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2024年9月17日 (火)

広島中電話局慰霊碑

進徳高等女学校の慰霊碑を訪ね、進徳高等女学校の原爆犠牲者について調べましたので、その動員先の一つであった広島中電話局(現在のNTT袋町ビル)の慰霊碑を訪ねることにしました。慰霊碑は、NTT袋町ビルの東北角にあります。

これまでに何度も目にした慰霊碑です。私が訪れたとき、ちょうど小さな子ども連れの外国人夫婦の姿がありました。

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黒い御影石に「鎮魂」の文字が刻まれた碑は南向きに作られています。

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向かって左側にある折り鶴献納台には、新しいたくさんの折り鶴がかけられています。情報労連(NTT労組などで組織)が、8月4日から6日にかけて開催した「広島ピースフォーラム」の初日の行事の最後に、NTT基町・袋町・DATA比治山ビルの三会場で「情報労連慰霊式」を行なった時、献水とともに全国からの参加者が持参した折り鶴を献納したそうです。(NTT新聞から)

この折り鶴献納台は、2002年8月5日 NTT労組退職者の会広島県支部協議会により贈られたもので、「つたえよう、ひろげよう平和の願い」の文字が刻まれています。

碑の後ろの壁面には、被爆した中電話局のタイルを使ったオブジェが作られています。

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右下隅に「原子爆弾の強烈な熱線により赤黒く変色したタイル」と書かれています。

慰霊碑に向かって左側の壁面には、英文と日本文の説明板が取り付けられています。その日本語版です。

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次のように書かれています。

「昔ここに中電話局があった。

昭和20年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が投下されすさまじい爆風と熱線により、建物が壊滅状態となった。当日勤務していた職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名の内約半数におよぶ尊い命が失われた。

当ビル新築に当たり、旧局舎屋上に使用されていた被爆タイルを埋め込み、当時を偲ぶこととした。」

このタイルには、何となく見覚えがあります。私がこの被爆した建物で組合活動しているとき(1970年代)、何度か屋上に出て先輩から「このタイルは被爆して焼けている」と教えられたことがあったからです。

使用されている被爆タイルは、104枚です。

旧局舎でもう一つ思い出すのは、組合役員の一人から次のように言われたことです。「この建物は、重要施設ということで、堅牢に作られているので、解体費用がすごくかかるので、建て替えるのが難しいんだ。」

碑の周囲には、この碑建立の年月日を書いたものがありませんが、旧中電話局の建物は、1982年8月に解体され、新しい建物は1985年に定礎しており、同年3月1日に建立されています。1985年は、電電公社が民営化されNTTとなった年です。民営化も建て替えに影響したのでしょうか。

説明板の左側には、2023年に作られた「187 ART PROJECT 広島中電話局鎮魂の碑のもと、平和な未来を祈る2023」というアルミ板で作られたアート作品があります。

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このアート作品は、中国新聞によると、商店主や住民で作る「中一区187号線地域活性化委員会」が、安佐北区の版画家向井陽子さんに依頼し、地元袋町小児童や住民たちが広島の未来をイメージして書いた「光」「笑」などの漢字46文字を拓本にちりばめて制作し、昨年(2023年)8月6日に設置されました。

広島中電話局慰霊碑

広島中電話局慰霊碑の説明はこれで終わりですが、電信電話関係の犠牲者を慰霊する碑として、「電信電話職員原爆 犠牲者慰霊碑」(中区基町NTTビル北西角)があり、同碑の前で毎年、慰霊祭が行われています。

かつては、当局と労働組合(中央本部から参加)が合同で慰霊祭を行なっていましたが、いまはどうなっているでしょうか。いずれ、調べて紹介したいと思います。

いのちとうとし

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