「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話のつづき
本題に戻ります。これで疑問の一つは消えました。下中町にあった校舎は、広島英語学校としてスタートし、その後「明10(1877)年」に「広島県中学校」となって以降も校地としては変っていなかったのです。そして、「明24(1891)年」に国泰寺村(上記のコラムでは雑魚場町)に移転したときは、私は先日の「余話」で「門柱も移転したと想像できます」と書きましたが、大きな間違いでした。門柱は移転せず、下中町に残ったままだったのです。
一つの疑問は解決しましたが、このコラムにも出てくる「広島師範学校」のことがまだ解明できていません。2月27日紹介した「門柱の歴史」の最初に「広島師範(現広島大学)」と記載されていましたので、この広島師範を勝手に「広島高等師範学校」と間違って解釈してしまいました。そのため「余話」で「広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから」と書いてしまいましたが、改めて調べると、1902年(明治35)年に創立したのは、勅令によって決まった「広島高等師範学校」でした。コラムや「門柱の歴史」に登場する「広島師範学校」は、1877(明治10)年に「広島公立師範学校」から「広島県師範学校」に学校だったのです。
時代経過は、確かに解明されたのですが、なぜ「広島師範学校の門柱」だったのかの疑問が残りますが、「広島一中国泰寺高校100年史」の中にあった次に記述を見つけて、その謎も解明できました。
上の図は、明治12年の広島中学校の位置図です。真ん中ほどに「中学校」があります。もう一つ注目して欲しいのは、右端に「師範学校」があります。平田屋川(現在の並木通り)の東です。広島師範学校は、創立当時この場所にあったのですが、「広島一中国泰寺高校100年史」に付けられた年表をたどると「1880(明治13)年3.19 広島師範学校本校に移転同居」の記述が目に入ります。さらに「広島一中国泰寺高校100年史」の本文には、「1879(明治12)年、火災のため教場を失い・・・寄宿舎もまた灰燼に帰した県師範学校用に転用されたため・・・」さらに「その後十年間を経て、本校は生徒数の増加と、師範学校の拡張とによって・・・」、県立中学校は、国泰寺村に移転することになります。ここには、記載はありませんが、県師範学校は、1902年(明治35)年に高等師範学校が設立されるまでこの地に残り、その跡地に広島県立高等女学校が創立されたのです。
そのことを「皆実友朋百周年記念誌」には、「本校の校地にあてられたのは、広島市下中町の広島師範学校旧地であった」と書かれ、つぎに地図が添えられています。
最初の地図と重ねれば、中学校と同じ場所に「高等女学校」の文字が書かれています。
「広島県立第一高等女学校の門柱」を訪ねる長い旅は、これで終わりです。
いのちとうとし
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