「広島ブログ」

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2024年6月

2024年6月30日 (日)

2024年6月のブルーベリー農園その4

621日が夏至。少しずつ日が短くなるが農園の周囲も若葉は青葉に色濃く変わっていく。野も山も青と呼ばれるまでには真夏を待つことになる。ブルーベリーの実もまた青くなるがこちらは7月に入ってから。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に行ってブルーベリー栽培を続けていて主な実の納品先は安芸区矢野にある(社福)安芸の郷だが、そこで栽培している早生のブルーベリーはもう収穫が始まっている。生食の100グラムパックやブルーベリージュースの販売もcafeさくらで始まっているのでブルーベリーをお求めのお客さんでにぎわってきている。

622日(土)

雨が降っているので農作業はなし。里山のブルーベリー園のふもとの田んぼ。休耕田には黄色いルドベキアの花も見える

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624日(月)

里山のブルーベリー園西側の早稲を栽培しているエリアの草を刈る

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625日(火)

草を刈ったので次に同じ場所に防鳥ネットを張る

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628日(金)

ブルーベリー畑では晩生の品種を育てている。春から伸びた枝がたくさん出ている

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背が高くなりすぎたらいけないので伸びた枝の先端をカットする作業を降ったりやんだりの天気の中で行う

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6月にカットした枝の先端では側芽が出てきているのがわかる。真夏にかけてもう少し枝が伸びる。この新しい枝に花芽がつくので収穫する実の量がふえる

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ヤブカンゾウの蕾がうっすら色づいた

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ブルーベリー畑ののり面にあるネムノキ

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開いた花、もう少しで開く花、まだ蕾の花

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農園の家のあちこちの花壇に咲くナンテンの花

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富有柿が実をつけた

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年6月29日 (土)

中国訪問余話

飛行機が北京空港に着陸してから北京空港を離陸するまで、26時間余りの中国滞在でしたので、多くの場所に行くことは出来ませんでしたが、いくつか新しい体験をしましたので、今日はそれを紹介します。

荷物検査は全くなし

北京空港に到着し入国検査を終え、預けた荷物がありませんのでそのまま次は荷物検査へと進みました。ところが、検査場と思われる場所に全く人の姿が見えません。「エッ」と思ったのですが、出口に立っていた職員が手で進めと合図をしますので、半信半疑の思いながら出口へと急ぎました。荷物検査は、全くなしでした。

「One day before」

宿泊先の北京飯店は、天安門や天安門広場まで徒歩で約5分の近さです。せっかくだからと、私も天安門に行くことにしました。6年前にも経験したことですが、手荷物や身分証明のチェックがあります。最初の関門は、パスポートを提示(中国の人は、日本のマイナンバーカードと同じような身分証証明カードを提示)すると,簡単に通過できたのですが、二つ目の検査場でストップがかかりました。係官が英語で何かしゃべっています。なんとか聞き取ると「One day before」といっているようです。事前の予約(一日前)がなければ、ここから先には進めないようです。私の英語力でも理解できましたので、引き返すことにしました。

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予約が必要なことは、実は事前に分かっていました。中国人民平和軍縮協会の安秘書長との懇談が終わった帰りのタクシーの中で,運転手から「明日はどこかに行きますか」と問われたので、「今まで天壇(明時代に「皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所」として建立された)に行ったことがないので、そこに行ってみたい」と希望したところ,運転手がスマホで検索し「予約がないとは入れないですね。コロナ以降、大きな公園などは予約が必要になっています。天安門広場の国旗掲揚も同じです」と教えられていたのです。

街の中をぶらつくのは、自由のようですが、大きな観光場所は、事前の予約が必要になっているようです。

翻訳機能を駆使

中国語も英語もできない私が、タクシーの運転手とどうして会話をしたのかです。

北京空港から北京市内に移動中の車中で運転手が、後部座席にいる私にスマホの画面を見せます。そこには日本語で「ホテルまで50分かかります」と書かれていました。

スマホの翻訳アプリが、当たり前のように使われていました。北京飯店に到着後、近くを散策し、昼食を食べに入ったレストランでも体験しました。写真の入ったメニュー表に載っている品を指で示して注文したのですが、注文が通った後、店員がスマホを手に話しかけてきました。「一人で来たのですか」「日本のどこから来たのですか」ここでもスマホの画面を通しての会話です。

中国では、少なくとも外国人客が来るお店だ働く人たちは、当たり前のようにスマホの翻訳アプリを使って会話をしているようです。

ですから、私とタクシーの運転手との会話も十分可能でした。ただ、不安になるのは、運転中にも関わらず,運転席から何度も後部座席の私に日本語表示されたスマホをみせることです。交通事故は起きないかと不安になります。

翌日の観光場所を相談したときだけは、長くなりそうなので「車を止めて話したい」と希望しました。

交通事故の不安を感ずることもありましたが、スマホのお陰で、「空港に行く前に、中国の人たちが行く麺の美味しい店に連れて行って欲しい」とのお願いが、スムースに実現することが出来ました。

北京でも有名なジャージャー麺を食べることが出来ました。

翌日、私の希望をかなえて連れて行ってくれたのは、ホテルから空港へは少し逆方向にあるレストランでした。

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前日の夜には、「お店は案内しますが,車が止めにくいので一人で楽しんでください」と言っていたので、運転手は店に着くと何品かを注文します。私は、美味しい麺が食べたいと思っていたので、ちょっとびっくりです。運転手は、注文するとすぐに外に出てしまいました。「どうなるのだろう」と不安に思っていると,車をどこかに止めたのでしょう、すぐに引き返して,一緒に食事をとってくれました。もちろんジャージャー麺もあります。

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ジャージャー麺は、上の皿に盛られた野菜、味噌を入れてかきよくかき混ぜて食べます。

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麺好きの私は、ジャージャー麺だけでも充分に満足でしたが、他の四品(写真には一品写っていない)も全て美味しく堪能しました。

帰国後、知ったことですが、この店はジャージャー麺が有名で、夏になると北京市民も多く訪れるとのことでした。

運転手(名前を一度名乗ってくれたのですが、良き聞き取れず名前を紹介することが出来ません)さんのお陰で良いお店に連れて行ったもらい、短い北京滞在でしたが、思い出を残すことが出来ました。

いのちとうとし

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2024年6月28日 (金)

「核先制不使用」政策の継続を

今月20日、原水禁国民会議の代表団として北京を訪れ中国人民平和軍縮協会(以下「中国軍縮協会」)と交流を行ないました。昨年の原水禁大会に中国代表団が参加し交流していますが、訪中しての両団体の交流は、2018年以来6年ぶりです。

当初、染共同議長を含む3人で訪中する予定でしたが、染さんのビザ発給が間に合わず、私ひとりの訪問となりました。出発前日に決まったため一人旅に不安がありましたが、中国軍縮協会から「一人でもぜひ訪中を」との連絡もあり、代表団とは名ばかりの一人での訪中となりました。

当初、午後3時半から中国軍縮協会の事務所で懇談が予定されていましたが、私ひとりの訪問となったためでしょうか、午後5時半から夕食をとりながらの懇談に変更となりました。

中国軍縮協会の安秘書長とは、安さんが秘書長に就任された直後の2017年7月(別の目的で訪中)、翌年7月の原水禁訪中団、翌2019年秋に安秘書長が広島平和文化センター招待での広島を訪れたとき、安秘書長からの要望で特別に二人だけの会談を行なうなど何度か個人的な関係での意見交換を行なって来ましたので、今回も食事をとりながらでしたが、率直な意見交換が出来たと思います。今回の会談には、中国軍縮協会のアジア太平洋州部門の責任者である孫処長(40歳)も同席しました。

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向かって右が安秘書長、左が孫処長

 食事に入る前、私から二つの意見を述べました。一つは、中国がとり続ける「核先制不使用」の政策を今後も継続して欲しいこと、二つは、今年8月に開催する原水禁大会に代表団を派遣して欲しいということです。特に「核先制不使用」政策については、核保有国が「核兵器禁止条約」を批准しない現状の中で、厳しい核状況(核兵器使用をほのめかす保有国の発言が相次ぐなど)の不安を除くためには、全ての核保有国が「核先制不使用」宣言を行なうことの重要性を強調しました。これに対し、安秘書長は「中国は核先制不使用政策を変える考えはない」と応じました。原水禁大会への参加は、「近く会議が予定されているので、この中で検討する」との回答でした。

その後、現在の日中間の問題について、率直な意見交換を行ないました。安秘書長が特に意見を求めたのは、「汚染水海洋放出」問題、「岸田首相の後継は誰になるだろうか」ということです。「汚染水海洋放出」問題では、「IAEAの報告だけが強調され、近隣諸国の危惧に対しきちんとした日本政府による説明がなされていない」ことが強調されました。私は、原水禁も「汚染水の海洋放出には反対している」とことを説明すると共に、「日本政府は、反対する諸国に納得できるような説明を尽くすべきだ」との考えを述べました。

意外だったのは、「現在の日中関係はよい方向に向かっている」という発言でした。その根拠は、一昨年11月、昨年11月に岸田首相と習近平国家主席の会談が行なわれたこと、そして今年5月には、岸田首相と李強総理との首脳会談が行なわれたことです。中国側は、平和的外交関係の強化を強く望んでいることの表れだと感じました。

その他にも環境問題,経済問題などそれぞれの意見を交換しました。

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最後に私が、「最近日本では、本屋さんの閉店が相次いでいますが、中国はどうですか。ここに来る前、王府井(ワンフーチン)書店に行ってきました。1階,入ってすぐの売り場には、今までと同じように『習近平国家主席』関係の書籍、党関係、社会科学関係の本が並んでいましたが、2階、3階は、子ども向けの売り場なっているのにびっくりしました。」話し、さらに「2018年に訪中したとき、別にお会いした方から日本語版『習近平 国政運営を語る』の1巻から3巻までいただいたのですが、第4巻はいつ頃発行されるのですか」と問うたところ、「おやっ」いう顔をしながら、お土産にと用意されていたのでしょう「実は」と言って、取り出されたのが日本語版「習近平 国政運営を語る」の第4巻でした。余りにも偶然すぎて、びっくりです。

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これを機に、お土産を交換して安秘書長との歓談は終わりました。

安秘書長は、今年10月に定年を迎え退任することが決まっていますので最後の会談になりますが、原水禁と中国軍縮協会の両組織の良好な関係を継続していくことが大切だということを確認することが出来た有意義な会談となりました。

いのちとうとし

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2024年6月27日 (木)

どうする倒木対策

雨続きで、久しぶりとなった月曜日の散歩コースは、前日に倒木した現場も見たいと思い平和大通りを鶴見橋方面に向かうことにしました。

現地は、平和大通りの鶴見橋西詰付近の南側緑地帯です。車道を挟んだ西側のブロックの被爆者の森には、今年3月に植え替えが行なわれた沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)があります。

午前11時過ぎに現地に着いたときには、業者による撤去作業が行なわれており、何台かマスコミのカメラも取材に訪れていました。

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倒れた樹は、アメリカサイカチです。市の職員の姿がありましたので、いろいろと話を聞きながら、少し作業を見ました。

今回の倒木は、風によるものではなく、大木だったためだろうと思われるのですが、雨が葉にたまり、その重さに耐えきれずに倒れたようです。

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この樹は、記憶に残っている樹です。上の写真で、倒木した木の根元の左側にロープが恋され支柱に支えられたヒコバエの姿が見えると思います。

以前、植え替えが行なわれた被爆者の森の北海道のライラックの苗木が小さいため、保護用の柵を作って欲しいと要望したことがあります。その時、私が例として示したのが、このアメリカサイカチのヒコバエの保護用に設けられた柵だったのです。

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当時親木には関心がなかったのですが、まさかこの樹が倒木していたとは、ちょっと驚きでした。

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樹木の上部の撤去が終わり、根元部分の撤去に作業が移ります。よく見て欲しいのですが、親木を支える支柱の一部が残っています。市の職員の話では、この樹は,支柱が設けられていたのです。

別の角度から見ると、根元が少し腐っているのが分かりますが、昨年の点検では、支柱もあることなどから伐採対象から除かれていたのです。

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裁断された樹の上部は、処分されるようですが、この根元部分は保管して、他の樹木の倒木対策のため、樹木医に検証してもらうことになっています。

昨年の倒木により平和大通りの樹木点検が行なわれとき、やや危険な樹木が580本(と聞いたのですが、560本かも知れません)確認されたようですが、支柱などの対策がとられている樹木は、伐採を見送ったようです。

もし危険だからと全部伐採するとしたら、費用の問題、そして平和大通りの景観の問題をどうするか、難しい問題があったようです。

たまたま今回は、人的被害がなかったのですが、今後どのような対策が必要なのかは、樹木医による倒木の原因究明を待って今後の対処方針を検討することになるようです。

平和大通りの樹木は、1957年、58年の協木運動やその後国内外から寄せられた樹も多くあります。危険除去と景観保護だけでなく、そうした人たちの思いも受け止て、しっかりとした対処方針を検討して欲しいと思います。

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平和大通りの樹木の多くには、近くの竹屋小学校の子どもたちが付けた手作りの表札が付けられ、樹木の名前を教えてくれています。この樹に付けられていたカラーで描かれた表札が、そのままの姿で残っていました。この子どもたちの樹木を大切にしたいという思いも受けとめてほしいものです。

いのちとうとし

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2024年6月26日 (水)

三原地区・6月の「19日行動」

6月の定例「19日行動」を6月19日(水)午後5時30分から三原駅前において22人が参加して実施しました。

今月の街頭行動は、23日の通常国会閉会を前にして150日間にわたる国会論戦の中で、岸田首相の政権運営(自民党派閥の裏金事件、政治とカネ問題、軍備拡大政策、経済秘密保護法や地方自治法の改正など悪法の成立、経済対策など)、さらには三原市行政・市議会の本郷産業廃棄物処理建設問題・水源保全条例制定への対応などについて、7人の弁士が問題点を指摘。「市民のいのちと暮らし、平和を守り、あらゆる戦争の準備に対して反対の声を上げていきましょう」と訴えました。            

私たちのアピールを聞いていた若者が俺たちにも話をさせてほしいとマイクを持ち、Aさん「やっぱり戦争は悪いことです。政治を変える、俺らが変える。主権者は俺らです」。Bさん「私は尾道市向島に住んでいますが、向島でも戦争反対を訴えていきたい」。Cさん「戦争は反対です。全員で、せえのー戦争反対!」。と生き生きとした若者の声が街頭に響きました。

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また、6月23日は第二次世界大戦沖縄本土決戦の終結日「沖縄慰霊の日」を迎えます。先の大戦で沖縄は、アメリカ軍による地上戦で20万人の尊い人命が犠牲になりました。弁士の花田喜代子さんは、「私たちはこの日を忘れないようにしなければならない。沖縄に米軍が上陸して3か月にわたり南から北へ、北から南へ住民を追うようにして殺していった。殺されていった。6月22日に牛島司令官が自決してやっと終わるはずでしたが、最後まで戦って戦争を続けなさいということで残された兵士や住民は戦争を続けざるを得なかったということです。23日に沖縄戦は終わったということになりました。その後、沖縄は本土へ復帰し不戦を誓う「慰霊の日」となりました。今、辺野古では大変な状況になっています。なぜ辺野古に新基地を建設しなければならないのか。日本政府・首相が止めようといえば工事は止められると思う。沖縄を犠牲にしています。沖縄戦は終わったといいながらまだ続いているような状態ではないでしょうか。6月23日を忘れないために、再び沖縄を戦場(いくさば)にさせないために、私たちは学習していかなければなりません。」と訴えました。

街頭行動の最後に岡崎敏彦さんは、「国会の論戦を通じて自民党という政党が何を考え、だれのために、どんな政治をするのかいやというほど見せつけられてきた。近づく総選挙で自民党政治を終わらせなければならない。私は憲法の問題が大変心配である。日本の軍拡問題、武器輸出の問題など憲法9条を完全に無視して平然と行われている。もう後は9条の活字を変えるだけだと思う。若者の言葉にあるように私たち主権者が自民党政治を見抜き、戦争はさせない、しないことをお互い確認しあいましょう」と結びのあいさつを行い、行動を終了しました。

藤本講治

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2024年6月25日 (火)

5月に伴英幸さんと会って良かった

 原子力資料情報室共同代表の伴英幸さんが、腰を痛めているという話しは、昨年あたりから聞いていました。ギックリ腰みたいという人もいました。彼は、昨年秋に松江市で講演をする予定があったのですが、これは断っていました。嫌な予感もありましたが、忙しさを言い訳にして、2~3回電話するだけでしたが、返答は「あまり良くない」というものでした。

そしたら5月11日、原子力資料情報室のスタッフから「3月にガンだということが分かり、骨に転移していて築地の聖路加病院のホスピスに入院している」「可能だったら上関原発のことなどを話しに来ていただけないだろうか」と連絡が届きました。

「6月に予定を立てたい」と返答しましたが、彼の連れ合いから「6月まで持つかどうか分からない」という連絡がきました。そこで5月18日~19日、上京して病院で会うことができ話しもしました。

そして6月10日12時35分に、72歳で永眠しました。最後は彼の好きなピアノ曲を、病院のスタッフが病室で演奏し息を引き取ったとのことです。彼は大の風呂好きでもあったので、息を引き取った後、みんなで入浴をさせたそうです。そして6月16日に葬儀が行われました。

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彼の連れ合いから、葬儀に来ていただくことは出来ないだろうか。来ていただいたら弔辞をしてほしいとの連絡がありました。しかし、どうしても断れない用事と重なって不可能になっていました。

彼が、広島に来る時には必ず連絡がありました。僕が平和公園の慰霊碑めぐりのガイド役と重なっていた時、彼は「碑めぐりガイドは、木原さんにしか出来ないことだから、大事にしてね」と承知し励ましてくれました。

新聞で報じられていますが、彼は原子力資料情報室の共同代表として、また国の原子力政策の基本方針を策定する原子力委員会の専門家会議や、エネルギー政策に関する経済産業省の審議会などの委員も務めていました。

彼は広島風お好み焼きが好物でした。夏の原水禁広島大会には常連の講師として参加していました。上関原発のこともとても心配していました。彼が大切な打合せで上関町に行く前日、『事前レクチャー』と称して、広島市内の店でお好み焼きを食べ、話して飲みました。特に『ネキかけ』が好きで、「美味しい、美味しい」を連発したことは忘れられません。

上関と伴さんといえば、有名なエピソードがあります。ノーニュークス・アジア・フォーラムの会合で、上関原発計画地の田の浦(たのうら)海岸に案内してもらった彼は、「みんな泳がないの?」と話したかけたそうです。みんな水着を持っていなかったので、泳がなかったのです。そしたら彼は全裸で、田の浦海岸を泳いだのです。

このことを入院先で話したら、彼は大笑いをして喜んでいました。まさに大爆笑でした。「夏には祝島で神舞(かんまい)が8年ぶりに開催されるんでー。いっしょに行こうや」と話すと、大きくうなずきました。ぼくは「ヨッシャ!」と声をかけ、また二人で笑ったのです。

彼はいつも笑い、『木原節』を喜んでくれました(と勝手に思っている)。病院で交わした握手、その腕の力からは、こんなに早く逝くとは思えませんでした。今考えれば、この時に会って本当に良かったと思っています

※伴英幸さんが病室で皆さんに語ったメッセージを紹介します。

3月25日、私は原発不明がんと診断されて、都内の緩和ケア病棟に入院しています。そこで、私からの皆さんへの最後のメッセージです。

私は原発を1日でも早く止めるべく、この間ずっと皆さんと一緒に活動してきました。しかし、がんは進行し、残念ながら治る見込みがないというのが現状です。

3月11日、とんでもない事故が日本で起きてしまいました。1日でも早く原発を止めるということで、この間皆さんと一緒に闘ってきましたが、残念ながら私の寿命もきれかかっております。

こんな事故が起こらないように、この25年間闘ってきましたけれども、残念ながら原発を止めるということはできませんでした。

私に残された時間はほとんどありませんけれども、皆さんと一緒に脱原発の声を広めていく必要があると思っています。そういう声の中で、共に原子力からの撤退、これを1日でも早く進めるということで、今後とも皆さんと力を合わせて撤退に向けた運動を作り上げていくというふうに考えています。

どうぞ皆さん一緒に原発のない社会をつくるということで頑張っていきましょう。

木原省治

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2024年6月24日 (月)

府中地区・6月の「19日行動」

6月の安保法制反対する府中市民の会の行動は、午後3時30分から上下Aコープ前、午後5時から府中天満屋店前で行い、参加者いずれも10人でした。

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リレートークでは、昨日自民党が提出した「政治資金規正法改正案」が参議院の委員会で可決されたこと、イスラエルのガザ攻撃で子どもたちが殺されているにもかかわらずG7がなんの役にもたっていないことについて発言する人がまずそのことに触れました。また、プラカードが新しくなったり、自作のプラカードを持ってこられたり、この行動も9年たちますが参加者にはっぱをかけることになりました。

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発言は次のようなものでした。

A「政治資金パーテイや企業・団体献金の全面禁止、連座制の導入など政治家の責任の明確化などに自民党の『政治資金規正法改正案』はなんら答えていません。」

B「昨年のいまごろはG7のニュースばかりでした。先日イタリアで行われたG7はほとんど放送されませんでした。昨年のG7では核兵器を削減することが議題となりましたが、防衛的に『核兵器を持つことは必要』であることを認め、核兵器の削減は『永遠の課題』となっただけでした。今回のG7では議題だすらなっていません。さらに、イスラエルのガザ攻撃を認め、ロシアへの制裁とウクライナ支援を決めています。『他国への侵略を認めない。武力での解決を認めない』ことをG7が先頭をきって決めなければG7はなんの意味もありません。G7が戦争兵器を製造する企業側の代弁者になっています。」

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C「広島の8月6日の原爆慰霊日にイスラエルは招待し、ロシアは招待しないのは問題です。どちらにも同じ対応をとるべきです。広島市は『ロシアがくると混乱する。』『イスラエルには惨状を見てもらいたい。』と言っていますが。どちらの国にも広島の原爆の惨状をきちんと見てもらい核兵器を使用したらどうなるか考えてもらうことが大事です。広島市役所に市民から1000件以上の抗議があっているそうです。松井市長は変わってしまっています。松井市長はいけません。」

 終了後、7月4日(木)に山口地裁岩国支部で行われた祝島裁判第8回口頭弁論への参加要請と、来年度から使う中学校の教科書展示が7月3日(水)から 17日(水)まで府中と上下の図書館で展示されるので行って意見を書いてほしいと要請がありました。

小川敏男

【編集者】藤本講治さんから三原の19日行動の報告が届いていますが、少し長くなりますので、明後日26日に掲載します。

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2024年6月23日 (日)

2024年6月のブルーベリー農園その3

農園の地べたにはどんどん草が伸び続けている。周囲の田んぼののり面の草刈りが盛んで、切って乾かした後の野焼きの煙がたなびく。燃やした後ののり面はまるでやいとのあとのような黒い点が現れて緑の景色の中にアクセントを加えてくれる。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通ってブルーベリーの剪定作業をもう少しと言い聞かせて続けている日々。

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農園の家の裏にホタルブクロが開花。台所から見える

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620日(木)

ブルーベリー畑ののり面のネムノキの花が一輪だけ開花。蕾もたくさんついている

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620日(木)梅雨が近いので剪定したブルーベリーの枝を野焼きして片付けた

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621日(金)

ヤブカンゾウの蕾

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ルドベキア(黄色)とヒメジョオン(白色)

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ブルーベリー畑に現れたハナショウブ。種から成長したらしい

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農園の周囲にある麦畑はもう刈り取りがすんでいた

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ブルーベリー畑の剪定作業

①一番上の畑

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②一番下の畑では防草シートを敷き終えた

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里山のブルーベリー園

①ここ数か月ほとんど手入れしていないが、ブルーベリーはよく茂り、栗の木の花が満開に

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②7月初めには収穫できる早稲のブルーベリーの実だが、まだ防鳥ネットを張れてないのでヒヨドリが傷をつけている実があった。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

【編集者】6月13日のブログ教科書採択に市民の声を!: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の教科書展示会場一覧法のうち、見晴らしの会場が、「三原市中央公民館」となっていましたが、「三原市中央図書館」に変更になりました。

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2024年6月21日 (金)

ベトナムの歴史(その30-7)つづき ― 原爆投下と枯葉剤 ―

継戦能力もなく瀕死の日本になぜ?

以前も紹介しましたが、中村梧郎さんは著書「戦場の枯葉剤ベトナム・アメリカ・韓国」(岩波書店)で次のように述べられています。「そもそも枯葉剤は、第2次世界大戦の終戦間際に日本に散布する予定で準備されていたものだった。アメリカ現代史の権威、スタンフォード大 学B. J.バーンスタイン教授によれば、1945年5月に米陸軍に提出された計画は、東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯にチオシアン酸アンモニウムをB-29から投下し、穀物を全滅させようとする内容だった。(中略)対日枯葉作戦の詳細な計画の報告書が米陸軍航空隊副司令官エイカー中将に届いたのは、長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日のことであった。このときにはもう日本の降伏が時間の問題だったために作戦は実行されることはなかった。日本はかろうじて散布を免れたのであった。」 と。

原爆投下に続き、枯葉剤が計画通りまかれていたら・・・・と思うと背筋が凍ります。

60回もの空襲を受けた東京は105千人を超す犠牲者を出した東京をはじめ、主要な都市や軍需工場は空襲で焼き尽くされ、あらゆる物資の欠乏に喘ぎ、もはや継戦能力はなく、すでに前年の夏頃には終戦工作に入っていました。原爆投下5ヶ月前、310日の東京大空襲では下町を狙った焼夷弾で、一夜にして95千人以上もの尊い命が奪われました。

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大空襲で焼け野原となった東京

日本の敗戦は時間の問題という中で、なぜアメリカは原爆投下し、枯葉剤散布を計画し実行したのか。「戦争を早く終結させ、アメリカ兵の犠牲を少なくしたかった」、「ソ連の対日参戦を前に、原爆で戦後世界の主導権を握るため」と言われています。

その“いずれも”だと思いますが、その主要な意図は後者にあったと思います。

男、女、子供で構成される戦力を破壊、石器時代に戻す

原爆投下の前、『タイム誌』1945年6月号に掲載された次の記事は、アメリカの姿勢と戦争の本質を如実に物語っています。「日本が行っている総力戦は、さきのナチス・ドイツやいかなる近代的軍事大国のそれよりはるかに総力的である。総力戦では敵を全面的敗北に追い込まなければならない。ということは、あらゆる日本の資源、日本人の男、女、子供で構成される戦力が破壊されなければならないということである。」

非戦闘員である「男、女、子ども」までも「破壊されなければならない」というアメリカイズム、この姿勢がそのままベトナム戦争で貫かれ、日本に向けられていた枯葉剤とノウハウがベトナムで使われたのです。『タイム誌』に代表されるアメリカイズムは、米軍が北爆を開始したときの米空軍参謀長カーチス・ルメイ大将が、「ベトナムを石器時代に戻してやる」と放った言葉とも重なります。

20世紀を象徴する戦争犯罪に使用された二つの害毒、放射線物質と枯葉剤は、実は日本に向けられていたのです。そして、その害毒は21世紀に入り四半世紀経た今なお、人類の大きな脅威として存在し続けています。

記憶にとどめ、教訓としなければならない 8月の「あの日」を前に

ウクライナで、ガザで、アフガニスタンで、シリアやイエメンで、ミャンマーで・・・・、今この瞬間も戦争と紛争が続き、罪なき多くの尊い命が奪われています。その表裏にロシアやアメリカなどの姿や影があり、日本は同盟国アメリカとの軍事的密着度を深め一体化しつつあります。

8月6日、89日、810日、815日という記憶にとどめ、教訓としなければならない「日(Day)」を前に、2大害毒による攻撃対象国になるに至った日本の歴史を問い、「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを噛み締め、「捨てた筈の武器をほんとうに捨て」、「わたしたちの汚れた手をきよめねば」と心に刻んでいます。

昨年11月から7回続けてきた枯葉剤シリーズ(ベトナム戦争と枯葉剤被害、日本の中の枯葉剤)は、今号で終えたいと思います。「ベトナムの歴史」シリーズ、次号からの構想はまだ固まっていませんが、「ベトナムNow」シリーズとして、今のベトナムを紹介したいと思います。

どんなことに触れたいか、ご意見やご希望などお寄せいただければ幸いです。

感想などもお待ちしています。

2024年6月21日(あかたつ)

【編集者】中国人民平和軍縮協会と交流するため訪中していますので、ブログを1,2日休みます。

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2024年6月20日 (木)

ベトナムの歴史(その30-7) ― 原爆投下と枯葉剤 ―

20世紀を象徴する戦争被害

原爆(核兵器)と枯葉剤(化学兵器)は無差別大量殺戮と、その後長年にわたり放射能とダイオキシンによる健康破壊、その結果による死をもたらす究極の殺人兵器です。しかも、その被害は世代を超えて続き、使用はもとより製造・保有・威嚇が禁じられる非人道兵器です。

「20世紀は戦争の世紀だった」と言われますが、原爆と枯葉剤は20世紀を象徴する戦争犯罪(戦争犯罪被害)であり、いかなる「理由」があろうとも、二度と再び使わせてはならないものです。しかし、21世紀に入り四半世紀経た今も、戦争は絶えず、むしろ拡大の懸念すらあります。核の恫喝は繰り返され、その危機は一段と高まり、枯葉剤を含む化学兵器も使われ(疑われ)ています。

間もなくヒロシマ、ベトナムが迎える「あの日」

ヒロシマとナガサキは間もなく79回目の「あの日」を迎え、ベトナムは63回目の「あの日」を迎えます。ベトナムの「あの日」とは、枯葉剤がベトナム中部高原のコントウム省に初めて実験的に散布された1961年8月10日です。同年11月30日、ケネディ米大統領は正式に「ランチハンド作戦(枯葉剤作戦)」を承認し、1971年10月30日までの10年間、反復的にベトナムの人々の頭上と国土(主に南ベトナム)にまきました。

“ベトちゃんドクちゃん”が、「あの日」から20年後の1981年2月25日、コントウム省に生まれました。

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トリニティー実験  出典:ウィキペディア1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験

原爆投下に続き、枯葉剤作戦が準備されていた

日本にも枯葉剤作戦が準備されていたことをご存知ですか? ちょうど4年前、2020年7月5日付けの「ヒロシマとベトナム(その14)」被爆75周年-ヒロシマとベトナム戦争-を考える〔Ⅰ〕に紹介しましたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

アメリカは第二次世界大戦末期、2つのプロジェクトチームによる対日作戦の準備を進めました。一つはマンハッタン計画に基づき「リトルボーイ」を広島に投下したポール・ティベッツ大佐、「ファットマン」を長崎に投下したチャールス・スウィーニー少佐を機長とする原爆投下作戦です。

もう一つが、化学兵器作戦です。サリンやボツリヌス菌爆弾、炭疽菌爆弾などが候補に挙げられ、全爆撃作戦の20%を毒ガス爆弾の投下とし、毒ガス爆弾6万発以上を常に前線に供給できるような体制を整える計画です。

その中の一つが枯葉剤作戦です。大変な食糧危機に陥っていた日本の主要な農産物である米やサツマイモを枯らす細菌兵器の開発が進められ、B-29が実際に日本の耕作地にまきました。しかし、米やサツマイモは細菌に対して抵抗力が強く成功しなかったため、ベトナム戦争で2,4,5-T などとともに枯葉剤として用いられた2,4-ジクロロフェノキシ酢酸という枯葉剤の散布が計画されました。

B-29で編成された第1010爆撃隊が、約1,645㌧の2,4-ジクロロフェノキシを、1945年9月までに日本の水稲作付面積の10%を破壊するという計画は、その後1946年4月までの延長とともに水田の約30%を破壊する計画に拡大修正されました。そして、グアム島に集結したB-29を改造した枯葉剤散布機が待機しているなか、8月6日と9日の究極の戦争犯罪が強行されたのです。

下の地図をご覧ください。焼夷弾で焼き尽くされた東京、名古屋大阪をはじめ主要都市はもちろん地方都市への空襲に続き、広島・長崎への原爆投下。そして枯葉剤作戦です。その対象とされた地域は、赤丸の東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯でした。地図が示すように、日本列島のほぼ南半分にあたります。

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枯葉剤作戦は日本の無条件降伏により実行に移されることはありませんでしたが、原爆に続き枯葉剤攻撃まで計画されていた歴史的事実を消し去ることはできません。

2024年6月20日(あかたつ)

【編集者】「ベトナムの歴史(その30-7)― 原爆投下と枯葉剤 ―」は、2回にわけましたので、つづきを明日掲載します。

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2024年6月19日 (水)

伊藤孝司写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」記者会見

写真展「在朝被爆者と平壌の人びと」広島県実行委員会(日朝友好広島県民の会、広島県原水禁で構成)は昨日、7月3日から旧日銀広島支店で開催する「伊藤孝司写真展『在朝被爆者と平壌の人びと』」の記者会見を行ないました。会見には、マスコミ6社の参加がありました。

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記者会見の主な内容は次の通りです。

目的:写真を通じて、今なお被爆者援護法の枠外に置かれている在朝被爆者の存在を知ってもらうと共に、近くて遠い国と言われる朝鮮民主主義人民共和国の人びとの生活を広く広島市民の知ってもらう

開催場所:旧日銀広島支店

開催日時:7月3日(水)から7月7日(日) 10時~17時

展示内容:在朝被爆者:15枚

朝鮮・韓国人被爆者:63枚(風景を含む)

うち被爆者写真は、43枚。内訳は、韓国在住被爆者28人、在日で広島在住9人、長崎在住8人

     朝鮮の人びとの多様な姿:103枚

ギャラリートーク:各日13時・15時 会場内で作者による写真解説

入場料:無料

伊藤孝司さんは、アジア太平洋地域においてさまざまなテーマで約200回の取材を重ねていますが、そのうち最も多いのは韓国(大韓民国)訪問の47回で、次は朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の43回の訪問です。この両国では,特に広島・長崎での被爆者の取材に力を入れてこられました。

朝鮮民主主義人民共和国には、1992年に初めて訪問し,最後の訪問となった2019年まで、在朝被爆者や朝鮮の人びとの写真を撮り続け、朝鮮民主主義人民共和国の姿を日本国内の人びとに伝えてこられました。

原水禁が派遣した「在朝被爆者問題訪朝団』とも何度も行動を共にし、2009年には、広島と平壌で暮らす被爆者親子を取上げた映画「ヒロシマ・ピョンヤンー捨てられた被爆者」を作成しています。

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この映画は、今度の写真展会場でも上映する予定になっています。

私も訪朝時何度か伊藤さんと一緒に行動したことがあります。

会期中には、ぜひ多くの人たちに会場に足を運んでいただき、マスコミでは報じられない朝鮮民主主義人民共和国の姿を見て欲しいと思います。

私が、2018年に訪朝して報告を受けた「在朝被爆者の実態」を紹介して以来、在朝被爆者の実態は報道されていません。

これを機会に、国交がないため事実上置き去りにされたままの「在朝被爆者」の問題を考えていただく機械になればと強く願っています。

この写真展を広島で開催する意義はそこにあると思っています。

一人でも多くの皆さんに見て欲しい写真展です。

いのちとうとし

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2024年6月18日 (火)

第27代高校生平和大使結団式

一昨日16日の午前10時から中区のアステールプラザで第27代高校生平和大使の結団式がありました。

今年初めて茨城県での選出があり今年の高校生平和大使は、広島県、長崎県など18都道府県(昨年は17都道府県)に広がり、各地の選考で選ばれた高校2年生3年生の23名(昨年は、22名)が選ばれています。毎年のように今年も女子高生が多いのですが、今年は4名の男子高校生が選ばれました。また被爆3世は、長崎県の二人、被爆4世は、広島県から二人選出されています。

前日の15日に広島に集まった高校生平和大使は、広島に学ぶことからスタートです。

広島県原爆被害者団体副理事長で元資料館館長の原田浩さんの「広島の実相を学ぶ・被爆者の思いを聞く」、谷雅志原水禁国民会議事務局長の「NPT体制と核兵器禁止条約」の二つの講演を受けた後、平和公園に移動し、慰霊碑への献花、平和記念資料館の見学、碑めぐりなどが行なわれました。今年は、同行しませんでしたので、その様子を紹介することが出来ません。

結団式は、第26代高校生平和大使の五閑さくらさんの司会でスタートしました。

最初に高校生平和大使派遣実行委員会の小早川健共同代表が、過去の高校生平和大使の活動後の感想文を紹介しながら、期待する思いを込めてあいさつ。

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その後、連合広島、自治労広島県本部、平和運動センター、広島県原水禁、高校生平和大使を支援する会の豊永恵三郎さんが、来賓のあいさつ。私も広島県原水禁を代表し手、昨日のブログの内容を紹介しながらあいさつしました。

続いて、小早川共同代表から、一人ひとりに「核兵器廃絶と平和な世界を目指す高校生平和大使に任命します」という任命書が手渡されました。

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任命証を受ける広島県高校生平和大使の甲斐なつきさん

続いて、一人一人の決意表明です。

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広島県高校生平和大使の佃和佳奈さん

毎年感ずるのですが、とにかく立派な決意の表明です。

「それまで平和や核兵器のことに無関心でしたが、被爆ピアノの傷を見たとき、これは許せないと思うようになりました」

「高校一年から署名活動に関わってきた。そこで学んだことは、平和は人と人の繋がりでつくることが出来ると言うことです」

「未来の平和は、私たちの手で必ず作ります」etc

最後に長崎県高校生平和大使の津田凜さんが「被爆者の方の声を聞き、署名活動などの活動を通じて、核兵器も戦争もない平和な世界をつくるためにがんばります」と締めくくって全員の決意の表明は終わりました。

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その後全員での写真撮影をして、結団式は終了しました。

新しく任命された高校生平和大使は、それぞれの地域で「一万人署名活動」を取り組み、集めた署名簿を持って、8月18日から23日までの日程で、スイス・ジュネーブの欧州国連本部・軍縮代表部などを訪問することになっています。

今年も大いに活躍してくれると期待しています。

いのちとうとし

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2024年6月17日 (月)

学徒動員―さとうさんの疑問に答えて

昨日のブログ「広島平和記念資料館企画展『友達の記憶』」に、さとうさんから次のようなコメントが入りました。

「中一中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年の置き換えたのですか そういう断りがないのであれば 資料としての信憑性を疑います 出展中二の少年少女が働き とありますが 中三はどうしていたのですか 女子は中学校ではありません 年齢でいうと小学校の高等科の子供は不参加ですか 厳密に考えたらそうなります 現在の学年に置き換えたのですか そういう断りがないのであれば資料としての信憑性を疑います 他の事柄も疑ってしまいます」

さとうさんの疑問は、その通りですので、その疑問に今日はお答えしようと思います。といっても、私が新たな資料を提供するわけではありません。

言い訳になりますが、実は、「中一中二の少年少女」と書いたのは、関千枝子著「ヒロシマの少年少女」を参考にしたからです。関さんは、当時県立第二高等女学校の2年生で、当日建物疎開の動員に行く予定でしたが、病気だったため建物疎開作業を休み、爆心から南に3.1キロの自宅で被爆し、死を免れました。そのことにこだわり、「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ旧友たち」を著わすと共に、学徒動員で失われた中等学校の生徒の悲劇の問題を追及してきた人です。

そんな人の著書でしたので、断り書きも無くその一部を引用してしまいました。

さとうさんのコメントを見て、改めて関さんの「ヒロシマの少年少女」を開くと、「当時建物疎開に出動していた学校(平和記念資料館2004年調べ)」の一覧表が掲載されていました。

そこで思い出したのが、この時期確か平和記念資料館が「動員学徒」の企画展を行ない発行したパンフレットがあったことです。平成16年(2004年)に発行されたものが、すぐに見つかりました。

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以下パンフレットの中から、必要な資料を紹介します。

まず、動員学徒原爆犠牲者を出した学校の一覧です。

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建物疎開作業だけでなく軍需工場への動員も含まれています。国民学校、中学校、女学校、工業師範学校御、文理科大など多様な学校名が並んでいます。

同じパンフレットに当時の学校制度でも掲載されています。国民学校を卒業すると複雑な学校制度になっています。

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確かにさとうさんの指摘のように、中一、中二だけではとても表現できません。

次は、動員学徒のうち最も犠牲が大きかった建物疎開作業を行なっていた学校です。

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建物疎開作業が行なわれていた場所の地図です。

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この写真には次のような説明文が付いています。

「1945年(昭和20年)7月の広島市の空撮に,8月6日当日の建物疎開作業を行なっていた場所を示しています。はっきりと防火帯が形成されてきた現在の平和大通り付近では、国民学校高等科や中等学校1・2年生を中心とする40校が出動し、作業にあたっていました。」

とここまで書いて気になりましたので、「8月6日に建物疎開作業を行なっていた学校」の一覧表で、現在の平和大通り付近と思われる作業場所ごとの学校数を数えてみました。すると何度も数え直したのですが、県庁付近(天神町、材木町、中島新町、水主町)11校、土橋付近(堺町,西新町、小網町)11校、鶴見橋付近(鶴見町、昭和町)12校で、合計34校にしかなりませんでした。

一つの学校で複数箇所(例えば、崇徳中学は県庁付近、土橋付近、八丁堀付近、楠木町の4カ所)という学校もありますが、40校というのは、建物疎開を行なっていた学校の数でした。数字はなかなか難解です。

このパンフレットによれば、1945年8月6日に動員された学徒は、約26,000人で、このうち約7,200人が原子爆弾で亡くなったと記しています。うち5カ所の建物疎開作業にでていた生徒は、悲惨を極め、約8,200人が動員され、約5,900人が亡くなったと記しています。

広島平和記念資料館が調べた数字ですので、一応正しいと思い「さとうさん」の疑問に答えたいと思い紹介しました。

しかし、関さんは、「ヒロシマの少年少女たち」の中で、この数字に対しても疑問を呈していることを紹介して,さとうさんのコメントの一応の答えとしたいと思います。

いのちとうとし

【編集者】全ての図表や写真は、クリックして拡大して見て下さい。

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2024年6月16日 (日)

広島平和記念資料館企画展「ともだちの記憶」

広島平和記念資料館東館1階で3月1日から開催されている企画展「ともだちの記憶」に行ってきました。

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1945年8月。広島市では全市をあげて建物疎開が行なわれており、その中心である100メートルの防火帯(現在の平和大通り)鶴見橋西詰から土橋までに約5000人が、それ以外の作業地を加えると8000人以上の中一、中二の少年少女が働き、そのうち約6000人が原爆によっていのちを奪われました。

企画展の「はじめに」には次のように書かれています。

「ヒロシマを生き残った中学生には、死んだ友達に対する後ろめたさのようなものがあります。街を歩いているとき、愛する人と手をつないでいるとき、子や孫の成長を目にしたとき、親の老いを感じたとき、ふっとあの日のことがよみがえってくるからです。

今回のきかく展では、遺品や絵・証言により、少年少女の生死を分けた状況や、生き残った生徒の苦しみや負い目、そして友を思い、鎮魂の願いを込めて残した記憶を紹介します。(以下略)」

展示は、3部の構成になっています。

第1部「ともだちとの日々」は、「少女たちの日記/8月6日の朝」で構成され、「少女たちの日記」では、広島第一県女の同じ1年4組だった石崎睦子さんと梅北トミ子さんのかけがえのない日々を綴った日記が展示されています。

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友達と過ごすかけがえのない日々を綴った4月6日から8月5日までの日記が,紹介されています。

第2部は、「生死をわけて」です。

切明千枝子さんの絵が引き延ばして展示されています。

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「空が二つに分かれて」とタイトルの付いたキャプションには、切明さんの言葉が次のように書かれています。

「8月6日の夜は忘れられやしません。空がくっきり分かれていて不思議でした。西の空は真っ赤で、東の空は星空でした。たくさんの流れ星を見ながら、先生やお友達のたましいもあるのではないかと思い、涙を流しました。」

この絵は、この展示会のチラシ、会場で配布されるパンフレットの表紙にも使われています。

この第2部「生死をわけて」は、「友達と一緒に亡くなる/消えた友達/友達を亡くす/友達に助けられる/友達を助ける/友達の逃げる/友達を助けることが出来なかった」で構成されています。

「友達を亡くす」には、元資料館館長だった高橋昭博さんと山本達也さんのことが記されています。

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高橋昭博さんが描いた絵とともに「『泣くな!』『しっかりしろ』といって山本君を叱り、励ました」という手記が書かれています。山本達也さんは、なんとか家に帰りつきましたが、9月16日に亡くなりました。

第3部は「生き残って」は、「友達の安否/手作りの慰霊碑/広島初の追悼文集/癒えない傷/負い目の日々/消息を追って」で構成されています。キャプションに生き残った人たちの思いが書かれています。

「かろうじて生き残った中学生たちも、心と体に深い傷を負いました。学校に戻れず退学したこと、原爆病に倒れたこと、中でも一番つらかったのは、友達のお父さんお母さんに会うことでした。昨日まで、机を並べて勉強し、作業に励んだ友達との別れは、彼らの心に深い根を下ろし、何十年経っても忘れることは出来ませんでした。」

私が特に注目したのは、「広島初の追悼文集」です。

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「広島初の追悼文集」は、1946年に県立広島第一中学校と県立第一高等女学校の生徒39人が、犠牲となった一中の35学級の生徒のために手記を寄せて発行されたものです。

上の写真の一番右側が「泉 第一集 みたまの前に捧ぐる」です。こんなに早く発行されたのには、ちょっと驚きました。その他に2冊並んでしますが、この2冊は、ずっと後(2集は2012年、3集は2015年)に、浜田平太郎さんが、著/編集されたものです。

浜田さんのことが気になりましたので、少し調べてみました。

浜田平太郎さんは、当時県立広島一中の3年生でしたが、肺の病気を患い、復学したばかりで,8月6日は高熱で建物疎開の作業をやすみ、爆心地から5kmの古田の自宅にいて助かったそうですが、生き残った負い目から、あの日の記憶をしまって生きてきたそうです。第一県女の1年生だった妹の孝子さんは、小網町で建物疎開作業中に被爆し、避難していた己斐小学校で探しに来た兄の平太郎さんに見つけられ自宅に帰ることが出来たのですが、翌7日の午前5時に亡くなりました。(中国新聞2013年1月28日記事より)

毎日多くの修学旅行生が、平和公園を訪れ、広島平和記念資料館に入館しています。最後の展示となるこの企画展「ともだちの記憶」もじっくりと見て欲しいと展示です。しかし残念なことですが、時間の制約があるのでしょう、通り過ぎる子どもが多く、見ている子どもたちがいても、駆け足のような気がします。

9月10日まで続きますので、ぜひ行ってみてほしい企画です。

いのちとうとし

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2024年6月15日 (土)

2024年6月のブルーベリー農園その2

梅雨はまだ来ない。農作業をする日中は28度くらいまで気温が上がり暑い日が続いているが、東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通っているので作業する日数は稼げる。ブルーベリーの剪定今の時期はよくないのだが木が茂りすぎているのであと数十本切らないといけない。剪定作業の合間にブルーベリー畑の草刈りを行っているがブルーベリーの木の株元でキジの巣に出会った。場所は3段あるブルーベリー畑の一番下の畑で刈払機を近づけると突然メスのキジが飛び立った。よく見ると巣にタマゴがあった。別の日にも違う場所で巣があった。どちらの巣も幸いその後抱卵してくれているようなのでちょっと安心。草刈りはこれからも続くのでブルーベリーの株元を切るときは気を付けないといけない。

67日(金)

ブルーベリー畑の草刈りの最中に出会ったキジの巣。卵がみえる

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612日(水)

別の場所でも刈払機が近づくとメスのキジが突然飛び立ったのでその周りの草刈りをやめた。(写真真ん中の笹薮の中)畑ではオスのキジの鳴き声が時々聞こえる

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68日(土)

畑のブルーベリーの剪定。枝を切った後太い幹は重いので一輪車で運ぶ。まだ切っていない隣の列はうっそうと茂っている

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610日(月)

農園のブルーベリーは2000年秋から2001年秋にかけて植えたので最盛期を過ぎている。太い幹を切ってみると真ん中が枯れこんでいる。右は切った枝。

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畑の草むらではまだヘアリーベッチのつるが伸びて花を咲かせ続けている

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612日(水)

午前中の里山のブルーベリー園。田んぼの向こうの緩やかな斜面がブルーベリーを栽培しているところ

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12日の農作業はまずはブルーベリー畑の草刈りと刈った後の列に防草シートを敷くこと

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地べたで黒い殻がところどころにあるのはレンゲ。殻の中に種はないのであちこちに散らばっているのだろう

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防草シートを敷いたブルーベリー畑。あと2列残っている。真ん中のシートを敷いていないところがキジの巣のある周辺

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午後涼しくなってから別のブルーベリー畑の剪定。117本を根元から切って列間の空間を広くする目的でまずは上の枝を電動はさみですべて落とした。根元から電動チェンソーで取り除くのは別の日になる

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農園の庭の池でハナショウブが今年も開花

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2024615

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

【編集者】今日のブログを読んで、あれっと思われた方があると思います。そうです、遊川さんの「ブルベリー農園」は、これまで写真の後に写真解説がりましたが、今日から写真の前に写真解説をくるように編集が変更になりました。

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2024年6月14日 (金)

「基町写真展2024」に行きました。

広島市中区役所と広島市立大学が実施主体となって活動する「基町プロジェクト」が企画する「基町写真展2024」に行ってきました。

「基町プロジェクト」の活動がはじまってから10目を迎えた「写真展」は、2015年より基町地区内外の方々から提供された写真をもとに毎年8月に「基町、昔の写真展」としてスタートしました。2020年からは、この年オープンした「基町資料室」の企画展「基町写真展」としてはじまりました。(以上は、「基町プロジェクト」ホームページから)

10年目となる今年の「基町写真展」は、基町住宅内の5カ所に会場が設けられ、これまでに提供された約5000枚の写真の中から選ばれた、約110点が展示されています。

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最初に訪れたのは、市営基町アパート17号棟1階の「旧大橋商店」に設けられた「1号」と表示された展示会場です。

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今年開場したピースウイング広島(サッカースタジアム)の道を挟んですぐ北側にある建物です。

ここには、基町高層アパートと共に生まれた基町小学校の始まりから学校行事の様子を見ることができます。

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左側の壁面に「子どもたちから大人まで一緒に基町を練り歩いた『おみこし』」(1967年)の写真が大きく引き延ばして展示され、真ん中に学校の歩みを伝える写真が並んでいます。

もらった地図を手に、第2会場から順に会場をめぐっていきます。

第2会場は、基町プロジェクト事務所の隣の部屋で、戦後復興の状況を写した写真が展示されています。今も元気な姿を見せている「被爆楠」の1970年代の写真や広島城のエピソードを伝える写真があります。

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第3会場は、いつもこの『基町写真展』会場となっている場所で、私が初めてこの写真展を訪れた時にメイン会場になっていた場所です。基町高層アパートの建設から完成までの様子が「基町住宅の模型」と共に展示されています。

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第4会場は、「基町プロジェクト」が常設している「基町資料室」で、これまでの「展示会」で展示された写真や提供された写真が、資料として整理されています。

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手前に写っているのが、これまでの「写真展」で展示し写真を冊子にまとめた資料です。その冊子をめくっていると、思いがけない写真を見つけました。

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「馬蹄」碑が写った写真です。写真と撮った人は、犬をメインに写したと思われますが、私にとっては、犬の後ろにある碑が気になります。今はファミリープールのすぐ西側にある「馬蹄」碑ですが、背景に川が写っています。以前には、川土手に立っていたことが分かります。その後の河岸の整備によって現在地に移されたと思われます。

第5会場は、少し離れていたちょっと分かり難いのですが,基町中央集会所1階の大きなショーウインドウを利用して設けられています。ここには、ヒロシマピースウイングが建設された中央公園の1970年(公園以前)。1983年(公園整備)、2018年(周囲の樹木も大きくなった中央公園)、そしてサッカースタジアム完成した2024年の歴史をたどる4枚の写真が大きく引き延ばされて掲示されています。

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この写真を見ていると、かつて相生通と言われた元安川河岸に住んでいたという夫婦連れが来られました。一番古い1970年の写真を見ながら、「この辺に住んでいた」と懐かしそうに私にも話して下さいました。自分史をたどるために訪れる人も多いのでしょう。

「基町写真展」では、こういう出会いを毎回体験します。

私が、「基町写真展」に毎回訪れるのも,広島に来た時,最初に働いていた中国通信局(現在のリーガロイヤルホテル)ビルの北側にあった基町市営住宅とその周囲の道路沿いに連なっていた喫茶店、食堂、一杯飲み屋さんが写った写真を見たいという思いからです。

展示されている中には、1970年代の住宅地図があり、その地図上では確認できるのですが、今回も写真を見つけることは出来ませんでした。今後に期待し、これからも見に来たいと思っています。

「基町写真展2024」は、6月30日までの木、金、土、日曜日の12時から17時まで開場されています。

いのちとうとし

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2024年6月13日 (木)

教科書採択に市民の声を!

 今年の7~8月にかけて、各自治体の教育委員会会議において、来年度から使用される中学校教科用図書の採択が行われます。その前に各地で展示会が開催されています。

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各地の展示会日程

4年前の採択時、私は近所の中学校に見に行きました。社会科や道徳はもちろんのこと、家庭科も教科書によって「家族」の描かれ方が違い、興味深かったです。市民の皆さん、ぜひ実際に教科書を手にとり、さまざまな観点から見比べてみてください。そして、子どもたちが「人権・平和・環境・共生」を学べる教科書が選定されるよう、意見を書いてください。

意見箱の設置がなく、意見収集をしていない会場もあります。そのような会場では教育委員会に意見箱の設置を求め、併せて教科書についての意見をメール、手紙、FAX等で送ることができます。

よりのぶ

【編集者】各地の展示会の日程(上の図表)は、クリックすると拡大してみることが出来ます。して拡大して見て下さい。

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2024年6月12日 (水)

こんな所にツバメの巣が

5月の第3日曜日の19日に、いつも買い物に訪れる食料品店の前を通ると、日曜日ですのでお店は休みですが、上を見上げている人がいます。

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何があるのかと見上げると、3個写っている照明器具の一番奥の照明器具の上にツバメの巣があります。

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毎日のようにお店に買い物に来るか、前を通っているたですが、全く気がつきませんでした。

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上の方に黒っぽい頭のようなものが見えます。しばらく見上げていると,親ツバメが飛んできました。

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餌を運んできたようです。ひな鳥は、頭の先っぽしか見えませんでしたが、3羽いるように思われました。

福島原発の視察から帰った6月の初めに改めて見上げると、ひな鳥が、餌を求めているのでしょう巣から少し乗り出すようにくちばしを突き出しています。

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盛んに親鳥が飛んできますが、カメラに収めることが出来ませんでした。

さらに一週間ほど経った昨日、様子が大きく変っています。ひな鳥が、身を完全に乗り出しています。

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羽ばたく準備でしょうか、ひな鳥が羽根をバタバタさせています。

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ひな鳥が大きくなり、巣から後ろ半身を出し、糞をする姿も見られます。巣の真下には、先週まではなかったビニール傘が逆さにしてつるされています。

巣のある位置は、お店の入り口の上ですので、糞が人の頭にかからないようにということでしょう。ひな鳥も大きくなりましたので、食欲が旺盛になっているのでしょう、下から見上げると、傘の中には、はっきりと分かるほど糞がたくさんたまっています。

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こうしてみている間に、以前とは違い短い間隔で何度も親鳥が餌を運んできます。

こんな街の中に巣を作ってと思っていましたが、よく考えるとこの周辺には、お寺も多く意外と緑の多い地域ですし、少し西には元安川が流れていますので、餌には困らないようです。

私が写真を撮っていると「かわいいですよね」と声をかけられ、その人に教えていただいたのですが、ここには毎年のようにツバメが巣を作っているとのことでした。私は、今年初めてと思っていたのですが。

ひな鳥たちが、巣から飛び立つのももうすぐだと思われます。元気に巣立って欲しいと願っています。

いのちとうとし

【編集者】昨日のブログで、高校生平和大使の甲斐さんと沖本さんを「被爆3世」としていましたが、正しくは「被爆4世」です。お二人のお詫びし訂正しましす。

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2024年6月11日 (火)

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会と高校生平和大使

広島県原水禁は、6日の午後6時から自治労会館で「被爆79周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会」を開催しました。

結成総会は、秋葉忠利県原水禁代表委員のあいさつの後、5月26日に45人の応募者から選ばれた今年の高校生平和大使3人から決意表明を受けました。

3人は、甲斐なつきさん(広島市立基町高校),佃和佳奈さん(福山暁の星女子高校)、沖本晃朔さん(AICJ高校)で、いずれも高校2年生です。

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あいさつするのが甲斐さん、左に佃さん、沖本さん

「被爆者の思いを世界に伝えたい」「平和な世界を待つだけでなく,声を上げ続ける」甲斐さんと沖本さんは、被爆4世です。

毎年のことですが、力のこもった決意表明には、参加者から大きな拍手が送られました。

この1年間の活躍を期待したいと思います。

高校生平和大使のあいさつが終わると原水禁世界大会結成総会の協議に入りました。

結成総会には、毎年中央から代表が参加し、情勢報告を行なっていますが、今年は,4月の原水禁国民会議総会で新しく共同議長に選ばれた染裕之原水禁世界大会共同実行委員長に参加していただきました。

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染さんは、自治労東京都本部執行委員長などを務めた自らの経歴を紹介しながら、まず原水禁運動を取り巻く情勢(核抑止論の問題点、核兵器禁止条約(TPNW)、核拡散防止条約(NPT)など核軍縮/廃絶の国際的動き、高校生平和大使の活動、連合などと連携して取り組む課題、経過など)を報告されました。その上で、新しい戦前と言われる,岸田内閣が進める大軍拡路線について、2012年安倍政権誕生以来の軍拡の流れを紹介し、特に今年4月の岸田訪米によった「アメリカが進める軍事戦略に日本が全面的に応ずる危険性」が強まったこと強調し、私たちの運動の役割が重くなっていることが提起されました。

その後、広島県実行委員会の大瀬事務局長から、大会日程,広島県実行委員会の取り組みについて、提起しました。

日程など主な確認事項は次の通りです。

被爆79周年原水爆禁止非核/平和行進

東部コース 7月27日~8月3日

北部コース 7月30日~8月2日

西部コース 8月1日~8月3日

*厳しい暑さの中での行進となるので、従来の時間にこだわることなく各地区で工夫して取り組む。

被爆79周年原水爆禁止世界大会広島大会

8月4日

開会総会 午後5時から午後6時30分 県立体育館

   午後3時40分から平和公園から県立体育館への折り鶴平和行進を実施。

8月5日

分科会 午前9時30分から12時30分

 テーマ:平和と核軍縮(2分科会),脱原発、ヒバクシャ(ヒバクシャと被爆二世)、ヒバクシャ(世界のヒバクシャ),見てきて学ぼうの6分科会

フィールドワーク 大久野島バスツアー、西松安野中国人強制連行・被爆の歴史ツアー

ひろば 午後2時から午後4時半 子どもの広場など5つ

8月6日

国際会議 午前9時から10時半 広島県民文化センター

まとめ集会 午前10時30分から11時 広島県民文化センター

今年は、国際会議に出来るだけ多く参加してもらうと言うことで、まとめ集会前に同じ会場で開催することになりました。

これらの提起を受け、全体の日程を確認し、大会を地元として成功させるため、今年も会場係など運営にあたって各労働組合各地区労の協力を得ることが確認され,実行委員会は終了しました。

大会の詳細は、後日紹介したいと思います。

なお、大会実行委員会結成総会に先立って開催された県原水禁常任理事会では、5月に行なった「福島原発視察」の報告と広島市が8月6日の「平和祈念式典」にロシアとベラルーシに対し招待状を送っていない問題について「全ての国に招待状を送るよう」申入れることを確認しました。

いのちとうとし

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2024年6月10日 (月)

能登地震から5か月

能登地震から5か月、反原発新聞を発行している「反原発運動全国連絡会」の総会が6月1日~2日、福井県高岡市で開催され、総会に合わせて行われた能登地震の被災地や志賀原発の視察などの企画に参加してきました。

地元で志賀原発に反対する活動をしている、志賀町町会議員の堂下健一さんや、「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」団長の北野進さんらに案内してもらい、改めて地震の怖さと、その中で志賀原発に反対する人たちのパワーを感じることができました。堂下さんは、現在も避難所生活をしているのです。

6月2日朝、高岡市から能登半島を北上するとブルーシートで覆われた家が多くなり、全壊した家を見かけました。道路はいたるところで亀裂や横ずれし、クラックと言われるひび割れした家もありました。

通行が可能になった道路もありますが、道の繋ぎ目に段差があるところが多く、その上を通るとバスのタイヤを通してガタン、ガタンという音と振動が身体に響いてきます。

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最初に訪ねたのは、高岡駅前からバスで約1時間半の場所に在る志賀原発団結小屋でした。能登半島で計画された珠洲原発建設計画は、28年におよぶ反対運動によって2003年12月、建設を断念させました。その話しを「赤住団結小屋」の藤岡彰浩さんから説明をしてもらいました。そして団結小屋も前で、参加者みんなで紙製の風船を空に揚げ、珠洲原発計画を断念させた先人たちの信念の強さを感じ取り、志賀原発の再稼働をさせない決意を新たにしました。

次に訪れたのは志賀町の領家(りょうけ)漁港、ここでは富来川南岸断層を視察しました。富来川南岸断層は志賀原発の北約9km付近にあります。北陸電力は当初この断層を活断層と認めてこなかったものです。

原発周辺の施設は、部屋の中の気圧を外気の圧力よりも高くして、外から放射能が入るのを防ぐために、陽圧(ようあつ)装置を付けた部屋を作っています。

志賀町にある富来小学校では、柱や天井が損壊し陽圧化装置が機能しなくなり、1月30日に学校は閉鎖されました。現在、児童たちは富来中学校に通っているそうです。校舎の建物は基礎部分が浮き上がり、窓越しからみた教室は乱雑にたくさんの段ボール箱が置いてありました。

この場所からバスで約30分、輪島市門前町鹿磯(かいそ)漁港でした。港の堤防は5メートル以上隆起し、海底に埋まっていた堤防の基礎部分との色がはっきりを区分けできる状態には、この地震の強さに身震いしました。堤防の下部分には多くの貝類がついていて、堤防隆起によって、命を失った貝類に思いを馳せていました。

そしてバスは金沢市に近い内灘町へ。かつて埋め立てられたこの町の液状化被害の状態は壮絶でした。家屋の基礎部分が液状化で浮き上がり、多くの家屋は住めないために、家の玄関には「危険」、「住居不可」などの貼り紙が貼られていました。液状化した家を実際に見たのは初めてでした。

6月2日の夜、帰広しました。そしたら翌3日の早朝に珠洲市で最大震度5強の地震が発生したとのニュース、この度の視察旅行で案内して下さった方や、町で見かけた人たちのことを考えながら、重い気持ちになっていました。

木原省治

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2024年6月 9日 (日)

福島原発視察報告その6

福島原発視察報告の最終回です。

ホテルで朝食をとった後、出発まで少し時間がありましたので、街の様子を知りたくてJR常磐線浪江駅前まで散歩をしました。

最初に訪れたのは、浪江町役場横の「まちなみまるしぇ」です。ここは2017年の視察で訪れた町内で初めて出来た商業施設でした。

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 左が2017年6月、右が今年

真ん中に置かれたテーブル・椅子の色は変っていますが、同じように配置され、奥の「まちなみまるしぇ」の看板や右側に「リラクア」の看板もそのまま両方とも写っています。少し早い時間でしたので、人影は見えませんが、今も町民の暮らしを支えているのが分かります

震災以前は、この町のメインストリートだった道路を進みます。2017年には、地震で壊れ,放射能汚染した家々がそのまま放置され人影はありませんでした。

今は、古い家は全て撤去され,ほとんどが空き地です。「売地」「売り物件」の看板が目立ちます。

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新しく建てられた建物は、マンショを兼ねた公共的な建物、建設業関連の看板が目だちます。

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浪江駅前に着くと、駅前のオブジェやバス停はそのままですが、配達前の新聞が山積みになっていた新聞配達所を始め家々が立ち並んでいた2017年の風景が一変し、空き地に草が伸び,寂しい風景になっていました。いつ、もっと活気のある街が戻るのか、想像できません。

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 復興の現状を知るため、浪江町のホームページに記された住民の推移を見てみたいと思います。

2011年3月11日、震災以前の人口は、21,542人(7671世帯)でした。

本年4月末現在の人口は、14,947人(6645世帯)です。しかし、浪江町に住んでいる人は、2,227人(1395世帯)です。うち震災前の町民は1430人ですので、震災前に住んでいた人のわずか6.6%しか町に帰っていないことになります。もちろん詳細を見れば、もっと複雑だと思いますし、町は復興に全力で取り組んでおられるのですが、これが13年以上経った原発事故被災地の実態です。

また浪江町は、原発事故前の住民の避難状況も毎月末ごとに掲載しています。それによれば、19,154人の内、福島県内に13,236人(うち浪江町在住1430人)居住し、県外(外国が12人)は和歌山県鳥取県を除く全ての都道府県に居住し、広島県には7人が居住されています。

毎月全員に連絡し、確認するのは大変な作業だと思います。

30分あまりの散歩を終え、ホテルに帰ると再びバスに乗り最後の見学場所、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」に移動しました。

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「東日本大震災/原子力災害伝承館」は、津波による被害を受けた場所に立っています。東電第一原子力発電所から北に約1kmの位置ですから、この地の住民も当然避難を余儀なくされ、避難指示が解除されたのは、2020年3月4日です。

受付を終えると最初に,語り部講話を聞きます。講師は、元高校教師の青木淑子さんです。

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「崩壊と創世の狭間で」と題した講演は、原発事故のその後を語る報告でした。その中で私が印象に残った言葉のいくつかを紹介します。

「双葉町は11年ぶりに避難が解除されたが、復興しているのはこの情報館の周辺だけ。原発事故は、人災。放射の被害による流言飛語は、全て個人にかかる。これからの課題は、50年後ではあるが、原発のなくなった町をどう計画するのか。13年間で、関連死した人は400人余り、大丈夫と言われた人も帰ることが出来ない。福島の複合災害は、終わっていない。これを語るのが私たち語り部の仕事。原子力災害は、絶対にあってはならない。2度と福島のようなおもいをさせてはならない。」

約45分の講演でしたが、原発事故への強い憤りを感じました。

その後館内を見学。広島の平和公園内にある「国立原爆死没者追悼祈念館」の館内を思わせるスロープの空間。

 

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双葉町にかけられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板の写った写真も展示されています。

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屋上にデッキからは、海岸に向かって整備が進められる「福島県復興祈念公園」の様子が見えます。一部震災当時のままの姿が残るようです。

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たくさんの展示物がありましたが、伝承館見学の時間は、講話を聞く時間を含めて1時間半しかありませんでしたので、充分に館内を見学することは出来ませんでした。

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館をでた後、視察で初めての集合写真撮り、解散場所の福島駅に移動し,12時に無事視察は終了しました。参加者の皆さんご苦労様でした。

福島第一原発報告を終えるにあたった一言。

「東京電力は、廃炉作業と言いますが、本当にこの名称で良いのだろうか?通常運転を終えて進める廃炉作業とは違うのだから、『原発事故処理作業』と名称を変えるべきでは」

一番に思ったことです。

いのちとうとし

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2024年6月 8日 (土)

2024年6月のブルーベリー農園その1

東広島市豊栄町のブルーベリー農園での農作業はブルーベリーの剪定をメインに、防草シートを敷き、草を刈り、切った枝を野焼きしたり、農園の見回りをしたりしている。作業中に目と耳に入るのは花であったり、突然上を飛んでいくキジであったり、キジやホトトギスの鳴き声であったりする。午後の作業の始めは汗ばむ気温で初夏真っ只中。安芸区の自宅から農園に通っているが国道2号線が混まなくなったので運転はずいぶん楽になった。

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61日(土)

ブルーベリー畑でしっかり葉が出てきたネムノキ

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同じ畑の草刈りで思わず切らずに残したのは青色のヤグルマソウ

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花壇のバラ「ピース」は切り花にして持ち帰った

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6月2日(日)

今年の花壇のフランネルソウは花数が多い

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63日(月)

背丈は小さいがまだ先始めるクリムソンクローバー

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64日(火)

こちらのクリムソンクローバーはツリーの形の穂に種ができている

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66日(木)

ブルーベリーの剪定作業を冬から続けて残り150本余りとなっている。手前の木が剪定後、茂りに茂った向こう側が剪定前の木

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農園の周囲の初夏の景色

①ため池に咲くコウホネ

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②麦畑

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③田んぼとアザミ

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④枝をカットしたあとの晩生のブルーベリーの若葉色の実。夏至を通り越し、あと50日余りかけてふくらみ青く色づくと摘み取る 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年6月 7日 (金)

福島原発視察報告その5

視察2日目の最後は、地元の皆さんとの交流です。

最初に、浪江町議会議員で「福島原発事故被害から健康と暮らしを守る会」会長の紺野則夫さんの話しを聞きました。紺野さんは現在,全ての福島原発事故被害者に対し国による「健康手帳」交付を求める運動の中心的役割を果たしておられます。2017年の福島視察でも当時の馬場町長に同行し、福島市での開会行事でいろいろと報告をしていただきました。

紺野さんの話しは、13年前の原発事故当時の浪江町の避難状況からはじまりました。

浪江町の健康保健課長だった紺野さんが、浪江町にある支所で勤務中に、東日本大震災が発生。翌日の3月12日政府から東電福島第一原発事故による「避難指示」がだされ,対策本部を設置して対応したこと、その避難指示によって浪江町中心部から30km離れた同じ町内の津島地区に5~6時間かけて住民がやって来た。

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東京新聞2023年3月18日より

のちに明らかになるのですが、原発の爆発事故によって発生した放射性物質が集まる放射性プルーム(放射性雲)は、東京電力福島第一原発から北西の方向に流れたため、津島地区は最も汚染が酷い地域になってしまいます。

馬場町長は、「ここも危ない」とさらに避難を決断。「どこに行くか」と探して見つけたのが、二本松市の東和地区。3月15日に津島にいた1万1千人が移動。一番の問題は医療問題で、東和には「地元の人しか診察できない」小さな診療所しかなかった。3月17日、18日に診療所を立ち上げ,医師は何とか確保できたが、看護師がいない。6月に発注したホーボディカウンターが届いたのが翌年の5月頃。自分の体は、800ベクレルの被曝。馬場町長は、原発事故被害者の健康管理、健康保障への責任は本来国が果たすべきだが、国がやらないのなら、として被爆者健康手帳と同じものをつくろうと町独自の「放射 線健康管理手帳」 (健康手帳)をつくり全町民に配布した。その後、広島県被団協の坪井理事長と話した時、坪井さんから「10年、20年の健康をきちんと調べる。原発と原爆はどこが違うのか。広島と福島が違うのは、爆風と熱だけだ」と「健康手帳」への支援を送っていただいたこと。当時広島市長だった秋葉さんには「日本政府が何もやっていないことを国際社会に訴えるべき。6万人の命が守れなくて1億人が守れるのか」と示唆をいただいたことを思い出す。

役場を退職後、「何をやるべきか」と考え、町議に立候補した。医療費の無料化を継続させなければと思っている。当時3千人の子どもたちがいたが、この子たちが健康に暮らせるなら何でもやるというのが私のスタンス。

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「差別よりもいのちが大事」と言った馬場町長の意思を引き継ぎ、「検診体制の確立を含め医療費無料化の制度を構築することが国の責務」と「健康手帳」の法制化求めている。

紺野さんの「健康手帳法制化」に取り組む強い思いを感ずることの出来たお話でした。

二人目は、私たちの「福島原発視察」の日程作成に協力をいただいた福島県平和フォーラムの引地力男事務局長の話しです。

引地さんの話しは、「ALPS処理水の海洋放出」の問題です。いま福島では、「汚染水」呼称が問題視され、3月の県議会では「汚染水」との表現を教育現場で認めない自民党の意見書が採択され、また「汚染水」と発言したひとが強いパッシングを受ける実態が報告されました。こうした現状の中で福島県平和フォーラムも「ALPS処理水」と表現していることが、紹介されました。もちろん、福島県平和フォーラムも発生するのが「汚染水」であるとしていますが、言葉狩りとも思える状況が広がる中で苦悩しながら運動を展開せざるを得ない実態が報告されました。

このことについては、様々な意見があると思いますが、ここでは福島の現状の紹介だけにとどめておきます。

当初予定していた漁業事業者の話を聞くことが出来ませんでしたが、現地の声を聞くことの大切さをこの交流でも学びました。

これで、ようやく二日目の日程の報告が終わりました。

次回は、翌朝出発前に散策した7年ぶりに見た浪江町の街の様子と、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」見学の様子を報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 6日 (木)

2024年度広島県被団協総会ー熊田哲治新事務局長を選出

「福島原発視察報告その5」を掲載する予定でしたが、3日に参加した広島県原爆被害者団体協議会総会について、報告したいことが出来ましたので、掲載予定を変更することにしました。

広島県原爆被害者団体協議会(箕牧智之理事長)は、3日の午前10時30分から平和ビルで2024年度総会を開催しました。私も広島県原水禁の代表として参加し、来賓のあいさつをさせていただきました。

箕牧理事長は開会あいさつで次のように述べました。

「原爆投下から79年,健康不安の中で暮らしてきました。戦争反対・核兵器反対を訴えてきましたが、いまも世界では戦争が絶えません。ガザの食を求める子どもたちの姿を見ると涙を禁じ得ません。今まで以上に声を上げていきましょう」

箕牧理事長の思いは、総会議案書では、「基本の考え」として議案書冒頭に提起されました。その最後の部分を紹介します。

「本当に長い間私たちは、訴え続けてきました。来年で被爆から80年。よくぞこれまで頑張ってきたものと思います。私たちは命あるかぎり『核兵器はいけん,無くさにゃあ

』と声を上げ続けていく覚悟ですが被爆者の願い、そして県被団協の運動を,徐々に二世や私たちの思いを継いで活動する人たちに託していくことも考えなければなりません。」

この「基本の考え」に示されたように、今総会では新たに被爆二世の熊田哲治さんが、事務局長に選任されました。被爆二世が事務局長に就任するのは、被団協結成以来初めてのことです。熊田さんは、広島県原水禁の常任理事でもあります。

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就任のあいさつをする熊田新事務局長

他にも多くの被爆二世が役員に選出されましたし、質疑の多くも被爆二世に関するものでした。被爆二世が県被団協の運動を継承しになっていく時代に入ったと感じました。

熊田新事務局長の誕生に伴い、2016年から8年間にわたって事務局長を務めてこられた前田耕一郎さんが、体調の問題もあり被団協役員を退任されました。非被爆者である前田さんにとって事務局長としての任務には様々な苦労があったと思います。心からご苦労様でしたと申し上げたいと思います。

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議案を提案する前田前事務局長

今年の総会で特に強く印象に残ったのは、植田雅軌副理事長(呉原爆被害者友の会)の閉会あいさつでした。「会議終了の予定の時間が過ぎているが、どうしても話させてください」といって次のように訴えかけられました。

「被団協の基本的な目的は、核兵器を世界からなくすこと、被爆者の援護であったはず。原爆投下の原因は、戦争。戦争がなければ広島の原爆はなかった。そのたった一発の原爆で悲惨なことになった。

昨年のサミット。資料館をちょっと見ただけ。きちんと全体を見て欲しかった。被爆者の話もただ一人の話しを聞いただけ。腹が立った。原子雲の下で何が起きたか見て欲しかった。そしてその後、原爆の苦しみを受け続けた人がいることを。いま核兵器を使えば、遙かに大きな被害がでる。戦争をしないための話し合いをなぜしないのか。アメリカは助けてはくれない。アメリカにきちんと話して欲しい。」

いつお会いしてもにこやかにあいさつをしていただく植田さんの怒りの訴えが、本当に心に響きました。改めて、広島県被団協の運動の歴史を思い、その思いを引き継がなければと決意をした広島県被団協総会でした。

いのちとうとし

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2024年6月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その59) ~南シナ海をめぐる動向-3~

最近、南シナ海で最も対立が深まっているのがフィリピンと中国です。下の地図は各国が主権を主張する境界線です。フィリピンと中国の境界線が近接しているのはパラセル諸島(西沙諸島)東のスカボロー礁(黄岩礁)と、スプラトリー諸島(南沙諸島)ですが、(その57)で報告したようにスプラトリー諸島(南沙諸島)で中国海警局とフィリピン漁船や沿岸警備隊との「衝突」が頻発しています。

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スプラトリー諸島(南沙諸島) 争いの構図

第二次世界大戦直後の1946年、フィリピンは「スプラトリー諸島(南沙諸島)を自国の国防範囲に含める」と発表し、中国は1953年、中国は地図に見る境界線を「9段線」(注1)を引き、自国領と主張を始めます。

1956年、フィリピン出身の民間人がスプラトリー諸島(南沙諸島)北部海域の島に上陸したのを契機に、フィリピン政府はこの島を「自由の島」を意味する「カラヤン島」と名付け、自国領と宣言しました。これに対し、台湾(中華民国)は、南沙諸島最大の島である中国名「太平島」(英名イトゥアバ島、ベトナム名ダオ・バオ・ビン島、フィリピン名リガオ島)に軍隊を駐留させ、南ベトナム(注2)はスプラトリー島に国旗を掲揚して抗議します。こうしてスプラトリー諸島(南沙諸島)海域の領有権をめぐり、中国・フィリピン・ベトナム・台湾の4カ国で争いが始まります。

それまで比較的穏やかに推移していた争いが、厳しく熾烈になり始めたのが国連極東アジア経済委員会(ECFAE)の調査の結果、1970年代に石油や天然ガス埋蔵の可能性が取り沙汰されて以降です。ちなみに米エネルギー情報局のまとめでは、南シナ海全体の石油埋蔵量は110億バレル、天然ガスは190兆立方フィートとされています。

こうした中、1971年にマレーシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部の領有権を主張し始め、80年代には岩礁の占拠を始めます。1984年にイギリスから独立したブルネイ(注3)も、1988年の「ブルネイ大陸棚図」をもって領有権を主張し、先の4カ国に加え、現在6カ国が争う構図が作られたのです。

アメリカ軍の「対中国戦略」拠点 フィリピン

その大きな要因は前にも述べましたが石油や天然ガスなどの海底資源をめぐる権益争いにありますが、同時に対立を深める米中関係があります。

1899年、アメリカはスペインとの戦争に勝ちフィリピンの植民地支配を引き継ぎます。フィリピンは独立を宣言し1899から4年にわたって抗米独立戦争(注4)を戦いますが敗れ、アメリカの植民地になります。

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出典:ウィキペディア   ゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画

フィリピン人を銃殺する米兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」とあります。

アメリカの植民地時代~独立後を含めフィリピンは120年にわたり、アメリカの軍事戦略上の要地とされてきました。中国の経済発展を背景に軍事力の近代化と海洋進出が強まる中で、南シナ海、とりわけスプラトリー諸島(南沙諸島)における米軍のプレゼンスが強まってきます。

1991年に撤去された米海軍スービック基地とクラーク空軍基地が2015年に再開され、その後も「台湾有事への備え」を含め、フィリピンでの新基地建設が進められ現在では9つの基地が置かれています。こうした動きが、南シナ海の緊張を高めているもう一つの要因です。

こうした中で顕著なのが日本の動きで、日米豪比による軍事的な連携が進められています。昨年、「同志国」の軍に装備品を提供する枠組みである「政府安全保障能力強化支援(OSA)」を初めて適用し、フィリピンに沿岸監視レーダーや艦船を提供したのに続き、今年4月には護衛艦「あけぼの」が参加して日米豪比による共同訓練を実施しました。5月2日にはハワイで4カ国の防衛相会談が行われ、引き続きフィリピン軍に対する能力構築支援とあらゆるレベルでの連携強化が合意されました。

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出典:護衛艦隊ニュース

手前からオーストラリア海軍のフリゲート艦、フィリピン海軍のフリゲート艦、日本の護衛艦「あけぼの」、アメリカ海軍の沿岸海域戦闘艦

2014年の武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を廃止し、武器輸出を実質的に解禁する「防衛装備移転三原則」を強行成立して10年、日本は南シナ海という「ホットな海域」で武器を携えて同盟国(や同志国)の軍隊と行動を共にするところまで来ています。間もなく「被爆79周年」(8月6日)、「戦後79周年」(8月15日)を迎えます。南シナ海をめぐる動向に日本が深く、危うく関わっている事態を直視しなければと思います。

次号ではフィリピンが提訴した南シナ海仲裁裁判所の裁定を取り上げます。

(注1)9段線

1953年から中華人民共和国(中国)が南シナ海全域の権利を主張する上で境界線として地図上に破線を引いたもので、1947年に中華民国(台湾)が南京で制定したものが原形。もともとはトンキン湾にも二本の線が引かれて「十一段線」と呼ばれていたが、中国が当時良好だった北ベトナムとの近隣関係に配慮し、現在の九段戦に改めたの。

(注2)南ベトナム

1945年、フランスからの独立とベトナム民主共和国建国。1954年、ベトナム独立同盟会(ベトミン)とフランスとの戦いに勝利(ディエンビエンフーの戦い)。「ジュネーブ協定」により北緯17度線で南北に分断。その後、1975年のベトナム戦争勝利、翌年の南北統一までの21年間、ベトナムは南北ベトナムに分断されていた。南ベトナムは当初フランスの傀儡政権であったが、1954年以降はアメリカに変わる。

文中にある1956年当時の南ベトナムは初代大統領のゴ・ジン・ジェム政権。

(注3)ブルネイ

ブルネイ・ダルサラーム国、立憲君主制。面積5765平方キロメートル(三重県とほぼ同じ)、人口44万715人(2021年)、首都バンダルスリブガワン。石油や天然ガスなどの資源が豊富。イスラム国でイギリスの保護国、イギリスの自治領を経て1984年に完全独立。1941年に日本軍が侵攻、1945年の敗戦まで日本が統治。

(注4)抗米独立戦争(米比戦争)

独立を宣言したフィリピンが戦った1899~1902年の戦争。フィリピンが敗れアメリカの植民地支配が確定。アメリカ帝国主義のアジア進出の一環として起きた戦争。列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、間もなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つ。

1901年9月28日、サマール島で「バランギガの虐殺」が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。米軍人アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じ、少なくとも10万人が殺されたと推定されている。

文中のゲリラ戦をテーマとした『ニューヨークジャーナル』の風刺画には、その様子が描かれている。

(2024年6月5日、あかたつ)

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2024年6月 4日 (火)

福島原発視察報告その4

東京電力福島第一原子力発電所の事故現場の視察が終わると、バスに再乗車して東京電力廃炉資料館に戻り、用意された弁当で昼食を摂りました。昼食後、事故当時の様子や廃炉作業の様子を紹介するパネルやマルチメディアを駆使した展示物を見学した後、最初の会議室に戻りました。

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全ての見学が終わった後、案内をしていただいた福島第一廃炉推進カンパニー廃炉CC施設CG課長齋藤賢治さんと副所長(名前を聞かなかった)から、感想を求められましたので、私は次のように意見を述べました。

「懸命の事故処理を行なわれている皆さんに敬意を表します。その上での意見です。最初の説明で、ようやく今年10月には2グラムのデブリが取り出せるのではないかという説明を受けましたが、この取り出しにも13年という大変な時間がかかっています。その2グラムを分析し,『本格的な取り出し方法を確立することになっています』との話しでしたので、今後どのような方法で本格的にデブリを取り出せるようになるのかは、まだまだ不明だと思います。その上、堆積しているデブリの量は推計880トンと言われているのですから、全てのデブリを取り出すのには、今後何年かかるか分からないはずです。にもかかわらず、廃炉作業ロードマップでは廃炉作業の終了は、当初の『30年後から40年後』という計画が変更されていません。当然見直されるべきだと思いますが、なぜ見直しがされないのでしょうか?いま政府が進めようとしている原発推進政策を進めるために、廃炉作業ロードマップの見直しがされていないのではないかと疑わざるを得ません」と指摘したのに対し「確かにこれまでの作業は予定より延びていますが、最終目標がないと作業従事者のモチベーションを持ち続けることが出来ません。作業員のモチベーションを維持するためにも最終目標を定めておくことが必要なことです。」との答えが返ってきました。

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その後もう少しやりとりをしましたが、「ロードマップの最終を見直す」との答えは返ってきませんでした。デブリの最初のわずかな量の取り出しだけでも予定された以上の期間がかかっていますし、本格的な取り出し作業はいつはじまるかも定かではありません。今回の事故現場の視察で改めてそのことを実感しました。

最後に副所長から「皆さんの意見は必ず上層部に伝えます」との発言があり、予定の時間も来ましたので、そこで全ての東京電力第一原発の廃炉作業視察の全日程を終了しました。

私たちがチャーターしたバスに乗り込み、被災者の皆さんの声を聞くため浪江町に移動しました。

浪江町は、第1回、第2回とも訪れた町です。その後どのように様子が変っているのか、現場をぜひ見たいと思い持ちながら、現地の皆さんとの交流の場は、宿泊場所のホテル二葉の杜に午後5時過ぎに着きました。

ここでは、浪江町議会議員の紺野則夫さんと福島県平和フォーラム事務局長の引地力男さんのお二人から話を聞きました。当初の予定では、汚染水海洋放出問題で反対運動を取り組んでおられる漁業者の小野春雄さんの話を聞くことになっていたのですが、小野さんが急に入院されたため、漁業者の話を聞くことが出来なくなったのが残念でした。

福島原発視察報告は、3回ぐらい(今日)で終えるつもりでしたが、ここまででずいぶん長くなったしましましたので、あと2回ぐらい続けたいと思いますので、紺野さん、引地さんの話しは、明後日紹介します。

いのちとうとし

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2024年6月 3日 (月)

福島原発視察報告その3

二日目は、原発事故を起こした東京電力福島第一原発の現地視察です。

ここで、町の位置関係を確認するため、地元の新聞「福島民報」が作成した汚染区域の現状を召す地図を付けます。

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ホテル富岡やこれから向かう東京電力廃炉資料館は、富岡町にあります。富岡町と楢葉町との町境を挟んで東京電力福島第二原発が立地しています。JR富岡駅前付近からも南側に見えるということでしたが、残念ながら現地では目視することが出来ませんでした。

ホテルを午前8時40分に出発し、向かったのは東京電力廃炉資料館です。

ホテルからバスで数分の近くですので、すぐにつきましたので、開館時間の午前9時までバスで待機です。

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間もなく東京電力の案内の社員の姿が見え、館内に案内されました。案内された会議室で、東京電力福島第一原発の現地立ち入りのための身分証明書の確認や廃炉作業状況の説明、現地立ち入りに当たっての注意事項などのレクチャーがありました。

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 1~4号機の現状と共に、汚染水対策は、特に詳しく説明がありました。

現地立ち入りに当たっての注意事項で強調されたのは、持ち込み物の件です。事前の登録したICレコーダー、筆記具と小さなメモ帳以外は、持ち込みが出来ないとのことで、当然、カメラ、スマホは持参できません。

10時になり、東京電力が用意したバスに乗車して東京電力福島第一原子力発電所の事故現場に向かいます。

そんなに遠い距離ではありませんので、15分ほどで入り口に到着します。ここで先に提出した身分証明書と確認され、さらに金属探知機による持ち物検査が行なわれ、そして各自に線量計が手渡され再びバスに乗り、実際の見学がはじまります。ちなみに視察を終えた後の私の線量計は、γ線量0.02グレイ(Gy)を示していました。案内者は、盛んに「この線量は歯医者で受けるレントゲン検査の量と同じです」と言っていたことが印象的でした。

当日の視察のルートです。

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小さくて見え難いと思われますが、地図の真ん中海寄りの事故起こした1号機の西側に設置されたデッキ①と左側の6号機7号機近くのデッキ⑥が降車できた場所で、後は全て車中からの説明です。スマホがありませんので、写真を写すことが出来ず、メモもほとんどとれませんでしたので、残念ながら詳細を報告することが出来ません。

最初の降車した1号機横のデッキでは、20.5μ㏜/hを表示していました。現在1号機2号機では、使用済み核燃料の取り出しのための作業が進んでいました。

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2号機に取り付けられる使用済み核燃料取り出しのための建屋

1号機、2号機とも耐震性があると東京電力は説明しますが、放射能の線量が高く、なかなか近づけなかったため、事故後13年にしてなお、危険な使用済み核燃料が取り出せていません。飛散防止が必要なほど1号機の壊れた建屋上部にたまった汚染物の線量が高いため飛散防止が行なわれたりしましたので、取り出し作業が遅れる要因になっています。事故を起こした原発の廃炉作業がいかに大変なのかを示しているといえます。

移動中に目に入るのは、原発事故で発生した汚染物が様々な場所に置かれている風景です。汚染水の貯蔵タンクだけではありません。高線量放射性汚泥(スリラー)を納めた高性能容器(HIC)もバスが通るすぐそばに野積みされたままです。その他、大量の汚染物質をどこにどう、どれだけの期間保管しなければならないのか、これから解決しなければならない課題です。

2番目に降車した場所では、「汚染水をどれだけ薄めて海洋放出しているか」の説明に終始しました。ここでも「安全」を強調する東京電力の姿がありました。

ところで、毎日この現場で働いている作業員は、4500名前後だそうですが、視察中にも色の違うヘルメットをかぶり作業をしている姿が目に付きました。1号機2号機周辺で作業する人たちは、防護服を着けていますが、他の場所では除染が進んだというのでしょう、防護服なしの労働者の姿も多く目にしました。全ての作業が安全に進んでいるかの説明でしたが、初日の福島平和フォーラムの角田さんの話しでは、「10人を超える労働者が労災に認定されている」と言うことですから、労災認定されなくても多くの労働者が被曝していると思わなければなりません。

約1時間半あまりで予定のコースを一周し、被曝線量を測ったのち、再び移動バスに乗り、東京電力廃炉資料館に帰ってきました。ちょど12時でしたので、作業員が休憩室に移動する時間と重なりました。

つづきは明日報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 2日 (日)

福島原発視察報告その2

福島市での開会行事を終え、宿泊地の富岡町にバスで移動しました。7年前にはなかった福島市から常磐高速道をつなぐ自動車道が開通しており、途中休憩を入れて、約2時間あまりで富岡町に到着しました。

高速道路を走行中、気になった景色が二つあります。一つは、太陽光発電のパネルです。

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車中からの写真なので、見にくいのですが、バックミラーの向こう側に太陽光パネルが敷き詰められています。移動中何カ所も目にしました。角田さんの話しでは、「県内各地で太陽光発電パネルが、設置されている」と言うことでしたが、まさにその通りでした。

二つは、高速道路に設置された放射能測定値を表す表示板です。

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地名表示がありませんが、浪江町を通過している時だったと思います。「0.4μ㏈/h」を示していました。他の地域よりやや高かったように思います。高速道路上の「放射能数値」の表示は、各自治体に一カ所設置されている感覚で受け止めました。

1日目の宿泊は、常磐線JR富岡駅前にある富岡ホテルです。予定通り午後6時過ぎに到着し、午後6時半から近くの串揚げ居酒屋「串誠」で参加者交流会を行ないました。

確か2011年の秋にこの場所を訪れた記憶がありますが、その時の光景を思い出しました。富岡駅前は、海岸線に近かったこともあり、津波で壊滅状態になりました。

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現在は、駅舎も新築され、きれいになっていますが、駅前にはわずかな建物しか建っていません。

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その少ない建物で現在営業中なのが、ホテル富岡と串揚げ居酒屋「串誠」です。

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左の写真の手前右側に串揚げ居酒屋「串誠」があります。「串誠」で夕食交流会が終わった後、店主の渡辺さんに少し話を聞きました。

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いろいろと話を聞かせていただいた渡辺さん

 「町民の手で街を再建しようと思い、このお店とホテルを一緒に建てることにしました。」ホテルのホームページには次のように書かれています。「富岡町民8 名が集まり、震災を経験した富岡町が変わっていく姿を全国の皆様に見に来ていただけるように、また町の希望を次世代につなげていけるようにという想いを込めて立ち上げた。」

町外資本が多い中で、町内資本のみで事業を興したまれなケースの一つです。

お話を聞いた渡辺さんは、震災前は富岡駅前でスーパーマーケットを営んでおられたそうです。もちろん、震災でお店は全滅です。「町には、2000人ぐらい住むようになったと思いますが、以前住んでいて帰ってきた町民は、半数の1000人ぐらいですかね。いろいろ事情があるので、町に戻ってくるのは難しい人も多いですよ。津波で亡くなった人は、24人ですけどね」

翌朝ホテルで朝食をとっていると厨房に渡辺さんの姿がありました。協力して町の希望を次世代に繋げようとする姿を見ることができました。

渡辺さんたちの町おこしは、後で紹介する3日目にお話を聞いた語り部の青木淑子さんにあいさつした時、青木さんが、「町内資本だけです」と誇らしげに話されたことが印象的でした。

渡辺さんたちの建物の他にも周辺には確かに新しい建物が建っていますが、空き地が目立つ状態で,真の復興はまだまだ先だなということを実感しました。角田さんの「復興の真の姿を見て下さい」という言葉が思い出されました。

津波で流された常磐線から海側はかなり広い土地ですが、建物を建てることは出来ないようですが、何か出来ないかと言うことで、町の許可を得て「ブドウ栽培」が始まり、来年にはワイン工場も完成するようです。

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「ブドウ栽培」を進めているのは、元町長の息子さんと言うことですから、元住んでいた町民の手によって復興活動を取り組まれています。

朝食後、少し時間がありましたので、駅前の小高い丘に建つ「東日本震災慰霊碑」に行ってきました。

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碑の左手奥に富岡駅舎があります。

今日のブログは、復興に向けた町民の思いを伝えました。

さていよいよ今回のメインの目的である「東京電力福島第一原発」の現地視察ですが、その様子は次回報告します。

いのちとうとし

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2024年6月 1日 (土)

福島原発視察報告その1

今日から数回に分けて、広島県原水禁が527日から29日に実施した「福島原発視察」報告をしたいと思います。今回の広島県原水禁の福島訪問は、2014年、2017年に続く、3回目です。

すでにイライザさんが「ヒロシマの心を世界に」で、3回(#福島原発視察 ――#冒頭の問題提起と初日の感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)#廃炉館 と #福島第一原発 敷地内 #視察 ――#引き続き #午後の講義 そしてその後の #感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)#東日本大震災・原子力災害伝承館 ――#語り部の講話 と #参加者の #感想―― : ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))にわたって、速報で参加者の当日の感想が掲載されていますので、ぜひそちらも読んでください。

今日は、初日の報告です。

午後2時、集合場所であるJR福島駅前の福島産業振興センター会議室に、22人の参加者全員が集合し、「福島原発視察」がスタートしました。

大瀬敬昭県原水禁事務局長の司会で開会行事が進行しました。

最初に秋葉忠利県原水禁代表委員が「この視察で、福島の現状をしっかりと見つめよう。又原発と同時に核兵器の問題にも目を向けよう」とあいさつ。

続いて、翌日からの現地視察を前に「フクシマの現状と課題」を学ぶため、福島県平和フォーラム共同代表の角田政志さんから「原発事故から13年 福島の現状と課題」と題しての講演を受けました。角田代表には、県原水禁のこれまでの視察でも何度もお世話になってきました。

角田代表は、「原発事故から13年経過した福島の課題」として3つの課題「①福島第一原発の事故処理・廃炉に関する課題②被災者の生活再建の課題③脅かされる健康被害の課題」を提起しました。

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第1の「東電福島原発事故の現状と課題」として、次の7つの課題が現場の状況を示しながら詳細に報告されました。

  • いまだに取り出せない使用済み核燃料
  • 全容も分からないデブリの取り出し
  • 1号機の原子炉土台、全周損傷(崩落の危険性あり)
  • 汚染水に含まれる放射性物質を自然界への放出処分

・東電の「薄めて流せば安全」の欺瞞

・海洋放出を強行した背景と仕組まれた「必要性」の欺瞞

  • ALPS処理で生じた高線量の放射性汚泥(スラリー)の保管場所
  • 原発敷地内に残る配管・瓦礫・「核のゴミ」

・撤去された排気塔や配管などの汚染された残骸物、撤去できない配管など

・敷地内汚染による汚染瓦礫、土壌

・事故収束作業で生じた、防護服、手袋など

  • 行き場のない中間貯蔵施設の汚染土壌の最終処分

・8000ベクレル超の土壌は、減衰を待って県外処分

・8000ベクレル以下の土壌は、全国で再利用による処分

いずれも現場を写した写真を明示しながらのわかりやすい解説で,翌日の廃炉作業中の東電福島第一原発現地視察に参考になる提起でした。

中でも「③1号機の原子炉土台、全周損傷(崩落の危険性あり)」や「⑥原発敷地内に残る配管・瓦礫・『核のゴミ』」は、マスコミなどでもほとんど提起されていない問題ですが、特に「⑤ALPS処理で生じた高線量の放射性汚泥(スラリー)の保管場所」の問題は、当然考慮しなければいけない問題にもかかわらず、私自身初めて聞くテーマであり重い課題だと感じました。

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角田さんも「現地に入ったら、ぜひお話ししたような視点を持ってみて欲しい」と要望されました。

また「⑦汚染土壌の最終処分」問題は、今回中間貯蔵施設の見学が予定されていませんでしたので、貴重な提起になりました。特に、「8000ベクレル以下の土壌処分」問題は、実際には私たちの身近な場所で起こる問題だという提起で有り、「本当のそれでいいのか」考えなければならないテーマです。

第2の「被災者の生活再建の課題」では、「被災地の『箱もの』建設は進み、見た目の復興は進んでいるが『人々の生活は戻っていない』』ことが、現在の居住者数などを示しながら紹介されました。数字の上では、居住者数は一定程度増え帰還率が上がっているように見えるが、「元の住民の帰還者数はその半分ぐらいしかいない」という指摘は、その後現地で何度か聞くことになりましたので、後日紹介したいと思います。

角田さんが特に強調されたのは「将来を担う子どもたちが戻ってこない」という下の表に示された実態です。

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上の表を見ると、特に今なお多くの帰還困難区域を抱える浪江町、双葉町、大熊町、富岡町で深刻な実態が分かりますし、「子どもたちが戻ってこない地域に本当の復興はあるのか」と厳しく問われています。

第3の「脅かされる健康被害の問題」では、国が「時間の経過と共に被害者の支援措置を減じている」ことを指摘し、特に「強制避難地域に居住していた住民の医療費および保険料の免除措置を段階的に廃止する」政策を進めていることに対し、「継続を前提とする再検討」を求める運動や放射能汚染地域に暮らす全ての人々に「健康手帳」の交付を求める運動が起こっていることが紹介されました。

この「健康手帳交付」については、その取り組みを進める医師の振津かつみさんからも問題提起がされました。広島県原水禁は、「健康手帳交付を求める」署名活動をすでに取り組んでします。

2時間ほどの開会行事を終え、宿泊地の富岡町にバスで移動しました。

今日は、ここまでです。

いのちとうとし

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