「広島ブログ」

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2024年9月

2024年9月30日 (月)

2024年9月のブルーベリー農園その4

東広島市豊栄町のブルーベリー農園も日中は30度を超える日もあり彼岸を過ぎても暑い日が続いている。油断して熱中症にならないように保冷剤を首に巻いて盛夏の時の同じ気持ちを持ちながら安芸区の自宅から農園に通っている。10月に入ると台風の影響で34日雨が降りそうなのでそれまでにブルーベリー畑に敷いていた防草シートをはがし、そののちに緑肥用の種をまき草を刈る予定で、まいた種の芽が出るのが楽しみ。

923日(月) 日中は暑いがブルーベリー農園の空はぽっかり雲などが浮かんで秋が進行中

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924日(火) ブルーベリー畑に敷いていた防草シートをはがす作業では始めに重しに使っている瓦をブルーベリーの株元に置いて回る。数が多いので瓦をつかむ親指の付け根がこってきた

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この作業をしているとブルーベリーの地際にシンクイムシの木くずが出ていることがあるのでそのたびに殺虫剤を注入する

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926日(木) 空がたかくて、生き物も気持ちよさそうなとまり具合

①アキアカネ

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②クモ(ジョロウグモらしい)、よく見ると子どももとまっている。食料もしっかりためている

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927日(金) ブルーベリー畑では厄介な雑草がだんだん増えてきたので幅の細いシャベルを掘り上げて除草する。

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雑草をよく見るとスミレの株が太っているのが見えた。これは取らないでおく(手前の2つの株)

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夕方の農園の周辺の一部の稲田はまだ稲穂がたわわに実っている。夕日で黄金色が一段と強い

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928日(土) 今月中に緑肥用の種をブルーベリー畑にまく計画で、購入した種をごちゃまぜにしてばらまくので3段ある畑別に分量を分けて準備する

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小鍋に種を入れてブルーベリーの木の周辺に手でばらまいていく。一番上の畑がすんだ

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草むらのバッタはショウジョウバッタのよう

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年9月25日 (水)

中国電力は、12月に島根原発2号機を再稼働するとしているが?

島根原発2号機、建設工事が開始されたのは1984年、運転開始が1989年2月10日ですから、35年を向かえる原発です。建設当時の社長は第4代の松谷健一郎さんだったと記憶しています。長身の大きな人でした。

改めて、福島原発事故後からの経過を振り返ってみました。2011年の福島事故の時は運転中でした。翌12年1月に定期検査のために停止、そしてその翌13年12月に再稼働申請を行いました。申請から約8年、2021年9月15日、原子力規制委員会は審査に合格したとし、次のステージである島根県知事と松江市の判断に移りました。そして22年6月2日、丸山達也島根県知事は「苦渋の判断」としながらも、県議会の場で再稼働容認を表明したのです。

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島根半島を視察する丸山島根県知事

その後、中国電力は「安全対策」工事を行い、今年8月の再稼働を目標としていました。しかし工事の遅れなどから、12月再稼働に変更したのです。

さて12月に再稼働をするとして、これから中国電力は何をするか? あくまでも中電のスケジュールですが、10月中に原子炉の中に核燃料を入れるという行程があります。核燃料を入れることを「装荷」と言います。水で浸された原子炉の中に核燃料を入れ、燃料の間に制御棒を入れた状態で、核分裂が起こらないようにしておきます。制御棒というのは、原子炉のブレーキというか停止装置ですから、重要な役割りを担います。

福島原発事故の時、「止める」「冷やす」「閉じ込める」という言葉を聞いた記憶があると思いますが、この「止める」というものです。あの時は「止める」は成功したのですが、「冷やす」「閉じ込める」が出来なくて、メルトダウンになったのです。

福島原発事故後、関西・四国・九州の各電力会社の原発が再稼働をしていますが、これらの原発は「加圧水型」というもので、福島事故の原発とは型が異なります。いくら再稼働を進めたい政府や電力会社も、事故を起こした「沸騰水型」の再稼働には慎重な姿勢をしていました。島根原発は沸騰水型で、ついにこっちにも手を出したかという状況になりました。ちなみに能登半島地震で被災した北陸電力の志賀原発も、沸騰水型です。

沸騰水型を持っている東北電力の女川原発2号機、東京電力の柏崎刈羽原発7号機、今電力業界ではどこの沸騰水型原発が再稼働の最初になるかというのが、大きな関心事となっています。いずれの原発も核燃料の装荷を終えています。

中国電力は、11月に原発事故を想定した避難訓練を実施し、この訓練を終えて12月に再稼働というシナリオを考えているようですが、とても自分勝手なものだと思います。

私たちは去る9月13日、島根県に対し「再稼働許可を取り消すこと」を申し入れました。島根県は、新しい原子力規制基準に適合したから、再稼働は許されると主張します。

しかし今年1月1日に発生した能登半島地震は、これまでの考え方を改めさせました。活断層の連動の問題、屋内退避・広域避難計画など、これらの課題を改めて見直し、原発周辺の市民や広域避難先の人たちに、しっかり説明する必要があると思います。

島根原発は敷地から南側約1.3㎞のところに、活断層である宍道断層が東西に走り、その東端から6㎞離れたところから、鳥取県沖西部断層と呼ばれる長い活断層が存在しています。

規制委員会は、二つの活断層の間隔が5㎞以上ということで、連動の可能性は無しとして再稼働を許可しています。この考えを覆したのが、能登半島地震ではないでしょうか。多くの家屋が崩壊し、住めない状態の中で屋内退避が可能だとは考えられません。寸断した道路で自動車による避難も不可能になったのです。

「連動」の問題も、屋内退避を含める避難計画の在り方も、「新たな知見」が関係者で検討されています。せめてそれが出されるまで、再稼働に待ったすべきではないでしょうか。私は直感的に、12月の再稼働は不可能だと思っています。

解散・総選挙が近いのでは言われる中、原発を含むエネルギー問題が国民的議論となることが、島根原発2号機の再稼働を止める大きな力になると思っていますが。

木原省治

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2024年9月23日 (月)

2024年9月のブルーベリー農園その3

9月22日の東広島市豊栄町のブルーベリー農園は朝方の激しい雨のお陰でやっと日中の気温が30度を下回ってくれたので農作業の身づくろいも保冷剤を首に巻くこともなく過ごすことができた。夕方帰るころには温度計は23度を指していた。9月は秋の野の花がいろいろ咲いていて安芸区の自宅から農園に通うたびに季節の移り変わりを感じさせてくれる。ブルーベリーの実は少し残っているのを摘み取り安芸の郷に納品している。

916日(月) 農園では午後2時過ぎの雨が降り

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午後4時には青空がのぞく。しかし地べたを潤すほどの雨量ではなかった

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921日(土)と22日(日)のブルーベリー畑や周辺の秋の様子

①ヨメナ

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②ブルーベリー畑の地べたのシオカラトンボは全く動かない。

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③ススキの穂

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④隣の大豆畑のマルバルコウソウ

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⑤農道ののり面に咲くクジャクソウ

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⑥隣家の庭のヒガンバナ

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⑦ブルーベリーの木の下のツルボ

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⑧同じくアサガオ

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922日(日) 農作業は畑の防草シートの整理。列の間に敷いたシートを真ん中に寄せる。整理が済んだら緑肥用の種をまきそのあとで草刈りをする予定

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年9月20日 (金)

ベトナムの歴史(その32) ― ベトナム Now Ⅱ ―

枯葉剤被害者支援チャリティーにご協力ください

6月から「ベトナムNow」シリーズを始めましたが、今号は枯葉剤がベトナムで初めてまかれてから63年、最後の枯葉剤散布から53年、ベトナム戦争が終結して49年経た今なお、深刻な被害をもたらし続けている枯葉剤被害者を支援するチャリティーコンサートを福山市で開催します。


    10月16日(水) 17時開場  18時開演~20時終演

ところ  広島県民文化センターふくやま ホール

チャリティー協力券  一般:2,500円 大学高校生:1,500円  ベトナム人:1,000円

(当日券はいずれもプラス300円)

   お申し込み先 一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会

TEL) 090―1010―0472  (FAX) 082-423-8060

Mailakatatu@d4.dion.ne.jp

振込先  広島銀行  西条支店  普通  口座番号 3825337

         口座名 一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会 代表理事 河内昌彦

チケットお申し込み、支援カンパをお待ちしています。

広島は来年、「被爆80周年」を迎えます。

ベトナムは来年、ベトナム戦争終結=「ベトナム南部解放・祖国統一50周年」を迎えます。

日本がはじめたアジア太平洋地域への侵略戦争の結果、ヒロシマ・ナガサキに原子爆弾が投下され、80年経た今なお、被爆者、被爆二世、三世と多くの人たちが放射線後障害に苦しんでいます。

長い植民地支配に抗して、民族の独立と統一のために戦ったベトナムの人々。ベトナム戦争でアメリカ軍が散布した猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤爆弾は、50年経た今なお、ベトナムの人々に深刻な被害をもたらし続けています。

ヒロシマの原子爆弾による被害とベトナムの枯葉剤による被害は、20世紀の戦争被害の象徴であり、再び繰り返させてはなりません。

そのヒロシマとベトナムは、〔核兵器も 化学兵器も 戦争もない 平和で豊かな世界を築く〕という固い意思と絆で結ばれています。

 ヒロシマとベトナム、ともに歴史的節目の前年(プレ年)にあたります。

その年、“枯葉剤被害者”支援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサートを福山で開催させていただきました。

県内第二の都市、「ものつくり地域」備後の拠点都市福山は、外国籍市民のうちベトナム出身者が最も多く暮らしています。相互に理解を深め合いながら多文化共生の地域づくりが先進的に進められている福山市で、チャリティーコンサートを開催させていただくことを通じて、枯葉剤被害に対する理解と被害者への支援の輪が広がり、一層の日越交流につながれば、私たちの何よりの喜びです。

この瞬間にもウクライナで、ガザで

子どもたちや女性など多くの尊くかけがえのない命が奪われています。

禁じられた化学兵器やクラスター爆弾など非人道兵器が使われ、核兵器使用の懸念も高まっています。

いかなる理由が掲げられようとも、理不尽に、無差別大量に殺戮を続ける紛争や戦争に私たちは与することは出来ません。それが、被爆県広島民の心、「ヒロシマの心」です。

ノーモア・ヒロシマ  ノーモア・ナガサキ

ノーモア・枯葉剤   ノーモア・ウオー

ストップ!殺戮 パレスチナとガザに平和を

 厳しかった残暑もようやく和らぎ、訪れた文化の秋のひととき

54の民族が織りなすハーモニーを存分にお楽しみください。心に染み入るやさしい一弦琴の音色、軽快で弾ける旋律のトルン、竹の筒から押し出させる奥深くまろやかな音、コミュカルで愛情表現豊かな舞踊、そして人々の暮らしが紡いできた歌・・・・。

いずれも、100%、200%の満足感を味わっていただけるコンサート。存分に満喫ください。

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2024年9月20日(あかたつ)

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2024年9月18日 (水)

中国を訪問します。

中国人民平和軍縮協会が開催する国際会議に原水禁の代表(事務局の近藤和樹さんと二人)として参加するため、今朝北京に向かって出発します。

会議は、中国山東省済南市、濰坊市(いほうし)の2都市を会場に、919日から21日までの日程で開催されます。

中国人民平和軍縮協会安月軍秘書長は、10月で定年を迎えることになっていますので、最後の活躍の場として山東省が選ばれたと思われます。

中国訪問は、10回以上に及びますが、山東省へ行くのは初めてですので、食べ物を含め楽しみにしています。

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今年の原水禁世界大会長崎大会であいさつする安秘書長

会議では、平和問題を論議することになりますが、その合間にアートパフォーマンスの見学や地元の企業や工場の視察、平和活動の交流等も組み込まれているようです。

また、無形文化遺産の見学も予定されています。これも楽しみの一つです。

ZOOMでの国際会議への出席は、これまでに経験がありますが、直接参加するのは初めてです。

21日の夕方北京に帰り、中国最後の夜は北京で過ごすことになります。

北京は、わずか3ヶ月前に訪れたばかりですが、22日夕方の出発まで、充分に堪能したいと思います。

広島に帰るのは、23日になりますので、この期間中ブログの更新は、20日、23日のみになります。

いのちとうとし

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2024年9月17日 (火)

広島中電話局慰霊碑

進徳高等女学校の慰霊碑を訪ね、進徳高等女学校の原爆犠牲者について調べましたので、その動員先の一つであった広島中電話局(現在のNTT袋町ビル)の慰霊碑を訪ねることにしました。慰霊碑は、NTT袋町ビルの東北角にあります。

これまでに何度も目にした慰霊碑です。私が訪れたとき、ちょうど小さな子ども連れの外国人夫婦の姿がありました。

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黒い御影石に「鎮魂」の文字が刻まれた碑は南向きに作られています。

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向かって左側にある折り鶴献納台には、新しいたくさんの折り鶴がかけられています。情報労連(NTT労組などで組織)が、8月4日から6日にかけて開催した「広島ピースフォーラム」の初日の行事の最後に、NTT基町・袋町・DATA比治山ビルの三会場で「情報労連慰霊式」を行なった時、献水とともに全国からの参加者が持参した折り鶴を献納したそうです。(NTT新聞から)

この折り鶴献納台は、2002年8月5日 NTT労組退職者の会広島県支部協議会により贈られたもので、「つたえよう、ひろげよう平和の願い」の文字が刻まれています。

碑の後ろの壁面には、被爆した中電話局のタイルを使ったオブジェが作られています。

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右下隅に「原子爆弾の強烈な熱線により赤黒く変色したタイル」と書かれています。

慰霊碑に向かって左側の壁面には、英文と日本文の説明板が取り付けられています。その日本語版です。

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次のように書かれています。

「昔ここに中電話局があった。

昭和20年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が投下されすさまじい爆風と熱線により、建物が壊滅状態となった。当日勤務していた職員、女子挺身隊員、動員学徒等451名の内約半数におよぶ尊い命が失われた。

当ビル新築に当たり、旧局舎屋上に使用されていた被爆タイルを埋め込み、当時を偲ぶこととした。」

このタイルには、何となく見覚えがあります。私がこの被爆した建物で組合活動しているとき(1970年代)、何度か屋上に出て先輩から「このタイルは被爆して焼けている」と教えられたことがあったからです。

使用されている被爆タイルは、104枚です。

旧局舎でもう一つ思い出すのは、組合役員の一人から次のように言われたことです。「この建物は、重要施設ということで、堅牢に作られているので、解体費用がすごくかかるので、建て替えるのが難しいんだ。」

碑の周囲には、この碑建立の年月日を書いたものがありませんが、旧中電話局の建物は、1982年8月に解体され、新しい建物は1985年に定礎しており、同年3月1日に建立されています。1985年は、電電公社が民営化されNTTとなった年です。民営化も建て替えに影響したのでしょうか。

説明板の左側には、2023年に作られた「187 ART PROJECT 広島中電話局鎮魂の碑のもと、平和な未来を祈る2023」というアルミ板で作られたアート作品があります。

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このアート作品は、中国新聞によると、商店主や住民で作る「中一区187号線地域活性化委員会」が、安佐北区の版画家向井陽子さんに依頼し、地元袋町小児童や住民たちが広島の未来をイメージして書いた「光」「笑」などの漢字46文字を拓本にちりばめて制作し、昨年(2023年)8月6日に設置されました。

広島中電話局慰霊碑

広島中電話局慰霊碑の説明はこれで終わりですが、電信電話関係の犠牲者を慰霊する碑として、「電信電話職員原爆 犠牲者慰霊碑」(中区基町NTTビル北西角)があり、同碑の前で毎年、慰霊祭が行われています。

かつては、当局と労働組合(中央本部から参加)が合同で慰霊祭を行なっていましたが、いまはどうなっているでしょうか。いずれ、調べて紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月16日 (月)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その3

ところで、「広島原爆戦災史第4巻」の記載で、もう一つ気になることがありました。

それは、動員先の一つ「貯金局」です。所在地は千田町、教職員は3人、生徒は3年生175人と書かれています。これを見たときは、「あー千田町にあった貯金局か」と思ったのですが、ネットで情報を探していると、1998年8月1日付け中国新聞に掲載された「被爆体験記 残された教師の誓い」とタイトルのついた東岸(ひがし)初江さん(当時74歳)の記事がヒットしました。この東岸さんの体験記には、次のような記述があります。

「女専(広島女子大)を卒業して進徳高女(進徳女子高)に勤めましたのは、昭和十八年です」。「戦時下の新人教師は、国の学徒動員令により一九四五(昭和二十)年春から十四、十五歳の生徒たちを引率して、広島市中区の福屋百貨店七階の広島貯金支局に出た。爆心からわずか〇・七キロ。」

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被爆後の福屋百貨店 左側の建物が旧福屋と思われる

広島原爆戦災史では、動員先は、千田町の「貯金局」となっていますが、東岸さんの体験記では、「福屋百貨店七階の広島貯金支局」で被爆したと記されています。中国新聞の記事中には、東岸さんは、「被爆後間もなく書き留めたメモをもとに被爆5年後に体験記を書いた」と紹介されていますので、この記述には間違いがないと思われます。

「福屋百貨店に貯金局があった」という話しは、以前聞いたことがありましたので、この記事に疑問は感じませんでした。

今度は、広島原爆戦災史第3巻を開き、貯金局のことを調べました。被害一覧の「広島貯金支局」は、所在地が市内千田町となっているだけで、福屋百貨店の名前はありません。

しかし、「被害惨状」の中には、「貯金支局分室の被害」として次のように書かれています。「一方、八丁堀の福屋百貨店にあった分室は、向かいの旧福屋建物内にあった消防署保管のガソリンが真っ先に着火して・・・・七階にいた分室の振替貯金課の職員は、大部分脱出することができたが、逃げ遅れて二人の学徒は火と煙に包まれて焼死し、・・・。この避難の途中においても職員の多数が死んでいったが、この中には女子動員学徒20人が含まれていた。」

この記述には、進徳高等女学校の名前は書かれていませんが、女子動員学徒が、同校の生徒だったことは間違いありません。逃げ遅れた二人を含めた20人の犠牲なのか、避難途中だけで20人なのか判然としませんが、20人が犠牲になったことは間違いないようです。

電話局にしても福屋百貨店にしても鉄筋コンクリート造りの建物だったことが、少しでも犠牲者を少なくすることに役立ったのではと想像しています。

この他にも関係する資料はないかと探して見つかったのが、平成10年(1998年)に発刊された「進徳学園90年史」です。

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この中には、何人かの被爆体験記が掲載されていますが、その中に福屋百貨店の貯金支局分室に学徒動員され被爆した沢田スミ子さん(旧姓沖本)の「悪夢の中をさまよいて」という手記があります。

犠牲者数などについては触れられていませんが、進徳高等女学校の学徒動員先の貯金局が、福屋百貨店にあった分室だったことが間違いないこと確認できました。

最後に参照した「進徳学園90年史」の次の内容を紹介して、「進徳高等女学校の原爆犠牲者」を終わりにします。

その一つは、同校の原爆犠牲者数についてです。同書の57から58ページにかけて次のように記載されています。

「この原爆投下により、被災死亡者は、職員10名、生徒405名計415名、重軽傷者は職員8名、生徒382名の甚大な被害を受けた。(注)原爆死亡者数415名は、平成6年10月に開催された原爆50回忌追悼法要に因んで再調査した結果の被災者数で20年3月に卒業した女子挺身隊の犠牲者と思われる数名が含まれている。当初公式に発表されていた職員11名、生徒374名を上回っているが、その後行方不明者などの死亡が確認されるなどで、その数が増加してきた。」

もう一つは、慰霊碑の移転についてです。同書の196ページに、学校の整備に伴って、昭和38年(1963年)、昭和63年(1988年)の2度移転が行なわれ、現在地にいたったことが記されています。12日に紹介した「原爆の碑ひろしまのこころ」の初版は、1976年(昭和51年)8月1日(12日の原稿では、1980年代発行としていましたが、それは再発行された日付でした)ですので、最初に建立された碑の様子が紹介されていたということになります。

「進徳高女慰霊碑」訪問記から始まったこの連載は、これで終了ですが、今回も原爆被害の実相を知ることの難しさを学ばされました。

いのちとうとし

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2024年9月15日 (日)

2024年9月のブルーベリー農園その2

ブルーベリーの実の収穫作業は、障害者の事業所、友人知人の援農などで猛暑の中行われてきたが、実がほとんどなくなったので912日でおしまい。9月に入っても日中の東広島市豊栄町のブルーベリー農園は30度を超す日が続いているのでブルーベリーの実は過酷な農作業を要求する果物でもあることを実感させられた。安芸区の自宅から農園に通う農作業もこれからは家族でこつこつと行う季節に入ったが、夏バテの来ませんように・・・願う日々。

910日(火) ブルーベリー畑の空は雲が多く気温は33度くらいまで上がるが稲刈りなどが進んでいるので見ている空も秋の気配を感じてしまう

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まだ小さいブルーベリーの木の手入れを始める。株元の草を刈り、ほんの少々の肥料をまきモグラの掘った土を足のかかとを使って踏んで固めていく。しばらくはこの作業がつづく

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911日(水) ブルーベリーの摘み取り援農はこの日が最後で友人2人が暑い中作業を行って頂いた。つんだ実は安芸の郷に納品された

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912日(木) この日は安芸の郷の事業所の就労継続支援B型あきのブルーベリー摘み取り研修の最終日で、彼らが作業を終えて3時前に帰った後で1時間半の雷雨となった。雨が上がった後で霧状の雲が立ち込める。今夏の農福連携での4つの事業所からの受け入れもこの日で終了した。

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913日(金) 農園の周囲にはそばを植えている畑がある。今がそばの花の盛りで黄金色の稲にまじって白い景色が広がる

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近くの池のコウホネの花にとまるイトトンボ

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ブルーベリー畑ではほっそりした体形のカマキリに出会う。撮影していると怖い目がこちらをむく

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ほとんどなくなったブルーベリーの実と咲きだしたヨメナの花

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午後5時半頃の帰り道の田んぼ

①ニラの花の群落。葉をちぎって嗅いでみるとやっぱりニラの匂いがする

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②稲刈りの後の田んぼ

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③キバナコスモスと青い空と雲との色合いは夕暮れ色。少しずつ日が短くなる

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年9月14日 (土)

進徳高等女学校の原爆犠牲者―その2

「廣島原爆誌」

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125ページには、「2,職員の被害状況」〔死亡者数〕として、数の一覧表が掲載されています。

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この表は、右から職員、挺身隊員、学徒の順にそれぞれ在局者、非在局者ごとに死亡者数、生存者数が集約されています。

ここでは、学徒、つまり進徳高等女学校の生徒について見ていきます。

まず気づくのは、170名の生徒の内、被爆当時当時電話局にいた生徒は、134人だったということです。残りの36名は、交代制で働いていたためだと思いますが、自宅にいたようで、全員生存となっています。

ここで不思議なのは、引率の2名の教職員については、触れられていないことです。広島原爆戦災史第3巻のP.241には、電話局の項に「家屋疎開や応召などで要員が減少し、挺身隊の24人、進徳高等女学校の生徒170人〔引率教師2人〕の派遣を得て業務を運行していた」とここでは、( )書きですが、引率教師が2人いたことが記載されています。なぜ「廣島原爆誌」には、引率教師2枚が記載されなかったのか、疑問が残ります。

「職員の被害状況」に戻ります。

これによると、電話局にいた生徒134名は、76名が死亡し、58名が生存したとなっています。

やはり、爆心地から近距離だった電話局で働いていた生徒の中に、多くの犠牲が出ていることがわかります。

この「廣島原爆誌」には、次のページから「死亡者名とその死亡状況」が、12ページにわたって、犠牲者一人一人「名前、年齢、官職、罹災場所、死亡月日、死亡場所、死亡状況」の順で掲載されています。

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進徳高等女学校の学徒動員者の死亡者も、一人一人について4ページにわたって掲載されています。電話局の職員でもない学徒もよくここまで調べたものだと思うほど詳細に記載されています。

ただ、掲載されている名前を何度も数えたのですが、76名の死亡者の内、67名しか記載されていません。調査しきれなかったのでしょうか。その67名の最初に、76名には含まれていないと思われる引率の教員2名の名前があります。野口友子先生と脇田千代子先生です。野口先生は「8月6日即死」、脇田先生は「8月31日不詳」となっています。いずれも21歳の若さです。生徒の死亡場所には、「豊田郡南生口村」や「双三郡十日市町」など遠方の地名も幾つか目につきます。「南生口村」で亡くなった中黒敏子さん(15歳)の死亡日は8月31日、「双三郡十日市町」(現三次市十日市町)で亡くなった横山幸江さん(16歳)の死亡日は9月1日となっています。二人は、なんとか自宅に帰り着いて亡くなったことが想像できます。

電話局での死亡者76名中氏名がわかっているのは67名など、調べれば調べるほど疑問が出てきますが、その疑問を解決する道は、残念ながらいまはありません。

進徳高等女学校の生徒たちが被爆した広島電話局の建物は、今は建て替えられていますが、私が、労働組合の役員をしていた時代には、現役として使われており、その一角に組合事務所があったため、何度も足を運んだ強い思い出のある場所です。

電話局の被災状況については、かなり詳しいことがわかりましたが、実は調べている内にもう一つ気になることが出てきました。

それは、「貯金局」への動員ですが、長くなりそうですので、次回16日につづきを書きたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月13日 (金)

進徳高等女学校の原爆犠牲者

昨日のブログで、「資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。」と書きましたが、もう少し詳しい様子が知りたいと思い、いつものように広島原爆戦災史第4巻を開きました。

進徳高等女学校の「被爆の惨状」として次のように記載されています。

(一)校舎の被害状況-全壊全焼

当校は、爆心地から南南東約1.4キロメートル離れたところにあり、原子爆弾炸裂により、全校舎が壊滅し、約一時間半後には、隣接の民家と同様に大火災となり焼失した。

(二)人的被害について

即死者   教職員 10人 生徒約398人

重軽傷者  教職員  8人 生徒362人

行方不明者 不明

6日の朝、登校中であった二年生は、疎開場所や作業に関する割り当て、注意事項などを聞いてから、作業場へ出発する予定であった。原子爆弾炸裂時には、ちょうど生徒たちが校庭に集合しつつあった時で、強烈な熱戦と爆風によって、全身を火傷した者、吹き飛ばされた者、倒壊校舎の下敷きになって死んだ者、あるいは、救いを求める声などで、一瞬、阿鼻叫喚の地獄と化した。当時の責任教官は10人であったが、8人が即死し、2人は重症のまま動けず、生徒たちを救出したり、避難の指示を与えたりすることなど、まったくできなかった。

この絶望的な惨状の中から、自力により、数人の者が、かろうじて脱出できたのである。

まず南竹屋町にあった学校の位置を確認したいと思います。安芸書房が復刊した「昭和14年の広島市地図」にその名前が見えます。

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見え難いのですが、広島文理科大学大理学部のすぐ北東部で、左横にたどると市役所があります。

当時の校舎の写真です。(進徳学園90年史より)

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ここに書かれた状況は、学校で起きた惨状だけが記載されています(また余談ですが、昨日紹介した黒川万千代編「原爆の碑 広島のこころ」には、「犠牲者の大部分が2年生で、鶴見町で疎開作業中だった」と違う被災場所が書かれています)ので、例えば、人的被害の「即死者 教職員10人」とこの文章中の8人とには差があります。

なぜ差があるのだろうかと思いながら、少し前のページを見ると、「学徒動員状況」の記載があります。

それによれば、この朝学校に集合し、建物疎開作業に従事する予定だった人数は、教職員10人、二年生339人で、作業場所は、鶴見町となっています。

その他に、「電話局 下中町 教職員2人、三年生170人、貯金局 千田町 教職員3人、三年生175人」など合計8カ所に学徒動員されていたことがわかりますが、残念ながらこの動員先での被爆状況は、記載がありません。

例えば、電話局は、現在の袋町袋町ビルですから、爆心地からは0.54kmの近さ(なぜか広島原爆戦災史では、約1.0キロとなっている)にあります。この近距離ですので、当然ここでも犠牲者が出たはずです。

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となると、広島原爆戦災史の職域の被爆状況をまとめた第3巻を調べる必要があります。

「第6項」として「広島逓信局関係各機関」があり、「被害一覧」の「広島中央電話局」の人的被害状況として、「死亡216人 負傷者243人」と記されていますが、職員や学徒動員者の内訳はありません。

ただ、施設ごとに記された「被爆の状況」の「電話局」の文中に「進徳高等女学校の生徒170人(引率教師2人)の派遣を得て業務を運行していた」との記述がありますので、ここで生徒が被爆し、犠牲者が出たことは間違いありません。電話局の人的被害は「死者216人、負傷者243人」ですから、当然進徳高等女学校の生徒のいのちも奪われたことになります。

と書きながら、そういえばと思いだした資料があります。

被爆後10年となる昭和30年(1955年)に中国通信局(私がかつて働いたことのある職場)が、被爆前後の「電気通信事業の状態」をまとめ発行した「廣島原爆誌」です。

その「序」には、「また中央電話局や電信局の犠牲者の中に、けなげな挺身隊やいたいけな動員学徒が多く含まれていることは我々の胸を打つものがある」との一文が記されています。この資料をたどってみたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月12日 (木)

進徳高等女学校(現進徳女子高校)の原爆慰霊碑

「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」で出合ったことがきっかけで、進徳女子高校にある進徳高等女学校原爆慰霊碑を訪れました。

女子高校ですので(どの学校でもそうですが)、事前にお願いの電話を入れました。

「なぜ?」ということですので、「原爆慰霊碑をめぐっているので、ぜひそちらの学校の慰霊碑も訪れたいと思いまして」とお願いすると、対応していただいた事務局長の原田さんから「明日の午前10時半頃なら大丈夫です」との了解をいただき、10日の午前10時半に国道2号線沿いにある進徳女子高等学校を訪れました。

学校に到着すると、いつも閉められている正門の内側で原田さんが待っておられました。

「大変申し訳ないのですが、電話でお話をした後、急に用事が出来、少しの時間しか対応できなくなりました。」とのことですので、すぐに慰霊碑に案内していただきました。

正門を入るとすぐのところに、進徳女子高等学校の前身である「進徳高等女学校」の「職員生徒慰霊碑」が建っています。

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上の写真の右端にわずかですが、正門が写っています。後ろには、講堂が建っています。

事前に読んだ1980年代に発行された慰霊碑を紹介する本「原爆の碑 広島の心」(黒川万千代編)には、「車の多い国道二号線沿いとわからないくらい静かな内庭に、花しょうぶの紫が美しい池に面して建つ、自然石の碑」と紹介されています。碑のまわりには池はなく、様子はずいぶん違っていますが、きれいに整備されています。

原田さんに「いつか、場所を移されたのでしょうかね」とお聞きしたところ「私がこの学校に来たには、2年前ですので、詳しいことがわかりません」とのことでした。経緯を知ることは出来ませんでしたが、学校の整備の段階で移設されたと思われます。

慰霊碑の正面には、仏教系の学校だからでしょうか「波羅蜜多」の文字が刻まれています。

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「波羅蜜多」(はらみった)とは、広辞苑によれば「現実界(生死輪廻)の彼岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈」となっています。

資料のよると、進徳高等女学校の原爆による被爆死は、職員11名、生徒374名となっています。

影になって少し見え難いのですが、碑の裏面には「昭和三四年八月建立 進徳学園」の文字が刻まれています。

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進徳高等女学校は、被爆時爆心地から1.4km広島市南竹屋町にありましたが、1946年5月10日に現在地にあった旧陸軍暁部隊用地と兵舎の転用が許可され、修築移転しています。

少し余談になります。旧陸軍暁部隊用地と書きましたが、この場所には、暁部隊の内通信隊がありました。だからだと想像するのですが、進徳女子高校と国道2号線を挟んだ北側には、旧電電公社の敷地が広がっています。私の職場、中国通信局ダータ部(現NTTデータ中国支社)のビルもそこに建っています。

話を元に戻します。碑の裏面の下側に、碑に刻み込まれたように四角な金属の板を見ることができます。

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原田さんの説明によれば「この中に死没者名簿が納められている」そうです。説明を受けなければ、見逃しそうです。

碑建立後、毎年8月6日に追悼式が行なわれていたようですが、暑さのこともあり、最近は10月20日に実施されているようです。理由は聞きませんでしたが、今年は9月20日に実施されるそうです。

原田さんの予定もあり、ここで慰霊碑の見学は終わり、お礼を言って別れましたが、気になるのは進徳高等女学校の被爆の実相です。

帰宅後、「広島原爆戦災史第4巻」を開き、調べることにしました。そこでちょっとした疑問に出合いましたので、その報告は明日にします。

いのちとうとし

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2024年9月11日 (水)

「旧陸軍施設遺構」はどれだ?

7日のブログ加藤友三郎像: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した加藤友三郎銅像の後ろ側に、「周辺の記念碑等案内地図」の説明板がありました。

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よく見ると赤字で「現在地」と書かれた左後ろに「旧陸軍施設遺構展示」という表示があります。

この区域に「旧陸軍施設遺構」を展示するという話は聞いたことがありませんが、どんな遺構が展示されているのだろうかとこの図を頼りにその場所に行ってみました。

ところが、それらしいものが見つかりません。これかなと思うものは、下の写真の石垣のような石組みです。

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お城の石垣と言われればそうかと思いますが、軍の施設の一部とはとても思えません。

サッカースタジアム建設に伴う地下遺構調査時には、現場を何度か訪れたのですが、こんな形の遺構はなかったように思います。その時保存用に切り取られたのは、敷石部分だったはずです。疑問に思いながらも、こんな遺構も保存されていたのかなと、ちょっと不思議な気がします。と言うか、判然としません。この近くに「旧陸軍施設遺構」を示す表示板も見当たりませんので、どれがそれに当たるのかはっきりしません。

しかし、現場では尋ねようがありませんので、翌日市役所に行き、聞くことにしました。

最初に訪ねたのは、公園を管理する緑政課でしたが、「あの場所は、サッカースタジアム建設担当が管理しています」とのことでしたので、担当課に行きました。

スマホの写真を見せながら「案内地図に示された旧陸軍施設遺構は、どれですかね。ファミリープールの後ろに遺構を配置するという話は聞いているのですが」と尋ねると、「全体は、ここが担当しているのですが、旧陸軍施設遺構については、文化振興課が担当しているので、ここでは分かりません」との答えです。この様子を見ていた担当課長が、サッカースタジアム周辺の配置図を持ってきて「この図を見て下さい。指摘された場所と、ファミリープール裏の2カ所に旧陸軍施設遺構と配置することになっているのですが」と説明されました。

これ以上のことは、ここでは不明のようでしたので、文化振興課に行くことにしました。

対応していただいた職員から「今、担当者がいないので、詳しい説明が出来ないのですが」との返事です。いつも話しをする課長の姿も見えないので、とりあえず自宅に帰りました。

市役所を訪れたのは、金曜日でしたので、月曜日に電話をかけススポーツ文化財課長で聞きました。

「以前、輜重隊遺構は、ファミリープール裏にある馬蹄碑のところと公園の東側にも小さな遺構と案内板を置くとお話したはずですが。指摘された場所には、1m四方ぐらいの小さな遺構を設置し、馬蹄碑横に設置する輜重隊遺構の場所を案内することにしています。馬蹄碑周辺はようやく工事を始めましたが、指摘の場所への設置工事はこれからです。」課長の説明です。

ようやく事情が飲み込めました。「周辺の記念碑等案内地図」に表示された「旧陸軍施設遺構」は、まだ未設置だったのです。どこを探しても見当たらないはずです。

サッカースタジアム、その周辺整備が終わり、いつから馬蹄碑周辺に設置される輜重隊遺構の設置工事が始まるのかと思っていましたが、ようやく工事が始まったようですので、現地に行ってきました。

まだ遺構らしいものは見えませんが、馬蹄碑の周囲にあった低木の植栽が撤去され、整備が始まっています。

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横に廻ると、フェンスに取り付けられた工事中を示す看板が目に入ります。

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「展示物を整備しています。令和6年11月29日まで」と書かれていますので、11月中には、旧陸軍輜重隊遺構の移設整備が完了するようです。

ようやく遺構の移設整備が始まりました。どのぐらいの大きさで、どのような姿を見せるか、工事の進行を見守りたいと思います。

いのちとうとし

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2024年9月10日 (火)

最大の「敵」は無関心

 福島原発事故の汚染水を太平洋に流し始めて、丸1年が経過したとの報道がありました。汚染水放出については地元の漁協をはじめ、国内外から強い反対の声が起こった時、政府や東京電力の言い訳は汚染水を保管するタンクが福島第一原発敷地内に溜まり続けて、本格的に開始する廃炉作業の邪魔になるというのが、その理由でした。

福島第一原発の廃炉作業ですが、その大前提は原子炉内の底部にある溶融核燃料(デブリ)の取り出し作業です。デブリの取り出しは東京電力も「廃炉の本丸」としていました。デブリの総量は福島第一原発1~3号機で、推定で880トンが残っているとのことです。放射線量が高すぎて、直接さわることも近づくこともできない物質です。

45年前の1979年3月、米国ペンシルベニア州スリーマイル島原発で炉心溶融事故が起こりましたが、その時のデブリも、1986年4月のチェルノブイリ原発事故のデブリも、すべてが取り出せない状態が現在も継続しているのです。そんな状態の原発が福島第一原発には3基もあるのです。

取り出し作業のために試験的に微量ほど抜き出して、その成分などを調べてみることを否定するものではありません。今回の試験的採取は3㌘を取り出すものでした。この試験的採取は3年位ほど前から計画されていたと思いますが、コロナ禍による影響などもあり遅れたのは事実です

そんなことで福島第一原発事故から13年5か月も過ぎ、やっとの思いで8月22日の試験的採取の初日を迎えました。

それがなんと、恥ずかしいような初歩的なミスで、お粗末な失敗となったのです。

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「福島民友」より

新聞記事によると、採取に使う5本のパイプの取り付け順が間違っていることが判明したとしていました。

それでも東京電力幹部の、ノホホンとした姿には呆れるばかりです。記者会見の映像を観ていても、まるで他人事という感じにしか見えませんでした。

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「YouTube」より

作業の指示が協力会社の作業員まで行き渡らず、チェックの体制が不十分だったとしていますが、この呆れるミスに、どれだけのお金を使ったのでしょうか。ミスを重ねようが誰もフトコロを痛めないという無責任体質が、ことの本質ではないでしょうか。

福島第一原発事故後、全国で24基の原発が廃炉されることになり、中国電力では島根原発1号機の廃炉作業が行われています。しかし島根1号機程度の原発(電気出力50万キロワット程度)で、国内で廃炉が完了したところは無いのです。廃炉作業は簡単な作業では無いし、ましてや事故を起こした福島第一原発の廃炉作業は、廃炉の在り様を含めて議論をしていかなければならないことだと思います。

なのに汚染水はさっさと海に流してしまう、放射能は時間の経過とともに、そのレベルは下がってくるものです。福島第一原発の敷地にもタンクを設置する場所はありますし、置いておけば放射能の値も下がっていきます。近くに在る福島第二原発は廃炉となり、この場所にも敷地は在るのです。

日本政府が想定している廃炉終了後の姿は、その場所が更地になることですが、事故を起こした福島第一原発の場合を同様に考えるのは、事態を知らない杜撰な考えだと思います。あと27年、2051年で政府や東京電力は、三つの原発からデブリを取り出して廃炉が完了するとしています。そんなことは不可能ですし、こんな無責任体質は、本当に困ったことです。

自民党の総裁、立憲民主党の代表選挙が行われていますが、福島第一原発の今後についての議論がされていないこと、原発・エネルギー政策を避けていることに、強い怒りを感じています。

反原発新聞の8月号のコラムの欄に、『「敵」は推進派ではなく無関心』というタイトルで川本浩之さんという方が書いておられました。そうだと思いました。無関心は私たち自身の責任だとも思いました。

木原省治

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2024年9月 9日 (月)

第28回高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

9月7日、庄原市高野町にある高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が、午前10時30分から実施されました。

コロナ感染拡大の影響で中止を余儀なくされた年があるため、碑前祭名は「第28回」となっていますが、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1995年に建立されていますので、今年は30年目の碑前祭です。

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今年の碑前祭は、節目となる30年目ということで、高校生平和ゼミ、朝鮮学校からの参加者も多く、これまで私が参加した「碑前祭」では一番多い約70名が参加し実施されました。

まずたくさんのお供えが準備されました。

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碑前祭は、地元高暮の草谷末広さんの司会で始まりました。

続いて、ふるさと村高暮館長後藤信房さん、広島県朝鮮人被爆者協議会理事長韓政美(ハン・ジョンミ)さん、高校生平和ゼミナール世話人大亀信行さんがあいさつ。大亀さんはあいさつの中で、この碑が建立されるまでの歩みを紹介し、最後に「李実根先生は亡くなられましたが、過去のつながらないいまはない、そしてこのいまから未来は開けると話しておられました」と李実根さんとのエピソードを紹介しました。

続いて朝鮮側の参加者によるチェサ(朝鮮式祭祀)が行なわれました。

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朝鮮歌舞団ファンヨンシルさんの追悼舞です。

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次に高校生平和ゼミ、朝鮮高級学校生代表による若者の誓い。

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例年は参加者一人一人が献花するのですが、今年は参加者が多かったため代表による献花が行なわれました。

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最後に参加者全員で「アリラン」と「故郷」を合唱し、碑前祭は終了しました。

この地を初めて訪れる高校生が多いため、ダムの堰堤に足を運び、ダム建設のため強制連行され強制労働を強いられた人たち、故郷に帰ることも無くこの地で命を奪われた朝鮮人のことを想像しながら散策しました。

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高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭を終えた参加者は、ふるさと村高暮に移動し、1989年に広島テレビで放映された「ダムに消えた叫び・朝鮮人強制労働の記録」を制作した記者カメラマンの田森孝仁さんの話を聞きながら鑑賞し、当時のことを学びました。

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その後、恒例となっている地元の皆さん、朝鮮女性同盟の皆さんに準備していただいた焼き肉、むすびを食べながらの交流会が行なわれました。

この碑前祭を通じて、日朝友好、そして平和な社会実現のため何が出来るかを考えるきっかけになればと思います。

いのちとうとし

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2024年9月 8日 (日)

2024年9月のブルーベリー農園1

ブルーベリーの摘み取りはそろそろ終わりかけている。初秋なので農園の周辺では稲刈りが始まり、野の花が夏の終わりをつげ、秋の到来を教えてくれる。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通いブルーベリー栽培をつづけているが、猛暑の夏の農作業はどうにか乗り越えることができた。ブルーベリー落葉をまって剪定を始めるのでそれまでは緑肥用のカバークロップの構想などを練りながら農作業を続けることになる。

91日(日) 今年はフランネルッソウの種がたくさんとれた

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93日(火) 畑のブルーベリーにミノムシが発生する季節になった。見つけ次第手で取り除く

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9月2日(月) 稲刈りが始まったのが農園から見える

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97日(金) 友人グループが終わりかけのブルーベリーの摘み取り援農に来園 安芸の郷への納品量も

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96日(金) 里道の草を刈るのも農園の維持管理のひとつ。地べたには初秋の野の花が咲いている

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①野生のリンドウは一株しかなかった

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②オトコエシ(男郎花)

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③イワシャジン 

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④ネジバナ 季節をずらして咲いているので懸命感が漂う

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⑤ここの稲田はまだ刈り取っていない

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早生のブルーベリーにはもう花芽ができている

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年9月 7日 (土)

加藤友三郎像

昨年828日に前広島市長秋葉忠利さんが中心になって開催された「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」に関わりを持ったことは、このブログ「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」成功裏に終了: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

あれから一年が過ぎた先月の24日にNPO法人加藤友三郎顕彰会が主催し、加藤友三郎の「銅像復帰報告祭」が行なわれたことをマスコミを通じて知りましたので、見に行ってきました。

「加藤友三郎像」は、2008年から中央公園の東側に建っていたのですが、2019年9月にサッカースタジアム建設のため、移転を余儀なくされていましたが、今回公園整備が全て終了し、この地に帰ってきたのです。

像は、サッカースタジアムの東側に広がる芝生広場の東側に広がる「ひろしまスタジアムパーク」の一番西側に立っています。

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すぐ隣に子どもたちの遊び場があります。

近づくと「ずいぶん高いな」と感じます。銅像は青空をバックにすくっと立っていました。

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 銅像の高さは、台座などを含めて約45メートルあるそうです。

像のそばには、2枚の説明板があります。

一枚は、「加藤友三郎功績碑」と書かれており、銅像の土台に取り付けられています。横に英文もありました。

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英文の説明板は分かりませんが、「功績碑」と刻まれた説明板は、文章の最後に「平成20(2008)年8月24日 加藤友三郎銅像復元委員会 会長 碓井静照」と書かれていますので、2008年の建立時に取り付けられたものだと思います。

銅像からは少し離した後ろ側にありますが、もう一枚の説明板が目につきます。

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この説明板のタイトルは「加藤友三郎とサッカーの縁」と書かれています。最後の書かれた日付が「令和6(2024)年8月」となっていますので、今回新しく設置されたことが分かります。

説明文の内容を要約すると「加藤友三郎が、明治6(1873)年に海軍兵学校に入学したとき、海軍兵学校の教育を充実させるため来日していた英国軍人が、教育の一環としてフットボールなどの英国式スポーツを取り入れた。これが日本人が最初にフットボールと関わった記録と確認されている。広島県人は、加藤友三郎しかいなかったので、わが国初のフットボールを楽しんだ人になる。」と記し、最後に「このようにサッカーと縁がある加藤友三郎の銅像から指呼の間にサッカーススタジアムが建設されたことに、はかり知れないつながりを感じています。」と記されています。

サッカーを見に訪れた人が、加藤友三郎銅像を通じて、平和について考える機会になればとの思いも込められた説明板のようです。

いのちとうとし

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2024年9月 6日 (金)

9月の「3の日行動」

戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、3日の午後5時半から洋服の青山前で9月の「3の日行動」を行ないました。

岸田首相の代表選立候補断念の記者会見を受けスタートした自民党総裁選挙が、立候補予定者による「憲法9条改悪」の大合唱の中での街宣となりました。

いつものように世話人代表の一人川后和幸さんの冒頭発言でスタートしました。

最初のアピール者は、山田延廣弁護士。山田さんは「防衛費増大で生活が破壊される。何よりも憲法第9条が改憲の危機にある」ことを訴えました。

二人目は、夫婦別姓問題を取り組む恩地いずみさん。恩地さんは、「夫婦別姓を認めないのは憲法違反」と提訴した原告の一人です。今回の訴えは、「自民党の多くの議員が、夫婦別姓の必要性を認めながら、旧統一協会や日本会議などの保守勢力に押さえ込まれ、夫婦別姓問題が前進しない。私たちが求めているのは、選択的夫婦別姓制度であることが、理解されていないのでは。夫婦別姓にすると家庭が崩壊するというが、夫婦別姓制度を認める国でそんなことが起きているのか」と夫婦別姓制度に反対する勢力の主張がいかに欺瞞なものであるかを指摘しました。

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三人目は、河井疑惑ただす会 山根岩男さん。山根さんは、河井問題が発覚していこうずっとこの問題にこだわり活動を続けています。「岸田さんは、河井問題のお金の流れの解明が必要だといっていながら、首相になった途端、この主張を撤回し、ほおかむり。総裁選挙で、表紙を変えて裏金問題をうやむやにすることは絶対に許せない」と訴えました。

四人目は、イスラエルのガザ侵攻に抗議して毎日原爆ドーム前で、犠牲者の追悼と抗議のスタンディングを続ける広島パレスチナともしび連帯共同体からのアピール。名前をメモすることが出来ずアピール者の名前を紹介できません。「私たちが常に関心持つこと、そして声を上げ続けることが大切。傍観者になってはいけない」と呼びかけました。

最後に私もマイクを握り、異常な状態での自民党総裁選挙について訴えました。

「総裁選挙が始まる前から連日のように〇○立候補予定者は。立候補表明していない議員まで紹介するマスコミ報道の異常さ。岸田首相は『責任をとって総裁選立候補しない』といったが、その責任の原因となった旧安倍派の裏金議員の説明責任に言及する立候補予定者が全くいない。なぜ?。やめるといった岸田首相が、『憲法9条の改憲を引き継げ』という。岸田首相は、自分の都合のよいときには、広島一区選出を強調するが、そうであるなら広島市民が願っている『広島の悲惨な体験から生まれて平和憲法を守ること』にこそ全力を挙げるべきだ。安倍政権による憲法違反の戦争法成立以降、この国は戦争への道を突き進もうとしている。そんな道を許すのか、市民一人一人が私たちと一緒に声を上げて欲しい」と呼びかけ、9月の『3の日行動』は終了しました。

参加者は、30人でした。

いのちとうとし

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2024年9月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その61) ~南シナ海をめぐる動向-5~

深まる日本の軍事的プレゼンス

昨年秋以降、南シナ海における領有権争いがヒートアップし、軍事衝突の引き金になりかねない状態が続いることは、これまで幾度も報告しました。8月末には、「日本から供与されたフィリピンの大型巡視船と中国海警局の船が衝突」と大きく報道され、こうした衝突に日本が深く関わっている事実が改めて明らかになりました。

日本は2014年に44メートル級の巡視船10隻、2016年に97メートル級2隻の計12隻の巡視船を供与しています。5月には新たに5隻の大型巡視船の供与を決めるなど、フィリピン沿岸警備隊の戦力アップを強力に後押ししています。

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(出典:NHK NEWS WEB 8月31日)

 そして7月にマニラで開催された日本フィリピン外務・防衛担当閣僚協議(2+2)で、両国の防衛協力関係を「準同盟」に引き上げ、部隊間の相互連携を強める「円滑化協定(RAA)」が締結されました。日本はイギリス、オーストラリアに次ぎ、中国との厳しい領有権争いを展開しているフィリピンを「準同盟国」に位置づけたのです。そうした中で起きた日本供与の大型巡視船と中国海警局の艦船との衝突は、事態のさらなる深刻化と日本の一層深い関わりへとつながらないか心配です。

全世界を駆ける海上自衛隊

ますます緊張度を高めている南シナ海や東シナ海を中心に、主に海上自衛隊の動向(共同訓練)をピックアップしてみました。

2024年1月5日     海上自衛隊、オーマン王国海軍による「日オーマン海上訓練」、オーマン湾

2024年1月        海上自衛隊、アメリカ海軍、韓国海軍による「日米韓協同訓練」、東シナ海

2024年1月15~17日 海上自衛隊、アメリカ海軍、韓国海軍による「日米間共同演習」、東シナ海

2024年1月8~24日 海上自衛隊、アメリカ海軍、インド海軍、韓国海軍、固定翼哨戒機多国籍協同訓練

2024年1月17日     海上自衛隊、フランス海軍による「日仏協同訓練」、アラビア海

2024年1月17~19日 海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米郷土欧訓練」、東シナ海、沖縄周辺

2024年1月29~2月1日 海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米共同訓練」、沖縄周辺

2024年2月      海上自衛隊、インド海軍などによる 「多国間協同訓練」、ヴィシャカパトナム周辺

2024年2月      航空自衛隊、アメリカ空軍、オーストラリア空軍による「日米豪共同訓練」

2024年2月7~8日 海上自衛隊、アメリカ海軍、オーストラリア海軍による「日米豪共同訓練」、南シナ海

2024年4月   海上自衛隊、フィリピン海軍、アメリカ海軍、オーストラリア海軍、「共同活動」、南シナ海

2024年4月   海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米共同訓練」、東シナ海から四国沖

2024年4月   海上自衛隊、アメリカ海軍、韓国会議運による「日米間共同演習」、東シナ海

2024年4月   海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米共同訓練(SWATT24)」、横須賀から沖縄東方

2024年4月   航空自衛隊(哨戒機)、インド海軍(哨戒機)による「日印共同訓練」、関東南方海空域

2024年4月   海上自衛隊、マレーシア海軍による「日馬共同訓練」、南シナ海

2024年5月   海上自衛隊、マーシャル諸島共和国による「日マーシャル親善訓練」、マーシャル諸島

2024年5月   海上自衛隊、アメリカ海軍、ニュージーランド海軍による「日米新共同訓練」、東シナ海

2024年5月   海上自衛隊、オーストラリア海軍による「日豪共同訓練(トライデント24-1)、東シナ海

2024年6月   海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米共同訓練(ノーブル・レイヴン24-2)、グアム北方

2024年6月   海上自衛隊、フィリピン海軍、アメリカ海軍、カナダ海軍による「共同訓練」

2024年6月   海上自衛隊、スリランカ海軍による「親善訓練」、インド洋

2024年6月   海上自衛隊、インド海軍による「日印共同訓練(JIMEX2024)、インド洋

2024年6月   海上自衛隊、トルコ海軍による「日土共同訓練」、関東南方海域

2024年6月   海上自衛隊、アメリカ海軍、カナダ海軍、フィリピン海軍による「日米加比共同訓練」、南シナ海

2024年6月   海上自衛隊、フランス海軍による「日仏共同訓練」、タヒチ周辺海域

2024年6月   海上自衛隊、オランダ開軍による「日蘭共同訓練」、東シナ海

2024年6月   海上自衛隊、フランス海軍主催による「人道支援・災害救援に関する多国間共同訓練」  

2024年6月   海上自衛隊、パキスタン海軍による「日パキスタン親善訓練」、アデン湾東方海域

2024年7月   海上自衛隊、カナダ海軍による「日加共同訓練」、東シナ海

2024年7月   海上自衛隊、アメリカ海軍による日米共同訓練(ILEX24-4)、九州西方海域

2024年7月   海上自衛隊、イギリス海軍、オーストラリア海軍による「日英豪共同訓練、フィジー沖など

2024年7月   海上自衛隊、バーレーン王国海軍哨戒艇による「日バーレーン親善訓練」、インド洋

2024年7月   海上自衛隊、フランス海軍による「日仏共同訓練」、太平洋

2024年7月30~31日 海上自衛隊、ブルネイ ダルサラーム国海軍による「親善訓練」、南シナ海

2024年8月   海上自衛隊、シンガポール海軍による「日星親善訓練」、関東南方海域

2024年8月   海上自衛隊、アメリカ海軍による「日米共同訓練」、南太平洋

2024年8月   海上自衛隊、アメリカ海軍主催による「多国間ミサイル警戒演習」、ハワイ周辺海域

2024年8月   海上自衛隊、フランス海軍による「日仏共同訓練」、関東南方海域

2024年8月   海上自衛隊、パキスタン海軍による「日パキスタン親善訓練」、オマーン湾東方海域

2024年8月   海上自衛隊、フィリピン海軍による「海上協同活動」、南シナ海

2024年8月23~9月2日  海上自衛隊、アメリカ海軍、韓国海軍による「多国間共同訓練」、グアム

2024年9月   海上自衛隊、オーストラリア海軍、イタリア海軍、ドイツ海軍、フランス海軍による「共同訓練」

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(8月23日~9月2日まで実施された米国主催多国間共同訓練の模様  出典:海上自衛隊ホームページ)

自衛隊が公表している訓練だけで42回です。見落としや公表されていないものを含めるとさらに多いと思います。南シナ海や東シナ海が多いですが、沖縄周辺、グアムなど南太平洋、中国とせめぎ合っているフィジーやソロモンなどの南太平洋、インド洋からオマーンなど中東まで、ほぼ全域に及んでいます。さらにイギリスやフランス、イタリアやカナダなどNATO諸国との軍事演習も目立ってきているように思います。

(2024年9月5日、あかたつ)

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2024年9月 4日 (水)

中国新聞の二つの記事―その2

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

このシリーズは、8月5日から「戦火が絶えない。核兵器使用の恐れすら高まる。惨禍を繰り返さぬために、広島の被爆を克明に刻んだ記録「ヒロシマ ドキュメント」を世界の人類が共有すべきだ。来年の被爆80年に向け、被害者の記憶や思いとともに伝えたい。」(85日のリードより)との思いで、毎日続いている記事です。私も今日はどんな内容かと興味を持って読んでいます。

9月2日は、「韓国・朝鮮人に被爆証明」のタイトルで、韓国人被爆者郭貴訓さんのことが紹介されています。

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郭貴訓さんは、私には忘れることの出来ない人です。旧知の水川恭輔記者の記事ですので、水川記者にも、すぐに下記のようなメールを送りました。

「ちょっとだけ珍しい写真がありました。

2001年の郭裁判の大阪地裁での勝訴判決を受けの記者会見の様子を映して写真です。

そのすぐ前に、国会で『在外被爆者に援護法適用を実現させる会』を発足させ、私が事務局長になりました。

裁判の数日前、大阪の市場さんから『今度の裁判は負けそうです。支援者ががっかりすると思いますので、『議員懇としてがんばる』と金子さんぜひ傍聴に来て話して欲しいのですが』と電話が入り、ちょっと重たい気分で大阪に途中下車したことを思い出します。当日は、金曜日でしたので、広島には帰る予定にしていました。

と言うことです。

いつか、この話しましたかね。忙しいところ、つまらぬメールで申し訳ありません。

まー読者の反応ということで許して下さい。」

下の写真が添付した写真です。

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メールには、「記者会見」と書きましたが、間違っていました。同じ日に開催された「報告集会」の写真です。メールでは紹介していませんが、写真の右から二人目が郭貴訓さんです。左端が私です。私の隣には、韓国から判決を聞くため郭さんとともに大阪に来られた被爆者の金分順さんの姿があります。金分順さんも忘れられない被爆者の一人です。右端が弁護団長の永嶋靖久弁護士です。後ろに掲げられている「勝訴」の文字が、輝いているように見えます。

この日が、その後に続く在外被爆者裁判勝訴への道のスタートでした。郭貴訓裁判は、2002年12月5日の大阪高裁での歴史的勝訴判決で決着することになりました。私の国会活動の中でも一番思い出に残る活動の一つです。

私が送ったメールを読んだ水川記者からすぐに返信がありました。

「ご無沙汰しております。

記事を読んで頂き、ありがとうございます。

ご関心をもっていただき、大変ありがたいです。

また、大変貴重な歴史的な写真ですね。

初めてみせていただきました。「負けそう」と内々にきかれていた話は、今回初めて教えていただいたと思います。

そうだったんですね。いかに、難しい道を切り開かれたか、を感じます。」

水川記者には、これからの「ヒロシマ ドキュメント1945年」には、よい記事を書いて欲しいと期待しています。

いのちとうとし

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2024年9月 3日 (火)

中国新聞の二つの記事―その1

昨日の中国新聞の二つの記事、興味深く読みました。

一つは、9面の「平和コーナー」に掲載された「私の道しるべーヒロシマの先人たち」です。このブログの執筆者の一人でもある木原省治さんが、広島県原水禁の事務局長、代表委員を長く務めた宮崎安男さんについて語ったものを森田裕美記者がまとめたものです。

木原さんらしい宮崎さんへの思いが伝わってきます。

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この記事を読んで、森田記者に下記のメールを送りました。

「新聞を手にして、すぐに『平和面』を開きました。森田さんのまとめ、さすがと思いながら読ませていただきました。

木原さんの宮崎さんへの思いも伝わりますが、ずいぶんと森田さんの感想が入っているなと思ったのは、私の思い過ごしでしょうか。

被爆者では無いけれど、被爆者以上に被爆者や広島を思い、同時に黒子に徹して活動した希有な人だと思います。

あの労働組合嫌いの伊藤サカエさんが、何かあると『宮チャン、宮チャン』と頼りにしていたことも思い出されます。

平和会館では最後にいろいろありましたが、宮崎さんは最後までその姿勢を貫きました。誰にでも出来ることではありません。

そして、何よりも若い人たちに大きな影響を与えた人です。反核・平和運動だけで無く労働運動の中でも。私もその一人ですが。

資料も大切にした人です。広島県被団協の資料を宇吹さんに整理をお願いしたのも宮崎さんだったはずです。整理が終わった後、原医研に『取りに行ってくれ』と頼んだのも宮崎さんでしたから。

そうそう、『平和会館物語』の小冊子を作ったのも宮崎さんです。中国からのカンパのことなど、貴重に資料が掲載されています。もしこの小冊子が無ければ、『平和会館の成り立ち』も忘れられてしまうことになったと思います。

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森滝市郎先生のお別れ会(94.2.5)の翌々日平和会館で

光生まれだったことが紙面でも紹介されていますが、よく話していたことは、終戦間際になった814日の光大空襲のことでした。宮崎さんにとっての戦争の一番の印象だったと思います。

私も宮崎さんとの思い出は、つきません。90年代の終わりから、2000年代にかけて、よく口論になったものです。その時、いつも言われたのが『誰がこの運動を引き継ぐのだ。君しかいないだろう』。期待をかけていただいたのですが、それに充分答えているだろうかと自問自答しながら、少しでも宮崎さんの思いを引き継ぎたいと思っています。

宮崎さんの死は、あまりにも突然でした。この年は、忘れることが出来ません。7月の参議院選挙に比例区候補として立候補を決意し、その日は、米子の国労の会議であいさつするため移動中の伯備線の車中に電話が入りました。『宮崎さんが亡くなった』との第一声です。先日、元気な姿を見たばかりですから、この宮崎さんが宮崎安男さんだとは、とても思えませんので、『宮崎さんってあの宮崎さんか』と何度も確認したことが忘れられません。翌日は、東京での予定がありましたので、米子から東京に飛行機で移動する予定でしたが、米子でのあいさつを終えると急きょ広島に引き返しました。そして、もう自宅は出られたということで、五日市玉泉院に行き、お別れをし、東京に移動しました。ですから、通夜にも葬儀にも参列できませんでした。

スミマセン。長いメールになってしまいました。ついつい思い出すことが多かったものですから。

こうして、宮崎さんの足跡を伝えていただき本当にありがとうございました。感謝、感謝です。

その思いを込めて、このメールを送らせていただきました。」

もう一つは、22面に掲載されている「ヒロシマドキュメント1945年」です。

この記事の筆者水川恭輔記者にもメールを送ったのですが、それは明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年9月 2日 (月)

久しぶりの参加です。「VIGIL FOR GAZA(ビジルフォーガザ)」

昨年10月7日から始まったイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの軍事侵攻から、もうすぐ10ヶ月が経とうとしています。

8月31日付の中国新聞は、ガザ保健当局の発表として、イスラエルによる戦闘開始以降のガザ側の死者は、4万602人だと報じています。また同じ紙面で、9月1日から3日間、ガザで確認されたポリオ(小児まひ)の感染拡大防止のための予防接種を実施するため、感染症対策を目的とした戦闘休止に合意したと言われます。これを機に、停戦実現に向けた話し合いが、進むことを願わずにはいられません。

原爆ドーム前では、「広島パレスチナともしび連帯共同体」の呼びかけで、軍事侵攻開始直後の10月13日から連日スタンディングによる「VIGIL FOR GAZA(ビジルフォーガザ)」の行動が続いています。ビジルとは通夜、追悼を意味する言葉です。

私もこれまでに何度か参加してきましたが、8月は一度も参加できていません。9月に入った昨日、本当に久しぶりに原爆ドーム前に足を運びました。

私が、今回参加するきっかけとなったのは、先月30日に行なった「大邱の『いのち、平和機構団』の平和ツアー」との交流です。

この平和ツアーのメンバーは、大邱でも最近「パレスチナ平和のための大邱慶北緊急行動」が発足し、現在27団体が所属し、断続的な集会や毎日1人デモを行っているということで、

私との交流の場にも、全員が「EXISTENCE IS RESISTANCE」(存在・生存は抵抗である)の文字とパレスチナの地図が描かれたTシャツで着て参加し、夕方には原爆ドーム前の市民の行動に参加するとのことでした。

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私の話が終わった後、メンバーから赤いTシャツ一枚がプレゼントされましたので、そのTシャツを着て参加しなければと思い、月初めの昨日参加しました。

午後6時に原爆ドーム前に行くと、すでに8人が集まり、スタンディングの行動が始まっていました。

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最終的には、昨日の参加者は、11人でした。私も50分ほどその中に加わりました。

私が、なぜこのTシャツを着ているのかを説明すると、参加者の一人が「30日に大邱の皆さんが一緒に参加し、準備してきた声明文を読み上げ、連帯の行動を行なってくれた」と話してくれました。

いまガザで起こっていることは、まさにイスラエルによる民族撲滅をねらうジェノサイトと言える行為であり、絶対に許されるものではありません。

思えば、101年前の9月1日には、関東大震災によって朝鮮人・中国人の虐殺事件が起こりました。忘れてはならない歴史です。

私たちが、あやまちを繰り返さないためには、負の歴史とも言えるこうした事実にしっかりと向き合うことだということを感じたスタンディングでした。

いのちとうとし

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2024年9月 1日 (日)

失せ物見つかる

月初めに報告するような内容ではないのですが。

30日の午前9時半から予定通り韓国の大邱から広島を訪れる「大邱の『いのち、平和機構団』の平和ツアー」一行に平和問題の話しをするということで、自宅を出ようとしたところ、名刺入れが見つかりません。

よく持ち歩くカバン、ズボン、いつも置いている場所の周辺、何度も探しましたが出てきません。

名刺入れには、クレジットカードやポイントカード、運転免許証など、大切なものをたくさん入れていましたので気になるのですが、約束した時間も迫りますので、諦めてととりあえず家を出ることにしました。

話をしている間は、失せ物のことは忘れて、一生懸命に話をしました。終了後、穴子弁当をごちそうになり、雨の中帰宅をしました。

帰宅すればやはり、失せ物のことが気になります。もう一度家の中を探しましたが見つかりません。どこかに忘れたか落としたようです。

名刺入れに入れていたクレジットカードを最後に使用した店が分かっていましたので、問い合わせの電話を入れました。つながったと思ったら「只今電話を取り次ぐ時間を終了しています」のトーキーが流れています。午後1時頃のことですので、普通なら当然電話がつながる時間ですので、台風のため休業しているようです。この店は、この日は諦めるしかありません。

そのお店からの帰り道で、近くの中華料理屋さんで昼食をとりましたので、「それでも」とかすかな希望を持って、お店に行ってきました。

名刺入れには、当たり前のことですが、私の名刺を複数枚入れていましたので、見つかってれば、電話をかけてくれるはずだすが、電話はありませんので、ほぼ諦めの境地でした。

店主は以前からよく知っている人です。「昨日、名刺入れを忘れていなかったですかね」と問うと「もし忘れ物があれば、必ず私のところにと届くのですが、昨日は忘れ物は無かったですよ」との返答です。不安的中です。「うー.やはりダメか」と不安そうな顔していたのでしょう「念のために昨日座った席の方を見てみますか」と言ってくれます。

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昨日座った席は覚えていますので、「ダメかな」と思いながらも、一応見てみることにしました。

そのテーブルは4人掛けの席でした。近づくと私が座っていた椅子と隣の椅子のわずかの隙間の床に名刺入れらしいものが、落ちています。

ありました。私の名刺入れです。椅子の上にあれば、お店の人も気づいたのでしょうが、椅子と椅子の間に落ちていたため、気づかなかったようです。

もし電話をかけて問い合わせていたら、「ありませんよ」で終わっていたと思われます。

諦めかけていましたので、見つかったうれしさは、格別です。証拠の写真を写すことも忘れていましたので、その時の様子を紹介できないのが残念です。

私が大事な財布をなくしたことは、これまでにも何度もあります。さらに、この名刺入れは、ズボンの後ろポケットに入れている時に、家族に言っていませんが、何度か、椅子から立ち上がったとき、ポケットからはみ出し、隣の人の注意で、紛失を免れたことがあったにもかかわらず、今度もやらかしてしましました。

そうした体験がありますので、最近はカバンを持っているときは、必ずカバンに入れて家を出るのですが、クレジットカードを使ったとき、つい面倒くさいのでズボンの後ろポケットに収めてしまう癖があります。今回も最後にクレジットカードを使うまでは、カバンに入れていたのですが、ついズボンの後ろポケットに入れてしまったようです。

今回は、幸いにして無事に見つかったからよいようなものの、なんとか対策をとらなければなりません。何かよい方法は無いでしょうか。

いのちとうとし

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