ場所を何度も移していますので、その移り変わりもよくわかります。

展示構成は、「・広島を撮り続けて・変わりゆく広島の地形、道路・橋梁の建設と整備・街並みの移ろい」です。

興味をそそられた写真を何枚か紹介します。

1959年1月の平和大通りの宝町・鶴見町から東を望んだ写真です。現在の「被爆者の森」あたりだと想像でしますが、1957年から58年にかけて行なわれた「供木運動」で贈られた木々です。キャプションには、「短期間により多くの樹木を運搬するため、樹高は6mに統一されている」と書かれています。

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興味深い一文です。確かに樹木の木の高さが揃っています。

市内には「七つの川がある」と言われていますが(今は太田川放水路ができて6本しかありませんが)、その河岸には、かつては家が建ち並んでいたようですが、今はきれいな緑地公園に整備され,市民の散歩や憩いの場となっています。

私が広島に転勤となった1970年はじめ頃は、相生通と言われた基町、そして駅前周辺にまだ多くの家が建ち並んでいたことを思い出します。大段さんの写真にも河岸に家が建ち並ぶ写真が何枚かもあります。この写真は、1967年3月に駅前大橋から見た京橋川左岸です。後方に比治山が写っています。

キャプションによると1966年8月から比治山橋下流から建物の撤去作業が始まり、1968年には、かなり進んでようですので、この写真は、撤去直前の景色です。

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私が広島に来た頃には、このあたりはすでに撤去作業が終わっていたことになりますので、目にしたことのない景色です。

まだまだ、気になる写真がたくさんありました。この写真は、わが家のすぐ近くの風景です。

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1956年8月に鷹野橋消防署の望楼から北に向かって写した写真だと説明されています。右端が市役所、鯉城通りを挟んで左手手前にあるのが、農協ビルです。わが家は、農協ビルのすぐ後ろです。今ではとても想像できない風景です。

こういう風に、今の景色を想像しながら見ると、楽しみが増えます。

もう一枚、気になる写真がありましたが、その紹介は明日にします。

いのちとうとし

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2024年11月17日 (日)

マンホールの蓋―余話

お好み焼きをデザインしたマンホールの蓋のはなしの余話です。

ネットで検索していると「食べタインジャー」のホームページの「広島県のご当地お好み焼きを描いた11のデザインマンホールが誕生!」がヒットしました。

私が中央通りでみたお好み焼きをデザインしたマンホールのスタートは、オタフクソースが100周年記念の施策の一つとして企画したもので、県内の市町に参画を募ったところ10市町が賛同し、11枚のデザインがつくられました。

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このマンホールふたは、友鉄工業株式会社が制作し、2023年7月に披露され、オタフクソースが各市町に寄贈したようです。

ちょっと疑問に思うのは、10市町が賛同したのになぜ11枚なのかですが、よく見ると尾道市だけ「尾道焼」と「因島村上海賊焼」の2種類のデザインがあります。

私が、先日が中央通りでみたのは、9枚だけでしたが、尾道市の2枚を見落としていました。改めて中央通りに行き、私が最後にみた「三原焼」からさらに南に行くと「尾道焼」があります。そして最後の1枚となる「因島村上海賊焼き」は、中央通りからお好み村に入るドンキホーテの店の前にありました。

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「三原」のマンホールを見つけた後、さらに南の方をみたのですが、「尾道」のマンホールまで少し距離があったため、見過ごしてしまったようですが、これで11枚揃いました。

「食べタインジャー」のホームページを見て判明したことが二つあります。

一つは、「ふわふわ納豆焼き」と書かれたマンホールは、熊野町のものだったことです。左下に「くまの」の文字が刻まれています。

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二つは、私が見た中央通りのマンホールには,左下の地名が全て(当たり前のことですが)「HIROSHIMA」となっていますが、それぞれの自治体に設置された蓋は、ひらがなの地名が刻まれています。例えば「府中」は。

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ネットでこのことを知ったとき、文字の部分だけといって変更するには広島以外の10枚の原型を変えることになるので全部かけたのだろうか、と思ってのですが、中央通りの蓋をよくよく見ると、鉄の蓋の上にビニール状のものに印刷し、それを既存の蓋に貼ってあることがわかりました。「そうなんだ」と納得です。

それはそれとして、さらにネット情報を読むと、一枚一枚それぞれのお好み焼きの特徴を出すとともに、地域のキャラクターや町の風景、そしてヘラには「市町村章」が描かれているとのことです。

私が見たとき、地域のキャラクターや風景の違いはわかったのですが、ヘラに「市町村章」が刻まれていることには、気がつきませんでした。

それぞれの蓋のデザインの特徴は、ぜひお好み焼きマンホール、広島県内11か所に「ご当地お好み焼き」デザインで!で見て欲しいと思います。これを読むと1枚1枚のデザインへの思いが伝わります。

また蓋を見たとき、色が豊富だなと思ったのですが、制作者の友鉄工業によれば「平均で18色、一番多かったもので21色を使い、合計で60色近くを使用した」ということですので、その苦労がわかります。

もし、「食べタインジャー」のホームページにたどり着かなければ、9枚だけ見つけて終わりになったと思います。

中央通りに並ぶマンホールの蓋は、鋳物の蓋ではありませんでしたが、ちょっとだけ楽しみな時間を過ごしました。

いのちとうとし

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2024年11月16日 (土)

三原地区の11月の「19日行動」

三原では、11月9日(土)、三原浮城まつりで賑わう三原駅前で定例の「19日行動」を実施しました。

街頭行動に参加した16人からは、「10月27日に投開票された衆議院総選挙で自民公明与党が過半数割れになったことを受けて、政治を変えてほしいという国民の声が届いた選挙結果であり引き続き、自公連立政権が推し進める憲法改悪や軍事拡大、沖縄辺野古新基地建設、原発推進などの暴走を止めるため、頑張り合おう」という表情がうかがえました。

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弁士の岡崎敏彦さんは、「忌まわしいあの戦争を二度とやってはいけない。その大前提となる日本の平和憲法を変えさせてはならない。残念ながら今の政治の実態は、憲法違反の政治が堂々と行われている。自民・公明が過半数割れした新しい国会、憲法審査会や国会の中で大きなウェートを持つ予算委員会の委員長に立憲民主党から選出され、期待をしている人もおられると思うが自民党は絶対、権力の座を譲ることはしないしたたかさを持っている。来年の参議院選挙の結果次第では、新しい二大政党政治が行われるのではないか。その基本は憲法の問題です。今まで憲法改正に反対する立場だと言ってきた政党も自公の接近によって党の進む道が変わってくるのではないかと心配している」。「戦争につながる政治を許してはなりません。そのもととなる憲法の改悪を許してはなりません。それが私たち国民の声です。こういう気持ちを一段と強めて平和を守るために努力をしていきたい」。と訴えました。

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いつもは人通りの少ない三原駅前ですが、この日は祭りの最中で多くの行き交う人たちに私たちの声を届けることができました。

藤本講治

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2024年11月15日 (金)

2024年11月のブルーベリー農園その2

秋の祭りがすんで、11月の前半は安芸区周辺の地域の行事がたくさんあって安芸の郷もあちこちに出店するのでブルーベリージャムや天然酵母パンの製造と販売に利用者とともに精を出す季節。これらのいくつかの行事の手伝いをしてその合間に安芸区に自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園にブルーベリー栽培に出かけている。農園は静かな秋、深まりゆく秋の景色で、行くたびにほぼ毎回見かける細長くて黒っぽい蛇や、キジの鳴き声を近くに聞きながら農作業を続ける

11月8日(金) 農園が管理しているため池の堰堤の草刈りを2人がかりで行った。シダなどは腰の高さまで伸びていた

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1111日(月) 9日と10日は会議や行事があり農作業はなしで、11日に農園に来てみるとところどころに幟旗が立ってあった。開催は16日(土)らしい

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里山のブルーベリー園の周囲の伸びた木を切る作業に入っている。ヤマツツジが季節外れに咲いている

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1112日(火) 木を切る作業を続ける。ガマズミの赤い実

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1113日(火) 農園に着いて最初に花壇のアヤメを掘り上げ株分けをし、頂いたグラジオラスと一緒に植え替えを行う。草の下にカエルがもぐっていて冬支度の邪魔をしてしまった

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ブルーベリー園が日陰になるので里道そばの木を切る

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太い枝を2本切り片付けをして、残りの枝は明日に回す。無理は禁物

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同時並行で野焼きも行う

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別の場所で小さい木の伐採に取り掛かる。里道の横は田んぼや畑では4時前の傾いた日差しにススキや、

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柿の木が薄赤く染まる

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ブルーベリー畑の地べたには草の緑が広がりちょこんとブルーベリーの株元に植えたマリーゴールドがなじんでよく咲いている

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年11月14日 (木)

エッ これはーマンホールの蓋

散歩をしていると思いがけない景色を目にすることがあります。

朝食用の食パンを三越に買いに行く途上、八丁堀交差点から南に延びる中央通東側の歩道で、カラフルで不思議な絵柄のマンホールの蓋を目にしました。ヤマダ電機の前です。

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エッと思いながら、他にもないかと少し南側に向かって歩きました。ありました。ありました。堀川町交差点までに4枚あり,いずれも別々の地名が書かれ違う絵柄になっています。南から府中、三次、庄原、安芸高田の順です。

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三越で買い物を終えて、中央通りの西側歩道を探してみました。八丁堀交差点から隣の胡町通り交差点までの区間にはありません。胡町交差点のすぐ南で1枚見つかりました。

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そのまま南に向かって歩きました。こちら側には、5枚あります。最初の一枚には地名がありませんから、広島だと思われます。次は、呉。次の一枚には地名がなく「ふわふわ納豆焼き」となっています。次は竹原で最後は三原です。

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帰宅後広島中央通商店街振興組合に電話で問い合わせると「10月末から11月10日頃までに取り付けました。お好み焼きのデザインにしたのは、お好み村と結びつけようと思ったからです」と教えていただきました。

私が、このマンホールの蓋に気づいたのは、11月11日ですので設置作業が終わったばかりと言うことになります。ですから、これまでに気づかなかったのも当然です。基本は、お好み焼きですが、それぞれの地名に合わせた特産品などがデザインされています。

よく見るとマンホールの蓋の下部に小さく「C.SEWER」と表記されています。「C.SEWER」は英語で「合流式下水道」(汚水と雨水を合流し1つの管で流す方式)と言う意味だそうですから、下水道のマンホールということになります。

最近は、カラー化されたマンホールの蓋も増えているようですが、この中央通りのマンホールの蓋も一見の価値があると思います。

いのちとうとし

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2024年11月13日 (水)

50周年を迎えた金剛山歌劇団公演

金剛山歌劇団広島公演実行委員会が主催する「金剛山歌劇団公演」が、昨日午後6時半からアステールプラザで開催されました。今年は、50周年記念となる公演会でした。

今年も「広島朝鮮小中高等学校チャリティコンサート」として開催されましたので、日朝友好広島県民の会も支援の活動を取り組みました。

今年も金剛山歌劇団の公演に先立って、朝鮮学園の中高級生徒の民族楽器の演奏,小学5年生の子どもたちの演舞が、行なわれました。この二組は、今年の夏に行なわれた朝鮮学校のコンテストでそれぞれ金賞を得たそうです。特に小学校の子どもたちの踊りには、手拍子も入り盛り上がりました。いつものことですが、私も感動を覚えます。

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「時をこえ 時代をこえ 異国の地で守る大切なことがある

 だからこの道 かわらぬ思いで 歩き続ける100年へと」

民族のアイディンティテーを大切に歩んできた50年をさらに100年へと引き継ごうとの思いが込められた公演会です。

その思いは、オープニングでは、この50年を振り返る映像が流れる中での金剛山歌劇団のルーツである歌劇<金剛山の歌>の名曲を抜粋し創作した作品でした。

演目を紹介します。

女性重唱<リンゴの木を植えました>、舞踊<山河を舞う>、男声独唱<母よ>、舞踊<あの空の向こうへ>。ここで一部が終了しました。

第二部の演目です。舞踊<月灯りの下で>、チャンセナブ独奏<われら幸せを歌う>はいつも楽しみに聴く演奏です。歌謡メドレー混声重唱<ウリハッキョ、ウリ未来>,混声重唱<海に伝える想い>、舞踊<朝鮮相撲>は一人が手と足を使って二人の相撲の様子を演じます。舞踊<チャンゴの舞>、民謡メドレー男性独唱<ニルリリ打令>と混声重唱<黄金山打令>と続きました。

そして最後はいつものように民族舞踊<農楽舞2024>が、舞台一杯で演じられました。今年は、<2024>と銘打たれているからでしょうか、まったく新しい振り付けでの踊りでした。会場も一体となって手拍子が鳴り、最後には大きな拍手が巻き起こり、公演会が幕となりました。撮影禁止ですので、舞台の様子を映像でお見せできないのが残念です。

今年で50周年を迎えた「金剛山歌劇団公演」を私が最初にみたのは、はっきりとは覚えていませんが、40年以上前になるような気がします。当時の会場は、白島北町にある郵便貯金会館(現在の「上野学園ホール」)でした。郵便貯金会館は、1972年に完成していますが、当時1800席を超え,広島市内では最大の席数を誇るホールでした。

私がみたのは、昼の部でしたが、当時は昼と夜の一日2回の公演だったことを覚えています。

こんなことを思い起こしながら、今年の公演会への日朝友好県民の会を代表してのメッセージを次のように書きました。

「金剛山歌劇団50年の歩みは、民族の伝統文化を大切にし、そして新しい未来を築く文化を創造し、多くの在日同胞に朝鮮民族の歴史と伝統の素晴らしさを伝えつづける50年だったと思います。

どれだけ多くの在日同胞の皆さんが、この公演に励まされ、民族の誇りを取り戻されただろうかと想像します。

私も、金剛山歌劇団の公演を参観するたびに、会場と一体となって進む様子に感動を覚えてきました。」・・・「この公演を観ることによって一人でも多くの日本人が、素晴らしい朝鮮の文化に触れることを通じてさらに日朝友好の輪を広げることができればと願っています。」

今年の公演をみながら、この思いをさらに強くしました。

いのちとうとし

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2024年11月12日 (火)

初日に行きました「紙屋町シャレオ古本まつり」

先週の土曜日9日から、「第33回紙屋町シャレオ古本まつり」が、始まりました。5月に続く今年2回目の開催です。

出店する店は、広島県内だけでなく岡山、山口、兵庫、福岡などから11店舗が参加しています。5月は9店舗でしたので2店舗増え、100台のワゴンが並んでします。

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これまで数回参加がなかった岩書房が久しぶりに出店されるということですので、初日のオープン時間10時に会場に行きました。

と言うのも岩書房のワゴンでは、これまで郷土史関係の珍しい本を何度か見つけることができたからです。他店のワゴンには目もくれず、岩書房のコーナーをめざしました。

目をこらして棚をみていきましたが、なかなかこれはという本を見つけることができません。結局岩書房の棚では2冊購入しました。

1冊は、前々から探していた「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」です。この本は、中川幹朗が中心となって活動するヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が、2004年に発行した一冊です。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会は、これまでに何冊も「証言」集を発刊しています。私が所持するのは7冊で、初期の発行と思われる数冊はなかなか見つけることができないでいました。「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」は、その一冊です。この内容は2022年8月6日に発行された「原爆納骨安置所を守り続けて 佐伯敏子の証言」に収録されていますが、私の性でしょうか、やはり全冊そろえたいとの思いがありますので、購入することにしました。

もう一冊は、広島花幻忌の会発行の「雲雀第6号」です。この号は、「原民喜生誕100周年祭記念号」となっています。最近と言っても数年前からですが、原民喜に関わることを調べる機会が増えましたので、せっかく目についたのだからと購入することにしました。私に原民喜のことをいろいろと教えてくれる竹原陽子さんの「遺構『心眼の国』と『永遠のみどり』」も掲載されています。

岩書房の棚を見終えた後は、他の店の郷土史関係の棚をめぐりました。

一冊気になる本が目に入りました。「修道学園史」です。と言うのも、私の原水禁運動の関わりの中でも大きな影響を受けることになった近藤幸四郎さんが、被爆時に通っていた学校が旧制修道中学だからです。本を開くと約40ページにわたって「動員・被爆」について書かれています。「修道中学校職員生徒慰霊碑」は、近いうちに訪れたいと思っている慰霊碑ですので、その前に被爆状況を調べておきたいと思いましたので、躊躇なく購入しました。定価は1000円でした。

その他にも何冊か購入したいなと思う本もありましたが、思ったより高い値段がついていますので、断念しました。

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最近本離れが言われていますが、意外と若い人の姿(この写真には写っていませんが)も見ることのできる会場の風景でした。会期は、17日までです。新しい本も追加されます(と言っても郷土史関係の追加はほとんどない)ので、初日は、郷土史関係の書棚だけ見て回りましたので、他の棚をみるために何度か足を運びたいと思っています。

いのちとうとし

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2024年11月11日 (月)

結成40周年記念・第10回先人を語る会

広島市原爆被害者の会は、9日の午後130分から大手町平和ビル5階会議室で「結成40周年記念・第10回先人を語る会」を開催しました。

広島市原爆被害者の会は、広島県被団協の加盟組織として1984年11月10日に結成されましたが、あっという間の40年です。

1961年に広島県被団協から広島市域の被爆者組織である「広島市原爆被爆者協議会」(歴代の市長が会長を務める)が脱退して以来、広島市内の広島県被団協加盟の組織としては「皆実原爆被害者の会」(会長日詰忍)など数団体が活動を続けてきました。しかし、これらの組織も高齢化が進む中で、新たな広島市域の被爆者組織を作る動きが強まり1984年に「広島市原爆被害者の会」が発足しました。

広島市原爆被害者の会は、発足時から被爆者だけでなく二世など家族を含む「原爆被害者」や支援者も加入できる組織として、運動を続けてきました。私もいつ頃入会したのか記憶が定かではありませんが、かなり早くから会員になったと思います。

40年の回の活動をふりかえり先人に学ぼうと開催された「結成40周年記念・第10回先人を語る会」には、会員など約50人が参加しました。

これまでの「先人を語る会」では、吉川清さん、藤居平一さん、伊藤サカエさん、日詰忍さんなどの足跡を学んできましたが、今回は広島市原爆被害者の会の会長5人の内、これまでに亡くなられた歴代の会長3人初代瀬戸高行さん、2代目坪井直さん、3代目片山春子さんと会長ではありませんが、活動の中心をになってこられた近藤幸四郎さん、沼田鈴子さんを加えた5人の先人を語ることになりました。

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最初に広島市被害者の会田中聡司副会長が、パワーポイントを使って「会の活動の歩み」を紹介しました。私も写った懐かしい写真が何枚もあり,当時を思い出しながら田中さんの話を聞きました。

続いて、先人の足跡をたどった後、被爆二世の遊川和良さん、広島県被団協副理事長の原田浩さん、被爆二世の森容子さん、被爆者の豊永恵三郎さん、そして私が、それぞれの思い出を語りました。ここで紹介することができないのが残念ですが、初めて聞く話、思い出深い話しの連続で、私とも縁の深い人たちばかりですので、興味深く聞きました。

私は、最後に話すことになりましたので、次のようなことを話しました。

3人の会長は、いずれも労働運動の経験者です。エッ坪井さんもと思われるかも知れませんが、坪井さんは、教員時代広教組の組合員として石田明さんが中心となって進めた広島県被爆教職員の会の結成に関わっておられるのです。1994年は、当時被団協理事長だった森滝市郎先生が亡くなられ、広島県被団協も事務局体制を変更しようと人選が進んでいるときでした。その時「いい人がいる」と石田明さん推薦があり、近藤幸四郎さんと3人による面談を経て広島県被団協の事務局次長として専従の任に就かれるようになったのです。

広島市原爆被害者の会の結成に大きな役割を果たしたのは、1960年代から70年代の初めに職域の被爆者組織の結成に尽力した人たち、例えば瀬戸さんは国労原爆被爆者対策協議会、近藤幸四郎さんは全電通被爆者協議会会です。

広島市原爆被害者の会は、こうした先人の努力があって、今があることを忘れずに,活動を進めたいと思います。

いのちとうとし

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2024年11月10日 (日)

総選挙が終わるのを待っていたような再稼働

衆議院議員選挙の投票日が終わった翌28日、中国電力は島根原発2号機の原子炉内に核燃料を入れる燃料装荷という作業を開始し、そしてその次の日に東北電力は女川原発2号機の再稼働を開始しました。

選挙の終了を待っていたようなこの二つの動きに、政府のしたたかさと電力会社の原発を動かすことへの不安な思いを感じます。

女川原発と島根原発は「兄弟原発」と呼ばれるように、とても似たところがある原発です。なんといっても福島第一原発事故を起こした、同じ形の沸騰水型(BWR)原発ですし、電気出力もほとんど同じで女川原発2号機は82.5万Kw、島根原発2号機が82万Kw、運転開始は島根が1989年2月、女川原発が1995年7月です。

なんといっても同じ形の沸騰水型というのが決定的です。9月25日のブログにも書きましたが、福島原発事故後から13年、沸騰水型原発の再稼働は行われていなかったのです。

中国電力は11月3日、原子炉内に560体の核燃料の装荷を終えたと発表しました。原子炉内では燃料装荷をしても、燃料と燃料のすき間の部分に制御棒というブレーキのような物を入れて、核分裂が起こらないようにしています。しかし地震や津波のような事態が起これば核分裂を起こし、臨界事故に波及する恐れがありえます。

一方の東北電力女川原発2号機、10月29日再稼働のボタンが押されましたが、6日後の11月3日、機器のトラブルが発生し原子炉を停止させるという事態となりました。

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トラブルが発生で運転停止した女川原発

なんども再稼働の予定を延期し、「問題なし」と地元では県民への全戸チラシを配ったそうですが、完全に信頼は失われました。

この事態を、中国電力も深刻に受け止めるべきです。繰り返しになりますが、島根原発と女川原発は兄弟なのです。なにはともあれ、島根原発の再稼働に向けての手続きを中断して、女川のトラブルの原因が究明され、島根では同様の事態は起きないのかを調べることです。

中国電力の態度を見ていると、深刻さを感じることができません。せめて何らかの見解を発表することです。マスコミも兄弟だということを知らないような態度は許せないことだと思います。

12月5日、丸山達也島根県知事は原子力規制委員会を訪ね、女川事故に関連した安全対策の強化を要望していますが、対応した原子力規制庁の片山啓長官は「久しぶりの再稼働であり、中国電力の取り組みはしっかりと監視する」と応じたとのことです。その様子は映像で見ましたが、まるで他人事という感じを否めませんでした。

中国電力には女川の事態を深刻に受け止め、まずは再稼働に向けての手続きを中断して住民への説明をきちんと行うように求めましたが、「今はなにも考えていない」との答えでした。

みんな黙っていたら何もしない会社です。約46年間この会社を視てきましたが、少しも変わらない体質を持っていると思います。

木原省治

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2024年11月 9日 (土)

被爆バイオリン特別演奏会

7日の午後5時30分から、旧日銀広島支店で「被爆バイオリン特別演奏会」が開催されました。

この演奏会は、中国新聞が主催し広島市が共催して11月1日から12月25日まで開催される「未来へ繋がる 平和の軸線~ひろしまピースライン~」の「被爆建物 特別展示演奏会」の一環として開催されました。

3日には、平和公園レストハウスで「被爆ピアノ特別演奏会」が行なわれました。被爆ピアノの演奏は何度か聴く機会がありましたが、被爆バイオリンの演奏を聴くのは初めてでしたので、聞きに行きました。

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ひろしまピースラインのチラシから

今回演奏で使われる被爆バイオリンは、1917年のロシア革命で祖国を追われ日本に亡命したロシア人セルゲイ・パルチコフさんが、所持していたものです。

現在の広島女学院の当時の校長に誘われたセルゲイ・パルチコフさんは、1926年から1943年まで生徒たちに音楽を教えることになったようですが、戦局の悪化ともに女学院をやめざるをえなくなったようです。

しかし、広島に住み続けたセルゲイ・パルチコフさんは、1945年8月6日午前8時15分、爆心地から2.5キロの牛田で家族やバイオリンとともに被爆することになりました。

セルゲイ・パルチコフさんは、戦後、バイオリンとともにアメリカに渡り、1969年に亡くなりましたが、その後長女が1986年に広島女学院に寄贈し、壊れていたバイオリンは修復され、同じ音色を取り戻し、同校で展示され、時々演奏会で使用されているようです。

被爆ピアノは、何台かあるようですが、被爆バイオリンで現存しているのは、この1本のみと言うことです。

今回の演奏者は、エリザベート音楽大学・大学院の生徒の皆さんで、バイオリン:森脇恵厘花さん、ソプラノ:村田菜さん、ピアノ:汲地紗弥さん、ウン チェンタッさん、クラリネット:山田夕果さん、フルート:シランクルス ランバルさんの6人でした。

バッハの「無伴奏ソナタ」を森脇さんが、被爆バイオリンで独奏することから演奏会はスタートし、ヴィヴァルディの「四季」より秋など、9曲あまりが1時間半の予定通り演奏されました。

私には、演奏そのものを評価する力はありませんので、多くの参加者の大きな拍手が起こったことだけを紹介します。

会場に私が着いたときには、40席足らずの席が用意されていましたが、その倍を上回る椅子が追加されるほどの盛況でした。

私も楽しい秋の夕べの一時を過ごすことができました。

いのちとうとし

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2024年11月 8日 (金)

2024年11月のブルーベリー農園その1

11月に入ると暑くもなく寒くもなくて農作業がやりやすい。東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも園内の草刈りがほぼ終わったので体に負担を強いる作業が少なくなって体力を消耗した夏のエネルギーと少しずつ取り戻していく感覚がある。安芸区の自宅から農園に通って行う作業も野菜畑の手入れやソラマメや花の種まき、ブルーベリーに巣くうシンクイムイやミノムシの駆除などを続けている。カラスが柿の実を食べにきてギャーギャーうるさい以外はとても静か。

 114日(月) 2日に秋とは思えない大雨が降って農園の庭の池は満水で、水面にリンドウが頭を下げて咲いている

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3連休最後の日はいい天気。ブルーベリー畑でヤグルマソウの種まきをしたときの生き物がブルーベリーの枝で見せる活動

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①イトトンボのカップルがブルーベリーの枝にとまり、

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②どきっとしたのは。カエルとコウロギが・・・モズのはやにえ らしい

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③ほっとしたのはまだ咲いているスミレの花。このあと結実して種を作りあたりにはじき飛ばしている

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115日(火) ニラとツバキとヤブランの種を農作業の合間に集めた。人は植物の種を意識的に採取してあちこちにまきたがる。

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ブルーベリーの枝にとまるオンブバッタ。背中にしがみついているのがオス

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116日(水) ブルーベリーの木の根元に穴をあけるシンクイムシの点検を続けている。見つけたら穴に殺虫剤を注入して細い枝を穴に差し込んで処理する。あと一日でこの作業も終わる

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ブルーベリー畑もかなり葉が赤みを帯びてきた

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野菜畑の端っこに1本お茶の木がある。白い花がたくさん咲いた

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地べたにはうように咲くノコンギク。ほかにもヨメナなどが咲いていて上にはススキ、地べたには野菊が秋から冬の景色をつくる

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年11月 7日 (木)

運転停止した女川原発2号機―原発再稼働の中止を強く求める

広島県原水禁と県平和運動センターは、去る10月29日午後0時15分から30分間、東北電力女川原発2号機の運転再開に抗議し、即時の運転中止を求めて42人が原爆慰霊碑前で座り込み行動を行ないました。

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原発事故への不安が消えない中で、岸田前政権は、原子力発電の最大限活用、新増設の容認、運転期間の延長など原子力政策の大転換を推進してきました。

東北電力女川原発2号機の再稼働は、その政策転換後の最初の運転再開でした。

福島原発事故が起きた東日本大震災の被災地で最初であり、しかも事故を起こした福島第一原発と同型の原子炉の再起動も全国初でした。

当然のことですが、地元住民の不安も無視した再稼働です。

再稼働を強行した女川原発2号機は、発送電を再開するとしていた6日目の11月3日に機器トラブルを起こし、運転停止を余儀なくされました。報道によれば4日午前2時に制御棒が挿入され、同日の午前8時36分に原子炉が停止しました。

そしていつものように「原子炉に異常はなく,外部への放射能漏れはない」としています。放射能漏れがあってはならいのは当然のことで、むしろ慎重に慎重を期して再稼働を行なったにもかかわらず、稼働直後にこうしたトラブルが発生したこと事態が、大問題なのです。

東北電力は、事故原因についてこれから本格的な調査を行なうとしていますが、原発の危険性への向き合う姿勢に問題はないのか、13年間の空白で職員の熟練度に問題はなかったのかなどを含めて検証する必要があります。

この東北電力の事故にもかかわらず、中国電力は、島根原発2号機を12月にも再稼働させるとして、燃料棒の装着などの作業を進めているようです。しかし、まだ原因がはっきりしていませんが、今回の女川原発2号機事故は、改めて原発の絶対の安全はないことを示しました。

テロ対策の先延ばし、事故時の避難方法など、課題を積み残したままの島根原発2号機の再稼働は、絶対に認めることはできません。残された時間はわずかですが、島根原発2号機の再稼働中止を求めて、行動を強めたいと思います。

以下に、10月29日のアピール文を掲載します。


女川原発2号機の再稼働に抗議し、原発に依存しないエネルギー政策を求めるアピール

東北電力は本日、多くの国民の反対の声を聞き入れることなく女川原発2号機を再稼働させます。

この原発は、事故を起こした福島原発と同型の沸騰水型原子炉(BWR)で、この型の再稼働は福島原発事故後初めてとなります。福島原発事故の原因も未だ明確になっていない中、そして福島の「原子力緊急事態宣言」も解除されておらず、廃炉作業も遅々として進んでいないなか、次々と進められる再稼働を容認することはできません。

とりわけ、本年11日に発生した能登半島地震では、北陸電力志賀原発で数々の「想定外」が起きました。原発内での変圧器の故障、原発周辺のモニタリングポストの故障、そして地震による道路やライフライン等の寸断。現状の避難計画に全く実行性がなく役に立たないことは誰の目にも明らかになりました。

さらには、核廃棄物処理を含めた「核燃料サイクル」が破綻し、廃棄物の処理もできない中での再稼働には一片の合理性も見出すことはできません。

2011年311日、国民の大多数は、決して忘れることのできない東京電力福島第一原発の過酷事故を経験し、改めて、原発に依存しない社会の実現を決意したはずです。

今求められているのは、危険な原発への回帰ではなく、再生可能エネルギーのさらなる開発など、原発に頼らないエネルギー政策の推進です。

福島の被害者の思いを忘れてはなりません。

核と人類は共存できません!

私たちは、女川2号機の再稼働に強く抗議するとともに、即時運転の中止を求めます。

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      「女川原発2号機再稼働抗議・慰霊碑前座り込み行動」参加者一同


私は、姉の葬儀のため出雲に帰ればならなくなり、参加できませんでしたので、報告が遅くなりました。

いのちとうとし

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2024年11月 6日 (水)

ヒロシマとベトナム(その63) ~南シナ海をめぐる動向-7~

常設仲裁裁判所提訴の裁定

前号(10月5日)でフィリピンが、「南シナ海における中国の領有権の主張や人工島の建設等は国際法に違反する」として、ハーグの常設仲裁裁判所に提訴した15項目を紹介しました。それらは相互に関連しながら4つに大別できます。1つ目は、「九段線」に囲まれた水域における中国の「歴史的権利」の主張の妥当性。2つ目は、スプラトリー諸島を中心とする島嶼の海洋地形の法的地位と海洋権原。3つ目は、岩礁の埋め立て活動など、南シナ海の海洋環境破壊と漁業活動によって、フィリピンの主権的権利と航行権が妨害されているとするもの。4つ目は、仲裁手続開始後も紛争を悪化拡大させる中国の違法性です。

提訴から3年後の2016年7月12日、仲裁裁判所はほぼフィリピンの主張に沿った裁定を出しました。

「九段線」内水域における、中国の「歴史的権利」の法的根拠はない

まず1つ目の「九段線」内の「歴史的権利」ですが、仲裁裁判所は「『九段線』の関連部分によって囲まれた南シナ海海域に対する中国の歴史的権利 (historic rights)その他の主張は、国連海洋法条約(UNCLOS)に反し法的効果を持たない」と裁定しました。

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中国が引いた「九段線」の幾つかが、フィリピンの排他的経済水域(EEZ)内(注1)に入り込んでいます。 

出典:諸資料を基に筆者が作成(4月5日「その57」掲載の地図を修正)

これは、「九段線」そのものではなく、「九段線」に囲まれた海域における中国の「歴史的権利」について法的効果を持たないとしたものです。すなわち領有権に関する裁定ではないのです。分かりづらく、曖昧な感じがしますが、その背景には仲裁管轄の限界と「九段線」の曖昧さにあると言われています。

仲裁廷の限界と「九段線」の曖昧さ

「国連海洋法条約」第15部「紛争の解決」に基づいて設立される仲裁廷の管轄権は、第288条1項に定められた「裁判所は、この条約の解釈又は適用に関する紛争であってこの部の規定に従って付託されるものについて管轄権を有する」と規定され、主権や領有権の問題には管轄権を持ちません。また第298条に「海洋の境界画定、歴史的湾(注2)及び歴史的権原(注3)、法執行活動及び軍事的活動をめぐる紛争」は、「第二節に定められる紛争解決手続から除外する旨の宣言(選択的適用除外宣言)を行うことができる」と規定されており、中国は2006年にその旨の宣言をしています。したがって、もし「九段線」が南シナ海の島嶼や海域に対する中国の主権や権原を主張するものであるならば、仲裁廷はその合否をそもそも判断できない仕組みになっているわけです。

中国はこの規定をもとに、「フィリピンの申し立ては南シナ海の島嶼への主権(sovereignty)をめぐるものであり、国連海洋法条約(UNCLOS)の解釈または適用に関するものではない」、「紛争は当事国間の海洋境界画定をめぐるものであり、国連海洋法条約(UNCLOS)第298条の選択的適用除外宣言の範囲に含まれる」と主張してきました。

一方、フィリピンは申述書で「南シナ海における島嶼への主権にかかわる裁定を望まない」と明確しつつ、国連海洋法条約による海洋権益に関する事項をもって提訴したのです。結果、冒頭に報告した「九段線で囲まれた海域における中国の主権、管轄権及び歴史的権利の主張はUNCLOSに反しており、法的効力はない」との仲裁が出されたのです。

もう一つの曖昧さは、中国自身が「九段線」について公式に「意味するもの」について公表していないことによります。専門家による分析では、「破線の内側全域に対する主権や権原を主張するものだ」とするものから、「より限定的な権利主張にとどまる」との解釈まで様々です。「中国は、むしろ意図的に曖昧(海洋境界線との表現を使わない)にしている」との分析が一般的のようです。  ※(  )内は筆者

平和的手段による紛争解決

中国の主張が退かれたとは言え、プラトリー(南沙)諸島やスカボロー礁といった島嶼やその周辺海域に対する中国の主権・領有権を否定したものでも、フィリピンへの帰属を認めたものでもありません。裁定が出されて8年を経た今日、南シナ海における中国とフィリピンとの衝突は一段と激しくなり、周辺当事国を含め不測の事態へと発展しかねない状況が続いています。

「国連海洋条約」第279条には、「締約国は、国際連合憲章第二条3の規定に従いこの条約の解釈又は適用に関する締約国間の紛争を平和的手段によって解決するものとし、このため、同憲章第33条1に規定する手段によって解決を求める。」と、平和的手段によって紛争を解決する義務を課しています。

紛争当事国、とりわけ中国の平和的手段による解決のための姿勢と具体的な行動を強く求めると同時に、日本政府がそのための外交努力を果たすことに期待したい。

次号では、島嶼の海洋地形の法的地位と岩礁の埋め立て問題について触れたいと思います。

(注1)排他的経済水域(EEZ)

海洋法に関する国際連合条約(UNCLOS)に基づいて設定される、天然資源及び自然エネルギーに関する「主権的権利」、並びに人工島・施設の設置、環境保護・保全、海洋科学調査に関する「管轄権」が及ぶ水域のことを示します。(出典:ウィキペディア)

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日本の排他的経済水域(EEZ)出典:海上保安庁HPより)

(注2)歴史的湾

国際法上湾の幅が24海里の湾入を持ち、沿岸国がその湾を長期にわたって内水であると主張し、現実に当該国の国家主権が湾内に実際に行使されて占有が確立されていること、他の国家よりその占有事実が黙認されていることが挙げられます。(出典:ウィキペディア)

(注3)歴史的権原

「権原」とは、ある行為を正当化する法律上の原因をいいます。

「権限」はある者に認められた行為の範囲を意味するのに対して、権原は権限の原因となる法的根拠を意味するものであり、両者は異なるものです。

権原の例としては、物の占有権原および管理権原、ならびに金銭を保持する権原などが挙げられます。これらの権原は、法律または契約に従って発生します。

歴史的権原とは、こうした事実が歴史上に存在しない。もしくは証明できない状態を言います。(出典:ウィキペディア他)

(2024年11月5日、あかたつ)

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2024年11月 5日 (火)

サッカースタジアム下の遺構の移設作業

今日5日は、「ヒロシマとベトナム(その63)」を掲載する予定でしたが、あかたつさんからの連絡で、一日遅れて明日掲載することになりました。

今日は、サッカースタジアム建設のために行なわれた埋蔵文化財の調査中に見つかり,一部を切り取り保存することになった旧陸軍輜重隊の遺構の移設作業についての報告です。

伊賀上野に行っていた1日に広島市から「切り取り保存を予定していた旧陸軍輜重隊の移行作業が11月末完成予定で始まりました」との電話連絡がありました。

11月に工事が行なわれることは、9月11日のブログ「旧陸軍施設遺構」はどれだ?: 新・ヒロシマの心を世界にで紹介したとおりです。

昨日、好天気に恵まれましたので、現地に行ってきました。

整備が大分進んでいました。馬碑に向かって、真ん中に石畳の園路が作られています。

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その園路を挟んで、左右に敷石が並んでします。向かって右側には、アスファルトが溶けた部分と敷石が縦に細長く並んでいます。この黒い部分は、発掘調査時に、遠くからもよく目につく場所でした。

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向かって左側には、敷石のみです。右側よりは、小さめです。

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それぞれの石には、発掘時に着けられた個別の番号がついています。これによって、発掘時と同じ位置に設置できることになります。

私が訪れた4日は、休日でしたので作業は中断していましたが、作業としてはかなり進んでいるように思えましたので、今月末までには予定通り完成すると思われます。

ただ、この展示でやはり「大きな輜重隊跡を想像するのは難しいだろうな」というのが、率直に感想です。それでもサッカースタジアムに行く道筋にありますので、一人でも多くの人が気づき、目にとめて,この地がかっての軍都広島の中心だったことを想像して欲しいと思います。

9月に訪れたとき、サッカースタジアム東側の芝生広場の東側の「ひろしまスタジアムパーク」の一角にあった「周辺の記念碑等案内地図」がどうなっているか気になりましたので、行ってみました。

被爆遺構の設置が完了するまで撤去したのでしょうか、案内板を見つけることができません。

ただ9月には見ることのできなかった子どもたちが、楽しそうに遊ぶ姿が目につきました。

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いのちとうとし

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2024年11月 4日 (月)

2024平和といのちと人権を!11・3ヒロシマ憲法集会

日本国憲法が公布されてから78年目を迎える11月3日、戦争を許さない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する「2024平和といのちと人権を!11・3ヒロシマ憲法集会」が、午後2時から広島弁護士会館で開始されました。この集会は、県内4カ所の分散会場でZOOMでのオンライン配信による視聴が行なわれました。

集会は、アイ女性会議の貴田月美さんの司会で進行しました。

今年の講師は、全国「九条の会」事務局長の小森陽一さんでした。小森さんは、「9条の会」運動が始まって以来、事務局をにない中心的に活動されてきました。

講演のタイトルは「戦後・被爆80年へ 未来のつくり方」でした。

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「ある意味で重要となる第50回の総選挙。選挙の結果、改選勢力は、3分の2を割り込んだが、改憲への執念は変わっていない。岸田前首相が踏み込んだ『米軍と一体となって軍事行動に参加する方向性も変わっていない。選挙に負けたが、軍事共同体制の強化は変わらない。報道されていないが、オスプレイの事故は、日米の軍事行動訓練中に起こった。』など、選挙結果に触れながら「改憲と軍事費増大の路線は変えていないことを今後訴えていく必要がある。」と強調されました。その後、9条の会発足時のことなどを紹介し、「今後大切なことは『世論の力』」だとし「会場を出たら、一人ひとりが周りの人に話すことで世論は変わる」「今は多くの人が、何をどうしたらよいか迷っている。だから今こそ、9条を実現する政治をつくることが大事。政治は必ず変わる、今日の集会をその契機にしていただきたい」と呼びかけ小森さんの講演は終わりました。

先の総選挙の結果、前のめりとなっていた改憲勢力が、自民党の大敗によって大きく後退し、改憲に必要な3分の2議席を下回りました。その結果、これまでのような強引な憲法審査会運営はできなくなると思います。そして、この衆議院の議席状況が続く限り、自民党が前国会で強く主張していた憲法改正のための改正条文づくりも、協議すらできない状況に追い込まれたと言えます。ただ、野党の中にも改憲をめざす勢力がありますので、油断はできません。また少数与党となったことにより、当然のことですが、安倍が進めた憲法を無視する国会軽視の政治手法は、とれないことになります。

その状況の中で、私たちがどう取り組みを強化するのかも問われることになります。

そんなことを考えながら、講演を聴きました。

弁護士会館の参加者は、200人でした。

いのちとうとし

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2024年11月 3日 (日)

伊賀上野に行きました。

伊賀上野に窯を構える伊賀焼の陶芸家谷本景さんの「偲ぶ会」に参加するため、1日、2日と三重県の伊賀上野に行ってきました。

谷本さんは、1988年に初めてギャラリーたむらで個展を開催されて以来のお付き合いですので、ギャラリーたむらの店主と二人で参加し、一言挨拶をしました。

伊賀上野駅に着いたのは、午後1時過ぎでしたので、谷本さん縁のお店「田楽座わかや」で豆腐田楽をご飯の上の載せて食べるお昼の定食を食べました。田楽をご飯に載せて食べるのは初めてです。

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「田楽座わかな」には、谷本さんの作品が何点か展示されていました。

「谷本景を偲ぶ会」の会場は、国の史跡に指定されている江戸時代の藩校「史跡旧崇広堂」でした。

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「えっ国の史跡で偲ぶ会?」と思ったのですが、伊賀市では、有料での見学だけでなく、最近はさまざまな展示会やコンサートなどで活用されているようです。このアイデアは、谷本さんの提案が基になって始まったようですから、会場としてはふさわしい場所でした。

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会場には作品の一部が展示されていました。

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150人ほどの参加者で、伊賀市長や教育長同級生などのあいさつのトリを私が務めることになり、偲ぶ会は午後5時前に終了しました。

夕食は、伊賀に来たのだからと伊賀牛のステーキを食べにきました。

朝起きると、ホテルルートインの部屋の窓からは、伊賀上野城がすぐ近くに見えます。

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二日目は、市内観光をして午後3時に伊賀上野駅を出発する予定でしたが、豪雨による帰りの列車の運転休止が心配になり、帰りの時間を早くすることにしました。

でもせっかくきたのだからと、朝食後伊賀上野城周辺を散策しました。

伊賀上野城は、藤堂高虎が築城した城で、本丸の西には、日本1,2の高さを誇ると言われる約30メートルの高石垣が作られています。

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現在建つ天守閣は、1935年に復興されたものです。

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正面は、一部足場を組んで修復中でしたので、東側から写しました。

伊賀上野は、芭蕉生誕の地ですので、お城の周辺にも幾つか縁の建物がありました。

さらに伊賀と言えば、忍者です。忍者屋敷もありましたが、早い時間に行きましたので、まだ開館されていませんでした。

前日に「明日は自宅によって帰って下さい」とお誘いを受けていましたので、午前中の内にと谷本景さんの自宅を訪問することにしました。

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谷本さんのお父さん光生さんは、桃山時代に武将茶人に愛されながら、なぜか終焉を迎えてしまった古伊賀を再建された方で、ここで作陶されていたようですが、ちょうど谷本景さんが作陶をはじめたとき、別の場所に自宅や作業場所窯を移され,その後は景さんが、この場所で作陶を続けることになった場所です。

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父光生さんが新たに居を構え作陶されたお宅にも行きました。遠くに伊賀上野城が見える小高い場所にありました。

雨の影響で駆け足となった伊賀上野訪問でしたが、有意義な時間を過ごすことができました。

伊賀上野駅を出発したのは、当初の予定を大幅に繰り上げて午前11時21分でした。途中、新幹線などの遅れもあり,往路よりは少し時間がかかりましたが、午後4時過ぎに無事に帰広することができました。

いのちとうとし

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2024年11月 2日 (土)

平和大通りの樹木の話-2題

被爆者の森

最初は被爆者の森の話です。

3月に2本の県木(沖縄と富山)が、植え替えられましたが、樹木名を書いたプレートの取り付けが遅れていました。

ようやく先日、そのプレートの取り付けが完了しました。

沖縄県は、リュウキュウマツの代木カンヒザクラです。元気に育っています。

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富山県は、もともとアスナロだったのですが、何度も枯れたため代木としてケンロクエンキクザクラが植栽されました。こちらも元気に育っています。

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この木は、場所を少し南に移して植栽されましたので,樹木の位置を示す表示板の一部も修正されました。富山県は、⑰です。

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周りの木のプレートをみると見えなくなっているものもありましたので、広島市に連絡を入れました。この表示板は、取り付けのバネが伸びすぎていたので、誰かが白いプレートの後ろ側に落ちないように取り付けたようです。

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他にも数本、こんなプレートあります。

日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞を機に、被爆者の森を訪ねてくれる人があればと思いながら、この場を後にしました。

 

伐採されたメタセコイア

広島市は、平和大通りに自転車道を作る計画を進めています。

来年1月から整備を進めるようですが、自転車道づくりの支障をきたす樹木が伐採されます。以前から、自転車道の整備について、広島市に意見を言ってきましたので、数日前に電話で連絡がありました。

その手始めとして、白神社向かい側の南側(小町)の大きな樹勢を誇るメタセコイアの木3本が伐採の対象となり、ドルムネーションが始まる前に作業を終えたいと24日から25日の二日間伐採作業が行なわれます。

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このメタセコイアは、大きく育っていましたので、根が張り出し歩道が盛り上がっているところがあり、歩きにくくなっていましたので対策が必要だなと思っていましたが、こんな形で対策がとられるとは思ってもいませんでした。

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平和大通りの通行する自転車も増えていますので、自転車道は、事故を防ぐためにも必要な計画かも知れませんが、平和大通りの樹木は、供木運動などによって植えられた木もありますから、大切に扱った欲しいと思います。今年度中に17本撤去する予定のようです。

いのちとうとし

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2024年11月 1日 (金)

日本被団協結成大会宣言―世界への挨拶

日本原水爆被害者団体協議会(以下「被団協」)は、長崎で開催されていた第2回原水爆禁止世界大会の二日目となる810日に結成されました。その結成総会の宣言が「世界への挨拶」です。

この宣言文について、森滝先生は、その著書「反核30年」に次のように書かれています。

「この誕生のいわばうぶごえとして発表した『結成大会宣言ー世界への挨拶』の文案は私にとって忘れがたいものである。というのは実はこの文案は三月の広島県大会(いのちとうとし注『318日に開催された最初の原爆被害者大会』)の前夜に私が徹夜で書き上げたものであったが、当時の被爆者の気持ちにはぴったりのものであったので、少し手直しして日本被団協の結成宣言として使ったのであった。今からみればいささか感傷的な所もあるが、人類最初の原爆の犠牲者が敢て『世界への挨拶』としてみずからのしめいとけついをうたいあげたものであるので、少し抄録しておきたいと思う。」

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後に森滝先生が反省されることになる「核の平和利用」に希望を持つ内容も含まれていますが、全文紹介したいと思います。

下線部分が、森滝先生が「反核30年」に抄録されているカ所です。


結成宣言 = 世界への挨拶

原爆から11年あまりたった今になって、私たちは、はじめてこのように全国から集まることができました。あの瞬間に死ななかった私たちが今やっと立ち上がって集まった最初の全国大会なのでございます。今日までだまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たちが、もうだまっておれないでてをつないで立ち上がろうとして集まった大会なのでございます。

私たちがこのような立ち上がりの勇気を得ましたのは、全く昨年8月の世界大会のたまものであります。あの大会で同胞の皆さんや、世界の皆さんたちにかすかな声が聞きとられて、私たちに温かいまなざしが向けられ愛の手がさしのべられはじめてから、私たちは急に元気づいてまいりました。私たちはこの機会に全世界の皆さんたちに心からの感謝と立ち上がりの決意とを披瀝したいと存じます。

又、私たちのこの感謝と決意の言葉は、あの瞬間に無残な死をとげ、又、その後のろうべき原爆症でつぎつぎに死んでいった30数万の父や母、息子や娘、夫や妻たちの声なき声に代っての言葉としてお受けとりいただきたいのです。

 私たちは今日の集まりで亡き人々をしのび、又長い年月のかぎりない思いを互いに語り合いました。しかし、私たちの胸につもったかなしみと怒り、悩みと苦しみについてのつきることもない語り合いは、決してひとときのなぐさめや、きやすめのためではありませんでした。手をつないで決然と立ち上がるためにほかなりませんでした。世界に訴うべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり、たがいに相救う道を講ずるためでありました。

 かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。

 私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります。

 それにもかかわらず世界の現状はかえって水爆競争時代に入ったかのごとく広島、長崎の原爆に千倍の威力をもつ水爆の実験さえ行われています。私たちが「止めてくれ」と血の叫びを挙げているにもかかわらず、水爆実験は冷然として行われつつあります。原爆以来放射能の病いのおそろしさに直面してきた私たち、今年になってからだけでも早くも広島、長崎で数名の人たちが放射能の病いで死んでいった姿をまのあたりに見た私たちが、空気や水を放射能で汚染する水爆実験をどうして黙って見ておられましょうか。私たちはもはやいかなる力の前にも黙っていない覚悟です。

 私たちは、遂に集まることができた今日のこの集まりの熱力の中で、何か「復活」ともいうべき気持ちを感じています。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から「生きていてよかった」とよろこぶことができるでしょう。

 私たちの感謝と決意を披瀝して、この大会から全世界におくる挨拶といたします。


いのちとうとし

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