「広島ブログ」

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2024年9月のブルーベリー農園その2 | トップページ | 広島中電話局慰霊碑 »

2024年9月16日 (月)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その3

ところで、「広島原爆戦災史第4巻」の記載で、もう一つ気になることがありました。

それは、動員先の一つ「貯金局」です。所在地は千田町、教職員は3人、生徒は3年生175人と書かれています。これを見たときは、「あー千田町にあった貯金局か」と思ったのですが、ネットで情報を探していると、1998年8月1日付け中国新聞に掲載された「被爆体験記 残された教師の誓い」とタイトルのついた東岸(ひがし)初江さん(当時74歳)の記事がヒットしました。この東岸さんの体験記には、次のような記述があります。

「女専(広島女子大)を卒業して進徳高女(進徳女子高)に勤めましたのは、昭和十八年です」。「戦時下の新人教師は、国の学徒動員令により一九四五(昭和二十)年春から十四、十五歳の生徒たちを引率して、広島市中区の福屋百貨店七階の広島貯金支局に出た。爆心からわずか〇・七キロ。」

 249161

被爆後の福屋百貨店 左側の建物が旧福屋と思われる

広島原爆戦災史では、動員先は、千田町の「貯金局」となっていますが、東岸さんの体験記では、「福屋百貨店七階の広島貯金支局」で被爆したと記されています。中国新聞の記事中には、東岸さんは、「被爆後間もなく書き留めたメモをもとに被爆5年後に体験記を書いた」と紹介されていますので、この記述には間違いがないと思われます。

「福屋百貨店に貯金局があった」という話しは、以前聞いたことがありましたので、この記事に疑問は感じませんでした。

今度は、広島原爆戦災史第3巻を開き、貯金局のことを調べました。被害一覧の「広島貯金支局」は、所在地が市内千田町となっているだけで、福屋百貨店の名前はありません。

しかし、「被害惨状」の中には、「貯金支局分室の被害」として次のように書かれています。「一方、八丁堀の福屋百貨店にあった分室は、向かいの旧福屋建物内にあった消防署保管のガソリンが真っ先に着火して・・・・七階にいた分室の振替貯金課の職員は、大部分脱出することができたが、逃げ遅れて二人の学徒は火と煙に包まれて焼死し、・・・。この避難の途中においても職員の多数が死んでいったが、この中には女子動員学徒20人が含まれていた。」

この記述には、進徳高等女学校の名前は書かれていませんが、女子動員学徒が、同校の生徒だったことは間違いありません。逃げ遅れた二人を含めた20人の犠牲なのか、避難途中だけで20人なのか判然としませんが、20人が犠牲になったことは間違いないようです。

電話局にしても福屋百貨店にしても鉄筋コンクリート造りの建物だったことが、少しでも犠牲者を少なくすることに役立ったのではと想像しています。

この他にも関係する資料はないかと探して見つかったのが、平成10年(1998年)に発刊された「進徳学園90年史」です。

249162

この中には、何人かの被爆体験記が掲載されていますが、その中に福屋百貨店の貯金支局分室に学徒動員され被爆した沢田スミ子さん(旧姓沖本)の「悪夢の中をさまよいて」という手記があります。

犠牲者数などについては触れられていませんが、進徳高等女学校の学徒動員先の貯金局が、福屋百貨店にあった分室だったことが間違いないこと確認できました。

最後に参照した「進徳学園90年史」の次の内容を紹介して、「進徳高等女学校の原爆犠牲者」を終わりにします。

その一つは、同校の原爆犠牲者数についてです。同書の57から58ページにかけて次のように記載されています。

「この原爆投下により、被災死亡者は、職員10名、生徒405名計415名、重軽傷者は職員8名、生徒382名の甚大な被害を受けた。(注)原爆死亡者数415名は、平成6年10月に開催された原爆50回忌追悼法要に因んで再調査した結果の被災者数で20年3月に卒業した女子挺身隊の犠牲者と思われる数名が含まれている。当初公式に発表されていた職員11名、生徒374名を上回っているが、その後行方不明者などの死亡が確認されるなどで、その数が増加してきた。」

もう一つは、慰霊碑の移転についてです。同書の196ページに、学校の整備に伴って、昭和38年(1963年)、昭和63年(1988年)の2度移転が行なわれ、現在地にいたったことが記されています。12日に紹介した「原爆の碑ひろしまのこころ」の初版は、1976年(昭和51年)8月1日(12日の原稿では、1980年代発行としていましたが、それは再発行された日付でした)ですので、最初に建立された碑の様子が紹介されていたということになります。

「進徳高女慰霊碑」訪問記から始まったこの連載は、これで終了ですが、今回も原爆被害の実相を知ることの難しさを学ばされました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« 2024年9月のブルーベリー農園その2 | トップページ | 広島中電話局慰霊碑 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

#平和推進」カテゴリの記事

核兵器廃絶」カテゴリの記事

被爆者」カテゴリの記事

学校」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 2024年9月のブルーベリー農園その2 | トップページ | 広島中電話局慰霊碑 »