ヒロシマとベトナム(その59) ~南シナ海をめぐる動向-3~
最近、南シナ海で最も対立が深まっているのがフィリピンと中国です。下の地図は各国が主権を主張する境界線です。フィリピンと中国の境界線が近接しているのはパラセル諸島(西沙諸島)東のスカボロー礁(黄岩礁)と、スプラトリー諸島(南沙諸島)ですが、(その57)で報告したようにスプラトリー諸島(南沙諸島)で中国海警局とフィリピン漁船や沿岸警備隊との「衝突」が頻発しています。
スプラトリー諸島(南沙諸島) 争いの構図
第二次世界大戦直後の1946年、フィリピンは「スプラトリー諸島(南沙諸島)を自国の国防範囲に含める」と発表し、中国は1953年、中国は地図に見る境界線を「9段線」(注1)を引き、自国領と主張を始めます。
1956年、フィリピン出身の民間人がスプラトリー諸島(南沙諸島)北部海域の島に上陸したのを契機に、フィリピン政府はこの島を「自由の島」を意味する「カラヤン島」と名付け、自国領と宣言しました。これに対し、台湾(中華民国)は、南沙諸島最大の島である中国名「太平島」(英名イトゥアバ島、ベトナム名ダオ・バオ・ビン島、フィリピン名リガオ島)に軍隊を駐留させ、南ベトナム(注2)はスプラトリー島に国旗を掲揚して抗議します。こうしてスプラトリー諸島(南沙諸島)海域の領有権をめぐり、中国・フィリピン・ベトナム・台湾の4カ国で争いが始まります。
それまで比較的穏やかに推移していた争いが、厳しく熾烈になり始めたのが国連極東アジア経済委員会(ECFAE)の調査の結果、1970年代に石油や天然ガス埋蔵の可能性が取り沙汰されて以降です。ちなみに米エネルギー情報局のまとめでは、南シナ海全体の石油埋蔵量は110億バレル、天然ガスは190兆立方フィートとされています。
こうした中、1971年にマレーシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部の領有権を主張し始め、80年代には岩礁の占拠を始めます。1984年にイギリスから独立したブルネイ(注3)も、1988年の「ブルネイ大陸棚図」をもって領有権を主張し、先の4カ国に加え、現在6カ国が争う構図が作られたのです。
アメリカ軍の「対中国戦略」拠点 フィリピン
その大きな要因は前にも述べましたが石油や天然ガスなどの海底資源をめぐる権益争いにありますが、同時に対立を深める米中関係があります。
1899年、アメリカはスペインとの戦争に勝ちフィリピンの植民地支配を引き継ぎます。フィリピンは独立を宣言し1899から4年にわたって抗米独立戦争(注4)を戦いますが敗れ、アメリカの植民地になります。
出典:ウィキペディア ゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画 フィリピン人を銃殺する米兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」とあります。 |
アメリカの植民地時代~独立後を含めフィリピンは120年にわたり、アメリカの軍事戦略上の要地とされてきました。中国の経済発展を背景に軍事力の近代化と海洋進出が強まる中で、南シナ海、とりわけスプラトリー諸島(南沙諸島)における米軍のプレゼンスが強まってきます。
1991年に撤去された米海軍スービック基地とクラーク空軍基地が2015年に再開され、その後も「台湾有事への備え」を含め、フィリピンでの新基地建設が進められ現在では9つの基地が置かれています。こうした動きが、南シナ海の緊張を高めているもう一つの要因です。
こうした中で顕著なのが日本の動きで、日米豪比による軍事的な連携が進められています。昨年、「同志国」の軍に装備品を提供する枠組みである「政府安全保障能力強化支援(OSA)」を初めて適用し、フィリピンに沿岸監視レーダーや艦船を提供したのに続き、今年4月には護衛艦「あけぼの」が参加して日米豪比による共同訓練を実施しました。5月2日にはハワイで4カ国の防衛相会談が行われ、引き続きフィリピン軍に対する能力構築支援とあらゆるレベルでの連携強化が合意されました。
出典:護衛艦隊ニュース 手前からオーストラリア海軍のフリゲート艦、フィリピン海軍のフリゲート艦、日本の護衛艦「あけぼの」、アメリカ海軍の沿岸海域戦闘艦 |
2014年の武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を廃止し、武器輸出を実質的に解禁する「防衛装備移転三原則」を強行成立して10年、日本は南シナ海という「ホットな海域」で武器を携えて同盟国(や同志国)の軍隊と行動を共にするところまで来ています。間もなく「被爆79周年」(8月6日)、「戦後79周年」(8月15日)を迎えます。南シナ海をめぐる動向に日本が深く、危うく関わっている事態を直視しなければと思います。
次号ではフィリピンが提訴した南シナ海仲裁裁判所の裁定を取り上げます。
(注1)9段線
1953年から中華人民共和国(中国)が南シナ海全域の権利を主張する上で境界線として地図上に破線を引いたもので、1947年に中華民国(台湾)が南京で制定したものが原形。もともとはトンキン湾にも二本の線が引かれて「十一段線」と呼ばれていたが、中国が当時良好だった北ベトナムとの近隣関係に配慮し、現在の九段戦に改めたの。
(注2)南ベトナム
1945年、フランスからの独立とベトナム民主共和国建国。1954年、ベトナム独立同盟会(ベトミン)とフランスとの戦いに勝利(ディエンビエンフーの戦い)。「ジュネーブ協定」により北緯17度線で南北に分断。その後、1975年のベトナム戦争勝利、翌年の南北統一までの21年間、ベトナムは南北ベトナムに分断されていた。南ベトナムは当初フランスの傀儡政権であったが、1954年以降はアメリカに変わる。
文中にある1956年当時の南ベトナムは初代大統領のゴ・ジン・ジェム政権。
(注3)ブルネイ
ブルネイ・ダルサラーム国、立憲君主制。面積5765平方キロメートル(三重県とほぼ同じ)、人口44万715人(2021年)、首都バンダルスリブガワン。石油や天然ガスなどの資源が豊富。イスラム国でイギリスの保護国、イギリスの自治領を経て1984年に完全独立。1941年に日本軍が侵攻、1945年の敗戦まで日本が統治。
(注4)抗米独立戦争(米比戦争)
独立を宣言したフィリピンが戦った1899~1902年の戦争。フィリピンが敗れアメリカの植民地支配が確定。アメリカ帝国主義のアジア進出の一環として起きた戦争。列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、間もなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つ。
1901年9月28日、サマール島で「バランギガの虐殺」が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。米軍人アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じ、少なくとも10万人が殺されたと推定されている。
文中のゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画には、その様子が描かれている。
(2024年6月5日、あかたつ)
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