森滝市郎先生と被団協
体調を悪くしブログの原稿を書かなくなって一月(中国訪問で休んでから一月以上)が経ちました。昨日も病院に行き治療を受けました。完治までにはもう少し時間がかかりそうですので、少しずつ気持ちを切り替えなければと、今日から毎日とはいきませんが、ぼちぼちと私も書こうと思います。
休んでいる間に、日本原水爆被害者団体協議会(以下「日本被団協」)のノーベル平和賞受賞や,衆議院解散総選挙など、重要な出来事が続きました。
ブログ再開の最初は、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協に関わることを書きたいと思います。
この受賞を受けて、日本被団協や広島県原爆被害者団体協議会(以下「広島県被団協」)の結成とその後の被爆者運動、原水禁運動の中心的役割を担われた森滝市郎先生の肩書きについての問い合わせを何件か受けましたので、手元にある資料や書籍を引っ張り出して調べ直しました。
特に参考にしたのは、森滝市郎著「反核30年」(1976年刊)、中国新聞編「ヒロシマ四十年森滝日記の証言」(1985年)、中国新聞発刊「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」(1955年刊)の3冊です。
良く言われている肩書きは、「日本被団協の初代理事長」です。確かにそれは間違いではないのですが、調べてみるとこの肩書きには注釈が必要なことがわかりました。
よく知られているように日本被団協は、1956年長崎で開催された第2回原水爆禁止世界大会の二日目の8月10日に結成総会を開催しました。
この日本被団協結成の約3ヶ月前の5月27日に広島県被団協が結成されていますので、まず広島県被団協での役職について紹介します。
広島県被団協の結成時には、代表委員制をとり、3人(藤居平一、井上昇、日野義隆)が選出されましたが、その中に森滝先生の名前はありません。この広島県被団協の結成に先立つ3月18日に開催された「広島県原爆被害者大会」の大会宣言文「宣言―世界への挨拶」は、森滝先生が、前夜徹夜で書かれたものです。ですから森滝先生が、広島県被団協結成に力を尽くされたことは間違いないのですが、当時森滝先生は、原水爆禁止広島協議会(現在の「広島県原水禁」)の事務局長の仕事が多忙であり、結成時の広島県被団協の役員には、つかれなかったのです。
森滝先生が、広島県被団協の理事長となられたのは、代表委員制から理事長制に変更された1961年5月28日の総会からです。その後広島県被団協の理事長は、1994年に亡くなられるまで続けられました。
問題は、日本被団協の役職です。マスコミのほとんどの社が、森滝先生の肩書きとして日本被団協結成時から理事長を務められたともとれる「日本被団協の初代理事長」と紹介しました。しかし、日本被団協の歴史をよく調べてみると、1956年の日本被団協も結成時には、5名の代表委員制をとっており、理事長は存在しません。
この結成総会では、広島県被団協結成時とは違い、森滝先生も、広島の鈴川寛一さん藤居平一さんとともに代表委員のひとりとして選出されています。この総会では、先に紹介した「広島県原爆被害者大会」で提案された「宣言―世界への挨拶」が、少しだけ修正を加えて森滝先生によって提案されました。
注目したいことが一つあります。1958年の日本被団協の総会で、広島県被団協が森滝先生を代表委員に推薦したときの森滝先生の肩書きです。広島県被団協の役職名ではなく「原水禁広島協議会理事長」となっています。これで、広島県被団協結成時には、役員になられていなかったことがわかります。
大事なことは、日本被団協の理事長になられたのは何年かです。日本被団協が理事長制をとったのは、1960年,8月8日の総会からです。改正の伴う初代理事長に就任されたのが森滝市郎先生です。ですからその意味では「初代理事長」というのは間違いではありません。
その後、原水禁運動の分裂の影響を受け、1966年には初めて理事長選挙が行なわれた(それまでは、広島、長崎の被団協の推薦による選出)こともありますが、1970年の総会で、再び代表委員制に変更されるまで、森滝先生が理事長を務められました。
この時の「理事長制から代表委員制への変更」は、被爆者組織を分裂から守りたいという森滝三原則「中立を保ち、分裂を防ぎ、若返りをはかる」にもとづく、森滝先生の集団指導体制への提言によるものでした。
この時、広島県被団協は,森滝先生を代表委員に強く推薦しましたが、日本被団協の中立性を打ち出した森滝先生は固辞し続け,日本被団協の全ての役職を辞されました。
森滝先生は、日本被団協の役員は辞されましたが、先にも紹介したように広島県被団協の理事長は、終生継続され,被爆者運動を全うされました。
久しぶりのブログ、つい長くなってしまいました。
いのちとうとし
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いのちとうとし様
質問です。日本被団協と広島県被団協との関係がよくわかりません。日本被団協は一つで、広島県だけ二つの被団協があるというふうに理解してよろしいのでしょうか。森瀧先生が中立と立場でご苦労されただろうということは大江健三郎のヒロシマノートで少しかじった程度なので・・・。
投稿: ブロッホ | 2024年10月24日 (木) 07時37分
ブロッホさん
コメントありがとうございます。
日本被団協は、各県の被爆者団体が集まって作った組織です。日本被団協は、1県1被団協の加盟しか認めていません。
残念ですが、確かに、広島県には同名の「広島県被団協」が二つありますが、日本被団協に加盟しているのは、箕牧さんが理事長を務めておられる県被団協です。もう一つの県被団協は、オブザーバー参加です。
ところで、各県にある被爆者組織は、多くの都道府県が1団体ですが、広島には、両県被団協の他に朝鮮人被爆者協議会や県労被爆連など複数の被爆者組織があります。また長崎には、日本被団協に加盟する長崎被災協の他に、加盟人数の多い長崎手帳友の会などの被爆者団体があります。
ここで全てを言い尽くすことはできませんが、それぞれの各県の事情によって,広島以外にも複数の被爆者組織があります。広島が分かり難いのは、別れていった人たちが、同名の被爆者組織を作られてからだと思います。
充分な答えになりませんが、一応の質問への回答です。
投稿: いのちとうとし | 2024年10月24日 (木) 10時18分