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2024年9月 4日 (水)

中国新聞の二つの記事―その2

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

このシリーズは、8月5日から「戦火が絶えない。核兵器使用の恐れすら高まる。惨禍を繰り返さぬために、広島の被爆を克明に刻んだ記録「ヒロシマ ドキュメント」を世界の人類が共有すべきだ。来年の被爆80年に向け、被害者の記憶や思いとともに伝えたい。」(85日のリードより)との思いで、毎日続いている記事です。私も今日はどんな内容かと興味を持って読んでいます。

9月2日は、「韓国・朝鮮人に被爆証明」のタイトルで、韓国人被爆者郭貴訓さんのことが紹介されています。

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郭貴訓さんは、私には忘れることの出来ない人です。旧知の水川恭輔記者の記事ですので、水川記者にも、すぐに下記のようなメールを送りました。

「ちょっとだけ珍しい写真がありました。

2001年の郭裁判の大阪地裁での勝訴判決を受けの記者会見の様子を映して写真です。

そのすぐ前に、国会で『在外被爆者に援護法適用を実現させる会』を発足させ、私が事務局長になりました。

裁判の数日前、大阪の市場さんから『今度の裁判は負けそうです。支援者ががっかりすると思いますので、『議員懇としてがんばる』と金子さんぜひ傍聴に来て話して欲しいのですが』と電話が入り、ちょっと重たい気分で大阪に途中下車したことを思い出します。当日は、金曜日でしたので、広島には帰る予定にしていました。

と言うことです。

いつか、この話しましたかね。忙しいところ、つまらぬメールで申し訳ありません。

まー読者の反応ということで許して下さい。」

下の写真が添付した写真です。

24942

メールには、「記者会見」と書きましたが、間違っていました。同じ日に開催された「報告集会」の写真です。メールでは紹介していませんが、写真の右から二人目が郭貴訓さんです。左端が私です。私の隣には、韓国から判決を聞くため郭さんとともに大阪に来られた被爆者の金分順さんの姿があります。金分順さんも忘れられない被爆者の一人です。右端が弁護団長の永嶋靖久弁護士です。後ろに掲げられている「勝訴」の文字が、輝いているように見えます。

この日が、その後に続く在外被爆者裁判勝訴への道のスタートでした。郭貴訓裁判は、2002年12月5日の大阪高裁での歴史的勝訴判決で決着することになりました。私の国会活動の中でも一番思い出に残る活動の一つです。

私が送ったメールを読んだ水川記者からすぐに返信がありました。

「ご無沙汰しております。

記事を読んで頂き、ありがとうございます。

ご関心をもっていただき、大変ありがたいです。

また、大変貴重な歴史的な写真ですね。

初めてみせていただきました。「負けそう」と内々にきかれていた話は、今回初めて教えていただいたと思います。

そうだったんですね。いかに、難しい道を切り開かれたか、を感じます。」

水川記者には、これからの「ヒロシマ ドキュメント1945年」には、よい記事を書いて欲しいと期待しています。

いのちとうとし

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コメント

記事に疑問点を思いますが 工兵第五大隊という名称は無いと思います 些細なことですか 

さとうさん

コメントありがとうございます。
記事の内容ですので、私がコメントするのはと思いますが、私が知る範囲でコメントさせていただきます。
記事には、「工兵第五大隊」の記述の前に、「回想録『被爆者はどこにいても被爆者』(16年刊の日本語訳)によれば」と引用した出典が書かれています。
私もその本を持っていますので、改めて開いてみると間違いなく、記事に記載されている内容が書かれています。私には、実際にその名前の部隊があったのかどうかは判断できませんが、参照した書籍の記述からは間違いないと思います。
同じ回想録には、郭さんの所属部隊として「広島の西部第二部隊に送られました(1945年4月、広島師管区歩兵第一補充隊に改称。通称号は中国第一〇四部隊)。」という記述もあります。いずれも、まえがきの相当する「日本語版出版に当たり」に記載されています。郭さんはすでにお亡くなりになっていますので、確認する術はありませんが、私の知る限りでは以上が答えです。

新聞記事を書いた記者に対してのことです 郭さんの話がそうだとしましても 記者はキチンと名称を書くべきと思っています 郭さんに対してのことではありません 所番地 広島市中区本通り5丁目5の5とします 新聞では 広島市中区は省略で  本通り5丁目5の5だけです 福岡市・・の本通りか 仙台市の本通りか どこの都市の本通りか わかりません k名称はキチンとすべきです   その大隊広島在のようですが 工兵第五大隊・・ 大日本者國也・・ ウキペディア  昭和11年工兵第五聯隊に改編とありますが それがそれとは 判断ができません 私の主張は新聞記者に対してのものです 新聞は今でも 現在の名称でなくて過去の名称を使用しています  指摘しても今は存在しない過去の名称を出しています 郭さんに対しましては 郭さんの記述には 論評は一切しません 私にはそこまでの知識はありません 大隊が2つで聯隊の編成の一部になります 聯隊は番号がついていると思っています 333聯隊だと どの師団の聯隊か わかるようです 独立工兵第七十二大隊 独立部隊はあるようです 新聞には転写のようですがアバウトの部隊名はどうなのでしょうか (広島の)工兵第五大隊とありましたら 何もひっかかりは ありません 詳しく説明をありがとうございます

さとうさん

重ねてのコメント拝読しました。
ご指摘の点、確かに記事の問題ですから、残念ながら私が答える内容では無いように思います。
ただ、興味ある指摘ですので、何か調べる方法は無いかと模索しています。
デモなかなか難しいと思いますが。

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