観音橋の今
先日のブログで紹介した観音橋のことをもう少し詳しく知りたいと思い、広島平和記念資料館情報資料室を訪れ「天満川」の本を借りてきました。
特に気になったのは、観音橋西詰の埋め立てによって被爆した部分の橋脚、欄干がどうなったのかです。関連する何枚かの写真を見つけることが出来ました。
最初の気になったのは、昭和42年(1967)5月に新観音橋西詰から西に向かって写された下の写真です。
キャプションには、次のように書かれています。
「新観音橋西詰は埋立て、近景左の埋立て地には観音橋の欄干が残る」
中央左側に立つ男性に向かって右側が国道2号線が通る新観音橋です。さらによく見ると確かに男性に向かって左側に、欄干と思われるものが、はっきりと写っています。
次の写真は、昭和41年(1966)12月に写された観音橋西詰の写真です。
次のようなキャプションが書かれています。
「観音橋は車両通行禁止。歩行者・自転車用に格下げ。昭和37年に開通した新観音橋は、海田から己斐まで全通した2号線バイパス橋となる。」橋の入り口に通行止めの4本の柱が写っています。
次に続く文章が重要です。
「観音橋下流、天満川右岸を30m程埋立てる。欄干が埋立て地に残る。」
この写真では、何処までが埋立て地か分かりませんが、確かに観音橋の両方の欄干が残っているのが分かります。ちょっと不思議な気がします。
問題はその後どうなったかです。「天満川」の同じページに上の写真と並んで掲載されているのが下の写真です。
平成元年(1989)3月に観音橋の通りと国道2号線が合流する地点から観音橋方面の東方向に向かって写された写真です。左側に移る横断歩道からそれが分かります。
左側の、置かれているゴミ、そしてその向こうに止められている車沿って、用を失った欄干が伸びています。
被爆した観音橋の欄干は、埋立てられた後もずっと残されていたのです。
観音橋が撤去されてしまった今、この欄干がどうなっているのか気になりますので、現地に行ってみることにしました。
平成元年(1989)の写真とほぼ同じ位置から写した写真です。よく見ると電柱の左側に新観音橋の歩道を自転車で通る人の姿が小さく写っています。
残念ながら観音橋の欄干を目にすることは出来ませんでしたが、元欄干があったと思われる位置にはコンクリートブロックが並べられ、少し高くなっている歩道との間には、いろいろな植物が植えられ、きれいに手入れされていました。
右側のビルとの間は、観音橋のあった方向に向かって道路が、そのまま残っていました。
ただ、天満川河岸は、高潮対策のためでしょうか高くなっており、フェンスで入れないようになっていますので、道路は行き止まりとなっています。ですから、この向こうに観音橋があったことを想像するのは、難しい風景となっています。
当時の道路面はそのまま残っていましたので、充分に当時を偲ぶことは出来ましたが、他に何か当時を想定させるものは無いかと周辺を散策してみました。
そこで思いがけない人との出会いが、いろいろなお話を聞くことが出来ました。
その内容は、明日紹介します。
いのちとうとし
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