「広島ブログ」

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »

2024年8月

2024年8月31日 (土)

2024年8月のブルーベリー農園その3

とても速度の遅い台風10号が8月の月末にかけて接近しているので27日には農園の家の前のテントタープを撤去した。ブルーベリーの実は今年も9月上旬まで収穫できそうだが、前年より収穫量が少ないので摘み取りの援農の皆さんも早めの作業終了を余儀なくされている。しかし暑い中での作業なのでそのほうがいいので、冷たいブルーベリージュースを飲んでいただき体力を回復してお帰り頂いている。農園の周囲は秋の気配が漂い、稲刈りも一部で始まっている.

トンボのいる農園の庭の池

①823日(金) 赤トンボのしっぽがとても赤い

248311  

②824日(土) 雨が降らない池は泥だけだがそれでもハグロイトトンボはやってくる

24831

8月7日が立秋でそこからもう20日余りたっていてルーベリー農園では秋めいた景色が見られる

824日(土) 農園の花壇にハギが開花

248313

②ブルーベリー畑にあるムラサキシキブの花。結実してうっすら紫色になっている実もある

248314

③8月25日(日) ブルーベリーの木にミノムシが発生するのもこの時期。幸いブルーベリー畑の1本だけにびっしりぶら下がっていたので手で取り除いた

248315

④ブルーベリー畑の電気柵を利用して巣を張っているジョロウグモも大きくなった

248316

⑤828日(水) 花壇に咲くカクトラノオ。今年は花のつきが悪い

248317

8月28日(日) ブルーベリーの摘み取りの援農に安芸の郷のボランティア3グループと農園の友人知人グループがお見えになったので、たくさんの実を安芸の郷に納品することができた

248318

827日(水) 台風10号の接近のため農園の家の前に設置してあったテントタープを撤去した

248319

828日(水) 農福連携でブルーベリーの摘み取りを受け入れているが、この日は安芸の郷の就労継続支援B型あきと西条町の就労継続支援B型エミリィプラスが摘み取りを行った。次は金曜日だが台風10号の接近で中止になった

2483110

農園のブルーベリー畑の上空は厚い雲が覆っている。ブルーベリーにとって雨はうれしいがたくさんはいらない・・・

2483111

2024831

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月30日 (金)

台風の影響、難しい判断

針路が定まらず、影響の大きさも定かで無い台風ですが、間違いないのは、今日から、明日にかけて広島が一番影響を受けることになるということです。

とにかく、被害が出ないようにと祈るばかりです。

30日、31日にかけ、私が話しをする行事が二つほどありました。

一つは、今日30日の午前中2時間半をかけて、韓国の大邱から広島を訪れる「大邱の『いのち、平和機構団』の平和ツアー」一行に、日本の平和運動について、話す行事です。

事前に「核兵器と原爆被害者の関連運動、護憲運動について、軍基地関連運動について、パレスチナ平和のための活動」について、たくさんの質問が届いていましたので、なんとか準備をしていた。

台風の影響で無事来日されるか心配していたのですが、昨日の午後「無事到着したので、予定通り実施するのでよろしく」との連絡が入りましたので、予定通り実施することになりました。

二つは、31日の午前中、東京の大学生に「なかなか資料が見つからないので、教えて下さい」と頼まれて「広島における労働組合運動での被爆者支援の取り組み」について話すことになっていました。若い人から「こんな話しを聞かせて欲しい」との要望は、いままで受けたことがありませんので少しだけ力を入れて準備しました。

24830

1966年6月18日に結成された「国労原爆被爆者対策協議会」の歴史や1968年10月に結成された「全電通広島被爆者連絡協議会」の発足の経緯や翌年3月26日に600名の被爆教職員によって結成された「広島県原爆被爆教職員の会」の発足の経緯などを手持ちの資料を引っ張り出し、改めて振り返るよい機会になりました。瀬戸高行さんや近藤幸四郎さん、石田明さんのことを思い出しながら。

こちらは、何とか29日中に東京に帰る切符が手配できたということで中止になりました。しかし、ニュースによれば東海道新幹線が、夕方には運休になったようなので、どうなったか心配です。10月に再び広島を訪れるということで、それまで延期することになりました。

31日の韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部が主催する「李鍾根さんのおもいを引き継ぐ会」は、貴重な機会と楽しみにしていましたので残念です。いつ開催するかは未定です。

31日の夕方に予定されていた「ヒロキョレフェスタ2024」も中止になりました。昨年楽しい時間を過ごしましたので、残念です。

台風には勝てませんから、仕方ありません。今日の午前中はがんばって、後はゆっくりと資料の整理をしたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月29日 (木)

これ何?

今日から明日にかけて広島県に最も接近すると言われる猛烈な台風10号による被害が心配です。わが家でも防災対策として、雨が降る前の昨日昼過ぎに、ベランダに並んでいた20鉢あまりの植木鉢すべてを家の中に入れました。

そんなわずかな防災対策ですが、しながら思い出したことがあります。

先日「南海トラフ地震情報」が発表された後、少し不思議なというか「そうなんだ」という景色を見ました。

88日の日向灘地震の発生を受け、気象庁は同日の1915分に一週間後の815日までの「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表しました。これを受け政府は「出来るだけ安全な防災行動」「日ごろかの地震の備え」などの特別の注意を呼びかけました。

その注意情報が出ている最中の8月12日、散歩に出かけようと中国電力本社前を通ると、正面玄関が封鎖されているのに気がつきました。

248291

12日は休日だったからでしょう、高さ1m位のフェンス出入り口が閉鎖されています。

横を見るとそちらにも続いています。玄関に向かって汀です。

248292  

玄関に向かって左側です。

244293_20240828150601

全てを見て廻ったわけではありませんが、かなりの長さでフェンスが出来ていました。

「そうか、南海トラフ地震臨時情報が出されたので、高潮による浸水被害対策をされたのだな」と想像しながら、この場を後にしました。

翌日は、休暇が終わったからでしょう正面玄関前のフェンスは、無くなっていましたが、他のフェンスはそのままでした。

このブログを書くため、中国電力に電話を入れた話を聞きました。

Q「今回のフェンスは、南海トラフ地震臨時情報の注意措置がでたので対策をとられたのですか?」

A「そうです。連休、盆休みにも入りますので、予備的措置としてフェンスを付けました」

Q「正面玄関前は、休暇が終わったため13日から取り除かれたと思いますが、全部のフェンスが取り除かれたのは、注意情報が解除された8月15日の午後5時以降ということですかね」

A「その通りです」

Q「この装置はいつ作られたのですか」

A「数年前に設置しました」

Q「今回初めて作動されたのですか」

A「そうです。これまでにテストは何度かしましたが、本格的にフェンスを作動させたのは初めてです。手動で全て行なうようになっています」

高潮による浸水被害対策の一つとして、設置され、今回初めて本格的に使用されたようです。

周辺のどのビルでも、見ることができませんでしたので、「これ何?」との思いで眺めましたが、どこまで南海トラフ地震の対策をとればよいのか、考えさせられた景色でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月28日 (水)

平和のための広島の戦争展

23日から26日の会期で、県民文化センター地下展示室で開催されていた「平和のための広島の戦争展」に最終日の26日に行ってきました。

私の住むマンションの4階にある広島共同センターが、同実行委員会の事務局ということで、マンションの玄関で22日に荷物の運び出しが行なわれているところに遭遇し、「明日からですので、ぜひ見に来てください」と誘いを受けていましたので、いつもの散歩の途中に会場を訪れました。

この「戦争展」、今年で28回目となるようです。実行委員会の皆さんの努力に敬意を表したいと思います。

会場に入ると、写真入りポスターも当然ありますが、よく集められたものだと思うほど、当時の戦争体制を想像させる現物が展示されていました。

248281  

次のような順で展示されています。

知らないうちの戦争前夜―戦争と経済―朝ドラが描いた戦争と社会―日中戦争から太平洋戦争へー軍隊(戦争)とジェンダーー沖縄戦の実相

「知らないうちの戦争前夜」のコーナーには、いま問題になっている日鉄跡地ヘの自衛隊施設移転を過去の歴史から考えるための展示が目を引きました。

戦時色豊かな食器や着物、軍事色を前面に出した子ども向け雑誌の数々も並んでします。

248282

その中に「これなんて読むの」と思わされる一冊がありました。

248283

本のタイトルは「もとのみすやつな」。なんのこっちゃと思ったのですが、日中戦争が始まった翌年の1938年に発行された尋常小学校2年生(7歳)用の「なつやすみのとも」でした。右から左に読むのが正解です。

表紙は、軍服姿の少年、中には「ありがとう兵隊さん」とか、「兵隊さんが喜ぶような図画を描いて、慰問袋といっしょに送りましょう」などと書かれており、戦時色一色の教育を見ることができます。

体験コーナーや「朝鮮・韓国から見た日本の植民地支配」に関わる資料展示もありました。

248284  

展示とともに「イベント広場」が作られ、映画上映や証言などが、10時から17時30分までの開会時間中隙間なしに企画されていました。

私が訪れた時間帯には、「朗読会―教育勅語の罪ー」が開催されており、20ぐらいあった椅子席は、ほぼ満席という状態でした。この「イベント広場」の企画は、来場者の関心がたかったようです。

時間が昼前ということもあったのでしょうが、参観者の多くは、60代から70歳代の人たちだったように思います。

私たちの課題でもありますが、もっと若い人たちが会場を訪れてくれればと思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月27日 (火)

観音橋の今―つづき

かつての道路の跡は確認できたのですが、被爆した欄干を見つけることは出来ませんでしたので、他に何か関わりのあるものは残っていないかと、埋立て地に建てられた建物の周囲を歩いてみました。

暑い盛りですので、歩いている人の姿はありません。埋立て地の跡と思われる土地には、2軒のノリ屋さんの看板を目につきます。店頭売りをされている南側のノリ屋大黒屋に入って「以前あった観音橋のことについて調べているのですが、何かご存じないですか」と尋ねたのですが、「私は、よく分かりません」という返事でした。

外に出て少し北側に建っているもう一軒のノリ屋さん山城屋の建物をみると、入り口左側に定礎時の石板があります。

248271

「定礎」の文字の右側に縦書きで「浜井信三書 昭和四十二年十二月」と刻まれています。これだと思い、写真を撮ることにしましたが、山城屋さんの玄関前ですので、一応断りを入れようと思い、玄関を開け中にはい入りました。

奥の事務所に3人の姿がありましたので、声をかけました。するとそのうちのお一人が、近づいてこられ話を聞いてくださいました。

「定礎の看板の写真に撮りたいのですが」というと、「どうぞどうぞ」といいながら、一緒に外に出て来られ、次のような話をしていただきました。

「このビルは、天満川が埋めたれられた場所に建てられてものですが、もともとはノリ業界の組合の建物として建てられたものです。埋立て地は、広島市が所有しており、企業や個人の建物を建てることが出来ないため、協同組合の建物を建てることで許可を得たという風に聞いています。その時に、力を貸していただいたのが当時の浜井市長だったということで、この定礎板の文字も浜井市長に依頼したようです。その後私共の会社が譲り受けて、そのまま今も使用させていただいています。」

248272

浜井市長は、昭和42年(1967)5月に退任されていますので、話しにあったように市長時代にノリ業界がこの建物を建てることを許可されたという縁があったことになります。

話し終わると一端事務所に引き返し、写真を手に出てこられました。

248273  

「この写真は、私共のビルが写っているからといって、どなたか今は分かりませんが、その方からいただいたものです。額に入れて大切に保存しています。」

写された時期は、不明ですが、手前の観音橋と共に後方に埋立て地に建つビル群が写っています。

「観音橋の面影が残っていないかと探しています」というと「確か、欄干が残っていたはずです。」と、最初に私が訪れた場所に一緒に移動しながら、「家が舟入にありましたので、観音橋ではよく釣りをしたことを覚えています。」と当時の様子を懐かしそうに話していただきました。

現場に着くと、「あっ欄干が無いですね」といいながらコンクリートブロックを指さしながら「ここにあったのですがね。いつ撤去されてしまったのですかね」と、少し残念そうな顔。

「他に何か縁のものは無いですか」と尋ねると「確か、看板が立っていますよ」と2号線の歩道を西の方に向かって一緒に歩きながら探していただきました。約100m程先に看板がありました。

248274248275

使われている写真は、新観音橋の工事中の写真ですが、縦書きの見出しには「埋立てられてもなお残った観音橋」と書かれています。地元の人の思いがこもった見出しだなと思いました。

山城屋さんとは、お礼を言ってここでお別れをしました。

名前を伺うのを忘れてしまったのですが、山城屋さんのお陰で、いろいろ新しい事実を知ることが出来ました。感謝です。

私の観音橋をめぐる旅もようやく終わりです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月26日 (月)

観音橋の今

先日のブログで紹介した観音橋のことをもう少し詳しく知りたいと思い、広島平和記念資料館情報資料室を訪れ「天満川」の本を借りてきました。

特に気になったのは、観音橋西詰の埋め立てによって被爆した部分の橋脚、欄干がどうなったのかです。関連する何枚かの写真を見つけることが出来ました。

最初の気になったのは、昭和42年(1967)5月に新観音橋西詰から西に向かって写された下の写真です。

248261

キャプションには、次のように書かれています。

「新観音橋西詰は埋立て、近景左の埋立て地には観音橋の欄干が残る」

中央左側に立つ男性に向かって右側が国道2号線が通る新観音橋です。さらによく見ると確かに男性に向かって左側に、欄干と思われるものが、はっきりと写っています。

次の写真は、昭和41年(1966)12月に写された観音橋西詰の写真です。

248262

次のようなキャプションが書かれています。

「観音橋は車両通行禁止。歩行者・自転車用に格下げ。昭和37年に開通した新観音橋は、海田から己斐まで全通した2号線バイパス橋となる。」橋の入り口に通行止めの4本の柱が写っています。

次に続く文章が重要です。

「観音橋下流、天満川右岸を30m程埋立てる。欄干が埋立て地に残る。」

この写真では、何処までが埋立て地か分かりませんが、確かに観音橋の両方の欄干が残っているのが分かります。ちょっと不思議な気がします。

問題はその後どうなったかです。「天満川」の同じページに上の写真と並んで掲載されているのが下の写真です。

248263

平成元年(1989)3月に観音橋の通りと国道2号線が合流する地点から観音橋方面の東方向に向かって写された写真です。左側に移る横断歩道からそれが分かります。

左側の、置かれているゴミ、そしてその向こうに止められている車沿って、用を失った欄干が伸びています。

被爆した観音橋の欄干は、埋立てられた後もずっと残されていたのです。

観音橋が撤去されてしまった今、この欄干がどうなっているのか気になりますので、現地に行ってみることにしました。

248264

平成元年(1989)の写真とほぼ同じ位置から写した写真です。よく見ると電柱の左側に新観音橋の歩道を自転車で通る人の姿が小さく写っています。

残念ながら観音橋の欄干を目にすることは出来ませんでしたが、元欄干があったと思われる位置にはコンクリートブロックが並べられ、少し高くなっている歩道との間には、いろいろな植物が植えられ、きれいに手入れされていました。

右側のビルとの間は、観音橋のあった方向に向かって道路が、そのまま残っていました。

ただ、天満川河岸は、高潮対策のためでしょうか高くなっており、フェンスで入れないようになっていますので、道路は行き止まりとなっています。ですから、この向こうに観音橋があったことを想像するのは、難しい風景となっています。

当時の道路面はそのまま残っていましたので、充分に当時を偲ぶことは出来ましたが、他に何か当時を想定させるものは無いかと周辺を散策してみました。

そこで思いがけない人との出会いが、いろいろなお話を聞くことが出来ました。

その内容は、明日紹介します。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月25日 (日)

「第7次エネルギー基本計画」の議論、その後

7月25日のブログで、「第7次エネルギー基本計画」のことを書きましたが、「その後」についても書かせていただきます。

一般の新聞紙では多く報道されていませんが、エネルギー基本計画の議論が行われている経済産業省の総合資源エネルギー調査基本政策分科会(以下、「基本政策分科会」とします)の審議会は、月2回のペースで会合が開かれています。

改めて私たちがこれから行えるエネルギー基本計画への、意見の反映方法や、この度のエネルギー基本計画の問題点、争点についてお知らせしたいと思います。

経済産業省には、エネルギー政策に関する「意見箱」というのがあります。7月23日で意見箱に寄せられている意見の数は、累計80件程度とされています。

24825

これからの第7次エネルギー基本計画が決められるプロセスは、今年末までに有識者による作業を終え、その後パブリックコメント(パブコメ・公けから意見を求めること)の手続きを経て、今年度末の来年3月までに決定されることになっています。

経済産業省が仕切っている第7次エネルギー基本計画と、環境省が仕切る地球温暖化対策計画の審議は、内閣府の「GX実行会議」に統合されることになっています。最終的には「GX2040ビジョン」となる予定です。

今後、経産省と環境省のせめぎ合いとなりそうですが、経産省が強い影響力を持っていた岸田政権が退陣することになり、今後の政権の動きが気になるところです。もちろん立憲民主の党首選挙と野党共闘の在り方もです。

昨年12月にアラブ首長国連邦のドバイで開催された、COP28(温暖化防止条約締約国会議)の決定文書では、2030年に再エネ3倍、省エネ2倍を定めました。今年、イタリア南部で開催されたG7サミットの首脳宣言でも、2035年までにNDC(国別目標、2025年1月頃提出)においてG7の多くが「電源の再エネ100%」に近づくとしたのです。

世界の電源の再エネ率は既に30%で、2030年に3倍なら90%、2035年には100%達成されるとされています。日本は遅れているとは言われますが、環境エネルギー政策研究所の最新情報によれば、2023年度の再エネ比率は25.7%とされています。その内訳は、水力7.5%、太陽光11.2、風力1.0%、地熱0.3%、バイオマス5.7%です。

この度のエネルギー基本計画の議論では、原発がダメな理由をしっかりと指摘することが重要だと思います。パブコメの開始を待つのではなく、すぐに意見を寄せることが重要です。

 ・世界で最も地震が多く、火山の多い日本には原発は危険すぎ

 ・もし、戦争となれば、一番にミサイルの標的になる

 ・被ばく労働者をたくさん作る

 ・原発は何万年以上、強い放射線を出し続ける廃棄物を作る

 ・世界中どこでも廃棄物処分は出来てない。困っている。見えるところにおいて長く見張っておくしかないのが人類の現状

 ・そこまで考えると、原発の電気は非常に高い

福島原発事故の時の民主党政権下で、2012年に「革新的エネルギー・環境戦略的」とされた議論では、全国で国民・市民的熟議討論会が開催されました。広島市内でも開催されたのを覚えています。

「意見箱」「パブコメ」だけでなく、国民・市民的大討論を要求し、世界に通用するエネルギー基本計画、ビジョンを求めていかないと、ますます立ち遅れる状況になってしまいます。

大阪の市民団体「地球救出アクション97」が、「再エネ最優先の政策をつくれ! 脱原発・脱石炭火力で再エネ100を」という1部200円のパンフレットを作成されましたので、お勧めします。

申し込みは、090-7090-1857 稲岡美奈子さんへ

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月24日 (土)

在ブラジル被爆者森田隆さんの訃報とMOVIE「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」

「我々ブラジル在住の被爆者が連絡して活動を始めてから、早くも40年が過ぎていきました。当時年長では無かった私も百歳を超えました。そして、何よりも我々が願望した幾つかの成果を達成することが出来たと思います。(中略)

1984年協会を設立し、数え切れない多くの協力者に支えられ、励まされながら運動を続けてくることが出来ました。奇しも皆さまが我々の活動の支援のために会を結成されたのは、2002年3月2日、私の78歳の誕生日でした。そして当時、在外被爆者の運動も一番難しい、待ったなしの時期でした。(中略)

我々の会も、2020年 念願の現地医療機関で治療の実現を達成できました後、そして、世界でのコロナウイル感染危機の際、ブラジルの規則に基づいた正規の会としては終了しました。

その後は、元役員達の協力と尽力の元、出来る範囲内で残り少なくなった同胞達のお手伝いをしております。また、ブラジル社会の若人への平和活動は、私も命有る限り参加したと願っておりますが、現状の世界情勢を考えますと只々心が痛みます。

いつの日か、この世の戦闘の無い平和が実現出来ることを祈り、私たちの皆さまへのお礼のメッセージとさせていただきます。

2024年7月 ブラジル・サンパウロより

森田隆」

このメッセージは、現地時間8月12日午後5時55分、逝去された在ブラジル被爆者森田隆さんから、7月28日に「在ブラジル・在アメリカ被爆者を支援する会」の活動に区切りを付けようと関係者が集まり開催された懇談会に届いたメッセージです。

この懇談会で、百歳の誕生日を、そして5月4日にブラジルを訪問した岸田首相と面談し、自伝の本を手渡すと共に「核廃絶」を強く訴えた森田さんの元気な様子を話し合ったばかりでしたので、森田さんの訃報を伝える14日の中国新聞を只々驚きと悲しみで読むしかありませんでした。

248241

岸田首相との面談前の左から盆小原さん、森田さん、渡辺さん

その後、中国新聞紙面では、かつてブロジルを訪問し森田さんとずっと親交が続いていた森田裕美さんが何度か思い出の記事を書かれていますので、読まれた方も多いと思います。

この森田さんの訃報が届いた同じ時期に計画されたのが「MOVIE&TALK 岡村淳の世界」でした。

森田裕美さんの記事で「森田隆さんの活動を紹介した映像も上映される」と書かれていましたので、18日に観に行ってきました。

森田さんたち在ブラジル、在南米被爆者を紹介する映画は、1955年にテレビ放映するために製作された「私の戦後は終わらない ブラジルに渡った被爆者たち」で、30分の映像でした。

248242

この映画の主役の森田隆さんと制作者の岡本淳さんは、町内のお付き合いという関係にあったそうですので、30分の短い映像でしたが、ずいぶんと掘り下げた内容の作品でした。

そして何よりも、私たちが出合う前、苦悩しながら懸命に在ブラジル、在南米の被爆者のために奔走されている森田隆さんの姿を見ることのでき、見に来てよかったと思う映画鑑賞でした。

岡本さんの話の中で、被爆者森田さんとの出会いを書いた本「忘れられない日本人移民」が紹介されましたので、帰宅後すぐにAmazonで購入しました。

その本には、私の知らない森田さんの姿が紹介されていましたので、懐かしく読み進みました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月23日 (金)

2024年8月のブルーベリー農園その2

お盆に少し休んで、東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に通っている。お盆明けから農園でのブルーベリーの摘み取りは、安芸の郷の事業所、西条町と福富町の障害者の、ボランティアグループ、農園の友人知人の援農を受けて暑い中ブルーベリーの摘み取りが続いている。収穫の季節も半分がすんだのでブルーベリーの実もほぼ半分になったが、まだ硬くて甘くておいしい実に育っている。

8月17日(土) 晴天続きでブルーベリー農園は青い空と白い雲が広がる

248231

農園の庭の扇風機にとまるオニヤンマ(名前知らず)

248232

818日(日) 安芸の郷のボランティアグループ、友人知人で3つあるブルーベリー畑にそれぞれ分散していただき摘み取りを行う

248233

819日(月) ブルーベリー畑の中にフウロソウが咲きだした

248234

ブルーベリーの摘み取りと平行して実がなり重さで垂れ下がった枝をイボダケを立て、麻の紐で引っ張りまっすぐに立てて摘み取りやすく整備する作業を続ける

248235

枝を立ててやるとまだ赤いブルーベリーの実がずらりと姿をあらわす

248236

821日(水) 安芸の郷の事業所の就労継続支援B型あきのブルーベリー摘み取り研修が7月下旬から週3日の予定で行われている

248237

摘み取った実を車に積んで事業所に持ち帰り選別して加工用、生食販売に仕分けられる。援農の皆さんが摘み取った実も事業所に納品される

248238

ブルーベリー畑の木と木の間にダイコンが出ている。昨秋緑肥用でまいた種が育ち、枯れて種をつけ土に落ち芽をだした今夏生まれのものらしい

248239

里山の道の上にイガグリがたくさん落ちている。未熟果なので実は入っていない

2482310

農園には八本松町から高屋町造賀地区を通って行き返りしている。帰り道の造賀地区の稲田の景色

2482311

2024823

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月22日 (木)

府中地区の8月の「19日行動」

8月の安保法制反対する府中市民の会の19日行動は、今月もいつものように19日の午後3時30分から上下Aコープ前、参加者7人、午後5時から府中天満屋店前、参加者10人で実施しました。

2024191

上下Aコープ前

リレートークでは、

Aさん「長崎市の慰霊の日にアメリカのエマニュエル駐日米大使が、『イスラエルを招待しないのはロシアと同列に扱っている。ロシアのウクライナ攻撃は侵略だ。イスラエルのガザ地区攻撃は自衛のためだ。』と言って、イギリス、ドイツ、カナダ、イタリアなどG7の駐日大使やEC代表も同調して参加しませんでした。イスラエルの攻撃は自衛とは名ばかりで虐殺です。長崎市長の判断を支持します。」

Bさん「岸田首相が退陣を宣言し、テレビは連日、自民党総裁選の話ばかりでお祭り騒ぎです。沖縄の人たちが行っている。『米兵の少女暴行事件、憲法改正より日米地位協定の改定を!』『憲法9条を改悪して自衛隊を明記しようとしている』ことなど一番大事なことがおざなりになっています。」

Cさん「奄美大島の自衛隊の基地を視察してきましたが肝心なところは見せません。奄美群島は国立公園で、動植物の多様性が認められ2021年には世界自然遺産と認定されています。自衛隊の基地がこの貴重な自然を壊すことにもなっています。ミサイル基地より自然をいかした観光の島を守るべきです。」

2024192

府中天満屋店前

Dさん「17日、土曜日の中国新聞に来年、2025年度の防衛費を8兆円にすると載っていました。防衛費は3年前の2022年度は5兆4千億円、昨年の2023年度は6兆8千億円、今年の2024年度は7兆9千億円と毎年1兆5千億円ぐらい増えています。一方、若者は奨学金か返済できず自己破産や、はては2022年度は10人の若者が自殺しています。アメリカでは学生ローン帳消し運動が起こって昨年8月にバイデン大統領は低所得者の家庭の人に学生ローン免除を決定しています。日本も大学無償化が今年度から行われていますが、その条件は住民税が非課税世帯ですが非課税とはほとんど収入がない世帯のことです。また子どもが3人以上の世帯の条件も一番上の子が卒業すると子ども2人の世帯となり該当しなくなります。これでは今までと変わりません。親の収入で大学へ進学できない社会をつくってはいけません。朝の連続ドラマ「虎に翼」で言っていました。教育をうけることは国民の権利なんですから。国は責任を果たし大学の授業料を無償化すべきです。戦争法と言われています安保法制は軍事費を増やして若者の教育を受ける権利を奪っています。しかしアメリカの学生ローン帳消し運動のようにおかしいと思う人が声をあげ、たたかわなければ世の中は変わりません。大学の授業料無償化を阻止している安保法制の廃止に向けて私たちと一緒に声をあげましょう。」

と訴えました。

終了後、参加者からは「来月の9月19日は9年目に入るのかぁ?ようがんばっとるよなぁ。廃案に向けてがんばろう」という声が出ていました。

小川敏男

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月21日 (水)

三原地区の8月の「19日行動」

猛暑日が続く8月、久々に雨が降る8月19日(月)、17時30分から定例の「19日行動」を行いました。

8191

敗戦・被爆79年目の夏、今年も原爆・戦争の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や核廃絶を求める様々な行動が開催され、「二度と戦争をさせない、起こさないこと」を誓い合いました。世界では、今も武力を用いた紛争や戦争が後を絶えません。平和な社会の中で生きている私たちには、戦争惨禍を二度と繰り返さぬよう、未来を担う世代につなげていく責務があります。そうした気持ちを持って15人が三原駅前に立ち、5人のスピーカーが意見を述べました。

8192

弁士の政平さんは、▲8月15日は戦争が終わった日です。なぜ記念日にするのでしょうか。そんな記念日はいりません。はっきりと「敗戦の日」とすればいいんです。日本が侵略戦争を仕掛けて連合国側から反撃を受けて敗戦をしました。しかも、その敗戦には多くの人々の命や財産や自然が破壊され、敗戦をしました。▲1938年に政府の指示・命令で物や戦争へ加担するすべての行為を行うことを義務付けた「国家総動員法」という法律が出されました。憲法というのは国民を守るものです。しかし、明治憲法は次から次へと政府の都合のいい法律を作って国民の命を縛り、財産を供出させる憲法でした。敗戦後、日本国憲法が新たに制定されました。すべて国民は個人として尊重されます。天皇の指示・命令によって尊重されるわけではありません。私たちはこのことをしっかり見ておかなければなりません。▲今、国会で議論されている「緊急事態宣言」ができるようにしようとするのが自民党の改憲案です。国家総動員法に瓜二つ、国民を縛る、国民の権利を奪い去る。そういう憲法にしようとするのが自民党の長年の悲願です。私たち国民はすべて個人として尊重されます。一人ひとりが個人であります。その命と権利を守るためにこれからも街頭に立って訴えます。みなさんもこの訴えに呼応して、戦争をさせない三原市民、戦争させない日本国民になろうではありませんか。これから私たちはしつこく頑張ってまいります。とスピーチを行いました。 

街宣の終わりに、戦争をさせない三原市民行動では9月13日、金曜日、午後6時30分から中央公民館において、今、呉市で起きている大きな問題、日本製鉄呉跡地を防衛拠点にしようとする問題について、「ピースリンク広島・呉・岩国」の西岡由紀夫さんを招いて学習講演会を開催することの案内を行って街頭行動を終了しました。

藤本講治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月20日 (火)

ヒロシマとベトナム(その60) ~南シナ海をめぐる動向-4~

エスカレートする中国とフィリピンの対立

この一年あまり、南シナ海のセカンド・トーマス礁で領有権を争う中国とフィリピンの対立がエスカレートしています。セカンド・トーマス礁は英名でフィリピン名(タガログ語)はアユンギン礁、中国名は仁愛礁、ベトナム名はバイコメイ礁と、各国が領有権を主張しています。

フィリピンは1999年にこの海域にアメリカから委譲された軍艦「シャラ・マドレ」を意図的に座礁させ、兵士を駐留し実効支配を始めました。2015年には腐食が進み倒壊の恐れがあった軍艦をコンクリートで補強しました。その拠点化した軍艦に交代要員や食料などの物資を定期的に輸送するフィリピン軍に対し、中国海警局艦船が妨害を繰り返し、次第にエスカレートしているのです。

前にも紹介しましたが、この海域は世界の漁獲量の12%を占める水産物の宝庫であり、天然資源にも恵まれ、戦略的に重要な海上交通路(シーレーン)です。

248201-002

座礁させたシャラ・マドレ号、2014年8月撮影

出典:ロイター通信、2023年8月19日

下の地図をご覧ください。台湾とフィリピンの間のバジー海峡から南シナ海に入ったシーレーンは、中国が実効支配するスカボロー礁(中国名:民主礁、フィリピン名:バホ・デ・マシンロック礁)の西側を経て、フィリピンが実効支配し中国と衝突を繰り返しているセカンド・トーマス礁の西海域を通り、マラッカ海峡を抜けインド洋や太平洋へ入ります。

この海域は世界の3分の一の貨物が行き交う海上輸送の生命線です。また、中国のインド太平洋への進出を阻止したいアメリカとその同盟国にとっての軍事的な生命線でもあります。

その意味で、中国とフィリピンの対立は単なる二国間の問題ではなく、アメリカ、日本、フィリピン、オーストラリアなど軍事同盟国および準軍事同盟国と中国の対立と言えます。

6カ国が領有権を争う南シナ海でも最もホットな海域、セカンド・トーマス礁をめぐる動向は大きな火種になる危険性があります。

24820-002

とりあえず対話と協議で危機回避

中国海警局艦船によるフィリピン艦艇などへのレザー光線照射や放水銃の発射、艦船の衝突が相次ぐ中で、6月末、マルコス比大統領は「(フィリピン側に死者が出た場合)ほぼ間違いなくレッドラインだ」と、米軍とともに何らかの軍事的な対応をとる可能性を示唆し、強く中国を牽制しました。

その半月後の7月17日、フィリピン軍のボートに中国海警局艦艇が衝突、強引に乗り込み臨検した際、フィリピン兵士がナイフで親指を切断されるという、これまでに無い深刻な事態が発生しました。

首都マニラ市でのデモや中国が実効支配するスカボロー礁(中国名:民主礁、フィリピン名:バホ・デ・マシンロック礁)に近いルソン島西部の港で大規模な反中国の海上デモが起こるなど反中国世論が高まり、さらなる衝突のエスカレーションを心配しました。

しかし、7月22日にフィリピン外務省が「両国は南シナ海における状況を沈静化させるとともに、対話と協議を通じて相違を克服し、同海域を巡る相手側の立場を損なわないことで合意する必要性を認識し続ける」と発表し、中国外務省も「(座礁させた軍艦への)人道的な生活物資の輸送に関する暫定的な取り決めに合意した」と発表し、とりあえず、これ以上の緊張を避ける方途が摸索されていることに“ホット”としました。

しかし、この南シナ海にとどまらず世界情勢は決して、協調と対話による平和で豊かな共生社会へと向かっているとは言えません。偏狭なナショナリズムや自国ファーストが幅をきかせ、武力を背景にした脅しと実際が支配しようとしています。

次回(9月5日)はアメリカ、日本、フィリピン、オーストラリアで進む軍事的連携の強化について見てゆきたいと思います。約束していたフィリピンが提訴した南シナ海仲裁裁判については次々回(10月5日)に報告します。

(2024年8月20日、あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月19日 (月)

この橋の名前は?―つづき

次は、二つ目の疑問「写真に写った橋は、いつ作られいつ撤去されたのか」の解明です。

最初に問い合わせたのは、国土交通省の広島国道事務所です。電話で問い合わせた結果、「平成18年(2006年)に撤去された」ことが分かりました。

国道2号線にかかる新観音橋が完成した時(昭和37年・1962)、撤去されたのかと思っていましたが、ずいぶん後まで残っていたようです。ところがこの時、いつ修復されたのを聞き忘れましたので、調べることにしました。

この疑問を調べるため、伊藤さんの写真をプリントアウトし、わが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪ねました。

「この橋、観音橋についてもう少し詳しく知りたいのですが、何か資料はないですか」とお願いすると、書棚から2冊の本を持ち出してくれました。

そのうちの1冊は、19891月に広島市企画調査局文化課が編集し広島都市生活研究会が発行した「河岸の戦後史5 天満川」が、いろいろな情報を得ることが出来ました。

戦後修復された観音橋について次のように書かれています。

「昭和26年(1951)の全面修復では、西側約50m残っていた被爆橋に継ぎ足した。その後被爆部分は埋め立てられて、2本の橋脚が消えた。埋め立て地は河岸緑地にすべきであったが、河岸には高いビルが建ち並んだ。」

この文章で、修復時期が昭和26年(1951)だったことが分かりました。これで私の疑問は、解決したのですが、新しい事実が見つかりました。

やはり、昨日のブログで少し触れましたが、昭和20年(1945)10月の洪水では、全部流失したのではなく、「西詰(昨日のブログでは間違って『東詰』としていた)に約50mの橋脚が残っていた」ことです。

改めて、伊藤さんの写真を見ると、それらしき橋脚を見ることができます。

248181141

 右端の方に立っている照明灯のようなものから右側の部分が被爆橋脚です。

「河岸の戦後史5 天満川」に掲載された写真でさらに貴重な事実を知りました。

昭和42年(1967)5月に写された写真で、「西側は橋脚2本分埋め立てられて橋が短くなっている」と説明文がついています。

248192

次の一枚には、昭和47年(1972)8月に写されたもので、「埋め立て地は河岸公園にならず、ビルが林立する」と説明文が付いています。

248193  

この写真で注目すべきは、橋脚の上に伊藤さんの写真にも写っている照明灯?と同じものが写っています。

さらによく見ると、その橋脚を挟んだ右側と左側の橋の下の構造が違っているのが分かります。左側(新設されて部分)は、路面の下にコンクリートの板上のものが付けられていることです。観音橋全体が見える伊藤さんの写真でも、照明灯から東側は同じような構造になっています。

こうして比べてみると、右側が、昭和20年(1945)10月の洪水で残った被爆橋脚の一部ということになります。

ところで、最初に「河岸の戦後史5 天満川」の「観音橋」の説明読み込んだ時には、かってに分かったつもりになっていたのですが、「残された部分が50m」という記述に納得がいでした。しかし、15年ぐらい後に埋め立て工事が行なわれたため、伊藤さんの写真のように短くなったことが分かり、ようやく納得できました。

現在の天満川のこの位置の川幅は、約85mしかありませんので、余計に50mという数字が、あり得ない数字のように思えたのです。しかしよく読むと、その後に「初めの長さ126m、巾5.5m」だったことが記述されています。当時より約40mも川幅が狭くなっていますので、残された被爆橋脚部分が、短くなっているのも理解できます。

「河岸の戦後史5 天満川」には、次のように書かれていることを紹介し、今日のブログを終わります。

「観音橋は、国道2号線となり路線バスが通り、トラックも大型化して、観音橋は大動脈渋滞のネックになる。昭和37年6月、上流に新観音橋が開通して、国道2号線も移った。残された観音橋は、歩行者・自転車用になった。洪水のたびに橋脚は沈み、路面はウェーブして、災害に痛めつけられた跡を残す橋」

この痛み付けられた跡が、原爆の被害によるものと誤解される要因になっていたのでしょう。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月18日 (日)

この橋の名前は?

7月初めに「在朝被爆者と平壌の人びと」の写真展を行なった伊藤孝司さんから、先月の終わりに写真を添付した次のようなメールが、届きました。

「広島から戻り、復刊『原爆棄民』の作業に取り組んでいます。来年6月刊行予定です。

お願いがあります。その作業の中で、被爆で歪んだ橋として本に収録しているにもかかわらず、名称が分からない橋があります。

広島市の『被爆橋梁リスト』やWikipediaなどを見ても分かりませんでした。この写真の橋をご存知ないでしょうか。撮影したのは19838月です。

無理をしない範囲で分かるようでしたらお教えください。よろしくお願い致します。」

添付された写真です。「原爆棄民」の141ページに掲載されている写真です。

24818141

原水禁大会が終わり、少し落ち着いた14日に調査を始めました。私も、すぐには分かりませんので、誰かに聞くしか無いと思い、最初の思い浮かんだのは、広島平和記念資料館です。知り合いの学芸員にメールで問い合わせることにしました。

メールを送った後、自分でもなんとか調べることは出来ないかとこの写真に何か手がかりになるような情報は無いのかと改めて写真を見直しました。

小さな写真で、はっきりとは確認できないのですが、橋の向こうの建物の屋上に看板のようなものが写っています。拡大すると、看板には、「森原金物店」という文字を読み取ることが出来ます。

1983年に写された写真ですので、「今もこの場所に森原金物店があるのでは?」と思い、ネットで「森原金物店」を検索してみました。「有限会社森原金物店」がヒットし、住所は、「広島市中区舟入本町11-20」となっています。

現在地を地図検索しても、間違いありません。写真に写っている「森原金物店」です。

この位置が確定されましたので、橋の架かっている川は、天満川だということが分かりました。

すぐに改めて、この情報と共に「観音橋ではないでしょうか?」と広島平和記念資料館の学芸員に送りました。

すると間もなく学芸員からの返信が届きました。

「お問い合わせいただいた写真について、右端には切れていますが、舟入病院も写っています。観音橋で良いと思います。」

私は気づかなかったのですが、右端に写っている建物は、舟入病院だったのです。さすがです。

これで、伊藤さんの問い合わせの橋が「観音橋」であることが、はっきりしました。西詰めから東側に向かって写された写真です。

しかし、橋の名前は確定したのですが、いくつか疑問がわきます。

一つは、伊藤さんも指摘されているように「被爆で歪んだ橋」のように見えるのに、「なぜ被爆橋梁リスト」にないのかです。

もう一つは、「観音橋」は現存していませんが、写真に写った橋は、いつ作られいつ撤去されたのかです。

最初の疑問「被爆橋梁ではない」ことの証明です。手がかりは、広島平和記念資料館が、1996年に発刊した「被爆50周年 未来への記録 ヒロシマの被爆建物は語る」の「10 吉島・舟入・観音地区」の217ページに「住吉橋」など他の被爆橋梁と共に掲載された「観音橋」の写真です。

248182

この写真は、東詰から西に向かって写したものですので、伊藤さんの写真とは反対方向からの写真ですが、キャプションには、次のように書かれています。「9月の枕崎台風で半分落橋し、10月の洪水で完全に流出した。(1945年11月頃)」

被爆した観音橋は、その年の10月には、流出して橋桁はなくなったのです。そうすると伊藤さんが写した観音橋は、戦後に新しく架橋されたものということになりますので、被爆橋梁リストには、掲載されていないのです。

伊藤さんは、当時、誰かに「橋の歪み具合」から、被爆した橋梁と説明を受け、本に被爆橋梁として掲載されたと思われます。

ただ、この写真をよく見ると、キャプションには、「11月の洪水で完全に流出」と書かれていますが、東詰めに残った橋脚の向こうに少しだけ橋桁のようなものが残っているように見えます。

この部分がどうなったのか気になりますが、もう一つの疑問(いつ作られいつ撤去されたのか)を調べる中で、判明しましたので、次回報告します。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月17日 (土)

高校生が描いたヒロシマ「原爆の絵画展」

毎年、この時期に開催される「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ『原爆の絵画展』」が、10日から28日までの会期で、今年も広島国際会議場地下2階サクラで開催されています。昨日、今年も行ってきました。

248171  

広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、2007年から、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者と共に取り組んできた「原爆の絵」は、これまでに207点の絵が描かれています。

今回は、そのうちの57枚が展示されています。ずっと会場を回って、不思議に思ったことが一つあります。上のチラシには、「今年7月に完成した16点」と書かれているのですが、会場で「新作(今年完成)」とキャプションが付けられた作品は、19点ありました。会場には、関係者の姿がありませんでしたので、残念ながらその疑問を問うことは出来ませんでした。

248172

いずれにしても力作が並んでいます。私が注目したのは、3点の新作です。

うち二つは、「黒い雨」が題材となっています。並べて展示されています。

2021年の黒い雨裁判の影響でしょうか、今年初めて取上げられた素材のように思います。

額のガラスに上の照明が反射しますので、少し上から写しました。

右側は、己斐の防空壕から見えた中心部に降る黒い雨を描いています。

左側は、「突然降り始めた『黒い雨』にはしゃぐ子どもたちーそれが放射能物質を含んだ危険な雨とは知らずー」のタイトルがついた、爆心地から北西19キロ離れた安佐郡小河内村(現 広島市安佐北区小河内地区)に降った黒い雨を描いています。

248173  

もう一枚は、「逃げるときに見た頭のない赤ちゃん」とタイトルが付けられた田邊美羽さんの作品です。

248174

 当時女学校1年、12歳だった証言者大橋和子さんが、学徒動員の建物疎開作業中に被爆した後、爆心地から1.5kmの平塚町を逃げる際に目撃した「瓦礫の中、前を歩いている女の人は頭の無い子どもをおんぶして他の人たちと列をつくり歩いていた」親子を描いた作品です。

この親子の姿が忘れられない大橋さんの証言もすごいと思いますが、「おんぶされた頭のない子ども」の姿を描いた田邊さんの思いはどんなことを感じながらの作品製作だったろうかと思わずには見ることができませんでした。

絵の下に付けられた説明文の生徒のコメントには、次のように書かれています。

「最初、大橋さんの話を伺った際に、原爆の爆風で子供の頭が吹き飛んでいて首から上がなくなかったという状況に驚きました。爆風で数十メートル人が飛ばされたり、ガラスが割れたりしたことは知っていたけれど、まさか骨と筋肉と皮で繋がっている首ですら切り飛ばしてしまうほどの爆風の威力を知り、恐ろしく感じました。製作にあたって、火傷や皮膚の垂れ下がり具合、そして子供の骨を描くことが難しかったです。この絵を見て、原爆の恐ろしさ、子供の命を一瞬にして奪う残酷さを感じて欲しいです。」

大橋さんのコメントです。

「逃げる途中の一番心に残っている残酷な惨状は、79年経った今でも決して忘れることはありません。田邊さんには最初に直接お会いした後、LINEのやりとりで、ここまで再現して下さり、驚きました。言葉で表せないほど、心より感謝しています。」

改めて、高校生が描いたヒロシマ原爆の絵が持つ力を実感しながら会場を後にしました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月16日 (金)

国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」

ここ数年8月15日は、広島文学資料保存の会・広島花幻忌の会・四國五郎の会が主催する集会に参加してきました。この集いは、2002年の8月15日に原爆ドーム前の原民喜詩碑の前で「原爆・反戦詩を朗読する市民の集い」として開催され他たのが最初で、今年で23回目です。

今年も、午後1時半から合人社ウェディひとまちプラザで開催された「第45回サントリー地域文化賞記念 国際シンポジウムー原爆文学の今を考える」に参加しました。

オープニングは、金秀光さんのアコーディオン「アリラン」の追悼演奏。その後全員で黙祷詩、集いは始まりました。

プログラムは、1部、2部構成です。

1部は、例年のように詩の朗読です。大田洋子、原民喜、栗原貞子、四國五郎、峠三吉の作品が、大田洋子ゆかりの進徳女子高校生4人、元NHKサナウンサーの杉浦圭子さん、有志の皆さんによって、朗読されました。

248161

2部は、広島文学資料保全の会代表の土屋時子さんの司会で、4人のパネリストによる国際シンポジウム「原爆文学の今を考える」です。

土屋さんは、なぜ「原爆文学の今を考えるシンポか」を次のように話しました。

「サントリー地域文化賞は、『広島の作家の文学資料を調査・収集し、広島の文学の価値を高め、散逸の危機にあった資料を文化的遺産として守り、その意義を国内外に伝える継続的な取り組み』が評価されて受賞しました。このシンポジウムでは、『広島の文学、とりわけ原爆文学の力を検証して、広く発信し未来へと繋いでいくためにどんな取り組みが必要か』を論議していきます。」

248162

パネラーは次の4人です。

大田洋子と晩年同居し、大田洋子の評伝『草饐』の著者でノンフィクション作家江刺昭子さんは「今こそ太田文学の拡散を」と訴えられました。

「チンチン電車と女学生」「原爆供養塔」「暁の宇品」などの著者でノンフィクション作家の堀川惠子さんは「空白の10年といわれた時期、言葉の力を信じて闘った文学者がいた。彼らは命をかけて『ヒロシマに向き合った』。今、文学の力を再考しなければならない」と訴えました。

3人目の、岩波新書「原民喜 死と愛と孤独の肖像」の著者で、ノンフィクション作家の梯久美子さんは「ウクライナ、そしてパレスチナと虐殺の悪夢に世界が震撼する今こそ、文学に何が出来るか、原爆文学の意味と価値は何処にあるのかを問い直すべときだ」と指摘。

最後にアメリカのアン・シェリフさん。アン・シェリフさんは、1995年にアメリカで発表され、2010年に日本で翻訳された「グランド・ゼロを書く、日本文学と原爆」を紹介しながら、アメリカで原爆文学がどう考えられているかを紹介しました。

それぞれの発言のあと、相互の意見交換で梯さんが次のように述べられてことが印象的でした。「被爆者がいなくなる時代と言われているが、文学を経由すればヒロシマに近づけるのではないか」

これだけのメンバーが揃うシンポジウムは、貴重な機会でしたが、私の能力では、ここまでしか紹介できません。

広島文学資料保全の会が、近いうちにホームページ広島文学資料保全の会 - 広島文学資料保全の会 (jimdofree.com)にYouTubeで紹介されるようですので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月15日 (木)

2024年8月のブルーベリー農園その1

いくら暑くてもブルーベリーの実は青く実り、水をやらなくても干上がらずに葉も茂り続けている農園のある場所の地形が山裾ゆえの保水力のお陰かもしれない。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に通いでブルーベリー栽培を続けている。今は実の収穫にかかりっきりで、暑さにも関わらず農福連携の障害者の事業所、友人知人の皆さんの来園を頂いている。摘み取りも前半がすんで、後半に差し掛かっているがいい天気(酷暑)続きらしいので、雨が欲しいと願いながら農園に通う日々。

84日(日) 摘み取りの援農のグループの皆さんを見送った後すぐの午後3時前の夕立は10分ばかりで上がり、

248151

からりと晴れた空となった。この日以来雨は降らない。水分を吸収してブルーベリーの実も大きくなってほしいのだが・・・

248152

86日(火) 知人の娘さんの子どもとママ友家族が来園。子どもたちも一人一人籠を首に下げて援農と体験の30分。ブルーベリーを食べながら「やばい」と言った子どもたちの声が農園に広がる

248153

88日(木) 今年も昨年に引き続き西条農業高校2年生のインターンシップが5日から8日までの4日間の日程で農園が受け入れた。今年は2人の女性で、ブルーベリーの摘み取りをし、最終日の午後から里山の防鳥ネットの撤収を協働

248154

ネットを外した後は麻の紐で結んで畳んで倉庫に搬入するまでを体験。このあともう少しとブルーベリーの摘み取りを行う。やっぱり元気と好奇心がいっぱい

248155

今シーズンの熱中症対策を紹介

①援農者によるブルーベリーの摘み取りで行っている熱中症対策では、名刺サイズ大の保冷剤を手拭いにくるんで首に巻く方法で、休憩のたびに保冷剤を交換する

248156

②使った後は乾燥させて冷凍庫に入れて再利用する。保冷剤は100均のダイソー製で6枚つづりを半分にして使ってもらっている。冷たくて気持ちよく摘み取りができるなどの感想が寄せられている

248157

すっかり葉の茂ったブルーベリー畑の摘み取り。ブルーベリーの収穫は季節の後半に差し掛かった。量的には昨年の半分のでき。原因は木の更新をするための強剪定だろう

248158

813日(火) 農園の周囲のはそろそろ秋の気配が漂う

①ネコジャラシ

248159

②稲田。もう稲穂が頭を垂れている

2481510

③房状のブルーベリーの実のある枝。赤、青の色合いで赤はまだ早いと言っているし、青はもう摘んでもいいと言っている。全部摘み取られるは9月上旬か

2481511

2024815

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月14日 (水)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会主催者あいさつーつづき

昨日のつづきです。


私は、6月20日に中国を訪問し、中国人民平和軍縮協会の安秘書長と会談をしました。その会談で、中国の「核兵器の先制不使用」宣言をさらに継続することを求め、合意しました。

核兵器保有国が、「核兵器禁止条約」に背を向けている今、

核攻撃をされない限り核兵器を使わないと約束する核兵器先制不使用宣言は、核兵器の使用、威嚇による脅威を低下させ、核軍縮を前進させることの出来る具体的な約束の一つです。

すべての核保有国が、核兵器の先制不使用宣言することを強く求めます。

中国代表団は、長崎大会に参加することになっていますので、長崎大会で論議を深めたいと思います。

私たちが、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を明確にしたのは、1975年の被爆30周年原水禁世界大会です。

「核と人類は共存できない」

この言葉は、福島第一原発事故以降多くの人が口にするようになりました。

そのこと自体を否定するものではありませんが、「核と人類は共存できない」という言葉には、もっと深い意味が込められています。

先に述べた「核兵器禁止条約」の前文には、核兵器の使用によるヒバクシャと核実験被害者の苦痛に留意すると明記され、第6条、7条には、被害者の救済が盛り込まれました。

核被害者を救済する初めての国際条約です。

しかし、この条約で救済の対象とされているのは、核実験被害者に限定されています。

「核と人類は共存できない」という基本理念を提起された森滝市郎先生は、その理念を確立する最後の一押しとなったことを次のように述べておられます。

「一番忘れられないことは、オーストラリアの先住民アボリジニの娘さんの鋭い訴えであった。『ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにして、ウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである』」

核実験被害者が救済されるのは当然のことです。

しかし、力の象徴と言える核社会では、核実験被害者だけが核被害者ではありません。

核社会は、ウラン採掘からはじまるすべての段階で、常に弱い立場の人たちを犠牲にし、多くの核被害者を生み出しています。

「核と人類は共存できない」という理念には、すべての核被害者を救済し、再びヒバクシャを作らないという強い思いが、込められています。

私たちは、この大会にアメリカ・ニューメキシコ州の先住民ナバホの、

ウラン採掘による核被害者を招待しました。

ウラン採掘からはじまる核社会の中でヒバクシャとなった人たちの被害の実相と向き合い、「核と人類は共存できない」に込められた理念を共有して欲しいと思います。

すでに27日の福島大会で論議されていますが、最後に原発問題に触れたいと思います。

13年前の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故は、多くの被曝者をつくり、今なお故郷に帰ることの出来ない人々を作りました。

私は、今年5月福島を訪れ、現地視察を行ないました。福島原発事故は終わっていません。

しかし、政府は、被害者を切り捨て、再び安全神話を強調し、原発に依存する社会づくりを強行しています。

原発事故被害者を救済するのは、政府と電力会社の責務です。

原発に絶対の安全はありません。

再び原発事故被害者を作らせないためは、脱原発の道しかないのです。さらなる脱原発運動の強化が求められています。

それは私たちの責務です。

大変厳しい暑さの中での広島大会となりましたが、体調に充分留意して。大会成功のため、皆さんのご協力をお願いし、主催者を代表してのあいさつと致します。

ありがとうございました。


24814

私があいさつで触れたように、長崎大会開会総会に参加し海外代表としてあいさつした中国人民平和軍縮協会安秘書長は、中国が進める「核先制不使用」政策について、7月に行なわれたNPT再検討会議第2回準備会議で「核先制不使用」についての決議を提出したことなど詳しく紹介してくれました。あいさつは、【被爆79周年原水爆禁止世界大会・長崎大会】開会行事 (youtube.com)の23分11秒くらいから視聴することが出来ます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月13日 (火)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会主催者あいさつ

今年の原水禁大会広島大会開会総会でも主催者あいさつを行ないました。

私の主催者あいさつは、【被爆79周年原水爆禁止世界大会・広島大会】 開会総会 (youtube.com)の2分48秒から視聴出来ますが、そのあいさつを今日、明日の2回にわけて掲載します。

24813


被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会の開会にあたり、主催者を代表してごあいさつを申し上げます。

大変お忙しい中、ご来賓として出席をいただきました広島市村上慎一郎市民局長に大会参加者を代表してお礼申し上げます。

また連日厳しい暑さが続く中、遠く海外からそして全国各地から参加いただいた皆さん大変ご苦労様です。

今核をめぐる状況は、核兵器保有国の政治家たちが、核兵器の使用や威嚇を公言し、かつてない核兵器の使用が危惧される厳しい情勢です。

この危機を作り出しているのは、ロシアのウクライナへの軍事侵攻であり、

イスラエルによるガザへの非人道的なゼノサイドとも言える軍事攻撃に他なりません。

私が、広島の被爆者から学んだことは、「ヒロシマの心」ということです。

「ヒロシマの心」とは、核兵器に反対するだけでなく、いのちの尊厳を奪い、核兵器使用につながる戦争を許さないということです。

核兵器使用の危惧を取り除く道は、すべての軍事行動を停止させることです。

さらに強調したいことは、この軍事行動によって多くの子どもたちのいのちが奪われていることです。

本大会のスローガンは、「核も戦争もない平和な21世紀に」です。

この軍事行動に強く抗議するとともに、戦闘行動を中止し、直ちに戦争終結のための協議を開始することを求めます。

ジュネーブでNPT再検討会議第2回準備委員会が開催されている最中の7月28日に、

日本政府は、アメリカ政府との間で、「拡大抑止」と称して、軍事同盟の強化を謳い、さらに核抑止力を強化するという合意文書を交わしました。

岸田首相は、「核兵器のない世界は、私のライフワークだ」と繰り返し述べていますが、今回の日米合意は、岸田首相の言葉がいかに欺瞞で矛盾したものかを明らかにしました。

これは、「他の誰にもこんなおもいをさせてはならない」と思い出したくない被爆体験を証言し、核兵器の廃絶を訴え続けてきた被爆者の思いを踏みにじるものです。

核抑止によって、核の脅威から逃れることは出来ません。

核抑止をいうかぎり、核兵器なき世界の実現などあり得ません。

日本政府は、核兵器禁止条約を批准しない理由として「核兵器保有国と非保有国との橋渡しの役割を担う」と説明しますが、抑止力という核兵器の役割を肯定する国が、橋渡しの役割を果たすことは出来るはずはないのです。

現在、核兵器禁止条約の署名国は93カ国、批准国は70カ国です。

戦争被爆国である日本政府がやるべきことは、核抑止を強化することではなく、一日も早く核兵器禁止条約を署名批准することです。

1955年8月に、ここ広島で開催された第1回原水爆禁止世界大会に参加した人々は、初めて被爆者の訴えを聞き、被爆者の救済を約束するとともに、「原水爆が禁止されてこそ真に被爆者を救うことができます」と誓いました。

核兵器廃絶は、被爆者に対する原水禁運動の約束です。

厚生労働省は、この一年間で8、974人の被爆者健康手帳所持者が亡くなり、手帳所持者は、今年3月末時点で10万6825人となり、平均年齢も85.58歳になったことを公表しました。

被爆者に残された時間はわずかです。

被爆80周年の節目となる来年に向け、日本政府に「核兵器禁止条約」に署名批准させるための運動を強化することを呼びかけます。(つづく)


いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月12日 (月)

いま沖縄で起こっていること

昨日午後2時から、広島市まちづくり市民交流プラザ5階の研修室で「広島と沖縄をむすぶドゥシグヮー」主催の「高里鈴代さんが語る いま沖縄で起こっていること」と題した講演会が開催されました。

昨晩、いつもブログの間違いを指摘していただく貴田さんからのメールでこの講演会のことを知り、8・6が過ぎるとちょっと一休みという気分になりますが、沖縄問題のいまを知りたくて参加しました。

ところで、何度も広島と沖縄をむすぶドゥシグヮーが主催する集会に参加してきましたが、「ドゥシグヮー」は沖縄の言葉で「「志を共にする友だち」ということを今回初めて知りました。

高里鈴代さんは、1995年に結成された「基地・軍隊を許さない行動する女の会」の共同代表として、具体的な行動を続けながら活躍されています。

248121  

高里さんの講演のサブタイトルは、「辺野古基地建設、自衛隊基地強化」となっていましたが、講演は、ちょうど20年前の2004年8月13日に起きた「沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故」からはじまりました。

当時日本側が事故現場に近づくことも出来なかった様子が語られました。校舎の壁に焼け跡が残る沖縄国際大学にすぐ横を平和行進で通ったことを思い出しながら聞きました。

もう一つの節目は、2014年7月7日から始まった辺野古基地建設反対の座りこみがちょうど10年になることです。

この講演会のチラシに10周年を迎えた今年7月7日の座りこみの時の看板が写った写真がありましたので、主催者の了解を得て掲載します。

248122

「座りこみ抗議 勝つまで諦めない 不屈 2014年7月7日から 3653日」

毎日の座りこみですから、暑い日、雨の日もあります。核実験抗議の座りこみと重ねながら頭が下がる思いで、この写真を見ました。高里さんの話しによれば、曜日ごとに責任組織を決めて座りこみが続けられているようです。ちなみに高里さんの「基地・軍隊を許さない行動する女の会」は、水曜日が担当だそうです。

高里さんは言います。「座りこみの抵抗があったからこそ、さまざまな問題が惹起されたのです」

本当にそうです。こう言えるのは、行動し続けているからこそ、言える言葉です。「沖縄も運動がうまくいっていないのでは」という声もありますが、こうした粘り強い行動にこそ目を向け、学ぶことが必要だと思います。

「継続は力」です。

高里さんの約1時間の話しは、戦争時のこと、占領期のこと、「憲法の下に変えるという希望を持っていた」復帰が大きく裏切られたこと、米兵による犯罪問題などなど本当に多岐にわたる内容でしたが、パワーポイントだけで会場も暗くなっていましたので、充分にメモをとることが出来ませんでしたので、その詳細を報告できないのが残念です。

その中で印象に残っていることは、復帰時返還された米軍基地は、すべて自衛隊基地として継続されたこと、沖縄県を除く米軍施設・区域では、約87%が国有地であるのに対し、沖縄県では、国有地はわずか23%、公有地が37%、民有地が40%となっていることです。

沖縄に米軍基地が集中していることはよく取上げられますが、国有地以外が77%にも及んでいることはあまり取上げられません。

1944年から始まった日本軍による基地建設と深い関わりがあるということだと思います。

歴史を振り返り、学ぶことの重要性を教えていただいた講演会でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2024年8月11日 (日)

被爆79周年原水爆禁止世界大会

1日から昨日まで10日間の長い休みをとっていましたが、今日から再開します。

被爆79周年原水爆禁止世界大会は、7月27日の福島大会、8月4日から6日までの広島大会、7日から9日までの長崎大会と会場を移しながら開催され、さまざまな成果を収め無事終了しました。

Photo_20240810111001

被爆79周年原水禁世界大会広島大会開会総会

今年の大会は、すべての会場でビデオ撮影を行ない、YouTubeにアップしていますので、「被爆79周年原水禁世界大会YouTube」をキーに、視聴していただければ、大会の様子が知ることが出来ますので、ぜひ見て欲しいと思います。

私も広島大会の開会総会での主催者あいさつ、5日の第6分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」、6日のまとめ集会での主催者あいさつで登場します。

今日は、被爆79周年原水爆禁止世界大会長崎大会閉会総会で採択された「大会アピール」の全文を掲載します。


被爆79周年原水爆禁止世界大会 大会アピール

歴史的な最高気温の話題が繰り返される暑さの中、私たちは728日の福島大会から、8456日の広島大会、789日の長崎大会と、原水爆禁止世界大会を開催してきました。 

世界では戦争による惨禍が収まらず、命の尊厳が軽視される状況が続いています。ロシアによる核兵器使用の威嚇発言や核兵器の配備・訓練といった動き、アメリカの議員による戦争終結のためには原爆使用を肯定的にとらえるといった発言など、核兵器をめぐる状況も大変厳しいものがあります。ヒロシマ・ナガサキの原爆投下以降、これまで戦争による核兵器使用を許さない大きな力を生み出してきた源は、被爆者の体験と運動です。振り返ることもつらい、凄惨な体験を言葉にして伝えることで、核兵器の非人道性を明らかにし、核兵器廃絶を世界の人々の共通の目標としてきました。これまで着実に高めてきた「核兵器を二度と使ってはならない」とするハードルを下げるために、安定しない国際情勢を持ち出すことを、私たちは決して認めません。むしろ現在の不安定な国際情勢を作り出している原因の一つは、これまでの核抑止への依存にあります。日本政府は728日に開かれた日米安全保障協議委員会で、「核の傘」を含むアメリカの拡大抑止の連携強化を確認するなど、いまだ核抑止を積極的に捉えています。そこからの脱却なくして核廃絶の実現は描けません。

被爆79年から80年がせまる今、これまで核のない世界を希求してきた被爆者と私たちの願いは、いまだ実現していません。被爆者の切なる願いは、「こんな凄惨な体験は、私たちで最後にしてほしい」というものです。それは、核廃絶の実現に向けた具体的な歩みを進めることにあります。日本政府は、被爆者の訴えに真摯に耳を傾け、核廃絶に向け、国際社会で積極的な役割を果たすべきです。

私たちは今この時まで、核廃絶が実現していない現実を直視し、原水禁運動の継承をはかりながら、今後も粘り強くとりくみを強化していきます。核兵器禁止条約が発効されましたが、日本政府は署名に前向きな姿勢さえ示していません。戦争被爆国の日本が、この条約に批准することは、核のない世界の実現に向けた必要な一歩となります。私たちは日本政府に今すぐ署名・批准することを、改めて強く求めます。原水禁運動は被爆の実相を原点とし、核廃絶とヒバクシャ援護・連帯を両輪として、「核と人類は共存できない」という揺るぎない考えのもと、この世界大会を一つの契機としながら、各地域で核廃絶をめざす運動として積み重ねてきました。そのうえで、未来を思い描く将来像と合わせ、さらなる議論を深めながらとりくんでいきます。

核の軍事利用からも、核の商業利用からも、「ヒバクシャ」が生み出されてきました。本大会では、アメリカ・ニューメキシコ州に暮らすナバホの、ウラン採掘・精錬による被害とその後の住民運動について学び、連帯を深めました。長崎においては「被爆体験者」とされ、79年経った今も被爆者と認められない差別的状況が、解決に至っていません。「被爆体験者」は被爆者です。日本のみならず世界のヒバクシャをめぐる課題について、世代を超えた二世三世がその問題の解決に向けて、運動にとりくんでいます。

福島第一原発事故から13年が経過しましたが、避難を強いられた住民は、いまだ元の生活に戻ることはできていません。そういった状況にもかかわらず、日本政府は原発事故被害者への支援を打ち切り、再び原発推進政策に舵を切りました。私たちは日本政府が原発事故の責任を認めず、再び原発を推進することを許しません。

被爆79周年原水爆禁止世界大会を通して、私たちは現状の課題認識を共有し、各地域での原水禁運動につなげていくことを確認しました。これからも、運動の原点を確認し、核も戦争もない世界を実現させるため、さらなる原水禁運動を継承・発展させていくことを決意し、本大会のアピールとします。

2024年89

被爆79周年原水爆禁止世界大会 参加者一同


被爆80周年の来年に向け、原水禁国民会議としてどんな目標を持って取り組むのか、大きな課題が突きつけられた大会となりました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »