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2024年5月10日 (金)

喜代子姉ちゃんのこと

 地球上にはそっくりな顔・性格をしている人が3人いるということを、誰かが話していました。先日広島電鉄の電車の中で、実姉である喜代子さんに、まさに「瓜ふたつ」という女性を見かけました。

顔つき、眼から鼻にかけてと頬の膨らみ具合、しゃきっとしている背中、着ている服装、履いているスニーカー、もちろん品の良さもです。じっと見ていると「変なおじさん、嫌、変なジジイ」と思われるのではと感じながらも、やはり見ていました。

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喜代子姉ちゃんは、ぼくより3歳年上で1946年2月に生まれました。原爆が投下された時には、お母ちゃんのお腹の中にいて胎内被爆者でした。その後、弟であるぼくが生まれ、そして4年後に父親が40歳代の若さで亡くなりました。まだ若かった母は、もう一人の姉を入れて3人の子どもたちを育ててくれました。

そして喜代子姉ちゃんは、59歳の誕生日を前にした2005年2月に急死したのです。夫が帰宅した時、姉は自宅で亡くなっていました。医師は食道動脈溜の破裂ではなかろうかと伝えたそうです。

ぼく達3人の姉弟は仲が良いというよりも、お互いに助けあって、仕事に行っていた母が帰るまでに七輪に火をおこし、カマドでご飯を炊き、リーダー役の一番上の姉が、ぼく達を指導していました。

広島市内の家は原爆で壊滅したので、親戚の人が持っていた五日市町(現・広島市佐伯区)のわら屋根の古い家に住まわせてもらいました。まともにお客を入れられる部屋は一部屋しかなく、雨漏りする部屋もありました。ぼくは姉二人から勉強を教えてもらいました。

その喜代子姉ちゃんは、子どもの頃からバレエを習っており、幼稚園のようなところで教えるとともに、自らもずっと習っていました。そして広島大学にある原爆放射能医学研究所で働いてもいました。そこで同じ大学にいた大学院生と結婚し、夫の卒業とともに実家のある徳島市に戻ったのです。

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喜代子姉ちゃんは、なんといっても気前が良く、趣味もたくさんあって、亡くなる前には徳島阿波の人形浄瑠璃を勉強し、娘が米国人と結婚した関係から英会話も勉強して得意でした。

徳島の名産品であるカンキツ類のスダチや、スダチ焼酎も何十箱も送ってきました。誕生日には電話を掛けてきて、前置きなしに「ハッピーバースディ ツー ユー」を唄い出すことは何十年続いたでしょうか。内緒ですが小遣いもくれました。その時にいう言葉は「省ちゃん、誰にも言わないこと。お礼の電話などしないこと」が鉄則でした。

若気の至りでか、ぼくは参議院選挙の全国比例候補者に名前を連ねたことがあります。全国から得て総得票数のなかで、徳島県から得た票数が一番多かったのでした。可愛い??弟が立候補しているからと、みんなに声を掛けたのでしょうね。

今年は原爆から79年、生きていたら、まだ78歳です。しかしその喜代子姉ちゃんが亡くなって、20年という年が流れました。せめてもの救いは、お母ちゃんが先に亡くなったことでしょうか。

電車の中で出会った人、どこの誰かも知りませんが、たぶん喜代子姉ちゃんのような前向きで明るい人だと思いながら、ぼくの方がその人よりも早く電車を降りたのでした。

木原省治

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コメント

いつも興味深く読ませて頂いております。
原子爆弾が変えた人生のストーリー。それでも、その人生を生き抜き、素敵な思い出をたくさん残して下さったお姉さんへの想いが、心に染み入りました。
これからも素敵な文章期待しております。

 コメント、ありがとうございました。たくさんの思い出が、今でも忘れられないお姉ちゃんでした。お姉ちゃんの期待と、ヒロシマの役割りを考えながら、これからも自然体で書いていきたいと思います。

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