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2024年7月 6日 (土)

「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会

昨日の中国新聞の記事を読み,「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会の会場となっている広島大学霞キャンパスの「広大医学部資料館」に行ってきました。

すぐに足を運んだのは、二つほど興味がわいたからです。一つは、なぜ初代学長の足跡をたどる展示会が,千田キャンパスではなく「広大医学部資料館」何だろうかということです。もう一つは、森戸さんが、社会党から立候補し衆議院議員となられた当時の写真はないだろうかということです。

両方ともすぐに解決しました。

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1950年から1960年代に霞キャンパスの広大病院の前で撮られて写真です。左端が森戸辰男さんです。森戸さんは、在任中の1953年に広大に医学部を設置し、その後霞キャンパスに移転させています。さらに、当時被爆者の放射能による健康被害を研究していたのが、ABCC(のちの放影研)だったことから、日本人の手で放射能による健康被害を研究すべきだと広大医学部に1961年に原爆被爆能医学研究所の設置を実現させたのも森戸辰男さんでした。広大医学部は、そんな縁のある場所ですから、この資料館での展示会の開催になったと思われます。

上の写真、もう一つの興味は、右後方に今は全て解体された旧陸軍の兵器廠の建物が写っていることです。

社会党衆議院議員時代の写真も何枚かありましたが、興味を引かれたのは次の一枚です。

 

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展示室の蛍光灯が写り込み見にくいのですが、トラックの上で街頭演説をする森戸辰男さんです。タスキが見えませんので、選挙演説ではないようです。

1946年に衆議院議員に初当選して以来3回当選を果たし、片山内閣と芦田内閣で文部大臣などを歴任されましたが、1950年に議員を辞職し、広島大学の初代学長に就任されました。

昨日の新聞でも紹介されていますが、森戸辰男さんは、日本国憲法の制定に深く関わり,特に「全ての国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について,社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という憲法第25条の生存権に関する条文を追加することを強く訴えました。

私が、森戸辰男の名前で思い出すのは、「森戸稲村論争」と呼ばれる社会党の路線をめぐる論争の一方の旗頭であったことです。この展示会では、「森戸稲村論争」の言葉はありませんが、森戸さんが、のちに民社党をつくる人たちの立場を代表する右派の論客だったことには触れられています。

その他にも,このブログでも一度紹介した((被爆復興のために贈られた広大の供木の今: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)から3回)ことのある外国の大学から贈られてきた樹木の植樹風景や書物の受け取り風景などの写真もありました。

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最後に目を引いたのは、提示物の最後にあった「広島大学史紀要 1 号」(1999年3月31日刊)に納められた「講演森戸辰男氏と広島大学 西村博」を印刷した一冊です。

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この冊子は、1998年に広島大学で行なわれた森戸さんの元秘書をされていた西村博さんの講演を文字化したものですが、いろいろと興味深い内容が記載されています。

中でも私が興味を持ったのは、森戸さんが衆議院議員を辞職するときに行なった演説です。森戸さんは、日本国憲法制定時の首相であった幣原喜重郎さんの計らいで特別に演説する機会を与えられたようです。その一節を紹介します。

「最後に、平和にとって広島は特別の意義を持っております。広島は日本一の軍都でありましたが、昨年皆さんのお力によりまして,代表的な平和都市となりました。世界的に見ましても原子力時代の世界の平和運動は、今日、ノーモアヒロシマズ,もはや広島の惨劇を繰り返すなということをスローガンとしています。かような意味で、日本において代表的な,そして今や世界的に見ても重要なこの平和都市は、それにふさわしい平和主義に立つ立派な大学を持つべきであります。かような大学をつくりたいというのが、年来平和主義とユネスコと世界連邦の運動に強い関心と努力を払ってきた私のささやかな念願でございます。」

平和主義に徹した立派な大学をつくりたいという強い思いが,衆議院議員の辞職につながり、そのことが衆議院本会議で語られたことに強い興味を持ちました。このことを知っただけでもこの展示会に来た甲斐がありました。

そして広島大学には、その精神をきちんと受け継いで欲しいと強く思いながら、会場をあとにしました。

いのちとうとし

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コメント

昭和30年前後 呉市広町に広大病院があったようなのですが  浦城二郎教授の話を聞きます 浦城二郎さんをグーグルで見てみます 宇津保物語現代語訳著 推薦の・ことば・が 井上靖さんとあります 私は詳しい? 浦城教授の息子さんが井上靖さんの長女と結婚です だから  大作家の井上靖さんが推薦のことばです 現代語訳は初と聞きます 家にその本があります 浦城教授の娘さんに貰っています 昔に一時 呉に 広大病院がありました

さとうさん
コメントありがとうございます。
そういう歴史もあるのですね。
機会があれば、私なりに調べてみたいと思います。

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