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2024年7月

2024年7月31日 (水)

2024年7月のブルーベリー農園その4

とても暑い日が続く。梅雨明けからの2週間くらいは天気も安定しているので若いころ信州の北アルプスへの登山もこの時期を選んでいったことがあるが、東広島市豊栄町のブルーベリー農園での農作業は汗だくになる。安芸区の自宅から通うので朝夕のひんやりした時間帯での仕事ができないのでしかたないのだが・・。晩生のブルーベリーが実りだしたので28日の日曜日は多くの援農者が来て摘み取りを行い安芸の郷に実をたくさん納品することができた。

 726日(金) ブルーベリーの剪定して出た枝を野焼きしながら並行してブルーベリーの草刈り、摘み取りを行う

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花壇に咲くオニユリ

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就労継続支援B型あきが里山でブルーベリーの摘み取りに励む。

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828日(日) 真夏のブルーベリー畑と青空は見るからに暑そう

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黄色い花のオオハンゴウソウや

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さといもの葉も猛暑の中でも元気

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暑さに負けずブルーベリー畑で摘み取り。木の剪定を強めにしたのだがどんどん葉が広がっている

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ブルーベリーの栽培している場所は転作した畑と少し高い里山にある。里山から作業を終えて実を運ぶみなさん

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摘み取りが終わり農園の見回りを行う。小鳥の巣のあるところを見るともう巣立ちをしていたあとで誰もいない

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729日(月) この日は農福連携でブルーベリーの実の摘み取りの協力を頂いている福富町の障害者の事業所しゃくなげファームが作業に参加。安芸の郷の就労継続支援B型あきも摘み取り作業を行い摘んだ実を持ち帰った。生食用の1キロ入りの注文がたくさん入っているので選別作業が待っている

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緑色からかすかに赤みを帯びてきた房状のブルーベリー。夏の日差しを浴びて8月いっぱいかけて青色を増す

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年7月30日 (火)

沼田鈴子遺品展「沼田鈴子と被爆アオギリのねがい」

「被爆アオギリのねがいを広める会」が、広島市まちづくり市民交流プラザ南棟1階で8月4日まで開催している「沼田鈴子遺品展『沼田鈴子と被爆アオギリのねがい』」に、初日の昨日、行ってきました。

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自らが被爆した逓信局から、1973年に現在の平和公園に移植された被爆アオギリのそばで被爆証言を続けた沼田鈴子さんは、2011年7月12日87歳の生涯を閉じました。沼田さんの死とともに多くの遺品(1万点以上とも言われる)が残され、いろいろと紆余曲折はありましたが、被爆アオギリのねがいを広める会のみなさん手でその遺品の整理が行なわれていました。ようやくその整理が終わったということで、その一部が今回展示されることになったのです。

撮影禁止ですので、ここで紹介することが出来ませんが、会場には、自筆の原稿や活動を記録した手帳、写真などが展示され、沼田さんの活動を偲ぶことが出来ます。

中でもびっしりと書き込まれた手帳の予定表は、元気に証言活動をされていた沼田さんをよく知っていますので予想はしていたのですが、それでもびっくりするほど隙間なく書き込まれていました。1日に3回、4回という日が何日もあります。

資料整理を行なった被爆アオギリのねがいを広める会のメンバーによれば「修学旅行への証言活動は、多いときは16校あった。朝2校、昼3校、それから夜1校。証言している人は、年間1万人を超えている」そうです。

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沼田さんは、広島を訪れる人たちへの証言だけでなく、国内はもとより何度も海外に足を運び証言活動を続けてこられました。その海外での交流を通じて、アジアの侵略拠点だった戦前の広島についてもきちんと向き合って来た人だったことは忘れてはならないことです。

いつも笑顔を絶やすことがなかった沼田さんの元気だった頃の姿を懐かしく思い出しながら、資料や写真の数々を見て回りました。

展示されている資料は、残された遺品のごく一部ですが、被爆証言を「平和の一粒の種まき」といい、「戦争を加害と被害からとらえ戦争を知らない世代に伝えたい」という沼田さんの思いをもう一度思い起こすことが出来る展示会です。

厳しい暑さが続いていますが、ぜひ一度足を運んで欲しい展示会です。

 

1日から10日までブログを休みます。

自治労、広教組、高教組、私鉄広電から一人ずつ事務局員を派遣していただき、昨日から原水禁世界大会の現地実行委員会事務局を開設しました。すでに27日に東部コースの平和行進も広島入りをし、連日大会準備、本番と日程が続きます。さらに、7日からは久しぶりに長崎大会に参加することにしています。

原水禁大会関連で報告したいことはたくさんあるのですが、厳しい暑さが続きますので、大会日程を優先させるため、今年は明日の遊川さんの「7月のブルーベリー農園4」を掲載したあと、8月1日から10日までブログを休みにし11日から再開することにしました。

いのちとうとし

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2024年7月29日 (月)

「2024せこへい美術館」に行きました。

旧日銀広島支店で、8月1日まで開催されている「せこへい美術館」ー世界の子どもたちのための美術展―に行ってきました。

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展示されている作品のメインは、「BODY MAPPING」(ボディマッピング)です。この作品は、畳一帖大の紙に人間の体の輪郭を型取って、これまでの体験してきた出来事、身体で感じる痛みや喜び、大切の思いや将来の希望などを身体図にマッピングしていくアートで、毎年新しい人を対象に描かれています。

これまでの「せこへい美術館」では、被爆者を対象にして作品が作られてきました。

今年は、被爆者だけでなくベトナムやタイなど外国人実習生数人セクシュアルマイノリティの人のボディマッピンブもあり、それらの作品が大きな折り鶴にかけられて展示されています。

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よく見ていると、被爆者の一枚に、思いがけない名前を見つけました。朝鮮人被爆者協議会会長の金鎮湖です。

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 この作品を作るために、高校生が2回程、本人と会い、話を聞きながらマップにその言葉を書いていくのです。日ごろから金さんが言っていることが書かれています。

このボディマッピングの後ろの壁面には、大きな幕が掛けられています。

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 どこかで見たことのある幕です。この幕は、この美術展の前に開催されていた「キース・ヘリンゴ特別展」の会場で、参加者が自由にメッセージを書くことが出来た幕です。

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私もその時「いのちとうとし」のメッセージを書きました。

会場を案内してくれた知人の話によると「キース・ヘリンゴ特別展」は、この美術展の関連企画として開催されたそうです。

「せこへい美術館」ー世界の子どもたちのための美術展―では、毎年のことですが、世界の子どもたちが描いた絵も展示されています。その中にはウクライナの子どもたちの絵もあります。

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ウクライナの子どもたちの絵は、愕然とする思いで見るしかありません。戦場の絵が何枚も並んでいます。涙を流す女性を描いた絵も何枚かありました。

どんな思いで描いたのか、言葉に詰まります。

こうした絵も含めて、会場に入っただけで、いろいろと考えさせられる展覧会です。

いのちとうとし

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2024年7月28日 (日)

2024年版原爆被爆者対策概要

毎年この時期に発行される広島市の「原爆被爆者対策概要」を一昨日入手しました。

すでに厚生労働省が、7月1日に被爆者健康手帳の取得者数などをマスコミ発表をしていますので、全体の数字は知っていますが、2024年3月末現在の都道府県別(広島市、長崎市は別掲)の人数はこの概要によって詳しく知ることが出来ます。全国の手帳所持者数は、106,825人で、前年から6,824人減っています。

ところで今年気になったのは、手帳所持者数が、100人未満の県の数です。被爆者が高齢化し、3月末現在では、平均年齢が85.58歳で、前年比+0.57歳っていますので当然のことだともいえますが。16県にもなっています。その16県は、青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、群馬県、新潟県、富山県、福井県、山梨県、長野県、徳島県、高知県、沖縄県で、東北地方や北陸地方に集中しています。

最も少ないのは、山形県で、6人と一桁になっています。岩手県13人、秋田県12人ですので、もうすぐ被爆者がいない県が出来ることになります。

被爆者組織の解散がいわれて久しくなっていますが、この人数を考えるとやむを得ないことともいえます。

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初めて気づいたことですが、原爆被爆者対策概要には、8月6日に行なわれる「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の推移が一覧表になり、その中に「主たる参列者等」の欄があります。そこを見ると歴代首相の参列状況が分かります。

首相が最初に参列したのは、佐藤栄作首相で1971年(昭和46年)のことです。次の参列は、三木武夫首相で5年後の1976年(昭和51年)です。次は、1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相です。中曽根は、1985年、1987年の3回参列しています。

中曽根首相のあとも首相の参列がありますが、8月6日当時首相の地位にいながら参列しなかった首相が2人います。一人は、1988年の竹下登首相でもう一人は1992年と1993年に首相だった旧広島3区選出の宮沢喜一首相です。1993年は、7月の総選挙で自民党が大敗し、8月9日に退任していますので、仕方のないことですが、広島出身でありながら1992年の式典になぜ参列しなかったのか、今振り返ると不思議な気がします。

今のように、毎年首相が出席するようになった最初は、1994年(平成6年)の村山富市首相からで、翌年も村山首相が参列し、以降歴代の首相が毎年参列しています。

村山政権の1994年12月に成立した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の「第5章 平和を祈念するための事業」の第41条は次のようになっています。「国は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う。」

この条文に基づき建設されたのが、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」ですが、首相が「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参列するのも、この条文に基づくものでしょうか。

憲法違反の集団的自衛権容認を閣議決定した安倍首相や日米同盟の強化をいい、核抑止力論を支持する岸田首相には、8月6日の式典に参加して欲しくないと思うのですが、彼らが出席するが、この条文に基づいているとしたら、どう対処すべきかを考えさせられます。

そんなことを考えながら「2024年版原爆被爆者対策概要」のページをめくっています。

いのちとうとし

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2024年7月27日 (土)

被爆二世裁判―広島高裁結審 12月13日判決

昨日午後3時半から広島高裁300号法廷で、被爆二世裁判の第3回公判が開催されました。

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それぞれが、提出した準備書面を確認した後、今回の公判では、控訴人側が求めた控訴人の意見陳述が認められ、上野原昇さんが、「被爆二世として生きて」と題して、意見を陳述しました。

上野原さんは、最初に広島市駅前で被爆したお父さんが、子どもたちに語ったあの日の被爆体験を紹介し、続いて自らが体調に気をつけて過ごした生活を振り返り、4年前から悪性リンパ腫が判明し、特に白血球の減少に悩んでいるという自らの体験を赤裸々に紹介しました。

さらに教員として生徒に平和や原爆について教える身となり、被爆二世としての社会的立場を自覚して、物事を考え行動するようになり、被爆二世教職員の会の結成に携わったとし、国が被爆二世問題を放置し続けた結果として、私たち被爆二世や三世に遺伝的影響が生じるのではないかと不安と危惧を抱き続け、それはこれからもずっと続くと陳述しました。

最後に、「被爆二世の切実な思いに耳を傾け、公正な判決をして欲しい」と要望し上野原さんの意見陳述は、終了しました。

これで、広島高裁での審理は終了し、裁判長から「12月13日午前11時に判決を言い渡します。」と、結審と判決日が告げられました。

この後、弁護士会館でいつものように報告集会が開催されたのですが、私は裁判所内のトラブルで、大幅に参加が遅れました。

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トラブルの内容は、こうです。

従来、裁判所に入るにはいろいろなところに設けられた入り口から入ることが出来たのですが、数年前から、裁判所は、保安上の問題だとして正面玄関に設けられた手荷物検査を受けなければ、入ることが出来なくなりました。全部の出入り口にカギがかけられたため、法廷が終了し裁判所の建物から出るときも、正面玄関からしか出られなくなっていました。

当然のことですが、裁判所にくる原告や傍聴者の中には、車椅子で参加する人、高齢のため杖を頼りに参加される人がいます。

裁判を傍聴されたことのある人は理解できると思いますが、法廷は、裁判所の建物の一番北側(正面玄関からは一番遠い場所)に作られています。その建物の並びに駐車場があり、また報告集会が行なわれる弁護士会館も裁判所の建物の北側にあります。ですから、車椅子などで移動しなければならない人にとっては、正面玄関から退出すると遠回りになります。

ですので、手荷物検査が始まった早い時期に、よく覚えていますが、私が裁判所の要請し、車椅子などの人たちは、法廷のある北側に設けられた出入り口から退出出来るようにしていたのです。

ところが、昨日突然、「ここからは退出できません」と通告し、北側の出入り口からの退出を拒否したのです。

詳細は省きますが、従来認められていたものを一方的に変更したのですから、長い押し問答になってしまいました。車椅子の利用者は、原告の一人であるため、報告集会に出なければならず、やむなく正面玄関から退出することにしました。

しかし、一方的に今までのルールを変更した裁判所の対応に納得できない私や数人が残り、裁判所に次のことを質し、その場での対応は終了しました。

  • なぜこれまで利用できた障害者の入り口利用がダメになったのか。これまでに何か問題が起こったことがあるのか。
  • 車椅子などの利用者に限って、従来通りこの出入り口から出ることを認めて欲しい。
  • 以上のことについて、検討していただき、その結果を知らせて欲しい。

あまりにも高圧的で一方的な対応の変更であり、とりわけ障害者への配慮を欠いた対応ですので、裁判所からの連絡を待って、今回の主張を繰り返すようであれば、きちんと文書によって申し入れなどを行なわなければならないと思っています。

いのちとうとし

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2024年7月26日 (金)

開館時間を延長します。

先週の金曜日午後5時少し前に、広島市平和推進課から電話がありましたが、その時気づかなかったので、週明けの月曜日電話を入れました。

「電話に出れず申し訳ありませんでした。どういう用件でしょうか」

「先日要望のありました『被爆遺構展示館』の開館時間を81日から資料館の開館時間と会わせて1時間延長することにしましたので、連絡させていただきました。」

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 先日というのは、5月19日のことです。この日、アメリカが臨界前核実験を行なったという報道があり、平和記念資料館1階ロビーにある平和監視時計がリセットされるのを見に行きました。その時のことは、ブログアメリカ臨界前核実験に抗議する慰霊碑前座り込み: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に書きましが、同じ日に平和記念資料館北側に「G7サミット記念館」もオープンしました。

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  横に付けられた表示板には、「G7サミット記念館の開館時間は、7:30から19:00です。」と書かれていました。そばにいた市職員に聞くと「開館時間は、隣の平和記念資料館の開館時間に合わせました。」と教えてくれました。

「開館時間を合わせたのだな」と思いながら、「G7サミット記念館」の北側にある「被爆遺構展示館」を訪れると、そこには開館時間のスタートは、午前8時30分のママになっていました。

エッと思いました。並んで建つ他の2館が、開館時間を合わせているのだから、「被爆遺構展示館」も開館時間を早め一人でも多くの人に参観してもらえばよいのにと思い、すぐに担当課に電話を入れました。

ところが、返ってきたのは、「今のところ、開館時間を変更するつもりはありません。管理してもらう人の手配のこともありますので」とつれない返事でした。一応「私も『被爆遺構展示館』の建設には、少し関わったものの一人として、出来るだけ多くの人に入場してもらいたいと思うのですが、その思いは皆さんも同じだと思います。ぜひ検討していただきたいのですが」と要望して電話を切りました。電話を切ったあと、「やっぱり建設時の担当者が変わると熱意も薄れるのかな」と思ったことも思い出します。

その時はあまりよい返答はありませんでしたので期待していなかったのですが、今回ようやく開館時間を早めることになったようです。

22日の電話のつづきです。

「最近、入場者はどうなっていますか」との私の問いに「最近入館者が増えています。資料館からの流れで遺構展示館を訪れる人が増えています。特に外国人の姿が。それと、園路(被爆時の天神町筋)を新しく整備したことも、入館者が増える要因になっています。」

資料館からの流れで、入館者が増えていることも、今回開館時間を資料館の開館時間に合わて早めることにつながったようです。

些細なことのようですが、入館者を増やすための努力は今後も続けて欲しいと思います。

 ところで「核抑止力を容認したG7サミットの記念館など必要ない」と思っていましたが、最近この建物の影響でしょう、被爆アオギリが影響を受けたということが報道されています。

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私も見てきたのですが、東側の1本は、青々とした葉を茂らせ元気な姿を見せているのに、「G7サミット記念館」に近い被爆アオギリの葉は、誰の目にも分かるように黄色く変色しています。一応の措置は取りとのことですが、大切な被爆アオギリにこれ以上の影響が出ないよう最大限の措置を執ってほしいものです。

改めて、なぜあそこに「G7サミット記念館」を建てたのか、問われることになると思います。

いのちとうとし

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2024年7月25日 (木)

「第7次エネルギー基本計画」の議論が始まった

5月15日、経済産業省の「総合資源エネルギー調査会の分科会」で、「第7次エネルギー基本計画」の改定に向けた議論の初会合が開催されました。ほぼ3年毎に改定されるエネルギー基本計画ですが、来年春までには決定するとしています。

斎藤健経済産業大臣は、初会合の場で「脱炭素エネルギーへの転換は極めて困難な課題だ。安定的に供給できるかどうかが国力を大きく左右する」と発言しました。

前回のエネルギー基本計画の改定は3年前ですから、2021年でした。この時は主に、⑴少子化や省エネが進むために電力需要は減る。⑵原発依存度を「可能な限り低減する」ということを基本的な考えで決めました。

しかし、あの時から政府の基本的な考えは変更されました。「政府の」というよりも、21年10月に発足した岸田文雄政権の方針だと思います。 政権発足の翌22年10月、「GX実現に向けた基本方針」で「原発を最大限活用する」と方針転換を行ったのです。「GX」とは、「グリーントランスフォーメーション」の略で、脱炭素社会に向けて再生可能なクリーンエネルギーに転換していく取り組みのことで、2050年のカーボンニュートラル実現に向けての取り組みのことです。

この約3年間の国際的な変化は、⑴コロナの世界的な流行、⑵ロシアのウクライナ侵攻、⑶エネルギー価格の急上昇 ⑷イスラエルとパレスチナとの紛争による中東情勢などがあると思います。

岸田政権は、何よりも2016年に発効したパリ協定を言い分にしていると思います。パリ協定は、2020年以降の温室効果ガス削減に関する世界的な取り組みを示したものですが、世界共通の「2℃目標(努力目標は1.5℃以内)を掲げたのです。

この協定は、これまで対象国を「先進国のみ」としていたのですが「すべての締約国」とし、義務の「目標の達成」としていたのを「目標の策定・提出」と、より厳しい内容にしたものです。

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そして、昨年11月から12月にかけてUAE(アラブ首長国連合)のドバイで開催されたCOP28(国連気候変動枠組条約第28回締約国会議)、有志国連合から出された、「パリ協定を達成するために原発容量を今より3倍増やそう」とする提案を日本は賛成したのです。これには25カ国が賛成していますが、COP28の締約国は198カ国ですから「原発3倍」はまさに少数派なのでした。

原発3倍に賛成した日本などに対し、世界中から疑問の声が出されました。原発3倍の有志国の提案は、多く報じられていたように思いますが、それに反対する国の声が、ほとんど報じられなかったのは疑問を持っています。

ドイツは、「原発3倍」に対し、次のような反論をしています。

Ⅰ;世界の気候シナリオは、パリ協定に基づく気候目標を達成するために原発を必要としないことを示している(どのモデルも2050年のネットゼロでの原発の割合は小さい。)

Ⅱ:原発の割合が高くても、再エネの割合が低いシナリオでは、気候目標を達成できない。つまり、再エネの拡大が気候目標を達成するための主要な原動力である。

Ⅲ:原発の役割が再エネに比較して圧倒的に小さいとしている気候モデルシナリオですら、その原発設備容量の想定は実際の各国の楽観シナリオの総和よりも大きい。言い換えれば、原発は楽観シナリオでも実際には全然増えない。

3年前のエネルギー基本計画議論では、電力需要は減るとしていた日本ですが、この度は一転して電力需要は増加するとしました。その理由として、人手不足の解消などでAI(人口知能)が普及と、それに伴うデータセンター(DC)や半導体工場増を揚げているのです。

これまで電力需要が増える(だから原発が必要)ことの理由を、いろいろと聞かされてきましたが、まさかAIが舞台に上がるとは思いも寄らないことでした。

この度の総合資源エネルギー調査会の「有識者」の人たち。会長は東京海上日動火災保険の相談役で、16名の委員は、ほぼ全員は原発推進者で占められています。

木原省治

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2024年7月24日 (水)

第43回反核平和の火リレー到着式

7月3日に平和公園原爆慰霊碑前を出発した「第43回反核平和の火リレー」が、昨日無事原爆慰霊碑前に帰ってきました。

最終区間の、広島文化交流会館(旧厚生年金会館)前から慰霊碑までの約450メートルは、新田康博広島県青年女性平和友好祭実行委員長を先頭に10人のランナーが、県内484.3キロを走り継いだトートを手に走り継ぎ、午後6時に原爆慰霊碑前に到着しました。

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すぐに到着式が始まりました。

新田実行委員長のあいさつです。

「多くの皆さんに支えられて14日間無事に走り継ぐことが出来ました。心から感謝申し上げます。走り継いだランナーは、451区間、484.3キロ、828人のランナーが走り継ぎました。天気に恵まれ、今年は、全区間走ることが出来ました。昨年雨で走れなかった区間では、3人4人と多くのランナーが一緒に走ってくれました。

被爆者が高齢化する中で、被爆の実態を伝えることが難しくなっています。また、過去の歴史を学ぶ機会も少なくなっています。しかし、リレーを走ることを通じていろいろ学ぶことが出来たと思います。暑い中でリレーを走ることだけでも、当時の数千度と言われる原爆投下時そのものの熱を感ずることは出来ませんが、被爆者の皆さんの体験を追体験できたと思います。

私たちは、今後も被爆者の皆さんに寄り添い、一日でも早く核兵器廃絶を実現できるよう、これからもがんばりたいと思います。」

そのご来賓のあいさつがあり、新田実行委員長の手によって、走り継がれてきた「平和の火」が消灯されました。

最後に、全員で「原爆を許すまじ」を合唱し、今年の反核平和の火リレーが終わりました。

今年の到着式には、ちょうど会議を終えた、県内各地の多くの自治労の皆さんに参加していただきました。自治労の皆さんは、各地の反核平和の火リレーを担っていただいた人たちですので、こうした人たちと参加していただいて到着式が出来たことは、本当によかったと思います。

1982年以来続く「反核平和の火リレー」は、被爆者と若い人たちをつなぐ運動として、そして「継続は力」を体現する運動として、継承されていくと思います。

原水禁もこの成果を8月4日からはじまる被爆79周年原水禁世界大会広島大会に引きついて行きたいと思っています。

いのちとうとし

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2024年7月23日 (火)

2024年7月のブルーベリー農園その3

721日に梅雨が明けた。東広島市豊栄町のブルーベリー農園ではセミのヒグラシが、安芸区の自宅周りではクマゼミが鳴く季節に入った。ブルーベリーの枝は冬からの強剪定で目覚めたのか新梢がぼーぼーと出てきてすっかり畑全体を緑で覆ってしまっている。晩生のブルーベリーの摘み取りが始まるので受け入れるための準備をいろいろとしてきた。あとは台風がどうなるか。

718日(木) 早生のブルーベリーを植えているところは木がまだ小さいので雑草が茂るのが早い。防鳥ネットの裾をたくし上げて草刈り機で草を刈る

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防鳥ネットにしがみついたメスのキリギリス

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すぐそばにはヒメヒオウギズイセンが咲いている

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午後3時半頃の空。青空がのぞいたかと思ったらあたりが暗くなるくらいの雲がブルーベリー畑を覆う。空が迷っている

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雑草の茂みの中に、もうヤブランの蕾が出てきた

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周囲の雑草を刈った青田

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719日(金) ブルーベリーの摘み取りのシーズン入りなのでこの日きた友人数名に手伝ってもらい農園の家の前に日よけのテントタープとテーブルを設置した。収穫したブルーベリーの実を安芸の郷の事業所さくらに数キロ納品した

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721日(日) 梅雨明けの夏空とブルーベリー畑

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オニユリが低く垂れさがりながらも夏に負けじと咲く

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晩生(ラビットアイ系)の実。真夏の太陽が照り付け緑色の実が青色に変わって摘み取られていく

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ホームベルという種類のブルーベリーにピンクのテープを巻く作業を行う。この種類だけを摘み取り管理するためだ。22日から安芸の郷の事業所が安芸区矢野から農園に来ての摘み取り研修が始まる。農園の友人知人の援農も始まる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年7月22日 (月)

三原地区 7月の「19日行動」

7月19日(金)の夕刻、三原駅前において20人が参加して定例の街頭アピール行動を実施しました。

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被爆79年目の8月を前にして、教育労働者(三原地区労働センター議長)が学校の平和教育についてスピーチを行いました。  

昨年もこの場で話した8月6日は何の日かと尋ねたら「ハムの日」と答えた子がいましたが、やっぱり「原爆の日」と答えてほしかったと思ったので今年も聞いてみたら、ほとんどの子どもが「原爆の日」と答えてくれました。昨年は声掛けしてくれた子どもが千羽鶴を織ってくれて、私が糸を通して千羽鶴にしました。今年は児童会が全校に声をかけて全校で鶴を織り、子どもが全部、糸を通してくれて完成しました。

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すごいね。しかし、千羽鶴を作ることが目的ではないですよね。何のためにそうした行動をしているのかを考えることが教育だと思います。「平和学習は事実を知ることも大事、自分のこととして考えることも大事、平和って何、自分にとって平和って何だろう、友だちをいじめないことなどを考えることが大事ではないのかなと思います」。「だったら自分にできることは何か、千羽鶴を織ってみようか、優しい言葉をかけてみようか、そういう実践力をつけていくことが本当の平和教育ではないかと思っています」。少しずつ積み重ねていくことで子どもたちの人格ができていくのかなと思っています。昨年、学校で戦争を体験された方の話を聞きました。今年も聞く予定になっています。戦後80年近く経っているので戦争があった時に生まれた方でも80歳、戦争体験者で話ができる方は90歳近くであり、今ぎりぎり話が聞ける時です。だから今、直接話を聞いて戦争の悲惨さ、平和の大切さを学んでいくことが必要だと思っています。一つ一つは小さな取り組みかもしれませんが、そうした取り組みを重ねていくことが大切ではないかと思っています。  地区労センターの学習会で毎年、高校生平和大使の活動報告をしてもらっている。その中で印象に残ることを紹介します。「微力だけど無力ではない」。私たちの力は小さいかもしれないけど、ほんのわずかな一歩かもしれないけど、何もしなければ平和は築かれないし守れない。まったくその通りだと思います。  私たちの「19日街頭行動」も今年で8年目ですが、本当に小さい一歩かもしれませんが続けていくことが大切だと思っています。これからも皆さんとがんばっていきたいと思っています。

藤本講治

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2024年7月21日 (日)

府中地区 7月の「19日行動」

7月の安保法制反対する府中市民の会の行動は、いつものように午後3時30分から上下Aコープ前、参加者10人、午後5時から府中天満屋店前、参加者8人でした。

リレートークでは、東京都知事選挙の結果や無党派層をどう取り込むか、共通して今が民主主義の危機、黙っていてはいけないと言われていました。

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Aさん 東京都知事選は現職の小池百合子が3回目の当選をしました。しかし知事を直接支える人事秘書課や総務課の職員が30人もやめています。都知事にはついていけないという理由です。上意下達では職員はついてきません。神宮球場の周りの木の伐採でも都は指導や助言ができるのに、「企業がやっているのだから都の問題はありません」では通用しません。王様になるのではなく職員と一緒になって行政は進められるべきです。当選しましたが兵庫県知事のようになるのではないでしょうか。

Cさん 東京都知事選では若者は建前ではついてこないと言われています。しかし、自民党がこうやりますと建前を言って裏金問題にみられるように私腹を肥やしているのですから若者は建前ではついてきません。それがあたかも野党も同じということではありません。防衛省は昨年度予算を1,300億円も使いきれませんでした。食べきれないぐらいご飯を盛っているからです。昨年度の自衛隊員の応募が半数しかない。そりゃそうです戦争するという自衛隊に誰が就職するでしょう。自衛隊の中は特定秘密漏えい/不正受給/パワハラで大量処分。しかし下が処分されただけです。防衛大臣は自ら1か月分の給料を寄付しただけ、防衛省幹部は1か月賃金が半分になっただけ、これは処分ではありません。大臣も幹部もはっきり更迭する処分をして退職金も出さないようにすべきです。なんでも下に責任を取らせて幹部は他人事。防衛省という組織が腐っていると言うことです。やはり、いま民主主義は大変なことになっています。みなさん自民党や防衛省の幹部がどんなことをしているのかしっかり見て抗議しましょう。声をあげましょう。

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Bさん 8月6日は広島の原爆慰霊の日です。だから7月の今日発言させてください。先の戦争のことが忘れられようとしています。3回目になりますがお話します。78年前に上下駅であったことです。全国の地方都市が空襲にあっていたとき広島市だけが空襲がありませんでした。そこで軍部は広島市が実験場になるのでは、必ず広島市に空襲があるだろうと建物疎開を行う部隊を県内につくらせました。こちらでは本部を上下に置き、甲奴と神石の名前をとって甲神(こうじん)部隊が300名で結成されました。自分の祖父も部隊に徴兵されました。年は42歳で、「40を過ぎているから徴兵はないだろう」と思っていたそうです。8月3日に300名が上下駅を出発してその日に広島市に入り、4日、5日と作業して、8月6日をむかえたわけです。祖父は大やけどの状況で三次の陸軍病院へ入り17日になくなりました。他の300名の方も上下駅へ帰ることはなくほとんどなくなられました。平和憲法はこうした戦争の反省から、二度と戦争をしないという国民の決意です。戦争するための法律、安保法制は許せません。みなさん黙っていてはいけえません。選挙の時だけの投票ではいけません。声をあげよう。私たちの行動に参加しましょう。

小川敏男

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2024年7月20日 (土)

ベトナムの歴史(その31) ― ベトナム Now ―

「南部解放(ベトナム戦争終結)・祖国統一50周年」を前に

2019年64日に「ヒロシマとベトナム」シリーズの寄稿を始めて丸5年、2021320日から本シリーズ「ベトナムの歴史」を加え3年になります。この間、日本との関りを中心にベトナムの歴史を紹介してきました。次号から新たなシリーズ、「ベトナムNow」を幾度かお伝えしたいと思っています。

昨年、「日越外交関係樹立50周年」を迎え、両国関係は多面的で親密な「戦略的パートナーシップ」からより緊密かつ全方位的な「包括的パートナーシップ」に格上げされました。

来年、ベトナムは「南部解放・祖国統一50周年」を迎えます。ベトナムでは、「南部解放と祖国統一50周年は特に重要な意味をもつ」とされ、「ホーチミン市で国民的な祝典を開催」されます。

1847年のダナン砲撃に始まり、1954年のディエンビエンフーでの勝利まで110年に及ぶフランス植民地支配との戦い。その後、フランスにかわり侵攻してきたアメリカとの戦いは1975年4月30日のサイゴン開放(南部解放)まで続きました。この南部解放はフランス・アメリカと続いた130年にも及ぶ侵略者との戦いに勝利し、南北分断の歴史に終止符を打ったという「特に重要な意味」があると思います。

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南部解放当時の写真、1975年のサイゴン(現ホーチミン市)

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「南部解放49周年」を祝う看板、2024年5月、ホーチミン市)

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米軍の北爆で破壊されたロンビエン橋(ハノイ)

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現在のロンビエン橋(ハノイ)

130年にも及ぶ侵略者との戦で、多くの尊い命が奪われ、豊かな森林や肥沃なメコン地帯を破壊・汚染され、米空軍参謀長の「石器時代に戻してやる」との発言通り、都市も農村も破壊されました。

「写真1」1975年の「南部解放」(サイゴン陥落)当時のものです。

「写真2」は今年の5月のホーチミンの写真です。来年、2025年4月30日には盛大な記念行事が催されると思います。

「写真3」は1965年からの北爆で繰り返し爆撃を受け破壊されたハノイのホン川に架かるロンビエン橋です。破壊される度に修復し、ベトナム戦争終盤には、空爆警報が出されると橋げたをバージ(はしけ)に乗せて避難させ、橋が破壊されたままのように偽装し守ったということです。

「写真4」は、現在のロンビエン橋です。ロンビエン橋は、1902年にフランスの建設会社が架けた全長1,691mの橋です。フランス統治時代からベトナム戦争、戦後50年と120年余にわたる歴史の証人です。

 ベトナム戦争から50年経た今のベトナム、“ベトナムNow”を次回から紹介したいと思います。

どのようなことが知りたいか、リクエストやご質問をいただけると幸いです。

2024年7月20日(あかたつ)

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2024年7月19日 (金)

マハトマ・ガンジーのひ孫

一昨日、散歩の途中で平和公園を通ると、広島原爆慰霊碑前に人だかりしているのが目に入りました。マスコミのカメラも何台が見えますので、どこの代表団が来ているのだろうと思い、少し早足で慰霊碑前に足を運びました。

一行は、ちょうど慰霊碑への献花が終ったのでしょう、移動をはじめ西側の緑地帯に歩を進めるところです。顔見知りの記者がいましたので「どこの代表団ですか」と尋ねると「マハトマ・ガンジーのひ孫さんの一行です」とのこと。

そういえば、その朝新聞記事で読んだことを思い出し、写真を撮ろうと近づきました。

緑地帯の通路側に立つ樹の前で何か説明を受けて、次に移動するところでした。

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ガンジーのひ孫トーシャ・ガンジーさんが去った後、その木を見ると、この木は、ヒマラヤスギで、1957年にインドのネール首相が広島を訪れたときに記念植樹されたものでした。

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なるほどです。

その後、ガンジーさんは、慰霊碑横で記者のインタビューを受けた後、元安橋左岸に昨年設置されたガンジー像に献花をする予定とのことでしたが、私はそのまま散歩を続けました。

ここで、マハトマ・ガンジーさんのひ孫の姿を見たこと思い出したことがあります。

私たちが続ける核実験抗議の座り込みとガンジーの非暴力思想のつながりについて書かれた森滝市郎先生の文章があったことです。帰宅後、「核と人類は共存できない 核絶対否定への歩み」を引っ張りだし、「『座り込み十年』の『前史』と理念」のページを開きました。そこには、次のようなエピソードを紹介されています。

「その頃(いのちとうとし注:1957年)インドの文化使節団として来日していたサラバイ舞踊団の団長サラバイ女史が4月2日原爆慰霊碑に参拝し、被爆者たちの『祈りと抗議の座りこみ』の光景に感動して行なった激励のあいさつの中に『インドではガンジーがこのような方法をとりました』という言葉があったが、思わずそういう言葉が出るほど被爆者の『祈りと抗議の座りこみ』には深い『精神性』と『普遍性』があったのである。」

ガンジーの非暴力思想は、広島では「核実験抗議の座りこみ」として今も続き、息づいていることを、トーシャ・ガンジーさんに伝えてくれる人がいたら、どんな感想を持たれただろうか、と思いながらその場を後にしました。

いのちとうとし

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2024年7月18日 (木)

NTT西日本中国吹奏楽クラブ「七夕コンサート」に行きました。

7月14日に広島文化学園HGBホールで開催されたNTT西日本中国吹奏楽クラブ定期演奏会「七夕コンサート」に行ってきました。この演奏会は、2月に開催された「バレンタインコンサート」とともに年2回開催される定期演奏会で、今回で74回になる伝統ある演奏会です。

今回の「七夕コンサート」は、あいにくの雨模様で足下の悪い中での開催でしたが、私が座った1階席はほぼ満席という盛況ぶりでした。終演後、ロビーに出ると2階席から降りてくる人の列が続いていましたので、多くの観客が楽しんだと思われます。

以前には、整理券が必要な時期もあったようですが、今は券がなくても自由に入場が可能になっていますので、私と同じように誰でも入場しやすくなったと思われます。

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演奏会は、1部2部の構成です。

1部のプログラムは、2曲演奏されました。指揮は、同クラブの音楽監督・常任指揮者の金田康孝さんでした。

最初は、八木澤教司作曲「マヤの紋章 第1部偉大なる王と生け贄の儀式」で、この曲は「モアイ」「マチュピチュ」「ナスカ」「カッパドキア」など世界遺産&古代遺跡シリーズの最終曲として作られて曲です。

次は、A.ハチャトゥリアン作曲「バレエ音楽『ガイーヌより』」序章、友情の踊り、アイシェの孤独、剣の舞、収穫祭です。この曲は、オーケストラで何度か聴いたことのある曲です。特に勇壮な「剣の舞」は強い印象が残っている曲です。吹奏楽でもさらに勇壮さが際だったように感じました。

25分の休憩ののち、第2部がスタートしました。指揮者は変わり、松井利明さんです。

J.ヴァン・デル・ロースト作曲「アルセナール」で始まり、次のE.モリコーネ作曲「モリコーネパラダイス」は、村上織恵さんのフルート・ソロ、続く「ラテン・フェスタ」は、波山美春さんのサクソフォン・ソロの演奏です。曲の途中で、それぞれのパートの一人がソロ演奏をすることは前回の演奏会で経験済でしたが、一曲全部通じてのソロ演奏は、初めて聴きました。その後、「東京スカパラダイスオーケストラ・メドレー」「ミュージカル『キャッツ』メドレー』とつづき、1部とは趣を異にした軽快な演奏が続き、あっという間の楽しい約2時間のコンサートは終了しました。

今回の演奏会で初めて気づいたのですが、吹奏楽では、オーケストラにはない形式として多くのパーカッションが活躍するということです。7人のパーカッション奏者が、次々と楽器を代え、場所を移動して演奏する様子は、ちょっと感動です。

これも楽しい気づきでした。

次回75回定期演奏会は、例年2月9日に「バレンタインコンサート」の開催が予定されています。

いのちとうとし

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2024年7月17日 (水)

講演「原爆被爆者の公的謝罪と国家補償要求の意味に関する一考察」

韓国の原爆被害者を救援する市民の会が主催する「原爆被爆者の公的謝罪と国家補償要求の意味に関する一考察」と題した講演会が、14日合人社ひとまちプラザで開催されました。

講演者は、ブルガルア出身の広島大学平和センター特任助教のヴァシレヴァ・ヴラデサヤ・ビラノヴァさんです。通称サヤさんと呼ばれているとのことですので、以下サヤさんと表記します。

サヤさんは、最初に「被爆者(原爆被害者)の問題を研究していますが、核兵器禁止条約が発効し、核兵器の使用・実験による被害者への支援のあり方、そして使用国や国際社会の責任の捉え方について、国際的議論が展開されている今、この問題を研究するチャンスになっている」と指摘しました。

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その後、日本被団協運動の歴史を紹介しながら「日本政府への国家補償要求について」の意味を提起。さらに同じ日本被団協運動の中から「アメリカ政府への謝罪要求」が、どのように変化したかの解説がありました。その中で印象に残ってことを紹介します。

その一つは、1960年の広島県原爆被害者団体協議会(代表理事森瀧市郎氏)の決議文「アイゼンハワー大統領は原水爆禁止の誓いをしないかぎり来日することをやめてもらいたい。どうしてもくるなら広島原爆慰霊碑前で原爆投下の罪をわび再びあやまちをくりかえさぬ誓いをせよ」です。近年アメリカの高官の広島訪問が増えていますが、被爆後15年被団協結成4年後の被爆者の思いが、アメリカに対してどんなものであったのかを知ることの出来る決議文だと思います。

二つ目は、サヤさんの報告では、1980年代半ばから、被団協の中に「アメリカ政府への謝罪要求が追加」されたことが紹介されましたが、なぜこの時期までアメリカへの謝罪要求が弱かったのかについては言及されなかったように感じました。

この問題について、私も会場で発言したのですが、当時の被爆者運動の考え方も紹介する必要があると思います。

村山政権が誕生し、「国家補償の被爆者援護法」の実現が現実の課題となった1994年9月に広島県被団協、広島県原水禁、平和会館の3団体が協力して緊急発刊した小冊子「なぜ国家補償を求めるのかー原爆被爆者援護法実現のためにー」では、7ページ目の「原爆被害は『国の責任』」で次のように指摘しています。

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「原爆を非戦闘員である一般市民が住む都市への戦略爆撃に使ったのはアメリカであり、原爆は国際法違反の兵器です。(中略)被爆者は当初、ある意味で直感的に『原爆被害の責任はあの戦争を行なった国にある。その被害は原爆投下を招いた戦争を遂行した主体である国が償うべきだ』と考えていたように思われます。さらにその後、司法判断や法律的な見方が加わり、日本が1952年(昭和27年)の講和条約で戦争被害について米国への請求権を放棄しているため、被爆者への個別要求の責任も国が責めを負うべきだという考え方が定着してきました。」

私がこのことを紹介したからでしょうか、その後会場から「被団協は、個別要求は放棄していない」という発言があったことも紹介しておきます。

三つ目です。一番印象に残ったというか嬉しかったことは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の追悼空間スロープにかけられている6枚のパネルの最後の1枚の全文「ここに、原子爆弾によって亡くなられた人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら、その参加を二度と繰り返すことがないよう、後代に語り継ぎ、広く内外へ伝え、一日も早く核兵器のない平和の世界を築くことを誓います。」が紹介されたことです。

これまで多くの講演を聴いてきましたが、このパネルを紹介した講演者に私は一度も出合ったことがありません。

この発言を聞いただけでも、サヤさんの思いと感じることが出来、来てよかったという感想を持ちました。

いのちとうとし

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2024年7月16日 (火)

違う車両でした

鷹野橋付近で、広電の路面電車をカメラに納め、車で移動する人たちがいました。

昼のテレビニュースで報道された広電の路面電車の引退記念イベントに参加した人たちのようです。

カメラの先を見ると古い路面電車の姿が見えます。

2、3日前の報道で、路面電車の引退のことを知っていましたので、その車両かなと思い、私も急いで電車の方に移動し、スマホを構えました。

幸いなことに、信号待ちで停車中でしたのでなんとか間に合い、写真に収めることが出来ました。

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回送の表示と「鞍馬」の車両名札がありますので、引退車両かなと思い込み、勝手に満足していたのですが、翌日(15日)の中国新聞を見て、びっくりです。

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引退した車両は、京都市電から移籍した「桃山」「舞子」の愛称を持つ2両で、私が写した「嵐山」も愛称から同じ京都市電から移籍した車両に間違いなかったのですが、今回引退した車両ではありませんでした。ちょっとぬか喜びでした。きれいに写っているので満足はしていますが。

中国新聞の記事によれば、当日の記念イベントには、引退した車両と同型の1900形の全15両が勢揃いしたようですので、私が見たのはそのうちの1両の1915号で、車庫に回送する途中だったのです。

最近の広電の路面電車は、走る広告塔のような外装で走る車両が多くなっていますが、今回写真に納めた車両は、以前から走る路面電車の外観のママですので、何となく懐かしさを覚えます。

1900型は古い車両ですので、なかなかスピードが上がらなかったり、少し揺れるかなと感じたりすることもありますが、残る13両は、歴史を刻む車両ですので、いつまでも元気で走り続けて欲しいと思います。

いのちとうとし

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2024年7月15日 (月)

2024年7月のブルーベリー農園その2

まだ梅雨だが東広島市豊栄町のブルーベリー園の周囲は日に日に青葉が茂り、ブルーベリーの枝もよく伸びていて、雑草もどんどん伸びて農作業を休む暇はない日々。生き物も元気で今夏はブルーベリー畑でキジの抱卵に出会い、小鳥の巣に雛が育っている場面に出会え、そーっと、そーっと見守ることで自然の営みの面白さを体験しているので鳥たちの巣立ちを願いながら飽きずに安芸区の自宅から農園に通っている。ブルーベリーの摘み取りも早生のタイプから始まり安芸の郷が運営しているcafeさくらにわずかだが納品も始まった。

77日(日) ブルーベリー畑の上に広がる空はまるで真夏の景色

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710日(木) 青々と広がる豊栄の田んぼ

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農園にいる生き物たち

①77日(日) ブルーベリー畑の剪定をしていたら5mくらいの高さの所に小鳥の巣がありもう雛がいた。周辺のブルーベリーの剪定は見送りに

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②712日(金) 農園の庭のガクアジサイ数匹のマルハナバチが花粉を小脇に抱え花の中でぐるぐる忙しそうに蜜を吸う

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③712日(金)農園の庭や里山に出てきた羽の黒いイトトンボ

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草を刈る

①713日(土) ブルーベリー畑のネムノキの近くで草を刈る

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②里山のブルーベリー園の草刈りが終了。ブルーベリーのヒコバエがボコボコ生えていたが全部切った

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ミニスイレンが開花(農園の庭の池で)

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ヒオヒオウギズイセン(里山のブルーベリーで)

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ブドウの房よりもっと長い晩生のブルーベリーの実(ブルーベリー畑で)

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年7月14日 (日)

「絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~」

久しぶりに広島市郷土資料館に行ってみようと思いホームページを開いたのですが、今月20日から「企画展夏休み おばけの博物館」がはじまるようで、残念ながら現在は特別の展示は開催されていません。

同じページにある「新着情報」を見ると,これまで完売となっていた刊行物の販売再開が告知されています。今月2日からは「陸軍の三廠」、昨年の11月5日に図録「宇品」、同じく昨年の8月3日に図録「絵葉書の中の広島」が再販されたことが告知されています。

「陸軍の三廠」と図録「宇品」は、すでに購入済でしすが、図録「絵葉書の中の広島」は未購入でしたので、暑い中自転車をこいで広島市郷土資料館に行き、購入してきました。

この図録「絵葉書の中の広島」は、平成25年度(2013年)に開催された特別展「絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~」のための図録として発刊されたものが、今回再刊されたのです。

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帰宅して早速開いてみました。興味深い絵葉書(写真)が、249枚もんでします。

この本の「はじめに」に書かれていますが、「(前略)名所・イベント・事件・事故など,実に様々な絵葉書が日本中で作成されるようになりましたが、それは絵葉書が単なるはがきとして利用されただけではなく、マスコミが発達していなかった時代の貴重なメディアとして機能していたからです。(中略)近代日本の風景を知ることが出来る資料して近年見直されています。(後略)」

その通リだと思います。特に、広島は原爆で多くの写真が焼失したはずですから、絵葉書は多数発行されており残っているものも多いと思われます。そして写真と同じように当時の風景を知る大きな手がかりとなります。

目次を見ると、「絵葉書の中の広島」として「1,繁華街 2,橋 3.軍都 4.宇品 5.さまざまな風景 6.お祭り・イベント 7,学校」と続いています。

パラパラとめくっていると「3.軍都」には、サッカースタジアム建設の発掘調査で明らかになった「輜重隊第五大隊」の隊舎やこのブログで7月5日「なぜ」と思う新しい説明板が付いていました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に紹介した井戸の写真が同じように写った絵葉書、さらに「5,さまざまな風景」では、天守閣から見た風景として「大本営の後ろ側から見た景色」などが目に付きます。

他にも原民喜が一夜を過ごした東照宮の参道もあります。

興味ある絵葉書写真が並んでいますので、じっくりと見れば、このブログでも紹介したいと思うような絵葉書がたくさん出てくると思います。

興味は尽きない図録です。

完売になっており購入を諦めていた刊行物がありますが、今後も引き続き再刊されるのなら、今度はぜひ平成24年(2012年)の特別展「広島の路面電車100年~今も昔も広島の街を路面電車が走っていく~」を再刊してい欲しいと思います。

いのちとうとし

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2024年7月13日 (土)

ハトの巣撤去

25年以上住んでいて初めてのことですが、私が住むマンションにハトが巣を作りました。

6月の中旬に、たまたまエレベーターで一緒になった居住者から「階段の一番上にハトが巣を作っているので、撤去して欲しいと管理会社に伝えたのですが、『卵があるうちは撤去できない』と返事があったきり、連絡がないのですが、どうなっているんですかね」と相談を受けました。

確かに今年5月頃から、私が住む6階でも、ハトが階段まで入り込んでいるのを何度も見かけるようになっていました。すぐに管理会社に電話を入れました。

「連絡を受け、業者に相談したのですが、『ハトの卵は、法律で撤去できないので、撤去するとしてもハトが巣立った後からしか出来ません』と言うことでしたので、ハトが巣立つのを待っているんですよ」との説明です。「分かりました。最初の通報された方に、その点をきちんと伝えてください」

まさかハトが巣を作っているとは思いませんでしたので、現場(私の住むマンションは、10階建てで、10階から屋上につながる階段に巣があった)に行って見ました。10階から上の階段は、ハトの糞が一面に広がっています。

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すでに乾いていましたので、階段を上がってみました。巣立ちしたのでしょうか、巣だけが残っていました。

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ところで話に出てきた「法律」は、何となく「鳥獣保護法」のような気がしましたので、調べてみました。正式な法律名は、「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」で、その第8条に「鳥獣の捕獲等及び鳥類の卵の採取等の禁止」として次のような条文があります。「鳥獣及び鳥類の卵は、捕獲等又は採取等(採取又は損傷をいう。以下同じ。)をしてはならない。ただし、次に掲げる場合は、この限りでない。(以下略)」

さらに見ると、この法律は2002年(14ねん)に全面改正されたとあります。「エッ」です。2002年は、私は衆議院の環境委員会に所属しており、この法案の改正審議に参加していました。この時は、動物保護団体の人たちからの陳情を何度も受けましたので、それに関わった質問をしたことは思い出しますが、「ハトの卵をとってはならない」などという条文があることは、当時ほとんど念頭にはありませんでした。

話をハトの巣に戻します。

ハトが巣立ったことが確認され、ようやく昨日業者によってハトの巣の撤去作業と清掃が行なわれました。

撤去されて巣です。巣は二つあったようです。

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清掃作業が進みます。

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「この作業は午後2時過ぎまでかかります」とのこと。

午後2時前に現場に行ってみるとすでに作業は終了しており、きれいになっていました。

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ハトの巣があった場所には、再びハトが巣を作らないようにいうのでしょう、針のようなものが敷き詰められていました。

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これで抜本対策というわけにはいきません。業者の話では、ハトは、一年間に何度も卵を産む(年4回とも年6回とも言われる)ため、一度巣が作った場所にまた巣を作る可能性があるので、階段の入り口に網を張るなどして,ハトが入り込まないように対策が必要だということでした。

今回の巣の撤去、清掃でなんとかきれいになりましたが、巣を作らせないための抜本的対策が必要のようです。

いのちとうとし

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2024年7月12日 (金)

映画「RICHLAND」リッチランド

8月3日からの広島本上映に先駆けて7月9日午後6時半から横川シネマで映画「RICHLAND」(リッチランド)の特別先行上映&監督トークがありましたので、見に行ってきました。

映画の内容を紹介できませんので、チラシに書かれた文章の一部を引用します。

「アメリカ北西部で太平洋に面しカナダと国境を接するワシントン州南部にあるリッチランドは、平和で美しいアメリカの典型的な郊外の町です。

そのリッチランドは、核兵器開発マンハッタン計画における核燃料生産拠点『ハンフォード・サイト』で働く人びとと家族が生活するためにつくられた町です。1945年8月9日、長崎に投下された「ファットマン」のプルトニウムは、ハンフォード・サイトで生成されたものです。

終戦後は、冷戦時に数多く作られた核兵器の原料生産も担い,稼働終了(筆者注:1987年)した現在は国立歴史公園に指定(筆者注:2015年)され、アメリカの栄光ある歴史を垣間見ようと多くの観光客が訪れている。」

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リッチランドで思い出すのは、高校の校章に「キノコ雲」を描いていることです。確か、このことが明らかになった頃の1988年6月の第3回国連軍縮特別総会に参加するため渡米した広島県原水禁の代表団が、ハンフォードを訪れ核汚染を告発する市民と交流した歴史です。

映画「RICHLAND」は、「原爆は戦争の早期終結を促した」と誇りを口にする人びと。リッチランド高校の「キノコ雲」が町のいたるところで掲げられている。町の歴史を誇りに思う者がいる一方、多くの人々を殺りくした“原爆”に関与したことに逡巡する者、そして核廃棄物による放射能汚染への不安を今も抱えながら暮らしていく者。そうしたさまざまな市民の姿を描いています。

私が映画を見て一番興味を持ったのは、ネイティブアメリカン(アメリカ先住民族)とハンフォード・サイトとの関わりです。

ここはコロンビア川、スネーク川、キマ川の合流点に当たり、伝統的にネイティブアメリカンが住んでいた土地でしたが、ハンフォード・サイトを作るため、古来そこで生活してきたネイティブアメリカンを追い出し奪った土地だということです。

映画では、ネイティブアメリカンの古老が、そのことを語るシーンが出てきます。

ネイティブアメリカンの核被害については、ウランの採掘との関わりで理解をしていたつもりでしたが、核開発それ自体によっても犠牲を強いられてきた歴史を新たに知る機会となりました。

映画を見ての一番の感想は、そのことです。

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上映終了後、アイリーン・ルスティック監督とこの映画に出演するアメリカ在住の被爆3世川野ゆきよさん(オンライン)のトークがあり、参加者の感想もいろいろでましたが、私にとっては、このネイティブアメリカンとの関わりを知っただけでも、この映画を見に来た甲斐があったように思います。

広島での本上映は、横川シネマで8月3日から823日までのロングランで公開されます。「アメリカが“核”とどう向き合って来たのか」を知る機会になる映画だと思いますので、ぜひ足を運んでみてください。

いのちとうとし

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2024年7月11日 (木)

女性消防士は?

検察のトップである検事総長に,戦後33代目にして初めて女性が就任したことがニュースで伝えられています。検察庁による家宅捜索の現場がニュース映像で流れるとき、確かにその中に女性の姿もありますが、圧倒的に男性社会だなと実感します。私だけの感想でしょうか。

先日、マンションの防火管理者の届けを出すために必要な「防火管理に関する講習課程修了書」の再交付を申請するため、大手町5丁目にある広島市消防局を訪ねました。

私が、防火管理講習を受講したのは、マンション管理組合理事長を務めていた2011年(平成23年)で、2日間の甲種防火管理新規講習を受け、「修了書」を受け取っていたのですが、わが家を探しても見つからず、再交付を申請する羽目になったのです。

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1階の受付で尋ねると「担当課は予防課で2階です」と案内され、2階に上がりました。

予防課の窓口に行くと、すぐ目の前に座っていた女性職員が対応してくれました。

あらかじめ、申請用紙に必要事項を記入していましたので、その用紙と運転免許書を提示し、再発行をお願いしました。

消防署と言えば、何となく男性の職場というイメージを持っていましたので、手続きをしながら、その女性消防士に聞いてみました。

「女性職員は、何人ぐらいおられますか?」

「広島市の消防局には1300人ほどの職員がいますが、うち女性は60人ほどです」

女性の比率がわずかに4.6%です。これを多いとみるか、少ないとみるか。

女性は、事務職が多いのかなと思ったので「現場を担当することもあるのですか?」と尋ねると、「私は、消防局に入って7年目ですが、この4月までは現場にいました」

「なぜ、消防士を選んだんですか?」

「災害や消防、救急など人の命を守る仕事がしたかったからです」

「修了書」を再交付されるまでのわずかな時間でしたので、その他のことを聞くことは出来ませんでしたが、その部屋には20人余りの職員の姿がありましたが、担当してくれた職員以外にも3人女性の姿がありました。そのフロアーの一番奥と思われる机に女性の姿があり、「主査」の文字が見えましたので、女性消防士も役職に就く時代になっているのだなと想像しました。

消防署でも女性がもっと多くなり活躍する姿が当たり前になるにはもう少し時間がかかるようです。

帰宅後検索した広島市消防局のホームページ(消防 - 消防|広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp))の最初のページの右側に設けられた「お知らせ・Q&A」には「女性消防士の活躍について」の項目があります。これをクリックするとそこには、「自分が行なっている仕事のやりがい」や「なぜ消防士を志したのか」などが女性消防士の活躍ぶりや自身の声が紹介されています。ぜひ一度検索してみてください。

このコーナーが特別に設けられていることからも女性消防士への期待が大きいことが分かります。

女性消防士がもっと増え、活躍する場が広がることを期待したいと思います。

いのちとうとし

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2024年7月10日 (水)

「松葉カニ」と「カニ蒲鉾」の違い

6月26日水曜日、第100回となる中国電力株主総会が広島市小町の本店2階の大会議室で開催されました。

ぼくが中国電力の株主総会に出席したのは、第3代社長の山根寛作さんの頃だと思います。そして、株主として総会に議案を提出するという株主提案議案を提出するのを始めてからは、30年以上前になると記憶しています。

大下英治さんの著書で、徳間文庫か出版された「最後の総会屋」という本がありますが、そのモデルになっている小川薫(本の中では、小原薫とあります)という総会屋、彼に会ったのは中国電力の株主総会でした。背広の胸ポケットに赤色の花が差してありました。広島市生まれの彼は、広島弁丸出しで暴力団との繋がりもあったようです。

まさにド迫力で、今では考えられない一問一答の形で当時の松谷健一郎社長を徹底的に追い詰めていました。小川さんの後方から「議事進行ー」という声を掛ける株主がいました。そうすると彼は、おもむろに後ろを向き、大きくドスの効いた声で「今、ヤジをしたのは誰やあ! 立て、立たんかい」と言い、5分以上後ろを睨みつけたままの状態を維持していました。こうなると、会場はまさに静寂の世界となりました。

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株主総会の中間報告をする筆者と祝島島民の会の人たち

ぼくは子どもの頃から、他人の前で話しをすることも出来ない体質だったので、彼に驚くとともに、あんなに強くなりたいなあーとも思ったものです。彼はその後、週刊誌のインタビューに「私は、中国電力の株主総会に出席したのを最後に、総会屋を辞める」と話した記事を読みました。

不動産会社のアーバン・コーポレーションを恐喝した罪で、東京拘置所に収容されていた2009年4月、肺炎のために満71歳の人生を終えています。

今でも株主総会で大きな声をあげる、おじさん株主がいます。その人のことを「総会屋」と言う人がいますが、ぼくに言わせれば「総会屋もどき」で、高級な松葉カニと、「カニ蒲鉾」の違いにも及びません。

その人にも、この株主総会の場で会いました。向こうから「木原さん、健康に気を付けてね。長い付き合いだからね」と声を掛けられました。2日前に開催された広島ガスの総会にも出たとのことでした。

総会が始まる前、玄関あたりで中国電力の役職にいた人に会いました。「この春で退職しました。最後の数年間の仕事は、まさに不祥事の後始末ばかりでしたよ。疲れました。お世話になりました」と声をかけられました。

総会が終わって、広島バスセンターの3階食堂で、松江から総会に参加した友人と遅い昼食を食べていると、またもやその人と出会いました。笑顔で握手を交わして「お元気で!」と声を掛け合って別れました。

昨年の株主総会で社長になった中川賢剛さん、手を上げた株主に対し「そこのお客さま…」と言うので、「ここにいる人をお客だと思っているの。株主だよ。間違わないで」と注意しました。「すみません」と言いながらも、「お客さん」を3回は繰りかえしていました。ぼくは独り言で「バカみたい」とつぶやきましたが、社長になって最初の総会で緊張していたのかしれませんが、まあ-イヤハヤという感じでした。

総会の終了時間は昼12時40分、本店入口で終了まで街頭行動をしてくださった応援者の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいでした。

帰りの道沿いにあるコンビニで、発砲酒とカニ蒲鉾を買って食べながら飲んでいました。

木原省治

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2024年7月 9日 (火)

「なぜ」と思う新しい説明板が付いていました。

「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」の撤収作業は、設営とほぼ同じメンバーによって作業が行なわれましたので、12時前に運送会社に10箱に納められた荷物を引き渡し、すべての作業が終了しました。

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昼食のあと、伊藤さんが「広島城跡の大本営跡に行きたいのですが、どう行けばよいですかね」と尋ねられたので、私には次の予定がありませんでしたので、案内することにしました。伊藤さんは、1980年代には、朝鮮半島出身者の被爆者の写真撮影、2009年には「ヒロシマ・ピョンヤン」の映画製作のため訪れて以来の広島訪問だったようです。

せっかくですので、広島市水道局1階ロビーに展示されている最初の敷設された水道管を見学し、さらに隣の「臨時帝国議会仮議事堂跡」、そして少し東の広島YMCAにある済美国民学校職員生徒慰霊碑を案内し、広島城方面へ移動しました。

日清戦争当時、広島に帝国議会仮議事堂がつくられ、臨時帝国議会が開催されたことは、初めて聞く話だったようです。

さらに、広島城堀東側にある歩兵第11連隊跡をめぐり、護国神社の被爆大鳥居の説明も行ないながら、大本営跡に足を運びました。

私が、注目したのは、カメラマン伊藤さんの被写体への向き合い方です。

大本営跡に着くと、もちろん、石柱も写真に収めていましたが,少しだけ私たちとは違う目線でカメラを構えます。

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私は、こんな位置から、写真を撮ったことなどありませんので、参考になりました。

次は、中国軍管区司令部の防空作戦室跡です。ここは、伊藤さんが、大本営跡と共に最初に行きたいと言っておられた場所です。

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次は中御門跡の赤く焼けた石垣の説明をしました。

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その後、被爆樹木のマルバヤナギ、ユーカリの木を案内しました。

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2本の被爆樹木とも元気に育っていました。「ユーカリの木は、どこでも真っ直ぐに育っていたのですが。やはり被爆の影響ですかね」何度もオーストラリアを訪れている伊藤さんならではの感想です。

広島城跡を後にし、最後に広島中央図書館北側の歩道にある「井戸」を案内しました。

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「この井戸のことは初めて知りました」と話しながら熱心にカメラを向けていました。

私もスマホ構えたのですが、「おやっ」と思う新しい説明板が、竹垣に3枚取り付けられています。東西の2枚には、次のように書かれています。

「明治天皇の御用井戸跡  この井戸は元々広島城三の丸屋敷内にあったもので、水は代々の藩主に供されていたとする記録が残されています。明治27年(1894),日清戦争開戦に伴い大本営が広島城本丸跡に移された際、大本営に滞在されていた明治天皇の飲料水のために使われたことでも知られています。 広島市」

南側の説明板には、上記の文章の他に広島城から提供された昭和初期頃の写真も付けられています。

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写真部分の拡大です。

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初めて見る写真です。

数年前にここを通ったときには、この説明板はありませんでした。いつ頃この説明板が付けられたのか時期は不明ですが、ここ数年のうちに取り付けられたことは間違いないと思います。広島市が、なぜ今頃になってこの説明板を付けることにしたのか、その理由を知りたいと思いますので、一度問い合わせてみるつもりです。

伊藤さんのお陰で、知ることが出来た不思議な説明板です。

これで伊藤さんの案内は終わりましたが、あまりの暑さでしたので、水分補給をかねて、ひろしま美術館の喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲み別れることにしました。

いのちとうとし

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2024年7月 8日 (月)

2024年7月のブルーベリー農園その1

7月の1日と2日は強い雨が降ったので農園での作業はなしで体を休める日にする。3日から晴れたが農園は30度を超す気温で真夏のよう。農園全体に軽やかに響くホトトギスの鳴き声と次第に濃さを増す青葉の中で慎重に暑さにやられないよう細かく休みながら夏のブルーベリーの収穫に備える。早生のブルーベリーも実り始めてきた。

630日(日)

ブルーベリー畑の一部に防鳥ネットを設置

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7月4日(木)

風が吹いて打ち込んでいる柱が3本抜けていたので元に戻して補強した

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里山でエゴノキの実がなり始めた

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農園からの帰り道の田んぼ

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あぜ道にはネジバナが咲いている

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7月6日(土)

ブルーベリー畑を望む場所にノカンゾウが開花

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トンボのこと(名前知らず)

①75日(金)農園の庭の池で

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②76日(土)昨日のトンボを見つけたのでカメラを近づけるとズボンにとまった

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76日(土)

早生のブルーベリーが実り始めているので自家消費用に少しだけもぐ

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ブルーベリー畑の草刈りのあと防草シートを敷く作業は暑いので休み休みの作業

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畑の中のブルーベリーは色づく実もちらほら。梅雨が明けると摘み取りがはじまる

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年7月 7日 (日)

「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」今日が最終日です。

旧日銀広島支店を会場に3日から開催している「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」も、いよいよ最終日を迎えました。

会場では、熱心に写真に見る姿を目にすることが出来ます。連日午後1時と午後3時に2回実施している伊藤さんの写真解説は、多くの人が集まっています。

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私も何度か聞きましたが、朝鮮民主主義人民共和国を43回も訪れた伊藤さんならでは解説ですから、興味をそそられます。そして朝鮮民主主義人民共和国の素顔を知ることが出来ます。

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ポスターにも使われた地下鉄電車内での親子の写真(展示写真の最後)では、「この写真は、最後に訪れた2019年に撮った写真ですが、以前には市民にカメラを向けてもこんな笑顔をつくることはありませんでしたが、市民の表情もずいぶん変わったと思います。やはり少しずつ生活が豊かになっているからだと思います。親子だけでなく、周りの人の顔も見て下さい。以前だったら、周りの人は写真に写らないように逃げていたのですが、興味津々の顔でこちらを向いているでしょう。これも大きな変化の一つですね」との解説です。

最終日の今日も、午後1時、午後3時の2回写真解説がありますので、ぜひその時間に訪れて伊藤さんの話を聞いてください。

伊藤さんとアボリジニ

会場の一角には、伊藤さんが出版した本の展示コーナーがあります。

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私もそのうちの何冊かは持っていますが、ちょっと気になる一冊が目にとまりました。

2000年に発刊された「風媒社ブックレット 日本が破壊する世界遺産 日本の原発とオーストラリアウラン採掘」です。

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気になったというのは「オーストラリアウラン採掘」の文字があったからです。さっと目を通しただけですので、すべてを読んだわけではありませんが、「オーストラリアの自然世界遺産『カカドゥ国立公園』で始まったウラン鉱石の採掘。オーストラリア最大の環境汚染として国際的非難を浴びるこの事業に日本の電力会社が深く関わっている実態」をルポした記録です。

その中に、オーストラリアの先住民アボリジニの名前が登場します。

びっくりです。森滝市郎先生が、1975年に開催された被爆30周年原水禁世界大会の基調演説で「核絶対否定」「核と人類は共存できない」の反核運動の理念を確立される最後の一押しを行なったのが、その年の春に南太平洋フィジーで開かれた「非核太平洋会議」でのオーストラリア先住民族アボリジニの女性との出会いでした。その女性が訴えた「ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地である。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにしてウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである」と。このほんとの出会いは、何か不思議な縁を感じました。

伊藤さんのアボリジニとの出会いは、「環境破壊」という所からの出発だったと聞きましたが、これまで伊藤さんからこんな話を聞くことはありませんでした。今回の写真展がなければ、このこと(アボリジニの問題を共有していたこと)には気づかなかったと思います。

この本には、オーストラリアのうレン鉱山の位置図も付いています。

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「風媒社ブックレット 日本が破壊する世界遺産 日本の原発とオーストラリアウラン採掘」は絶版となっているようですが、その内容のすべては2004年に発刊された「地球を殺すな!環境破壊大国・日本」に収録されているとのことです。気になりながら森滝先生との出会い以降のアボリジニの人びとを核被害状況を知る機会がありませんでしたので、すぐに購入し,じっくりと読んでみたいと思います。

いのちとうとし

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2024年7月 6日 (土)

「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会

昨日の中国新聞の記事を読み,「広島大学初代学長森戸辰男の足跡をたどる」展示会の会場となっている広島大学霞キャンパスの「広大医学部資料館」に行ってきました。

すぐに足を運んだのは、二つほど興味がわいたからです。一つは、なぜ初代学長の足跡をたどる展示会が,千田キャンパスではなく「広大医学部資料館」何だろうかということです。もう一つは、森戸さんが、社会党から立候補し衆議院議員となられた当時の写真はないだろうかということです。

両方ともすぐに解決しました。

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1950年から1960年代に霞キャンパスの広大病院の前で撮られて写真です。左端が森戸辰男さんです。森戸さんは、在任中の1953年に広大に医学部を設置し、その後霞キャンパスに移転させています。さらに、当時被爆者の放射能による健康被害を研究していたのが、ABCC(のちの放影研)だったことから、日本人の手で放射能による健康被害を研究すべきだと広大医学部に1961年に原爆被爆能医学研究所の設置を実現させたのも森戸辰男さんでした。広大医学部は、そんな縁のある場所ですから、この資料館での展示会の開催になったと思われます。

上の写真、もう一つの興味は、右後方に今は全て解体された旧陸軍の兵器廠の建物が写っていることです。

社会党衆議院議員時代の写真も何枚かありましたが、興味を引かれたのは次の一枚です。

 

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展示室の蛍光灯が写り込み見にくいのですが、トラックの上で街頭演説をする森戸辰男さんです。タスキが見えませんので、選挙演説ではないようです。

1946年に衆議院議員に初当選して以来3回当選を果たし、片山内閣と芦田内閣で文部大臣などを歴任されましたが、1950年に議員を辞職し、広島大学の初代学長に就任されました。

昨日の新聞でも紹介されていますが、森戸辰男さんは、日本国憲法の制定に深く関わり,特に「全ての国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について,社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という憲法第25条の生存権に関する条文を追加することを強く訴えました。

私が、森戸辰男の名前で思い出すのは、「森戸稲村論争」と呼ばれる社会党の路線をめぐる論争の一方の旗頭であったことです。この展示会では、「森戸稲村論争」の言葉はありませんが、森戸さんが、のちに民社党をつくる人たちの立場を代表する右派の論客だったことには触れられています。

その他にも,このブログでも一度紹介した((被爆復興のために贈られた広大の供木の今: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)から3回)ことのある外国の大学から贈られてきた樹木の植樹風景や書物の受け取り風景などの写真もありました。

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最後に目を引いたのは、提示物の最後にあった「広島大学史紀要 1 号」(1999年3月31日刊)に納められた「講演森戸辰男氏と広島大学 西村博」を印刷した一冊です。

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この冊子は、1998年に広島大学で行なわれた森戸さんの元秘書をされていた西村博さんの講演を文字化したものですが、いろいろと興味深い内容が記載されています。

中でも私が興味を持ったのは、森戸さんが衆議院議員を辞職するときに行なった演説です。森戸さんは、日本国憲法制定時の首相であった幣原喜重郎さんの計らいで特別に演説する機会を与えられたようです。その一節を紹介します。

「最後に、平和にとって広島は特別の意義を持っております。広島は日本一の軍都でありましたが、昨年皆さんのお力によりまして,代表的な平和都市となりました。世界的に見ましても原子力時代の世界の平和運動は、今日、ノーモアヒロシマズ,もはや広島の惨劇を繰り返すなということをスローガンとしています。かような意味で、日本において代表的な,そして今や世界的に見ても重要なこの平和都市は、それにふさわしい平和主義に立つ立派な大学を持つべきであります。かような大学をつくりたいというのが、年来平和主義とユネスコと世界連邦の運動に強い関心と努力を払ってきた私のささやかな念願でございます。」

平和主義に徹した立派な大学をつくりたいという強い思いが,衆議院議員の辞職につながり、そのことが衆議院本会議で語られたことに強い興味を持ちました。このことを知っただけでもこの展示会に来た甲斐がありました。

そして広島大学には、その精神をきちんと受け継いで欲しいと強く思いながら、会場をあとにしました。

いのちとうとし

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2024年7月 5日 (金)

7月の「3の日行動」

戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、3日の午後5時半から本通電停前で7月の「3の日行動」街宣を行ないました。

事務局長の藤元さんの司会ではじまった街宣の一番バッターは、共同代表の一人川后和幸さんです。川后さんは、岸田首相が進める軍拡路線を厳しく批判しました。

続いてアイ女性会議の貴田月美さんが、遅々として進まない能登半島地震による被害対策について数字をあげながら「棄民政策だ」厳しく批判しました。

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私もその通りだと思います。確かに地形的な困難な問題もありますが、仮設住宅、水道の復旧などの遅れは酷すぎます。自民党は、「閉会中の憲法審査会の開催」をいいますが、それよりも、遅れている能登半島の災害復旧のため災害対策特別委員会を開催し、現状の把握、国がやるべきこと、自治体がやるべき施策は何かを本気で論議するのが先ではないかと強く思います。私が国会議員に当選した年の2000年起きた三宅島の噴火による災害対策のため、国会閉会中の8月22日に災害対策特別委員会の派遣メンバーとして伊豆諸島の現地視察をしたことを思い出します。当時、三宅島の空港が使えなくなっていたため、自衛隊のヘリコプターで行くことになり、「エッ自衛隊のヘリコプターに乗るの!」と一瞬躊躇したことも今にして思えば、懐かしい思い出です。

「3の日行動」の報告に戻ります。以下、次の発言が続きました。

呉総がかり行動実行委員会の下末(したすえ)かよ子さんの「呉の日鉄跡地の軍事拠点化に反対しよう」という訴え。次は、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークの土井桂子さんの「米兵による沖縄での相次ぐ少女暴行事件が、なぜか政府によって隠蔽されてきた」問題。

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続いて共同代表で弁護士の山田延廣さんは、松井広島市政の「平和ノートからのはだしのゲン削除、職員研修での教育勅語の引用、市民の合意なしの平和公園とパールハーバー国立公園の姉妹提携」などを批判すると共に今年の8月6日の死没者追悼平和祈念式典における「法律の根拠もないまま進める平和公園への入場規制、持ち物検査」方針の問題点を訴えました。

最後に広島パレスチナともしび連帯共同体の田浪亜央江さんが、イスラエルによるガザでのジェノサイドとも言える虐殺の現状とその歴史的問題点と背景を解説しながら、失われる子どもたちの命を守るため「即時の停戦が必要だ」と呼びかけると共に、こうした暴挙を繰り返すイスラエルヘの8月6日の祈念式典ヘの招待を広島市は取り消すべきだと訴えました。

今月は、6人がマイクを握りましたが、うち4人が女性弁士でした。いずれの弁士も力の入った訴えでした。

行動の参加者は、30人でした。

いのちとうとし

【編集者】毎月5日は、あかたつさんのシリーズ「ヒロシマとベトナム」を掲載していますが、今月はあかたつさんが出張中のため休止となりました。

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2024年7月 4日 (木)

第43回反核平和の火リレーがスタート

今年で43回目を迎える「反核平和の火リレー」の出発式が、昨日午前7時55分から平和公園・原爆慰霊碑前で行なわれ、私も県原水禁を代表した参加しました。

「反核平和の火リレー」の実行団体である広島県青年女性平和友好祭実行委員会笠松丈人事務局長の司会で始まった出発式は、献花、黙祷の後、自治労広島県本部青年部長福島久哉さんの手で「平和の灯火」からの採火が行なわれ、慰霊碑まで待つ第1走者新田康博実行委員長のトーチに点火されました。

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左が福島さん、右が新田さん

その後の来賓のあいさつの中でも触れたのですが、1982年に「反核平和の火リレー」を取り組むことを決め準備の中で、「平和の灯火」からの採火について、広島市との交渉を行なったのが私でした。当時の広島市の担当者は、佐伯さんという被爆者。「平和の灯火」からの採火を求められたのは初めてということで、どうするか佐伯さんと二人で「採火方法」や許可申請(当時は初めてのことで、当然のことですが現在のような申請書はなかった)などについてなどいろいろ相談しながら進め、ギリギリになった何とか許可が出ました。ただ、被爆者の佐伯さんは、「反核平和の火リレー」の意味を理解していただき、本当に協力的だったことを思い出します。

佐伯さんの思いは、その後の各地での被爆者の皆さんの激励、反核平和の夕べ(平和の火が泊まる自治体で実施)での被爆体験証言など、被爆者への期待につながるものだったと思います。

来賓のあいさつは、広島県原爆被害者団体協議会の熊田哲治事務局長、広島県平和運動センターの高橋克浩議長、そして私の3人です。最後に、松井一實広島市長のメッセージが紹介された後、新田康博第1走者による決意の表明が行なわれ、福島久哉(自治労広島県本部副部長)など伴奏者7人と共に午前8時15分に最初の引き継ぎ場所である原爆ドームを目指して慰霊碑前を出発しました。

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今年の反核平和の火リレーは、7月3日から7月23日までの土日祝日を除く14日間で、県内23市町村、636.9km577区間を走り継ぐ予定です。ランナーは、1000名を目標に、一般公募も行なっています。

原水禁にとっても、8月4日からはじまる被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会の前段の取り組みとして、積極的に支援したいと思っています。

例年雨の影響で、余儀なく中止される区間がありましたが、厳しい暑さが予想されますが今年はぜひ完走し、23日日の夕方には、無事平和公園原爆慰霊碑前に帰ってくることを祈っています。

いのちとうとし

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2024年7月 3日 (水)

今日からスタートです。伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」

先日予告をした「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』広島展」が、いよいよ今日から7日までの日程で旧日銀広島支店を会場にスタートします。

昨日午前10時から、三重から来広された伊藤孝司さんの指導を受けながら、同写真展実行委員会のメンバーなど9人によって、無事会場設営が行なわれました。

写真が会場に届いたのは、12時少し前でした。昼食をとり梱包を解き展示の作業に取りかかったのが、12時半でした。伊藤さんが、事前に配置場所を決めて図面化されていたことと、午前中にパネルの位置決めなどの作業を終えていましたので、108枚という写真でしたが、取り付けメンバーの手際よい作業で、意外に早い午後3時半過ぎには、全ての展示が完了しました。

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朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)でお会いしたことのある懐かしい被爆者の写真があります。その写真を見ると「今もお元気だろうか」「まだ何も出来ていない」という自責の念に駆られます。

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「写真記録原爆棄民」(1987年刊)に納められた朝鮮半島出身の被爆者の写真にも目を奪われます。

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1992年の初訪朝以来、約10回訪朝していますが、私が目にすることの出来なかったピョンヤンの街の様子、人びとの姿が,活き活きと写されています。

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共和国を何度も訪れた伊藤孝司さんならでは写真だと思います。

設営の準備に携わり、改めてこの写真展に、一人でも多くの人たち、とりわけ広島市民の皆さんに見に来て欲しいと思いました。

毎日午前10時から午後5時まで入場が可能で、午後1時と午後3時には、伊藤さんによる写真解説が行なわれます。伊藤さんによれば、「以前の写真展では1時間以上かけて解説をした」とのことですので、思い入れのある広島で写真展ですので、どんな解説になるか楽しみです。

共和国の今の姿を、そして置き去りにされている在朝被爆者ヘの思いをこの写真展を通じて共有できればと思います。

私も午前8時からの平和の火リレー出発式に参加した後、会場に向かうつもりです。

いろいろな形で多くの人にこの写真展のことを知らせていただいていますので、多くの人の来場が期待されます。

どうか会場に足を運んでください。

いのちとうとし

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2024年7月 2日 (火)

再設置が完了した大田洋子文学碑

中央公園にあった被爆作家の大田洋子文学碑は、サッカースタジアムの建設のため撤去され広島市が保管をしていましたが、ようやく再設置されました。

市民団体「広島文学資料保全の会」などの「この場所に設置された意味を考え、スタジアム建設後も元あった場所の近くに設置して欲しい」との要望を受け、広島市は当時、「これまでの場所から約20メートル南西の広場西側に再設置する」方針を説明していました。

サッカースタジアムの周辺工事もだんだん整備が進んでいますので、大田洋子文学碑は、どこに設置されるだろうかと気になっていましたので、「広島文学資料保全の会」のメンバーに問い合わせていました。すると先日「大田洋子の文学碑が,サッカースタジアムの西側に設置されたよ。ただ、正式の完成は全ての周辺工事が完了する8月1日になっているようだけど」と連絡が入りました。

一昨日、雨模様の中現場に行ってきました。

広島市が移転前にいっていた「南西の方向」ではなく、「北西の方向」の太田川土手のすぐ下に移設が完了していました。

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「この碑は、大小15個の石を四國五郎さんが『碑文を刻んだ中心の碑石に向かって、あたかも爆心から爆風によって吹き寄せられたかのように並べた』(大田洋子文学碑建立記念誌より)ものなので、再設置するときも必ずこの配置にして欲しい」と会の人たちが要望していましたので、移設前に広島市もきちんと測量し。位置図をつくりました。ですので、同じ並びに再設置されたはずです。はずですというのも、私が正確に実測したわけではありませんので、こう書くしかありません。

私も大田洋子文学碑については関心がありましたので、このブログでも2020年9月18日フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)と9月19日フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑-つづき: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の2回にわたって書いたことがあります。また撤去された大田洋子文学碑の石の保管場所についても2021年2月2日大田洋子文学碑の保管場所: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しています。9月19日のブログでは、移設前の写真を掲載していますので、再掲します。

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比べてみるとほぼ同じ配置だということが分かります。

また周辺は整備の工事中ですが、サッカースタジアム西側にある城南通から基町市営住宅に通じる車道沿いであり、すぐ南側には、太田川土手から降りる石段がつくられていますので、多くの人の目に触れる場所です。

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サッカースタジアム建設では、中央公園にあった多くの木が伐採されましたが、太田川土手沿いのサクラは切られていなかったようで大田洋子文学碑の真後ろにもそのうちの1本が残っています。(この写真の石段部分は、切られたと思われますが)

サクラの季節には、良い風景になるのではと思われます。

大田洋子文学碑の周囲も含めサッカースタジアム周辺の整備は、今月いっぱいで完了する予定ですので、「広島文学資料保全の会」のメンバーは、8月2日に行事を予定(1日は広島市の行事があるため)しているそうで,その時は私も参加したいと思っています。

いのちとうとし

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2024年7月 1日 (月)

憲法を守る広島県民会議は、いつ結成された?

毎年「128不戦の誓い」や「211紀元節復活反対ヒロシマ集会」、5月3日の新聞意見広告などを取り組んでいる憲法を守る広島県民会議が、いつ結成されたのだろうかとずっと考えていました。

予想としては、自民党が中心となって内閣に憲法審査会(50人以内で構成し、うち国会議員は30人以内、学識経験者は20人以内)を設置した1956年に、この改憲の動きに反対するためつくられたと思っていました。しかし、それを裏付ける資料を見つけることが出来ずにいました。

ところが最近、手持ちの資料を整理しているとき、貴重な資料が見つかりました。昭和29年(1954年)3月10日付で発行された「広島生活新聞」です。

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「広島生活新聞」は、裏表②ページの新聞で、発行所は,「広島生活新聞社 広島市下柳町六番地」の「安佐郡分室 祇園町長束」で、編集発行人は「栗原唯一」です。

栗原唯一さんは、原爆詩人栗原貞子さんのパートナーで、社会党の県会議員だった人です。県議会議員を3期務め引退した後も護憲、反戦、人権擁護を叫び続けてこられました。

ですから栗原唯一さんが1980年に亡くなられたときに開催された「偲ぶ会」(主催者が誰だったか覚えていませんが会場は労働会館でした)の会場正面に大きな「護憲」の旗が掲げられていたことをはっきりと覚えています。

「広島生活新聞」の一面に戻ります。右肩にある大見出しは「憲法擁護は公務員の義務」で次に「国民一丸となって運動展開を」の一行、さらに「憲法擁護国民連合廣島會議結成総會」と書かれています。「憲法擁護は公務員の義務」が大見出しになっていることにちょっと感動を覚えます。

「憲法調査会」の設置が、1956年だったことを書きましたが、本文を読んでいくと、この頃から憲法改正の動きがあったことがうかがえますので、私の予想も間違いではなかったようです。。

1954年3月6日に行なわれた結成総会には労組、文化人、民主団体代表約100名が出席し、発起人代表の広大長田新教授があいさつを行なっています。

長田さんのあいさつが、「先づ憲法の理解から」(原文のママ)の見出しで次のように紹介されています。ちょっと興味がありますので、最初の部分を引用します。

「平和憲法は擁護せられなければならないことはもちろんであるが、その憲法を読んだ人、その持つ意義を知っている人が日本人に何割いるだろうか。国会議員を始め政治家という人びとの中にもその持つ意義を理解しない人がたくさんいるように思う。平和憲法擁護運動は改めて国民大衆にこの憲法を知らしめその持つ意義を知らしめる所から、始めなければならない。我々の周囲の人があつまり憲法の全文をよく読み質疑することだけでも意義があります。」

今も「その通り」と拍手を送りたい長田さんのあいさつです。

ですから「広島生活新聞」の裏面には、「平和憲法を守れ」という主張と合わせ、全面を使って憲法の大切な部分が、掲載されています。

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もう一度一面に戻ります。最下段に「憲法擁護国民連合廣島會議結成総會」の宣言文が全文(と思われる)掲載されています。最初と最後を引用します。

「原爆、水爆の新しい世界では、国際間の紛争を武力で解決するというのではなく政治・外交特に平和国民相互の活合によって平和的に解決するということがどうしても実現されなくてはならない」とした後、再軍備の動きと憲法改悪の動きを批判し、最後に「このためわれわれは党派主張を超えてここに憲法擁護国民連合広島会議を結成し、都市、農漁村の津々浦々に至るまで、ひろく平和を愛好する国民の良心に訴え、憲法改正の可否を決定する主権者たる国民の自覚を促し国民の力を結集し、軍国官僚の復活の野望をうちくだき、ひろく根強い憲法擁護国民運動を展開線とするものである。」と結んでいます。

この「広島生活新聞」の発行者である栗原唯一さんが、「憲法を守る県民会議」の役員も続けておられたことを考えると、「憲法擁護国民連合廣島會議」の名称がいつ「憲法を守る広島県民会議」に変更になったのか定かではありませんが、発足の時期は、1954年3月6日だったと結論づけても良いのではないかと思います。

こう書きながら気になる日付だなと思いました。この5日前の「3月1日」,原水禁運動の出発点ともなったビキニ水爆実験が行なわれていたのです。大きな問題になったのは、第五福竜丸が帰国した3月14日以降ですので、6日にはまだこのニュースは広島には届いていませんが。

いのちとうとし

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