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2024年10月

2024年10月31日 (木)

2024年10月のブルーベリー農園その4

東広島市豊栄町のブルーベリー農園あたりも静かに静かに秋が深まっていく。安芸区の自宅から農園にまでの道路も混むことなくCDで音楽を流しながら通っている。農園あたりでは総選挙の候補者カーも遠くで稀に聞こえる程度だった。農作業は草刈り、枯れたブルーベリーの植え替え、ジャーマンアイリスの株分け後の植え付けなどが主な内容で芽の出てきたブルーベリーの花芽の出来具合を時々確かめながら農作業を続けている。

1024日(木) そろそろ里芋の収穫期なので鍬で掘り上げた。ほとんど掘ったらかしだったがいも煮が数回楽しめる量だった。この間拾った栗の実も小ぶりだが甘みがしっかりあってスプーンでほじりほじり食べたのでどちらも秋を味わうことができた

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農園の花壇にサザンカが開花していてちょっと冬を連想させる

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里山東側のブルーベリー園の草刈りを行う。この日で畑、里山のブルーベリーの地面がすっきりした

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農作業の合間に見る少しずつの秋色

①ブルーベリー畑(1027日(日))

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②野菜畑の柿(1029日(火))

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③農園の花壇の花木のマユミが実をつけた。真っ赤なハナミズキの実と違っておしとやかな色合い

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1027日(日) 野菜畑ののり面にある柿をもぐ。フユウガキだが今年はこの2個だけ。でもしゃりしゃりしておいしかった

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1029日(火) ブルーベリー畑で枯れたところに追いうえを3本行った。もみ殻を株元にしっかり敷いておいた

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1029日(火) 野菜畑の手入れをブルーベリー栽培と並行して続けている。畑をならしてジャーマンアイリス植えた(もみ殻をまいた場所)

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 この野菜畑には適当に植えているキャベツの一つがこぶし位の丸を作っている

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イヌタデの傍で緑肥用にまいた種のヘアリーベッチが芽を出している。冬になっても成長していく

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年10月28日 (月)

中国人被爆者・于瑞雪さん

2回にわたった中国人被爆者・于瑞雪さん遺族の平和公園訪問同行記を綴りましたが、肝心の于瑞雪さんのことを紹介していませんでした。

今日は、19日に行なわれた「和解を導いた力Part4」のチラシや当日配布された資料から、于瑞雪さんの被爆体験などを紹介します。

1992年から始まった広島市民と中国・河北大学による日中共同調査で安野における西松建設の強制労働の実態が明らかになりました。同時にこの調査によって、広島刑務所に収監された14人が、1945年8月6日に原爆被害を受け、全員が帰国していること、爆心地近くで取り調べを受けて、5人が死亡していることが明らかになりました。

于瑞雪さんは、広島刑務所で被爆した14人のひとりです。

于瑞雪さんは、1994年5月に実態調査のために遼寧省大連市の自宅を訪れた広島からの調査団に対し、息子さんに支えられてソファーに座り、被爆の時の様子を次のように話しています。

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「8月6日朝8時ごろ、私は両手に手錠をかけられて独房にいました。突然、衝撃波で頭の後ろを撃たれ、右の耳にガラス片が刺さりました。建物はすっかり吹き飛ばされました。何もかも黄色く見えて、目がはっきり見えなくなりました。高い塀があったので、幸い生きていられました」

安野の労働実態については、「いちばん苦しかったのは毎日の労働でした。靴がなく、わらで草履を編んで履きました。わらがなくなると,春と秋は裸足で、冬は足をセメント袋で包み草でしばって働きました。雪がひざの下にあるときにも働きました。どうして生きてこられたのか不思議です」と証言しています。

于瑞雪さんは、帰国後の健康実態について次のように語っています。

「1965年に胃潰瘍になり胃を3分の2切除した。7~8年前から胆のう炎となり、肝硬変を引き起こした。心臓病や高血圧などいろいろな病気に罹っている。血液が悪く栄養を吸収しない。定年は60歳だが、身体の調子が悪く55歳で早期退職をした。医療費は大きな負担になっている。去年の夏までは物につかまって歩けたが、今は寝たきりになった。頭ははっきりしている」

その後病状が悪化し、日本訪問もかなわず、翌年1995年5月に逝去されました。

于瑞雪さんの健康状態を書きながら思い出したことがあります。

二人の娘さんに平和公園を案内しているとき、放射能による健康への影響の内、ガンの発症時期などについて説明したところ、「父の体が弱かったのは、やはり放射能の影響でしょうか」と問いかけられました。「今はガンの発症について話しましたが、放射能の影響は、ガンだけではありません。免疫力などが低下しますので、病気に罹りやすいなど健康への影響があります」と答えました。

国立追悼祈念館を訪れたとき、鎌田七男先生が、放射能の身体への影響について書かれた「広島のおばあちゃん」がありましたので、該当するページを開き、改めて説明を行ないました。

「放射能の健康への影響について」二度質問がされましたので、お父さんの健康状態が悪かったことが、被爆の影響かどうかを確かめたかったのだと思います。

最後に「子どもたちへの影響はないのでしょうか」と問われました。「今のところ医学的調査では、はっきりとした結論は出ていませんが、私は影響があると思っています。例えば、将来の健康不安をいただかなければならないのも、影響の一つだと思っています。」

この私の説明に対する返答はありませんでしたので、どう思われたのかは不明ですが、お父さんの被爆と向き合おうとされているように感じました。

いのちとうとし

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2024年10月27日 (日)

強制連行中国人被爆者の遺族の平和公園訪問―つづき

原爆資料館見学を終えて、平和公園内の案内です。

慈仙寺跡、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、供養塔がある平和公園北側に移動しました。

最初に案内したのが慈仙寺跡です。ここは、私が平和公園を案内するとき、必ず訪れる場所です。

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この地面が、この平和公園の中で唯一被爆当時の地面を残していることを説明した後、石灯籠の下に挟まった小石を示しながら、当時の爆風のすごさを話しました。被爆当時のままの状態で原爆の威力を知ることのできる貴重な場所です。

すぐ隣の韓国人原爆犠牲者追悼碑に頭を垂れます。原爆慰霊碑に参拝してからずいぶん時間が経ちましたし、この碑については、きちんと説明したいことがありますので、すぐそばのベンチに座って話すことにしました。

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1910年、日本が朝鮮の植民地支配を開始し、土地調査事業などによって、土地を奪われた朝鮮人たちは、農民として自活できない状況に追い込まれ、日本への移住を余儀なくされたこと、そして1944年から始まった徴用は、中国人強制連行と同じように強制によって日本国内で働かされ、広島、長崎で被爆しなければならなかったことなどを話しました。

熱心に聞いてくれました。後になるのですが、広島テレビの取材の場面で、韓国人被爆者のことを話されたようですから、印象に残ったと思われます。

さらに説明を続けます。次は、供養塔です。いまも約7万の遺骨が納められていること、8月6日に多くの遺族がここにお参りすることを紹介しました。そして私が最も伝えたかったことですが、強制連行された中国人で、広島地裁検事局(三川町)か広島西署(現在の県民文化センター)に留置中に原爆に遭い被爆死した人は5名の遺骨が、1950年代後半にこの供養塔に納められた遺骨の中から5体分が、遺骨送還されたが、まだこの供養塔の中に眠ったままの遺骨があることと思われることです。

そういう思いで、供養塔にはぜひお参りして欲しかったのです。

そして、最後に私にとって大事な話をしました。それは、第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団が、被爆者救援のために5万元(720万円)のカンパを寄せてくれたことです。そのカンパが当時の被爆者にとって、どれだけ大切なものだったか、そしてその後の日本政府を動かす力になったことを話しました。「民衆の連帯が大切ですね」との答えが返ってきました。

ここで平和公園めぐりは終わり、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(以下「追悼祈念館」)に移動しました。

追悼祈念館を訪れた一番の目的は、于瑞雪さんの遺影を登録することでした。登録の手続きをする前にすでに遺影が登録されている呂学文さんの遺影をみるため、追悼空間へのスロープを下りました。ここには、このブログでも何度も取上げたことのある6枚のパネルがあります。特に説明したのは、3枚目と6枚目です。3枚目は「中国出身者も含まれており、その中には半強制的に徴用された人々もいました。」の文言です。私の説明を聞いた後、中国語の翻訳文を確認するように熱心に読んでおられたのが印象的でした。6枚目は「誤った国策」の部分です。

この2枚はどうしても説明しておきたかったパネルです。

この後,遺影コーナーに行き、呂学文さんの遺影を検索。中国語の説明文をしっかりと読んで、お父さんの遺影が登録されたらどうなるかを確認。

体験閲覧室に行き、いよいよ中国人被爆者于瑞雪さんの遺影登録申請です。

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川原さんたちが事前に相談されていたのでしょう,生類を提出すると2,3点家訓があっただけで登録の手続きは終了しました。「父の写真はあまりないので」と話しながら写真を渡されたのが印象に残っています。

その日のうちに、登録が完了すると言うことで、明朝もう一度ここを訪れ、確認するとのことでした。

平和公園での予定は、これで終了です。

この後、二人は広島刑務所に移動されましたが、私はここで別れました。

中国人の平和公園案内は初めての体験でしたが、私にとってよい勉強となりました。

いのちとうとし

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2024年10月26日 (土)

強制連行中国人被爆者の遺族の平和公園訪問

今年で17回目を迎える「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」が、10月の第3日曜日となる20日、安芸太田町安野の中国電力安野発電所に建つ「安野中国人受難之碑」前で行なわれました。私は、体調不良で参加できませんでしたので、広島県原水禁からは大瀬敬昭事務局長が参加しました。

前日の19日には広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会が主催する「和解を導いた力 Part4 -『生きてこられて不思議だ』被爆者・于瑞雪さんの生涯をふりかえるー」が、弁護士会館で開催されました。

今年は、久しぶりに中国から于瑞雪さんの二人の遺族,三女の于蘭芬さんと四女の于栄春さんが、来広されました。四女の栄春さんは、2011年10月の和解事業第3回訪日団の一員として来広されていますが、三女の蘭芬さんは、今回が初めての訪日です。

私も「和解を導いた力 Part4」に参加しましたが、今日は21日の午前中に于瑞雪さんの遺族二人の平和公園訪問の様子を紹介したいと思います。

というのは、いつも原水禁世界大会のフィールドワークでお世話になる川原洋子さんからの強い要請で、この平和公園訪問に同行し、案内をすることになったからです。

二人の平和公園訪問は、午前9時に原爆慰霊碑前で合流し、慰霊碑への献花からスタートしました。

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左が四女の栄春さんその右隣が三女の蘭芬さん
ここでは、原爆慰霊碑に収められている死没者名簿について、少しだけ紹介しました。川原さんに聞いたところ、于瑞雪さんなど強制連行された中国人被爆者の名前は、死没者名簿にまだ登載されていないとのことでした。

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その後、原爆資料館に移動し資料館の見学です。移動中に、森滝市郎先生が、平和公園を案内されるとき,「祈りの泉」を「世界には、トレビの泉など有名な泉がありますが、この泉は水を求めて死んでいった被爆者を慰めるための特別の泉です」と紹介されていたことを思いだし、この話とともに多くの被爆者が水を求めて死んでいったことを話しました。

資料館に入ると、そんなに多くの人が並んでいませんので,意外に入館者が少ないなと思ったのですが・・・。

エスカレータで移動する前、平和監視時計を示し、二人のお父さんが被爆されてから28931日が経ったことをまず紹介し,3階に進みました。

3階では、導入展示とも言える広島市の地形模型に映像を投影する「焦土と化した広島」で、二人が知りたいと思われた于瑞雪さんの被爆場所である広島刑務所の位置を示します。爆心地からの距離を見ながら、何度も確認するようにみておられたのが印象的でした。

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私が別れた後の話になりますが、その日の午後二人は、川原さんに案内されて広島刑務所を訪れられました。

本館の展示場に移動します。一気に入館者が多くなり、進むのもままならない状況です。全てを紹介することはできません。

亡くなった子どもたちの遺品の前では、①原爆で亡くなった人たちの内、12歳、13歳の子どもが一番多かったこと②この展示を見て、一人ひとりの顔を思い浮かべて欲しいことなどを話しました。被爆、特に熱線による被害提示では、当時の日常生活で使われていた陶磁器の食器やガラス瓶などを紹介し,爆心地直下の地表温度は3000度から4000度にも達したことに触れました。特に食器類を紹介したのは、あの日も当たり前の日常生活があり、市民が犠牲になったことを知って欲しかったからです。

充分な時間をとることは出来ませんでしたが、原爆被害の実相の一部を触れていただいたと思います。

展示館を出て東館に移動する途中にあるギャラリーで少し時間をとりました。

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それは、中島地区の復元図は、大学の先生、大学生、マスコミなど市民の協力によって復元できたことを知って欲しかったからです。さらにこの平和公園には、当時6つの町があり4000人を超える人たちの暮らしがあったが、一瞬のうちに全ての人々のいのちが奪われてしまった場所であることなどを話しました。

平和公園内でどうしても伝えたい場所がありましたので、駆け足のような資料館見学になりました。

いよいよ平和公園の案内です。たくさんの慰霊碑などがありますが、私が案内したのは,慈仙寺跡、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、供養塔がある場所です。

このつづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年10月25日 (金)

被団協がノーベル平和賞受賞

 被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞受賞という一報は、10月11日夕方の友人からのメールでした。

少し遅かったなと思いながらも、本当に良かったという気持ちになるとともに、頭に浮かんだのは、すでに亡くなられた被爆者運動、平和運動を担っておられた多くの先輩たちとジャーナリストの人の姿、そしてその人が発せられていた言葉でした。

「私らあー、銭金を欲しいけえー国家補償の被爆者援護法を要求しとるんじゃないよ。二度と、私らと同じような人間を作らんためなんじゃあー」が口ぐせだった被爆者運動のリーダーだった人。

「国家補償とは、過去の補償・現在の保障・未来の保証だよ。過去の補償は、あの時の被害者。現在の保障は、今も健康障害などで苦しんでいる被爆者。未来の保証とは、二度と放射能被害者を作らない保証だよ」という「三つのほしょう論」語っておられた人。

「被爆者ではないけど、被爆者の思いにできるだけ近づくことの努力」と語られた原水禁運動を指導してこられた方の言葉。

「にんげんは生きねばならない。いのち尊し」を語られた森滝市郎さん。

「ひろしまの加害と被害の歴史」を熱く語っておられた人。

まだまだたくさんありますが、このような言葉を語る時のその顔は熱く、今を生きる私たちへの期待の意味が込められていました。込められたその期待をプレッシャーに感じることも多くありました。

広島・長崎後、核兵器が戦争で使われなかったのは、被爆者の人たちを中心に発してきた様ざまな活動だと思います。同じ被爆者でも、韓国や米国、ブラジルなど国外に住んでおられる方の問題もありますし、被爆二世・三世の人たちの課題もあります。

一方、カタカナで書かれる「ヒバクシャ」は、核実験により、原子力施設の事故や放射能汚染により、世界中に拡大していることを忘れてはならないと思います。

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来年は原子爆弾投下から80年という中、ノーベル賞財団は被爆者の人たち一人ひとりの活動を評価するとともに、これからの存在意味を期待して決めたのだと考えています。

当然ですが生存している原爆被爆者は減少し、やがてゼロになる日がやってくるでしょう。そうなった時の広島・長崎、そして原爆の体験がこの国の平和運動の原点であるのですから、その時の方が私たちに授けられている役割りは大きいことだと思います。

1996年12月、原爆ドームが世界遺産に登録された時、当時の文化庁は登録されることに消極的だったという話しを聞いたことがあります。米国や中国に気を使って、外務省から広島市への圧力は強かったとも聞きました。

この度のノーベル平和賞受賞、日本政府も米国政府も称賛の声をあげていますが、核抑止、核共有、アジア版NATOをめざし、ひいては日本も核兵器を持つことを望んでいる人たちの本音は、もしかしたら不愉快なのではと感じたりもしています。

だからこそノーベル平和賞にふさわしいこの国にするのは、私たちみんなの役割りであり努力にかかっていると思っています。

木原省治

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2024年10月24日 (木)

森滝市郎先生と被団協

体調を悪くしブログの原稿を書かなくなって一月(中国訪問で休んでから一月以上)が経ちました。昨日も病院に行き治療を受けました。完治までにはもう少し時間がかかりそうですので、少しずつ気持ちを切り替えなければと、今日から毎日とはいきませんが、ぼちぼちと私も書こうと思います。

休んでいる間に、日本原水爆被害者団体協議会(以下「日本被団協」)のノーベル平和賞受賞や,衆議院解散総選挙など、重要な出来事が続きました。

ブログ再開の最初は、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協に関わることを書きたいと思います。

この受賞を受けて、日本被団協や広島県原爆被害者団体協議会(以下「広島県被団協」)の結成とその後の被爆者運動、原水禁運動の中心的役割を担われた森滝市郎先生の肩書きについての問い合わせを何件か受けましたので、手元にある資料や書籍を引っ張り出して調べ直しました。

特に参考にしたのは、森滝市郎著「反核30年」(1976年刊)、中国新聞編「ヒロシマ四十年森滝日記の証言」(1985年)、中国新聞発刊「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」(1955年刊)の3冊です。

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良く言われている肩書きは、「日本被団協の初代理事長」です。確かにそれは間違いではないのですが、調べてみるとこの肩書きには注釈が必要なことがわかりました。

よく知られているように日本被団協は、1956年長崎で開催された第2回原水爆禁止世界大会の二日目の8月10日に結成総会を開催しました。

この日本被団協結成の約3ヶ月前の5月27日に広島県被団協が結成されていますので、まず広島県被団協での役職について紹介します。

広島県被団協の結成時には、代表委員制をとり、3人(藤居平一、井上昇、日野義隆)が選出されましたが、その中に森滝先生の名前はありません。この広島県被団協の結成に先立つ3月18日に開催された「広島県原爆被害者大会」の大会宣言文「宣言―世界への挨拶」は、森滝先生が、前夜徹夜で書かれたものです。ですから森滝先生が、広島県被団協結成に力を尽くされたことは間違いないのですが、当時森滝先生は、原水爆禁止広島協議会(現在の「広島県原水禁」)の事務局長の仕事が多忙であり、結成時の広島県被団協の役員には、つかれなかったのです。

森滝先生が、広島県被団協の理事長となられたのは、代表委員制から理事長制に変更された1961年5月28日の総会からです。その後広島県被団協の理事長は、1994年に亡くなられるまで続けられました。

問題は、日本被団協の役職です。マスコミのほとんどの社が、森滝先生の肩書きとして日本被団協結成時から理事長を務められたともとれる「日本被団協の初代理事長」と紹介しました。しかし、日本被団協の歴史をよく調べてみると、1956年の日本被団協も結成時には、5名の代表委員制をとっており、理事長は存在しません。

この結成総会では、広島県被団協結成時とは違い、森滝先生も、広島の鈴川寛一さん藤居平一さんとともに代表委員のひとりとして選出されています。この総会では、先に紹介した「広島県原爆被害者大会」で提案された「宣言―世界への挨拶」が、少しだけ修正を加えて森滝先生によって提案されました。

注目したいことが一つあります。1958年の日本被団協の総会で、広島県被団協が森滝先生を代表委員に推薦したときの森滝先生の肩書きです。広島県被団協の役職名ではなく「原水禁広島協議会理事長」となっています。これで、広島県被団協結成時には、役員になられていなかったことがわかります。

大事なことは、日本被団協の理事長になられたのは何年かです。日本被団協が理事長制をとったのは、1960年,8月8日の総会からです。改正の伴う初代理事長に就任されたのが森滝市郎先生です。ですからその意味では「初代理事長」というのは間違いではありません。

その後、原水禁運動の分裂の影響を受け、1966年には初めて理事長選挙が行なわれた(それまでは、広島、長崎の被団協の推薦による選出)こともありますが、1970年の総会で、再び代表委員制に変更されるまで、森滝先生が理事長を務められました。

この時の「理事長制から代表委員制への変更」は、被爆者組織を分裂から守りたいという森滝三原則「中立を保ち、分裂を防ぎ、若返りをはかる」にもとづく、森滝先生の集団指導体制への提言によるものでした。

この時、広島県被団協は,森滝先生を代表委員に強く推薦しましたが、日本被団協の中立性を打ち出した森滝先生は固辞し続け,日本被団協の全ての役職を辞されました。

森滝先生は、日本被団協の役員は辞されましたが、先にも紹介したように広島県被団協の理事長は、終生継続され,被爆者運動を全うされました。

久しぶりのブログ、つい長くなってしまいました。

いのちとうとし

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2024年10月23日 (水)

2024年10月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー園に安芸区の自宅から通ってブルーベリー栽培を2000年秋から続けている。収穫したブルーベリーの実の大半は安芸の郷に提供しており、加工、販売をこの法人が担う仕組みでその収益がこの法人の運営する事業所で働く利用者の収入の一部になっている。今夏は農園のブルーベリーの強剪定の影響で収穫が約3割減で品物不足が出てお客さんなどにご迷惑をかけてしまった。秋になって強剪定したブルーベリーの木からは新しい枝が出て先端には花芽が順調についてきているのでちょっとほっとして農作業を続けている。

1015日(火) 近くの農事法人にお願いしてもみ殻を取りに行く。もみ殻用のビニール袋に詰め6個ほど車に積んで農園に運んだ。あるといろいろ便利な資材だ

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ブルーベリーの木の葉が全部なくなっている木。ミノムシの被害で、こうなると回復に数年かかる。周囲を見て回ったが被害は幸い1本だけだった

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午後4時ころの農園の空は積乱雲とうろこ状の雲とぼんやりした雲が混在して夏と秋が同居するまよい気味の空だった。日中の気温は26度をさしており暑かった

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1020日(日) 農園周囲の秋の様子

①里山のブルーベリー園からはすぐ下の田んぼで草を刈った後の野焼きの煙が見える

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②休耕田ではセイタカアワダチソウが満開。外来種だがすっかり日本の秋の景色に入り込んだ

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③ソバ畑では花が終わって実がたくさんついている

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1021日(月) 里山のブルーベリー園には自然種のクリの木がだんだん大きくなってきていて今年は実がたくさん落ちている

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イガグリの中から顔をだしている大きめの実で、虫が入っていなさそうな実を集めて持ち帰った

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周辺ではモミジが色づき

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草刈りで残しておいたアキノキリンソウがよく咲いている

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ブルーベリー畑の地べたに2週間前に種をまいたところからダイコンの芽が。隣の花はゲンノショウコ

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年10月22日 (火)

府中地区の10月「19日行動」

府中市は午前中はひどい雨でしたが午後からは雨はやんで天候も19日行動を促しているようでした。ただ10月の19日行動は選挙中ということもあってスタンディングだけとなりました。

午後3時から旧上下町のAコープ前、午後4時30分から府中市の天満屋店前でいずれも9人の参加で30分間のスタンディングです。

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 「戦争はいやだ。くらしと平和を作るために投票に行こう!」「イスラエルはガザでの虐殺をやめよ!」の横断幕2本と「投票に行こう」というプラカードを掲げて無言で訴えました。

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今日も横断幕の言葉を読み,手を振ってくれる人たちに励まされました。午前中から雷とともに降り続いた雨がこのツアーの2時間だけ止んでくれ、終了とともに再び土砂降りに。市民の小さな活動にお天気も味方してくれたようです。横断幕に込めた想いを政治に活かす候補者が一人でも多く当選することを祈りつつ街頭行動を終えました。

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参加者からは、「日本被団協がノーベル平和賞を受賞したとき、石破首相が代表委員の田中煕巳さんにお祝いの電話をしているが、自民党の総裁選の時、アメリカの核兵器を日本で運用する『核共有』について『非核三原則に触れるものではない』と言っていることは許せん。口と腹が違っている。そのことを今日は言いたかったが残念。」と言われている参加者もいました。

小川敏男

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2024年10月21日 (月)

三原地区 10月の「19日行動」

10月1日、岸田政権に代わって石破新政権が発足。石破首相は、早々に衆議院を解散して総選挙を強行しました。そうした政治情勢の下で、10月の「19日行動」を12日(土)、午後1時30分から三原駅前において、18人が参加して実施しました。開会にあたり司会者が「昨日(1011日)日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が『ノーベル平和賞』を受賞というビックニュースが報じられました。79年前、広島では、原子爆弾により一瞬にして14万人の尊い命が奪われた原爆被害。二度とそういった惨禍を繰り返してはならないと誓ったヒロシマにとって、大変勇気づけられる出来事です。核兵器の廃絶と戦争のない平和な社会をめざして、私たちはがんばります」と述べて、3人の弁士がマイクで訴えました。

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▲高木武子さんは、「9月に行われた自民党総裁選挙を通じて、『平和にまさる幸せはない』このことを改めて平和の大切さを考えさせられました。石破総理大臣は防衛庁長官・防衛大臣の経験を持っており、今回の内閣で4人の防衛大臣の経験者がいるということ、戦争が当たり前にできる国にしようとする大変、怖い内閣だと思います。私たち市民が子どもを産み育てる。その子どもや孫を戦争に送ってはなりません。教職員のみなさんは、『教え子を再び戦場に送らない』と言い続けています。私たちは、9年間も駅前で戦争法の廃止を求めて街頭行動を行っています。これからもしっかり続けながら平和の道を歩んでいきます。私たちの平和な世界をつくるのか、軍事拡大の世界をつくるのか大切な総選挙です。市民のみなさん、共にがんばりましょう!」と訴えました。

▲三原の定例「19日行動」は、冬季期間になりましたので10月から3月までは毎月第2土曜日の13時30分から実施をすることとしています。2015年安保法制(戦争法)が国会で強行採決された「19日」、その日を忘れず、憲法改悪反対の声を上げ続けていきます。

藤本講治

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2024年10月20日 (日)

ベトナムの歴史(その33) ― ベトナム Now Ⅲ ―

先月号でお知らせしました「“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山」、10月16日(水)、344名の皆さんにご入場いただき成功裏に開催できました。連休明けから半年間、企画・準備・運営とご協力くださった連合に結集する働く仲間の皆さんや企業、団体、そしてボーンアティア市民の皆さんに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

ベトナム伝統の民族楽器が奏でる素晴らしい音色や生演奏の臨場感を味わっていただくことはできませんが、公演スナップをお届けします。

準備

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開演

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月琴(ダングエット)           一弦琴(ダンバウ)                 

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竹琴(トルン)             石琴(ダンダ)

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上3枚は、数々の賞を受賞した著名の舞踊家によるパフォーマンス。

終演後のロビー

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“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山

開演にあたってのご挨拶

皆さん、こんばんは。ようこそ“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートin福山にお越しくださいました。

代表世話人の一人を務めています広島ベトナム平和友好協会の赤木達男です。

4年前、2020年にチャリティー・コンサートを計画しました。広島が「被爆75周年」、ベトナムがベトナム戦争から45周年を迎えた年です。戦争による核被害を受け、今なおその放射線による被爆死が続いている広島と猛毒ダイオキシンを含む化学兵器、枯葉剤を大量に浴び、同じく今なおその被害が続いているベトナム。この事実を風化させることなく、“核も化学兵器も、戦争もない平和で豊かな世界を築く”というヒロシマとベトナムの思いをつなぎ、そして枯葉剤被害者の支援につなごうと計画しました。

しかし、世界で猛威を振るった新型コロナウイルスの感染拡大のため、実現しませんでした。

今日のチャリティー・コンサートはそのリベンジです。

この4年の間、世界は大きく変わりました。ロシアによるウクライナ侵攻は3年にも及び、イスラエルによる「ガザ虐殺」はレバノンへと拡大しています。この瞬間にも、罪のない多くの子どもたちや市民の尊い命が奪われています。化学兵器や非人道兵器が使われ、核兵器の使用も心配されています。日本やベトナムのある東南アジア・東アジアでも軍事的緊張が高まり、チャリティー・コンサートの持つ意味、意義は、ますます重くなっています。

4日前、私たちはとても嬉しいニュースを手にしました。被爆者の立場から核兵器の廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会が、今年のノーベル平和賞に選ばれたというニュースです。

この受賞は、79年間、決して忘れることなく、諦めることなく、自らの体験を通して核廃絶を訴え続けてこられた被爆者の方々への敬意と賞賛。そして、再び核兵器が使われる危険性が増している今日、平和を愛し、その実現を目指す私たちに一層の努力を促し、加えて、世界で唯一の戦争被爆国である日本政府に対し、その役割と責任を果たすことを求めたものだと思います。

来年、広島は「被爆80周年」を迎え、ベトナムはベトナム戦争が終結し、南北ベトナムが統一されて50周年を迎えます。こうした歴史的な節目を前に、日本被団協が受賞したノーベル平和賞の意味、本日、“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートを開演できますことの意義を、皆さまと共に確認し合いたいと思います。

おりしも、日本の将来を左右する大切な時期の真っ只中ですが、今夜はホーチミンから国立ボンセン歌舞団の皆さんをお迎えし、54の民族が織りなす伝統楽器の素晴らしい演奏、継がれてきた歌や踊りをお楽しみください。そこには、長く大国によって支配・蹂躙されながらも、平和で豊かな国を取り戻すための不屈の闘志や、人びとの深い絆で結ばれた日々の暮らしを思い浮かべることができると思います。

おわりに、本日の公演のために、惜しみのないご支援とご協力をお寄せくださいましたすべての皆さまに、心からお礼を申し上げ、開演にあたってのご挨拶とさせていただきます。

ありがとうございました。

2024年10月16日

                一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会

                           会長  赤木達男

2024年10月20日(あかたつ)

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2024年10月15日 (火)

2024年10月のブルーベリー農園その2

1012日は安芸の郷で「あきのそらまつり」が開催され約600名の参加があった。ブルーベリーの苗木の販売も行われ育て方などいろいろ説明する役割を務めたので農園行きはお休み。12日からの3連休は3日間とも晴天で澄んできれいな青空が終日楽しめた。

109日(水) 農園の近くの畑にコルチカムが咲いていた。

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そしてこの畑から望む西空には、夕焼雲が茜色にたなびく

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1010日(木) 秋の青空をバックに

①桜の枝にとまる赤トンボ

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②ブルーベリーの葉も少しずつ色づく

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1013日(日) 久しぶりにブルーベリー畑の横の溝掃除を行った

ミゾソバなどの水を好む草を泥と一緒にをかきあげて水の流れがよくなった

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溝の中にはカエル、イモリ、ドジョウなどが住んでいるのが見える

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そばの電気柵のワイヤーにはジョロウグモがあちこちに巣を作っているが赤トンボがかかっていた

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雑草の茂った休耕田の畔に咲く秋空に輝く野菊や

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セイタカアワダチソウも元気にピンと茂っている

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一日の農作業は同じことを続けると使った体を痛めるので複数の作業を混ぜて行うようにしている。午後3時過ぎてからは数日かけて草を刈った野菜畑で植えてあるジャーマンアイリスの掘り起こしに取り掛かる。掘った球根株分けしたあとに数日乾燥させてからあちこちに植える予定

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ブルーベリー畑の地べたの観察。緑肥用にまいた種のうちレンゲが芽を出し葉が展開している。ほかにダイコンやヘアリーベッチなどが芽を出している

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年10月10日 (木)

最近なぜ気分は優れなかったのかを考えてみた

立憲民主党の代表選、自民党の総裁選が行われましたが、両党とも選挙戦の中で原発・エネルギー問題が争点どころか、議論にすらならなかったことが原因だと気が付きました。

3年前の2021年自民党総裁選挙では、脱原発を打ち出した河野太郎が第1回投票では2位に入り、岸田文雄との決戦投票で敗れるという大激戦でした。決戦投票で河野は約40%の得票率を得ています。

しかしこの度の選挙では、河野から「脱原発」という声は聞かれませんでした。9人の候補者中8位で、まさに惨敗でした。新聞記事によると、記者団から「この3年間で何が足りなかったと思うか」と問われましたが、「これからゆっくり考えたい」と言葉少なかった。とのことです。

「脱原発を言わなかったから、そうなったんだよー」というのが、僕のせめてもの慰めというか救いでした。

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自民党ホームページより

2021年の総裁選挙の時、中国電力の人から「河野さんが勝ったら、わが社は困るなあー」という声を聞いた記憶があります。その河野が、この度は何故脱原発を言わなかったのか、どうもこの人は大臣とかの立場でない時は、自分の意見を語る人だが、大臣という名前が付いたら言わなくなるという資質に思えてならないのです。

河野太郎の父親である河野洋平、この人が大臣になる前は良い意見を発信していたと思っていました。そのために科学技術庁長官に就任した後に、高速増殖炉のことで「河野洋平科学技術庁長官様」という手紙を書留便で送りました。しかし、本人からの返事はもとより、なんの反応もありませんでした。似たもの親子です。

岸田首相が強引に原発回帰路線に舵を切ったにも関わらず、9人の総裁候補者はおろか、誰も原発問題を語らないというのは異様です。マスコミからの非難も少なかったように感じていました。

それにしても一方の立憲民主党の代表選挙、この中でも4人の候補者中で明確に脱原発を主張するのはいませんでした。これも異様としか思えませんでした。

野党第一党の立憲、心情的に近いと思うからこそ、恨み心は他の党以上に強いものです。

福島原発事故の時の民主党政権で官房長官をしていた枝野幸男、2030年代には原発ゼロを実現すると、あの甲高い声で語ったではないですか。そして福島原発事故翌年、「革新的エネルギー・環境戦略」ともいわれたエネルギー政策は、決まりかけたところで挫折しました。

どうせ一度の人生だ。政治家をめざした者なら周囲のしがらみに翻ろうされたり惑わされたりしないで、初心に戻ってほしいものです。そもそもどんな「初心」を持って政治家になったのかが、よく分からないのです。

石破茂が総理大臣になることが決まった時、高市早苗よりは「イシバシガマシ」という言葉を何人かから聞きました。

しかしこの間の約束破りに「イシバシガダマシ」の「ガ」と「マ」の間に「ダ」を付けて、10月5日付けの朝日新聞「多事奏論」に編集委員の高橋純子さんが書いていました。これには久しぶりに笑いました。タイトルも「石破新首相 摘んだ野花は飾るとしおれる」と。

10月27日は衆議院選挙です。選挙戦の中で、原発・エネルギー問題を争点にしなければ、原発復活の流れはますます大きく強くなるでしょう。重要な節目と捉えなければならない選択の時を迎えます。 

木原省治

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2024年10月 8日 (火)

2024年10月のブルーベリー農園その1

中秋に入ったが気温の変化が真夏と秋がまじりあう。101日の東広島市豊栄町のブルーベリー農園の日中の気温が30度で2日のそれは雨で18度。それでもブルーベリー畑の草刈りをしているとレンゲのこぼれ種から芽が出て葉がしっかり伸びていたりしているので、植物は暑い寒いでなく日照時間で動いていると思ってしまう。それでも雨の日が続き5日、6日には秋らしくなって農作業もやっと楽になった。

101日(火) 緑肥の種まきを行ったので、種をまいたブルーベリー畑の木と木の間の草を刈る作業に取り掛かる

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103日(木) 待望の雨が降ってきた。外の作業ができないので倉庫の整理を行う。防獣ネットをきれいに畳んだりした

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倉庫の出入りをしているとキンモクセイの香りがした。倉庫のすぐそばに白いキンモクセイが咲いていた

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倉庫を挟んだ農道にジョロウグモの大きな蜘蛛の巣がかかっていた。雨のしずくがついて重たそうに白く輝く

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104日(金) ブルーベリー畑の草刈りの合間に枯れたブルーベリーの植え替えを2本行った

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ヒガンバナが満開になっていた。今年は咲くのが遅かった

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早生のブルーベリーの紅葉が少しずつ始まった

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105日 農園の所々にあるチカラシバ。夕暮れになると夕日を受けて穂がきれいに見える

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106日(日) ブルーベリー畑の草刈りと並行して野菜畑の鋸鎌で少しずつ刈ってきたがやっと終わった

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野菜畑からブルーベリー畑を見下ろす。隣の休耕田の雑草の中に白いミゾソバの群落が見える。湿気の多いところを好むので水路沿いに咲いている

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花びらの先にちょこんと桃色をのせている

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年10月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その62) ~南シナ海をめぐる動向-6~

ざっくりと常設仲裁裁判所提訴の経過

6月5日の「ヒロシマとベトナム」(その59)で、「次号ではフィリピンが提訴した南シナ海仲裁裁判所の裁定を取り上げます」と約束していましたが、その後激しさを増す中国とフィリピンの衝突や南シナ海における日本(海上自衛隊)の軍事的プレゼンス拡大の動きなどから後回しになっていました。

第二次世界大戦後、「九段線」を引き南シナ海の約8割の領有権を主張する中国と周辺5カ国との南シナ海の領有権めぐる争いは、主にベトナムと中国、フィリピンと中国の間で島の争奪をめぐる戦闘や艦船・漁船の衝突事件が相次いでいました。

1980年代以降、南沙海域に進出した中国は7つの岩礁に建造物を建築し、2010年代に事実上支配している南沙諸島で大規模な埋め立てとインフラ整備をはじめます。中国以外の台湾、フィリピン、ベトナム、マレーシアなど領有権を主張している国々も、飛行場や建物を持ち、各施設の整備・維持による実効支配を図ってきました。

2012年4月、中国とフィリピンの双方が領有権を主張するスカボロー礁付近で、中国漁船の不法操業を取り締まるフィリピンの艦船と、それを阻止しようとする中国艦船が対峙する事態が発生します。2ヶ月余の緊張した睨み合いの後、悪天候で海域を離れたフィリピン軍の隙を突き、この海域の実効支配をするとう「スカボロー環礁事件」が発生します。

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出典:防衛省「南シナ海情勢」(中国による地形埋立・関係国の動向)

今日、中国海警局艦船のフィリピン沿岸警備隊艦船への衝突やレザー光線照射などの衝突が繰り返されているのもこの海域です。1900年代後半にアメリカから移管された米海軍戦車揚陸艦を座礁させ、セカンド・トーマス礁の実効支配を維持するフィリピンと中国が激しく対立しています。

その背景は以前も述べましたが、石油や天然ガスなど豊富な海洋資源が眠り、世界有数の漁場のひとつであり、そして海上輸送の重要な海域である南シナ海の権益と、軍事戦略上最も重要な海域の確保をめぐる対立にあります。今日、争いは二国間にとどまらず「米比日豪vs中国」の様相を濃くし、不測の事態から大きな紛争につながりかねない懸念があることも繰り返し述べてきました。

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出典:NHK NEWS ーフィリピン沿岸警備艦船(日本が供与)に衝突する中国海警局艦船ー

フィリピンの主張 -提訴内容-

フィリピン政府がオランダの首都ハーグにある常設仲裁裁判所に、南シナ海での領有権紛争をめぐって中国を提訴したのは2013年1月22日です。少し長くなりますが提訴項目を紹介します。

1.南シナ海における中国の海洋権益は、フィリピンと同様、国連海洋法条約によって許可された範囲を超えてはならない。

2.「九段線」で囲まれた海域における中国の主権、管轄権及び歴史的権利の主張は国連海洋法条約に違反しており、法的効力はない。

3.スカボロー礁は、EEZあるいは大陸棚に関する権利を生じせしめない。

4.ミスチーフ礁、セカンド・トーマス礁及びスビ礁は、領海、EEZ又は大陸棚に関する権利を生じせしめない低潮高地であり、占有その他の方法による占拠に適さない

5.ミスチーフ礁及びセカンド・トーマス礁は、フィリピンのEEZ及び大陸棚の一部である。

6.ガベン礁及びマケナン礁(ヒュー礁を含む)は、領海、EEZまたは大陸棚に対する権利を生じせしめない低潮高地であるが、その低潮線はNamyit島及びSin Cowe島の領海幅を計測する基線を決定するために使用され得る。

7.ジョンソン礁、クアテロン礁及びファイアリークロス礁は、EEZまたは大陸棚に対する権利を生じせしめない。

8.中国は、フィリピンが自国のEEZ及び大陸棚の生物資源及び非生物資源に対する主権的権利を享有及び行使することを不法に妨害している。

9.中国は、フィリピンのEEZにおけるフィリピンの国民及び船舶が生物資源を開発することを妨害することに不法にも失敗している。

10.中国は、フィリピンの漁民がスカボロー礁において伝統的な漁獲を行うことで生計を立てることを不法に妨害している。

11.中国は、スカボロー礁及びセカンド・トーマス礁等において海洋環境の保護にかかわる国連海洋法条約上の義務に違背している。

12.ミスチーフ礁における中国による占拠及び建設活動

 (a)人工島、施設及び構築物にかかわる国連海洋法条約の条項に違反する。

 (b)国連海洋法条約の下での海洋環境保護にかかわる義務に違背する。

 (c)国連海洋法条約に抵触する不法な占拠の行為を構成する。

13.中国は、スカボロー礁付近海域を航行するフィリピンに対して衝突を引き起こすような 深刻かつ危険な態様で法執行船舶を運用することで、国連海洋法条約の義務に違背している。

14.20131月の仲裁手続開始以来、中国は就中以下により紛争の更なる悪化を不法に助長している。

 (a)セカンド・トーマス礁及びその接続海域を航行するフィリピンの権利を侵害している。

 (b)同礁に駐留するフィリピン要員の交代及び補給を妨害している。

 (c)同礁に駐留するフィリピン要員の健康及び福利厚生を危うくせしめている。

 (d)ミスチーフ礁等において浚渫、人工島建設、建設活動を行っている。

15.中国は、国連海洋法条約に基づくフィリピンの権利を尊重し、同条約上の義務を遵守し、同条約下のフィリピンの権利と自由に正当な敬意を払った上で、自らの権利と自由を主張すべきである。

次号では3年後の2016年に出された仲裁裁判所の「裁定」について見てゆくことにします。

(2024年10月5日、あかたつ)

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2024年10月 1日 (火)

就職差別の撤廃を!

就職差別は、「同和対策審議会答申(1965年)」において「これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である」と指摘されているように、すべての子どもたちの進路を保障する上で重大な課題です。201612月、「部落差別解消推進法」が施行されました。部落差別を解消するための施策を早急に具体化していくことが国や地方自治体に求められています。

1973年、差別的な項目を除外した「全国高等学校統一応募用紙」が制定されたことは、部落解放運動と同和教育のとりくみによる大きな成果です。しかし、いまだ、身元調査をはじめ、不適切な応募用紙の書式や面接での質問等、課題はあとを絶ちません。20234月の連合「就職差別に関する調査」の結果からも、今なお差別につながるおそれのある事象が少なくないことや、面接官が聞いてはいけない質問についての認識も深まっていないことが、改めて明らかになっています。

部落解放広島県共闘会議は毎年、広島労働局長、県知事、県教育長宛に要請書を提出し、すべての人に就職の機会均等を保障するため、就職差別撤廃に向けたとりくみ強化を求めるとりくみを行っています。今年は710日に行いました。

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労働局への要請の中で、2023年度、高卒の求人に係る違反事象(不適切質問等)が県内で7件あり、その全てが県外の高校生からの提起であることがわかりました。高校生が、何が差別かを知らなければ、課題提起ができません。広島の企業を受験するのは県内の高校生が圧倒的に多いはずであり、県内の学校で就職差別に係る学習や不適切な実態を把握するとりくみ、その前提となる教職員研修がなされていないことが要因と考えられ、教育行政の責任は大きいと言えます。

広島県にも「不適切な採用選考」に対する公的なしくみ自体はありますが、実際には受験報告書等を用いて就職差別に係る課題を把握するとりくみが行われていません。

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受験報告書により、面接での質問内容や提出物における不適切な実態を確認することが必要です。(↓は厚労省のものに広教組注釈)

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今後も、この課題を多くの方に知ってもらい、就職の機会均等を求め、とりくみをすすめたいと思います。

よりのぶ

参考資料

厚労省「公正な採用選考特設サイト」

https://kouseisaiyou.mhlw.go.jp/

連合「就職差別に関する調査」

https://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20230531.pdf

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