毎年「12・8不戦の誓い」や「2・11紀元節復活反対ヒロシマ集会」、5月3日の新聞意見広告などを取り組んでいる憲法を守る広島県民会議が、いつ結成されたのだろうかとずっと考えていました。
予想としては、自民党が中心となって内閣に憲法審査会(50人以内で構成し、うち国会議員は30人以内、学識経験者は20人以内)を設置した1956年に、この改憲の動きに反対するためつくられたと思っていました。しかし、それを裏付ける資料を見つけることが出来ずにいました。
ところが最近、手持ちの資料を整理しているとき、貴重な資料が見つかりました。昭和29年(1954年)3月10日付で発行された「広島生活新聞」です。

「広島生活新聞」は、裏表②ページの新聞で、発行所は,「広島生活新聞社 広島市下柳町六番地」の「安佐郡分室 祇園町長束」で、編集発行人は「栗原唯一」です。
栗原唯一さんは、原爆詩人栗原貞子さんのパートナーで、社会党の県会議員だった人です。県議会議員を3期務め引退した後も護憲、反戦、人権擁護を叫び続けてこられました。
ですから栗原唯一さんが1980年に亡くなられたときに開催された「偲ぶ会」(主催者が誰だったか覚えていませんが会場は労働会館でした)の会場正面に大きな「護憲」の旗が掲げられていたことをはっきりと覚えています。
「広島生活新聞」の一面に戻ります。右肩にある大見出しは「憲法擁護は公務員の義務」で次に「国民一丸となって運動展開を」の一行、さらに「憲法擁護国民連合廣島會議結成総會」と書かれています。「憲法擁護は公務員の義務」が大見出しになっていることにちょっと感動を覚えます。
「憲法調査会」の設置が、1956年だったことを書きましたが、本文を読んでいくと、この頃から憲法改正の動きがあったことがうかがえますので、私の予想も間違いではなかったようです。。
1954年3月6日に行なわれた結成総会には労組、文化人、民主団体代表約100名が出席し、発起人代表の広大長田新教授があいさつを行なっています。
長田さんのあいさつが、「先づ憲法の理解から」(原文のママ)の見出しで次のように紹介されています。ちょっと興味がありますので、最初の部分を引用します。
「平和憲法は擁護せられなければならないことはもちろんであるが、その憲法を読んだ人、その持つ意義を知っている人が日本人に何割いるだろうか。国会議員を始め政治家という人びとの中にもその持つ意義を理解しない人がたくさんいるように思う。平和憲法擁護運動は改めて国民大衆にこの憲法を知らしめその持つ意義を知らしめる所から、始めなければならない。我々の周囲の人があつまり憲法の全文をよく読み質疑することだけでも意義があります。」
今も「その通り」と拍手を送りたい長田さんのあいさつです。
ですから「広島生活新聞」の裏面には、「平和憲法を守れ」という主張と合わせ、全面を使って憲法の大切な部分が、掲載されています。

もう一度一面に戻ります。最下段に「憲法擁護国民連合廣島會議結成総會」の宣言文が全文(と思われる)掲載されています。最初と最後を引用します。
「原爆、水爆の新しい世界では、国際間の紛争を武力で解決するというのではなく政治・外交特に平和国民相互の活合によって平和的に解決するということがどうしても実現されなくてはならない」とした後、再軍備の動きと憲法改悪の動きを批判し、最後に「このためわれわれは党派主張を超えてここに憲法擁護国民連合広島会議を結成し、都市、農漁村の津々浦々に至るまで、ひろく平和を愛好する国民の良心に訴え、憲法改正の可否を決定する主権者たる国民の自覚を促し国民の力を結集し、軍国官僚の復活の野望をうちくだき、ひろく根強い憲法擁護国民運動を展開線とするものである。」と結んでいます。
この「広島生活新聞」の発行者である栗原唯一さんが、「憲法を守る県民会議」の役員も続けておられたことを考えると、「憲法擁護国民連合廣島會議」の名称がいつ「憲法を守る広島県民会議」に変更になったのか定かではありませんが、発足の時期は、1954年3月6日だったと結論づけても良いのではないかと思います。
こう書きながら気になる日付だなと思いました。この5日前の「3月1日」,原水禁運動の出発点ともなったビキニ水爆実験が行なわれていたのです。大きな問題になったのは、第五福竜丸が帰国した3月14日以降ですので、6日にはまだこのニュースは広島には届いていませんが。
いのちとうとし
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