福島原発視察報告の最終回です。
ホテルで朝食をとった後、出発まで少し時間がありましたので、街の様子を知りたくてJR常磐線浪江駅前まで散歩をしました。
最初に訪れたのは、浪江町役場横の「まちなみまるしぇ」です。ここは2017年の視察で訪れた町内で初めて出来た商業施設でした。
左が2017年6月、右が今年
真ん中に置かれたテーブル・椅子の色は変っていますが、同じように配置され、奥の「まちなみまるしぇ」の看板や右側に「リラクア」の看板もそのまま両方とも写っています。少し早い時間でしたので、人影は見えませんが、今も町民の暮らしを支えているのが分かります
震災以前は、この町のメインストリートだった道路を進みます。2017年には、地震で壊れ,放射能汚染した家々がそのまま放置され人影はありませんでした。
今は、古い家は全て撤去され,ほとんどが空き地です。「売地」「売り物件」の看板が目立ちます。
新しく建てられた建物は、マンショを兼ねた公共的な建物、建設業関連の看板が目だちます。
浪江駅前に着くと、駅前のオブジェやバス停はそのままですが、配達前の新聞が山積みになっていた新聞配達所を始め家々が立ち並んでいた2017年の風景が一変し、空き地に草が伸び,寂しい風景になっていました。いつ、もっと活気のある街が戻るのか、想像できません。
復興の現状を知るため、浪江町のホームページに記された住民の推移を見てみたいと思います。
2011年3月11日、震災以前の人口は、21,542人(7671世帯)でした。
本年4月末現在の人口は、14,947人(6645世帯)です。しかし、浪江町に住んでいる人は、2,227人(1395世帯)です。うち震災前の町民は1430人ですので、震災前に住んでいた人のわずか6.6%しか町に帰っていないことになります。もちろん詳細を見れば、もっと複雑だと思いますし、町は復興に全力で取り組んでおられるのですが、これが13年以上経った原発事故被災地の実態です。
また浪江町は、原発事故前の住民の避難状況も毎月末ごとに掲載しています。それによれば、19,154人の内、福島県内に13,236人(うち浪江町在住1430人)居住し、県外(外国が12人)は和歌山県鳥取県を除く全ての都道府県に居住し、広島県には7人が居住されています。
毎月全員に連絡し、確認するのは大変な作業だと思います。
30分あまりの散歩を終え、ホテルに帰ると再びバスに乗り最後の見学場所、双葉町にある「東日本大震災/原子力災害伝承館」に移動しました。
「東日本大震災/原子力災害伝承館」は、津波による被害を受けた場所に立っています。東電第一原子力発電所から北に約1kmの位置ですから、この地の住民も当然避難を余儀なくされ、避難指示が解除されたのは、2020年3月4日です。
受付を終えると最初に,語り部講話を聞きます。講師は、元高校教師の青木淑子さんです。
「崩壊と創世の狭間で」と題した講演は、原発事故のその後を語る報告でした。その中で私が印象に残った言葉のいくつかを紹介します。
「双葉町は11年ぶりに避難が解除されたが、復興しているのはこの情報館の周辺だけ。原発事故は、人災。放射の被害による流言飛語は、全て個人にかかる。これからの課題は、50年後ではあるが、原発のなくなった町をどう計画するのか。13年間で、関連死した人は400人余り、大丈夫と言われた人も帰ることが出来ない。福島の複合災害は、終わっていない。これを語るのが私たち語り部の仕事。原子力災害は、絶対にあってはならない。2度と福島のようなおもいをさせてはならない。」
約45分の講演でしたが、原発事故への強い憤りを感じました。
その後館内を見学。広島の平和公園内にある「国立原爆死没者追悼祈念館」の館内を思わせるスロープの空間。
双葉町にかけられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板の写った写真も展示されています。
屋上にデッキからは、海岸に向かって整備が進められる「福島県復興祈念公園」の様子が見えます。一部震災当時のままの姿が残るようです。
たくさんの展示物がありましたが、伝承館見学の時間は、講話を聞く時間を含めて1時間半しかありませんでしたので、充分に館内を見学することは出来ませんでした。
館をでた後、視察で初めての集合写真撮り、解散場所の福島駅に移動し,12時に無事視察は終了しました。参加者の皆さんご苦労様でした。
福島第一原発報告を終えるにあたった一言。
「東京電力は、廃炉作業と言いますが、本当にこの名称で良いのだろうか?通常運転を終えて進める廃炉作業とは違うのだから、『原発事故処理作業』と名称を変えるべきでは」
一番に思ったことです。
いのちとうとし
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